2006年03月06日

京都大学の祟地蔵

これは祟地蔵とよばれた石仏の話である。

大正八年京都大学は動植物学教室建設のため百万遍知恩寺の東方白川街道に沿った土地を購入して地ならしをした。すると土中より石地蔵がたくさん出た。土方たちは「石地蔵では石垣にもならず漬物石には勿体ない、こないな物は捨て場に困る」と云って構内の隅っこに投げおいた。上に腰掛けてのんきに弁当を食う者や、勿体ないと云いながら小便を引っ掛ける者まで出る始末だった。すると工事請負人の小島某が容態の判らない急病でころりと死んでしまった。石地蔵の祟りじゃないかと云いだす者もいたが大学はそんな馬鹿なことがあるものかと一笑に付した。

工事はどんどん進み木造の立派な洋館が出来上がった。

その建築にたずさわっていた大工の棟梁の服部というのが死んだ。つづいて土方の某が死に、それから大学の建築部長山本治兵衛が死んだ。会計課長の今井と云う者は出張先の樺太で死んだ。出入の巷は祟りの噂でもちきりとなった。一人の商人が紀伊郡櫓大路村の稲荷下げの婆さんの家へ駆けつけた。

御年八十あまりという。

「あれは石地蔵というても大日如来さまぢゃ、大学ではお祭もしないばかりか尿までかけたりするからたいそうご立腹である。まだ六人まで命を獲ると云うてござる。一日でも早くお祭して特に水は毎日お供えせんとなりませんぞ、それにまだ古狸が二匹おる。義春、三九郎と云う。これもよくお祭りをせぬと怒っておる」

こりゃ大変だまだ六人が死ぬ、誰しも命を獲られるのは嫌だ大日如来をお祭りせねばと商人、京に戻り動植物学教室の建設の中心となっていた池田教授に相談を仕掛けたが、

「ほう、そうかそれゃえらいこっちゃが、まさか大学では、ね、君たちで勝手にやるが好いよ」

と鼻先で笑った。僅か四五日後、池田教授は大学病院で死んだ。教授陣はこれは迷信だと笑っていられないとなり、小川、川村、郡場、小泉の諸教授が若干の寄付をして、商人も金を出して構内東南に二坪程の台場を築き、それに石地蔵を並べ、狸の祠も作って花や餅や赤飯を供え、厳かに祭典を執行し、毎年盆の二十八日には例祭を行うこととなった。以後変異は起こらなかった。

***

京大医科が設けられて間もない頃の話であるが、吉田町は畑地で、百姓が野菜を作っていた。ある日一人の農夫が医科構内を覗くと空き地に石地蔵が台もろともほうり出してある。いらないものならもらおうかと、人を頼んで家へ運び、石屋に交渉して穴を穿ち手水鉢につくりかえて便所の入り口に置いた。

それから十年ほどのうちに、百姓の家は皆死に絶えてしまった。

親類縁者が集まり原因を評議しているうちにふと手水鉢のことが話題にのぼった。

「彼の地蔵さんを、手水鉢にしたんやで、一家がこうして死ぬるんやろ、恐ろしいことや、はよ返さんとあかん」

石地蔵は京大に運び返された。

医科大学のほうではそのままにしてほうっておいたところで、誰云うとなく

石地蔵のそばの草を刈ると祟りがある、

掃除夫のだれそれは病気になった、だれそれは負傷した、いろいろな風説が生まれ来た。学長はそのとき伊藤隼之博士であった。石地蔵の近辺が草ぼうぼうで見苦しい、刈り取れと命じた。掃除夫は困って祟地蔵の由来話をした。博士はせせら笑い、ここを何処だと思う、最高学府だぞ、俺が保障するから刈ってしまえ大丈夫だと言いつけた。

「言いつけで仕方なしにやる事だから、耐えておくれやす」

掃除夫は三拝九拝して草刈にかかった。

掃除夫には何もなかった。伊藤博士の夫人が俄かに病死した。

それみい、と学内にその噂がぱっと拡がったがやがて消えた。草っぱらに石地蔵を捨て置くは困ると大学が云いだした。小使たちは気味が悪いのでお詫びしてから槻の古木の根元へ地蔵を運び置いた。

槻はいつの間にかその石地蔵を抱き抱えて、半ば巻き込んでしまった。

その一方、槻の一枝が医科の事務室の軒先を覆って室内を暗くした。事務室ではその枝を刈りたいが刈れば地蔵が祟ると思うので誰も手が出せない。学部長始め事務員たちは相談の結果出入りの植木屋の山本某に頼むことにした。嫌とは云えない山本は自分が命をかけて伐りましょうと、七日間の間、若王子の滝で水垢離をして、それから念仏を唱えながら邪魔になる枝を払った。何の事もなかった。

大正十二年のことであった。

(「日本怪談実話」田中貢太郎より抜粋編)


〜京大にまつわる二題であるが今は定かではない。京都はあまつさえ石地蔵の出土が多い。鴨川河原に屍骸を捨て置いた平安の昔から小石仏が作られつづけ、余りに溜まると化野念仏寺のような場所にまとめて祭ることが繰り返されたのである。最後に「祟りの終焉」がえがかれているのが面白い。木に巻き込まれた仏の話は東南アジアから江戸まで比較的多い。忘れ去られた時代に切り倒した木の中から石仏が「顕現する」というのもありふれた話である。そもそも木の霊性に仏をたくすというのは神仏習合の日本らしい伝統的な方法である。