第95夜、蓮華往生

東京目黒は碑文谷に都区内最古の建築で知られる円融寺釈迦堂(国重文)がある。鎌倉末期から室町時代の唐様建築で勢いのある軒の反りが素晴らしい。堂内は国宝指定の鎌倉円覚寺など同様いわゆる「傘造り一本くさび」。屋根の葺き替え時に飛騨匠の花押と、戯れの「我が手よし人見よ」の刻みが発見された。よほどの自信があったものと窺わせる。さてこのコーナーは何も東京史跡巡りのコーナーではない。怪談のコーナーである。ここではお化け噺とは又違った恐ろしい伝説について記しておく。

竜田川の吉田寺のように、「ぽっくり寺」の名を頂いた寺は各地に存在するが、老いて長く床に臥すことを嫌い、或る日ぽっくり極楽往生することを願う習慣が、この今や高級住宅の地にもあった。即ち即身成仏、「蓮華往生」の秘法をもって「即座に」仏にしてくれるというので、この寺、元禄の世に大変な評判となったという。

その手順というのが、まず本堂に設置された大きな蓮台に、経帷子を着た成仏(死ぬこと)志願の信者が合掌して座する。僧侶が大勢でそれを取り巻き、経をあげはじめると、八葉の蓮華がしぼんで、信者を包み隠す。読経の声がいっそうに高まり、しばらくすると蓮華が開いて、中央では信者が安らかに息絶えている、こういった具合である。何とも奇天烈で血生臭いものであるが、信者の家族は奇跡と信じて喜びの涙を流し、御礼の寄進を行ったという。

当然疑うものもいるわけで、これはあくどい偽装殺人だとにらんだ目明かし、信者に成りすまして乗り込んだ。すると、閉じた蓮華座の下から、「槍」を突き出して殺すための「仕掛け」が見つかったのである。寺は当時法華寺の名をいただいていたが、この殺人仕掛を考え付いた住職は日付、発覚後に遠島となり、寺はいったん取り潰しとなった。後に堂だけをひきついで円融寺の名になったのである。日付の弟子に養道という者がいたが、上総一宮にのがれ蓮長寺に入って再び「蓮華往生」を始めた。懲りないものだ。

さて以上は伝説である。じっさいは下総安房郡の妙光寺にあった話しだともいう。法華寺は何かゆえあって幕府ににらまれ、円融寺と名を改めなければならなくなった折り、蓮華往生の濡れ衣を着せられたのが事実らしい。伝えるところ大久保彦左衛門と一心太助が乗り込んだともいうが嘘であろう。

しかし自殺ほう助の商売とは寺も考えたものだが、江戸時代とはソウイウ時代でもあったのだ。文化が爛熟してくると人は遠くなった死に憧れを抱くようになる。そんな心理につけこんだものか。

恐ろしい。