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ツタンカーメンの知られざる呪い

 

ツタンカーメンの呪い、それは墓荒らしに対する死者の復讐として今や最も有名なものとなっている。しかし実際にはこのツタンカーメン墓の発掘にあたって人が次々死んだというのは過剰に演出されている要素があり、それほど頻発したというほどでもなく(当の本人は生き延びたのだから!)、また未知の細菌である可能性などいろいろな説が浮上しており、またつい最近のミイラの詳細な調査にあたって誰も死んでいないという事実もあることから、眉唾の可能性が高いと考えられてきた。

でもじつはツタンカーメンは人知れず祟っていたのである。これはまたもやX51からの二次引用ですが、よろしければどうぞ。全文はこちら

ツタンカーメンの呪いの指輪 - 南アの女性が返還を申し出る



【IOL】南アフリカに住む女性がツタン・カーメンの墓から入手されたとされる指輪(写真)のせいで、家族らを失ったとし、指輪の返還を申し出たとのこと。「彼女は指輪が災厄をもたらすとして、我々に返還を申し出たんです。」エジプト考古物学会会議長のシャリエフ・スバシエ氏は語った。彼女が初めて手紙を送ったのは2004年のことである。手紙には、女性(匿名)はツタン・カーメンの呪いによって家族を失い、自身も身体に痛みを感じているため、宝石を返還したいと書かれていた。しかし手紙に記された住所は判読できず、学会側はどうすることも出来ず、しばらくの間、話は膠着していたという。しかしその後、手紙のことを新聞社が報じ、郵便番号などから女性の住所が突き止められ、返還が行われる運びとなったのである。

この指輪の入手経路について、女性は手紙に次のように記している。「このスカラベの宝石は1960年代、親戚の女性から譲り受けたものです。そしてその女性によれば、もともと指輪は、1920年代に船長であった彼女の夫が、カイロの賭場で入手したものだと聞いていたそうです。彼女の話では、そのとき、賭場にはツタン・カーメンの墓発掘に携わる考古学者が参加しており、賭けに買った彼女の夫はその考古学者から掛金の代わりとして、その宝石を手に入れたそうです。

そしてその後、男性は南アフリカに帰り、娘に指輪を託したのち、ヨーロッパへ出航したんです。しかし、そのとき、船は沈没し、彼女の夫は溺死しました。更にその指輪を手に入れた娘も、白血病で21歳の若さでこの世を去りました。

また私に指輪をくれた女性、彼女は私の義母の従兄弟なんですが、彼女はそのとき、娘の遺品として、宝石箱の中から選らんでそれをくれたんです。そして今から30年前ですが、私はケープタウンの文化博物館に宝石も持って行き、その真贋を見てもらいました。結果、宝石は紀元前2000年頃のものだと言われたんです。私はうれしくなってそれに金の台座をつけて指輪にしたんです。

それからしばらくの間、私はそれを定期的に身に着けていたんですが、それから18年後、私の娘は21歳の若さで事故死したんです。以降、私は指輪をつけることを止めました。彼女の享年は私に指輪をくれた従兄弟の娘と同じ年だったんです。私はそれで恐ろしくなりました。

また私の娘が死んだのは、私がある日、指輪をディーラーに売ろうとしたその翌日のことでした。私はそれから、指輪を銀行の金庫に預け、エジプトから代表団が来るまではそこにしまっておくつもりです。」

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墓を暴いたところ呪いが降りかかったという「事件」は何もツタンカーメン墓ばかりではなく世界中で起こっている、とされている。東欧でも日本でも起こっている。日本で有名な事件はあえなく解体されることになった高松塚古墳の発掘に関するものだが、東京都世田谷区の野毛大塚古墳の奇怪な事件も有名だ。明治30年というからもう20世紀も近いころ、当時普通の土塚と思われていたこの小山の山頂を近在の三人の若者が戯れに掘ったところ、武人の石棺が出た。普通この頃(5世紀前半)の地方族長墓は木棺だが余程貴人だったのだろう、丁寧に粘土郭で固められた箱形石棺内は朱塗りにされ、更に木棺を入れてそこに葬られており、重層的な棺作りはちょっとツタンカーメンぽいか。話によれば綺麗に残った人骨のまわりに夥しい副葬品が見られたそうである。日本のような湿気の多い土地で人骨が綺麗に残るのは極めて珍しい。

:野毛大塚古墳全景。南面のみが綺麗に刈りそろえられ、二つの造り出しに円筒埴輪が並べられている。少年野球団が昇り降りのトレーニングをしている。とても鎮まっているようだ。

三人は恐れ周りにふれ回りこの件はかなりの話題になった。帝室博物館学芸員によりさっそく調査がなされ、そのときに出た模造刀子などは東博で見る事が出来る。だがこのあと、いくつか説はあるのだが、石棺を鉄の鏝で開けた二人は発狂(その後自殺したとする説もあり)、残る一人は墓穴の中で割腹して死んだ。伝説には一人が行方不明になって探したところ、墳頂の盗掘穴の中に座しているところが見付かった。その穴からはが大量に吹き出ており、若者は両手に血を擦り付けながら謝罪を口にしていたという。引き上げられてのち程なく血を吐いて死んだそうだ。その葬式のさい、更に頭痛に見舞われる人が出るなど強い呪いが降りかかった。関係者にも病人が続出するなど後々まで引いたそうである。

:とても広い円頂部。ここに社があった。手前の白い部分が明治時代に石棺が見つかった個所を示す。棺自体はとても小さいものだ。血が吹き出たときはもうちょっと広く掘り込まれていたはずである。向こう側にあと3つの棺室の所在を示す白い部分が見える。見た通り、手前の棺室に比べてかなり大きい。中央が「主」だと思われる。

ということで、つい15年くらい前に慶応大学などが調査に入るまで再発掘されないままにされていたのである(ちなみに呪いはなかった模様)。戦中戦後は坊主にされ削られたりもしたがなぜか全部が壊滅させられるようなことはなかった。呪いの伝説を意識したせいかもしれない。平成の調査では何と更に3つの棺が発見され、うち全長10メートルもの主体部からは鎧や鏡刀剣類といった大和朝廷との関係を窺わせる立派な副葬品が発見されており、これが元々の塚の主であると考えられた。つまり呪ったのは主ではなかったのである。

今では綺麗に芝や葺石で覆われ整備されているが(巨大な円墳とされていたが珍しい帆立貝式古墳であることが判明した)、昔は呪いにぴったりな、木が茂り古社の建てられた陰鬱な小山だったようである。社は三人の青年の鎮魂と「大塚様」のため発掘棺室の上に建てられたといわれる。吾妻神社と名づけられた社は霊験あらたかだったというからここのツタンカーメンはリッパだったのだ。日露戦争時に弾よけの神様として参詣者の跡をたたなかったが、昭和初期には荒れて青年団の格好の肝試しの場所になった。

日本の祟り塚の話となると他には元神田明神、現大手町新生銀行ウラの「将門の首塚」も有名だが、ここが墳丘をならしたGHQにたたり、ブルドーザーをひっくり返して死者を出したという話には実は根拠が無いと検証されたこともある。まあ、中世にまで時代が下れば、ツタンカーメン風の「呪い」という言葉より「祟り」という言葉のほうが似合ってくる。そういえば野毛大塚の墳頂から鎌倉時代の常滑焼陶器が見付かっており、長らく失われた「大塚様信仰」があった可能性もあるのだ。更に蛇足を加えよう。近所に23区唯一の渓谷、等々力渓谷がある。この崖面に横穴墓(古墳の石室部分だけを崖面に穿った古墳時代末期(大化の改新後)の民衆墓)がいくつか分布しているのだが、いちばん大きく整備されている3号横穴からは三体の家族の骨が出土している。その父親の骨にはあきらかな刀傷が検出されたが、それだけではなく、無数の細かい傷が見とめられた。3ミリ間隔で38本もの傷がつけられた骨もあった。



これは人肉食の跡と考えられている。

野毛大塚についてくわしくはココ参照。

指輪などの宝飾品の呪いもまた、いろいろな話が伝えられる。ダイアナが呪いの宝石に殺されたという人までいる。ホープ・ダイヤは有名だが、他にも東南アジアの寺院から盗み出されたルビーにまつわる怪異話など枚挙に暇がない。

このツタンカーメンの指輪の逸話にどの程度の信憑性があるか不明だ。ツタンカーメンの顔がCG復元されたとのニュースがあったばかりで、この顔がこの赤いスカラベを指に差していたのかと、ちょっと不思議な気分にもなる。考古学者が掘り出し物をガメることというのは実は結構多いようで、今でも小さなものではお持ち帰りされる場合もあるようだから、インディ・ジョーンズみたいなことはありえない、なんていうことも、実はそうでもないのだ。