第88夜、自動書記

風景が自ずと描き出したような絵、音が自ずと沸き上ったような音楽、芸術の分野でこの言葉

は写実的というより象徴主義的な意味合いを持つ。若干のダダイズムも盛り込まれた・・・

たとえばエリック・サティの「自動書記」はそんな作品だ。

「作者の姿が見えない作品」、作品を完全に透化して見える向コウ側。

もとはオカルティックな意味合いがあって、19世紀後半以降に流行った「交霊実験」の一つだ。

憑依者が何の意志も持たずに、「霊の命ずるままの文字」を書き付ける。チャネリングという

言葉がはやった事があるが意味は同じようなもので、自分以外の何か見えない存在が、何か

言い残す手段として、依拠者の手を借りて、何かを書く。そこに「書いている肉体」の存在

は無視される。サティの独特の作品もまた、権威的な意味合いを持つ「作曲家」の介在しない

音楽という考えの発露であった。依拠者の口を借りればそれこそ霊的な憑依ということになる

が、それはダダイズム的な芸術・・・意味をなさないものを通して見る者自身に意味を見出させ

る、「象徴」としての無意味とまさに表裏なのかもしれない。なぜってそういう場で霊の語ること

で、根拠ある意味をはっきり指し示した例など、数えるほどしかないのだから。

それは大方「無意味な単語」を語り、相手の中のそれらしき無意識の記憶(知覚)を呼び覚ま

しているに過ぎないように思う。

こういった覚めた視点から、私の体験を語ろう。

小学6年生のころだ。塾に通っていて、算数だけを教えるところだった。算数の勉強ほど退屈な

ものはない。自分で考えるのではなく、一方的にまくしたてられる算数ほど、眠くなるものはない

だろう。私はしょっちゅう寝ていた。

あるとき、それでも必死で黒板を書き写そうとしていた。

だから右手には鉛筆が握られているのだが、私自身は

「車の中にいた」。

見知らぬ人の運転する車に乗って、どこかへ向かっていた。私は恐怖していた。前に大きな橋が

見える。この男は私を橋の上から投げ落とすつもりなのだ。私は怖かった。

「はっ」

目を覚ました。ほんの数秒のことだったろう。びくびく上目遣いに先生を見、バレていないことを

確認してから、ノートに目を落とす。

そこに数式の羅列はなかった。

ただひとこと、ミミズののたくったような文字で

「大阪 九州 550キロ」

と書いてあった。

算数である。大阪や九州などどこにも出てこない。

行ったことも気にしたことも無い。

550なんて数字も黒板には全く書かれていない。先生が語った内容であろうはずもない。

自覚しない文字を書いていた。しかもミミズがのたくっているから、自分の筆跡ではない

ように見える。

そのまえの夢のモチーフ・・・橋から投げ落とされる・・・そして「九州550キロ」の部分が、

特に私を戦慄させていた。その戦慄の意味はわからない。何故戦慄しているのだろう。

・・・

これは「自動書記」じゃないのか。

殺された子供の、「ダイイング・メッセージ」のような・・・

・・・・今では私も冷静になって、まああのとき実際にそんな事件があったかどうか調べれば

因果もわかるんだろうけど、多分そんな因果は無いだろうし、あれはグウゼンだったんだと

思う。

ただ、その夢の風景が、

何故か映画「シックス・センス」の車中のシーンによく似ていて、それで思い出したというわけだ。

内容は全然違うのだけれども、あれが死者の話しであったがゆえ、ふとここに書きたくなった。

見知らぬ文字を知らぬ間に書いていた、という記憶を持つかたは、

どなたかいらっしゃるだろうか。