第二夜、化物屋敷のこと、その二

子供の頃、近所の廃屋を「お化け屋敷」と呼んで、悪ガキ仲間と探検した経験のある方は多いと思う。

今は小洒落た街として知られる東京は自由が丘、ここもつい10数年前までは住宅街のちょっとした繁華街にすぎなかった。駅前のドブにはタニシがいた。「マリ・クレール通り」と呼ばれているアベニュー(笑)も南口商店街だったし、横文字のビルだってもともとは「家具屋」とか「氷屋」といったものだった。マリ・クレール通り(今でもこの名前を使うことに気恥ずかしさを感じる)の真ん中を通る煉瓦の遊歩道は、もともと呑川と呼ばれるドブ川だった。本当は九品仏川といい、最近キナ臭い話題を振り撒いた古刹、九品仏浄真寺の裏手(墓場あたり)にあった大池から流れ出し、東京工業大学脇で本当の呑川に合流する。長さにしてせいぜい2、3キロの元用水路だ。

全て暗渠化されたのはそう昔の話しでもないが、初めは近所の人々によって草花が植えられ、木々もあり気持ちの良い土道であった。しかし駅近辺では次第に自転車やバイクの駐輪場と化してゆき、土は失われ、単なる中央分離帯、もしくは溜まり場のようになってしまった。その九品仏川は東急電鉄の線路で2回ほど分断されるが、一つ目は南口から真っ直ぐ進んで、歩道沿いを右手に行ったすぐのところである。自由が丘にはここ5、6年受験塾が矢次にできて、落ち着いた雰囲気はぶちこわしになってしまったが、その決定打となったのがこのあたりに数軒を構える早稲田塾だ。地元の古い設計事務所とマンションは、うろつく子供の群れに常に囲まれて、遅くまで耳触りの悪い大声が響きわたっている。向かいに店を構える、オープンテラスの先駆けだったイタリア料理店も、ついこのあいだに店を閉じてしまった。近くの他人の駐車場にはタバコの灯が明滅し、他人の住居の階段や路上には意味無く座り込む幼な顔の茶色髪が、コンビニのゴミを散らかしている。

今や通るのさえ躊躇われるそのあたりに、かつて「お化け屋敷」があった。今でも現存する不動産屋の社宅かなにかだったらしいが、私の物心がついたころには既に荒廃していて、十年以上も放っておかれていた。駅に至近のこの場所で、理由は何だかさっぱりわからない。だが小さな砂利道沿いに汚い木に覆われて、薄暗く不気味な匂いがし、子供は滅多に寄らなかった。壁の抜けた骨組みだけの建物の中に、白い便器が転がっていて、腐った畳が立っている。それだけでもう、何を見たとか何が起こったとかいう話しは特段無かったのにも関わらず、あれは「お化けが出る」のだ、という共通認識が、子供たちの間に広まっていた。

ひとりの子がいた。彼は、見たという。何を見たのか、といえば、その敷地に足を踏み入れてまもなく、太陽が色を変え、気持ちの悪い生き物のいる「空間」に移動してしまった、というのだ。気を失うかどうかして、気が付くと戻っていたのだ、と。幼い子供の言うことだから、半分嘘と考えて丁度良いものだが、その不気味な廃虚の佇まいは、日常空間と隔絶された、何か別世界のもののように思えて、疑う気も不思議と起こらなかった。

疑わなかったのは、私自身、「奇妙な世界」に踏み入れるという、おかしな経験をしていたからだ。が、それはまた別記しよう。

その廃屋へ、探検と称して何度も立ち入った。 しかし・・・余りの不気味さにいつも、太陽の色が変わるまで、 居続けることはできなかったのだった。

その廃屋のすぐ近くに、「お化け坂」もあった。舗装されていない狭い私道のようなもので、そこだけ急な坂道になっていて、両脇には人の気配の無い薄気味の悪い古い家や町工場の宿舎が立ち並んでいた。ここで白い服を着た女性らしき影が、夜中、決まって「下から上へ」登るときに、立つ、とされていた。みなこの坂を避けた。今でもこの坂は現存するが、舗装され、真新しいマンションに挟まれて、白い女も立つ隙がなくなってしまったようだ。

同じく近所のマンションの一室に、「ろくろ首」が出る、という噂もあった。何のいわれもなく、ただ、あの部屋が空いているのは、首の伸びる女の人のせいだ、とされていた。この部屋はしかし程なく入居者が入って、噂は無責任に消え去った。

私の生家の脇の母屋には、祖父母が住んでいた。昭和初期の木造で、大正時代の香りを残した趣のある建物だった。入り組んだ小さな部屋の奥に人一人やっと立てるくらいのデッド・ゾーンがあったり、玄関の脇に板で仕切られた狭い書庫があって、奥に抜けると何故か風呂場に突きあたったり、菱形のきゃしゃな木枠にとり付けられた硝子窓、ねじ式の裸電球や戸締まり用の真鍮のねじ廻しなどなど・・・狭い敷地の中に井戸や離れもあって、離れの壁には大きな曾祖父の写真が掲げられていた。夜は近寄るのが怖かった。床は抜けるほどにぎしぎしときしみ、屋根も痛んでいた。祖父の死より数年後、老朽化のため取り壊しになったのだが、狭い縁側のうららかな陽を今でも思い出す。ハンミョウの飛ぶ陽炎の日を、思い出す。

そこは私にとって・・・祖父が亡くなり、誰もいなくなったガランドウの”木組み”になったあとは・・・お化け屋敷、となった。はっきり何かを見たわけではないのだが、誰も居ない母屋へと繋がる、暗い廊下のつきあたりを見るたびに、もう中学生であったにもかかわらず、足の震えが止まらなかったのを覚えている。昼なお暗い中、仕切りの扉は異世界への入口のように映った。誰もいない留守の晩には決まって、何か二本足のモノがあるく音がしたり、ぼそぼそと小さな声が聞こえてきたり、した。日々が過ぎヒトケが失せてゆくに連れそれは高まっていったように思う。亡くなった祖父は晩年足が衰えた為に独特の歩き方をしていた。だがそんな足音ではなかった。しかも喉をやられていたから、喋るわけも無い。何か外からやってきた別のモノが、住み処にしているのではないか、そのように思われて、恐ろしくも有り、またなんとも奇妙な心地がしたものだ。母屋には神棚があった。空虚な畳部屋に掛かる神棚は、わけあってある新興宗教の供え物に侵食されていたのだが、今おもえば、それも作用していたのかもしれない。

お化け屋敷。・・・良く考えてみれば、狭い生家のほうも、結構なお化け屋敷だった。頭をなでたり、私の体から心だけを追い出してみたり(今思うと怖い)、部屋を揺らしたり、人形が跳ねたり、子供の影が走ったり、窓から入った人影が、ぐるぐると部屋の中を飛び回って、何もせずに飛び去ったり、何故か白布が垂れたり、白壁に小さな血痕が散ったり、巨大な影だけが立ちはだかったり、かとおもえばせせこましく蹲っていたり、ブロック塀に顔が浮いたり(嫌なので毎日軟球をぶつけていた。でも晴れても晴れてもしつこく浮き出てきた)・・・幼い頃よりいろいろとおかしなものが見えて、恐ろしくも、楽しかった。私の生家の鬼門(北東)は寝室になっていたのだが、そこから廊下経由で扉を潜り、 母屋に入ったすぐ右脇が、玄関になっていた。母屋と生家が別々の生活圏であったころは、玄関は母屋のもので、生家の出入口は西向きの勝手口しかなかった。母屋の方は細長い形をしていたから、それ単独では、単に東側に玄関があったに過ぎない。・・・やがて廃屋になった母屋と生家が、生活圏としてつながり、玄関は母屋のほうに統一されることになった。

その時点で、生家の玄関は「鬼門」になったのだった。

さらにそのあたりが、江戸時代、「仏山」と呼ばれる墓場だったことも、もう大分後に、聞いた。

もうひとつ。

・・・屋根裏に、猫が干からびていた。