<東京窟めぐり5>

吉見百穴

吉見の百穴、関東在住の方なら一度は耳にしたことがあるでしょう。古墳時代末期から奈良時代にかけて、大和朝廷の勢力拡大に伴い地方に広がった「群集墳(舌状台地などのちいさな尾根筋に、きわめて小規模の円墳もしくは前方後円墳が並ぶ。地方豪族の一族墓などとされる)」、その最も簡略化された埋葬形態として、「横穴墓」があります。崖地にせいぜい3メートルほどの横穴を穿ち、古墳の石室を真似て整形しただけの墓なのですが、羨道が屈まないと入れないほどに小さいことと、大きな群れをなすことが多いことから、明治時代日本考古学の曙には、先住民族の「コロポックル(小人)」や「土蜘蛛」の住居あとと考えられていました。当時恰好の研究材料として、また議論の的としてクローズアップされていたのが、埼玉は比企丘陵にある「吉見の百穴」(写真右上)だったのです。早くから表土が洗い流され、木々に覆われることも無く、300余りの小穴が蜂の巣のように露出していたために、古より人々の珍奇の目を集めていました。天狗の穴とか、龍神の昇ったあと、雷さまの穴などと呼ばれていたようです。現在これだけの規模のものが開発に侵されず維持されている例はあまり無く、戦前から今に至るまで、近在の学校の課外授業にもよく取り上げられるものとなっています。バス停からすぐ右側(写真左上)、バルコニー付きの穴が穿たれた一種奇矯な雰囲気の崖地は、近在の高橋峰吉という人が、明治から大正にかけ20年余りかけて掘りぬいた通称「岩窟ホテル」で、当初日本初の洞窟ホテルとして設計されていたものですが(2階建てで地下プールもある)、これなど明らかに近所の「吉見の百穴」人気にあやかったものでしょう。完成はせず荒廃し、現在は崩落の為立ち入り禁止です。十数年前までは入場料を支払えば中を見ることができたのですが・・・

話しを戻します。型式分類を行うと、いくつかの特徴的な形式が何段にもわたって整然と配列されていることがわかり、それぞれの形態の変遷までも追うことが出来(初め(上段)は1人1人について立派な墓穴を彫り込んでいたもの(写真右中)が、しまいには何世代の何体もが同じ穴にせせこましく埋葬されたり、もしくは古い穴を整形し直して再利用するようになっていったことも、出土遺物などから推定されています)、複数の世帯が数百年にわたって共同で守り続けてきた墓域であることが推察されます。共同の排水溝や墓前道も敷設されておりました。おしなべて簡素な遺物や、中央の記録にも全く残っていないことから、一般には権力者階級ではなく民衆の墓と考えられていますが、あくまで推論にすぎません。なにぶん証拠の乏しい謎の遺物といえるのです。

横穴墓は全国的に様々な形のものが存在しています。熊本辺りの武具や人型の彫刻を施した立派なものや、大和近辺の殆ど古墳の石室と変わらないもの、南九州から海伝いに茨城まで分布する(神奈川の船の線刻を施した横穴など、海と横穴墓は関わりが深いようです)目にも鮮やかな赤でプリミティブな絵画を施した装飾墓、東京周辺でいえば、羽子板のような平面を持ち、壁一面に蛇腹状の彫り跡を残した洞窟状のもの(神奈川から多摩川周辺に多い)、短い羨道の先につるりとしたドーム天井を持つ円形の部屋を彫り込んだ、「胎内」に近い形式のもの(房総に多い、これは規模こそ違えど琉球の亀型の墓や海辺の崖に穿ち込んだ墓穴を想起させずにおれません)など、また時代と型式の幅を広げれば、海辺の崖に穿たれた自然洞や鍾乳洞を利用して埋葬された例が挙げられます。仏教普及に伴い支配階級で小規模な火葬墓が主流となった久しく後に、改めて新たな支配階級となった中世武士の質実な墓制として、鎌倉から内房にかけて集中的に作られた、所謂「やぐら」という、見た目は非常に横穴墓に近い墓穴もその範疇に入れて良いのかもしれません。ちなみに「やぐら」は山中崖地に極めて密集して存在するところも良く似ています(歴史資料が全く残っていないところも)。横穴墓を流用している例もままあり、墓穴としてだけではなく、崇拝施設、つまりは私的な「仏殿」として壁面に仏彫や仏影を施した例も多くあります。それが後世の人によってさらに拡張されたのが、別記した地底伽藍の「田谷の洞窟」などとなるわけです。

また話しが外れましたが、百穴入口バス停より(東武東上線東松山駅から歩いても、たいした距離ではありませんが)緑深い野道を歩むうち、おもむろに飛び込んでくる百穴の異観には実にロマンを掻き立てられます。学術的うんぬんは別にして、コースにしたがい思うが侭に循環し、入れれば中に入ってその異界性をたのしむのがよいでしょう。壮大なモグラ叩きができそうですが崩れて危ないので止めましょう。珍しい「ヒカリゴケ(ガラス質の組織を持ち僅かな光できらめく天然記念物)」が生えている穴もありますが、ロマン派の方は幽かな緑の光群に古の死者へ想いを馳せるのも一興。一番下にひときわ大きく口をあけているのは、先の戦時中の地下工場あとです。こういったものは市ヶ谷駐屯地をはじめ神奈川は日吉、観音崎、猿島などいくつかあるのですが、自由に入れるところはあまりありません。決して良い心地はしない場所ですから早々退散です。

吉見百穴に至る初めに右脇に見えるは岩窟ホテル、そのすぐ先に「岩室観音堂」なる趣のある建物があります。崖地の岩穴(切り通し)に引っ掛かるように建てられた御堂には、胎内くぐりなどの趣向もあって、神秘を秘めています。それもそのはず、裏山に築かれていた「松山城」の門の跡に建てられた、いわば戦国時代の残滓なのです。城自体は空掘や土塁しか残っていません。御堂横の小洞には四国四十八ケ所石仏が密やかに息づいています(写真左下)。

吉見より北向き地蔵、安楽寺(吉見観音、板東三十三霊場)、息障院(頼朝弟範頼の吉見御所あと)をたどって八丁湖へ至ると一息つけます。暖かな日はじつに気持ちの良いウォーキングが楽しめるでしょう。ヘラブナ釣りやボート遊びの家族連れを尻目に北側へ回ると、吉見百穴同様明治時代より考古学界に知られた「黒岩横穴群」があります(写真右下)。規模でいえば吉見のものに全くひけをとりません。木々に覆われているぶん保存も良いといわれていますが、本格的な調査はかなり昔に行われたきりで、未発掘のものが多く見学には少し難儀するかもしれません。ここからさらに北へ向かうハイキングコースを辿り通称「ポンポン山」の奇状(高負彦根神社の背後にある20メートルの丘で、頂上で足を踏み鳴らすと「ポンポン」空洞があるような音がすることからそう呼ばれている。古墳の石室があるのかともいわれたが、実際は他でも似たような例がみられ、今では目の詰まった金属質の岩盤があると考えられている)を確かめて、一日の散歩を終えてください。7キロ歩いたのだからもう夕方でしょう!・・・

吉見百穴は入場料が必要。5時半で終了します。