第97夜、かぴたん妖術二題

かぴたんとは江戸時代出島に置かれたオランダ屋敷の商館長。ここにあげるふたつの話は、いずれも同じ「伴天連の妖術」をつたえている。キリスト教にそのような妙な術が伝わっているわけはないのだが、あながち嘘とも思えず真実は如何と思わせる不思議なものだ。

江戸時代の旅は、とおい地方で不穏な動きが起きるのを抑える意味もあって、国毎の関所や役人の配置、馬の乗用をはじめとするさまざまな制約が設けられていたが反面、武士は参勤交代をはじめとして、妻子や親族から引き離され遠い地に封ぜられることを強要されるものであった。また蘭学を勉強する者や通辞を生業とする者は唯一長崎の出島に赴かなければならない。家族と離れて生活する者が多くいたわけで、みな国元に残した妻子や親の安否を気遣うことしきりであった。

国元を離れひとり通辞即ち通訳の仕事をしていた西長十郎という者がいた。故郷に遺してきた妻子のことが日々気がかりでならない。あるとき知り合いのオランダ人が帰国することになり、世話になった御礼をしたいという。長十郎はさしあたって欲しいものはないが唯一六年も会っていない国元の妻子が気になるばかりだと言う。すると何やら大きな鉢を取り出したオランダ人、水を満たすと、顔を漬け、まばたきをせずに良く見てみよと言う。言われるままに顔を漬けた長十郎、見る見るうちに水のなかに故郷の景色が見えてくるではないか。

長十郎は故郷の道をゆき、やがて自分の家の前までやってきた。垣根の外より家の中を窺うと、縫い物をしている妻が居た。

なつかしい顔に見入るうち、ふと、目が合った。

妻が驚いた顔をして何か口にしようとした。だがオランダ人が水をかき混ぜたため、懐かしい景色、妻の顔は消えてしまった。

我にかえった長十郎、

今少し時があれば話が出来たものを何故

その問いにオランダ人答えるには、

そこで話をすればふたりとも命を失うことになる、だから慌てて消したのだ

と。

しばらくのち、長十郎は無事国元へ帰ることができた。

妻と再会を喜び話しを交わすうちに、フトこのときの話しになった。

さても不思議な幻であった

と笑う長十郎、すると妻、

あれ、それは秋も終わりのころで御座いましたか

ああ、秋陽の長く影を落とすころ、仕舞いの紅葉の舞い散る庭で、子供が犬と戯れていた

ああ丁度そのときでございましょう

子を犬とあそばせて、縁先で縫い物をしておりましたときに、貴方の御姿を御見かけいたしました、ええ、確かで御座います

垣の外より家の中を覗いて、スグ消えて仕舞われましたね

何々月の何々日、何々時のことでございました。

長十郎はゆっくりうなづくと一言、

まさしく。

・・・

今ひとつ。こちらは「耳袋」の収録になる。

長崎奉行の用人、福井某という者、主人とともに長崎に赴いたが、風の便りに母親が病に臥していると聞き、以来江戸のことばかり思って、自ずもまた病身となってしまった。食も進まず痩せ衰え、主人も心配し思い付くばかりの治療を施したが一向に良くなる気配が無い。するとある人「オランダ人の医師に見せれば何か良い法があるかもしれない」と入れ知恵する。主人ただちに通辞を立てて出島のオランダ屋敷にそれを伝える。

オランダ屋敷のかぴたんは早速医師に話す。医師、診断して言うには、回復の法ありとのこと。かぴたん、福井某を商館に呼び寄せた。

医師、大きな盤に水を汲み入れ、福井某の前に置くと、

この水に顔を漬けるべし

と言う。

福井某は指示にしたがい顔を漬けた。すると医師、頭を押さえつけ、しばらくして

目をあけよ

と言う。

静かに開けた目の前に、

紛れも無い我が母が帷子を縫っている姿が、ありありと浮かんだ。

その刹那、医師は福井某の顔を引き上げて、なにやら薬を服ませて

これでよい

と言った。その日より福井某の病は薄紙を剥ぐように快方に向かった、という。

一年ほどして御役交代の沙汰があり福井某は無事江戸へ戻ることができた。

そのとき母が言うには、

今より丁度一年前になりましょうか、お前のことを恋しく思いながら、送る帷子を縫っておりましたとき、ふと目を上げますと、隣家の小笠原様の塀の上に、お前の姿がありありと浮かび、しばらく顔を見詰め合ったことがあります。あまりにもはっきりとした姿であったので、もしや長崎で変事でもあったのではないかと随分と心配をいたしましたが、ややあって消えてしまいました。

きっと私の気の迷いでもあったのでしょう

その日限、時刻を質するうちまさしく福井某が、かぴたんのもとで盤の水に顔を漬けた、まさに同じ日限、時刻であった。これはまさしく幻術、オランダ人は今でも伴天連宗門を信じているそうだがこれも切支丹の妖術の一つでもあろうということになった。