過去日記・・・

2005年11月2日

◆「夢」

こんな夢を見た。

私は祖母が危篤という情報を聞いて暗い家に待機していた。見知らぬ黒い日本家屋だった。何故か私は天井の隅から狭い座敷を見下ろしていた。祖母は前日まで矍鑠として田舎道を歩いていたがもうだめだということであった。しかしそのうち死の知らせのないまま、死んだ、ということになっていた。長い時間がただ過ぎていった。他に二名の人間がいたが、このあたりは別の夢が混在していて定かではない、ただ、通夜ということではないが結局その屋の、その寝間に寝ることになった。他の二人のうち一人は位が高いようであった。部屋の半分を黒檀のようなつやつやした木の床が占めていて、余った部分に二つ折りにした綿布団をふたつ押し込めて、我々は綿布団に、位の高い人は黒檀に床をとった。蒲団を延べる前、かれは塩のようなものを床の周囲に撒いてこういった。

「こうしないと、来てしまうからね」

口でそう言ったのかどうか覚えていない。そういうふうな雰囲気で黙々と結界をはると、蒲団を落とした。塩は巻き上がるふうでもなく、われわれは残る蒲団を選ぼうとした。風の音もしない古い日本屋で、しかし恐らくその四畳間がその家のすべてで、祖母がくるのかどうかも定かではない。

 

・・・私の祖母はじっさいには4年半前になくなっている。老人病院で、痴呆症状の末でのことであり、10年来の記憶に矍鑠とした姿はない。もっともそれ以前にはタバコをふかし日本家屋になど住まない人であった。

祖母の夢を見るのはこれが初めてである。13年前に死んだ飼い鳥の夢を定期的に・・・1年に2度くらい・・・「同じような感じ」で見る。年々姿がぼやけてゆく、でもまだ定期的に夢に出る。しかし祖母の死んだ後、確かにショックを受けたというのに、夢を見たことは一度としてなかった。何故だろう。うちの家系は宗教感覚が変で、3、4つが入り乱れている。その母方の祖母というのは仏教であった(私は一応カトリックであるが無宗教に近い)。なのに盆など仏教的な儀礼の日に墓に参ったためしがない。今は別に仏教的な時期ではないが、何かあるのだろうか。

守護霊?そんなもんいるのかいな。そういう言説をした直後であったから、エハラ的には、見させられたのかもしれない。現実的には心理的要因によるものだとは思うけれど、起きても覚えている夢というのは最近なかったので・・・しかも上記の夢、全く同じ内容が三回繰り返されたのである・・・ここに書き留めておくことにした。最近勘が冴える。この勘が変に働かないことを祈る。

ここに書いたかどうか覚えていないが、祖母はどんなに痴呆症状が進んでも、礼儀を守る人だった。訪れた私が誰なのかわからなくても、優しく応対しようとし、必ず駅まで送りにきてくれた・・・長い長い田舎道を。まともに話ができる最後のころ病院を訪なったときも、看護婦に止められるのも聞かず何度も立ち上がり、遂に病室の入り口まで管を引きずり送ってくれた。名残惜しそうに行くのを止めた・・・誰かもわかっていないのに。今思うと毎度髪も直し化粧すらしていたのではないかと思う。

・・・まったくの最後、そんな祖母は見る影も無かった。まるで枯れ木のようであった。横たわり、意識なく、ただその手だけが大きく、暖かかった。これがもうまもなく冷たくなるのだ。帰り、春のうららのあぜ道を、マーラーの「大いなる喜びへの賛歌」・・・天国へ昇るものの歌を聞きながら呆然と歩いているとき、ふと、背後に気配を感じた。振り返らなくてもわかった、でも私は振り返った。腰の曲がった様子で遠くの道端に立ち、もうそれ以上は動かないけれども、ただ微笑んでいた。・・・ミイラのようなあの苦しい体は離れて、もう自由なんだ。私の心は既に平穏であったが、更に穏やかになるのを感じた。春陽のたなびき、陽炎の波間に消え去るまでその姿を振り返り振り返りし、そのまま二駅を歩いた。・・・

葬儀の日、棺を覗くとそこにはミイラのような顔はなかった。矍鑠とした頃の祖母の、明治のモダンガールのはっきりした顔だちがあった。最後まで化粧で女は変わるものだな、と皮肉気味に語ったものだが、心根には深い感傷として残った。旅立ちはあっさりと数時間で終わった。骨は赤みをおびてまだ生のよすがを残していた。そのピンク色の骨を見ても、しかし、

私は昨晩まで一度も夢に見たことはなかったのだった。

2005年10月29日

◆多摩川で野蒜を焼き

焚火で温んだ酒を喰らう。 博浪会の冊子をめくっていると昭和16年2月早々追悼の二冊のなかに夢声の万感のいち文があった。雑草は何でも味噌で喰えるといって其会も開いていた貢太郎氏、酒に生き酒でびんぼうをし酒に死んだ故人への随想の形をとった最大の賛辞である。

万感、というのはただ想いでをつづり一言「それもついに空しである」で締めてある。莫と、語ることがないとして独自の風格があるとだけ置いた菊地寛とは格段の言外の想である。我が祖父や父によれば貢太郎の名は前に私の書いたような大衆小説家なんかではない、立派な文筆家で通っていたようである(同郷の者の贔屓目というわけではない)。だから菊地の態度には多分に意識的なものがあるように私には感じられた。自らが認めてやった人物であるにもかかわらず対抗するかのような私誌(じっさいは周辺弟子同人のものであるが)を立ち上げた男、野人と号された文壇の異彩児への圧倒の意さえ感じられた。反骨の士の燭の消えるがごとき哀しき枯淡の境を思うと無粋な編者の、権威菊地になど頭文を能わせる粋のなさに胆落つるところもある。接いでに言うならば氏独特の面白いあて字は癖のようなもので、源は中国小説にあるものだそうだ。漢籍への造詣も当代文士に比類無きものであった。

門前で声をかけ布団の中から反ってきた返事で容態を確かめる、高知新聞社三村氏の追憶、去世の三日前「何ちやあぢやなかつたきにのう」とぽつりと遺していったというが、確かに昏睡のとき流れた一すじの涙の拭われたあと、円満無比の相好の死に顔は牡丹の篭火を架かげた上臈に手をとり連れ逝かるる氏らしい解脱の相であったと思いたい。なき崩れるつま子らにはすまなそうな様子をして。旧友は口を揃えて何の心のこりもなかった筈だと言ったそうだ。三村氏は心のこりどころか、あの世へお釣り銭まで持っていった男だと口を添えた。浦戸の湾には厳かに「じゃん」が響いたことだろう。

泰平の時代のことを想う人もいた。この雑誌も末期は戦意高揚広告が目立つ。吐血後静養として死の前年後にした東京の屋だが、「東京は旅ぢや」「もう東京はさつぱり思い切った。むづかしい物は書かいでも、すきな随筆などを書いて、小遣いを取ればよい。子供達も、もう一人前になつて、手がかからんきにのう」の言に常よりの熱い郷里愛、推して知るべしだろう。晩年は名随筆家として知られた氏が「坂本龍馬を書くために、郷里で材料を集めている。田舎に居ると生活費もかからぬから、ゆつくり長編が書ける」という死去前の池上会での台詞、旋風時代は過ぎ去らず未だ伝記小説へ意欲を燃やしていたのだなとも思う。高知県立図書館長の想い出にも龍馬の話が出てくる。郷里の志士伝への思いはえんえんとしてあった。死の数日前まで娘に大量の資料筆写を持ってこさせていたという。

ひとによりまた印象も違うのだなと夥しい追悼文をつら読みながら、その例の少なくないことにも思いを巡らせた。最後の会の場で、もう好きな瀧嵐も司牡丹も呑めない貢太郎翁に気付いた弟子がいた。「こちらもうつかり馬鹿話にふけつているうちに、気がつくと、先生は広い座敷の向ふの隅の、座布団を積み重ねたところで、横になつて、しんと、こちらを見てをられた。その距離に、私はと胸を突かれるやうであつた。ーあの部屋隅の座布団の山を思ふと、たまらなくなる。」

それは余りに淋しいではないか。我が育てた稲穂の黄金の揺れるさまを見守るだけで、誰にも顧みられることのない、モウただの一本の野蒜なのである。死んでからでは、遅い。


・・・その野蒜が枯れはて土に帰らうところで抜いて喰う酔狂らもいる。ここ数年の再評価はしかし昭和大衆伝奇小説家としての氏に寄せるものでしかない。もし読まれていないのならばこの雑誌の追悼号を読まれるがよい。日吉早苗氏の「幻想の桃葉先生」は名筆である。ここに矍鑠たる明治の幻想文学、ヘルン先生らの流れの末と、それを確と伝えられた貢太郎氏の偉大さを垣間見られよう。そして山崎海平氏の採った語録(どれも至言である)に浅薄な大衆作家などではけしてなかったことも窺い知ることができるだろう。


61の誕生日、雛祭りの日にレインボーグリルで行われた追悼会では、発起人尾崎士郎氏のもと菊地寛、井伏鱒二、吉川英治らより追憶の説が語られた。太宰も胡堂も犀星も梢風もいた。中央公論から選集が発行の旨が書き添えられている。「林有造の伝」が完成していながら生前出版至らなかった無念を譲治氏がつづっている。

静養のため帰郷して後目黒の家に住んだ義理子は氏を奇人酒仙と呼びならわす世間には知られえなかった一面を書き添えている。「父はもはや、疲れきっていたのである。ものを書くことにも一向気乗りがしなかったやうである。「土佐へ帰って、何もせんでいて魚釣りをして暮らしたい」と、死のニ、三年ぐらい前から家族に語っていたという。が、その土佐の生れ在所に帰っても、とうとう父は念願の魚釣りもやらずに逝ってしまった。父にとっては、おそらく、坂本龍馬傳の完成をみなかったことよりも、もっとそれは残念なことであったろう。」遠山氏は三年前の結婚の許しがあまりに簡単だったことを妻である長女に話すと、「父も昔の父とちがって・・・」気が弱くなってきた、と泣いたとも書いている。

最後の博浪への寄稿は15年8月五巻九号のニページである。帰郷直前といったところか。事物をならべただけのものではあるが流石随筆の逸話には事欠かず、臭いロシア人詩人の話のあとに日新聞という出版社ででくわしたハーフの作家志望者のことが書いてある。原稿が旨く面白いから中央公論の瀧田氏のところへ連れていったところ連載が決まり、非常に喜んで晩餐会を催すも滅多に早く来たこともなし、食事は済ましてきたというふうだから瀧田氏ともども応援を止めた。しかしそういうものだと流すところに依然として風流粋がある。

ところでハーフの若者は逆に氏をこううつしている。
「布袋様のやうだつたが、これが田中貢太郎だつた。その時貢太郎が俺の小説を見て、旨いゝとつゞけ様に赤い舌をべろゝと二度出した。」

ああ、貢太郎はこうでなくては。

〜博浪沙・田中貢太郎追悼号を読んで(某コミュニティより転載)〜

2005年10月19日

◆やはりどうも忙しいし寝れてない。そのため、他サイトでやってる音楽関係のことはしばらく休止することにした。こっちのサイトは完全に思うが侭の道楽だが、音楽サイトはヘタに書けない。読む人がけっこういるからだ。パラノーマル業界に比べてさえ、音楽(を聞くだけ業界)には非常にマニアックな人が多いゆえ、理屈が多いし個性も強いし、はっきり言ってめんどくさい。ので、あっちは週一更新のペースもやめにします。ほんとに書きたいときだけ書く。ここは断続的でもちゃんと続けていきますので、よろしゅう。

2005年10月17日

◆諸事を厳密に突き詰めていこうとすると必ず限界が来る。乗り越えないと新しい世界は見えてこないが、そういう局面において片手間にしか取り組めないのであれば、乗り越えられるはずもない。学問とか研究とかって本来そういうものであることからして、寧ろ趣味として楽しんでいく気なら、どっかでてきとうに流してしまうべきだろうと思っている。私のいーかげんで曖昧なスタンスに離れていったかたも多々いらっしゃるこのサイトだが、金曜日はスケプティカルな立場から意地悪をちょっと仕掛けてみた。これでまた離れるんだろうなあ。だが、だが。今日、別のかたから別の場で、同じような意地悪を仕掛けられた(笑)化かし化かされあい、パラノーマル業界って、こんな人がたくさんいる世界なのだ。

2005年10月06日

◆一日の時間は限られている。ネットをやる時間はケータイのフルブラウザのおかげで確保できているが、それでも限界はある。サイト更新まで手が廻らない。ま、もうこれ以上減ることもないだろうからてきとーにいこう。それにしてもジャミロクワイ・ファンクラブの力のなさといったら・・・(苦笑

 

2005年10月04日

◆今月に入ってからアクセスがガクンと減った気がするのは多少yahooからも来てたせいなのか?まあ、いいですわ。落ち着いていけます。


2005年10月03日

◆ジャミロクワイ・ファンクラブ限定イベント開催決定。さっそくチケ取る。前回みたいな余ってイープラスに流れるようなことのないことを祈る。ちょっと溜飲下がる。

 

2005年10月01日

◆ジャミロクワイ・ファンクラブからチケットが来たが・・・ウドーの先行と大して かわらんやんか!つかむこうでがんばったほうがいい席とれたっちゅーねん!・・・ま、しゃーないです。

:怪物図録更新

2005年09月27日

◆いろいろレイアウトをいじっております。我ながら見にくいです。なぜかというといろんな環境からいろんなソフト(もしくは手打ち)を使って更新しているので、整合性をとったり見え方を調整したりするのが至極めんどくさいのです。ごめんなさい。

◆記事更新の頻度を上げておりましたが、雑音が多くなってしまい却って使えない情報サイトになりつつあるので、ちょっと落ち着いていこうと思ってます。主要ソースにしていた海外のまとめサイトがつぶれたこととかとは関係ありません(あります)。

◆怪物図録をきちんと系統だてて直そうとしましたが挫折したので(ちょっと膨大になりすぎたのと時期によってレベルのばらつきがありすぎなので・・・だって高校のころから書いてるんで)、怪物図録のトップページに新しいものだけは「名前」だけは集成しておきました。もっともアンカーをつけてないので検索しづらいから一緒かなあ。いつかアンカーくらいはつけます。古いほうの図録はどうしようなあ。もともと古いほうには若気のいたりで序文とか挿絵とかあったんですが恥ずかしいので消しました。末文に「形なき哀しきものに形をあたえる」などとおこがましいことを書いていたら水木さんが既にそういうことを言っていたそうなので掲載しなくてよかったです。

◆参考文献表は、古い怪物図録を作ったときにそっちのほうにいったん掲げたのですが、十七年(あくまであれを始めた時期がそうなだけで実際はそんなもんじゃないです)にいたり膨大になりすぎて今作るのは紛失もありもう無理です。歴史的なものについてはなるべく一次資料に近い参考文献の名前を書くようにしていますが、他はテレビからビデオからネットサイトから新聞から本から雑誌から耳から様様なので、もうその気も失せてます。サイトだけは必ずリンクを付けておくようにしていますし、本は雑誌のような再読不能ないわゆる読み捨て系のものでなければ著者名と著作名くらいは書くようにしています(勿論引用の形のときのみです、図なんかは引用でもなんでもないので書きようがない)。本当は初版年とか出版元とかも書くべきなのですが、サブカル系のものは出版元がひんぱんに変わったりするので、こういうマニアックサイトで厳密に書くのは寧ろ余り意味がないかと思ってあえて書いてません(後から追えないつぶれた会社の名前書いても仕様がないですから)。文献引用のセオリーとして原文のどこからどこまでを引用したのか明示する、そして原文を一字たりとも変えてはならないという点にかんしては、なるべくそれに沿ってはいますが、電子化のさいコード対応していない漢字は変えざるをえないし、外国のものは日本語訳するしかないし、後者は駄々長文だとどうしてもはしょりたくなるので、「抄訳」「抜粋訳」「意訳」などの言葉で変更形態を示すことにしています。このへんも「アングラサイトですから」目くじら立てるほどのアクセスがあるわけでもなし、ま、言われるまではそんないーかげんな感じでいきたいです、というかそうしてきて3年になります。

◆このサイトは5年前にアップしたものですが、当初は別に怪談とかそういうジャンルのサイトではありませんでした。ブログというものが無い時代の日記サイトだったんです。題名(当初から変えていません)が曖昧なのはそのあたりに起因しています。多少スケプティカルに冷静な態度で接するというスタンスから敢えて「そのスジのサイト」という見方をされないようにそのままの題名にしています。いろんな書き方でまるで雑記集のような形態をとりたい、という当初の意図はそのまま続けて持っています。別人が書いたような記事や図が多いとよく言われたものですが、そういう意図と、あと、基本的に「10年以上にわたって書いている」ということから別におかしかないと思います。サイトは5年の歴史でも、日記と怪物の古い部分は、高校卒業あたりから書いたノートを元にしているものですし。上達しないなあ、と思うけど、変わらないのはいいことだ、とも思ったり。図はマジメに書くつもりがないのであんまし人気がないけど、あれがむしろメインと考えているので(文章はきほん的に他人のものが多いですからね)潰れるまで続けますよ。