-2019/1/9(23修正)た行 tchaikovsky、delius、dvorak、debussyを除く
" ダイアモンド:弦楽のための""Rounds""",◎ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(Capitol)LP,,この厚いオケを俊敏に操りスリリングなアメリカ民族舞踊を聴かせる。これは楽しいが、楽しいだけではなくよいものを聴いたという印象も残すのはゴルシュマンの軽さや透明感に走らない前時代的な音の組み立て方に起因していると思う。何も考えなくてもいい、コープランドの楽しい躍動的な曲だけが好き(コープランドには重く晦渋なものも多い)、という向きにはお勧めできる曲で、演奏然り。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ダイアモンド:弦楽四重奏曲第3番,○ギレー四重奏団(concert hall)LP,,悲歌ふうの両端楽章がミヨー的な中間ニ楽章を挟むある意味無難な作品ともいえるが、ウォルトンのようにわかりやすい透明な美感を常に響きに秘めながら、とくに悲歌の楽章においては親友を悼んで作曲したというその意図が如実にききとれる。最初フォーレと聴き間違ったのは雰囲気としてはありえない話じゃなかったんだなあと思った。ギレーはやや録音のせいかヒステリックに聞こえる箇所もあるような気がうするがつねに緊張感と張り詰めんばかりの力感を抱いて演奏しており、やはりここでも巧みなところを見せる。ナディア・ブーランジェの薫陶を受けたアメリカの作曲家は悉くミヨーになってしまった、というのはかなり言いすぎだが、この人については当たっている部分はあると言わせてもらおう。中間楽章の表現はミヨーの特徴的なプロヴァンスふう牧歌のエコーを感じさせる。牧歌といってもスケルツォやアレグロの少しけたたましいものではあるが、ミヨーほど複雑ではないので聞きやすい。1946年の秋から冬にかけて作曲された、新しいわりに古風な一曲ではある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ダイアモンド:交響曲第2番,○クーセヴィツキー指揮BSO(SLS:CD-R/pristine)1944/10/14初演live,,忘れられた作曲家ダイアモンドであるが、充実した書法に親しみやすい旋律・リズムでわりと聞かせる。ただ、しつこいというか、飽きる。この曲では唯一アメリカ的とも言えそうな四楽章が、掴みはいいのに、同じような調子がえんえん続いて飽きてしまう。豪速球クーセヴィツキーだから聞き通せるというものだ。緩徐楽章などもショスタコを思わせ魅力的なのだが、個性が薄いのはいかんともしがたい。アメリカ産ネオロマンチシズムを好む向きにはアピールする作曲家ではある。復刻はかなりきついが何とか聞ける音質。○。ダイアモンドの交響曲は四番、八番がバーンスタインの録音で聴ける。,,pristineより配信されたものは初出ではなくSLSと同一。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ダイアモンド:交響曲第4番,○バーンスタイン指揮NYP(sony)1958・CD,,美麗な旋律と明確なリズムで聞かせる一楽章が聞き物。緩徐楽章はダイアモンド特有の暗さがあるが旋律は依然美しい。ハープやピアノが時折はっと耳を打つが、これもダイアモンド特有のものだ。NYPの弦の美しい響きが生きたアダージョ〜アンダンテ楽章。終楽章は突然カスタネット様の打楽器で強いリズムから始まり対照的な風を吹き込ませる。ややせせこましい感のある響きだが楽しい管弦楽のアンサンブルを聴ける。ヴァイオリンの高音で奏でられる美しい旋律も耳を引く。扇情的な金管楽器の合いの手、構造はやや単純ではあるが管弦楽の扱いは巧みだ。この時期のバンスタNYPに聴かれる僅かなアバウトさも、最後の謎めいた鋭いリズムの応酬に掻き消される。なかなか聴ける曲に演奏です。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ダイアモンド:交響曲第8番,○バーンスタイン指揮NYP(whra)1961/10/9live・CD,,バーンスタインをもってしてもこの頭でっかちな晦渋作品を娯楽仕立てにはできなかったか、、と思うが、別に娯楽作品として書かれたわけでもないからいいのだろう。ダイアモンドは古風な感覚の中に前衛的な響きなどを入れてくることがあるが、この作品でもたまにあらわれる。モデラート〜アダージョ〜アレグロ・ヴィーヴォの一楽章は一貫して中欧的な晦渋な空気に包まれ、時折構造的な面白みがあらわれるものの、結局わりと単調である。管弦楽の扱いは巧みだ。ラヴェルに師事していたと思うが作風はラヴェルではなくしいて言えばヒンデミットあたりか。主題(アダージョ)、変奏と二重フーガと名付られた長大な二楽章(この交響曲は二楽章制だ)も雰囲気は変わらない。晦渋だ。バンスタならではの起伏付けによってロマンチシズムが引き出されてはいるが(低弦が美しい)原曲の霊感の少なさに限界を感じさせる。終わりなき不協和音はいかんともしがたい。祈りの音楽としては真剣に聴ける箇所もあるし、ピアノが新鮮に使われて耳を引く箇所もあるが。うーん。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
タイユフェール:管弦楽のための序曲,○ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団(cherry)1953・CD,,ガチャガチャした如何にも六人組時代の世俗的な小品だが、古臭さ漂う中にも和声の移ろいに新鮮なものが添加されていてそれなりに楽しめる。ツィピーヌはじつによくやっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
タイユフェール:管弦楽のための序曲,ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI/cherry)1953・CD,,六人組を記念する盤でコクトーによるスピーチのあと収録されている(仏EMIのCDではルーセルの壮麗な合唱曲のあとに入る)派手で楽し気でいかにもパリ社交界というか、六人組そのものである。多彩な楽器の用法、とくにクラヴサンはプーランクらのものよりも管弦楽に取り込まれた「一要素」として機能しており面白い効果を発揮している。耳に新しいひびきもある。短いがきっちりまとめられた演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ダウランド:歌曲集,○スティング(T,ARCHLUTE)カラマーゾフ(LUTE,ARCHLUTE)(DG)CD,,5のみロバート・ジョンソンの作品。クロスオーヴァ活動に積極的で、クラシックへも注意深いアプローチを行ってきたスティングが遂に「編曲ではあるが」古楽という分野を使って積極的に踏み込んだ「作品」として注目される。声質が非常に独特で必ずしもロック的なだけに留まらない魅力をもったものであるために(ソプラノ領域に近いところから完全にテノール領域に移り安定したせいもあるが)クラシックでどう展開するか、というと結構クラシックとして表現できているのである。かなり以前より相互的な交流はあった。ジャズ出であることもあり近代にメリットがあると思いきや最近は静謐なもののほうがより魅力的と受け取られる傾向にあっただけにこの世界はけして遠いものではなかった。よくある商業ロッカーの余技としての付け焼き刃ではけしてないところは、これが滅多に交渉のないクラシックレーベルDGGより、しかしスティング名で発売された正規のアルバム「ラビリンス(原題:迷宮からのソングス)」であることからも伺える。長大なライナーは全面的に本人の筆により、勿論起死回生のグラモフォンのマーケティング戦略ぶりはデザインのノンクラシックさに顕れてはいるが、ロック側にしてみればかなりシンプルでまじめである。本格的に習ったのはカティア・ラベックから十数年前だそうだが、ここで聴かれる声はあきらかに最近のロックアルバムとは異なり、かすれ声を味としていたのに(正確さへの厳しい完璧主義者ぶりは元からなのだが)見事に(とくに高音の)透明感を獲得し、老齢にさしかかったとは思えぬ多彩さを発揮したものとして認識される。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,メニューヒンに倣ったわけではあるまいがヨガにより声量も伸びも極めて伸長した時期があり、ロック方面で見事商業的な再起をはたしたのは新世紀になる直前あたりだったが、その成果がしかし、「完全にクラシック化するのではなく」、己の表現手段として取り容れたまでで、この世界を「クラシックとすら意識せずに」吟遊詩人の世俗歌への共感を「ロッカーにしては」抑制された声で示している。リュート伴奏による二者の編曲作品となっているが、ナレーションや控えめな効果音が有機的に組み込まれ、ダウランドと言われ聴いて違和感をおぼえる向きもあろう、しかしこれはかっこいい。「どちら側から聴いても」かっこいいのである。クラシック奏者がクロスオーヴァをやるときの野暮ったさ、ロッカーがクラシックをやるときの滑稽さが全くない。ガーシュインの一部のしかも「そのまんま」しかやらずに「ジャズやりました」言ってるマネジャーの言いなりの若いクラシック奏者とは違う、どんなジャンルであれ音楽概念への広い見識や人生経験の違いはやはり、歴然としてあるのだ(権力も)。そういったことを考えさせられながら、最先端のポップスアルバムの手法で作り上げられたこの一枚を参考に、クラシックのかたがたも外実共にカッコイイ板を作ることを学んで、ましなものを作ってほしい、クラシックの新作が売れないのは音楽が悪いわけではないのだ。,,"クラシック的には○。消しきれない生臭さは気になるだろう。
ラビリンス
スティング
ユニバーサル ミュージック クラシック

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ダグラス・ムーア:ポルカとケークウォーク,○ストコフスキ指揮CBS放送室内管弦楽団(SCC:CD-R)1953/10/25,,放送ライブ。20世紀音楽(アメリカの)紹介番組の中の最後の一曲であるらしい。ポルカはともかくケークウォークがまるきりそのまんまで気恥ずかしくなるくらいケークウォーク。1893年生まれですよね?世俗的な曲。オケもまた恥ずかしげもなく・・・○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ダニエル・ルシュール:交響詩「アンドレア・デル・サルト」,ミュンシュ指揮ORTF(ina)1950/7/24live・CD,,それにしても同日の録音は極端に音が悪く閉口する。現在はAmazonデジタルミュージックで、ina配信ではナレーション含む放送全編が販売されている音楽会の嚆矢を飾った新曲(原曲は40年代の歌劇)。折衷的な作風は重苦しく晦渋な厚ぼったい音楽にメシアンらと「共通の」響きを振りかけた程度で、平板で、音楽に起承転結を求めたい人には勧められない(11分ほどなので、アメリカ近代アカデミズム交響曲を楽しめる向きには十分耐えられようが)。正直フランス的ではなく前時代的ということで響きの厚ぼったさでは共通のミヨーの機知を求めても無駄である。アンドレア・デル・サルトはルネサンスの画家。ミュンシュについてはどうもぱっとしない。音楽のせいでもなさそうだ。ボストンならもっと鋭く彫刻できたであろう。しかし悪録音の影響も大きい。演奏中にしゃべり声が聞こえ、ミュンシュのいつもの掛け声もあるが、これは正規とされているがエアチェックか何かではないのかとも疑う。まあ、前座曲として聞き流すべき演奏。ルイ・フロマンがルクセンブルク放送管を振って録音したものがセッション録音としては唯一のCDか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
タネーエフ:カンタータ「ダマスカスのヨハネ」,○ゴロワノフ指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団・合唱団(MELODIYA)1947,,エイコーラーの主題の変化形のような旋律からはじまり、悲劇的な音楽から崇高な宗教的世界に昇華されてゆくドラマ的音楽。オーパス1番。オペラティックで鈍重だが合唱が重厚にうねりだすとゴロワノフならではの劇性がうまいこと働いてきてしっくりくるようになる、ただ極端に音が悪い。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
タネーエフ:交響曲第1番,エリアスベルク指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya?)1950年代・LP,,西欧折衷派のかなり、古典的にまとめてきた作品で手堅さが勝るが、小さく仕立てるエリアスベルクのやり方により拡散傾向のあるこのオケが室内楽的に引き締まって、さらに西欧的な前時代の音楽に聴かせてきているのは面白い。ベートーヴェン的に構成された交響曲として無害に聴けるが、トゥッティの音のいちいち強いアタックはタネーエフなりの民族的表現で(オケのせいだろうヒステリックなところもある)、チャイコフスキーより古臭い感すらあるが(四楽章はチャイコフスキーが国民楽派に接近した頃の作風に近づいている)、ライヴではグダグダな演奏もやったこの指揮者には、とくに複雑なところもなくやりやすかったようで、聴きやすい。モノラルの古い録音で篭っており、細部が明らかでなく、おそらく良い録音だったら印象はかなり現代風の明晰な演奏といったものになっていた可能性がある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
タネーエフ:交響曲第3番,エリアスベルク指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya?)1950年代・LP,,冒頭からの暗いやりとりなど依然チャイコフスキーふうのところは残るがすっかりその個性的な書法からの影響を抜き、聴きやすく仕立てている。タネーエフなりの個性がつつましくあらわれ、過去作品より多彩だが耳新しくはない。チャイコフスキーより整理されておりわかりやすく洗練されており、古典志向(ないしロマン派前期志向)が強いが、構造的な方向には向かわず簡潔な動きと常套的な響きプラス前からあるリズミカルな要素の強調(エリアスベルクのメリットがあるとすればこのリズム感のよさだろう)が、無個性なこの作曲家のしいて言えば個性になっている。管弦楽の扱いはプロフェッショナルでとりとめもない流れをカバーしている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
タネーエフ:交響曲第4番,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(MELODIYA/LMC,A440records),,タネーエフ作品としては近年4曲の交響曲が数えられているが、1,2番は習作として作品番号すら振られておらず、3番についても演奏譜が出版されなかったことから、かつてはこの4番が「1番」とされた(但し「2番」以降は無い)。参考までにハンス・モルダーの解説抄訳,,〜この曲は1898年に作曲されモスクワにてジロティの指揮で初演された。出版は1902年、交響曲第1番作品12としてグラズノフに献呈された。実際にはタネーエフの四番目の交響曲である。1番〜ホ短調〜は音楽院卒業試験のために作曲された。2番は1878年に書き始められたものの放置され再び筆をとるのは音楽院の仕事を引き受けたのちのことであった。交響曲第3番ニ短調はアレンスキーに献呈された素晴らしい作品であるが、1884年に書かれ後年インペリアル・ミュージック・ソサエティによって初演された。しかし1947年まで出版されることはなかった。,,ハ短調交響曲は大規模オーケストラのために作曲されているが、ベートーヴェンの古典的なオーケストラ編成が未だ根本にある。古典的な交響曲の基本である4つの楽章により編まれている。第一楽章(アレグロ・モルト、3/4)はヴァイオリンと木管による主題提示から始まり、他の弦楽器とブラスが主題の第二パートに入ってクライマックスに持っていく。著しいコントラストを示す第二主題のワルツはその後すぐに低弦からモルト・エスプレッシーヴォで提示される。,,第二楽章はヴァイオリンの美しい旋律から始まる(アダージオ、2/4)。中間部(ピュー・モッソ)はチェロとベースから律動的で唸るような音形が現れ、オーボエの短くなだめるような旋律によって応えられる。,,第三楽章スケルツォ(ヴィバーチェ、6/8)は軽く淡い。オーボエ・ソロの主題から始まる。中間部〜三部形式で書かれてはいないが〜は6/8から2/4に変わり、リズムのみならず遅いテンポへの変化で印象が変わる。この「トリオ」はアダージオ主題の三〜四小節目に基づいており、ヴァイオリンによって再現される。,,最終楽章、フィナーレ(アレグロ・エネルジコ、アラ・ブレヴ)でタネーエフは主題の素材を再び第一楽章ならびに第二楽章に求めている。この楽章はまず第一楽章の最初の主題のリズムを変容させた行進曲的なムードから始まる。第二並びに第三主題は第二楽章の中間部からとられている。前者は小さなオーボエの旋律がヴァイオリンに用いられている。後者は唸るような音形の最初からなる。ヴァイオリンとチェロのために編まれているが、暗いムードを保つためにG線で演奏される。解決としてそれら主題を違うスピードで同時に用いているが、まさにタネーエフの対位法的技術の熟練を示している。クライマックスとしてタネーエフは第一楽章のワルツ主題に還り、フルオーケストラによるハ長調・モルト・マエストーソに至る。,,〜訳してどうこういうこともないし譜例が載せられない以上余り意味が無い気もするが、まあ、こういう曲ということはわかると思う。非常に西欧的な曲であり、メンデルスゾーンやら(作曲技術の練達さが髣髴とさせる)フランクやら(両端楽章の循環的な構造や主題のムードが似ている)、とりわけブラームスやらといったロマン派先行交響曲をかなり意識した作風である。構造的なところは特筆すべきでグラズノフ以上のものがあり、メロディも鮮やかでチャイコフスキーのようによくできている。ガウクはやや弱体なオケを煽りに煽り荒れ狂って、かなりテンポの起伏もつけ、アタックも激しくつけて盛り上げてくる。グラズノフ風スケルツォである三楽章など舞踏リズム処理の巧いガウクの真骨頂だが、一方ゆったりとした表現では音色が痩せがちで、終楽章のワルツ主題回帰など効果的にやろうと思ったらいくらでもできそうなものだが、テンポが急くように速く仰々しさがないから盛り上げ方が足り無い。もっと潤いが欲しい。全般トスカニーニ的で力強いが、同曲の魅力を拡げるものではなく、○にとどめておく。好み的には◎だが。,-----
タネーエフ:交響曲第4番(1896-7),○ガウク指揮ソヴィエト国立放送大交響楽団(MELODIYA)1951/3 録音は悪いがとても引き締まったいい演奏。ガウクの盤の中でも集中力が途切れずよくできた方だと思う。曲も非常に耳馴染み良い。タネーエフはルビンシュタインやチャイコフスキーに習ったモスクワ音楽院派の人だが、冒頭のショスタコ「レニングラード」かというような力強く土臭い主題の提示からしてむしろペテルスブルグ音楽院派のバラキレフあたりに通じるものがある。伝統的なロシア国民楽派の轍を踏んでいると言えよう。ただ、より洗練されまた古典に倣ったような明快さ、ドイツあたりのロマン派交響曲の形式的な影響も強く現われており、聴いていて安心感がある。師チャイコフスキーの影響はそのドラマ性に現われているがさほど大きくはないように思う。それよりも構成や楽想は時代は下るがペテルスブルク派きっての折衷派グラズノフに似ている。ただ、情報量や個性という点ではやや落ちるかもしれない。4曲の交響曲中でもっとも有名な作品、ロシア音楽好きなら押さえておくべし。とくに1楽章のテーマがどれも素晴らしい。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ダラピッコラ:タルティニアーナ第2番,○マテラッシ(Vn)作曲家(P)(stradivarius)1958/1/21フィレンツェ・CD,,イタリアの国民的作曲家にしてフィレンツェ音楽院ピアノ科教師として長らく教鞭をとったダラピッコラであるが、このアルバムにおいては伴奏ピアニスト指導者としての腕を見本のように提示しており、「主張はしない」が「存在ははっきり」した演奏振りである。戦後作品で明らかな擬古典志向を打ち出した作品であり、メロディも明確でまるで戦前に逆戻りしたような印象を与えるほど古風で簡潔なものである。まあ、無難だけど聴きやすい。演奏はオーソドックス。モノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ダラピッコラ:とらわれ人の歌,○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団・合唱団(000CLASSICS:C-R)1956/6/28LIVE珍しいモノラル録音。精妙なひびきが美しい。ベルクの香りをうつしたイタリア音楽、とでも言っておけばいいのだろうか。ベルクよりも純粋に削ぎ落とされた感じがする(ケーゲルの解釈なのかどうかわからないが)。この曲はまさにファシスト政権のユダヤ人排斥に反抗して作られた戦時中の作品で、3つの楽章がいずれも死んだ者の嘆きをうたっているというもの。歌も歌詞がわからなくても不協和なひびきが身を切られるような痛切さを訴えてきて胸が痛くなる。名作。つめたいひびきの中に「怒りの日」の旋律がピアノなどによって繰り返し現れ、人間の狂気とその末路を黙示録的にあらわしているように個人的には感じちゃったりします(逃げの文体)。キューブリックの映画を思い出しました。○。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ダラピッコラ:管弦楽のための2つの小品,○エーリッヒ・クライバー指揮バイエルン放送交響楽団(STRADIVALIUS)1955・CD,,ダイナミックなエーリッヒが聞ける。手慣れたというか、高度なテクニックの存在が伺える鮮やかな指揮ぶりだ。曲はゲンダイだがロマンティックというのとも違った意味で聞かせる演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ダラピッコラ:二つの習作,○マテラッシ(Vn)作曲家(P)(stradivarius)1958/1/21フィレンツェ・CD,,タルティニアーナ2番のあとに録音されているが寧ろこの作曲家らしいウェーベルン的な前衛性(?)と簡潔な新古典主義を両立させたもので、短いが聴き応えはある。演奏はややロマンティックかもしれない。荒々しさも兼ね備えた民族性のようなものも感じさせる。ここでのソリストは巧い(ピアノはそつなく巧い)。モノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ダルゴムイシスキー:ボレロ,○シャリアピン(B)P.コッポラ(P)(EMI/HMA)1933/1/9パリ,,今はどうだか知らないが当時未発売の音源をわざわざSP(相当の回転数、この歌は77RPM指定)で出したというEPサイズの企画盤。ボレロという名に惹かれたのが正直なところだがフランス録音でピエロ・コッポラが伴奏というところも魅力的だった。歌は古めかしいというよりは素直で楽しく、溌剌としたシャリャーピンの歌いっぷりは実に若々しい。コッポラは軽やかにリズムをかなで、ロシア語なのにフランスの歌を聞かせようとしているかのようだ。かなり音がよく、回転数だけのことはある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
タンスマン:カヴァティーナ,○セゴヴィア(g)(BBC,IMG)1955/8/28LIVE・CD 古風な佇まいの曲でいながら端々に現代的というか「現代軽音楽的」な瑞々しいハーモニーがあらわれたりちょっとオリエンタリスティックな音形が出たりといかにもこの人らしい。タンスマンはギター曲をよく書いたが、ラスキーヌがハープで録音したくらい名曲が多く、様々な世界音楽要素の万華鏡的世界に幻惑されることが多い。しかしここではカヴァティーナの範疇で基本的にはメランコリックな情景をうたっている。セゴヴィアは暗く落ち着いた音色でこれまた古風なひびきの音楽を形作っている。さして難しい曲とは思えないが淀みなく流れるようなセゴヴィアの芸風には品が感じられる。まったく古典を聴いているふうであり、耳に優しいひびきにじっと耳を傾ける、そういった聴衆の姿が目に浮かんできそうな演奏ぶりである。最後は大きな咳が聞こえるが盛大な拍手にかき消される。これはタンスマンをタノシムには短すぎるがセゴヴィア芸を聴くにはなかなか渋い選曲だと思う。○。録音モノラル。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
タンスマン:ポーランド狂詩曲,ロジンスキ指揮クリーヴランド交響楽団(columbia/SLS)1942/4/18,,columbia未発売の録音とのこと。曲はディーリアスかよというような音詩からいくつかの聴きやすい旋律が現代的なハーモニーを織り交ぜて綴られてゆき、最後はドビュッシーかよというようなイベリアな踊りで終わるキャッチーなもの。狂詩曲と言われれば確かにその類の音楽ではあるが、バルトークと同時代の作曲家のものと言われれば少し古い感もある。ロジンスキはさすがの纏め方でノイズまみれの音の中からもしっかり固めてきているのがわかり、職人的な巧さと強権的な統率力を感じる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
タンスマン:管弦楽のための音楽,○クーベリック指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(RCO)1950/3/23放送LIVEむかしダンス☆マンという人がいたがこれはタンスマンです(・・・)。ポーランドからフランス、戦中はアメリカにわたり戦後フランスに戻った漂泊の作曲家です。私はほとんどギター曲しか知らないので興味深く聴きました。この作品は第二次大戦直後(といっても47年ですが)の作曲で、いろいろなスタイルをその洗練された音楽性の中に採り入れていったタンスマンの実力が発揮されている。ネオ・ロマンチシズムの陳腐にも陥らず前衛の頭でっかちにも靡かず、独自のわかりやすさを追求したかのようだ。1楽章、快活なアレグロ楽章。空疎な響きが随分とアメリカっぽいと感じたが聞きやすいのは確か。ヒンデミットのようにひたすら細かく動きまわる弦楽器としっかり絡み合う管楽器など、没個性的かもしれないが素直な爽快感がある。2楽章レント、適度に晦渋なところなどやはりアメリカっぽいが、途中に極めて美しい旋律と和声が入る箇所があり、宗教的崇高さすら感じさせる。不思議な清澄さはいわばヴォーン・ウィリアムズの作品のように瞑想的だ。イギリス的と言ってもいい。この風情は再び動」きまくる3楽章モルト・ヴィバーチェにも唐突に入ってくる。それ以外はリズムを単純にしたコープランドといった感じだが旋律構造などやはりヒンデミットと言ったほうが適切だろう。1楽章でもそうだったが、管弦楽の下にピアノを配するやり方などストヴィンスキーの影響と考えるのが妥当だろう。但しストラヴィンスキーとはまた違った、よく調和した美しい響きをはなつものになっている。六人組、とくにミヨーの響きも聞こえるが4楽章アンダンテ〜アレグロはそんな雑多な派手さで盛り上がる。全般、ポーランドの情趣が何処にあるのかわからなかったが、同時代もしくはちょっと前の世代の音楽を意欲的に吸収していった作曲家なのだなあ、と感じた。録音は悪いが○としておきます。この曲はテンションが低いと成り立たなさそう、そのぶんクーベリックは適切な指揮者だ。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
タンスマン:弦楽のための6楽章,ル・コント指揮ORTF室内合奏団(barclay、INEDIT)LP,,演奏するぶんには面白いと思う。しかし、中途半端な現代音楽だ。新しい試みもバルトークに及ばない。タンスマンにこういうスタイルは、私は求めない。演奏はとてもこなれた楽しいものだが、構造を念頭に置かないとちいとも面白くない。本質に触れていないのか、本質が無いのか。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
タンスマン:弦楽合奏のためのトリプティク,○ジンブラー弦楽シンフォニエッタ(DECCA)LP,,RVW「アカデミックな協奏曲」(ソリスト:フックス)の裏面に収録されているもので、題は「三幅画」等の意をはらむ。元は弦楽四重奏曲でクーリッジ夫人に捧げられたもの。初演直後に合奏曲編曲されゴルシュマンのセントルイスのシリーズに組み込まれ長く成功をおさめた。漂泊の作曲家34歳のときのことである。もっと大規模な編成にあうという本人の考えによる編曲のようだが、大体において下地が小規模アンサンブル曲である場合、例え作曲家本人の手によっているとしても完全には成功し難い。単純性を払拭しきれないのだ。,,中欧の民族音楽に強く影響されたエネルギッシュな音楽、というライナーの記述からも「新しい音楽ではない」ことは伺える。抽象音楽指向だが新古典ふうではなく、時代性がある。いわば折衷的だ。耳馴染みのよい、適度に晦渋で少し不器用だが、部分的に個性的な透明感ある響きと書法がはっとさせ、ニールセンからマルティヌーといった作曲家のはなつ煌きと同じようなものを持っている。演奏はギチギチの弦楽合奏団であるこの合奏団らしさは依然あるが、若干の柔らかさと濁りが加わっているようにも思う。それは曲のロマン性、とくに三楽章後半に現れる清澄な・・・確か影響を受けたと言していたと思うが、RVW最盛期の感傷音楽に似たフレーズは印象的で、曲的には焦燥感の中にこれを持ち込むのはオネゲルのやり方を思わせちょっとあざといけれども、逆に一番の聴き所となっており、演奏もここで太い響きを滑らかにうねらせている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
タンスマン:交響曲第6番「イン・メモリアム」,デゾルミエール指揮cho&ORTF(ina)1947/11/1,,デュルフレ、ライタとともに放送された中では最も追悼に相応しい曲だが録音状態が悪く一楽章はフニャフニャ。不協和音と変則リズムが悲痛な雰囲気を醸すも抒情味が浮き上がるのが特徴的で、特にオネゲルの描くような牧歌風のフレーズの織り交ざるさまが印象的。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
タンスマン:七つの小品「子供のために」(ハープ・ソロ編曲),◎ラスキーヌ(HRP)(ERATO)CDタンスマンは近代フランス楽派系の作曲家の中でも流行作家のような扱われかたをしているようだ。確かに世俗的だったり無個性的であったりもするのだが、この、元々ピアノのために作曲されたごくごく短い曲の群れは、ささやかな夢、かつて触れたことのあるような、ある曲はクラシック風だったり、ある曲はジャズ風だったり、シャンソンだったりといった、思い出が無造作に散らばった子供のころの日記のように、素直に愉しめるものだ。ゴチャ混ぜという点ではたとえばウォルトンの「ファサード」組曲にも似ているが、ここには素材が素材のまま(毒気無しに)単純に置かれているだけである。それがハープで奏されることにより、全くオルゴール風にひびく。綺麗で、多様な、それでいて全曲を通じて、懐かしい感じのする、例えていえば子供の頃に集めたビー玉のような作品だ。ラスキーヌの変幻自在な技がここでは曲にとてもあっている。子供のように無邪気な表現もすれば、ワルツでは優雅なクラシカルな演奏もしてみせる。感傷的な曲では振幅を広げ、愉しい曲は速度を上げる。全く言うことがない。つまらなかったらそれはもう曲の限界。(1995記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
タンスマン:預言者イザヤ,◎ケンペン指揮ヒルヴァーサム放送フィル&合唱(EPIC),,さいきん本当にいい演奏録音にめぐり合えて嬉しい。この効果的なオラトリオはRVW的な感傷的な清澄さから新古典的なメカニカルな世界に展開していき最後は爽快なリズミカルな音楽で大団円となる。オケと合唱のまとまりがよく精緻な構造の再現とリズム処理の巧みさが非常に際立っている。とてもわかりやすい折衷的な音楽といえるが、演奏がそれを更に聞きやすく親しみ易くしている。ともするとRVWのオペラのような田舎臭さやのんべんだらりとした駄々長さに陥るかもしれないし、ヒンデミット的な部分を闇雲に煽ることで硬質で聞きづらい穴に落ちるかもしれない、その両方を避け世俗性ギリギリのところで楽しく聞かせてくれる。馴染み無い曲を面白いと感じさせるのはやはり、名の通った指揮者であることが多い。◎。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
ダンディ:フランスの山人の歌による交響曲,R.カサドシュ(P)ミュンシュ指揮NYP(columbia/RCA)1948/12/20・CD,,LPではそれほど感じなかったが、やはり録音が古くて茫洋としている。カサドシュは三楽章では生硬でたどたどしいというか、腕の鈍りを感じるし、ミュンシュの操るNYPも重く、ひたすら旋律、というより文字通り「フランスの山人の歌」を歌い続ける単線的な演奏に聴こえる。モノトーンに聴こえるのはモノラル録音のせいだけではないだろう。色彩的で透明感のあるフランスの楽団の演奏とは異質で、ゴツゴツし、二楽章の旋律など呪術的に聴こえるほど民族性が強く打ち出されている。曲がピアノ協奏曲的ではないのでカサドシュのピアノ自体の問題点よりオケの響きと録音状態ばかりが気になったが、ミュンシュ自身の持ち味としての、分厚い響きを伴う推進力が同曲に前時代的なロマン派交響曲の趣を与え、和声的魅力を陰に追いやった面もあると思う。,-----,,,,,,,,,,,,,
ダンディ:フランスの山人の歌による交響曲,アンリオ・シュヴァイツァー(P)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA,warner)1958/3/24(1957/11/25?)・CD,,ステレオ優秀録音の新録で、ソリストを際立たせるのではなく、シンフォニックなまとまりを主眼に置いた表現が奏功しミュンシュ最盛期の力強い解釈を乱れなく、ある種品よく反映した佳演となっている。とにかく曲に変にロマン派的な重さや起伏を盛り込まず爽やかにやっているのが聴きやすい。同曲のスタンダードな演奏と言って良いと思う。軽やかで美しい、澄んだ空気感の楽しめるもの。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ダンディ:フランスの山人の歌による交響曲,カサドシュ(P)ミュンシュ指揮NYP(lys)1948/12/19live・CD,,正規録音に先立って披露されたライヴで、なぜかこれだけ復刻から漏れている(2018年現在)。私のCDは裏面の1/4が細かい傷で覆われており(元からかどうかわからない)、再生に問題はないが音質に影響している可能性はある。海外であれば中古盤は入手可能。40年代録音といってもlysの復刻は比較的良好な状態でノイズも少なく、音質も分厚く詰まって分離も悪くない。そのせいもあろうがこれはとてもミュンシュ的で、同曲をフランスの指揮者がやると透明感を保って品良い祝祭感が提示されることが多いが、ほんとはこういうロマンティックなほうが「フランスの山人」にふさわしいんじゃないか、とおもうくらい最初から最後までズシズシ盛り上げる。ハーモニーの妙はさすがに伝わりづらいが、祝祭的。録音バランスの問題かもしれないがカサドシュは弱弱しく技巧のほつれも感じられ、この人は別の指揮者とフランスオケ相手でやればモーツァルト的な軽い響きで融和したのだろうが、ここではミュンシュとNYPの覇気に対して言い淀みがち。とはいえ、私はとても楽しめたし、このくらいの長さなら胃にもたれない。ライヴらしいライヴ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ダンディ:フランスの山人の歌による交響曲,ガルテンロープ(P)アンゲルブレシュト指揮ORTF(ina配信他)1957/7/4live 7/11放送,,STEFから三楽章だけ出ていた録音の全曲版か。STEFより音がこもっている気がするが、聴きやすいノイズレスのモノラル録音。同曲はしっとりした雰囲気の中から突如三楽章で民俗舞曲が始まるような感じがする。したがって2楽章までは聞き流してしまうが3楽章はピアノ協奏曲として特別な耳で聴ける。フランクの派閥でいながら形式的な部分より民謡の多用とピアノの型に囚われない表現が新しく、このソリストはとくに技術的にすぐれているかどうかはわからないが(ミスを聴き取った人はいったんロックでも聴いて耳を標準化せよ)粒だった音が心地よく音楽を揺らす。変な山っ気のない、民俗的な部分に下卑た誇張は一切入れないアンゲルブレシュトらしさも、この演奏の格調高さに一役買っている。よい演奏。2016年10月1日Amazonデジタルミュージックでも配信開始。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ダンディ:フランスの山人の歌による交響曲,トライオン(P)モントゥ指揮BBC交響楽団(ica)1961/10/16・CD,,こういう曲はモントゥは得意だ。オケにも気合が漲り盛り上げる。しっとり、とか、激情的に、とは無縁であっても音作りがしっかりし立体的な響きを磨き作り上げていく点でメリットのある指揮者だと実感させる。向き不向きという意味で比較的単純だが現代的な音楽に近いこういう曲は、当時の後衛的な現代音楽をよくやっていたモントゥはやりやすかったのかもしれない。解釈してないといえばしてないが、ピアノ協奏曲ではなく、ソリストを交響曲に組み込んでいくような方法はモントゥらしいというか、そのような即物的な態度でオケに熱気をもたらす・・・フランスオケですらないのに・・・点は「説明の難しい良さ」、聴くしかない。録音がすこぶる悪く大きな砂ノイズが終始入る。モノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ダンディ:フランスの山人の歌による交響曲,ニコレ・アンリオ・シュヴァイツアー(P)モントゥ指揮ボストン交響楽団(WHRA)1959/7/19live・CD,,驚いたことに明晰なステレオ録音で迫力を増している。環境ノイズか放送パチパチのようなものが僅かに気になる他は、50年代ライヴ録音としては満点。モントゥーの指揮は力感も派手さもあるがそれよりバランス良さが目立ち、楽曲のスコアを踏み外さずに省略もせずに裏の細部まではっきり、楽団の力を存分に発揮させている〜フランス近代ものにはメリットのある楽団だ。確かに巧さ以外に突飛な特徴をあげづらいが、この聴きやすさは立派なメリットだろう。アンリオは同時代ミュンシュ以外の指揮者ともよく演っていたようだが、さすがに同曲くらいでは動じない。楽団と正面から組み合ってしっかり弾いている。楽章毎に拍手が入るのはご愛嬌。つくづくこの曲はフランクのもの以上にフランスの交響曲だと思う。オケが前に出ることが多く、ピアノ協奏曲的な感じはそれほどしない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ダンディ:フランスの山人の歌による交響曲(交響曲第1番),
○ロン(P)パレー指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(LYS/CASCAVELLE/COLUMBIA)1934/5/24,25・CD
フランクからの影響を更に清新な感覚で再構成した見事な曲だが、3楽章制でピアノ独奏が主役となることからピアノ協奏曲的な扱いをされることが寧ろ多い作品である。セヴァンヌ地方の民謡を全面的に用いているところに同時代の北・東欧で隆盛を極めた国民楽派に共通する感覚も感じられる。あっけらかんと愉快な民謡はすこぶる賑やかに曲を盛り上げている。何といっても牧歌的な旋律が沸き立つ3楽章が聞き物だが、このあたりはドビュッシーの「幻想曲」など後進の作曲家の作品と共通する軽い和声感覚が面白い。ぽかぽか暖かくなるような交響曲、異色だがフランスのシンフォニーを語る上では外せない名曲だ。この演奏はパレー・フランス時代の数少ない記録のひとつとして重要なだけではなく、フランス・ピアノ界の重鎮マルグリート・ロンの独奏が聞けるものとして特筆できる。この録音も他のロンのものの多分に漏れず音が悪い。オケ部分が薄くなるのはまだいいが、ピアノが細かい音符が聞こえず弾けていないように錯覚させられるのが惜しい。この時代のピアノ協奏曲録音全般に言える事だがとくにパリ録音は悪いように思う。細かいニュアンスを聴き取るのは土台無理な話し、まあこの曲は明快平易なのでそれほど気にはならない。1、2楽章がやや没個性的な感じもしたが、音が悪いせいかもしれない。パレーのバトンがうまく整理しきれていないように聞こえるところがあるが(テンポが一部ズレてくるみたい)これは演奏のミスなのか録音上の事故なのかよくわからない。だがパレーの即物的なまっすぐな棒はこの頃既に萌芽が出ていたようで、ミュンシュにちょっと似た感じもする(いや、音的にはマルティノンか?)。マーキュリー録音の時代とは違って音にラテン色が出ているのは嬉しい。ロンはテクニックにまかせて突進するほどの気概は感じないが(筆者には元来そういう奏者のような印象があったのだが)明るく煌くような音色が雑音の中から聞き取れ、想像力を掻き立てる。録音の問題はあるがとりあえず○ひとつつけさせていただきます。最近CASCAVELLEのロン集で改めてCD復刻された。(2003/11記) ,,
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ダンディ:フランスの山人の歌による交響曲(交響曲第1番),○ダレ(P)ヴォルフ指揮ラムルー管弦楽団(TIMPANI)1932初出・CD,,アルベール・ヴォルフは比較的新しい指揮者だが録音を余り出さなかったため現在知られていないのが残念。だがこの即物主義的な指揮ぶりはパレーに近い強靭さを伴い一部のマニアには受けると思うのだが。ところでこの古い音でもラヴェル同等の聴感の新鮮さをあたえるとはダンディ、やっぱりなかなかです。無理のない構成感とリズムに和声変化がじつに心地よく、ドビュッシー初期にも影響をあたえているのだなあ、と思ったりもする。この録音は但しヴォルフの常で基本的に直線的ではあり、オケとソリストの古風だが楽しげな響きに助けられている部分もあるか。スピーディな演奏は好きなので個人的には○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ダンディ:フランスの山人の歌による交響曲〜V.,ガルテンロープ(P)アンゲルブレシュト指揮ORTF(STEF)CD,,明晰な演奏で、華やか。録音も良好。ソリストが前面にたちピアノ協奏曲的に展開するが、アンゲルブレシュトらしい立体的で見通しの良いひびきが透明感のあるソリストの音とあいまって、民謡に変な臭みもなく、実にフランス近代音楽的な美しい表現に結実している。よい録音。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ダンディ:交響曲第2番〜リハーサル断片,

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)?live

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血のなせるわざと思わざるを得ない激しいリズムと明瞭な色彩の、ダンディってこんなに凄い作曲家だったのかと思わせる演奏振りで本番より凄いのではないかと思わせるが、短い。他にチェレプニンラヴェル悲愴のリハが収録された恐らく50年代の放送録音。

(参考)ミュンシュのダンディ、というとアンリオ・シュヴァイツァーの弾いた「フランス山人の歌による交響曲」。
ショーソン:交響曲変ロ長調
ミュンシュ(シャルル)","ボストン交響楽団 オイストラフ(ダヴィッド)
BMG JAPAN

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チェレプニン:10のバガテルop.5,
作曲家(P)(動画配信(音声のみ))1938ソヴィエト放送録音
粗野で単調なリズム、必要最小限に律せられた旋律、まるでサティやラヴェルのような響き、この時期のフランス楽壇、プラスストラヴィンスキー、プラスプロコフィエフに同調といった趣の強い作品ではあるが、一曲目に集約された民族性に象徴される、この作曲家のフォーク趣味、それを手法として意識的に構築していく後年につながる個性の在りどころを既に明確に示している。とても耳馴染みよく演奏上の困難も(こうやって豪快に弾ききってくれているわけで)あまりないと推察される反面、どこか内省的で思索する雰囲気もあり、その小宇宙はラヴェルであるとともにプーランクのピアノ曲をもおもわせ、単純とも言いきれない。古い録音は色々考えさせられて良い。巧みではないが強靭でセンスのある色彩的な演奏。
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チェレプニン:エクスプレッションOP.81-9,◎作曲家(P)(EMI/HMV)1935,,モンポウ的?ドビュッシー的?メシアン的?そう、鳥の声。でも、もっと単純だ。まさにエクスプレッション、即興的な響きの交錯はしかし抒情性を失わない。ある冬の日の日常の出来事を切片に切り取った、そんなような音楽である。とても好き。ロシア的ではない。完全にフランス的現代。驚くほどいい音である。他にも自作自演多数。 ◎。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
チェレプニン:ピアノ協奏曲第2番〜リハーサル断片,

作曲家(P)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)?live

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放送音源。簡単な作曲家紹介に重ねて僅かしか流れない。ストラヴィンスキーの影響の強い曲だなあ、くらいの印象しか残らない。無印。録音悪し。一緒に収録されているのはダフクロ二組の穏やかなリハとダンディの僅かなリハ、そして壮絶な悲愴のリハ風景。50年代と思われるが、オケが鳴っていようが関係なく歌い叫び喋くり乱れるミュンシュと意のままにノリまくるボストン響の余りにスリリングで濃厚な、ひょっとすると本番より全然凄い演奏。

(参考)チェレプニン先生のピアノ協奏曲の現役盤はこれしかない。。
チェレプニン:ピアノ協奏曲第2番 Op26 ピアノ協奏曲第4番「幻想曲」 Op78 他 [Import]

BIS

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チェレプニン:ピアノ五重奏曲,mercier(P)パスカル四重奏団(ars nova/forgottenrecords)1962/5/23live放送・CD,,大御所を揃えた自作自演も残されているチェレプニン先生の比較的著名な作品で、まず前衛に立った当時最先端にあったであろう音楽。ストラヴィンスキーほど独特の室内楽ではないが、新ウィーン楽派の目指す音楽に非常に近いものがあり、フランス的なものは一切存在しない。ただ洗練された無駄のない書法がパリ楽壇にいた(いる)ことを暗示するのみである。点描的というような、装飾的要素を排した禁欲性すら感じさせる音楽を、意外とこの楽団は正面からやってのけてみせている。始終聞いていたい音楽ではないが(不格好な形式で少々長い)思考の邪魔をしない、余計な要素のない音楽をちゃんと提示している。聴衆は少し困惑気味。モノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
チェレプニン:交響曲第4番,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1958or9/12/5live,,名教師チェレプニンらしい緻密さとすぐれて洗練されたさまのみられる曲で、ウォルトン二番を彷彿とさせる垢抜けたオーケストレイションをスリリングに聴かせる一楽章、オネゲルっぽい西欧ふうに書き込まれたアンサンブルに加え、野蛮主義的に単純化された打楽器表現、チェレプニンらしさの骨頂たる鳥のさえずりをまじえた効果的な起伏をもつ二楽章は、ミュンシュなのでいくぶん鈍重でテンポが前にむかわないものの勢いはなかなか、この作者特有の繊細な響きを鋭敏にとらえて秀逸である。しかし終幕へむけてほとんどショスタコ中期の退嬰的な交響曲に類似した楽想に落ち着いてしまうと、ミュンシュの得意分野から音楽が外れていってしまうというか、平凡に落ちる感もある。録音はすばらしい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
チャドウィック:弦楽四重奏曲第4番〜U.,○クーリッジ四重奏団(VICTOR)SP,,120年前の南部の酒場で聴いているよう。ここちよくたゆたうリズムに載せた民謡音楽。演奏もまた酒場に流れるように夢見心地。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
チャベス:XOCHIPILLI〜アズテック音楽のイメージで,○作曲家指揮メキシコ管弦楽団&合唱団(COLUMBIA)STEREO・LP「四つの太陽」よりミヨーっぽい作品である。多彩なパーカスと少数の管楽器だけによる楽曲だが、笛のかなでるお祭りのお囃子のような音や高音打楽器(名称不明)は牧歌的な感興を煽り、それらを複雑ながらも基本的にはオスティナートな感じで支える太鼓群がプリミティブながらも現代の洗練をもってミニマルぽいユンユンした音楽を創り出している(意味不明?)。チャベスの指揮がそうなのかもしれないが民族的興奮は薄い。どこかフランスの香りが漂い、濃くて暑苦しい南米流クラシックのイメージはまったく覆される。下手にアメリカナイズされてもいない。旋律が面白いわけでもリズムが多彩なわけでもないのにこの聴き易さ、独特の境地だろう。かなり面白いです。○。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
チャベス:インディアン・バレエ「四つの太陽」よりDANZA A CENTEOTL,○作曲家指揮メキシコ管弦楽団&合唱団(COLUMBIA)STEREO・LP「五つめの太陽の下で〜メキシコの昔と今」というレコード付き装丁本に収録。私は趣味ではないが好きな人は好きな世界だと思う。ちゃんと英語対訳がついているのでご興味のある方はご安心を(してどうする)。楽しい民族音楽。混声合唱とペットと笛と太鼓くらいしかないが、聴感が一番近いのはオルフの教育音楽あたりだろうか。ストラヴィンスキーのバレエ音楽の影響があるのは言うに及ばず、複調的なパッセージはミヨーを思い出させるが遥かに削ぎ落とされた剥き出しの音楽そのものである。多彩なパーカッションはこの人の持ち味のようなものであるが、それがなければ結構20世紀初頭あたりのパリの空気感のある清々しい音楽になっていただろう。ちょっと聴き入り辛いかもしれないが意外と人好きのする音楽です。リズムが甘く発音もカツゼツが悪い感じもするが、十分ノれるので○つけときます。ペットの調子っ外れの感じはアイヴズの消防車のサイレンに似ているかなあ・・・。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
チャベス:インディオ交響曲(交響曲第2番),○バーンスタイン指揮NYP(sony)1963・CD,,単純でわかりやすい、12分程度の曲で、構造的な部分もみられるが、むしろユニゾンで強奏される旋律と、異なる不規則なリズムを刻むマラカスのような楽器の対比がひたすら流れ続ける中間部に本質があるように思う。単純過ぎて飽きるというものだが、バンスタはよく歌わせ聞かせている。メキシコということでミヨーに接近すると思いきやあのような複雑さは持ち合わせず、よく選んだ音符のみで構成されている。楽天的で楽しい作品なので、気晴らしにいい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
チャベス:ロマンティカ交響曲(交響曲第4番),○バーンスタイン指揮NYP(whra)1960/2/8live・CD,,ミヨーふうの楽天的な音楽から中欧ふうの構造で聞かせるカッチリした音楽までよく練り上げられた構成の中に配置されている。三楽章制の連続して演奏される交響曲だが、緩徐楽章を挟んで急峻部があるごくオーソドックスな構成だ。緩徐楽章には晦渋な箇所もあるがそれほど長続きせず、楽天的なメロディや強いリズムによって娯楽性を顕にする。録音起因で音場が狭くせせこましく感じるところもあるが、アンサンブル自体の緊密さ〜凄まじく緊密なわけでもないが〜はよく聞こえる。リズムが膨張したりと手探り感のある箇所も無きにしもあらずだが、それは仕方ないか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
チャベス:交響曲第2番「インディアン交響曲」,コープランド指揮ミネアポリス(ミネソタ)交響楽団(MO)1967/5/1放送LIVE・CDミネソタ響100周年記念ボックスより。沢山の打楽器や金属質な音響が強調されており耳が痛い。全般にはヴィラ・ロボスの音楽そのものであり、ミヨーの影響下にある作品と言っていいだろう。12分という短い曲だが、いささか冗漫である。なぜかといえばやはりひたすら踊りの旋律が繰り返されてるだけで、その旋律というのもあまり魅力的でなかったりするのだ。いや、1、2楽章の旋律やリズムはそれなりにいいが、あと一歩というところで止まってしまっている。土俗的音楽にしてはもう少し工夫がほしい。コープランドはちょっと客観的だがリズムの何たるかをよくわかった、要領のいい演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
チャベス:交響曲第2番「インディオ」,○クーベリック指揮イリノイ大学管弦楽団(不詳)1952/3/29ウルバナ現代音楽祭live,,かつてインディアン交響曲といわれた有名作品で今年のNYPのニューイヤーでも取り上げられたときく。派手派手しい音響と不規則なリズムは比較的人好きするもので、旋律もわかりやすいのでとり上げられやすいのだろう。クーベリックはこの曲にあっている。コープランドとヴィラ・ロボスの目立つ部分をかけあわせたような(それでいて構造的にはヒンデミットだったりミヨーだったり)躁状態の曲に、躁状態のクーベリックが飛び掛り、腕におぼえのオケのソリストや打楽器奏者を煽りまくって盛り上げる。なかなか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ツェムリンスキー:抒情交響曲,○ギーレン指揮南西ドイツ放送交響楽団、ジョンソン(B)、オーサニック(SP)(ARTE NOVA/BMG他)1994・CD,,マーラーよりはずっと客観的で単純な思考にもとづく曲で、大地の歌を参照したのは言うまでもなかろうが内容的には抽象度が高い。天国的な楽観性が支配的で、此岸のリアルな苦難と救済は全くあらわれない。だから熱狂的にのめりこむ要素というのは余りなく近代好きに今ひとつ人気がないのもわかる(現代好きには人気がある)。シェーンベルクの師匠というか少し年長の友人、シェーンベルクが時期的にブラームスからウェーベルンを包蔵した広大でやや生臭さも残る世界観を持ったとすれば、ツェムリンスキーは初期リヒャルトやマーラーの狭い世界の中で書法の純化をすすめていこうとしていた感もある。この作品に一貫する響きの透明性と音響的な怜悧さはギーレンの手によって更にその印象を強くさせるように仕上がっている。ブラスの盛大な響きでロマンティックに盛り上げることはせず(「春に酔えるもの」のような表現は無いと言うことだ)計算された管弦楽配置によって効果的に聞かせようとする方法論は現代指揮者向きである。生臭い音楽が嫌いな人にマーラー的なものを聞かせたいとき、唯一旋律にマーラーの影響の強いものが伺えるこの曲はうってつけだろう。このオケらしい清潔さがまた余りにすんなり曲に受け容れられているため、どこで終わったのかわからないくらい自然に終わってしまうようなところもあり、歌唱自体もこれはデジタル録音のためか余りに綺麗に捉えられすぎてライヴ的感興を多少残すことすらもしないため、大地の歌の延長戦を要望していた向きにはやや物足りなさを感じさせるかもしれないが、魅力的な旋律だけは評価してほしい。タゴール詩の世界との違和感は唐詩とベトゲ訳とマーラーの間の乖離に似て非なる、といったところか。マーラーはとにかく主観の存在が強い。目下薦められる演奏の上位にあることは確かだが、非常に純化され綺麗ではあるものの、交響曲としてのまとまりの演出と、押しの強さが無いのが難点か。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ツェムリンスキー:抒情交響曲,○ユリア・ヴァラディ(sp)フィッシャー=ディースカウ(b)ツァグロセク指揮オーストリア放送交響楽団(orfeo)1984/8/11live・CD,,マーラーの大地の歌との関連性云々が言われるが作曲時期が離れており、直接的表現が避けられ、無調なども取り入れて客観的ですらある「多様式主義風な」交響曲である。マーラーとの近似性は交響曲概念の極度の拡張、原詩の東洋性(但し内容も音楽も全く違う)、一部表現の援用、一部楽器の表現法、そのくらいだけに感じられる。演奏時間もマーラーほどには長くは無く、歌はタゴールの愛に関する詩から男女が交互に歌い離別していくさまを「冷静に」表現している。といってもシェーンベルクの師匠なわけで古い世代、旋律のロマン性からは離れられず、ウィーン世紀末から世紀初頭の響きからは離れられず、そのあたりが逆に魅力として演奏機会を増やしたゆえんだろう。この演奏は評判をとったものだが二人の歌唱が圧倒的で、オケはウィーン的な音はともかく技術や押し出しの強さはやや緩く感じられる。全盛期とはいえないであろうディースカウだが若さに任せてがなりたてるようなものではなく、しなやかに曲に沿った表現をおこなっている。この時期にしては録音はあまりよくないか。○。1982年というデータも見られるが誤り。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ツェムリンスキー:抒情交響曲(1923),ギーレン指揮,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ツェムリンスキー:抒情交響曲(1923),サロネン指揮フィンランド放送交響楽団,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ツェムリンスキー:抒情交響曲(1923),シノーポリ指揮VPO LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ツェムリンスキー:抒情交響曲(1923),マゼール指揮ウィーン・フィル(ディースカウほか)(DG),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ティペット:交響曲第2番,◯ボールト指揮BBC交響楽団(WME:CD-R)1958/2/8初演live?,,四楽章からなる立派な交響曲だが、何度か聴かないとホントの良さがわからないかもしれない。叙情的なフレーズが高音で爽やかに奏でられるかと思ったら不協和音に彩られた現代的な音楽に突入する。コープランドの交響曲を思い出した、が、これはもっと複雑でわかりにくい。ボールトは機能的なオケを使ってやりきっているが、なにぶん初演記録と思われる。もっといい演奏の記録はあろう。自演もあるはず。プチプチ雑音あり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュカス(デュカ):ヴィラネル,○ドヴェミー(HRN)アンドルフィ(P)(EMI)1927-38 やたらと難しい曲だがいかにもドビュッシー後のサロン音楽といったふうでなかなか聞かせる。名人芸をタノシムための曲(というかパリ音楽院の課題用に作曲されたそうだが)。どこでどう息継ぎしているのかわからないほど隙のないドヴェミー、この曲ではしっかり独自のヴィブラートを聞かせている。ホルンが木管楽器とされることがあるのもうなづける軽やかな音色も独特だ。きらきらときらめくような上品な一曲。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
デュカス(デュカ):牧神の遥かな嘆き,○ウルマー(P)(CONCERT HALL)LP ドビュッシーの墓銘碑と称される数々の曲の中ではいちばん有名なものだろう。サティと言おうかスクリアビンといおうか。ありがちといえばありがちだが、追悼の気持ちがあると言われればそのように聞こえる。デュカスの作風からすると結構新しい感じではある。ドビュッシー的なものは無い。○。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
デュカス(デュカ):魔法使いの弟子,○カンテルリ指揮ニューヨーク・フィル(ASdisc)1955/1/30LIVE・CD デュカスと言われるとひと世代前の作曲家との印象が強い。まだロシア五人組あたりの民族的な音楽から受けた影響がそのまま残っているところがある。ドビュッシー以降の作曲家としてはいささか重くてロマンが過ぎ、私は結構苦手だ。この指揮者はモダンな颯爽とした演奏を指向している。当たりである。どうも古臭く重く振る人の多い中、明快にさばいてみせたカンテルリ、最後は盛大な拍手。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
デュカス(デュカ):魔法使いの弟子,○トスカニーニ指揮ハーグ・フィル(DELL ARTE他)1938 この曲を聞くと私はなぜかベルリオーズの幻想を思い出す。あからさまなモチーフの扱い方もそうだが、なんとなくどことなく古いのである。ロマン派の匂いがする。こういう曲はデロデロにやってはならない。思いっきり引き締めて激しい律動で聞かせるしかない。緊張感と前進力、兎に角それに尽きる。トスカニーニはそんな私の勝手な要望にきちんと答えてくれた。こうして見通しいい演奏できくと曲の魅力がわかってくる。結構構築的な曲なのだ。曲の立体構造を理解し再構築する行為によって説得力はまるで違ってくる。対位法的な動きなど面白い。きっちりしているのが清々しい。ちょっといい感じの曲だったのだな。そんな気持ちを込めて○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
デュカス:「ラ・ペリ」のファンファーレ,○アンゲルブレシュト指揮ドビュッシー音楽祭大管弦楽団(Pathe/COLUMBIA/RICHTHOFEN:CD-R他)1930年代,,SPではドビュッシーのものと両面になっていたもの。割と見かける。壮年期アンゲルブレシュトの覇気漲る力強さはむしろこっちのほうが発揮し易かったような感じがする。ごく短いのでこれまで。○。ドビュッシー祝祭管弦楽団とも表記(COLUMBIAのSPでドビュッシーの夜想曲とファンファーレとカップリングになっていた)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュカス:ヴィラネル,◯ブレイン(hrn)ムーア(P)(EMI他)CD,,適度な現代性が和声にあらわれていて面白い曲ではあるのだが旋律をホルンが吹く必然性は曲的には余り無いように思った。演奏レベルは言わずもがなだが個人的にはムーアのピアノも若々しくて良かった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュカス:バレエ音楽「ラ・ペリ」,ゴーベール指揮パリ音楽院管弦楽団(columbia/vogue)1928/4/3・CD,,やわらかなうねりのえんえんと続くワグナー〜リストの系譜につながる分厚くロマンティックな作品で、スクリアビンの痙攣的な動きも含む半音階的で繊細な響きの感覚と共通するものが確かにある。ただロシア楽派からの影響は少なくやはり中欧音楽を拡張した範囲内に印象派的世界を構築したものとかんじる。だから明確なリズム主体の動きが少なくバレエ曲としては少し難しいというか、ストラヴィンスキーが現れる時代にこれというのはちょっとロマンティックに過ぎるか。これがまたハッキリした表現のゴーベールだとワグナーに聴こえるし、また、時代的に緩いオケの特に音程のあやふやさが精妙さを損ない、元の曲の価値をわかりにくくしている。正直、スクリャービンを健康的にしたような音楽にしか聴こえてこない。だからといって悪いことだけでもなく、うまいことハマってしまえばドビュッシーの同時代人の、牧神からの影響下の音楽として楽しめるだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュカス:ラ・ペリ〜ファンファーレと舞踏詩,マルティノン指揮ORTF(erato/warner,icon)1971/9/21-23,27・CD,,ファンファーレが別途作られたのは承前。新鮮な響きで旧来の鈍重だったり乱暴だったりしたファンファーレとは一線を画する「印象派後のファンファーレ」。本編は妖しい半音階に彩られた官能的な音楽で、寄せては引く波のような感情のゆらぎを、強調して煽るのではなく繊細な色調で描いていく。ワグナーやスクリアビンを思わせる演奏になっておらず、あきらかなフランス音楽として認識させるのは和声への鋭敏な配慮ゆえだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
デュカス:歌劇「アリアーヌと青ひげ」〜3幕への前奏曲,○マルティノン指揮ORTF(EMI)1972/2・CD,,精妙な音楽は多分に描写的で、弦の細かい刻みが中欧歌劇とは違った和声の中に取り込まれドビュッシー初期を思わせる。断片的な印象派的音楽だがマルティノンの明晰な表現は若干オケの弱みも感じさせるもののデュカスの同時代における古くも新しくもある不思議な立ち位置をよくあらわしている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュカス:交響曲ハ長調,○マルティノン指揮ORTF(EMI)1972/2・CD,,ひっさしぶり、LPで聴いていた音源をCDで聴いてみたが、もう、フランクだった。ここまで和音も組み立てもフランクか、剥き出しにされたソロ(パート)の扱いかたは違うが合奏になるとあの分厚いフランクになる。どうも完成度がイマイチ。あと、長い。。フランクより一歩踏み出した転調や移調の現代性には聴くべきものがあるが、これならダンディ聴く。マルティノンは相変わらずみずみずしい。だがやや単調か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュカス:交響曲ハ長調〜U、V,ヴォルフ指揮ORTF(french broadcasting system)LP,,いつものナレーション入りの放送録音。環境雑音が聞かれるのでライヴかもしれない。一楽章を欠くのが惜しいが、オケを統率し力強く前に向かう姿勢はヴォルフらしく、三楽章は特筆に値するかっこよさだ。ロザンタールに俊敏さを加えたような、色彩性にとりわけ配慮しながらも要所要所を押さえたうえで全体の精度を上げるよりは音楽的にまとまったものを提示しようとしている。デュカのまだ若かった頃の唯一の交響曲は三楽章制で、構造には違うものも存在するが印象的にはフランクのそれを想起させられざるを得ない形式主義的なかっちりした楽曲の中に、ワグナー的な悠々とした流れを作りながらもその影響から脱し、次世代の音楽を創り上げようという精神〜グリーグやロシアの諸作家など周辺国の作曲家から伝わるもの、さらに同世代ドビュッシー前期風の曖昧模糊とした和声の部分導入〜がすでに感じ取れる。二楽章は部分的な斬新な仕組の挿入が特徴的なので、ぜひ真価を確かめてほしい。旋律も形式的にも思いっきりフランクである三楽章はこれはこれで盛り上がるが、展開のための展開、というような、形式(決まりごと)のために楽譜を引き伸ばすようなところは少々飽きる。モノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュカス:交響的スケルツォ「魔法使いの弟子」,アンゲルブレシュト指揮パドルー管弦楽団(pathe/SLS他)1929・CD,,まだデュカが思いっきりパリ音楽院作曲科で教鞭をとっていた頃の「同時代同地域録音」であり、ストコフスキーが有名にする前の純音楽として聴ける貴重な記録だ。60年代生まれなのに後年かなり若い世代を教えていたから(メシアンらはさながら「魔法使いの弟子」だったわけである)名前はとても有名なのに、曲となるとこれしか出てこないのは勿体無いことだ。19世紀末に形式主義的な立場をとりながら次世代への橋渡しをするように当時として先鋭な和声的書法を試み、以後にはドビュッシーを採り入れる柔軟性も持ち合わせていた人である。,,壮年期アンゲルブレシュトの水際立った指揮記録はこの他にもいくつか復刻されている(弛緩のない前進する力と各楽器の音をはっきり分離させた色彩性は後年のドビュッシー指揮者としての記録とイメージの違うところもあるし、オケの差でもある)。ロシアのリムスキーあたりをほうふつとさせる古風さも示しながら、ホルストが惑星でパクった現代的な鋭角のダイナミズムも織り込まれ、これは演奏のしようによって変わる曲である。私の刷り込みはトスカニーニなのだが、正直古臭く感じたのはトスカニーニが現代曲をあまり色彩的に刳り出す解釈を施さず即物的に扱ったため、強調して煽るべき部分が隠れてしまっていたせいだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
デュカス:交響的スケルツォ「魔法使いの弟子」,ゴーベール指揮パリ音楽院管弦楽団(columbia/vogue/Malibran)1936/12/11・CD,,20年代とはえらく違った、しっかり低音まで響く録音で、よりゴーベールという指揮者の表現力を実感できる。さすがお国物というべきか、主として音量のすべらかな緩急、精妙な響きはこのオケにこの指揮者という組み合わせの妙だろう。旨すぎて普通に聴こえてしまいアンゲルブレシュトほどの印象が残らなかったが、ちゃんとこの曲の現代性を引き出し、まとめ上げた録音。しかしまあ、トスカニーニとか当然やっていたのだろうし、音色以外に売りは何かと問われても答えづらい感はする。ゴーベールは電気録音以前の1920年代に同じ組み合わせで一度録音している。こちらはSPではフォーレ「シャイロック」から夜想曲第五番が盤面埋め合わせに収録されていた(Malibran(Amazonデジタル配信で現役)の集成に共に収録)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュカス:序曲「ポリュークト」,マルティノン指揮ORTF(ERATO,EMI/warner)1971/9/21-23,27・CD,,重厚な後期ロマン派音楽の手法でつづられていく比較的若い頃の作品。マルティノンは同時期の録音に多い、ゆったりとしたテンポをとっておりスピードは遅いが、ドラマティックな起伏をむしろ積極的につけていき、官能的な場面では澄んだ艶を出し、かつてボロディンの交響曲などで見せた激しい面を垣間見させる(だがヴァイオリンがどうも「丸い」)。フランス的主題が扱われた作品で、木管に比重の置かれた響きなど当時主流であった後期ロマン派、とくにワグナーのものからは僅かに離れ、フランクを思わせる夢幻的な浮遊感が筋に沿って現れるところは、フローラン・シュミット的な折衷性も感じる。だが楽曲を支配するムードはやはり国民楽派が流行った頃のものと同じで、古臭さは抜けない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
デュカス:舞踏詩「ラ・ペリ」,ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(ODEON/decca)SP,,作曲家と同世代、2歳上で没年もほぼ同時期という、作曲家兼指揮者によるまさに同時代録音である。この曲は中欧ロマン派の色が濃く、前時代的な半音階を駆使したリムスキーを思わせる作品で、魔法使いの弟子よりも古い感じは否めない。だがピエルネもそうであったようにドビュッシー後の和声感覚を取り入れてドイツの音響からは浮遊し、ロシアのどぎついほどに華々しい管弦楽の色彩を取り入れたような、初期ストラヴィンスキーを円熟させたような特有の魅力を持っており、ロシアでさかんだったバレエ音楽として意図されていたのもさもありなんな作品である(ディアギレフとは切れたが)。私の盤は中盤で荒れており聴きづらいが、それを除いて耳を澄ますとピエルネが噎せ返るような響きを引き出し、ワグナーらとは隔絶したフランス風の音楽を意図してドライヴしているさまが伝わってくる。管楽が駆使されるが後にソリストとして名を挙げる人も含まれていたであろう、いずれも表現の瑕疵はなくスピーディな展開を妨げるものはない。乏しい音を想像力で補えば弦楽器もウネウネとうまくやっているようだ。明るく軽やかに、この曲の骨董録音は他にもあるが、ピエルネのものは表現が「新しく」思えた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュカス:舞踏詩「ラ・ペリ」,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1957/4/6live 放送,,貧弱なモノラル音だが情報量はあるので大音量で、できればリバーブかけて聴いてほしい。とくに冒頭聴き取れないだろうが極端な音量差が付いてくるのでご心配なく。表現も壮年期のミュンシュに全盛期のBSO、リヒャルト的な重い音響に半音階を駆使した楽曲へ、輪をかけてうねるような演出を加え、場面場面で明確に表情表現を変えながら、しかし一貫してぐいぐいと引っ張っていく。強引さをもって原曲バレエの同曲に純管弦楽曲としてのシンフォニックな纏まりを与えている。ワルツの表現などは調子の良い時のラ・ヴァルスの演奏を思い出させる、気を煽るものだ。同曲、長々しくもあるので最初と最後は少し飽きるが、音量の大きな部分ではとにかくミュンシュらしさ全開、「この人がリヒャルトやスクリャービンをやったら…?」と想像しながら胸が熱くなる(リヒャルト・シュトラウスについては今度非正規ライヴがまとめて廉価集成される)。同曲を好まない私のような向きはもう少し響きのフランス的なところを繊細にとらえてもらえないと単なる後期ロマン派作品として二度と聴かない可能性も高いのだけれど、とにかく中盤の思うがまま重厚なオケを操るさまには痺れた。それにしても最初にナレーションが入るのだが、オケの編成をえんえんと言うのは何か意味があるのだろうか。特殊楽器があるわけでもなし大編成であることを言いたいのか、時折そういう楽曲評を見かけることがあるが、それを見て何を読み取れというのかよくわからない。演奏するならともかく聴くだけなら管楽器の本数くらいわかれば十分だろうに。,-----,,,,,,,,,,,,,
デュカス:魔法使いの弟子,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)LP,,ガウクはソヴィエトもの以外、とくに南欧系の曲も極めて明瞭な録音で残している。これはステレオである。音符の一つ一つがハッキリとした演奏で、迫力があり、リズム処理も巧く、しかし純音楽的に(ベートーヴェン的に)処理している。ワグナー的というよりベートーヴェン的のように感じた。曲が苦手なのでこれ以上無理。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュカス:魔法使いの弟子,○パレー指揮カーティス・インスティテュート管弦楽団(DA/vibrato:CD-R)1978/2/13live,,低音はじつにもっさりしたリズムも何もないドイツ的な重さがあるが、高音のまるで胡麻を撒き続けるようなパリパリ跳ね返る瑞々しい音はイマジネーションの拡がりある描写的表現をしっかりつけている。低音楽器がもっさりしているのとヴァイオリンから打楽器系からのバレエ指揮者的な俊敏で明瞭なリズム表現がコントラストとなっている。比較的この世代では古い曲なのでロマン性を保つのも悪くはないが、どうも低音の音符の長さの明確でない表現は好きではない。ま、描写音楽だからか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュカス:魔法使いの弟子,ヴォルフ指揮ラムルー管弦楽団(timpani/naxos配信他)1929-33・CD,,今は無きtimpaniレーベルがアルベール・ヴォルフとラムルー管弦楽団の蜜月記録をボックス集成していた。SP板起こしでノイズは酷い。音像は明瞭にとらえられ、はっきりした発音、明るく色彩的でかつ集中力があり、このコンビの相性の良かったことをあらためて確認できる。かつては店頭からすぐ無くなってしまい入手が困難だったが、ネット流通の拡大とCD価値暴落により難なく手に入ることだろう。調べたらnaxosの配信音源に含まれていた。SP復刻はうるさ方が何かと難癖つけては原盤主義を唱えたものだが、この復刻はノイズ耐性さえ身に着けていれば元の像が容易に把握可能な範疇にあるので好き者にはおすすめである。すくなくともピエロ・コッポラより情感と技術を感じ取ることができ楽しめると思う。同曲はわたしはあまり得意ではない。デュカのはなつ前時代的な「古臭さ」が苦手なのだ。ここでは構成が弱いというかロマンティックな雰囲気、物語性は希薄。しかしドビュッシー時代のフランスの革新的な管弦楽構造、ひびきがよく伝わってきて、ラヴェルを聴くような、明瞭さ、そして清新さが印象深い。リズミカルというほどではないが浮き立つような感じも快く、変に細工の無い程よいテンポ設定もよい。フランス古記録として貴重なもの。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュカス:魔法使いの弟子,ホルダ指揮ナショナル交響楽団(decca/DUTTON)1945/9/14・CD,,トスカニーニ的にまとまった演奏。このオケはけして世界的に有名ではないがLPではよく見かける名前でもあり中庸のうまさがある。ダットンが縁のファリャ三角帽子やスペインの庭の夜(カーゾン)などとともに復刻したさいは大して話題にもならなかったが、復刻状態も良好で、モノラルでよろしければ、ストコフスキーみたいに拡散的な色彩を振りまくたぐいの演奏ではなく、求心力のある筋肉演奏としてイケますからどうぞ。デジタル配信販売されています。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュカス:魔法使いの弟子,マルティノン指揮ORTF(ERATO,EMI/warner)1971/9/21-23,27・CD,,早くはないが小気味よいリズム取り、明瞭で丁寧な響き、整え方が清々しい。晩年のマルティノンらしさは勢い重視ではなくあくまで調和と形式感の護持だったりするので、トスカニーニやストコフスキのような演奏は期待できないが、ピエルネやルーセルと同じ世界にいるデュカスの「交響詩」としてゆったり楽しむことができる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
デュカス:魔法使いの弟子,ミュンシュ指揮BSO(DA)1957/10/12live,,筋肉質で豪速球でペットがそこまで凄いかというくらい分厚く吠え捲り、個人的に劇性が陳腐で好きじゃない部分も全てひっくるめて力の塊で押し切るのが楽しかった。聴衆反応も良い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュカス:魔法使いの弟子,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA)1957/11/4・CD,,どこか突き放したようなところはあるが正規録音だけあって細部まで緻密に作り上げられミュンシュの長所であり弱点でもあるライヴ性にひそむごちゃっとした構造軽視の部分もなく、やはり、ライヴが全ての指揮者とは思うけれどまずは正規盤で腕の確かさとオケの力量を確かめてから、ライヴ録音に挑んでいただきたいと思った。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュティユー:5つのメタボール,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(TCO)1967/10/19-21live・CD,,デュティユって長生きだなあ、はいいとしてこれはクリーヴランド管弦楽団40周年記念依属作品としてセルにより2年前初演されている。どこかで聴いたような楽想はストラヴィンスキーに留まらず同時代もしくはその前後の作曲家の有名作を思わせる。散文的になりがちなところ、古風過ぎるのではないかという濁ったドイツ的な音響感覚でセルは重々しく、しかし機敏な演奏をオケに課している。オケには大変そうではあるが余裕が感じられるところもあるし、三日間のいいとこどりをしているせいかもしれないがそのあたりの聴き心地のきつさはない。鈍重かなあ、録音が古いせいかなあ。,-----,,,,,,,,,,,,,
デュティユー:バレエ音楽「狼」〜抜粋より終幕,デゾルミエール指揮ORTF(ina)1951/6/7,,デゾにもこういう官能的で魅力的な演奏ができたんだなあ、というか、それだけこの曲が元から良く出来ているということだと思う。この作曲家が戦後フランス音楽の牽引を望まれた理由のわかる内容、完成度である。ローラン・プティのために書かれたデュティユ初期の代表作と言っていいだろう。この抜粋では明らかにドビュッシーのお鉢を継いだ印象派音楽と、ルーセルやオネゲルほどの個性を臭わせないがその流れを確実に受け継いだリズムの音楽の交錯、そのすべてを包み込む音響的空間。長い音符、横の流れのたゆたうようなさまが特に印象にのこる。管弦楽の立体的で巧緻な構造は、これはアメリカの晦渋な凡作現代作品に近いながらも何故にこう聴きやすいのか、旋律のせいか楽器の扱い方が飽きさせないのか余計な発想を注ぎ込もうとしないからか。とつとつとしたハープの使い方、鉄琴の響きも耳に残る。往年のフランス新映画音楽を彷彿とさせるところがあり、そこに特に惹かれるものもあった。デゾ、解釈しない指揮者の印象があったが、バレエ振っていたんだよなあ。交響曲第一番初演録音と共に放送されたもの(そちらはORTF設立80周年記念ボックスにもおさめられている)。これも初演か。録音はきわめて良い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュティユー:交響曲第2番「ル・ドゥーブル」,○ミュンシュ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R)1964live?(1962/3),,この曲懐かしいなあ。LPを持っていたがたぶん正規録音のほうだと思う。曲的には決して新しいということもなく、新ウィーン楽派後のコンテンポラリー音楽の典型的な方向の垣間見える作品といったふうで、室内楽的アンサンブルと大規模管弦楽の入れ子構造というのもそれほど目新しいものではない。ひたすらレガートの長い音符が繋ぎつなぎされていく中、沈潜するように心象的で雰囲気音楽的な音響が打楽器主義的な側面も持ちつつ揺らぐ様はそれほど奇矯ではなく、常套的と言ったら語弊があるかもしれないがよくあるパターンというか、このての音楽に抵抗の薄い人であればけっこう聴きやすいと思う。フィナーレはあきらかにメシアン的な音響で気を盛りたてるがジョリヴェというかむしろスクリアビンあたりに遡るような艶めいたかんじもある(そういえばミュンシュはスクリアビンを演奏したことはないのだろうか)。この聴きやすさというか、一種アメリカ音楽的ですらあるわかりやすさは、ミュンシュの整理が行き届いているせいもあるだろうが。アイヴズの静かな無調の管弦楽曲なんて、技巧的整合性はともかく殆ど同じような雰囲気がある(もちろんあちらは具象(既存素材)により抽象を描いており、最初から抽象度の高いこちらの純管弦楽曲とは隔絶しているのだが、聴感的には似ており、チェロやペットソロの使い方など似た感覚がある。)。このようなチェンバロの使い方はソヴィエト現代にありそうだ。ライヴ録音だけあって音響は余りよくはなく、長い音符の揺らめきのうちに不安に満ちた耳を撫でる如くポリリズム的に織り交ざるチェンバロの走句が遠くて余りよく聞き取れなかったりするのだが、そのぶん生々しさがある。終楽章がやや鈍重か。鋭い音響を駆使する人なだけに、厚ぼったく演奏されるとちょっと野暮ったさも感じる。静かな終盤もどことなくアメリカ産交響曲的な和音の感じがして、古っぽく思えるが、好き好きだろう。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
デュティユー:ピアノ・ソナタ,ブルショルリ(P)(meloclassic)1950年代パリ私的スタジオ録音・CD,,私的録音だけありボロボロでかなり聴きづらい。私的演奏なのにまったく瑕疵の無い、目覚ましい技巧を示す一楽章などそちらに耳が行くので気にならないが、繊細で張り詰めた二楽章や深く重い響きから始まる(この響きがブルショルリを特徴付ける)三楽章では、メリットが損なわれる面もある。フランスのピアニストに多い、細かい音符を胡麻を撒くようにパラパラ示す演奏家ではなく、音のすべてにきちんと重さがあり、この速さと確かさはナンカロウがロール紙に打ち込んだ音なんじゃないかというくらい、物凄いところが聴かれる。指が20本あっておのおの30センチの長さがあるんじゃないかと思わせる。曲ははっきり言ってドビュッシーとメシアンの間にあるような没個性的なもので技巧的表現以外余り新しい工夫の重ねられた音楽には聴こえないし、三楽章20分は長いが、アイヴズのソナタが聴けるならじゅうぶん楽しめるだろう。この作曲家の時折折り挟む単純な美しさは、やはりボロボロの録音が目立って残念。ブルショルリ生誕100年記念盤収録。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュティユー:交響曲第1番,デゾルミエール指揮ORTF(ina)1953/10/18live,,1951/6/7初演記録はORTF記念盤CDでもina配信でも出ている。こなれた感がするのはそのせいか。デゾルミエールにはどうも無味乾燥あるいは客観的&中庸のイメージが強く、一連の戦後ina音源が出るまでは手を出さない主義だった。inaが収集した音源は状態にバラツキがあり、これは撚れたりノイズがぱちんと入ったりと、良い録音とは言えない。また、オネゲル臭い構造的な書法の部分は明確に聴かせ、現代的なしんとした空気の場面では冷たく制御し、案外と起伏を作り出そうとして成功している。美しくも長々しい曲なのは仕方なく、同世代のシンフォニー作家の中では世界的にも抜きん出た才能はあると思うが、少し解釈者が手を入れる必要もある作品なのかもしれない。Amazonデジタルで入手可能(バレエ曲抜粋とのカップリング)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュルフレ:レクイエム,モーレーン(b)デゾルミエール指揮ORTF他(ina)1947/11/1live放送,,録音はノイジーで悪い。曲は清澄で適度に人好きする内容、デゾルミエールにしては情感もあり惜しい。割とすぐ聴き通せた感。フォレレクを好きならこの曲も受け容れられるだろう。フォレレクより表出力は大きいし、どちらかというと初期六人組ぽさもある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
デュレ:海の底の春,○デュバル(sp)ツィピーヌ指揮パリ音楽院管楽アンサンブル(cherry)1953/11・CD,,最初はミヨーやオネゲルの亜流のような木管を中心とする牧歌が続き歌唱もそれにのっとったそつのない調子で続くが、歌唱が尽きてオケ部のみになるとブラスに誘われ実に美しく輝かしい音楽が展開されてゆく。これが聴かせるのだ。演奏が色彩感豊かでまたよい。いい曲。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
トゥーリエ:映画音楽「天井桟敷の人々」一部,ミュンシュ指揮パリ音楽院管弦楽団(動画配信)1945,,天井桟敷の人々, Les enfants du Paradis,,音楽、モーリス・トゥーリエ, 指揮、シャルル・ミュンシュ, パリ音楽院管弦楽団,1945,,当然3時間半の動画はございません。権利関係からか、細切れ版は日本では観られません。借りてきましょう。劇場で観て疲れた映画ナンバーワンです。ナンバーツーは七人のさむらr,,"https://youtu.be/KNlPexEgPRo",-----,,,-----
トゥーリナ:闘牛士の祈り,WQXR四重奏団(POLYMUSIC RECORDS)LP ,,余りぱっとしないロマンティックな曲だが大編成編曲でも知られる。演奏的には余り巧い感じはないのだが情熱的ではある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
トゥリーナ:シンフォニア・セヴィリア,○アルヘンタ指揮スペイン国立管弦楽団(ALHAMBRA)LP,,トゥリーナらしい民族性の強い音楽だがレスピーギの影響があからさまで、そのあたりは迫力がある。ロシアの作曲家に受けた影響もある。フランス楽派の色がファリャよりも素直に出ていて聴きやすい面もある。旋律主体で、そのまわりに色彩的に各パートを散りばめいささか浅薄な印象も否めないが、フランスふうの清新な書法が常に響きを明るく華やかに保ち、不快にはならない。生き生きとしたアルヘンタとお国オケの表現がますますもり立てる。オリジナリティを重視する向きには勧めないが、真夏のひとときを小気味良く過ごしたい向きにはどうぞ。交響曲ではない、音詩です。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
トゥリーナ:シンフォニア・セヴィリア(セヴィリア交響曲),○ミュンシュ指揮BSO(SLS:CD-R他)1956/11/3(2?),,ファリャの響、民謡旋律の風体に酷似しているが構成、管弦楽法はがっちりしており、交響曲(とはみなせないと思うが)という題名にも表れている。オケの威力が発揮され仏風の音色が美しく指揮者の引き締めも素晴らしい。DAより2日表記のものが出ていた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
トゥリーナ:セビーリャの歌 OP.37(1927刊),○アラゴン(SP)ブランコ指揮マドリード交響楽団(WESTMINSTER/DUCRET THOMSON他)この盤の目玉とされているがトゥリーナの曲の中では傑出しているわけではありません。歌曲だからといってたんに歌謡旋律を聞かせるだけの凡庸な歌曲集にはなっていない。交響的歌曲とでも言おうか。曲調はエキゾチックでゴージャス(7曲あるし一言では言えないけれども)。洗練されていてすこぶる聴き易い。パリで出遭った先人アルベニスからの影響がややあるか。新古典主義の影響はそれほど感じられない。○。20分30秒。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
トゥリーナ:セビーリャ交響曲(1920),アルヘンタ指揮スペイン国立管弦楽団(RCA)CD 美しいは美しいが地味な印象が有る。旋律に力が無い。それは演奏のせいなのかもしれないが、あまり歌心が感じられず、涼やかな響きの交錯もあたりまえのようにフツーに聞こえてしまう。透明感はあり、トゥリーナ特有のロマンティックなくぐもりから巧く生臭さが抜かれている。だがそのぶんつまらなくなったような気もする。非常に綺麗な音なので感覚的な部分に訴える、いわゆる印象派以後の和声中心音楽(なんて呼び方があるのかどうかわからないが)を聴くように浸ることはできる。全般茫洋としていささかわかりにくくマイナー感は否めない。決してトゥリーナの代表作とは言えないと思う。3楽章からなる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
トゥリーナ:ピアノ三重奏曲第1番,○マドリード三重奏団(ensayo),,いい意味でも悪い意味でもフランス熱にうかされた曲で、フランクの室内楽にドビュッシーを振り撒いたと言えば感じがわかるだろうか。形式的で長い。トゥーリナというと職人的ではあるがやはり歌謡性、でも室内楽など案外保守的だったりもする。これはその中でもミヨーにもラヴェルにもイベールにすらなっていない、強いて言えばデュカなどやや古い作曲家のものを想起させる。26年作品。流して聴くぶんには心地よく、まるで初期ディーリアスのように、格好をつけるも響きが軽すぎて、でもそこが私は好き。7年後の二番はちょっと意欲的な個性を示す。演奏は現代的で比較的冷静か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
トゥリーナ:ピアノ三重奏曲第2番,○ロシア三重奏団(?)1933・SP,,ネットで配信されているもの。曲は古風な旋律音楽で和声的な新味はフォーレを思わせる。中間楽章などリズムにトゥーリナなりの独自性があらわれている。国民楽派的だ。演奏はこの時代にしては精度が高く力強い。てんめんとした部分にも程よい魅力がある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
トゥリーナ:ロシーオの行列,◯ガストン・プーレ指揮LSO(ODEON)LP,,部分的にテンポが停滞気味には感じるが、色彩感と表現のゆたかさはヴァイオリニスト指揮者にとどまらない職人的な腕さえ感じさせる。輝かしい曲をやらせたらまったく輝きを倍増させる人だ。古いSP録音が復刻されないので(何故かラヴェルのライヴが一曲CDになっているが)ロンドン交響楽団との数少ない晩年セッションでその芸を想像するしかないのだが、落ち着いた中にもどこか自由で勢い任せのような部分がのこり、きらびやかさは一部楽器や高音打楽器にとどまらず、まるでアメリカオケのようなからっとした音にまとめてしまう、そんなところが父プーレの、ヴァイオリニズムの末でもあったのだろう、とただ想像するのであるが。◯。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
トゥリーナ:幻想的な舞曲~二曲,○アルボス指揮マドリード交響楽団(dutton,cedar)1928/4・CD,,トゥーリナの新しさがファリャ張りの管弦楽法できらびやかに伝わってくる。スペイン国民楽派としての立場を明確にしたトゥーリナ、そこにはフランスの新しい音楽の息吹を受けながらも、リズムや旋律には伝統的な音楽からのものが横溢し、新しさの先をそこに見出すという清々しいほどの国民楽派的保守性を感じる。アルボスの指揮は落ち着いているがリズム処理や細かい表現の明瞭さは比較的新しいノリの感じがする。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
トゥリーナ:交響詩「ロシーオの行列」,○アルボス指揮マドリード交響楽団(dutton,cedar)1928/4/16・CD,,色彩的で開放的なアルボスの指揮ぶりはしっかり伝わってくる。曲が短く、平易なので指揮者としての腕うんぬんは斟酌しがたいところがあるのだが、オケがなかなかに巧く美しく、楽しい音楽を展開してくれている。duttonの復刻はいいがライナーをもうちょっとちゃんとして欲しい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
トゥリーナ:交響詩「ロシーオの行列」OP.9(1912),◎ブランコ指揮マドリード交響楽団(WESTMINSTER/DUCRET THOMSON他)これだけ聴きまくっていてもなおこんな素晴らしい曲に新たに出会うことができるなんてステキだ。素直でとても喜遊的な曲、美しいオーケストレーションに爽やかな旋律(ほんと親しみやすい旋律)がなんとも言えず楽しい。作曲家のパリでの修行時代に書かれたもので、ファリャやアルベニスの知己を得てスペイン国民楽派としての使命を自覚したころの作品である。スコラ・カントゥールムでダンディに学んだという出自のせいかロマン派的な部分を多分に残している(その旋律性に顕著)が、それがこの作曲家に逆に親しみやすさを感じさせる元となっている。比較的初期の曲でありながら手慣れた手腕はさすがダンディの弟子。スペイン国民楽派といいながら民族音楽にありがちな臭みのようなものが無く、基本はスペイン民謡なのにフランス音楽以上に洗練された音響を聞かせる。また半音階的な揺らぎにはディーリアスの影響が感じられ、それはドビュッシーからの影響以上に大きいように感じられる。オスティナートなリズムを刻む太鼓にのってフルート以下の旋律楽器が民謡を歌う中間部のあたりや、最後の盛り上がりで高らかに鳴る鐘の音も印象的。民族音楽だからといって徒に特殊打楽器を増やすのではなく、必要最小限で纏め上げるという趣味の良さに拍手です。ちょっとアメリカの曲ぽいかもしれない。8分30秒の小旅行。ブランコは申し分ない統率力、でもギチギチではないからオケものびのび表現している。弦の艶味がほのかに香るのがいい。◎と断言します。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
トゥリーナ:交響詩「幻想舞曲集」OP.22(1920),○ブランコ指揮マドリード交響楽団(WESTMINSTER/DUCRET THOMSON他)熱狂、夢想、饗宴の3曲からなる。冒頭精妙な音響がなかなか硬質の抒情を醸すがすぐに派手で楽天的な音楽になる。この盤ではオケが非常に敏捷で水際立った演奏を聞かせており、ブランコの色彩的な技が冴え渡る。このころになってリズムや旋律にファリャの影響が強くなってきている。ドビュッシーのそれが「イベリア」に限られるのと同様、「三角帽子」一本に絞られるわけだが。そのへん何ともいえず「そのまんまやんけ」的な意地悪な楽しさも感じる事が出来る(まあ、共に基調にスペイン音楽があるのだから偶然似てしまったという可能性が高いが)。基本的にロマン派的傾向を保ちながらもドビュッシー以降のフランス音楽の音響や手法を取り入れ、結果として(これもフランスからの影響の強い)アメリカ音楽的な洗練を示すようになった作品の典型と言えよう。またこの曲に限らないが要所要所で畳み掛けるような転調がカッコイイ。そして旋律がきわめて明瞭で親しみやすいのもこの人の特徴。ダイナミックだがどこか幸せな茫洋感があるのがいい。黒澤映画のようなどんどこどんどこいう「饗宴」がまたカッコイイ。あからさまに土俗的なのはこの人には珍しいが、ちゃんと整理されているので聴き易い。総じて○です。17分30秒。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
トゥリーナ:闘牛士の祈りOP.34(1925),○ブランコ指揮マドリード交響楽団(WESTMINSTER/DUCRET THOMSON他)もとは弦楽四重奏編成の曲で、弦楽オーケストラ用に編曲されたもの。やや渋い曲想はその出自を物語る。弾くと面白そうだ。ここで指摘するまでもないのだが、いわゆるフランス印象派の影響を受けながらもそこにロマンティックな不透明感を持ち込むトゥリーナの折衷的な手法は、ディーリアスのそれに非常によく似ている。聞けば分かるが音楽の像は明瞭でありながらも独特の半音階的な動きが頻繁に聞かれ、この盤のライナーにはヴォーン・ウィリアムズの名が挙がっているが、むしろその先人のディーリアス(この人もパリ近郊に住み世紀末の一世を風靡した人である)の影響を受けた作曲家として特筆すべきところがあろう。10分30秒。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
トッホ:「ピノキオ」楽しい序曲,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ASdisc)1945/11/11初演LIVEトッホは一時期聴いていたのだが非常に作風の幅が広く、ロマン派と思ったら十二音、というふうにとりとめのない感じがして結局遠ざけていた。そんなところにこの盤が出てきたわけだが、これが結構面白い。まあロマン派なわけだけれども、新ロマン派、たとえばウォルトンみたいな作風と言ったらいいのだろうか。本人も結構軽く書いたようでこの副題「楽しい序曲」があるのだろう、言う通り素直に楽しめます。トッホはオーストリア出身でマンハイムで教鞭をとってのちナチスを嫌って結局アメリカに亡命してしまった作曲家です。○。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
トッホ:弦楽四重奏曲第12番,ロンドン四重奏団(M&A)1947/2/21live・CD,,「これはマイナー曲探訪も極北だな」と思ってレコード購入を止めた作曲家である。はっきり現代作曲家であり、かなりの多作家ではあるが今聴ける曲はほとんどヒンデミットよりすら前衛を目指したような代物である。ワイマール時代をへてアメリカ亡命後も作曲を続け、シェーンベルクのあとを追うような作風の変遷をへているが、それはこのトッホにしては録音の多い曲でも聴かれる。無調のカオスではなく形式的に感じられる律せられた部分の多い作品であり、音列技法も用いられていると思われる。部分部分を取り上げていたらきりがない、つねに新しい聴感を与えようという意識が、同時代の現代作曲家同様に存在し、変化し続ける不協和音(じつに「新鮮な」不協和音)や器械的な工夫(一楽章は構造の下でえんえんと半音階的にうねる音が個性的)は昔支持されたのも頷ける。ただ一言言わせてもらう。聴くものを飽きさせないのが完成度の高い現代曲だ。私は一楽章を除き途中で何度も意識を失いかけた。そういう覚悟があるならどうぞ。演奏が中庸なスタイルで歪みなく達者すぎるのも原因かもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドホナーニ:ピアノ五重奏曲第2番,○カーティス四重奏団、ソコロフ(P)(WESTMINSTER)カップリングの弦楽四重奏曲第2番にくらべ大分にモダンな響きのする曲である。完成度は弦四2に水をあけようが、新しさ・面白さで言えば上。繊細なハーモニーを持ったフレーズが印象的。ピアノと弦楽がまったく対峙しているが、ピアノの書法に慣れた人の作品であることがわかる。ところで一応第2番としておいたが、作品番号が怪しい。作品番号が現在変わっているかもしれないので、間違えていたらごめんなさい。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドホナーニ:弦楽四重奏曲第2番,○カーティス四重奏団(WESTMINSTER)ドホナーニは孫も指揮者のピアニスト兼作曲家である。1870年代生まれというのはちょっと過渡的な位置にあるように思うが、この人は完全に後期ロマン派に止まった作曲家だった。祖国ハンガリーの民族的要素は殆ど導入されないが、かわりにほのかに世紀末的雰囲気を醸すことがある。これは作曲家29歳の作品。1906年だからまだ無調が台頭するぎりぎり前の時代の作品というわけだ。当然ながらまったく調性的であり、後期ロマン派の中でもこてこての部類に入る曲である。強いて言えばちょっとフランクのヴァイオリンソナタを思わせる洒落た雰囲気も持っているし、冒頭旋律はその跳躍の仕方がディーリアスの習作ヴァイオリン・ソナタの循環主題とよく似ており、興味をそそる。まあ、能書きはともかく聴いてみよう。なかなかいい曲なのだ。旋律がわかりやすく、美しい。循環構造になっていて、冒頭旋律が最終楽章で再現されるところなど泣かせる。新味ははっきり言って皆無。ベートーヴェン=ブラームス(+ドヴォルザーク)の影響下に納まってしまう。だが聞かせる旋律と適度な構造的な面白さ(といっても結局ファーストVNがほとんどのききどころを独占してしまっているのだが)はなかなかどうして非凡なものがある。マルティヌーの室内楽が理解できず苦しんでいたところにこれを聞いたらハマってしまった。古臭い?旋律は瑞々しいぞ。演奏は覇気に満ちていて鼻息も聞こえる迫力に満ちた佳演。難があるとすれば音程の微妙な悪さ。旋律をうたう人が悉く高音を高めにとっており、耳につく。そのためハーモニーも微妙に決まらず気持ち悪い。そういうのが苦手な方には猛毒。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドホナーニ:弦楽四重奏曲第2番,○フロンザリー四重奏団(victor/PRSC)1927/10/20,21ビクタースタジオNo.1,,じつに平凡な末流ロマン派の曲だがちょっと面白かったのは1楽章の主題がディーリアス初期のヴァイオリン曲に類似していたことと終楽章最後の主題がラフマニノフのシンフォニー3番終楽章再現部前のリズミカルな主題に似ていたことで、この二つの主題が微妙にずれて対位的に絡む場面などSQの醍醐味といったふう、この作曲家が弦楽器に造詣深かったことを感じさせる一節だった。演奏はやや地味。SP録音期らしい録音ではある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドリーブ:バレエ音楽「シルビア」〜二つの小品,メサジェ指揮パリ音楽院管弦楽団(columbia/vogue)1918/11・CD,,SP両面。高音ばかり捉えられているので動きがよくわからないところもあるが、基本的に明るく灰汁のない音楽で、演奏もそれに沿ったような、二曲目などフランセのヴェルサイユにも聴感が似て古風な音楽をまさにその時代に近い楽団がやっている、それだけの価値はある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドルリュー:弦楽四重奏曲第1番,○レーヴェングート四重奏団(FRENCH BROADCASTING PROGRAM)LP,,映画音楽作曲家として名をはせたドルリューは表題なしの弦楽四重奏曲をニ曲残している。パガニーニ四重奏団のレパートリーにもなっておりなかなかしっかりしたクラシカルな作品だ。この曲は師ミヨーの書法を踏襲しながらも独自の甘やかな旋律や他の、とくにルーセルやイベールの弦楽四重奏曲の気分を彷彿とさせる響きや構成で多彩なところをみせている。その緊密さは楽団の技量そのまま反映して素晴らしい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドン・ギリス:交響曲第51/2番「楽しむための交響曲」,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(放送)1947/9/21初演live,,アンダーソンがシンフォニーを書いたら?ガーシュインがシンフォニーを書いたら?こんな曲になっていたかもしれない。3楽章制の簡潔な作品だがとにかく楽天的過ぎて、交響曲第六番に満たないということでごとにぶんのいち、と名付られたという。それをまたNBC交響楽団がきっちり胸のすく演奏で仕上げてくれている。拍手喝采で終わる。トスカニーニの颯爽とした指揮ぶりも曲にあっている。今は動画共有サイトで聴くことができる。○。個人的には圧倒的にカッコいい一楽章オススメ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,