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2006/7/14−16:土佐血みどろ怪異フォローの旅

GWに行き損ねた場所と旧赤岡町第30回絵金まつりに参上。まじめに書くとけっこう長くなりそうなので、まずとりあえず記憶の新しいうちに記録を遺しておこう。

初日は飛行機で1時間かからずに高知龍馬空港へ到着。はりまや橋に向かいラーメン食べてすぐ「みませ」行バスに乗りこみ前回行けなかった孕の対岸にさっさと移動。御畳瀬は鄙びた漁村だが対岸の大造船所の、「じゃん」と聞きまごうほどでかい騒音にざっくばらんな海辺の情景が何か奇妙に懐かしい印象をあたえる。右手には桂浜まで続く細長い浦戸大橋がかかっていて、青空にかかる飛行機雲のようだ。祖父の仲人の銅像があると聞いていたので通りすがりの人に聞くがやはり不明。さっさと見切りをつけてみませの最奥部の社へ。かつて浦戸湾口にはいくつも島や浅瀬があり船の通行を妨げていたが、明治以降に次々と破壊され、湾内に入ったところの松島を思わせる島々を残して綺麗さっぱりなくなってしまった。更に先の戦争前後に埋め立ても進み、景観は大いに変わったというが、一方失われた島にまつわる逸話のようなものも残っている。例えば明治時代に或る岩礁を爆破したところどこからともなく大量の砂が流れ込み大変なことになったことがあった、これは青空文庫にも収録されている「藤棚の陰から」というエッセイにある話だが、高知の土木工事史に偉大な名を刻む野中兼山の「浦戸港(うらどこう)の入り口に近いある岩礁を決して破壊してはいけない、これを取ると港口が埋没する」という話を証明するものだと書いている。「じゃん」にしても寅彦は海底地形とその変動に理由を求めており、徹底的に改造されてしまった今はどうか知らないが、ソナー調査でもすると面白い地形が見つかるかもしれない。狭島(桟島)という島が御畳瀬の北東海上にあった。ここの海底には与那国の「海底遺跡」を彷彿とさせる四畳半ほどの大きさの平らな水中構造物があったというが、それも含めて昭和30年代に爆破されてしまった・・・邪魔だということで。そこにあった社をうつし「狭島さん」と呼んだのが厳島神社である。けっこう立派な社だ。

この先は道はない。しかし引き潮であれば濡れずに海岸を歩けるようになっている。このあたりは徐々に廃墟臭が漂うが、それもそのはず、戦争末期に海軍の「施設」があったという。海岸の崖に掘られているいくつもの狭い穴は、「人間魚雷」を格納したものだというが真相は知れない。こんなところにそんなものはなかったという人もいるし、私は見て怪しいと思ったのだが錆付いたクレーンの部品や海中に伸びるレールといった「戦跡」を認める人もいる。

いずれこのあたりは浅瀬で漁をする以外に人のいる様子はなく、ただ旧い小造船所の放置された設備などが散在している。昔はここの先から横浜、灘あたりは海水浴場で有名で、高知市民のリゾート地だったともいうが、今は灘・横浜からこちらは旧い別荘の僅かな残骸が認められるのみで寂しい。土地が悪いというと語弊があるが、地元の人が夜釣りや遊びにしょっちゅう来る場所のわりには、荒んだ感じを受ける。別荘跡門柱の「毒蛇うようよ」の文字が懐かしい。

ここに「鬼の袂岩」がある。鬼が袂に入れてここにほうったという奇妙な大石だが、標柱も無く、地元でも誤解して別の場所の岩礁をそう呼んでいる人もいる(ただ、高知市の一般地図には良く見るとちゃんと識別できるように島や岩礁が書かれているので参照にされたい。岬先のごく小さな島が袂石をあらわし、その先の四角い地形は造船所跡先のコンクリの大きな生簀のような設備を示すと思われ、その前あたりからある岩礁などは別物だ)。



(後補)うちから出てきた昭和初期の袂石の写真。よく船の標となり、龍馬の話にも出てきたらしい(直接読んでないのでよく知らない)。
このへんは小さな島や岩礁が多かったから、おおざっぱにこのあたりに散在する岩や砂洲を総称して呼んでいたのかもしれないが。

海岸の崖上の繁茂するブッシュの上には小さな社の残骸や比較的近世の石仏もみえるそうだが大した意味はあるまい。海岸は密集する二枚貝と無駄にでかいアカテガニの群集で少し異様な感じがする。対岸がああなので少し汚いかんじがするのは仕方あるまい。

海岸沿いに「戦跡」などを横目に進んでいくと大して時間もかからずに綺麗な弓状の砂浜に出る。そこには小川が流れ込み木々が繁茂し、一斉に白鷺や鴉が飛び立つ。だがどことなく薄汚れた感じもする。ちょっと不思議な美しさと残酷さを感じさせる。その先にある色褪せた朱い桟橋の奥が伝説深い「深浦神社」だ。

ここには夜中に白装束の女が出て、釣り船に乗せると柄杓で水をかきこむという、「船幽霊」「磯女」の変形みたいなものの出るという話が昭和になってからも語られている。死にはしないが熱にうかされたという情報がネットにも載っている。また先の灘あたりの砂浜にも夜中に「のびあがり」のような海坊主が出たというが、これも古い話ではない。高知のやたらと多いこのての噂話は研究している人も多いのでシロウト書きは避けておく。とにかく「舟でないと行かれない」とも言われた(じっさいは逆(北)側の精華園敷地から容易に行けるのだが)深浦神社がなんでこういう伝説を産む気味の悪い場所になったかというと、神社脇の水溜りのような池(堤防でかなり変形している)に理由がある。

ここから長浜の雪蹊寺の先まで手中に収めていたという宇賀長者の話は、平安時代を舞台によくある驕り高ぶった長者とその末路にまつわる伝説で、色々なところに書かれているから詳述しない。伊勢神宮をバカにしたために自宅敷地を盛大に燃やされた長者、その娘おぬい(お千代)が、通りすがりの若い山伏と懇意になったもののうざくなって逃げ回り、乳母が割って入るも血気盛んな山伏は納まらず、この深浦の海岸にあった池に追い詰めた。池は二つあったともいうがどちらかはわからない。当時このあたりの弓状の砂浜一帯が池だったともいい、とにかく大きく深かったようである。娘がまず飛び込んだ、ついで乳母も。山伏は目の前で沈む二人を目にして、己の業の深さを嘆き、自分も後を追って飛び込み息絶えた。長者は娘までをも失ったわけだが、この事件以来、池のあたりには「縁切り」の信仰が生まれる。「深浦神社」自体は無人であるものの立派なお社だが、その向かって左手、池を回り弓状の浜の曲がった奥、山林の中に、崩れかけた木造のバラックのようなものがある。正確には大きな小屋と、その手前(神社側)にごく小さな小屋、逆側に少し新しい小屋がある。大きな小屋を覗くと、北側に座席があり、南側に三つの小さな石柱が立ち、それらを囲む格子には赤い祈祷紐がたくさんゆわえつけられている。これは昔は髪の毛であったというが、よく見ると石柱の下にカッターや鋏が落ちている。いや、供えられているのだ。

この石柱が三人を祀ったものである。カナ書きの珍しい陰刻は古い布で覆われ殆ど見えないが、向かって左から「オヒメサマノハカ」「オウバサマハカ」「ヤマブシサマハカ」とかかれている。オヒメサマというのが長者の娘だが、この小さな石碑に「切るもの」即ち包丁やナイフなどを供え、あるいは自分の髪の毛を切り供えると縁切り祈祷になるといわれた。高知市街からかなりの女性がお参りに来ていたようで、小屋の壁には縁切り祈祷の宣伝紙なんかも貼ってある。新しい小屋のほうにも新しい石碑があるが恐らくそちらの関係かもしれない。小さな小屋はもうなんだか壊れかけているが、「ケンゾク様」という文字のかかれた紙と、落ちている道具から恐らく「眷属様」で、稲荷関係だろう。ちなみに山伏様に祈祷すると逆に縁結びになるともいう。往時は神社本社が「縁切りさん」と呼ばれることもあったというが、恐らく源は同じもので、何か理由があって分祀したのだろう(神社のご他聞に漏れず明治初期かもしくは戦時中か)。

池も小屋も一種独特の「あの」雰囲気があり、海の香りのする森は晴れ渡ったこの日においてもどこか不穏な心地がした。私は別に気にしないが気になる人は気になるはずだ。雨のそぼ降る日などはおすすめしない。

この先にはかつて陸地とつながっていた(潮が満ちると分かれるという)小島、ゴウシ山がある。精華園はそのすぐ前だ。このような「元・岬」の島が連続してこの先にあるが遠くから眺めるので十分だろう。このあたりはもう暖かな雰囲気で漁をしている人もいる。

精華園の地所を通らないと町へ戻ることはできないが特にさえぎられるものはないのでそのまま陸地へあがり道路のまま尾根に登ってすぐ左へ。気持ちいい夏の森を通って宿舎を尻目にミマセの集落側へ戻る。そこから右折して桂浜のほうへ向かう。右手に酔鯨酒造がある。

更にいくと桂浜方面に向かう道路のむこうに、四国八十八ケ所の雪蹊寺がある。長曽我部家の菩提寺で、明治時代に神仏分離令により脇に秦神社として分けられてはいるが、墓は残っている(元親の墓はちょっと離れている)。仏像は重文になるが一般公開は制限されている模様。昔無住の荒れ寺だった頃(名前は違っていたが)ここに「歌よみ幽霊」が出ると聞かされた僧侶月峰が一夜を過ごした。夜半「水も浮き世という所かな」という歌と共に泣き声がする。ハハン上の句が詠めず成仏できない者がいるのだな、と月峰、次の晩座禅を組んで待っていると、果たして同じ歌を詠む声がする。「黒染めを洗えば液も衣きて」と上の句を詠んでやると泣き声はやみ、以後ピタリと異変は収まった。この話が長曽我部元親の耳に入り、月峰は乞われて住持となり、寺も雪蹊寺と名を改めて勢力を盛り返した、と言われている。

このそばからバスで市街へ戻り、今回の目玉である赤岡の絵金まつりへ向かう。赤岡は高知市街から大して離れていないが、電車だと乗り継ぎの関係でやや行きづらい。

14,15日は元々幕末に絵金などの豪華な芝居絵屏風を立てて歌舞伎興行を打った(かつて回り舞台もあった)須留田八幡宮の祭礼の日で、絵金まつりはその宵宮の祀り方をヒントに7月第3週の週末の土日に行われるようになった奇祭である。まあ、今の形で恒例行事になったのは最近で、今年が第30回ということであるからようは町おこしの一環で明治以後途絶えていたものを再興させたのである。いささか有名になりすぎたその祭りかたは、土佐の沿岸地域一帯で行われる夏盆の水難霊を退ける祭と同様だ。即ち幕末のはぐれ絵師、絵金一派の描いた(実は言われるほど凄惨なものばかりでは無いのだが)サイケデリックなまでに豪華で暴力的な絵屏風を、それぞれ百目蝋燭一本立てておどろに店みせの門前に立て、「魔よけ」としたのだ。赤岡が栄えた幕末のころにはそれぞれ大店が絵金に一枚2両で毎年絵屏風を描かせていたのであるが、現在その頃から続く店は殆ど現存していない。絵金自体の評価も定まっていなかったことから(絵屏風が例年の「使い捨て」だったことも理由としてはあるのだが)残っている絵屏風も出せる程度のものは23枚(横町商店街の絵馬提灯を含めるともう少し多い)のみ。しかし町ぐるみ(といっても今は赤岡町という日本で二番目に小さい町は合併により消えてしまったのだが)で再興された祭りは、保存のため今は一箇所、絵金蔵という倉庫兼美術施設に集められて秘蔵されているが、年一回三日ないし四日間だけ各家に里帰りし、戸立てにされる。今のところ赤岡に現存する絵金屏風の殆どを見られる唯一の時期となっており、普段は2枚程度しか見ることができないから素人キャメラマンが多いわけである。

今年は週末と15日が重なっており、この日(14日)は絵金まつりと重ならない唯一の宵宮の日だ。宵宮は絵金まつりの余りの盛況に元々の雰囲気を再興させようと敢えて旧来の須留田八幡宮の祭礼の日に、出店も出させずイベントも打たず、8時以降電灯を殆ど消してまさに蝋燭だけの光で屏風を見せるもので、まだ2回目だそうだが静寂のおどろの祭りを求める(暇な)人がコッソリ集まる日となっている。

須留田八幡宮の祭りということで、フルで展示されるわけではなく、氏子の家のみ(実際には本町と横町の二商店街のうち本町のもののみ出している)ということで枚数は若干少ない。しかし絵金蔵で説明を聞いてからシャッターの閉まった商店街に繰り出すと、まるで京都の外れ寺の夜間拝観のような雰囲気の中で、フラッシュも焚かずに写真撮影にいそしむ少数の集団を尻目に、ゆっくり見て回ることができる。思いっきり血を滴らせるどぎつい描写の絵の前には特に人が多いが「絵金まつり」の比ではない。もっとも絵金まつりのほうでは説明等もしてくれ、また電灯で綺麗に照らされていて写真も撮り易いので、どちらを好むかは目的次第だろう。

確かに、おどろの雰囲気はした。9時には全てしまわれ電灯がつくし、商店街の中でもいろいろな人がいるようで難しい面もあるが(車のヘッドライトも照らさせないという警備員に文句を言う住民も)、時間が許せば見るのも一興である。絵画鑑賞には向かないが。

翌日、隣の野市にある龍馬記念館へ。蝋人形の中に絵金もいくつか展示されている。残酷な場面は説明版で隠されている。


旅行者には便利な土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線で和食へ。

駅からはちょっと離れているが和食川という比較的大きな川が流れている。そこに河童(じっさいはエンコウなどと呼ぶのだが)が出た。相撲をしかけてくる伝説は土佐各地で聞かれ、昭和になっても目撃談が語られている。どこまで真実かはよくわからない。民話から都市伝説的な噂話への換骨奪取とクールに見る人もいるみたいだ。ここには今は河童のキッチュな像が水中に立っているのみで、なかなかわかりにくいので近くの店で聞くとよい。車通りが激しくこれといった見所のない町だが、高知市街にはない鄙びた雰囲気がある。また広大な砂礫浜と海が素晴らしい。扇ケ浜は龍馬好きならどうぞ。荒くて泳げないが。



戻ってこの日は郷土史家のかたの話を聞き、その後絵金まつりの本祭を楽しんだ。これはエンターテインメントであり、宵宮とは別世界ではあるが、夜祭の雰囲気満点で外人さんも多くいた。横町の屏風絵を写真におさめ、さあ本町のほうも改めて撮影するか、といったところで突如デジカメが沈黙した。メモリ容量限界だというが・・・2GBのカードが1GBで限界、てよくわからない。寺跡の朝鮮出兵戦死者の墓は個人宅内でちょっと見られなかったので、かわりに駐車場近くの大きな無縁墓群を携帯のカメラで撮る。雰囲気はあるが「肝の弱い人」にはおすすめしない。土佐の人は割合古い歴史に冷淡で、古跡を訪ねてもしるし一つなかったりするのが残念ではある。


次の日も絵金まつりだが、とりあえずそちらはおしまいにして、高知市内を普通に観光旅行する。その中でいくつか。
:高知城の謎の文字。
:田中貢太郎の好物だった瀧嵐。
:戦争の爪あと。

雄大な鏡川のむこうに鎮座するのが筆山。ふもとの真如寺の名をとって真如寺山とも日輪山とも潮江山とも呼ぶ。城側には山内家代々の墓があるが、東から南側にかけてもびっしり墓が築かれている。坂本龍馬の父親もここに眠っている。昔はここからお化けがおりてくると子供を怖がらせたらしい。


五台山の裏側(北面)峰上下にある古跡で、こんな所知らなかったとタクシーの運転手のかたも言っていた。たまたま地元のご老人に教えられたずねることができた。

これは「はりまや橋」のお馬さんの実家あとと、洗顔に使っていた井戸。江戸時代のことでそれほど旧くはないから、多分本物だろう。ここで五台山(五本の登行ルートがあることから五大山といったという説もある)竹林寺の僧侶の洗濯を担っていたお馬さんが、修行僧純信の熱烈なラブコールで恋仲になった。お馬さんのもらったかんざしをうたったのがよさこい節である。

かなりわかりにくい道を登り行くと、大きな岩が尾根上に鎮座している。

このあたりの地は出会という古名も持っていた(今は屋敷頭という名もあるが、お馬さんの屋敷の意味ではない模様)。この岩はじつは、二人が人目をしのんで遭っていたという岩なのである。

物凄く見晴らしのいい場所だがつい最近まで樹木に覆われ人目につきづらい場所だったそうである。だから人目をしのぶのには格好だったわけだ。樹木伐採の末にこのあたりは牧野植物園の園地になるといい、これから有名になるかもしれない。今は誰かに聞かないと場所を見つけるのは難しい。

ここにも「都市伝説」がある。恋人同志が手を触れるとその恋は必ず成就する、というのだ。しかし一方、雨の降る日は女のすすり泣く声がする。僧侶と娘の道ならぬ恋は二人を物凄い遠くに追いやってしまう結末になるわけで、ここで死んだとかいう話はまったくないのだが、その声をカップルで聞くとやはり、恋は成就するという。

しかし現在ここに人が訪ね来ている形跡はない。恋のために山を登るなんてまっぴら、という感覚か。

すぐそばに儒教式の立派な墓が群在する。興味のある人には興味のあるものだろう。ここももっと整備されるはずだ。墓石に長尾という地名がみえる。弘法大師がこの尾根から足下の川を見おろし中国になぞらえ「長江」と呼んだのが始まりと言う。長尾という名に変形したわけだ。もちろん伝説ではある。

武市半平太の実家と歴代墓がそばにあるが、今も住居として使われているので静かにどうぞ。ここも余り人が来ないというが神社は立派である。

更に東へ向かう。稲生(いなぶ)は良質の石灰が現在も採掘されている集落だが、大きな下田川をはさんで南側に家並みを分け入ると立派な石垣を越えたあたりで左側(右は熊野権現)、非常にじめじめした山林の中に社が見えてくる。ビニールシートに覆われた土俵があるが、どこにもその社の名を記したものはない。稲生橋の欄干に彫刻があるので確かめに戻ろう。別名河童橋。ここが河童の霊をまつった河伯神社である。下田川には昭和になるまでエンコウが出没し相撲を挑んできたという。エンコウは猿コウと書くが水のもの、山のものはしばてんと呼ばれるが、同じものであるとみる人もいる。

祭にはきゅうりやなすを供えて水難除けとするという。奉納相撲のときは絵馬提灯も出て盛大にやるようだが、たまたま通りすがりの住民に聞いてもそのいわれは判然としない。けっこう拍子抜けする小さな社で、池橋の設置はむしろ弁財天のような感じもするが、全国にいくつかある河童の社として空港に行く途中に立ち寄るとよい。ここも人は余り来ないそうだ。

一般に伝えられる伝説にはいくつかあり、悪さをする河童を捕まえて村人が責めていたところ近在の住職が助命をし、その礼として村人の水難除けを約したというもの、河童が殿様が渡河するのを助けたことから祭り上げるようになったというもの、判然としない。

更に東へ向かうと空港である。空港の滑走路拡張でトンネルになった(滑走路の下を車が通るのだ)先、海側に戦跡がある。練習機体を収めた格納庫である。頑丈にできているうえ収納に便利だというので残されているが、ガイドブックにも記載され、園地化するかもしれないという。稲穂のなめらかな平地の中にまるで古墳のように点在する黒い塊は、半世紀以上をへてまだその存在を主張し続ける。

空港はもうすぐだ。

<オワリ>