第77夜、まとわりつく手

「手」は面白い。「人」を認識する重要な要素として、顔とならんであげられるのが「手」だろう。

2本の腕から合わせて10本の触手が生え、それぞれ二節の関節を持って勝手な動きをする。

その動きかたひとつで、

楽しくも憂うつにも、色っぽくも凄惨にも感じさせる。

或る意味それ自体が「命」なのである。

また学生時代の話しになって恐縮だが、私は「手」に取り憑かれた。

正確には手首、である。因果は例によって判然としないのだが、

兎に角最初は自転車だった。

夜中に友人宅から帰ろうと、自転車にまたがり、

まっくらな中、ハンドルを握ると、

むにゅ

という感触がして、思わず手を引っ込める。両手ともだ。

恐る恐る握り直すと、冷たいゴムの感触になっている。

少々酒が入っていたせいか気にしなかったが、

そんなことが何度かあった。そのうち、

どんどん感触がハッキリとしてくる。

それは何か。

・・・柔らかい人間の「手」。

私が握る前に、既にハンドルを握っている「手」があり、

その上から握っている感じなのだ。

毎度毎度のことで、そのうち中仲感触が消えなくなった。

あるとき仕方なく、

見えない両の「手」をむにゅりと握ったまま、自転車を走らせたのだ。

消えない感触・・・気味の悪い柔らかさと、蛇のような冷たさ・・・ゴムの

無機質とは明らかに違う・・・だけを今も憶えている。

家について自転車を放すと、駆け込み急いで水道を開ける。

両手をごしごし洗うが感触は忘れられない。それは細い指の少々節立った

女の手だった。

その晩のことである。金縛りに遭った。

ぐぐっと身体を押さえ込まれるような中、掛け布団の上に、

ぽそり

と何者かが載った。

目玉だけをそちらへ向けると・・・「手」があった。

今しも飛び掛かって来るかのように、指先をこちらの喉元に向けて、乱暴に剥げた

紅いマニキュアの割れた爪までもがハッキリと見えた。

指の後ろは闇の中に溶け込んで本体があるかどうかもわからない。凄く危険な感じ

がしたが、そのときはそのままだった。気を失って、朝になっていたのだ。

次の日から、断続的にではあるが、寝床の中で「手」に襲われるようになった。

「手」は少しずつ動き出す。喉元を狙っているのかと思えばそうでもないらしい。

あるとき、「またか」と思って布団の上を見ると何も無く、そのかわり肩に感触があった。

ぞくりとした。

肩に乗せた手は、冷蔵庫で冷やしたかのように冷たく、食い込んでいくように感じた。

爪を立てるようにして「手」は、私の背中に廻る。

そう、このころは良くあることだったのだが、

ニンゲンの見えない「出入り口」は肩口、首の後ろ側のあたり、又

肩甲骨の裏あたりに、開いていて、

ヤツラは

そこから体内に「入り込む」ことができるようなのだ。

何のことをいっているのかって?

アイツラがニンゲンに「取り憑く」ための見えない出入り口があるってことだ。

今現在の私は霊感も何も失せて、そのときの感覚も今一つ思い出せないことが多い

のだが、

ともかくそのときは

「やられる」

と思った。何とか身体をうねらせ声をあげてのがれようとする。金縛りとはいえ解けない

ものではない。たいていなんとかできる。

そのときは肩から外れたとたんに身体が軽くなり、収まったようだった。

だが。

次の晩も奴はやってきた。

今度は視界に入らない。なぜなら布団の「裏側」から来たからだ。背筋に沿って這い昇って来る。

仰向けでもアイツラには関係が無い。

布団の「下」から腕をのばし、私の背を弄っているのだ。

だがそのときはそれだけで消えた。

しかし次。

右の肩がぽんとたたかれる感触があり、次いで一旦離れたかと思うと、視界に奇怪な蒼白い手が

がばっと顕れた。後ろに蛇のようにずるっとした生白い肌・・・その先は無く、まさに「手首」のみ・・・。

まじまじと見えたのは初めてでそれだけでもう抵抗する気が失せていた。手は私の布団に胸側

からずるずると入ってゆき、泣きそうなこちらを「尻目」に、胸から背の方向へずるずると廻っていく。

そういう感触のうちに、肩甲骨の下のあたりにさしかかる。

ヤバイ・・・

とおもったらもう、「手」の感触が肩甲骨を押し上げて、「肋骨」と「肺」の間に入り込んできた・・・

・・・ついてきてくれていますか?

この体験は私の最も恐ろしく、あるいは”いっちゃった”体験なので、真偽を疑われても仕方が無い

と思っている。・・・

「手」は肋骨の内部に入り込み、ずるり、ずるりと前の方に廻って、

ぐーっつ

と「右肺」を「握り」、締め付け出した。まるで蛇のように、「直接」にだ。

こんな体験は初めてだ。手術なんかも受けたことがないから、気味も悪いし、どうしたらいいものか

わからない奇妙な感覚。心霊治療の絵がふと頭に浮かぶが、それより

体内に”物理的に”入り込んだ手の力は物すごく、肺はきゅうっと締められて息が辛いし、痛い。

それどころか「手」はぐるりの先の「心臓」に至ろうとしている、と思った。

ああ。

そのとき、

がちゃん!

という大きな破裂音がして、「胸のつかえ」がぱっと消えた。

悪夢のような時間は唐突に終わった。闇の中、すーっと気が抜けたようになってそのまま、

朝がやってきた。

終わった。

とにかく終わったらしい。

立ち上がりかけてふと枕元を見ると、

私は「一応」カトリックなのだが、

いつも枕元に飾っていた陶器のマリア像が、

「粉々に」

砕け散っていた。

・・・。

助けてくれたのか・・・。

少し幸福な気分になって、ふと枕を見ると、

「手首の破片」が転がっていた。

私は今も大切に、その破片を保存している。

無論それきり手首におそわれることはなかった。