2006年4月3日

自由が丘の女


私は東京都目黒区自由が丘のそばで生まれ育った。この地域は元々広大な麦畑と川・沼地に彩られた東京郊外の田舎であり、その面影は自由が丘の中心部でこそ殆ど残っていないが、世田谷区側には寺地や古墳群や公園、共同農場、等々力渓谷などの残滓がある。等々力渓谷はかつて心霊スポットとされたこともあり、古墳時代の横穴墓群が分布し不動下の滝は修行場として往古より今も使われていて、知らない人からすれば若干背筋の寒くなるような雰囲気の場所となっている。いわば東京という大都会から離れた武蔵野の趣を強く残している。以前二次資料より同名の怪談(と言うには余りに短いものであったが)を転載したが、今回は最近よく引く田中貢太郎氏の日本怪談実話よりかなり古い話をみつけたので引く(貢太郎怪談集は何度も別の名の書にまとめられており、この話も他名で出ている可能性も有る)。自由が丘のあたりは衾村と呼ばれていた地域でもあり、もちろん妖怪として知られる衾とは異なるとは思うが、往時かなり淋しい畑中の住宅地(中心部は沼地)だったことを念頭に置いていただきたい。例によって抜粋編集しております。

タクシー運転手の慎次は夜半過ぎ、芝増上寺山内の停車場に白いものがふわっと揺れるのを見た。それは女の青白い手であった。22,3の女給ふうの女と見て車を寄せると、「自由が丘へ行ってよ」と言う。扉をあけると滑り込むように乗りこんだ。「目黒の向こうですね」「そう」走り去る間際、向かい側の交番から巡査が出てきて首を傾げるのが見えたが特に気には止めなかった。高輪の札の辻へ向かい右へ折れて目黒へ急ぐ。名光坂にさしかかったところでバックミラーを見ると女はシートに身をもたしたまま真紅の口紅をつけた唇をだらしなく開けていた。目黒の競馬場を過ぎ鷹番の手前で「自由が丘のどこですか」と尋ねた。女は眠っているようであった。道は林に突き当たり、右に大きくカーブした。暗い林をヘッドライトが左から舐めていく。不意に後ろから首筋を掴んでぐいと引っ張るものがあった。驚いて振り向いた慎次の目に写ったのは、真っ赤な口を大きく開いた女が今にも飛びかかろうとしているところであった。慎次はわっとそのまま気絶した。車は路傍の杉に衝突し停まった。(「自動車に乗る妖女」より)

江戸郊外の景勝地で知られた目黒から南西の自由が丘まではこの話しの舞台である昭和初期には林が多くかなり淋しい地域だったという。今でも目黒には自然教育園や林試の森など緑が多い。競馬場の跡も地名と大きくカーブする道の形として残っている。狐や狸が多く棲んでいた土地がらであり、この妖女もあきらかに狐様の描かれ方をしているが、そういえば同書に王子稲荷の「消える青年」のタクシー怪談も収録されている。ちなみにこの運転手は最初麻布にいたと書かれている。明らかに麻布の狐狸話を意識している。貢太郎は東京の最後に名刹円融寺そばの碑文谷に住んでいた。碑文谷も寺や伝説の多い目黒の一角である。自由が丘同様高級住宅地として計画的に新興開拓された場所であり元々は起伏の多い入り組んだ自然の残る古い土地であった。碑文谷の名の由来は今も残る碑文の刻まれた板碑が発見されたところからきている。この板碑にもミステリアスな伝説があったと思うが忘れた。