第八夜、いやだ

大きな木があって、うしろに洋館が見えた。

青年は何か惹かれるものを感じた。緑色のとんがり屋根に風見鶏、木造の壁は白いペンキが所々剥げてはいるものの、窓ガラスも綺麗で、人の住んでいる気配はあった。庭は少し雑草が生えているが芝生で、子供用のちいさなブランコがある。こんなお屋敷に住んでいるなんて、どんな家族なんだろう。避暑地の夏、捕虫網片手に迷いこんだ山中でのできごとであった。

おにいちゃん

足元から声がして、ぎくりと後ずさった。気が付かなかった。虫かご片手の男の子が居た。くりくりとした目でこちらを見上げている。

どこいくの。

まだ5、6才くらいだろう。白いシャツには染みひとつなく、サスペンダーに吊られたカーキ色のズボンもお洒落だった。インディゴブルーの靴も、真新しかった。

この家の子?

それには答えずに、子供はにこりと笑うと手を伸ばした。

虫取りにきたんでしょ。いい場所知ってるんだ。

困惑した。でも、それほど急ぐわけでもなし、ちょっと子供の相手でもして、そのあと電話を借りることくらいはできるだろう。案外「秘密の木」を知っていて、目当てのオオクワガタを手に入れられたりして。そんな下心もあり、青年は子供の手をとった。冷たい汗に、湿った手だった。

・・・

驚きだった。天才じゃなかろうか。さもなくば、ここは実はどこぞの業者の養殖場か何かで、怒られるんじゃないか?子供は雑木林の中をまるで草原を歩くようにさっさと進み、

ここ。

ここ。

指差す木の根元を探ると、紛れも無いオオクワガタの黒光りする巨体が、ごろごろ転げ出すのである。どれも、店におろせば数万にはなるだろう。結構な大物がいるのだ。5、6匹も取れた時点で、ふと不思議に思う。子供は指差すばかりで、自分では取ろうとしないのだ。

君は捕まえないの?

子供はニコニコして、言った。

これがいるから、ぼくはいいんだ。

掲げ出す虫かごを見ると、驚いた。大物だった。10センチ?こんな馬鹿でかい代物を見るなんて、しかも野生とは、初めてだ。

すごいね。

思わず手が伸びた。

あげないよ!

子供は後ろを向いてしまった。ははは、と笑った。そんな悪い気は無い。・・・でも手に取ってしまったら気が変わってしまうかもしれない。止めておいた。

・・・そろそろ引き上げようか。

子供はさらに奥へ入っていこうとする。でも汽車の時間もあるし、10匹も取れたら十分だ。青年は肩を制して言った。

もう帰らなきゃ、ほんとにありがとう。

左のポケットから飴玉を出した。が、少し溶けていたせいか子供は受け取らずに、

うん。

と、寂しげな顔をして振り向いた。

ところで、おうちの人はいるの?

・・・

とりあえず帰ろう。おかあさんが心配するよ。

・・・いやだ。

え?

いやだ!

子供は青年の袖を掴むと、引っ張った。物凄い力によろけ、飴玉が落ちた。子供はさらに奥を指差して、

まだいっぱいいるよ!

と叫んだ。鬼気迫るという言葉を子供に使うのは気がひける。でもそんな感じだった。余りの唐突さに驚いて、振りほどく。思わず大声が出た。

帰らなきゃ、駄目だ!

・・・

青年は後悔した。泣くな、これは。それに、それほど奥へ入ったわけでもなし、道もわかる。別に子供を置いていったって良いのだ。

ところが違っていた。

・・・嫌だあっ!

殴り掛かってきたのだ。慌てて掴んだ子供の腕。振り立てたちいさな袖先から、洗い立てのシャツの匂いがする。こんなに汗をかいているのに、汗の臭いがしない。じめっとした感触は汗には違いないが、妙に冷たい。

なぜそんなことをするのか自分でも良くわからないが、子供を抱え上げると、もがく体をずっ、ずっと引きずり出した。

帰るんだ!

いやだ、いやだ

いいから!

いやだ、いやだ

いやだ、いやだ

ずっ、ずっ・・・

・・・

程なくあの洋館の真ん前に出た。思いのほか近かった。青年は逃げようとする子供を羽交い締めにして叫んだ。

どなたかいらっしゃいませんか!

遠く木霊が聞こえる。

イヤダ、イヤダ、イヤダ・・・

子供の声は心なしかちいさく弱々しくなっていた。青年は瀟洒な玄関に向かった。そして気が付いた。ことのほか汚れた扉の郵便受けに、たくさんの郵便物が溜まっている。色褪せた新聞が、山積みになっている。・・・どう見ても、「空き家」だとしか思えない。勘違いだった。

ここの子じゃないのか?それなら何でこんなに嫌がる?

真鍮のノブに手をかけると、かちゃり、と動いた。開いている。

戸を引くと、異様な匂いが飛び出してきた。

うっ、と屈んだすきにするりと抜け出して、たた、と走り去る子供。

いやだ・・・

一言残して、森の奥へと消えてしまった。

青年は子供のことより匂いの原因に注意が向いていた。ぎしり、ぎしりと軋む木の床は、今にも抜け落ちそうで、歩くたびに埃が舞い上がる。何かに取り憑かれたように奥へと向かった。玄関から土足のまま、廊下を進んで、一番奥の居間らしきところへと向かっていた。

居間の入口に近寄るに連れ、卵の腐ったような匂いが堪らなく強まってきた。さらに、うわんという音と共に雲霞の如く小蝿が飛び出してきて、身をすくめ右手の窓を開けようとするが、あかない。とりあえず何があるのかだけ確かめて、すぐに出よう。青年は蝿の中を走り入口をくぐった。

腐れ木のようなものが折り重なっていた。無数の金蝿がたかっている。

紐のような物が2本、欄干から下がっている。

紐はいずれも腐れ落ちて、その片割れが、

腐れ木のようなものに繋がっていた。

悪臭に頭がくらくらする。でも何なんだろう。ぐちゃぐちゃしたヘドロのような塊を前に立ちすくむ青年。その目が、あるものをとらえた。

死んだクワガタ虫だった。

見たこともない大きさのクワガタ虫

・・・いや・・・みたことはある。

虫の亡骸を包み込むようにして、細い枯れ枝のようなものが絡み付いている。

子供の腕・・・

ということに気付いた瞬間、目の前のわけのわからないものが何なのか、撚れ紐をほどくように、わかった。

3体の死骸が腐りきり、混ざり合った姿だった。男、女、そしてその下に・・・子供。

・・・そうとしか見えなかった・・・

青年はそれからどうしたのか、覚えていない。何とか森を抜け山を降り、街へ帰り着いていた。早々に電車に飛び乗った。クワガタは全部捨てた。

後に山中の洋館で心中事件があったという話しを聞いたが、大分に昔の話しだという。洋館自体も一目で分かるほどの完全な廃虚で、人が住んでいると勘違いするような形ではないそうだが、二度と行く気はしない、とのことだ。

(このできすぎた話しは私自身の話しではない。如何にも怪談めいた話しというのは私は疑いを持つが、判断は読者にお任せする。)