第三十夜、風のはなし

長崎の五島でカゼとは憑きものであり、久賀島では通り風にあうと気が狂うと信じられていた。鹿児島の出水郡大川内村の村内の曲がり角などでは、夜中によく生ぬるい風が吹き、それに当たると病気になることがあるという。肝属郡でも、「魔が通る」と言って、魔風に会うと人馬共に害を受けることがあるとされる。奄美のスキマカゼ、千葉安房の千倉町のミカゼ、岩手九戸郡山形村のハカゼもみな同じ、人間の気分を害する風で、三本道などでよく会う。「悪い風にあたる」という言葉もここから来ているのだろう。山口や大分のミサキカゼも、急に悪寒を覚えさせる風だ。「風の神」の中でも、悪神とも言うべき「風邪の神」としてのものがあり、新潟や福島、八丈島などでは「風の三郎さま」といった名でまつられる。風邪をひくときは、長いことごほごほやる場合と急激に奈落に陥る場合があって、後者の唐突さを「悪い風にあたった」としたのかもしれない。

熊本宇土町あたりで、赤子の産毛を少し剃り落とすのは、「ユウレカゼ」に魅入られないためだという。江戸の怪話で道端に黒々とした霧の塊が蹲り、風邪の気となって人を襲う話しがあったと記憶している。又「新耳袋」であったか、赤子を畳の間に寝かせて掃除をしていると、畳の隙から白い煙が沸き上がり、人の形となって赤子の顔を覗き込むそぶりをした、という話しもあった。「幽霊風」という訳だ。五島のショウロカゼは精霊風のことで、盆の十六日の朝にうっかり墓道などを歩くと当たり、病気になる。三重飯南郡では、急に悪寒が来て身震いすることを無縁仏に憑かれたこととするが、餓鬼憑き、「ひだる神」の類いも、全て同じ現象であるように思われる。ウマオコリ、ムエンオコリという言葉が菅江真澄の紀行文にあるが、同じようなものだろう。

諸国の神が出雲に集う神無月に大きな風を伴うといって、季節風のいわれを解釈する地域もある。風祭り、風神祭りはこのような大きな力を持つ神に対して行われるものだが、身分の低い精霊のような小さな力しかないモノに対しての信仰も、又日陰で、ごく狭い地域で行われている。神の差別化という多神教から一神教に至る宗教の進化の過程にみられる現象が、ここでも認められるのだ。今野園輔氏は、風の怪異に関しての文章をこのように結んでいる。

私事だが、昔登山していたときに二度ほど「ひだる神」のような体験をした。急に動けなくなり、何か口にすると直る。今思うと栄養の不足しがちな縦走中のこと、脱水症状もしくは急性の栄養失調なのんではないかとも思えるが、突然、元気だった者が倒れてしまうという現象は、現代病のひとつ「突然死」に通じるところがある。生と死の間が如何に儚く薄い仕切りしか無いものであるか、曖昧で、ほんの少しのきっかけであっけなく転んでしまうものなのか、ということを思わずにいられない。小学校の頃、冬のさなか、マクドナルドでマックシェイクを買って、家路につく最中飲みながら歩いた。買ったときは全く元気だった。だがシェイクを飲みはじめて、家に着く頃、何故かフラフラし、吐き気が起きてきた。そしてまもなく高熱を出し、点滴を受ける寸前までいった。悪性の感冒であったのだが、これなど、帰り道の途中で<悪い風に当たった>、と昔なら言うのだろう。

騒がしい学校の教室などで、ふと、シーンとする瞬間がある。これを「神が通る」と言ったものだ。民間信仰は、人の深層意識に、遺伝的に受け継がれていくものなのだろうか。(1991/11記)