青梅ちょっと巡り
2005年8月21日、山口敏太郎先生主催の青梅妖怪スポット小ツアーに参加しました。青梅の街自体は初めてですが、思ったより山奥でした。。中央通り沿いは昭和30〜40年代を意識した看板や建物が並び、昭和レトロの雰囲気を感じることができます。
:レトロ博物館。ここの二階は雪女の部屋として公開されている。ハーンの「怪談」所収の「雪女」は青梅出身の用人が伝えた話と推定されており、その記念も兼ねている。
立川方面にしばらく歩き、青梅線の線路を渡ると乗願寺。青梅一辺の集落は多摩川が刻んだ急峻なV字谷の、主として北側(南向き)に形成されており、お寺や神社はいずれも南に集落を見おろして崖面に張り付くように造られている。川の南側(北向き)は普通の人が住まない神域であり異界であった。多摩川をこの世とあの世の境界とする伝承は遠く下流のほうまで続く。
:門前。青梅に所在する石塔・石仏類は幕末あたりのものが多い。そのころに大火事があったそうで、このお寺の本堂も新しい。1300年創建、時宗。
本堂の向かって左手前、山門の脇の樹叢のひとつが地元の古老によれば「てんまる」の棲息していたといわれていた樹。樹には詳しくないのでよくわかんないけど、ナラか何か?
:この「うろ」に「てんまる」が棲みついていた。てんまるは動物型の妖怪で夜、人の頭に覆い被さる。ムササビの巨大化したものだろうか。樹は思ったより細くて小さい。枝葉が短く刈り揃えられている。「うろ」には箒が挟み込まれているが、単に保護のためなのか、呪系のものなのか定かではない。
:子供が蝉をとったりして遊んでいる。こういう何気ない雰囲気の中に妖異はひそむ。
道を戻る。
:「火宅の人」に出てくるてんぷら屋天徳。
図書館裏、七兵衛通りから少し入ったところに七兵衛地蔵がある。
:幕末元文年間の伝説的義賊、七兵衛の元畑地に地蔵を置いてまつってある。七兵衛は青梅は裏宿部落の比較的裕福な農民だった。相次ぐ飢饉にあえぐ村人たちを救うため最初は自分の物を分けあたえていたが、そのうち昼間は農業にいそしみ、夜は遠く甲斐や相模まで足を伸ばして盗みを働いては、獲物を貧しい家の軒先にばら撒いてまわるようになった。一夜のうちに50里を走ったといわれる俊足で捕り方を引き離しては恵んで廻り、貧しい村人を喜ばせた。しかしこういうことは長くは続かない。遂に捕まり土壇場に引き出された七兵衛、自分は仕方ないが妻子にまで危害を加えるなら怨霊となって災いをもたらさん、と言い残して首を落とされる。しかしその後七兵衛の屋敷や畑地は人の手に渡ってしまう。するとどうしたわけか畑には作物が育たず住む者には不幸が訪れるようになった。この「呪い」は後々まで続き、畑や屋敷跡は所有者が転々とし遂には荒れ果てる始末。昭和七年、災いに困った村民有志によりこの地蔵尊が祭られることになった。だが義賊として尊敬されていることには変わりなく、この地蔵や後に出てくる首塚は足腰に効くと信仰を集めている。特に俊足にあやかりたいという青梅マラソンの参加者の信望が厚いそうだ。今も呪いは続いているともいわれ、元所有地はいずれもこの図書館のような公営施設や公園になっている。
駅近くにだいぶ戻ったところに真言宗梅岩寺がある。
えんま堂は安産子育て地蔵尊として信仰を集めている。文化年間の立派な石仏塔とともに山上の墓場への入り口を護っている。ちなみにえんま堂の斜め正面には立派な六地蔵がある。これらは寺の敷地の半分近くを占めており、この寺が本堂を主体とした寺院ではなく密教霊場的な構造の中に組み込まれた部品であることを勘ぐらせる。
:小屋の中は幾多の彫像や絵板に彩られなかなかの土俗的世界。中央が笑い顔の閻魔さんで閻魔講の集団が時々お参りにくるという。左脇の石仏がしょうずかの婆(脱衣婆)、背後には百体地蔵の木彫(千体地蔵信仰にならい信心者が持ち帰ったせいだろう、今は80数体になってしまったという)、右壁際には行者様の弘法大師木造、いずれも江戸後期以降のものだろう。壁面には様様な図様の地蔵・観音もしくは信仰者の似姿のような絵が描かれている。
:穴空き柄杓は安産の通りをよくするおまじない。小さな底抜け竹柄杓などバラエティがある。船幽霊とは関係なし。
:新しいがちょっと異様な面持ちの地蔵と両面宿儺ぽい(三つだから違うか)石仏。
:立派な地蔵塔だが小屋が邪魔で由来がよくわからない・・・青梅の石仏はいずれも江戸時代のものなのにかなり新しい感じがする。その中でこういったボロボロの石仏もあり、石質のせいなのか、それとも新しいように見えるものは(悪意がなかったとしても)年代を偽って彫刻してあるのか、よくわからない。
公民館に行って休憩。その間に床屋さんが昭和初期あたりから祭っているという「貧乏神」の小さな木彫を見せていただく。
:竹節を利用した携帯厨子の中から、おでまし〜
これ以上貧乏にならないように、とか、貧乏神を身内にすれば貧乏にならない、といった庶民信仰の産物。役の行者を思わせる像様。風にのって飛びそうな軽さだ。
:こんなにちいさい。
:手乗り。ごめんなさい。
:笑ってます。素人の作らしい。
この公民館の部屋は少し空気が重かったです。なんでだろ。
休憩終わり。南側の多摩川に向かって降りると青梅街道があります。
:いわゆる「間引き」伝承をつたえる「稚児橋」。
:この交差点あたりにあった橋です。
街道沿いに立川方面に向かうと美術館裏に「おりん淵」がある。多摩川に流れ込む細流のひとつだ。今は水量が少ないが、かつて深い水を湛えた淵で、おりんという女性が身を投げ幽霊となって出たという伝説がある。ちょっと雰囲気を感じたので写真多めに。
:淵から多摩川が望める。
そのまま少し進んでから多摩川まで降ります。
:橋の架かるこのあたりが平家の落人伝説を持つ「琴が浦」。上流にダムができる前は深くて水量があった。源氏の追跡に遂に身を沈めた落人たちの持っていた琴の音が、夜な夜な水底から響いたという。今は水浴びの格好の名所だ。河童もいたとか。
更に立川方向に多摩川に並行して歩いていく。
元、調布部落への入り口の調布橋たもと、ここに雪おんなの碑がある。
この少し下流の方へいったところに昔渡し船があり、両岸に船小屋があった。今みたいな水量ではなかったので、舟を逃がすと南岸から戻ってこれない。そこで一晩泊まることになった人の中に女の妖異の目撃例が多数あった。そんなところからハーン伝えるところの「雪女」伝説が形成されていったのだという。
:このあたり(青い柱が見えるところ)に雪女の出る船屋があった。
多摩川を離れ北側の崖道を上っていきます。かなり急峻でいたるところから湧き水が湧いています。その中のこの小川、
:宗建寺門前を流れ落ちる小川。ここに小豆婆が出たといわれている。ようは音だけ妖怪、「小豆洗い」です。今は綺麗にコンクリで固めてありますが、昔は変な構造になっていて流れの音も変だったのだろう、といわれています。ここを流れ落ちたものは多々、その中に前に書いた七兵衛の晒し首もありました。宗建寺住職が拾い上げて墓地にねんごろに埋葬した、それが七兵衛の首塚です。
:アスリートに人気。
このお寺の境内に面白い三猿塔がありました。
:土台に扇で目、耳、口を隠した猿回し様の三猿が描かれている。上の明王像の刻まれた丸石はまるで水木翁の雲外鏡みたいな感じですな(実際は大日如来(太陽)の象徴)。こんなに新しいように見えても造営は江戸時代に遡ります。
<ちょっとていせい>ごめんなさい、永らく石仏や仏教齧りから遠ざかっていたもので忘れてました。三猿(見ざる言わざる聞かざる)の上に二鬼を踏んだ正面向きの三眼憤怒像、六臂でそれぞれの手に握る武器等、どう考えてもこれ、関東(と関西の一部地域)では一般的、しかも一番典型的な庚申塔(宵待塔)ですね(泣)この邪悪ななりの鬼神像は三尸虫(俗にいう「庚申」)の仏教的な意味での本地で帝釈天(庚申日を縁日とする)の主体ともされた、青面金剛に他ならない。
(天)邪鬼を踏むのは帝釈天の部下(て言うのか?)四天王の役目ですが単純化の過程でこうなったんでしょうか。丑寅(東北=鬼門、牛の角に虎の牙という図像学的な観点からの鬼の象徴)の守護神である多聞天が併合されたんでしょうかね。つか天部は誰でも邪鬼踏むか。二鬼というと普通は兜跋毘沙門天像に見られるように尼藍婆、毘藍婆(と地天)だそうですが石仏では単に様式化された邪鬼二匹です。
青面金剛は悪神夜叉転じて善神となすの典型(そして異教(一説には道教)の神)。江戸時代には豊穣やら家内安全やら至極庶民的な信仰対象でした。だからいろんな要素が詰め込まれています。六臂となると一本はショケラ(ショウケラ)という女妖の髪をひっつかんでる図様になる。ここでも邪鬼と大して違わない図様の縮こまった合掌するおばさんが体の前に掴みあげられています。
:ぜんぜん気がつかなかったす。庚申の夜に寝込む人間がいないか見回る役目をはたす俗神ですけど・・・三尸虫の部下ですかね(九虫にも入らない)。三尸の本地である(というのも俗信ですけど)青面金剛がなんでこんなムゲな扱いをするんだ。まあ、恐らく三尸をやっつけてくれるというのが青面金剛に対する庶民の理解なんでしょう、鬼も三猿も(いいのか?)踏んづけてるわけだしね・・・現代では絵師のせいで派生的に現れた妖怪の一種としての属性のほうが有名になってしまった。
庚申講やら江戸後期の民間信仰って混沌としてるので、明王との関係もなきにしもあらずじゃないかと思ったりもする。だってこの円石はやっぱり太陽か月だと思う。月天、日天・・・護法神としての十二天部に入るけど菩薩(釈迦の修行者としての側面、つまりまだ悟ってない時代の姿をもって、現世救済を目的とする存在っていうんでしょうかね。例えば地蔵菩薩なんて自ら悟りを拒否して地獄の衆生を救うなんていわれてたわけで、天界の仏陀の手足となる実働部隊といっていいでしょう。悟った後の如来もしくは仏という概念に対してランク下みたいな見方をされる場合もあり、異教の神が併合された場合はおうおうにして菩薩や天部なんて周縁位置に置かれるわけです)でもある・・・が、たなびく雲と共に憤怒像の脇に配置されるのは二鶏二童子を足下に置くのと同様、ごてごていろんなものぶっこんだ「庚申塔」の型式化された「決まりごと」だけど、石自体がここまできっちり太陽形に造られているとねえ(と言い訳)。青面金剛は軍荼利明王と同一視される場合もあるとさっき読んだので(蛇が巻きつく図様から)確かに外れちゃいないんですけど、不動明王だと思ったのは大間違いでした(大体持ち物がぜんぜん違うしねえ)。
ちなみに庚申の夜に庶民の体から抜け出したスパイ三尸(九)虫(怪物図録参照・・・てどこ見たらいいのかわからんでしょうね)が悪行を天帝に告げ口しにいくので、その晩寝ずに酒盛りで明かす庚申講、このような塔が建てられるのは一般には3年ごと、18回の講が行われたタイミングなのですが、60年おきに建てた地域もあった。けれども不作が続くとそれに限らずやたら建てることもあったため、関東周縁にはそれこそ無数の塔が存在します。江戸末の、特に江戸周辺にはこの像のように凝った造りの庚申塔が造られる一方(三猿がこの下部のように猿まわしの格好で扇で目、口、耳を隠すおどけたさまというのは、例えば江ノ島の猿だらけの塔みたいに半ばゲイジュツ的な進化を遂げた、しかし一つの様式として確立された図柄でもある)、たいがいの村では単純簡素化され、道祖神なんかと併合されたり文字だけの塔になってしまったりしてます。中にはキリシタンまで取り込んでいるものもある。猿田彦塔も庚申塔の神道様式ですが、三猿(山王)と関係があるのかもしれませんね。いずれにせよ「庚申塔」の名目で様様な信仰が一本の記念碑に纏められていく傾向があった。日本人は多神教の民族ですが、庶民は余り考えないというか、一神教的で現世的なわかりやすい方向に向かいたがったものなんでしょう。全部いっしょくたにして。だがそれが奇妙な地域分化を促し明治初期でゆう邪教というものになっていって、あーもう神社本統以外みんな排斥、なんて流れを幇助する要素になったんでしょうかねえ。
ちなみにこの青梅の像は弁才天の下に置かれていましたが、帝釈天との関係は如何に。帝釈天で産湯を浸かり、というから水との関係があるんだろうか(ねーよ)単に七福神かな。多聞天は日本の民間信仰では毘沙門天と同一視されます。ここは帝釈天のお寺だそうですが、七兵衛さんの韋駄天(増長天の部下と言ってしまおう)みたいな扱いとの関係も如何に。あーもう仏教ってわけわからん。これだから哲学だって言われるんだ。もう匙投げることにします。
:寺の逆側に抜けて更に上ります。安政年間の石橋供養塔がありました。みんな幕末です。
駅も間近。
住吉神社に到着。ここで怪談会を聞いて帰りました。
:山上の社殿。なかなか立派な江戸後期の彫り物が一面を飾っています。
その向かって左手、一段上に上がると稲荷社があります。ここは実は稲荷社のほうが先にできたといわれ、そのため神社より稲荷が上に置かれているのだそう。
・・・ここはなかなか立派な村社でした。
:河童のミイラ(模造)を捧げて、あとは怪談を待つのみ、というわけです。
以上。