第三十二夜、スイッチ

・・・貸し部屋にまつわる話は枚挙に暇が無い。ある学生がアパートを捜して
いた。
「あれ、これ一戸建て・・・っすか?」
ああそれねえ、と不動産屋が声をひそめる。
「掘り出しモノ。ご夫婦が住んでいたんだけど、何かの都合でどうしても
ここを離れなきゃならなくなったって、今は奥さんのご両親が管理している
んだけれども、ご高齢でしょう。それよりどなたか住まわせた方が安心だって
いうので、さっき入ってきた物件なんですよ。格安。」
世帯用じゃないんだろうか、条件は、と聞いても万事大丈夫だといっていた
から、そのまま車に乗り込むと、畠の中をつっぱしる。
やがて遠くに赤い屋根の家が見えてきた。結構でかいな、掃除とかどうしよう
な。・・・アイツがやってくれるか。いっそ一緒に住んじまおうか。
この敷礼無しでこの家賃なんてウラがあるのは確実だけど、綺麗に剪定された
庭樹を見ると、不信感より家主との境目の無い生活が不安に思えてきた。
「あ、管理人さんはちょっと遠くに住んでいてね。気兼ねなくできますよ。
ただ庭木だとか、あんまり荒れ放題にはしないでほしいとおっしゃってたから」
「あ、決めます。」
彼女のアパートのすぐそばだった。
 さて暮らしてみてすぐにわかったことは、彼女がここに住んではくれないとい
うこと。まあそりゃ仕方ない。でも、もうひとつある。
「浮気してない?」
長い髪の毛。そんなもの前の住人のにきまってるだろう、じじつそんな覚えはない
し小器用なタイプじゃないことはわかってるはずなのに。”匂い”がするだって?
それも奥さんのものだろう。
 つまりは信用されてないわけだ。
 だだっ広い家の中、ただ一人全部の部屋の電灯を点けてまわって空しさを覚える。
家主さんは親切で、ときどき畠のものだといって芋なんかを呉れる。庭木だって、
学校に行ってる間に巧くやってくれている。まあ不満といえば掃除が大変なことだ。
庭木の柿がべちゃべちゃと道を汚して、枯れ葉が家の中にまで舞い込んで来る。
こんなところだから道が少しくらい汚れたってよさそうなもんだが、案外見ている
のが隣の農家のおばあさん。家の中はというと外の掃除にかまけて荒れ放題、彼女
が嫌がる気もわからなくもない。
 夜中の話し。電力が馬鹿にならないとわかってから、使わない部屋は閉めっぱなし
にして、夜は狭い寝室だけに電灯を点けることにしているのだが、12時以後はスタ
ンドだけの灯りにしてなんとか電気を使わないようにしている。仕送りとバイトだけ
で何とかやって行けるが、案外維持費というのが馬鹿にならず、ひとりでこんな広さ
を使っているのもあほらしいので、今度鹿野のやつでも誘って一緒に住まないか聞い
てみようか。なんてことをごまごま考えるのも灯りが暗くなってからいつものことだ。
 不気味だとは思っていたのだ。寝室には小さな床の間のような空間があって、一個
人形が据えて有る。新しい博多人形だし子供の可愛らしい形だからいいんだけれども、
夜中にはっと目覚めると・・・いつも黒目がこっちを見ている気がするのだ。
 その夜は酒が入っていたから、そんな人形に無粋な興味が沸いてきて、ふらりと
立ち上がると、ぐらっとして思わず床の間に足を踏み入れた。爪先に当たった人形を
倒れざま手にとって、ゆっくり持ち上げた。
 あ・・・
 びゃっと背筋に水を掛けられた心地でしゃんとなった。
 あれは、何だ?
 部屋の片隅に蹲るものがいる・・・
陰影で出来た部屋の景色に黒く異様な塊が震えている。
 女だ。
 やつれた顔に化粧のケもなく、髪の毛は短めだが白髪らしきものが混じっている。年齢
は40前後ではないか?横座りをして土気色のカーディガンを垂らし、ねめあげるように
まっすぐに、見ている。
 急いで人形を戻す。
でも消えない。うわっと思った。女は扉の前に座っているのだ。
 立ち上がる。
 すると・・・消えた。
 寝間を変えて大家に電話をするが判然としない。田舎特有のあいまいな柔らかさでうまく
誤魔化された気分で、その日は友人を呼んで酒盛りとあいなった。

 ・・・その、おばけがでるってのはこの部屋か?
ボート部のレギュラーをやってる大谷が勝手に物色しはじめた。薄暗い部屋を覗くとカーテンの
隙間から漏れた街灯の灯りが丁度床の間を照らしている。
ふん。
人形を片手に出てきた大谷は何も感じなかったようだ。
おれ、借りてっていいか
不思議なことをいうものだ。だが佐々木が言うには大谷には祈祷師の親戚がいるから、任せた
ほうがいいということだった。
大谷、よろしくな。
ん。
酒宴は一瞬冷え込んだけれども2時を回るとまったりとした暖かい雰囲気
で久しぶりに家が和らいだ気がした。
じゃ、このまま寝るか。
布団ないんだけど。
いらねーよ。
おれも・・・ここにネルよ。
鈴木の横に寝転がると、大谷が寝首を上げた。
・・・おれが寝てやるか。
大谷が、あの部屋で寝ることになる。
 だが、部屋を暗くして、大谷が部屋に消えて、まもなくだった。
「ぎゃっ」
「いるぞ。絶対に」
一緒に言うぞ。
「カーディガンを引きずった、白髪混じりの女!!」
ちょっと興味が湧いて、床の間に立ってみたときに、見えた、という。
「人形じゃねえぞ・・・原因」
「あの部屋か?」
「でも・・・」
1ヶ月近く、人形に触れるまで、何も出なかったのだ。
「場所、か」
「立って見る」
鈴木がメガネを架け直して入っていく。
「がー!」
最後に佐々木が行く。理数系はこいつだけだ。
しばらく、ごと、ごとと音がしていた。大丈夫か、と声をかける寸手、
「おい」
「おい・・・来てみろよ・・・」
呆けたような声が、妙な調子で聞こえてきた。


「床の間、ここに足を載せると、見えるんだよ・・・」
指差す床の間は合板の安物だ。上に足を載せると、ぺこりとへこんでしま
いそうで余りやらないのだが、最後に自分も、足をのせてみる・・・
「佐々木!!そこだ!!おまえと・・重なってる・・・」
「そうだ。おれも不思議なんだけどね。”見えてるだけ”だろ。きっと」
佐々木は原因を探る気もおきないらしいが、ただ起きていることには興味がある
ようだ。足を離すと、ぱっと消える。足を載せると、ちょっとでも指先が触れると、
おんなじかっこうで震える女が現れる。
まるで、スイッチのように。
「おい・・・ここ、出た方がよくないか」
大谷が真剣に言った。
「ゆめゆめ・・・そこを剥がしてみようなんて気、起こすなよ」
合板の床の間は大谷くらいの腕力なら剥がせそうだ、でも、そうはしなかった。

解約した。
理由は問われなかった。それが結局因縁物件だった何よりの証拠だ。
人形だけは今でも大谷の親戚に預けて有る。大家さんは何も言わなかった。

被害?
彼女にふられたことくらいだろう。