第四十三夜、けもの

(1990記)

杉浦日向子の漫画を読んでいて、ふと、幼い頃に出遭った不思議なできごとを思い出した。

二子玉川園という今はもうその名を駅名に遺すのみとなった遊園地があった。実家から電車で15分ほどのところで、週に一度「体操教室」がひらかれていて、友人とともに通っていた。普段は母が同伴するのだが都合により友人の母とともに出かけていた。

まだ時間があったので、遊園地の中にある小さな動物園に入って、山羊や驢馬と戯れた。

私はふと友人たちから離れ山羊の檻に近付いた。手にはちり紙を持っている。山羊は手のものに気が付くと、我も我もと寄ってきた。嬉々として一枚また一枚と食べさせた。山羊は押し合い圧し合い鉄柵の隙間から鼻を突き出し、紙をねだる。

その中に一段と年老いた山羊が居た。山羊は皆顎鬚を伸ばしているからおじいさんに見えがちではあるけれどもそれは一段と頬がこけやせ衰えた汚い姿から一目で老山羊と知れた。

後ろをうろつくばかりで、若き山羊の顔、顔、顔の間から顔を突き出す事も出来ない。こちらは幼いから、手近な元気の良い山羊にばかり紙をやって美味しそうにほうばる姿をたのしんでいた。

「おれにもくれよ」

・・・それがきこえたとき、反射的に逃げ出した。うわっ!

そして切り株につまづき転んだ。膝から血が出て、友人たちが驚いて来た。足には血が流れた。深い傷だった。

それを口にしたのは、あの老いた山羊だった。

いかに幼くてもドウブツの知能が人語を口にするほど高いなどとは思わない。だしぬけに男の低いしゃがれ声で、

おれにもくれよ・・・

このことを必死で友人らに説明しても、一様に妙な顔をするばかりだった。


「呟く山羊」を見たのはそれきりで、余りに恐ろしかったので、その動物園に近寄ることは二度となかった。

だが、動物に関しては、それに溯る、自宅で出遭った猫のことがある。それは一瞬だったが、私が出遭った怪の中では最初期の一つだ。それは夜寝る前のことだった。

一人で寝室に入り、暗闇の中で横たわる。ふと、床の間の下に付けられた明かり取りの障子へと目が行った。

・・・形は猫の顔だ。しかし大きさはその何倍もあるであろう影が、くっきりと映っていた。

そして、

恐ろしいことには、

その両目は障子越しにも関わらず、

ギョロ

ギョロ

と動く「人間の目」であることがハッキリとわかった!

輝く目玉は窮鼠の如き私をじっと見据えていた。そして影ごと、出し抜けに消えた。一瞬にして、消えた。

障子は日本的な怪の依所である。鏡、白壁、人形、そして障子は、私に始原的な恐怖を呼び起こす。


蛇足・・・

杉浦氏の「百物語」は日常性の中の怪をドライに、且つ如実に描き出す。それは何等感傷を与えられず、唯、起こったことをそのまま描いている。だからこそ訴える所は大きい。読む人誰もが思い返せば必ず見つかる不思議なできごと。それをおのおのの体験の中に思い出させるように、敢えて主観的な記述を避けているのだろう。百物語の意図は、怪の百の類型を提示することで、人心に必ず怪を喚起させることができる、というところにあるのかと想像する。