第71夜、南の豚怪

終戦後の話。冬の月夜の晩、なぜか小雨のちらつく時分のことだった。二人連れが川べりを
歩いていると、どこからともなく仔豚が出てきた。二人はこれを捕らえようとするけれども
グーグー鳴きながら走り回り叶わない。そのうち、次々と同じくらいちいさな仔豚が出てきて、
いつのまにやら数知れずに増えていた。何とか一匹ずつでも捕まえようとするがすばしこい、
どうしても捕まえられない。あたりにはクレゾールの濃い匂いのような、雄山羊の匂いのよう
な強い匂い、嫌なにおいがたちこめてくる。仔豚たちはやがてそこの空き地の藪の中に入って
行ってしまった。
次の日そこへ行ってみると近所で豚を飼っているようなところは見当たらない。不審に思った
二人組、年寄りに話を聞いて、初めて震え上がった。
「そのあたりは昔からミンキラウワの出るところじゃが、おまえたちは命を取られずにすんだ
から儲けものじゃ」
奄美島の話である。ミンキラウワとは「耳無豚」のことで、カタキラウワ(片耳豚)と共に
特定の場所に出る、家畜の化け物であった。この豚どもは人に出会うと股をくぐろうとする。
くぐられた者は魂を抜かれる、あるいは腑抜けになる。出会っただけでも熱を出す。足を
”はすかい”にして、くぐれなくすれば助かる。
特に女の一人歩きに出るというが、場所によっては二人でも出る。

徳之島の豚怪にムイティチゴロ(片目豚)がいるが、やはり股をくぐるという。豚は女や男に
化けて人を惑わすこともあるとされており、本土の狐狸に匹敵する。沖縄になるとアヒルや牛
の化物と共に、人の前をサっと横切るだけの家畜の亡霊のひとつとして、豚があげられている。
本土で豚の化物の話を聞かないのは肉食文化の違いだろうか。

奄美の豚怪をもうひとつ。足の切れた仔豚、ハギハラウワークワは、たとえばある地点では
丁度長さ約83センチで俵のような形をしてくるくると転がった。「野槌」のようなものだが
耳や目、足を欠いた形で現れるところを見ると、はなから人に食われるために生まれてきた豚の
やり場の無いウラミが、体を千切られた形で出てきたと思わずにはおれない。1990

2000後記、こういう話を書くと、じゃあなんで食肉店にでないのとか、食肉大国には無いのとか
いう疑問が湧いてくる。最近私は、人間も動物も、ある種ドクトクのウラミを残す「ことができる」
特異体質を生まれ持ったものがいて、そういうモノだけが死んだ後も特権的に現れるのではないか
と思っている。・・・否特権的でもないかもしれないが。苦しみの果てに死んだあと、未来永劫
いつまでもそのときの痛みや苦しみを味わいつづけなければならない、なんてことになったら
それこそほんとうの地獄だ。