小判の火の玉

金の話にゃ目がない私。
そこで金霊の話をひとつ。元話は耳袋だったか?

この話は寛政頃あった話で、神田紺屋町に住んでいた音七という正直爺が、花房町の古道具屋で車長持を見付け、五百文で買ってきた。車長持は明暦の大火後一時江戸で流行ったもので、長持に車を四つ付け、不時の場合に引出すに便利な様に作ったものであるが、この時代にはもう廃れていた。音七が車長持を買ってからというものは、夜になると、音七の家から火の玉が尾を曳いて飛出す、曇ってドンヨリした晩などは、十も二十も次から次へと飛出すので、之れが大評判になって、毎晩火の玉見物に物好きな連中が家の廻りを取巻いてワイワイ騒ぐ。火の玉の方では遠慮なしに飛廻るので、あそこは幽霊長屋だの、昔首縊りがあった所だのと、イイ加減な噂が立ったので、音七も気味悪くなって居堪らず、その車長持に家財道具を入れて四谷へ引越した。もう大丈夫と音七は安心していると、その次の夜又も火の玉が飛出した。家の勝手が違った為か、火の玉は消えたり出たり、車長持の廻りをグルグル廻って歩くので、音七は又も吃驚、これは何か自分に祟るものがあるに違いない、若し祟るとすれば、この間買った車長持に違いないと考え、早速花房町の古道具屋へその引取り方を交渉に及んだところが、引取るどころか、剣もホロロに断られて終った。仕方なしに音七は、その車長持を縁側に持出して、だれか貰手はないものかと一思案している所へ、唖の子供がやって来て、長持の底を頻りに叩いて居る、音七は何気なく底をいぢって見ると底が動くので、引外して見ると二重底になっていて、驚くなかれ、山吹色の慶長小判が列べてある。取出して算えて見ると而も大枚五百両あった。火の玉の原因はこの小判に違いない。こんな化物ならば驚く程の事はなかったと、生来正直者の音七は、早速町役人を通じて奉行所に届出た。奉行所では御勤役筒井伊賀守がお掛りとあって、取調の結果元の所有者不明というので、結局音七にお下げになったというのである。(佐藤隆三「江戸の口碑と伝説」旧仮名等は現代語に直しました)

金にゃ目がある、穴明き銭にゃ霊力がある。増して金板小判となれば火の玉も吹けば子供も寄る。江戸時代にはこんなもんがウヨウヨ飛んでたのかあ。いいなあ。口のきけない子供が出てくるところとか、江戸噺の定石を踏んでいるとはいえ、素直に愉しんでおきたい話です。この本は好事家には人気、前半の東京あやしげ旧跡案内、後半の江戸怪噺どちらも豊富な知識や文献に拠った楽しい読み物になっています。