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2005/11/3:三田麻布狐狸狐狸紀行

(但し3時間)

〜というわけで七不思議で有名な(7どころじゃないのだが)麻布を中心に歩いてみた。麻布青山とくに武家屋敷のあったところ、みな血と神経にまみれていて、そういう気を吸いに狐狸連中が集まってきた(もしくはもともと住んでいたところに武家さんたちが住み込んだだけか)。山谷入り組み崖下谷奥にはじめじめした場所が多く、現代ものすごい再開発が進んでいる地域でも、必ずこんもりとした森や寺や大正昭和の古屋敷が存在するところ。どんどん乖離していくさまに面白みを感じる人もいようが(「超芸術トマソン」に描かれた様に)、東京に生まれ東京に住む者にとっては自分の故郷が永遠に失われていく感覚、ふるさとの香りがエスニックな香りに変わっていく嫌な感覚をおぼえるのもまた事実なのである。

ま、そんな東京人間だって江戸初期にはほとんどここにはいなかったわけで、移り変わり行くのはこの地の定めかもしれない。ほうぼう戦争で焼けてしまいリセットされているのも事実だ。・・・青山墓地が削られ幽霊が出るようになったのもそのころ。

さて出発は三田。昔の職場があった場所であり、以来7年行かなかっただけに感無量な部分と、ああ、再開発って、っていう落胆に近い気分が交錯した。


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札の辻、高札場である、ここで処刑の旨晒された者数多い。もともと道路の交錯する場所で広いのだが、現在一角の建物が壊されなおさら広く見える。

このへんに勤めていたころから品川きりしたん遺跡を訪ねたかった。しかし現在まで行く機会を失していた。そこでまず、東海道芝口すなわち高輪大木戸手前の海辺(現操車場)にめんした急峻な崖に・・・江戸初期家光の時代から大量のきりしたん惨殺が行われたいくつかの「刑場」丘を探した。鈴ケ森のできる前の刑場である。小伝馬町からここまで引き回されて無残を晒されたわけだ。地図によれば(後注:当時)プリンスホテルの裏手に「元和キリシタン遺跡」とある。おそらく丘自体はほとんど残ってないだろうが、標識があるという。元和9年、最初期のキリシタン処刑が百人単位の火刑という形で行われた場所である。磔の姿が東海道脇風光明媚な海岸沿いに並んでさらし者にされ人々を恐れさせたのだから(のちに海側にも海中逆さ吊り(満ち潮で窒息死した)のきりしたんも林立した)・・・これら刑場あとが忌み地とされ荒れ放題になったのもさもありなん、である。百五十年後くらいにやっと寺に買われたようだ。きりしたんは殉教で天国に上るはずが、たたったといわれる。ここに限らず弾圧期の刑場跡はなぜかきりしたん解禁になった明治のあとになっても、キリスト教者からもすら忌まれることがある。日本人に長年植えつけられた「きりしたん妖術たたり悪魔」説は天海僧正の吹聴にたんをはっすると言われているが、そういうイメージを近代キリスト教は払拭したかったのだろうか。


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忌み地はこの斜面や海だけではない・・・札の辻でも処刑は行われたし、赤穂浪士の泉岳寺(実はもともと移転してきた寺。今は移転したもうひとつの寺の敷地と接した一面の場所)内の塚でも処刑は行われた。ゆえにどちらも長年忌まれた。札の辻のがらんとした風景はその忌み場の残存とも見える。寺は忌み地を鎮めることで格を上げる一面もあったからそこに建てられても別に不思議は無い。


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きりしたんの前に昼の憩いの場だった御田八幡神社へ。ビルの間隙になぜかここだけ瀟洒な社地になっている。戦争で焼けたが1月5月の15日に「釜鳴り神事」が行われることで有名だ。釜鳴り、「吉備津の釜」ウラの首上釜炊き神事の末裔である。小さいのに男坂女坂が設けられているのが面白い。階下左手の小さな滝は湧水で有名であるがどうも心もとない。

この社殿の裏手の崖にちょっと怖い場所があった、狐穴である。ライティングがされ一応こじんまりとまとまってはいるが、社中は壊れた狐だらけで小さな陶像が散乱していたりと恐ろしい。正直こんかいいちばんぞっとした場所だった。ほんとうはやってはいけないのだが倒れた像をいくつか直してやり、おそらく戦災でやられたであろう鼻をへし折られた恨めしげな狐たちと少し「会話」をして、去った。ここは崖面があらわになり古い雑木林風景を残している。あとで大回りして行くことになる亀塚が上にある。狐はともかく、この社の位置と亀塚(が神域にされた頃)の関係を歴史的背景から見直すと何か面白いことがわかるかもしれない(わからないかもしれない)。伏見から勧進されたようである。

さてプリンスホテル(後注:当時)は大工事中(バブリーな巨大ビル建設中)、ということで崖下からは入り込む隙もなく、裏手の崖上から降りる道があったと思うので大木戸近くまでいき大回りして上っていった。・・・せわしない風景がどうにも嫌な予感。

:大木戸あと


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伊皿子坂(坂上に外国人イサラゴ?が住んでいたというのは俗説らしい)から崖線上を右折。


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向こう側から伸びてくるこの道は慶長9年前の旧東海道である。古道の趣は路面に居並ぶ寺と屋敷跡(壁だけだったりする)のせいだろう。このあたりは昔何度も周り写真もとった。いずれのせようと思ってもう5年になる。切支丹灯篭のある等覚寺(きりしたんと直接関係はないだろう)や朝顔につるべとられて加賀千代女の井戸も近所。道筋右側に縄文遺跡跡が公園となって残っている。

海食崖上に縄文遺跡があるなんて東京では不思議でもなんでもない。貝塚もあった。

このへんではやたらと井戸を見かける。仰々しいものではなくこんなんが庶民の井戸だった。

亀塚まできた。もともとお屋敷であったところを公園にしてある。亀塚は今は都心に残る大規模古墳で有名だが、むしろ中世から江戸時代あたりまではその上にある社への信仰がさかんだったようだ。戦国時代は物見とされたようである。上ればわかるが小さい。でも、木々がなければ眺望はすばらしく見渡せただろう。この下は先ほどの八幡さんである。


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済海寺。これも確か移転寺である。ここあたりから北がだいたい切支丹処刑地として忌み地とされていたようである。広々として近代的な寺だ。人工的な趣すらあるが、ここは最初のフランス公使館あとである。だいたい大使が最初にあてがわれたのは寺である。

この先の墓地と東急の集合住宅の間に道がある、しかし今は閉まっていた。そこで墓地から行けないか・・・プリンス裏手の元和キリシタン遺跡まで・・・こころみた。そして、驚いた。

階段が途中ですっぱり切れている、そこには完全に切り崩された平地と、とてつもなくでかい建造物が構築されつつあった。

既に壊滅されているからしるしくらいしかないとは聞いていたが、ここまですっぱり切られてしまうと、もうなんだか・・・

不思議なのは崖の一角、雑木林の中に花畑が残されていたことである。ここには何かあったのか、「何かあるのか」定かではない。だが何かせつないかんじがした。この白い花々はひそやかに暖かく目の前の人々のいとなみを見つめている。古い三田高輪の雰囲気がここにかろうじて残っている。

ちなみにここのキリシタン殉教にかんする碑文等はまったく別の場所の教会内に建てられている。プリンス(当時)のこのあたりももともと寺であり明治のあとになって売られたところである。ホテルとしてはそういういわくいんねんめいた話は避けたかったのだろう。でも標識はあったというが。何はともあれ、削られ完全に消え去ったところで晴れて穢れが晴れたと考えるのがよいな。防衛庁跡地みたいな事故がなければいいのだが。

:正確な位置的にはブルーシートのあたりかと。

ちょっと戻って幽霊坂を覗く。脇に大正時代に作られたおしろい地蔵がある。


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綺麗なお寺さんがたくさんある寺町である。

坂を戻って、亀塚の先へ(品川側へ)。聖坂を下りる。


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左手が普連土学園である。ここも工事中でちょっとがっかりしたのだが、上高田に合併移転した功運寺(吉良家菩提寺で上野介さんの墓もある非常に格式の高いお寺)の跡地であり、「綱塚」があった。あとでも出てくるがこのへんは羅生門の鬼女の腕を斬りおとし酒天童子を倒した・・・全国渡辺家の元祖・都成り上がり東武士の代表格・・・渡辺綱ゆかりの土地なのである。そんなに広くない丘だが、綱の住居地だったといわれていた。綱塚は唯一の綱の遺跡と佐藤隆三氏が書いている。渡辺綱は元は源氏であるが十三で渡辺家の養子となった。剛勇で知られ頼光四天王としていろいろ活躍した後、家督を長女久に譲って生地の東にくだりここに隠居屋をかまえたという。綱の生地や屋敷跡というのはまた別に・・・まさに三田綱町という町名にもなっているが・・・あるのでこれから。ちなみに「三田竜谷山功運寺」は鬼平に出てくるから案外有名である。

:ここも削られたんでしょう。

:ゆるやかな丘陵になっている。

脇の潮見坂からは海が見渡せた。古屋敷も多く江戸土蔵なんかもあり、このあたりは戦争で焼け残ったようだ。れとろだけど、はいそです。

慶応の正門近くに出て左、ラーメン次郎を横目に突き当たって右折してさらに北上して行く。


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で、ここが綱坂。最初は広い車道だが、そのうち半分歩道のなかなか静かな坂になる。渡辺綱が生まれた場所が近かったことからこの名がついたという。そして、左手に三井倶楽部の敷地が見えてくる。柿が干してあった。こんな車通りの激しい道沿いに干して、体に悪くないんだろうか。こういう非公開の場所に私は非常に厳しいですw

そして右手のイタリア大使館も非公開なのだが、ここに池があり、大石主悦以下切腹の場所とされている。もともと松方公爵家の邸内で、綱の駒繋松という老松があった。門前に同時期のものであろう古木が見られる。

突き当たりの三井倶楽部前の綱の手引坂も綱幼少のころの伝説を持つ。

三井倶楽部も古いがこのへんはさすがにみんな古い建物が多い。しかし異彩をはなつのが隣のオーストラリア大使館の威容である。

この敷地内に綱産湯の井戸がある。綱の井と呼ばれる。水には恵まれていたこのへん最古の井戸とされている。江戸時代はものすごい水量でつとに有名であったという。しかし、

非公開であった。残念。

日向坂を下りると高速とその下に沈む深い河という暗さが一気に雰囲気を変える。この先が麻布である。


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都心環状線をとりあえず右折し永坂更級の工場を右手にのぼって入っていくと狭い麻布狸穴町。七不思議で知られた狸穴の場所である。六本木ヒルズを背景に沈んでいる。この古い雰囲気を意外ととられるかたは東京を知らない。こういうのが麻布あたりのもともとの姿だった。すべては再開発で変わった。辛うじて古い店や家が残る。無機質な建物の中にこんもりと木々が残る。
大きな地図で見る 狸穴公園である。

:狸なのになぜ稲荷。

この雰囲気がほんとの狸穴だ。

狸穴坂が見える。この下に「まみ」の穴があったといわれている。一説には古代の何かの採掘跡であったともいう。

:穴はこのあたりか?

ほんとはこの先にもう一箇所廻るところがあるのだが間違えていったん麻布十番に戻ってしまった。夜が近い。

十番稲荷を遠くのぞむ。がま池伝説にちなんだ碑文がある。昔フォローしているのでそのうち載せましょう。


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とにかく坂が多いのがこのへんの土地柄、しかも麻布十番は小さくて、ちょっと京都的な雰囲気のある坂が多い。

暗闇坂を上ろう。ほんとに暗闇になってきた。元麻布に入るとスケールが大きくなってくる。裏返しで昔はさびしい場所であった。


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4つの坂の頂点に、一本の松がある(地図)。焼けて戦後植えなおされたものだが、もともとここにあった一本松は七不思議のひとつだ。家康の時代に関が原から持ち帰られた首級がつるされた、もしくは埋められた「首吊塚」の名で呼ばれた場所である。

伝承によれば、女が立ち、誘われるままにいくとほうぼうを引き回されて、狐坂の下の溝にぽーんと放り込まれるという。狐坂はやや離れた場所にある。二本松というものもあり、一本松から二本松のあたりを縄張りとした狐がいた、というのが定説だった。暗闇坂から右に行く坂が狸坂だ。非常に雰囲気のある急坂である。

ここは古狸の縄張りだった。有名な話がある。この狸は人々をたぶらかして石地蔵や石塔を運ばせるのが趣味だった。もともとさびしい捨て子の多い場所でもあったのだが、とにかくオギアオギアと声がする、また赤子捨てかと夜道をゆくと果たして路傍に泣いている。かわいそうだと抱き上げるといつのまにか狸坂に来ている。ずしり。アレと見ると赤子は地蔵様に化けている、ありゃこれが狸坂の狸かと投げ捨てる。

今狸坂沿いには綺麗な教会があり今日も結婚式が行われていた。狸坂の昔も婚礼帰りに泥だらけの石を抱えさせられて衣装台無し、ということがあったそうだ。面白い因縁だなあ。結局坂には投げ捨てられた石地蔵や石塔がゴロゴロすることになり有名になった。狸だったことを確認した者はいないが狸ということになっている。今も気だけはいそうな雰囲気である。

だいぶ急坂を下り平らかになっている。この先少し左に折れて行くと狐坂である。

さきほどの狐がつれまわした男を捨てたのがこの坂下の溝といわれる。話だけを聞いていると現代都市伝説のようにも聞こえてくる。それが狐だとは誰も確かめたことが無いのだし。女は明治の初めまで現れた。港区は坂に悉く丁寧な標柱をつけて説明するのだが、ここはさすがに余り雰囲気が無いせいか標柱がない。


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ぐるっと戻って有名ながま池(蟇ケ池)に入る。路地の途中でわかりにくい。埋められたという噂だったのだがいずれマンションの中で立ち入り禁止なので確かめるすべもない。標識と暗闇だけ撮影。

不忍池より古いといわれる池で往古もっともっと広かった。ここの標にかかれた伝説が広く流布しているものだが、昔話として次のような異説もある。土地持ちの長者がいた。不意にやってきた不思議な小僧に「池を埋めないでいてくれればずっと家を守ってやる」と言われ、とりあえず蕎麦をふるまって帰した。そのあと長者のいない間に下男たちが子犬ほどもある大きな蝦蟇を囲んで騒いでいる。鋤を洗おうとすると飛び出してきて、打ち据えると何と蕎麦を吐き出したのだという。長者ははたと気がつくことがあり池さらいを止めさせて蝦蟇を丁寧に介抱して池に帰した。それからまもなく台風が来て、近所から長者の家に火がうつった。すると池から大蝦蟇が這い出し、ものすごい量の水を吹き出して消し止めた。近所の屋敷もこれにあずかり大いに助かった。長者はこれは律儀と蝦蟇をまつった。不思議とこのあとこの辺に火事が起こらないという。江戸時代にはお札や膏薬なども売っていた。幕末の「何でも流行神」の様相をていした話ではあるが(蕎麦は中世にこのへんに既にあったものなのか?)。
(後補)がま池を覗ける場所を教えていただいた;こちらの記事参照

仙台坂まで歩いて行く。広くて車どおりの激しい・・・暗い坂だ。動物病院の廃墟がある。平屋で昭和初期くらいのものか、なんとなくさびしい。仙台坂(仙台屋敷の林立した場所)の中ほどに開かずの門があった。その裏側の崖にものすごい椎の大木があった。ある晩、メリメリズシーンの音にみな外に出る。なんと椎の大木が風ひとつない中で根こそぎ倒れ、そこにものすごい大穴があいたのである。近い木もみな折れたり倒れたりしていて、天狗か竜の昇ったあとかと話題になったという。現代でも怪談が語られることがあるらしい。


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麻布十番に戻った。善福寺に行って驚いた。七不思議のひとつ、逆さ銀杏のある古刹、なんと裏に元麻布ヒルズのちょっと気持ち悪い姿が屹立して全く景色が変わっているのである。これも東京風景、しかしなんとも奇妙な光景であった。銀杏と山門とビルを撮る。


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さて、狸穴のところで行き忘れた場所があったと書いた。戻っていく。狸穴坂の脇の鼠坂というかわいい坂を経由。


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で、驚いた。

ここって昔、何気なく通りかかって、気になって写真撮った場所だ。

京都東山にならって三年坂と名づけられている。元は無名というが、下の谷の名をとって「我善坊坂」と呼ばれた坂で、某宗教施設がウラにあるおかげで奇妙に綺麗に石段で整備されてはいるが夜はさすがに暗くてさびしい。

郵便局裏の我善坊谷は昭和の香りがする。ここに萬屋という質屋があった。美しい娘お玉は番頭長次郎と通じていたが、この谷に棲んでいた今度は「古猫」がお玉を見そめてしまい、挙句長次郎に化けて寝間に毎夜忍ぶようになってしまった。お玉はもちろん気がつかないが、日に日に痩せ衰えて行くお玉を見て両親いたく心配。医者に見せてもわからずじまいでどうしよう、そんなある夜お玉の大きな叫び声に両親寝間に駆けつけると、どこから来たものか1メートルはあろう大鼠が、猫又の首根っこに喰い付いて大格闘中であった。そのうち鼠はどこへともなく逃げ去って、大猫は血まみれで死んでいた。

お玉に事情を聞いたところこれこれしかじかと白状し事の真相があきらかになる。見る見るうちにお玉の様態も良くなっていってほっとしたのも束の間、評判が広がるとお玉に婿に来るという男がいなくなってしまった。仕方なく番頭長次郎を無理に婿にしたものの、あとで生まれた子供は猫のような顔をして泣き声もまるで猫だった。このへんはひょっとすると病にからめた因果応報談かもしれないが、いずれにせよ大鼠はきっと質屋の蔵下に長年住んだ鼠で、恩がえしであったのだろう、といって麻布七不思議に入れられた。もっとも、現在の七不思議には入っているのかどうか、よくわからない。七十不思議くらい必要なんじゃないか、麻布って、というところで雨が降ってまいりました。

ほんじつはおしまい。お粗末。

<オワリ>