2005/6/18大江戸怪異くりきんとん
重箱突つきしたけどぽろっとこぼれたものがあった。黄金に輝くそれを少し拾ってみました。
・・・テレビを見ていると「番長連合」というゲームのCMが流れた。
番長か・・・気が付くと私は身支度を始めていた。江戸防衛の要となった家康の随臣たち、その屋敷が軒を並べ、現代にいたるまで東都東京の中心となっている土地、「番町」に行こう。今まであまり意識して歩いた事がなかった。江戸怪異という観点からちょいと廻ってみようじゃないか。
というわけでとりあえず丸の内線四谷三丁目駅に再び降り立った。こんかいは全て歩ける範囲である。時間が2時間しかない都合上またもや早歩きだが、のたのた歩くと排ガスで死んでしまうような場所なのでそれもよし。まずは外苑東通り、前に書いた俗称「鬼横丁」のなれのはてを望みつつ新宿方面へ。
:外苑東通り
:四谷大木戸方面。サンミュージックがある。この場所といえば古い人は何か思い出すものがあるだろう。
:新宿への入口となった四谷大木戸跡碑。これは戦後になって玉川上水の石樋が発掘されたものに刻んで建てたもの。実際はこの場所より四谷三丁目方向に大きくずれた場所にあったという記述があったが、幕末の切絵図ではほぼこの場所が大木戸の場所で間違い無いようだ。どういうことだろう。
この交差点を右折し靖国通り方面へ向かうところから始まる。
靖国通り手前に寅さんの墓のあるという源慶寺がある。どの墓かわからなかった。
靖国通りに行き当たったら歩道橋を渡り右折だ。
:禿坂をのぞむ
成女学園の古風な佇まいが目に入る。これがじつはラフカディオ・ハーン即ち小泉八雲が住んだ家の跡地になる。その中をつっきる坂道がすぐ見えてくる。これが蜘切坂である。
:薄暗いが建物のせいなのでそんなに怖くはない。けっこう急。
これが渡辺綱が妖怪を切りつけ引き摺って登った坂だというのだ。
それは平安の世になるからそうとうに古い。よって信憑性についてはなんともいえないところがある。この道は位置関係からいってハーンが「瘤寺」と呼んで親しんだ自証院の参道であった可能性が高い。自証院は登りきった右手にある。
:自証院。蜘蛛の妖怪の住み処があったところという。境内は狭いが雰囲気がいい。瘤寺の俗称の由来となった(現在の樹木がそうであるかどうかわからないが)いくつかの古木のでこぼこな表面が歴史を語っている。
この寺の境内に洞穴があった。妖怪を追って渡辺綱が駆け込むとそこに大蜘蛛の死骸があったといわれている。洞窟は潰されたが湧き出た水が「蜘蛛の井戸」として使われるようになった。井戸は失われたようだがこのあたりには明治まで清水が湧いていて、形だけだが池の跡があった。あるいはこれが井戸の末期の姿なのかもしれない。
:種子板碑。欠損しているが大きくて、鎌倉時代とかなり古いもので貴重だ。
左折して路地を降りると平坦な道に。これが今は坂としての勾配を失っているが「禿坂(かむろ坂)」。一説にはこちらのほうが本当の「蜘切り坂」とも言われる。かむろの名の由来は坂下に池があって「かむろ」の髪型の子供たちが群れ遊んでいたからといい、そこから河童がいたという話に発展している。
:禿坂。
ほどなく靖国通りに戻り再び東方面に歩き出す。成女学園の敷地に小泉八雲旧居宅跡の碑と灯篭がある。ハーンは結局開発に追われるように四谷のほうに引っ越した。四谷のほうが良く知られている。
靖国通りをずっと東へくだる。防衛庁のいかめしい姿を左手に見つつ(今でも江戸城を守っているのか)右手に濠が見えてきたところで谷筋から番町方面へあがる。
:外濠の水ゆたかな風景。市ヶ谷橋から。このあたりからの雄大な風景は江戸城内の雰囲気をのこしている。ここから番町の中心に入る感じ。
:市ヶ谷駅前から新坂(明治につくられた)を右目にちょっと左方向へ向かうと一本めの小さな坂が「番町皿(更)屋敷」縁の帯坂。
番町皿屋敷が播州皿屋敷の洒落というのはいわずもがな、全国に散ったお菊伝説のひとつがたまたま芝居になったので有名になったという次第。お皿を割ったお菊さんが青山主膳の手打ちを逃れ帯を引き摺りながら駆けあがったといういわくの坂である。お菊さんの亡霊が帯を垂らして出た場所とも言われている(井戸はほったらかし?)。たいした長さの坂ではない。江戸時代のうちから既に青山屋敷のあった場所すら明確でなかったというか、番町の武家屋敷は旗本の取り潰し引っ越しが頻繁にあった江戸後期にあってはもう一時の住人の正確な住所がわかっているわけもなく、この坂の名もいつまで溯れるものなのか、多分幕末くらいのものではないか。現存しないお菊井戸からはお菊虫という緊縛女郎の姿をした虫が大量発生して衆目を集め、中には捕まえて売る者まで出たという。岡山城のお菊井戸でも同じ現象が起こったといわれるが、結局これはアゲハ蝶のさなぎであった。長崎アゲハというから種類的に珍しかったのだろう。下屋敷の多い場所では流入動植物も多かったと思われる。
ちなみに皿屋敷というのは井戸から出てきたお菊さんが皿の数を数えて1枚足りないと嘆くというところからきていると考えるのが普通だが、マニアは更屋敷ととらえ誰も住まない「いわくいんねんの積み重なった(更に更に)」「空き地(更地)」のことと考えた。湿気のある皿状の窪地であるために元々住みづらい場所だったのだと言う人もいる。上古の掘兼井即ちまいまいず井戸のすり鉢形に通じる「超古い井戸のあった畏れの土地」という意味もあるかもしれない。井戸は上古より神聖なものとされてきた。零落の結果が亡霊噺に繋がっていると言えないこともない。井戸の神様の指が一本斬られてしまったというわけだ。
芝居では千姫が男を招いては淫欲のかぎりを尽くし、最後は男とその恋人を殺して井戸に放り込んだという嘘話で有名な吉田御殿があった場所であるために、千姫亡きあと長いこと草ぼうぼうの空き地、即ち更地であったという。その亡霊が出た井戸が再び掘り返されて青山の手にかかったお菊の投げ込まれるはめになった、そういう重ね(累)型の筋書きは仏教全盛の中生まれた「因果噺」の類型であり、根拠のない「てんこ盛り噺」の典型だろう。
ちょっと戻って新坂をわたりすぐ右側に三年坂がある。徳川の強権支配にストレス溜まりまくりの旗本屋敷町番町のバケモノ屋敷のひとつがこの中ほどにあった。本多氏後室円晴院が若い頃の心霊体験を伝えたと「梅翁随筆」に書いてある。殆どトリップしたような幻覚噺で、用人の顔が伸び縮みしたりいるはずのないところにいたり(あくまでこの人が主観的に見た所そう見えただけで用人は怪訝だったろう)陰火があがったりなどなど結局引っ越したというが、好意的に見れば異界への入口がここにも顔を出していたということか。このあたりで私はヘッドフォンを外し耳を澄ませ匂いを嗅いだ。どうしてそうしたかはわからないけれども、これ以降そういうセンサーが役に立つような気がしていた。
戻って靖国通り沿いのドトールで一服。小さな旗本屋敷が並んだこの並び、今も小さな鰻の寝床がたくさんある。そこでちょっと下級武士気分でお茶を飲んだ。古い住人たちの噺をBGMに、なんとなくいい。
:旧健和ビルあたり、切絵図ではこのへんに御手洗の名が見える。
:東都番町大絵図によるとこのあたりが御手洗屋敷だったようだ。これが有名な「足洗い屋敷」の御手洗家かどうかはわからない。多分こんな狭い小役人の屋敷ではなかったとは思うが、なぜ今ぼこっと「更地」になっているのか、ほんとだったとしたら未だに怪異が棲んで建築を拒んでいるのか。ちょっと面白いな、と思った。
足洗い屋敷とは、突然天井から毛むくじゃらの大足が落ちてきて洗えという声がする。洗ってやると引っ込む。翌日また出てくる。日課である。象徴的な意味を孕んでいるような気がする。いささか不自然で突拍子なさすぎるからだ。妖怪といいつつ、天井裏をアジトとしていた大盗賊とかそのへんが正体だったのではないか。
ちょっと空気が違うのが気になった。森閑というか、ビルの間だからそう思っただけかもしれないけど、悪い感じではない。
:小屋敷街のすぐ向こうの坂をのぼって東郷公園の前に出る。前の坂が東郷坂。このあたりは女学生と幼い子供連れが多い。怪しい男と思われたらいやだなー、と思いつつ歩を進める。まず左折し三番町側に向かう。。
:すぐに左手に簡素だが雰囲気的にきりっとした社が見えてくる。二七不動尊だ。
:恐らく近世の作だろう。
:鰻の寝床のような境内に何故か切支丹灯篭二基と石塔の頭だけが飾られている。ちょっと立派な織部灯篭なので見ておいて損はない。とりわけ立派な赤石の灯篭はしっかり頭(火袋は失われている)にラテン文字らしきものが刻まれている。石仏とされることもある人物像もあきらかにキリスト教の聖徒の姿を模している。いいのか?と思うが江戸時代(〜明治前半)はそもそもこういうことに無知で偏狭な人が支配階級にいたため、家光時代の取り締まりのような「専門摘発官」の必要のなくなった後期においては誰もわからず気にする者もいなかったのだろう。元々ここにあったとは考えづらく発掘されたものであるかもしれない。花街の芸妓があげたものだろうか、あきらかに切支丹を信仰して造ったものではなく、西洋風で面白い様式として珍重されただけにすぎない。
:本多屋敷あたり。
この向かい側やや東に行った辺に切絵図によると本多屋敷のひとつがある。本多家はたくさんいたし、後述の本「田」家は引っ越したというから別の家だと思われるが、いちがいにここでないと決め付けることはできない。東郷坂周辺でホンダ姓の家屋敷はここぐらいだ。江戸時代の地図は不正確といわれるがこのへん東都の中心地は結構正確に書かれているように思える。
さきほどの交差点から向かいに降りる東郷坂*沿いにあったという「本田家」の旧宅は通称「狸屋敷」という廃虚、狸がとりつき本田が引っ越してのちは火の玉が舞い入道が出たという。狸ばやしも聞こえたというが近隣からお囃子くらいは聞こえてきそうな場所ではあるので、家屋敷の壁に反響してそういうものが聞こえたにすぎないか。今現在はむしろ母子が群れ牧歌的な雰囲気が感じられるが裏腹に陰うつさもつきまとい(公園が鬱蒼とした森林であるせいもある)、個人的に今回いちばん気持ちの悪い場所だった。というか、多くの人の積み重なってきた場所、凄く昔からの人の密集する匂いがして、ヘキエキというか、物理的に気持ちが悪くなったのである。人ギライな人には向かない空気の土地です。
*日露戦争後東郷元帥凱旋を記念して命名した坂。邸宅跡、即ち区立東郷元帥記念公園の脇の坂である。武家屋敷間を南に降りる切りとおし坂で、長い起伏を伴う法眼坂の最初の下り道にあたる。法眼坂の名は明治まで使われた(現在は南端の坂が南法眼坂という名で呼ばれている)。法眼坂までの濠端からの上がり道は後年整備されたもの。
:東郷公園の力石。重さがだいぶ水増しされて刻まれている。
比較的大きな屋敷が軒を連ねていた二七通り、翻ってちょっと東へ向かうと大妻通りに行き当たる手前に塙保己一和学講談所あとの碑がある。塙保己一は国学者で、4男の塙次郎は東都番町大絵図に名が載っているが、尊皇派長州伊藤博文(俊輔)らに誤解のうえ殺された。車通りが激しいが古い雰囲気の場所である。そこに振り向いて北へ、靖国神社側へ向けて小道が通っている。大通りが交わるその三角形の先を縦に斬るけっこう広い路地だけれども、これが禿小路である。正確にはこちらからの入口一区画の部分をいうようだが、明治時代には芸者横丁と呼ばれ今も花街の雰囲気の残る場所である。ここでうろうろしてたらおじいさんに声をかけられた。女学生の多い土地柄である、不審がられたのかもしれないと苦笑する。
:塙家跡
:禿小路
:ここに禿のバケモノが出没したという。かむろという名前がここでも使われているが、花街になってあとの名称としたらふつうにかむろがいても不思議はない。
:花街の風情僅か残る。
二七通りを戻って左折、東郷坂を降りる。坂はすぐに底につき上がる道は行人坂。
:行人坂
ずっといって南法眼坂の手前を右折して番町中央通りに入る。この道は二番町から麹町六丁目をつなぐ広い道だが、ゆるやかにくだりのぼっている。このゆるやかな底あたりが地獄谷と呼ばれた場所。白骨散乱し江戸の陰を象徴するような陰気な土地であった。
:振り返るとやや下っているのがわかるが、もうかなりならされてしまっている。あるいはこういうだだっぴろい窪地だったのかもしれない。新宿通りを渡り、上智大学のへりをさらにまっすぐ下る。このあたりにくるとまた別の匂いがしてくる。壮大な明治からの夢が広々とした建物群に結実している。下った先右手に急坂。ここを登る。
:紀尾井坂(きおいざか)。紀伊、尾張、井伊の大屋敷の頭文字をとったといわれる。大久保利通が坂下で殺されている。
:のぼりきったところで左手に大きなホテルニューオータニを見つつ弁慶濠を渡ると外堀通り、目の前は赤坂御所の壁。左手には高速道路の高架と弁慶濠の深い水、そのむこうの井伊家中屋敷跡から溢れんばかりの緑が迫り、その上に聳えるタワーの数々がガイジンの初めて見る過去と未来の混在した東京風景の典型を示している。東京暮らしなら一度は目にしておきたい、いい意味でも悪い意味でも豪快な東京の象徴である。
この左折して下る道は紀伊国坂。広い道はかつては御所と濠の間を走る閑散とした道であった。ここに「むじな」が出たとはハーンの話。
ほどなく地下鉄赤坂見附駅の入口があらわれる。ああ疲れました。排気ガスまみれになりながらも、普段目にしている風景を足で繋ぎ合わせ、江戸の幻像を見ることのできた2時間でした。