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2006/8/15−17:京都異界つつき回り

盆の三日間京都に行ってまいりました。もうかなり行っているので、今回はヲカ案件に限って重点的に回りましたが、なかなか・・・難しいところも。

とりあえずのまとめということで(今までちゃんとまとめたことがあるのかと言われると苦しいw

8月15日(火)

自転車で市内を巡り点在するヲカ場所をまわりました。(ヲカ場所ですから)
自転車で十分です。今回は初日なので遅くなりましたが、中日で廻ったらもっと廻れた筈。
しかしけっこう長時間熱気にさらされることになり、疲れつつ思ったのが・・・京都は古すぎるんですね。

歴史的遺物もしくは伝承にすぎない、というところが多くて。応仁の乱より前の時代のものは、はっきりいってリアルなロマンを抱くのには古すぎます。じっさい恐ろしげな感じや不思議な感じを抱く場所が思ったより少なく、ちょっと残念な感じもしました。ほんとうに恐ろしいものは、人目につかないか、人目につかないような配慮がなされている、ってとこなんでしょうけど。

まず北上。

二条城のほど近く、千本通り沿いにあるのが朱雀門址。

上がる方向からすると右手、某宗教施設の前にひっそりとあります。
平安の時代も下るとあとで出てくる羅城門と共に魔の巣窟になったともいう。魔は何もヲカ的な存在だけではなくリアルな盗賊なども含めてということだ。

更に北上すると平安京の中心近くなってくる。ちょっと右手に分けて入り、NHKの前の公園へ。ここが二条児童公園・鵺大明神と鵺池跡。

少し前まで「単なる小さな窪みでガッカリした」とかいう話がきかれたものだが、今は綺麗に整備されている。新興住宅に囲まれた公園で、U字型に石で整形された池を見て鵺を退治した鏃を洗ったという伝説を思い浮かべるのは、しかしやっぱり難しい。明るい雰囲気の中にあり、子供がたくさん遊んでいる。昭和40年代に作られたという祠が唯一雰囲気を保っているが、全般非常に人工的だ。鏃は近所の小学校かどこかに保存されているらしい。京都の妖怪といえば鵺というほど有名なものだが、じっさいは一つの伝説ではないらしく、史跡も分かれている。ここは中でも有名で見つけやすいものではある。

通りに戻り交差点まで北上。交差点もそうだが、ちょっと回り込んだところにでかい標柱と公園がある。

大極殿址

大々的な発掘が繰り返され、交差点近辺にあった御所は建物の大体の配置が特定されている。このあたり殿中に頻繁に妖怪があらわれたという平安の夢。

北上し少し左へ分け入ったあたりに寺町がある。出水である。出水の七不思議というものがあり、今回は二箇所を廻った。

光清寺

一箇所目はけっこう有名な「浮かれ猫」の絵馬。江戸時代に別の寺にあった絵馬で、余りに生々しい猫の絵が、夜抜け出して音曲にあわせて踊っている姿を目撃されたという。墓地入り口の小堂の化け猫絵馬という風情は想像するになかなか楽しい。音曲をやる者に霊験があるという噂になり参る者も増えたが、例によって浮き出さないように金網で覆われてしまった。のちこの光清寺の弁天堂におさめられ、硝子で覆われて若干見づらいものの、近くで拝見することができる。絵は確かに江戸時代のもので、化けて出るというより写実のように見えるが、かなり色落ちしている。その様子が何か逆に恐ろしげな感じもする。この日の行程の中ではなかなか見ものだった。お寺は綺麗だが京寺にしては小さい。

すぐそばの「百たたきの門」「よなき地蔵」も見ておくことにする。百たたきの門は移築された古いものだがこの前で罪人が百叩きされ開放されたことからその名がついた。地蔵は比較的新しいものだろう。いずれ怪異といったものではない。

戻って北上すれば北野の商店街に出る。

大将軍八神社

四方を守る将軍社の一つという。方位の守りのたぐいが京都には非常に多い。中国伝来のその考え方を江戸東京は受け継いでいるが、京都ほど根付かなかった。

北野天満宮の参道左脇にお寺がある。

東向観音寺

巨大な五輪塔は菅原道真の母堂をまつる供養塔だがその前に小さくまとめられた石塔群、ひとつだけ小屋に覆われているのが謎の土蜘蛛灯篭である。これは明治時代に近所で発掘されたもので、持っていた人に不幸があり、これは源頼光の倒した土蜘蛛の呪いであろう、これが土蜘蛛の塔なのだろうということで納められたそうである。今は近くに寄ることができないが、遠巻きに見るに確かに何か、ありそうではある。辻にあったというから行き倒れ関連だろうか、土蜘蛛の時代は古すぎる。このあたりに土蜘蛛〜土侍がいたというのは本当だろうが。

北野天神本殿

以前改修中で見られなかったもので梅干を乾かす内殿を見学。国宝。いわずと知れた京の怨霊社の一つ。

本殿より右手の路に入りゆくと京都で戦乱の世に焼け残った唯一の古寺、千本釈迦堂に出る。こちらも昔来たときは改修中だった。国宝。巨大ではないが巨大に見えるくらいリッパである。内部には矢傷刀傷が生々しいが今回は省略。裏手にある「おかめ塚」も省略。

千本釈迦堂

少し北山へ向けて登る。駅より北山まで高低差60メートルというから、ほんとにちょっとしか登らない。程なく右手に現れるのは石像寺、釘抜き地蔵だ。老人の痛みを抜く信仰がある。鎖の釣瓶が懐かしい。奉納された釘抜きが目珍しいが、怪異とみるのは余りに失礼だろう。普通の民間信仰といった風情の小さな堂である。

道なりに北上すればすぐ左手に見えてくる上品蓮台寺。

由緒有るお寺だが、ここにも土蜘蛛関連遺物がある。頼光塚ともいう土蜘蛛塚である。先の土蜘蛛灯篭も土蜘蛛塚と呼ばれる場所で発掘されたそうだが、この塚も近年移されてきたものだそうだ。楠の大木と一体化した塚の周りは綺麗に整地されてはいるものの、そうとうに古い無縁石仏が林立しており、「風情」がある。昼間だったが、ここには非常に強い感じを受けた。寺は細長く道沿いに寺領を持っているが、堂からかなり右手にいったところの墓地のどんづまりにあるのでお見逃し無く。

右手に新興住宅街を入っていくと左側に丘がある。これが船岡山である。このあたり北野から北はもう京の周縁にあたり、従って墓地であった。京都は古いムラの形態を大都市に応用したような町で、古代よりムラの境目外に墓地をおき守りとしつつ穢れをよけたメンタリティがそのまま町の構造にあらわれているといってもいい。この丘近辺蓮台野や紫野もまた墓地を含み、丘そのものが異界の入り口でもあった。丘の上には疫病社があったが、それが大徳寺の北にある今宮神社の前身である。

この大社は行ってみて実は既に行ったことがあると気づいたのだが、この不思議物件は見逃していた。

おもかる石

民間信仰のものである。撫でた手で体の悪いところを撫でる、あるいは悪いところを撫でた手で石を撫でると病が石にうつるという、おなで石なのだが、転じて占い石という属性を得た。思うことをうかべながらさすり持ち上げることでその思うことが当たるかどうか、軽重に現れてくるという。清水だったかの石塔でも似たようなものがある。更に各地に軽重で吉凶をはかるものや、願い事をかなえるものが伝えられている。

大徳寺境内を南へ走り抜ける。この大寺はいくつかの寺で構成されているが非公開の部分が多い。今は博物館に寄託されている妖怪絵巻が伝わった真珠庵も非公開である。その他異界的な伝承は残るが前に来たこともあるので、今回は省略。

東へ抜け大通り沿い島津製作所紫野工場敷地内に小野タカムラ・紫式部墓がある。形が珍しい。墓石ではなく長円形の墳墓が寄り添うように成されている。時代はそれほどないと思うが、場はここで正しいのだろう。近所の玄武神社は方位を司る四神の一つ玄武をまつる。マンション前の人工的ななりは少し興をそぐが仕方ない。亀と蛇の絡まる姿は高松塚古墳の壁画で知った人も多いだろう。

東南へ進み、次は応仁の乱の勃発地でも知られるこれも怨霊社、上御霊神社。

古い風情がのこる。今まで廻った街中の寺社はいずれも既にリニューアル済といった風情だったゆえ印象に残った。

すぐ南に大徳寺に匹敵する広大な寺域を占めるのが開放的な相国寺。金閣銀閣の本山だ。ここも季節以外は寺宝非公開の静かな寺ではあるが、整然と整えられた寺域の東側にある鐘楼、その裏に化け狐をまつった宗旦稲荷がある。実在の茶人宗旦に化けた古狐が立派に振舞い親しまれていたという江戸時代の伝説が伝わっている。この寺域も昔は狐の住まうほど藪深かったのだろう。最後は殺されてしまったが、祠に祀られる様になったというのはどこか物悲しい。というか個人的には狐ではなく人だったんじゃないかという感覚を抱いているのだが。狐と見破られて窓を破って出たときの茶室が残っており、その窓が大きいのは飛び出したときに大きく壊れたからだというが一般には見ることはできない。

南に上れば程なく京都御所に出る。今出川御門から入ると案外小さい御所の回りの白砂利のぐるり、左手即ち北東の隅が欠けており、近寄ると軒先に金網に覆われた木の猿の横姿が見える。御幣を片手に走るその猿姿はこの近辺他の社などにも見られるものである。ここが有名な猿ケ辻である。縁起が悪いとされたこの角、北東であるから鬼門にあたるわけで、げんをかついだ昔の平安人にとっては当然恐ろしげな場所であった。正直白砂が眩しくて幻想的ではあるが怖さは少しもなかった。

一条通りを西へ進むと一条戻り橋。

戻り橋伝承は京都各所にあるが(先ほどの百叩きの門のあたりにも)ここが一番有名だろう。安部晴明が反魂の法を行ったとも、橋下に晴明の式神(像)が一式埋められており、掘り出した人が恐ろしくて埋めなおしたともいわれている。

もちろん今は全くその風情はない。橋は新しく改修され、石底の川は干上がっている。

陰陽道は今は小説やマンガのイメージでまるで白魔術であるかのように語られるが古い人に聞けば忌むべき邪道という見方が多いことに気づくだろう。明治神道に反する邪道として排斥された歴史を持つ。じっさい呪いであるとか現世利益的な呪術をなりわいとしていた節があり、もちろん平安時代から鎌倉時代あたりにおいては普通の宗教もしくは術であったものが、その後どんどん呪術化していったというものである。

現世利益という点では今の晴明神社のありようも忠実にその伝統を守っていると言えるだろう。私は全くここで何かを感じるということはなかった。晴明は呪術師ではなく博士だった。茶の湯として珍重された晴明水の清冽なさまを見ても、かれはやはり学者だったのであり、その知識や知見を応用して呪術とも見られかねない科学的な方法を披露していたのだろう。晴明は翌日廻った秦氏の始祖にも関連している。その存在は謎めいた伝説の澱をまとっているものの、その時代においては確実に権威であった。神社は西側から来ると少し迷うと思う。西陣の古く小さな町並みが懐かしいが、周囲のアパートや堀川通りのさまが風情をなくしてしまっている。

ここから更にぐっと下り、河原町方面の繁華街へと向かう。

中京郵便局は古い建物で元々芸大の建物であった。更に1000年遡ればこのあたりは鬼殿と呼ばれた文字通り鬼(元々は藤原朝成の怨霊)の出る廃墟跡であった。しかし今その面影はない。源融の河原院跡とならびこの場所も確実に忌み地であったのだが、標柱すらもない状態である。京都は歴史が長いだけに忌み地のような場所が多く、逆にそれを忌む意味で余り喧伝されていない「物件」がまま見られる。知っている人に聞いたり、ちゃんと調べて行かないと迷う。

六角堂は街中のにぎやかな寺で西国巡礼の場所でもある。この境内にも物件がある。

六角堂へそ石

聖徳太子が建てた六角堂は移動可能であった。しかも自分で移動したという伝説がある。へそ石はいにしえの堂の礎石といわれているが見た目かなり小さく、京都の中心を示す「へそ石」というのが正解かもしれない。

弁慶石

一応弁慶の念の篭った石という話になっているが怨念物件に近い感じではある。非常に繁華なビルの下にありちょっと見わかりにくい。

更に南下していく。四条通り沿いにかなりわかりにくい場所であるが不思議な小路地がある。ここだけ喧騒からはなれ静かな古い京町の風情を保っている。

膏薬図子

名前の由来は異説もあり判然としない。鍵型によじれた路地は町屋や小飲み屋が居並んでいるが、一軒の軒先に小さな祠が埋め込まれている。

これが平将門の首をさらした場所である。祟りがあったというが流石に古い話、今は東京の神田明神を勧進し鎮まっている様子ではある。雰囲気はあるがそれが将門のせいなのかこの場所が古いまま残されているということなのか、人それぞれ感じ方は違うと思う。穏やかだった。

五条へ下ろう。途中松原通りを鴨川方面に向かう。五条大橋の渋滞を尻目にこちらは静かな京の河原風情を保っている。この松原橋がじつは本来の五条大橋にあたる。正確には義経弁慶の時代の五条大橋がここだったというべきか。鴨川の流路も変わっていて、川向こうに見える宮川の一角は昔は中州だった。橋は中州をはさみ二つに別れていたのである。中州に今はもちろん移転しているが法城寺という寺があり、そこに塚があった。「晴明塚」である。この塚を信仰する一団がいたという。陰陽道が独特の信仰形態を保っていたことを伺わせる史跡である。

五条河原のすぐ脇の小流は外国人も好んで写真にとる美しい風情だが、ここに陰惨な標柱がある。河原院跡である。怨霊で名高い源融の住宅跡地だ。ここは土地柄もあるのか、少し荒ぶる感じはした。

五条通り沿いに西へ戻り金物屋が多くあったという筋をたどると有名な金輪井戸(万寿寺北の鍛冶屋町。堺町通りを北上し、通りの左のタオル屋林亀商店の左路地入る)がある。謡曲の金輪の発祥の地、丑三つ参りの女縁の井戸であり、縁切りの利益があるという。家と家の隙間から入っていく場所だが、今は小さくも綺麗にわかりやすくなっているので難なくはいれるだろう。この井戸からは実際に古い金輪がたくさん見つかった。金物との関連もあるだろう。雰囲気はあるが禍々しくはない。

この近辺の神社などにもいくつか伝承がある。五条大橋で義経弁慶が対峙したというのは実は松原の神社前だった、とか。今回は一箇所だけ、これもイワクラ信仰の一端であり、方位守りの一つでもある。

石不動

ほんとに何気ない辻のお堂である。酉歳に利益。

ここまできたら新京極辺りまで戻ろう。繁華な場所は自転車通行禁止なので降りて歩くかどこかに置いて来るといい。

本能寺


矢田寺(送り鐘)


池田屋騒動址

池田屋が今はパチンコ屋になっているというのは有名な話。矢田寺は奈良の地蔵で知られる矢田寺の末寺だが、六道珍皇寺の迎え鐘に対する送り鐘で知られる。炎に包まれた地蔵像が印象的。鐘があからさまに頭上にあるのが面白い。本能寺は元々別の場所にあり、こちらは織田信長の位牌を守っているというだけで場所に意味はない。

ちなみに南にくだると坂本龍馬が凶刃に斃れた醤油商の近江屋跡地がある。今は酢屋になっており雰囲気は残る。若干の資料展示もある。



というわけでかなりこれがギチギチに詰め込んだ感じの一日行程である。季節がよければ自転車はかなりお勧めである。

ちなみに更に南に回り、東寺をこえて羅城門跡へも行きました。空海の身代わりで矢を受けたという矢負い地蔵(矢取地蔵)がここにもある。



8月16日(水)

この日は予定を詰め込めなかったので、再訪にはなるが西ノ京から太秦近辺をたどる形になった。つまり秦氏やその他、都とは異質の存在のいた西南周縁をなぞったわけである。

京都駅から亀岡行きバスに乗り、老の坂峠から酒呑童子の首塚へ向かう。ちょっと道がわかりにくいが、とりあえずバス停そばの地蔵堂へ。中は見られないが、この地蔵が京の町に入ってくる魔を退けていたという話がある。酒呑童子は実在の地侍集団みたいな感じで伝えられているが、大江山ではなくこのそばの大枝こそ根城だったという話もある。一般に伝えられている話では源頼光一団がこの峠を越えて京まで童子の首を持ち込もうとしたところ、不浄のものを持ち込むのはまかりならんと言って、怪力の坂田金時が持ち上げようとしてもまったく持ち上がらなくなってしまったため、ここに埋めて首塚としたという。首を斬られるさい童子が改心して首から上の病気に利益あるものにならんと言ったことからこのリッパな社に参ると首が治るともいったそうだが怪しい。藪の中でわかりにくく(ちゃんと入れば道はある)入る道を間違えるとたどり着けないので、最悪山上のクリーンセンターの職員さんに聞くか、老の坂トンネルの逆側左手のバイパス沿いの道から林道へ入るのがよい。

首塚大明神

昔はおどろの木の社であったようだが今は端整な社になっている。場所的には神秘的だが、恐怖とかそういうものは全く感じない。これは神様だろう。酒呑童子は鬼の一族ということだが八瀬に比叡山の坊主につかえる鬼(上の点(角)を除いてかかれる)の一団との関連もあるとのこと。こちらに酒呑童子の棲んでいたという洞窟も有るそう。

拝殿裏が本殿がわりの石塚になっている。


桂駅へ引き返し近鉄電車で嵐山へ。

嵯峨野清涼寺に向かう。この大寺はもう何度も行っているが、今回は一箇所だけ確認。本堂向かって左手の薬師寺堂前に新しい標柱がある。

「生の六道」跡

即ち小野タカムラが東山の六道珍皇寺の井戸(拝観は要連絡)から冥界へ降りていって、出てくるときに使ったのがココにあった「六ツ井」だという。六道珍皇寺が縁切りの井戸になっているのに対してこちらが逆の信仰をもっていたというのは想像にかたくないが、やはり伝承というものは「いいものから消えていく」。悪いほうが残るのである。

六ツ井については井戸それぞれにおかれていた地蔵のいくつかがまだ残っているともいうが、今回は確認しなかった。寺内には昨日訪ねた河原院の源融の古塔もある。

戻って東へ。

安部晴明墓

余りに新しく作り直されすぎており、いくつかあるという安部晴明供養塔の中でも「作られた感」の強いものではないか。不思議な三重の塔に五ぼう星が貼り付けられているさまは殆ど新興宗教だ。

京福電車の「さがえきまえ」から「かたびらのつじ」へ電車に乗る。

帷子ノ辻

駅前が一般にそう呼ばれる場所だが実際はもっと東の線路をこえたあたりだそうである。

妖怪好きなら妖怪草紙に見られる「帷子ノ辻」を思い出すだろう。このあたりも京のはてであり墓地であった。中世上古は風葬が一般的であったからこのあたりに捨て置かれる遺体も多かったろうし、ここに光明皇后などの遺体にまつわる逸話が残されているのも因縁めいている。江戸時代になっても痛んだ遺体の幻影がみられたという話は怪物図録のほうにひいてある。

南へ住宅地の中に入っていく。このあたりは秦氏の土地、渡来人郷であった。秦氏は渡来人ではなかった(渡来系の名前を利用した)という説もあるが、一般にはそう言われている。初期秦氏関連とされる巨大な墳丘墓がいくつか分布しており、中でもこの巨大な露出した石室は圧倒的な存在感をほこる。ちょっとびっくりするほど大きく、石舞台より荒々しく大きく、切石もまるで庭石のように美しい。

蛇塚古墳

この石室を中心に前方後円墳の後円部が同心円状にあったというが全て住宅地になっている。しかし石室まわりの家は同心円状に区画され、不思議な景観を保っている。狭い住宅地にこんなに巨大な石室が座っているさまは圧巻。近所の家が鍵を預かっているそうなので興味があれば中に入ってみるのもよいだろう。よく保存されている。名前はこの石室をあけたときにたくさんの蛇が出てきたという伝承から。夜刀の神を暗示するような話である。女盗賊の根城になっていたこともあるという。

石舞台を彷彿とすると書いたが、じっさいこの土地が京の町からは「離れ」にあたる渡来人の居留地であったとしたら、飛鳥が渡来人の居留地であり石造技術が伝えられていることとの関連性を想像させる。秦氏の興隆と飛鳥京の時代はかなり違うものの、切石積の巨大石室自体の時代は同じように見える。

広隆寺

秦河勝の建立したという大寺で文化財的にも大変貴重である。京都では一番見ごたえがある仏像の宝庫。

大酒神社

奇怪な牛祭りも荒ぶる渡来神と関連がある。大裂神社と書いたともいう。秦氏の没落とその恨みが関係しているともいう。

蚕の社

かなり不思議な社配置で、三つの鳥居を三角に組んだ三柱鳥居が丸い池の中に立っている姿、その三角の下の石積みと立てられている御幣、丸池から南に流れ出す人工の川、その短い流路を塞ぐような稲荷社、それらの構造と関係無しに並立する神社本体、意図的なものを感じる。今回一番「怖い」感じがしたのはここである。怖いというか重いというか、稲荷が「強い」。水が枯れ川に僅かに残るだけだったところも、何か信仰の途絶のような感じに見えてしまった。全般にモノ自体は新しい。三井財閥の信仰があつく東京の三囲神社に三井家にあった三柱鳥居が移築されているのは有名な話。こちらは陸上ではあるが、三角の下には井戸がある。「三角」+「井戸」=三井の洒落である(しかも「三囲」自体、三+井戸を囲む四角形といった名前である)。しかし泉の上に三柱鳥居を組むという意匠が本来のもので、神道の源流の一つの土俗的な姿かもしれないと思わせるものである。天虫信仰が併合されたのも偶然ではなかろう。鳥居は人界と異界の境目を示す門であるのに、三角に組んだら「どこにも行けない」。諸星大二郎さんのマンガにそのあたりに焦点をあてたものがあったかと思う。三角という象徴的な形に、先の晴明の墓並びに秦河勝幼少時の邂逅の伝説と絡めて陰陽道との関連を考えてみたが、いずれ想像にすぎない。

花園駅に近づくと双ケ丘がすぐ左に見える。この丘にも秦氏の古墳が分布する。

夜は大文字焼き、正式には精霊送り火。僅か15分、盆は終わりである。

8月17日(水)

比叡山へ登るのは三回目である。

じっくりと廻った。

山は単純にいい。坊さんはいろいろだし商売気も気になる、山上には大して宝物がない、でも

何かある。

こんなに物凄いとはね。霧の中、目的の半分も回らなかったが、充分感じとれました。

単純なところでは横川の元三堂で、深刻だが実は心は決まっていることをカマをかけるように占ってもらったところ、お見事。自己判断と違わぬ結果・・・凶。ぶしつけな感じの若坊主も一瞬戸惑ったみたいだが、ああ流石鬼と通じる幻妙さ。ちなみに異常に霧が濃い道があり、一礼して退いたらその下こそ元三大師廟だった。

山に散在する異界の一つとも噂される。いや、みくじだけで充分です。今度日吉大社から行くときには遺言で荒れたままにされているという簡素なお墓にご挨拶して、続きの託宣賜りましょう。占事の続きがある前提だ。御神籤発祥の地にして角大師鬼大師信仰の中心、仏道の本道ではないにしても神秘と神聖は変わらない。東京深大寺にはじまる全国角大師巡りも遂にここまできたなと。深大寺や上野東叡山や日光東照宮の灯籠をみつけた。

ちょっと長くなってきたので、駆け足でいきます。

横川(よかわ):

中堂前庭(鬼の奇祭)

護法石


元三大師堂(元三大師と弘法大師のいずれも奇怪な伝説が混ざっているが、とくに角大師とよばれ魔物と戦うため己も角ある骨身変化と化した元三大師はその姿を奇怪な図に写したお札が各地で退魔札として配られ、無邪気でたちの悪いヲカルトマニアに好まれる。弘法大師は鬼に姿を変え世俗人気を自ら失わせた話があり、しばしば混同される(だから同じ構図で鬼の絵の札もある)。堂の本尊は元三大師の絵。禅をくむ弘法大師の影が壁に焼き付き、描き写すと消えた、その絵とのこと。)

三重塔(将門調伏伝説)

弁財天(竜神伝説)

西塔近辺:

狩籠の丘(散在する岩の下に魑魅魍魎を封じたらしいが、結構手が入っている。気流の関係で風と霧が乗り越していく場所ゆえ神秘も危険もあるだけのように思えた。少なくともハイウェイのおかげで原形はない。ちなみにハイウェイは原則歩行禁止です)


西塔:

弁慶のにない堂(不思議な二つのお堂が架け橋でつながっている、まるで担ぎ上げられるような形であることから、弁慶がこの堂を担ぎ上げたという伝説が生まれた)


東塔:

舟坂(禁制のはずの女人の霊が船で登ってきたという荒れた参道)

幽霊の水垢離伝説のお堂跡(ここに置かれた位牌が夜中に揺れた。沢音に坊主が下ると女が行水していて、坊主の覗き見を諌めたという)

東塔(近辺に「なすび婆」の出現した堂があった)

婆のついたという鐘(幸福の鐘)

総持坊(恐らく観光客の好奇心を煽り、寺とトラブルになったのか今は延暦寺から切り離されて遠回りしないと見られない。一つ目一つ足の一つ目小僧を奉るというのでマニアには有名。慈忍和尚の死後変化像。門前の新しい板絵しか見せず、和尚の朱い杖も今は隠されてしまった)



・・・ヲカ系はこのくらいです。

:国宝・根本中堂



おわり。



おまけ。

その日の夜(某コミュニティ日記より転載)

>便所へ行く途中、廊下の天井につくほどの巨大な人影。坊主頭しかわからない。肩幅も廊下の幅ほど。頭部分を見つめても消えない。何か別のものの影かとおもって用を足し外へ出ると、まったく何の影もない。

>前の便所行くときの話し、結局朝まで起きていたのですが、もう一回便所にたって帰るとき、階段を上がる小さな腰の曲がった老婆のようなものの後ろ姿を一瞬見た。かなり速かったので認識できたのは、着物がまるで柔道着のような生白い厚手の感じで、小さな裾がすっと階段に消えるところ。

あーもう脳おかしいわ。

>そして二晩続けて金縛り。金縛り自体は除け方を心得ているので翌朝余り覚えてないもののゆえ、今思い出した。

除け方は前も書いたけど結局電気つけっぱなしにするのがいちばん。かかってるとなかなかそこから抜けて電気つけらんないのだが、そんなときでも声はそこそこ出るので、場違いなくだらないふざけたことを言ったりすると弱まる。昨日はなんだったかなー、、、

これらも結局自分の内面の病的なところを笑いに逃がすというような理で解決できそうですけど、どうなんだろう、どっちの解釈も明確にはしたくないな。

<最終的には翌々日夜また同じ廊下で、戸棚の陰に投射したような光の姿で、異様ななんともいえない形の小さい「動物らしきもの」がぽっと現れたのを見た。それから、何も出なくなった。化生の小物がついてきたということなのか?狐だと思っていたが、その異様な姿を反芻すると、豆狸のような感じもする。>

8/22追記: <へんな子狸みたいな光る影を見てから何もなかったと書いておいたが、さっき顔の横の壁にまた光る小さな影が。同じだと思う。

子狸だと思ってたけど






男の顔だ。>