第69話、お玉ケ池因縁

今より1000年以上前、八幡太郎義家が貞任征伐に向かった奥州街道は、渋谷、戸塚、滝野川、
西ケ原、平塚、箕輪と、江戸を鍵の手に廻って墨田村へ渡るコースだった。これを幹線として複数
の近道があり、ひとつが神田から浅草に通っていた。このあたりの街道筋に桜が多く付近に桜ケ池
というのがあって、池畔に茶店も立っていた。ここにお玉という美しい看板娘がいて、愛想も良か
ったものだから、旅人は飲みたくも無い茶を飲みにわざわざ寄る始末。当然地元の男衆で熱を
あげるものは後を絶たなかった。とりわけ二人の若者がしのぎを削り争いごと絶えず、お玉は
悩み抜いてその挙句、池に身を投げ死んでしまったという。勿体無いことだと近隣の村人たちは
彼女の遺骸を池畔に埋め、かたわらに柳を植えると「お玉稲荷」を作って、この哀れな美女の霊を
弔ってやった。以来池は「お玉ケ池」と呼ばれるようになったが、いつごろのことだったか定か
ではない。かつて入り江であった江戸市中、お玉が池も不忍池より大きかったが、終戦前までは
神田松枝町に四畳半ぐらいのあとが残っていた。戦災と同時に綺麗に埋まってしまい、稲荷のほうも
昭和25年に筋向いの空き地へ「お玉ケ池神社」として再建された。
池のあったころはその水が子供の百日咳に効くということで方々から汲みにきたものだったという。
千葉周作の道場でも知られたものだが震災と戦災、そして区画整理がまったくにその姿を消し去って
しまった。また、稲荷建立と同時に植えられた柳のほうは孫兵衛という者に切られてしまったが、
これには無理からぬ因縁噺がある。
明暦の大火で稲荷が焼け再建して、70年くらいたった享保14年2月のこと。或る朝の未明大工の
棟梁だった孫兵衛宅の女中が水を汲みに出ると、何を勘違いしたのか、お玉さんが柳の下に、ドロド
ロと姿を現した。女中は驚いて気絶。そこで怒ったのが棟梁である。
「いったい、おれのところになんの恨みがあるのか。お玉さんとて容赦はしないぞ」
柳にユウレイは付き物だから、柳さえなければ出られまいと、孫兵衛やにわに鋸を取り、ひき切って
しまった。ところが祟りはおそろしく、先ず5月に倅が死に、次いで切ってから一年目、孫兵衛本人
も頓死してしまったのだ、という。
(「東京伝説めぐり」戸川幸夫著、駿河台書房・昭和27年より抄抜)