第84夜、かえってきた男

寛政六年(1794)芝の辺りに、その日暮らしの男がいたが、病にかかり急死した。それを念仏講の
仲間などが寺へ送り葬った。しかし、1、2日後、塚中から唸り声がし、段々高くなっていった。
びっくりした寺の僧が掘らせると、生き返っていた。そこで寺社奉行に知らせ、町奉行の許可を
得て、その身をひきとった、という。
やがて身の回復した男は番所で事の次第を話した。
「死んでいたとはわからなかった。どこか京へのぼり、祇園辺りや大阪道頓堀辺りを歩き、東海道
を帰ってくると、大井川で旅費がなくなってしまい、川渡しの者の同情に頼って渡してもらい、そ
れから家へ帰ってきたところが、まっくらで何もわからないので、声をたてたと思う。まことに
夢をみていたようであった」
江戸の臨死体験には「旅」モノが多い。この男も病はスッカリ治ってしまったようだ。
私は子供のころ酷い風邪などにかかると、周囲の風景がぐるぐると廻りだし、かざぐるまのように
とおざかってゆく。気を失ったように寝込み目を覚ますと、決まって風邪は完治していた。ために
私は「ニンゲンはいったん死んでよみがえると、病気が治る」という誤解を長いこと持つように
なったことを思い出した。1991