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2005/6/4:大江戸怪異重箱突つき

・・・と銘打っていきますが、ようは会社帰りに寄ろうと思っていた東京の「ちょっと怪異ゾーン」を一気に廻ってきたわけです。日曜が雨になると聞いてびっくりして昼にでかけたのですが、夜に予定があったので駆け足になってしまいました。四谷なんかは何度行ったかわからないゾーンですが、今回もまた見逃した場所があったりして、また行く事になるでしょう。ま、とりあえずケータイで写真とりまくってきたので、きほん的には写真集のノリでいきます。文章はそのうち気が向いたら。

出発地は丸の内線四谷三丁目。

四谷大木戸からそんなに遠くはない旧甲州街道沿いに「お岩水かけ観音」がある。お岩さん縁の旧田宮屋敷を含む四谷左門町は戦争でかなりの打撃を受け、お岩稲荷をはじめとしてことごとくが焼けた。戦後貞女お岩さんを奉ずる人々の尽力でお岩稲荷は再建復興を遂げたが、その中心の一人となった大店の御主人が余力?にて昭和49年自分のお店に作ったのがこの観音さんである。

すぐ近くの笹寺。正式には長善寺。この地域にそぐわない広々とした見晴らしのよいお寺で、めのうの本尊をまつっている。古地図でもこのあたりは細長くひろがる笹原になっており、今の印象と一致する。

:江戸時代に繁栄した古寺では必ず見かける万霊塔。ようは無縁となった古い墓石の山。足下で六地蔵さんがしっかり導いているのが頼もしい。庶民の味方、如意輪観音が工業製品のようにまったく同じ片膝でずらり並ぶのも江戸ならでは。

:ちょこんと佇む明治の疾風怒涛絶倫凶悪殺人犯、稲妻強盗坂本慶二郎の墓。寺の建てた供養墓か、絞首台の露と消えたのも僅か34歳、伊藤博文の落とし種「伊藤正隆」を自称して紳士然として各所に出没した超有名人。劇や小説の格好のタネになったというのも皮肉な話。稲妻小僧という名前だけはさんざん今でも使われているのに当のゴホンニンはなんだかさびしげだ。

:丁度お祭りでした。外苑東通り沿いの左門町公園。

:お岩稲荷前の静かな路。向かいに陽雲寺の幟。

都史跡、於岩稲荷田宮神社。こちらが元祖、田宮家の屋敷社。江戸初期寛永年間に同心の貧乏武家であった田宮家をマスオさんと共に商家奉公で興隆させたお岩さんが深く信心したのがこの小社だが、お岩さんの幸にあやかろうと詣でる人のために100年後に於岩稲荷社として独立、ところが200年後爛熟の文政年間、四世鶴屋南北のおかげで俄かに祟神となったお岩さんを鎮める社のような扱いをされるようになった。「東海道四谷怪談」でお岩さんを演じた三代菊五郎が参拝しさかんに宣伝したせいでここに詣でないで芝居興行を打つと死者が出る、などのウワサが出た。神社は妙行寺という田宮家の菩提寺に勧請されたが、寺自体は結局巣鴨にうつり(20世紀になってからの話)菊五郎が通ったお岩さんの墓も一緒に行ってしまった。田宮家累代の墓の中に古様の層塔が別個に建てられていて、こちらでも貞女お岩として祭っているにも関わらず祟神として扱う参拝者は絶えない。立派な「お岩通り」商店街まであって、田宮神社(明治時代に改称)の閑静とは異なり意外とお岩色が強いゾーンになっている。ちなみにこの社の近辺を東西に走る左門殿横丁は通称鬼横丁、お岩さんが嫉妬の夜叉となって走り抜けたというまことしやかなエピソードを持っている*。近所のマンションで怪奇ラップ現象、などといった話が今時分になってもまだ語られているが、それはどう考えてもお岩さんじゃないよ。社は江戸時代から何度も壊滅の危機に晒されているのだが、いちばんの危機は戦争であった。石以外の全てのものは焼け落ちて、再建は成ったものの半分田宮さんの住居となって鎮座している現在、慎ましやかなさまはお岩さんの原型に重なってなんともいえない因縁を感じる。

*但し古地図をあたるとこのあたりの武家屋敷並びで横丁という名を持つのは甲州街道を縦、即ちお城を上としての横道となっており、さするに外苑東通りこそが「鬼横丁」ということになる。じじつ、幕末の地図では外苑東通りになる道(この大通りは東京オリンピックのために拡張整備されたもので、元は左門町を縦切る小路だった)に「左門ドノ横丁」と書いている。(左門町をぶった斬る外苑東通りの写真は2005/6/18大江戸怪異くりきんとんに掲載しました)

:お岩稲荷は今でも田宮家が守っている。明治初期に芝居小屋に近い場所ということで当時の田宮屋敷に建てた分社が越前堀にある(後述 *2)が、こちらも同じ田宮家の人が管理している。ちなみに「田宮神社」と改称したのも明治時代。この陰陽勾玉、ふたつ巴紋は田宮家の家紋。それにしてもつくづくこのあたり一区を屋敷地としていた田宮家がこんな小さくなってしまったとは皮肉(引っ越しして戻ったらしいが)。しかし社殿は来るたびにリフォームされて綺麗になっていっている気が。

*2 このあたりの経緯は平成の初頭に編まれた荒俣宏監修田中聡著「怪異東京戸板がえし」に詳しいがどうもこの本、ちょっと怪しい情報も含まれており、最近文庫で再編されたものではどうなっているのか、持っているけど確認する気がないので何ともいえない。つかこのての本は装丁の気楽さからも予想がつくとおり考証の形を借りた幻想ガイドブックなので、寧ろそういうものだと思って楽しむが正解なのだが。ちなみに同じ明治時代にパリのマルド公園にも田宮神社が(越前堀からの分社として)造られたというが、誰か現存状態を確認してくれないかな。突拍子もないことだがパリ万博で四谷怪談の興行でも打たれたのだろう。さて本家騒動を起こした別口のお岩稲荷もあったというから、都合四個所のお岩稲荷が存在する(していた)事になる。大人気だ。

:テレ東の新・四谷怪談の提灯が見える。

:伏見の山を巡ればわかるとおり、お稲荷さんの祭られ形態は多種多様、不謹慎な言い方をすれば珍奇なものも多い。そこが土俗を感じさせ面白いのだが、怖くもある。

:猫みたい。鼻が無いのは戦争か。

:家屋から突き出た拝殿はほんとに小さい。。

:お向かいの日蓮宗陽雲寺(立正殿於岩稲荷)。いろいろと言われてはいるが元は同じ田宮屋敷内の社、こちらはお岩さんの生まれた場所と産湯をとった井戸があるということになっている。亭主の浮気に霊験あらたかという噺は洒落。

:お岩さん生誕碑。恐らく戦災で割れ「地」の字が無い。

:ゆかりの田宮家井戸。でかい。

次は丸の内線に乗って茗荷谷駅へ。かなり遠回りだし歩いても行ける距離だけど、時間が無いので電車で一気に来ました。四谷とは雰囲気が全く違う鄙びた谷筋、しかし石の色や地名に江戸の香りがふんぷんとする。このあたりは春日通りに近いが深い谷に降りるため喧騒が届かない。文京区ならではのガクセーの姿も多いものの、煩くはない。

:茗荷が生産されていたから茗荷谷。緑が多い寺町ゆえ雰囲気は残る。

:超近代的な林泉寺。しかし石仏が多く配され古寺の趣ものこす。このあたりの石仏は四谷同様元禄期の古いものが多い。

:石段の中段にタイルの広場を設けて綺麗に整備された、これが「縛られ地蔵」。江戸庶民の民間信仰をつたえる。石仏自体はやはり江戸前期の古いものだが保存がよく、品川の縛られ地蔵(願行寺)のように縛りかたも端正でやさしい(?)。縛られるようになったのは造られた時期より随分後だろう。荒縄で縛って厄除け・盗難除けの願をかける、大岡政談の南蔵院(葛飾)「縛られ地蔵」の流れを汲むもので、「江戸砂子」にも登場。地蔵をしばいて願いを叶えろと強要するというのはいかにも身勝手な江戸人らしい。五円玉がくくられている。縁結びの願だろうか。

:罪人のようだ。

:深光寺は立派な古寺である。

:古い墓石が寺下の崖面に並べられている。四谷同様、このあたりも無縁となった江戸人の墓石の堆く積まれる風景がよく見られる。古い町である証拠だ。薮の中に広がる石仏風景は密やかに壮観。ちょっと不気味。怪奇スポットと言ったら祟られそうだが。

:帰ってきた鐘。品川寺をはじめとして流出もしくは供出後戻ってきた鐘というのはけっこう多い。

:「著作堂」滝沢馬琴墓。まさに奇談を愛した作家ならではの眠処ではないか。

:江戸人という文字がふるっている。膨大な著作を産み出したことを称えるなかなかわかりやすい銘文。

:この屋の下で兎園会が開かれたのです(比喩)。

:元禄銘の見事な石仏が瞑想する昼さがり。

:蛙坂。このあたりは起伏が激しい地形ゆえ坂が多く、それぞれに由緒ある名がついている。この「蛙」は「復る」の意とされるが、両脇に棲む蛙が合戦したという伝説も付帯している。じめじめした谷筋であったことを思うと蛙や河童が出るのもわからないでもない。

:辻に地蔵が立つ。藤の綺麗な藤寺こと伝明寺。左に春日通りへ登る短い坂が禿坂(かむろ坂)。藤坂とも呼ばれた。

:かむろとは諸説あるが河童のことであるという。今は河童が出没したとは思えない雰囲気だが、藤寺の先に清水があり、その水が河童の棲める小川を作っていたのだろう。

:藤寺の先にある清水観音。信仰する人々多くこの石仏にも尾張屋寄進の銘が大きく見える。十一面。後ろの道祖神が珍しい。江戸まで溯る翁おうなの像は東京区部では殆ど見ない。

:左の線路部はもともと川筋、際に住宅が並んでいたそうで、このあたりに実録怪談作家の田中貢太郎の住居があった。つくづく奇談文士の町である。

:きりしたん坂と呼ばれる坂は茗荷谷を挟んで二つある。これは春日側の小坂。正確には庚申坂といったが漱石は由来を知らずに暗くてきびがわるいといっていて、話者によってはこちらがほんとうの陰惨なキリシタン坂だという人もいる。じっさい見た目ちょっと変というか、坂がばくりと削られて階段になっているのも怪談ぽい(駄洒落か?)。このあたりがいわずと知れた江戸の暗部、キリシタン屋敷界隈となる(実際屋敷があったのは逆側)。徳川の世になってすぐ、造られたキリシタン奉行の屋敷では禁制のキリスト教徒の収容、拷問が日々行われ、一部の者にはわざと贅沢をさせてスパイに仕立てて放っては、更なる摘発を行った。たとえば穴の中に吊るして数日がかりでアタマを血だるまにし拷問死させたりなどの狂気、あるいは品川など各所刑場にて磔にし屍が朽ち果ててもおろすことを許さなかった。当然陰惨なめにあった者たちの天国からの反撃もあってしかるべきだと思われるが、江戸の世できりしたんはそもそも禁句、黒魔術を使う悪魔というイメージの植え付けられたままに人々はそのての著述を残さなかった。

:坂上から谷をみおろす。高架がなかったころを想像する。今、高架下になっているあたり奥に川があって、橋がかかっていた。これが「ごくもん橋」、幽霊橋と呼ばれた木橋である。前記のとおり由来は余り伝えられていない。その名からすればキリシタンもやはり祟っていたのだろうか。名が悪いとのちに庚申橋の名がつけられた。ちなみに坂下に庚申塔は残っていない。

:ふうふう言いながら自転車が登ってくる。このかなりの急坂を自転車で一気に下ったのは志賀直哉だったか。

:谷へ降りかえして高架下をわたる。陰うつな雰囲気。夜は勘弁だ。

:橋の袂に制札があり、ひとびとを震え上がらせた。キリシタン圧政の現場である。

:谷むこうにわたって小日向側、これが正式に「切支丹坂」と呼ばれている坂。左右にキリシタン奉行の井上筑後守下屋敷、牢や取り調べ所を兼ねたいわゆる「キリシタン屋敷」があった。案外短い。巡回中の警察官に聞いてもすぐには正確な位置が出てこなかったほど忘れ去られているらしい。どの坂にも標識があるのにここにはない(界隈でいちばん有名な坂だと言うのに)。登って少し右へいくと屋敷あとの標柱がたっている。道が小さく入り組んだ古い住宅地といった風情だ。向かいの寺町とはかなり雰囲気が違うように感じた。ひろびろとしている。江戸初期の話だからもう400年弱。さすがに恨みも消えたか。

:坂上から谷をのぞむ。

:昔はこんなものなかったのだが。そして、この標柱の横に並ぶのが、私が長年(?)探してきた「八兵衛の夜泣き石」である。

:石は3、4個ある。私が聞いてきた話だといちばん右の小さな地蔵の首がわりに載っているのが八兵衛石なのだが、「キリシタンの八兵衛が穴の中にさかさまに生き埋めになり、その上に天国へ行けないように置かれた重し石」とするには小さすぎる。昭和初期の本に三角形の石(板碑のような縦型の大石)だという記述があり、そうするといちばん左があやしい(埋まっていそうだ)。でも、まあ、「その後石からは泣き声や言葉が聞かれるようになり、「八兵衛、苦しいか」と尋ねるとごとごと揺れるなど異変が続いた」という怪談(異説あり)を勘案するならば、人型をしていたほうが「それらしい」だろう*。この石はもともとこのあたりにあったカトリック教会が移転とともに持ち去ったものである。その教会が併合されたのがカテドラル教会で、つまりはこれこそが私が別項に書いた「カテドラル教会の泣き石」*2なのである。教会が穢れを忌んでこの地へ戻したのか、経緯を知る者はいない。この場所に八兵衛が埋まっていないことは確かだ。

* 今は別名で文庫化されている比較的新しい書籍、田中稔(荒俣宏監修)「東京戸板がえし」に載っている写真は恐らく上の石が外れた地蔵部分を撮影したと思われる。右横に写った切支丹灯篭(織部灯篭)はカテドラル教会に残されているが、この本の更に10年前の本では今の配置のとおり、四角い伝承碑を右にして置かれている。教会ではけっこう邪魔者扱いされて動かされていたのか。文庫では写真は割愛。

*2 2004/9/25「カテドラル教会泣き石消滅」の項参照。「泣きモノ三題」にも書いてます。

:大きく見えるが身長30センチくらい。晴れててよかった。曇ってたら何か煙立ちそうでコワイ・・・

上の石に触れて「八兵衛苦しいか?」と言ってみたが、体にしっかり接着されて揺れないようになっていた。。

:右の石は由来を書いているが読み取れない(それほど古くはないと思うのだが)。カテドラル教会の茂みの中に一緒に置いてあったもの。

:ちなみに背後はこんな感じ。この道はキリシタン坂ではない(もともと道ではなかったのだろう)。住んでてコワイことなどないのかな???

さんこう:カテドラル教会に寂しく取り残された織部灯篭。十字架ぽいから残したのか?あと、右は茂みの中に沢山放置された石。この中にホンモノの夜泣き石があったりして。中にはじっさい碑文が書かれているものも・・・何か顧みられないさまが寂しくもブキミだ。

:古い住宅地だ。ここは小日向公園。高台で背後は寺の墓地になっている。

:公園奥にちっちゃく佇む甘酒婆地蔵?*。どうしてこれが地蔵なんだか理解に苦しむが、そういう伝説があるらしい、どういう伝説か調べる気になったら調べる。

*調べた。これは甘酒婆地蔵じゃないそうです。この高台から右脇の「やかん坂」を廻って降りると墓地の本寺、日輪寺があるが、そこの本堂脇にホンモノがあるそう。ごめんくさい。お間違えなく。参道にいた甘酒売りの婆さんをまつったとてもほんわかした由来のものらしいです。しあわせ系。近いうち切支丹屋敷範囲確認を兼ねて行ってみます。

日輪という名前からすると日蓮宗なんだな。江戸時代、日蓮宗の坊さんはとにかく法力が強いと思われていたみたいで、のちには人に狐をつける呪力があるといってやたら生臭い噂を立てられていた。目黒現円融寺の蓮華往生(犯罪)も力の強かった日蓮宗を貶める幕府の意図的な風説だったといわれているが、ひょっとしたら伊豆の7人の祟る坊さん伝説も日蓮宗だったのだろうか・・・つか日蓮宗か。蓮着寺あるし。このへん百鬼夜話参照。宗派闘争はかなり激しかったみたいですねえ。そうそう、怪し坂としての属性をもった「やかん坂」とか前記「かむろ坂」という名前の坂が江戸にはけっこう存在した。「やかん」という響きが「夜半に坂の上から”やかん”のバケモノが転がる」という民話に繋がったことは想像に難くない。じっさいは「クスリの缶」ということで坂のそばに薬師医師が住んでいたとかいう謂れが殆どのようだ。野干の字をあてて狐が棲むような薄暗い坂という意味にもとられている。

だいたい江戸時代は徳川が意図的に平民の識字率を抑えたため言葉が「漢字とひらがなと口述」の三様に拡がり、相互の混乱が起こりがちだった。バベルの塔だ。漢字の意味を誤解して広がった、というか江戸人特有のユーモアだったのかもしれないが読み替えて洒落にしたのが洒落として伝わらなかったもの、あるいは音だけ同じ別の漢字をあててつたえたのが表意文字として認識されてしまったもの、もしくは意味は一緒だが別の形容(差別的俗称)でも呼ぶ人がいたのが、別の形容からの誤解的連想をされてしまい本来の意味からずれてしまったもの、いずれも元の言葉の意味とは全く関係の無い他の属性を産み出した。「やかん坂」などその象徴的なものに思える。「かむろ坂」については坂下に湧いた泉でいつもかむろ、アバウトに言えば短髪の子供たちが遊んでいたという話がいつのまにか皿ハゲ髪型の変な子供、即ち河童が群れていたという話にされてしまったり。四谷の禿坂も河童由来説がある。所謂「身分の高くない」子供が人にあらずとみなされていたため最終的にそういう噂になった可能性も高いように思えますわ。

:このあたりにも万霊塔はある。やはり元禄くらいの古いものが多い。生西寺。

:新渡戸稲造さんも住んでました。

・・・というわけで、次は丸の内線を折り返して淡路町へ。ここから秋葉原の怪所を経由してお玉が池、更にのっぺらぼうが出た地蔵橋跡から観音に「成った」お竹さんの井戸あと、小伝馬町牢跡をへて、小伝馬町駅から日比谷線で八丁堀へ行き、神威強く「見えない霞」掛かる鉄砲洲稲荷から新川へ鉄橋をわたって最初にふれた田宮神社於岩稲荷分社に至り、終点。

今日はここまで。結局書いてしまったな・・・。

:秋葉原の密かな守護神、右手が柳森神社。江戸初期には清水山という山があり、忌み場とされていた。左右に住む武家もこの場所だけには手を出さずほうっておいたとかで、柳を植えても枯れるなどの状態だった(当時は今みたいに電車の高架なんかなかったので念のため)。杉ノ森神社と呼ばれていたこともある。大奥の三人の女が痴話の挙げ句に身を投げ死んだ、それが出るという話がいつのまにか大奥で将軍の側室を狙う女たちに信仰された「他を抜きんじる」お狸社の移転先ということになって、世にも珍しい狐と狸の共存社として今に至っている。

→つづく