-2019/1/9や、ら行、わ行、その他(2/5修正)ravel,rousselは別掲
ヤーネフェルト:前奏曲,ロジンスキ指揮クリーヴランド交響楽団(LYS/COLUMBIA)1941/12/28 ヤーネフェルドが正しいの?素朴な響きで朝のNHKラジオのどこかでテーマにしてそうな古風な作品。フィンランド国民楽派の作曲家だが、グリーグあたりと同傾向。短いが変化に富んだ楽しい楽曲だ。演奏は引き締まっていてロジンスキらしいがいささか録音が悪い。ロジンスキで録音のいいもののほうが少ないようなものだが。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヤナーチェク:「利口な女狐の物語」組曲,ターリッヒ指揮チェコ・フィル(SUPRAPHON)歌劇からの抜粋。ヤナーチェクの作品としてはそれほど完成度が高いとは思えないが、たとえば田園風の楽想においてはイギリス近代音楽と共通するものを感じるし、この曲に限らないが、新ウィーン楽派のベルクのハーモニーに似たものを感じる場面もある。民謡韻律が無調の方向にシフトしていくような感じさえ覚える。基本は旋律的なのだが、効果音的断片の集積が不思議な曲調を産んでいる。ターリッヒはここでも美しいひびきを奏でている。が、やはりこの曲は歌劇で見るべきかもしれない、というところで無印(勝手やなー(笑))。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヤナーチェク:ヴァイオリン・ソナタ,○マテラッシ(Vn)ダラピッコラ(P)(stradivarius)1950/12/30フィレンツェ・CD,,異様な迫力のある曲で、内容のある曲とはこういうものを言うのだろう。同年代の作曲家でも前衛的感覚の鋭さや新しいものへの貪欲さの強い、しかし同じくらい民族楽派としての立ち位置にこだわった作曲家もいまい。冒頭よりやや古風な国民楽派的メロディが続くがフランクからドビュッシーなどフランス派的な響きやフレーズが断続的に現れ、フォーレをエキセントリックにしたような音楽というべきか、思索的な繰言、あるいは短い叫びのようなものが何度も地面に向けて叩きつけられる、形式的なものなど殆ど無視され音楽は盛り上がっていくが、最後はアダージオの闇に沈む。個人的なもののみならず時代性とも切り離せない陰のある音楽で名技性に依ることなく円熟した書法が反映され、何か病んだ自己韜晦的なものも抽象的に昇華されている。演奏はある意味ニュートラルであるがゆえに本質に迫っているようだ。ヴァイオリニストは巧い。ダラピッコラは伴奏として完璧な表現を提供している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヤナーチェク:シンフォニエッタ,○クーベリック指揮バヴァリア放送交響楽団(FKM:CD-R)1981/10/15LIVE,,どうも、これだ、という演奏にめぐり合ったことのない曲だ。この演奏もクーベリックとは縁深いオケだけあって非常に明瞭で力強い演奏になっているが、イマイチ吹奏楽の域を出ていない。とても国民楽派の曲とは思えない新鮮さを持った傑作であるだけにクーベリックあたりの熱血名匠には名演を残してもらいたかったが、聴きやすいものの、それだけ、という感触をもった。十分鑑賞に耐え得ると思うので○はつけておくが、何か決定盤が欲しい曲である。それだけ難しい曲ということでもあろうが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヤナーチェク:シンフォニエッタ,○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(WEITBLICK)1972/9/29LIVE 何といっても冒頭と追尾を飾るファンファーレがどう決まっているか、が肝要。ここで弛緩がみられる演奏は多く、聞く気を削ぐ。このケーゲル、さすがに鬼のような表情がきいたのか、緊張感漲る演奏ぶりである。冷たい熱情を感じさせる。そう、至極冷血動物な指揮ぶりなのだが、ライヴのせいか、聞きごたえはある。引き締まった演奏と言うべきだろうが、それだけでは言いつくせないない何かを感じる。オケも巧い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヤナーチェク:シンフォニエッタ,◎ケンペ指揮BBC交響楽団(imp,BBC)1974/8/30live・CD,,とにかく弛緩しない!特に中間楽章における管楽器陣の超絶的な吹奏に耳を奪われ、音の決して途切れないブラスの咆哮を聞きながら、この曲で初めてカタルシスを覚えることができた。オケコントロールの抜群に巧い指揮者と言われているが、長い音符が多く大して構造的でもないこの曲からここまで引き締まった響きを引き出したのも凄いと思う。じつはそれでも、曲に入り込むことはできなかったのだが、相対的に◎とするのに躊躇は無い。終演後の凄まじいブラヴォは、盛り上がるのが当たり前のプロムスとはいえこの指揮者のカリスマ的人気を裏付けるものだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ヤナーチェク:シンフォニエッタ,○シルヴェストリ指揮ORTF(sun jay:CD-R)1966live,,およそ曲が楽団にあわず、この曲に期待される東欧的な強靭なブラスというイメージを満たす斉唱というのは聞かれず、ソロもよたったりアンサンブルがグダグダだったりするが、それは全体にも言えることで、とにもかくにも「シルヴェストリ」なのだ。熱くひたすら強引に盛り上げて、その場限りの演奏を作り上げる。方法論的に晩年チェリとは対極で後期バンスタに似ている。だから会場は大いにブラヴォ大喝采なのだが、やはりどう聴いても二流演奏に聴こえてしまう、いや、シンフォニエッタでこれほどグダグダで、しかし好き放題やってる、破天荒な魅力を発揮する演奏は特異だ。その意味で聴く価値はあるかもしれない。ボーンマスかと思ったらフランス国立放送管弦楽団とは・・・いちおう○。ステレオ録音だがややよたる。,"",-----,,,,,,,,,,,,
ヤナーチェク:シンフォニエッタ,○テンシュテット指揮ハンブルグ北ドイツ放送交響楽団(En Larmes:CD-R)1980/3/3,,ライヴらしいが拍手は消されている。やや荒い。勿論とても私など弾きたいとは思わない複雑民族怪奇な無茶を要求する曲なだけによほど機能的なオケでないと完璧に吹きこなすことは無理だと思うのだが、特にこの演奏ではがっしりしたフォルムを造ろうとしてはいるものの、トリッキーで奇矯な動きを振りまく旋律線の底をしっかり支えるべきリズムセクションがもともと弱く書かれているために、根本的にまとまりづらいからどうやっても軋みが避けられない。可塑性に富む不規則なリズムの多用、またそのリズムを担う楽器が低音とは限らないため何か間が抜けたような感じに聞こえがち。グダグダになりやすく、聞いていて辛くなる演奏も多い中、まだこの演奏は聞かせるだけの芯の強さを持ち合わせており、弛緩を辛うじて避けヤナーチェクの先鋭裏腹弱みを何とかカバーしているのは評価できると思う。既に紹介した演奏とおそらく違うもので、こちらのほうがミスや不整合が目立つように感じるが、いちおう○をつけておく。ギリギリで。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヤナーチェク:シンフォニエッタ,○テンシュテット指揮ロンドン・フィル(BBC,IMG)1991/4/2LIVE ヤナーチェクは独特の作曲家だ。前衛と言っていいかもしれない。ひびきには常に「単純な奇矯さ」があり、独特の冷たい空気感の中で熱気溢れる叫びをあげるといった趣がある。この曲はたいがい2部きり、時に1部だけの剥き出しの声部が旋律やリズムを必死で奏でて次の声部へ音楽を繋いでいく。じつに独特の書法で、まとめづらそうな一曲。テンシュテットは正攻法でいくぶん落ち着いた演奏を行っている。この曲は裏青盤で見たような気がするし決して馴染みの無い曲だったとは思わないが、スケール感がありメリハリのきいたいい演奏だと思うものの、全体設計が見えてこず、盛り上がりの持って行きどころがイマイチ不明瞭に感じる。もともとそういう曲であることは承知の上で、何か熱いものがほしかった、と印しておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヤナーチェク:シンフォニエッタ,○テンシュテット指揮北ドイツ放送交響楽団(LIVE SUPREME:CD-R)1977/11/14LIVE ヤナーチェクとはつくづく時代を先駆けた作曲家だったのだなあ。テンシュテットのドイツ的な無骨な演奏で聞くと尚更その響きの特異性や民謡旋律の用法における現代性(ロシア五人組などに見られる前世紀的な民謡引用ではなく、コダーイやバルトークなどに聞かれるような作曲家による昇華の手続きをへたものとして)が浮き彫りになる。音色は透明だが力強い表現はこのオケらしいところだが、それらにハッパをかけるテンシュテットの気迫に感心。武骨すぎてややだらしないところもないではないが、この曲をあまり知らない私も、楽しく聴きとおせた。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヤナーチェク:シンフォニエッタ,クーベリック指揮ウィーン・フィル(ANDANTE)1955/3/3LIVE うーん。。ブラヴォーがすごいが、 私ははっきり言ってそそられなかった。ヤナーチェクに必要と思われる民族色と冷え冷えとした硬質さに欠けている。この音楽の魅力がちっとも引き立ってこない。どうもクーベリック/ウィーン・フィルの組み合わせは私と相性が悪いようだ。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヤナーチェク:タラス・ブーリバ,○ホーレンシュタイン指揮BPO(放送)1961/8/30エジンバラ音楽祭live,,スケールの大きな、最初はディーリアスを想起するような響きの繊細な動きを的確にとらえたような表現に耳奪われる。ドガチャカの派手さを志向してはいないが、後半はベルリン・フィルのブラスやパーカスをたきつけてドライヴしていくさまがそれなりに楽しめる。佳演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヤナーチェク:狂詩曲「タラス・ブーリバ」,○スワボダ指揮ウィーン交響楽団(WESTMINSTER)スワボダはLP屋でよく目にする名前だ。私は良く知らないのだが、一部に人気があるようである。この演奏を聞くとよく音楽の流れをとらえて的確に指揮するタイプと感じる。ウィーン交響楽団は鄙びた独特の雰囲気が漂うものの、普段の雑味の多い演奏からするとずいぶんとスマートであり、響きも多彩で面白い。ウィーンのオケを指揮する人の中には、その持ち味である音色やカンタービレを完全に排出してしまう指揮者も少なからずいるが、スワボダはそのタイプではないことは確かだ。曲もいい。晩年に花開いた「ボヘミアのムソルグスキー」の65歳のときの作品だが、引き締まった構成と新奇な響き(鐘の音が多分にイマジネイティブ!また、民族的表現に基づく不協和音もまたとても美しく聞こえる)、北方的な爽やかな曲感が初めて聴く人も魅了する力に溢れている。ゴーゴリの英雄叙事詩の主人公であるタラス・ブーリバは、15世紀小ロシアのコザックの英雄である。3部に別れ、それぞれ「アンドゥリーの死」「オスタップの死」「タラス・ブーリバの劇的な死」と名づけられているが、曲は明るくあまり死を予感させる雰囲気は漂わない。表題性から離れて作品を純粋に楽しむのも一つのやり方だと思う。私は「オスタップの死」の冒頭の清々しい曲想が好きだ。中声部が抜けたスカスカの響きは北方的だがマーラーを思わせるところもある。そういえばマーラーも鐘を効果的に使っていた。ヤナーチェクはかつて現代音楽扱いされていたこともあるそうだが、マーラーの時代性を思うと、決して前衛でも後衛でもない同時代性を持った作曲家だったのだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヤナーチェク:狂詩曲「タラス・ブーリバ」,◎ターリッヒ指揮チェコ・フィル(SUPRAPHON)モラヴィアの作曲家ヤナーチェク。ロシア国民楽派に傾倒し、その手法をモラヴィア音楽に適用して独自の歌劇形態を確立した。その作品は歌劇のみならずバレエ音楽、純管弦楽や室内楽など幅広く、印象派以後の新しい音楽に対しても積極的に関心を示した。その音楽には前世紀的なロマン性と同時に鋭い現代性が感じられ、1854年生まれの作曲家とは思えない清新な作風を持っている。このタラス・ブーリバは代表作といってもいいだろう。ゴーゴリのテキストによる英雄叙事詩的な内容の作品だが、純粋に音楽だけを聴いても十分楽しめる。鐘やハープの効果的な響きがちょっとマーラーやスクリアビンを思わせる。私は表題音楽というものが苦手で、表題のついている作品でも音楽だけを聴くようにしている。この作品はテキストに沿って聴いても面白いかもしれないが、それがないほうが想像力をスポイルされずに楽しめるような気もする。2曲目冒頭他の精妙な音世界は多分に夢幻的。前曲から続くテーマが意外な形で注意深く挿入されており、面白い。国民楽派的な表現も目立ち、一部ワーグナー的な感もしなくはないが、それらをあくまで手法の一部として吸収して、独自の緻密な作風にとりまとめているといったふうだ。きらめくように連なる音楽絵巻はグリエールのイリヤ・ムーロメッツを思い起こすが、それより数倍凝縮され洗練された音楽といえよう。ターリッヒの腕はここでは冴え渡っている。国民楽派的な表現は言わずもがな、静かな場面では印象派的な(もしくはシベリウス的な)精妙な音楽を紡ぎだしており、ターリッヒが意外にも繊細な感性の持ち主であったことに驚く(ターリッヒというとチェコのトスカニーニかムラヴィンか、というところがあるから)。録音状態もターリッヒにしてはかなり良い方だと思われる。明るく澄み渡った音はチェコ・フィルの独壇場。この盤は古典的名演として記憶に留めるべきものだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヤナーチェク:狂詩曲「タラス・ブーリバ」,クーベリック指揮ACO(RCO)1951/6/16live・CD,,録音はモノラルで不明瞭。曲が鮮やかなので十分楽しめるが、曲の細部までの技巧、色を楽しむには不足のある録音。色、という意味ではクーベリックは情熱的であっても艶めかしさは皆無なので、特にこの時代好まれたであろう即物的なスタイルにおいては乾燥した詰まらない印象を持たれるかもしれない。ヤナーチェクとしてはシベリウス、リヒャルト・シュトラウスからドビュッシーを経てきた作品であるため、より現代的な響きと大胆な楽器法を用いることができたぶん、ほとんどバルトークと同等に聴ける作品ともいえる。内容的にも三楽章ぜんぶ死で終わる嗜虐的ともとれる採用(原作ゴーゴリ)ぶりは世紀末過ぎても世紀末的なものを、しかしロマン主義的な要素は清新な響きとその進行によって「ほぼ」払拭されており、一楽章など筋書きを知らずに聴くとディーリアス以降の穏健なイギリス音楽に聴こえるくらいだ。どうしてもヤナーチェクというとブラスを聴くくらいの印象をもつが、実際三楽章の弦などほぼ伴奏で終わってしまうが(劇音楽のようなものなのでそうなるのだろうが)、簡潔だが必要十分な書き方をしているから楽しめる。印象派的な一楽章おすすめ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラッグルズ:正門,○コープランド指揮BBC交響楽団(DA:CD-R)1975/9/16放送live,,レクチャーコンサートのヒトコマでこのあとアイヴズの小品にいくといういささか疲れる流れ、コープランドが何かの振る舞いをしたらしく笑いもはさまる。仕方なくやっているということなのか。曲は新ウィーン楽派ぶった前衛そのものでラグルズの個性というものも余り引き立って来ない。演奏はきわめて真面目である。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラッグルズ:太陽を踏む男,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1967カーネギーホールlive,,録音は極めて明確なステレオで分離も激しすぎるほどでスケール感があり、エアチェック音源としては申し分ない音である。少々耳が痛くなるほどエッジの立った硬質な音響は寧ろこの稀有壮大で錯綜しがちな曲にあっている。イメージ的にはアメリカに遅れて入ってきた無調「的」作品の範疇にあり、しかし聴いた感じは分析的というより雑多で直感的。分厚い音響の素人聴きは十数年前のアイヴズの作風そのものである。アイヴズでもセットなどを作曲していたやや前期の頃の雰囲気があり洗練は余り無いが、アイヴズが「結果的に」無調的な作品を残したのに対してこのような曲にははなから調性はない、たとえば硬派だったころのヒンデミットなどの影響を考えてみるのもけして無理な論理ではないと思う。もっと重厚で深刻な雰囲気が欲しい気もするがこんな曲を作曲家の偏屈を省みずズバっと演奏しきってみせるストコフスキには驚かされる。手法はアイヴズ4番同様「ほんとに理解してやろうとしてるのかなー?」と疑問符を付けたくなるところもあるが新作への態度としてはこれだけやりきればリッパ。終始同じ厚さの音響が雑多に揺れ動くだけのゆえに飽きる向きもあろうが、アイヴズの世界がアイヴズだけのものではなかった、という点を再確認する意味でも、どんな演奏でもいいので聴く・・・それを躊躇する理由は無い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラッブラ:ヴァイオリン・ソナタ第2番,○サモンズ(Vn)ムーア(P)(DUTTON)1946/4/16・CD,,ドビュッシーの影響の強い作品だが、同時代の民族主義的なヴァイオリン曲からインスパイアされたような暗い熱情がロマンティックな意味で効果的な旋律によってわかりやすく提示されている。とても聴きやすいが演奏のほうはやはり往年の技術的なキレが多少なくなってきており、そこに鄙びた調子が忍び入って臭くなる一歩手前のようになっているところもある。解釈的には即物の調子でめざましく現代的なところがサモンズだ。ピアノも粒だっていい。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
ラパーラ:ハバネラ - 前奏曲,ヴォルフ指揮ラムルー管弦楽団(timpani/naxos配信他)1929-33・CD,,ハバネラかー。という曲。ラヴェルの時代の人の作品、ではあるがどうにも耳に残らない。演奏は音符を音にした感じ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラファエル:ヤボナー,◯ストコフスキ指揮北西ドイツ放送交響楽団(SCC:CD-R)1952/7/7,,余りの曲の良さに思わずcpoの交響曲集を買ってしまったのだが、このポスト・マーラーと目されたうちの一人であるギュンター・ラファエルはナチの迫害を受けたものの、多数の作品を巨匠や若き名手に演奏されていた人気作曲家でもあり、派手で人好きするわりに深みには欠けるかもしれないが、今の耳からするとけして人気が無くなる理由はわからない。確かに節操のない作風の幅で雑多な作品を量産し、演奏困難なほど長大な作品を作るなど、現代作曲家としてどうなのか、というところもあるが、職人気質を好む人には受ける要素が依然あると思う。この曲は東洋趣味があらわれコダーイなども想起する組曲だが、ストコフスキーの派手な音響がじつに曲の魅力を引き出している。オケはほんとに上手い。作品番号66ということで円熟期のものということもあるか、生硬なところはかけらもないので、安心して聴けます。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラファエル:交響曲第2番,◯アルトシュタット指揮中部ドイツ放送交響楽団(CPO)2007/3/19-22・CD,,ワグナーが始まったか!と思うとマーラーの復活冒頭に似た音形が繰り返され、しかし何か浅薄で構造的な面白みがない。かなりのっぺりした、しかし耳馴染みは良い音楽が展開されてゆき、次第に飽きてくるが、適度に現代的でマーラーとは違う。ベルリオーズの幻想のような所もあるが、おおむねはラファエル特有の「聞きやすさ」で占められているがゆえの、つまらなさがあり、これをやりきったオケに喝采。ちょっとヴォーン・ウィリアムズの牧歌的音楽を彷彿とさせるところもある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラファエル:交響曲第3番,フォレムニー指揮中央ドイツ放送交響楽団(cpo)2003/4/28-5/2・CD,,なんというか、暗いメルヘンで迷子になったような作風で、演奏も魅力を伝えきれていないように思われる。どこを聴けばいいのか、中核はどこにあるのか?体臭の薄い作品に演奏。三楽章の鈴もマーラー的であるのに何かよそよそしい。一番聴きやすい人を食ったような楽章ではあるが。新古典的な楽章はヒンデミットの足元にもおよばない。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラファエル:交響曲第4番,○チェリビダッケ指揮BPO(cpo他)1950/12/7ティタニア・パラストlive・CD,,liveとのことだが拍手や環境雑音はカットされている。auditeより一日違いの録音がボックスで出たが収録時間より同じものの可能性が高いものと思われる。曲はこの人の最も良い部分があらわれている。重厚な響きと明るい輝き、動きこそまったく異なるものの色調はヒンデミットのわかりやすい方の作品を彷彿とさせる。引き締まった三楽章制であるのがまたよい。演奏は音程やリズムなどに細かい事故は聴かれるがおおむね聴けるレベル。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラファエル:交響曲第5番,○イッセルシュテット指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団(cpo他)1960/11/1-4・CD,,曲が前作と違い現代指向になっており、抒情旋律はあらわれるもののおおむねロマンティックな要素とは無縁の曲になっている。演奏は思ったより荒い。いちおう○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラファエル:合唱交響曲「大いなる知恵に」Op.81,ツヴェトゥカ・アーリン(alt)ライムント・グルムバッハ(b)ギーレン指揮バイエルン放送交響楽団&合唱団(cpo)1965/12/22ミュンヘン・ヘルクレスザール・CD,,驚くべきことにモノラル録音なのである(しかもそれほどクリアではない)。構造こそ伴奏と合唱(独唱)という対比で進む単純な曲ではあるが、壮麗な音楽を楽しむのにマイナスであると言わざるを得ない。老子をテクストに使っているとは言え音楽は硬質のヨーロッパ現代のものでツェムリンスキーやマーラーの香りは全くといっていいほどしない(前者の突き放したような客観性、後者の木管の用法は似るか)。といって現代曲というほどではなく、前衛とは一線を置いている。しずかな響きの教会音楽的要素もあり、陰鬱な天気の日に流しっぱなしにするといい(とにかく同じような調性で長いのだ)。気分を害することはない、暗い雰囲気の変化のない大曲。変な政治的主張やささくれだった心情の深層の反映されない(一部楽章はダイナミックだが)、ストレートに重く、ある意味無害でもある。歌唱が楽曲的に主軸となるので刻んだり合いの手を入れたりするだけのオケ部とは違って、楽しめる人は楽しめるだろう。ギーレンは引き締まった音楽を作りとても若い頃の録音とは思えない。もっとも歌がメインとなるので管弦楽は二の次だろう。こういう単調な曲だから別に合唱指揮を立てている可能性は低いか。アメリカやフランスの20世紀前中期無名交響曲よりはよほどしっかり簡潔で耳に馴染む。立てたり貶したり面倒だ(長いのである)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:ヴォカリーズ,ミトロプーロス指揮NYP(SLS)1955/5/8シアトルlive,,この指揮者に未だ未発売音源が残っていたのかと驚いた。発掘され尽くした挙げ句、モノラル悪録音しかない骨董指揮者の宿命で忘れ去られたものと思っていた。シアトルのホールからの実況録音で、ボロボロではあるもののミトプーのライヴにしては悪くない。ねっとりした無言歌、甘やかで諦念も感じさせるこの仄暗いメロディの伸び縮みする歌い回しを楽しむことができる。手兵だったオケも、人によってはグズグズになる弦楽器が結集して実力を発揮している。久しぶりに聞いた曲だが、例えばストコフスキのような人工的な造形ではなく滑らかに連続した歌となっているので、同じ恣意的なスタイルでも自然に入ってくる。最近あまり聴かれる曲ではないが、アメリカで演奏されたものとしては、バーバーのアダージョと共に二十世紀を代表する弦楽合奏曲といえる。このあとプロコフィエフの五番、カバレフスキーのコラ・ブルニョン序曲とアメリカで人気のあったロシア音楽が続く。ロジンスキ、トスカニーニがよくやった曲だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:ヴォカリーズ,作曲家指揮フィラデルフィア管弦楽団(pearl他)1929/4/20・CD,,イージーリスニングの小品として非常に著名で、ラフマニノフでも一般的には一番の有名作だろう。無言歌という名の通り甘くせつない旋律と淡々とした伴奏だけの簡素な曲だが、それゆえに旋律をどう歌うか勝負となる。そこにこの録音状態は致命的。音色が聴き取れず、わかりやすい特徴というとストコフスキのようなテンポルバートくらい。ピアノ演奏を聴く限り耽溺する人ではなかったようなので、音色の魅力があまり引き立ってこないのは敢えてそうしている・・・いやそうではないだろう・・・音色変化を付けようとした痕跡は残っている。暗い夢想を悪い録音で聞くのは、まあそれはそれでよいのかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:ヴォカリーズ(KIN管弦楽編曲),○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA/MOSCOW STUDIO ARCHIVES)1966なかなかの聞きごたえだ。ひそやかな美しさは完全に失われているが(クライマックスで全楽団が一斉に歌をなぞるところは違和感・・・)美しい音楽になっている。この版はじめて聞くが珍奇な感じもあるものの気持ちのよい感じに仕上がっている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:ヴォカリーズ(スヴェトラーノフ・ピアノ編曲),○スヴェトラーノフ(P)(GRAMZAPIS)1989・CD ラフマニノフの音源を復刻しまくっているロシアの怪しいレーベルから。スヴェトラーノフが敬愛するラフマニノフの歌曲をピアノ独奏用に編曲したこの音源、まったく違う曲として聞けばそれなりに魅力がある。スヴェトラーノフのピアノは決して巧くはなかったそうだが、この曲は難しくはないから、そのぶん余裕があるというか、思い入れたっぷりに情感込めて演奏しきっており、好感が持てる。音色が単調な気もするが揺れるテンポ回しは堂に入ったもの。それにしてもこうしてピアノで聞くと、どこか古風で前期ロマン派ふうの楽曲に聴こえてくるのが不思議だ。この雰囲気は何かのBGMに使えそうだな、と思った。○。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:ヴォカリーズのメロディ(編),◯ジェラール・プーレ(Vn)リグット(P) (SAPHIR)live,・CD,,クライスラーとは懇意だったラフマニノフのヴォカリーズをアンコールのラストに持ってきたわけだが、クライスラーによる編曲版でもないらしい。中低音域の深い響きは荒さも無くはないがソリストの別の面を見せてくれる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲,○モイセイヴィチ(P)サージェント指揮BBC交響楽団(DA:CD-R他)1955/8/9プロムスlive ,,王道の技巧を誇るソリストに、寧ろ伴奏指揮者として一流のサージェントが俊敏なアンサンブルを絡めて秀逸な演奏ぶり。とにかくモイセイヴィチが半端なく巧い。手大きそう。ザ・イギリスな演奏陣でありいい意味でも悪い意味でも中庸の明るい音楽の中で、ただ巧いだけかと思ったら怒りの日の主題でのほの暗い音色表現がはっとさせ、揺れないテンポでひたすら廻りまくる指を見せ付けられているような思いで飽きてきたところに例のチャイコフスキー的主題を思い切りテンポ・ルバート。ただ音色は程よく深いそのままで余りロマンティックではない。それと、そのあたりからオケ、とくにヴァイオリンが(というか録音が悪すぎてオケの中低音域が殆ど聴こえないのだが)疲れてしまったようで残念。もともと薄い編成ではあるが終盤は明らかにバラケてきて、それでも文字通りの瓦解はしないで済んだのは職人サージェントのそつないさばきに拠るものだろう。まさに後期ラフマニノフ、というフレーズもソリストは即物的・・・ラフマニノフ自身の演奏を彷彿とさせる・・・にも粒だってカッコよく表現しているのに対しオケは冷たいままバラけそうになっている・・・BBC交響楽団はもともとそういう楽団だがこれはちょっと疲れすぎ。ソリストの素晴らしさは大ブラヴォを呼ぶしそれにここまでつけていったサージェントには拍手だが、オケは△。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲,○ルビンシュタイン(P)サバータ指揮NYP(ORIGINALS他)1950live・CD,,ルビンシュタインの音の美麗さはこの録音状態でも伝わってくる。その表現は異常なレベルの技術の上でしか成り立ち得ない洒脱さを持っている。フランス的といってもいい。サバータもドライヴの仕方に野暮さが少しもなく、この二人の相性はいい。録音はORIGINALSではノイズが取り除かれ残響が付加されてまるでサイボーグのように生まれ変わっているが、ルビンシュタインの音にはあっていると言ってもいいだろう。そのスマートさゆえ少し小粒な感じもおぼえさせ、同曲の魅力を最大限に引き出しているとは言えないが、ラフマニノフ後期の洗練をよくとらえており、また第18変奏を突出させるのではなくそれまでの旋律的な流れと全体設計の上にさりげなく配置し、全般として大きくうねり時に囁くようなラフマニノフの抒情の中の一輪の華とする感覚はしっくりくる。パガニーニを揶揄するかのようなロマンチシズムを発揮する楽想を敢えてそれほど際立たせないスタイルは面白い。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"",-----,,,,,,,,,
ラフマニノフ:パガニーニの主題による変奏曲,○ブラウニング(P)ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(CON MOTO)1956/2/5LIVE・CD,,オケもピアノもいきなりの勢いでつんのめり気味。共に我の強い演奏だ。まず速い。ブラウニングはバリバリ系の奏者だし、ミトプーは言わずと知れた火の玉豪速球男。NYPも強引スレスレの異様な表現意欲を発揮するオケだ。一音一音こんなに激しいアタックがついているとどう聞いてもパガニーニの時代の音楽には聞こえない。だから面白いのだし、それを面白がれないのならなんでこのコンビのラフマニノフを聴くのか、つうことなわけで。録音が所々かすれ気味で、聞きづらい箇所が少なくないのは痛いが、それだけ(録音が捉え切れないほど)強力な音が出ているということでもある。オケとピアノのバランスはとても良い。拮抗しあるいは渾然一帯となって進むさまが面白い。ソリストは音色が醒めていて前時代的なケレン味は皆無だが、深い味わいが無いかといえばそうでもなく、冷え冷えとした情緒というか、男らしい峻厳な心情吐露が織り交ざる。現代的な客観主義では決してない。剛健で決然とした表現、とくに林立する和音を迷い無く明確に叩き進むさまはラフマニノフその人のスタイルを彷彿とさえさせるものがある(甘いメロディを書くからといってラフマニノフは決してロマン派のデロデロピアニストではなかった)。とにかく変奏がいくら進んでも基本的に流れは強く速く間断が無いから飽きない。有名な、そして唐突な第18変奏についてもこの演奏はスタイルを変えない。普通ここで音色を変えてチャイコフスキーぽく奏でるのがハリウッド流儀なのだが(ハリウッドとは関係ないけど)このソリストはちっとも甘くない。むしろぶっきらぼうである。対してオケが入ってくるとさすがにちょっとは艶が出てくる。しかしそれもNYPのヴァイオリンパート、ミトプー支配下での精一杯の自己主張にすぎない。変に思い入れたっぷりの突出した変奏としないところ、情に流されず曲構造を大局的に捉えた的確な演奏と好意的に解釈することもできよう。好き好きだが私は少し物足りなさを感じた。そこから最後までの勢いは凄く、破裂するような拍手に至るまでの雪崩れ込みは一聴の価値あり。総じて○。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:パガニーニの主題による変奏曲,○ポディス(P)コンドラシン指揮クリーヴランド管弦楽団(WME)1970年代live,,雑音や不安定さが目立ちエアチェック状態に問題があるが、コンドラシンライヴとしてはクリアではある。薄っぺらな2chステレオのせいもあるが、クリーヴランドの軽くて明るい拡散的な音とソリストのマイクに近い鋭角な音が耳にきつい感じがする。コンドラシンは伴奏のときはきほん伴奏にてっするが、ここではコンドラシンらしい力強さは確かに存在し、表現の雄渾さだけではなく雄大さすら獲得した晩年の円熟した芸風をすでに示している。前進力も損なわれてはいない、ただ、ある種、「青いなりの強引さ」というか、「若さゆえの傲慢な魅力」がなくなってしまっている、これはコンドラシンの魅力そのものに近い位置のものなだけに、ちょっと余り好きになれない人もいるかもしれない。まあ、演奏が比較的しっかりゆっくりなので(ソリストは別にスピードダウンを要求しているようでもなく技術的には上手いし表現力の幅もあるが録音のせいでやや音色変化が単調に聞こえるだけだ)、クリアな立体録音で変奏の隅々の仕掛けを楽しめるといえば楽しめます。この曲の仕掛けがきわめてクリアに透けて見えるのはオケのメリットだろう。あっここはあの曲の暗喩なのか、みたいな。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:パガニーニの主題による変奏曲,○ワイエンベルク(P)アンチェル指揮ACO(RCO)70/1/21LIVE・CD,,あけっぴろげで憂いが無いのがオケのほうであることを意外にかんじるかたもいるだろう。アンチェル最晩年のライヴであるが音色もへったくれもないスヴェトラのロシアオケものライヴのような、強引で下品な荒いアンサンブル、確かにアンチェルらしい気合いの入った表現であるし、力感なりの印象はあるのだが緩急、とくに弱音の表現が悪い。この座りの悪い変奏曲をしかしバリ弾き感傷無し(私は大好物でございます、フランセもシャーンドルも)のワイエンベルグは、音色こそ揺れないもののタッチに絶妙なゆらぎをつけて、ミケランジェリの無味無臭ともあきらかに違うなめらかな音の流れをつくっている。第何変奏か忘れたが例のチャイコ風主題のさりげない提示など粋のひとことである。感情はむやみに押しつけるものではない。ラフマニノフ本人の芸風がそうであったように、ほのかに思い出させるくらいが丁度よいのだ。この演奏ではここだけが突出して違和感をおぼえさせることがない・・・オケのわざとらしいリフレインさえなければ。名ピアニストとはこおいう表現ができる人のことを言うのです。眉ひとつ動かさず、聞くものの深いところを動かす。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:パガニーニの主題による変奏曲,スター(P)ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(testament)1963/1/19ガラコンサートlive放送・CD,,オペラ絡みの演目が珍しいとして話題になるも発売が遅れやきもきさせた発掘音源。私はオペラに興味が無いのでこういう曲のみ聴きます。発掘音源ゆえ音質は覚悟すべし、ステレオだがDAよりはまし、という非正規感の強い音。まあ拡がりはあるしレストアはそれなりに効いているのだろう。それでもストコフスキには案外珍しいラフマニノフということで聴くわけで、作曲家と交流があり協奏曲録音も複数残しているわけで、だが、冒頭より(悪録音のせいかもしれないが)ゴチャッと潰れブヨブヨな感がある。鋭さに欠け、響きは後年のストコフスキらしく明るく拡散的だが明快さに欠ける。スターのピアノも綺麗だが迫力はやや劣る。録音撚れが拍車をかけて残念感を与える。後期ラフマニノフのカッコイイリズムはストコフスキー向きではない、と言ったほうがいいのか。うーん。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,○アール・ワイルド(P)ソコル指揮シアトル管弦楽団(DA:CD-R)1972/11/20live,,この時期にしては極端に音が悪い(モノラル)。悪い音でもいい演奏はいいし、悪い音だからこそ生きてくるのは古いロマンティックでわかりやすいスタイルだったりもするのだが、これは案外オーソドックスで聞き流せてしまう(くらい巧い)たぐいの演奏なのである。スマートで伊達者ワイルドだからこその奇を衒わない、いかにもアメリカ王道の洒落たやり方ではあるが・・・悪い録音は更に没個性的に感じさせてしまう。あっけらかんと拘りの無い音でいくスタイルかと思いきや常套的な箇所ではしっとり歌わせるし(とくにバックオケ)、この曲に常套的なものを期待する向きは楽しめるだろうが、3楽章など内面的な盛り上がりがない感がある。,,2楽章はラフマニノフの化身と褒め称えられたこともある(でも似てない)このソリストの独壇場の感があるが(ロマンティックだがけしてデロデロ節ではない乾燥したスタイル、ラフマニノフ自身没入しない比較的即物的なソリストであった)、録音の悪さが足を引っ張る。また、主張を感じない。このソリストに主張うんぬんなんて最早いらないのかもしれないが・・・この曲で主張をするのは登竜門にいる若手だけか。タッチの明快さに対し音色感が絶妙の柔らかさを伴うのはこの人の素晴らしいところであるものの、録音が悪いのはいかんともしがたい。,,"(参考)ワイルドは技巧家だがガーシュイン演奏で有名だったし(トスカニーニに重用された)、まさにその方向の人(存命)。いかにも50年代アメリカ黄金期プレイヤーの、筋肉質の即物性に理性的ロマンを載せたような・・・一日の終わりに演歌を求める人よりはバーボンを求める人に向く。これはガーシュインのアルバムとしても名盤で知られる、フィードラーとのセッションをSACD化したもの。
Rhapsody in Blue [Hybrid SACD]

RCA Red Seal

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ラフマニノフは得意としているが、ホーレンシュタインとのものは容易に手に入る。
Rachmaninov: Piano Concertos Nos. 1-4; Rhapsody on a Theme of Paganini

Chandos

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ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,○アンダ(P)ロスバウト指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送交響楽団(HANSSLER)1953/5/3・CD,,軽い。この曲は難曲のふりをしながら弾き熟せる人は簡単に弾き熟せてしまう印象がある。ソリストの器質的なものもあるだろう。ロスバウトは一部中欧らしい底から響く粘りを聴かせるもののだいたいにして正攻法の歪みのないサポートにてっし、その上でアンダはとくに技巧派ぶることも思わせぶりなロマンチシズムを盛り込むこともなく、かといってけしてそつなくは「無い」演奏を提示する。いや、なんだか少し雑味すらあるのだが、響きの透明感は紛れも無くこの人のもの。軽い、とは書いたがちゃんと全ての音は出ている、そのうえで軽く感じる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,○オボーリン(P)ガウク指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(appian他/melodiya)1947・CD,,国内盤CDでも出ていた有名録音だが、最近お徳用で集成されたappianの組盤を買い初めて聞いた。とにかく驚いた。これ、完全にLPからの単純板起こしでしかも、かなり劣悪な盤を使用している!!!自分でCD−Rに焼いたほうがいくぶんましなほどだ。酷い。聞いていられない。音場が安定しない、雑音は露骨に入り続ける。メロディヤの古い録音にありがちなぼやっと遠い再生がそのまま雑音塗れで提示され、正直ガウクの音なんて殆どわからない。酷すぎる。2楽章なんて音場が左に寄ったままふらふらしている。変な擬似ステレオ効果が更に酷くしている。盤としてはまったくダメだが、無理して音をきくとこれが直線的でけっこう解釈しないものでありながらも、オボーリンはとにかく余裕しゃくしゃくで豪快に弾ききっているし、ガウクはその赴くままにブラスを鳴らしまくってロシアオケの長所を最大限に引き出そうとしている。演奏的にかなり堂に入ったすばらしいもので、繊細な叙情や音色の妙こそ聞き取れないものの、とくにオボーリンの指の強靭さと確かさには舌を巻くばかりだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,○クライネフ(P)イワーノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA/ETERNA),,透明感ある芸風のクライネフと重厚なロマンチシズムをたたえたイワーノフのミスマッチの魅力が楽しめる。終楽章の乱れぶりにはやや首をかしげさせられるが、非力で生硬な音ではあるもののタッチでカバーし続けるクライネフの繊細な表現にはまるでラヴェルの協奏曲をやるような雰囲気があり、ロシア的な陰鬱さやあけすけさを放つイワーノフを一種閉鎖的なロマン派の世界から救っている。垢抜けた調子が前半でとくに目立ち、硝子のような音が何とも言えないフランス的な情緒をかもし出して特記できる。残念なのは繰り返しになるが3楽章で、非力さをカバーするかのように律せられた演奏ぶりがかなりロマンティックなほうに崩れてしまい、結果としてオケとも分離スレスレの状態に陥っているところがある。左右が分離しすぎ一部音域が聞こえにくい録音が悪いのかもしれないが、ちょっと辛い箇所があった。しかし全般、主としてイワーノフの領域としていかにもチャイコの末裔たるラフマニノフといった側面が引き出され、今現在やや少ないロマンティックなスタイルのラフ2を楽しめるところもあるし、かといってロシアロシアしないソリストの冷たさがちょうどいい温度感を保っているといったところで、好意的に聞けた。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,○グラフマン(P)モントゥ指揮ボストン交響楽団?(DA:CD-R)1961/8/19live,,ソリストは明るく若々しすぎる感があるが、技術的にはあっさりそつなく弾きこなせるほどの高いレベルにあり、かなりのスピードを維持しながらも明瞭なリズムと重みある音響による表現の綾がすこぶるはっきりと聞こえてくる、モントゥらしさも同時に現れた演奏。ただ、全般(とくに2楽章)単調というか優等生的でもあり、個性がぶつかってくる演奏ではない。ドライにてっした演奏でもなければでろでろのロシア節でもなく、インテンポ気味で分析的な部分のみられる解釈ぶりはどちらかといえば前者だが、モントゥ自身のチャイコの交響曲演奏ほどではなく、それはピアニストとの兼ね合いによるのかもしれない。個人的にはこういうモントゥのロシアものなら聴くに堪える。篭り気味のステレオ。かなり聴衆反応がよく、1楽章の最後でも盛大な拍手が入るのはご愛嬌。○。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,(参考)グラフマンのラフ2はバーンスタインとのものが正規録音されている。但しこのカップリングは分が悪い。グラフマンは他曲でもバーンスタインと共演したものがある。,"
チャイコフスキー : ピアノ協奏曲第1番
ギレリス(エミール)
ソニーレコード

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","モントゥ単独のラフマニノフ指揮は断片がボックス収録されているが値段的に一般的ではない。レビューはこちら","
Sunday Evenings with Pierre Monteux

Music & Arts

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",,(注)Sunday Evenings with Pierre Monteux1941-52という題名のボックスは茶色い色調のM&A CD1192というのが正しいようです。青くてカニ持ってるのも多分同じですが確かめていません(茶色いほうが再発?)。,-----,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,○シャーンドル(P)ロジンスキ指揮NYP(columbia)LP,,世紀のバルトーク弾きシャーンドル若き日の猛烈な演奏スタイルがここにも伺える。序奏などさっさと飛ばしてひたすら機械的な音を連打しまくる超スピードのラフマニノフ。ロジンスキが絡むとたいてい録音は悪くなり、タッチの細部は殆ど聞こえないがしかし、多分ほとんど弾けている(余りのスピードアップに自身が3楽章耐え切れなくなったような箇所もあるが)。音色にはこれっぽちも魅力はないし(ニュアンスはかなりできているのだがアメリカのスタインウェイの音がそのまんまする感じがいささかドライにすぎる)ロマン派属性の強い人には耐え切れない演奏かもしれない。しかし2楽章を聴いてみるとこれが、初演したバルトークの3番の2楽章のように仄かな感傷性を明るくクリアに解き放っていて、新世代の演奏であることすら思わせる。もちろん若い。若い演奏ぶりで深みは無い。しかしソリストと乖離もいとわないギリギリでうねるロジンスキ(というかNYPの弦)とのかみ合わない中にも面白みを感じることはできる。とにかくこんなに猛烈な演奏はない。1楽章の序奏をどう重々しく持っていくか考えている人、こんな軽くさっさと弾き飛ばして主部に突入するというやり方もあります。非難はあるかもしれないが。たぶん無印にする人もいるとは思うが個人的に○。いや、スポーツなのです。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,○ブラウニング(P)パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1961/1/5live,,一点の曇りも無いラフ2が聴ける。爽快。バリ弾きブラウニングはセルなんかともよくやっていた人だけれども、パレーにも言えることだが1楽章あたりはわりと重く表現しており、2楽章は夢見るような調子だけれども、終楽章はテンポの起伏が非常に激しく、しかしスムーズにうねるようなロマン派音楽を描くのではなく変化が比較的デジタルで、いかにもアメリカというか現代的センスを感じる。ブラウニングがその指の廻るがままにどんどん突っ走っていってしまうご愛嬌の部分もあるし、パレーがいつになく感情的な厚い響きでわたりあっていくさまも面白い。惜しむらくは録音。ブラヴォー喝采。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,○作曲家(P)ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(RCA,victor,sony)1929/4/10,13(1楽章のみ、全曲版とは違う電気録音)、1924/1/2,3,12/22・CD,,紙ジャケ廉価再発のRCA録音全集ボックス(2005)に収録された、全曲版とは別のテイクの寄せ集め。1楽章は電気録音だがアコースティック録音の2、3楽章とは音の違う、なかなか重厚な聞き応えのもので、かつ瑕疵は否めないがスケールの大きな落ち着いた演奏になっている。ラフマニノフはけして現代的な腕のある人ではなく、指もすらすら廻るわけではないが、テンポをやや落とし少し気まぐれな揺らぎをもってそれほど違和感なく弾き切っている。オケは正直時代なりのものでしかなく編成の薄さが露骨だがストコの引き締めと特有の色彩感は感じられる。演奏的に劣るのは二、三楽章でオケは耳辛い場面が多く(録音上仕方ないところもある)ピアノのミスもなまじ録音機器に近いがゆえに目立つ。確かに2楽章のてんめんとしたリリシズムはオケはともかくラフマニノフの垢抜けた響きをもって、臭くならずに美しく伝わるし、3楽章のやや走るものの直線的なテンポとリズムは魅力的だ。時代らしからぬストコならびにオケのメカニックな動きが光る。ただまあ、やっぱり、全曲録音にくらべ落ちると言わざるをえまい。面白みはある、その点で○。しかし、安くなったなー。,-----,,,-----,,,-----,,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,S.ノイハウス(P)スヴェトラーノフ指揮ORTF(ina配信),,ネイガウスの息子ブーニンの父と、若い頃テープを渡されて聴かされた思い出のある人だ。タッチが軽く音色も明るくあまり変化のないように思う。一方表現がとてもロシア的というか、メロディのままに揺らし陶酔し二楽章ではヨタってみたり、構成感も個性的だがしかしいかにもラフマニノフらしいと感じさせ、ミスタッチもバランス崩れもまじえながらもどこか現代的な部分、安定感というとまた違うのかもしれないが、何か面白い。音楽の全体にはオケの性向も影響しているとおもう一方、ブラスはソビエトから持ってきたんじゃないの、これはノイハウスじゃなくて指揮者の解釈でしょ、というような全盛期スベトラ節が炸裂していてこれまた面白い。ラフマニノフはこう歌うのだ、とバカボンのパパみたいに断言する伴奏指揮者。スベトラ好きはたまらないでしょう、いや、まあ、でも違和感もありました。そんなものだからいつもどおり最後は大喝采。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,ギーゼキング(P)クルト・シュレーダー指揮ヘッセン放送交響楽団(meloclassic)1953/7/20フランクフルト・ヘッセン放送スタジオ録音・CD,,昔はこれ以上のものは無いと思っていたギーゼキングのラフマニノフだが今聴くと、鍵盤がつねに「縦に軽く」叩かれ柔らかみがなく、そこがフランス風というか情趣無く明確すぎる音、これは首を傾げる。もっとも、録音が音量からして弱く、全体像を捉えきれていない可能性もある。すでに老境に達していたためだろう、冒頭から重みがなく、過剰な和音は鐘の模写にはとても聴こえず(音を減らしているのか手がでかいだけか?手をズラしてバラして取る方法は全く使っておらず自然にそっと入ってきて最後だけズラしてためを作るもののテンポ的にはあっさり主部へ入る)アメリカみたいな豪速球スタイルとは違った淡白な音色のインテンポなスピーディーさで、、、軽く感じさせて一楽章はなんだか「ラフ2ってかんたんなの?」という良いんだか悪いんだかわからない誤解とともに引っかかりのないものになっている。ミスも認められる(メンゲルベルク盤はミスの有無すら確認できない解像度)。しかしビックリは二楽章で、なんだこの感傷的な世界は。ギーゼキングはドビュッシーにしても湧き上がるイマジネーションを何故かモノクロの中に描く人だったが、それはオケのせいもあってカラフルではないものの、メロディにしたがいタメを作り、とくに終局に向かう部分ではオケが、メンゲルベルクのようなとんでもないタメを作って巨大な恣意性を持ち込み、ロマンスを煽る。ラフ2ってこういうんだった!ギーゼキングはそれを邪魔せずまるで伴奏のように少ない音を添えて完璧だ。そこからピアニッシモでリズム主題に入り、これも過度にアクセントが付けられている気もするが、ギーゼキングの突入はやはりそれほど強靭な感じはせずパラパラとしている、しかもちょっと、指が危うい。だが、曲想にしたがってギーゼキングなりの盛り上がりは作っていく。アバウトさも含め気を煽るライヴ感があり、もっと深く強い音であれば素晴らしいのだが個性とのバーターであり仕方ない、オケが充実しておりソリストと丁々発止繰り広げる。何のタメもなく弦楽器に緩徐主題を放り投げるが、ちゃんとルバートして歌ったあとにしっかり投げ戻され、旋律最後の弱音表現が繊細で美しいのはギーゼキングのドビュッシー弾きらしさだ。計算されたテンポ操作が目立ってくるが、この曲、もともとそうやって夢見るドラマを繰り広げるのが正解だったような気がする。単純に突き進む曲じゃなくて、感情の迸るあまり変な表現もまじえ指も回らないが、しっかりオケの助けを得て、ロシア流の大きな旋律の抑揚をつけて終わらせる。録音の悪いせいもあろうギーゼキングのイメージから離れるところもあるが、これは敢えてライヴとして聴くのが良い。総括すれば「特徴的な演奏」だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,クライバーン(P)コンドラシン指揮モスクワ・フィル(放送)1972/6/9モスクワ音楽院大ホールlive,,コンドラシンのディスコグラフィを載せた露語圏以外唯一のホームページ(日本)が2013年に閉鎖されていたのを知らず、クライバーンについては時代が若いせいか詳細な録音データ集がなく、ググれば例のdiscogだのallmusicだのディスコグラフィと称する自由登録型の集合知的な、和風に言えばキュレーションサイトないしSNSの穴だらけのページが羅列されるばかりで目的にたどり着かない。つまるところこの演奏がVAIでDVD化された1972年映像と同じものかどうか知りたいだけなのだが恐らく同じだろう。クライバーンのような達者過ぎて端正という以外の特徴のあげづらい奏者は好んで聞く対象ではなく、たまたまこの音源がwebで聴けるので聴いた次第。コンドラシンもまた即物的傾向を示す揺れの無い指揮をなすのでこのコンビは相性がよく耳なじみよいかわりに、すれっからしには技術と解釈の正攻法ぶりを通して楽曲の本質をダイレクトに楽しむ「だけ」の、ようは網羅的収集対象としづらい音源を生んでいる、よって、同コンビ(inモスクワ)による同曲録音はRCAから正規音源、vaiの映像以外いらないと思うので、一言で終わらせる。モノラル。もっと言うなら、ソヴィエトの演奏家が持ち込む外連味や深読みが腕を鈍らせるのに対して、アメリカの演奏家が同国での流儀にしたがいひたすら技術(と手の大きさ)を高速インテンポによってひけらかすことを売りにしがちであったこと、そこにクライバーンというとんでもなく「安定感のある技術」を持ち、アメリカでは余り聞かれない「重量感」を持つ奏者が、モスクワへの先兵として送り込まれたことからとくに当地で異常な評価と熱狂を生み、冷戦勝利のような格好で凱旋帰国してからはレコードで言えば擦り切れるまで同じレパートリーを弾かされた挙句故障してしまった、ということで、ぜんぜん一言ではない。モノラルでもわかるのはミスというか不明瞭な音は一か所しか気にならず、ほとんど明晰でその音のどれもが太い。太いから音量を落とすのも細くするだけでよい。音はあまり変わらないが、技巧に余裕があるのでテンポに影響しないニュアンスで表情変化をつける。とても現代的な技巧家の演奏だと思った。冒頭の重音を重々しくやるが一部指をずらしたりとか、細かくは色々付けているのだが。同日(1972/9/6かもしれない)放送ではまるまるコンサートを収録しているのだが、グリーグ、ラフ2ときてチャイコ、そのいずれも大喝采である。そもそもこの重い三曲をやらされる身。二曲目のここでまだ余裕が感じられるのだ。。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,ジャニス(P)パレー指揮ORTF(ina配信)1965/12/18放送(映像),,一貫して早いスピードでテンポの揺れは無く打鍵も充分強くテクニシャンぶりを発揮している。3楽章ではさすがにスピードに加え熱が入り荒れるところもあるが全般ほとんどミスは無い(ラフマニノフは音符が細かいのでこの丸まったモノラル音でこの質だとミスかどうかの判別も難しいが)。音だけでは他と相対的に端正にすら感じるジャニスが一定の評価を得ていたのはわかる。2楽章には力が入っているもののピアノの音色がどうにも硬質で一定し過ぎているのは残念。残念ついでにオケのオシゴト感がものすごく、パレーの解釈が揺れず真っ直ぐ突き進むという棒状のものということもあろうが(高齢のパレーの顔からは何の感情も伝わってこない)、あんまりにもスラスラただ弾いているだけで伴奏機械のようである。ピアノとアンサンブルするという気もなく見え(僅かズレる場面はライヴなので仕方ないし、そもそもアンサンブルを聴きどころとしない曲のせいでもあろう)、奏者は全員眉一つ動かさないで(サングラスかけていて眉が見えない弦奏者もいるので厳密には不明)最後だけボウイングを大振りして盛り上げて終わる。2楽章のクラリネットソロの音も、もともとそういうオケだとはいえ曲のかもすロマンティックな雰囲気を拒否しているかのようだし、2番ホルンが譜面を覗き込み続ける姿のクローズアップのみが感情的なものを伝える。テレビ番組の切り出し映像だが、冒頭、鐘の和音が鳴り始めるところでいきなり表題に切り替わり、そのあとも手先が見えないアングルで完全に映像であるメリットを消しているのは苦笑。そのあとの映像は悪くないが時代的に粗い白黒なのは仕方ない。DVDでも購買可能。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,ダルレ(P)オーバン指揮ORTF(forgottenrecords)1951/2/5live放送,,いやー、凄い。録音が悪いのは置いておいても冒頭から不安定な重音のずらし方で始まりまあ軽くて鐘の音のしないラフマニノフ、残響は使わずかえってそれで明らかになるミスだらけの弾きっぷり、それでもフランソワ的な何かを持っていて、粒だったフランス式の発音でラフ2をやるとこうなるんだ!というのは聴ける。とんでもないスピードで始まる3楽章はパレー式に突き通せば良い、と思うも変にシナを作ってきたり外連味を持ち込んで、オケもそうなのだが、まあ、正直これはコンディションの問題だと思うのはラストの締め前の指のまわりっぷりで、単純だからとはいえここで回るくらいなら他に力を…とも言いたくなる。大見得を切るフィナーレはロシアの大物たちに対抗したのか?あまりに軽くて小さすぎる。ライヴとあるが拍手がないので放送用録音かもしれない。,,※本稿ではフランスの国営放送オケの表記は例外的に音源表記関係なくORTF(フランス国立放送管弦楽団)で統一しています(新しい録音を除く)。LP期に「国立管弦楽団」とだけクレジットされているフランス盤はイコール放送管弦楽団なのでORTFとしています。「リリーク」「協会」などの言葉を交え細かく別れたものは総称としてこの名にしています。実態的に明瞭に分けることができないと判断しているからです。但し文章で特記ある名称や、一般的に実態は同じとされるものでも明らかに違う名前(シャンゼリゼ劇場管弦楽団など)が記載されているものは音源表記に準じます。これは経緯的なものがあって統一性をもたせるための特例です。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,ブライロフスキー(P)クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(SLS)1945/10/27live,,流石クーセヴィツキーと言わざるを得ない。録音状態の悪さを差っ引いても、ホルダとは違う。語り口の重厚さ、うねるようなロマンチシズム、溺れないテンポ、とくに一楽章はブライロフスキーの物語る口調がまた途轍もなく素晴らしく、クーセヴィツキーの情念と見事に融合している。二楽章はホルダ盤同様弱音表現に食い足りなさはあるし、三楽章は硬い音色で雄弁に突き進めるのに対して、クーセヴィツキーは背後に引っ込んで(マイク位置のせいかもしれない)言うなればベートーヴェン的な構成感のもとに客観的におさめているが、例のメロディで(録音のせいで音色が鄙びているのは惜しい)弦の見せ所をしっかり打ち出すなど要所要所では強靭に応えている。二楽章のノイズは部分的にきついが、それ以外SLSがなぜかリマスタリングを上手にやったせいか聴きやすい盤になっており、終盤ソリストとオケの作り上げる盛り上がりはインパクトがあり、緩徐主題再現前のブライロフスキーの一打、絶妙なタイミングには感銘を受けた。これは盛大な客席反応も頷ける。,,クーセヴィツキーのラフマニノフというと交響曲が二曲きりで、むかし別人でPコンも出ていたかと思うが基本コンチェルトは聴かないので看過してしまった。記録上ユージン・リストとの録音が現存するはずとのこと。しかしキエフの大ピアニストとのこの組み合わせ以上に息のあったものでは恐らくないだろう。ブライロフスキーは手の大きさはどうなんだろうか、冒頭鐘の模倣を僅かにずらして取るのはホルダ盤より目立たないもののここでも聴き取れ、ラフマニノフに見出されたにしては「個性的」過ぎて、ショパン弾きとしての売り方しかされなかった理由なのかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,ブライロフスキー(P)ホルダ指揮サンフランシスコ交響楽団(RCA/tower)1958/5/1・CD,,ステレオ初期らしく左右の分離がはっきりしすぎて、左から聴こえるピアノに最初は違和感をおぼえるが、明晰な録音。独特の解釈と呼ばれるものは確かにあろうが醒めた音で一貫して安定した速いテンポをとり、からっとした印象もある。冒頭から少し和音をずらしたような表現はラフマニノフ自身に見出されたピアニストとしては邪道なやり方かもしれないが変なドラマが煽られず古典的な佇まいすら感じさせる。その他テンポ変化やアクセントの付け方が唐突なところはあるがこの時代のプロの演じる協奏曲という側面をかんがみると特筆するほどの弱点には感じられない。むしろ面白い。発音は明瞭、ごく一部を除きバランスは完璧で残響や指の都合で音楽が濁ることは全く無い。オケは言われるほど悪くない。一楽章はむしろ瑕疵もなく主張がソリストと噛み合い全体としてドラマを盛り上げる。二楽章(これも他の同時代奏者とくらべ特別変な情感がこもっているようには感じない、音色は一貫して明るくテンポはかなり安定しているほうだ)は弦の音色表現がもう少し欲しいが、それはそれでソリストとは調和している。三楽章はオケが強く出て、ソリストが少し後ろに引っ張っている感もある。ここにきて内声まで音が全部出すぎて僅か不格好になっている。テンポは緩まないが緩徐主題ではボリュームが感じられる。楽曲の全体構成を考えたような人工的なテンポ操作が顕著になってきて、法悦的に緩いテンポから特に第一主題の再現変奏に入ると異様なアッチェルが瞬間的にかかり、そのままものすごいテンポにソリストものりまくった、と思いきや若干乱れてきたようにも思ったが録音のせいか。このへんを面白く変化つけて演奏してくれると単純な旋律音楽も楽しめるというもので、決して可もなく不可もなくではない、立派に大きな波を起こしていくオケにむしろ支えられるようにソリストも(たしかに音が浅くて低音の響きがイマイチだから弱く浅薄に聞こえるかもしれないが)融和的な表現からフィナーレ感を出してきて、ちゃんと終わる。一時期比較されたというホロヴィッツを私はあまり聴いていないが、高音の質はホロヴィッツに近いものも感じた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番(1900-01),○カッチェン(P)クーベリック指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(RCO)1951/6/3LIVE放送・CD,,達者でじつに危なげないソリスト、それに呼応して異様に速く前向きなテンポを崩さないオケ。芸風が垢抜け過ぎているような気もするが、スタイリッシュなソリストの魅力を巧く引き出した演奏と言える。深い情趣はないが聞きやすい。明瞭なタッチ、それゆえ変化の乏しい音は2楽章では無神経にも感じるが解釈的にはしっかりしていてテンポ設定など完璧。それにしてもよく回る指だ。3楽章はスリリング。ソリスト暴走で前半乱れも生じているが荒れ狂う熱情的な演奏ぶりが面白い。荒れ狂うといっても揺れまくり歌いまくるのではなく、間断無く機関銃をぶっぱなして回るような筋肉質の快楽がある。クライマックスのタッチはじつに絶妙だ。全般なかなか聞かせます。篭った放送録音レベルの音で冒頭ひとしきりなどノイジーで悪い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番(1900-01),◎ギーゼキング(P)メンゲルベルク指揮ACO(MUSIC&ARTS他)1940/8/31LIVE骨董好きの方でこの演奏に注目してた向きも多いのではないか。イケイケ(死語)ギーゼキング激ウマ。チャイコフスキー張りのメンゲルベルクもノって息合いまくり。録音が悪く各音符の分離が今一つはっきりしないので、技巧を味わいたい方は失望するかもしれないので注意。でも音楽的にはすばらしいとおもう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番(1900-01),○グルート(P)オッテルロー指揮ハーグ・フィル(PHILIPS)ピアニストは腕がたつようだがルバートを多用しかなりテンポの起伏のある解釈を施している。しかしあまりロマンティックに粘る感じがしないのは発音が乾いているせいだろうか。対してオッテルローは巧くつけているといった感じで主張しない演奏を施している。ソリストが揺れるのでそのつど揺れる表現を行ってはいる。聴いているうちにどことなくオッテルローだなあ、と思う「感じ」があるのだが巧く言えない(すいません)。ちょっと雑味のある場面も無きにしもあらずだが許容範囲内だろう。○ひとつ。モノラル。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番(1900-01),○ケレル(P)コンドラシン指揮モスクワ・フィル(KNIGA/MULTISONIC)ソリストとオケが調和してすこぶる充実した音楽を聞かせている。ソリストは打鍵が強く全ての音が明瞭に聞こえてきて迫力満天。オケはコンドラシンらしい引き締まった表現を行っている。それぞれの絡み合いの中でけっこう彫りの深い表現が行われているが、粘ったりしつこくならないのはコンドラシンの腕かソリストの腕か、たぶん両方のせいだろう。3楽章まで一気に聞けます、おすすめ。惜しむらくは録音、モノラル。なので◎にしたいところ○にしておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番(1900-01),○ファルナディ(P)シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団 細部まで明瞭な発音により鮮やかなピアニズムで魅せるファルナディと、ピアノを楽器のひとつとして大きな交響的広がりの中に組み込んでいくシェルヒェンの棒。なかなかの佳演。シェルヒェンの協奏曲指揮は余り成功している例を知らないが、この盤やバルトークなどファルナディとの盤は例外である。強い発音を好み音色に拘らないシェルヒェンが、この余り音色に幅の無い強打音を放つ女流ピアニストと、よくマッチしているということもあるだろう。独奏者とオケが融合しきった歌は、「ふたりの相性が良い」という以外の何物も意味していない。シェルヒェンなので即物的になりすぎるきらいはありません。いくらスタジオ録音であるとはいえ、情緒たっぷりの部分は情緒深く表現しているし、多少の音の悪さを我慢すれば、きっと実りあるひとときを過ごせましょう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番(1900-01),○リヒテル(P)ザンデルリンク指揮レニングラード・フィル(REVELATION)1955/2/18・CDオケ、ソリスト共に物凄い力感である。繊細さの微塵もない豪腕リヒテルのピアニズムはこの曲にははっきりいって合わないが、こういう行きかたもあるのか、と膝を打たせるものはある。特に2楽章の重く明瞭なタッチの合わない事といったらなく、幻想の微塵も無い。でも旋律の美しさと力強いロシアの響きには確かにこういうのもラフマニノフかもしれない、と誤解させるだけのものはある。ちょっとびっくりの演奏で、リヒテルらしさ全開、リヒテル好きは喜ぶだろう。ザンデルリンクの表現の激しさにも当時の伴侶レニングラード・フィルがしっかりつけてきていておりきちんと曲となって響いている。それにしてもリヒテルの遅くて重い演奏ぶりはこの頃からだったのか。改めてその特異さにびっくり。演奏面はリヒテルは完璧、オケも瑕疵の少ない完成度の高さを見せているので○はつけておく。ラフマニ好き向きではない。リヒテル好き向けの演奏だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番(1900-01),フォルデス(P)レオポルド・ルードヴィヒ指揮ベルリン・フィル(DG/HELIODOR)LP 録音が貧弱すぎる。弦が殆ど聞こえないし、分離も悪い。ソリストとテンポがずれて聞こえてしまうところもある(1楽章・・・演奏ではなく録音のせいでそう聞こえるのだと信じたいが)。だいたい起伏が無く平坦な演奏に聞こえてしまうのは痛い。ソリストの演奏解釈もたしかに平板で特異な客観性を帯びたものだが、まずもってベルリン・フィル(ほんと?)のバックが浮き立って聞こえないのがイライラする。この指揮者はうねりのない即物的な棒を振るからなおさらバックの音楽そのものが沈没して聞こえてしまう。ソリストはバルトークで有名なピアニストだが、バリバリ弾くというよりは音そのものの美しさ、透明感を大事にしてフランス風の客観的で繊細な音楽を奏でる傾向がある。しかしそのスタイルは2楽章以外では穏当とは言えない。3楽章のじつに客観的で盛り上がらない演奏ぶりには別の意味でもう泣きそうだ。フォルデス、注目して聞いてるソリストなのだが、未だしっくりくる演奏に出会えず。泣く泣く無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番(1900-01),ペトロフ(P)スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)実に濃いい演奏。一次聴感は、テンポ伸び縮みしすぎ。テンポが間延びして音楽が死んでしまっているところすらある。デロデロやるにも程がある。ソリストは実に巧いが、解釈の個性派ぶりはスヴェトラーノフの芸風と共振しまくり。音は割合と乾いているので演奏的にデロデロ感は薄いが。何度も聴くうちにその魔力に取り憑かれる類の演奏で、逆に他の演奏があまりにあっさりしすぎているように聞こえてくるから不思議だ。いけないいけない、正気を保って聴きましょう。何度も聞いた私は◎をつけてしまいそうになるのだが、一次聴感を重視して無印。最初は違和感ありまくりだから。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番〜終盤のみ,モイセイヴィチ(p)サージェント指揮BBCso(bbc)。モイセイヴィチはモノトーンで味がないがそつもない。サージェントのしなやかで活気あるバックに注聴。意のままにオケを操り甘甘の曲を爽快に描ききる。オケに厳しい指揮者は良い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番,クライバーン(P)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(melusina/DA)1958/10/5live,,この長々しい曲をよくもまあ最後まで飽きさせずに聴かせる。録音時代初期にはホロヴィッツの専売特許みたいになっていた同曲を、おのが物として現代にリヴァイヴァルしたのはクライバーンであり、粒立った明快な音で些かの翳りもない音楽〜2番に比べ緻密かつ洗練された作品ではある〜を提示してくる。相手がミュンシュということでコンドラシンよりロシア色も薄まり、かといってアメリカナイズされたドライな演奏でもない。この指揮者慣れしたオケの力感に(音色においてラフマニノフ向きかどうかはともかく)ソリストも歩調が合い、勢いも憂いも万人受けする表現に昇華されている。技巧的な安定感は円熟をも示し、そりゃミスが皆無かどうかは聴いてみればわかるが誤差範囲内である。録音状態は残念だが(モノラルで高音が潰れるノイジーなもの)大ブラヴォもむべなるかな。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番,ジャニス(P)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(forgottenrecords)1957/12/27live放送,,何度も聞きたくなる録音にはもうほとんど出くわさない。これは非常に珍しいケースだ。力強く大きな流れを作って、技術力ではなく、ラフマニノフの音楽の包含する最も良質なロマン性というものを楽団とともに作り上げていくジャニス/ミュンシュの音楽性にいたく感銘を受けた。悪いモノラル録音で1回性のコンサート記録だから演奏精度も細かい部分はわからないが、十分に腕は動き指はまわり音響的にもともと分厚すぎる部分はノイジーに感じるところはあるがほとんど細部のニュアンスに至るまで神経が行き届いてそれをちゃんと音にしている。技巧の継ぎ接ぎではなく技巧を承前として、必要な動きや流れを取り出し聞かせていくからわかりやすい。もちろん音を減らしてごまかすようなことはない。若いならではの演奏でもあるがブラヴォが普通なのが不思議なくらい、響いてきたのはピアノがしっかり前で捉えられかつオケもちゃんと聞こえてくる程度にはバランス良い録音のせいかもしれない。瞬間的にステレオになるのは??,-----,,,,,,,,,,,,,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番,ジャニス(P)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA)1957/12/29・CD,,悲愴の録音を思わせる押せ押せスタイルで迫力はあるにせよ、乾燥しているというか、ソリストもそうなのだが、ロマン派音楽を設計して構成して聴かせるというより、現代モノを譜面の通り即物的に音にして流している、という感じがして、引っ掛かりがなく、さらっと聴き流せてしまった。2番をやらなかったのも、3番がただ技巧的で時代の要請もあったから、にすぎないのか。ミュンシュが他にラフマニノフをやらなかったのもわかる気がする(同曲だけは同じジャニスとクライバーンのライヴ録音が残っている(各SLS,DAないしmelusine、未聴))。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番,バッカウア(P)パレー指揮デトロイト交響楽団(vibrato)1959/11/26live,,ノリがよくオケとの相性もバッチリ。パレーの高速にバッカウアの音が濁るのも厭わない打鍵が乗り、カラッとしているが、また叙情的なフレーズでは高音の装飾的な音が粒立って美しいいっぽうパレーの鼻歌まで聴こえる。なのに録音が最悪で、中低音域の音の分離が特に悪すぎる。ピアノは最高音しか聴こえないし(事故が多く聴こえるのは録音のせいか?)、オケはほとんど雰囲気だけのものだ。細部はまったく聴こえず、篭ったモノラルの放送エアチェックもの、覚悟して聴くべき。あと、録音レベルが非常に低く、冒頭欠落しているのかと思った。鑑賞に値するのは高音の多い終楽章。最後拍手前にブチ切。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番,フリエール(P)バーンスタイン指揮NYP(SLS)1963/10/13リンカーンセンターフィルハーモニックホールlive,,録音は悪めのモノラルですすめられないが内容はかなりよい。フリエールはバリ弾きスタイルだが音が柔らかく機械的な技巧のみならず滑らかな音色表現で余裕でグイグイ引っ張っていく。和音もきれい。だが2楽章終盤で少し音が濁り、3楽章序盤ではテンポが停滞したどたどしくなる。これは疲れか何らかの事情か、ただ気が付くと素晴らしい技巧と音楽的表現で爆発的な拍手に包まれている。これはバンスタNYPという重厚にうねりイマジネイティブに絡むロマンティックな表現に素晴らしく適性を示すバックをつけている面もつよい。ラフマニノフはバックオケも重要。これも何かの裏事情かバンスタもラフマニノフはあまりやっていないが、2番シンフォニーあたりやったらマーラーになっていたかなあと夢想。総じては良い演奏で○をつけたいが録音状態と調子の悪い部分をさっぴいて無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番,ブルショルリ(P)アンセルメ指揮ボストン交響楽団(meloclassic)1951/12/14live・CD,,録音状態は良くはなくノイズが入り続けるが、このレーベルらしく、最大限聴きやすく鞣されている。演奏も素晴らしい。事故で演奏家生命を絶たれることになる悲劇の女流ソリストが、豪腕や技巧をことさらに見せつけるソリストとは違い、表現の柔和さ、オケとの音色的調和によって協奏曲的な側面以上にラフマニノフの音楽そのもののロマン性〜それはもはや耽溺するものではない〜を理解しやすい形で引き出して、一発聴きでもすぐに引き込まれる世界を形作る。もちろん技巧が劣るわけではなくミスらしいミスはほとんど無く、力感の必要な部分で指の劣るところは全くない(これは録音起因であろう重音や細かな動きの不明瞭さもあるにはあるがまず気にならない)。必要以上の圧力をかけずに楽器の特性を活かして音を轟かせる円熟した演奏ぶりには圧倒される。とくにリズム表現にすぐれるのはラフマニノフのカッコよさを演出するのにふさわしい。3楽章の煽り方はまさにラフマニノフのアレグロの騎馬を駆るようなカッコよさを強調するものだ(ここにきて指の骨の細さを感じずにはおれないがやろうとしていることは伝わる)。音が終始明るく一貫しておりその点での緩徐部とのコントラストがはっきりしないのは、しかし別に問題ではないだろう。指の細かな動きはレース模様を描くように美しくしかしはっきりと音楽の綾を示す。後半になり指の力が回復し、オケの強奏に負けず覇を示す。オケの醒めた音はアンセルメのせいかもしれないが、アンセルメだからこそ技巧的にも音響的にもしっかり盛り立て、しっかり締める。間髪入れず拍手、のようだが残念、断ち切れる。これはフランス派からの刺客である。,-----,,,,,,,,,,,,,
ラフマニノフ:弦楽四重奏曲(未完),○ギレー四重奏団(NAXOS他)CD,,トスカニーニ下のNBC交響楽団のコンマスとして知られるギレーの楽団だが、ピッチが低過ぎて聴きづらく感じるところがある。しかし演奏は聴かせる。ロシア国民楽派とは一線おいた上での保守性を、うねるように半音階的な動きを交えながら表現するラフマニノフの、チャイコフスキーから一歩踏み出した新鮮な響きがちゃんと聞き取れる。スケルツォの二楽章はラフマニノフらしさは薄いが要領よくまとまってとくに内声部が面白い。この楽章で終わってしまうのは惜しい気がするが仕方ない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:交響曲第1番,○ザンデルリンク指揮レニングラード・フィル(MELODIYA他)〜びっくりした。この演奏ではじめて1番に感動した。といっても今まで2、3の演奏しか聞いていないのだが、ザンデルリンクのムラヴィンスキー張りの求心力にもびっくりしたし、2番で感じたギスギス感もまったくせず、なめらかでロマンティックな曲想の歌いまわし、急峻な楽想のしっかりとした若干前のめりのテンポ感、なるほどこういう演奏で聞けば飽きないのか。なんといってもラフマニノフらしい4楽章がキキドコロか。この曲は習作なのであまり深くつっこむとハマるのでここでは深く追わない。まずチャイコフスキーの露骨な影響がみられるし、旋律処理へのグラズノフの影響も大きいと思う。西欧音楽ふうの表現もみられる。曲想はどれも「悪いラフマニノフ」特有の半音階的でわかりにくいものばかりだが、この演奏はそれでも雄大に男らしい情緒を込めて演奏されているがために、感動してしまう。しかし、なんで2番はああなのに、1番はこんなにステキなんだろう。佳演。CD復刻済(廉価BOX)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第1番,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(LANNE:CD-R)1987/11/15ウィーンlive,,いいかげんこのlanneの「勝手にスヴェトラエディション」にあるようなエアチェック録音をまとめて掘り出して正規CD化してほしいと思うのだが。これは死蔵するには惜しい名演である。ノイズがなければ◎にしていたところだ。ラフマニノフには造詣深い指揮者が、2番に通じる特有の移調転調、コード進行、スケルツォ的場面でのオリエンタルなリズム〜それらはとても素晴らしい演奏効果をあたえるのだが、旋律が弱いこの作品では余り伝わらないことが多い〜それらを分厚いオケを通して非常に判り易く浮き彫りにしてゆき、控えめながらもブラヴォが飛ぶ出来となっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:交響曲第1番,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA/MOSCOW STUDIO ARCHIVES)1966・CD独特の闇をはらんだラフマニノフの初期作品。頭からいきなり「ダラリラーン」と低音のおどろおどろしい動機があらわれて、聞く気をなくさせる。グラズノフ8番の2楽章によく似ている(この動機が各楽章に顕れる所も似ている)。だが陰うつな雰囲気はけっして深くはなく、気まぐれなリズムパターンやファンファーレがあらわれて珍奇な様相を呈する。ここでスヴェトラーノフはじつに円熟した技をもって交通整理を行い、きちんとしたフォルムを組みたてた上で、ロシア弾き(吹き)(叩き)を炸裂させることにより偉大で筋のとおった音楽を作りあげている。たとえば最初の一分くらいでもうボンガルツ盤との差は歴然とする。この柔軟で流麗な音楽はドイツ流儀の立ち入る隙などない。すばらしい。曲が曲だけにスヴェトラーノフの技をもってしてもイマイチわけわからないところもあるが、終楽章の祭りの雰囲気など、フツーにやるとでこぼこしていてちっとも盛り上がらない田舎の盆踊りみたいになるところ、鋭いリズムとパワーの開放がきちんとすべて音となって届き、耳躍らせる。瑕疵がないといえば嘘になるので○ひとつにしておくが、ザンデルリンクの次に置かれていても不思議はない佳演である。廉価で再発(2004/1現在)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第1番,ボンガルツ指揮ドレスデン・フィル(URANIA)LP非常に引き締まった演奏ぶりで充実した響きを味わえる。だが、これは、さっぱりわからない。何を言いたい曲なのか、どこがクライマックスでどこが歌い所なのか、ボンガルツはたぶんけっこう即物的に解釈しただけで共感はなかったのだろう、無頓着にただ古典的な演奏スタイルを貫きとおしている。この曲はラフマニノフの若書きで、かなり散文的でまとまりがなく、またロシア国民楽派交響曲の影響があまりに大きいため、ラフマニノフ本来の爽快なリズムとメロディが、野暮で土臭いひびきにだいなしにされているのだ。この曲をちゃんと聞かせるためにはまず、国民楽派的に解釈するか、ラフマニノフ的な個性を強調した解釈を行うか、その二つの選択をしなければならない。それはおそらく前者のほうが簡単であろうが、後者のほうが印象的に聞こえるはずだ。ザンデルリンクは後者だった。スコア改変で有名なザンデルリンクのこと、この曲も当然いじっていたのだろう。いやむしろ、ちょっといじってやらないとどうにもならない類の曲。いや、凡庸ではないのだが、完成されていない粗削りな作品。ボンガルツは残念ながら正攻法すぎた。無印。それにしてもウラニアには奇盤があるもんだ。ジャケは何故か夜空に花火の絵である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番,○イワーノフ指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA)LP,,3楽章の感傷的な旋律がドラマで取り上げられ一時期よく聞かれていたが、寧ろドラマティックで構造的な両端楽章が聴きモノの交響曲。ステレオで良好録音。クーセヴィツキーを彷彿とさせる雄渾な演奏振りでヤワな演歌に流れない。ソヴィエトではベートーヴェン指揮者と言われていたというのがよくわかる。最後まで一貫してラフマニノフに対する態度を明確にしたとても輪郭のはっきりした首尾一貫性はガウクみたいな流れ方もスヴェトラ晩年みたいな横長の演奏にもいかずに、いつでも聴いて納得できる形でまとまっている。おすすめ。イワーノフはVISTA VERAのmelodiya復刻シリーズからチャイ5と1812年(後者はシチェドリンによるロシア国歌差し替え版)のカップリングCDが2008年7月発売された。高いけど。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,
ラフマニノフ:交響曲第2番,○オーマンディ指揮ミネアポリス交響楽団(VICTOR)1934/1/18,19,22・SP,,録音悪いにもかかわらず演奏は素晴らしく現代的で、冒頭ひとしきりの重さと弦のポルタメント奏法を除けば今でも通用しそうな充実ぶりである。この時期にしてはオケがとにかく巧い。オーマンディの芸風は決して確立していたとは思わないが、寧ろ前のめりの精力的な演奏ぶりは客受けしそうな感じである。2楽章の速さとキレには度肝を抜かれた。カット版だがそれほど違和感はない。なかなかのもの。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ラフマニノフ:交響曲第2番,○スヴェトラーノフ指揮フィルハーモニア管弦楽団(ica)1993/3/15live・CD,,スヴェトラーノフ円熟期の十八番で終楽章後半の盛り上がりに熱狂的なブラボーも定番といっていいだろう。一楽章など内声がごちゃっとしてしまったりオケに弱みが感じられるがスヴェトラーノフの演奏らしいアバウトさで乗り切っている。このころからやけに透明感ある響きを志向していたように感じるがこれはオケが元々そうであるがため良さそうなものの、やや無個性で重みがないのは気になった。何と言っても聴かせどころは三楽章であり、止揚するテンポにはスヴェトラーノフの真骨頂たる歌心が感じられる。尊敬していたというバンスタ(アンコールはキャンディード序曲)とは違った粘着力を持つ音楽は一聴の価値あり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:交響曲第2番,○スタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団(CAPITOL),,カット版だが大変に立派な演奏である。がっしりしたフォルムを保ち決して細かくは揺らさず、やや引いたテンポのうえにひたすら雄渾な筆致でロマンを描きあげてゆく。その名演ぶりの大半はピッツバーグの分厚い弦セクの力によるものだろう。決して技巧にすぐれた弦のオケではないのに、しかしここではリズミカルなアンサンブルの非常にしっかり構じられた演奏を繰り広げ、非常に憧れのこもった音でハリウッド映画音楽的な音色をきらめかせながら、しかしスタインバーグの要求する強く男らしい表現の中にそのロマン性を押し込めることにより、純音楽的表現と内面的感情の素晴らしくバランスのとれた格調の高い歌がつづられてゆく。ゆめゆめ演歌などと思わせない。よくあるロシアふうのお祭り騒ぎも嘆き節もなく、テンポ設定は巨視的にしかいじられず、1楽章では遅く客観的と感じたり終楽章では逆に即物主義的と感じるほど単純なアッチェルをかけ続けたり、そこがちょっと気になったので◎にはしなかったのだが、これらがあるからこそ個性的な演奏たりえているとも言える。ホーレンシュタインのやり方に似ていてもあの明らかに音色を犠牲にしてまで整えるドイツ式の表現手法とは違う、ロマンティックな音、アーティキュレーション付けを多用はしないが効果的に使って色めいた伽藍を打ち立てている。素晴らしい。○。決して巧いオケではないのだが、それでも素晴らしい。,-----,,TITLE: 第二部 ピッツバーグ展(8),URL: http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_99d3.html,BLOG NAME: 国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記,DATE: 03/10/2007 17:41:06,9月22日(木) 雨降ったり止んだり  六時起床。倉庫への道を間違えてリバーティ,-----,,,-----,,,-----
ラフマニノフ:交響曲第2番,コンドラシン指揮ACO(RCO)1980/8/18live・CD,,もしこの録音を目当てにRCO80年代ライヴ・ボックス(5巻)を買おうと思っているかたで、既に000classicsの裏青(29日プロムスライヴ)を持っているかたがいらっしゃったら、買う必要は無いと断言する。10年前だったら私も非常に後悔していたろう。正規録音から起こしたものではない云々但し書きがある以上文句は言えないのだが、録音状態が悪いのだ。ステレオだが遠く昔のFMエアチェックのような音で、音場がぼやけていて聴きづらい。この曲は内声で絡み合うトリッキーな弦楽アンサンブルが要になる部分が多い。しかしこれは、別録にくらべ強弱が大きくついているように感じるものの、その弱音部が聴こえないのだ。終楽章でブラスの下で短いフレーズの掛け合いをする箇所など、コンドラシンならではの手を抜かない厳しさが売りであるはずが・・・肝心なそこが聴こえないのである。上澄みの旋律だけ聴いていたらあほみたいな曲である。これが作曲家ラフマニノフそのものの魅力と言っていい構造的書法なのに。いくら別録にくらべメロウで上品で起伏の大きいロマンティックなふりが伺え、全体の響きもスケールアップしているように感じられるとしても、単純に曲を堪能しきれないのではしょうがない。こういうのはいくら新しくてもSP録音よりも悪いと言える。だいたいコンドラシンに上品さは必要ないし、デジタルな変化のインパクトこそコンドラシンだ。レンジが広すぎるのも「らしくない」。そして何よりソロミスの多さ、バラケの多さも気になる。終楽章が特に問題。集中力が落ち精彩に欠ける。別録が突進の末に一斉ブラヴォで終わるのにくらべ、一歩置いて普通の拍手で終わるも道理である。,,解釈は基本的に同じ。特有の無茶なカットも同じ。驚くことに演奏時間もほぼ同じ。でも、これは資料的価値しか認められない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ラフマニノフ:交響曲第2番,ソコロフ指揮クリーヴランド管弦楽団(PASC他)1928世界初録音盤,,pristineの復刻による。ソコロフはトスカニーニやクーセヴィツキーとくらべ世代的にはそれほど古くはないが、pristineの3枚組はこれが最後の電気録音としておかれており、仔細はわからない。クリーヴランド管弦楽団の創設指揮者であり、出身はロシアだが幼少期にアメリカに移住しており血のようなものは感じない。力強い演奏ではあるがむしろ端正ですらある感じもして、スマートというとイメージ的に違うというか、この時期にしてはオールドスタイルのデロデロ解釈にも録音制約にも縛られず現代的な表現をなしており、SP特有スピード早めかと思えば3楽章はそうではないし(原盤状態のせいだろう中間楽章はやや聞きづらいが)、テンポルバートもするところはするし、そこにポルタメントはしっかり入れ、大見得を切るような表現もしているが、、、すべて醒めたところがあって、おおむね統制の厳しく取れた、今のクリーヴランド管かとすら思えるオケのアンサンブル(弦の薄さはリマスタリングでもカバーできず惜しいが乱れは少ない)に明るい音色は、20年代にしてはかなり特異な部類に入ると思う。カットはあるがクーセヴィツキーほどカットしておらず、後半長々しくて飽きてしまう私ではあるけれど、1,4楽章は楽しめた。極力ノイズを抑え聞きやすく仕立てたpristineにも拍手。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),△ストコフスキ指揮ハリウッド・ボウル管弦楽団(music&arts他)1946/8/13放送LIVE〜これが録音が悪い!余り薦められない。全曲版と言われるが未検証。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),△ボールト指揮ロンドン・フィル(deccaほか)・LP〜1956年録音。ステレオ。カット有り。ボールトの“フィルハーモニック・プロムナードオーケストラ“時代の録音には名盤が多い。…しかしこの盤は印象に残らない。いつも乍ら直截な古典的解釈で、古物を彫刻するような指揮ぶりは、この「勢い」と「即興的解釈」が要となる曲にはそもそも合わないのではないか。4楽章のけして品格を失わないうえでの前進性や、3楽章後半の大きな曲作りにききどころはあるものの、敢えて探し出して聴くほどの価値があるかは疑問。一生懸命聞き取ろうとしない限り個性の感じられない演奏だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),○ウォレンスタイン指揮ロスアンゼルス・フィル(seraphim)1960EMI〜当然カット版(少し面白いカット 方法)。良く引き締まった、贅肉の無い即物的演奏。終止速いテンポで、表現の潤いに欠けるように思うかもしれない。クラリネットなど木管の音に特徴があり、ロシアオケのようにヴィ ブラートをかけず筆太に吹くところが特に3、4楽章に目立つ。音量感はある。 3楽章などいか にもぶっきらぼうだが、そこはかとない情趣を感じるのは録音のせいだろうか。ロス・フィル ・ヴァイオリンパートのアマチュア的謡い込み方には両論あろうが、個人的には好きな情熱の表現だ。フォルテに盛り上がるところで必ずアッチェランドがかかるところは、素人指揮っぽ いが特徴的。他では聴けないだろう。併録のペナリオ・ラインスドルフ組による協奏曲2番(19 61)は、輪をかけて即物的な巧緻な表現がすっきりとした印象を与え逆に聴きやすい。終楽章 のカデンツアがまるで単なる経過句のように短く弾き流されているのも面白い。総じて良い盤だと思う。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(新録、“全曲版”)〜カット無し、繰り返し無しの1976年録音。遂に邦盤でもCD復刻された(法悦の詩とのカップリング)。旧盤に比べて表現の幅、中身の濃さ、演奏の充実度が際立っている。ラフマニノフの理想としたサウンドはまさにこのようなものだったろう。どちらかといえば揺れの少ない現代的な演奏で、時期的にも「フィラデルフィア・サウンド」がやや衰えた頃なのにも関わらず、オーマンディの指揮のたしかさがラフマニノフ特有のリズミカルな対旋律をくっきりと浮き上がらせ、面白い事この上ない。ラフマニノフが自作の最良の表現者として称えた指揮者と楽団、白眉であり、同楽団による初演で知られる「シンフォニック・ダンス」よりも充実した録音だ。オーマンディ晩年の秀演である。(1996記)以下は基本的に旧録でも変わらないが、率直で余り揺れの無い解釈(テンポも音色も)は曇りの無い透明な美感に溢れ、颯爽とした速さで駆け抜けるそう快さは特に終楽章で生きてくる。3楽章も余計な感傷性を差し挟まない分、クライマックスでの表現が目覚ましい効果を与える。もっと顕著なのは終楽章も終盤でかかる壮大なルバートで、ためにためての分、非常に効果的だ。開放弦による音色効果等、即物的といいつつも細かい解釈の独特は諸処に認められる。また、金管群の迫力と纏まりの良さは抜群だ。しかし作曲家の最も信頼していた(但し解釈自体は好まなかったという話しもある)オーマンディが、晩年になって若きプレヴィンの影響下に<完全版>をレコーディングしたというのも面白い。それだけプレヴィン盤が優れているということでもあるのだが。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),○ガウク指揮ソヴィエト国立放送?交響楽団(MELODIYA)LPまずびっくりしたのは演奏時間。50年代というと大きなカットが施されるのが普通な時代だったのに、この盤はカットがない。逆にそれで冗長感が感じられることも否定できないのだが・・・。*私の盤はA面が壊滅的にダメ状態なので、1、2楽章については簡単に書きます。1楽章はマーラーかと思わんばかりの深い絶望から始まるが、すぐに憂愁の旋律が始まる。フレーズの流れに沿って自由に動くテンポの振幅がかなり大きく、今まで聞いたどの演奏よりも彫りが深く感じた。緩急かなり激しい。叙情的な旋律をひたすら低速で聞かせるのではなく、極端に速い部分を細かく交えてだらしない解釈になるのを避けている。ガウクの揺らしかたには特長があり、盛り上がりに向かってはかなりテンポを早め(アッチェランドではない、突然加速するのだ)頂点では最初は早め、次いで大きく減速しソリスティックな色気あるフレージングを施す。2楽章はしかし発音が甘くスケルツオ的な軽さや鋭さに欠けている感じもする(私のボロボロの盤面のせいかもしれないが)。中間部の叙情旋律の謡い込みは情緒たっぷりなフレージングが印象的。3楽章はなかなか聞かせる。クーセヴィツキーにも通じる骨太の叙情が分厚い弦と耽美的な木管によって紡がれる。曲と完全に一体化したガウク・フレージングのケレン味たっぷりの表現に尽きるのだが、音が明瞭なのでいやらしくはならない。ヴァイオリンの泣きの旋律、悲嘆と憧れに満ちたヴィブラートは必聴。啜り泣くピアニッシモから詠嘆するフォルテシモまで、録音がもっとよければ効果的ですばらしかったと思うのだが(でも私の盤ではこの楽章がいちばんマシ)、この盤の一番の聞き所と思う。このヴァイオリンの「うた」に比べればホルンや木管の表現はぽっかりあっさりといかにもロシア的なぶっきらぼうさを感じる(でもホルンの艶めいた響きは赤銅のような輝きをはなち秀逸だったが)。4楽章は誰が振っても聞けてしまう完成度の高い楽章なので、ガウクが飛び抜けてどうのこうの言うものはない。ヴァイオリンの音にバラケ感があるのはロシア流儀。個人的にはもっと鋭さがほしいが録音のせいかも。ほんと音飛びだらけでイヤになる我が盤。ムリヤリ強引に引っ張っていく力技のようなところも散見される演奏だが、おおむね期待どおりというか、まっとうな解釈である。比較的落ち着いたインテンポでひたすら突き進む方法はそれまでの楽章の手法とは印象を異にする。そのかわり音量変化はたっぷりだ。ガウクはよくすっと音量を落としてそのあと急激にクレッシェンドする、演歌的な歌いかたをするな、と思った。前半で3楽章主題が一瞬あらわれるところと、最後のクライマックスでは「歌うためのテンポダウン」がなされる。まあ、4楽章は全般普通と言えるかもしれない。1、3楽章が聞き物の演奏です。*カット版であるという記述をしておりましたが誤りでした。大変申し訳有りません。ご指摘いただいたかた、ありがとうございました。(2004/9/29),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),◎クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(rococo)LIVE・LP〜この演奏が何故CD化されないのか腑に落ちません。音が悪すぎるということでしょうか・・・3番は2度もCD化しているのに。やはり直球勝負で、確かに肝心の3楽章など、しっとりした潤いに欠けます。驚嘆すべきカットの数々は言わずもがなです。しかし2、4楽章、轟音の中に織り交ぜられる憧れに満ちた歌い回しの美しさ、オケの素晴らしいアンサンブルと共感に満ちたフレージングはかつてのスヴェトラーノフでさえこうはいかなかったであろうと思います。抑制と激情がいずれも半端でなく高い場所でバランスをとっている。ボストンもとにかく巧い。ヨーロッパのトップクラス並だ(じっさい移民もいるのだろう)。ドイツオケのような中低弦の音色。チャイコフスキーの5番でも同様の印象を受けましたが、私の中では「法悦の詩」(CD化)と共に、クーセヴィツキーのライブ録音の頂点に位置するかけがえのないLPです。凄絶なブラヴォーの嵐に納得。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),○ゴロワノフ指揮モスクワ放送交響楽団(BOHEME他)CDカットの嵐。解釈も嵐のよう。音が悪すぎ、独特の「読み」も裏目に出、すこぶる聞きにくい。他の曲の録音に比べてもかなり激しい表現で、それはそれでかなり面白いのだが、録音バランスの悪さが、同曲のききどころである各声部の掛け合いをわかりにくくしてしまった。マニア向けである。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),○コンドラシン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(000CLASSICS:CD-R)1980/8/29ロイヤル・アルバートホールLIVE佳演だ。放送録音らしく少し雑音が入るが海賊盤スレスレだから仕方ない。直截な表現で知られるコンドラシンにしては、かなり表現の起伏が激しい所もある。特に第3楽章、デロデロに唄い込むが、強い発音と速めのインテンポがギチッと引き締めて違和感ゼロ。オケ自体の音はこれといった特徴に欠け、この指揮者らしく単彩で醒めたものだが、デュナーミクに情は篭っている。1楽章及び終楽章後半は凄まじい迫力。終演後のブラヴォはそれ以上に凄まじい。カット版(終楽章など少しびっくりする):16'56/8'02/11'31/11'25,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),◎スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)〜録音が理想的。ほどよく残響がきいているため、オケの粗さが吸収され、まとまった音楽として非常に聞き易いものに仕上がっている。ボリショイの演奏をグレードアップさせた感じ。このくらいのバランスの演奏が一番いいと思う。名演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),◎スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(SCRIBENDUM)1985/1/25LIVE名演。表現の苛烈さとそれと感じさせない練り上げられたアンサンブルが素晴らしい。スヴェトラーノフ最盛期の覇気に満ちた演奏に酔ってしまう。どの楽章も印象的な場面が少なからずあるが、この演奏全体で特徴的なものといえばとりもなおさず終楽章のテンポだろう。異常に速くとられたテンポは私のようにこの楽章が大好きな人間にとってはこたえられない聞きごたえだ。しかもびっちり弾き込まれていて弛緩のシの字もない。カンペキである。このテンポで盛り上げられると最後のルバートがこの上なく効果的にひびく。終演後のブラヴォーの渦はロシアでの演奏では珍しい。スクリベンダムだしライヴなので録音状態は最高とは言えず、やや音場が狭い感もあるが、他演でも述べたとおり、このくらいの距離感があったほうがバランス良く聞こえていい。迫力は音量ボタンで出せばいい。また、ラフマニノフの描いたテクニカルな部分もこの演奏ではよく聞こえてくる。1楽章では対旋律が意外な魅力を発揮して対位法的効果がくっきり描き出されていたり、4楽章などでちらりと顕れるフーガ音形のじつに明瞭に効果的に整えられたひびきにはとても感銘を受けた。まあ、このての賛辞は山ほど付けられそうなので敢えてこれ以上は語るまい。晩年の悠揚とした演奏とは違う、非常に起伏の激しい解釈、その絶妙な解釈が血肉にまで染み付いた団員たちによる力感に満ちた音楽表現、そのもたらす忘我の時を楽しもう。録音にややマイナスを感じるが、メロディヤ録音と同等の聴感を受けたので同じ◎をつけておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),○スヴェトラーノフ指揮ボリショイ劇場管弦楽団〜スヴェトラーノフは近年円熟し、エキセントリックな色合いを緩める反面ppの表現を深めてきている。この曲の新録(来日したときのライヴ(東京芸術劇場)も、キャニオンの最新録音(1996発売)もそうだが)ロシア国立交響楽団によるものは、どうしてもこの旧録にみられる極限的アンサンブルと烈火の如きスピード、めくるめく音彩の変化に対して「弱み」をみせる。ファーストヴァイオリンの弱さもその原因のひとつだろうが、録音のせいもあるのだろう。私はこのボリショイ盤こそ、交響曲作家としてラフマニノフを最も尊敬しているという巨匠スヴェトラーノフの頂点だと思うが、それは同時にこの曲の数ある演奏記録の中でも、段違いに優れた盤であるということを意味する。弱音部や緩徐部の表現がややどぎついが、ムラヴィンスキー流儀のエコーとも思えるし、それはそれで良いのかもしれない。但しこの「弱点」、確実に克服されつつあるのは、来日ライヴの演奏で一目瞭然だった。恐らく今現在存命の指揮者のうち、今世紀前半の伝説的指揮者達と比肩しうるのは、この指揮者だけなのではないか、と思わせる実に巨大な、そしてとてつもなく深い「音楽」を創り上げつつあることがわかった。東京芸術劇場の広い会場はほぼ満席で、終演後のブラヴォーは無数に響き渡り、15分経ってもカーテンコールをせがむ人々の拍手は止まらなかった。本当に巨匠になってしまったのだ、と感じた。(1995記)(補記)早くから知られた単独盤。国内盤CDも出ていた。若き?スヴェトラーノフのエキセントリックさを堪能できる。特に2楽章のギスギスした響きはすれっからしの聞き手にとっては“やれやれー!”といった感じ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),○スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(CANYON)〜キャニオンの全集盤から。スヴェトラーノフの録音は常に短時間(ほぼ一発録り?)らしい。玉石兎に角網羅的に録音せねばならなかったソヴィエト国立とのロシア音楽アンソロジーシリーズには、粗雑な出来上がりのものが少なからずある。特にグラズノフの新録など80年代後半、西側へ流出した弦楽器奏者の穴が埋められなかったのか、しなやかな機能性と量感溢れる音響で魅了したソヴィエト国立弦セクションの、見る影も無い演奏が見られるようになる。録音乏しいグラズノフの新録が出ると聞いて心待ちにしていたのが、聞いてあっさり拍子抜けした覚えがある。マイナー曲での奏者のやる気が無い演奏は、曲のイメージのためにも勘弁してもらいたいが、強固な使命感に燃えて悪化する状況下にも秘曲録音を続けた志の高さには深く敬意を示したい。ライヴでお馴染みのチャイコフスキーなどオハコに関してはほぼ心配無く、スヴェトラーノフもそりゃ途中で指揮棒を降ろすわちゅうもんだが(そんくらい理解しろ当時の評論家!!)、数年前池袋でやったラフマニノフ2番(プラチナとはいかないまでも良い席の獲得は困難だった)では、いかにも弦楽器が“若く”、曲の要求する激しいアンサンブルが、すべからく甘いように聞こえた。肝心の中低弦は安心して聞けるレベルだったものの、弱体化久しいバイオリンパートはやはり薄かった。もっともあれは前述の通り、日本で演奏された最良の2番であったと思う。この盤は名盤の誉れ高い国内盤で、賛美者の枚挙にいとまが無いが、私は“落ち着いてしまった”と感じた。個人的に思い入れのあるバルビローリ晩年を彷彿とさせる。音響が繊細なまでにコントロールされており、ややゆっくりめのテンポの中で各声部を効果的に引き立たせる計算が見られる。基本は客観主義であるものの、ロマン作曲家として情熱的な表現をよしとする資質を反映させた、一種破天荒な演奏を行う指揮者としての魅力は薄まっていると言わざるを得ない。但しスヴェトラーノフの天才が真の円熟を得てこのスタイルに至ったと見るのが大勢であろうし、すれっからしを相手にしては音楽の未来は無いから、これでいいのだろう。このチクルス録音もやはりほぼ一発であったようだが、アンソロジー後期の荒さは無く、カラヤン並みの統率力を見せ付けるものとなっている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),○プレヴィン指揮ロンドン交響楽団(EMI)カットが普通であった同曲の全曲版を取り上げ、再評価のきっかけを作った指揮者といわれる。たくさんあるのですが全部は聞いてないし、なんとも書けません。そのうち聴けたら総括します。すんません…,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),○プレトニョフ指揮ロシア国立管弦楽団(ドイツ・グラモフォン)/ロッテルダム・フィル(ライヴ、放送)〜DGで全集を完結させたプレトニョフは、繰り返しの省略版を使っている。上記ライヴはカットが認められる。棒は「寸止め」スタイルとでもいおうか、基本はギチギチシャープに鳴らし、淀みの淵から雲雀の空までニュアンス深く表現していくロシア・スタイルだが、野暮にならない寸前で棒を止め、そのぶん緊張感を倍増させるスタイル(少しクーセヴィツキー盤に似ている)は非常に格好が良い。最近非ロシア系の2番ばかり聴いていたので、懐かしさと安心感が個人的な心情に作用している可能性はあるが、(一応挙げておいた)後者の放送ライヴをふと聞いてみて、特に1楽章と2楽章冒頭、それに3楽章後半には、ちょっと最近無いカタルシスを得られた。…気が付くとDG盤を持ってレジにいた。この放送は数年前MDにとっておいたものだけれども、幸運にも録音されていた方は聞き直してみてほしい。特に集中力の高い1楽章に関しては、これ以上の演奏は無いようにさえ思う。オケも豊穣で力強いし、残響を抑えたティンパニの打撃が凄い!!ロシア系のオケでもないのに、この表現は何だろう、と思った。DG盤は却って穏健のように思う。それにしても、この指揮者を過小評価しすぎていたと反省した。ちなみにDG盤の1楽章はかなり抑え気味であるが、3楽章から4楽章の表現は明瞭なテクスチュアに憧れに満ちたフレージングをのせて出色だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),○マゼール指揮ベルリン・フィル(DG)1983〜スタイルはキタエンコに似る。オケの力量と油の載ったマゼールの棒が水も切れるようなアンサンブルをかなでる。存外いい演奏なのだ。マゼールの全集は余り口辺に上らないが何故だろう。緩徐楽章よりアレグロ楽章を好む私としては終楽章におけるベルリン・フィルの強固な弦楽アンサンブルに拍手を送りたい。この組み合わせはシンフォニック・ダンスもすばらしい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),○ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(COLUMBIA/EMI)1945/11/15〜これ、もうすぐCD化します(2003/9末)。手元のLPが非常に状態が悪いため、CDで買い直すつもりだけれども、演奏の概要は聞き取ることができる。かなり押せ押せごり押せのストレートな演奏で、ロジンスキ節炸裂、密度の濃い音響はラフマニノフのロシア風味をぐっと引き立てる。音が悪いからというわけではないが、クーセヴィツキー盤に似ているように思われた(もっともあっちはテンポがかなり揺れるが、作り上げる音の質が良く似ている)。4楽章はとくにテンポが全く揺れず、速いスピードでぐんぐん押し進むところが男らしい。対して3楽章は恐らくこの演奏の白眉とでも言うべきもので、昔のハリウッド映画を思わせるロマンチシズムに満ちた、しかしベタベタせずに男らしい情感溢れる表現が印象的だ。全般、この音質では○は上げられないけれども、CD化後を想定して上乗せ、○ひとつつけておく。ちなみに当然カット版で、独特のカットがびっくりさせる。カーネギーホール録音。一日で録りおえている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(旧録)〜作曲家晩年の友人であり交響的舞曲の表現に関してはお墨付きだったオーマンディの旧盤。シベリウスとも同様の仲だったというが、今は評価が高いとはいえない。確かに常套的で冷徹な棒であるが、モノ時代には瞠目するような目覚ましい録音も少なからずあった。作曲家最高の作品とされることも多い交響的舞曲の録音もリズム表現の瑞々しさや透明な感傷表現に魅力ある佳盤といえる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),キタエンコ指揮モスクワ・フィル(MELODIYA)〜サウンドとしてのラフマニノフを表現しきっている。これはこれで良い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),クレツキ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団(LONDON,STEREO)〜清い響きとは無縁の無骨な解釈、しかし入念な演奏ぶりで、割合に楽しめる。クレツキの 独特な棒は言葉で説明するのが難しいが、たとえば盛り上がる箇所では波のようなルバート表現を極力避ける一方、妙なところで局所的に引き伸ばしてみたりする。 大極的に言って余り揺れの無い率直な解釈といえようものだけれども、ここでは1楽章や終楽章の最後くらいで出てくるのだが、クライマックスでかなり速度を上げて、 そのまま雪崩れ込むようにあっさり終結させたりするところも面白い。通常若干でもテンポ・ルバートがかかるような場所を、何も無いかのように通り過ぎてしまうのだ。 客観主義というより表現主義的というべきだろう。 シンバルなどの打楽器の破裂音に近い響かせ方など、アンセルメ時代に比べて荒々しさがある。少なくともこのようなスタジオ録音では乱れも少なく、あいかわらずの録音の良さも含め 充分許容範囲内の演奏だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),ザンデルリンク指揮フィルハーモニア管弦楽団(teldec)1989〜レニングラードの演奏ははっきりいって粗雑。解釈が武骨。妙なところも。弦楽器など、ムラヴィンスキーの統率力よどこへ、といった感じの演奏だ。比べてフィルハーモニア管の演奏はぐっとまろやかになっており、これもひとつの見識と思わせる。ただ、終楽章が遅すぎる!レニングラード・フィルとは1番も録れている(CD化済み)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),ザンデルリンク指揮ベルリン・フィル〜たくさんあるのです。少なくともロシアオケ盤とヨーロッパオケ盤がある。全部は聞いてないし、なんとも書けません。そのうち聴けたら総括します。1989・9・16ライヴ。ライヴでも全て繰り返し「有り」カット無しを貫いている。ベルリン・フィルの艶を生かしきれていない気もするが、ザンデルリンクのスタイルはおよそ艶とは無縁であるから仕方ない。ギスギス。だからやや飽きる…,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),ザンデルリンク指揮レニングラード・フィル(DG)teldec盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),スヴェトラーノフ指揮NHK交響楽団2000/9/20 NHKCD〜穏やかな近年様式ではあるがN響奮闘。終楽章などはライブならではのルバートが随所にかかり熱狂を呼ぶ。無理して吠える金管に喝采。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),パレー指揮デトロイト交響楽団(mercury)〜てらい無く素直な演奏。録音のせいだろうが、ハーモニーのバランスがこの時代にしては非常に良い。普通とカットの仕方が違うようだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),プレヴィン指揮ウィーン・フィル(FKM:CD-R)1992/10/18LIVEこの人の音楽は端正でハメを外さな過ぎる。デュナーミクには独自の変化が付けられている箇所もあるが、ほとんど譜面にあることをそのまま音に仕上げたような、なんだか即席ラーメンのような味がする。ウィーン・フィルの音もいにしえの味はなく、弦には僅かに艶ある音を出している奏者もいるが、機能性が高まったぶん個性と自主性が失われている(パワーはあるが)。完全版というのも、とにかく、長いだけだ。その長さぶんの面白さが倍増していればいいのだけれど、逆だとサイアクだ。この人はけっして才能の無い人ではない。ただ、あまりにいろいろな曲に挑戦し続けてきたせいか、そつなくスマートに出来過ぎて味が出ないのだ。この曲のオーソリティとしてもっと面白い演奏をしていってほしい。私にはまったく引っかかりがありませんでした。終演後の拍手はふつう。この曲の最後はとにかく派手でブラヴォーが入り易いのだが、この演奏ではほとんどブラヴォーは聞こえない。さもありなん。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),プレヴィン指揮ミュンヒェン・フィル(EN LARMES:CD-R)2001/11/9LIVEブラヴォーはすごいが。あれあれ、といったかんじ。遅めのテンポに締まりの無い音、これがラフ2再発見者プレヴィンの演奏なのか、としばし耳を疑った。最初のうちは、チェリの振っていたときのようにがっしり構築的な演奏を指向するオケが、プレヴィンのやわらかい指揮とミスマッチの魅力を放っているように思えたが、あまりの「どっちつかずさ」にどっちらけてしまった。3楽章はさすがに映画音楽的でうまいのだが、過去の演奏と比べてどうなのか。私は、プレヴィンが退化してしまった、と思った。どっちつかずの中途半端な解釈、感情の起伏の無いのっぺりとした音楽、いろいろ罵詈雑言が出てきそうなのでこのへんにしておく。当然無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),ミトロプーロス指揮ミネアポリス交響楽団(NICKSONほか)1947〜カットはクーセヴィツキー盤並に有り。2、3年前に相次いで復刻されたミネアポリス録音の嚆矢を飾ったもの(私はそのさらに数年前に出た表記のマイナーレーベル盤を聴いている)。録音はかなり悪い。オケもそれほど巧くはないが、流石ミトプー、起伏が激しい解釈にも関わらず、演奏はとてもこなれている。急激なリタルダンドによる独特のテンポ表現が散見され、特に2、3楽章は見事な効果を挙げている。3楽章は個人的に余り好きではない楽章だけれど、これは聞ける。ハリウッド・ギリギリの凄絶なロマンスは、この盤でしか聞けません。緩徐部の木管の密やかで寂しげな音も、耳について離れない。4楽章もかなり起伏が有るが、力強い響きにはクーセヴィツキー盤を彷彿とさせるものがあり(無論ボストンの強固な弦にはかなわないが)、最後も高揚感ひとしおだ。音さえ良ければ推薦できるのに…,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番(1906-07),ラトル指揮ベルリン・フィル(FKM:CD-R)1990/6/1LIVEライヴにしてはずいぶんと落ち着いた演奏ぶりだが、ヴァイオリンを始めとする弦楽器の震えるようなヴィブラートにベルリン・フィルを感じて萌える(←ちょっと使ってみました)。1楽章などブラスが鈍重だったりどうにも冴えない演奏ぶりだが、弦楽器はとくに緩徐主題においてとてもイイ音を出している。「熱い」とか「なまめかしい」とまでは行かないものの、特色有る音にはなっている。2楽章の中間部あたりから全オケにラトルの解釈が浸透してきたような感じがする。それは3楽章で頂点に達する。デロデロのこぶしをきかせた歌いっぷりは、発音こそ醒めた客観的な感じを受けるものの、テンポやデュナーミクのまるきり自由な伸縮が楽しい。まさにラフ2の3楽章、そのイメージ通りの演奏だ。この人もピアニッシモの表現が面白く、全音符で詠嘆を表現するときは限界までとことん伸ばしに伸ばす。全楽章の弱音部に言える事でもあるが静かな場面での繊細な音表現が巧い。4楽章はそれほどテンポが上がらずゆっくりしっかりといったふう。普通程度には盛り上がるが、やはり緩徐主題のリフレイン部分に魅力を感じる。総じてそれほど名演とは思えないが(録音がやや遠く茫洋としているせいもあるかも)、現代指揮者としては特筆すべき位置に置ける優れた技術を持った指揮者ということはわかる。ワタクシ的には無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第2番〜V、U,○モントゥ指揮サンフランシスコ交響楽団(M&A)1941/2/27live・CD,,モントゥのシャープでドライヴ感溢れる演奏振りが伺える楽章抜粋の演奏記録。2楽章で勢いよく締めてなかなか爽快感がある。リズム感のよさが発揮されスピードとあいまってこの曲のぶよぶよな部分をなくしている。3楽章は曲自体がぶよぶよで出来上がっているために、凡庸に聴こえた(私はモントゥのチャイコでも同じような余りよくない印象を持っているので、これは解釈への好みにすぎないとは思う)。2006年12月発売のMUSIC&ARTSサンフランシスコ放送録音集成に収録。このボックスは反則だよお(昔に比べればコストパフォーマンスはいいとはいえこの数だとありがたみがない,,"英文レビュー(Sunday Evenings with Pierre Monteux1941-52ボックス全体)",,"
Sunday Evenings with Pierre Monteux

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",,(注)Sunday Evenings with Pierre Monteux1941-52という題名のボックスは茶色い色調のM&A CD1192というのが正しいようです。青くてカニ持ってるのも多分同じですが確かめていません(茶色いほうが再発?)。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,
ラフマニノフ:交響曲第3番,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(da:cd-r他)1947/4/8live,,恐らく既出盤と同じ。同時期アメリカで主流の強靭なトスカニーニスタイルにロシア式の重い歌謡的表現を載せたような、クーセヴィツキーの典型的芸風による演奏で、1楽章の序奏部など短いなりにしっとりやらなければバランスが悪いところ、さっさと主部に入ってしまう性急さを感じるし、その後も主旋律がうねるように粘着するロシア節でラフマニノフの望郷の念の篭ったなつかしさを演出するべきものであるところ、スピードが常に速くインテンポ気味にきこえてしまうため、いくら起伏をつけて没入指揮をしてみても、生身の楽曲のうねりが剥き出しに聞こえてくるような、したがって才気の衰えが感じられる部分はそのまま魅力なく聞こえてしまう。旋律に魅力がない、リズムが単調、常套的構成、アンサンブルに新味がない、そういったところだ。クーセヴィツキーの芸風自体がちょっと聴きワンパターンに陥りがちなせいもあるかもしれない。,,とにかく私はどうもこの曲の演奏はハッキリ好悪が分かれてしまう。これは悪のほうというわけなのである。アメリカナイズされたラフマニノフ自身、切り詰めすぎたような曲なので、もっと雄大に、旋律も上下に振幅を持たせるだけではなくたっぷり時間をかけてほしい、詠嘆の表現もほしい。○にはしておく。録音もよくないのでこじんまりと感じたのかもしれない。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,
ラフマニノフ:交響曲第3番,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(LYS/DOCUMENT)1947/4/8LIVEラフマニノフの3番は「これぞハリウッド!!」というようなメロディ、コード進行のオンパレードだ。逆に2番あたりが好きな向きにはあっさりしすぎて物足りないだろう。メロディも2番のほうが自然で肉感的な魅力がある。コンチェルトもそうだがこの晩年あたりの大規模作品はいずれも垢抜けすぎているのだ。ただ、後期ロマン派の腐乱寸前の香りが嫌いな向きは断然この作品やシンフォニック・ダンスあたりを聞くべきであろう。アメリカナイズされたロマン派の残照であり、洗練されたラフマニノフの終着点である。クーセヴィツキーは絶妙のテンポ感をもって魅力的な音楽の流れを作っている。録音が貧弱なため各ソリストの技が十全に聞こえてこない難点はあるが、流して聞いても結構充足感を味わえる演奏となっている。旋律やひびきの美しさが浮き立ってきて、しかもしつこくならないところにクーセヴィツキーならではの味がある。意志的な演奏であり、だらだら流れないのがいい。3楽章制の3楽章第2主題あたりのなんともいえない甘い味わいは是非聴いて確かめていただきたいと思う。ラフマニノフには自作自演盤もあり、これと同程度の音質だが、演奏レベル的には比較にならない。また、意外だったのが、とくに1楽章や3楽章冒頭など、非常にグラズノフ的に描かれているところだ。1楽章はそれを通り越してチャイコフスキーが透けて見えるような音楽だが、弦楽器の扱いや響かせかたに、クーセヴィツキーがこの作品をグラズノフに通じる紛れも無いロシア音楽の系譜に置いていることがわかる。クーセヴィツキーがグラズノフを評価していたかどうかは疑問だが、その「クーチカ」の総括的作風には一定の理解を示していたのだろう。面白い。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第3番,○シルヴェストリ指揮ボーンマス交響楽団(bbc,medici)1967/12/1・CD,,情緒纏綿な一方リズム感のよさ、音のキレは逸品で、録音がやや小さく篭っていることを除けばかなり楽しめる要素の詰まった引き締まった演奏である。ライヴではないと思う。演奏的瑕疵がなくオケも巧い。この曲の旋律をきちんと魅力的に響かせ、ラフマニノフの持ち味である騎馬民族的なリズムの魅力との交錯を楽しませる、よく曲をわかった人の演奏だなあといったところだ。ロシア式の演奏に近い部分はあるが、オケのせいもあってより洗練された聞きやすさがある。やはり2楽章など原曲の冗長な部分は冗長として残ってしまうし、逆にあっさりしている部分はあっさり通ってしまう感もなきにしもあらずだが、ラフ3の演奏としてはかなり上位に置けるものと思う。録音を除けば。モノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ラフマニノフ:交響曲第3番,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(lanne:CD-R)1968/12/30live,,録音はノイズの気になる古びたステレオ。演奏は晩年のあの落ち着いた薄いスタイルではなく、いわゆるドガジャーン・突進系。この頃が十分な練習を積んだいいオケさえ使えば一番上手くかっこよかったと言える。やはりイワーノフとは違う、スヴェトラと聞いてああやっぱり、というものは持っており、それは録音でもホールでもなく音作りそのものなのだと思った。分厚い旋律の歌わせ方も素晴らしい。最晩年を除きこの個性は一貫していたのだ・・・ラフマニノフのような個人的に思い入れの強い作品に対してだけだろうが。,,しかしまあ、やっぱりブカブカ吹かせてジャーンと底から響かせる大言壮語が嫌いな人には向かない。この曲は小粒でこのくらいやらないと面白くないのだが、終楽章第二主題後の繰言のような長々しさはさすがにこのスタイルでは鬱陶しい。ラフ3はやはりロシアの指揮者だ、と思わせるザンデルリンクを凌駕するほどの強固な演奏であるが、作曲家の演奏記録とくらべるとやはりちょっとやりすぎ、作曲家スヴェトラーノフのかなり入ったものであるのかもしれない。併録は何せスヴェトラーノフ自作自演。○。録音がよければもっと、という高レベル。盤質注意。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ラフマニノフ:交響曲第3番,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA/BMG)1962・CDそうそう、こういうハスッパな演奏こそがロシア、スヴェトラーノフ!ペットがとてもあからさまな音量・音質で、お上品なお客様を脅かすアナーキーな輝きを放っている。個人個人の個性が溶け合わずただ交じり合って、独特のアマチュアリスティックな味をかもす。音楽的には浅いかもしれないけれども、開放的で強力な演奏ぶりは出色だ。緩急の緩に足りないところもあり、たとえば終楽章第二主題などはもうちょっと憧れをもってケレン味たっぷりに表現してもらいたいものだが、まあ終始楽天的な演奏というのもあっていい。技術的には?もあるし初心者向けとは言い難いが、ライヴと聴きまごう意気は買える。録音悪だが、○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第3番,○作曲家指揮フィラデルフィア管弦楽団(PEARL他)1939/12/11 有名な自作自演盤である。CD初出は英パール、私の手元の盤は長らく書棚で眠っていたもので、こんかい取り出してみると表面が黄ばんでいた。10年以上昔の盤はサビに注意、といっても避ける手だてはない。パールはけっこう古い盤でも再発するし、他のレーベルでも出ていたはずだからいざとなれば買い替えよう。買い替えたい理由はもうひとつあって、パールの盤はSPから直接起こした板らしく、ザリザリザリザリあからさまなノイズが入るのだ。音量をあげて聞くと殆ど苦行のようだ、耳が痛くなる。それでも雑音を残しただけに元の音が痩せてしまう事が無く、音楽の輪郭が明瞭に聞き取れるのは長所といえよう。演奏自体は、悪くない。クーセヴィツキー盤のような有無を言わせない境地には届いていないが、いい意味で四角四面にかっちりまとめられており、また内声部がしっかり描き出されており充実した聴感を味わえる。しっかりしたフォルムの中でフィラデルフィアの甘い音色と素晴らしい技術がその威力をこれでもかというくらい発揮しているのは聞き物。フィラデルフィア管独特の音色の個性としなやかで強靭な表現力はこの演奏を内面から押し上げて見事な演奏に昇華させている。ラフマニノフの解釈はあまりロシアロシアしていないが、フィラデルフィアの音色ゆえに感傷的な趣を秘めていて、晩年の作曲家の抱いていた帝政ロシアへの遥かな憧憬、それに対する爽やかな諦念ともいうべきものが浮かび上がっている。これは亡命作曲家と純アメリカ楽団のいいコラボレーションだ。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第3番,〇ザンデルリンク指揮NDR交響楽団(DON INDUSTRIALE:CD-R)ハンブルグ1994/5LIVE,,あきらかにエアチェックモノ。音が悪い。篭りまくりで伸びがないからただでさえがっしりして無骨で重いザンデルリンク解釈の欠点が強調されてしまう。もっとも明るい主題と夢見るようなうつろいが晩年の無駄のない書法とあいまって、ともするとただここには歌だけがあり、あっさり流れ過ぎて何も残らなくなりがちなこの曲、そういったところが無く、ドイツふうに重厚なブラスと、現代的な不協和要素を剥き出しにしてしっかりした構成感のもとに組み上げていく、まるで初期シベリウスかウィーン世紀末かというような、静かで硬質な響きはコタンの境地に近いながらもアバンギャルドさのほうが印象に残る。レニフィル時代ではこうはいかなかったろう。木管ソロの繊細で美しい音も特記しておきたい。弦の(ひびきにおいてのみの)感傷性も含めこのへんはロシア流儀の残照かもしれない。二楽章、がっしりしたフォルムにそぐわないこのなめらかな優しさがザンデルリンクの特質だ。旋律に固執しないところなどロシアっぽくないし、音響の組み立てかたが明らかにドイツ的であるもののそういうところに違和感など少しとてなく、強いて言えば国民楽派から一歩抜け出たグリエールあたりを洗練させたような臭いはする。むろん重厚で懐深い解釈のせいだ。ロシアらしさを象徴する生臭さは皆無である。三楽章は躍動感に欠けるが重々しく迫力はある。見栄を切るようなことをしないからちょっと旋律がもったいない気もするがそれも解釈だ。そんなところよりラフマニノフが得意とした構造的な書法をしっかり聞かせるほうに集中している。終盤になりやっとドライブがかかってくるが、主題回帰でまた一歩引いた客観性をみせるのがうーん、歯痒いがこれも解釈だ。心なしかラフマニノフのワグナー性を法悦的なテンポ表現により引き出そうとしているのではないかという気さえしてくる。にわかなコーダも依然重く最後戸惑ったような拍手のバラバラ具合にもこの解釈のよさが伝わりにくいところにあったことがわかる。二楽章が聞きものなので、録音最悪だけどオマケで〇としておく。ステレオ。,-----,,TITLE: ラフマニノフ作曲、交響曲第3番,URL: http://yurikamome.exblog.jp/2764611,BLOG NAME: yurikamomeの日記と無手勝流思いこみ音楽ブログ,DATE: 09/24/2005 19:30:16, アメリカでもハリケーンが猛威をふるっていて、その様子がここ日本で吹き替えでニュースが見られると言うことのすごさ。, ここ横浜でも、台風接近の影響で天候不順。ということで、早朝に鎌倉腰越〜大桟橋〜腰越〜本社。大した影響もなくすみそうでよかった。とうとう今,-----,,,-----,,
ラフマニノフ:交響曲第3番,オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(eternities)1963/4live,,オーマンディは総力戦の指揮者だ。個別の楽器の技術は高く要求するも色あいは要求せず、個々のパートにそれぞれの主張をなさせることはなく、ただひたすらオーケストラという一つの塊を、大きな構成の中で鳴り響かせることに専念する。完成されたパズルのような、キューブ状に固められた寄木細工のような音楽。個別に優れた長所をもつフィラデルフィア管弦楽団を全体として優れたものとさせようとするあまり、個性が死んだ演奏にも聴こえかねないものの、これは生で聴けば「ザ・オーケストラ」そのものとして感激をもたらすものであったろう。録音はアクの強いものでないと伝わらないし、場における音の拡がりや圧力も伝わらない。それを念頭に、聴くべき指揮者。よく聴けばいかにスケールの大きく力強くレヴェルの高い演奏をなしていたかがわかってくる。どこにもマイナスが無いからこそ、全てにおいてプラスであるという凄さが伝わらないと言ったほうが適切か。,,で、ラフマニノフやグリエールのような、チャイコフスキーの次の次の世代くらいのロシア近代ロマン派には、このボリューム、この性能、このドライヴ力がじつにハマる。チャイコフスキー世代のスコアがまずかったぶん、この世代の曲になるとオケの性能をフルに活用できれば、凄いロマンティックな迫力ある演奏になる(それでいてハリウッド的甘甘さが無い格調あるところもオーマンディの特徴)。音の悪いエアチェックステレオ音源だが、大音量で聴いてほしい。後期ラフマニノフの、それまでの作品から題材を持ってきて組み直したような作風も、書法の充実がそれを補って、こう聴けば楽しい、とわかるだろう。ラフマニノフはフィラデルフィア管弦楽団と同曲を録音しているが決して揺れ揺れの演奏ではなく、この音を想定していたのだと想像して聴くのも楽しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ラフマニノフ:交響曲第3番,ゴロワノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(ARLECCHINO他)1947珍妙な表現、1楽章第二主題。なぜかびよーんと3倍くらい伸ばされる音符がある。これは何度顕れてもどんな楽器に顕れても執拗に付けられている作為的なルバート。なんなんだろう、と首を傾げてしまう。他の点は割合と常識的な解釈になっていて、管楽器を中心としてかなりイケイケな迫力有る演奏なのだが、3楽章まで聞き終えて、うーん、と考えてしまった。録音もこの人にしては悪くないし、引き締まったオケのひびきには充実感を覚える。でも・・・何か足りない。この3番シンフォニーは2番にくらべあきらかに落ちる作品である。それはスケール的にも、個性的にもそうだ。これをなんとか印象的に聞かせるには、どうしたらいいか。晩年ラフマニノフの隙の無い書法では冒頭にあげたような些末な部分でしかデフォルメのしようがない。ゴロワノフは細かいデュナーミク変化によって起伏をつけているが、それもたいして個性的には聞こえないし、そうなるとクーセヴィツキー張りに、ひたすら豪速球で駆け抜けるしかないのではないだろうか。ロシアっぽさが強調されるわけでもなく(むしろクーセヴィツキーのほうがロシア的情緒を感じさせた)、派手に盛り上がってはいるが、今の私には空虚に聞こえた。無印。ただ、ちょっと間を置いて聞き直してみます。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第3番,スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(CANYON)1995/10/2-7・CDずいぶん厚ぼったく壮大な演奏である。この曲はリズムを強調して旋律は力強く突き進むような演奏が好きな私、これはどうも壮大すぎる。演奏は立派で、奏者のレベルもそうとうに高い。けれど、この曲の艶のようなものが、際立ってこない。垢抜けた録音のせいか?いや、旋律のかもす情緒もあまり深くない。というか、アメリカン・ラフマニノフの魅力を正しく把握して行った演奏とは思えないのだ。ロシア流儀とも又違う、晩年のスヴェトラーノフはひたすら音の美麗さを求めた。だがラフマニノフは美だけの作曲家ではない。もっと世俗的なものが包蔵されているからこそ魅力的たりえているのだ。フィナーレ最後の粒だったリズムや壮麗なひびきは出色だが、どうもいまひとつノりきれない。完成度を鑑みて○ひとつはつけておくが、正直、この演奏でラフ3の魅力は感じられない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第3番,ボールト指揮ロンドン・フィル(DECCA)1956/7イマイチ地味だ。転調やリズム変化の表現が不明瞭で、ラフマニノフ特有の魅力が浮き立ってこない。リズム感の悪さ(というか鈍重さ)は否めないだろう。1楽章にはエルガーぽい雰囲気を漂わせる場面もあり、いかにもボールトだなと思わせるところだが、イギリスというよりこの流儀はむしろドイツ的と評したい。重心の低い音響に地に足のついたテンポ。終楽章にしても伸びやかな旋律が伸びやかに聞こえてこなかったり、明暗のコントラスト付けが今一つなため、このうえなく美しい第二主題がワグナー的くぐもりを引きずったままのだらだらした音楽に聞こえてしまっている。ラフマニノフの旋律はとても息が長いだけに歌いかたにはきちんとした設計が必要だ。それが感じられない、だから感動しない。ロンドン・フィルにしては十分感情のこもった演奏ではあるが、これは録音のせいだろう(ステレオ最初期だ)、音のきらめく艶が耳を澄ませないと聞こえてこず(耳をすませば聞こえるのだ!)、立体感がなく平板な演奏に聞こえてしまう。この曲にはスケール感は不要かもしれないが、それでも尚、こじんまりとしすぎている、と言いたい。この時期のボールトの盤は当たり外れが多く、これは外れのほうだ。オケの調子も悪いし、いっそ晩年に録り直してほしかった。ラフマニノフはボールトの指揮に触れ賛辞を送ったそうだが、まだ荒れ狂っていたころのボールトについて言っていたのかもしれない。円熟は必ずしも実りをもたらさないものだ(尤も最晩年のボールトは奇跡的な脱皮を遂げたが)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響曲第3番,作曲家指揮フィラデルフィア管弦楽団(pearl他)1939/12/11・CD,,指揮者として活動していただけあってトスカニーニ的な筋肉質の演奏で圧倒する。オケがオケだけにストコフスキー、ということにはならないようだ〜縦の音のキレ、リズムの明確さ、響きの的確さ、ブレのなさ、録音が良いこともあるし、オケが馬力ある当代トップクラスのゴージャスさを誇る(このオケの得意とするポルタメントは一楽章の一部などほとんど使われない)こともあって、序奏こそ「いつピアノが入ってくるの?」的なコンパクトなコンチェルト伴奏的印象なものの、派手に全オケを鳴らしたり、各楽器の絡み合いを(古風なロマン派音楽であるにせよ)カッコよく聴かせる腕は本物で、また、大ピアニストならではの耳の良さがじつに整った音響、和音の鳴らし方、音色の感傷性に結実しているところも聴きものだ。三楽章が難度があるせいかやや停滞する感もあるが、ロシアの指揮者ではもはやないので突進する意図はなく、その意味では十分西欧化したラフマニノフの管弦楽曲ということで、ゆったり聴くのも良いだろう。長いし。それにしても旋律美いまだ健在、一楽章低弦のメロディは帝政ロシアへの想いが現れているか。まあ、フィラデルフィア管弦楽団黄金期のソロ楽器の腕を聴くだけの目的で聴いても元は取れる、そういったゴージャスな録音なのです。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:交響詩「死の島」,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(BBC,MEDICI)1968/10/22ロイヤルアルバートホールlive・CD,,どうしてロシア人というのはグラズノフにせよラフマニノフにせよこういう海を描くのだろう?既にコスモポリタンの時代に生きていたというのに、リストやワグナーの海からドビュッシーの海への脱却ができずにいる。うねる暗い海をわたる一艘の舟、カロンは死者たちを死の島へと運ぶ。そこからは何人たりとも外へ出ることは叶わぬ、二度と、などといった想像を掻き立てる「だけ」の「印象派的」音楽、いわばベックリンの夢想をリアルに汲み取った「交響的絵画」であるが、帝政ロシア末期の爛熟したロシア作曲界を象徴するようなラフマニノフの未だ明けぬ陰鬱とした作風をのこしたものである(時期的には改訂も含め既にピアノ協奏曲第2番以降の明るい作風に移行している)。スヴェトラーノフは透明感のある響きでダイナミズムを却って煽り、ロシア奏法を前面に押し立ててわかりやすく聞きやすいものに仕立てている。いつものバランス、いつもの弦の響き。○にはしておく。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ラフマニノフ:交響詩「死の島」,ミトロプーロス指揮ミネアポリス交響楽団(NICKSONほか)CD,,2番シンフォニーの録音もSP時代にしては勢いも色彩感も技術的にも素晴らしいのだが、これはラフマニノフがベックリンを即物的に音化したような曇ったロマン性を発揮した曲でありながら、ミトロプーロスの手際良い捌きにより臭みの無い西欧的ですらある演奏に仕上がっている。ノイズは致し方ないが過不足ない聴感である。いかにも同時代ロシアの、ワグナーやリストなど背負った上での重たい音楽を、チャイコフスキー流儀で取りまとめたところは、そう強調されることはないが、佳演とは言えそうだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:交響詩「死の島」,作曲家指揮フィラデルフィア管弦楽団(pearl他)1929/4/20・CD,,20年代の録音なので非常に辛い音なのだが(音色なんてわかったもんじゃない)技巧的なオケの長所すら恐らく録音編成だろうから伝わらず、ラフマニノフの棒も(指揮者として活動していたはずだが)解釈をしない様式にのっとっており魅力は薄い。いうまでもなく象徴主義画家ベックリンの一連の「死の島」から着想された幻想曲「のはず」である(まあアルカトラズ島みたいなモチーフである)。ここに聞かれるのは「チャイコフスキー」である。チャイコフスキーの時代、後期ロマン派そのものの手法にのっとった曲で、大衆的人気は当時はあっただろうが今聴いても「ラフマニノフ作品としては」ピンとはこない。そこに「怒りの日」のモチーフが分解されちりばめられ最後にまとまるというとても即物的な発想である。演奏的にはポルタメントが多用されるオールドスタイルだが気は煽られない。復刻状態にもよるのだろう。同日ヴォカリーズも録音している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:交響的舞曲,○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(COLUMBIA)〜フィラデルフィアの管はすばらしい・・・一楽章第二主題の木管楽器の饗宴は聞きどころのひとつである。その音色に聞き惚れてしまう。弦楽器も負けてはいない。素晴らしい合奏力で力感ある表現を魅せている。解釈的には決して派手ではなく寧ろスマートなのだが、聞き通して感動を残すというのは素晴らしい演奏であるあかしだろう。オーマンディは作曲家と交友が有り、この曲に関しても何らかの示唆を受けた可能性があるらしいが、今となっては確かめようが無い。ただ言える事は、この演奏が同曲演奏史の嚆矢を飾る名演だということである。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響的舞曲,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(?)ソヴィエト盤ゆえどこが出しているのかレーベル名不明です。すいません(泣)。音の処理がアバウトな感は否めない。ぼわっとした聴感だ(まあガウクの特徴ではあるが)。リズムが重要な楽曲ゆえ、もっと鋭く、もっと正確な発音が欲しい。音の輪郭があいまいなのだ。1楽章はそれゆえあまり魅力的ではない(ある程度は録音のせいかも)。2楽章のワルツはリズムを崩して大きな波を作っており、違和感がある人もいるだろうが、私は印象的に思った。フレージングも艶やかで、非常に短いスパンでテンポが極端に変化する。とても感情が篭もった解釈だ。解釈を表現にするには冷静な観点が必要なわけで、この演奏も即興的な思い付きで伸び縮みをしているわけでは決して無い。強力な弦楽合奏のザッツの揃い方からしてアマチュアリスティックな感覚に支配された演奏ではないことはあきらかだ。まさにメンゲルベルク的である。この演奏でいちばん印象的な楽章だ。3楽章は私の盤の状態が極端に悪いため評しづらいが、前向きなテンポで駿馬が疾走するような表現が初々しさすら感じさせる。主部を導く警鐘をもっとガンガン鳴らしてほしかったが好みか。ゆるやかな場面になると極端に(ディジタルに)テンポを落としてデロデロにやろうとするところは古い指揮者ぽくてちょっといい。中間部の最後、ハープのとつとつとした伴奏にのったヴァイオリンのいかにもラフマニノフな半音階的フレーズにはロシアの大地に朝日の差すような独特の妖しい明るさがかもされていて面白い。ギャロップが再開するところでは各パートかなり俊敏で鋭いリズムの掛け合いを行っていて胸がすく。このテンポはガシャーンと盛大なクライマックスまで維持される。結部直前はロシア民謡的な新しい主題がひとしきり奏でられるが、短い主題回帰で騒々しく終了。つくづく・・・いい録音で聞きたかった・・・。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響的舞曲,○コンドラシン指揮シンシナティ交響楽団(VIBRATO:CD-R)LIVE,,激烈なコンドラシン健在でリズム刻みの強烈さは比類ない。両端楽章がききものだ。特徴としてはロマンティシズムで、中間楽章から三楽章までの流れの中に強靭で男らしいうねりがより届きやすいわかりやすい形で取り込まれている。楽団にやや弱さを感じるしとくに弦楽器はついていけずバラケる場面も少なからずだが、三楽章のとくに後半、芳醇な香りにはハリウッド往年の感傷的な映画音楽張りの音表現をきくことができる。いかにもアメリカ的な垢抜けた要素もはらむ曲なだけに清々しく板についている。こういうレガートの表現にたけたオケなのだろう寧ろ。コントラストも鮮やかである。明らかにバラけてもやる気はすさまじく好感が持てる。旋律が浮き立つのは録音バランスがいいせいもあるだろう。モノラルで篭った汚い音だが録音状態としては悪くない。最後の派手なフィナーレからタムタムの残響が残り絶えるまで拍手が起こらないのが呆気にとられたようでライヴ感がひときわ際立ちよい。これはなかなかのものだが、録音をマイナスして○にとどめておく。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,TITLE: ラフマニノフ、交響的舞曲,URL: http://yurikamome.exblog.jp/4728038,BLOG NAME: yurikamomeの『妄想的音楽鑑賞とお天気写真』,DATE: 10/14/2006 21:51:17, ちょっと曇りがちの横浜、それでも楽しそうなカップルは横浜をより横浜らしくして、元町を買い物かをする人はやはりこれも横浜の山手の風情を感じたりするのです。, 今日は、ラフマニノフ作曲、交響的舞曲。アンドレ・プレヴィン指揮、ロンドン交響楽団。,  ...,-----
ラフマニノフ:交響的舞曲,◎コンドラシン指揮モスクワ・フィル(melodiyaほか)CD〜この曲はしばしば交響曲的と評される、三楽章からなる構築的な大管弦楽曲である。ラフマニノフの遺した最後の作品のひとつであり、にもかかわらず瑞々しい感性に溢れ、洗練された手法が縦横に駆使されている。ラフマニノフ得意の浮き立つような舞曲は、晩年にしては珍しく明快で魅力的な旋律により彩られる。特に第一楽章第一主題の力強さは耳を惹く。続く第二主題の哀愁も、叶わぬ望郷の念の篭ったロシア民謡調ではあるが、響きは常に簡潔であり、決してべたべたにならず、独特の透明感をもっている。これらのことは他楽章においても同様である。そうした曲の特性に、コンドラシンの棒は優れて適性を示す。作曲家はオーマンディ・フィラデルフィア管弦楽団の演奏を好んだといわれるが(異説もある)、遺された録音で比較した場合、コンドラシンの強い意志を持った演奏にはかなわないように思う。直截で客観的な解釈も曲にあっている。また楽団にしても、弦の強固なアンサンブル、管の特にソロにおいて優れた表出力には、ソヴィエト時代のオーケストラの実力を改めて認識させられるものだ。CD復刻されているようなので、もし興味があれば一聴をお勧めする。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響的舞曲,◎スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA/VICTOR)1972・LPこの演奏の迫力に度肝を抜かれてしまった。たぶん自分的には、スヴェトラーノフの全録音中、さらに、シンフォニック・ダンスの全録音中、もっとも凄まじい演奏、文句無しの名演だ。引き締まった演奏ぶりはスヴェトラらしくない非常に筋肉質なもので、1楽章第一主題、3楽章主題の余りにも峻厳なリズム表現には驚かされた。しかもテンポ・ルバートが多用され、旋律のクライマックス前で遅くなるのはもちろん、たとえば1楽章第二主題のたっぷり憂いを含んだデロデロのロシア節にはスヴェトラーノフの原点を見る思いだ。しかし見通しはよく主題の展開やポリフォニックに絡む走句の出所など、非常にわかりやすい。デロデロだがきっちり揃っているためグダグダにはならない、そこはメンゲルベルクに近いかもしれない。ブラスの力感はいつもの破綻がなく、手綱の引き具合がとても巧い。そういった特徴は1楽章がもっとも顕著であるが、2楽章のたとえばコンマスソロあたりからの密やかに揺れ動くテンポの自在さ・・・これはもう何とも言いようの無い名人芸の世界だ・・・、終楽章中間部のぽっかりと穴のあいたような哀しさが直接的な音楽となっている場面、そのロマン性の極限的な表現には涙を禁じ得ない。ここまでシンフォニック・ダンスを理解しきった演奏があるだろうか。いや無い。それにしてもオケのこの異常な巧さは何だろう。楽団員自ら最高の演奏と言った86年のライヴを確実に凌いでいる。それはスヴェトラの解釈にしても同じで、ここまでやっちゃった演奏、しかもオケがその解釈を完璧に表現し抜いているというのは他にはない。弦のトレモロひとつとってみてもびしっと縦が揃っており、およそスヴェトラらしくない。これはムラヴィンスキーに迫っている(コンドラシンのドライな演奏は別)。ムラヴィンスキーがこの曲を演奏したらどうなっていたのだろう、と思いつつ、ただこの演奏の美酒のような甘美な音色に溺れる。スヴェトラのラフマニノフと言ったらシンフォニー2番と答える向きも多かろう。だが、私はシンフォニック・ダンスほどスヴェトラの特質とラフマニノフの特質がシンクロした作品は無いと思う。この説得力を打ち負かす演奏はもはや現れまい。スヴェトラーノフの愛したラフマニノフ、その粋がここにあります。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響的舞曲,◎スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA/ZYX)1986/2/3LIVE・CD〜期待を裏切らない伸縮自在な情緒たっぷりの演奏ぶりで、思わず笑みがこぼれてしまう。オケも調子がよいし、亡命ロシア人ラフマニノフを思い切りロシア側に引き寄せる演奏だ。1楽章第二主題における木管アンサンブルはじつに美麗である。弦が入ってくるとフレージングの細かい操作(まるでバーンスタイン的だ)に違和感をおぼえるが、次第にこれが正しいのだという感覚にさせる。この浪花節、2楽章中盤の弦合奏でも聞かれる。2楽章は陰のある演奏ぶりがなかなか泣かせる。そう、こういうふうにも表現可能なのだ。これは失われし祖国へのオマージュであり、自身へのレクイエムでもある。2楽章終盤のギャロップは気合がみなぎっていていい。3楽章、いきなりの沈潜するような深い溜め息、そしてギャロップがはじまる。この恰好良さは聞いて確かめていただきたい。素晴らしい集中力だ。アンサンブルもどこにも隙がない。やがて音楽は沈潜し悲劇的な様相を呈してくる。フルートソロが印象的。もう旋律の体をなしていないような晦渋な弦合奏に、ペットが鋭いツッコミを入れてくる。暗い踊りをうたうヴァイオリン、ポルタメントがいやらしい(笑)。ペットが再び行軍の開始を告げると、弦各パートが目覚め、金管が目覚め、めざましいアンサンブル。木琴がいい味を出している。ブラスの咆哮からドラムの破音、音楽は壮大なフィナーレへむけて走りぬける。中低音域で歌われる弦楽器の旋律はややテンポを落として表現される。ふたたびペットの咆哮、そして壮大で爆発的な終止音形。この演奏は1楽章ばかりが目立つ同曲の2、3楽章の魅力を引き出してくれた。ZYX盤には「鐘」も併録。〜これがライヴだって!!!!!「完璧」な一枚です。どこをとってもわるいところがみつかりません。スヴェトラーノフにありがちなアバウトさの微塵もなく、ごくわずかにブラスがつらそうな場面がある他は、完璧に弾き切っており、その鋭く歯切れの良い強烈なリズム(打音)は終楽章においてはもはや舞曲を通り越して「こういう音楽」というものになってしまっている。まったくこのような名演を今まで知らなかったことが悔やまれる。コンドラシンもびっくりの集中力の高い、なおかつ柔軟な表現力も持ち合わせた演奏である。1楽章第二主題の「望郷の歌」のデロデロ具合もすばらしい。ここまで歌い切ったら勝ちだ。魂を揺さ振られる歌である。そういう叙情的な部分とひたすら激しい舞曲的な部分のコントラストが鮮やかで、スヴェトラーノフの設計の巧さが光る。この人は気まぐれで振るような人ではない。指揮者である前に作曲家であったのだから。もっといろいろ書きたくなるのだがもう聴いてもらうしかないっす。泣く前に呆然とする。名演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響的舞曲,○スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(CANYON)1995/10/2-7深く沈潜するような表現が印象的だ。この全集盤全般に見られる落ち着いた雰囲気・・・おもにテンポの遅延化とそれによる音色美の追求・・・がこの曲でも支配的である。そのため本来のイケイケな舞曲という面が犠牲になっているきらいもないではないが、要所要所はそれなりに締めている(終楽章アレグロ主題など)。ロマンティックなパッセージのねっとりした歌い方(とくに終楽章の弦)は好き好きあると思うが、音色が明朗清澄なためそれほど厚ぼったい演奏にはなっていない。この曲の本質的な内面性が一番現われている終楽章の中間部では、寄せては返すようなヴァイオリンのフレージング(ときにポルタメント)とそれに呼応するブラスの長い合いの手が一種の法悦境を描き出していて独特の感傷をあたえる。ロマンティックなラフマニノフという作曲家の表面をまっこうから描こうとしているのだが、それがかえって個性的に聞こえるのはイケイケ無感傷な演奏が世に多いせいだろうか。最後の詰めではなかなか聞きごたえのある引き締まった演奏が聞ける。これは巧い。緩徐部でも弛緩せずにしっかりスタッカートをつけて、最後の畳み掛けるような壮大なフィナーレまでつなげている。コンドラシンのライヴのようなスカスカ感は全く無い。全般、録音のせいか峻厳さ、力感がやや足りない感じを受けるところがある。原則一回録りというスヴェトラーノフのスタイルゆえに奏者がおっかなびっくりやっているせいなのかもしれない。有無を言わせない演奏とまではいかないので、○ひとつ。指揮者晩年スタイルの典型的演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響的舞曲,○ポリャンスキ指揮ロシア国立交響楽団(CHANDOS/BRILLIANT)1998・CD,,ポリャンスキらしいすっきりまとまったスマートな演奏だが二楽章ではねっとりしたスヴェトラ張りのワルツを演じてみせる。音量変化が大きいが全般わりと大人しめの音量であるため終楽章の盛り上がりが印象的。ブリリアントで廉価盤化したがどれもしっかりした出来。○。「晩祷」をはじめ合唱曲で定評のある人でブリリアントでいずれも廉価盤化している。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,
ラフマニノフ:交響的舞曲,○ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(NICKSON PRIVATE ISSUE)1950/1/29LIVE・CDなかなか集中力の高い演奏で、3楽章はかなりマエムキなダッシュが聞ける。そのぶん1、2楽章に食い足りないところはあるものの(2楽章が少々客観的なのが気になったが)、ライヴとしてはかなりがんばった演奏といえるのではないか。独特の個性とかこの曲の深みとか、そういうものを表現した演奏とは言えないが、楽曲を素直に楽しむぶんにはとてもスカっとするタイプの演奏。3楽章の怒りの日のテーマがとにかく激烈にがなりたてられるのが聞き物です。細部のアバウトさには目をつぶって(ミトプーラシイではないか)。ブラヴォーが飛びます。○。ニクソンはアメリカのミトプーマニアが立ち上げたミトプーの未発売ライヴを中心としたCDをほぼオーダーメイドの形でイシューしているところです(かなり以前からありましたが、活発に活動しだしたのは最近)。裏青ではありません。プライヴェート盤ですが基本的に権利切れのものばかりのようなので海賊盤とは言えない。そういえば昔ミトプーのディスコグラフィを取り寄せたオボエがあるが、どっかへいっちゃった。載ってないだろうな、きっと。ちなみにラフマニノフはミトプーの解釈を賞賛したらしい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響的舞曲,コンドラシン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(EMERGO)1976/11/21LIVE 木菅が裸になって絡み合う場面の多い曲である。その点コンセルトヘボウは抜群にいい。寂涼感あふれる1楽章第二主題前半あたりの表現は心を打つ。長い長い旋律のせつせつと訴える味は同じ国を捨てることになるコンドラシンの共感の深さを示している。機能性が高いとはいえないオケゆえにかつてのロシアでの録音にくらべ鋭さがなく全般に弱い感もある演奏だが、美麗ではある。3楽章中間部の諦念と悔恨の絡み合った複雑な感情は晩年のコンドラシンならではの表現か。破壊的な突進が欲しいフィナーレ最後は変に落ちついてしまい、ふたたびテンポを上げようとするもやや空回り気味。全般、音色は洗練され色彩的ではあるが、個人的にはいまいちに感じた。ガウクの感情的ではあれど緩いテンポのおおざっぱな演奏もどうかとは思うが、奏者にもう一歩の感情移入がほしいところだ。無印。ちなみにけっこう簡単に手に入るCDです。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響的舞曲,バティス指揮ロイヤル・フィル(NAXOS)1991/11水際立った指揮ぶりが清々しい。オケのせいか音が綺麗で、なかなか気合が入っているにもかかわらず、終始明るい色彩を帯びている。1楽章第二主題の寂しさは特筆ものだ。情緒たっぷり木管アンサンブルに耳を奪われた後、弦楽のかなでる音楽も実に歌心にあふれたもので特筆できる。ヴァイオリンの艶めく音がとくに耳を惹く。録音も明晰なので、気がつかなかった細かい音符まで聞き取れて面白い。2楽章、微妙にズレて、きちんと「踊れる」音楽になっている(たとえば深刻なコンドラシン盤は「踊れない」)のが面白い。3楽章は楽曲の性格上踊ることは難しいが、弱音部では繊細な響をうまく響かせており、ちょっとフランスの香りを感じる。派手な終わりかたも面白い。オケの音がやや軽いか?,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響的舞曲,ラインスドルフ指揮ロチェスター・フィル(COLUMBIA)速めなのを除けば普通の演奏。というか、私のLPが汚すぎてよく聞き取れない(泣)2楽章の彫りの深い表現は特筆すべきだろう。暗い主題の歌い込みがかなり陶酔入っている。舞踏音楽として意識的にテンポをずらし、しっかりワルツしているのが面白い。ウィーンっ子ラインスドルフならでは。この楽章にかぎってはおすすめだ。オケは悪くはない。多少アゴーギグがきつめな感もあるが、全般には平凡と言い切ってしまおう。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ラフマニノフ:交響的舞曲〜T、V,○ゴロワノフ指揮モスクワ放送交響楽団(SEVEN SEAS,KING)1944(1949?)/6/17ゴロワノフはきわめつけのロシアの指揮者、奇抜で派手な解釈、突進して先も見えずに突っ走るスタイルで有名。昔はだーれも知らなくて、マニアな私はせっせとグラズノフやスクリアビンのシンフォニーを集めていたのだが、それはかなり困難を極めた。何しろ長年ロシア音楽を聴いてきた人生の先輩でもその名前すら知らなかったりしたわけで。。当時ゴロヴァノフと読むのかゴロワーノフと読むのかすらよくわからなかったが、今一般的に呼ばれていることからすると後者が正解のようだ(前者で呼ぶ人もいるが)。作曲家的指揮者というのはどこの国にもいるけれどこの人もまさにそうで、自らも作曲・民謡編曲を数多く手がけており、この人が演奏するということは、いわばリメイクするということに等しい。だからどんな手垢がついた曲であっても常道を外してくるところに魅力の全てがあると言っていい。ただ問題は、残された演奏記録がどれも異常に音質がわるいということ(この国内盤CDも恐らくアセテート盤からの板起こしだろう)。声部間の分離が極端に悪く、ブラスの怒鳴り声はよく聞こえるけれども(ゴロワノフの代名詞のようなものですね)、弦が痩せて聴き取りづらいことが多い。ほんらいオーケストラは弦のアンサンブルから始まったということからしても、どんな曲をやってもバランスの悪い録音になってしまうのは原盤がこの状態では仕方ない。まあ、ゴロワノフを聞くならば、音質は覚悟して聞くべきだ。さてこの曲は標題からしても舞踏性を強調するのが常道だと思うが、ゴロワノフの突き刺すような叩き付けるようなフレージングは印象的だ。ただ、コンドラシンやスヴェトラーノフをはじめとしてこの曲の速いパッセージをそう演奏するロシアの指揮者は多いのではあるが。ゴロワノフはむしろ緩徐部での独特のデュナーミク変化(1楽章第二主題のヴァイオリンなど)や豊潤で流麗な音楽の流れの作り方により特徴的なものが見出せる。終楽章中間部の濃厚なワグナー的妖しさには誰しもはっとさせられるところだろう。むしろスクリアビンに近いデロデロ紫色世界だ。ワグナーやリスト振りとしても有名だったゴロワノフらしいところである。この演奏では終楽章の序奏部を終焉させる警鐘の鐘の音が極めて強調されている。こういう音を派手に強調するあたりもゴロワノフらしさか。きわまて色彩的なところだ。オケが弾けてようと弾けてなかろうと突き進む荒々しいやり方には賛否あろうが(最近でいうとバティス?)このくらいならまあまあ許容範囲内かと思う。終楽章の最後の畳み掛けは、これがもっといい録音であったなら、と思わせる胸のすく突進だ。ブラスの迫力に弦が潰れているが、それでもなお、いい演奏だと言い切ってしまおう。それにしてもゴロワノフが得意としたプロコは何時になったら出るんだ。肝心のオペラは「ボリス」が完全ではないが出ている。ちなみに交響的舞曲の2楽章は別途録音されているそうで(1949年)復刻をぜひ望みたいところだ。<別項あり,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラフマニノフ:交響的舞曲〜U,○ゴロワノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)1949,,CD化もされた1、3楽章と別に収録されたもの。録音が良好でゴロワノフの真実により近い生々しいものを聴くことができる、としておこうか。分厚い管弦楽を駆使し重厚な響きをうねらせてゆくが、ライヴ的な乱れはなく均一な音量・厚みが保たれ、メンゲルベルクに近い芸風のように感じる。楽章が緩徐楽章なだけに爆発的ではないが、雄こんで感傷に沈潜しない表現はガウクなどにも共通するロシア的な男らしい解釈と言っていい。比較的クリアなゴロワノフは珍しいので機会があれば。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
ラロ:ギタレ,セーケイ(Vn)アントニエッティ(P)(decca/M&A)CD,,SP片面。40年代録音か。外連味のないキッパリした表現で南欧風の雰囲気をかもしている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ラロ:ノルウェー狂詩曲,ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(ODEON/house of opera)1929,,SP起こしがCD-R等で販売されている。ラロはナショナリズムに裏打ちされた国民楽派ではなく、異国趣味、オリエンタリズムを含む後期ロマン派の作曲家として認知されているか。この曲もノルウェーという題は原曲とされるヴァイオリン協奏曲ふうの交響曲からの転用であるにとどまらず、じっさいノルウェーの素材をそのまま利用しオーケストレーションすることで、オーケストラ音楽に慣れた聴衆に異質の新鮮な驚きを感じさせ、今の耳でもこの時代の作曲家としては新しいやり方をしているように聴ける。力強い旋律音楽だ。もっとも、2つの楽章のうち後者はノルウェーから離れ南欧ふうの勇壮華麗なものになり、剥き出しの旋律の強さが雰囲気を台無しにする(が楽曲構成的にはアピールするので計12分という手頃感からもわりと取り上げられる)。民謡をそのまま採り入れて管弦楽曲化するという、ロシア等でやられていくことを、とくにリムスキーが推し進めたような革新的な手法への道標をつけるというよりは、あくまで聴衆にアピールするようプッチーニ的なテーマの選考、使い方をしたものと言える。演奏は古びたもので雑然、音程の不安定さをおぼえるが、それは録音の不備の可能性もある。力のあるオケで、ピエルネもやるときはやるというか、派手な鳴らし方(併録のストラヴィンスキーの小品など加えて官能的だ)はラロ向きだろう。パート剥き出しのフレーズの頻発する楽曲は怖いが、恐れず凹みもせず、しっかり均されて聞こえてくる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ランドスキ:オンド・マルトノと弦楽合奏と打楽器のための協奏曲,○J.ロリオ(OM)ボンドン指揮現代音楽室内合奏団(erato,warner)CD,,二楽章制で、一楽章が短い変則的な協奏曲。細かくは更に分けることが可能だが、おおまかに言えば1楽章はオンド・マルトゥノがほとんど木管楽器のような旋律的役割をはたし、陳腐なまでに抒情的な楽章となっており、2楽章は微細で前衛的な響きもいくぶん含む協奏的な楽章とはなっているが、両楽章とも太鼓が無理やり音楽を絞めにかかっているような調子で、折衷的作風で知られたこの作曲家の出自を明らかにする。ひと昔前の映画音楽と聴きまごうようなものでもあり、録音は明らかで演奏的には落ち着いているので、感興音楽的に聴いてもジョリヴェほどの唐突感は感じないだろう。ランドウスキのエラート集成ボックスより。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ランドスキ:オンド・マルトノ協奏曲,○J.ロリオ(OM)G.デボスト指揮ORTF室内管弦楽団(FRENCH BROADCASTING PROGRAM)LP,,このレーベル、アメリカのプライヴェート盤(放送録音)で非常に珍しい音源が含まれるが、現代の目からすればかなりマニアックなラインナップ(奏者)でもあり、モノラルでなければとっくに復刻されて然るべきシリーズだろう。というかそのうちボックス廉価盤になりそうだ。個人的にデルヴォのフランセが聴きたい。わいいとして、ランドスキ(ランドウスキと発音するのが一般的だったが一応日本のマニアの支持する発音に揃えておく)の大好きだった楽器、OM協奏曲である。大好きといっても華麗なテクニックを発揮できる機能性ふんだんな楽器ではなく、あくまで「電子オルガン」なので、そこはランドスキもわかっていて、中間楽章での心象的な表現に繊細な音色を巧くのせてオケと融合的な世界を形作っている。しかし全般的に「チェロじゃ駄目なの?」と思わせるパセージが多く、オンド・マルトゥノを堪能するというより、ランドスキの同楽器に対する美学を提示された、という感覚のある小協奏曲になっている。演奏はスマートでスピード感ある、磐石なもの。ソリストはまずもって不安はなく、オケも巧緻だ。しかし、プロオケで差が出る曲ではないと思われる。評価は無難に○としておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ランドスキ:ピアノ協奏曲第2番,○ポインター(p)ブリュック指揮ORTF(FRENCH BROADCASTING PROGRAM)LP,,ジョリヴェを薄く延ばしたような曲ではあるが、そのぶん聴きやすい。とくにロマンティックな匂いのする、アメリカのテレビドラマのような感傷的な響きを織り交ぜてくるあたりは、ちょっと映画音楽的なあざとさがあって、しかし逆に聴きやすさに拍車をかけている。現代っぽいけど完全に哲学的なのは苦手という向きに、ランドスキはぴったりなものを提供する。ソリストは打鍵が強く安定した表現で、それほど技巧的な部分のない曲とはいえ、素晴らしい効果をあげている。ブリュックもこの作曲家の曲をしばしば振っていただけあり、色彩的だがばらばらにならないオケの巧緻なドライブをみせている。プロコを得意としていただけあって、芯の強い演奏ぶりである。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ランドスキ:交響曲第1番「恐怖のジャン」,○アルベール・ヴォルフ指揮パドルー管弦楽団(ducretet thomson/ORPHEE)LP,,ランドウスキもしくはランドスキは忘れられた作曲家の感がある。多様な様式を取り入れたいささかあざとい折衷的作風が前衛に嫌われ権威的とも受け取られていたようだが今の耳からすればいかにも第二次大戦前後の世相を反映したような焦燥的な作風が懐かしい。個人的にこの人はデュティユのような作風だと感じたおぼえがあるのだが、これはポリリズム的に重ねられた高音の無調的パセージが僅かに前衛の宇宙的雰囲気をかもすものの、本編はいきなりミヨー的旋律から始まり、オネゲルやRVW、ホルスト、ショスタコといった世俗的な起伏をもって盛り上げていく。やや複雑ではあるがわりとブリテン的な単純さがある。その脇の甘さがブーレーズら前衛には野暮に見えたのか。指揮はウォルフなのかヴォルフなのかいつも迷うがヴォルフにしておく。同時代作品の紹介者として著名であったものの今は滅多に耳にすることのない名前である。即物主義的な指揮で脇を締めまくった演奏ぶりが清新だったが、この演奏も力強く終幕まで突き進む。最後が余りにあっさり断ち切れるのもこの人らしいといえばそうだ。オケも懐かしい音を強く主張する。けっこういい録音。○。プレートルのCDが現役か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ランドスキ:交響曲第1番「恐怖のジャン」,プレートル指揮フランス国立管弦楽団(ERATO/EMI/warner)1988/10・CD,,長らくこれしか音源が無かったしほとんど絶えず再発され続けている(手元には三枚ある)のには、これが曲にとって必要十分な演奏で優秀録音として認められている証でもあろう。オネゲルの構造性を引き継ぎデュティユらと歩調を合わせた「同時代人に寄り添う現代音楽」を目し、前衛には揶揄されるも今の耳からするとこの曲などデュティユー以上にランドウスキという作曲家の個性(先鋭さ)と聴きやすさを融合させた巧みさ、フランス臭さを昇華して汎世界的に通用する大交響曲に仕立てる手腕、それを攻撃的な姿勢で集中力高く仕立てたプレートルの功績含めて評価されて然るべきものである。一楽章の本編と別にポリリズム的に通奏される高音のとつとつとした響きや刻みだけでも掴まれる。サスペンスドラマのようだがサスペンスドラマ音楽のほうが真似たのであろう。プレートルの程良い面が出ているのでおすすめ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ランドスキ:交響曲第2番,ミュンシュ指揮ORTF(ina配信)1965/11/16(1966/1/1放送)live,,プレートルも録音しなかった番号で、表題を持たず(楽章には付けられているが抽象的)全般に1番とくらべオネゲルに回帰したような地味な響きと律動、ミュンシュだからその求心力(細かな動きのオケの統制含む)で聴いていられるが、とりとめなくフィナーレが(冒頭こそランドウスキらしい新しい響きも入るものの)どこで終わったかわからない感じもあり戸惑い気味の拍手が入るのも、けして当時前衛ではなくかといって古い見地からも新しくなかったことは窺い知れる。しかしランドウスキは「わかりやすい」。きちんとした楽想を持ち、それなりの創意ある音楽は戦後の「娯楽的空気」も伝えており、一部で揶揄されたのもわかる。テレビドラマの劇伴のような今や古臭いあからさまさも含まれるのだ。逆に、今こそ再評価されるべき「忘れられ方」をしているとも思う。ここでのORTFは細部までよくやっている。ミュンシュはボストンでの新曲演奏のように少し引いてやってはいるが悪くない。ノイズの少し気になるステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コンスタント・ランバート:リオ・グランデ,"",,作曲家指揮ハレ管弦楽団他、ハーティ(P)(SYMPOSIUM/Pearl/EMI他)1930/1/11・CD,,同時代要素をこれでもかとつぎこんだメドレーのようなバレエ音楽ふうカンタータ(ピアノソロ付き)で、同世代のウォルトンに似て極めてプロフェッショナルに処理しているため雑多な感じはせず、内容空疎と言われればそれまでだが、素直に楽しめる音楽を志向し成功している。素直に受け止められないような書き方はしておらず、新古典主義的といえば新古典主義的で、リズムなどけして単純ではないが、作曲態度はフランスのフランセを思わせるところがある。短命だったが作曲生命はさらに短かったのは己に対しても批評精神を強く持っていた英国人ならではの気質によるところもあろう。師匠RVWの前期合唱曲の趣も僅かにあるがほぼ影響は受けておらず、ディーアギレフに曲を提供していることからもわかるとおり外に目を向けるタイプで、民族性へのこだわりは無い。そこが作風を確定させられず通俗作曲家の範疇を出ない(それでもアメリカのアンダーソンくらい「レベルの高い通俗作曲家」であったのだが)で終わってしまったところでもあるかもしれない。この人の作品の大部分の基調としてアメリカのジャズがあり、同曲は本人がガーシュインより成功していると盛んに主張したシンフォニックジャズのそのとおり、リズムと一部ハーモニー(全部ではない、音色表現は全くクラシカル)にそれなりに組み込まれている。合唱が入るとカンタータというよりミュージカルの趣も出る。ただたとえばディーリアスのアパラチアであったり、後の作品だがウォルトンのベルシャザールであったり、場面場面で剽窃したような書法によりがらりと雰囲気を変えてくる。13分程度の曲なのにここまで目まぐるしく変えられると、ラヴェルの皮層だけ掬ったようなピアノ協奏曲ふうの部分など、ちょっと頭がついていかないし、ランバート本人の個性は無いのか、と言いたくもなるが、この人は20世紀の作曲家なのである、これも一つの個性の在り方なのだ。ランバート自演はロメジュリ抜粋にホロスコープという組み合わせのEMIのLPを愛聴していて、特に後者は非常に好きな曲だったが、なぜかまったく感想を書き残してなかったので、音源もどっかいってしまったし、「子供じみた玩具のような駄作」というネットの風評に抗えないのが残念である。何度も聞いて楽しむ作曲家ではないが、はまれば熱にうかされる可能性はあります。ガーシュウィンがジャズ寄り過ぎる(ランバート自身もそう主張していた)、という向きはどうぞ。シンフォニックジャズの先行事例としてよく挙げられる、ミヨーの作品ほど書法上の個性が投入されていないので、同じ通俗的でも聴きやすいと思う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
リーガー:新しい踊り、op18b,○ストコフスキ指揮ヒズ・シンフォニー・オーケストラ(CALA)1958/9/25カーネギーホールlive,,ストコフスキが見出した20世紀のわかりやすい系作曲家のひとり。そう言うとすぐにコープランドのバレエ曲を思い浮かべられるかもしれないが、この曲などを聴くとリズム性と高音域の楽器にかんしてはそのとおり、しかしあそこまでの能天気さはなく、比較的重心が低い響きで安定した聴感をあたえている部分も違う。いい意味で職人的な巧さが発揮されており、心地よく聞き流せる。サックスの響きなどちょっとしたアクセントもあり、またその用法がいかにもアメリカ的な印象を与えていることも確かである。民族主義的な部分は指揮のせいか全く感じさせない。ストコフスキは結構ムラのある指揮者でもあるがこの演奏は短くピリリと決まっていて、瑕疵のひとつもないのが素晴らしい。○。モノラルなので。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リース:弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲,セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA)1968/2/7ボストンlive 放送,,アナウンス(歪んで聴きづらい)ではリースと呼んでおり、アメリカの作曲家のアメリカ放送だからリーズではなく濁らず呼ぶべきだろう。初演説もあるが4年前の作曲なので違うだろう。弦楽四重奏団名はDA盤では不明(4名の名前はアナウンスされるが聞き覚えはない)。やや不安定で放送エアチェックレベルのノイジーなステレオ録音だけれど、同日のプログラム収録曲中では最もクリアで迫力があるし、ソリスト陣とのバランスも良い。一楽章はソロが駆けまくる背後でウォルトン(この直前のプログラムが「パルティータ」)的な空疎な響きの派手な音楽が展開される。時代的には現代曲だがバーバー並に親しみやすい。ストラヴィンスキーふうの音響とも言えるが、削ぎ落とされた感じはしないし新味もない。二楽章の晦渋さは同時代アメリカアカデミズムの音楽に近い印象。管弦楽は絡みというより太鼓のオスティナートリズムが続くほか断続的な合いの手に近く、セルなので緊張感が持続している面もあるだろう。無調的だが50年は遡れる作風だ。三楽章は再びカルテットというより四本の弦楽ソリストがおのおの駆け回る焦燥感ある協奏曲で、アメリカっぽいブラスの高音の響きはあるが、おしなべてウォルトン的である。オリエンタリズムの発露のような音線でさえ円熟期のウォルトンに聴こえる(しかしウォルトン独自のマンネリな作風とはまた違うし、ソロ協奏曲のような技巧的フレーズは注ぎ込まれない)。二重音で細かく動き回るのは独特の聴感がある。そのまま駆け抜けて終わり、カデンツ的なものもなくいわば無窮動。パルティータがお手の物すぎてお仕事感のある比較的「レア」な演奏(録音も遠い)であったからこちらの鋭い表現は光る。なかなか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リース:弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲,ドラティ指揮NYP(DA)1975/4/20live,,インホール録音すなわち膝録なので舞台が遠く立体感が無い。カタマリとして聴こえる。環境雑音はともかくソリスト(カルテット)の音がよく聴こえてこないのはこの曲には痛い(一楽章)。楽団のアンサンブルもリズムがキレず、緩いように感じる。ぼやっとした音はもう「インホール録音」だからしょうがない、これはステレオとはされているがワンマイクでレンジが狭くほとんどモノラル。ブラスと打楽器がやたら耳をつんざくだけ。強いて言えば弦楽四重奏の高弦がそれほど引き立たないかわりに低弦がわりとよく聴こえ、あ、ヴァイオリン協奏曲じゃなくてカルテットなんだな、という当たり前の感想が出る。ドラティ鼻歌歌ってる?ウォルトン張りのリズムと透明感はNYPの性格もあろう、重くて前時代的な響きで性質を変えられてしまっているが、悪いことばかりではなく、二楽章は力強く内容的な厚みを伴って届く。わずかにカルテットの技術が不安な面もあるが、録音のせいでそう聴こえるだけかもしれない(決して高精度ではない)。リースの盛り込んだ中の異国的なフレーズ、これはドラティ懇意のバルトーク的な、民族音楽的側面もあるのか、という妖しい情感のあるさまも見える。三楽章は駆け回るソロヴァイオリンが全体を先導していかないとならないが、もう録音上イマイチなバランスなのは仕方ない。バックの、さすがの中身の詰まった迫力はNYPの面目躍如である。セルのような機械的な面白みではなく旋律そのものの持つ、響きそのものの持つ魅力を素直に押し出してきて気を煽る。カルテットの面々はどうもやはり表現が重いが、ソリスト四人と管弦楽の掛け合いというより、合奏協奏曲を志向したバランスだ。駆け抜けるというよりガシャンで終わり。これはこれでいいのか。一般的には勧められない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リーズ:弦楽四重奏曲第2番,○パガニーニ弦楽四重奏団(Liberty)LP,,比較的新しい作品ではあるが現代音楽ではない範疇で非常に特徴的であり、中国出身というこの作曲家の特異性を意識せざるをえない。いきなり低音だけで始まる焦燥的な気分を煽るリズムに恐らく中国的な響きを取り入れた(ものの殆どそれを感じさせない)斬新な音や旋法が載り、いかにも戦中戦後の周辺国の殺伐とした気分をかもす(西海岸の実験主義ともフランスの香りをかいだアカデミズムとも違う)。しかし緊密で適度に抒情的でもありバルトークを更に灰汁抜きしたような鼻につく民族性は排されており、人好きはしないが同時代他作曲家のカルテット作品との共通点も多く聞き取れる。ゴリゴリのカルテットマニアは聴いておいてもいいと思う。パガニーニ四重奏団はストラディという楽器の特性上ちょっと音線が細くそれを力で補う(個人的にはそういう力づくで出た弦の金属音は嫌いである)感じもあるが、「意図的な不安定さ」がないとカルテットというのはまるでデジタル音楽的な「つまらなさ」に昇華されてしまうので、こういうスタイルは決してバカにはできない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヴィエ:弦楽四重奏曲第2番,パスカル四重奏団(columbia/forgottenrecords)1951/7-8・LP,,frで板起こしされた発掘音源。状態は褒められたものではないがリヴィエの古い録音はなかなかないので貴重。基本的にはミヨーの影響下にあって、一楽章の美しさはそれを凌駕してさえいるが、この人は必ず現代的な音響で落としてくる。二楽章はまだミヨーの晦渋な緩徐楽章を型式的に組み直した感じがするが、三楽章はもう精神的にやられている感じ。パスカルは美しいが、やはりリヴィエの方法にはあまり共感している感じがしない。超高音の扱いなど依然ミヨーなんだけれど、一楽章だけ聴く曲。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヴィエ:交響曲第3番,ツィピーヌ指揮ORTF(pathe),,構造的な協奏作品として人気曲だが録音は少ない。4つの楽章がまったく違う表情を示す。ミヨーからいきなりショスタコーヴィチになったりする。しかし聴いているうちそのどちらでもないことがわかる。音は似ていても書法は簡潔明快かつ、少し世俗的な親しみやすさをもつ。オネゲルは次世代の有望な作曲家の中にリヴィエの名も挙げたが、技巧的にすぐれた作曲家は必ずしも込みいった複雑な作品は書かない(たとえばドイツの近代作曲家のような)。オネゲルの期待した作家はいずれもその系譜にある。曲は残念なことにどんどん暗くなっていって不穏に終わるから一楽章で心を掴まれた向きは期待しないで聴き続けることだけれど、新古典主義時代のストラヴィンスキーのわかりやすい部分を取り入れたかの如く対位法的な四楽章にいたっては、それはそれで楽しいと頭が切り替わっていることだろう。演奏はツィピーヌらしい引き締まったアンサンブルに終始する。しばしばしょーもない演奏もするフランス国立放送管弦楽団もここでは一切手を抜かない。一楽章の牧歌ですら薄味にならずしっかり田園風景を油絵具で描き上げる。演奏プラン的にちゃんと構成された四楽章にもきこえた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヴィエ:交響曲第3番(弦楽合奏のための),ツィピーヌ指揮ORTF(BNF/youtube/PATHE),,モノラル音源を多数復刻配信しているBNF(Amazonデジタルミュージックにもあり、モノラルバージョン、と書いてあるがおそらくモノラルしかない)もしくはyoutubeでも聴ける。5番とのカップリング(ツィピーヌはこの二曲しかない)。このてのアナログ録音というのは、わたしもかつては無頓着だったが、録音(機材・テクニック)自体の素朴さ、記録メディア自体の内包する問題(象徴的にはノイズ)、再生機器や技術の適不適によって、演奏や楽曲に対する「事実と異なる悪印象」を与えられてしまう恐れがある。音盤はCDなどデジタルメディア化後、聴きやすさ重視のリマスタリング(ノイズ除去、「邪魔な」音域の削除、残響付加、音量操作など)が常態化したが、それに対する反動として、原音に忠実に再現、などといって、ひどいものになるとそのまんまの「板起こし」をあえて発売する代物も増えた。だが、その流れで原盤ないし初期盤にこだわって立ち返るとなった場合、よほど前掲の「リスク」を念頭におき、「聴きたい、聴くべき音だけを選別して聴ける耳と脳の訓練をへた人」でないと、頭で考えているより実際は、たしかに情報量が削られることはないかもしれないがそのぶん「余計な情報」も入り、「真価」はきわめて伝わりづらくなる。単純に音量だけでも注意したい。オーケストラはそもそも「大音量」なものだ。原音再生にこだわってノイズも大音量になった結果、鑑賞どころでなくなっては元も子もない。それが楽曲や演奏への評価にすりかわることもありうる。聴くものによって、自分の耳に適した音を作る、という意識も必要だ。それが面倒なら、無難なのは一般的なリマスタリング音源を聴くことであり、Amazonデジタルミュージック(のBNF音源)のような聴きやすい加工が激しく加えられたものを、ノイズレスで「大音量で聴く」のが肝要である。,,このマイナー曲のアナログ録音はリマスタリング音源で聴けば十分と思う。微細な綾は聴き取れないかもしれないが大枠はしっかり伝わる。ツィピーヌの造り出す響きの迫力も伝わるし、スリムな(痩せた)専門室内楽団のギスギスした演奏を好まない私は古いスタイルのこのような分厚い演奏のほうが好きで、そうなるとノイズレスな音源、安心して音量を上げれば、ツィピーヌの作り上げる合奏の音圧が凄く強いことがわかって、デゾルミエールの演奏の貧相さも相対的にわかる。デゾは楽曲そのものの魅力と問題点をそのまま提示した(某サイトで同曲はパイヤールとツイピーヌしかないようなことを書いてあったがSP末期のデゾ音源もあるのだよ)。ツィピーヌはパストラーレとあからさまに題されたキャッチーな1楽章はともかく、2楽章についてはショスタコーヴィチ的楽曲として部分部分ではなく全体をまとめ上げ、後半楽章にてどんどん現代室内合奏曲風になっていくところは、きちんと4楽章構成の中の後半楽章として構成し、なおかつ少し前時代的なボリューミーな音をきちんとアンサンブルさせてスケール感、そして「聴かせどころ」を明示、結果として非常に耳なじみの良い「リヴィエの代表作」として認識させてくれる。付け加えるならもうリバーブかけて疑似ステレオ化して聴いてほしい。こういう新しい曲は新しい演奏として聴かないと楽しめない。,,"1、2楽章","3、4楽章",-----,,,-----,,,-----,,
リヴィエ:交響曲第3番(弦楽合奏のための),デゾルミエール指揮ORTF(columbia),,牧歌的で非常に美しい曲。ヴァイオリン二パートのかなでる高音の旋律はミヨーの作品に近似し、職人的な構造にはそれより癖のないオネゲルの夏の牧歌に近いものがある。もっとも二楽章から現代的な響がまざり、終楽章はすっかりストラヴィンスキー風の律動的な新古典で焦燥感のある音が交錯するまま終わる、フランス音楽快楽派にとっては後味の少し悪い作品となっている。室内交響曲としては比較的著名で、パイヤールのERATO録音が知られるが、国内実演で触れる機会も少なくない。前プロにしやすいのだ。デゾは引き締まったアンサンブルを提示する。オケに癖がなく技術が安定しているのでやりやすい面もあったろう。前時代的なところがなく爽やかに楽しめる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヴィエ:交響曲第5番,ツィピーヌ指揮ORTF(pathe),,オネゲル風の陰影をもった構造的な交響曲ではあるがオネゲルよりもスケールの大きさと様式の多様性を示す。映画音楽的な側面もあるけれど円熟した管弦楽法と注意深い楽曲構成により耳に届きやすくなっているのが要因で、単に効果的な作品だからこそ聴きやすい種類の映画音楽に聴こえるだけなのだ。あざといくらいに展開がうまく、木管が薄闇のなかで線的に絡むところにいきなりヴァイオリン合奏がミヨー風の主題を挿入、ふたたび薄闇に入ると今度は太鼓から低音楽器の地響きがはじまりオネゲルふうの音響、和声が物語を大袈裟にする、そんな調子でもうなんか、フランスの現代作家で新しもの好きでも世俗趣味でも古典趣味でもなく、こんな真ん中を行くやり方をする人はなかなか識らない。リズム要素の一つとしてジャズが入る箇所もある。終楽章はオネゲルが背景にあるのは間違いないとしてカラフルなバルトークといったふうの弦楽合奏、ヤナーチェク風味のブラス、畳み掛けるような芯の通ったアンサンブルからのショスタコーヴィチ風闘争のフィナーレ。ツィピーヌの操るORTFはじつに上手い。曲を知るのに変な演奏にあたると(即物的な意味ではなく)「起承転結」がはっきりせず途中で飽きてやめてしまうものだが、ツィピーヌの構成感はしっかりしている。褒めすぎた。先人の作り上げてきたものを上手に使った優等生的作風です。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヴィエ:交響曲第6番,ホーレンシュタイン指揮BBC北交響楽団1963/6/11live,,ド迫力の演奏。現代の大曲(のライヴ)にすぐれたホーレンシュタインの面目躍如。1958年の作品で、それまでのミヨー風の牧歌的な作品とは異なる如何にも現代交響曲の半音階的なウニョウニョから始まり、あー聞くのやめ、と思ううちカラフルに激烈に変化していく。ランドスキより攻めないが独特にローカルな色を脱し秀逸。youtubeにモノラル音源がアップされているが、音盤化しているか不明。クリアな音なので可能性あり。,,"https://youtu.be/83evc0kP18o",,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
リゲティ:アトモスフェール,○ロスバウト指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送交響楽団(col legno)1961/10/22ドナウエッシンゲン音楽祭初演LIVE・CD 2001年宇宙の旅で使われて有名になった不可思議音楽。心の底を掻きむしられるような気味の悪い響きから眩いばかりの光の和音へと至るスケールの大きさには圧倒される。未知との遭遇でジョン・ウィリアムスがパクったのも頷ける神秘の渦だ。やや騒々しく洗練されきっていない感もあるが、ロスバウトの感覚はマーラーを振る指揮者とは思えないほど鋭く鋭敏で、この現代の印象派音楽の輪郭を非常にくっきりと描き出している。感傷はないが純粋な音はある。録音がいまいちなので○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リゲティ:ロンターノ,◎ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団(PROFIL)1987・CD,,響きのバランスが素晴らしく、音は鋭いながらもどこかしらロマンティックな流れのある音楽的表現が魅力的。このオケ特有の重さがなく、宙ぶらりんの幻想的な世界が描かれる。ただ拡散し収縮しを繰り返す音響世界はちょっと前時代的な幻想の気もして、それは奇を強調しないヴァントの表現ぶりに起因するのかもしれないが、楽しめた。◎。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
リゲティ:ロンターノ(1967),○ブール指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送交響楽団(col legno)1967/10/22ドナウエッシンゲン音楽祭初演LIVE・CD非常に清澄で美しく、また仄かに感傷的な音楽である。アトモスフェールと比べてざわざわするような不安感が余り無く、瞑想的で、かついくぶんわかりやすすぎると感じるまでの耳優しい響きが最後まで頭を揺らす。先ごろ亡くなったブールの指揮も冴え渡っていて初演とは思えぬ板についたところを聞かせる。パリの窓外の教会の風情を音にうつしたそうだが、まさに情景音楽というか、「空気」をそのまま音にしたような音楽である。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リゲティ:ロンターノ(1967),○ブール指揮南西ドイツ放送交響楽団(LIVE SUPREME:CD-R)1970 美しい曲です。シェーンベルクが聞いたらどう思うだろう。徹底してスラーのかかった音価の重なり、時折トレモロがささやきあるいは呟く音楽。子虫が蠢いているようなトレモロ、と書くと怪奇音楽に聞こえてしまうかもしれないが(まあたしかにリゲティは「2001年宇宙の旅」や「未知との遭遇」の怪奇現象発生の音楽に使われて(剽窃されて)いたのだが)、ひたすらに気高く美しい光明の中でその蠢きは心象の微妙な揺れを示すことはあれど独特の雰囲気を壊すものにはなっていない。繊細なハーモニーには宗教音楽的な趣もある、無論キリスト教会の雰囲気だ。もっとも短い曲だからとくに身構える必要もないし、何か起こるような不安感を抱いてもそれは絶対に起こらないから安心して聴いてください。録音が悪いのが痛い。スラーのかかった高い音がマスターテープのせいで微妙に途切れ途切れになってしまっている場所がままある。演奏の精緻さをとって○一つつけておくが、録音にご注意ください。そうそう、雰囲気の点でいうとアイヴズの4番シンフォニー前半楽章の静謐な緩徐部の感じによく似ている。いわば20世紀の印象派音楽のありようのひとつを象徴している作品のひとつだ。ブール独特の透明感がいっそう曲の雰囲気を際立たせているところも秀逸。こういう曲を振れる指揮者ってほんとにすごいと思う(一方で単純なプロコなんかを演奏したりしているわけで)。最近亡くなったそうで。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リゲティ:二台のピアノのための三つの小品〜3楽章,○アブドゥラーエフ、ナルトシャン(四分音ずらした二台ピアノ)(A&E)1988/12live・CD,,この編成はアイヴズ以降けっこう普通にあるが、アイヴズやアロイス・ハーバが「新しい音」として微分音響をかなりずらしたり衝突させたりアグレッシブに使っていたのに対して、リゲティのこの曲では正確に重ねられ音響的に使われており、殆どそれと感じさせない微音的な、繊細な印象をあたえる。ナンカロウの機械ピアノ作品に似た調子で、反復音階が少しずつずれていって計算ずくの美しいひびきの綾を生み出していくさまは、さすがカッコイイ。つか、ナンカロウを洗練させて人に演奏させたらこうなったってかんじではある。最後は凄い指の回り方。とにかく、こんな計算のできる人はやはり、立派なアーティストであると思う。アイヴズの静謐なほうのピアノ曲を聴き易くした感じといったほうがいいのかな。現代美術インスタレーションのバックに流すにしてはちょっと色がありすぎるかもしれない。演奏すごいね。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リドホルム:RITORNELL FOR ORCHESTRA,チェリビダッケ指揮スウェーデン放送交響楽団(LIVE SUPREME:CD-R)1970/11LIVEこういう音楽は区別がつかん。ゲンダイオンガクってもはや音を楽しむ音楽じゃなくて譜面を楽しむ譜楽だなあ、と素直に思う。スコアを楽しむスコア楽でもいいけど。スコラ哲学みたいだな。清澄な所が響きの指揮者チェリビダッケに受けたのかもしれないけど、騒々しい場面はほんとに騒々しくて聞いてられない。打楽器大活躍な曲だが何しろ取り付くシマのない冷たさがあって、南国ジャングル大活劇的楽しさも最後の最後にならないと出てこない。これはチェリにしては熱い演奏かもしれないけど、ダメですわ。無印。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
R.シュトラウス:家庭交響曲,ミトロプーロス指揮NYP(SLS)1940/12/22live,,初演団体(の後継)による演奏ということで価値がある。実際分厚いヨーロッパ的な響きや、技術的な瑕疵のほとんどない精度、これはミトプーも得意とした分野の(壮大で複雑な近代音楽)ものということもあるか、ウィーン風の歌いまわしやブラスの地力、そういった機能的な面で非常に聴きごたえがある。ミトプーの記憶オンリーの指揮というやり方もこういう自然なうねりの構築に役立っているかもしれない。とはいえ1940年という時期は不思議な気がする・・・ミトプーは既にNYPを振っていたのか。あと情緒的な部分を盛り上げる構成がいまひとつで、楽章間に切れ目のないこのような大曲においては莫大でとりとめのない印象がある。ミュンシュなど上手かったのだなと思った。40年の録音にしては音が明瞭。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
R.シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」,○マーツァル指揮NYP(DA:CD-R)1976/1/1LIVE,,表面的で浅いがステレオ的な拡がりの十全な録音で正規録音と言っても通用するレベルだ。演奏は中庸で表現は軟らかい。沈潜する明るさが曲の田舎臭さを浮き彫りにする。楽器の音は単色で管弦楽法にのっとった色彩感のみであるが繊細なまでに再現され美しいことは美しい。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
リヒャルト・シュトラウス:「サロメ」より7つのヴェールの踊り,ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(testament)1963/1/19ガラコンサートlive放送・CD,,直前収録のラフマニノフより格段にキレており、オケの力量をひけらかす演目という以上にストコフスキーの適性や好みが反映されていると思えてならない。もっとも録音も悪くないので、ラフマニノフの録音状態起因の印象かもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:4つの最後の歌,◎シュヴァルツコップ(Sp)バルビローリ指揮ロンドン交響楽団(vibrato:CD-R)1969/9/28live,,いまさらケミカルのStarGuitarを聴いたりm-floのベスト(こりゃいいです)聴いたりと無茶苦茶な音楽生活なわけだが・・・それでハウスマンの詩を訳したりしている・・・、楽器のほうはイベールやメシアンやマーラー、バッハなどこれまた無茶苦茶である。で、いきなり思いつきで滅多に聴かないリヒャルトなど聴いてみたりする。コントラストで心地いい。命と季節のうつろいにまなざした1曲目「春」2曲目「9月」に顕著な恍惚感・・・浮遊感のある生ぬるく明るい和声展開はワグナーより派生したリヒャルト独自のもので、同時代に幾多の追随者を生んだ。しかしリヒャルトにはどうしても量産家としての宿命、「消費者サービス」の過剰さがつきまとう。だから大衆におもねったような巨大な歌劇などはなかなか聴く気になれないし、初期から最盛期以外の作品がこの曲のようなものを除き余り現在俯瞰的に演奏されないのもわかる気がする。この曲のように小さな曲は端的に作曲家本来の姿を示してくれるのでわかりやすく、感情移入もしやすい・・・短い曲に慣れた現代の大衆音楽好きには。人気もわかる。リヒャルトがプロフェッショナルとしての能力技能を見せ付けることや世事の喧騒に巻き込まれることから離れて、もはや音楽的冒険なども意識しなくてもよく、名声も望むべくも無い晩年の末(1948)の作品、そこには先鋭さより素直で穏やかな感情があらわれ、ワグナーからの影響もてらいなく披露し、戦後になって初めてマーラーに接近したような諦念と陶酔の世界が展開・・・2曲目「9月」以降あきらかにマーラーの同時代者としての直接的感傷(意図しているようにも聞こえる)を掻き立てられる。暗示的な3曲目「眠りにつくとき」の古風な穏やかさから、圧倒的に終曲「夕映えの中で」が感動的であり、これはこの歌曲集で最初に着想され作曲されたものだが、非常に長い穏やかで美しい後奏にマーラーの終楽章・・・「千人」終盤の雰囲気の中に「大地の歌」告別のテーゼが織り込まれたようなもの・・・を連想するなというほうが無理な話だ。歌劇の終幕のように壮大でいながら歌詞は死を示唆しており、それは断ち切れた死ではなく薄く明るく消え行く死の一種の理想形である。このバルビとシュヴァルツコップによる「絶唱」は、バルビがなぜリヒャルトをそれほど録音しなかったのかわからないくらいの名演である。バルビは晩年様式に依っており、イギリス的な清浄で明るい響きを柔軟に操り透明感のある巨大な音楽を波打たせ、シュヴァルツコップは波頭に立つ海の女神のように崇高な声を解き放つ。ロマンティックであるにもかかわらず生臭くないのはバルビ特有の表現だが、ペシミスティックにならず満ち足りた表情をとるべき曲である、バルビにマッチした選曲でもあるのだ。穏やかで感情を抑制したシュヴァルツコップの表現もまたバルビの世界観と一致している。音楽のゆったりと波打つさまにただ漂いながら、時折不安な和声に心揺らしつつも、ただ消え行くことに身を委ねる・・・これはねえ・・・なぜ正規化しない?◎。,,(なぜかメゾソプラノと表記してました、すいません),,ソプラノ歌手のシュワルツコップさん死去, オーストリア通信などによると、1970年代に引退するまでマリア・カラスらと並び20世紀の最も偉大なソプラノ歌手の1人とされたエリーザベト・シュワルツコップさんが3日、オーストリア西部のフォアアルルベルク州シュルンスの自宅で死去した。90歳。死因は不明。,, 15年12月、現ポーランドのヤロチン生まれ。ベルリンの音楽学校で才能を見いだされ、38年にベルリンでオペラ歌手としてデビューした。,, モーツァルトなどのオペラを得意とし、ウィーン国立歌劇場などで活躍。カラヤンやフルトベングラーといった名指揮者たちと共演し、ザルツブルク音楽祭といった欧州を代表する音楽イベントにも出演した。,, 引退後、かつてナチスに関与した過去を認めたが、歌手生活を続けるためだった、などとしていた。,,(2006/8/4 ニッカンスポーツより),-----
リヒャルト・シュトラウス:アルプス交響曲,フリード指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団(grammophon/m&a)1924?・CD,,ヴァインガルトナーのベルリオーズが限界だろう、この時代に近現代の大曲録音は無謀。マーラーの復活の録音は奇跡的な方で、これは正直弦楽器(の録音)がひどく、リヒャルト・シュトラウスだから派手なブラス(それも録音的に高音が駄目なので中低音域)だけで何とかもたせられる場面は多いものの、音楽として楽しむにはなかなかにきつい。たとえばフレージングの工夫の痕跡は聴こえるが音としては化石化しているから、脳内クリーニングが必要。繰り返すがこの大編成で長時間の(長ったらしい)曲を大正時代に録音しようとしたのは無謀なのである。録音用に編成を絞ったとしても、エルガーくらいの周到さで、せめて電気録音になってからやったらよかったのに、と、ホルスト自作自演の惑星の録音(旧録だったか大編成に苦労し録音場所にも苦労してバルコニーから吹かせたり色々やったとか)の貧相さも思い出した。分厚さや音楽的な動きを求めない音響的表現では、マーラーの時代の作曲家の前衛性が引き立ち耳を惹く。カウベルなど、やっとアルプスに来た感じがするし、この時代の中欧の作曲家はよく登山をしたが、ブルックナーを思わせる霧のような低いトレモロも雰囲気がある。この楽団もよくわからないところがあり、奇矯なポルタメントで素晴らしい表現を見せつけたストラヴィンスキーの火の鳥に比べて、この曲の安定した用法に基づく古典的なポルタメントが下手なのはよくわからない。編成を大きくしすぎて朝顔前のバランスが崩れたのか。デロデロにやらない、時代のわりに即物的な指揮者なので、ほんと特徴も上げづらい。そつないというのも違うし、無難というか、当時としては先端的な音楽に取り組んでいたから変な工夫もしなかったこともあるだろうが、弱音に法悦的な魅力はあるものの、それが聴き取れるのもよっぽど耳がおかしくなってる(敏感になってる)のだろう。基本的に粘らないからリヒャルト・シュトラウスの原点たるワグナーぽさは全くないのだ。落雷描写あたりは太鼓とブラスが起伏を作るので、チョコマカ逃げ惑う弦楽器はちゃんと聴こえなくともそういう情けない物として認識できる。立体的と言えば立体的。牧歌的な世界に戻りオルガンの響きは懐かしくて良い。太い音が録音に向いているのだろう。しかしまあ、音量変化のない(捉えられていない)この曲は、もう、のんべんだらりとしているなあ。それにしても、リヒャルト・シュトラウスお得意のヴァイオリンの超高音ときたら、メロメロにも程があり、泣きたくなる。二本くらいしかいないんじゃないか。当時の今と確実に違う演奏様式すら、どうなのかわからないほどの音。オスカー・フリートは現代的だったから、わからないのが正しいのかもしれないが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら,○ロスバウド指揮ORTF(VIBRATO:CD-R)1954/12/6live,,なかなか名演だ。リヒャルトがもしロスバウトの演奏を聴いていたらきっとはたと膝を打ったことだろう。エッジの立った明確な発音で組み立てられる音楽は完璧な技術に拍車をかけるドライヴ感にいささかの弛緩もなく、構造的に完璧にひびく、ああこれはモノラルなのが惜しい。ロスバウトの並ならぬテクニックと解釈のかっこよさの出た演奏であり、リヒャルトが面白くないと思う私みたいな人はきっとこういうので聴けば「リヒャルトの弱さ浅さ」がまったく気にならずに聞きとおせるでしょう、全く録音だけが問題だ。ダビングミスで薄く他のトラックが混ざってきこえる(ありえない・・・)。オケの音が冷たすぎないのもメリット。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:ばらの騎士組曲,"",○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(IMP,BBC)1969/8/9プロムスLIVE・CD,,この曲を得意としたバルビだがこの異様な熱気に包まれたライヴでは殊更熱が入っているようだ。晩年ゆえ激しいというほどでもないがスタジオとは比べ物にならない躍動感と覇気に満ちている。名前を伏せて聞かせたらケンペのようなリヒャルト指揮者と勘違いする人もいるかもしれない。バルビを下手な指揮者だと認識している人がいたらライヴでリヒャルトの錯綜した音楽をこれだけ精妙にまとめることのできる指揮者、しかもハレ管という楽器としてはいささかランクの落ちる楽団を使ってここまで表現しきることができる指揮者ということで認識を改めるかもしれない。拍手が終演を待たずに入ってくる熱演(といってもテンション芸ではなく品を保ったとてもタノシイ演奏である)。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
リヒャルト・シュトラウス:家庭交響曲,ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)LPオケ名違うかもしれないがキリル文字よくわからないので分かる部分で推測しました、予め。いくつかの代表的な交響詩を仕上げたあと20世紀の初頭に作曲された極めて個人的な作品で、家庭内の出来事を描写、献呈先も妻子。私はリヒャルトが苦手なクチなのだが、この曲は割合と聞き易いし短いので相対的には好きな部類に入る。だがドン・ファンやティルの才気煥発で神がかっていた頃に比べると割合と保守的で旋律(モチーフ)にもそれほど強い魅力は感じない。そのせいかもしれないがガウクのこの演奏も余りぱっとしない。乱暴で粗雑、と言うほど酷くはないがロシアもので発揮される爆演王たる部分が退色し、こじんまりとまとまってしまっている。響きが案外薄いのは曲のせいもあるがオケにややバラケがあるせいかもしれない。勿論ロシアオケの強靭なブラス陣は下品なほどに吹きまくってくれているが、強音を出すことに専念しすぎて外したり狂ったりしているところも目立つ。大活躍のホルンは力強く巧いし、ロシアオケの長所短所が不思議な演奏に結実しているといった感じだ。ひとつひとつのモチーフがそれほど明瞭に描き上げられていないため、個々の役割がわかりにくくなっている。ウィーン情緒溢れる音色の求められるヴァイオリンソロなど、それなりに赤銅のような艶が出ていてこれは出色だが、全体的に「交響詩」としての一貫性が足りないというか、設計が悪いというか。部分部分は素晴らしいが全体として不格好、というのはロシアの指揮者特有の病かもしれないが(その点コンドラシンやムラヴィンスキーは別格)、まあ、聴きとおせば「病」というまでもないか。無印。ティルとのカップリング。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リヒャルト・シュトラウス:家庭交響曲,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(MEMORIES他)1959/2/28live・CD,,ミュンシュ唯一の記録であり、非正規ライヴ音源なりの状態の悪さであるが、情報量の確保されたステレオなので迫力が違い、解像度もそれなりにある。ライヴだから当然このスピードでミスが皆無とは言わないが恐るべきブラスの力量を見せつける、特に4楽章は圧巻である。リヒャルト・シュトラウスを語るのにまずもって金管しか語られず(一部コンマスソロなど役割を持つ弦楽ソリストも入るが)管弦楽の扱いがきわめて巧みといってもほとんど金管好きないし金管奏者、およびオペラ寄りの大曲好きしか話題にしようとしないのは一曲でも聴けばわかることで、せいぜいウィーン情緒をかもすフレーズ(モチーフ)や響きが弦、木管により担われるだけで、聴き映えがするのは決まってホルンが吠えトランペットがトレモロを吹くような部分ばかりだ。したがってブラスに圧倒的なメリットを持つアメリカオケに、ミュンシュのような強力な統率者が加わるだけで成功が約束されているようなものである。私のようにたとえ表題があったとしても「交響曲」である以上中核には抽象的なものが存在してほしい向きは退屈さと腑に落ちなさで二度と聴かない類の曲である(明確な内容の対比を示す四楽章から構成されているとはいえ、どう聴いても同じムードに支配されつながった3部に終幕が加えられた長々しい「無歌詞オペラ」としか聴こえない)が、この演奏は奇跡的に最後まで聴けた。ミュンシュBSOコンビでもかなりコンディションの良かった演奏だと思う。強権的とすら感じられるミュンシュにはアルザスの血をも想起させる中欧的な色がしっかりあらわれている。ウィーン情緒的な部分はどうでもよい、中低音域の轟音は緩みない奔流を作り出し、超絶技巧を前に負けるわけないだろというブラス陣の底力も聞き取れる。,,同じような調子が続くこの曲もアルプス交響曲もそうだがリヒャルト・シュトラウスにとって表題交響曲は型式的な交響曲ではなく表題をもつ拡大された交響詩であり、細かく配置された無数の具体的モチーフ同士が音の律動によって舞台上で演劇を繰り広げるものだ。この曲をそういった前知識なく聴くのはほかの短い曲より難しい。アルプスのように想像のしやすいダイナミックな気象を相手にしているのではなく、夫婦と子供という登場人物のおりなす生活の機微を大げさに増幅してやっている。しかしミュンシュ盤は前知識なく聴いても「わかる」だろう。その意味で稀なる演奏といえる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
リヒャルト・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」〜ワルツ抜粋,ロジンスキ指揮クリーヴランド交響楽団(SLS/columbia)1940/12/14,,SLS(CD-R)ではシカゴ響との酷いツァラliveの後に入っているのでじつにホッとする。音も相対的に良いし、クリーヴランドは安心して聴ける。ばらの騎士なんてワルツ抜粋しか演奏されない曲だが、そのワルツがじつにウィンナーワルツ風でかつリヒャルト・シュトラウスならではの現代的な色彩も加えられ、時代考証がおかしかろうが音楽が成り立っていればいいのだ、と聴衆にもえらく受けたという。ロジンスキーがヨーロッパではオペラなど得意としていたことも改めて思い出させてくれた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」組曲,ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1956/2/2live2/9放送,,モノラルで耳ざわりなノイズも混じるが、音そのものは明瞭で音場に広がりがあって聴きやすい。最初はロザンタールらしさというか、リズムが前に向かわず拡散的でぶよぶよしてしまう感もあるが、それはそれで劇音楽の幕開けとしてはスケールがあってよく、続いてまるでレスピーギなどを思わせる清新な音楽に「これがリヒャルト?」と思わせる。プロコフィエフを思わせる人を食ったような、書法的にはアグレッシブなところもロザンタールにかかるとほんと、ラテンやフランス音楽を派手にやっているといったふうで、ずちゃずちゃしているといったら言い過ぎかもしれないが、とても舞台的だ。舞曲の連続になってくると響きは引き締まる。スケールは維持したまま力強い回転が至極まっとうに演じられ、打って変わって古風なウィーン風ワルツとなる。これもしかしORTFとは思えぬ煽情性がある。透明感と色彩性はORTFないしロザンタールそのものだが。この指揮者のわかりやすい芸風は近現代音楽でもっとも映える。それは地域に依らない。なかなか聴きごたえがある。ina.frだとPHD89036288。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」,○カイルベルト指揮バンベルク交響楽団(DA:CD-R)1960年代前半放送live,,この曲は冒頭と最後の荘厳なファンファーレとその間のひたすら長ったらしいウィーンぬるま湯音楽の格差が激しすぎて、まあどっちも確かに気持ちはいいのだけれども正直リヒャルト適性がないと聞きとおすのは難しいかもしれない。カイルベルトは上手いのはわかるのだが、中間部の魅力という点ではイマイチかもしれない。中間部は思いっきりぬるま湯にしないと。いいステレオ録音。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」,ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1969/3/26live,,シルヴェストリの代役だったそうだが急に決まったのにこの完成度は凄い。ロザンタールは大曲向きの指揮者であることを改めて思い知らされた(パラードなど振ってる場合ではない…)。トゥーランガリラ交響曲の名演を彷彿とさせるもので、しかしあくまで前時代のセオリーを総括し、極めて理知的に構築したこの曲はメシアンのような「前衛」よりロザンタールにはやりやすかったはずで、多少勘違い感を覚えた向きもこれなら文句は言うまい。ロザンタールの特徴である全体的に派手で壮大で色彩的なところも良いが、「ウィーン臭のしない」純音楽的で灰汁の抜けた音は主題を高潔に保ち、情緒的でないぶん驚異的な和声や構造がはっきり浮き彫りにされており、リヒャルト・シュトラウスのワルツに入るといきなり世俗的になる感じが全くないので聴きやすい。冒頭の有名な日の出とその後の断片的な楽章の、あまりにも対照的な継ぎ目のちぐはぐも(後半思いっきりワルツが全面に立つまでは)感じない。オケ、リヒャルト・シュトラウス特有の管楽器もさることながら弦楽器の「どうしちゃったのフランス国立」という素晴らしいギッチリしたアンサンブル、威勢のいい演奏ぶり、ライヴなりではあるが精度の高さに驚かされる。この曲の聞き所は冒頭だけ、なんてことを言わせないのだ。言わせないのだが、ただ激烈なフーガで音飛びして一旦戻り仕切り治すのは元の録音のバグだろうが「いちばんいいとこなのに!」と思った。もっとも、19'59_21'14をカットして、21'17から繋げば全く問題ないので気になる向きは編集を(ダウンロード方式だとmp3になるため音質面で残念なところがあることも付け加えておく、逆にそこを気にするほど良いステレオ録音、しかもオーディエンス録音でもエアチェックでもない局原盤起こしだと思われる)。結果40分を超えるのだが、これはそのバグだけではなくもともとロザンタールが遅めのテンポをとりきっちりやる人なので、もともとだ。長いワルツも含めるとさすがに飽きてきて平板な印象も与えるかもしれないが(ロザンタールはドイツ的なダイナミックな操作はしないので音量変化等は少なく感じられる)、ラストのギリギリの弱音表現から拍手は盛大に与えられるところを聴くと、代演は成功だったのだろう。同じことを書いてしまうが当時として実験的に組み込まれた技法の数々、分厚くも鮮烈な和声が臭気をまとわず明るみに出されているので、純音楽として楽しむのには良い。加えてハデハデでもあるのだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」,ロジンスキ指揮シカゴ交響楽団(SLS)1947/11/21live,,ロジンスキの短いシカゴ時代にあって、きわめて珍しいライヴ記録。尤もこのコンビでは同年RCAに同曲の正規セッション録音を残している。,,だがしかし、これはダメだ。,,ノイズが酷い。音が鄙びすぎている。もう、冒頭の放送開始音はともかく、その次の曲の開始を告げるファンファーレが、,,非力過ぎる。,,まるで田舎の角笛のようだ。夜道のチャルメラといったほうが適切か。こんな状態の代物を御子息が放出されるとは、まあ、何というか。録音のせいだけではないと思う。弦楽器主体の主部に入るとロジンスキの出自を物語るようなウィーン情緒溢れるフレージングが、あの冷たく、組合も聴衆もガチガチのシカゴオケから生温く引き出されてきて、こんな曲だったっけ?いや、リヒャルト・シュトラウスって結構こんな小洒落た曲書いてたよ!と、やっと人心地つく。その後は曲のせいもあってやや飽きつつも、音色がじつに時代を感じさせて、録音状態一つでこんなにも印象は変わるのか、いやこれは演奏自体が良いのだろう、という気分のまま尻すぼんで終わる。ロジンスキーのツァラをきくなら正規で。SLSでも復刻されています。大曲志向のロジンスキーはエレクトラも録音しています。その志向ゆえにシカゴから追い出されたとされてますね。,-----,,,-----,,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」短縮版,シリングス指揮シュターツカペレ・ベルリン(polydor/hindenburg)1924ベルリン,,ベルリン国立歌劇場管弦楽団の戦前録音でも最古の類ではないか。ardmoreのhindenburg盤ではノイズを適度に残してよくレストアしてある(削ると音がなくなる)。短縮版だがしらべてもちょっとわからないので、2トラック25分半とだけ記録しておく。悟りを開いたような出だしは良いがその後はリヒャルト・シュトラウス節で、ライトモチーフなど用いて原作の要素を散りばめてはいるものの、ほとんど物語仕立てというか、哲学の雰囲気はない。ベルリンのオケとは思えないメロメロのウィーン風の生温い音楽で、シリングスもそれほど引き締めの強い演奏にならないというか、この録音条件では大規模な曲はこれが限界の収め方なのだろう。悪くないが、印象には残らなかった。もっとも時代からするとすこぶる意思的か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」,"",アンゲルブレシュト指揮パドルー管弦楽団(SLS他)1929-30,,この時代のフランスの楽団が同時代中欧ものをやると明るく軽い感じがするのは録音用編成のちいささやSP特有の透明感からくるところもあるとは思うが、やっぱり楽団の特性はあるだろう。低音より中高音域が響きの中心となり、立体的に構築されたリヒャルト・シュトラウスの音楽を少し平板にしてしまう。流れで軽く聴き流すには良いが、録音の古さ(ノイズ)もあってそれを楽しむのは困難だと思った。アンゲルブレシュトには後年の構築的な音楽作りにつながるものは余り感じられない。そつなくまとめて(精度は高い)そのままやった、という感じで、この頃の少ないながらも遺されているほかの録音とくらべ、覇気もそんなに感じられない。敢えてこれを聴く意味は無いだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」,○ガウク指揮ボリショイ歌劇場交響楽団(MELODIYA)LPオケ名はおそらく、ということで。ある種古典的な佇まいを見せる音楽だが、主人公の奇行を象徴する高音の短いモチーフなどに聞こえる尖鋭な響きが近代的な聴感をもたらしている。ガウクは勿論軽妙に、この人らしく豪放に、時には慈しむように表現している。古い録音のためソロヴァイオリンの音色などやや鄙びて聞こえるが、これは仕方無いところだろう。悩みの無い明るい音楽であり、ロシアオケにやらせると余りにあけすけで恥ずかしくなる部分も多々あるが、地力の強い意外と聞ける演奏になっている。オケの機能性が意外と高いので、まんべんなく各パートが極めて技巧的なフレーズの応酬を繰り広げるこれほどの難曲であっても、それほど無理している感じはしない。ただ、同曲に「正しい演奏」で親しんできた向きは、独特のケレン味というかアクの強さに強い違和感を感じるだろう(但しアクが強いとは言っても万人にバーンと個性を叩き付けるほどの力は感じない)。ライヴ演奏と聴きまごうような雑味もモノともしない強引さがあり、この曲に親しんだマニアが面白がって聴くたぐいの珍盤である。ブラスはさすが強靭だ(ホルンはそれほどでもないが)。個性と押しの強さを買って○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」,クレンペラー指揮トリノ・イタリア放送交響楽団(CETRA)1956/12/17LIVE・LP録音がやや悪い。やけに淡彩の演奏である。音が柔らかく、クレンペラーとは思えない柔和さが感じられる。ウィットに富むとまでは行かないが、軽くさらっとした肌触りである。簡単に聞けてしまうので、いささかひっかかりが無さ過ぎるというか、印象に残りにくい。でも、クレンペラーの隠れた一面を伺うことのできる不思議な演奏だ。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」,ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(SLS/ODEON)1930/10/15,,軽妙なのはわかるが俊敏で驚いた。このスピードに対しフランスオケとしては実に機動性の高いところをみせている。ブラスをブカブカ吹かすようなひなびた表現もこの古い録音では気になるレベルまで聴こえてこないから、却って良い。まるでメンデルスゾーンの時代の曲のように、古風なロマンを振りまく無邪気な躍動、翳りあるものの貧弱な録音上ほぼそのように聴こえてこない響きを華麗にすかし、意外と上手い弦楽器の攻撃的な表現をトリッキーに動くブラスなどときっちりとりまとめる。幻想交響曲をふと思い浮かべる印象の曲として聴けた。アンゲルブレシュトとは違うなー。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」,ベーム指揮シュターツカペレ・ドレスデン(documents他)1938・CD,,ドン・ファンよりこちらのほうが充実しているように思えるが30年代と遡る。あちらの鄙びた感じはこちらにはない。ウィーン風味はドイツオケとは思えぬほどしっかり出ており、時代背景は別としてこの頃の素晴らしい音楽環境に思い馳せる。こういうベームなら楽しい。すこしおとなしいと思う人もいるかもしれないが、(おそらく)強権的に引き締めた、と思えない情緒がある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(rca/sony)1961/4/20・CD,,オケの機能性を力強く打ち出した演奏で中欧的な音色を排した純粋な管弦楽の律動を聴かせている点が特筆すべき所。ボストン交響楽団にもトリッキーな動きがうまくハマらない近代曲の演奏はあるが、このトリッキーな装飾的音形の多発する、案外と絡みの「疎」な楽曲ではミュンシュの力かスコアの妙味か散漫にならず、かといってことさら凝縮することもなく、軟らかさや艶を出さないのは好悪あるとは思うがリヒャルト・シュトラウス嫌いの私は聴きやすかった。曲の演劇的な描写表現がよく浮き彫りにもなっている。まずまずのステレオ。ミュンシュはRCAにドン・キホーテもセッション録音しているほか、ライヴ音源として英雄の生涯、ドン・ファン、家庭交響曲(ステレオ)、死と変容、ドン・キホーテ、四つの歌曲(ゼーフリート)を残しており、MEMORIESが一気にまとめて廉価CD化した。,-----,,,,,,,,,,,,,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」,○モントゥ指揮BPO(TOE他)1960/10/7live,,ベルリン・フィル全盛期の香りをまだ残した時期にあって、全盛期の技術と魅力を遺憾なく引きずり出された名演。モントゥーの統率力のもと、絢爛たる管弦楽のかがやきをはなちながら、野太く重心の低い中欧的な音が交錯し、引き締まったアンサンブルが繰り広げられる。これだけの技巧的な曲でありながら一切ほつれがなく(コンマスソロの力強い表現なんてティルオイレンシュピーゲルが逃げ出すくらいじゃないか)、ボストン交響楽団かと思わせるような安定感がありながらも、あの小粒感というかオシゴト感は無い。どの音にも格段の厚みがあり、一期一会の緊張感もはらんでのことか、息を呑むような演奏になっている。前世紀的な意味における立体的な書法に向いているのかもしれない。世俗的なほうのヒンデミットも得意だった。惜しむらくは録音が篭っていて悪いこと。だからなおさらいかにもベルリンの音っぽく聴こえるのか?,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」,○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SCORA)1958/5/27モスクワlive・CD,,オケの力量を見せ付けるためだけの曲ドン・ファン。そしてここでもまさに西側最高の威力と言われるオケがどこまでできるのかが、これでもかと示されている。細くてまとまりにくい技巧的フレーズすら全てきちんとザッツが揃っている。それだけでも奇跡的なのだが、とにかく変に娯楽的でも妙にしかめっつらでもなく、かなり純音楽的な感興をあたえるのが面白い。勿論実演は娯楽的だったかもしれないが、好悪はあるだろうけど、オーマンディがモスクワでとっているスタンスを象徴しているなあと思った。好演。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」,◎チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(SARDANA:CD-R)LIVEぐおっキレイだ!!これはぐっと来た。個人的には今まで聞いた同曲の演奏の中ではいちばん聴き易い。力んだ演奏を施すと高音域の手薄なオーケストレーションがあからさまにされてしまい却って興を削ぐが、このように計算し尽くされた注意深い演奏を施すとじつに雄弁に且つ偉大にひびく。目からウロコが落ちた。こんなに充実した曲だったんだ。下手にウィーン風でないのもいい。これはチェリの名演に数えていいだろう。とにかく、感動した。◎。録音が安定しているのもある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」,◎トスカニーニ指揮NBC交響楽団(PRSC)1950/3/25Studio8H放送live,,初期リヒャルトにトスカニーニNBCときてライブとあれば◎以外にしようがない。ここぞとやりまくるオケ、ドライブしまくる指揮者、曲は陰りよりも明るさをひたすら振り撒き、一点の隙もない。ブラヴォが飛ぶ。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」,○ロジンスキ指揮クリーヴランド管弦楽団?(DA:CD-R)1937/3/21live,,聴衆反応は悪いがロジンスキの近代、特にこのての曲に外れは無い。クーセヴィツキーに似た、でももっと論理的に整理し設計したうえでの厳しい訓練・・・「締め付け」が筋肉質の快感を呼ぶ。オケがNYPに似た濁った力感を発揮しているのは印象的。録音はいつもどおり悪い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」,カラヤン指揮ACO(RCO)1943/9live 放送・CD,,戦中録音にしては音は良い。弦の懐かしく輝かしい音が印象的である。ウィーン風のポルタメントをまじえリヒャルト・シュトラウスに必要な音色感、物語性をよく浮き彫りにした覇気ある演奏となっている。楽想をはっきり描き分け変化を明瞭にした、というほど中身の伝わる録音ではないが、後年のカラヤンと同じは思えない、ぼわんとしたゴージャスな演奏よりも、トスカニーニらの集中度の高い演奏に近いが、それも立体感を犠牲にしてまで凝縮したものを目しているわけでもなく、リヒャルト・シュトラウス自身の指揮ほどの乾燥は全くなく、まっとうに聴かせる。最近不意にまたカラヤンの真実といった海外ドキュメンタリーをやったようだが、何十年も前、戦時を含むカラヤンの「音楽家としての側面」がいくつか時間をかけて放送されたことがある。この人はナチを「利用し」まだ若い才能をよく録音に残した。それが戦後とは違う、もちろん当時の巨匠には肩を並べられない没個性的な部分もあるかもしれないが、カンテルリ程度には十分の力があり、楽曲をよく研究し、オケを厳しく鍛えることのできた獅子であったことを確認できる。ストコフスキがベル研究所と長年研究をかさね、やっと非公式にではあるが世に出すことのできたステレオ録音に遅れること数年で、ストコフスキの横に平板な立体音を上回る精緻なステレオ正規録音を作り上げたのは、指揮者として、もちろん録音経験者としても何十年も先輩であったストコフスキーに対しプロイセンの力を国をかけて見せつける以上に、カラヤンの録音芸術に対する才覚を見せつけるものであった。それほど録音「操作」に積極的だったカラヤンの実像は、そういった飾りを取り去ったこのような放送録音で聴くところ、やはり、虚飾に塗れたものではない、実力者であったと思うのである。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」,ベーム指揮シュターツカペレ・ドレスデン(documents他)1940・CD,,冒頭より鄙びた音はするが録音のせいかもしれない。オケはさすがの腕前でベームのウィーン風の纏め方、音色の引き出し方が光る。40年の録音とは思えない充実度にびっくり。廉価盤ではなく本気の音盤で聴けばまた違うだろう。リヒャルトの艶がかんじられる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(MEMORIES他)1955/9/30live・CD,,ブラスのパワー、弦の技術、指揮からくる集中力を求める曲にピッタリの組み合わせである。モノラルだが情報量はあるため、覇気溢れる演奏ぶりを堪能できる。リヒャルト・シュトラウスでもこの曲は別格だろうし、ミュンシュも適格だろう。,-----,,,,,,,,,,,,,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」,○コンドラシン指揮ロス・フィル(HarvestClassics:CD-R)1981/2/22live,,コンドラシンのドライで表面的な派手さを兼ね備えた音楽がアメリカオケの浅い響きと悪い方向にシンクロして前半は余りノれない。この時期に時々あった状態であり、コンドラシンの海賊盤でも余り人気がない時期であることがうなづける。ヴァイオリンのソリストがめっぽう巧いが、それ含めて表層的で乾いている。ただ、徐々にかつてのマーラー録音を思わせるボリュームが出てきて、湿度が上がっていく。オケもマーラーは相性のいいゆえ似合っているようだ。響きにまろやかさが加わるものの、途中からステレオ録音(エアチェックだろう)の左の音量が落ちバランスが崩れる。しかし、ロシア式のブラスのぶっぱなしがアメリカオケのブラスの強靭ぶりを引き出し、圧倒的な表現から静かにおさまるフィナーレのさまは、余情はないが、まあまあいける。個人的に無印でもいいと思ったが、演奏的には○だろう。録音もまあ、エアチェックものにしては比較的評価できるものだろう。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」,○バルビローリ指揮LSO(EMI)1969/9・CD,,生涯の最後近くに何という曲を録音しているんだかと思わせるものがあるが、最初は弛緩した発音の、鈍重な解釈という感が強くするものの(といってもドイツふうの鈍重ではなく、ブラスが大きい他は木弦が明るく柔らかい音でぼやっと包み込む感じ)、ソロ楽器が活躍するようになってくるとロンドンオケの面目躍如たるところが出てくる。恍惚的というか涅槃性、更に次第にマーラーを聴いているような、ゆったりと大きく情緒的な表現がバルビらしさを感じさせるようになってきて、この曲の本質以上のものを引き出してきている感を強くする。非常にスケールの大きい、しかし楽天性のもとにゆったりとした演奏。バルビ晩年のスタジオ録音らしさは好悪分かつだろうが、曲がダイナミックな曲だけにこういう柔らかい演奏は逆に耳を惹く。○。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」,カルロス・クライバー指揮ウィーン・フィル(GNP:CD-R/MEMORIES)1993/5/16LIVE私はアタマで考える音楽というのが昔から苦手で、劇音楽や文学的背景を持つ交響詩などというものは避けてきた。直感的に捉えられる音楽のほうがラクです。この曲もモチーフひとつひとつの意味を考えながら聴けばわかりやすいのだろうと思うが、私にはそんな意思はさらさらない。よって、この盤聞いても・・わけわからない(泣)。複雑に入り組んだ南欧の庭園に迷い込んだようだ。楽器の用法はマーラーに近いし、ヤリクチはまるでワグナーだが、肝心のモチーフ自体にそれほど力を感じない。クライバーの全体設計は明瞭だが、曲自体の魅力を引き出すたぐいの演奏ではない感じがした。引き締ってやる気のある演奏ではあるのだが・・・無印。終演後、戸惑ったような拍手がぱらぱら。暫くして盛大になるが、「英雄の生涯」演奏史から見ても正直あまりいい出来ではないのか、これ?あいにく私には判断する基準が無い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」,バーギン(Vn)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(MEMOLIES他)1957/2/15live・CD,,モノラルの録音状態は悪いが、曲がミュンシュ向きで、ソロの高度な技巧(半音階を正確に取り続けなければならない!)はこのオケに向くし、比較的平穏で幸福感にみちた中からラストに向かっての覇気を取り戻す雰囲気づくりに指揮者の適性を感じる。しょうじき、ドンファンほどの圧のある曲ではないので、ウィーン情緒を割と薄い横の流れで聞かせていく場面が多いため、ミュンシュらしさが発揮されるところは少ないが、引っかかりなく聞き終えることができた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「死と変容」,○チェリビダッケ指揮フランス国立放送管弦楽団(RARE MOTH:CD-R他)1973/12/23パリLIVEチェリとフランス放送管の最初のコンサート・ライヴだそうで、聴衆の熱狂が物凄い。オケも緊張感が漲り、録音状態を除けば条件は万全である。そう、録音状態を除けば。これが音盤としてのかなりのマイナスとなる。音が悪い。雑音は物凄く多いというわけではないのだが、やや不安定で聞きにくいタイプの悪さだ。それを押して聞こうとすると、かなり凄いものが聞こえてくる。チェリの響きは臭みが無くしなやかで美しい。こういう曲では抜群の巧さを発揮するが、透明感がありすぎて、もっと汗の飛び散るような凄演がいい、という人もいるとは思う。私はそうでもなく寧ろこういうほうが末流ロマン派の音楽の解釈としてはスッキリして好きなので楽しめた。明るく前向き過ぎるという感もなきにしも非ずだが、豊饒な響き、恍惚の終演部は必聴。最後の凄まじいブラウ゛ォと拍手の渦には少しびっくり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リヒャルト・シュトラウス:皇紀2600年祝典音楽〜部分,ヘルムート・フェルマー指揮紀元2600年泰祝交響楽団(NHKSO)1940/12/7,8(来賓用初演),14,15(公開初演)歌舞伎座live?・LP,,,"紀元2600年泰祝楽曲発表会LIVE 皇紀2600年記念録音盤。言うまでもなく戦前各国の著名作曲家に依属した祝典用楽曲のこれはひとつである。リヒャルトの華麗なオーケストレーションがだいなしな録音で、正直何がなんだかわからないが、よーーーーく耳を澄ませるとリヒャルト節が聞こえてくる気がするブリテンのシンフォニア・ダ・レクイエムの項でこの楽曲の初演時のことを書いているのでよろしければご覧になって下さい。評価不能、無印。オケはN響の前身新響を母体として新たに組織されたもの。 2600年記念にプレスされたSPはリヒャルト自身の指揮によるものだった。",,,なお、webにて聴ける同一メンバーによる全曲録音(COLUMBIAのSP、近年ラジオ放送された模様)は18,19日に放送用に録音されたものでNHKホールにて行われたという情報あり。ローム、altusでCD化。本LPは他の曲(いずれも抜粋)についても同じデータを記載しており、わざわざ別録されたとは思えず、同じ音源の抜粋の可能性がある。,-----,,,-----,,,-----
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,

◎クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1946/4/6live

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怒涛の剛速球、凄まじい名演。とにかく速く、カットがあるのかと思うほど。ラフマニノフのシンフォニー2番ライヴに近いスタイルで、これは弛緩した楽曲にはうってつけのやり方である。ボストン黄金期の機能性と馬力が最大限に発揮され、ミュンシュライヴと聴きまごうほど。統制が凄く、専制君主的な存在であったことを伺わせるが、聴く側にとっては清清しい。ミュンシュのような柔軟な統制ではなく一直線なので確かに単調な側面はあるのだが、ロマンティックなグズグズの曲やパズルのような構造をきっちり組み立てないとならない現代曲にはこのような直線的スタイルはあっている。ほんとにあっという間に聴き終わり、終演後の大喝采も演奏の成功を物語る。ロシア臭が無いというわけでもなく、濃厚な味がぎゅっと凝縮。3楽章ではねちっこいまでの自在なルバートが詠嘆のフレーズに織り込まれる。いや、私はこのシェヘラザードなら何度でも聴ける。録音がかなり悪いが、◎。

クーセヴィツキーについて>","",20世紀前半の25年間ボストン交響楽団に君臨した亡命ロシア人指揮者。音楽キャリアの最初をコントラバス奏者として始め、ソリストとして名声を確立してのち指揮に転じた。婦人の財力を背景にオーケストラを組織し既に現代作品の擁護者としても活動していたが、革命後ロシアからフランス経由でアメリカに活躍の場を移してからはボストンに居を据え、中欧指向の強い市民に対してロシアものやフランスものを積極的に紹介し、周辺国作品の十字軍的役割を果たす。ボストン交響楽団の中興の祖であり、五大オケに持ち上げた功績は大きい。その技術力を背景に新作初演をストコフスキと争い、委属を大量に行ったことでも知られる。中でもラヴェルの展覧会の絵編曲やバルトークのオケコンは有名。未だ黎明期であった作曲におけるアメリカ・アカデミズムを盛り立てた功労者ともなっており、新作擁護のクーセヴィツキー財団の存在は国内外に対して絶大であった。,,ボストンの聴衆には尊敬されていたが、プロフェッショナルな指揮技術を学んでいなかったため解釈表現には賛否あった。他聞に漏れず専制君主的でありスクリアビンやプロコフィエフとは交流が深かったものの余り好感を持たれていなかったようでもある。元来ショウマンシップを持ち合わせた自由人であったことが芸術音楽指向の強いプロには余り受けなかったということもあろう。その態度ゆえんか演奏都合で曲をどんどん変えていく調子にはラヴェルも好感を持たず、晩年のバルトークも同様であったとも言われる。,,"ただこの時代そういった指揮者は珍しくなかった。教育において高い能力を持っていたことは夏季教育プログラムの主催に言及するまでもなく結果が証明している。バーンスタインは弟子にあたる。幅広いレパートリーを持っている中で中欧作品の演奏でも評価を得ていたが、リヒャルト・シュトラウスより後の前衛作品には手を出していない。50年代に亡くなりライヴに活動の重心を置いていたため活躍の割りに正規スタジオ録音が少なく、音質も悪いものが多いことから現代は余り評価されていないが、極めて集中度が高くそれでいて理知的に整理された演奏ぶりは、ラヴェルやシベリウスの作品において特に今も愛好されている。
シベリウス:交響曲第2番"," 第5番(クーセヴィツキー )(1935-1936)
シベリウス
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バルトーク:管弦楽のための協奏曲/ムソルグスキー:展覧会の絵(ボストン響/クーセヴィツキー)

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ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)/ラヴェル:ボレロ/他(クーセヴィツキー)(1930-1947)
ムソルグスキー;ラヴェル
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シベリウス、オケコンとラヴェル集をどうぞ。",-----,,,-----,,,-----,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,

○シュミット・イッセルシュテット指揮北ドイツ放送交響楽団(ACCORD)1957・CD

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この指揮者らしくケレン味のない音により端正に組み立てられた立体的な演奏だが、純管弦楽曲としてダイナミズムを存分に発揮するよう意思的な起伏がつけられており、つまらないドイツ式構築性のみの聞き取れる演奏ではなく、制御された熱情が鋭敏で安定した技術感のあるオケにより巧く音楽的に昇華されている。ヴァイオリンソロなど安定しすぎて面白くないかもしれないが、音色感があり、3楽章など弦楽合奏含め珍しく感傷的な雰囲気を十分に感じさせる。リムスキーの管弦楽法の粋をそのまま聴かせようという意図(色彩感が非常にあるが生臭くならず透明で美しい・・・構築的な曲では無いのであくまで数珠繋ぎされるソロ楽器の音や交錯するハーモニーにおいてということだが)がうまく反映されている。テンポにおいて特にアッチェランドのような短絡的な熱狂性が無いのが気に入らないロシア人もいるかもしれないが、合奏部の迫力、凝縮と爆発のバランスが絶妙なところ含めこれで十分だと思う。いけてます。まあ、ロシア人には向かないけど。録音もよく演奏にあった綺麗な音で、◎にしようか迷ったが、オケの雑味に一流というわけではない感じを受ける人も多いかと思い、○にしておく。録音が高精細すぎるだけだと思うけど・・・放送オケはこれでいい。廉価盤でロザンタール指揮の小品2曲と共に再CD化。

,"(これは旧盤です)
Nicolai Rimsky-Korsakov: Sh醇Ph醇Prazade"," Op. 35

Accord

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リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,○カール・ルフト指揮ベルリン放送交響楽団(LE CHANT DU MONDE)LP,,覆面指揮者と話題になった、いかにもフルヴェン時代のドイツを思わせる強い推進力をもった威圧的な演奏。ソリストもものすごくソリスティックに個性をアピールしてくるのが印象的。ただ、私の盤質がものすごく悪いのと、やっぱりドイツだなあ、というような渋さがつきまとい、好みは分かれると思う。派手にリムスキーの色彩感をあおる演奏が好きなら南の国の演奏を聴かれるがよい、もしくはロシアの。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,○ズーク(Vn)イワーノフ指揮モスクワ放送フィル交響楽団(THEATRE DISQUES:CD-R)1978/3/16LIVE,,これはMELODIYAで流通していたLP原盤なのだろうか?何故か縁無いうちに裏青化したので買ったが、明らかな板起こしである。取り立てて名演ではないが何故中古市場にそれほど出回らなかったのか?,,1楽章は落ち着いたテンポで足取りしっかりとドイツっぽさすら感じさせる。この人はベートーヴェン指揮者であることをしっかり意識して、余り拡散的な灰汁の強い表現をしないときのほうが多い(もちろんするときもある)。楽器の鳴らし方は全盛期スヴェトラとまではいかないが豪放磊落で倍音の多い分厚い音響を好む。だがこの頃のメロディヤのステレオ盤は盤質のこともあり心持軽く薄い響きがしがちで、これも例えばミャスコフスキーの新しい録音で聞かれたものと同じ、ロシア人指揮者にしては相対的に個性が弱く感じるところもある。中庸ではないが中庸的に感じられるのである。,,中間楽章では1楽章ほどに遅さは感じず、でも常套的な気もする。ブラスの鳴らし方は思ったとおり、といったふうでロシア式。ヴァイオリンソロはすばらしい、D.オイストラフを思わせる安定感もあるし変なケレン味を持ち込まないのがいい。3楽章はでろでろしているのだが、生臭くない。これは不思議だが中低音域を強く響かせる少し中欧ふうの感覚の発露かもしれない。,,4楽章は想定どおりの大団円をもたらしてくれる。これは勿論この人だけではなく同じような盛り上げ方をする人はいくらでもいるんだが、素晴らしく盛り上がる、とだけ言っておく。○か。強くインパクトを与える感じはしない。強いて言えばラフマニノフのシンフォニー2番と同じようなスタンスの録音と思った。,-----,,,-----,,,-----,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,○スタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団(capitol)LP,,最初は余りに端整で制御された演奏振りにビーチャムのような凡演を想定していたが、楽章が進むにつれ異様な表現性とシャープなカッコよさが高度な調和をみせてくる。三楽章のハリウッド音楽張りのうねりには仰天した。しかも生臭さは皆無の程よい音色に、ピッツバーグがまた素晴らしい技術を見せ付けている。デモーニッシュなものが要となっているハルサイなどは私は余りにスマートすぎてピンとこなかったのだが、楽天的で開放的なこの楽曲には求心的でまとまりのよい演奏ぶり、ドライヴ感を実はかなり激しいテンポ変化と制御されたルバートの中であおり続ける。後半楽章の流れは大喝采ものだろう。録音のよさもある。前半余りピンとこなかったので○にしておくが、曲が人を選んだのだなあ、とも思った。ロシア人がロシア曲をやったところでロシア踊りになるだけだ。ロシア踊りに飽きたら、こういう大人の演奏もいいだろう。,-----,,,,,,,,,,,,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R)1962/5/21live,,非常に臨場感のあるステレオ録音で、いちいち楽器配置を変えて演奏しているのか、音楽が意表を突いたところから聞こえてきたりといった面白さもよく聞き取れる。多分、会場で聴いているアメリカ人に最もわかりやすいように、どぎついまでに表現を色彩的にしようとしたのであろう。ソリストのメドレーのようにメロディラインが強調され、それがまた物凄いうねり方をするために(スタジオ盤もそうだったが相手が最強のパワー楽団(しかもオーマンディ時代のボリューム・アンサンブルを誇ったメンツ)なだけに尚更!)1楽章くらいは「青少年のための管弦楽入門」のように楽しめたが、3楽章では「もういい・・・」と苦笑。しつつ結局いつものアタッカ突入で楽章変化すら定かじゃない流れで物凄い終局にいたるまで聴いてしまった。弦楽器はいくらなんでも反則だよなあこの力感。。まあ、会場は喝采だろうなあ。録音の限界というものを「逆方向で=どぎつさが更に強調されるようなキンキンした音で」感じさせられた次第。いや、ストコ/フィラ管のステレオでこの曲を聴けるというだけで最大評価されても不思議は無いと思う。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,○ストコフスキ指揮モンテ・カルロ・フィル(DA:CD-R)1967/7/26live,,オケは集中力が高くまとまっていて、各ソリストの技量も高い。ギトギトの脂ぎった光沢をはなつストコの音楽を実に忠実に勢いよく表現しきっている。拡散的で非常に色彩豊かな音響を作るストコの特徴が過度にならず出ていて面白い。ライヴなりに精度には限界があり、ストコらしい彫刻の雑さも耳につく。録音はエアチェックにしてはおおむねよいほうだが撚れや電子雑音が目立つ箇所もある。従ってけしてストコの録音として万全とは言えず、別にこれを取り立てて聴く必要はないが、ダイナミックで異様な迫力に満ちた派手派手なこの音楽が、80台半ばを迎えた老人の指先から生まれてきていることを思うと感動すらおぼえる。耳の確かさ、頑丈さは尋常ではない。これは手兵による演奏ではない。なのにここまで指示が行き届き実演にて統制がとれれば十二分である。下振りによる入念なリハや勝手な指示が山ほど書き込まれた譜面が配られていたにせよ。○。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,-----,,,,,,,,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,○ストレング(Vn)シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(Westminster)CD,,非常に良好なステレオ録音である。演奏はこのコンビらしいコントラストをはっきりつけた飽きさせない内容。スタジオでは比較的マトモといわれるシェルヒェンだが流石に3楽章ではデロデロにテンポを崩し真骨頂を見せている。ただ、このコンビではしばしばあることだが音が醒めていて人工的な印象も受ける。CD復刻の弊害かもしれないので演奏のせいとばかりは言えないだろう。オケは達者なので総じては楽しめると思う。ちょっと弦が薄いのはオケ都合か。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,○チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(euroarts)DVD,,恐らく70年代後半の映像か。見た目の「窮屈さ」と音にみなぎる覇気の間に少し違和感をおぼえるがテンシュテット同様そういうものだろう。まさかカラヤン方式(別録り)ではあるまい。スピードも縦の強さもチェリ壮年期のかっこよさを体言しており、スタジオ収録映像にもかかわらず掛け声をかけたり気合が入りまくりである。シュツットガルトもかなり精度が高い。まあ、チェリのシェヘラザードはたくさんあり、その芸風の範疇におさまる記録ではあるので、見た目にこだわらなければこれを入手する必要はないとは思うが、生気ある白髪チェリを拝みたいかたはどうぞ。モノラル。,-----,,,,,,,,,,,,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,○ハラバラ指揮チェコ・フィル(SUPRAPHONE/Columbia River Ent.)1953・CD,,今はシャラバラと呼ぶのか?ずっとハラバラと呼んでいたので・・・ここではハラバラと呼ぶ。シェラザードだってシェヘラザードと呼んでるのでいいんです。千夜一夜物語と書いたら誰にも伝わらないし。LP時代の名盤で、数多い同曲の録音、とくに旧東側の録音としては聴き応えがある。お国ソヴィエトの演奏のようにばらんばらんに豪快でソリストが主張してばかり、でもなくかといって緊密すぎて面白みがなくなることはない、ソリストは誰もかれもオケプレイヤーとして非常にすぐれて必要な機能だけを発揮しており、ケレン味は必要なだけ盛り込まれ、ふるい録音なりの録音の雑味が山葵となってきいている。デロデロの甘甘になりがちな3楽章が重くも軽くもなり過ぎず音楽としてよく聴かせるものとなっていて印象的だった。ハラバラはリズムもさることながらテンポ運びが巧い。ルバートをルバートと感じさせないスムーズさで独自の揺らしを加えてくる。それがすれっからしの耳にも好ましく響く。4楽章がいささか冗長で、トータルでは○だが、いい演奏。ネットでは手に入るよう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,◎ベイヌム指揮ACO(movimente musica,warner)1957/4/30アムステルダムlive,,イワーノフのシェヘラザードを手に入れ損ねて不完全燃焼の状態にふとこの盤を手にとる(イワーノフはかなりリムスキーをいれているのだが復刻が進まない。時代が悪かった、スヴェトラ前任者でモノラルからステレオの過渡期にいただけに陰が薄くなってしまった)。びっくり。,,物凄い力感である。そうだ、アムスはこんなオケだった。シェフ次第ではこんなに剛速球を投げる名投手だったのだ。もちろん音色的には必ずしも目立ったものはなくソリストも特長には欠ける(ヴァイオリンソロのとちりには目をつぶれ!)。しかしベイヌムという非常に求心力の強い指揮者のもとにあっては、ひたすらケレン味も憂いもなく、アグレッシブに(3楽章でさえも!)強烈な音力をぶつけてくる。録音も非常に強い。撚れなどもあるが生々しさこの上ない。とにかく気分を発散できる演奏で、まるでライヴにおけるドラティのように「中庸でも玄人好みでもない」ヘビー級の剛速球を投げつけてどうだ、と言わんばかりの感じ、もちろんリムスキーの色彩のフランスライクな側面が好きな「音色派」や、解釈の起伏を楽しみたい「船乗り型リスナー」には向かないが、単彩なコンセルトヘボウを逆手にとった「とにかくこれが俺のシェヘラちゃんなんだよ!オラ!」と言わんばかりの男らしい演奏、私は決してこれが一般的に名盤とは思わないが、個人的に◎をつけておく。飽きません。コンドラシンですらこざかしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,○ベイヌム指揮ACO、ダーメン(Vn)(PHILIPS/IMG)1956/5・CD,,20世紀の名指揮者シリーズで復刻されたモノラル末期の名録音。スタジオ。速いテンポを一貫してとり、流麗で色彩感に富む演奏を聞かせてくれる。木管ソロのいずれもニュアンス表現の素晴らしさは言うに及ばず、再興ACOの黄金期と言ってもいい時代の力感に満ちた素晴らしくスリリングなアンサンブルを愉しむことができる。ベイヌムは直線的なテンポをとりながらも構造的で立体感ある組み立てをしっかり行っており、同傾向の力感を持つクーセヴィツキーなどと違うのはその点であろう。もっとも録音状態が違いすぎるので(スタジオ録音は有利だ)安易な比較はできないが、リムスキーの管弦楽の粋を聴かせるにステレオでなくてもここまで十全であるというのは並みならぬものを感じさせる。,,表現も直裁なだけではない、2楽章の変化に富んだアゴーギグ付け、その最後や4楽章の怒涛の攻撃はライヴ録音を思い起こさせるし(あのライヴは色彩感が落ち流麗さを強引さに転化したちょっと違う印象の録音だが)、ソロ楽器を歌わせながらオケ部には派手な情景描写をバックに描かせ続ける、そういった劇的表現が巧みだ。まさに絵画的な、オペラティックな印象を与える。人によっては純音楽的表現とし表題性を気にしていないと評するかもしれないがそれはあくまで全般的にはスピードが速め安定で構造重視、という側面だけで得られる印象であり、もっと表題性を無くした演奏はいくらでもあるのであって、これは十分表題を音で表現できている。たくさん褒めたが直感的に○。私の好みはクーセヴィツキーのような表題性無視完全即物主義シェヘラザードなのです。シェヘラザードが物欲女というわけではありません(謎),,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,(参考),"シェヘラザード:表題性に興味の無い私のかわりにwiki参照。wikiは名盤推薦もするのか?執筆者の恣意性が払拭できないそのての記事はどうかと思うが。",コンドラシン盤が最もスタンダードとされるが個人的には硬質すぎてそれほど評しません。むしろこの曲はフランスでよく演奏された。近代管弦楽法の大家リムスキーの象徴的作品としてロシア熱冷めやらぬ時代に受け容れられていたせいだろう。,,"ベイヌムのライヴ盤はこちらに書いた。","ベイヌムの正規録音は長らく廃盤になっていたが最近まとめてCD復刻された。感情的な強い流れを作るだけではなく色彩的でニュアンスを表現する技巧に優れていたためモノラルLP時代はフランスものも高評価を受けていた。細かい装飾音まで曖昧さのない水際立ったドビュッシーは今も好まれる。
ドビュッシー:夜想曲
ベイヌム(エドゥアルト・ヴァン)
ユニバーサル ミュージック クラシック

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リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,○ロヴィツキ指揮ワルシャワ・フィル(LYS他)1960-67・CD,,この指揮者の荒っぽく派手好みで耳障りな音楽作りが私は耳にきつくて余り好きではない。LYSの復刻集成は加えて板起こしのやり方が荒々しくフォルテでの雑音や音色の汚さが聴くにたえない。しかしこの演奏も辛抱強く聴けば感情を揺り動かされないわけではない。聴き辛い部分と聞き込ませる部分がモザイク状に配置されている、といったふうだ。東欧的な硬い音色がとにかく気に入らないし雑味も気に入らない、でも、まあ、○にはすべきだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,〇シュヒター指揮北ドイツ交響楽団(MHS)LP,,珍しい録音をいろいろ出していた新しい会員頒布制レーベルからのこれは再発か。オケ名も不確か。がっちりした構成でしっかり聞かせる演奏。まさに純音楽指向で艶や感興とは無縁。このストイックさにごく一部のマニアは惹かれるのだろう。N響時代のことなんて誰も覚えちゃいないだろうが、統率力の大きさと無個性な解釈のアンバランスさに、忘れられても仕方ないかな、と思う。いつも後期ロマン派以降の曲の演奏でみせる杓子定規的な表現は、この珍しいステレオ録音では意外と悪い方向へ向かわずに、曲が本来持っている生臭さをなくして非常に聴きやすくしている。はっきり言って「普通」なのだが、そのまま気持ち良く聞き流せてしまう、何も残らないけど気持ち良い、そんな演奏もあっていいだろう。〇。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,グーセンス指揮LSO(everest),,とにかく野暮ったい。最初から何かだらしないというか、下手なシェヘラザードの見本のような解釈でどっちらけてしまう。ただ、ステレオなこともあり終楽章は派手にぶち上げてそれなりの聞かせどころを作っている。だが全般やはり凡庸で野暮だ。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,コンドラシン指揮ORTFフィル(SLS)1978/5/19live,,結局コンドラシンはロシアものか、と思わせる出来で客席も沸く。非力なオケでも迫力も違うしやる気も違う。放送エアチェックノイズが終始入り続けて聴きづらいが音そのものは明晰なステレオで、二楽章でひどいノイズがはいるがこれは元々のものなのかわからない。プロコフィエフ、シェ−ンベルク、サンサンと職人的な演奏のトラックが続いて、フランスオケの味わい、色彩的なオーケストレーションがコンドラシンのモノトーンなかんじを払しょくし、ラフマニノフに匹敵するような結果をもたらしている。録音が惜しいが、この盤では出色。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード,ラフリン指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA)LP,,なんとも鈍重で、薄い響きの目立つ弛緩したような始まり方をするが、ソリストは正確にやっており、オケも進むにつれ情緒テンメン節を忠実に表現しようとし始める(板につくまでに時間がかかっているということだ)。人工的な、ドイツっぽいガチガチしたシェラザードだ。ぶつ切り継ぎ接ぎ録音編集ではないか。モノラルだがこのオケの怜悧な音だと更にモノトーンに聞こえてしまう。2楽章でもしっかり型にはめ正確に吹かせようとするごときラフリンのやり方に青臭い不自然さが漂う。前のめりの感情的な盛り上げ方をしないから、少し飽きる。テンポ的な起伏がなく実直な遅さもロシアらしくない。終盤前に間をたっぷり使ったハープとフルート等のアンサンブルが幻想的で美しい。こういう印象派的表現はガウクも得意としたところだが、たんにゆっくりやっただけとも言える。素直な3楽章はゆっくり時間をかけてちゃんと歌っている。重いけれども。テンポが前に向かわない中間部ではあるが附点音符付きのリズム感はよくキレていて、バレエ音楽的な処理である。旋律の歌い方が未だ人工的なのは気になるがそうとうに神経質に整理されたさまが伺え、細かい仕掛けが聞こえる楽しさはある。スケールはでかい。4楽章も実直さが気にはなるがソリスト含め表現に荒々しさがあり民族臭が強くなる。全般褒められた演奏ではないが、精度を気にしためずらしい演奏ではある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),◎クアドリ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(WESTMINSTER)いやー、派手です。爆発してます。しかも響きの重厚さも持ち合わせている。三楽章をはじめとして弦の深く美しい音色の魅力が炸裂。録音もいいので(私の盤は雑音まみれだが)大きな音で浸りきりましょう。とにかくケレン味があって面白くてしょうがない。鮮やかな解釈だ。音もじつに鮮やか。と言っても過度に変な解釈や改変デフォルメのようなものはない。ただ発音の仕方、フレージング、デュナーミク変化などにとても説得力があり、耳を掴んで離さないのだ。繊細さとか、柔らかな響きには欠けているかもしれない。また、表現主義的な厳しさもない。しかしここにはあきらかに息づいている音楽そのものがあり、音を楽しむ以外の何物も表現されていない。リムスキーはこれでいいのだ。今までで一番感動した演奏です。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),○クレツキ指揮フィルハーモニア管弦楽団(HMV)このシェヘラザードもいい!ステレオのいい録音のせいもあるが、名人芸的な揺らぎの美学が働いていて、これぞシェヘラザード!という派手な音楽をぶっちゃけちゃっている。3楽章の歌い込みも痛切ですさまじい。4楽章にくると少々そういうのにも飽きてはくるが、それでもたぶんきっと、これは爆演と言っていいのかもしれない。凝縮力はないものの、アクセントのしっかりした発音で鳴るべき音をしっかり鳴らしている。クリアな演奏ぶりが曲に立体的な厚みを持たせていて秀逸だ。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),○スヴェトラーノフ指揮ロンドン交響楽団(BBC)1978/2/21LIVE〜というわけでロシア系最後の巨匠スヴェトラ御大の登場である。とはいえ手元にはメロディヤの、ステレオではあるがやたら雑音の入るLP(CD化もしてます)と、外様のオケを使ったライヴCDしかないのだが(他にはあるのだろうか?)紹介ぐらいはできるだろう。前者はもうロシアオケにロシア式奏法にロシア式録音+スヴェトラ御大という組み合わせ、くどくなることうけあい。と思ったのだが、起伏には富んでいるものの案外いやらしい音楽にはならない。色彩感はぎらぎらと極限まで強調されているけれども、それはモザイク模様のように組み合わされる音のかけらの集積、けっして様々な音色が有機的に溶け合う生臭い感じの音楽ではない。現代的なシャープな感覚と過剰なまでのデフォルメをうまく使い分けてコントラストのきつい音楽を仕上げるのがスヴェトラーノフ流だ。この2盤に共通するでろでろのロシア節、3楽章冒頭からの旋律はこの曲でもっともロシア的な解釈を施されているが、音色をハッキリと決めてからテンポ・ルバートだけを思い切り自由に使っている。つまりテンポ的にはデロデロだが、音的には比較的あっけらかんとしている。まあ前者はそれでも「いやらしい歌」に聞こえなくはないのだが、なにぶんマイクが物凄くオケに近いためにヴァイオリンのばらけや雑味が思い切り聞こえるし、他にも些細なミスや突出した音が良く聞こえる状態だから、それがほんとうに「いやらしい歌」だったのかすら定かでない。巧い奏者だらけだけれども合奏がいかにも雑なオケ、というソヴィエト国立の悪い面が出てしまっている前者は、無印としておく。後者はロンドン響があまり敏感に反応しないのがイライラするが、おおむねソヴィエト国立と同じような解釈が施されていて、精一杯指揮にあわせて外様のオケとしては考えうる限り最善の演奏を行っているさまが聞き取れる。音のよさと盛大な拍手に敬意を表して○ひとつ。個人的には・・・やっぱりちょっとくどい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),○ストコフスキ指揮ロンドン交響楽団(LONDON)1964/9/22この演奏に特徴的なのは旋律の極端な伸縮である。ソリストが自由に旋律をかなでるように、著しく伸び縮みするフレージングは、それがソロ楽器ならともかく、弦楽器全体が一斉に、だったりするので初めて聞くとびっくりする。また耳慣れない表現が混ざるのはスコアをいじっているせいだろうか(スコアを持ってないので確証なし)。明るくあっけらかんとした演奏ではあるが、とても個性的で、まさにストコフスキという人そのものを象徴するような解釈のてんこもりだ。それがちょっと人工的であまりスムーズに動いていかないところがあるのが惜しまれるが、オケは十分な力量を持っており、聞きごたえのある演奏になっている。ヴァイオリンのソリストが余り浮き立ってこないのは録音のせいか。それも解釈のうちかもしれない。こういうものは今の時代だからトンデモ演奏扱いされるわけで、かつて大昔にメンゲルベルクらがやっていた作為的な演奏様式に近いものであり・・・というかストコフスキもキャリア的にはその世代に属する指揮者なのだが・・・その点で貴重なステレオ録音であるといえよう。迷ったが○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),○チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(ARLECCHINO)1972LIVE〜モノラルで録音はやや悪いが、演奏はチェリ壮年期の覇気に満ちたもので共感できる。Vnソロに妖艶さが足りないのはいつものことだが、シンフォニックな演奏は物語性から脱却して純粋な音楽として楽しめる。まあ、以前挙げたいくつもの演奏と比べて大差ないのだが、しいていえばロココの盤に近いか(同じかも・・・)。チェリのかけ声が気合が入っていて良い。これも音楽の内だ。シュツットガルトはやや鈍いがおおむねしっかり弾き込んでいる。好演。2楽章に少し欠落あり(原盤)。シュツットガルト・ライヴには1975年のライヴもあるが未聴(ヴィデオも有るらしい)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),◎チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(GREAT ARTISTS:CD-R他)1980/2/29LIVE〜この演奏で私は目からウロコが落ちた。シンフォニックな組み立てが生臭い雰囲気を一掃し、格調高い「交響曲」を聞かせている。また非常にこなれている。少々異端ではあるが、名演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),○チェリビダッケ指揮トリノ放送交響楽団(HUNT)1967/2/24LIVE〜なんとステレオだから嬉しい。チェリの解釈のせいかラテンの雰囲気は極力抑えられているが、それでも十分熱気の伝わる演奏になっている。以前挙げたROCOCO盤と同じだと思ったのだが、雑音の入りかたが違うため、これとは違うようだ。チェリの剛直な解釈は客観的な態度も維持しつつ十分劇的で、迫力満天だ。まだ壮大さはないが、しっかりと地面に足をつけた演奏ぶりは後年の悠揚たる演奏を予告している。○ひとつとしておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),○チェリビダッケ指揮交響楽団(ROCOCO)?LIVE〜演奏時間がシュツットガルト(1980)のものと余り変わらず、音色的にも南欧ではなさそう。となると新しい録音のはずだが、ロココのこと、演奏団体名は伏せられ(一応このようなリリースを行う事に対する釈明文が添付されている)録音年月日も不明なうえに、モノラル。モノラルとしても決していい録音状態とはいえないが、曲の概要がわからないまでではない。ライヴ盤にしては見通しの良い精度の高い演奏で、シンフォニックな解釈が私のような表題音楽嫌いにも聴き易くしている。ソロヴァイオリンがかなり巧みで、殆ど1、2箇所くらいしか危うい所が無い・・・ここでシュツットガルトの演奏を思い出すと、音程がけっこう怪しいところがあった気がするので、別録音と判断したいが・・・のはこの演奏の価値を高めている。ワグナーの影響やボロディンふうのエキゾチシズムが横溢する楽曲を、チェリは敢えてそれらと隔絶した、唯「リムスキー」という個性の発現した楽曲として描いている。だからそれらに生臭い感じを覚えることなく、ただモチーフの数々〜いい旋律を楽しませてもらった。佳演。拍手は通り一遍。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),○フリード指揮伝モスクワ放送交響楽団(ベルリン・フィル※)(DANTE,LYS/koch※)1928,, 20年代と古いのに録音はかなり善戦。40年代位の感覚で聞けるから嬉しい。オスカー・フリートがどうしてソヴィエトのオケを振ったのかわからないが、引き締まった演奏ぶりはフリートの「なんとなく中途半端」のイメージを覆すものとして目から(いや耳から)ウロコが落ちる思いだった。ソリストの音色も細かいところまでは聞き取れないが美しい。オールドスタイルな演奏法は意外にも目立たず、全般にけっこうシャープである。デロデロ節もなきにしもあらずだが、どちらかというと一本筋の通ったドイツ的な演奏だ。3楽章もけっこう歌ってはいるがよたってはいない。シェヘラザードが好きな人だったら一度試してみても面白いと思う。○。それにしてもモスクワのオケはこの時点ではロシア節炸裂爆演というわけではなかったんだな。。(後註:オケはロシアオケではないとのことです。SP表記ではBPO),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),◎フリッチャイ指揮ベルリン放送交響楽団(DG)1956/9〜実に男らしいシェヘラザードだ。男臭いと言ってもよい(誉め言葉です)。白黒写真のように単彩ではあるがメリハリの効いた演奏で、ギチギチで火花が飛び散るようなアンサンブルはとくに終曲において圧倒的な迫力を見せつける。楽曲のはらむ生臭い部分はすっかりアクを抜かれており、そもそも「情感」というものを排したものとなっている。スヴェトラーノフなどとは対極の演奏だ。それでもなおたとえば3楽章のアンダンテ主題はかなり作為的にテンポが揺れ動くが、ただ揺れるだけで歌っているわけではない。そこがまた独特の美しさを見せる。計算ずくであることは言うまでもない。テンポ、というのはフリッチャイの演奏に欠かせぬファクターである。この曲でも速いテンポで突き進むところ〜終楽章など〜は基本的にはタテノリなのだが軍隊行進曲のような心地よい前進性を持っており、耳を惹きつけて離さない。これはフリッチャイ会心の出来だ。言ってみれば表題性を押し退けて、まるで「合奏協奏曲」のように演奏させているといえる。極めて高度な構成感を持った演奏であり、とくに民族音楽的な部分を精緻なアンサンブルの中に昇華させているところはバルトークの演奏法を思わせる。こういう演奏で聞くとリムスキーの現代性が浮き彫りになり、エキゾチシズムや民族性といった生臭い部分は影をひそめる。私はそういう演奏が好きだ。オケは(最高とは言わないが)機能的であり、色彩感はないが、総合の合奏力はそれを補うものがある。このソロヴァイオリンはいたずらに情感を呼ばないところが好きだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),○メリク・パシャーエフ指揮ボリショイ歌劇場管弦楽団(melodiya)LPゆったりした雄大さはないが、パシャーエフの強力な統率力の発揮された熱演。そのリズム良さは速い楽章で発揮されている。3楽章などちょっとしっとりした抒情も欲しくなるが、コンドラシンらの乾燥しきった演奏とは違い「人間らしい音」が出ており、とても感情移入しやすい。いい音出すなあ、ボリショイ管。このオケを下手オケと思ったら大違い、指揮者によってはここまでしっかりやるのだ。アクの強い他のロシア系指揮者にくらべて決して特色のある指揮者とは言えないけれども、感心して最後まで聞けてしまうのは優れた指揮者である証拠。勢いのあるいい演奏です。○ひとつ。個人的には◎にしたい・・・。でも盤面悪くてそこまではつけられない・・・。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),○ロジンスキ指揮クリーヴランド管弦楽団、フックス(Vn)(COLUMBIA /LYS)1939/12/20筋肉質で速い演奏だ。いやー、力強いのなんの。クリーヴランド、巧い巧い。細かいパッセージまでしっかり棒に付けてくる。細かい動きまでびしっとあっているアンサンブルのよさに驚嘆。このコンビ、じつはあまり好きではなかったのだが(NYPのほうが好きでした)これは聴くに値するダイナミックな熱演。3楽章のスピード感、4楽章の畳み掛け、緩やかな部分が無いのが弱点といえば弱点だが、休む間もなく40分強。CD化していたのかもしれないが見たことは無い。モノラルだから単品では出難いかもしれないが、ドキュメントあたりでボックス化したさいは収録必至の演奏です。○。イタリア盤で一回CD化している。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),ゴーベール指揮パリ音楽院管弦楽団(VOGUE)1928/7/6,1929/4〜品のいいおちょぼ口のシェヘラザード。私はこれくらいのほうが好きである。ゴーベールはこれ以前にも抜粋録音しているそうだが、雑音をカットしたおかげで茫洋としてしまった録音の奥からは、リムスキーの色彩的な管弦楽法を十分に生かした立体的な演奏が聞こえてくる。けっしてこなれた演奏ではないし、2楽章のリズム、3楽章の歌、終楽章の感興などもっとはじけてもいいと思うが、まるでラヴェルのダフクロあたりを思わせる香気立ち昇る雰囲気が全体を包んでおり、また颯爽とした指揮ぶりにも自信がみなぎり魅力を感じる。ただ、ヘタなものはヘタ。ヴァイオリン・ソロの高音の音程がアヤシイしボウイングもぎごちないのが何より気になる。管楽器のソロは割と安定してはいるもののミスが無いわけじゃない。アンサンブルもわりとばらけがちで集中力が散漫な感じがする。これは録音のせいという気もしなくもないが、それを割り引いても「ヘタ」という印象は変わらないと思う。でも、いい演奏ですよ(自己矛盾)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),コンドラシン指揮コンセルトヘボウ管弦楽団(PHILIPS)1979/6〜コンドラシンらしい凝縮された密度の濃い演奏だ。クレバースのヴァイオリンソロが細いながらも美しい音色で一服の清涼剤たりえている。この人の演奏はその芸風からか小さく凝り固まってしまう場合も多いが、ここでもそんな感じがしなくはない。テンションこそ高いものの渋い演奏で派手さはなく、かといって哲学的なまでに内面を追求したわけでもなく、どことなく中庸な雰囲気が漂ってしまう。まあ、ブラスの鳴らし方などにロシア流儀が聞き取れるし、「中庸」は適切な言葉ではないかもしれないが、なぜか音色的に地味なのである・・ACOなのに。アンサンブル力や各セクションの素晴らしい表現力がコンドラシンの豪快な棒に乗ってとても高精度の演奏をやっつけているが・・・思わず寝てしまった。。録音のせいとしておきたい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)ロンドン交響楽団盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(DG)1982/2/18LIVE〜雄大にして緻密なチェリの美学が生きた演奏だが、まず録音状態が、新しいものにしてはあまりよくない。ホワイトノイズが入るし、オケの音は平板。チェリの気合声が気分を高揚させるものの、客観が優る演奏であり、それほどのめり込むことはできない。が、構築的な演奏はまるでひとつのシンフォニーを聴くようで曲にふさわしくないとも言える高潔さや哲学性まで感じさせる。響きの美しさは比類が無く、この時代のリムスキーが世界の最先端を行っていた事を裏付ける和声的な面白さもぞんぶんに味わえる。ハマればとことんハマりこむ演奏であり、私もその一人なのだが、好みで言えばロココ盤や同じシュツットガルトとの海賊盤のほうが自然で好きかも。無機的な感じも恐らくリマスタリングのせいだろう。録音マイナスで一応無印としておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(METEOR/CULT OF CLASSICAL MUSIC:CD-R)1980'S?LIVE〜録音悪すぎ。激しいノイズはエアチェック物であることがバレバレ。これではチェリの目した完璧主義的な音響には遠く及ばない。とにかくこのことが気になってしょうがなかった。また、アンサンブルが緩みがちというか、固くて軋みを生じているというか、作為的な感じがして仕方なかった(1楽章は素晴らしかったが)。シュツットガルト放送響の演奏には強い集中力があり、音響も録音としては理想的であったから、それより後と思われるこの録音の出来は残念としか言いようがない。がんばって手に入れた盤だけに、拍子抜けも著しかった(泣)。ソロヴァイオリンもあまり旨みがない表現。盤評本ではシュツットガルトの録音よりこちらを推しているものもあるが、録音状態をひとまず置いたとしても、この盤がシュツットガルトに比べて更に壮大で迫力があるかというと疑問である(単純な時間の長短の問題ではない)。まあ、聞きたい人は聞いて下さい。私は無印としておきます。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),マルケヴィッチ指揮シュタッツカペッレ・ドレスデン(EN LARMES:CD-R)1981/2/25LIVE地味な演奏である。ドイツ臭さも感じる。だがリズミカルな楽想においてはマルケヴィッチの本領発揮、弾むようなテンポで心を沸き立たせる。付点音符の表現が演歌寸前ギリギリの感覚で面白く聞かせる。さすがディーアギレフの目にかなった音楽家だ。4楽章など月並みだが面白い。また、3楽章は意外に情緒的で美しく、この盤の一番の聴きどころと言える。低音の安定した音響が聴き易い。オケの技術はそこそこといったふうで、とくに特徴的なところはないのだが、音色はさすが綺麗。ソロヴァイオリンも1楽章で失敗?しているが全般に歌心に溢れた演奏ぶりで美しい。総じてこの曲の演奏としてはやはり地味だが、マルケ好きは聴いて損はなかろう。ロシア臭やロマン派臭が嫌いな向きにはおすすめ。録音にぱつっという音が入るところが二個所ある。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888),伝アノーソフ指揮ボリショイ管弦楽団、ダヴィド・オイストラフ(Vn)(IDIS/MULTISONIC)1950LIVE〜はっきり言ってロシア系の演奏は敬遠したい。ただでさえ体臭のキツいロシア国民楽派(といってもリムスキーはずいぶん洗練されたほうだが)の楽曲に、わざわざロシア系のこれまた体臭のキツい演奏を選ぶ気になれない。多分に夏のせいではある。暑苦しいのだ。だがまあ、このくらい古い演奏になると音色だのなんだのはどうでもよくなってしまう。せっかくオイストラフがソロを弾いていても、その分厚い音色はちっとも伺えず、ただむちゃくちゃに巧いボウイングと危なげない左手(とはいえわずかでも音程が狂わないかといえばウソになるが)だけが感心させるのみ。アノーソフはロシア臭もするがとても骨太でかつ合理的な演奏を指向しており、録音のせいで音色感はよくわからないが、普通に聴きとおすことができる。やはりと言うべきか、冒頭のシャリアール王のテーマ、ロシア的下品さとでも言ったらいいのか、ブラスの重厚だがあけすけに開放的な咆哮は、このアノーソフ盤でもしっかり行われている。まあ、ロシア国民楽派特有の「お定まり」である。色彩性のない録音がマイナス、無印。(註)この演奏は現在はゴロワノフの伴奏とされている。ソリストがオイストラフに決まった理由はボリショイのコンマスが指揮者の要求に答えられず、「オイストラフを呼んでこい!」の一言で辞めさせられたためということだ。ちなみに私の手元にはゴロワノフと明記された別のCDもあるが、まだ聴いていない。恐らく同じ演奏なのだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード(1888)(作曲家によるピアノ連弾版),○ゴールドストーン&クレモウ(P)(OLYMPIA)1990・CD シェヘラザードという曲の本質が浮き彫りにされる演奏だ。とどのつまり、ここには「旋律しかない」のだ。全ての楽章が旋律の流れだけで構成され、和声的な膨らみを持たせるがためだけに4手を必要としているだけで、結局単純なのだ。だが単純さの中に本質がある。単純で強く訴えられる音楽を書けるというのは並み大抵の才能じゃない。複雑にして音楽の本質を誤魔化している作曲家もいるが、リムスキーのやり方はここまでくると逆に清々しい。もちろんいい旋律ばかりなので、旋律しかないからといって面白くないというわけでもない。1、4楽章冒頭の強奏部にやや物足りなさを感じるがピアノでは仕方なかろう。19世紀末の段階ではまだエジソンがやっと蝋管蓄音機を発明したばかりで、新作を普及させるためには演奏会で取り上げてもらうことはもとより、聴衆に手軽なピアノ譜面を販売して試演してもらうことにより広めていくという回りくどいやり方をするより他なかった。この編曲も楽曲普及のための一手段として組まれたものと見るべきものだろう。これがはなからピアノ曲として構想されていたとしたらきっともっと複雑になっていたに違いない。シェヘラザードがわからないという人にはお勧め。かなり音が少ないので、アマチュアでも弾けるかも。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード〜T抜粋、V,"",イザイ指揮シンシナティ交響楽団(SYMPOSIUM)CD,,しかし変な盤だな。イザイ晩年(昭和初期ね)のアメリカオケの指揮記録だが、粘らずさっさと進むだけの軽い1楽章後半抜粋、テンポは遅くついているが何故か重い響きの(速い場面はなかなかリズミカルだが)3楽章、お世辞にもプロらしさはなく、まあオケのアメリカぽさのせいもあるがシェヘラはこんなんか?というところもある。3楽章は速いとこはいいんだが、ロマンティックな揺れを入れようとして人工的になっちゃってるんだよなあ。コンマスソロが意外とうまいがイザイじゃないだろう。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,
リムスキー・コルサコフ:スペイン奇想曲,◎ガリエラ指揮フィルハーモニア管弦楽団(ANGEL),,リムスキー畢生の名作で管弦楽の壮麗さは比類なく、素材的にも和声的にも奇矯なものはないものの楽器の組み合わせと数だけでオケにはこれだけ多彩な表現が可能だということを示したものとして特記され、現代も愛奏される曲である。これは管弦楽版がいいのであり、管弦楽版を聴いてはじめてこれが後代のラヴェルらにパクられていった理由がわかるだろう。フィルハーモニアの素晴らしい合奏・独奏技術とガリエラの絶妙なリズムにのったドライヴ感がたまらない。どちらかというと西欧的でロシア臭も南欧臭も薄いのだが、それはガリエラの素晴らしいバトンテクとオケの変幻自在ぶりに基づくもので、楽曲自体の包蔵する魅力が調味料を足されることも灰汁抜きされることもなく素のまま鮮やかに浮き彫りにされている。精度も高く非常に粒だっていて、よくある「ゴリ押し演奏」がいかに曲のイメージにマイナスに働いていたかがわかる。結果、フランス曲のような贅肉のない素直な喜遊曲にきこえるなあとも思った。まあ、こんな演奏恐らくライヴでは無理だろうし、現代こんな密度のアンサンブルを聴くことも難しいと思うが、、これ以上の言はもてません。モノラル末期のいい音。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:スペイン奇想曲,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(Guild)1953/12/20・CD,,録音が旧く残響付加も耳に付き鑑賞に適さないが、牧歌的な雰囲気と弦楽合奏部分の表現の深さはイギリス曲を聴くように楽しめる。色彩とリズムが持ち味のこの曲はそもそもバルビ向きではないが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:スペイン奇想曲,○ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(ODEON)SP,,最初と最後の祝祭的盛り上がりは華やかでいいのだが、組曲ふうにつながっていく曲なので、おそらく録音も跡切れととぎれにやったのだろう、ツギハギのように聴こえ、少し興を削ぐ。元の録音がしっかりしているようで再生の音量もちゃんと出ており、その点は異論はない。ラ・ペリの盤を思い出す。余った部分に熊蜂の飛行が入っているのは既に書いた。フランスの楽団はロシアの曲をよくやったし、これもその意味ではこなれてはいるのだが、最後の方が撚れてしまい膝折れしてしまった。や、原因は盤かもしれないが。ピエルネも手練の専門指揮者ではないからこういう古い曲はやりやすそうだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:スペイン奇想曲,○ヘルツ指揮サンフランシスコ交響楽団(victor/PRSC)1926/4/21,23,,前につんのめるような速いテンポに最初のうちこそ不安はあったが、愉悦的なリズムが強調され、ソリストの技量云々はともかくオケ全般に覇気があり合奏力があり突き進む力には圧倒される。まさにアメリカの楽団はこういう明るくさっぱりした響きで開放的に、かつトスカニーニの臭いを嗅いだような緊張感も持って演奏する、その源流を聴く思いだ。上手いと思う。指揮はそれをうまくドライヴしているようなものだ。しゃっちょこばったドイツ臭さなど無い。確かに揺れは無いが最後のほうなどファリャを思わせるような色彩を振りまいてとにかく楽しい。いい指揮者ではないか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
リムスキー・コルサコフ:スペイン奇想曲,◎ムーシン指揮ロッテルダム・フィル(RPHO)1997/4/13アムステルダムLIVE・CD,,素晴らしくキレのある、実に「スペイン」。生命力の塊のような演奏で、現代の録音とは思えない表現自体の迫力と喜遊感はこのどちらかといえば透明感ある伝統オケとは思えない。打楽器をつねに前面に出しアクセントを極めて強く、強い色彩と明快なリズムが印象的だが、音線に左右されることなくグズグズにならないのはロシア指揮者としては異例というか、コンドラシンよりムラヴィンスキーを思わせる統制感である。楽しいというより軍隊という感じもあるが、オケ側からの信頼性が並ならぬことも伺わせる。これだけあればこの曲はもう十分かな。ロッテルダム・フィル自主制作。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:スペイン奇想曲,○ラフリン指揮モスクワ・フィル交響楽団(vista vera)1940・CD,,じつに威勢のいいスペ奇で、ちょっと中だるみしたりするところも含め人間臭い、ラフリンらしい演奏になっている。ゴージャスでボリュームたっぷり、ロシア的などぎつい色彩味溢れる音楽はまったくラフリンらしいところで、オケがモスクワ・フィルだけにとくに管楽器群にアドバンテージを感じる。瞬間湯沸かし器的なテンポアップにリズム強調もしっかりついてきており、いや、この曲をちょっとレトロに聴きたいというのなら、神経質でなければ適している。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:スペイン奇想曲(作曲家によるピアノ連弾版),○ゴールドストーン&クレモウ(P)(OLYMPIA)1990・CD親しみやすい旋律と清新なオーケストレーションが和声的な保守性を差し置いても魅力的な楽曲だ。旋律も超有名だし連弾版でも十分聞きごたえがある。音楽の骨組みが剥き出しになったゆえひときわわかりやすく、結構フランス近代などの作曲家に影響を与えているんだな、と感じさせもする。短いが面白い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:セルビア幻想曲,〇ゴロワノフ指揮ロシア国立交響楽団(LARGO)LP,,暗いスラヴ行進曲的な主題と、エキゾチックな民族舞踊音楽主題がひたすら交互に繰り返される。前者は結構常套的な展開だが入り易い。後者はシェヘラザード終曲的で腕の見せどころ。管楽器の艶めかした音色と機敏な動きにゴロワノフらしからぬ統率力を感じさせる。各セクションがばらばらになりがちなゴロワノフが楽団の素晴らしい調子に乗って、まとまりよくかなり出来がいい。曲は親しみやすいが飽きるので聴き過ぎ注意。特徴的な演奏ではないが聞きごたえあり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:ドゥビーヌシュカ,◎ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA/rare moth:CD-R)1969/10/6live,,けっこうかっこいい。というかかなり楽しめる。攻撃的だが起伏がある。ニキシュみたいな直線的な攻撃というより歌心との折り合いを非常にうまくつけた楽しい行進曲にしたてている。起伏といってもロシアの演奏に聴かれるような変に弛緩した揺れかたをしない演奏。何度でも楽しめます。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:ドゥビーヌシュカ,〇ゴロワノフ指揮ロシア国立交響楽団(LARGO)LP,,やや弛緩した穏やかな表現から始まるが、後の盛り上がりをきちんと計算したもので、フレーズひとつひとつに意味を持たせなからも巨視的な設計が活きてグダグダにならない。なかなか効果的なテンポ設定に、じきにパツパツ決まりだすリズムがゆっくりめのテンポでいながらもこの単なるマーチを、原曲から数倍スケールアップして立派なオーケストラルミュージックとして偉大に聞かせる。パウゼもゴロワノフらしい名人芸。管弦のバランスのよさがこの人らしくない程だ。録音の悪さを差し引いても〇はつけられる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:ドゥビーヌシュカ(1905),○ニキシュ指揮ブラスバンド(MELODIYA)LP シンポジウムの全集盤にも入っていない(若干疑問符付きだが)ニキシュの貴重な記録だ。録音年月もはっきりせず、楽団名も明確でない(ブラスバンドと言いながら思い切り弦が入っている)。ニキシュはレニングラードで振っていたことも確かあったと思うから、そのカンケイでこの革命歌(ボルガの船乗りの労働歌、とのこと)に基づく政治色の強い曲を演奏することになったのだろうか。ところで、ごく短い曲だけれども、私はかなり感動しました。ニキシュの記録といえばEMI(昔はDGで出ていた)のベートーヴェンやモーツァルトといった初期ロマン派までのものしか聴くことができなかった。しかしニキシュはそもそも同時代音楽の紹介者として功績高かったのであり、とくに指揮者から聴衆からみんな泣いた「悲愴」の絶演が今も語り種になっているほど後期ロマン派作品の演奏においては権威だったわけである。それだけにこの(ベルリオーズを除けば)後期ロマン派唯一の録音記録は貴重であり、また後期ロマン派以降しか聞かない私のような者でも楽しむ事のできるものと言うことができよう。この曲は言ってしまえば「威風堂々第1番」である。行進曲に歌謡的な第二主題を加えた単純な楽曲ではあるが、それゆえにストレートに力強く訴える力も強い。あきらかに国民楽派の作品、ボロディンふうのエキゾチックな楽句挿入などリムスキーらしい機知が盛り込まれ、色彩性もある。だから演奏の個性が出易い。ニキシュはややルーズなこの楽団に前進的な力を与えている。部分的にこけたり間延びしたりしながらも全体のテンポは決して崩れず安定して力強く前向きに進み、革命歌というより行進曲という印象を強くあたえる。こういう流れ良さはエーリッヒ・クライバーなどを思い起こさせる。しかし一方でデフォルメも見られる。ちょっと笑ってしまうようなテンポの崩しかたが僅かに聞かれるが、想像するに悲愴などではもっと派手な崩しかたをしていたのだろう。そういう想像力を掻き立てるものがある。ペットなどのオールドスタイルな吹き方も面白い。後年のロシア吹きに引き継がれていくであろう、妙に色っぽい、あるいは懐かしいヴィブラートのかかった音である。はっきり目立つブラスにくらべ弦は分離が悪く少々聞きづらい。楽曲の性格上あまり弦が表に立つこともないので、ここでは何も言わないでおこう。全般非常に録音が悪いので(雑音が多いだけで音そのものはクリアとは思う)これ以上の感想を言うことが難しいが、リムスキーというよりエルガーをニキシュで聞いた、というような妙な感動を覚えたのでした。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:ドゥビーヌシュカ(1905),クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(BIDDULPH/VICTOR)1939/11/7・CDもっと引き締まったリズムが欲しい所だ。今一つテンポが決まらない。悪い録音のせいかもしれないが響きも拡散的に感じる。この盤(ビダルフ)にはこの曲は「編曲」とあり、原曲は伝統的な歌かなにからしい。でも辞典にもリムスキー作曲と書いてあるくらいなのでここではそうしておく。クーセヴィツキーのロシアへの郷愁がもっと篭っているかと思ったが、短い行進曲なのでそこまで求めるのは酷か。決して悪くはないのだが、無印。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:ドゥビーヌシュカ(1905),クルツ指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)1956-63ブラス・バンドを発明・定着させたのはロシア五人組だったとどこかで読んだ。リムスキーの死のさいもグラズノフなど弟子等が共作した作品が演奏されたと聞いた(うろオボエなのでまともに信じないで!)。この曲はまさにブラスバンドを中心とした行進曲であり、無邪気ですらある楽想は魅力的だ。この演奏は式典音楽のような構えた音楽作りが特徴的で、あまり熱気を感じない(クルツはそういう指揮者だが)。ホコリひとつない王宮で、しずしずと進み出でる王女みたいな感じ。クルツはニキシュ最後の弟子だったか。ニキシュの演奏とは対極にある客観的で透明な演奏である。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:ナポリの歌(作曲家によるピアノ連弾版),○ゴールドストーン&クレモウ(P)(OLYMPIA)1990・CD 死の前年(1907年)、ドゥビーヌシュカの次の作品番号。「フニクリ・フニクラ」変奏曲。クライマックスの激しい転調の連続が効果的で聞き物。円熟しきったリムスキーの簡素だが効果的な書法を堪能できる。このデュオにリムスキーは適性があるらしく(単純で弾き易いせいもあろうが)とても楽しめた。熱っぽさはないが煌びやかなリムスキーの音楽が遺憾無く発揮されている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:ロシアの復活祭序曲,○スヴェトラーノフ指揮ザ・フィルハーモニア(HELIOS,HYPERION)1989/12/15・CD非常に澄んだ美しい音色のソロヴァイオリンに木管。爆発的な迫力はイマイチだが、まるでRVWを聴いているような錯覚に陥るとてもリリカルな演奏である。オケの違いというものはここまで出てくるものなのか、と思う。ロシアオケのデロデロ演奏に飽き飽きしたらこういうものがお勧めだ。技巧的なバランスがよく安定感があり、やや客観的な醒めた音色が気になるところも無きにしもあらずだが、スヴェトラーノフ得意の打楽器・ブラスの強調が最後には盛大な盛り上がりをもたらす。スピードをいたずらに煽らないためスケール感が失われないのがいい。リムスキーのけっこう無理のある書法を楽しむのにもいい演奏で、正確かつ繊細に表現される細かい音符の不思議な和声感に魅了される。粗野な民族臭が仄かに香ってくる程度に抑えられているのがいい。西欧音楽の影響を抑えきれないところと、独自性というか民族性(ロシアのみならずシェヘラザード的なオリエンタリズムも含めて)を意識的に導入しようとする態度の乖離性が感じられるが、それらが微妙なバランスの上に辛うじて分裂することなく並立しているのが面白い曲だ。分裂症的だが多少ワンパターンなところもあり、そういうリムスキーのアマチュアリズムの弱点も感じるものの、この演奏においてはそれほど違和感を感じるまでもなく楽しめるだろう。弾くのは大変だけど聴くぶんにはタノシイですから。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:ロシアの復活祭序曲,ストコフスキ指揮NBC交響楽団他(CALA他)1941・CD,,テノール独唱を伴う特殊な編成で演奏されている。チャイコフスキー交響曲2番一楽章に主題が転用された事情からリムスキー最盛期の作品であるにも関わらずリムスキーの曲ではないジェネラルな雰囲気があるというか、禿山の一夜に似ているという人もおり、構成も極めて明快な三部構成なのでとにかく聴きやすい。効果的かつ合理的な構造もラヴェルの参照した管弦楽法の大家たるところをよく示す。必要十分、過剰にならないプロフェッショナリズムはやはり五人組作品では珍しい。これはとくにストコフスキーがトスカニーニの高性能オケを使ってこう引き締まってやると集中度の高いドラマティックな演奏になるという証明になっている。今朝の題名のない音楽会でも少し取り上げられていたがストコフスキーが譜面操作も厭わなかったのは、より合理的で効果的な音楽を目しただけで、そこにグダグダな気分のロマンティシズムはないのである。録音状態は厳しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:ロシアの復活祭序曲,ロザンタール指揮パリ国立歌劇場管弦楽団(Ades/Universal)1957-59・CD,,チャイコフスキーと共通の主題が使われたりなど国民楽派の色濃い曲だが、この後期ロマン派音楽をロザンタールはドガシャーンドガシャーンと、まさにロシアのお祭りを国民楽派ふうに演奏し立派に聴かせる。やかましいのは曲のせい、フランス音楽からこれに立ち戻ると飽きてしまうのも曲のせい、そこは堪えて。立体的で曖昧さのない組物として聴くと、一本一本に野太さが要求され、そうしないとボリュームの出ない古い曲であることはわかる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:歌劇「サトコ」〜抜粋,◯エリアスベルク指揮レニングラード交響楽団(ペテルブルグ放送)1963?,,派手な響きだがメリク・パシャーエフのように集中力を程よく保ってオリエンタルな音画を魅せる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:歌劇「サルタン王」〜熊蜂の飛行,アンゲルブレシュト指揮パドルー管弦楽団(PATHE/SLS他)1929・CD,,個々の楽器の機能をみせつけるためだけの曲だが、そこまでせっつくような感じはなくきちんと構築されている。構造的な箇所も明瞭にとらえられているのは音色的な意味も含め楽団の性向によるものか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:歌劇「サルタン王」〜熊蜂の飛行,ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(ODEON)SP,,アンゲルブレシュトが29年録音だからほぼ同時期か。瑞々しい音が捉えられ、リズミカルかつ明るく軽やかなフランス風の雰囲気を楽しめる。オケが意外と言っては失礼だが巧く、弦楽器から木管にいたるまで表現の隙きがない。途切れない。短いがピエルネの良いところが出ている。スペイン奇想曲の穴埋めに収録(そちらは目下一面しか入手していない、これはわりと市場に出るので待つ)。,,ちなみに割れて届いたSPをアロンアルファでくっつけてなんとか聴いた。カラフルな音色が聴こえるほど状態が良いのに剥離二箇所で飛ぶのが口惜しい。割れ目ノイズは回転数の早いレコードなので小さなプチ程度。ちなみにアロンアルファを盤面にうっかり付けると白くなるので注意。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
リムスキー・コルサコフ:歌劇「サルタン王」?くまんばちの飛行,ロザンタール指揮パリ国立歌劇場管弦楽団(Ades/Universal)1957-59・CD,,スマートさがなくゴージャス過ぎて、ちょっと重い。くまんばちじゃなくヘリコプターの飛行が華麗に描かれた演奏か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:歌劇「金鶏」〜行進曲,ル・コント指揮フランス国立放送リリック管弦楽団他(STEF)live・CD,,リムスキーの殆どが苦手な私であるが、内容的なもの抜きで音だけで勝負したらとても後輩チャイコに敵わないと思うのは私だけではなかったのだろう、リムスキー自身の嫉妬心は諸所に現れていたといわれる(但し始終対立関係ではなかった)。管弦楽の絢爛たる部分は圧倒的ではある、しかし和声的には閉塞感が否めない。ロシアものが陥りがちな穴にこの人もまた落ちていた。歌劇となるとそこに言葉の壁と曲の長さという問題が加わる。いったいこの歌劇、日本でもわりとやられているほうだと思うのだが、どれだけの人が親しんでいると断言できるのだろうか。じっさい、記載名称「行進曲」なのにバリトン歌唱が加わっていることについて、どう考えたらいいのだろう?演奏は曲に引っ張られているのか、そもそも歌劇演奏の抜粋なのか(後者だろう)荒い。非常に聴きづらく、派手なのに退屈だ。音響的な新しさ、リムスキー節の発露、それらが3パーセントくらいはあるものの、97パーセントは退屈でできているようにすら感じた。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:交響曲第1番,ハイキン指揮,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:交響曲第2番「アンタール」,○コッポラ指揮パリ音楽院管弦楽団(gramophone)1933/3/15・SP,,リムスキーがこの曲を一気に書きあげたとき、ボロディンは2番シンフォニーやイーゴリ公に取り掛かっており、ムソルグスキーは結婚を書きかけていたと記している。まさにクーチカが偉大な作品を生み出しつつあった中でリムスキーはむしろ後塵を拝したような形であったようにも見える。当時聴いた「ローエングリン」への挑戦的な態度を示しつつ、実はワグナーのほうが先をいっていたのだ、と述懐しているが、前衛と言えるような和声上の冒険、オリエンタリズムをふんだんに盛り込んだアンタール(初期において交響曲とされたが後年自身で内容から交響組曲として編んだ)について自身でほとんど触れていないのは、霊感の差を感じてのことかもしれない。確かにシェヘラザードや禿山の編曲を彷彿とさせる煌びやかな管弦楽法が駆使されてはいるものの、交響曲としても叙事詩としても構成感に欠け冗長であり、まとめるさいには演奏者による積極的解釈が求められる。現在もあまり演奏されない。,,同演奏は(しかしながら)世紀初頭までパリにてもてはやされた同曲の最初期の録音になる。煌びやかな響きと古めかしい奏法が魅力的に聞こえるが、コッポラの颯爽として緩まない棒によって素っ気無いほどにまっすぐ進められていく。このコッポラのやり方は同曲に限ったものではなくある程度収録時間制約を前提とした録音媒体ありきの表現であった可能性は高いが、この曲のようなちょっとだらだらとしたものには向いているかもしれない。なにぶん編成を絞って無理にラッパに吹き込んだものなので曲の内包する開放的で派手な魅力はほとんど伝わらないし、下手とも聞こえてしまうところがあるが、いくぶんの想像力をもってホール残響を脳内添加して聴くと違って聞こえるかもしれない。○。,,"※こちらより1楽章を聴くことができます",http://www.youtube.com/watch?v=kVnTovOWXas,-----,,,-----,,,-----,,
リムスキー・コルサコフ:交響曲第2番「アンタール」,○スヴェトラーノフ指揮ハーグ・フィル(RO)1992-3LIVE・CD,,リムスキーが表題性の強さからのちに管弦楽組曲として短く編み直し交響曲の名を取り去ったことでよく知られ、戦前は演奏機会も多かったという作品。確かにリムスキーは形式音楽として交響曲をはっきり分けていたため、このシェヘラザードの姉妹作のようなオリエンタルで描写的な内容では処仕方として妥当であったと思われる。グリエールがのちにイリヤ・ムーロメッツでほぼ似た楽想をより西欧的な充実した書法で大成しているので、布石としての位置付けできくとわかりやすいかもしれない(グリエールはここに聞かれる程ボロディン的な露骨な主題はもちいなかったが)。楽想がやや貧困でそのわりに「隠喩的な」部分の長ながしく浅い曲ゆえ、演奏方の構造的な料理の仕方が要になってくるが、得意としていたはずのスヴェトラも年令とオケの違いが影響していると言うべきか、かなり引いた「壮大な」演奏ぶりで、旋律をゆっくりしたインテンポの上にひたすら流していく感はいなめず、ブラスとパーカスだけが押しの強さで無理矢理派手を煽り牽引している感は否めない。響きの空疎さはこのころのスヴェトラの国民楽派の演奏によく聞かれたもので珍しくはないが、とくにオケの個性が影響していることは確かだろう。4楽章の低弦からの色めきだった主題提示まではさしたる盛り上がりもなく、清澄な響きの灰汁抜きされた美しさだけが耳に残る。ロシア国民楽派の民族性が苦手な向きにはおすすめ。ブロッホやスークの表題付きシンフォニーの演奏もだいたいこんな感じだったなあ。拍手もおだやか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:交響曲第2番「アンタール」,スヴェトラーノフ指揮ハーグ・フィル(RO,VSB)LIVE・CD カロリーの低い音楽だ。リムスキーのエキゾチシズムのもっともよく出た曲としてシェヘラザードと並んで有名な曲だが、長く、うすーく茫洋として、たいした起伏も無く終わっていく。のちに組曲として編み直されているが、それもわかるような感じである。しかもオケがハーグだからかつて爆演を残したスヴェトラーノフをもってしてもカロリーの低さは補えない。純音楽的指向でやるとこの曲は絶対失敗する。プラスαがないとリムスキーはけっこう曲にならない。じつにあっけなく4つの楽章が流れ、美しくも大した反応もなく、私もほとんど心動かされなかった。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:交響曲第3番(1866/73/86),ガウク指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(HERIOD)LPとても退屈な曲。繰り言のように繰り返される旋律はシェヘラザードのような霊感に満ちた標題付きの楽曲と同じ人が書いたとはとても思えない凡庸なものばかり。単調で底の浅いオーケストレーションは聴く気をなくす。下手なグラズノフ、と言うとしっくりくる。チャイコとは比ぶべくもない。ロシアの作曲家にとって交響曲とは特別の意味を持つものであり、円熟した作曲技法を華々しく見せ付ける記念碑的なものである。リムスキーはなぜかここでは純粋にクラシカルなたとえばブラームスのような交響曲を目指しているようなところがあり、普段はオリエンタリズムをふんだんに盛り込んだ派手な管弦楽で当時としては最先端の音楽を書いていた手前、むしろ逆にアカデミズムを意識した中欧的な手堅い作品を仕上げる事によって「いざとなればこういう作品も書けるんだ!」的なものを示したかったのではないかと思う。それは結果として枝葉末節の華美さを誇るリムスキーの個性そのものを大きく削いでしまうことになったのである。後期ロマン派のロシア音楽はアマチュア日曜作曲家の手によって育てられてきた。リムスキーもその一人、純粋な専業作曲家ではなかった。そこにコンプレックスのカケラを見出すのはそれほど難しいことではない。そしてそのアカデミックなスタイルで書かれたこのような作品を聴くにつけ、ああ、やっぱり偉大なるアマチュアだったのかな、と思う。ガウクですらここまで単調な演奏しかできないのだから、他の指揮者は推して知るべし。無印。よーく聞けばボロディンとチャイコを足してグラズノフをかけたような音楽が見えてくるといえば見えてきます。見えてくるだけですが。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リムスキー・コルサコフ:交響曲第3番「アンタール」〜UVW,○コッポラ指揮パリ音楽院管弦楽団(GRAMOPHONE)SP,,全曲録音していると思うが未確認。散漫でのっぺりした感もある曲を瑞々しく明瞭なロシア音楽としてわりと派でめに演奏しているがロシア流儀とはあきらかに異なり、色彩性を除けば西欧的なまとまった演奏になっている。立派な交響曲録音ではあるのだが。SP録音の編成規模への制約が背後にあることは確かだ。オリエンタリズムの粋のみを取り出して聞かせどころを固めてくれた、そんな演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リムスキー・コルサコフ:交響組曲「シェヘラザード」,◯ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(FKM:CD-R)1962/2/6live,,ホワイトノイズが多いが音は明晰でステレオ。デロデロなのだがそれが最も際立つのはやはり三楽章。ストコの手綱さばきもなかなかのものでフィラ管を自由自在に動かして極限の伸び縮み歌を聴かせている。弦のアンサンブルがこれで崩れないのはすごい。解釈が行き届き過ぎている。ストコの掌中に戻ったフィラ管のパワーを魅せつけるのに最も適した曲、四楽章冒頭の異常な迫力から、ストコここにありというような音楽の洪水を楽しみましょう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リャードフ:キキモラ,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1946/1/13live,,ヘンゼルとグレーテル及びプロコの古典の中プロとして挿入された演奏。恐らく既出盤と同じ。楽曲は「中央アジアの平原にて」かリムスキーかといった旋律表現がいつしか鉄琴のかもすリリシズムの中に完全に旋律性をうしないまさに「印象派的な描写音楽」と化していくさまが独自性をはなっている。五人組の中でも先鋭性においてかつてはかなり人気のあった人で、こういった新しい音を提供したという意味でフランスのラヴェル世代には人気を博していた。トスカニーニはやや渋く引き締まった表現をするものの音響的には非常に繊細な配慮も忘れない。すっと聞けてしまう爽やかさはデロデロのド演歌になりがちなロシア国民楽派音楽の演奏様式としてけっこう必要な要素だと思う。録音が少し悪いが○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リャードフ:キキモラ(編曲),○エリアスベルク指揮アンドレーエフ管弦楽団(ロシア民族楽器オーケストラ)(melodiya)1950・LP,,キキモラをバラライカで、という奇妙な盤なのだが、リャードフの気色悪さがわりと出ていて、続く火の鳥よりは地味だが、それなりに楽しめる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リャードフ:ババ・ヤガー,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC)1959/4/21LIVE〜リャードフはリムスキーを師としプロコフィエフ、ミャスコフスキーを弟子としたロシア国民楽派の最後のひとり。つまり過渡的な世代のひとりだったということだ。民話に拠ったいくつかの交響詩で知られ、この短い曲は中でもとくに有名なものである。まずもってこの曲にはリムスキーの”音感”を感じる。技法的にもその痕跡ははっきり示されている。リムスキーを濾過して出てきたワグナーの影響を指摘することもできよう。しかし、より印象派的というか、主題が朧げで、あまりはっきりしない。装飾音的なものの集積だ。ここで思い出すのはストラヴィンスキー初期の「花火」。もっともあちらのほうが清新ではあるが。。手垢のついた響き、古臭い民族臭、でもこれでも20世紀の作品なのだ。滑稽な終わりかたが個人的には好き。そんなところか。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リャードフ:交響詩「キキモラ」,○アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(DECCA)1954/5/14-28・CD,,ステレオ。コテコテのロシア国民楽派のそれも典型的なバラキレフ・クーチカ一派の音楽なのだが、ボロディンのように整理された単純さに対して響きと動きの非論理的な展開が幻想的な音響世界を呼び込み、リムスキーよりも更に現代的な、かなりフランス派に近い世界に音楽を持っていっている。案外トリッキーなリズム処理をアンセルメが鮮やかに民族的な荒さすら持ち込んで表現しているさまは、これが最初こそロシアのアマチュアリズムの延長上の民族音楽であるものの、最後にはルーセルなどフランス派の民族という枠を越えた純粋に音楽的進化を目指した世界に近づいているように聞こえる。妖怪を主題としたメルヒェンの、生々しい描写性はラヴェルにもストラヴィンスキーにもつながるところである。録音がやや古い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リャードフ:交響詩「キキモラ」,○コーツ指揮交響楽団(PRSC/HMV)1921-24・SP,,PRISTINEが集成復刻配信している。エイコーラーの主題の奇怪な変奏から実に新しいひびきの音楽が展開されてゆき、リムスキーより繊細でムソルグスキーより軽い。デュカスあたりが書きそうなコメディーだ。コーツの録音のような古い音だからこそ、時代様式というか、少なくとも、いま同じ譜面を音にしてもこういうおかしみは出ないだろう。しかし妖怪的な音楽である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リャードフ:交響詩「ババ・ヤガー」,マルコ指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI/sls)1948/2/14,,これは曲が短くてキッパリしているのでマルコ特有の甘さが出ないで良い。ロシア国民楽派の佳品。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リャードフ:交響詩「魔の湖」,○コンドラシン指揮NHK交響楽団(KING、NHK)1980/1/16live・CD,,まるきりフランス印象派の先駆たるリャードフの名作だが、色彩的できらびやか、かつ清潔な美観をきちんと調え多芸ぶりをみせている。コンドラシンはドビュッシーやラヴェルもよくしたが晩年にきて過度な操作を加えることなく作品の繊細さを引き出す演奏をしばしば行った。もはやホルストすら想起する清潔さに目を見張る。なかなか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リャードフ:交響詩「魔法にかけられた湖」,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(Guild)1953/12/23・CD,,ロシア国民楽派の前衛を張った隠れた立役者であるリャードフの、とくに驚異的な曲で和声的にもディーリアスらの現代的なひびきを先取りしている。そしてバルビはなかなか巧くその音響とハーモニーの特有さを引き出していて、世紀末的なロマンチシズムとともに妖しくしかし感傷的に紡ぎあげている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リャトシンスキー:交響曲第3番,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC)1955/12/29LIVE・CD な、なんじゃこりゃあ。。フレンニコフ風かと思ったらドロドロの世紀末節じゃん(一部モダニズム)。奇矯な音響の不格好な配列。オーケストレーションもやたらブラスが鳴ってなんだかワンパターンというか、下手というか・・・でもこれって作曲家56歳の作品なんですよね(しかも3年後に改訂している)。よかったのは2楽章アンダンテ・コン・モート。もともとしーんと静まり返った所に鉄琴が響くような「惑星」的な音楽が好きな私はけっこう気に入った。でも12分は長いな。。4楽章は1楽章の「一休さん」音形(聞けば分かる)が復活して、祝祭的気分に脱皮するのかと思いきや、旋律がよくわからない繰り言を繰り返しだす始末。リヒャルトの影響を受けているのは明白だが、ソヴィエトの作曲家によくあるカンチガイモードに入ってしまったふう。オケの艶な音色に救われている。第二次大戦が影を落としていると言われれば思いっきり落としているように聞こえる。40分近くもの不格好な交響曲、機会があればお試しを。保証はしません。演奏は立派だけど、無印。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リャプノフ:交響曲第1番,ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)LP,,ステレオ。だが・・・ステレオだからこそ、グズグズの演奏ぶりが露骨に聴こえてしまう。曲はリムスキーやボロディンの気配もするがおおむねグラズノフ風の渋いものであり、長々しく非構造的で余り上手ではない感のある楽曲になっており、演奏者が如何に料理するかで印象が大きく変わるたぐいのものだが、とにかく木管を中心としてオケの統率がなっておらず、音程すら悪く感じられ、どうにも聞いていられない箇所が多い。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リャプノフ:交響曲第1番,スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(MELODIYA)1986live〜ロシア国民楽派の流れを汲み、バラキレフの直系にあたる作曲家だ。この曲はボロディン的な部分とバラキレフ的な部分がある。特徴的なところはでろでろのロシア節にもかかわらず、常に清潔な趣を持っているところだ。これはスヴェトラーノフ・ロシアの好演に依るところも大きい。グラズノフなどと比べてあきらかに聞きおとりのする、没個性なところは好悪分かつだろうが、全体的に気持ち良く聴ける曲である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リャプノフ:交響曲第2番,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)1969LIVE新録音の印象を前に書いた。さて、ロシアオケによる旧録である。聴きとおして思った。・・・これ、あきらかにボロディンです。前はワグナー系の音楽という印象が強かったのだが、このかなり充実したロシアオケでのライヴを聴く限りは、実直なほど国民楽派、それもボロディンに依っており、書法的にはグラズノフの後期交響曲の影響も明瞭に感じられる。こちらから先に聞けば国民楽派の末裔リャプノフのイメージしか残らなかったろう。形式的にも肥大傾向にはあるがしっかりしており、前記のスクリアビン云々の影響はハッキリ言ってまったく感じられない。せいぜい緩徐楽章の3楽章にワグナー的な法悦性がわずかに汲み取られるくらいで、でも和声的には全く冒険がないから更に薄い感じもする。清澄な単純な響きを指向する点はリャプノフの個性として認識できるし、そこに現代性が感じられるから全てがたとえばバラキレフのような古臭い国民楽派に倣ったものではないと言い切れるが、ちょっと私は買い被りすぎていた。スヴェトラーノフの力感溢れる表現はライヴにも関わらず弛緩もなく水際立っている。非常に集中力が高い。弦楽器などかなり巧緻だ。そこで救われているとも言えるかもしれない。拍手はふつう。○。リムスキーの影響もそういえば殆ど感じられなかった・・・不思議なもんだ。ソヴィエト・アカデミック交響楽団という名義になっている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リャプノフ:交響曲第2番,○スヴェトラーノフ指揮フランス放送フィル管弦楽団(naive,INA)1998/11/27LIVEこの曲は1917年に作曲されたが初演は34年後ムラヴィンスキー/レニングラード・フィルによって行われた。五人組やチャイコフスキーの流れを汲みそこに「世紀末音楽」要素(ワグナーを始祖としリムスキーやスクリアビンによって「翻案」された爛熟スタイル)をふんだんに、しかしとてもスマートに取り込んだこの曲は、今でこそリャプノフ畢生の大作とされるが、革命前後の混乱期には受け容れられ難かったのだろう。じっさい聴いてみると(とくにこの盤が外様の明るいオケによるものであるせいもあるが)タネーエフらに学んだ民族的なものよりも、グリエールの「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)に近いグローバルな流れに沿った末流ロマン派的なものを強く感じる。西欧かぶれの急先鋒スクリアビンの「法悦の詩」の初演が1908年のことだから、グリエールにしろリャプノフにしろその世紀末スタイルに何らかの影響を受けている可能性がある。1859年生まれだから完全に過渡期の作曲家にあたるわけだが(リムスキーが44年生まれ、グラズノフが65年、スクリアビンが72年生まれ)、聴感は新しく、しっかり灰汁抜きされたようなすっきりした響きが支配的で、クセが無いのが癖とも言えそうだが、速い楽章、ここでは2楽章アレグロ・ヴィバーチェなど、リズムが軽やかで浮き立っていて、他に類例の無い作風でなかなか個性的である。ボロディン=リムスキー風のエキゾチシズムに基づいてはいるが更にいっそう洗練された感じで、個性が嫌味にならないのはリャプノフの特質である。それを没個性ととる向きもあるかもしれないが、全体を支配する何か「うすーい」色彩は逆説的に強い個性の発露としてもいいと思う。勿論1楽章など劇的なチャイ4の1楽章とボロディン2番の1楽章の剽窃のような場面が多々あるし、決して国民楽派の流れから外れているわけではない。この演奏はかなりゆったりとした時間が流れスヴェトラーノフ晩年の境地を窺わせる。曲自体がそういう解釈に向いているのか、とても気持ちがよく、のんびり浸りきってしまう。それは「飽き」スレスレなところで、じっさい私も23分におよぶ1楽章などちょっと欠伸が出た(メロディヤ録音では19分)がそれはマイナスなことだとは思わない。スークのアスラエル交響曲やブロッホのイスラエル交響曲の盤に通じる一種透明感があり、自然な流れの中に壮大なスケール感が感じられるのも共通するものだ。ここではフランスのオケにもかかわらずロシア流儀の輪郭のはっきりした演奏に仕上がっているのも着目すべきところで、ペットのあからさまなロシア吹きはかつてのスヴェトラーノフのアクの強い音楽を思い出させてくれる。かといってがっしり骨太の演奏というわけではなく、絶妙のバランスを保ったすこぶる耳障りのよい演奏だ。演奏精度は非常に高く、フランスオケらしくない。ライヴでこれとは、なかなか巧いオケと評すべきだろう。音色はやや軽いが、曲との相性はいい。終演後の壮絶なブラヴォーに感慨をおぼえる。こういう反応を引き起こす指揮者はもういなくなってしまった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リャプノフ:交響曲第2番,◎ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MELODIYA/BMG)1950/12/28・CD初演直後のスタジオ録音とのこと。これの初演をスヴェトラーノフとしているものがあるが、年代からスヴェトラーノフは若すぎるし、ムラヴィンスキーが発掘初演したと考えるのが妥当だろう。ロシア革命の年に国民楽派への熱い想いを込めて1年をかけて作曲されたというリャプ2だが、ムラヴィンスキーで聞くとまた趣が違う。ここには非常に目の詰まったぎゅっと凝縮された音楽があり、録音に難はあるものの、とくに弦楽器のめまぐるしい動きがほぼ完璧に表現し切られていることに驚かされる。あまり弦楽器の特性を考慮しないピアニスト作曲家の典型のようなところがあるのだが、レニフィルの弦奏者は部分的には多少必死さが出てはいるものの凄まじい技巧を駆使してトリッキーな場面を乗り切っている。ヴァイオリンが薄く聞こえるなど音響的な不格好さは悪い録音のせいだろう。スタジオ録音と言いながらぷつぷつ雑音が最初から入っているし、30年代の録音のようなセピア色のモノラル録音は返す返すも残念だ。速い速度で颯爽と飛ばすムラヴィンスキーの解釈は膨張しがちな曲をシェイプアップして構造的な面白さを浮き彫りにしている。こういうきちんと弾き切った演奏で聞くと、楽曲の特異性がよくわかる。これはロシア国民楽派の皮を被った世紀末音楽であり、根底にはあきらかに長大なワグナー作品への憧憬が存在している。それゆえしばしば民族音楽的な要素を覆い隠すように半音階的で生ぬるい黄昏時のようなパッセージが鳴り響く。ディーリアスが好きな人は案外聞き込めるかもしれない。多様な、雑多な要素をごっちゃに混ぜ込んで作り上げられたきわめて20世紀的な交響曲と言える。ムラヴィンスキーのシャープな指揮ですっきり聴きましょう。これを◎にしない手はない。凄演。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
リャプノフ:交響詩「ジェラゾーヴァ・ヴォーラ」,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)LP,,ステレオ。リムスキー風のオリエンタルな曲で、極めて色彩的で単線的な取り止めの無いところがいかにもシェヘラザードを彷彿とさせる。表面的な幻想性の強いムードに対してガウクはフランスものやレスピーギで見せた意外と適性あるところを見せていて、美しくもわくわくさせるような楽しい演奏にまとめている。作品的には凡作だが、○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リリ・ブーランジェ:詩篇第129番,◎ナディア・ブーランジェ指揮ボストン交響楽団、ニューイングランド音楽院合唱団他(SLS)1962/4/19ボストンシンフォニーホールlive,,夭折した妹の作品、聖書からの詩篇を三曲おさめたCD-R。陳腐ともとれる詩を重厚な管弦楽と適切なソロ&合唱によってドラマティックに盛り上げ、崇高に〆る。その和声や楽器法にはこの人がオネゲルに与えた影響をはっきり認めることができる。知らないで聴くとオネゲルのオラトリオと錯覚するかもしれない。ただドビュッシーや初期ストラヴィンスキーを思わせる所もあり、時代性が伺える。円熟しきった書法はおなじく重厚な作風を持っていたフローラン・シュミットとは対照的にしっかり完成されたもので、その夭折を惜しまずにはおれない。姉の指揮はしっかりしたもので、楽団や合唱(指揮は別)への統制がびしっときいており、変に生臭さがなく曲そのものの価値を問うてくる。モノラルなのが惜しまれるが、この名指導者の代表的指揮記録と言ってもいいのではないか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
リリ・ブーランジェ:夜想曲(3つの小品より第一曲、作曲年不明),ナディア・ブーランジェ(p)イヴォンヌ・アストリュック(Vn)MALIBRAN MUSIC他 フランクの土台にドビュッシーのリリシズムを盛り込んで、明るく素直な抒情をうたったリリ・ブーランジェは、女性として初のローマ賞をえながらも(1913年の“ファウストとヘレン”)20代半ばにして夭折した。彼女についてはドビュッシーをはじめとして同時代のフランス楽壇に惜しむ声大きく、姉ナディア・ブーランジェは以後作曲の筆を折り、名教師としてコープランドら二十世紀の作曲家を育て上げる傍ら、師フォーレのレクイエムをはじめとする同時代作品の指揮に専念した。作曲の才溢れる妹のあとそれより才能の劣る自分がなぜ作曲を続けられよう、といった話しは有名である。この小品はヴァイオリン曲としてしられる唯一のものといってよい。透明な憂愁を謡う冒頭からフランクの有名なソナタを彷彿とさせながらも、後半がらりと変わってスペイン風の明るい表情を振り撒き無邪気に終わる。尖鋭さや目を見張る技術といったものは聞き取れないかもしれないが、旋律の才とある種の感傷を産み出すことのできる雰囲気をもっていることは誰しも認めざるをえないだろう。この古い盤は姉ナディアのピアノと往年の名ヴァイオリニスト、イヴォンヌ・アストリュックによる昭和5年のコロムビア録音だ。アストリュックについてはフランス六人組作品の初演者として名を留めているが、この時代にしては珍しい程の括目すべき技巧もさることながら、かつてのフランス奏法のなごりを留める音色感に魅力をもった立派なソリストだ。ミヨーの楽曲(春のコンチェルティーノ)で彼女の演奏に触れた向きも多いのではないか。きっぱりとしたボウイングの切る明瞭なリズムの上で、むねのうちに留めておくのが難しいほど懐かしくも輝かしい趣を含蓄する音が紡がれていく。あからさまな感情表現は無いものの、すんなりと聴きすすめるうちに知らずぐいぐいと引っ張り込まれてゆく。もっと大曲を入れておいてほしかった実力有る演奏家だ。カペー四重奏団との演奏及びパリ音楽院での教職活動で有名な「もっと往年」のピアニスト、マルセル・シャムピと大正9年に結婚。MALIBRAN盤はシャムピとの録音(グリーグのソナタ)をメインにしている。(シャムピの弟子にはイヴォンヌ・ロリオ、メニューヒンの兄妹などがいる。)ナディア・ブーランジェは感傷を表現することが決して無いから、この想いで深い作品についてもさらりと客観的に弾いているようだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ルイエ:オーボエ三重奏曲,○イヴリン・バルビローリ(ロスウェル)(OB)J.バルビローリ(Vc)D.ケネディ(2Vn)(BS)1941/1(バルビローリ夫人の私的録音) ,,完全にこのサイトの趣旨から外れるバロック曲だがポッパーとともに録音されたものなので一応記録として書いておく。しかしむしろこの私的録音ではこちらのほうが聴きもので、イヴリン夫人の若々しい表現が素晴らしい。この人はほんと、立派なソリストである。くらべバルビは余技の範囲といったところか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ルー・ハリスン:ジャワのガムランを伴うヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲,ミルス・カレッジ・ガムラン・アンサンブルほか、ウィリアム・ウィナント及びルー・ハリスン:ゴング(M&A)1990初出 ルー・ハリスンが亡くなったので、記念に買ってみた。ガムランを使用した割合と親しみやすい曲を作っていた人だが、ここでもメシアンのような複雑怪奇な音楽になる「前の」素朴なアンサンブルが聞き取れる。ミヨー「男とその欲望」、その他ストラヴィンスキーの諸作をほうふつとさせる聴感だが、アメリカの気のいいおっちゃんの音楽としてはなかなかいい。こういうものが聴きたくなる午後がある。気持ちのいい聴後感。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ルー・ハリソン:ヴァイオリン、ピアノと管弦楽のための小組曲,◎アナヒド・エイジュミアン(Vn)マロ・エイジュミアン(P)ストコフスキ指揮彼のオーケストラ(CRI他)1952/10/29-31・CD,,この作曲家といえばガムランだがこの曲はまさにガムランを昇華させた素晴らしく爽やかな組曲で、特筆すべきは(ミニマル的に繰り返される楽章はともかく)メロディの親しみやすさと巧みに組み合わせを変え響きの面白みを追求するアンサンブル(ピアノと高音打楽器とハープとチェンバロ?がそれぞれ場面を変えたち現れ木管ソロなどと重なるのがまた透明感ある不思議な世界をかもす)に最後まで耳を奪われる。ガムランといえばドビュッシーだがドビュッシイズムの遠い継承者という印象を持つ緩徐楽章の典雅な響きも特筆すべきだろう。長い音符を多用する点ルーセル前期に近い気もするが印象はドビュッシーのほうに近い。ま、とにかく冒頭序曲のいきなりの明るいガムランに圧倒される。アメリカのガムランだ。ストコの色彩的な処理がもともと色彩的な楽曲を引き立ててモノラルでも聴きごたえがある。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ルーセンベリ:バレエ組曲「街のオルフェウス」,○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(weitblick)1983/1/14live・CD,,スヴェトラはこういう音楽が好きだったんだよな。アメリカ音楽の大衆性をスウェーデンの風土に同化させたような舞踏音楽で、ルーセンベリらしい作品だけれども、それをまたズシャズシャ楽しそうにやる。決して軽快さはなく激しい音出しが好悪あるとはおもうが、曲を損なっていることは決してない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ルーニング/ウサチェフスキー:テープシコードのためのインカンテイション,○ストコフスキ指揮CBS放送室内管弦楽団(SCC:CD-R)1953/10/25,,放送ライブ。アメリカ現代音楽の紹介番組の中で演奏された一曲。テープや奇抜な電子楽器や、もう何というか古臭い前衛の曲で、マニア以外は、横浜トリエンナーレのどっかでかかってるようかどうかしてしまった音。という印象しかない。声まで入る。ストコフスキー多彩だなあ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ルトスワフスキ:チェインT,作曲家指揮ユンゲ・ドイチェ・フィル(BERLIN classsics) ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ルトスワフスキ:交響曲第1番,○ストコフスキ指揮ワルシャワ国立フィル管弦楽団(PRELUDIO)1959LIVEこのページの対象としてはいささか新しい作曲家すぎるが、こういう音楽は好きなので載せることにした。ミヨーやオネゲルの交響曲に似るか。非調性的な響きの上に調性的な旋律がのっかる交響曲は古くはアイヴズの時代から作られてきたが、ここでは割合と印象的な旋律が使われていて耳を惹く。響きはジョリヴェやメシアンも想起するか?バルトークを想起するのは正当な印象か。とにかく意外なほど聴き易い曲であり、ストコフスキみたいな明快な指揮者に振らせると輪をかけて聴き易い。定石どおり4楽章制でアレグロ、アダージオ、アレグレット、アレグル・ヴィヴァーチェというとても分かり易い構成。決して古くさくはないけれども、新しくも無い。なかなかです。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ルトスワフスキ:交響曲第1番,作曲家指揮ポーランド国営放送交響楽団(EMI)1976-77うーん、もっと情感が欲しいと思うのは私だけ?1楽章はいい旋律を使っているのに、ルーセル3番的な結部へ向けてのまとまりがイマイチのような感じがする。客観的に音を整えすぎているのだ。自作自演にありがちといえばありがち。曲を知りすぎているからこその近視眼的な演奏(?)。2楽章はいきなり「火の鳥」に似たフレーズから始まるが、やはり客観的。そして3、4楽章とどんどん何かわかりにくさを増していく感じがする。曲自体の構成のせいもあるが、ちょっと面白くない。響きもそれほど尖鋭でないだけに耳を惹かない。無印。ストコフスキのライヴのほうがいいな。。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ルトスワフスキ:交響曲第3番,作曲家指揮ベルリン・フィル(PHILIPS)1985/11/3-6・CD ゲンダイキョクです。響きの美しさをひたすら聴きましょう。非常に理知的だがどこかメシアンのように音楽の「楽」の部分を捨て切れてないところがあり、巨視的に見ると古典的な交響曲の流れの上にあるようにも見える。諧謔的にそう書いているのかもしれないが、たとえば終楽章コーダ?のとても美しい高音打楽器の煌きだけの音楽はまったく「音楽的」であり心惹かれるものが大いにある。機能性では世界一のシカゴ響を念頭に置きショルティの手で初演された作品だが、ベルリン・フィルはさすが老舗まったく不安を感じさせない。30分の長さはそれほど長いと感じさせないが、ひとつひとつの音構造やフレーズや音そのものの配置方法はそれだけに着目して聞けば変化に富んで面白いが、それはもはや音楽を聴くという享楽的行為とは離れた純粋な頭の遊びにすぎないのかもしれない。理解するよう努力しないとわからない音楽というのはワタクシ的には音楽じゃない、単なるアートだと思う。このサイトは単なるアートを書くサイトではないので、このへんで終わります。「眠りの空間」とのカップリング。そちらはちょっとカトリックのミサの典礼ふうの歌唱が印象的だったけど・・・基本的にアウト。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ルトスワフスキ:交響的変奏曲,○作曲家指揮スウェーデン放送交響楽団(BIS)1969/3/28LIVE・LP民族音楽のシマノフスキ的変容。ストラウ゛ィンスキーから一気に現代への坂を駆け登る音楽だが、基本に民族主題があるせいか耳馴染みはよく楽しめる。清潔でどこか映画音楽ぽいから現代嫌いにもお勧め。録音はこの時期にしてはいささか悪すぎる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ルトスワフスキ:交響的変奏曲,◎作曲家指揮ポーランド国営放送交響楽団(EMI)1976-77かっこいい曲です。比較的民族色が出ているように感じるのは多分旋律線のせいだと思うのですが、シマノフスキのハルナシ以降の民族的音楽を露骨に彷彿とさせるところがあり、ポーランドの先輩にオマージュを捧げたんだろうか、と思いました。基本的には調性的なのでお勧めです。豊穣な箇所でも硬質な透明感を失わない響きが美しい。演奏もクリアでいいです。ああ、いい曲。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ルトスワフスキ:小組曲(1951年管弦楽版),○フィテルベルク指揮ポーランド国立放送交響楽団(polskie radio)1951ワルシャワlive・CD,,フィテルベルク向きの曲。民族舞曲を中心とした小品集で、異常な音響が耳をつんざきせっかちなテンポが気を煽るなかなかの破壊的名演・・・終曲が凄い。オケが攻撃的で技術もあるゆえに破綻無く楽しめる。マーラーのボヘミア感覚に近い、東欧の民族に根ざした旋律やリズムを使いながら、西側的な普遍性を重視したようなオーケストレーションで、如何にも前時代的なノリがある一方この作曲家の世俗的なものを削ぎ落とした抽象音楽へ昇華させる鋭敏な感覚があざといまでに活きている。無駄の無い、空疎な響きが日和った後のコープランドを思わせる。曲的には一曲目の「笛」がなかなか理知的で面白い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レーウ:古風な楽章,○セル指揮ACO(ACO)1960/12/8・CD,,なかなか聞ける現代曲。ハープの怜悧な美しさが光る前半部からマーラー的な喧騒、少し昔のテレビドラマの香りもするけど、セルの筋肉質の音作りがこうをそうし、皮相にもチャチにも散漫にもならずに十分楽しめるものとなっている。個性もあり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
レーガー:シンフォニエッタ,○ボンガルツ指揮ケルン放送交響楽団(GARNET)1970'・LP,,シンフォニエッタのくせに1時間弱かかるという交響的大蛇。これはもうワグナー/リヒャルト・シュトラウスの申し子たる、ぬるまゆーい雰囲気の長大半音階的音楽(重厚ではない)。弦を中心とする分厚い音響に彩られたフランツ・シュミットの雰囲気に非常に似ているが、そこから魅力的な旋律を取り去って、より構造的に突き詰めたような(時代的には逆だろうが)、いわば交響曲2,3番あたりをながーく引き伸ばしたような作品と言え、レーガーだから緻密で構造的でそういう面白さもあるのだろうけども、一般的な聴衆は一つ一つの要素に拘泥せずにただ聞き流し浸り切ることでのみ価値を見出すことができるたぐいのものと言う事ができるだろう。聞き心地は悪くない(明るく暖かい)ので前記の作曲家群が好きな向きは是非試してみていただきたい佳作である。この演奏はちょっと軽めに仕上げた感じがする。そこが程よいというか、うまく中和的に作用して曲を聞きやすくしている。ハープの典雅な響きなど意外と印象派的な魅力も引き出している。オーケストレーションのせいもあるのかもしれないがオケが割合と薄く、ヴァイオリンが剥き出しになる部分など生音が聞こえてしまうところもあるが、ボンガルツが実に手際よくまとめるおかげで瑕疵と認識しないうちに次の変奏に移行してしまうから、これは棒の力でカバーできていると言っていいだろう。編成はともかく技術的にはかなりいいセンを行っているがケルンだからあたりまえか。ドイツではいい意味で個性の薄いオケだからこその爽やかな肌触りが曲をいい方向に持っていっている。総じて○にしておく。ステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レーガー:ヒラーの主題による変奏曲,コンヴィチュニー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(ETERNA)LP 発想の根幹が擬古典であり、ブラームスにかなり近い作風を持つレーガーは、周到な作風ゆえに隙がなくすんなり聴ける半面、個性の発露が同時代者に比べるとかなり少なくて地味な印象をあたえる。作曲技巧に凝るあまり、個性や独自性に欠けている。清澄なこの曲もテーマはすこぶる古い音楽からとられており、変奏は部分的にモダンだがおおまかには新古典の流れの中からはみでるものではない。リヒャルト・シュトラウス前の現代音楽といった感じ。飽きる。長い。弾いたら面白そうなのはわかるが・・・。コンヴィチュニーは非常に手堅い。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レーガー:モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ,パレー指揮デトロイト交響楽団(melusine)1961live,,,モーツァルトのピアノソナタ11番の有名な主題からの短い変奏を8つ連ねてきっぱりしたフーガで〆た、レーガーにしてはすっきりまとまった20分あまりの曲。連続して演奏される。,,これはモーツァルトの霊感を利用した工芸品で、第八変奏くらいにならないとテクスチュアの複雑さや響きの近代性が明確に表れず、スコアと対照して楽しめる人か、前衛は厭だがネオロマンチシズムは緩すぎるという向きにのみ勧められるものだ。フーガの厚ぼったいオーケストラ、いかにもこの時期の中欧的な響きは、新古典主義好きにアピールするとも思えない。アンサンブルがしっかり構じられ合理的でプレイヤーは楽しいと思うし、この時代ちまたに溢れる狂気じみた音楽に辟易した向きに受容されたのと同じ構造が、今もなお続いているから演奏され続けているのだろう。演奏は技術にすぐれたオケと即物的指揮者によるもので、乾燥してはいるが、ライヴと考えると異様に完成度が高い。モノラルで音は悪い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
レーガー:モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ,ベーム指揮(DOCUMENTS)気持ち悪い曲です(笑)ピアノソナタ11番1楽章の主題がオケで顕れた瞬間びっくりする。後期ロマン派的に、リヒャルト的に変容していく模様もなんとなく座りごこちの悪い感じがしなくはない。演奏は大変に引き締まったすばらしいものだが、古典音楽がいきなり爛熟音楽に乗り変わるような、ラフマニノフの変奏作品を思わせる突然さがある。うーん、最初は面白いが・・・キワモノ。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レーガー:弦楽四重奏曲,◎ブッシュ四重奏団(新星堂EMI)1951/2・CD,,この曲の演奏としては一級のものである。重厚長大頭でっかちのイメージで語られるこの人のスコアをオトにしたとき、軽やかさすら感じる自然な旋律の流れ、清々しく闇の無い純粋な音楽となる、それを皮肉にもゴリゴリの独墺団体があきらかにしている。録音は今一だが。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レーガー:弦楽四重奏曲,シュトループ四重奏団(EMI)1935/5、1938/6・CD,,原盤となっているSPの状態が悪すぎる。SPとパチパチノイズは切っても切り離せない関係にあるが(パチパチを削ったら原音のよさがごっそり損なわれる、かといって削らないと普通の人の耳に耐えない工事現場のような音になる)、ここまでパチパチが入ってしまうとさすがに鑑賞に堪えない。ノイズの中に演奏本体がきわめて明瞭に浮かび上がっていることは認めざるをえず、現代的でそつのない表現解釈に、ドイツ的ではあるがいくぶんイギリス的な柔らかさのある透明な音が載って、地味だが教科書的に聴ける演奏になっていることがわかる。よくも悪くも、といったところが録音復刻にも演奏自体にも言える。この曲はブラームスの延長上にあるが緻密な構造に半音階的進行が絡まり、そこにブルックナー的な現代性をはらむ跳躍的転調が盛り込まれているもので、けして先進的ではないが、ドイツ新古典派の枠内で前衛的な発想にいたったというのはシェーンベルクも同じで、だが違う点として、真面目で学究的だったのが芸術家としてどうか、というところに限界もあったのかと思う。個人的にこの人はロシアのグラズノフとかぶる。この作品は4番に非常に似ている。ただ、グラズノフには和声的冒険はない。レーガーに旋律的天才はない。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
レーガー:弦楽四重奏曲op.109(第4番)〜U,○ヴェンドリンク四重奏団(特典盤)1934・CD,,ディスクユニオンの2007年初春特典盤です(反則?)。SP原盤、状態はさすが、よくありがちな音痩せもない素直な復刻。曲はブルックナーやマーラーが好きならアピールするであろうものでブラームスよりフランツ・シュミットの時代の音楽であることがわかる「スレスレのもの」である。同時代にさかんに録音されている。スケルツォ楽章だが、遊園地の「落下傘」のような音楽、と言えばしっくりくるだろうか。ひたすら半音階的に落下していく音楽、浮上もするけど、どう言ったらいいのだろう、エルガーの交響曲第2番のスケルツォとかグラズノフの交響曲第8番のスケルツォとか、どうかしてるようなぴゅるぴゅるした音楽で、臨時記号の頻発によって旋律線が極限まで歪められている。弾くのはどうかしてるが聴くぶんには楽しいでしょう。演奏はドイツっぽいしっかりしたもの。もっとベートーヴェン的な演奏にしてもいい気もするが、曲想がぴゅるぴゅるしているのでこうなるべきだったのか。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バッハ/レスピーギ:Wachet Auf,ロジンスキ指揮クリーヴランド交響楽団(DA:CD-R)1946/10/27live,,ランドウスカが入ってる?いずれグリーグふうのオーケストレーションを加えられた凡作。イマイチ。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:アダージョと変奏,ロストロポーヴィチ(Vc)ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ・フィル(russian disc)1964/4/20live・CD,,リムスキーの弟子としてぼってりしたワグナー風の大曲を書いていた頃から、ここまで灰汁の抜けた擬古典的作風に至るまで、レスピーギもずいぶん遠回りをしたんだなあと思う。但し、リュート云々の作品とはことなり、ひたすらソリストがかなで続ける透明で優しい曲想も(ロストロポーヴィチは何をやってもやっぱりロストロポーヴィチ!古典的なフレーズもまた上手い、厚く柔らかな倍音をはらんだこの憂愁の音色は他にない)、最後はオケの豊潤なひびきによって大きくロマンティックなものに変わり、イギリス近代のように甘く終わる。短いがたっぷり聞いたような感慨が残るのは、やはりこの奏者たちの力なのだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ヴァイオリンと管弦楽のためのグレゴリオ聖歌風協奏曲,ウーギ(Vn)ロッシ指揮トリノ放送交響楽団(NUOVA ERA)1968LIVE イタリア復古主義の作曲家レスピーギは中世イタリア音楽の要素と民族音楽の要素を掛け合わせたわかりやすく効果的な音楽を作り続けていた。華美流麗なオーケストレーションはともすると甘い旋律とその響きに重点を置いた表層的な印象を与えかねない。しかしこれはこれでイタリア歌劇の伝統のうえに成り立っている作風とも言え、それが表層的かどうかは聴く側の視点の置きようであると思う。この作品はたしかにグレゴリオ聖歌の要素が入っているとはいえ、ブロッホやレーガー、ブゾーニやあるいはヴォーン・ウィリアムズなどの末流ロマン派協奏曲(とくに中欧風の作品になっていることは特筆できる。かつて「劇的交響曲」などワーグナーらの影響を強く受けた作曲家の「別の側面」が顔を出している)の範疇にある作品であり、共通の「旋律性の高さ」「重さ」「心象性」「ベートーヴェン的開放」といった定石を踏み外さないものとなっている。聴き易い。だが個性的かというと疑問で、ソロヴァイオリンもけして凄く難しくないところがまた曲芸的感興をあたえることもなく、この作品を渋い位置に置かざるをえないところがある。録音悪し。キライではないが、無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:グレゴリオ聖歌風協奏曲,○スティーラー(Vn)ボルサムスキー指揮ライプツィヒ放送交響楽団(fr:CD-R/urania)1953,,「噴水」を彷彿とさせる鮮やかな出だしに身を乗り出すが、ロマンティックなくぐもりを内包した音楽に流れてゆき、その重ったるさに胃もたれ30分強(ヴァイオリンという楽器の性質上しょうがないのだが)。ただ、演奏によるところも大きいし、グレゴリオ聖歌よりも民謡を思わせる親しみやすいフレーズが聴かれるところ、あきらかにRVWの作品に近似したものを持っていて清々しい。演奏技術はそう高いものは求められていないが、このソリストはいかにもドイツ風でギリギリ弦に弓を押し付けて単調な音をひたすら聴かせるオケプレイヤータイプ、音色での楽しみはほとんどない。ボルサムスキーは割りと幅広いレパートリー、とくに近現代を録音していた指揮者でここでも重苦しさはあるもののしっかりと音楽を届けさせてはいる。今これを聴く価値があるかどうかは疑問だが、私のようなボルサムスキーファンは持っていても良いか。ボルサムスキーファンが世界に何人いるのか知らないが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:グレゴリオ聖歌風協奏曲,リヒャルツ(Vn)ヘーガー指揮ベルリン市立管弦楽団(DG)1943/4/17,,大戦中のドイツ録音群のひとつだが、録音はこもりがちでイマイチ。同曲の透明感が損なわれている分、ディーリアスの協奏曲に似た印象をもたせる。とにかく長い曲なので単一楽章のディーリアスとは比べられないし、民謡旋律としつこい半音階からなるあの独特の音楽とは異なるのだが、いずれも技巧的な面がそれほど目立たず、響きに重量感がある場面が多く、それがドイツ風の演奏によっていっそう強調された結果似ているように感じさせるのだろう。ソリストには特筆すべきところはない。バックオケはそれなりにやっている。録音マイナス無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ドーリア旋法による弦楽四重奏曲,○スカラ座四重奏団(URANIA)LP どこまでも透き通った美しい曲だ。あきらかに中世の音楽を念頭に置いており、国民楽派的なパッションの迸りはそこここに感じられるものの、それほど民族臭はしない。ヴォーン・ウィリアムズあたりの室内楽の感覚に似ている(直接的な関係はないと思われるが、旋法的な節廻しや和声感など非常に近い)。それゆえ現代的な面白さは少ない。ひびきは美しい(但し独自性は感じられない)がはっきりいって音楽の全容がよく見えないところもある。ひたすら旋律が繰り返されるような感じで、構造的な楽曲が好きな向きはあまり面白くないかもしれない。ただ旋律には独特の付点音符が施されトリッキーで個性的なものがあり、とくにこの楽団のように気合に溢れた団体がやると非常に効果的だ。玄人向けの楽曲だろう。それにしても突然細かい(しかもクセのある)音符が集中してあらわれたり奇矯なところがあり、難しそうだ。この楽団は技術的な問題は皆無で、適度に引き締まった隙の無い美しい演奏を繰り広げている。感情的だが気高い音色が印象的。こういう音は個人的に凄く好きだが今はあまり聞かれないタイプの音。オールドスタイルと言おうか、微妙なポルタメントなどシゲティを彷彿とさせるものがある。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:リュートのための古い歌と舞曲弟3集〜アリア他,○バルビローリ指揮NYP(DOCUMENTS,artone)1938/2/7・CD,,まったくバルビ向きの曲で、パーセルとかRVWの室内合奏とかやっている感じで軽く、僅か感傷的に聴くことができる。編成をしぼっているのかNYPにしては統制もとてもよく行き届き、壮年期の溌剌とした演奏振りは才気煥発といったふうだ。チェロパートソロのフレージングなど後年のどろどろしたうねりは無いものの、さすがチェリストという特有の巧みさを感じさせる。これは私はCD復刻を見たおぼえはないのだが、ひょっとすると協会盤(DUTTON)で復刻されていたかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
レスピーギ:ローマの祭,○プレヴィターリ指揮ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団(PLATZ)1959 曲的には中欧ロマン派的な要素が目立ち、通俗性は否定できない。楽器法的には非凡な創意が見えるものの3部作の中では一番演奏されない作品となっているのも肯ける。この演奏は横方向の流れが重視され縦はそれほど厳格ではない。だからカンタービレの美しさには惹かれるものの茫洋とした演奏といった感想も呼ぶ。あいかわらずプレヴィターリの音は美しいから聴いていてとくに気分が悪いこともない。しいていえば録音が近すぎることくらいか。でも音は明瞭ですこぶる聞き易い。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの祭,トスカニーニ指揮フィラデルフィア管弦楽団(rca)1941/11/19 第一楽章チルチェンセスの途中、弦の半音階的な動きにヴォーン・ウィリアムズっぽい雰囲気が出ていた。どうでもいいことだが。十月祭、主顕祭の強力な表現にはただただ圧倒されるが、ヴァイオリンの表現がちっともイタリアっぽくないことが気になる。イタリア的な「遊び」が欲しい。音質はやや悪か。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの祭り,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(RCA他)1949/12/12・CD,,初演者による演奏というのは言わずもがな、主顕祭の瑞々しい表現といったら。トスカニーニの悪い録音からは伝わらない色彩性がぴしぴしと伝わってくる。ただこの録音、モノラルではありけっして万全なものではない。ただ主顕祭。弦の艶やかさ。この音楽の強さと美しさがトスカニーニNBCの「音が悪い」「篭る」という印象を覆してくれた。それだけである。今の復刻でもかなり音は改善されているというが、それほど原音から手を加えなくてもここまでリムスキー的派手さを再現できるというのは価値がある。○。原盤によってもかなり改善されるようで、そこも確認したうえで購入されるべし。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの松,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(YEDANG)1960/2/3LIVEレスピーギは周知の通りリムスキーの弟子であり、天才的に華美なオーケストレーションはこの曲で最大に引き出されている。ロシア系列の作曲家の曲をロシア陣がやる、というのはちょっと期待させるものがある(ロシアの強力なブラス陣の面目躍如たるパッセージが多数内在されているし)。ガウクはロシア臭の強い指揮者だがその演奏については爆演も行う一方割合と緊密であったりする。このライヴ、終始旋律線を強調し印象派めいた演奏を行うことなく分かり易い音楽を目している。冒頭のボルゲーゼのテンポがややたどたどしくてハラハラしたが、カタコンブあたりの不気味な雰囲気からぐっと引き込むものがあり、ジャニコロにいたっては(録音の悪さが惜しいが)美しい旋律が法悦的な感情を惹起する。やや無遠慮な鳥の声の録音が流されたあと、アッピア街道では(古い録音のせいで今一つ迫力には欠けるが)素晴らしく引き締まった力演を聞かせてくれた。モノラルに向かない曲だし、録音もいいとは言えないが、ガウクに敬意を表して○ひとつ。ブラヴォー拍手あり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○カラヤン指揮ベルリン・フィル(DG)1977-78磨き抜かれたひびきの美しさと節度ある表現の上品さがこの演奏の特徴である。2、3曲めがやや印象に薄い感があるが、サウンドとして聞けば決して看過できるものではない、すばらしいサウンドだ。ベルリン・フィルの田舎びた剛直さからここまで柔らかく透明な音を引き出すことができたカラヤンという存在の特異さを改めて思う。アッピア街道はもう少し派手な盛り上がりが欲しい気もするが、それは下品な人間の趣味なのだろう。瑕疵のない、何度聞いても飽きない演奏である。何よりあけっぴろげに明るいのがよい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○カラヤン指揮ベルリン・フィル(KARNA:CD-R)1984/10/18LIVE,,とてもドイツ臭い重量感あるレスピーギだが、これがまったく、ライヴでこの演奏ぶりというのはまったく凄まじいのであって、生前はそれがカラヤンだから普通だとおもっていたのが、そのじつこんな強烈な力感と充実した響きの威容を誇る非常な完成度のライヴを創り上げる演奏家など滅多にないことに後から気づいた不明である。これはもう余りに重々しく力づくすぎるかもしれないけれど、爽やかなレスピーギの色彩感とは無縁だけれども、異常なブラヴォーの渦に熱狂がしのばれるカラヤンという孤高の究極のひとつのかたちである。このあたりもラジオでやってたなあ、とおもうと時代であるが、海賊盤のかたちであっても当時聞くことの叶わなかった若い世代にこれをつたえることに意味は絶対にある。名演とは言わない、○以上にはしないが、圧倒された。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの松,○ガルデッリ指揮ハンガリー放送管弦楽団(HUNGAROTON)開放的でいかにもイタリアの指揮者らしい色彩感と「やる気」にあふれた演奏だが、オケが技術的に不安をおぼえるところもあるし、音もやや冷たく南欧的雰囲気を損ねている感もある。1楽章は予想を裏切らない楽天的な演奏。2楽章は表現が世俗的であざといようにも思えたが、この曲はそれでいい気もしないでもない。3楽章はソロヴァイオリンが音末を切上げるように弾いているところがラベルのダフクロ終盤を思い起こさせた。感情を煽らず雰囲気を徐々に盛りあげていくところなど印象派的と感じる人もいるかもしれない。最後はロマン派ふうに雄大に盛り上げる。私は好きだが音が重すぎると感じる人もいるかもしれない。全体的にはなかなかの出来である。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○ガルデッリ指揮ロンドン交響楽団(EMI)超廉価2枚組CDで発売中。LPで手にいれたあとそれを知って愕然としました(泣)。イギリスオケの軽量級の音はこの曲に意外に合う。1楽章など特長には欠けるが美麗だ。淡彩のため曲によっては力感に欠ける印象もあるが、3楽章など余りにも美しい音詩に陶然とする。ディーリアスの世界だ。高音打楽器が懐かしい余韻をのこし秀逸、ちょっとホルスト的な神秘の怜悧を秘めた音響である。4楽章はブラスがはじけないのが気になるが(バンダが弱い?)ティンパニがダンダンと気分を高揚させる。ドラやら鈴やら打楽器大活躍、最後にはブラスも力感を取り戻し立派なクライマックスを築く。やや音量変化がぎごちなく大きなクレッシェンドの効果が出ていない感じもするが、最後は壮麗に盛りあがるからいいか。指揮者がいいのだろう、「松」らしい演奏になっており、○ひとつはあげられる。「松」のスタンダード盤として如何。(2003記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○カンテルリ指揮NYP(DA:CD-R)1955/3/27live,,あまりの速さにびっくりしてしまうが、カンテルリにしては雑音が少ないので(細部が潰れているから2,3楽章はイマイチ伝わらない部分もあるが)煌びやかで前進的な、トスカニーニ的とはいえ明らかに若々しく、より細かい構造への鋭敏な対応ぶりとフランス的な冷美な響きへの感覚の存在を感じさせる演奏ぶりが楽しめる。スピードにブラスソロがついていけない部分があっても、やっぱりアッピア街道は盛り上がり、ブラヴォー大喝采となるわけである。ちょっと即物的な感じはあるし録音のせいでスケール感もないが実演の迫力は凄かったのだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの松,○カンテルリ指揮ボストン交響楽団(ASdisc)1954/12/25live噴水とともに演奏されたものだがこちらのほうが聴き易い。悪い録音でも目のさめるような音楽が終始耳を楽しませてくれる。もっとも、同曲どんな演奏でもそれなりに楽しめるほど良く出来た作品だから、たとえばこれと同じ水準の演奏を現代聞きたいと思ったら、けっこう聞けるのではないか、とも思う。まあ、難しい事は置いておいて、素直に楽しもう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○カンテルリ指揮ボストン交響楽団(BSO)1954/12/24LIVEボストン交響楽団自主制作盤ボックスの中の一曲。これ、カンテルリには12/25のライヴというものも残されており、果たして違う演奏なのか、同じではないのか、と思って聴いてみたが、決していい録音ではないものの、音のフォルムは割合とはっきりしていて、キンキンとソリッドに高音が響く感じが25日盤より随分高く、ミックスの違いという可能性も残るものの、いちおう違う演奏であると判断しておく。基本的な解釈は25日盤と変わらないが、原色が破裂しシャンデリアのように響く(響き過ぎて耳が痛い!)ボルケーゼ荘の松は印象的。カタコンブはもう少し陰うつさがほしい。ジャニコロの松ももう少し情感がほしい(鳥の声が作為的・・・仕方ないのだけれども)。アッピア街道は言うことありません。そんなところ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,◎クアドリ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(WESTMINSTER)1950'Sプレヴィターリに比べて派手だがぐだぐだ。でもそこがイタリア人らしくていい。この個性に私は◎をつけたい。この指揮者と縁深いウィーンオケも重量感がある(ウィーンオケの常?としてブラスの技巧がすぐれないが)。クアドリも日本にゆかりが深いそうだが私は初耳。なかなか爆演系の指揮者で、細部はアバウトだが入り易い演奏だと思う。ジャニコロの松の陶酔的な謡いまわしは情緒たっぷりで印象的。色彩変化も鮮やかで美しい。アッピア街道は文字どおり爆演。ブラスがへたろうが構わない圧倒的なクライマックスだ。録音のレンジが広いせいもあろうが(モノラルだが)。面白い。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○ケルテス指揮ロンドン交響楽団(london)CD,,困った。「どこにも欠点が無い」のだ。何を突っ込もうにも、どこにも欠けたところがないのだ。スタンダードで中庸といってもいいが寧ろ端正でかっこいいと言ったほうがいいだろう。たぶんこの曲を知らない人に薦めるのに一番いいたぐいの演奏と思う。どこかケレン味の欲しい人には物足りなかろうがそれでもこの演奏のどこをとっても「欠点が無い」ことには同意していただくしかない。従って◎にはできない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの松,○ケンペ指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団(BMG)1973/12/11live・CDシャンデリアの揺れるような煌めきが印象的。弾むようなリズム感で色彩的にまとめあげた1楽章。録音がやや遠くオケも瑕疵が目立ち精彩に欠けるがまあ、ライブだからこんなもんでしょう。2楽章のしっかり立体的に響く音響には安定感がある。カタコンベの陰欝さはないが聞きやすい。そのままの感覚で3楽章の優しい音楽に入る。この幸福感はケンペならではで映画音楽ギリギリでも美しい。やや重心が低い響きだが悪くない。後半で弦楽器の大きく息づくような抒情旋律が顕れるところなど、余りの香気に咽んでしまう。4楽章も細かいフレージングまで手を抜かない。一部ピッチの狂った楽器があるのが大きく興を削ぐが、ケンペのリヒャルトを振るような威厳のある表現はそれなりに楽しめる。途中譜面に無い凄いダイナミクス変化がつけられているのにびっくり。録音が落ちたのかと思った。構築的で透明感の有る音が印象的な演奏です。あまりいい評価がされていない録音のようですが、○です。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,◎ケンペ指揮ロイヤル・フィル(SCRIBENDUM他)1964/5/22-25・CD明るい。そしてあったかい。あきらかにドイツ系の音作りをする指揮者だけれども、それでもそんなところが存外イギリスのオケにあうのである。イアン・ジョーンズのマスタリングは正直あまり好きではないのだが(変にクリアでささくれだったように感じるのだけれど)これは元のリーダース・ダイジェスト録音がよかったのだろう。60年代のものとしてはこの上ない良好な状態である。この人といったらまずリヒャルト・シュトラウスだそうだが、末流ロマン派作曲家の充実したオーケストレーションを生かしたすこぶる立体的な演奏を行えることの証しである。この演奏ではっとさせられるのはまずは瑞々しいリズムのキレだ。1楽章のウキウキした音楽は本当に楽しい。オーケストラの華やかな響きもこの上なく瑞々しく表現されている。金属質の硝子のように硬質で明るい響きが求められる楽章だがケンペはそんな砥ぎ方整え方はせず人間的な柔らかさを持った響きを創り出している。この曲中では一番陰うつなはずの2楽章はなぜか明るい。というか優しいのである。語り口が巧いのでこういうアプローチもアリだと思わせるものがある。幸福なカタコンベ、ちょっと不思議な感覚だ。3楽章にはそのままの幸せな気分で入るが、この楽章、ケンペの性向にあっているのだろう、同曲中白眉の美しさである。とにかく色彩的で煌びやかだ。ここにはとても素直で穏やかな気分の発露がある。録音がいいせいかいくぶんリアルな夕暮れの風景といった感じだ。ただここで余りに存在感のある演奏を行ってしまったがために4楽章は既に頂点に来てから始まってしまうような感じがあり、クライマックスへ向けて進軍するローマ軍の行進というより、ただ騒々しいフィナーレといった感じが拭えない。それでも迫力はあるのだが。ケンペの紡ぐ華麗な音楽は幾分オリエンタルな趣を内包し、レスピーギの師匠リムスキーの後香を嗅ぐ思いだ。このオケ、フィルハーモニア管かと思うくらいに素晴らしい技術と感性を発揮していて、とくに管楽器群の巧さには舌を巻く。ただ、2楽章で遠くからひびくペットソロに始まり、とくに4楽章、ブラスの一部(バンダだけか?)のピッチが低い感じがする。マイクからの距離のせいでずれて聞こえてくるのかもしれないし、ひょっとすると和声的な整合性を計算しての微妙な音程操作がクリアな録音のせいで逆方向に働いた結果かとも思う。あまり指摘する人がいないので私だけの妄想的感想かもしれない。だがこれはチューリッヒのライヴでも同じ感想を持ったので、あながち妄想とは言えないような気もするのだが、小さい事なのでいいです(でもこの完成度の高い演奏の中では目立った)。全般、カラッと乾いた南欧的な明るさが持ち味の「松」という曲に対して、紫外線を感じさせないというか、ちょっと生ぬるい湿度のある明るさを通した演奏であり、その意味では特異である。中欧の指揮者のやる構造的でがしっとした重い演奏とももちろん違う。ケンペ独自の境地だろう。ここには生身の人間の暖かさがあり、音楽の生き生きした脈動がある。音楽が生きている。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○コッポラ指揮パリ音楽院管弦楽団(Gramophone/RICHTHOFEN:CD-R)1920年代,,有名な録音にもかかわらずSPでしか聴けず(盤自体の流通量は多かったが)復刻が待たれていたもの。戦前仏グラモフォンで近代音楽の網羅的録音を使命とされたピエロ・コッポラ(割と近年まで存命)。フランスものはイタリア盤CDでかなり復刻されていたが、同時代にあっても雑味も厭わずただ高速で突き通す、ワンパターンな指揮者として余り評価されていなかったようである。しかしこれは他のSP指揮者のものにも言えることで、収録時間の制約があってそのテンポを取らざるを得なかったという説もある。派手な表現、特にオケの色彩を引き出すことには長けており、ただテンポとリズムが単調なためにドビュッシーのような繊細な音楽には向かなかっただけである。,,従ってこのようなテンポとリズムが単調でも聴けてしまう音楽には非常に向いている。私はこの異様なテンポは好きだし、中間楽章は確かにこの録音状態では是とはしがたいけれども、終楽章の突進はトスカニーニとは違ったスケールの小さな爽快さというか、世俗的な喜びが感じられ、表現の振幅は全然違うけれどもクアドリを彷彿とさせる楽しい音楽になっている。変なケレンがなく、ただスコアの面白みが存分に表現されている。この時代のフランスの弦楽器は確かにちょっと雑過ぎる。しかし、この曲は弦楽器なんかいらないから大丈夫(暴論)。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
レスピーギ:ローマの松,○サージェント指揮ロンドン交響楽団(EVEREST他)スタイリッシュなサージェントの指揮である。アプローチはロマンティックでやや重いもの。録音が鮮やかなので比較的派手な音楽に聞こえるが、解釈的には派手では必ずしもない。面白いのは3楽章で、ドイツ・ロマン派的な旋律の歌い込みが聞かれる。非常に感傷的で余韻がある表現だが少々重め。垢抜けた棒ではあるが、解釈は決して新しくはない。終楽章もイマイチ盛り上がらない。録音がかっこいいので○をつけておくが、オーマンディ的というか、レスピーギの本質的にラテンな感興には欠ける演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○サッカーニ指揮ブダペスト・フィル(Bud.PO)CD,,響きの重心が低いことと金属質な透明感、テンポが比較的落ち着いていることから客観性を感じる。しかし旋律のカンタービレ、特に三楽章、かなり情緒的な揺らぎが聴かれて面白い。陶酔的な表現はこの曲の録音盤では珍しいほうだろう。音色はこの曲向きではないように思えるが全体のバランスのいいオケなので聞きごたえはあり、四楽章など「パシフィック231」かとききまごう重厚さが面白い。迫力がある。音域が高くなると開放的で派手な吹かせかたをするのはイタリアぽいがやや雑味を呼ぶ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの松,○シュヒター指揮NHK交響楽団(king,NHK)1959/11/8放送・CD,,完璧主義者として知られたシュヒターの記録である。私は「日本だから」というようなレッテルをプラスにせよマイナスにせよ貼りつけて評価するのがキライで、これはシュヒターの松であること、たまたま日本の楽団であること、という前提で聴くわけだが、なかなかによく鍛え上げられた演奏、という印象に尽きる。シュヒターの燻し銀の演奏は時にロマンティックな方向にも振れ、そこがチャイコなどでは魅力になるわけだが、ここでもヴィブラートすらかけさせないような(まドイツ式といえばそれまでだけどソリストの「棒吹き」「棒弾き」はちょっと気を削ぐ)厳しい統制があるからこそ、リリカルで透明感漂うセンスに富んだ演奏がなしえているわけである。とくに聴き所は3楽章であろう。逆に、もっと破壊的に、突進する迫力が欲しかったのは4楽章だ。数々の即興的名演が産まれている「アッピア街道」だけに、相対的には「普通」という感じ。シュヒターらしい中庸さと言うこともできるだろう。オケは決してドイツ的な雰囲気が濃いわけではない。ただ、記譜外での音色変化に乏しく、無個性な感が否めない。解釈のせいでもあろう。総じて○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
レスピーギ:ローマの松,○シルヴェストリ指揮ボーンマス交響楽団(bbc)1967/9/20live非常にドビュッシズムの影響の大きい曲であるが、より派手で装飾がかっているのが特色だ。これは古いライヴにもかかわらず瑞々しい音で聞かせる。シルヴェストリが手塩にかけたボーンマス交響楽団は、合奏力にやや難があるし、音の個性にも欠けているが、シルヴェストリのロマンティックな味付けをよく反映した演奏になっておりなかなかどうしてやってくれている。イギリスのオケでこの曲だと、ヴォーン・ウィリアムスのようなどこか鄙びた雰囲気が漂ってしまう場面もあるが(2、3楽章)、それは寧ろ心地よいものといえよう。「アッピア街道の松」ではすがすがしく壮大な行軍描写がいやがおうにも心浮き立たせる。この楽章についてはどんな演奏を聞いてもそれなりに感動してしまうものだが、ライヴであるということが心なしかより迫真性をもって響いているような気にさせる。ブラヴォーが叫ばれる結末。佳演である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(KARNA:CD-R)1999ベルワルドホールLIVE,,晩年のこの人らしくテンポが落ち着きすぎており奏者同志の纏まりもイマイチだが、奔放で軽やかな色彩感、音粒の明瞭な煌びやかさは流石、師匠リムスキーの国の人といった感じである。細かいソリスティックな動きへのこだわりが全体の流れを壊しているものの、逆に細部をたのしめる。しろうと指揮あるいは作曲家指揮者に近い解釈ぶりではあるけれども、健康を害しもう長くない指揮者の、その最後の境地をうかがい知るというところで興味深くも有る。だからニ楽章から三楽章が生きてくるのだ。カタコンブはまったくRVWのように哀しく悠久なるテンポのうえにひびく。地下墓堂に男らしい哀愁が日差しなす。この楽章の歌はやや弱いけれどもそのあとの庭園に場所をうつした三楽章の思い入れのたけを籠めた歌いぶり、陶酔ぶりはソヴィエト時代を思い起こさせる。確かに元々感傷的なロマンチシズムのある楽章だけれどもどこか「ロシアの憂愁」チャイコフスキーの世界を思わせるのは独特だ。この人も作曲家なのだ、ということを思い出しながら直前にきいたカラヤンとの対極ぶりに感慨する。カラヤンは大局的な視点をつねに失わない完全なるプロフェッショナルだったが、スヴェトラはお国柄でもあるアマチュアリスティックな近視眼をハッキリ「両刃の武器」として選んでいた。だから出来には非常にムラがある。豪放にやりっぱなしなところもある、正規のレスピーギなどもキ盤の謗りを受けているゆえんだが、一時代すぎてスウェーデンの実に清涼感溢れる中性的な音で改めてきくと独特の垢抜けた感傷を醸し出していることに気づく。ロシアオケの脂を抜くとこう響く、スヴェトラはロマンティックなフレージングを駆使しながらも音響的な清涼感を意識しつづけ透徹したまなざしを送り続ける。繊細で金属質の響きへの拘りが、ああ、スヴェトラはじつはこういう音がほしかったのだ、国立響の前に確かにそういったものを追っていたふしはあった。いささか鳥が怪鳥的に巨大だが非常に美しく録れているのでこの三楽章は聞きものだ(旧盤でも聞きものではあったのだが・・・それはまったく、寧ろリムスキーの称賛したところのスクリアビンの天上性であった)。キャニオンのラフマニノフ全集に代表される「あの」壮大なスケールはマーラーに顕著だがそれまでのロシア国内オケものとはあきらかに違う方向性を指示している。さあアッピア街道はもうデモーニッシュなスヴェトラの独壇場だ。序奏からして細かく纏めることを拒否している。カラヤンの求心力はこの視点からすると音楽をせせこましくしている。スヴェトラにとってこの楽章はボレロである。それもミュンシュではなくフレイタス・ブランコだ。これはスタイルであり、是非を問うべきものではない、素直に聞くべし。期待と、結末。最晩年様式のテンポに支えられた異常なスケール感は「爆演」という青臭い言葉では断じられまい。オケがオケだけに音の目の詰まり方がややすかすかしており、もっとボリューム感がほしかった気もするがそれはひょっとすると、チェリの晩年と同じ録音の穴かもしれない。テンポはひたすら遅く、重い打音を繰り返し音楽は地面の上をひたすら行軍しつづける。スヴェトラは北の大地の地平線の彼方へと行軍し続ける。北の赤く燃え立つような陽光のなかに、異常に引き伸ばされた終和音の中に、この強大な軍隊は振り返ることなく咆哮し、消えていったのだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの松,○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(weitblick)1999/9/10live・CD,,かつてweb放送され非正規でも話題になったもの。音質やノイズは正規化されているとはいえ放送録音レベル。1楽章はテンポが後ろに引きずられるようで、これに拘泥してしまうと後が楽しめない。先入観のない人向けか。ちょっとストラヴィンスキーのバレエ曲を思わせるソロの踊らせ方をするところはスヴェトラらしい。2楽章はそのテンポと重いリズム、ロマンティックなフレージングが壮大なロマンチシズムにつながり、けしてそういう曲ではないのに納得。3楽章は美しい。白眉だろう。ロマンチシズムが晩年スヴェトラの志向した透明感のある高音偏重の響きとあいまってこの清澄な音楽にとてもあっている。4楽章は賛否だろう。早々とローマ軍が到着してしまいひたすらその隊列を横で見ている感じ。譜面を見ていないのでわからないがクレッシェンドとデクレッシェンドがそれほどの振幅なく、音量的には大きく煌びやかな側面を見せ、最後に、巨大な音符が待っている。ストコに似ているが、ここまで音符を引き伸ばすことはしない。だいたい、ブラスがもたない。ここでは何らかの方策をとっているだろう。この一音だけを聴くための演奏といっても過言ではない。全般、松の新しめの演奏としては面白い、という程度だが、物好きには、音も旧録よりいいし、どうぞ。ちなみに迫力やテンポの速さ等、スヴェトラらしさとエンタメとしての完成度の高さは旧録のほうなので念のため。技術的にはこちら。,,"
レスピーギ:「ローマ三部作」(交響詩「ローマの噴水」、交響詩「ローマの祭り」、交響詩「ローマの松」) スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送響1999
(2011/02/25)
オットリーノ・レスピーギ、 他

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",,<twitter>,・スヴェトラのスウェーデン「松」遅・・・鈍重・・・こういうのが有り難がった時期・・・,・おう、スベトラ先生スウェーデンの、ジャニコロいいじゃん。晩年の清澄な響き、対してたっぷり時間をかけて歌う旋律、カタコンブの巨大洞窟みたいな場違いさが、同じやり方ではあるけど、こっちははまってる。アッピアが声部バラバラでまずかっただけか。鳥鳴きすぎ。,・こんなアッピア街道きいてしまったらアマチュアごときはこの曲二度と演るな!とか思うな。最終音がこの長さで聴けるのはスベトラ先生だけ。スウェーデンSOは上手すぎて、程よく中和しているけど、USSR全盛期のスベトラは凄かったんだ。時代は変わったなあ。,・NHKはスベトラ客演のマーラーとかちゃんとDVDにしてくんないかな。録画録音失敗しまくった。,,"",-----,,,-----
レスピーギ:ローマの松,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya/scribendum)1980/2/20liveレスピーギはじつは苦手だ。いや、小規模な曲に面白い曲があるのは認めるが、このローマ三部作にかんしては、印象派的にぼやけたテーマが、いたずらに効果的なオーケストレーションに染め抜かれている、空虚な作品であるという色メガネを外せないのである。「噴水」はワグナー・師匠リムスキー、そしてドビュッシズムの影響が顕著だし、それほどではないものの後二作はストラヴィンスキーなどを思わせる無個性な楽想が派手なオーケストレイションを加えられている、いわばハッタリ的な音楽に思えてしょうがないのだ。しかし、きょうスヴェトラーノフの「松」を聞いて、じつは感動してしまったのである。とくにアッピア街道の松、ボロディンの「中央アジアの平原にて」にラヴェルの「ボレロ」が加えられたような巨大松葉(クレッシェンド)のおりなす非常に強力な音楽。スヴェトラーノフの繰り出す轟音は我が家のステレオセットの小さなスピーカーを揺るがす。強力なブラスの響きにのって、壮大な音楽の伽藍が構築されていく。いや、これがライヴなのだから凄い。さすがにこれにはブラヴォーの喝采が投げかけられている。素晴らしい演奏であった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(SCC:CD-R)1969/11/24LIVE,,ストコフスキの松は遅い。鈍重でぶよぶよしており、リズムが引き締まらない。響きが雑然としてしまう。中間楽章はロマンチックでいいが(ローマだけに)、とくにアッピア街道の松は息が続かなくなりこけたりバラけたりと、開放感のないなんとも締まらない感がある。早々とクレッシェンドの頂点に達してしまい、そのまま吹かしているような。悪くはないが、よくもない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの松,○ストコフスキ指揮シンフォニー・オブ・ジ・エアー(旧NBC交響楽団)(EMI)1958・CD THE ART OF CONDUCTINGのシリーズ6巻に収録。分離のはっきりしたステレオ録音だが一部モノラルになっているような(ようは一本のマイクしか稼動してない所がある)。譜面には当然のように手が入っているようだし、ブラスにちょっとキビシイ場面があるが、意外なほど正攻法な感じがする。前半これといって気になる作為は感じられなかった。弦、木管は善戦しており、とくに3楽章はストコならではの美しいフレージングの応酬。なかなかロマンティックだ。ロマン派過ぎる気もする。4楽章は割合と自然に響いているけれども、結構耳触りの面白い演奏だ。たぶん手が入っているが、楽器配置も独特で、左から弦、右からブラスと完全に別れている。ピッチが低いのが古風な感じもする。さすが盛り上がりどころはかっこいい。ブラスが充実している。ちょっとアメリカ的な中音域の抜けたスカっとした響きが曲によくマッチしている。後半楽章は面白いので、前半楽章の拙さを割り引いても○はあげられます。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SCC:CD-R他)1960/2/12live,,有名なフィラデルフィア凱旋ライブで盛り上がりもすさまじいが、日本ストコフスキ協会盤LPで舞台上で動く管楽群がよく聞き取れる云々書いていたと思うが、SCC盤のうぶい音でもそれはよくわからない。フィラ管の弦は明るく華々しいがヴィブラートの根があわないような雑味は否定できず、恣意的な三楽章、クレッシェンドが抑え切れない四楽章などいつものこととはいえこの曲の第一には推せない。ただくりかえしになるが音はいい。やる気も。瑕疵が少ないし。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの松,○チェリビダッケ指揮不明(C&R:CD-R)1978live,,演奏様式的に70年代中盤のイギリスでのものか。録音が極端に悪くとても人に薦められる代物ではないが、3楽章の美しさはそれでも伝わってくるものがあり、精力的な音楽作りの中でも後年の精緻さを伺わせる繊細な美観をもったものになっている。なので○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの松,○デ・サーバタ指揮ニューヨーク・フィル(urania)1950/3/12live擬似ステレオ。ヘッドフォンで聞くと気色悪い。ちなみにローマ三部作はやはりおおきなスピーカーで大音量で聴くのがよいらしいことに気が付いた。それにしても録音状態は悪くはないのに、こういう余計な効果を付けられると却って演奏の質が落ちたように感じてしまう。デ・サーバタは颯爽としたスタイリッシュな指揮ぶりだが、アッピア街道の松の結部ではかなりリタルダンドして曲を盛り上げ、すかさず入る熱狂的な聴衆の拍手につなげている。ニューヨーク・フィルは少々粗いところもあるように聞こえたが、総じて楽しめた。佳演である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,◎デュトワ指揮モントリオール交響楽団(london)1982/6このハデな曲にはやっぱり古い録音はダメだ。というわけで現代の名盤の登場である。フランス的抑制がきいているため、もっとやっちゃってほしいのに、という口惜しい場面もままあるが(たとえばアッピア街道の松)、響きの美しさ、交響楽の充実ぶりは比類無いものだ。どんなに陰うつな主題でもけっして重々しくならないし、逆にボルケーゼ荘の松のシャンデリアが揺れるような表現はまったく壮麗で言葉も無いほどすばらしい。これは録音のクリアさのせいでもあることは間違い無い。ここにきて「やっとキたかー」という嘆息が思わずこぼれた。名演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(NBC,TOSHIBA EMI:DVD)1952/3/22LIVE RCA録音1年前のテレビ放送実況録画である。私はあまり映像には興味が無いのだが(実演に興味薄なのもそのへんの感覚)動き額に汗を垂らすトスカニーニの姿は感慨深いものがある。80代とは思えない。じつにしっかり振る指揮者だなあ、と思って見入ってしまう。そういえば遠目にはカラヤンに似てなくもないか。音は貧弱。やはりテレビの音声だから、しっかり録音録りしたRCA盤にはかなわない。高弦や金管が安っぽく聞こえるし、なんとなく微妙に映像とズレているような気がしなくもない。スケール感にも乏しい。やはりこの記録は映像あってのものだろう。爆発的な迫力というものはこれでは望めない。しかし、ライナーにもあったが、「ジャニコロの松」の、繊細で、やさしい響きにはかなり魅了される。トスカニーニのしかめ面、静かな曲なのに同じ調子で大きく振っている、汗も垂らしている、なのにこのやさしいハープのひびき。もともと多分にイマジネイティブで印象的な音楽であるが、他のことをやっていても、この楽章がくると画面を見詰めてしまうのは、もはや説明を超えたトスカニーニの「オーラ」のせいか。続くアッピアはもう独壇場だから、まあ録音のレンジは狭いけれども、画面を見て想像力を膨らませると、この時この場にいられたら、どんなに幸せだったろう、と思われ、いかめしく口を開け歌うように振るトスカニーニの顔が、最後のクライマックスで、古代の英雄的なフリーズに見えてくる。にしてもブラスうまいな・・。すごいっす。音色的にも完璧ですペット。テレビの解説だとこれがトスカニーニ最後のライヴ映像ということだが、たしか最後のライヴ(ステレオ録音だそうで。。)も映像があったのではないか、と思うが、まあいい。高価なボックスですが、「運命」も入ったこの1枚だけのために買ってもいいでしょう。ドビュッシーやシベリウスもあり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの松,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(rca)1953/3/17前にも書いたが私はローマ三部作が苦手である。でも、きょうは”勉強”のためトスカニーニ/NBC盤を5回ほど聞いた。派手なボルケーゼ荘の松とアッピア街道の松については前々から魅了されてはいたのだが、こんかい特にジャニコロの旋律のふりまく切ない独特の美しさにも感銘を受けた。ナイチンゲールの声挿入も嫌味な感じがして好きではなかったのだが、慣れた。この盤、手元にあるのが12年前に出た中古CDのためかもしれないが、音場が狭く、派手な場面での派手さの再現がいまいち足りないような気がして、これまであまり聴いていなかったのだが、この時代にしては音質は良いし、トスカニーニの速く颯爽とした指揮ぶりも板についていて、ああ、この盤はやはり作曲家直伝?のスタンダードな盤といってもいい良質のものだな、と思った。思ったところに、超廉価盤で、NYPのライヴ盤が手に入った。これが、やはりといっていいのだろうか、超名演であった。モノラルならモノラルなりの音の生生しさが好きなのだが、音質では段違いに悪いものの、音の抜けがよく、まさに生々しい。ニューヨーク・フィルの魔力というべきか、まるでジョン・ウィリアムズの映画音楽を聴いているかのような甘く切ない感触もあるし(J.W.は確実に影響を受けていると思う)、オーケストラの威力を誇示するような場面では期待に大きく答えてくれている。ブラス陣の強力さは格別だ。アッピア街道の松はひときわ速いテンポで進められるが、それがかなりかっこいい。トスカニーニはやはり凄い。熱狂する観衆の拍手もさもありなんと思わせる出来だった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,◎トスカニーニ指揮ニューヨーク・フィル(history他)1945/1/13live RCA盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○ドラティ指揮ミネアポリス交響楽団(MERCURY)1960/4・CDどうも作為的な録音操作の匂いがして好きになれないリヴィング・プレゼンスだが、この曲ではやはり元来の華美さもあって色彩的で華やかな演奏となっている。とくに終楽章の力感はなかなかのものだ。依然音場の狭さや近視眼的な解釈の匂いは消えないが、十分鑑賞にたえうる充実した演奏と言うことができる。○。オケがやや弱いか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○バティス指揮ロイヤル・フィル(NAXOS)1991/4ちょっと残響が多いというかオケが遠い感もあるが、録音状態はまずまず。よくまとまっている。オケコントロールの巧い指揮者だ。壮麗なボルケーゼ、陰うつなカタコンブ、天国的なジャニコロ(素晴らしい!)、破壊的なアッピア、それぞれの楽章の性格を極めて明瞭に描き分けており秀逸だ。弦にもう少しパワーが欲しい気もするが、ロイヤル・フィルはおおむね巧い。アッピア街道の松の繰り広げるドラマティックな情景は力強い打楽器群によってそのパワーを増し、聴くものを圧倒する。総じて佳演だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○プレヴィターリ指揮聖チェチリア音楽院管弦楽団(DECCA)1959イタリア人指揮者の「松」となるとこの人とクアドリのものがまっさきに挙がるそうである(トスカニーニは別格)。これはメリハリのきいた色彩的な演奏。日本にも来ていた指揮者だそうだが私は初めて聞く。このオケはレスピーギゆかりのオケだそうだ。私はサバータの噴水の録音でしか知らなかったがこれがけっこう巧い。軽やかできらびやかだ。とてもまとまりのいい演奏に聞こえるが、抜けのいいブラスも楽しい。アッピア街道の松にもうすこし圧倒的なパワーがほしかったが録音のレンジの狭さのせいか。ジャニコロの松のいち早く入る鳥の声や弦楽器の歌謡的な表現など、やや美に徹しすぎる感もあるが、品のよいいい演奏だと思う。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○ベズザラブ指揮ルーマニア・フィル(MELODIYA)オケ名がジャケ上ではソヴィエト国立放送交響楽団と混同されているが金管や弦の音がぜんぜん違うのでルーマニア・フィルのほうが正しいと思う。無名指揮者に無名オケということだが演奏面はよく練り上げられていて完成度が高い(この曲に完成度という言葉が適当かどうかわからないが)。オケの技量的にもまったく過不足なく、解釈は常套的ではあるが2楽章終端から3楽章への陶酔的な雰囲気や4楽章の圧倒的な表現などなかなかどうして楽しめる。モノラルだがとくに違和感は感じなかった。3楽章の鳥の声がなんだか低い声でカラスみたいだが、あまり重要ではない要素だからいいだろう。個人的に◎をつけたくなるくらいのめり込めたのだが、冷静になると録音条件を鑑みて○が妥当か。アッピア街道のぶっ壊れかた?はちょっと感動モノ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○マゼール指揮クリーヴランド管弦楽団(decca)1976/5/ベルリン・フィル(DG)初出1959音はよく引き締まっているし、構成感がはっきりしている。この統率力はたいしたものだ。ベルリン・フィルを前にしてここまで取りまとめる力はなかなかのものである。第二楽章カタコンブ付近の松が少々垢抜けすぎているか。余りに巧く彫刻されているのでケチをつけたくなるが、オケの音色がフツーすぎる、くらいのことしかみつからない(クリーヴランド盤)。さて、ちょっと他の指揮者の演奏と違う聴感をもった。情におぼれず理知的に解釈しているせいか、描写音楽という感じがしないのだ。どちらかといえばシンフォニックなのである。そう考えて聞き直したとき、この曲のまったく異なる姿が見えてこよう。孤高の佳演である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1960/12/23LIVE,,モノラルで、録音が悪ければ悪いほど良いように聴こえるというのは、つまるところ悪い演奏だった証拠だが(「悪いステレオ録音」というのもあるけど)、録音を聴く側は聴き易ければ問題ないわけで、こちらのほうをおすすめする。派手なだけでハスッパなブラス陣もバンダ含めインホールの茫洋とした音響の中ではその荒さや欠点を補われ、立体感はやや損なわれても総体的に美しい音響に昇華される、よくあることだ。1楽章に違和感がなく、2楽章から重心の低い音響がドイツ的なしっかりしたカタコンベを提示するのが面白い。モノラルなのに立体的に聴こえ、3楽章も低い音がしっかり響いて、鳥の声も含めて単なる環境音から抽象音楽として昇華されている。ミュンシュのデフォルメがやや気になる4楽章も大きなクレッシェンドという音量変化がはっきり聴こえてわかりやすい。最終音を異常に引き伸ばすのはしかし成功しているのか・・・終演後の冷静な拍手・・・,-----,,,,,,,,,,,,,
レスピーギ:ローマの松,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1961/8/6LIVE,,ステレオ録音が明晰すぎて荒が目立つ、、何かぶよぶよしていて済し崩しにはいる拍手も構成力の弱さを象徴しているようにおもう。起伏が起伏としてきちんと録音されておらず、聞こえなくてもいいブラスの隅々まではっきり聞き取れてしまう。あと、この曲はやっぱり一楽章冒頭で決まる。壮麗なだけだとリズムがしまらずテンポをしっかり印象づけられない。以後すべてだらだら聞こえてしまう。三楽章はさすがに綺麗に決まっている。○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの松,○ムーティ指揮フィラデルフィア・フィル(PO)1998/10/5LIVE・CD,,ボテボテとやややぼったい。でも派手だし雄大だしいかにもイタリアっぽいところがある。主兵であったフィラ管の特性をよく生かしたスケールでかい演奏ぶりには最後物凄いフライングブラヴォーと拍手の渦が巻き起こるが、生演奏ゆえ精度の点や技術的な面でイマイチと思わせる所も有り、最大限の評価とは到底いけない(勿論音盤としての評価である)。3楽章の美しさは筆舌に尽くし難いものの飛び抜けてるとは言えず、結果として○にとどめるのが妥当、といったところか。始演前の拍手が終わらないうちにフライングで始まったのにはびっくりした。前代未聞。何やら祝祭的雰囲気が感じられる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの松,◎モントゥ指揮ORTF(M&A)1956/5/3live・CD,,余りに音作りというか旋律作りがリアルで、音楽自体が単純化されイマジネイティブのかけらもないトスカニーニふうの即物表現なので、はじめはどうかと思った。しかし、次第にこの演奏の凄みを感じだす、けっして少しも端すらもイマジネーションをかきたてられないし旋律ばかり耳につき音量変化も小さくひたすら強音、みたいなかんじなのに、何か得体の知れない魔物の強靭なかいなに首ねっこをつかまれ、アッピア街道に引きずり出されそのまま土煙にまみれてローマへ連れ去られるような、ものすごい「迫力」に圧倒された。演奏陣がまた稀有なくらい完璧なのである。充実した響き、内面からの共感にささえられた瑕疵のかけらもない表現、隅々まで完璧なのである。ああ、カタコンブは生命力に満ちたミイラたちがカラオケをがなる様だし庭園の鳥たちはスピーカーの音量つまみを最大にひねったように騒々しいし、アッピア街道は最初からもう軍隊が轟音たててる感じ、なのに、これは、◎以外思いつかない。圧倒的、というひとこと。モントゥはハマると凄い。珍しいブラヴォが飛ぶ。録音はモノラルとしては深みも広がりも最高。環境雑音以外の瑕疵ゼロ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの松,◎ライナー指揮シカゴ交響楽団(RCA)1959/10/24ここまでの精度のものは現代でもなかなかない。透明度が高く、音が万華鏡のように絡み合うところでの色合いがなんともいえず美しい。ボルゲーゼの煌く音のシャワーもさることながら、カタコンブの哀しくも美しいしらべ!ヴォーン・ウィリアムズの音楽を想起した。オネゲルの「夏の牧歌」とともに、RVWの音楽にもしかしたら影響を与えていたのかもしれない。という妄想を抱くほどに暖かな平安を演出している。ライナーもシカゴ響も、舌を巻くほどに巧い!ジャニクロからアッピアへの流れは自然で、節度ある盛り上がりのもとに高潔なローマ軍の行進が描かれている。総じて完成度の高い演奏だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,シノーポリ指揮ニューヨーク・フィル(DG)1991/4節度ある表現をもってスタンダードな演奏を指向したもののように聞こえる。この演奏で特筆すべきは緩徐楽章での繊細な響きの交感、むせかえるような香り。暖かみを感じる。終楽章アッピア街道の松は希有壮大であり、いくぶん作為的で情緒的な盛り上がりは少ないものの、ニューヨーク・フィルの本来持つロマンティックな性分がその情緒的な部分を補い、感動的な結末へといざなってくれている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1969/11/23live,,最初からのんべんだらりとした拡散的な演奏で集中力がなくただ明るくて響きだけ派手。表層的と言われても仕方のない印象だが、録音のせいだろう、ストコの広がりのある音響空間を再現するのに昔のステレオエアチェックではこの聞こえ方は仕方ないか(松はバンダまで入れてそもそも音響空間的発想を取り入れてやることが多いわけで)。アッピア街道までわりと遅めのインテンポで進み派手に散漫に終わる(ように聞こえる)のだが、客席はブラヴォ拍手喝采の渦。うーん・・・生きているうちに聞いておきたかった、ストコの松。。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
レスピーギ:ローマの松,ストコフスキ指揮ハリウッド・ボウル交響楽団(DA:CD-R)1945LIVE,,ブリキのおもちゃのような音。往年のアメリカが前面に出すぎている。構造の見えやすいコントラストのはっきりした演奏ゆえ理解はしやすいが、それにしては録音が貧弱。オケも「芸」としてしか感じられず、とくにアッピア街道が(音量ではなく音楽的に)迫力不足。無印。残らない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの松,チェリビダッケ指揮ORTF(ARTISTS/ina配信)1974/3/25live・CD,,ina配信音源は僅か籠もり、特に初曲では左右が不安定気味。むろんステレオ録音であるものの環境ノイズもやや気になる。そのためか割りと柔らかい印象をあたえる。音響的には非常に整っておりチェリビダッケらしさがあらわれ、対照的に高音域、特にハープのきらびやかな走句が目立って聴こえる。オケの抑制的で上品な音は特筆すべきだろう。アッピア街道のクレッシェンドでは爆発的な響きが出、チェリのオケを鼓舞するような掛け声が入る。ものの、この曲を得意とした指揮者たちの力感にまかせた演奏に比べ整えた感も気になるのは確かで、一斉ブラヴォの圧倒的な客席反応に個人的には戸惑いも感じた。再生環境の問題か。長いブラヴォ拍手がえんえん収録されている。ラヴェルの楽曲の演奏にみられるようなデフォルメは一切無い。ARTISTS盤より若干良い音ではある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの松,チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(DG)1976/6/20LIVEものすごく透明感があり、非常に美しい。晩年の肥大傾向のまだ薄い時期のため、聞きやすい演奏に仕上がっている。大きな硝子の伽藍を打ち立てるようだな、と思った。客観的で構築的な演奏である。だが、個人的にはもっと「情」が欲しい。オケは感情を排し音を発する道具になりきってしまっているきらいがある。ジャニコロなどもっと艶のある音が欲しい。あまり艶を出しすぎると映画音楽になってしまう曲ではあるが。でもヴォーン・ウィリアムズっぽく淡い感傷を込めて弾く演奏が私は好きだ。まあブーレーズのドビュッシーのようなやり方に似ているといえば似ているのだが、チェリの場合もとが熱血男のため余計に残念に感じてしまう。とにかくジャニコロにはもっとイマジネイティブな音色の綾を聞かせて欲しかった。アッピア街道は見事だが他の指揮者の演奏と比べそう特徴的なものではない。それにしてもこの盤、かなり高価なセットもので財布が痛かった。。。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,チェリビダッケ指揮トリノ放送交響楽団(NUOVA ERA)1968LIVE 5回聞いた。で、やっぱり入り込めなかった。四角四面で今一つノることができない演奏。録音の悪さが全ての悪因である気もしなくもないが、それにしてもある意味厳しく純音楽的なものを追求した演奏であり(イタリアオケなのに「遊び」がまったく感じられない!)、そうであるがために1楽章の喜遊性、2楽章はいいとして3楽章の夢幻性、4楽章の爆発的なダイナミズムにおいて全て一歩引いてしまっているから面白くない。終演後の物凄いブラヴォーと拍手は、ひょっとすると実演の迫力を録音がとらえきれていないのかな、とも思うが、これはどう転んでも「イイ録音記録」とはいえない。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,マキシム・ショスタコーヴィチ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)かなりあっさりめで軽い演奏だが、瞬敏さは特筆すべきか。ロシアオケのローマ三部作といえばスヴェトラーノフだが、およそ違う解釈である。ロシアオケの個性は抑えられ、響き重視の節度ある表現は物足りなさを感じる。表面的な演奏と言い切ってしまおう。そういう演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,ミュンシュ指揮ニュー・フィル(LONDON)1966/1 イマイチノリの悪いオケのせいもあるが、鈍重で野暮に聞こえる。1楽章はロマン派的くぐもりが支配しており、内声部が充実しているぶん前進性が損なわれている。2楽章も濁っており鈍重だ。3楽章は逆にロマン派的アプローチが功を奏している。色彩的で心象的で、哀しいほどに美しい。ゆっくりした楽章だから、ミュンシュのアバウトなところが目立たないせいもある。4楽章は重々しい。そのせいか重い。どっしりしすぎて行進に聞こえない。オケも何か「こなしている」という感じしかしない。全般、無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松,ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団(emi)初出1985オケが少し遠い。あと、録音もまるで綿にくるんだように茫洋とした感があり、不満だ。オケのパワーは諸所で開花しており、今更何を言うまでもないことだが、とくにアッピア街道の松の適度に粘ったスペクタキュラーな表現は特筆すべきだろう。ただ、他の楽章の魅力がいまいちである。フィラデルフィア管弦楽団の演奏としては、この前にオーマンディの2枚があるが、それも個人的に皮相な感触が好きになれなかったので、要はこの曲に私が求めるモノを、フィラデルフィア管が持っていない、というだけのことだろう。そのモノとは何か?少なくとも、トスカニーニ盤にはそれがある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの松〜T、U、V,○クラウス指揮VPO(M&A他)1942/8/27ザルツブルク音楽祭live・CD,,アッピア街道の松が欠損しているという信じられない状態ではあるのだが、シャンデリアを揺らすような一楽章の冒頭よりゴージャスな(やや違和感もあり)響きの音楽が展開されてゆく。重いテンポで噛み締めるように進むのと、ソロ楽器の音にどうにもラテンの風は吹かないものの、ジャニコロの松はとても美しい。いかにも往年のウィーン・フィルの演奏であり、こってりねっとりと、でもあくまで明るく透明で、壮麗壮大であり、クラウスの腕が光る。いやこの指揮者は近現代に向いていたと思うのだが録音は少ない。ドイツ語によるフィガロの録音のおまけ。ファリャも収録されている。録音状態も環境雑音もひどい。melodiyaのLPに収録されている音源と同一と思われる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,
レスピーギ:ローマの泉,〇コーツ指揮LSO(KOCH)1926-28・CD,,鮮やかで色彩的感性の確かさを感じる。テンポはSPのつねで速いが、それが生き生きと颯爽とした印象をあたえて清々しい。かなりの美的センスだ。こういうまとまりのある演奏もできたのか。新しい曲への適性をこの指揮者には感じる。〇。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの噴水,◎アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(DECCA)1963/1/18-26・CD,,これは美しい。ドカンといく迫力とどぎつい「色彩」で売る演奏、もしくはただ無機質に響きを磨き上げスコアが透けて見える「だけ」の演奏が多い中、どっちの面からも他とは隔絶した何かイっちゃったものを感じさせる。デュトワとどこが違うんだろう?と思うがデュトワよりよほど高潔で、尚且つ下卑ている。◎。,-----,,,,,,,,,,,,,
レスピーギ:ローマの噴水,○クアドリ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(westminster),,録音は安定していて聴きやすい。VSOOの確かな表現の中に艶めいた音色がクアドリの色彩的処理によって開放されレスピーギのリムスキー的側面を際立たせている。ドビュッシー的側面についてはどちらかといえば従属的かもしれない。和声的な繊細な調和よりエッジの立った音色同士の衝突し絡み合う妙味が際立ってきこえる。金属打楽器の響きがかなり強調されている感もあるが元の曲からしてそうか。旋律表現自体はそれほど激しくはなくあくまで全体のうねりがダイナミズムを産んでおり、ボリュームたっぷりの表現は娯楽的ではあるがフォルムは安定している。VSOOならではの音符の外周が整わない雑味も「シェヘラザードのさばき方」を思わせるこの解釈のうちでは気にならない。メディチ家の噴水では映画音楽を思わせる(というかジョン・ウィリアムズのほうが影響されまくりなのだが)ハッキリした表現で陶酔的というより各抒情要素がかなりしっかり研ぎ澄まされ、一種空疎な透明感と金属質の感傷がかもされている。スクリアビン的なオールドスタイルな演劇世界をハリウッド歴史超大作のスペクタクルな世界へモダナイズしているかのようで、決して古いタイプの演奏ではない。なかなかに聴けます。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの噴水,○クアドリ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(WESTMINSTER)高い旋律性と色彩的な管弦楽に振り撒かれたワグナー風味のあいまった混合様が面白い「松」につぐ名作だが、私はあまり親しんでいないせいか、この演奏でもかなり楽しめた(誉めてるのか?)。言われるほど下手じゃないと思う。個人的感覚だとこの曲は白地に赤い複雑な模様の施されたタペストリーといった感じで、単純な音彩であるものの織り込み具合が面白く、旋律以外でも意外に楽しめる。「松」の極彩色の音楽との対比がよく出来ており、一枚の盤としても充実感がある演奏だと思う。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,,
レスピーギ:ローマの噴水,◎クレメンス・クラウス指揮ウィーン・フィル(Disques Refrain/re!discover enterprise:CD-R)1945/3/19live録音の音の悪さを飛び越えて、オケの表現意欲の強さに圧倒されてしまった。弦楽器が強烈だ。しかもライヴにもかかわらず、非常に精緻に演奏されており、ごまかしや荒れはほとんどない。やや曲のワグナー性が引き出されてしまったようなところもあるが、それはそれでひとつの見識だし、面白がるべきだろう。しっかしほんとうにミスの無い、ものすごいアンサンブルだ。それでいて音に色気がある。トレヴィの噴水の強大な音楽・・・。歴史的価値の高い演奏であるが、悪い録音からもそんな情勢下で行われた演奏会の、充実した演奏ぶりは伝わってくる。印象派とは逆方向を行くような演奏で、オーケストラの絢爛たる絵巻きを楽しむような演奏だが、たそがれのメディチ荘の噴水での、様々なリアルな音に彩られた遠くの鐘の音は独特の聴感をあたえる。こんなに各楽器が歌いまくるメディチも少ないだろう。じつに妖しい、生々しい終盤の音楽。なんという音色だろう。。。この時代を代表する名ライヴだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの噴水,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(SCRIBENDUM/MELODIYA)1980/2/20LIVE・CDどこが下品なんだろ。かっこいいじゃん。そんなおちょぼ口じゃ、美味いもんも食い逃すよ、なーんて憎まれ口も叩きたくなる。確かにライヴだからミスもあるし整理整頓もされてない。録音もオケに近すぎて雑然とし聞きづらい。でもひとつひとつの音の美しさを聴いて欲しい。スクリアビンが得意なスヴェトラーノフだけに、木管同志が法悦的に絡み合うところに鉄琴などが振りかかりヴァイオリンソロが妖しく踊るメディチ家の噴水なんて素晴らしくイマジネーションを駆り立てるものがある。振り返って2、3楽章なんてのも圧倒的な力感と繊細な技巧(個人的には影にかくれたフルートの震えるような音色に萌えた)の織り成す万華鏡、じつに美しく、じつに野蛮で、それはまるで千変万化の水のように矛盾をはらみながらも他の何物でもない「音楽」そのものをつたえる。シェヘラザードの演奏を思い出すかたもいるかもしれないが、ライヴだけにのびのびとしていてより開放的だ。やはり終楽章に止めを刺すが、木管だけに傾聴して頭から聴いてみるとロシアン・ウィンドのまずはソリストとしての凄みをより強く実感できると思う。ブラスも弦もそれなりにいいけど、フルート、クラ、オーボエのそれぞれ個性的な音色と表現力に感服。最後に、決してこれはトンデモ盤じゃありません。録音が違えば印象はずいぶん好転したものと思う。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの噴水,◎デ・サーバタ指揮聖チェチリア音楽院管弦楽団(emi)?私がローマ三部作に着目しようとしたきっかけの演奏だ。わかりやすいし、適度に冷静でも情熱的でもあるし、オケは巧いし、指揮は颯爽としているし、面白がっているうちにあっさり聴き通してしまう。たそがれのメディチ家の、ヴァイオリンの切ない音が心に響いた。こういう静謐な情感の演出が巧い。精緻な演奏だ。曲自体の持つ生ぬるい感覚を保ちながらも緻密な計算のもとに確実に響かせている。ヴォーン・ウィリアムズを感じるのはこういうところだ。それにしても一昔前の演奏にしてはずいぶん現代的でもある。これは名演としておきたい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの噴水,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(rca)1951/12/17この曲だけが最後まで理解できなくて、いろいろと新しい演奏を逡巡してひたたびこの盤にかえってきて、はじめてわかった。素っ気無いほどあっさりとした、でも絢爛たる色彩をはなつトレヴィの噴水、そのあと妖しげな香気をはなつたそがれのメディチ荘の噴水。トスカニーニの手法はあくまで各個音符を明快に響かせて、曖昧な所を残さないやり方に思える。印象派好きにとっては好悪分かつだろう演奏だ。この曲が印象派のもとにあると解釈する人にとっては。トスカニーニのつくる音楽の密度の高さが、うすぼんやりとした薄明の美学を損なうと感じられるかもしれない。終盤で鐘の音が遠く響く所、トスカニーニ盤は(おそらく録音上の都合だろうが)近場でカンカン鳴る。そういう無骨なところがこの演奏にはある。ヴォーン・ウィリアムズやホルスト、そしてむしろいちばんディーリアスに近い音響感覚を持つ作曲家だと思うが、この演奏ではその近似性は聞き出せない。いや、悪いと言っているのではないのだが。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの噴水,○バルビローリ指揮NYP(artone他)1939/2/21・CD,,バルビの噴水はデータが混乱しているが一録音しかないのでご注意。artoneなど近年の復刻は物凄くリマスタリングされていてノイズがカットされ音は人工的に整形されてほとんど最近の録音のような印象を受けるが、バルビに人工的な音は合わないのでそこをどう捉えるかは一つ問題としてあるだろう。だが鑑賞に堪えうる音としてこういうやり方はありだろう。実際リマスター音源だと瑞々しく溌剌とした壮年期バルビの芸風がいちだんと引き立って聴こえ、ノイズ塗れの音では味わえないレスピーギ的な絢爛豪華さをちゃんと認識できる。オケの技巧もしっかりしていることがわかるし、バルビは決してグズグズにする指揮者じゃなかったことが再認識できる。いろんなレーベルから出ているSP音源だが、敬遠せずこってりリマスタリングされた盤も試していただきたい。あっという間に聞き終えた。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの噴水,○バルビローリ指揮ニューヨーク・フィル(dutton/pearl)1939/2/21古い録音ゆえ音のバランスとか音色とかについて語るのは難しい。ダットン盤はかなりクリアに仕上がっており、昭和14年の録音とは思えないほどだ。壮年期のバルビローリは新即物主義に影響されたようなところがあり、強力な推進力を感じるが、騒々しい感もある。録音のせいか?意外にきらびやかで派手。心なしか音に重みがあり、安定した聴感もあたえる。なかなかに法悦的なメディチの演奏は、しかし音楽の描きかたが明瞭すぎる気もする。無論録音のせいでそう感じるだけかもしれない。バルビ節ともいうべき歌心には訴えるものがあり、佳演とするのに躊躇はない。機会があれば聴いて確かめて頂きたい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの噴水,○パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1963/1/9live,,せっかち。リズム。これがパレーの80パーセントを占めており、この演奏も冒頭からつんのめり気味のテンポでひたすら絶妙なリズムが表現されるわけだが、表層的な派手さだけではない、未だリムスキー譲りの濃厚な響きが残る箇所もうねらせるだけの指揮の幅を持っていることがわかる。ライヴでこの速さなので細部にこだわる余裕は無い演奏ぶりだけれど、非常に貧弱な録音においてもおお、と思わせる爆発的推進力やスケールの大きな表現が有機的に織り交ぜられ、この人の得意分野はやっぱりこういう曲だなあ、と納得するものがある。高音で木管アンサンブルが繰り広げられる天国的なメディチ家で、細かい音符の交錯を生命力溢れるきびきびしたさばきかたをしつつ、品のよい雰囲気を醸していくさまはかつてパリでならしたこの指揮者の本領発揮の部分でもあろう。穏やかな拍手。どうしても「ローマの泉」と書いてしまうなあ。間違いではないんだけど。,,"<パレーについて>","オケトレーナーとしてならした指揮者に共通の単調さにもかかわらず、この人のファンはマニアには多い。最近は作曲家としての再評価も進んでいる。だがわりと表立って取りざたされない。なんでだろう。不当に低い評価をされているのはアメリカにわたってのち殆どフォード村の専従指揮者になってしまい録音もその時期mercuryに集中的に行ったのみで、フランス時代やナチス抑留から流転時代の功績が顧みられないからか。オートグラフも量が出ているからという以前に凄く安い。日本とも縁がないわけではないし、逆にそれだから日本で忘れられないという側面もあるのかもしれない。mercuryは近年、廃盤もまとめてリマスター廉価復刻して一部高額収集マニアの顰蹙を買った。そんなマニア滅んでしまえ(LPで集めろ)。演奏スタイルが安定し一貫しているのでオールマイティに振っているが(アメリカの常で長いロシア曲はカットバリバリだったりもするが)、音盤は大衆向けの小品集が多い。中ではお国のフランスものを聴いたほうがいいだろう。ドビュッシーよりラヴェルだ。サンサンのオルガンは師匠デュルフレが参加しており歴史的価値のある盤。
ラヴェル:管弦楽曲集
パレー(ポール)
ユニバーサル ミュージック クラシック

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サン=サーンス:交響曲第3番
デトロイト交響楽団
ユニバーサル ミュージック クラシック

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レスピーギ:ローマの噴水,○プレヴィターリ指揮聖チェチリア音楽院管弦楽団*(EVEREST/PILTZ他)1959・CD 私のLPはサージェントの松とカップリングだが(両方とも今はそれぞれCD化している)、大分に趣が違う。プレヴィターリはイタリア系指揮者でも比較的常識的な演奏を行う指揮者だと思うが、それでもこう並べられていると楽天的で派手な指揮者に聞こえる。同じ楽団なのにおかしなものだ。ずっと聴き易いことは確かで、レスピーギに期待されるものをしっかり持った演奏である。ちょっと思索的な雰囲気に欠け一面的なきらいもあるが、安心して楽しめる。個人的にちょっと食い足りない気もするが、サージェントに○をつけたことだし、こちらも○にしておく。*オケ名訂正しました(LP表記ミスのため)録音年はPILTZ国内盤CDを参照。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの噴水,○ライナー指揮シカゴ交響楽団(RCA)CD,,芸風的にはいかにもアメリカに多かったギチギチ高精度なうえに押せ押せのテンポという、トスカニーニの亡霊にとりつかれたままのようなもの、それがライナーにおいても表われているが、この人は色彩をそれほど煽らず、表現も深堀りせず隈取を濃くすることは決してなく、ライヴではあらわせないようなニュートラルな美観を音盤にて示すことがままあり、これもその感が強い。オケの力量や力感よりも、わりとすっと聴けてしまう、余りイタリア的な瞬間湯沸かし器が発火しない演奏に思えた。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの噴水,カンテルリ指揮ボストン交響楽団(ASdisc)1954/12/25live早世した指揮者カンテルリは、天才だったのか。この演奏を聞くにつけ、その疑問が湧いては消える。だって、現在活躍中の指揮者の盤と比べて、とりたてて優っているとは思えないからだ。録音が悪いぶん分が悪いともいえよう。この「噴水」はやはり音が良いに越した事はない。録音の悪さはこの神秘的な幻想を汚い水で汚してしまう。平凡な解釈、そう、現代において容易に聴きうるくらいの演奏。そんな印象。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの噴水,シノーポリ指揮ニューヨーク・フィル(dg)1991/4非常に計算され尽くした演奏のくせに、生ぬるい情感にあふれた演奏になっている。巧い。つねに節度をもっているから、どうしてここでもうすこし、という不満もなきにしもあらずだが、同曲を印象派音楽ととらえた場合、非常に価値をもってくる演奏だ。ハーモニーの整えかたが神経質なまでに行き届いている。私はこの演奏を聞いて、ああ、たしかにデ・サーバタに似たスタイルを持っているが、違う所もあるなあ、と思った。これはジェネレーションの違いなのかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの噴水,トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1951/2/17カーネギーホールlive,,何故かクレジットにない曲目で牧神の続きに入っていたが、いくらなんでもこの音状態で噴水は無理がある。しかしまあ、煌びやかな雰囲気は伝わる。聞き流してしまうほどに、印象にのこらなかった。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの噴水,ドラティ指揮ミネアポリス交響楽団(MERCURY)1960/4・CDマーキュリーの録音は音場が狭く四畳半で大オーケストラを聴いているようなせせこましさがある。これは設備によっては生々しく迫力有る録音にきこえるのだろうが、一般レベルのステレオセットで本当に迫力を感じるほどのスバラシイ録音効果を与えられるものなのだろうか、少なくとも私のセットではぜんぜんダメ、ましてやヘッドフォンでは頭の廻りでハチがぶんぶん飛び回っているような感じ。この曲も近視眼的な録音というか細部は明瞭なのに全体の迫力が無い。結果として粗雑な感触さえおぼえる。曲がいいからメディチ家の噴水の仄かに感傷的なひびきはそれなりに良く聞こえてくるが、この曲の醸す想像力の豊穣さを演出するには余りに広がりの無い演奏、録音のせいと信じてマイナスではなく無印にしておく。曲はいいんですよね。。。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
レスピーギ:ローマの噴水,モントゥ指揮ボストン交響楽団(melusina他)1960/4/8live,,モントゥーの十八番だけにハズレがない。ライヴ品質なので終楽章超高音コンマスソロの音程が怪しかったりはするがおおむね現代的なテクニックの高さを持ったオケがプラスに働いている。硬質の透明感があり色彩的ではあれど、オケ特有の匂いのするような色が無いので、レスピーギ的にはフランス音楽ふうの上品さとラテン音楽的な本質の世俗性がうまく調和した(まあ前者が強いが)録音として、海賊音質ではあれど印象派的な余韻をのこす。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの噴水,モントゥ指揮ボストン交響楽団(SLS)1963/8/4live,,モントゥーは同曲を得意としただけあり、すんなり聴けてなおかつ印象深い演奏。スタイル的にはスマートなのだがそれなりに力感もありまとまりがあって美しい。終盤急にノイズや撚れが増え、萎えさせるものの聴衆反応はなかなか凄い。この録音ではちっとも迫力は伝わってこないが、さぞ色彩的で圧倒する演奏だったのだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:ローマの噴水(ピアノ連弾版),○作曲家、カゼッラ(P-roll)(pierian)1925NY録音・CD,,基本的にロールは扱わないのだが珍しい音源ということで。ロールなのにモノラルのあまりよくない音というのはどういうわけかわからないが、録音当時の再生技術に倣ったものということか。カゼッラは作曲家としてもピアニストとしても評価の高かった人であるが、この曲は殆ど技巧を必要としないので寧ろその叙情性がどのように醸されるかといったところに耳がいく。素朴でとつとつとした表現はロールのせいかもしれないが意外と山っけがなく、専門ピアニストではない作曲家が演奏したという感じはするがカゼッラ自体はそれほど前面に立ってきていないようだ。リズム表現もそれほどリズミカルではつらつとしているわけでもなく、これはロール再生装置も問題なのだろう、ただ穏やかでなんとなく聞き流すにはいい調子ではある。けっこうさらっと聴けてしまうので、あっけない感じすらするが原曲もきらびやかでいながら実は結構合理的で単純である、ということにも気づかされる面もある。ロール特有のテンポの不安定感が気になる点もかんがみて無印でもいいのだが、何かしら香る、というところで○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
レスピーギ:弦楽四重奏曲第3番,○レニングラード・フィル四重奏団(MELODIYA)LP,,ユニゾン進行の目立つラテン歌謡といったふうの作品でレスピーギらしさはそういった表層的な表現に目立ち、構造への創意はないが手馴れた「国民楽派風弦楽四重奏曲」をえがいている。好き好きだろう。演奏はそれほど難しさはなさそうだが、国民楽派的な流れを推し進めたリムスキーの弟子であるとともに、印象派全盛期を経験した南欧作曲家でもあり、ここでは前者が表立ったようにかんじた。どういう経緯でこんな曲を録音したのか謎の盤だが未開封で当然雑音もないかなりいい音だった。演奏は立派である。ステレオで恐らく70年代の録音だろう。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
レスピーギ:抒情的歌曲集,○作曲家夫妻(SP,P)(pierian)1927ブラジル・CD,,奥さんの歌唱がオールドスタイルではあるがセンスに満ちていて素晴らしい。この時代の録音復刻にしても音もまずまずで、本人のピアノ伴奏は元が技巧的ではない伴奏にてっしたものであるため細かくはわからないがいささかの不安も感じない。曲はドビュッシーの影響を感じるが抒情性においてもっと過去のロマンティックな楽曲に近いものもあり、また構造的には単純である。和声や色彩の変化にはフランスよりもっと南のあっけらかんとした感もある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
レビュツキー:交響曲第2番,○ラフリン指揮モスクワ放送交響楽団(melodiya)LP,,素直で個性の欠片もないが、裏を返して清澄で耳馴染みのよい、民族的なのにちっとも灰汁が浮いてこない薄い書法でえんえんと音楽が流れていくのに身を任せているだけで結構もつ。楽想が極端に少なくしつこいにも程があるほど繰り返し繰り返し主題が表われてくるが、ソヴィエト「社会主義レアリズム」音楽の「寧ろ形式主義」に辟易するより、ミニマル音楽を聴くような浮遊感に捉われてくる。ラフリンのモノラル期の特徴である雑味のあるぶん味もある表現が支えている面もあると思うが、このチャイコフスキーともボロディンともつかない、でも全体的にははっきり半音階的な響きのうねりを伴う前期ミャスコフスキーの影響の強い大交響曲の不思議な魅力は、聴いてみないとわからないかもしれない。寧ろ交響詩的だろうか。モダンさが全く無いかと言えばそんなこともなく、それはミャスコフスキーからの影響を更にジョン・ウィリアムズ張りのメタミュージック的に昇華させたようで、作家性が美観を損なわない節度がある。私はコレに比べたらプロコフィエフやストラヴィンスキーのほうがよほど民族臭が強いと思う・・・スコアからは全くそうは見えないだろうけど。○。録音が古い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ローセンベリ:作られた歓び〜第1組曲より1、5曲目,○ラーソン指揮スウェーデン放送室内交響楽団(BIS)1943/10/4放送・LPなかなか洒落ていてカワイイ曲である。わかりやすくも新鮮なアンサンブルが楽しい。フランスの香りが強いのはこの人の出自を物語っている。スウェーデンの新古典主義の開拓者で、スウェーデン現代音楽を切り開いたと言われるのもうなずける、ほぼ同時期のウィレンが一皮も二皮も剥けたような作風である。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ローセンベリ:操り人形師序曲,フリッチャイ指揮スウェーデン放送室内交響楽団(BIS)1953/2/8LIVE・LPどうも暗くて野暮ったい。フリッチャイの暗さも手伝って、イマイチ聴き映えがしない。録音も悪い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ローソーン:曲がり角序曲,○コンスタン卜・ランバート指揮フィルハーモニア管弦楽団(HMV)1946/3/29・SP,,ローソーンでも有名な作品で同時代(40年代の作品)の録音もそれなりにあるものだ。中でもこの演奏は屈指のものと言っていい。シンフォニックジャズの作曲家でもあったランバートの、崩れず堅くならずの絶妙のリズム感が曲のわくわくするような雰囲気を盛り立てる。こういうウォルトン的な曲をもっと振ってほしかった人である。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ローソーン:曲がり角序曲,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(bbc/IMG)1969/4/24live・CD,,ウォルトンのスカピーノあたりの洒脱で垢抜けた感覚とヒンデミット特有の木管アンサンブルや重層的な響きに似たものを感じる。バルビにしては俊敏というかそつなくこなしているふうである。今一つの押しの強さというか表現意志の強さが欲しい気もするがこのての軽い曲ではこのようなものか。面白い曲なのでイギリス好きなら。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ローソーン:交響的習作,○コンスタン卜・ランバート指揮フィルハーモニア管弦楽団(HMV)1946/3/28,29・SP,,半音階的な進行が目立ち晦渋な傾向がみられ、映画音楽的な作風が魅力的な作曲家であるものの、ここではバックスやアイアランドの作品に近い呪術的な世界を描こうとしているように感じる。6つのパートからなりそれぞれやや光景は変わるものの一貫して職人的な作曲技術の存在を感じさせ、聴きやすいが中身はいくぶん空疎であり、終盤ではちょっとヒンデミットのマンネリズムを思わせる盛り上げ方もみられる。演奏は達者だが作品が作品だけに魅力を引き出しあぐねているのか、音符を音にする作業の範疇に収まってしまっていると言ったら言い過ぎであろうか。○。音は良い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ローソーン:序曲「街角」,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(img,bbc)1968/4/24ロイヤル・フェスティヴァルホールlive・CD,,おせち料理のような英国音楽詰め合わせの一枚で好みが別れるところである。スタジオで一所懸命リマスタリングしてもRVW8番みたいな雑音まみれやモノラルは聞きづらいし何よりてんでばらばらの演奏会をまとめて英国音楽の夕べみたいにしても、音質的なところが揃ってなければそれはアルバムになってない。この曲は英国作曲家の常ではあるが映画音楽も手がけているローソーンの小品で、余りの手堅さに勢いは認めつつ「一回聞きゃいいかな」と思わせるブリス的なところがある。エルガーとの違いは何だろう?旋律か?演奏はこの盤の中ではかなり燃焼度の高いもの。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ロザンタール:食卓の音楽,ロジンスキ指揮NYP1946/10/13sls,,slsレーベル特有の悪録音が鑑賞を拒否する。ブラス大活躍の曲で迫力あるところが聴きたいものの、肝心なところで音量がしぼんだり脱力。但しこの組み合わせで演奏が悪かろうことはなく、強力なアンサンブルを楽しめる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ロジェ・デュカス:弦楽四重奏曲第2番,○レーヴェングート四重奏団(MANDALA)1954/2/27パリ・CD,,楽団に敬意を表して○にしておくが、駄作。絶筆であり作曲後間もない録音であり資料的価値はある盤にせよ音楽はまとまりがなくひたすらだらだら長い。フランクよりは新しいだけあって新旧様式混淆の多様な聞かせかたをしてくるが、明らかに「アメリカ」を意識したような前時代的な表現に、フォーレの室内楽の作法を重ね合わせ、国民楽派の影響をうけるもドビュッシーにまで踏み出せないフランス派SQとしか言いようのない1楽章からしてうんざり。楽章が進むにつれフランク的マンネリズムを打破しようというような暴力的なリズムや不協和音がおりまざるも、ルーセルの明快さもオネゲルの思索性もない、思い付くままの老いた繰り言。よくわからない構成以外、新味がない。3楽章はかなりつらい。この盤で17分、アダージォだ。4楽章制を守るはいいが、全部で50分となると、時間配分は完璧だが(この盤で14、7、17、11分くらい)、全部が長すぎる。4楽章で型にはめたようにわかりやすい五音音階を繰り返すにいたり、ウォルトン10代の佳作ピアノ四重奏曲か!と80代の作曲家に突っ込みたくなった。むろんもっと捻った構成に組み込んだものではあるが。フランクやショーソンの室内楽好きならいけるのかな。あと、私がデュカそしてフローランが余り得意ではないことを付け加えておく。レーヴェングートQの新しい録音を早く復刻してくださいdoremi。かれらはベトも得意だったけど、十字軍だったのだから。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ロックウッド:プレーリー,ストコフスキ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1954LIVE,,オラトリオ。アメリカ国民楽派って、かなり恥ずかしい。派手でロマンティックで耳馴染みやすいだけの曲。初演か。カルミナ・ブラーナの前プロ。評価不能。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ロッシーニ:ウィリアム・テル序曲,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1949/11/19LIVE,,さすが手慣れている、とくにオケが新作や同時代をやるときにくらべ技術的にも安定感があり例のせわしないフレーズも「落ち着いて爆走」して崩れない。あっさりめではある。音質は最悪とは言わないが悪い。既出盤と同じ可能性大。許せるぎりぎりの雑音、○。拍手も盛大。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ロッセリーニ:STAMPE DELLA VECCHIA ROMA,ケンペン指揮ACO(RCO)1942/12/17LIVE「ローマの老女の写真」とでも訳すのだろうか。「ローマの噴水」を連想させるフレーズが織り混ざるのは後愛嬌。初曲など親しみやすくもっと古い時代の民族主義音楽的なところがあるが、3曲目など無調ぽくもあっていささか雑多な印象である。演奏はしなやかだが比較する他演を知らないので評価不能。無印。 イタリアの映画監督(レンツォのほう)・作曲家で最近まで存命。シューリヒトも録音しているらしい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ロドリーゴ:アランフェス協奏曲〜T、U,○ディアズ(G)ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1968/11/17live,,有名な2楽章までで拍手が入り録音が切れている。感傷的で直接的な旋律の表現だけではなく、バックオケの必要十分なファリャ的な音による絡みが欧風演歌になりかねない曲に厚みをもたらしている。オケ指揮者の手腕よりもギタリストの手腕による部分が大きい、もともとそういう曲ではあるのだが、このギタリストは哀愁があって的確な表現が心地いい。音粒のたった精度の高い演奏である。全曲聴きたかった。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ロドリーゴ:ピアノ曲集(1926-),作曲家(P)(EMI)泣けます。ロドリーゴが遂に亡くなってしまったあと、記念盤として出たCDですが、楽しい曲ばかりなのに、夜中に聞いていると・・・ノスタルジックな気分が高まり泣けてきます。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ロドリーゴ:夏の協奏曲,○フェラス(Vn)エネスコ指揮パリ音楽院管弦楽団(TESTAMENT)CD,,変な曲、というか特徴的な表現はあるしロドリーゴのイメージとしての軽音楽的な部分は無いものの、擬古典にもなりきれず、ロマン派協奏曲の範囲でソリストの技巧を活かした模範的なものを作ったといったふうだ。標題的なものも感じない。ソリストは可もなく不可もなく、やや甘い音色で弾ききっている。エネスコも特別なことはしていない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ロパルツ:交響曲第5番,ミュンシュ指揮ORTF(SLS)1946/11/14シャンゼリゼ劇場live(世界初演),,ワグナー、かと思ったらロシア国民楽派交響曲!一楽章の息の長いメロディ!どこかで聞いたことあるような。ストレートなところはミュンシュ向きだが、三楽章あたりで飽きてしまう。ただし移調転調の頻繁さはフランツ・シュミットを薄めた感じで面白く、二楽章、四楽章の旋律構造からしてもフランク派の末に位置づけられる曲だろう。時代は新しいが80を越えた1864年生まれの作曲家の作品、後期ロマン派交響曲好きの人にはすすめられる。マーチ好きも四楽章では心躍らされるかもしれない。この楽章はフランク的で(高音打楽器の使用が違うくらいと言い切れる)清々しく前向きな雰囲気、調性の移ろいに浮遊感があって、フランス的。装飾的なトランペットを交えたややまとまりにくそうなところもリズムと流れで強引にもっていくミュンシュの技も光る。ハーモニーを楽しむならもっと良い録音を選ぶべきだが、ミュンシュが擬似フランク交響曲を下手なわけはないので多分そのへんも大丈夫。拍手カット。,-----,,,,,,,,,,,,,
ロフラー:一楽章の弦楽四重奏曲,○ゴードン四重奏団(SCHIRMER RECORD)SP,,ジャック・ゴードンはシカゴ交響楽団のコンマス。20世紀前半に活躍した楽団だがこの時代の技術的にはなかなか高いものがある。いかんせん曲が前世紀的な国民楽派音楽に中間部ドビュッシーを導入したといったもので、単一楽章とはいえアーチ構造の部分部分には分けられる作品で新味はない。ドビュッシー的な部分は楽しめたが、曲的には余りに唐突か。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ロフラー:四つの弦楽器のための音楽,○クーリッジ四重奏団(victor/PRSC)1938,,見事なリマスタリングによって戦後モノラル録音並のノイズレスな音で蘇ったPRISTINE配信音源。ただ曲は凡庸である。19世紀ウィーン風というかレーガー的というか、ベートーヴェン影響下の国民楽派SQにも似た、好きな人は好きだろうがドビュッシーを知ってしまった人には退屈きわまりない半音階的旋律にまみれた曲。ドビュッシーふうの音階が終楽章に僅かに現れるものの特徴には昇華されずとってつけたようで、作曲家の魅力は純粋に旋律(1楽章では賛美歌のように限られた音のみによる旋法的旋律が耳新しい)とその捻りかたのみになっている。楽団にはうってつけの曲だったようで現代の演奏のようにしっかり颯爽と聞こえ、でもてんめんとしたポルタメントを使いまくるクロールに古い演奏であるところが伺える。それにしても持って回った題名ではあるが旧態依然としたれっきとした弦楽四重奏曲、亡命作曲家の意図や不明。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ロフラー:少年時代の思い出(「ロシアの村の生活」),○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(GUILD)1942/11/1LIVE・CD トスカニーニのアメリカ音楽ライヴ集より。ライナーにもあるが第二次大戦へのアメリカ参戦が影響した曲選。録音は篭りがちで聞き取りづらいが、トスカニーニの響きへのこだわりははっきりとわかる。ロフラーはロザンタールの録音した曲しか知らなかったが、ドビュッシー的な曖昧なひびきと後期ロマン派的な旋律性のあいまったアメリカ印象派の範疇といったふうだ。といってもこの人はアルザス出身で東欧、ウクライナそしてフランスを放浪してアメリカにいたった人という。パリ時代が強く影を落としているように思うが、ウクライナ時代の思い出を込めた曲だという。この人は1861年生まれだが1912年に亡くなったとのことで、この曲も20年代になって初演されたという。雰囲気の軽さにくらべ主題の重量感が面白い。世紀末様式の折衷的作風と言ってもいいだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ロフラー:少年時代の思い出(「ロシアの村の生活」),○バルビローリ指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1936/12/6カーネギーホール放送LIVE・CD 録音がきつい。演奏は颯爽としたものだ。スピード感のあるスマートできらびやかな演奏で、若きバルビローリの覇気に満ちた演奏ぶりを端的に示した演奏となっている。なかなかノリがよい。曲はドビュッシーぽいとも言えるしグリエールぽいとも言える。ロシア世紀末音楽に印象主義的な曖昧な響きを導入した音楽といった感じ。録音がよければよかったのに。でも威勢のいいバルビローリに○ひとつ。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ロフラー:少年時代の思い出(ロシアの村の生活),○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(放送)1939/1/7live,,半音階的で一部前衛的というか印象派的な当時としては新鮮な書法をまじえた、世紀末ロマン派的作品。最初と最後にロシア民謡(最後は例の「ヴォルガの舟歌」を先鋭な響きの中に変容させている)が入るところが回想なのだろう。同曲の紹介者としてたびたび演奏したというトスカニーニはロマンティックでありながらも音と音の関係性を明瞭にしている。録音はノイズまみれだが時代からするとクリア。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワイル:歌劇「三文オペラ」,○H.ロスヴェンゲ、R.アンダイ、C.アドラー指揮ウィーン・フォルクスオーパー・アンサンブル(VOX,MAJESTIC他)1963版・CD,,マーラーの最後の使徒として有名なチャールズ・アドラーはアメリカに居を構えてのち戦後はウィーンにも拠点を置き、SPAレーベルを通して比較的保守的な現代音楽を紹介することに情熱を注いだ。録音は少なくないのだがLP単発のち再版せず、マーラーを除いては今も評価を得られていない感がある。だがこのいかにも中欧臭い演奏には同時代の空気が紛々とし魅力的である。ほつれのないがっしりした構えの中、ブレヒト劇にふさわしい歌唱、正しく戦前ドイツの世俗的情景を描き出している。また兵士の物語や、サティの晩年作を思わせる皮肉な調子(意図的引用も含め)も、それとわかるようにくっきり明瞭に表現し分けられる。ガーシュインとは違うヨーロッパの「ジャズ」。引き締まった書法だが基本ミュージカルのような曲だけに、少し真面目過ぎるところは気にはなるが流れはいい。ウィーン風でないところがむしろいい。なかなか。○。CD化している。,-----,,,,,,,,,,,,
ワインベルク:ヴァイオリン協奏曲,コーガン(Vn)コンドラシン指揮モスクワ・フィル(MELODIYA/OLYMPIA)1961ややとりとめないが個性的ではある。民族的フレーズが多用されるがオケパートの清新な響きによってそれほど重さを感じさせない。主題にやや魅力がなく、終楽章にきて初めてバイコンらしい雄弁なメロディが現れるが、いささか中途半端に終わる。コーガンのやたらと押し付けがましい演奏ぶりだけが耳に残った。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワインベルク:シンフォニエッタ第1番,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)ワインベルクというべきかヴァインベルグというべきか。ショスタコーヴィチと仲がよかったソヴィエトの作曲家です。室内楽など、なかなか渋い魅力を持っていて知る人ぞ知るマニアックな感性を刺激する作曲家でした。これは聞き込むと結構楽しめる曲で、いかにもソヴィエト的な交響曲。一次聴感(一回目に聞いたときの感想という意味です)は「クーチカに倣ったショスタコ」という感じ。寧ろ晩年のプロコというべきか、民族音楽的な面が前面に立ったイカニモという曲であり、エキゾチックな旋律は魅力的だがいかんせんスタイルが古い。それでも聞き込むとそんなに無茶苦茶古い和声感に依ってはいないことがわかる。4楽章なんてもう硬質な響きを持つ民族舞曲でありその高揚感は非常に印象的。緩徐楽章には神秘的な美感がある。短く引き締まった楽曲で飽きる前に聴き終わるからおすすめ。スヴェトラーノフの力強さがイイ方向に働いた佳演です。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワインベルク:トランペット協奏曲,◎DOKSHITSER(TRP)ジュライチス指揮モスクワ・フィル(RUSSIAN DISC)CDなかなか面白い曲。どちらかというとショスタコ寄りの曲だが、もっと親しみやすい。1楽章は「トランペット吹きの奇妙な休日」といった感じ。けたたましくシニカルだが程よく気分を高揚させる。2楽章は長くまさにショスタコ的な深刻さがあるが、やはり聞きやすく入りやすい。心地良い響きが哀感の中にも温もりを感じさせる。1楽章と違ってペットがあまり前面に立たないのも面白い。末期ヒンデミットのような打楽器的な静寂の中でソリストにとぎれとぎれにまたカデンツァ的に奏される結婚行進曲やペトルーシュカといった断片のかもすシニシズムは一種独特の感動を与える。実に効果的だ。演奏も素晴らしいの一言。ソリストとオケの間に漂う緊張感が堪らない。カチコチやりとりされる高音打楽器群のアンサンブルが、突然の終止音で断ち切られる最後も洒落ている。謎めいてはいるがなんとなく納得してしまうのは私だけか。面白い曲だし、演奏もいいので◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワインベルク:モルドバの主題による狂詩曲,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA/OLYMPIA)非常にエキゾチックでいささか映画音楽的なところのある曲だ。ハムナプトラかと思った。急峻部は派手でとてもわかりやすいが緩徐部は少し間延びする感じもしないではない。民族楽派としては半世紀遅れの感は否めないが、ハチャトゥリアンがアリならこれもアリだろう。エネスコぽい感じもする。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワインベルク:弦楽四重奏曲第7番,○ボロディン四重奏団(MELODIYA)ショスタコの影響は否定しようが無い。冒頭のノンヴィブによるハーモニーと微妙に半音階的な暗い旋律からしてもうショスタコのカルテット(の比較的初期のもの)によく似ており、両者の親密な関係を改めて認識させられる。ワインベルグ自身の個性というと、ショスタコよりも過去の作曲家を思わせる「やや」分かり易い旋律、ショスタコの明快さと暗さの振れの激しい分裂症的作風に比べ、流れは滑らかで明快とまではいかないし暗さにも深みが無い、変化もやや乏しいという点が挙げられる。2楽章などとくにショスタコのスケルツオにかなり類似した雰囲気を持っておりショスタコ好きにはアピールするだろう。ワインベルグは決して擬ショスタコな作品だけを作り続けていたわけではなく、交響曲など実験的というかいろいろな要素を持った多面的なところを見せている。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワインベルク:交響曲第10番,○バルシャイ指揮モスクワ室内管弦楽団他(OLYMPIA)1970・CDモノラル。擬古典的な弦楽合奏曲だが強烈な不協和音によって独自のハードな世界を確立している。旋律らしい旋律もないが清新な響きの世界は決して音楽的なものを失っていない。1楽章コンチェルト・グロッソは飽きないめまぐるしい音楽。2〜4楽章はショスタコ的な緩徐楽章の連環。終楽章のインベンションは再び焦燥感を煽るフレーズの連続ではあるが案外聞きやすい。特殊奏法も面白さの範疇。不協和音慣れしていない人には猛毒だが。1楽章冒頭の主題が戻って解決を見ずに唐突に終わり。ちょっとバラつきもあるがバルシャイらしいささくれ立った緊張感のある演奏。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワインベルク:交響曲第12番,○マキシム・ショスタコーヴィチ指揮ソヴィエト国営放送交響楽団(OLYMPIA)1979/11・CDオリンピアは信じられない音質の盤を出す事が有るが、この演奏記録もステレオではあるが音像が不安定で左右どちらかに偏ってしまったりする珍妙なもの。でも、曲は立派。ドミトリ・ショスタコーヴィチの思い出に、と副題が付けられているように、これはショスタコへのオマージュとしてそのスタイルでかかれた作品である。元々ショスタコチックな作曲家だから尚更なのだが、76年作品という非常に新しい作品でありながら新ウィーン楽派ふうの透明感ある無調的世界から始まり(確かにショスタコの晩年作を思い出す)、やがてくる豊穣な音楽の盛り上がりはしかしかなり削ぎ落とされた無駄のないショスタコスタイル。力感に満ちた表現はいくぶんショスタコより分厚めだがそれでも主題の念の押し方や旋律の持って行き方にはあきらかに痕跡が認められる。・・・とここまで書いてなんだが、これは昔の作曲家のレクイエム作品に見られるような死せる作曲家の主題を引用し変奏させていくというようなありきたりなやり方をとったものではない。あくまで「ショスタコのスタイル」の根幹にのみ沿った形で、結局はワインベルク自作の旋律やワインベルク特有のハーモニーによって仕立てられた作品であるところに面白さがある。寧ろベルクだな、という部分も確かにあるのだ(ショスタコとは対極の作曲家だろう)。4楽章制という古典的な構成をとっているのはひょっとするとショスタコの15番を意識しているのかもしれないが、曲的にはあまり似ていない。だがワインベルクがショスタコ作品からの引用をまったくやっていないかといえばそうでもない。印象的な3楽章アダージォの中にはよりにもよって「ムツェンスク州のマクベス夫人」からの引用がある。また、ショスタコのスタイルに倣ったとは言えない形ではあるが、ショスタコのイニシャルを終楽章アレグロの最後に不思議な余韻をもって挿入している。但しDSCHではなくDSであるが。ショスタコ+αの作曲家として、ショスタコ好きにはおすすめしておきます。結構表層的にも感動できるかと。静かで繊細な部分がとくにスバラシイです。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワインベルク:交響曲第4番,○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(MELODIYA/OLYMPIA)1974民族風の主題がカッコイイ。垢抜けていてバルトークのようにスマートかつテンション高く、ハーモニーには新鮮なものは少ないが、とても耳馴染みよく素直に楽しめる。ショスタコの影響は殆ど無い。コンドラシンの棒は時折先が見えなくなるところがあるが、テンションで押しまくるところや色彩的に響かせるところでは極上の聴覚的快楽を与えてくれる。また3楽章などロマンティックな旋律の味をデロデロにならずに上手く描き出しており、ワインベルク特有の新鮮な響きが効果的に再現されている。弦楽合奏的要素が強い曲だけにモスクワ・フィル弦セクのパワーが存分に発揮されており面白い。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワインベルク:交響曲第5番,○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(RUSSIAN DISC)CD堂々たる大曲である。ショスタコーヴィチ以降でこんな規模(45分弱)のシンフォニーを、しかもシンフォニーの通俗的イメージに沿って作曲した人も他にいないだろう。暗く晦渋な楽想ではあるが特有の清澄なハーモニーが清々しい。また、ショスタコに非常に似ている。3楽章制の3楽章前半アレグロ部など空虚なリズム感覚はまさにシニカルなショスタコ節だし、打楽器の使い方も似ている(また部分的にはマーラーを彷彿とさせるところさえある)。その前の緩徐楽章ではこの人の出自がわかるような独特の音使いが聞かれる。ブロッホに似ている、つまりはいわゆるユダヤ旋律が導入されているのである(なのだろうと思う(あやふやごめんなさい))。ポーランド出身のユダヤ系として家族をヒトラーに皆殺しにされたという悲劇的な背景を持つ人だが、東側出身で同様の境遇にあった人として思い出させられるのはアンチェルだ。この人も奥さんなど家族をナチに皆殺しにされている。但し、アンチェルにしろワインベルクにしろプロフェッショナルな音楽家であり、その音楽世界は決して個人的世界に埋没せず寧ろ一面ポジティブでさえある。ワインベルクはどちらかといえば明らかに暗い。でも前記したように響きは非常に繊細で清らかであり、この曲でいえば3楽章最後の音響世界など天国的ですらある(無論絶望的な死のあとの、だが)。マーラー好きは聞けるかも。ショスタコ好きは気に入るかも。私は不謹慎な言い方かもしれないが楽しめた。○ひとつ。コンドラシンはイマイチ客観的すぎるようにも思ったので。ほんとショスタコ+新ウィーン楽派って感じです。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワインベルク:交響曲第6番,○コンドラシン指揮モスクワ・フィル、モスクワ合唱学校少年合唱団(OLYMPIA)1974・CD長っ!ショスタコぽい!シニカル!この人らしく不格好な構成で、1楽章アダージオ・ソステヌート、2楽章アレグレットまではバラバラ、3〜5楽章は連続する。1楽章は長い。2楽章はなかなか魅力的な曲想で、唐突な少年合唱にびっくり。合唱の旋律にポリリズムふうに絡むヒステリックなオケパートにも驚かされる。こういう新奇さはこの人の持ち味だ。3楽章以降は変化に富んでいて面白い。リズムが頻繁に変わり実にショスタコ的な小ばかにした曲想の続く3楽章アレグロ・モルトから、鐘の一打で始まる地獄のように暗いラルゴ(合唱が再登場)、どんどん堕ちていく終楽章アンダンティーノ。透明感がありドロドロにはならない。全体に堂々たる大交響曲であり、演奏も集中力に溢れた技巧的にも不足無いものだ。これは技巧がないとどうしようもない難曲。ショスタコ好きなら是非。録音マイナスで○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワインベルク:交響曲第7番,○バルシャイ指揮モスクワ室内管弦楽団(OLYMPIA)1967・CDちょっと録音が悪いが緊密なアンサンブルと研ぎ澄まされた音色は出色。だがそれ以上にこの曲自体のはなつ香気に魅了された。ワインベルグは1919年生まれ(まだ健在?)だがゲンダイオンガクではなくバルトーク以前の野趣に富んだ旋律的な音楽を描き一部ソ連作曲家ファンには人気のあった作曲家である。ショスタコーヴィチと仲がよく、12番シンフォニーはその追悼曲として書かれている。この曲は3年前に作曲されたばかりのものとしても多分に古臭いネオ・ロマンチシズムのシンフォニーだが、寧ろ遅れてきた新古典主義の作品として認識すべきものだろう。弦楽オケとハープシコードのための、と銘打ってあるとおり、冒頭からハープシコードの古雅な旋律がかなりの長時間独奏される。この旋律がいい。近現代曲でハープシコードを導入した曲は少なくないが、その古楽器の新奇なひびきに作曲家たちが魅了されたのにはランドウスカ夫人の演奏活動の影響がある。ランドウスカは古楽の再発見だけでなく新しい作品の委属も頻繁に行って自らのレパートリーとした。ファリャやプーランクの楽曲はその中でも特に有名な作品といえよう。だが、それらはかなり擬古典を意識した作品である。典雅な時代の空気を今に蘇らせようとしたようなところがあり、意外と古臭く、また単純で無邪気すぎるところがある。それらの作品が作られた時代からかなり下ったこのソヴィエト出身の作品は、まったくその音色の感傷性だけを取り出し、ワインベルク流の語法に組み込んだような作品であり、印象はかなり面白い。と同時に深く染みるものがある。冒頭の独奏旋律だけで私は強く掴まれてしまった。こんなに孤独な音楽があっただろうか。こんなに感傷的なハープシコード曲があっただろうか。それはちょっとサティを思わせるし、金属的なひびきを放つオルゴールを思わせる。ショスタコよりよほど旋律的で古いスタイルなのにけっこう新鮮に聞けるのはひとえにこのハープシコードの音色のせいである。5楽章制でハープシコードはわりと弦楽と乖離して使用されているが、ハープシコードが途切れて弦楽が旋律を奏で出すと、とつとつとしたオルゴール音楽が急にゴージャスなオーケストラサウンドに変化したような妙な感覚をおぼえる。このあたりで作品としての一貫性がやや損なわれている気もしないでもない。だがどの楽章もせいぜい5分前後(けっこう派手な5楽章だけは10分)だから、組曲として認識すればそうおかしな感じではない。ここまで書いてきて詰まる所私が感銘を受けたのは1楽章冒頭のハープシコードだけ、ということに気が付いた。まあ、でも冒頭のソロ旋律を聞いてみてください。この部分だけでも価値がある、真情の篭った佳作である(フィナーレ結部で回想)。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワグナー:「タンホイザー」〜序曲とバッカナール,トスカニーニ指揮NBC交響楽団(m&a/WING/guild/IDIS/youtube等)1954/4/4カーネギーホールlive放送・CD,,引退のきっかけとなった有名なオールワグナー演奏会の、失敗とされる記録である。最初にCDで出たときには大変な話題となった。当時はこういう「失敗録音」は演奏家への冒涜という感覚がまだマニアにあったのである。そのイメージからか、バッカナーレ途中(通して15分過ぎ)記憶が飛び演奏が中断した、それが引退の引き金なる話があったがもちろんNBC交響楽団もアマチュアではないし長年トスカニーニの指揮を受けてきただけにそんなことにはならない。演奏自体は完全につながっており、通常事故の範疇におさまるものになっているのは客席反応より伺えるところだ。実況がトスカニーニの異変と演奏の細かな部分を過大に受け取って急遽ブラームスの既存録音を放送に差し挟むというおかしなことをやった故そのような話になったのだろう。実況放送まるごとというのがDAあたりで出ていたとも思うが、今は確かめようがない。,,ステレオ録音である。最初音質の悪さに辟易したのか、これを疑似ステレオと批判する向きもあったが、21世紀になりリマスター再発にあたって改善され、厚い響きと不安定ながら位相がしっかり舞台配置に沿って捉えられているので間違いなく(実験的であろうが)ステレオ録音である。GUILDは独自リマスターにあたりこれをなぜかモノラルにしており、しかも音も籠もって悪く、何がやりたかったのかわからない。情報量が格段に違うのでステレオを選ぶべきだ。,,ちょっと他の指揮者が単品でやらないからであろうか、ゆるやかなバッカナールに移行してのちは音だけではちゃんと振っているのか記憶が混濁して手を下ろしているのかわからない(明確にわかるという人もいるが私はわからない)からこそ議論も湧くのだろう。正直気になるのはむしろ冒頭からの序曲の方で、悲愴でも感じられたテンポの弛緩には既に引退したがっていたともいうトスカニーニの苦しさが出ている。だが録音の良さもあって響きは重厚でアンサンブルは明確、前へ向かう力強さは減退してもこれはしっかりワグナーである。,,大づかみの要所はいいが、細かく聴けばらしくなさ全開とは思う。ただ還暦過ぎてやっと録音時代の到達したトスカニーニ、セッション録音であってもらしくないようなミスに近いものが織り交ざることはあったわけで、そもそもトスカニーニ幻想をいだきすぎる聞く側にも問題はある。序曲の段階で既に、らしくない手探り感が部分的に感じられるが、ライブだけにたまたま調子が悪かった、と言うと悲愴の演奏ぶりの説明がつかないので確かに衰えはあったのだろうが。,,記憶障害で振れなくなった、というのは目撃証言もあるというが、バッカナーレについてはとくに、このくらいは他の指揮者なら全くアリである。これがスヴェトラーノフだったら陶酔的なテンポと詠嘆の表現を尽くし、オケに全てを任せて振るのをやめたのだ、で済む話だ。偶発的名演だとすら思った。ワグナーファンが飯を吹くだけで、トスカニーニ信者が伝説を拡大するだけで、これ自体はふつうに「NBC交響楽団withトスカニーニ」の良いライヴ音源だ。,-----,,,-----,,
ワグナー:「トリスタンとイゾルデ」〜前奏曲と愛の死,チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(METEOR)LIVE白く清澄なワーグナー。イマイチ物足りない気もするが、こういう演奏もあっていい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワグナー:「ニュールンベルクのマイスタージンガー」〜1幕への前奏曲,トスカニーニ指揮NBC交響楽団(m&a/WING/guild/IDIS/youtube等)1954/4/4カーネギーホールlive放送・CD,,トスカニーニ引退決心演奏会(翌日表明)のラストプログラムで、オールワグナーという手慣れたものとはいえかなり肉体的にも精神的にもきつかったと思え、この前のタンホイザーでの記憶障害のショックからかラスト前にステージを去り、戸惑い気味の拍手を受ける指揮棒が残されたという。演奏はもうトスカニーニのものとは言えないのかもしれない。普通に良い演奏ではあるが、「普通に」であり、もはやテンポの弛緩すら感じさせず、大人し目のテンポでカッチリしたアンサンブルを仕上げた、、、オケが。なので悪くはない。指揮棒を落として去るトスカニーニの存在すら音に表れていない。そういうものである。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:「ニュールンベルグのマイスタージンガー」〜1幕への前奏曲,○クレンペラー指揮ACO(archiphon:CD-R)1957/10/20live,,録音がよければ◎にしたい素晴らしい演奏。このモノラル音から極めて鮮やかに立体構造が浮き立ってきて、これでもかというくらいにアンサンブルの妙技を聞かせてくれる。整理・さばきの巧さが並ではなく、最終音の切り方が余りに即物的で聴衆を戸惑わせているようだけれども、とにかくこの史上最高の音楽による組み木細工をがっしり組み立てていくさまを呆気に取られたまま聴きおえられる、それだけで満足。ラッパやボントロの下品な発声も気にならない。むしろそのくらい強く出てこないとバランスがとれないくらい弦のアンサンブルが素晴らしすぎる。以前書いたWME盤と月表示が違うが恐らく同じ録音だろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:「ニュールンベルグのマイスタージンガー」〜1幕への前奏曲,○クレンペラー指揮トリノ・イタリア放送交響楽団(CETRA)1956/12/17LIVE・LPじつに立派な演奏である。オケの熱血ぶりが冷血クレンペラーにどう届いたのか、タテノリで格調高いテンポ取りでいながら歌心にあふれ、とくにワグナー屈指の対位法的構造を生かし対旋律を極めて明確に謡いあげることで、どこの端をとっても歌そのもの、スコアの上から下までの全てが歌い出す素晴らしい時を作り上げる事に成功している。クレンペラーの鼻歌がいっそう気運を盛り上げて、まあこの時期のクレンペラーは晩年よりはよほど熱血だったわけだけれども、それでも希有の充実した演奏を作りあげた。音さえよければ、さらにバランスさえよければ(ファーストヴァイオリンが聞こえない!)◎ 必定だが涙をのんで○。拍手も盛大。名演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワグナー:「ニュールンベルグのマイスタージンガー」〜1幕への前奏曲,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ASdisc)1946/3/2LIVE・CDオールワグナープロの中の一曲として演奏されたもの。旋律性が若干強調気味だがムラヴィンスキーの演奏と比べるとだいぶんにマトモな感じがする(ムラヴィンスキーファンごめんなさい)。オケの問題とみるべきだろう。テンポ・ルバートなどロマン派的な解釈が施される部分がいかにもオールドスタイルで特徴的だが、この時代を考えるとそれほど奇異な解釈でもあるまい。むしろそれ以外の部分ではオーソドックスと言ってもいいほどワグナーらしい演奏になっており、この指揮者のオールマイティぶりを垣間見せてくれるものとなっている。引き締まったアンサンブルとリズミカルな処理のうまさは中間部に明瞭に聴き取ることができる。後半テンポ良さが際立ってくる。クライマックスでの威厳のある足取りはこの指揮者の並ならぬ力量を見せ付ける。録音の悪さゆえ無印としておくが、クーセヴィツキーに偏見のあるかたは一度聴いてみていただきたい。そういう演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワグナー:「ニュールンベルグのマイスタージンガー」〜1幕への前奏曲,シュミット・イッセルシュテット指揮ハンブルグ北ドイツ放送交響楽団(CINCIN)1961LIVE端正でさっと流れるちょっとそっけない演奏。でもそれがこの人の持ち味なのだろう。オケの北方的な冷たい音も指揮者の解釈にマッチしている。音響バランスは抜群で、奏者もライヴとは思えぬミスのなさ、全般に完成度の高い出来栄えだ。あとはこの冷静な「名歌手」が好きかキライかだけだろう。これはこれで私はいいと思った。ワグナーを挙げるのは掟破りだが私はこの曲かなり好きなので挙げさせてもらった。ごめんなさい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワグナー:「ニュールンベルグのマイスタージンガー」〜1幕への前奏曲,ムラヴィンスキー指揮モスクワ・フィル(BMG,MELODIYA)1941・CD速い。軽い。キーが高い。割合とロマンティックで、フレージングにも気を使った演奏ぶりが意外である。ミャーミャーいうヴァイオリンの音は時代のなせるわざであろうが、モスクワ・フィルらしい前へ前へ進もうとするせっかちなところや、鋭く激しく研ぎ澄まされたアンサンブルはこのオケならではの味を醸していて面白い。対位法的な組み物がとてもスムーズな流れの中にかちっと噛み合っているところはワグナーにも意外と適性のあったムラヴィンスキー、さすがの匠の技である。この速さできっちり出来上がっているところも素晴らしい。いかんせん録音が悪いので無印にしておくが、ロシア流儀のワグナーとして記憶に留めておくに相応しい特徴的な演奏である。クライマックスでのペットのヴィブラートがポイント。気持ち悪く感じる人もいるかも。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:さまよえるオランダ人序曲,ボールト指揮祝祭交響楽団(vocalition)1927/3/9・SP,,ワグナー臭の薄い曲ではあるがそれにもましてワグナーらしさがない。普通のロマン派音楽をやっているようなニュートラルさがある。ただし冒頭よりかなり激しい発音ぶりが捉えられており、覇気が感じられ、ボールト壮年期のスタイル〜ニキシュから学んだ主情的なダイナミズムの影響もあるのだろう〜を窺い知れるものとなっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ジークフリート牧歌,○エリアスベルク指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya)1976/4/19・LP,,オケが違うとこうも違うか、と思わせるところがこの指揮者にはあって、そういうものはLPやCDになっているので、それなりの理由もあってのメディア化なのだなあ、と思うことしきり。放送音源と銘打って海賊盤化したりネット配信されたりするものには余り当たりが無い。これも颯爽としたテンポで若干前のめりに進むエリアスベルクらしい解釈に、オケがすべらかに載って音色以外は中欧的な洗練された演奏となっている。迫力のある表現、強弱の付け方の巧さ、それらが過度にならずかといって中庸とも言えない。静かな場面でのぴりっとした空気も意外とはまっている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ジークフリート牧歌,○ゴロワノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya),,CD化している音源かどうかよくわからない。ラフリンの幻想とカップリングでそれに比べるとずいぶんと録音が悪い。ワグナー指揮者として国内で絶大な人気を誇ったというボリューム感たっぷりの迫力ある表現はここでも健在で、分厚い弦楽合奏のデュナーミクの異常なうねりにいちいち細かくつけられるアーティキュレーションの異様に粘着気質な感じ、ブラスのない室内合奏曲でもこれだけの圧倒的な表現を可能とする指揮者であったことを証明する演奏になっている。ちょっとクリスマスや誕生日の暖かい雰囲気にそぐわない、どちらかといえば素材を引っ張ってきた元の楽劇の壮大なロマンを短い楽曲中にこれでもかと凝縮して煮詰めたような感じがする。元々持っていたこの曲のイメージがだいぶ覆されたものの、いやこれは面白く十分板についている。この時代のこの国のこの指揮者でしかなしえなかった、とことん主情的な演奏(もちろん合奏だから即興解釈でここまで揃うわけはなく、メンゲルベルクがそうであったように解釈が主情的という意味なのは言うまでも無い)の見本として聴く価値はある。なんか思いっきりクリームがてんこもりのタルトを突き出された気分だ・・・そう、「突き出された」。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ジークフリート牧歌,◎フルトヴェングラー指揮トリノ・イタリア放送交響楽団(FONIT CETRA)1952/6/6live・CD,,何てジークフリート牧歌だ・・・このロマンチシズムはもはや前衛の域にたっしている・・・マーラーの時代の。これはマーラーだ。誕生日のお祝いでもクリスマスのお祝いでもない、一つの交響曲である。この自在なテンポ、明らかにドイツ的な音響配慮、しかしほんとうはウィーンふうに美しく艶をみせるのが筋という曲なのに、イタリアなりの艶は残しつつも表現は憧れと慟哭のフルヴェン節だ。速いテンポの中にこれでもかとテンペラチュアの高さを見せつけ、ロマンティックな歌はシンプルな対位構造を極めて分厚く力強い構築物に仕上げ、これはあきらかに楽劇抜粋ではない、独立した一つの・・・独自の世界である。濃厚なロマンチシズムを聞きたければ、爛熟し崩壊寸前のロマン派世紀末音楽を聴きたければ、ツェムリンスキーなどに浮気せずこの「演奏」を聴くがよい。さまざまなライトモティーフがポリフォニックに交錯しながら刻まれる、重い斧で断ち切っていくような激しいリズムは室内楽の領域を少なくともこえている。ベートーヴェンである。ややオケの音が農村的で鄙びてあっけらかんと明るすぎ、録音の悪さもくわえフルヴェン先生がこの曲に見た世界をちゃんと表現できているとは言い難い部分もあるが、新しい演奏ばかり聴いたりやったことのある人にはインパクトあると思います。こんな曲なら、何度でもやりたい。でも、ドクターはとうに天上の人なのである。ドラマの末にヴァイオリンからベースにつけられる優しいアーティキュレーションが、ホルンや木管のえがく牧地風景の上を「一抹の不安をのこしながら」夢のように去っていく、ジークフリートの嵐の吹き荒れたあとの余韻。うーむ、すごい、「たけしの誰でもピカソ」を見てこの曲を「愛の歌」と思った人は、この演奏で「愛の激しさ」を知るだろう。○にすべきだが、ドクターの演奏を初めて聴いたインパクトから◎。,-----,,,,,,,,,,,,,
ワグナー:ジークフリート牧歌,○マイロヴィッツ指揮グランド・オーケストラ(pathe他)1934/11/20パリ・SP,,なかなか深く、起伏あるロマンティックな演奏ぶりで惹きつける物がある。現行版とちょっと違う部分があるように思うが曲の流れは良い。また、オケがけっこう巧い。佳演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ジークフリート牧歌,コンドラシン指揮ドレスデン・シュターツカペレ(melo classic)1955/10/9live・CD,,素直な演奏で指揮者の体臭も演奏者の体臭もしない。曲の流れのままそつなくやっていて拍子抜けするところもある。ほぼ弦楽器だけの曲で、かつここのような手練のオケ相手だと、個性を逆に打ち出しにくいのか。ヒスノイズが気になるが、わりとクリアなモノラル録音(に整形されている)。このレーベルはドイツで集めた稀少音源をタイで盤に焼くという形を取っており(昔からよくやられる方法だ)権利関係が怪しいものも含まれる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ジークフリート牧歌,チャップル指揮現代室内管弦楽団(Vocalion)1925・SP,,vocalionはロンドンの古参レーベルで伝説的ピアニストのサペルニコフ(チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番の初録音(指揮はこの録音と同じスタンリー・チャップル)はチャイコフスキー指揮下で弾いたピアニストのものとしても著名で近年CD化もされた)など特徴的な録音を残している。,,しかしまあ、状態に左右されるSPであり、私の聞いたこの音源は音が全部潰れており楽曲の色調の変化が明瞭に捉えられている以外、なんにも伝わってこない。サラサラしたあっさり解釈によるところもあるだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ワグナー:ジークフリート牧歌,パレー指揮デトロイト交響楽団(melusine)1961live,,さらさらと流れるワグナーでテンポ的には一貫して速い。響きはほの明るく、勘所ではしっかり盛り上げを作っていて、きっぱりした表現はこれもまたワグナーらしくはないが、いかにもフランス的なものだ。緻密に織り上げられたアンサンブルにはこのオケの技術的な高さが感じられる。曲の良さ(弦と木管主体というフランス的解釈向きの編成も含め)はあるのだが、それを素直に引き出したようで、実はしっかり個性を出した演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ジークフリート牧歌,モントゥ指揮ボストン交響楽団(RCA)1960/1/24・CD性急な演奏で少々気の抜けた感じもする。客観的で情が薄く、いわばワグナーをアメリカナイズするという無茶を施した演奏と言うべきもの。音色的魅力の無いオケには酷な曲でもあるが。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワグナー:ジークフリート牧歌,ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団(BSO/IMG)1965/10/1-2放送・CD,,この時期の放送録音であればノイジーなのは仕方ないか。ヨーロッパ的に分厚くも、きわめてあっけらかんとした発音のオケをサウンドとして鳴らしていく、この世代の指揮者としては特異な印象を受ける演奏で、ノルソルでもあるが曲が懐深いと印象への残り方として有利に働く。テンポも揺れるし音量も大きく変化するがいずれもしっかり予め鞣されておりブレが一切ない。この本来室内楽的編成で演奏されることを念頭に置かれた「筆の遊び」をしっかり、一つの音楽の山として築いていて、なかなか聴く耳を離さない。ボストン交響楽団らしい表現であり、これこそが小澤時代に継がれていくのだろう。ワグナーが胃にもたれるという向きにも勧められるかもしれない。少なくとも、この曲はプラスアルファがないと聴き通せないと思っていた私は聴き通せた、意味が違うがそんなやり方もあるのだと、ラインスドルフの出自も思い出しながら終えた。良い演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ジークフリート牧歌,ワルター指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R他)1946-47,,アメリカ時代のワルターらしい、ウィーンの頃の性急さ激烈さが、恐らくトスカニーニとアメリカ楽団の影響で即物的になり、性急でやや無味乾燥というか、ライヴとしての楽しみの無い「いつもの解釈の再現」に陥っているように聞こえる。団体が団体だけに硬質な音になってしまい、ワルターの芸が活きないのではないか。録音悪い。いつものワルター節ではあるが、いつもの芸すぎて何のひっかかりもなかった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ジークフリート牧歌,ワルター指揮ロイヤル・フィル(私家盤)1924・LPラッパ吹き込み特有の音場の狭さは如何ともし難い。肝心の弦楽合奏が室内楽レベルの貧弱さに陥っており、ロマンティックでだらしない表現(ポルタメントの多用!)とともに今一つ馴染めないものがある。オケはすっきりとした音色でウィーンのオケのようにいやらしくはない。だから何とか聞ける。リズムがグダグダに聞こえるのはひょっとすると安定しない録音のせいかもしれない。いずれにせよ円熟のカケラもない演奏であり、出色のところはない。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワグナー:タンホイザー序曲,○ローゼンストック指揮NHK交響楽団(NAXOS)1956,,NML配信限定のシリーズだが一部はe-onkyoからダウンロードできる。これはまあ、旋律だけ聴いていれば楽しい、レベル的には厳しいものがあるがローカルオケの頑張った演奏、とでも言っておけばよいか。お世辞にも本場の演奏とは比べられないが、ローゼンストックにマーラー的な抒情性を感じる人もいるかもいないかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:タンホイザー序曲,マルケヴィッチ指揮ORTF(ina配信他)1955/6/8(1955/6/9?)live,,amazon配信(6/8と表記)はina.fr配信と同一音源。起伏がなく、ずっと大きな音がゆるいインテンポで鳴り続ける。この長さですら飽きる。構造的な配慮は当然なされているものの重心が軽く、オケの特性であることは間違いない(フランスのワグナーというとだいたいこういう響きである)が、高音域の旋律だけが強調され、それもロシアオケのように圧倒的にぶっ放すというまでもいかず、単にやかましい。うねるような情念の感じられる表現、底深い音というのはこのオケには無理なのか。中欧の演奏で聴かれる求心力ある凝縮された音楽はここにはない。マルケが向かないということかもしれない。かといって聴衆反応は悪くはなく、精度もライヴとしては悪くはないので、フランス好きならどうぞ。楽曲が悪いのか?,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:トリスタンとイゾルデ 前奏曲と愛の死,○ゴロワノフ指揮モスクワ放送交響楽団(seven seas他)1950/10/3・CD,,比較的まともな方の演奏だろう。思い入れたっぷりの演奏ぶりが鼻につかない程度に納まっている。ロシア奏法の多用については今更どうこう言う筋合いの指揮者ではないが、この曲ではそんなに気にならない。しいて言えば独自解釈が入って違和感を感じさせる部分がある程度で、これも彼なりの演奏効果を狙った演出であり、曲を知らなければすんなり聞けると思う。ようは自国の演奏家だけによってクラシック音楽の歴史を全て再生させなければならなかったソヴィエトという一種鎖国体制の中で奇形化していった、もしくは内的にぐつぐつ熟成されていった表現の極みがゴロワノフのような指揮者の解釈であり、ロシアオケの個性なのである。決して奇抜さを狙ったわけでもなく、彼等は真剣そのもの、われわれはただスコアとの違いや音表現の違和感のみに失笑するような愚かな評価を、彼等に対して下すべきではない。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
ワグナー:ニュールンベルクのマイスタージンガー〜一幕への前奏曲,シリングス指揮シュターツカペレ・ベルリン(polydor/Preiser Records)1924・CD,,3つの抜粋がCD化されており、前奏曲は別録音もあるとのこと。webで聴ける抜粋もあり、この音源はAmazonデジタル配信ほかで聴くことが可能である。SP期特有の緩さはあるが、かっちりした構成感に毅然とした発声への志向が聞いて取れる。テンポの揺れはフワフワした聴きにくいものではなく意思的に現れ、格好が良い。フルトヴェングラーに引き継がれたものは確かにあるだろう。この時代にこの曲の録音は多いほうだが、時代的に弦楽器の音に重厚さを求められないからおすすめはできないものの、中欧的な構造性より流れ(重厚な流れ)を重視した演奏ぶりは個性である。ナチに真っ先に賛同した指揮者・作曲家として誹りは免れ得ないが、それでもこの音楽は、一流ではないにしても、聴き応えがある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ニュールンベルクのマイスタージンガー〜一幕への前奏曲,トスカニーニ指揮NBC交響楽団(放送)1939/1/7live,,ナチが士気高揚のため工場でフルヴェンに振らせようとこの曲の価値は些かも揺るがない。全曲はしんどいが祝祭的な内容が凝縮されたこの序曲は全曲中もっとも価値が高い。作曲家自身が何を言ってですら音楽の構造物としての堅牢な美観はいささかも傷つけられない。そして旋律と構造にはそれでも可塑性がありいろいろなタイプの演奏が可能なところが、また名曲たるゆえんである。トスカニーニは音の強弱や密度変化は「劇的」ではあるが、緩徐主題などカンタービレっぷりを聴き取れる、それでもインテンポではないがスピードで押し切るこれはもはやスポーツであり、スピードスポーツであり、軽いと言われても筋肉質なので楽器の発音のキレが悉く厳しく短く、木管の隅まで前のめりのリズム感をそこなうことなく同化しようと必死である。対位法が駆使される場面、この極めて悪い音であっても各声部の交錯し組み合うさまがはっきり聴こえ、きわめて立体的で、変に旋律や合奏力で盛り上げるより圧倒的な印象をのこす。キッパリ終わるが、これが軽く聴こえるのはたんに録音のせいだろう。客席の反応はまあまあ良い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ニュールンベルグのマイスタージンガー〜一幕への前奏曲,シリングス指揮シュターツカペレ・ベルリン(Brunswick/Hindenburg)1927ベルリン,,稀少盤ないし高額盤SPの周到な復刻で知られるCD-Rレーベルによる、シリングスの同曲二組目の録音でイギリスプレス。心なしか音は良い。明晰でいっそう軽量級に聞こえてしまうがつまりSPの情報量の少ない音をノイズの中より最大限に引き出しているのである。解釈は別記したシリングスのものと同じだが幾分テンポはまともに整えられているように聴こえる。曲の流れを重視し起伏も弛緩のないテンポに盛り込んで、しかしそれは縦を揃えたりインテンポに終始するトスカニーニらのような当時一般的な方法ではなく独特の柔軟さをもっている。これがフルトヴェングラーの唯一無比と思われた芸風の源流のひとつとなっている。朝には似つかわしい清々しい名歌手前奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ニュールンベルクのマイスタージンガー〜名歌手の行進,ボールト指揮祝祭交響楽団(vocalition)1927/5/5・SP,,SP用に切り詰められた断章だがボールトの行進曲は意外といける場合があり、これも楽曲の包蔵する構造的魅力を威厳をもって、かつ力強く引き出した佳演となっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ニュールンベルクのマイスタージンガー1幕への前奏曲,ゴロワノフ指揮モスクワ放送交響楽団(seven seas他)1951/12/16・CD,,「ソヴィエトでは」ワグナー指揮者として知られたゴロワノフでワグナー集も何度かCD化されている。これはその中でもト印のつく演奏。逆に言うといつものゴロワノフ全開で、ライヴでもないのに雑。ブラス各人が自己主張しすぎで、まるでラフレシアで花束を作ったように毒々しくうるさい。激しく突き進むがトスカニーニのように制御されたテンポではなくもう思うが侭にどんどん先へいくようなテンポ感はまるでアマチュアのよう。面白がる以前にこの曲の様式美とかそういうものを考えてしまった。これはちとやりすぎか。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ニュールンベルクのマイスタージンガー?一幕への前奏曲,ゴーベール指揮パリ音楽院管弦楽団(columbia/vogue)1927/10/19・CD,,メロメロな音で軽いのではあるが、構造的な(この表現ばっか)楽曲をしっかり組み立てて聞かせようという意図は汲み取れる。あまり大きな盛り上がりを作らず流れに任せる、フランスオケ特有の美音(と緩さ)が特徴的な古風な演奏。しかし終盤はテンポルバート、ロマンティックな起伏を大きくつけてしっかりかたをつける。フランスのワグナーも探せばあるものだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ニュールンベルクのマイスタージンガー序曲,○フィテルベルク指揮ロンドン・フィル(DECCA他)1940年代ロンドン,,"フィテルベルクはポーランドの歴史的指揮者。シマノフスキらと「若きポーランド」のメンバーとして国民主義的立場から指揮作曲両面で活躍していたが、第二次大戦の戦火を逃れるように南米からアメリカにわたり、戦後数年にわたりロンドンでdeccaに録音されたうちの一つがこのワグナーである。知るうちにこれをCD化した記録はないがwebでは有料配信されており裏青もあるかもしれない。SP時代より繰り返し録音されてきたワグナーの通例としてやや編成を絞っているようにきこえる(この曲は1stヴァイオリンがやたら薄く聞こえるので一際気になる)。フィテルベルクによる編曲という表記もあるが曲構成は変わらないのでそれほど問題にするものではなかろう。リズムよくきびきびと進むさまは軽快ですらあり、喜遊的なものが感じられる。若干音場は狭いが旋律と対位構造はしっかり聞き取れるので同曲の魅力は十分に伝わる。軽く流し聴きするにはすばらしく向いている。○。",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ニュールンベルクのマイスタージンガー序曲,ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(odeon),,端正な指揮ぶり(颯爽とリズムよくテンポも一部見栄を切るようなところはあるが基本揺れず)終始明るい色調のオケの響きも好ましく、構造的な作品の見通しを非常によくしていて、ワグナーがコルトーなどにどう熱狂的に受け容れられたのかがわかる演奏。序曲全曲であることにも意味がある、、、ワグナー楽曲の完璧な構成をきちんと伝えたいのだ。最初少しテンポが前に流れそうになるがほぼ一貫してきちんと組み上がった演奏というふうで、むしろ中欧の演奏の方がデリカシーも楽曲分析もろくにされていないただ主情的で濁ったものに思えてくる。曲が近代音楽史に燦然と輝く完璧な管弦楽小品であることもあるが、とても気持ちがよく、聴いている間はこれこそマイスタだと思ってしまった。SPによくある性急なところも全くない。これはきちんと現代の耳で聴けるものだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:マイスタージンガー前奏曲,ゴーベール指揮パリ音楽院管弦楽団(COLUMBIA/vogue他)1927/10/19・CD,,題名は原盤ママ。フランスオケによる同曲(はおろかワグナー)の録音としてはピエルネよりも早いと思われる。しかしピエルネの仏オデオン盤より音が良いのは言うまでもなく、分厚く十分の情報量がありほぼ普通に鑑賞できる。演奏はオーソドックスなマイスタというか、聞かせどころを押さえた演奏でオケもほぼ上手いが、素っ気ないテンポ、若干性急な感もあるのはいかにもフランス的、ないしはSP期録音特有の事情をくんだものになっている。いや、フランスと意識しなくても普通に楽しめます。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ローエングリン3幕への前奏曲,ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(odeon),,おそらく録音再生の悪さのため細部が甘く聴こえるが、明るく軽く鳴り響くワグナーを楽しむことができる。といってもオケはきちんと大編成で手抜かりはない。中間部の木管のやり取りがじつにフランス的で、牧歌的な雰囲気すら漂う。ビゼーをやっているようだ。しっかり出来た演奏ではあるので、ワグナー嫌いでフランス好きの人にはうってつけ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ローエングリン三幕への前奏曲,○A.ヤンソンス指揮レニングラード・フィル(ALTUS)1970年7月1日LIVE、大阪フェスティバルホール・CD,,アンコール曲。は、早い・・・。ヤンソンスはレパートリー幅が大きく、ワグナーは他にもマイナーレーベルから出ているものがある。しかしこのブラス陣をもって破裂的な演奏をやられたらもうハハーと頭下げるしかない。無茶面白い。これが正当かどうかだって?そんなの学者にまかせとけ。中間部の木管と弦のアンサンブルも歌いまわしというか、ニュアンス表現がじつに面白い。ただ押せ押せの指揮者ではないということがわかる。これは凄まじい拍手も当然。個人的に◎にしたいが、速さに流れてしまっているところもあるので○。このあたりはムラヴィンスキーに軍配。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ローエングリン三幕への前奏曲,チャップル指揮祝祭交響楽団(Vocalion)1927・SP,,ジークフリート牧歌ではメロメロだったがこちらは楽想がはっきりしているぶんわかりやすい録音となっている。奏者のスタイルは所々古いが、オケの総体としてのレベルは高く、時代なりの統率力もあるがそれ以上に適度に情緒的な変化がしっくりくる。音響的にも華やかだ。個人的にはチェロのボウイングが美しく捉えられているのが印象的。ブラスも力強い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ワルキューレ〜ワルキューレの騎行、魔法の炎の音楽,ロジンスキ指揮ロイヤル・フィル(EMI/DG)1955/4/14ロンドン・CD,,スタジオ録音だけあってパレー/デトロイト響のようなただただ純粋に音を鳴らして突き進む芸風を率直に楽しめる。この人はむしろワグナーやリヒャルト・シュトラウスを振る方が本領だったのに当時の現代物や珍しい演目を(誰のせいかはわからないが)アメリカで振る人になってしまった、しかも活躍期間がモノラル期で録音も散発的としか言いようがなく、その点では、後世に残らなかった名匠として不幸であった。新即物主義とはまさにこの人のことであると「騎行」では思わせるし、大半の録音は同様の、フルヴェンなど好む向きからは冷笑される類の「空疎」なものかもしれない。しかし音そのものに語らせる態度は、次の分厚い旋律音楽で無意味ではないのだということを実証する。オケのせいもあると思うがきらびやかな音に彩られた太い情感が伝わってくる。今は滅多に聴かれない「絶対君主型の引き締め方」をした人、もっともっと大作をまるごと残すことができていれば、ただの直球だけしか投げられない人ではないことが伝わったろう。静かな短調の曲では、パレーとは違ってくるのだ。このロイヤル・フィルとの抜粋集(神々の黄昏二曲が続く)では雄渾でありかつ、美しく豊潤に歌い上げるロジンスキが聴ける。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ワルキューレの騎行,ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(HMV)1921/3/25・SP,,必要最低限の音だけを繋いで繋いで曲にしており、必要最低限の管楽器しか聴こえず(存在せず)、はっきり言ってワグナーを機械録音するのは無理があるのだがそこを何とかしてレコード売上を上げようという資本主義。ワグナーの音楽のちからは圧倒的なのでナチなんかに利用されたわけで、逆に圧倒的だからこそどの国でもさかんに演奏され、録音技術的に無理でも改変してやってしまう、ストコフスキーはそういうところからキャリアを積み上げてきた人である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:ワルキューレの騎行(「偶発的ステレオ」),○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(動画配信/cala)CD・1941,,うーん。すごい。グーセンスやエルガー含めいくつかyoutubeに挙げられている中でこれは素晴らしい出来。ワルキューレの騎行、おなじくストコの「偶然のステレオ」だというのだが・・・もう13年後にはストコが正式にRCAからステレオ録音のものを出す時期だ。,,"https://youtu.be/y314wj0WEy0",音声のみ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
ワグナー:歌劇「さまよえるオランダ人」序曲,ビーチャム指揮シアトル交響楽団(PASC)1943/10/11live,,ノイズリダクションを強めにかけているせいか音圧がない。演奏自体は綺麗だがこじんまりとまとまり、ワグナーらしい覇気がないが、ビーチャムのワグナーというとこういうものなので、それ以上は言うまい。ディーリアスもこの延長上にやっていたのである。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:歌劇「さまよえるオランダ人」序曲(ドビュッシー二台ピアノ編曲),エッセール、プリュデルマシェ(P)(warner)live・CD,,warnerのボックス集成シリーズの中でもきわめつけのマニアボックスで、他社音源からの融通はもはや当たり前だが、とにかくドビュッシーのホンモノの全曲集成として企画された三十枚余りに及ぶCD。さすがにデータやライナーはあまりしっかりしておらずそれもあって配信で聴いているが、CDだと既存盤とのダブリを考慮したら若干高い感はあるものの、これのために録音された初物(多くはこの曲のような編曲や版違いとなるが)は他に替えがたい価値がある。たとえさまよえるオランダ人が「まんまじゃん!」というもので和音一ついじってないにせよ、初期ドビュッシーのスタイルを思い起こさせるロマン性、ワグナー自体のはらむ現代性、ドビュッシーマニアなら満足はいくだろう。演奏はほとんどフランス人によっており、こだわりはドビュッシーの権威が監修しているところからも伺える。もちろん他人の編曲や、補筆版もある(生前のドビュッシー自身が管弦楽配置を他人に任せがちだった)。注記はあるが、個人所有の楽譜は対象外としており、オーリッジ氏のプロジェクトは(ほぼオーリッジ作品と言えるような代物だからだろう)無し、管弦楽のための間奏曲についても対象外として収録していない。編曲も全部網羅しているのかどうか、少し疑問はあるが、面白い音源がカンタータあたりにもあるし、フランソワなど往年の名録音もふくまれるし、何よりピアノと管弦楽のための幻想曲が2バージョン、改訂版が含まれるのも嬉しい。興味があればどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:歌劇「タンホイザー」?三幕への前奏曲,シリングス指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団(folge)CD,,素朴な録音、それに沿った演奏で普通の聴き方のできるものではないが、緩さというかきっちり揃えて音楽を聞かせていくのではなく、横に流れる感じがするのはこの曲だけではない。SPにそのてのものが多いゆえたまたまタイミングが悪かったともとれるが、シリングスの他のワグナーを聴く限り弟子格のフルヴェン先生には及ばぬ小物感はある。ただし響きがしっかり組み立てられており盤石の安定感があるところはドイツ的と言おうか、慣れた感じでもある。これを取り出して演奏するのも珍しい。クレンペラーにあるようだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:歌劇「ニュールンベルクのマイスタージンガー」三幕への前奏曲,○ビーチャム指揮シアトル交響楽団(PASC)1943/10/18LIVE,,すっきりした演奏で軽やかですらある。ビーチャムらしい、円熟とも職人芸とも異なる颯爽とした記録で、トスカニーニ寄りの即物的演奏ではあるがさらにいっさいのデフォルメのない、純度の高いドラマが描かれる。この新発見音源はCD三枚分あるが、中でもノイズがすくなく聴きやすい音。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:歌劇「ニュールンベルクのマイスタージンガー」序曲,×ロナルド指揮新交響楽団(OPERA)1912/3/2・SP,,名歌手序曲は古今コンサートピースの10指に入る超名曲だ。後期ロマン派大規模管弦楽において対位法的手法のここまで完璧に使いこなされ、劇的に効果を与えられている曲は無い。だから名演にならないほうがおかしいのである。ただ、この時代の録音は「記録」「啓蒙」だけのものなので演奏的評価はできない代物で、録音方式上弦楽器の殆ど聴こえず、展開部の大幅なカット、更に演奏時間の切り詰め、テンポの硬直化、、、×。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:歌劇「ニュールンベルクのマイスタージンガー」序曲,ビーチャム指揮シアトル交響楽団(PASC)1943/10/10LIVE,,ノイズがひど過ぎるので無印にしたが、ビーチャムらしいマイスタで特筆ものではある。インテンポでどんどんテンポを煽りアッチェルしていく、ライブならではのスタイル、弦の切れは甘いが管弦楽全体としてはとてもよくまとまり、よい音ならカラフルに響いたことだろう。これが伊達男のワグナーか。興味深いが深みはない、そういう演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:歌劇「ニュールンベルグのマイスタージンガー」組曲,ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(SLS/ODEON)1930/1/13,,3曲抜粋版で一部パセージは共通するが「前奏曲」とは異なる録音。ピエルネのワグナーは録音の古さを考慮すれば立派なもので、じゅうぶんに管弦楽を鳴らしたスケールの大きな演奏がなされているのがわかる。演奏陣もさほどばらけることはなく、とくにワグナーあたりではまったく問題はない。ひどい録音なので一般には向かないが、「前奏曲」より聴きやすいだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ワグナー:歌劇「マイスタージンガー」1幕への前奏曲,○クレンペラー指揮ACO(WME:CD-R)1957/2/20live,,この曲は構造的に完璧なのでクレンペラーのような声部の強引無骨な堆積で音楽を作ろうとする人の演奏でもちゃんと立体的な組み物として迫力をもってきこえるわけで、クレンペラー向きとも言える。オケはどうしても時代的にフルヴェン的な迫力を求めているがクレンペラーの客観冷静鋼鉄の鋳型のような型にはまって別の音楽表現にシフトせざるをえない様子。クレンペラーの棒から離れてカンタビレるヴァイオリンをはじめ勝手なノリでアーティキュレーションをつけていくオケ、そのけっこうソリスティックな崩しは、それでもプロフェッショナルにクレンペラーの棒にはギリつけているし、ワグナーがちゃんと譜面で仕切ってるのでフォルムは崩れない。スリリングなライヴとしてなかなか楽しい。が名演奏とは言えない、ライヴの楽しいドキュメント。コンセルトヘボウってこんなに艶っぽかったのだ。録音茫洋と遠くきわめて悪い。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
ワグナー:歌劇「マイスタージンガー」1幕への前奏曲,○モントゥ指揮ボストン交響楽団?(DA:CD-R)1962/8/11live,,この史上最強の完璧な構造物に対しモントゥの施していく立体的な彫刻はじつにぴたりとあう。完全に組み上がったパズルが、モントゥの独壇場とも言える軽やかで明瞭なリズムと律動によって盛り上げられ、この曲の聞かせどころである対位的書法の何とも言えないスリリングな表現ぶりは最高。明るく愉悦的な雰囲気満点である。ただ軽さが軽薄さと捉えられる向きもあろう。ナチが歪めた民族主義的イメージと楽曲の格調というかガチガチ感から違和感を感じる向きもあるかもしれない。だが内容的には軽い曲なわけで、まあここまで軽いと何だか別のラテン舞曲のようだけれども、録音のせいという気もしないでもないし許されるのではないか。放送ライヴなりではあるがステレオ。○。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,"",-----,,,-----,,,-----
ワックスマン:カルメンの主題によるヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲(原曲ビゼー),○コーガン(Vn)コンドラシン指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA/LYS)1956・CD基本的に後年の演奏と変わらないスタイルなので後年のステレオ録音を聞けば十分とは思うが、硬質でストイックな味は後年のものとは確かに違うので、好きな人は聞いてください。この曲に硬質でストイックな味は不要だと私は思うもので。まあ、ウマイですよコーガン。信じられません。原曲が悪いのか後半は凡庸な感じがして飽きますが。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワックスマン:カルメンの主題によるヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲(原曲ビゼー),◎コーガン(Vn)スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)これは面白い、拍手喝采!曲芸的パッセージにおいては臆面もなくその技巧を誇示しまくっており、ここまでくると潔いのヒトコト。迫力満天、まさに野獣だ。ゲージツ至上主義者みたいに読みの深さとか音色の多彩さなどを姑息に狙うことはせず、ただひたすら真っ向からオーケストラに挑んでくる強靭な弾きっぷりに感服します。曲にあってますね、ほんとに・・。原曲の雰囲気を損なわずにここまで効果的なメドレーを書いたワックスマンも大したものだ。ハリウッドの匂いがぷんぷんするがそこがまたあざとくていい。そういう曲を弾くコーガンも「らしくて」いい。あれ、こりゃ「まんまブルッフ」だな、とか思う技巧的なパッセージの盛り込まれている箇所もあるが、それもまたB級色強くてイかしている。とにかく最初で掴まれたら最後まで楽しんでってくださいお客さん。◎。文句ある? ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワックスマン:カルメンの主題によるヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲(原曲ビゼー),○ハイフェッツ(Vn)VOORHEES指揮RCAビクター交響楽団(RCA)1946/11/8・CDな、なんじゃこりゃ、というくらいとんでもない最盛期のハイフェッツのとても人間技と思えない演奏ぶりが偲ばれる演奏。余りに速すぎて下手な再生装置で聞くと弾けてないようにさえ聞こえてしまうが、どんな細かい音符でも全て正しい音になっているのが凄い。余りに鳴らしすぎて音楽そのものの美しさを引き出すには華美すぎる感もあるが、これはそもそもワックスマンがハイフェッツのために映画用スコアから編曲したもの、ハイフェッツのためにある曲なのだからハイフェッツ流でさばいていいのだ。オールドスタイルなヴィブラートに音色、そこにやや古臭さを感じなくも無いし、そもそもの原曲のビゼー風エキゾチシズムが薄まってしまっている感もしなくはない。扇情的なドライヴ感というのも案外無い(コーガンなどドライヴ感しかない感じだったが)。でもまあ、これは古き良きアメリカ・ハリウッドの香りを伝える直系の演奏として、またハイフェッツという超人の筆のすさびとでも言うべきもの、素直に聴いて楽しみましょう。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ワックスマン:弦楽とティンパニのためのシンフォニエッタ,作曲家指揮ロス・アンゼルス祝祭管弦楽団(VARESE SARABANDE)録音きわめてクリアだがモノラル。この曲は短く凝縮された佳作だが、いかにも硬質でアメリカ的な空疎な響きをもつモダニズム/新古典ふうの削ぎ落とされた音楽は人によって好悪別れるとおもう。アメリカではないがフレンニコフとかそのあたりを思い出させる作風である。はっきり言って冒頭の鮮烈な響きを除いてはよくわからない晦渋な楽想が続く(旋律線が無調的というだけで和声が複雑とかそういうアタマを使うものではありません)。ようは「掴み」はいいがあとが続かないのだ。声部が非常に単純化されており、旋律は旋律だけ、他はリズムと、ああ、軽音楽作家だなあと思わせるところがある。構造的な面白味はない。音響的にはやたらと耳をつんざくティンパニとすばしこい走句がスポーツ的な楽しみを与えてくれるが、まあ、それほど長続きする感興はない。佳作ではあるし、独特なところがあり個性的でもあるが、無印にしておきます。演奏はかなり引き締まって巧い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
伊福部昭:ピアノ組曲,萱原祐子(P),,30年代という時代性のよくうかがえる曲。当時音楽辺境国において民族舞曲に材をとった国民主義的音楽が多かったなか、日本固有の世俗的素材をもとに「盆踊り」「七夕」「演伶」「佞武多」という四曲が編まれている。強調されるリズム要素にはっきり個性があらわれている。,こちらでどうぞ。,,"youtube",,で。,,ファンの多いかたですのでご参考までに・・・,,"とうぜんのように火祭の踊り(ファリャ)",これくらいしか速いのが無かった、、、ルービンシュタインのカーネギーホールライブ映像、40年代。,,"チェレプニン 8つの小品",短期ですが師事されたようです(作品は50年代のもの)繊細な味わい。音のみ。,
伊福部昭:リトミカ・オスティナータ(初版),○金井裕(P)上田仁指揮東京交響楽団(universal/TBS)1961/10/9初演live・CD,,何かに似ているがその何かがわからない、まさに存在しないものの模倣品である。リズムと軽い音響はアメリカアカデミズムのコープランドらを彷彿とさせるが描いている色彩が違う。われわれにはもっと身近な音楽だ。遡ってプロコやストラヴィンスキーの影響を口にするのは野暮というものだろう。演奏はびっくりするほど達者でこなれている。ブラスがなかなかがんばってるしアンサンブルもしっかりしていてリズムがあまり乱れない。リズムといえば伊福部マーチが依然存在していた初版なわけだが、ゴジラのテーマとされるものは音が同じだけでリズムは違うしみぢかい。でもこのへんのかっこよさはアメリカの舞踏音楽にも無い深みと親しみやすさがあるし削った理由は不明だ。総じて伊福部昭シラネ世代にもアピールしうる曲に演奏です。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
近衛秀麿:越天楽(編曲),ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団victor1934/11/12,,印象派の涼やかな響きにたいし僅かに軋みを生じる本場の雅楽が乗り、幸福に融合。当代一のコンビで録音できたのは幸い。とにかくローカルにも西欧にも寄らず、美しい。ストコは新曲争いでも有名。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウズベキスタン共和国国歌(管弦楽),○ゴロワノフ指揮ボリショイ劇場管弦楽団(venezia)CD,,ペネツィアのゴロワノフ集成ボックス唯一の発掘音源で、一度も出たことがないのでは。SP起こしと思われノイズは酷いが、ブワーブワーと吹き鳴らすゴロワノフ特有の豪放磊落さと粘着力は感じ取れる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
日本国歌「君が代」,○ミュンシュ指揮BSO(altus)1960/5/4live・CD,,どことなく笑いを禁じえないブカブカジャンジャンドスンドスンした君が代である。そこまで分厚いオケにユニゾンで響かせる曲ではない・・・このあとの米国国歌はしっくりくる、つまりは同じ方法でやっているにすぎないが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
米国国歌「星条旗」,○ミュンシュ指揮BSO(altus)1960/5/4live・CD,,立派である。まるでミュンシュ自身もアメリカ人になってしまったかのようだ。ただ、同曲の演奏としてはそれほど派手ではない。もちろん同時に演奏された君が代よりは気合が入っているが、そこはそれである。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
黛敏郎:バッカナール,ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1968/2/15放送,,かつてのアメリカの騒音主義的な(ジャズのイディオムや打楽器主義込の)音響に接近しながらも、オネゲルからジョリヴェ(ガムラン要素など近い)、さらにその先の世代の作風まで取り入れた、ないし先んじすらした非常に多彩多様式的な印象を与える黛世界を象徴する作品。魅力的な旋律も忍ばせられているところがこの人の聴衆への態度を明確に示している。ロザンタールにうってつけの開放的な響きの饗宴で、作品自体がしっかり書かれていることもあるのだろうが、拡散し過ぎて瓦解するのを防ぐ手綱さばきが巧い。当時のフランス音楽に近接した作品であり、なおかつそれを越えて耳を惹く要素を多々知的に組み込んだところが、聴衆にも非常に受けた様子がうかがえる(ina配信音源で新作や稀作が入っているときは決まってそうなのだが、作曲家が臨席していると思われる)。パリには一旦背を向けた人ではあるが、これだけの短い中に語られることの多きの中に、フランス音楽への意識が無いとはとても言えない。良い機会に良い演奏家により良い聴衆の前で演奏された幸福の記録と思う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
黛敏郎:曼荼羅交響曲,山田一雄指揮NHK交響楽団(NHKSO)1976/10/13LIVE・LP,,そういえばここでアジア系作家の作品を取り上げるのは初めてだ。1楽章金剛界曼荼羅は騒々しい。透明で怜悧硬質、ぼよーんという響きが特徴的だがいかにもトゥランガリラな音楽にはあまり日本的なものは感じない。メシアンとの違いは清澄で禁欲的な楽想にあるが、美しく感傷的ですらある2楽章(胎蔵界曼荼羅)前半は寧ろいかにもウェーベルン以降の現代西欧音楽といった感じだ。そしてよくわからないうちに騒々しくなったり静かになったりが断続的に繰り返され(作曲家の言葉どおりであるが)終わりまで続く。曲的には美しく技術は確かだが、余り個性はない。演奏は比較のしようがないがこのオケにしては精度が高いことを付け加えておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
イギリス頌歌,バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(bbc/IMG)1969/11/19live・CD,,若干露骨な響きでテンポは鷹揚とした演奏。それ以上のコメントのしようがない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
小品集,○フロンザリー四重奏団(victor/PRSC他),,・ポーション編曲「霊歌集」Go down, Moses; Swing low, sweet chariot1926/2/11,・「深い川」1927/1/4,・ポーション「アイルランドの子守歌」1926/2/10,・ポーション編曲「伝統歌集」,Irish Reel,Sally in our alley (Old English Tune),Turkey in the straw1927/1/4、1929/5/3、1929/4/30,,かのポーションの手による弦楽四重奏編曲集で、きほん民衆歌に拠っている。国民楽派というよりも平易な世俗歌集という趣がつよく、旋律と伴奏のゆったり素直な編曲で、演奏も前時代的な音色で郷愁をさそう。唯一最後の「藁の中の七面鳥(オクラホマミキサー、という名で通っているがそんなにゆっくりした曲ではない)」だけが交錯する威勢のいい走句でカントリー調を演出し気を煽る。但し技巧的にやや弱く、現代の演奏のように音符が全て切れてきこえるような演奏ではない。この団体はビダルフで集成が出ていたようだがよく知らない。pristine配信中。,-----,,,-----
二つのイタリア民謡,○レスピーギ夫妻(SP,P)(pierian)CD,,民謡とはいえ非常に洗練された両演奏者の表現によりかなりスピーディにかっこよく収まっている。とくに奥さんの歌が技術的に素晴らしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
民謡:ロシェルの女の子(仏サントンジュ地方)ソーブプレーン編曲,デゾルミエール指揮管弦楽団・合唱団(le chant de monde)1938/2・SP,,こちらはケクラン編曲の裏面に入っていた素直な合唱曲。短く単純であり、これで何か言うことは難しいが、デゾルミエールの使命感のようなものを感じる。10.679,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
伝統歌:chantons pour passer le temps(Chanson de bord)(オーリック和声・編曲),O.Ertaud,J.Peyron(t)デゾルミエール指揮管弦楽団(le chant du monde)SP,,裏面はグレイ婦人の歌でcascavelle の復刻に含まれている。この歌はどう訳したら良いのかわからないが検索すればすぐに動画サイトで原曲が聴けるのでフランスではかつてポピュラーな歌だったのだろう。「時を渡す歌」などと訳そうものなら脳天気な、この編曲ではなおさら脳天気な曲にぜんぜん似つかわしくない暗いシャンソンになってしまう。二人でコミカルに歌うところにそつないオケ、小規模だがオーリックの腕は生きている。楽しい歌。,-----,,,,,,,,,,,,