第52夜、あくび海坊主

鹿児島の離島で、早川考太郎氏が見たものについて。(今野氏著作より)
何らかの調査で渡った帰途、小さな郵便線で、開聞岳を左手に湾内を北上する頃には、夜半近くに
なっていた。用を足そうと甲板に出て船尾に立つと、白い航路のかなたに、一人の壮漢が見えた。
はっとしたが、溺れているようでもなく、水上に筋骨たくましい上半身を出し、立ち泳ぎのように
直立している。何よりもおかしいのは、その男は水を掻いて泳いでいるわけでもないのに、
船と同じ速さで、船のあとをついて来る。しばらく暗い水面の男をながめていると、男、不意に
あーあ、と大きなあくびをした。そのときこれは生きた人間ではないということが、急に頭に
来た。ぞっとして船室へ戻る途中、舵をとっていた船長が、
何か見ましたか
と聞く。
いいえ
とこたえ船室に駆け込んだ。昭和9年の話。