明治22,3年の頃、函館の立待岬から男女が身投げした。

男の屍骸は翌日あがった。

女の屍骸があがらない。

女は泳ぎ、生き延びて、五稜郭そばの網元に妾として入ったのだった。

網元は先妻をなくし子ができれば正式に本妻にする心積もりであったという。

三年ほどして女の腹が膨らんだ。網元は喜び医者に来させた。しかしそれは妊娠ではなかった。

腹は日に日に膨らんでゆくが函館じゅうのどの名医を呼んでも手の施しようがないという。女は奇病を得ていたのだった。

女は米といった。

米は死んだ。

主人は嘆いたが跡もない。火葬場には新吉という男がいた。弟だという。だがそのじつ、土地の者に嫌われていた札付き者で、米の実の情夫であった。

積み重ねられた薪の上に腹の張った屍骸が置かれた。集雲の念仏の中、隠坊が火をつけた。

薪から薪へと火がうつり、女は遠巻きに、男ばかりが間近でそのさまを見守った。

しかし屍骸が燃えない。

隠坊は次から次へと薪を加えるが、五、六十本加えてもなお、屍骸は焼け果てることがなかった。そのくらいの薪があれば普通は完全に焼ける筈である。炎に包まれ膨れた胴だけが、手足は焼け落ちたというに、ぷくりとのこっているのだった。

隠坊はもう用意した薪をすべて遣ってしまったとあって焦った。そのあまり、おもむろに傍らにあった猟師用の手鍵を執ると腹めがけて打ち込んだ。

ぼん!

破れた腹からぬめぬめした巨大な蛸が飛び出した。まっすぐ新吉目掛けて飛びつくと、毒々しい黒い液を吐きつけた。「達磨の新公」の顔から胸のあたりが真っ黒に染まる。新公は悶絶した。

隠坊が慌てて手鍵で蛸を打ち据えると周囲の男も寄ってたかってこれを叩き殺した。そして屍骸のほうに一緒に投げうち薪を加えると、今度はまるきりすぐに焼けてしまった。

・・・

数日がたった。網元が火鉢にあたりうつらうつらしていると、米の姿が見えた。何かしきりに云って、謝っているようだった。はっとして眼を開くと部屋に人が飛び込んできた。新吉が悶死したという知らせだった。

・・・

新吉の悶死についてはいろいろな噂がたった。

米のはじめの投身のことである。

これは新公の仕組んだ芝居であった。

米は茨城の水戸の生まれで水泳の心得がある。

投身と見せかけてそのまま沖へ泳いで往き、新公の小舟に乗り込む寸法であった。

だが一緒に投身した海産問屋の若旦那、山下忠助もまた水泳の心得があったのである。

自然に浮いた拍子の若旦の眼にうつったのは米が小舟目掛けて泳ぐところであった。

火のように憤った若旦は米を追っかけて往った。すると新公と米は舟の上から舟板で、顔と云わず頭と云わず、さんざんに撲りつけて沈めたというのであった。

(伊藤晴雨氏談、「日本怪談実話」田中貢太郎より抜粋編、原題「妖蛸」)


〜つかその若旦那を打ち据えた現場を誰が見てたの?

明治の怪談にはこのての芝居がかった話が多い。ただひとついえることは、水死人の腹わたは海のものにとっては大好物であり、蛸のようなものが入り食い尽くすこともあるということである。この米が生きてあがったのか、そこからしてどうも臭い気もする。しかし話したのが伊藤晴雨というところが愉快ではないか。怪談好きだったようである。この本には非常に面白く珍しい話が満載してある。