第92夜、亡魂船

八丈島の昔話。

太郎と次郎という若い漁師がいた。幼なじみで仲が良かったが、共に船主の娘ナカを好くように

なった。船主は稼ぎの多いほうに娘をやろうと言う。二人はいがみあい、やがて仇同士の様

に魚とりの競争を始めた。いつもの漁場にそれぞれ小舟で漕ぎ出すと、一斉に釣りはじめる。

だがまもなく次郎の針に次々と大魚がかかりだし、太郎を尻目に小舟は魚の山になってしま

った。そこでやめればよいものを次郎は欲を出し釣り続けた。太郎はほぞを噛む気持ちであ

ったが、ふと次郎のほうを見ると、魚の重みで今しも転覆しそうであった。

「次郎」

声を掛けたときにはボコンと妙な音がして、どざあ、ぶくぶく沈んでいく小舟、慌てて泳いでき

た次郎が太郎の舟に手を掛けた。

「の、のせてくれえ」

「駄目じゃ」

太郎は次郎の手を櫓で薙いだ。

「ナカを譲れ。そうすればのせてやる」

「そんな非道い。助けてくれ」

がぼがぼと水を飲んで苦しむ次郎を尻目に、太郎は釣りを続けた。

「のせてくれ!」

堪らず両手を掛けた次郎に太郎は振り向きざま、櫓の一撃を浴びせた。

「クタバレ!」

「ぐあっ」

次郎はひとしきり浮き沈みを繰り返したあと、

ごぶごぶごぶ、と水底に沈んでいった。

太郎はそのまま港へ帰ると今日の水揚げを船主に見せた。夜になっても

帰らぬ次郎に浜は大騒ぎとなり、みな火を焚いて待った。

「太郎、おまえ一緒じゃなかったのか」

「いや、きょうは別の漁場だった。一日じゅう会わなかった」

そしらぬ顔であった。

・・・

ナカは太郎の嫁になった。

太郎は平然として毎日漁に出ていた。

そんな或る日、いつになく魚がかかり、太郎は夢中で釣り続けていた。

ふと沖のほうから妙な声が聞こえてきた。

「えっさ、ほいさ、えっさ、ほいさ・・・」

忽然と一隻の小舟が現れた。みるみるうちに太郎の小舟に近づいてくる。

元気な掛け声をかけ漕ぎ来るもの、それは次郎に違いなかった。

太郎は恐れた。

次郎は太郎の舟に舟を寄せると、空ろな目で声をかけた。

「ひしゃくを貸せ。ひしゃくをかしてくれえ」

何を言ってもひしゃくを貸せの一点張り。骸骨のように痩せおとろえた次郎の

声には不気味にも何か強い調子が混ざり、太郎は漁師のタブーを忘れ、思わず

ひしゃくを取りあげた・・・

漁師のタブー。

死んだものの乗った舟・・・「亡魂舟」に出遭ったときは、決して柄杓を渡してはならない。

もしくは柄杓の底を抜いて渡せ。そうすれば助かる。そうしなければ・・・

・・・太郎は催眠術にかかったように柄杓を投げた。次郎は吸い付くように柄杓を受け取る

と、呟いた。

・・・太郎め、我が恨み思い知れ・・・

次郎は信じられない速さで海水を掬い上げては太郎の舟に汲み入れる。慌てた太郎は

「次郎、許してくれ、拝むから、ゆるしてくれえ」

というばかりで、見る見るうちに水浸しになり、やがて次郎の舟がそうであったように、

重みに耐えかね

ぼこり

という、妙な音をたてて沈んでいった。太郎もまるで足を引かれるかのように沈み、黒潮に

流されていったのだ。

・・・

舟幽霊の噺に海彦山彦(日本最古の物語といわれる)を掛け合わせたような伝説である。