第二十一夜、幻の小屋

カンワキューダイ

この小噺集を始めようと思ったのは、古今東西怪話のなかにシチュエイションこそ違えど同じような幻想的モチーフが、互いの連関無く言わば同時多発的に出て来る。それが妙に面白く、これは人類の解明されない遺伝情報(もしくはゴミ遺伝情報)の中に刻印された始源的な記憶・・・

アフリカに現れた「人類の偉大な母親」の個人的経験とか・・・

の顕れなのか、などとSF(死語)っぽい空想を抱きながら、それがそれとなく伝わるように、なるべくごちゃ混ぜで並べ立てようとしている。もともと学生時代に日記風に書き連ねたものをベースとしているので、一寸「足りない」話しや、著作権的にまずそうな話し(これが多い)を省くと、個人的経験や江戸の昔語りに偏らざるをえず申し訳ないと感じているが、このシリーズこれからもちょっと気長に(細々)書き続けて行こうと思っているので、後々其の意図が表れてくれば「まあオッケーじゃないか」とは思っている。

さて。

英国デヴォンのヘイターに近い森には、幻の小屋が現れる。

ある女性が、森に接した小道を歩いていると、木立を透かして一軒の小屋が見えた。あとでこの森の所有者に何気なく尋ねた。

「あそこはどなたが住んでいらっしゃるの?」

所有者は驚き、そんなものは無い、と言う。急ぎ彼女は現場に戻ってみたが、二度と見つけることはできなかった。

暫く後に、森の反対側のバンガローに移り住んだ者が、矢張りその小屋を見た。また、陸地測量部の職員が、一度は見失ったものの、小高いところから見渡して、再び見つけたということがあった。

煙突からは煙がたゆぎ、洗濯物が干され、はためいていたのだという。

早速その場所めざし下るが散々探してもどこにも見つけることができなかった。途中犬を連れたご婦人と出遭ったが、そのご婦人も小屋を探していたという。

小屋の姿形と、位置は常に同じ。但し、該当するとおぼしき地点には、古来家など建ったことすらなかったのである。

隠れ里、という言葉がうかぶ。しかしあれは江戸時代、ひそかに山中を開墾して幕府の取り立てから逃れようとする貧しい農民の隠れ田だったのではないか。それよりも、同じような話しは現代日本に語り伝えられている。山岸涼子氏のエッセイマンガに、関西や東北でのタイムスリップ?経験をつづったものがある。ここで出て来る「嫌なイメージ」というのがまさしく、「同じ所を何度も行き来し闇夜に迷ううち辿り着いた一軒の小屋、灯りがともり誰かいるはずなのにしんとしていて、恐ろしくなり立ち去った。そのあと、二度と見つけることができない」という話しで、それをよむまえにこのイギリスの話しを知っていただけに、

「ああ、同じだ」

と思った。近年話題となった(少し食傷だが)「新耳袋」にも、関西での同様の話しが掲載されている(しかも山岸氏に極めて近い場所での話)。最近の映画「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」、隠喩のうちに表現される魔女の「雰囲気」、クライマックスの「あるはずのない館」は、やっぱり同様のイメージだ。

異世界に迷い込み、そこの忌まわしき住民と邂逅する寸前、その得体の知れない恐怖。

前に自由が丘のお化け屋敷のことを書いた。一歩踏み入れると得体の知れない場所に転送されてしまう、ということになっていた。イギリスには「妖精の輪」の伝説がある(イエーツだったか、小泉八雲(個人的には最高傑作と思う)最晩年の「ひまわり」にも、今は亡きブロンドの友と妖精の輪を探す子供のころのエピソードがあった)。

野原に草を倒して描かれた丸いわっか(「ミステリー・サークル」よりはずうっとちいさい)、踊る妖精に誘われるまま足を踏み入れると、妖精の世界に封じられて、永遠に抜け出せない。外の連中は目の前に見えるのに、相手側には姿が見えない。たまに声だけが木霊のように届く。運良く出られても、時の流れが違うせいか、長い長い年月が経ってしまっていて、知り合いなどひとりも残っていない。異界からの土産は、虚無と絶望だけだ。

そう一度きりの海外旅行、イギリスに一月余り滞在したことがある。オックスフォードで学生に英文法をレッスンしてもらっていた。3週間の間にひとり、こういう話しに乗って来る人がいて、ひとしきり盛り上がったのだが、

浦島太郎

の話しをすると、ひどく驚いていた。妖精の輪にそっくりだというのである。言われてみれば骨子だけを追うと似たところがある。戻ってみると「ひどく長い年月が流れていた」部分など、そっくりである。

「いや、ひとつだけ違うわ」

「自分で判断する」自由を与えられたところが違う、と彼女はいった。選択肢を「玉手箱」という形に託して与えたわけである。太郎は「あちらの世界の時間」か「現実の世界の時間」かどちらかをえらぶことが出来た。

太郎は「現実の時」を選んだ。

考えてみれば、浦島は別に竜宮城へ行かなくても断れば良かったわけで、自業自得色も強い。巻き込まれやすい人間が結局逃れられない運命に流された、一種説話ともとれる。浦島はじつは戦乱の半島から逃れてきた王族を救い、半島に渡って共に戦ったものの、滅亡を前にして国へ帰されたのだ、というひどくリアルな想像を持っていたのだが、

「幻想的解釈」のほうが数倍美しい。歴史は所詮推論にすぎない、であればそれもまた想像の世界、美しければ美しいほど想像は人を豊かにする。矢張り浦島は海上の妖精に誘われ、シレーヌの声のうちに時を忘れたのだろう。

話しが流れたが、島国同士(そして歴史のはじめにおいて征服者であったという点においても)イギリスと日本の感覚は似通ったところがある。東西同じような幻想がある、というだけで、何か楽しくなっては来ないか?

・・・