第57夜、船底

最初はトン、トン程度だった。

いやだ、何?

ああ、船底を水が打つ音だよ。このくらいちいさなボートだと、水中をつたう波が当たって音をたてるのさ

水面はしかし鏡のように草木をうつし静かである。オールを上げ凛とした空気の張り詰める湖の神秘を楽しむ彼女にとって、それは思わぬ出来事だった。

彼は良く海に出てカヤックなどしているからそう間違ったことを言ってはいまい。ただ、

海ならわかるけど、こんな静かな・・

トン、トン、トン

ほら・・・また・・・なんか、ノックみたいじゃない・・・

トン、トン、ドン。

ドン、ドン、ドン。

そろそろ行くか。

彼の取り上げ、おろしたオールが震えている。確かにおかしな音なのである。まるで水底から、ボートの上に向けてノックをしているように・・・

のせてくれ

ここをあけてのせてくれえ・・・

ドン、ドン

ざーっと滑るように流れるボートにまるで水中から寄り添うような、先ほどと変わらぬ・・・いやすこし大きくすらなっている。音。

ドン、ドン、

どすん、

どすん!!

ばしゃ、

オールを落としてしまった!彼があせって半身を乗り出す。ぐらりと傾くボートに、反射的に逆の舳先に取りつく彼女。なんとかそっくりかえるのを防ぎ、オールを取り上げた彼の腕は被った水に凍えていた。

彼女は彼の腕に手を伸ばすが、

きゃっ

黒髪!

いや、ほんとうは水草だったのかもしれないけど、黒く細長いものが一掴み、ぐるりと巻き付いていた。

彼氏は打ち付けるように腕を水に漬け、落とすと言った。

オール、ちょっと持ってくれないか

何で?

いや・・・ちょっと

真っ青だった。

彼女はかわりにオールをおろすと、ゆっくりと漕ぎ出す。岸辺はもうすぐで、音もしなくなっていた。

「さっきはどうしたの?結局最後まで何も言わないで、こっちが不安になるじゃない」

「ご、ごめん」

ボートハウスで、彼が語ったこと。

「オールをとろうとして、上半身乗り出した時さ・・・・水中に、見えたんだ」

「髪の長い女・・・髪をゆらゆらと四方に広げて、笑いながら・・・」

「オールを掴んでいたんだ・・・だから力づくで取り上げようとしたら、ひっくり返りそうになってさ、」

彼女は思わず口を覆った。

「その女って、赤い服、着てなかった?」

「え?」

「右の目元に、黒子がなかった?」

「・・・」

この深い湖は、自殺者が多いことで知られる。

彼女の友人で、赤い服を着て、右の目元に黒子のある女性が、

不倫沙汰のうえ、ひとり入水自殺をしていたのだった。

そのときまで彼女はこのことを忘れていた。

ここは死体があがらないことでも有名である。

水中に流れがあり、水底と水面を対流してまわる。

死体はその流れに乗って動き回る為、一個所にひっかからないというのだ。

彼女が今も流れの中を巡回していたとしても・・・おかしくはない。

どん、どん

というのは、彼女のノックか、水流の当たる音だったのか。

「・・・あたしへの合図だったのかしら」

ふと彼氏の腕を見ると、一本だけ、黒くて細長いものが絡み付いているのが見えた。さっき絡んできた残りだ・・・。

「いや、嫉妬かもしれない」

・・・

二人は程なく別れた。

(定番の水モノではある。幽霊だったのか、それとも、ほんとの死体だったのだろうか・・・)