-2019/1/9(1/18修正)shostakovich
ショスタコーヴィチ(原曲ヨーマンス):二人でお茶を(タヒチ・トロット),○ロジェストヴェンスキー指揮BBC交響楽団(imp,BBC)1981/8/14プロムスlive・CD,,祝祭的雰囲気で音だけではわかりかねるが舞台上ではいろいろやっているらしく客席から笑いも飛び出す楽しい演奏になっている。ショスタコはこういう曲でも秀才を発揮する。ロジェストの指揮はやはりわかりやすくおもしろく、という王道を突っ走っているふう、もっともこの長さでは全容を把握することはできないのは言うまでも無いが。○。お定まりの凄いブラヴォ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:オペラ「ムツェンスク州のマクベス夫人」組曲,ガラグリ指揮ドレスデン・フィル、フィッシャー(SP)(BERLIN CLASSIC,ETERNA)初出1964・CD すいません、この曲初めて聴くので多少表現がおかしくなっております。ご了承ください。時代のなせるわざか1曲めアレグロ・コン・ブリオはフランス6人組の世俗音楽の調子に凄く似ている。サティのパラードなんかも想起するが、ショスタコがかつて映画館付けピアニストとして弾いていた曲も恐らくこんな感じだったのだろう。2曲目アリアはキレイだけどよくわかんない。歌なんてキライだ。3曲目パッサカリアはラルゴである意味ショスタコぽい。一番長い。4曲目アレグレットは再びけたたましく皮肉っぽい軽音楽。面白いけど短すぎる。しっかしこの曲をカテリーナ・イズマイロヴァに編曲したって、どこを変えたんだろう。勉強しときます。すいません無印です。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:「カテリーナ・イズマイロヴァ」組曲,○ロジェストヴェンスキー指揮フィルハーモニア管弦楽団(medici)1962/9/4エジンバラlive・CD,,かなり激しい内容の「ムツェンスク州のマクベス夫人」を体制用に編曲した作品の管弦楽組曲版だが、オケの一部パートに偏った負担をかけるショスタコ盛年期特有の書法が目立ち、効果的ではあるけれども、腕のある団体にさばきの巧いシェフでないと聴いていられないものだ。オケがメロウな音色を持っているためどうしても音楽的に甘さが出てしまうが、旋律性が浮き立ち流れよく進み、変な企みのないわかりやすさが魅力的。壮年ロジェストの水際立った指揮ぶりもさることながら、木管、弦の健闘に拍手。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:「黄金時代」〜ワルツ,○サモスード指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(VISTA VERA)1953/2/11live・CD,,ふにゃふにゃした変なギターから始まる(スパニッシュギターで聴きたいうらぶれた旋律だ)いかにもロシア式の演奏で、パーパー雄渾に吹きっぱなすトランペットがまた曲の希求するキャバレー音楽ふうのバタ臭い雰囲気が変な感じに歪んで聴こえる。こうしてロシアンワルツやロマン派ワルツを並べて聴いてくると、この20世紀の作曲家のワルツが如何に地盤を異にしているかがわかる。卑俗な同時代の世俗音楽がワルツの書式に倣って奔放に描かれる、それはけして構造的ではないしユニオンの家で流れるには似つかわしくない感じもあるが、しかしこれこそソヴィエトの求めた新しいワルツのプロレタリアな姿なのかもしれない。演奏的にはショスタコのそういった特殊な面を余りちゃんと解釈していない感もあり、○にはしておくが、それほど充実感はなかった。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:「黄金時代」組曲,○ストコフスキ指揮シカゴ交響楽団(DA:CDーR)1968/2/15LIVE,,ショスタコのこのての曲をどう評価するかは別れるところだと思う。こんな劇伴素材に使うにはもったいない楽想が使われてる、と感じる一方、大衆作曲家としても並ならぬ腕を持っていたことを証明するためには必要な「オーダー」だったのだ、と素直に楽しめる曲もある(しかも唯一無二のロッシーニの隔世後継であるというのは明らかな作風なわけで)。演奏はシカゴだけあってやや高尚すぎる感もある。やたらの派手さも一過性の大衆作品であることを考えれば妥当な表現か。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:2台のピアノのためのコンチェルティーノ,◯マロレツコーワ、マキシム・ショスタコーヴィチ(P)(放送)1955/1/15レニングラード初演live,,いつもの言い回しで恐縮だが、達者。細部はともかく、10番交響曲4楽章のようなしゃにむの盛り上がりが粒立った音で攻撃的に形作られており楽しめる。マキシム・ショスタコーヴィチには父との録音も残る。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:2台のピアノのためのコンチェルティーノ,作曲家 (P) M.ショスタコーヴィチ
ショスタコーヴィチ:3つの幻想的な舞曲OP.5 作曲家 (P)
ショスタコーヴィチ:くまんばちからの音楽 作曲家 (P)
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番,○コーガン(Vn)ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団(metrognome records)1964/11/27-28live,,荒々しいがコーガン最良のライヴ記録が聴ける。いかにもボストンといったオケの機敏さ、重厚さも良い方向に動き、ラインスドルフという職人によってソリストと丁々発止のわたりあいを聴かせ、それは終演後大ブラヴォーとなるだろう、という感じ。4楽章制の大規模な協奏曲で内容的には交響曲第10番を思わせるが、とにかくコーガンが外さない。あれだけガシガシと弾いているのにブレがない。音程感も完璧。通常神経質な演奏家だと整えようとするあまりドライヴ感が失われるところだが、神経質になる必要がないのだ。弾けてしまうから。もちろんスケルツォとブルレスカが聴きどころだが意外とパッサカリアも深淵を見つめるような表現の深さを感じる。有名なライヴ記録なわけである。荒さをマイナスして○にはしたが◎にしても問題ない出来。オイストラフのようなムラのない人だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番,D.オイストラフ(Vn)ムラヴィンスキー指揮チェコ・フィル(PRAGA)1957LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番,D.オイストラフ(Vn)ミトロプーロス NYP
ショスタコーヴィチ:カンタータ「太陽が我等が祖国を照らす」,◎コンドラシン指揮モスクワ・フィル他(MELODIYA/LYS他)1965 シンフォニーでいえば11、12番のあたりの雰囲気を持つまるきり体制賛美の歌だが、けっこう聞ける。帰国後のプロコフィエフかと聴き枉ごう様な瑞々しい旋律と美しいひびき、そしてリズム。コンドラシンのリズムは特有のチワキニクオドル雰囲気を持っており、他のソヴィエトの指揮者の感覚とはあきらかに違う。それがここではひたすらポジティブなメロディを引き締めて前進的な流れを創り出しており、極めて効果的な音楽を描き出すことに成功している。少年合唱が前へ前へいくテンポにノって若々しい歌声をあげ、管弦楽や混声合唱の波状攻撃を受けて高らかに賛美の念をあらわす。とてもショスタコとは思えないが非凡な作者の作品である事は確か。こういうすこぶる単純な曲でここまでの効果をあげることができるのは天才でのみ為し得る仕業であり、コンドラシンの技をもってそのレベルは最大限に引き上げられた。録音はあまりよくないが、聴いて損はなし。ショスタコ嫌いでも聴けます。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:ジャズ・バンドのための組曲第1番,○ロジェストヴェンスキー指揮ソロイスツ・アンサンブル(MELODIYA)1984 ショスタコの軽音楽はいつだか結構話題になっていたことがある。さすが元映画館のピアニスト、即興的な感覚は実に鋭い。このワルツ、ポルカ、フォックストロットの3曲よりなる組曲、旋律の才と馬鹿にしたような皮肉の表現が巧みに組み合わされ、面白く聞こえる。ワルツはうらぶれていい感じ。ポルカは木琴の響きから、「今日の料理」かと思った。面白いので○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番,○ロストロポーヴィチ(Vc)スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(RUSSIAN DISC)1966/9/29モスクワ音楽院大ホールLIVE・CD,,名技性より作家性が先にたった典型的なショスタコ作品で、技巧を聴くコンチェルトではなく、外面的な皮肉と内面的な諦念の描き方を聴くものであるが、それでもやはりパッションの超絶技巧にあらわれた3楽章カデンツァ(この人の無伴奏は独壇場、やはり素晴らしい)〜4楽章の荒くれぶりにはロストロポーヴィチという超人とスヴェトラーノフ・国立響という野獣の殴りあうようなアンサンブルに改めてソヴィエト後期楽壇の凄まじかったことを思い出さされる。この二人の相性はこの段階では素晴らしくよい。表現のベクトルがあっている。ごく一部ロストロにテンポのたどたどしさを感じさせるところもあるがこのくらいは仕方ないだろう。ショスタコ独特の構成感を完全に手中におさめたスヴェトラのサポートはもはやサポートの枠をこえ交響曲的な構築性すらありロストロはその中の主役という感もある。ショスタコ耐性のない人にどう聞こえるものかわからないが、ソリストオケ共にライヴとは思えない高精度ぶり、囲む異様な雰囲気にソヴィエトでは余り聞かれないブラヴォ拍手には何か感じ取れるものがあるのではないか。○。ロストロの音は純度が高く綺麗だがやや音色の多彩さに欠ける気もする。録音素晴らしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第2番,○ロストロポーヴィチ(Vc)スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(russiandisc他)1967?/9/25live・CD,,今は廉価盤で容易に手に入るようだ。映像もあるのではないか。この晩期ショスタコの典型的な作風による簡素な協奏曲は、例によってほとんどがソリストによる悲歌ふうの旋律に貫かれ、連綿と弾き続けられる抒情的旋律に添えられただけのようなオケは、突然絡みが発生するような調子にあってかなり巧緻にソリストとアンサンブルしており、確かに各パート単体ではソリスト含めいわゆる「難しい」ところはないのだが、それだけに即意当妙な表現力とアンサンブル力、指揮者のさばき方が求められる。ロストロ先生の、雄弁というより悲痛な気持ちの抑制された表現が見事にひき立てられており、スヴェトラ先生の職人的な側面が発揮されている。ソリスト指向の強いプレイヤーが多いオケであることも、この曲の簡素なオーケストレーションに向いていたのかもしれない。ブレのない、地味だが印象的な余情をのこす演奏。○。優秀録音含め◎でもいいんだけどやや堅いかとも。ブラヴォが叫ばれる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番(ピアノとトランペットのための協奏曲),○ジョイス(P)ロックウッド(trp)レスリー・ヘイワード指揮ハレ管弦楽団(columbia)1941/10/24・LP,,SP原盤だがこれがまた低音部がしっかり聴こえるなかなかの音でいい。冒頭より演奏も求心力が強く、一瞬ショスタコかこれ?と思うような響きの分厚さが持続する。ジョイスは余り最近はきかれないがすぐれた女流で、オケを強引に引っ張るのでもなく、強靭さもありながら調和した音楽をオケとそのメンバーソロらと共に作り上げている。ハレ管も上手い。ちょっとびっくりする。ペットも突出しないのでこれはショスタコの意図と比べてどうなのかと思う所もあるが、小規模アンサンブル的な細い音楽ではなくちょっと前時代的な大管弦楽作品として聴けるぶん面白い。○。hewardは作曲家でもあり、ハワードとも呼ばれる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番(ピアノとトランペットのための協奏曲),ベルグマン(P)ロスバウト指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送交響楽団(forgottenrecords)1956/7/23live放送,,何でも振ってしまうなあというロスバウトで、ショスタコのシニカルな雰囲気をかもす薄い書法、スピーディで軽い協奏曲の雰囲気を重要視せずウィリアムテルからの剽窃すら抽象化してしまい、色彩感を排した音の饗宴、古典的なピアノ協奏曲として(トランぺッターもクレジットされているものの)重量感を持たせビッチリ、オケを統制して聞かせてくる。ロスバウドはあくまで職人的にきっちり仕立てたふうで曲にはあまり思い入れはなさそうだが(聴かせどころを作るようなことはせずスコアの再現に専念する)、旋律より構造に力点を置いた特徴的な演奏といえる。オケは指揮者のきびきびした指導のもとに、トランペットソロを含め全く危なげなく極めて明瞭にやっているが、ノイジーでかなり擦れた録音で、さらにバランス的にオケが引っ込んでいるため、細部はわからない。ソリストは技巧的で安定しているが殊更に特徴はない。あきれるほど巧いトランペットがかえって小粒感を煽ってしまう不思議。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番(ピアノとトランペットのための協奏曲),作曲家(P)サモスード モスクワ・フィルSO
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番,○作曲家(P)イリーエフ指揮ソフィア・フィル(armada他)1958/1/31,,BNP(ブルガリア国立放送)のCD-Rとして再発されている。録音は撚れ気味だがまだまだ作曲家が演奏家として衰える前の演奏といった感じ。ぶっきらぼうではあるものの醒めた感じの(強靭ではないが)強いスタイルには独特の迫力がある。ニュアンスも何もなくけして上手くはない、ただ一貫してアマチュア向けのようにかかれた戯画的な楽曲を表現するには十分の腕。楽団は意外といける。前のめりのスタイルで聴かせる。ステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番,○作曲家(P)ガウク指揮モスクワ放送交響楽団(russian disk他)1958息子マキシムのために書かれた平易なピアノ協奏曲。二十世紀に作曲された全てのピアノ協奏曲の中で、分かり易さからいえば五本の指に入るだろう。新古典主義に立った曲作りはプロコフィエフを彷彿とさせるが、隅々にショスタコ節がきこえる。プロコフィエフの協奏曲がそうであるように、この曲はスピードと律動の産物であり、余り深く考えずにスポーツ感覚で聴くのがよい。ショスタコーヴィチ自身のソロは、柔らかいタッチが少し物足りない。この人の自作自演はしばしば”よたった”ようなところがみられるが、この協奏曲でも速いパッセージの表現にごまかしがあるように聞こえる所がある。とくにガウクとの貧弱な録音は余りいただけない。クリュイタンスのほうは管弦楽がしっかり響いてソロを支えており、総体として十分に鑑賞に耐えうるものとなっている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番,○作曲家(P)クリュイタンス指揮フランス放送管弦楽団(emi)1958/5 ガウク伴奏盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:ピアノ五重奏曲,○カスマン(P)ターリッヒ四重奏団(CALLIOPE)2001/11・CD,,タコマニアって言ってることがわけわからないことが多いのだが、理屈屋か思想マニア(思想家とは言わない)が多いせいなのかな。同時代者として一方的な愛情を感じる向きも多いんだろう。しかし音楽を作る側にとってみればそれは二の次の感覚で、まずは純粋に譜面を読み解きアンサンブルを計画するのである。現代はそれが極められていないと受け容れられない、音楽は一期一会ではなくメディアを使って残り続けてしまう、20世紀前半の様相とは全く異なるものになっていて、だからミスはおろか音色の瞬間的なブレすら許されない(演奏する側にしてみれば聴く側の指摘できるくらいの「些細」って物凄く大きな失敗として即座に感じ取れて当然のものなんだけど)、高精度は当然、そこに何かプラスする余裕のある人は指揮者だけ、ってことばかり。指揮者なしで現代の曲はなかなか難しい。ショスタコの同曲のように単純であっても。ソリストは異質。,,この演奏はまったく現代のもので、極めて高い技量をもつ同士の組み合った、それでも窮屈さを感じさせない自然な歌心を(盆踊りに響く怒鳴り声ではなく春風のような歌心を)感じさせて秀逸だ。この曲はそれだけで十分の素直な曲なんですよね。プラスするものは無い。これでいいのです。作曲家の同僚であった人たちや、同じ空気を吸っていた人たちの名状しがたい深刻なものは差異としてあるけど、それはもう過去のもの。素直に喜んで終演すればいい。○だが一般的に聴くには、ほぼ新団体によるこれが一番。冒頭にのべたような人たちがさかんに薀蓄をたれるたぐいの、変な色付けが無いから。時代性からそろそろ切り離してあげたほうがいいよショスタコは、皆々様。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ショスタコーヴィチ:ピアノ五重奏曲,○バルサム(P)ブダペスト四重奏団(bridge)1951/12/18live・CD,,きわめて明確なバルサムの音と金属的な硬質な音できちんと演奏するブダペスト四重奏団の噛み合った、内容的なものと比するとやや軽いが聞き応えの十分にある演奏。長くて暗くて分裂症的な楽曲に慣れない私にはここまで明快な表現だと非常にわかりやすかった。人によっては◎にするだろうが録音がやや歪んでおりブダペスト四重奏団の表現がぼやっとしてやや聞き取りづらいところもあるゆえ○にはしておくが、この曲を聴いてきた中では変な重さやロマンティックなくぐもりが無い分もっともしっくりきた感じ。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:ピアノ五重奏曲,◎ランガー(P)ターリッヒ四重奏団(PRAGA/Le Chant du Monde)スタジオ・CD,これは地味だがそつないターリッヒ四重奏団と音色的に見事に噛み合ったピアノが素晴らしい。余りペダルを使わず粒立った太い音はこの作曲家向きだ。新古典主義の簡素なこの曲は一部楽器のソロが異様に長いのが特徴だが、残響の余りない環境で独自色の無いながらも「地の音」で勝負しているファーストとピアノはかなりぐっとくる。それにも増してアンサンブルとして表現される合奏部はパズルのように完璧に組み合って不可分にきこえる。アンサンブルピアノとしては最上級の表現をなしている。総合的に突出はなく渋さは否めないが目立つところだけ派手にやるとこの曲は結局終楽章の有名な主題ばかり突出したキッチュなものになりがちだ。その点この演奏では終楽章も冷静に設計されたうえで構成を崩すような表現のブレをきたさないから、楽曲自体の本質を聞誤ることなく安心して聞ける。ターリッヒQは他にも録音をのこしているが室内楽団はメンバーチェンジも激しく「何度も録音している」というのは「別な団体として録音」に等しいものである。個人的にこの曲でいちばんしっくりきた演奏。ひっそりそくりと終わるのもスマートでかっこいい。◎。,,<Le Chant du Monde盤>,"
String Quartets 1 & 2/Piano Quintet
Talich Qt
Le Chant du Monde

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",,(参考),"
Shostakovich:Piano Qnt/Quartet

Calliope

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ショスタコーヴィチ:ピアノ五重奏曲,○リヒテル(P)ボロディン四重奏団(VICTOR,kniga)1983/12/5,6live・CD静かな表現が凄くいいのだが、強い表現になると弦楽はちょっと音的に浅い感じがするし(太いけど)、リヒテルは独特の表現に沈んでしまいイマイチしなやかさというか巧緻さが無い。リヒテルは私にとって鬼門なのかもしれない、と冒頭のソロを聴きながら思った。大仰にやる余りたどたどしさが生まれテンポ感が希薄になる。それが弱奏だと楽団の中に響きだけを残して綺麗に沈んでいく、これはライナーにあるとおりリヒテルの長所として感知すべきものなのかもしれないが。久し振りに聴くボロディンの音が意外と魅力薄なのに驚いた。反面スケルツォとアレグレットは非常に迫力がある。但しそれも内容的な深さより技巧の巧みさと力感が目立つものであり、これほど雄弁なのに終演後にそれほど気分が盛り上がらない(客席の反応もそれほど熱くはない)。録音のクリアさ含めて○をつけておくが、個人的にはそれほどいい演奏とは感じられなかった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:ピアノ五重奏曲,○リフキン(P)スタイヴサント四重奏団(columbia)SP,,これもネット配信されている音源だがノイズが烈しく非常に聴き辛い音。よく調和した演奏ぶりは戦前の室内楽団ではなかなか無いアンサンブルとしての技術の高さを感じさせる。ピアニストは主張せずタッチが柔らかい。引き気味ではあるものの必要なところに必要な音があるといった感じで聴き易い。スタイヴサント弦楽四重奏団については言うまでも無いだろう、ソヴィエトで言えばベートーヴェン四重奏団や昔のボロディン四重奏団のような緊密さと色艶を持ち、しかしもっとケレンが無くニュートラルな美観をはなつ。全般この曲にしては地味めではあるが、この曲だからこそ素直で美しい演奏であったと想像できるもの。録音さえよければねえ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:ピアノ五重奏曲,○作曲家(P)ベートーヴェン四重奏団(LYS,DANTE/MULTISONIC)1940・CD 50年代録音盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:ピアノ五重奏曲,○作曲家(P)ベートーヴェン四重奏団(MELODIYA/VANGUARD/REVELATION/DOREMI)1950'S・CD 1940年盤は録音は古いが聴くのに支障はない。決して技巧に秀でた団体ではないが、極めて抒情的な作品の性向にマッチした心根深い表現で問い掛けてくる。ファーストなど不安定な音程が気にならなくはないが、そのぶん真に迫った感じがするから面白い。いい音色ではある。ショスタコのピアノは透明な抒情を振り撒き清新。リリカルで美しいアンサンブルになっている。録音のせいもあり力感はないが、民族音楽のような味がありロシア音楽としての伝統すら感じさせる。後者は録音が新しく聞きやすい。ファーストもこちらのほうが安定し円熟味を感じる。内に秘めた情をそっと吐露するように、あるいは断腸の思いを僅かなポルタメントと震える音に込めて表現する弦に、単純さの中にも煌めくような感傷を振り掛けるピアノ。随分と大人な芸風に脱皮しているが急峻な楽章では力感のある躍動感に満ちた音楽が聞ける。荒っぽさは残るが外しがなく音程感はいい。ファーストのフレージングが素晴らしく、弱音の音色が特に心に染みる。ウ゛ァンガード盤は擬似ステ処理あり。両者○。(50年代盤補記)何度も復刻されている名盤で、リマスタリングの仕方でけっこう違う聴感をあたえる。ドレミ盤は擬似ステレオでなおかつ左右が逆に聞こえる。馴れれば聞けるがちょっと辛いか。演奏内容についてはベートーヴェン四重奏団のけして超一流のテクではないけれども楽曲への共感に溢れた真摯な演奏ぶりが清々しい。暗く深い音楽の中にも暖かで人間的なものを感じさせる。ショスタコーヴィチのピアノも要領を押さえた演奏ぶりで、最終楽章の水際立ったリズム感などこの人の作品に溢れる躍動感の正当な発露として耳を惹く。録音マイナスで○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:ピアノ五重奏曲,作曲家(P)ベートーヴェン四重奏団(moscow tchaikovsky conservatory)1955/1/20モスクワlive・CD,,モノラル、この時代のソヴィエトとしては、レストアもしているんだろうが、中身の詰まったまずまずの録音状態と言えるのではないだろうか。ライヴのせいもあってか楽団の性質の荒々しさが音色にあらわれていて、とくに三楽章は録音もささくれだって耳辛いが、ショスタコーヴィチのピアノは深くはっきりと、一部自作自演録音にみられるもたつきは皆無で、全体としては求心力のある力強いまとまりが印象的である。暗い楽章での悲痛さが生々しく、馬力ある慟哭が聴ける。引用風のフレーズや響きにしても、まったくショスタコーヴィチの暗黒の一部と化している。終楽章も唐突に明るく音楽を笑い飛ばすことはしない。それまでの雰囲気を引きずり、分厚い音のまま軽いシニカルな動きすら意味深く、しかし、ショスタコーヴィチ自身もそれに同調して一貫した深い音を落としていく。ピアノアンサンブルにありがちな、俺が俺がと派手に前に出ようとすることをしない。しかしこの演奏は大部分において一斉にフォルテであり、フィナーレの終末でやっと童心に還るような優しいフレーズに落ちるまで、弱音のニュアンスと対比でしっかり変化をつけることはしていない。そういう意味でも作曲当時の生々しい演奏と言うべきものはある。ここから解釈は深められていくのだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲第2番,○エドリーナ(P)ボロディン四重奏団のメンバー(MELODIYA)1972・CD,,かなり「引いた」客観的な演奏で、録音が時代のわりに殆ど50年代モノラルを彷彿とさせるような調子で板起こしのような感じが限りなくする。カップリングのプロコ2番と比べ表現は確かに深化しておりピアノも打鍵が強くしっかりした構築的な演奏として聞くことができる。しかしスケルツォはもっと火花の散るようなアンサンブルが聴きたいし、全般に早いテンポをとるべきところが悉く遅すぎる。客観的な演奏なのに録音のせいでそんなに悪い感じはしないのは皮肉か。ショスタコとしては確かに内容の深みを感じさせるに十分な重厚さを持ち合わせた、そこらへんのあんちゃんにはできないものにはなっている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲第2番,○チェコ・トリオ(supraphon),,地味さは否めない。まとまりはいいのだが終始落ち着いた雰囲気があり、大人の演奏と言えばそうなのだが、2楽章などもっと喧噪が欲しいし、3楽章も何か諧謔が足りない感じがする。音のアタックが柔らかいせいか。1楽章など追悼音楽としてはちょうどいい温度なのだが・・・。悪くは無いが、ギチギチのアンサンブルを聞きたいとか、何か真に迫った演奏を聴きたいという向きには薦めない。ピアノは綺麗なのだが・・・,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲第2番,○バシュキーロフ(P)ベズロドニ(Vn)ホミツェル(Vc)(MELODIYA他)CD,,じつに水際立った演奏で緊密だ。前にも書いたがこの組み合わせはヴィルツオーソ同志の火花の散らしあいではなくあくまで「アンサンブル」として高度に純化された演奏を作り上げていくというところに主眼を置いたものとなっており、どれもが独特の境地を示すたぐいの突出した演奏家でないかわりに技能集団として職人的な巧さを見せている。このショスタコ室内楽の頂点のひとつにおいて比較的直接に表現されている心象と皮肉が、その内容よりも純粋に音楽としてよくできたものであることに気づかされる。こんな演奏を聴くと「俺にはとても無理だわ」と匙を投げたくなる。まじっさい無理なんですが。実演なら感動するだろうなー・・・惜しむらくはモノラルで余り録音がよくないことくらいか。○。飽きない。,,2010年メロディア正規CD化。ステレオか不明。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲第2番,○ボルツァーノ三重奏団(WESTMINSTER),,2楽章など遅く確かめるようなところもあるが、ワタシ、この団体は好きですねー。アンサンブル専門団体は音色や奏法が揃ってきわめてまとまりがいい。アウンの呼吸で自然にひとつの音楽を作れるのである。アンサンブル団体はオケがそうであるようにソリストの寄り合いではなく独立したひとつの表現形態だ。なつかしい色気のある暖かな音で統一され、耳やさしい。しかし技術的に集中すべきところでは不足なき力を発揮している。楽しめる。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲第2番,オボーリン(P)D.オイストラフ(VN)クヌシェヴィツキー(VC)(TRITON)1960live かなり表出意欲の強い演奏である。ライヴだから、冒頭旋律(VCフラジオ)の音とちりなど事故もあるが、全般に深いうれいをたたえた特筆すべき演奏である。二楽章アレグロは各楽器がややばらばらな感もあり、もっと凝縮力がほしい気もする。録音のせいもあるだろう(ヴァイオリンが大きすぎる!)。クヌシェヴィツキーのチェロはここでもやはり少し弱い(とちっている)。第一回ショパンコンクールの優勝者オボーリンは同名誉章受賞者ショスタコーヴィチのピアニズムを理解し、じつにそつなく演じている。マイクから遠くてタッチの機微が聞き取れないのが残念。ラルゴの沈痛な音楽はオイストラフの完璧な語り口(そこが嫌味に感じてしまうのは私の個人的な好みによるところだろうが)とクヌシェヴィツキーの底深い表現の応酬が聞きどころ。4楽章のピチカートによる第一主題提示はかなり強い調子で始められる。もう少し軽やかな方が皮肉っぽい調子を帯びてよいと個人的には思うが・・オイストラフはあまりに雄弁だ。盛り上がってきた所でクヌシェヴィツキーの音程が怪しかったりオイストラフがとちったりという失敗が織り交ざるのはご愛敬。第一楽章主題の追想では弦二本がやや雄弁すぎるきらいもある。もっと幻想味が強いほうがいい。そのあとはうつろな終結へ向けて音楽が静まっていく雰囲気はよい。やはり「ライヴ」であると認識した上で聴くべき演奏であり、瑕疵は覚悟すべきだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲第2番,ロストロポーヴィチ、ヴェンゲーロフ、ウリアーシュ1998live、フェスティバルの一夜。生前の作曲家から氏が託されたイベントの実現。疲労か体調的な問題なのか、紛れもない氏の音なのだが、苦しい部分が多々。ヴェンゲーロフは圧倒的,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲第2番,作曲家(P)ベートーヴェン四重奏団のメンバー(DOREMI他)1945 録音が悪くて印象が弱い。ツィガーノフは味がある演奏家だし腕もあるのだが、たとえば2楽章の超高速走句などちゃんと弾いてはいるのだが聴き取りづらい。録音のせいもあろうがパワー不足も感じる。オイストラフと比べるのもおかしいが、自作自演盤ふたつを比べるとやはりオイストラフ盤に軍配を上げざるをえない。とにかく録音が悪いので無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲第2番,○作曲家(P)D.オイストラフ(VN)サドロ(VC)(DOREMI)ラヴェルのそれと並んで、二十世紀に作曲されたピアノトリオの最高傑作のひとつ。この作曲家にしては構成が明瞭で聴きやすく、旋律もわかりやすい。が、作曲家の様々な思いが反映されたなかなかに深い曲である。親友ソレルチンスキーの思い出に捧げられているが、1楽章冒頭Vcのフラジオレットによって提示される泣き出すような旋律には、痛切な哀悼の意が汲み取れる(終楽章でピアノのアルペジオにのってリフレインされるところも非常に美しい)。作曲家の全幅の信頼を勝ち得ていたオイストラフは流石上手だが、終楽章で少し粗さが出ているところもある。しかし二楽章アレグロ・ノン・トロッポでは火の出るような凄まじい演奏をやってのけている。この楽章の緊張感は凄い。作曲家のピアノも調子が良い。近年亡くなったサドロのチェロは、この両人に比べると個性が薄くやや聞き劣りするところもあるが(微妙に音程も悪かったりする)、曲の性格上あまり表に出ることがないため気にならない。総じて歴史的名演といえよう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:ブロックの7つの詩,○ヴィシネフスカヤ(sp)ワインベルグ(p)D.オイストラフ(Vn)ロストロポーヴィチ(Vc)(MSC)1967/10/20初演live・CD,,20世紀の同時代の作曲家達が今考える以上に互いに国境やイデオロギーを越えて交流しあっていたことというのはいいかげん一般的知識になってほしいものだが、この曲にもブリテンやバーバーと同じ香りを嗅ぐ人は多いだろう。確かに弦楽四重奏曲に聴かれるようなショスタコらしいささくれだった静謐さというものが支配しているが、ソプラノを使うことによってそこはかとなく美しい抒情性が生じ、寧ろヴォーン・ウィリアムズ初期の「ウェンロックの断崖にて」の「クルン」の世界を思わせずにはおれない。くすんだ色調の、でもこの上なく深情の篭った作品である。演奏は比較するものを知らないので何とも言えないが、曲と作曲家の魅力を知り尽くした演奏家達による佳演とでも言っておこうか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:ポルカとギャロップ(ストコフスキ編),ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)マンハッタン・ヴェッツ病院慰問1967/5live,,慰問演奏会の一節でオーディエンス録音ゆえ極端に音が悪い。派手な音でがちゃがちゃやるのにストコは真骨頂を示すが、リズム感がイマイチか。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:歌劇「鼻」組曲,○モートン・グールド指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1978live,,やや鈍重でリズムがはっきりしない。しかし情景描写力はある。色彩は比較的明確でショスタコの諧謔を表現するに足りぬところはない。ただ少しアタックが弱くテヌート気味の音表現がそぐわないのだ。録音は篭り気味で悪いが一応ステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1番,◯ヨーク四重奏団(royale)1940?・SP,,やや生硬だが実直な足取り、ショスタコーヴィチらしさと言うべき不協和音のひときわ際立つように中低音の強調された響きや独特の表現の面白さには惹かれる。二楽章の主題のベートーヴェンのような雄渾な出だし、音の切り方には驚いた。ファーストの線が細く縮緬ヴィヴラートの古風さとややもすれば幼く何の色も付いていない表現とのマッチングが面白い。旋律的ゆえに、ファースト偏重で押し通すやり方がショスタコーヴィチらしくも感じられ聴きやすい曲だけれども、これは結果的には裏が引き立つ立体的な演奏となって、アンサンブルとして楽しめる。逆にスケルツォの鋭さ、激しさが余り無く(スタッカートが甘くなる箇所はいくつかあるがこれは解釈か)、中間部のワルツも実直過ぎでコントラストがはっきりしない、しかし部分的に自由にやっているふうのテンポのところもあり、同じような調子は四楽章にも引き継がれるから、解釈ではあるのだろう。音程が狂う箇所は全楽章では取り敢えず三箇所確認できたが目をつぶる。四楽章展開部あたりからの勢いとソリスティックな表現はちょっと独特の楽しさがある。ライブ感がある。全般、上手くはないが面白い。ファーストチョイスには向かないが、余裕綽々の一番に飽きたらこれもまたよし。◯。ニューヨーク四重奏団とは違います。けしてヘタでもないですよ。個性です。自由です。アメリカですから。袋に1941年2月13日以降3回の年月日押印があるが、どこかの資料館の貸出記録のようなのでその直前くらいの録音か。私の盤は綺麗だが音は悪い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1番,○ギレー弦楽四重奏団(MGM)LP,,この団体は面白い。タコ1のような短い旋律音楽で、こんなに揺れるのも、まるでロシアの団体のようだ。といってもロシアでもベートーヴェンQをはじめとして余り揺れることもないのだが、情緒たっぷりに旋律を弾ききっている。ロシア団体とは違った意味でやや技術的不安定さを感じさせるのも芸のうちだろう。とにかく曲が短く浅いのでなんとも言いがたい部分もあり、私の盤面の悪さもあいまって、まあコミタスとの比較論なら余裕で○はつけられるということで。ま、音のいい演奏で透明なハーモニーと細かい音符の応酬を楽しむべき部分の多い曲であり、新しい演奏を選ぶのが、最初はいいと思う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1番,○スタイヴサント四重奏団(columbia)1942/7/30・SP,,性急な演奏であっという間に終わってしまう。個々そうとうな技術力とアンサンブル能力を持っていることは一目瞭然なのだが、ややつんのめり気味というか、テンポが前に向きすぎな感もある。音色はいい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1番,○ターリッヒ四重奏団(PRAGA/Le Chant du Monde)1976チェコ放送録音・CD,彫りの深い表現で素直な譜面に対しテンポやアゴーギグの恣意性が目立つが、テヌート表現を避けアンサンブルとしての整合性を重視するがために感情的な盛り上がりがなくやや味気なさを感じる。この団体の芸風だと後半楽章のせわしない動きをスポーティに聞かせるのが得策だと思うが、旋律でもどうしても音符を短く切り詰めて表現するやり方、東欧的な金属質の平坦な音にくわえてどうも、上手いしスリリングな緊張感もあるというのに、乗れない。恣意的な表現というのはこの旋律的な曲にはあっていると思うので解釈自体は評価できるし面白みも感じるが、あとは純粋に弦の音と芸風への好みか。室内アンサンブル好きは機能性を重視するのでこのような団体を好むと思う。独自性を評価して◎でもいいと思ったが、個人的に余りにのれなかったので○。どうにも渋い。,,<Le Chant du Monde盤>,"
String Quartets 1 & 2/Piano Quintet
Talich Qt
Le Chant du Monde

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ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1番,○ブルガリア弦楽四重奏団(harmonia mundhi)LP,,落ち着いた比較的精緻な演奏で硬質な響きを整えた「安心して聞ける演奏」になっている。若い感じがするし決して技術的瑕疵が皆無ではないが、ショスタコの室内楽という、各楽器に独立した高度な技巧を要求する難関の導入口にあたるこの曲においては、やむない部分も多いとも思うのでトータルの聴感で○をつけておく。スケルツォの3楽章がショスタコらしさの最も表われた一つの要になっているがそこは非常に巧くやっており、第二主題のワルツを殊更に煽り立てることなくやっているのが現代風でショスタコぽさを感じさせていい。この曲は伝統的な弦楽四重奏曲の構造や要素を踏襲しながらも、極限まで装飾的な表現・音を削ぎ落とした極めて凝縮されなおかつ「必要な音しかない」曲となっており、ヘタするとたった二本の楽器の「不協和な和声進行」で、しかし確かに「旋律音楽」を進めなければならないような「かなり緊張を要求する」ものだ。そういったことを考えるとこの団体のやや生硬な終楽章などもしょうがないのかもしれない。いや、1、3楽章は素晴らしいし、耽溺しないが旋律の哀愁はほのかに香り続ける2楽章などもうまくできている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1番,グラズノフ四重奏団(Aprelevka)SP,,全面旋律的な曲で、「革命」をギュッと凝縮したような簡潔さが非常なる魅力。ここではボロディン2番などの録音に聴かれるてんめんとしたスタイルでひたすら旋律を聴かせていく。一、二楽章はそうしたやり方が少々野暮ったくも懐かしく鄙びた雰囲気を醸し、素朴で良い。非常にショスタコ的な、技巧的なスケルツォはやはり少し聴き劣りする、、、これこそショスタコなのだが。中間部主題はやはり色めいた音でそれなりに聴かせては来る。四楽章はハキハキ、キッパリやる嬉遊的な音楽で、現代的なシャープさがほしいが、さすがにそこは少し甘い。初演団体の古い録音としては良いと思う。グラズノフ四重奏団の録音としても良い方だと思う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1番,パスカル四重奏団(ars nova/forgottenrecord)1962/5/23放送・CD,,ars novaボックスに半年さきがけてfrがR化した放送音源について書いている(ars novaは基本は復刻らしいのでおそらく同じ音源だろう)。しっとり聴かせる前半楽章ではヴァイオリンのさざめ泣くような音色が印象的。バランスも良くチェロの音色もほどよく深い。注意深い足取りはきわめて単純化された書法の、それゆえ怖い構造を、音色や響きの変化を明らかにして色彩的にきかせる。3楽章は爆走はしないが飛ばしもきっちりブレがなくショスタコらしく機械的に、そのうえで抒情旋律が躍る。第二主題はどちらかというときっちりテンポを作りワルツを強調しないが、この曲ではそうでないと均整がとれないか。時代なりの響きの軋みが皆無とはいえないが古い録音ゆえよく伝わらないだけかもしれない。古式ゆかしい感情のほとばしる音がわくわくする4楽章。この楽章ばかりは軋みも味だろう。ライヴなので超高音がとれないのも仕方ない。「革命」の兄弟作品とされることもあるが、あちらより極度に凝縮され、そぎ落とし、より「わかりやすさ」を追求し、なおきわめてショスタコである。旋律音楽なので万人に勧められる。この演奏は個人的には好き。拍手はふつう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1番(1937ー8),◎ベートーヴェン四重奏団(オリジナルメンバー)(meldac(triton))音楽院資料1960live セッション共にCD化もされている。ショスタコーヴィチのパートナーだったといってもよい、オーソリティ達による録音。音程やフレージングに荒っぽいところも散見されるが、ファーストヴァイオリンのツイガーノフの情熱的な表現に心打たれる。全般に勢いがあり、わずか15分程度の曲を交響曲のようにダイナミックに描き切っている。ライヴは特に終楽章などボウイングや音程に荒っぽい表現が目立つが、この速さ、集中力は尋常ではない。ベートーヴェン四重奏団はこの曲の再演時に作曲家の絶賛を受け、以来殆どの初演を担い献呈を受け続けた。1923年モスクワ音楽院四重奏団として組織されたが、記念碑的なベートーヴェン全曲演奏を機にベートーヴェン四重奏団と改称、同時代音楽の権威として活発な活動を行った。完璧に融和しあったアンサンブル、熱くロマンティックな音色表現に特徴がある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1番(1937ー8),◎ベートーヴェン四重奏団(オリジナルメンバー)(melodiya他)ライヴ盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1番(1937ー8),タネーエフ四重奏団(melodiya原盤)国内CD化もされている。15番で、チェロが急逝したベートーヴェン四重奏団にかわり急遽初演をつとめた団体である。そのとき老齢のショスタコーヴィチはこの上ない称賛の言葉を贈り、大成功をおさめた。だがこのフランス的な軽い曲の録音に関しては、余り成功していないと言わざるを得ない。音をひとつひとつ確かめるようなもっさりとした表現が目立ち、特にファーストの生硬な運弓がアンサンブルをぎごちなくしてしまっているように思う。いずれの音色にも個性が無く、ヴィオラの音が浅いのも気になる(2楽章冒頭のソロ)。ファーストの音は只強いだけの無機的な印象で、音程も余り良くない。一部細かく痙攣するようなヴィブラート表現にレニングラード派の音を感じるが、個性と感じるほどには目立たない。・・・この団体は「巧」くはない。だがロマンティックな叙情性の表現力に欠けるというだけであって、もう少し現代的な曲になると、思索的で気高い演奏様式を演じ秀逸である。又2番1楽章冒頭など露骨に民族的素材が顕れる所では、ショスタコーヴィチ四重奏団を思わせる「ロシア的音色」が印象的。迫力に満ちざっくりと切り開くような鮮烈さがある。ロマン性を排した現代的な感覚の上にロシア(レニングラード)伝統の表現法を展開する団体といえよう。1946年レニングラード音楽院の生徒により組織、1963年タネーエフの名を冠した。比較的早い時期にチェロが交代している。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1番(1937ー8),○コミタス弦楽四重奏団(MELODIYA)LP,,かなり穏やかな演奏なのだが、ねっとり軟らかい左手の指遣いがロシア式を感じさせて懐かしい。強く個性を押し出すところはないが安心してこの短い叙情詩に身を委ねることができる。テンポ設定も一定しており極端なコントラストをつけることもなく、曲の純粋で他愛のない美観をうまく保っている。技巧的安定がそれを支えているのだろうがこの曲では技巧について論じるのは無理がある。正直印象に残りづらい内容であったが、ロシアらしからぬ精度から○をつけておく。アルメニアの団体。録音は遠く悪いが4楽章は聞きやすい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第2番,○タネーエフ四重奏団(melodiya)CD,,言われるほど暗く晦渋ではなく、前半楽章はプロコの2番のようだし三楽章で突然いつものショスタコ節でシニカルな舞曲、四楽章もいつものショスタコの簡素な書法で暗さもあるが、重厚なハーモニーによる進行にはどこか親しみやすさのある聴きやすいものを感じる。全般聴きやすいから先入観無しに聴いて欲しい。一楽章なんて民謡旋律が溌剌と透明感を持って演奏されるさま、ほんとプロコだ(もっと簡潔だが)。単純さを力と勢いで何とかするという意味ではタネーエフ四重奏団の民族的な野蛮さが役に立っているが、僅かにアバウトさも感じる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第2番,ベートーヴェン四重奏団(放送)live,,ペテルブルグ放送音源がwebで聴ける。演奏日は不明だが既出盤の気がする。放送ノイズが入るものの生々しく目の前で汗を飛び散らせて演奏されているように錯覚させる非常に良いステレオ録音。初演団体で演奏はすさまじく、各楽想の描き分けが非常に激しい。冒頭こそ1番を思わせる清明で民謡ふうと思いきや、形式感はすぐに瓦解し後作の先駆となる内面を直視し技法追及を二の次とする独自のカルテットの世界を形成している。そのような曲なので(第二次大戦末期の完成)分裂症的な表現の峻厳さがさらに誇張され叩きつけられてびくっとさせられたり、ファーストヴァイオリンがえんえんとつぶやき続ける悲歌的フレーズの脊髄をわしづかみにされるような思いに、4本の楽器しかないのに交響曲的な巨大な音楽空間を作り出し、それはもちろんこの楽団ならではの同時代性でもあろう、アレグロで盛り上がりつつも割り切れない和声のうちに暗い炎を燃やす終演後には盛大な拍手が贈られる。ショスタコの内面に鬱屈する情念が爆発したような、それを審神者として表した楽団に拍手。周到な準備があったであろう、演奏瑕疵は皆無。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第2番,ベートーヴェン四重奏団
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第3番,◎スメタナ四重奏団(SUPRAPHON)1961・CD,,わかりやすい演奏。この曲はもともとシニカルなメロディから清澄な緩徐主題にいたるまでわかりやすいのだが、ショスタコという人の作品自体ピアニスティックな書法が要で、「横の楽器」弦楽器のみによるアンサンブルでは粒だった音符で機械的な構造を再構築するという、基本中の基本がきっちりできてないとグズグズに聴こえてしまう。冒険のない演奏のように聞こえても、じゃあいざ冒険しようというときになって全体が崩れてしまう、それがショスタコである(1番は違うかもしれないけど)。むしろスメタナ四重奏団のロシア曲の演奏にしては気が入っている感が強く、◎にしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第4番,ベートーヴェン四重奏団(moscow tchaikovsky conservatory)1953/12/3初演live・CD,,モノラルのライヴ音質だがまずまず聴ける音になっている。晴朗な民謡風旋律に始まりしばらく1番などに通じる平易な表現が続くものの、音が半音ズレたような、あるいはジャズを思わせる歪んだところ、ぽろぽろと崩れていくように下降線を辿り、慎ましやかな中にも沈痛なものと、ショスタコーヴィチらしさとでも言うべき晦渋なものが入り混じっていく。2楽章以降、突然グラズノフのような民族主義的表現が(スラヴ的な中にもユダヤ的なものも)入り音楽を盛りたてたりもするが、まるでそれは気まぐれのように簡潔な暗い音楽に静まっていくなど、入れ子構造のようなところをベートーヴェン四重奏団は巧く旋律的な音楽として聴かせ、激しくも弾け切ることはなく緊張感をラストまで持続させ、静かな終演にフラブラ気味の大喝采。初演とはいえ譜面そのものはそれほど複雑ではなくむしろ簡潔すぎてよくわからなくなるところ、全体的に下降線を辿るようなショスタコ特有の構成を綿密に把握して、旋律に重点を置いてかなり分かりやすくまとめている。部分的にプロコフィエフの2番に似ているが、プロコフィエフはソヴィエトの作曲家として個性の終焉に向かうところ、ショスタコはこれからまだ個性を発揮していかなければならないが、それをまだ殺していかないとソヴィエトでは生きていけない、そんな気分から「気分の二重構造」が生まれ、スターリンは無事この世を去っても、ここまでわかりやすい娯楽性を入れないとならない、自身を出し切ることができていない雰囲気がある。ショスタコが苦手なら分かりやすい曲に演奏だと思う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第4番,ベートーヴェン四重奏団(U期)
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第7番,ベートーヴェン四重奏団
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第7番〜T、U.,ベートーヴェン四重奏団(放送)live,,2番とともにネットで聴ける音源だがデータが不明なのと、アレグレットとレントの乱暴な切り出し放送音源ということで宙ぶらりんな聞き心地。響きが濁るなあ、と思ったら録音がノイジーなのであった。ショスタコーヴィチはささくれだった心に寄り添う。緩徐楽章だけなら尚更。聴くタイミングによっては迫真味がある演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第8番,◯ベートーヴェン四重奏団(放送)1960/10/2初演live,,いきなりdschの刻印が繰り返し刻まれて始まる、とても深刻な音楽だが、自作を始めとする引用も多く、背景を考えさせるに十分な要素を抱えた暗い曲。ややよれた録音だが初演記録として貴重か。初演イコール名演ではないのであって、手探り感もなきにしもあらずなのが普通ではあるのだが、立派にやりきっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第8番,ベートーヴェン四重奏団
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第9番,ベートーヴェン四重奏団(U期)
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第10番,ベートーヴェンQ(U期)
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第11番,ベートーヴェンQ(V期)
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第12番,ベートーヴェンQ(V期)
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第13番,○オレグ・クリサ(1Vn)クラフチュク、ヴェンゼガ、ポタポフ(MELODIYA),,クリサ先生がファーストをつとめた珍しいもの。1970年作品にしては「古風な前衛」の粋を切り詰めたような作品となっていて、晩年の骨皮筋衛門なショスタコの作風を象徴的に知ることが出来る。三部が融合したシベリウスの交響曲の顛末を思わせる単一楽章の中に、有機的に絡み合う要素が緻密に、かつ非常に簡素に提示されている。ショスタコのカルテットは決して複雑な様相をていさないが、これは其の中でもほんとにホネしかない実に単純で非構造的である。しかしベートーヴェンを思わせざるをえない深刻で重い響きをもつ。一桁番号の作品にいくぶんのこっていた旋律性や世俗性が、このころになると極端に絞られ昇華されており、この短い作品の中に要素だけが散置されるさまはツィガーノフ教授(ベトQの全集は最近やっとdoremiで集成復刻された)によると初期作品へのオマージュがこめられたものという。実際、3部後半にいたるまでえんえんと厳しく研ぎ澄まされた音の点描風景が、最後に色をおびていくぶん情趣をかもし出すさまは確かに僅かではあるがまるでプロコが晩年に立ち返った無邪気な世界の想起させる心情を、もっと厳しく抽象化して提示しようとしたかのようだ。,,ただ、この演奏はボロディン四重奏団を思わせる雄弁さに若々しい覇気が漲りすぎて、ややウンザリしてしまうところもある。巧いし、とにかく四人とも非常に力があるのだが、哲学的な面から前記のような心象を引き出すまでにいたっておらず、単なる楽譜の再現という純度の高い領域から一歩出ていない。いや、くさすつもりはなく、クリサ先生も素晴らしく独特の透明感をたたえた音で対処しているが、すいません、単純に、3部後半まで乗れなかったのです。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第15番,ベートーヴェンQ(V期)
ショスタコーヴィチ:弦楽八重奏曲,ベートーヴェンQ(V期)
ショスタコーヴィチ:呼応計画の歌op.33-2,デゾルミエール指揮合唱団&管弦楽団(le Chant du monde)1938/2・SP,,この前後デゾルミエールは夥しい数の通俗曲〜主としてフランス歌曲や俗謡〜を録音しており、38年だけでミヨーのプロヴァンス組曲第一集を別としても21枚(42曲)の78回転盤をリリースしている。ケクランのものなど珍しい曲が含まれるがそれぞれ極めて短くマイナーなことから復刻はほとんどされていないと思われる。しかし、中にはこの曲のようにweb動画で容易に聴けるものもある。ショスタコーヴィチの一面通俗曲作家としてすら非凡な才能が発揮されており、浮き立つ楽天性を備えた耳に残る旋律である。現代日本でも、キーを変えても歌われているが、元々1932年のスターリン肝入り映画Counterplanの表題曲であり、フランスではAu-devant de la vieの題でジャンヌ・ペレが歌詞をつけ、動乱の30年代社会主義運動を象徴する合唱曲となった。デゾルミエールの思想性については興味のある人が調べればいいが、素っ気なく突き放すスタイルではなく、沸き立つような楽しい歌声をドライヴして、これはショスタコなのか?というくらい南欧めいた雰囲気も漂う。デゾルミエール自身ショスタコをほとんどやっていないので貴重ではあるが、ほとんどショスタコーヴィチ的ではないし、フランスの歌として愉しめばいいだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,◎ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(BERLIN CLASSIC,ETERNA/EDER CLASSICS)初出1963・CD胸のすくような演奏ぶり、その表現の厳しさに背筋ピーン。ここまでオケを緊張させないと成り立たない曲だったのか。個人技のツギハギのようなところのある曲だから、下手に何かやろうとするとスグ瓦解する。それが今まで私がこの曲を敬遠してきた主な理由であるわけで、ここまで精緻にきっちりやると途端にまばゆい輝きを放つようになるものなんだなあ、と目を見張った次第。ただ、ショスタコに通常求められるモノとは違っていて、半音階的な妖しい旋律線にもその違いがはっきり顕れている。確かにこれはこれで完璧な個性を備えた名曲で、トスカニーニやワルターの興味をひくだけのものはあるが、スクリアビンの世界からそう遠くない、演奏効果の大きさに比して何かを伝えようとする力がいまいちな感じがする。映画音楽のようでもあり、同時期の蚋蚊のようにひしめく西欧もしくは新世界産のシンフォニーの聴感に近い。借り物のような感じ、バタ臭さが違和感を感じさせないでもない。・・・とそう思いながらも終盤の機関銃のように鋭い音響に激しく戦慄してたりするのだけれども。すごい演奏です。あっというまに聞けてしまった。録音も良好。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,○シルヴェストリ指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(MONITOR/MELODIYA)LP擬似ステレオのなりそこないのような録音で音場が偏り非常に聞きにくいが(MONITOR盤)、我慢して聴いてみると、これがなかなかイケる。曲の面白味を最大限に引き出して即興的ともとれるような思うがままの演奏を繰り広げる、この奔放さこそがシルヴェストリの魅力なのだ。この曲にはこういう恣意的な解釈があっている。シルヴェストリはどぎついが掴み所の無い指揮者という印象があったのだが、この演奏には「どぎつい」と言うほど野卑な音は聞かれないし、ロシアオケにしてはむしろまとまった演奏と言うことすらできよう。うまくできている。ピアノの走句が明晰にとらえられており、とても楽しめた。録音マイナスで○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(RUSSIAN DISC他)1966(1968?)/12/30LIVEうーん、いまいち。比較的明晰で適度に起伏の有る演奏だけれども、聞きづらい。音色があけっぴろげで耳につくところもあるし、まああまりこの曲に関しては必要の無いことかもしれないが、「深み」に欠ける気もする。派手であるがゆえに曲の本筋がわかりにくくなってしまっている。細かい動きがアバウトな感じがするのは録音のせいかもしれないが、もっと合奏力がほしい。集中力がほしい。力感溢れるエネルギッシュな演奏を信条とするスヴェトラーノフの、まだ昔の録音だから仕方ないが。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(Lanne:CD-R)1968/12/30live,,これが惜しい。スヴェトラ・ソビ響共に全盛期の演奏と言えるものだ。ぬるまゆい音響表現と余裕有る技術・大編成でショスタコの痩せぎすな音楽をロマンティックに聴きやすく肉付けし、ボリュームたっぷりの大交響曲として取りまとめてみせる。もちろんムラヴィンやコンドラシンのようなショスタコを指向する向きには受けるかどうかわからないし、こういうショス1はトスカニーニともまったく違った柔らかさを持ち現代の耳からすると少々違和感がある。でも面白い。メドレー的に繋がれた楽想を有機的に重厚に歪み無く継いで行くのはスヴェトラのショスタコならではの職人的なわざで、晩年のロシアオケには不可能な「後は最強オケのアンサンブル能力にお任せ」的なところでもあるが(ソロヴァイオリンの巧さに瞠目!)、ショスタコ初期の薄い書法はそうすることで古い聴衆にも十分鑑賞に耐え得るものになるという見本。オケの非常に手馴れた丁々発止にくらべピアノが少し鈍い感もあったが別に問題とするほどではない。問題は録音なのだ。終盤で非常に撚れてノイズが酷くなり、霞んだまま終わってしまう。せっかくのクライマックスが!拍手は普通。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,○ストコフスキ指揮NYP(DA:CDーR)1960/3/5LIVE ,,ストコのショス1はいい!わかりやすい!同時代の中欧音楽の影響下にありながらも何にも似ていない、しいて言えばプロコに似たせわしなさと単純さをシニカルな楽想にのせてひたすらマニアックに突き進みドロドロし、といったところの描きだしかたが巧い。NYPのパワーがあれば怖いものなしだ。冗長さもなんのその。録音も聴きやすい。両端楽章を聴くとつくづく適性を感じる。人により大げさでシニシズムが浮き立たないと思われる可能性があるので○にとどめておく。拍手はふつう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,○チェリビダッケ指揮デンマーク放送交響楽団(VIBRATO:CD-R)1970年代LIVE,,脳天にガツンとくる名演なのだがいかんせん録音が悪い。終楽章後半で左チャネルに入りそのままフィナーレまでつづくどうしようもない放送雑音にいたってはとても最高評価にはできない。やや不安定なステレオでエアチェック特有の音の軽さがある。この時点ではまだスピーディでテンションの高いガチガチのアンサンブルを構じているチェリが、晩年には特徴的となる透明感ある明快な音響を既に指向していたのか、たんなる録音だけの問題なのかわからないが、焦燥感と掛け合いのカタマリであるこの独特の癖ある曲を聞きやすくすっきりしたものにしていることは確かだ。わずかにピアノの非力さが気になるほかはオケ的にも非常によい。解釈の余地のない線的な単純構造のメカニカルな曲ゆえ、構造にきびしいチェリにはあっている面もある。組曲ふうの楽曲内容でともすると散漫に終わる曲だがチェリならではの緻密な設計は成功をおさめている。とにかく録音だ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,◎チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル(EMI)1994/6/2,3LIVE・CDこのブカッコウな曲が実に立派に響いている。ソロが多く軽く薄い響きの楽曲であり、そこが良くも悪くも特徴的なのだが、チェリにかかるときちんと組みあがった響きというか、がっしりした、なおかつとても前進的な音楽に仕上がる。これはたぶんこの曲の演奏史上もっとも「交響曲らしい」演奏であり、ショスタコであるかないかに関わらず、素晴らしい音楽である事を再認識させるにふさわしいものとなっている。軽妙さはないが私はむしろそのほうが好きである。演奏的にもとてもしっかりしていて過不足はない。最後鷹揚なブラヴォーがかかるが、もっと熱狂的に叫んでもいい中身の詰まった聴きごたえたっぷりの演奏です。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,○チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル(VIBRATO:CD-R)1990年代・LIVE,,既出か。インホール録音とあるがそれにしては安定して雑音も少ない。ロシアのカケラもない表現は作曲当時西欧におけるこの曲の受容ぶりがうなづける、是非はともかくモダニズムな側面をきちんと掬い取ったもので、淡色系の音を出す俊敏なオケを相手に、ルーチン的ではあるがだからこそ変なケレンの無い演奏に仕上がっている。拍手も極めて冷静、なるほどチェリの神格化直前だからこそ、実は1番真価が伝わりやすい。1番なんかで9番並の諧謔性を表現できたのはこの人だけではないか。普通にやろうとしても、これはへっぽこになる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,◎マルケヴィッチ指揮ソヴィエト国立交響楽団(LYS/melodiya)live,,壮絶な演奏でとにかくこのオケがここまで引き締まって一丸となり若き獅子につき従うさまは「こんな曲ぜったい弾きたくねー」という私にとっても耳を傾けざるを得ない勢いがあった。このオケが一糸とて乱れない!スピードはひたすら速く、アンサンブルは緊密でムラヴィンスキーすら凌駕するのではないかといった一方、若さ?ゆえの求心力という部分と、楽曲をロシア臭のない「自分寄りの解釈」に引き寄せて演奏することで(恐らく意識にはあったであろうトスカニーニよりも)成功をおさめることができたともいえる。この時代のソヴィエトでそうそうこんな拍手はきかれない。フランス的なかんじすらおぼえ、マルケが国外のしかもフランスなどで割合と(素っ気無く速い指揮を必要とする)バレエ寄りの活動を中心に行っていたのもうなずける内容である。この曲はつまらない曲だと思う。面白く聞きたければ、こういう有無を言わさない演奏から入るがよし。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,○ロジンスキ指揮クリーヴランド管弦楽団(COLUMBIA/LYS)1941/4/1これはロジンスキの「凄いほう」の録音だ。異常な凝縮力、きわめて緊密なアンサンブル、ぐいぐい押し進む推進力、何よりオケの「やる気」が凄まじい。しっかり実の詰まった音響に、はじめNYPかと誤解したほどだ。冒頭からドライヴ感に満ち、弦が走り出すと音楽は強烈な奔流となって耳を圧倒してくる。私の盤は例によって音飛びがすさまじいが、あまり気にならないほど流れは安定しており、強力な演奏ぶりだ。緩徐主題においてもあまりしっとり聞かせるというふうではないが、情緒は音楽そのものからじわっと染み出てきている。ドラムロールやピアノの打鍵といった打楽器的な要素が目立つ曲だが、ふつうの指揮者がやると骨のように細い本流の上に離れ浮き上がってしまって空疎な感じを覚えるのだが(それを狙っているのだろうけど)この演奏では速い速度に載ってさらにドライヴ感を煽るものとなっており、今まで聴いてきた中でもっともしっくりいった。この曲はショスタコの作品としてはけっして上に置けないものだが(マニアックな評論家の中には最高傑作とする人もいるようだが)、こういうしっかりした演奏で聞くとこれはこれでひとつの完成形を示しているように聞こえる。名演だが録音マイナスで○としておきます。イタリア盤で一回CD化した。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番(欠落あり),ロジンスキ指揮NYP(SLS)1941/12/7カーネギーホール(アフタヌーンコンサート)live 放送,,ロジンスキのロシア物への適性は半端ない。私の耳にはまるで数珠繋ぎで細くて散漫だったり空疎だったり好みでなかった同曲を、しょっぱなから目の詰まった響きで異常な迫力のまま、分厚く緊密なアンサンブルを繰り出し圧倒してくるのにはもう、これはチャイコ2番などで聴かれる「素晴らしいほうのロジンスキ」だと言う感想しか出てこない。楽章の構成的にダレる部分も無いわけではないが、基本的にオケの充実度にはピアノ等ソロ楽器込みで文句のつけようがなく、この頃のロジンスキの覇気たるやカーネギーホールの聴衆が現代曲に慣れていなかったとしても、もっと湧いてもいいくらいである。惜しむらくは欠落で、これはラジオ中継放送なのだが、4楽章の途中にニュース速報が短く入り、曲終わりもブツ切れで余韻なく、一旦拍手は短く入るものの、そのあと休憩時間しょっぱなから真珠湾攻撃のニュースが正式に入り、耳を覆いたくなる内容に移行する。これは15分弱も続き、一旦次のブラームスのピーコン2番(ルービンシュタイン)の中継に戻るものの、また速報が入って、二楽章で打ち切りとなり終わる(このあと星条旗よ永遠なれが放送されたそうである(未収録))。3時開始のコンサートということで30分前に攻撃は始まっており伝達遅れのためむしろこの演奏が放送できたことを思うと、仕方ないのだが。COLUMBIAとVICTORがかかわっており正規録音があるんじゃないかとも思う。40年代録音にしてはノイズレスで音が良すぎる。これほどのドキュメントでありひょっとするとリマスター済みの既出音源かもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,ジュスキント指揮英国ナショナル・ユース管弦楽団(PYE)1957/1LIVE・LP録音が貧弱すぎる。盤面も荒くかなり聞きづらい。希少価値があるようだがジュスキントの指揮は引き締まったものでオケも年に似合わずシャープで熟達した技を聞かせている。この指揮者はマニアがいるようだが私はあまり聴いたことがないので詳細記述は控えます。どこか焦燥感のある棒が曲の持つささくれだった感情表現と巧く溶け合っている。最初と最後があまりに無造作で荒っぽいが、中はマトモです。とくにあっさりした終わりかたに戸惑うような拍手がばらけて入ってくるのが印象的だった。録音さえよければだが。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,トスカニーニ指揮NBC交響楽団(RCA)1944/3LIVE・CD,,アンファン・テリブルなショスタコーヴィチがレニングラード音楽院の卒業制作として昭和2年に発表した作品である。ニコライ・マルコが初演、プロの面々は冷淡だったものの、一般大衆には受けたそうである。それがラジオ放送され、世界的指揮者であるトスカニーニやワルターなどに着目されるきっかけとなったという(トスカニーニは決してショスタコーヴィチを認めていたわけではなかったのだが)。冒頭いかにもティル・オイレンシュピーゲルな感じのペットソロがいきなりシニカル。人を食ったような調子はずっと最後まで続く。たしかに面白い。しかし今聴いてみると、そんなに公衆にアピールしたとは思えない。新鮮な部分はあるし(やたらとソロ楽器を裸にして歌わせるところ、ピアノや打楽器を多用するところ)、マーラーの影響はそこはかとなく現われているし、何度か聞けばそれなりに良さはわかるが、とくに後半、まるでミャスコフスキーの初期のように半音階的でうねうねした音楽は決して人好きするものではない。トスカニーニの即物的な演奏で聞くと晦渋でわけがわからない音楽にすら聞こえる(これは余りにモノラルモノラルした録音のせいでもある。トスカニーニはこじんまりとした録音のせいでかなり損していると思う。この盤を聴くときはぜひ大音で聴量くべし)。一方でモダニズムの一派には中途半端と一蹴されそうだし、新古典的と言うには洗練されてなさすぎる。まあ若書きだから仕方ない。ショスタコーヴィチが交響曲の分野で己を確立するまではまだ2曲の実験的交響曲を経なければならないのだ。ところでこの作品はとても西欧的である。ロシアふうの主題がなくはないが印象は薄い。半音階的な旋律や動きはむしろ初期シェーンベルクやリヒャルト(ワグナーでもいいですが)シュトラウスあたりを思わせるし、でろでろしたところはまるでスクリアビンだ(ロシア人ですが同じ西欧かぶれということで)。ただひとつ、執拗な刻み、トッカータふうのタカタカ走句は爽快で独特だ。ウィリアム・テルのエコー、ショスタコが映画館で死ぬほど演奏し、ついには己の通奏低音として生涯使い続けることになった、とても軽快でシニカルな音線。トスカニーニ盤はこういうタカタカした音楽を再現するには音が潰れすぎである。そのあたりでもどうしても物足りなさを感じる。7番の録音でもそうだったけれども、明晰でディジタルなショスタコの音楽はあまりに茫洋とした録音ではダメになってしまう。また、この作品に限っては多少大袈裟な表現で旋律を際立たせる操作がないと、わけわかめになりかねない。なんだか曲紹介と演奏紹介が混在してしまったけれども、終演後ブラヴォーが叫ばれてはいるが、無印としておきます。何度も言うようだが、ぜひ大音量で耳を澄ませて聴いてもらいたい。でないとほんとにわけわかめ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R他)1939/1/14live,,純粋に音だけを磨き上げた直線的な演奏で、まさに「新即物主義ここにあり」といったところが聴き所でしょう。トスカニーニの同時代音楽に面したときの芸風を見事に象徴する演奏で、録音が極めて悪い雑音まみれで起伏も明確でないのでどうにも評しがたい部分もあるものの、エッジが立っていて耳なじみは明確でよい。説明はしづらいが「マルケヴィッチとは違った角度から」効果的にフランス印象派的な繊細な音響を織り交ぜつつ、力づくでインテンポで押し切る方法をとっている。きほんはベートーヴェンのやり方である。演奏自体は完璧であり恐ろしいほどの威力を発揮するNBC響には脱帽である。丁々発止という言葉を思い浮かべさせすらしない噛みあいぶりには驚かされる。攻撃性はしっかりしたポリシーのもとにまとめられており、徒に煽っているわけでもなく、純粋なスコアの読みと、音化の結果音楽ができた。聴衆反応もよい・・・切って貼ったような拍手、既出盤と同じ可能性あり。クレジットされているカバレフスキーは入ってない。このレーベルではよくあることである。こういった場合、運がよければ(追加注文があるなど)ミスと判明したら送りなおしてくれるだろう。たいていは原盤にないクレジットが放送アナウンスからだけ聞いていいかげんにつけられていただけである(誤りを指摘しても修正しないようだ、通販業者にはよくあることだが)。参考資料提供にすぎないのだから(対応や経緯を見ていると恐らくこの低価格でも商売ベースであり、仲買を通さない直販イタリア盤(ソッチ系)だから安いというのが実情だと思うが)。,,2011年7月現在web無料配信されている音源と同じ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番〜T、U断片,○トスカニーニ指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団(RICHTHOFEN:CD-R)1946/6/15ミラノlive,,トスカニーニのショス1は他にもあるがイタリアオケの生気ある演奏として特筆すべき記録である。実際、アメリカオケのものに比べ「音楽がリアル」で、録音は極めて悪いものの精度も高く聞き応えがある。というか、NBCでは無味乾燥な演奏をなしていたトスカニーニがここではちゃんと「ロッシーニの紛い物」として、面白く演じているのは驚くべき発見である。,,ただ、これ、一楽章は冒頭を欠き、二楽章にいたっては冒頭しかない。計6分50秒、これのためにこの盤を買うのはどうかというところだが、海賊的裏青にしては良心的価格なのでまあ、他のトラックと合わせ技では許されるといったところでしょう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,バーンスタイン指揮シカゴ交響楽団(DG)1988/6LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(SONY)1971/12,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,マルコ指揮BBCso1957/5/5,,時代性というか半音階的でプロコ風の叙情味もあり(書法的にはペトルーシュカだそうだが)、ショスタコらしさは萌芽を感じさせるに留まる。マルコは厳しい面を見せ初演者の意気を示す。オケは瑕疵が多いがそれに応え迫力ある演奏を提示している。lyrita,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番,ロヴィツキ指揮ウィーン交響楽団(FONTANA)LPきのう人を二人弊す夢を見た。何ともいえない朝だった。そんなアタマにショス1はじつにシニカルにひびく。プロコフィエフの古典とのカップリングだが、使用している部品にそうそう差はないと思うのだが、まったく異なる視座にある、対照的と言ってもいい2曲。やっぱりこれはマーラーだよなあ、とショス1のほうを聴いて思った。生硬だが同時代の他人の新古典的交響曲と比べると、旋律をソロで繋いでいく腕や和声感覚に独特のものが既に芽生えていて段違いに聞ける曲になっている。旋律といえば1楽章の鄙びた第二主題、いいなあ。マーラーふう舞曲だ。ロヴィツキとウィーン響は相性がいいようで、かなり集中力の高い演奏が繰り広げられているが、それほど個性的ではなく、ウィーンらしさも余りない(そのかわりウィーン響にあるまじきアンサンブル力の高い演奏となってはいる)。いい演奏だとは思うが、私の盤は音飛びだらけのヘタレなので(またかい!)いちおう無印。というかこの盤ホコリを寄せ付けないスーパービニールとかで出来ているらしいのに、この音かい(いちおうステレオ)。うーむ。CDになっているとは思えないが、なっていたらウィーン好きは聴いてみてもいいかも。ウィーンのショス1は珍しいのでは。間違っても国内廉価盤LPはだめっすよ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第2番「十月革命に捧げる」,○モートン・グールド指揮ロイヤル・フィル他(RCA),,単一楽章ではあるが五部にわかれそれぞれに描写的表現が盛り込まれとくに前半はロシア・アヴァンギャルドの手法に沿った騒音主義的な書法が目立つ。しかしオラトリオ風の凱歌が歌われる結部を始めとして旋律性は比較的保たれておりアイヴズ的なカオスは表出しない。グールドがやるといっそう西欧的でロシアの匂いがしなくなる。同時代の米英圏の音楽を想起するし、創意は独欧圏の音楽に近いものもあるから、こういう演奏のほうがじつは本質を捉えられているのかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番,○コンドラシン指揮ドレスデン・シュタッツカペッレ(PROFIL)1963放送LIVE・CD,,話題盤である。抽象度の高いコンドラシンならではの演奏で、娯楽的要素はなく暗鬱とした細い音線が、ひたすら1時間近くつむがれてゆくさまは「タコヲタ」でないとなかなか入り込めないと思う。だいたいショスタコは各楽器を剥き出しにして数珠繋ぎで使用していくことが多く、ロシアの伝統もあろうが(恩人グラズノフがアバンギャルド以前の唯一の例外か)余り構造への意図的な配慮などはないので、スコアを見ながら精緻な響きを追っていかないと全容を掴みづらく、「本当の内容」を見かねてしまう。まあ、「本当の内容」なるものが本当に存在したのかどうか、今や一面的に決め付けることもできないが。この外様を使っての放送ライヴはモノラルではないと思うがほぼ残響をつけたモノラルに近い。ライヴではよくある類の舞台の遠い録音状態である。しかしそのためまとまって聴きやすく、細部は明瞭に聞こえるため(一部電子的雑音のようなものが入るが)難はなかろう。オケはロシア臭がしないぶんその録音状態とあいまって客観的評価が下せるような安定した音を出す。集中力もコンドラシンが時々はまるような即物的なものにはならず、マーラーのアダージオすら髣髴とさせる場面も少なからずある(もちろん元々そう書かれているのである)。ショスタコがフランス派の繊細な響きに接近しているということも改めて認識させる。そういった意味で見通しはよく、個人的にはロジェストのように表現のメリハリ、物語的な起承転結のはっきりしたもののほうが聴きやすいのだが、演奏的にこちらの純音楽的演奏をとる人もいようことは想像がつく。引き締まった演奏振りで、ロシアオケの雑然とした表現力に霍乱させられるという向きにはロシア盤よりこちらをお勧めする。○。正直個人的には余り強い印象はなかった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番,コンドラシン指揮モスクワ・フィル(MELODIYA,VICTOR)1966初演者による演奏だが、余りに力強く強引な演奏ぶりゆえに、細かいニュアンスや幻想味がスポイルされてしまっている。これはコンドラシンのどの演奏にもいえることで、この4番だけとりわけ、というわけでもないのだが、このような長く連綿と音の列が続いていくような音楽を描くにはちょっと一本調子すぎて飽きてしまう。1楽章アレグレットのえんえんと盛り上がりが連なっていくダイナミックな音楽ではとくに、えんえんとうるさすぎて、ずうっと同じ大きな音が続いていくのにヘキエキしてしまう。いや、私見としておくが、初演者の演奏だからといって最良の具現になるとはかぎらないということを付け加えておく。ちなみに手元にあるのは悪名高きビクターの全集版で、録音は正規盤にしては悪すぎる。音が左に偏ってみたり(いちおうステレオである)、音場が極端に狭く感じたり、聞きづらいところ少なからずである。現在分売されているものは音質がかなり改善されているはずで、それで聞いたら印象は変わるのかな、とも思った。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番,◎コンドラシン指揮ACO(RCO)1971/1/10live・CD,,RCO(ACO)放送音源のやっと第4集が出たが危惧されていたとおり現代作品が多く人によってはほとんど聴く物がないと嘆くこともあるだろう。これは既出音源以外では数少ない有名曲の中でも目玉であり、これだけのためにボックスを買うと決めているかたもいるに違いない。そしてそういうかたのために付け加えておくと、この演奏はマーラー的側面から同作品を肉厚に抉ったなかなかの名演ということである。他のコンドラシン盤にくらべオケが「コンドラシン解釈」に徒に振り回されないからこそ成り立ち得たものだろう。だからまあ、コンドラシンのファンのかたには最上級のお勧めにはしておかない。中期マーラーからの影響を明瞭に示しつつ、ややロマンティックにドラマをつづってゆくさまは雄大でかつとても感情的に聞こえる。強いフレージングに頼らずなめらかに分厚く音楽をつくっていくさまは非常にバランスのとれた良好な録音からはよく聞き取れる。放送音源にありがちなヘンに細部が聞こえるようには収録されていないからこその感触かもしれないし、あくまで録音としての評価ではあるが、ロジェストを聞いたときの同曲の良い印象と同等のものをかんじた。淡白にやるとただ長ったらしい音楽になってしまう。骨ばった表現だと現代慣れしていない聴衆にはきつい。この演奏はACOのいい面が引き出された記録だと思う。あくまで個人的な同曲演奏記録の比較論として◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番,○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SONY)1963/2/17ショスタコ4番にしてはずいぶんと早いうちに録音されたものである。オーマンディのオケは文句の付けようのない技巧と気合を持っているが、1楽章はいささかおとなしめ。少し飽きる。だが録音がすばらしく、それが実感されるのが2楽章。完璧なアンサンブルをありのままにクリアに収録しており、なかなか聞かせてくれる。最後の静寂の中の打楽器等アンサンブルの響きがすばらしくクリアにとらえられている。ステレオ効果も万全だ。3楽章もがぜん面白くなってくる。贅沢な組み合わせによる贅沢な演奏、何かひとつ足りないような気がしつつも、完璧な音響バランスの上で繰り広げられるショスタコーヴィチ展覧会、最後まで飽きないことうけあい。総じて娯楽的演奏の範疇に有る演奏と受け止めたが、それを好む好まないは貴方次第!,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番,◎ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(WEITBLICK)1969/5/20LIVE・CD物凄い統率力だ。とにかくこれは凄絶な名演で、オケに対して恐怖政治をひいたケーゲルの鬼のような形相が見えてきそうなほど緊張感に満ちている。その異様な緊張感が長い曲の最後までずっと維持されているのがまた凄い。ケーゲルの突き刺すようにシャープな発音、水も切れるような恐ろしい棒さばきが産み出す音楽の凄絶さにまた悶絶する。こんな4番あっただろうか。モノラルであるせいかひときわ音が凝縮され強烈な印象をあたえる。解釈が凄いとかそういうレベルではなく、これはこうでしかありえないのだ、という説得力だけでもうおなかいっぱいである。この曲が面白いと思ったのは今までロジェストヴェンスキー盤だけであったが、このケーゲルのギリギリの精神状態の示す凄さは別の天球にあって強烈に訴えてくるものがある。一度聴き出したら止まりません。全体設計の巧緻さにもまったくお手上げというか、こういうふうに演奏して欲しい、というツボを悉く押さえた演奏ぶりで、わかりやすさの面でも聞き物である。うーん、ボックス売りであることが惜しい。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番,○バルシャイ指揮西ドイツ(ケルン)放送交響楽団(brilliant)1996/4/16,24,10/24まあ真面目な人はこの演奏を選ぶべきだな。オケも精緻、指揮者も神経質、これで演奏が高水準にならなければおかしいわけだ。作曲家も神経質だから言う事無し・・・のはずだが、たぶん、ステレオセットの前に正座して1時間余りを過ごせる人か、スコア片手にCDのトラックを行き来する熱心な研究家以外には、「きれいな演奏だねー」とか、「精密器械のようだ」とかいう感想のほかに、残るものが無い。飽きる。あ、いや、ロジェヴェンの娯楽的演奏を知ってしまったからこういう因縁をつけてしまうだけで、評価としては○ひとつつけときますのでご勘弁を。個人的に余りにひっかかりなくすんなり聞けてしまったのが気に入らなかっただけなので。。すんなり聞ける演奏ができるだけでもすごいですよね。と弁解口調。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番,◎ロジェストヴェンスキー指揮ウィーン・フィル(CINCIN)1978/4/16LIVEプラウダ上での批判をへて総譜撤回され、26年をへてやっとコンドラシンにより初演された、ショスタコーヴィチ初の大作交響曲である。意外と旋律性に満ちており、マーラー的な絵巻物が次から次へと繰り出される面白い曲だ。3楽章制で、短い中間楽章とブリッジ状の両端楽章という外形だが、聴感的にはもっと細かい分節に別れているように聞こえる。1楽章はかつてアイスクリームのCMで使われた、打楽器要素の強い印象的な(中国風な)開始部から軍隊行進曲ふうの息の長い主題、このあたりでぐっとつかまれる(つかまれなかったら多分あとの音楽も楽しめない)。アレグロからプレストという目の回るような音楽はあまりに多彩すぎてかえってわかりにくいという印象も与えかねないが、集中力の高い「巧い演奏」で聞けばお腹一杯楽しめよう。中間楽章はスケルツォふうでもないちょっと不思議な印象の楽章。3楽章ラールゴはショスタコーヴィチがよくやる「尻すぼみ構造」の先駆でもあるが、「ウィリアム・テル」のエコーや、爽快な旋律を含むアレグロ部が織り交ざり(但しショスタコーヴィチの常として爽快なフレーズは一回だけ顕れたきり消える)、全体としては晦渋さというものはそれほどでもない。寧ろシニカルな笑いをさそう。ひびきの不思議さ、とくに鳥の声を模したフレーズが織り交ざったり、終結部のように不気味な静けさのなかに鉄琴のひびきだけが支配する印象派的な音楽も聞き物だ。フレーズの執拗な「繰り返し」がみられたりするが、「優秀な演奏で」聴き通してみるとそれは意味があって繰り返されているのであり、この大曲にはそもそも不要な音符がひとつもないのである。7番など名作であっても冗長と思われる部分があったりして、4番のほうがむしろ隙の無い曲だったりするのだ。総じてマーラーの精神分裂的感動路線を引き継いだ優秀な作品といったところで、5番ほどの凝縮も7、10番ほどの円熟もないものの、この時期のショスタコーヴィチにしか書けなかったであろう、瑞々しい感性と深い思慮のバランスのとれた名作なのである。ロジェストヴェンスキーの指揮はソヴィエト文化省管弦楽団とのメロディヤ録音で知られるが、外面的要素が強く、録音も演奏もスカスカの印象は否めない(でも私はこの録音ではじめてショスタコにハマった)。対しこの演奏のぎっちり中身の詰まっていることといったらない。いや、これまでこの曲に好意的に書いてきたのは、あくまでこの名演が念頭にあるからであって、ほんとうはそれほどの曲でもないのかもしれないが、このような異様な雰囲気に包まれた演奏で聴いてしまうと、どうしても贔屓目に見てしまう。ウィーン・フィルは録音が悪いため音色感があまり感じ取れないが、その機能性の高さ、指揮者に対する全幅の信頼とその証しとしての物すごい集中力はびしびし伝わってくる。その譜面の、ひとつひとつの音符を愛して下さい、と言ったのはバルビローリだが、ここではショスタコーヴィチが譜面にのこした音符、そして休符すらも全てそこで主張すべきことをしっかりと主張できている。ウィーン・フィルの魔術的な腕を堪能できる。また、ロジェストヴェンスキーのスコアの読みは巧く(深いかどうかはわからないが)、長ったらしい音楽をいかに面白く聞かせるかというすべを知っている(そういえばこの人も「ブルックナー振り」だ)から、たとえば細部に拘泥して全体が見えなくなるような下手なマネはしない。とても巧い舵取りだ。とにかくこの曲の旋律のひとつひとつがいかに鮮やかに浮き彫りにされているか、一度聴いてみて欲しい。楽団員の何人かが感極まってポルタメントをかけてしまうなど、ショスタコの演奏では異例だろう。録音は悪い。ステレオだが半分擬似っぽいぼやけた録音である。しかし、これは奇跡的な名演である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番,◎ロジェストヴェンスキー指揮フィルハーモニア管弦楽団(medici,bbc)1962/9/7エジンバラlive・CD,,medici(旧IMP)には珍しく中古で値が下がらないのも道理でこれは実に緊張感みなぎる凄演である。6〜8番を予告するような長大なこの曲は、とくに7番の悲劇的な曲想をより複雑に真摯に表現したかのようなところがあり、そこがストーリーだててきっちり表現されていない演奏はとても退屈である。ロジェストはきちんと物語を作る。長大な作品であれば尚更。そのためだけにすべてを整えていく。初演者コンドラシンは逆に抽象的なスコアのまま音にする。この一種サービス精神の差がわかりやすさと説得力の差になる。ショスタコマニアはコンドラシンを求めるだろうが、一般人にはロジェストのほうがずっと向いているのだ。オケが名うてのイギリスオケであることもロシアの偏向した表現におもねらないぶん音楽だけを楽しめる。気合が余って弾けていない部分もあるが、まったく気にならないのは磐石の解釈のせいだ。全体設計がとにかく巧いのである。録音は抜群にいい。リマスターが非常にうまくいっている。空間的なひろがりを音盤にまとめるのに一部不自然な操作が行われているのは原盤がそうなのだろうか。,,これは最も納得いった演奏かもしれない。◎にしておく。売ったけどね。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番,ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト文化省交響楽団(MELODIYA)1985スカスカな演奏だったおぼえがあるのだが、改めて聞くとこれはこれで面白い。骸骨がカラカラと踊るような演奏、これもまたショスタコーヴィチそのものである。ソロ楽器には技術的に難があるところも散見され、弦にかんしては響きが薄い(プルトが少ない)のだが、解釈自体はけっこう娯楽的というか、「見え易い」。ウィーン・フィルのライヴと解釈はほとんど同じといえる。スタジオ録音ゆえ静かな場面での「響き」が美しく聞こえる。最後の鉄琴の呟きが余情をのこす。まあまあ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○A.ヤンソンス指揮レニングラード・フィル(ALTUS)1970年7月1日LIVE、大阪フェスティバルホール・CD,,明るく流麗でそつのない速いインテンポが持ち味の指揮者。でもドラマの起伏は大きなスパンでここぞというところにつけられている。レニフィルの迫力と威力に圧倒されつつ、特にペットを始めとするウィンド陣の野太いロシア声に心煽り立てられることしきりである。こんなオケを生で聞いたらそれは感動するはずだ。ムラヴィンスキーのような凝縮と抑制がなく、かといってグダグダなロシア指揮者の系譜とは隔絶した、しっかりした密度の高い演奏ぶりは1楽章クライマックスあたりで既に胸のすく思いというか、猛々しい気分とともにどこか清清しさすら感じる。終盤の静謐な美しさも筆舌に尽くしがたい。幻想味とともに生身の演奏の肌触りがするのがいい(もちろん録音のせいもあろう)。テンポ的にはちょっとあっさりしすぎの感もあり、編集上の都合かアタッカのノリでそのまま2楽章に突入してしまうこととあいまって1,2楽章が同じテンポで同じ気分で繋がれているような、楽想の切替の面白さがやや減衰している感もある。ただ単品として2楽章の演奏を聞くならば最高にイカしている。やはり速めのテンポで強力な弦(ソロの美しさ!!)のガシガシ迫ってくる力強さや一糸乱れぬアンサンブル、そこに絡む管打のまるで軍隊のような規律と激しさを兼ね備えた演奏、そして全体に実に自然に組み合わさりこなれて流麗な音楽の流れに、マーラーのエコーと呼ばれたこの奇怪な楽章にもっと前向きというか、急くように突進してケレン味がない、いい意味で聞き易い音楽に仕立てていることは確かだ。,,3楽章は無茶苦茶美しい。これは録音のよさもさることながら、個人技の勝利といおうかオケの勝利といおうか、アンサンブルを構じるのが非常に巧いこの指揮者の流麗で緻密な設計の上で、静謐で、それでいて歌心に溢れた感情表現を各セクションが競うように尽くしている。これは素晴らしい音世界。こういう感情的な暗さを表現するためにあのちょっと浅めの2楽章があったのか、と思わせるくらいだ。それにしてもレニフィルは減点のしようがない完璧さである。やはりムラヴィンスキーとはどこか違う、これは主観もあるかもしれないが、ムラヴィンスキーよりも現代的であり、なおかつテンポ以外の部分での「感情の幅」というものがより大きい気がする(ムラヴィンスキーのほうが起伏は大きいと感じるものの)。微妙なニュアンスのつけ方とかになってくるのだろう。その積み重ねが印象の大きな差となって出てきているわけである。とにかく美しい演奏だ。,,4楽章は案外遅いテンポで始まり、ちょっとだけ弛緩を感じる、特にブラス。ノリはしかしすぐに定着してきて流れが構成され始めると分厚い弦楽陣の力強い表現がぐいぐいと音楽を押し上げていく。フルートの音色がいい。最初の「かりそめの勝利」にいたる道筋はすんなりとしているが、かなり気分は高揚っせられる。勝利の崩壊を示すティンパニ・イワノフの連打の生生しさを聞くに録音の勝利の気もしなくもないが、ムラヴィンスキーよりやっぱり新鮮に聞こえる。娯楽的な要素はないはずなのだが娯楽性を感じるのは、いいことと言っていいだろう。静寂があたりを覆ってくると、ヴァイオリンのpの過度に緊張感がなく、でも絶対乱れないという恐ろしい音で、気持ちのよい流れが形作られていく。音楽は偉大な盛り上がりを見せ始め、大きな本当のクライマックスまでの道のりはじつに自然で、扇情的だ、特に最後のコーダに至るまでのリタルダンドの凄さ(急激にかかるタイプではありません!!設計上大きくかけられていくリタルダンド)、真のクライマックスにふさわしい勝利の表現にはもはや何の言葉もいらない。この指揮者はフィナーレが本当に巧い指揮者だ!ブラヴォー嵐。半分はレニフィルに向けてのものだろうけど、ヤンソンスの技術にも拍手を贈りたい。○。それにしてもaltusの海外向けサイトがぜんぜん更新されないのはやはり状況が厳しいのだろうか。世界中でいちばんマニアックな日本のファン向けのタイトルでは・・・。日本では結局キングが扱っているので磐石なのだが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○コンドラシン指揮ミュンヘン・フィル(VIBRATO:CD-R)LIVE,,モノラルでエアチェック状態は悪くないが録音は悪いというか遠く篭っている。ノイズもある。演奏は紛れも無く超即物的コンドラシンスタイルで冒頭からつんのめり気味の異様な速さである。軽快に聞こえかねないほどだが妙に粘り深刻なよりは聞きやすく個人的には好きだ。スケルツォはそれに比べれば普通のテンポ。水際立った音のキレとリズム感はコンドラシンらしい厳しくりっせられたものだ。ミュンヘンの一糸乱れぬ好演が光る。ソロに瑕疵はみられるがこの曲でこの厳しさでソロのこけない実演のほうが珍しいのである。アダージオはドライなコンドラシンにとって鬼門のように個人的には思う。わりと常識的な演奏に落ちる。美しく淋しく深刻なさまは描けるのだが例えばバンスタのような歌謡性や迫力がなく、ソヴィエトスタイルの典型的なやり方を踏襲しているがゆえに個性の印象が薄い。全体設計の中ではそれで充分なのかもしれないが。雄大に烈しい発音で始まるフィナーレはわりと落ち着いたテンポから徐々にアッチェルしてゆきヴァイオリンがばらけだして激烈な最初の頂点にいたる。強制された歓喜それ自体より直後の太鼓の破滅の乱打が深刻で印象的だ。念を押すような珍しいテンポルバートがコンドラシンの言いたいことを音楽で示している。わりと普通の緩徐部から再現部は徐々に徐々に注意深く表現を荒げていく。少し注意深すぎるような気もするがじつに大きな造形だ。コーダは二度テンポを上げることなく雄大に壮麗な勝利の凱歌をあげる。設計がすばらしく上手い。ブラヴォもむべなるかな。初心者向きではないが古典好きにもアピールするであろうロマンに流されないしっかりした構造の演奏。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル(EISEN)1986/2/6LIVE音が余りに悪すぎる!あきらかにラジオ放送のエアチェック。このライヴ4枚組みは1600円強で非常に安いが、非常に状態が悪い。「革命」でいえば、ピッチが高い!海賊盤にありがちなピッチを上げて収録曲数を増やすというやり方を思い起こさせる。そして、演奏もはっきりいってあまりよくない。四角四面の音楽、構築性を重視するあまり曲の流れがよどみがち。ハーモニー重視のやりかたは一理あるが、この盤は状態が悪すぎて肝心の響きの美しさがデッドだ。ショスタコはけっこう単純なスコアを書く。楽器ひとつにえんえんと旋律を演奏させたりする。だからこういった細かい音が聞き取れない録音だと、旋律が暗雲の中に消失、なんじゃこりゃ、わけわかめ。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○チェリビダッケ指揮スウェーデン放送交響楽団(VIBRATO:CD-R)1967LIVE,,既にして運動性よりひびきを重視してはいるが、重々しい一楽章冒頭フーガ、ここからの簡素簡潔なオーケストレーション、ひたすらハーモニーの綾だけで描いていると言えば「コラール音楽を指向している」と読まれかねない。そうではない。確かにここにはロマンチックな感覚が通底している。数学的には引きずるような重いリズムやらテンポやらなんやら言えるだろうが表現にははっきりとした主観的なロマンチシズムが聞き取れ(三楽章の最も印象的な慟哭と感傷の世界にいたらなくても)チェリらしくないほどにドラマティックなのだ。これはAC盤ならではの悪い録音が逆にリアルな演奏の場を演出しているのもある。EMIのエンジニアが入れば「ひたすら鋭利にみがきあげられた響きだけで生気のない演奏」にでもなるのだろうが、ここでホワイトノイズを掻き分けてたちあらわれる荒々しい音楽性は、「録音芸術」という独立した概念を提唱する私にとっては「真実がどうであろうが」素晴らしく魅力的なものであり、このほうが演奏家の素顔をよく伝えるものたりえているのではないか、という幻想を抱かせるほどに面白いのだ。スケルツォ冒頭でベースがゴリゴリいわないのはこの人らしい抑制だがドイツ的な流れよさは心地いいほどだ、物足りなくはない。三はとにかく聞け。四は疾駆しないのが(私でさえ)物足りず、オケの弱さがすこし目立つが、刹那的に愉しむのではなく全体構成のなかに身をひたすなら、チェリの巨視的な解釈が見えてこよう。正しく音価をもたせ盛り上がってもけして切り詰めないところなどイマイチ乗り切れないが、これはムラヴィンを聴き過ぎた者の宿命だろう。むしろ弱音部を評価すべき解釈だ。総体として○。チェリの革命ではいちばん聞きやすい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,チェリビダッケ指揮スウェーデン国立放送交響楽団(WME:CD-R)1960'LIVE,同上?,録音がかなり悪い。復号化がうまくできていない圧縮音源のうえつぎはぎのようである。三楽章のあとに聴衆のざわめきが何故かクリアなステレオで挿入されるものの四楽章が始まるとモノラルの悪音に戻る。がっしりしたフォルムの厳しく客観的にりっせられた演奏というものは聞き取れるが、正直鑑賞するには厳しい状態であり、無理して聞き込むと今度はオケ側の演奏不備も目立つようになり、とくに四楽章は厳しい。演奏的に悪くはないのだが、これに特にこだわる必要はない。無印。チェリの革命には4枚ほど音盤があるが、イタリアの古いライヴは未知。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○チェリビダッケ指揮トリノ・イタリア放送交響楽団(aulide:cd-r/ARKADIA)1955/2/12(21?)live・CD,,素晴らしく盛り上がるライヴで、正直録音さえよければ◎にしてもよかったと想うくらいだ。しっかり独自の解釈を創り上げ、まるでベルリン・フィル時代のそのままの芸風でまい進してゆく若々しい演奏振りには長髪を振り乱しながら全楽器のミスを見逃さない極めて専制君主的な指揮ぶりが聴いて取れる。だからこんなオケでもまるきりドイツの音を出す。磨き抜かれ縦にびっしり揃えられた音の群れが、怒涛のようにしかし颯爽とショスタコのまだぬくもりの残る代表作を、独自の世界観の中にドライヴしてゆく。情にはけっして流されない、トスカニーニですら流されすぎていると言わんばかりの非常に律せられた予め彫刻されたものの表現ではあるのだが、後年のただ響きのみが残り横の時間の感覚を失った一種非音楽的なところがまったくなく、紛れも無くこの時代の非常に魅力的だった、カラヤンさえいなければどんな世界を展開していったのか尽きぬ妄想を抱かざるを得ない、たぶんこの人の革命の演奏ではいちばん巧くいっているし、一般向きだと想う。個人的に気に入った。特にこの楽章のここが、ということはないが(1楽章など独自の間断などきかれるが)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),○バーンスタイン指揮VPO(sardina records:CD-R/FIRST CLASSICS)1979/5/27ライヴ 精妙で落ち着いた演奏。ドラマティックな盛り上がりも柔らかく透明な音色でまとめられ、ライヴにしては非常に安定した印象を受ける。技巧的にも完璧といってよく、まるでロンドンの有名オーケストラを聞くようだ。緩徐部における「荘重な」表現は没入型指揮者としてとらえられることの多いバーンスタインのイメージを覆し、過去のNYP正規盤のようなエキセントリックな面も消滅し、崇高な祈りの感情を感じる。特に3楽章の沈潜する表現は彼のマーラーとは異なる静謐と威厳に満ちている。全般、爆発的な迫力は望めないが、深味のある演奏だ。最上級の賛辞を贈られても、おかしくはない。個人的に 2楽章の表現がマーラーなどにみられる「レントラー舞曲」的に重いところが後年のバーンスタインのスタイルを象徴していて面白かった。26日盤というものがLIVE CLASSICSなどで出ていたが偽演とのこと。(A.ヤンソンスらしい),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,バーンスタイン指揮VPO(DA:CD-R)1979ウィーン音楽祭live,同上?,イマイチ。録音が撚れすぎている。かすれがひどいし、ピッチも安定しない。VPOというよりNYPみたいな弦も気になる。管楽器群はあきらかにウィーンの音をしているが弦が機能性は高いがライヴでは雑味の多く色の無いNYPであるかのようだ。とくに4楽章のバラケ具合は問題だろう。またバンスタにしては意外と落ち着いていると言うか、客観的すぎる。比較的遅いインテンポというか、無個性的なのである。とりたてて印象に残らない演奏、ただ、3楽章だけはいつもどおり美しい挽歌になっている。だからバンスタではあるのだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),○バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(sony)1959/10/20 東京文化会館live盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),○バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(sony)1979/7/3&4東京文化会館live ウィーン盤のほぼ直後にあたるライヴである。名演の誉れ高いものだ。前進力があり、熱気あふれる演奏ぶりであり、その点ウィーン・フィルのものとは聴感がことなっている。知らず知らず引き込まれ、気がつくと全曲ききとおしている、それだけの説得力のある演奏だ。(ライナーにも同じ事が書いてあった(笑)。)この人の演奏には「物語」がある。ストラヴィンスキーのような作曲家には噴飯ものだろうが、音楽がひとつの悲劇的な物語を語っており、その語り口に引き寄せられる。ウィーン盤同様やはり弱音部のそこはかとなく哀しい音楽にとくに惹かれる。3楽章の美しい音楽にはなにか失われてしまったものたちへの哀悼の祈りを感じる。バーンスタインはウィーンとの演奏よりニューヨークとの演奏の方が板についているように思う。丁々発止の動きが魅力的だ。録音の素晴らしさもあいまって、これは確かにバンスタの「革命」白眉の演奏といえよう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(SYMPOSIUM)1945/1/28横浜のタワーレコードはなかなか掘り出し物が有るし、詳しい店員がいるようで各平置きCDに細かい紹介文がつけてあって楽しかった。対して横浜HMVは広さのわりに出点数が少なく(平置きばっかり)駄目になってしまった。詳しい店員といえば昔はお茶の水ディスクユニオンだったが(昔新宿ディスクユニオンがあったころ、べらぼうに詳しい店員がいたが、今はどうしているのだろう)、クラシック館を移動してからなんだかちょっと店的にダメになったような気がする。とくに新譜の売り場がひどい。でも中古屋としての所蔵点数は膨大で、LPも圧倒的に多いし、貴重な店ではある。渋谷タワーも細かい紹介文で知られ、ひいきにしていたところだったが、さいきん文章が悪ノリがすぎてかえって購買意欲を削いでいる。ただ、点数は抜群である。渋谷HMVはだんだんと充実していってるかんじだが、紹介文は全店舗共通の通り一遍のもの。値段は今やHMVのほうが安いかも?今はなき渋谷WAVEに六本木WAVE、特に六本木はマニアック路線一直線だっただけになくなったときは非常に残念だった。銀座山野楽器はちょっと面白いものがあることも希にあるが、それほど多くない。銀座HMVは平置きの安売り中心の店になっている。新宿ヴァージンは穴場で、マニアックな品揃えで魅せる。対しタワーは売り場こそ広いものの、それほど充実度が高くない。店員もあまり詳しくない。タイムズスクエアのHMVのほうが狭いもののどちらかというと買い易い。池袋HMVは独自路線を歩んでいたが、最近ちょっと低迷か?大御所、秋葉原石丸電気はべらぼうに安かったりして嬉しいが、品の回転が速すぎて古い盤が残らない。昔は古い盤を探しに石丸へ行く、というくらい所蔵点数が多かったのだが、今や全く別指向の店になった。他の店にふつうに売っているちょっと前のCDが、二店とも売り切れていたりするのでびっくりする。ただ、ここはCD−Rを扱っているので非常に貴重である。あと、店員が親切。CDに紹介文こそほとんど挙げられてないものの、この店は十二分に存在価値がある。店のことをつらつら書いてしまったが、冒頭の横浜タワーに戻って、そこで手に入れたのがこのシンポジウム盤である。シンポジウムだから音はレコードからそのまま録音した如き悪いものであるが、音楽の魅力は十分に伝わってくる。若きバーンスタインの覇気溢れる演奏には後年に比べれば個性的なものは少ないものの、全体的に速めに進む音楽の耳心地は非常に良く、その力強い推進力に身をまかせるのも一興といったところ。ただ、この演奏のころ戦争はまだ終わっていなかったわけで、この曲に託された想いに想像をめぐらせてみるべきでもあろう。1楽章のどことなく悲痛な叫びには生々しさがあり恐ろしい感じすらするが、4楽章のあまりに楽天的なフィナーレへと続くところがアメリカ的だ。後年のものにくらべこの演奏のほうを高く評価する人もいる。(2003/2/12記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○バーンスタイン指揮NYP(orfeo)ザルツブルグ1959/8/16live・CD,,モノラルで音はそれほどよくない。同時期得意とした曲の、手兵によるライヴ。集中力が音の迫力となって最後まで突き進む感じは壮年期のバンスタらしい。技術的ほつれは少ない。ソロ楽器もおしなべて巧いが終楽章、気分に任せてどんどんアッチェランドしていくようなところでは弦楽器に少々乱れもみられる。聴きものはやはり三楽章だろう。ロマンティックなマーラーとはまた違った静かな感傷が印象的である。スタジオ録音や他のもっといい音の録音と比べてとりたてて聴くべきとは言わないが、マニアならどうぞ。聴衆反応は穏やか。3楽章終わりで何か叫ぶ声が聴こえる。ブーイングなのかブラヴォなのか判別できないけど、内容的には後者だと思う。,-----,,,,,,,,,,,,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○バーンスタイン指揮ORTF(VON-Z:CD-R)1966/11/30LIVE,,きわめてクリアなエアチェック音源でカペルマイスターの76年とされるものと比べてもはるかに楽しめる。バンスタは粗い。雑味をも味とした典型の人で、あたえた影響はけしていいことばかりではない。変に厳しさのない勢いや起伏だけのアンサンブルをこうじるトップ指揮者はバンスタ前にはそんなにいなかったのではないか。逆にバンスタは唯一無比のアバウトさを感情のほとばしりと聴かせる指揮者だったのだ、とこの解釈の行き届いた、しかし雑音も多い演奏を聴きながら思った。バンスタははっきり、ショスタコ適性があり、作曲家の内面に踏み込めたからこそどんなに曲から遠いオケでもここまでやりきることができたのだ。録音が僅かな混信を除けばほぼ満点なので◎をつけたいがいかんせん、それゆえ聞こえてしまう雑味が気になったので○。3楽章なんて自作じゃないかというくらいないきおいだ。しかも晩年のようなフォルムの崩れはない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○バーンスタイン指揮フランス国立管弦楽団(KAPPELLMEISTER:CD-R)1976LIVE,,かなり質の悪いエアチェックもので最初隠し録りかと思った。「膝の温もりが伝わってきそうな録音」と書きそうになった。一楽章では酷い混信もあり聞きづらい。しかし、やっぱりバンスタはわかりやすい。。この曲にこの年で今更面白みを感じるとは思わなかった。音のキレよく骨ばった音楽をかなでるのではなく、生暖かい肉のまだついている音楽、まさにマーラー側に思い切り引き寄せたような厚ぼったくも魅力的な響きに旋律の抒情性を最大限引き出したロマンティックな革命、オケもフランスがどうこういうものはなくバンスタのハミングにしっかり肉を付けている。勿論ドイツやロシアでは得られないすっきりした響きが(コンマスソロなど技術的綻びはあるにしても)バンスタの脂を上手くあぶり落としている点も聞き所ではあり、イギリスオケのようなニュートラルな無難さがない所もまた人間臭さを感じるのだ。いや、飽きないですねこの人の革命は、三楽章がなかったとしても。ムラヴィンだいすき派やチェリは偉大派には受けないやり方だろうが、この分厚い響きにえんえんと続く歌心には、マニアではなく一般人を引き付けるわかりやすい感情の滑らかな起伏がある。豊かな感受性は淋しくも希望のかけらと憧れをもって轟く三楽章で遺憾無く発揮され、マーラー好きのパリジャンの心を鷲掴みにする。ショスタコの大規模曲には速筆ゆえに構造の簡素さや各声部剥き出しの薄さがつきまとう。弱いオケがそのまま取り組んでしまうとちっともピンと来ない浅い曲に聞こえてしまいがちである。私などはそういうところで入り込めない部分があるのだが、演奏陣によってここまで分厚く塗り上げられると否応なく引き込まれざるを得ないのである。浅薄なまでに速いスピードで煽られる四楽章にしても旋律はつねに明らかであり響きの重心は低く厚味を保っている。コードを小節単位でただ各楽器に割り振っただけの余りに単純なスコアも粘着質の強いフレージングを施し構造的な弱みをカバーしている。それにしても弦楽器そうとうプルト多いな。旋律の抑揚も完全に歌謡的だが、元々カッコイイので演歌にはならない。打楽器要素が強調されているのもダレを抑えゴージャスぶりを発揮するのに役立っている。バンスタのカラオケ声がときどきうるさい。アグレッシブなのはいいのだが、マイクバランスが悪く指揮台直下で聞いているような感じなので、足踏み共々気を散らされてしまう。でもまあこの異常な突撃怒涛のクライマックスが聞けただけでも聴いた甲斐があった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937)〜V,○バーンスタイン指揮ロンドン交響楽団(GNP:CD-R)1975/8/13LIVEショスタコーヴィチ追悼のために特別に演奏された75年8月のライヴ記録。あたかもこれ一曲で完成された悲歌シンフォニーであるかのように、深く、広く、哀しくひびく演奏。すすり泣くような冒頭から、ロンドンのオケとしては精一杯の悲しみの叫びまで、バーンスタインの歌は続く。とはいえ録音のせいか盛り上がりどころでいくぶん物足りなさを感じる部分もなきにしもあらずだが、静かな場面の意味深さはこの盤でもよく伝わってくる。非常に美しい演奏だ。そういえばバーンスタインが亡くなったときメータが演奏したのは、マーラーの3番終楽章、慈愛に満ちたあたたかい曲だった。そのとき遠くロシアではスヴェトラーノフが同じくマーラーの9番を追悼演奏したという。追悼演奏をする側もいつしか追悼演奏をされる側になる。しばし無常を想う。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(bbc,img)1963/2/22live・CD,,カップリングの運命と違って無茶はまるのがおもしろい。直球勝負のトスカニーニぽい演奏ぶりだが3楽章はしっとりしたバルビらしい悲歌が聞き取れる。予想の裏ぎらなさ(盛り上がりかた)が安心して聴ける反面職人性が出てしまっているようでバルビらしさがないと思うが、ハレ管ともども攻撃的に攻め立てるさまはおもしろくないと言ったらうそになる。録音は古いがかなり耐用度(何度も繰り返し聴ける)の高い秀演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○ハワード・ミッチェル指揮ナショナル交響楽団(RCA),,ステレオ。軽量級の演奏で割合とさっさと進むが、早めのテンポは好み。オケはうまい。味が有るという意味ではなく、技術的に。この人もテクニシャンだが、奇をてらわないので余りファンの付くタイプではないな。ただ、3楽章までは非常にスムーズに聞けた。朝からこの曲を聴きとおせるってのはそうそうないことで、まずは○ですなあ。ただ、終楽章が遅すぎる。それがなければもっといいのにね。でもどっちみち、個性派ではないので、そつなく聞きこなせる、という意味でしか評価をつけようがないかな。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(DREAMLIFE他)1965/11/24live,,うーん・・・確かに素晴らしい名演である。録音が問題だ。ドリームライフがリマスタリングしなおして出したわけがわかる。ムラヴィンにしては振幅が大きく珍しく3楽章で感情移入してしまった。最初、「ああ、リマスター過程でモノラル還元したときに紡錘型に小さく彫刻されこじんまりしてしまった音だなあ」と思ったのだが(あくまでドリームライフ盤ね)中間楽章からブラスと打楽器の低音の出方がハンパなく重く広がりがあり、ムラヴィンにそういう「重量級の側面もある」というイメージを「再喚起」させたいんだなあと思う一方、「確かにこの音響バランスだと違う」と思う。スヴェトラとかそのへんに通じるのである。つまりこれもあきらかにロシアであり、決してトスカニーニではないのである。オケの力も西欧風でなく明らかにロシアであることを再度確認できた。かなり盛り上がるし、集中力も何か違う。これはレベルの違う演奏である。ムラヴィンの中では相対的にどうだかわからないが。録音はいくらリマスターしても結局モノラルのCDの音でしかないので、最初はもっといい音で聴くべし。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(BRILLIANT)1957/4/12LIVE・CD,,ゴステレラジオ・ファウンデーションの正規音源によるガウク・ライヴ録音集成より。廉価盤なりの軽さが感じられやや残響付加気味の音場の小さい録音だが聴きやすい。ガウクはドラマチックである。性急で力強い同時代西欧で流行ったスタイルにスピードや発音は近いものがあるが、もっと主情的で、男らしいロマンチシズムが感傷におぼれることなく支配している。弛緩することはまずなく、その点でムラヴィンに近い感もあるが、あそこまで抽象化しないため、その親しみ易さがゆえに素人はのめりこみやすい。だが、この演奏には更に悲愴感が強い。けして重く引きずることはないが、強く慟哭するような表現の交じる1楽章、暗い攻撃性の支配する2楽章、悲しみに対する何故という問い掛けをひたすら歌い続ける3楽章、ライヴゆえか異常なテンポで突き進み崩壊しながら「見せ掛けの頂上」へアッチェルしていき、しかし苦難から大団円へというそのあとも楽想を余り描き分けず、暗い情熱が強い内圧となって弛むことなく音楽を持ち上げるのみの4楽章、戸惑い気味の拍手は曲に対してのものであるにしても、単純でない、ガウクなりの時代への思いがかなり出ているように思う。アンチェルよりはムラヴィンであり、コンドラシンよりはスヴェトラであり、音は悪いがひとつ見識として聴ける。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○クーセヴィツキー指揮NYP(whra)1942/2/22live・CD,,戦中録音で緊張感が伝わってくる。またよくレストアされていて40年代の録音としては最上の聴きごたえと言える。やや低音部が弱いが楽曲的にそれほど違和感を感じない。クーセヴィツキーは異常と言えるテンポで突き進み(オケがまたよく応えている)、あくまで旋律を中心とした音楽作りをしている。そのため前に流れがちでそこはかなり違和感なのだが、重厚な響きで押し通されると、いつものクーセヴィツキーではあるのだが、説得力に納得させられざるをえない。1楽章はそれでも旋律をうねらせるようなことはないのだが、2楽章の木管ソロの歌い回しはまさにソリスティックで、完璧とは言えないが面白い。3楽章に重きが置かれ荘重なレクイエムのような世界が広がる。4楽章は再び1楽章の芸風に戻って突き進みやっぱりテンポが流れて行ってしまう感もおぼえるが、終演はジャーンと派手に終わる。拍手は普通。クーセヴィツキーには昔同じようなライヴ録音があったと思うが音質的にもこちらのほうがずっといい。最後に、やっぱりNYPは一味違うのだ。whraの新譜だが(2013年初)直販だと4日で届くので代理店通すよりよほど使い良い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト(放送?)交響楽団(LUCKY BALL:CD-R)1983/10/20LIVE・CD邪悪な表現のうまいスベトラならではのものがある。1楽章や4楽章の攻撃性ったらない。録音は篭りがちで特に弦楽器が遠くブラスやパーカスに潰されがちなのは痛い。そんな録音のせいか荒さが目立つような気がしなくもなく、2楽章にはそんな粗野なアンサンブルがささくれ立った印象を与える。ハープが大きく入って独自の美麗さを発しており耳に留まった。3楽章も美しい響きがサーというノイズで大分台なしになっている。だが緊張感は伝わってくる。客席のノイズが殆ど入らないのだ。その場その場の美しさに従事し全体として何が言いたいのか今一つ伝わってこないが、明るい高音域中心のハーモニーはいかにもスベトラらしい楽観性を感じさせる。4楽章は思ったほどではないがドガシャーンと盛り上がる。ペットが外しているが後愛嬌。弦楽器の刻みに乗ってブラスにより吹きあげられる最後の盛り上がりが遅いテンポで雄大に、強引に?築かれるのは予想通りだが効果大。ブラウ゛ォが一斉に叫ばれる。スベトラにしてはやや半端な感じもするが○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○スヴェトラーノフ指揮LSO(vibrato:cd-r/bbc,medici)1978/8/28エジンバラLIVE・CD,,懐かしい音楽だ。忘れられつつあるこの孤高のカリスマ指揮者、やはり独特の風格をもち、最後の巨匠系指揮者であり、その芸風は「ロシアの大陸を思わせる雄大でドラマティックな指揮」などと総括できない理知的な計算に基づく音響感覚の上に設計された音楽であった。この演奏は既出ではないか?LSOがまるでUSSRsoのような音をはなつ。弦の揃わなさ薄さ個人技誇示系の表出性と強い発音からなる独特の音やパーカス、ブラスのぶっ放し方、木管の超絶技巧を存分に発揮させるテンポ設定、このあたりがオケ起因によるものではなく、あくまでスヴェトラという人の設計に基づいてあらわれてきたものであり、それはやはりバンスタのような即興性に基づくものであったのではなく、予定調和であったのだろう。終楽章のまるで歌舞伎の見得を切るようなドラマティックな表現のもとには聴衆もフラブラを余儀なくされ、このように内面から沸き立つ熱狂的な歓喜のブラヴォを呼び覚ます指揮者というのは、スヴェトラが最後だったろう。ガウクやラフリンやサモスードやハイキンといった「純ロシア系指揮者」、フェドやロジェスト先生のような同時代の指揮者と比べても、今これを聞いて、晩年の芸風を思わせる鋭敏な音響感覚にもとづく静謐な音楽を描いた3楽章など聴くにつけても、この人は独特であり、孤高であった。ロシア人指揮者の典型などとゆめゆめ言うなかれ、ムラヴィンやコンドラシンはロシアというより西欧的な芸風を持っていたし、ガウクの系譜は即興的なものに基づく芸風であり、スヴェトラは前者の傾向にあった中に独自の「大げさな表現」を持ち込んだ。これはアンサンブルの乱れからとても最上位には置けない演奏ではあるものの、多分今はもう聞けないたぐいの演奏である。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA・VICTOR/ZYX)1977/8・CDステレオなのはいいが分離が良すぎて気持ち悪い。そのせいかアンサンブルがバラバラに動いていてまとまらないような印象を受ける。スヴェトラーノフの録音にしばしば聞かれるスカスカ感をここでも感じてしまうのだ。録音のクリアさが更にその感を強くさせる。終楽章などどこに盛り上がりどころを持ってきているつもりなのか、意図がよく見えない。そんな設計上の疑問も感じる一方、ただ、3楽章の深淵を覗き見るような恐ろしい音楽には感銘を受けた。晩年、静寂の中にその芸術の神髄を込めたスヴェトラーノフ、この時代にして既にピアノの音楽を意識して作っている。全般に悪くはないが良くもない。そういうところ。ZYXはCDです。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(CANYON)1992/6・CDソヴィエト・ロシア系指揮者によってやりつくされた曲であるが、この演奏で最も耳を惹いたのが終楽章だった。前半、胸のすくような走句が一旦頂点へ向けて駆け上がるところ、敢えてそれほど盛り上がりを作らず、じわじわと盛り上がる終盤のクライマックスへの大きな流れを造り上げている。前半部分を「証言」でいうところの「強制された歓喜」と位置づけ、人間性の回復という真の歓喜への経過点としているかのようだ。弦楽器、とくにヴァイオリンセクションの薄さが目立ち、オケ全体的にやや悪いコンディションにあるように感じるが、それでもスヴェトラーノフの真情の篭った演奏になっており、注目すべきものを持っている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,ストコフスキ指揮NYP(SCC)1962/3/2live,,ストコフスキーはトスカニーニと「レニングラード」国外初演を争い6番は初演するなどショスタコーヴィチに思い入れの強い同時代の指揮者(前時代と言うべきかもしれない)、この曲も並ならぬ回数を演奏しライヴ含め記録も多い。改変もデフォルメもほとんど目立たず(あるにはある)、50年代以前のスタイルを想起する直線的な演奏で「曲に適切な」真摯な解釈を示している。四楽章の落ち着いたテンポなど客観性が気になるがストコフスキーのおよそイメージにそぐわない即物性はこのバンスタのオケにまとまりをもたらし、音響は派手なものの、比較的大人の、印象としてはやや無個性なものになっている。意外なのが四楽章の最初の盛り上がりを音量以外無視して拘泥することなく、そのあとの悲劇的な弦楽合奏に力を注いでいるところで、「証言」が出る前だと思うのだが、証言の思惑に沿った構成感で仕上げている。そのあと直線的な速いインテンポではあるが楽器を増強し盛大に終わらせる。拍手は凄い。ブラヴォはない。録音はややノイジーだがギリギリ、ライヴとしては聴ける音。ステレオだとは思うがほとんどモノラルのような音場の広さ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○ストコフスキ指揮NYP(DA:CD-R)1962/3/4live,,ストレートな演奏でスコアの弱さも強さも露呈するやり方をしている。旋律によって横に流されがちで、構造的にはただ二本の線が絡み合うだけのような簡素な曲なだけに、部分的な補強はなされるもののそのまま、3楽章はその方法で印象的だが、全般には旋律が強すぎる感じもする(ちなみにスコアをいじってはいるようだが強奏部の打楽器補強や低弦のアーティキュレーション強調など音量的配慮を前提にしたもので「改変」とまで言えるかどうかはびみょう)。ただ、揺れない。基本速いインテンポで押せ押せをやっており、4楽章などラインスドルフ的な即物性を感じる。この楽章で変な起伏をつけないところは他の演奏でもそうだがストコの見識というか、設計上の配慮か。突っ走るコーダで録音が乱れるのは惜しい。最後だけシンバルを轟かせた「ストコフスキ・クレッシェンド」。録音はやや篭ったモノラル。雑音は少ない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R他)1972/5/7LIVE,,新しいわりに音は悪い。手兵だけあって軽く明るく、美しいひびきにしなやかな表現は板についたものがあり、他客演録音と比べるとストコフスキらしさがより出ているように思う。三楽章のむせ返るような弦楽合奏、ねっとりした木管ソロの競演、ストコフスキの独壇場だ。曲の響きの重さに引きずられることもそれほどない。個性的な変化付けやデフォルメも、横の流れの上に有機的に紡がれ不自然さがそれほどない。これもストコフスキらしさだがややラフさが気になるし、技巧的にはとりわけ優れているわけではなく、深刻さを求める向きには甘い演奏に聞こえるかもしれないが、スケルツォの即興に流れるような前のめりなテンポなど、ライブ感は楽しめる。フィナーレがやや弱く作為的に聞こえてしまうのは楽団の疲れのせいか。ホール残響が強いので、真実はまた別かも。なにせブラヴォが凄まじ過ぎる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(eternities)1972/5/7live,同上,状態はかなり聞きづらく不安定で雑味の多いステレオ。低音域が弱かったり木管がすぐれないのがオケのせいなのか録音が揺れているせいなのか不明だが、おそらく録音のせいだと思う。ストコフスキーが晩年手兵を使い、晩年のやりたかったことをやった、つまりストコフスキーのイメージに沿った、デフォルメや意味不明な改変は細部の話にすぎず、拡散的で戦闘的でそれでいて壮大な、明るい革命である。戦前戦後の生々しいショスタコーヴィチではなく、純粋に古典名曲を自己流にしたてている。といってもロシアの巨匠に慣れている向きはそれほど遠い解釈には感じまい、楽曲の中身を入れ替えるようなことは一切なく、三楽章の悲痛さも、明るい響きの中でけして超一流の腕のオケではないにせよ感情的に伝わってくるものがある。終楽章は遅い出だしこそそれまでの録音に似ているが、均整感への配慮はもはやあまりなく、終始盛り上げ続ける。扇情的な組み立ては巨視的にも近視眼的にも凄まじいもので、ラストは圧倒的である。姑息な考証などしない、音楽はこう語っているのだ、ということを作曲家すら無視するいきおいで信念に基づき演じ上げている。この魁夷、最晩年の巨匠へむかってのブラヴォも間髪入れず凄まじい。ストコフスキにも最晩年様式というものはある。それは響きの拡散性と改変の恣意性がマッチした不可思議な世俗味をもったものである。数多い革命の録音のうちに70年代の記録が、アメリカ交響楽団で残っていたことは嬉しく思う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○ストコフスキ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R他)1965/3/12LIVE,,比較的有名な放送音源でストコフスキの革命では素晴らしくよい録音。開放的なアンサンブルだが決定的な崩れはなく、ブラスとパーカスを強調し分厚い弦楽器のうねりで響きを盛り上げていく。確かにBSOの音だがフィラ管のように華々しく聞こえるのはさすがだ。大きな表現の中で非常に煽情的なテンポ設定、特徴的なアーティキュレーション付けはいずれも別録に聴かれる解釈とほぼ同じだが、細かくは弦にオールドスタイルなポルタメントを導入したりなど、ミュンシュの繰ったボストンSOの力量と特性が、少しきしんではいるけれど、遺憾無く発揮されているといっていい出来。アタッカで度肝を抜く異常なクレッシェンドで幕あける終楽章、テンションを途切れさせず(かなりあざとい表現ではあるが)大ブラヴォを煽る結末はききものだ。ソリストのレベルも大きく影響している。中間楽章の木管が素晴らしく力強いのが印象的。編成のせいもあろう響きが低くやや重い、それに引きずられるようにテンポも遅くなる、両端楽章では気になるところではあるが、けして単調でないこと、リズムのキレが素晴らしくよいことでカバーされる。ステレオ。○。ストコフスキはこの曲を好んでいたようだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○ストコフスキ指揮ボストン交響楽団(SCC:CD-R)1965/8/15live,,お盆の中日にこの曲をやる意味を考えると、、いや関係ないか。インホールで(クリアだが)よくはない録音。しかし水際立ったキレのよさに分厚く重いひびき、他オケとのものに比べ精緻さをそなえたまるでミュンシュのような迫力を提示、ボストンSOにしては雑味を感じる向きもあるかもしれないが、ストコフスキにしては極めて固くしっかりした演奏である。急くような前のめりのテンポ取りで音符を短く切り詰めた表現が印象的な前半楽章、ボストンの弦の面目躍如たる雄渾なアダージオ、いくぶん潤いが足りないが直裁な解釈を忠実に、弛むことなく弾ききったフィナーレ、管打を増強し極端に引き延ばされクレッシェンドをかけられた終止音のド迫力、盛大なフラブラ気味の客席反応。他録と似ているがいずれ感銘をうけざるをえない。一楽章終わりに拍手が入り仕切り直し、フィナーレはアタッカ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○ストコフスキ指揮ロンドン交響楽団(IMG,BBC)1964/9/17ロイヤル・アルバート・ホールLIVE・CD,,録音極めて明瞭。オケの威力に脱帽。ソリストもおしなべて上手い。きっぱりした発音の多用がストコらしからぬ緊張感をもたらしているが、解釈的にわりとオーソドックスで特に4楽章はどっちつかずの半端さを感じる。前半2楽章が好演しているだけに惜しい。突飛さを求めたら期待を裏切られるかも。間延びしたようなところも聞かれる。3楽章のコラールふうの響きも美しいし、4楽章中間部までの弦のカンタービレも素晴らしいのだが(テンポはなぜかさっさと先へいってしまうが)。オケはとにかくうまい。最後は大見得を切ってブラヴォーの嵐。実演は凄かったのかも。それを加味して○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),○ストコフスキ指揮チェコ・フィル(PRELUDIO)1961LIVE3楽章が圧倒的に素晴らしい。チェコ・フィルの美しい弦により寂しげな歌が歌われている。心に染み入る感傷的な歌だ。これだけでも○ひとつを与えるのに躊躇はない。ストコフスキは譜面操作を行う指揮者だが、終楽章以外は特におかしな解釈は聞かれない。終楽章はテンポがゆっくりめのインテンポであるところが意外だが、いくつかオケ(とくにブラス)がとちっている箇所が有り、ひょっとしたらそれはとちっているのではなくそういう解釈なのかもしれないが、失敗だったとしたらちょっと残念ではある。終楽章のヴァイオリンが何本かとても艶めかしい音でポルタメントばりばりで弾いているのが聞こえ面白い。モノラル。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),ストコフスキ指揮ニューヨーク・スタジアム交響楽団(ニューヨーク・フィル)(EVEREST)1959/1初出「オーケストラの少女」DVD化記念に買ってみた(あっちはチャイ5ですが)。クリアな録音が仇!ヴァイオリンパートが薄すぎる。ストコフスキのいくぶん緩い指揮がここでは雑味を呼んでいる。それらの欠点までもクリアにされてしまった!ストコフスキの解釈はそれなりの見識のもとに施されているし他では聞けないものだが、正直古いモノラル録音のほうが聴き易かった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,○ホーレンシュタイン指揮ベネズエラ交響楽団(放送)1954/2/18live,,フルヴェン先生も振った名門だが終楽章こそ綻びが目立つもののおおむね充実した演奏を提示してくれている。ホーレンシュタインは前半楽章は速めのテンポで音符を短く切り上げる方法が特徴的でありリズムが強化されている。3楽章は地味だが終楽章は実直な中から大きな盛り上がりを引き出す。ショスタコの書法は冒頭のようにフーガを導入するなど目を引く部分はあるのだが基本単純で、直線的な旋律表現に頼るところが多い。ホーレンシュタインは勘所をよく押さえていて変に構造性を抉り出すようなことをしないから聴き易い。録音は悪いが迫力はある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),ホーレンシュタイン指揮ウィーン交響楽団(VOX)ホーレンシュタインは同じウィーン響・VOXでマーラーやブルックナーの中仲渋い名盤を作っている。ではショスタコは?といえば、余り成功していないと言わざるを得ない。何を言いたいのか甚だ不明瞭である。ホーレンシュタインの棒はウィーンの風土によって何の影響も受けていない。朴とつとし、とても流麗とはいえないぎくしゃくした流れはザンデルリンクにも似て表現主義的ですらあり、ブルックナーなどでは強みになるけれども、この曲に関しては、今一つ中途半端になってしまった感がある。同曲の要求する音がウィーンの艶めかしさとは程遠い所にある事も、同演奏への違和感を昂じさせる。奇妙に音の軽い終楽章も又聞きづらい。が、ショスタコーヴィチがムラヴィンスキーを「何もわかっていない」と酷評した「という」テンポ表現、盛り上がるところでの劇的なアッチェランドが、無い。前半に山が無い。そのため最後まで平板な演奏になってしまう感は否めないが、ショスタコーヴィチの「真意」を見抜いた読みの深さと贔屓目にいえるかもしれない。・・・真意に括弧を付けたのは、これすらも果たして作曲家の本心だったのか、今となっては確かめるすべがないからだ。仮面は1枚とは限らない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,ゴルシュマン指揮セント・ルイス交響楽団(capitol)1953,,快速ストレートな演奏で最初軽量級かと思うが、音量変化が大きくクライマックスでは異様な迫力を出してくる感じ。これは各楽章同じで、4楽章は見事な構成感というか、前半部分に盛り上がりを作ってしまうのではなくきちんと最後まで持っていくようにテンポを緩めず進めている。聞きごたえはなかなかあるが、モノラルなので小粒に感じる。これは音量を大きくして聴かないと真相がわからない録音。オケはこのオケなりの最高水準。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,ザンデルリンク指揮ベルリン放送交響楽団(harmonia mundi)1966/10/3live・CD,,最良のステレオ。好戦的だ。上手いオケ。やや統制が甘い感もあるがそれも引っくるめて主情的に盛り立てていくロシア伝統の演り方からこの人も影響を受けているのだなとわかる。激しい発音が耳を突く(ショスタコの好戦的なフレーズは非常に魅力的だがたいてい敵のテーマで、だらだらと流れる挽歌がメインテーマなので、「かりそめの空疎な盛り上がり」が「かりそめ」に聴こえない。総体的な演奏効果を考えると困るとこがムラヴィンスキー批判(あくまでヴォルコフ「証言」の中の話)にも通じてはいるのだろうけど、このまだザンデルリンクが意欲的な演奏をこうじていた時期のものを聴くと、作曲意図はどうでもよくて、こういう曲はドラマチックに盛り上げればいい、と思ってもしまう。作曲意図を重視しても耳だけで聞く側はなんだかよくわからなくなるだけのリヒャルト・シュトラウスの緻密な音楽が良いとは思わない。前半楽章はとにかく、圧倒的に戦闘意欲に満ちている。少しマーラーぽい響きもあるが、それまでの楽章のカウンターとなる三楽章にはマーラー的な陶酔がより強く出てくる。情的、しかし曲自体が単純な旋律と響きによる流れで出来上がっており構造的には醒めているし、さほど臭く感じることもない。ザンデルリンクらしく甘さのないドラマティックな歌が数珠繋ぎされてゆく(しかしまあ「革命」なる題の卑俗さよ)。四楽章はいきなりのスピードでコントラストがすごい。弦のアタックが甘くなったりブラスがギリギリだったり、変化についてけないオケの反応が気になる冒頭だが力で押し切るうちノリが合ってきて新即物主義的なスピードと力の音楽が派手に打ち鳴らされる。最初のクライマックスが潰えて初めて落ち着いて音楽を楽しめる、といったいきなりさがあるが聴いていて胸がすくのは間違いない。このあたりから構成のうまさと楽器の扱いの上手さが光る。漫然と聴いてもわからせる。ただ鳴らし直線的に進める指揮者とは違う。音量変化をさほどつけなくても色調でフィナーレを印象付けるところ、解釈の妙だろう。拍手なし。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,マルコ指揮シドニー交響楽団(SLS)録音時期不明live,,凄まじい録音の悪さで恐らく40年代のものか。ノイズに慣れていればマルコの調子良い時の音楽の力強さと元来この曲の持つ「ひたすらの」旋律の力で十分楽しめる。オケはショスタコならではのソロ剥き出しになると弱い部分もあるが、合奏は聞き取れる限りでは弱みはない。録音操作してこの音、である可能性もあるのでそれも錯覚かもしれないが、まあ、音盤は楽しめれば良いのである。ショスタコの非構造的な極度に単純化された書法を逆に強みととらえられるのは同じロシアの指揮者だからだろうか、ただの旋律とリズムと和音の筐体に、マーラー的な緩急をもって強靭な、もしくは柔らかく叙情的な表現を流し込んで、ショスタコという箱からははみ出ないが、期待される通りの革命であり、羽目を外すこともない。後年のBBCなどでやったようなきっちりした教師的解釈の部分は四楽章冒頭の固いテンポに現れてくるが、音は迫力があり前へ行かないからといってさほど悪い印象はない。最初の軽薄な盛り上がりより、その後の悲劇的展開に重点を置いているのは、オーソリティの見識だろう。緩徐部のテンポが冒頭と逆に早くて、木管が前のめりになってしまうのは初めてマルコ特有の解釈といえるところか、即興か(その後のまっとうな流れからして即興臭くもある)。ちょっとヴァイオリンが薄い感があるし萎縮したようなブラスの音も、フィナーレには惜しいが、これは単に録音のせいだろう。響きがいびつなのも録音のせいだろう。拍手は普通。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」,マルコ指揮デンマーク王立so59,,オケ管理はルーズだがガンガン攻めてくるいつものライブ。曲のフォルムを崩しかねない歌い方や煽り方をするところなどやはりロシア式だなーと。単純化された書法は多様な解釈を生む、これも正統には聴こえないかな。sls,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(WEITBLICK)1986/10/7LIVEいまいち重みが足りない1楽章冒頭のフーガから、あれっと思うようなところが散見される。テンポの極端な変化(ディジタルな変化)、ピンポイント的なレガート奏法の導入、いろいろと小細工がなされている(小さくもないか)。オケはけっこうあわあわしているように聞こえる。どうも指示を巧く演奏の中に溶け込ませられず、ぎしぎしと軋み音を鳴らしている。とはいえケーゲルの個性的な解釈の面白さは特筆すべきで、評価すべきものだろう。1楽章はやや違和感を感じたが、2楽章以降はまあまあ。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),○ケンペ指揮ベルリン放送交響楽団(000CLASSICS:CD-R)1974LIVE引き締まった響きとそつのないスマートな演奏ぶりが印象的。硬いオケだけれどもケンペは柔らかい響きをよく引き出している。終始ショスタコを聞くというよりは近代クラシック名曲の一つを聞くといった趣が強く、何物にも意味を見出そうとするショスタコマニアには食い足りないだろうが、非常に聴き易いことは確かで、何度も聴くに耐えうると思う。この曲の1楽章が苦手でいつも3楽章や4楽章だけ聴いてしまう私も、最初から最後まで一貫して聞くことができた。ショスタコの「縛り」をことごとく外しているように思える。諧謔もあまり聞こえないし、音楽の美しさだけをつたえようとするかのようだ。ライヴなだけに「軋み」も少なからず聞こえるし、録音もかなり悪いのだが1、筋のとおった解釈はそんなことをものともしない。全楽章速いけれども起伏が絶妙で(自然ではないのだが)一本調子な感じはしない。とくに終楽章、冒頭から遅いテンポで始めたのが初めのピークを乗り越えたあたりで凡人はテンポを落とすところ逆に急激にアッチェルをかけて雪崩れ込む。「証言」以後の解釈というべきか、これはどんな人もやっていない。テンポはそのまま速いまま終わる。特徴的な解釈だ。また、どことなくマーラーを思わせるひびきがあるのはこの人がけっこうマーラーも振っていた証左か。私はあまりこのひととは縁がないのだが、感心することは多い。録音マイナスで○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),○ミトロプーロス指揮NYP(SONY/CEDAR,THEOREMA)1952/12/1STUDIO・CDこれはなかなかの名演である。音が飛んだり裏返ったりする部分があり興をそぐが、全体の充実度にはいささかの傷にもなっていない。物凄く特徴的な解釈である、とか技術的に無茶苦茶巧い、とかいうたぐいのものではないが、非常に集中力が高く、確信に満ちた強靭な棒と力強い表現力には感服する。この曲に飽きてしまって久しい私は、久し振りにこの曲を通して聴いて、とても満足した。2、4楽章の充実した演奏というのを物凄く久し振りに聞いた気がする。ミトロプーロスの恣意性についても言及しておくべきだろうが、まあ、本質を損なう事にはなっていないから、省略します。終楽章はあほみたいに歓喜で終わったりしかめっ面で変な解釈を施したりすることなく、ま正面から取り組み、明暗のコントラストをつけずに一気に登り詰め、終わる。ミトプーは明るくない。「くすんだ解釈」を施すことが多い。これもそのひとつだ。でも晦渋にならない手綱さばきの巧さがミトプーの本領。聴いて損はしません。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),◎ロジンスキ指揮クリーヴランド交響楽団(lys)1942/2/22ロジンスキの定番。オケに漲る緊張感、充実した響きそして情熱的な棒は、 どちらの盤でもかなりのカタルシスを与える。常識的解釈という言葉が妥当かどうかわからないが、古典作品のように構築的に表現された演奏であり、いうなればベートーヴェン的交響曲の表現だ。 何か深読みをしている奇異な演奏ではなく、伸び縮みするルバーティッシモな演奏でもない。ただ即物とも又違う(多分3楽章など少しいじってもいる)。空回りする熱気ではなく、 深い情感を伴っている。全編オケの共感が胸に迫るほどに白熱して届いてくる。クリーヴランド盤2楽章の躍動、3楽章の弦楽器の歌は5番演奏史に残るものだろう。 4楽章はややテンポを落とし、踏みしめるような表現が意外でもあり、緊張感が和らいだ感もある。それでもロイヤル・フィルにくらべてこちらのほうが オケの総合力は強いような気もする。只チェロが弱く感じたのは多分録音のせいだ。トータルなバランスはロイヤル・フィルに分がある。どちらも捨て難い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),◎ロジンスキ指揮ロイヤル・フィル(westminster) クリーヴランド盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(ARCHIPEL)1946/2/24LIVE物凄く音が悪い。そうとうの覚悟が必要な録音。演奏はまったくもって直球勝負。こんな速さ、無茶だ。即物的演奏とかいう言い方自体すらもう越えてしまっている。速いうえにさらに走る。ブラスはやりやすいだろうが弦は大慌てだ。まったく揺れずこの速さというのはもう思い入れとかいっさい無しに「早くうちに帰りてえ〜」と思っているとしか思えない(?)。間違っても初心者向きではないです。当然のことながらライブ録音。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ASdisc)1948/3/16live知る限りクーセヴィツキー唯一の録音で興味深かった。しかしどうも粗い。ライヴだからしょうがないのだが、弦楽器などに雑味を強く感じる。両端楽章の異様な速さは何か目的があるのかなんにも考えていないのか、独特だが成功しているとは思えない(特に終楽章、拍手は盛大だが)。なにかやみくもに焦燥感に駆られたような感じがする。3楽章はなかなか深みを出してきているが、なにか足りない気もしないでもない。全体を覆いつくす暗い色調は録音のせいかもしれないが、一種のカタルシスを求めて聴く曲なのに、余りに素早く駆け抜けて終わる終楽章はどうも気になる。うーん、お勧めではない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),シルヴェストリ指揮ウィーン・フィル(emi)1962ライナーには「非常にスマート」とかかれているが、整然というより雑然といったほうがいいような部分もある演奏。3楽章は精妙な音楽を聞かせており本盤のききどころと言ってもよいが、弦のアンサンブルが崩れたように聞こえる箇所が有る。またヴァイオリンが薄くてまるでウィーン響?と思わせるようなところさえある。終楽章は割合と恣意的なテンポ操作が行われており、それまでの「そっけない系」の解釈とは少々異なってはいるが、わざとらしい。シルヴェストリという指揮者を知るにはいささか分が悪い盤である。雑味の多さにライヴかと思ったらスタジオ録音。・・・なんとまあ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),ボルサムスキー指揮ベルリン放送交響楽団(LE CHANT DU MONDE他)CD 奇盤で有名な盤だが思ったより意外と実直。但し4楽章は意味のわからない急激なテンポ操作がしばしば織り混ざり独特だ。その結果はオケの当惑ぶりが想像できる粗雑な仕上り。最後にいったん音量を落として壮烈なクレッシェンドをかけるやりかたはあるていど成功している。全曲中、2楽章がよくできているほうだろう。とにかく意外に正統な部分の目立つ印象だった。イタリア盤で一度CD化しているとのこと。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),マキシム・ショスタコーヴィチ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)比較的オーソドックスな演奏で、とくに没入することもなく、かといって客観的でもなく、いたって平凡な解釈である。ただ、終楽章だけがちょっと違った。まるで父ショスタコーヴィチがヴォルコフの「証言」で「なんにもわかっちゃいない」とムラヴィンスキーを批判した、その批判されるような解釈をはっきりと行っているのである。最初の盛り上がりで急に恣意的にテンポを落としているのがもっともわかりやすいが、それ以外でも娯楽作品を扱うようなテンポの伸び縮みが見られる。それは自由にルバートしているわけではなく、予めはっきり指示されてのことであるようだ。作為的に盛り上がりを作っているところが逆に萎えさせる。無印。この盤はLPではいろいろと出ているがCDは不明。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(DOREMI/BMG/MELODIYA)1938/3/27-4/3・CDムラヴィンスキーの初録音にして同曲の世界初録音というもの。初演より5ヶ月しかたっていない湯気の立つような録音だ。貴重な古いSPからの板起こしである。BMGで日本盤CDの特典として世に出たが、今はDOREMIレーベルから他の古い録音と併せて発売されている。これがなぜ特典盤として売値を付けられなかったのかは聞けばわかる。雑音の洪水、ぎくしゃくした音楽、薄くてまとまりのないオケ、乱れる音線。これはムラヴィンスキーの名誉に掛けて発売すべきではなかったものと思う。全てが全て録音のせいとは言えない。手探り感がかなり強く、音楽が流れていかない箇所が目立つ。若きムラヴィンスキーの苦悩が現われているようだ。後年の充実した演奏とは掛け離れた「バラケ感」が強く解釈的にも工夫が感じられない。ちなみにレニングラード・フィルの首席指揮者の座を勝ち取るのは同年9月のコンクールでまさにこの曲を振って直後のことである。マスターが残っておらず国内生産された数少ないSPをもとに復元された同曲最初期の録音、参考記録としての価値はある。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ICONE)1984LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(le chant de monde,PRAGA)1967ムラヴィンスキーの演奏はまず安心して聞ける。いつもどおりの解釈、いつもどおりの演奏。完成度は高い。ただ、この録音は音が悪い。・・・ということで余り上位には置けません。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MELODIYA/BMG)1938末〜39初,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC)1965/11/24,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC)1966,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル (DREAMLIFE:DVD)1973レニングラード・ライヴ,2003年発売,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル (NHK,Altus,KING)1973/5/26東京文化会館ライヴ,2000年7月発売 両端楽章が素晴らしい演奏というのはたくさんある。ムラヴィンスキー盤でも、終楽章などロシアン・ディスクの極度に集中力の高いライヴのほうがカタルシスを感じやすいだろうし、1楽章冒頭の軋んだイキみぶりには少々ひいてしまう(多分録音が生々しすぎるせいだろうが)。だがこのライヴ、中間楽章が何物にも代え難い光彩を放っている。2楽章の斬り込むようなリズムはデジタル・クリアな録音と実にバランス良く噛み合って、ガシガシと踊る。増して印象的なのは3楽章、崇高な祈りの音楽、ムラヴィンスキーらしい清廉な響きの中に、実に意外ともいえる「情感」が息づいている。同ライヴ全般に、「運命のメトロノーム」は微妙にしかし確実に揺れて、旋律とその流れも自然に浮き立つようで、ムラヴィンスキーにしてはかなり抒情性が感じられるものとなっているが、 3楽章のそれは殊更迫ってくるものがある。痛切な響きは決して悲鳴の泣き声にはならない。佇み沈黙する叫び。ピアニッシモの密やかで繊細なハーモニーは、葬送の黙祷に凪いだ教会伽藍を思い起こす。終盤、マーラー性を排したムラヴィンスキーの、最もマーラー的な響きを聞いた気がする。旋律性が消え響きだけが空を流れるような場面、ピアニシシモの光の中にマーラーの10番やフランツ・シュミット4番のような諦念を感じずにはおれなかった。この世界、 2楽章の激烈なリズム性とのコントラスト、終楽章のいきなりのプレスト攻撃(ライナーにもあるが、あっというまに加速しそのまま突き進む)とのコントラストが少し「ありすぎる」ようにも思える。しかし同盤、個性という点で従来知られていた録音より突き進んだ感があり、聞いて決して損はしない。パートソロで思ったより突出しない低弦や、ひきずるようにテンポをずらす金管ソロ楽器など、ここまで音がディジタルに鮮明でなければ聞こえなかったような瑕疵が聞かれても、屁でもない。突き刺すようにクリアな音に溺れよう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル ?
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」(1937),○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル1983
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,○コンドラシン指揮ACO(PHILIPS)1968/1/19なかなか集中力の高い演奏だが、ちょっと限界が近付いているか?という感じもしなくはない。曲自体の包蔵する魅力を引き出す事に成功している。垢抜けた明るい音でロシア時代の演奏と一線を画した音楽を作りあげており、かなり聴き易い。録音はけっして万全ではないがおおむね支障はない。30分かからない短い曲で、5番の切れ端で作りあげたというような説も聞かれるが、1楽章の主題には古典ふうのトリルが付けられていたりと独特のマニアックな仕掛けも忘れていない。2楽章アレグロ、3楽章プレストと一気に聴きとおせるのはショスタコーヴィチの交響曲としては異例のことで、水際立った弦楽器の走句がばしっと決まればかなりカタルシスを得られるのだが、この盤はちょっと危ないながらもなんとか弾き通している、といった感じだ。でも私は満足しました。ロッシーニは苦手だが擬ロッシーニの現代作品は好きです。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,○コンドラシン指揮ACO(RCO)1968/12/20LIVE,,こんないい曲だったけか!カッコイイきっぱりした棒にオケの冴えも素晴らしい。3楽章がなんといってもききもの。肯定的作風に輪をかけててらいのない演奏で安心して聞ける。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,○コンドラシン指揮クリーヴランド管弦楽団(hervest:CD-R)1979/10/9live,,エアチェックゆえ音のバランスは悪いがステレオ。クリーヴランドが今もって世界の五大オケに数えられているのは少し不思議な気もするが、いい意味でも悪い意味でもその「弦」が機能的でよく動く名器の「A線」であることに異論を差し挟むつもりはない。音色の好みや技術の理知的に整えられた末生じるある種のマンネリズムがアメリカオケの場合好悪を別つ要因になるのは明らかで、クリーヴランドとシカゴのオケに私はその種の首傾感をおぼえることは多々あるのだが、しかしコンドラシンのような指揮者にとってかつてセルに鍛えられたこの鋼鉄のオケがよき「楽器」となっていたであろうことはこの演奏を聴くと如実にわかる。ライヴとは思えない高い技術の精度に反映された演奏である。音をスコアどおりに組み立てれば自ずと深情が染み出してくる、ショスタコにもそれはある程度言えることだ。木管の響きなど改めてマーラー的な曲だなあと思わせながらも、よりすっきりした現代の音楽であることを意識させる。ここにはモスクワのオケでやっていたような「渋さ」や「力み」がない。ショスタコの本来持っている「フランス的」ともとれる「軽さ」が、過度の恐怖や情に関する雑念なく聴こえてくる。それがメリットだろう。,,まー、とにかく美しいですよ。金属質の美しさだ。下手に聴かせどころを強調しないコンドラシンのやり方も流れよい音楽の美しさを助けている。三楽章のプレストでさすがに乱れもみられるが、ライヴでこのくらいは仕方ないだろう。余りに娯楽的なパーカスの弾ける終幕はどよめきを呼んでいる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,コンドラシン指揮イスラエル・フィル(IPO)1980/4・CD,,拍手も環境ノイズもないが恐らくライヴ。精度的にそんな感じがする。録音は良いとは言えないステレオ。演奏的にはオケの限界が出ている。流石に弦楽器はそこそこやっているが木管などロシア式の要求に応えられないパワー不足を感じる。全般無難なレベルにおさまり、あっさり聞き流せてしまい、録音レベルの低さもあって迫力がなく、小粒にまとまった印象だ。コンドラシンにはライヴ含めると異様な数の同曲録音があり、その中でこれを取り立てて聴く必要はあるまい。各パートのくっきりしたアメリカオケや力強いコンセルトヘボウを取ったほうがいいだろう。曲の魅力として三楽章は楽しいが、楽しんで良い曲なのかどうか。苦悩のようなもののなさも気になる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,コンドラシン指揮ウィーン交響楽団(kapellmeister)1977/7/26live,,ステレオだがノイジーで時折パチパチが入るのが耳障り悪い。環境雑音も多い。新古典主義的な簡潔な書法において旋律性を重視し各パート、各セクションに過剰にも感じるほど強い表情を付けさせ、期待通りのショスタコを聴かせる。調和的な音響よりアンサンブルの攻撃性を表面に打ち出し、一、二楽章ですら三楽章のような激烈な音楽に聴かせるから、逆に楽章間の対比が薄まっているが、耳を惹きつけて止まない。悲観性と楽天性の差が無いとしても純粋に楽しめる音楽として即物的に仕上げている。全体構成が平板でラストも起伏はなく断ち切れるような感はある。拍手に少し戸惑いを感じるのもそのためか。オケがどうこうではなくコンドラシンのショスタコーヴィチであることに揺るぎはないのだ。晩年ですら同じだったのである。VSOにしてはミスが無く手抜きも無く、音にウィーン風の緩さも無い。音色は素晴らしく美しい。木管ソロの上手さが印象的だが弦楽などコンドラシンの思うがままに操られ、強く引き締められている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,コンドラシン指揮クリーヴランド管弦楽団(FKM)1979/1/28live,,あっさりした演奏だがノイジーなのと弦がかなりバラけるのでパッとしない。音は明るく、だがそれゆえに浅薄でショスタコーヴィチらしい暗さがなく、コンドラシンも積極解釈する人ではないため、あっさり聴けてしまう以上のものはない。うーん。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番〜V,◎コンドラシン指揮スウェーデン放送交響楽団(BIS)1977/10/13LIVE・LPこのオケの上手さが光る。冷たい熱気がショスタコにはうってつけ。コンドラシンの濃ゆさが綺麗に抜け、合奏の完璧さ、美しさが残った演奏といえようか。録音がよく、迫力もすごい。激しいのにキレイ、全曲聞きたかった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)LP,,ひそやかな演奏。ザッツもよく揃い、美しいが、地味さもつきまとう。勿論元々地味な曲ではあるのだが、この人らしくないちょっと引いた感じがある。だがそれも長所ととるならば問題無い。この曲には寧ろそういう陰花植物のような表現があっているようにも思う。ムラヴィンスキーを思わせる緊密さもあり、若い頃の演奏に近いかもしれない。録音はいいから、6番に親しむのにはいいと思う。木管の巧さに舌を巻く。○。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,○ストコフスキ指揮NYP(vibrato:CD-R)1968/4/11live,,文句なしに巧い。聞かせるすべを心得ている。この人がショスタコーヴィチに示す適性は何なんだろう?NYPがここまで統率されたのは何故だろう?交響曲第5番で描ききれなかったショスタコーヴィチのマーラー的なドロドロを(ロマン性とでも言おうか?)明快に描き切り、満場のブラヴォを勝ち得た。このフィナーレのカタルシスこそSYM6の本質なのだ。解放のイメージに交響曲第5番の屈折は無い。ハッとする演奏。録音状態をかんがみて○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,ストコフスキ指揮シカゴ交響楽団(RCA,BMG)1968・CD 安っぽい。音楽そのものがやや浅薄なものも元々孕んでいるのではあるが、それにしても何も残らない演奏だ。まず録音が人工的で非常にバランスが悪い。これはけっこう致命的で、明晰すぎるがゆえに生身の音楽が感じられず最後まで借り物のように聞こえてしまう。また、ストコフスキはいつものわかりやすい音楽を作っていない。消化不良のまま録音したというか、あまりストコフスキ的な奇矯な面白さがないのが不思議だ。ロマンティックな局面もないわけではないのに、盛り上がらない。3楽章プレストはプラスチックのおもちゃのようだ。この楽章はたしかに皮肉っぽい軽さを持っており、そういうパロディ的な音楽なのだが、そこまでの道のりも含めて余りに映画音楽的というかバレエ音楽的というか、結局全部が起承転結のついた交響曲に聞こえない。シカゴ交響楽団の腕も何か突き放したような冷たいものに感じてしまう。ふとショルティならどうやったろうか、と思った。古典を小バカにしたような新古典主義音楽、というのが私のこの曲のイメージだが、これはもはや古典のカリカチュアどころか不器用な古典のモノマネだ。うーーーーーーん。。。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,○ストコフスキ指揮シカゴ交響楽団(DA:CDーR)1968/2/15LIVE,,いいのかこんな能天気で?というような派手なクライマックスに疑問は残るが盛り上がることは盛り上がる。珍しくブラヴォも出る。そこまでの陰欝な道程がほとんど記憶に残らない。オケの意欲は凄い。技術も含め強力なオケは分厚くもニュートラルな響きで、ストコの開放的な音にはあっていると思う。ストコはしかし明らかにショスタコ適性があるなあ。不安定なステレオ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(victor/dell'arte/M&A/MEMORIES他)1940/12/8,22(20?)(1942は販売店の誤り)・CD,,ショスタコはわりと解釈にうるさく、クーセヴィツキーなど旧いタイプの「解釈者」には演奏もしくは録音への文句をいちいち送り付けたりしている。ラヴェル型の神経質な「機械的作曲家」に類例は多く、えてして「スコア以上のことはするな」というストラヴィンスキー風の見解を持っているが、時系列の問題はあるものの、わりと気紛れであることもよくあることで、カラヤンやバンスタの圧倒的な実演の前には賛辞も止むなくされてしまったようだ。ただこれが本音であったとしても心のどの階層まで踏み込んだものだったのか?現代のアーティストの心は外面的条件の有無にかかわらず一筋縄ではいかないものだ。,,改変系指揮者ストコのショスタコーヴィチは面白いが、「作曲家原理主義者」・・・しかしその持論も主観的な思い込みであるようにしか見えないことも多い・・・には鼻持ちならないものに思えることだろう。この録音も「飽きさせない流れ」に違和感を感じる向きもいるだろう。文学的な隠喩の籠められたパセージの意味性を無視して、独立した楽曲としての娯楽性一本を追求しているさまは終楽章のロッシーニのカリカチュアの扱いなどによく聞き取れる。ただ、解釈の全般としてはわりと抑制的で端正だ。素朴なところもある。スピードは抑えられ響きは丁寧。オケ自体は華々しく美しく巧いから、5、7番にはさまれ地味な6番を陽化して受け容れやすくしてくれる録音としての価値はある。時代と比して録音はすばらしい。,,メモリーズの廉価盤では1942年と記載。また現在Webで聴くこともできる。,-----,,,-----,,,-----,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,◎ボールト指揮ロンドン・フィル(EVEREST)これがびっくりするほどいい演奏なのだ。オケはシャキシャキ決まるしソリストはおしなべてウマイし(木管最高!)ステレオ録音であるせいもあるのだが充実した演奏ぶりでなかなか聞かせる。長い緩徐部が慣れない人を飽きさせる曲であるが、この演奏で聞くときちんとドラマが描き出されているから面白い。ショスタコ馴れしていない指揮者が陥りがちな恣意的解釈は一切無く、浅薄な感じもしない。ボールトというとニキシュ譲りのドイツ流儀、重々しく濁った音響、ロマン性色濃い解釈みたいなイメージがあるかもしれないが、水際立った表現ぶりは、モノラル時代の録音でしばしば聞かれる表現主義的な峻厳な音楽を彷彿とさせるところもある。ただ、個性は薄い。じつに立派にショスタコを演奏しているが個性的なところはほとんど聞かれない。音響の整えかたに非常に安定感があるのが特徴的といった程度か。野暮で牧歌的といったイメージを勝手に持っていた私もこの演奏には認識を改めさせられた。6番という曲は5番の明に対する暗として捉えられるものだ。思索的でスケールの大きな音楽は5番がある程度限られた枠の中で明快な答えを提示するものであるのに対し、茫洋とした荒野にただ佇んで思索し逡巡し続ける巡礼者のような音楽だ。そこに答えは無い。新古典的傾向を明瞭に示す曲ではあるがボールトは殊更に意識せずにロマン派以降の音楽寄りに表現している。それで無理なく収まっているから、これはこれでいいのだろう。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ICON)1983/3/12LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,○ムラヴィンスキー指揮ソヴィエト国立交響楽団(RUSSIAN DISC)1972/1/27録音は聞きづらい。偏向したモノラル、という様子で音も安定しない。そのためかもしれないが1楽章は余り強い印象は残らなかった。2楽章アレグロもそれほど集中力の高い演奏とは思わなかったのだが、3楽章になるとずいぶんとヒートアップしてきて、オケのノリが感じられる。しなやかな黒豹のように俊敏に動く音楽が弦を中心として紡ぎ込まれており聞きごたえがある。この楽章の旋律や音階状の音列は若い頃に熱中したというプロコフィエフの楽曲をあからさまに彷彿とさせるが、1楽章と共にこれは新古典主義に立った楽曲だ、とわざわざ強調しているかのようだ・・・舌を出しながら。この楽章のスピード感はさすがムラヴィンスキー!というシャープな表現が清々しい。最後の「ジャンジャンジャン」というショスタコとしては異例の喜遊的な終止部は、曲の流れを無視したように突如湧き起こる余りにわかりやすい皮肉な楽天音楽の「これでいいのだ!」だが、カルテット1番の終楽章と親近性を感じる。共にショスタコがわざとわかりやすく描いた音楽として通じるものがあるのはあたりまえか。総じて○。手元にはまだ少なくとも他に3種はあるが、まだまだあるかも。ムラヴィンスキーはこの曲が好きだったのだろうか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(melodiya/jvc)1965
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル ?
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,○ライナー指揮クリーヴランド管弦楽団(WHRA)1945/1/14live・CD,,WHRAは本格的に往年の放送音源を集成し始めたらしい。これもアメリカ国内流通は禁止なのだろうか、しかし主としてDAが出していたへっぽこ音源をより質よく(恐らく放送ライヴ如何にかかわらず原盤?)データも正確に出しているらしい、ライナーにかんしてはこれは第一巻となっているので、マイナーレーベルにありがちな第一巻で終了ということのないようにしてほしい。クリーヴランド管弦楽団はセル以降ヨーロッパ色が薄まりすっかりアメリカ五大オケの名にふさわしい腰の軽さと明るい音を売りにできるようになったが、この時代はまさにヨーロッパからの流入組がそのまま音を出しているといった風情で重く迫力のある音で後期ロマン派的な音楽が展開される。ライナーの指示は厳しくキレよく統制が行き届いているが、しかしショスタコーヴィチをやるにあたってトスカニーニふうの乾燥し何の思い入れもないような表現には陥らない。抒情的な悲歌の1楽章を含めて非常に娯楽的な演奏でもあり、そこが逆に「ソヴィエトの偽善に対するシニシズム」を殺している感もあるくらいで、特に終楽章の盛大などんちゃん騒ぎはライナーという「チョッキ幅の指揮者」のイメージを「聴かないで想像している」向きには意外と感じられるだろう。強いて言えばセルよりはフルヴェンであり、そこに計算が行き届いている、といった感じか。もともとヨーロッパ戦線が終結に向かうことへの祝祭的意味合いが篭められて然るべき時代背景である(太平洋ではこれからが地獄だったわけだが)。この演奏はショスタコらしくなくても、ある意味正しい。6番でカタルシスを抱きたいならぜひ。,,ただ、録音は悪い。,,"","The Art of Fritz Reiner Vol.1: 1942-1952 Live","",-----,,,-----,,,-----,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(PO)1969/5/15放送live・CD,,放送レベルのノイズのあるステレオ録音だが、ハーモニーの精緻な再現ぶりが素晴らしい(私の盤は正規だが3楽章で劣化し激しくノイズが入るのは置いておく)。それはか弱い青瓢箪ではなく肉感的な大編成オーケストラでなされるからこそ意味がある。ショスタコーヴィチの簡素なオーケストレーションもしっかり肉付けされたうえで初めて真価を発揮する。総力戦の力づくで押さえつけるのではなく、意図された響きを正しく整えて強力に提示することによってこそ楽曲の本質が伝わる。恐らくショスタコーヴィチもこのような演奏を望んだであろう。物語はスコアが語ってくれる。3楽章の大団円への持っていきかたは素晴らしい。ブラヴォで終演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(AKKOPA他)CD じつは不思議なくらい惹かれなかったのである。非常にクリアな音質で聴き易いし、演奏自体もムラヴィンスキーを彷彿とさせる鮮やかなアンサンブルにロシア流儀のエッセンスを加えた過不足無いものなのだが、あまりにあっさり聞けてしまう。マーラーの影響もまったく感じないほどあっけらかんとしている。後半楽章に配されたベートーヴェン的開放の楽章もあまり開放に聞こえない。いや、もともと余り抑圧されていないのだ。うーむ・・・。聞き方が悪いのかもしれないので、いつかまた聞き直して書きます。余りにも印象が薄かった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,バーンスタイン指揮NYP(SLS)1963/10/13リンカーンセンターフィルハーモニックホールlive,,モノラルで音場狭いがノイズが気にならない音質。鋭敏な耳が光るバンスタだがやはり二楽章の派手で粘着的な攻撃性を発揮するさまが最も聞きばえする。オケの力強さもこういうところで一番輝きを放つ。ギチギチに厳しいことはない、しかしミスはなく、木管ソロも力強くホールに威力を放っている。楽章毎に拍手が入るのはショスタコーヴィチ的にどうなのかと思うが祝祭的な機会においてアメリカの流儀でもあるのだろう。二楽章にもそのけはあったが三楽章の戯画的な凱歌では(それまでもそうだが)けしてスピードを上げずにテンポ的には引きずる感すらかんじさせつつブカブカやって、そのあとの破滅的な死の踊りはショスタコーヴィチらしさを付加してスムースに進めていく。こういうところの、譜面に忠実というのとは無縁なのにまるで板についた演奏はバンスタの大規模な曲への適性をはっきり示すし、オケもマーラー時代からの伝統のように、他のオケとは違う高みに(野卑ながらも)のぼっている。ブカブカの再現ではウィリアムテルにやっとスピード感を加え、ラストへ向かう楽天的なメロディが登場してからはシニカルショスタコーヴィチをただただギチギチ怒涛のように進めていき、発音の頭が甘いのはオケの特性かもしれないがそれ以外はキレキレで遊園地の出口のように終わる。ショスタコーヴィチがバンスタNYPを好んだことはわかる。確信犯ぶりを喜んだのだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,バーンスタイン指揮ウィーン・フィル(DG)1986/10LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(SONY)1963/10/14,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番,ロジンスキ指揮NYP1944/4/2 西側初演、極めて録音が悪くWMEとSLSは同じ音源を使っているようだ。ロジンスキの緊張感が伝わってくる演奏。ショスタコーヴィチらしさというか、カッチリして音をしっかり切って、なおかつ前進力を維持。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),○エリアスベルク指揮国立レニングラード・フィル交響楽団(great musicians of palmira du nord)1964/1/27live・CD,,レニングラード初演指揮者による録音。ドイツ軍包囲下にあって生き残りの楽団員を集めて行われた1942年8月9日の演奏会は伝説となっている。このあたりのことは「ショスタコーヴィチ ある生涯」にちらっと載っていますのでご興味があれば。これはライヴなので若干の瑕疵はある。たとえば1楽章の時点ではいくぶんアバウトなところもあり、いまひとつピンとこないかもしれない(録音も悪いし)。だが強奏部の力感は圧倒的だ。1楽章の最高点ならびに終楽章最後の威厳に満ちた強大な音楽は、もうただただ聞き込むしかない。余りテンポのタメを作らず高速で一直線に進めていくやり方はちょっとムラヴィンスキーに似たところがあるが、もっと太筆描きの豪放さがある。また、抒情味溢れる楽曲の細部までしっかり弾かせており、途切れる事のない歌にはっと気付かされるところもある。とにかく率直な解釈で純粋に曲のダイナミズムを追い求める態度は共感できる。ただ、率直とはいいながらも、3楽章・・・おそらくこの楽章に関してはこれは最高の演奏記録だ・・・には楽団員から指揮者まで思い入れの限りが尽くされており、エリヤスベルグの気合いや鼻歌が聞こえ出したらもう背筋がぞくっとするような衝撃の連続である。ここまで峻厳な3楽章、それは死に対する諦念ではなく、あくまで生きることへの渇望からくる力強い衝動であり、その迫真性はちょっと現代の指揮者にはなしえないものを感じる。巧い下手ではなく、これは時代のなせるわざであり、その時代の記憶である。ソヴィエト・ロシアに知られざる指揮者というのは数多いが、この指揮者もナゾといえばナゾであるし、もっと音源が発掘されないものか、と思う。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」〜T、W抜粋,◯エリアスベルク指揮レニングラード交響楽団(ペテルブルグ放送)1967/3/14live,,覇気と推進力に満ちた冒頭から求心力の強さを見せるが、オケの弱さ、音の鄙びた感じはどうにもしようがないか。一楽章提示部、ボレロの模倣冒頭、およびフィナーレのごく短い抜粋。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(RCA)1942/7/19liveこれは歴史的ドキュメントである。レニングラードからマイクロフィルムで届けられた総譜を使用してソヴィエト国外初演が行われた、そのものの記録なのだから。録音状態は悪い。かなり耳につくノイズが入る所もある。また即物的で情緒的なものが薄い演奏であることも(トスカニーニだから仕方ないのだが)気になる。しかし、まず手探りであること、当時の現代音楽であり、演奏に万全の準備もできなかったであろうことを勘案すれば、その価値を認めないわけにはいかない。純粋に演奏だけを聴くならばそれほど高い評価を与えられないものかもしれないが、歴史的価値を汲んで○評価をつけておく。終演後はさすがにブラヴォーの嵐。演奏中トスカニーニの唸り声(鼻歌?)が聞こえる部分があるので傾聴。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」〜断片(ピアノ版),○作曲家(P)(放送動画)1944,,部分的にはDVD等で出ていたもののようである。今はネットにアップされたものを見ることができる。2楽章の断片のあとショスタコの説明が入り、そのあと1楽章終盤が演奏される。ショスタコ特有のぎごちない癖があり、決して上手くは無いが、意外と感情の入ったテンポ取りににやっとさせられる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」,○ストコフスキ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R/pearl/m&a)1942/12/13live・CD,,冒頭の二音の欠落でいきなり「人間の主題」が「間の主題」となって寛平ちゃんが思い浮かび今ひとつ乗れなかった。というかこちら側の心もち次第で楽しめもするのだが(なぜか5回くらい1楽章だけ聞いている)7割がた流して聞いてしまう。もちろん旋律重視なおかつリズムはしっかり刻み、録音が非常に悪くて弱いもののコントラストの明確な演奏だから気を煽られなくは無い。とくに2楽章は素晴らしい。ただ、3楽章で余り心象に入ってこなかった。4楽章もコンドラシンのような幻想が浮かばなかったが、但しこの楽章は派手に盛り上がるので客席反応もよい。オケがいいだけに録音のせいということしか言えないが、ただ、ショスタコ適性は絶対にある。ストコはもっとショスタコをやるべきだった。,,CD復刻は欠落は無い(m&a盤は5,6,7番を二枚組にまとめており2017/2現在現役盤の模様)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」〜断片,ストコフスキ指揮LAフィル(放送動画)1942/10(44?)キャンプ・ヤング慰問live,,1,4楽章の断片をソヴィエトで放送したものがストコフスキのファングループによってネットにアップされているのを見た。稀有壮大なストコの世界がこの断片からも窺い知ることができるが、この映像には諸説ありオケ名も最初はNBCとされていた(コンマスがコンミスであることとヤング基地の位置から疑問視されている)。LAフィル説にかんしてはこの長さではよくわからないがちょっと音が違う気もする。ちなみに動画はほとんど音とずれている。冒頭と最後だけあっているので別録をあてたものではないと思う。終楽章末尾にカットがみられるがこのコンサートシリーズでは40分の短縮版が使われていたとのことである。全部残っているのではないか?ともいうが・・・,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」,○マキシム・ショスタコーヴィチ指揮プラハ交響楽団(SUPRAPHON)CD,,長い曲ですが、敵の鼓笛隊を意味するキッチュな主題のボレロの模倣でシュワルツェネッガーと宮沢えりが踊るだけではない、ショスタコがほんとに切羽詰った状況で、頭でっかちの主義主張ではなく、純粋に苦境の人民を鼓舞しレニングラードを内外の精神的に守りきった内助たる記念碑的な意味の篭められた曲。曲の「前衛的」評価については後からは何とでも言えるが、エリヤスベルグが生き残り逃げ残りのオケマンを集めてナチの包囲下で初演した、スコアはマイクロフィルムにされ大陸横断鉄道から海路をへてアメリカの反ファシズムの名指揮者トスカニーニの手で国外初演された(録音もされた)というまさしく第二次世界大戦のドキュメントに他ならない。しかし時代は遠くなった。ソヴィエトにおける新しくまとめられた全集の一枚であるこれは最近のCD実売価格の趨勢からしてボックスとしてはやや高値。堅実な、硬めの指揮ぶりで息子ショスタコらしい入り込む様子のない客観的な演奏だが、いっぽうで録音もよく壮大さがかんじられる。強い印象は残さないが変なアクのないところは聞きやすく、適度に重い演奏は終楽章まで一貫した調子を維持し、それによって壮大なクライマックスを築き上げブラヴォの渦を呼んでいる。スタンダードな演奏として薦められる。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),○マキシム・ショスタコーヴィチ指揮ロンドン交響楽団 発売時はかなりの話題になった子息マキシム氏の演奏は、古典的なほどに端正だ。硬く短く切り上げる音作りは一風変わっており、まるきり客観的ではあるが、強い印象を与える。各楽器間に風が通るような骨張った響きや、ここぞというときのブラスの咆哮にはロシア的なものも感じるが、イギリスの機能的オケを使ったことで柔味を帯びてまとまった。終楽章最後の壮大さはスヴェトラーノフに匹敵するが、ガチガチ感は対極。クレンペラー型だ。不協和音を敢えて強調するような終盤の響きには、感情的な高まりが認められる。そういった無骨なハーモニーは他にもいくつか見い出される。そして終止律義な音楽の歩みは独特。終楽章後半などブルックナーを思い浮かべた。当然娯楽的解釈ではない。作曲家のひとつの意図を深く踏まえた表現ともいえよう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),○バーンスタイン指揮シカゴ交響楽団(DG)そういえばドイツのオケによるレニングラードを聞いたことがない。得意とするマーラーのような表現も交じり、通例とは別種の濃厚なロマン的アプローチとして、独特の面白さを持った演奏。バーンスタインはシカゴの鋭い音によって、独特の解釈を完全表現することに成功している。85分弱という異様な長さだが、さしたる弛緩無く流石シカゴだと唸らせる。どのパートをとっても瑕疵がなく、強いて言えばその機能性の高さが「鼻につく」くらいか・・・。しっかりと歩み続ける音楽は、時にかなり深刻であり、曲自体の単純な素晴らしさを再現するというよりも、心理的に一歩踏み込んだものを感じる。構成感という点で問題視されることの多い指揮者だが、これはアリだろう。時に曲をいじっているのではないかと疑わせるほどにロマン的演奏だが、名演は名演である(本編でもこの演奏に触れています)。何といっても緩徐部の表現はこの人の独壇場で、巧く旋律の流れを浮き立たせて聞かせる。1、5も入れているがこの7番が最高だと思う。バーンスタインは戦後NYPと積極的に海外演奏旅行して回る中、ソヴィエトでの「革命」の公演機会に恵まれ、臨席した作曲家の絶賛を受けたと聞く。CBSの革命の録音は、完全に娯楽的な演奏のように感じますけれども、…,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),バーンスタイン指揮シカゴ交響楽団(RARE MOTH:CD-R)1988LIVE名盤のDG盤と同じ組み合わせでほぼ同時期にライヴ録音されたものだが、やはり超遅ゆえ間延びしたように感じる所が至る所にきかれる。DGにくらべ聞きづらいところもある演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),○バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(SONY)1965初出ゆっくりなテンポで始まるが、総演奏時間75分弱と後年のシカゴとの演奏などに比べれば格段に速い演奏だ。バーンスタインも手慣れたもので魅力的な楽想を際立たせ晦渋な部分を抑えた非常に聞き易い演奏を作っている。第一楽章の例のボレロの模倣と呼ばれる部分も「どこがボレロ?」というくらいに真摯に深刻に演奏されているのが素晴らしい。ニューヨーク・フィルという底力のあるオケを使っているせいもあろう、技術的瑕疵もなく、最後まで一気に聞かせる力があり、情緒的な演奏を好む向きには最高であろう。佳演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」,○バーンスタイン指揮ボストン交響楽団(Lanne:CD-R)1948/12/22ボストンlive,,壮年期のバンスタらしいアグレッシブで、やや浅薄とも取れる「らしい」演奏である。力で押し切った、旋律の魅力を強く押し出し音楽を単純化する方法はのちのNYPとのライヴを彷彿とするが、NYPほどに音色に表情が無く、「いかにも面白そうな解釈振りであるのに」最後までなんとなく乗れない。面白いんだけど、乗れない。○にはしておくが、まだ「バンスタのレニングラード」は完成していないんだなあ、と。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」〜1.リハーサル,◯バーンスタイン指揮ボストン交響楽団(WHRA)1948/12/22live・CD,,かなり意志的なものの感じられる本番リハの記録。本番全曲は既出、このボックスはトゥーランガリラなどほぼ既出のもので占められているが、この音源は初出だと思う。オケの音が鄙びているのは録音のせいと思われ、若干の力の抜きはあるかもしれないが、バンスタの積極的で情熱的な言葉が煽りに煽って、ここで聴かれるボレロの模倣ひとつ取ってみても止まってばかりの指示ばかり。聴くにつけバンスタのショスタコーヴィチはあくまで音楽としての表現を追求していてその底にある精神性とか文学的理由には興味がないことがわかるが、ゲネプロでそんなことに言及するわけもないか。私は楽しめた。バンスタのショスタコーヴィチファンなら。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」〜1、解説,◎バーンスタイン(P)、語り、指揮NYP(KENYON&ECKHARDT,FORD/DREAMLIFE)1959/10/25のCBS放送・モスクワ音楽院大ホール1959/9/11LIVE・LP/DVD,,,バーンスタインによるレニングラード・ショスタコーヴィチとその周辺や同時代音楽にかんする解説がA面、一楽章のみの演奏がB面に収録されている。A面は最終日のモスクワ音楽院ホールにおける講演というアナウンスが入る。バンスタがこの時期によくやっていたていのもので、基本的にはレニングラード全楽章の抜粋を中心に構成され、コープランド「ビリー・ザ・キッド」をはじめピアノと管弦楽をまじえたさまざまな曲の手短な説明だが、これはこれでなかなかにききごたえがある。派手な両国国歌から音楽は国境を越えて人々を結び付ける、たとえばポーギーとベス、と言ってサマータイムをピアノでかなで、アメリカで一番人気はロシアの曲といってピアノでかなでるのはラフ2にチャイコンの有名な旋律。笑いがもれたところでレニングラードとビリー・ザ・キッドを対照した本題に入る。ソヴィエトに敬意をはらいつつもアメリカを誇示するような調子が面白い(コープランドの演奏はやや荒いが)。,,しかし聴き物はやはり(1楽章だけではあるが)B面のほうだろう。NYPの「いい意味で悪いところ」が出ている。即ち、「いつも本気ではなく、いつも集中しているわけではない」この老獪なオケ、流して演奏したようなバラケ具合を見せるアメリカでのライヴ演奏のレベルに比べて、「明らかに違う」のである。ベルリンのトップオケかとききまごうような質量、音色の揃い具合、密度の高いアンサンブル、これをいつもやれと言われたら酷なのかもしれないが、オーマンディ同様この時代モスクワでアメリカ人が演奏するという国家を背負った状況において、NYPはベストメンバーとトレーニングで万全に臨んだのであろう。とにかくNYPにしては極めて精度が高くスリリングである。そして重く硬質な表現もみせる。後年のバンスタのみせた音楽表現の幅というものはそれほど無いにせよ、テンションが高い位置で行き来しているさま、一番の聴き所は戦争の主題の全てを蹂躙する行軍の描写である。異常なスピードで、あきらかに娯楽的ではなく、ひたすらの非人間的なメカニカルな表現である。ここに生易しい軍歌は聴かれない。軍靴の鳴り響く音がひたすら背筋をぞっとさせるのである。人間の主題の表現は過度の思い入れが無いぶん、コントラストが極端にならないでバランスがとれている。正直1楽章だけでは何とも言えない。だが、マスターから直接落としたと思われるこの録音自体も素晴らしくクリアで、モノラルとはいえ生々しい・・・生々しいといっても脂肪のぶよぶよした生々しさではなく、人の死に、物の壊れる肌触りの生々しさだ。◎。,,,(後補)同盤の元になった映像は国内盤五枚組DVDの一枚として完全復刻された。臨席のショスタコーヴィチ紹介の場面を見ることができる。,,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」,○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(lanne:CD-R)1975/5/14スメタナlive,,そうだ、こんな音だった、ロシアオケ。最近聞いてないので、思い出した。ラテンのリズム感ともゲルマンの音響感とも違う、共にその要素はあってそのうえで、勢いだけではないのだけれども、一文字で表せばやはり「力」。横のつながり、流れ、デジタルではなく連綿と続く有機的なアナログな流れを作るのがロシアオケなのだ。だからコンドラシンのデジタルな解釈も、柔らかい表情を帯びて聴き易くなる。,,録音がぱっとせず篭り、生気のない音で前半特に迫力が無い。エアチェックものだ。音楽自体も三楽章を頂点として後半に力点が置かれているように感じる。いくぶん情緒的で、力強いオケに流されている部分もあるかもしれないが私はこういうコンドラシンのほうが好きである。ライヴでの演奏精度は相対的に低くても、根っこの技術的には決して低くない、寧ろソリスト集団とすら言えるロシアオケがコンドラシンと拮抗して、それがうまく融合した表現。録音は平坦だし起伏を意図的に作らないので、最後までわりと地味だけれども、なかなか揺り動かされるところはある。正規録音をもちろん勧めるが、マニアは一回は聴いてもいいかもしれない。○にしておく。,,正規録音全集(この値段て・・・),"","","",,KONDRASHIN;,"",-----,,,-----
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),◎コンドラシン指揮モスクワ・フィル(1975)とても整って、緊密な演奏です。あらゆる面で同曲のスタンダードといえるでしょう。この人の演奏が一番バランスが良い。曲の多面性を鋭く捉え、どの角度からもしっかり照射している。弱音部の美麗さは比類無いもので、甘く感傷的なほどです。 1楽章の「ファシズムのテーマ」すら抒情性を失わない。そのため純粋な音楽としても楽しめます。<レニングラード>は非常にバランスの取れた抒情的交響曲。マーラーら魅力的な抒情作家へのオマージュを、とりわけ分かりやすい形で散りばめた傑作でもあります。(バルトークのようなヒネた老人にはわかるまい!前衛の空しさを身をもって体感したろうに、この感動的な曲を何故揶揄したのか?)大衆に分かりやすい形をとることにより、包囲網下の窮状を打破する勇気を皆に与えるように、作曲家としてできる限りのことをしたということでしょう。一市民として、消防士の格好をした大作曲家の写真に、連合国の誰しもが感激し、マイクロフィルムで送り届けられたスコアにより、トスカニーニを初めとする国外の指揮者によっても、早くからさかんに演奏されることになりました。(トスカニーニ盤の純音楽的空疎には少し異論があるのですが、別項に廻します。) 3楽章を聴くと、この楽章こそショスタコーヴィチの書いた最も美しい曲であるという感を強くします。冒頭木管の荘重な挽歌(葬送歌もしくは鎮魂のミサの始まり)、ブルックナー張りのヴァイオリンの強奏!!下では時折低音金管楽器の2拍3連の上昇音形、いわばワグナー的な対位フレーズが繰り返される。数々の過去要素の、独創的配合。さらに続くは、1楽章「人間の主題」提示後の牧歌をさらに純化したような・・・「大地の歌」のような、フルートによる息の長い旋律。暗い夢想に溢れた歌。二度と戻らない人への想い。静かなレクイエムが続く中ふと浮き上がる冒頭ヴァイオリンの回想。やがてそのまま展開し、勇壮なる闘争へと向かう。マーラーの残響である(ショスタコーヴィチの癖でもある)付点音符のリズム、ペットの絡み、中音域の抜けた高+低音だけの独特な響き。癖的には非常に近似した作曲家といえるプロコフィエフに繋がる要素もある。ここはもう格好が良いとしか言いようが無い!・・・だがやがて静寂が戻り、スネアのとおく響く中、葬列が通り過ぎる。そう一闘士の想い出に過ぎない。静かに、冒頭ヴァイオリンの回想。最早叫ばない。挽歌と一緒になり、同化して、そのまま・・・そのまま低弦の新たなテーマへ移る。静かで無調的な、ショスタコーヴィチ特有の瞑想的フレーズ。やがて少しずつ挽歌が蘇り、音を増す。ヴァイオリンが完全に冒頭のような強奏で蘇る。荒れ野の丘に、最後の葬送歌が響き渡る。低弦はワグナー〜マーラー的対位性を保ち、荘重さを支える。葬送は最後の時を迎えた。白い墓銘碑は吹きすさぶ風の中で、無言のまま、寂しく立ち尽くす。重い足を引きずりながら、トラックに乗り込む。無言の喪服の中を、荷台に揺られている。言い表わせない感情に襲われて、どうにか端より顔を突き出す。両頬が妙に冷たく、丘はもう遠く霧に隠れてしまって、見えない。そのとき初めて、涙が流れていることに気がついた。・・・4楽章。増して無調的だが、ヴォーン・ウィリアムズのようなたゆたう幻想、不安感。オーボエと線的に絡むファゴットの、マーラー的警句に導かれ、ヴァイオリンが走り出す。チェロも対位的に後を追う。ブラスのオスティナート・リズム、3拍子のフレーズから、線的対位的なアンサンブルの緊密さ。この充実ぶりはほんとにマーラーだ。木管からペットの闘争のテーマ、そのままブラスと弦、そしてシンバルの打撃。どうしようもない闘争。革命交響曲の終楽章前半のテーマがチラリ。もう格好良すぎる。弦の低音リズムに載せた木管アンサンブルの鼓舞するテーマが通り過ぎ、鞭、弦のくぐもったリズムが枯れはてるさまを描く。これは敗北に向かう姿だ。そのままやつれ、重い鎖を引き擦る様な弦の低音域合奏。・・・死の気配。それでも時折立ち上がる気配を見せる。一旦音域は高く昇ってゆく。しかしすぐにやつれる。低く沈んでゆく。静まり返る・・・まさに、ショスタコ的静寂だ。ヴァイオリンが、死にかけたパンの笛の様に、兵士の転がる荒野に空しく響く。完全なる死の世界が残る。血の匂いだけが唯一の生の残照だったけれども、消え去る。屍は草木よりも数多く地面を被い、墓標すらも立てられぬままに捨て置かれる。降り始めた雪。静寂の野に優しいヴェールが舞い降りて、何事もなかったかのように・・・。・・・だが、春になると、少しずつ大地の底から生命の息吹が聞こえはじめる。理不尽さと闘争する心はけして止まない。半音階的で哀しい音の中にも少しずつ光明が差し、ティンパニと弦の明彩は厚い雲を割り、兵士の死骸を覆う雪は溶け出し、中から力強く立ち上がる草の芽。死骸のひとつひとつから、無数に芽生え出していく。草ぐさはかつてここに暮らした人間たちの生まれ変わりだ。新たな生命は人々の死の上に新たな大地を創り出そうとしている。野はやがて緑に還るだろう。空しさの上にも光明が差し、かすかな希望が遠く雲間に見えたような気がする。雲間は薄く光るだけだけれども、決して勝利はしなかったけれども、物語は・・・この時代、フィクションではなかった地獄の記録は(日本だってそうだ)・・・エンディングを迎える。最後のアプローチについて私は、ショスタコーヴィチの美学が非常にはっきりと反映されている演奏と思います。通常、最後に、疲弊し伏していた同士たちが力強く立ち上がり(トロンボーンとチューバによる「人間の主題」の再現)、手に手に勝利の矛を持って壮大な夜明けを迎えるというようにいわれます。そのように明るく壮麗に盛り上げた方が、どん詰まりの「人間の主題大復活」が生きてきて、聴衆も感動するし、正統だとは思います。だけれども、同曲、人間の主題の復活、余りに遅すぎるのではないでしょうか。2楽章からのち、断片がポリフォニックに挿入あるいは奇怪に変容した形で俄かに出現することはあっても、明確にわかる形では殆ど再現されていない。それを曲も終わりの最後の最後にいきなり完全復活させるというのは、構成上唐突ではないか?非常に速筆のショスタコですし、情勢柄もあって勢いで書いてしまったゆえ構成の弱さが出た、とかいうよりも、これは意図的に思えてならないのです。これは本来「死滅」で終わる音楽ではないか。無理矢理ベートーヴェン的勝利の交響曲として「完結させる」為、まるでプロコフィエフの「青春」終楽章末尾のように、あるいは英雄映画のエンディング的に、冒頭主題の再現を挿入しただけなのではないか。…お得意の仮面だ(消防帽か)。コンドラシン盤での「人間の主題」再現は、1楽章冒頭のそれとは余り共通性を感じない。それまでの十分な盛り上がりに吸収されるように組み込まれてしまう。それが凄くはまっている。唐突さのない演奏。瑞逸だ。これらクライマックスでの異様な迫力、強奏ぶり。暗く悲壮な大音響が最後まで心に何かを蟠りつつ深い諦念を伴って突き刺さってくる。「人間の再生」などではなく、人類の「エピローグ」。それが本来のこの曲の姿ではないかと思う。・・・滅んだのは恐らく味方だけではないだろう。敵も全員、そこで生きていた民間人も全員、行きとし生ける、全ての人間だろう・・・(以上、主観が過ぎますね・・・ひとつの聞き方として、参考程度に。)2楽章の途中で混ざるリズムに「大地の歌」の「告別」が聞けます。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」,○ベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団(EMI?他)1974・CD,,終始、音がメロウでなめらか、終楽章クライマックスのスヴェトラ張りの壮麗凶悪な表現を除けば薄味で物足りない。綺麗というよりしっとりと上品、シベリウス指揮者と言われてなるほどというようなもので、もっと硬骨魚みたいな演奏であってほしい、と思うが入門盤としてはいいのかも。駅売り廉価盤あり。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」,伝イワーノフ指揮モスクワ・フィル(伝ソヴィエト国立交響楽団)(Levne Knihy/alto)CD,,コンドラシン盤と同一。既に絶版となっている。(廉価レーベルはチェコにかぎらず往々にしてこういうことがある。今回は評も馬鹿らしいので項目だけあげた。),,驚くべきことに2018年になって西側初出と称して同じ偽盤が発売されている模様。ご注意を(データも微妙に変えている)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),△バルシャイ指揮ユンゲ・ドイチェ・フィル+モスクワ・フィルのメンバー(BIS)1991/6/21,22(4月?)live・CD,,1994年発売当時、大熱演としてその東西雪解け感ふくめ話題盤だったものだが、純粋に演奏だけを聞くとどうも今一つの感が否めない。爆発的な力感など望むべくも無いし、バルシャイだから主観的に盛り上がるようなことも無い。だがバルシャイに望まれる研ぎ澄まされた音の繊細なまでのコントロール、アンサンブルの緊密さというものすら聞かれないのだ。混成オケだから仕方ないのだが、もっと集中力がほしいし、激しい場面ではもっともっと鋭い音が聞きたい。柔らかな録音のせいかとも思ったのだが、最大の要因はオケの技術的限界だろう。懸命さは聞こえなくはないが、そもそも、頑張っている、と聴衆に思わせてしまったらプロとしては失格である。この盤には残念だが良い箇所が見つからなかった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),バルシャイ指揮西ドイツ(ケルン)放送交響楽団(brilliant)1992/10バルシャイの別録については既に記した。これは全集版の一枚である。ちなみに全集15曲で1980円という超廉価盤だった・・・。最近ボックスものが次々と廉価で再版されているが、一枚一枚集めていたのが馬鹿らしくなる事がある。さて、演奏についてだが、意外と小さくまとまってしまったな、というのが正直なところだ。71分というのは速い部類に入るだろう。精度は高いのだが、そのぶん情緒的な部分がスポイルされているように感じるのは私だけであろうか。余りに「ひっかかり」がなかったので、もう一度聞いてみようとは思う。。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン国立放送交響楽団(VANGUARD他)1993/10/10,11LIVE 今までで最高のオカネをかけて入手した盤です(泣)目下四種あるスヴェトラーノフの「レニングラード」のうち最後の録音になる。オケがあまりパワフルでないため、表現にはかなり食い足りないところがあるが、解釈が隅々まで行き届いており、多少は恣意的であるものの聞かせる。弦がレガート気味の強奏で刻むところをしばしば音を切ってマルカート気味に弾かせているのが印象的だった。なかなか勇ましく効果的である。フィナーレ最後のこの世のものとは思えない物凄い盛り上がりは、過去2録音と違わずすばらしい。これ以上の演奏というものを私は想像できないのである。ここにきてはじめてテンポを急激に落とし、絶妙のタイミングで「人間の主題」の旋律を解き放つ。この盤が手に入らないのならぜひ1回目のスタジオ盤で経験してもらいたい。スヴェトラーノフの「レニングラード」はムラヴィンスキーやコンドラシンすら凌駕する絶品。とくに終楽章の解釈は間違いなく後世に残るだろう。まあ、パワー不足を割り引いて○ひとつか。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(SCRIBENDUM)1978/2/28LIVE10年前のメロディヤ録音は名演だった。この盤はライヴであり、スタジオ録音に比べやりたいほうだいであることが望まれるが、それほどヘンな解釈は無い。ここでこうイってくれ、というところでちゃんとイくという芸風はシロウトには特に解りやすいし熱狂を呼ぶ。それはそれで価値のある娯楽的演奏だと思う。全般にスピードが早めになっており、ちょっとスケール感が減っている反面、突き刺すようなフレージングや猛烈な音表現(一楽章の太鼓!)は得体の知れない怖さを感じさせる。終楽章の最後で、スヴェトラーノフらしく最後の音をぐいーーーっと伸ばしてクレッシェンドさせるデフォルメは刹那に感動を呼ぶが、そのあとの拍手はなぜかおざなりなパチパチ。。ソヴィエト国内でショスタコーヴィチは、スヴェトラーノフは果たして正当に評価されていたのだろうか、そんな余計な心配までしてしまうのであった。音場やや狭くせせこましく聞こえてしまう点を引いて○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),◎スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(ZYX/SCRIBENDAM/MELODIYA)CDあー、凄い!!オンガクは音に楽しいとかいて音楽だ!楽天的で何が悪い!深読みはマニアにまかせとけ!(某評論家、もしくは一時期流行った無責任盤評本のマネをしてみました)この超名演・・・明晰、壮大、ダイナミックのイメージそのものの爽演。多分CD化してましょうが(ライヴとかあったような・・・ホシイヨ)私太古のLP2枚組みしか持ってないゆえ面倒で(すいません)、1楽章以外中仲聞けません。でもこの1楽章だけでも至高の桂冠を差し上げたい。こんな鳥肌ものの演奏をする指揮者が何故マーラーを苦手とするのか(本人の好き嫌いは別)?いやショスタコだからマッチするんですね。日本盤LPではいつも「重戦車」と評されたスヴェトラーノフのオトですが、私のイメージとは全然違うんです。他にその名が似つかわしい指揮者は沢山いると思う。<レニングラード>でいえば、レニングラード&ムラヴィンスキーのモノラルライヴ、「ファシズムのテーマ」なんて連綿と発射される機関銃、地を泥と荒らす戦車隊、突然狂ったように激しく掛かるアッチェルと松葉の中に見えてくるのは、「近代戦争の悲惨」そのものです。他の部分、特に前半は簡素で客観にすぎるくらいなのに、いきなりこの世界が展開される。以下、妄想をお許し下さい。汗を流す農民たち。広大な畠。緑の野と黄色い太陽。鳥の声。子供たち。いつもと変わらぬ平和な日。太陽を遮る小鳥の影にふと目を上げると、遠くの丘に何かが光る。小さく歌が響いてくる。ああ、面白い歌だな。思わず聞き入りながら、端の石に腰をかけ、小休止する農夫。黒々とした群れが見え始める。遠くの緩やかな丘を、砂煙で覆いはじめる。キャタピラの音が聞こえる。歌声は瞬く間に大きくなり勇壮さを帯びる。小太鼓の連打がうるさい。眉をしかめた農夫は思わず立ち上がる。何かが飛んだ。農夫はそのまま地に伏す。二度と動かなくなる。掃射が始まる。桶を担いだ太った女も、葉を摘む老婆も、次々と伏し、又天を仰ぎ、血を吐き、・・・動かなくなる。「面白い歌」は趣を豹変させ、強大で、ケダカイ、ファシズム国家の軍歌として呪われた雄叫びを挙げる。勝利の歓声は人間のそれではない。全てが蹂躪され・・・野畠は一面の泥血にまみれ、・・・(妄想終わり)モスクワ&コンドラシンの、硝煙の中、敵兵の死骸のぐちゃぐちゃの頭蓋を、叫びながら、わらい乍ら、えんえんと打ち続ける兵士達。これらに比べれば、スヴェトラーノフのそれは違う表現です。この2演はイデオロギー的背景が音に解釈に見え透いて来る。聴衆のカタルシスを得られるように、「楽曲として」の起承転結をしっかり型付ける姿勢は感じられない。ムラヴィンスキーなど上記”盛り上がる”箇所以外は聞きづらい程の平板さですし。それらも凄い演奏です勿論。でも、ひたすら音楽「だけ」を表現しようとしているのは寧ろスヴェトラーノフのほうではないでしょうか。音楽、音を楽しむこと。・・・表層的?音楽における「表層」とは、結局何なのでしょうか?中声部を疎かにし旋律音域を偏重すること?高音打楽器を強調すること?金管楽器の開放的な発音法?テンポ・ルバートの多用?・・・演奏家の「解釈」は、そんなに四角四面に制約されなければならないのでしょうか?それでは演奏家は再生機と一緒ではないですか・・・論が外れました。ショスタコーヴィチは背景知識イデオロギーといった音楽以外の要素で聞かれることの多い作曲家です。でも本人はそれだけで聞かれる事を望んでいたのでしょうか?バーンスタインの「革命」で、感激の余り舞台に駆け上がったショスタコーヴィチは何を考えていたのでしょうか?人間は単純じゃない。そして時は流れ続ける。真摯に生き続けるひとりの人間が、長い間ずっと同じ考えであることはありえない。これは伝記作家や評論家+私のような塵芥ディレッタントのすぐに陥る奈落だけれども、衝動的な言動を余りに大きく取り上げすぎる。それを「何か」と結び付けるために。自己の考えを補完するために利用する。タトエバ考古学みたいに根本的に対象素材の不足する研究分野や、雲を掴むように実体の無いゲイジュツなるモノの論では、よくあることだ。 ”新シイ見方”を売り込み、人気をとり、高く売る為に。・・ううもうこんなこと書くのもイヤだ。また自虐趣味だな。・・・楽天的演奏のように書き連ねて仕舞いましたが、4楽章をはじめとして、大叙事詩的な世界を完璧な技巧を持つ演奏家達によって作り上げた素晴らしい演奏です。ロストロポーヴィチ盤と良く似ていますが、オケ(特にブラス、木管)の力感は圧倒的です。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),スヴェトラーノフ指揮ハーグ・フィル(CANYON)スヴェトラーノフのキャニオン盤はシューリヒトとのブルックナー7番で有名なハーグ・フィル(ハーグ・レジデンティ管)とのタッグ(92〜)で、円熟した棒の繊細さに先ず驚かされる。弱音部の「静謐さ」は独特で、密やかであり、美麗であり、哀しく、憧れに満ち、過去の録音と全く異なる深い「情趣」を感じる。1楽章冒頭よりひとつひとつの音を切りつめて、やや急いたような細かい響き(じっさいテンポ設定も相当早い)は旧盤との違いに少し驚く。ライヴのせいもあるだろう。柔らかで重みを帯びた音(録音?)は特徴。あきらかにオケの差でもある。破壊的な表現やぶっきらぼうなりの魅力というものは失われているが、バーンスタイン以上に「マーラー」を思わせるひたすらなロマンに心震わされる。いつも明るく透明感のある音作りのスヴェトラーノフが、時に沈痛なほど暗い顔をみせるのが(3楽章から4楽章へのアタッカ前など)、個人的経験の深さも想像させる。現代希有の独裁的指揮者という印象もあるが、ここまでの統率力は今や中仲聞けないものであろう。聴衆にとってはそのままでいてほしい指揮者だ。ソヴィエト国立の強大な力はないものの(フォルテッシモの音が常に弱く弛緩したように感じる向きもあるだろう)、円熟味という点では(当然ではあるが)抜きんでている。最後、比類無き壮大なクライマックスはこの人の演奏でしか聴けない。ロシア・ソヴィエト交響曲におけるクライマックスの、歌味に溢れた実にダイナミックな解釈(最後の音符、最後の楽器の隅々までに「解釈」を行き届かせ、且つ表現し切るのだ!)の素晴らしさにおいては、史上最高と言っても過言では無い指揮者である。ここでも単に「輝かしい勝利の歓呼」として流した表現にはならない。回想される「人間の主題」は絶後なほどに巨大に引き伸ばされ、曲の「尻切れ」状態を補完し、非常に安定した構成感も与える。それまでの比較的地味な表現に比べ激しくコントラストが付いたルバート表現でもあるが、この大きさは逆に、最後まで低音楽器の奏で続ける、不穏な不協和音の流れにも気付かせる。物語は「死の上の勝利」で幕を閉じるのだ。ショスタコーヴィチの公式発言と個人的伝説の両方を兼ね備えた恐ろしい程秀逸な終幕である。スヴェトラーノフの演奏は常に熱狂的なブラヴォウで終わる。これはライヴである。73分はけして長い演奏ではない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),チェリビダッケ指揮ベルリン・フィル(CDO)1946最初聞いたときには音は大きいがピッチが安定せず、録音状態が余りよろしくないと感じた。ちょっと聞き込んだら、どんなに細かい声部もはっきり主張していて聞き心地は悪くない。必要な音が大きくはっきり聞き取れる。解釈のせいもあろう。録音に補正をかけてバランスを調製した結果かも。直截な中に面白い解釈も混ざり、意気軒昂な若きチェリの棒には晩年の「重厚長大さ」は無いが、繊細にして明瞭な表現で一切の甘えを排した緊張感はこの指揮者のものだ。BPOの巧さには舌を巻く思い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),○チェリビダッケ指揮ベルリン・フィル(Arlecchino)1947 CDO盤が1946年ということなので表記を信じれば翌年の演奏ということになる。録音状態が更に悪く(でも聞けないほどではない)、異なる録音だと思う。第一楽章の「ボレロ」の模倣が始まるところで、音が飛んだり戻ったり、信じられない瑕疵がある。そこまでがなかなか聞かせたために、そうとうおおきなダメージに感じられた。他には似たような失敗は殆ど無い。CDO盤よりも興がのっており、いささか骨張っている感もあるが、終楽章の造形力はなかなかのものだ。ベルリン・フィルという楽器の力もある。のちのチェリらしいところはないが、ショスタコの演奏としては十分聞けるものであることは間違い無い。中盤弛緩しているところがまったくないとは言えないが、総体として○ひとつつけておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),○ビシュコフ指揮ケルン放送交響楽団(AVIE/WDR)2003/2 渋谷のタワーに行ったら、ビシュコフがいた。トークショウははっきりいって余り客の入りがなかったが、マエストロは熱くマーラーを語っていた。話題のマーラーは3番なのであまり魅力を感じなかったが、「レニングラード」が出ていたので思わず買った。そしてジャケにサインをもらったが、思ったより小柄な紳士だったのが印象的だった。ロシア系の指揮者には愛着がある私だが、新しい世代のロシア系指揮者はグローバルな活動を行い、そのせいか「色」が薄まっている気がして、積極的にきくことはしていない。そんなわけでビシュコフをきくのもこの盤が初めてだ。さて、つらつらと聴いていて、とくに音色が、なのだが、非常に軽く柔らかな印象を受けた。ケルンはもともと表現力のある楽団で、機能性も高いが、硬質な音色のイメージがあったからこれは意外だった。1楽章を聴いているとかなり牧歌的で、あたたかい。激烈なコントラストをつけて派手な音楽を表現する昔の指揮者とはあきらかに違う。もちろん戦争の主題はきりっと引き締まった響きで人間の主題との差をつけているし、クライマックスでは戦争の理不尽さをあらわす有無を言わせぬ突進が力強く表現されているが、それでもどこか色合いが明るく、節度がある。クリアな録音のせいかもしれない。とにかく、ここでは非常にまとまりのよい音楽に感服させられる。オーソドックスといってもいい(無論いい意味で、だ)解釈は安心して聞ける。弱音部の音がとても綺麗だ。演奏の完成度は高い。2楽章の挽歌もほのかに暗いといった感じで、「夜の音楽」的な感じはしない。3楽章も哀しみの祈りというような風情はない。しかしヴァイオリンの澄んだ響きにはどこかしら心の奥底の感情を刺激するところがある。4楽章は難しい音楽で、冗長と感じさせないようにするのが大変だが、弱音の出だしからかなり憂いの表情を示しており、悲劇的な色を決定付ける。弦合奏はよく訓練された引き締まった響きが心地よい。熱がこもるが、ややブラスが弛緩気味か。しかしとても聞きごたえのある音楽だ。技術的には非常に高いものを感じる。じつにまとまったアンサンブル。テンポはほとんど揺れないが、音楽の面白さで聞かせる。晦渋な中盤はやはり(この曲の問題なのだが)ちょっと冗長に感じた。終盤はそれほど巨大な盛り上がりは作っていない。ここに至るまで素直な解釈だ。ちょっと軽い気もしなくもないが、新世代の音楽はこういう感じなのだろう。映画音楽的な感じもしたが、無論悪い意味ではない(ショスタコはときに非常に映画音楽的だ)。最後は十分引き伸ばされた音で終結。全般、客観的かもしれないが、聞ける演奏だと思った。○ひとつ。(2002/5/31記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),◎ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MELODIYA/VICTOR)この凄絶なライヴは同曲の演奏史に残る歴史的記録といえます。結構スヴェトラーノフの項に書いてしまったので手短に。アクの強い演奏です。気合がちょっと入りすぎていると感じるほど。即物的でもある。ライヴのせいもあるでしょう。モノラルで録音が悪く、音彩が余り見えてこない。静かな不協和音の響く箇所など、平板な感もありました。色彩的な曲ですからどうしてもそこが欲しい気がします。只解釈的には独特だし哲学に満ちている。3楽章に哀しい迄の美しさがあり、諸所ブルックナーなどのように響くのも印象的でした。総じてまるでマーラーのそれのように、静麗寂寥の極み。これは出色です。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト文化省交響楽団(GPR/BMG/MELODIYA)1984ゆったりとした演奏ぶりで所々耳を惹く箇所はあるが、全般に音が軽すぎる感があり曲の外面性ばかりが際立ってくるように聞こえてしまった。新しい録音ゆえ音はクリアなのだが、そのクリアさが明るさをひときわ際立たせてしまっている。悪い演奏ではないし個性的でもあるのだが・・・うーん。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),○ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト放送大交響楽団(REVELATION)1968/1/8 LIVE 最初に断っておくとこれは名演である。オケの馬力は認めるが技量に疑問があるし(木管ソロは楽曲に追い付けず外しまくり、ブラスの音は汚く破裂し、弦はあまりに雑味が多い)、ロジェストの解釈は基本的に旋律廻しに終始してしばしば浅薄な印象も与える。しかも60年代末にきてこの粗末なモノラル録音である。客席の咳や雑音もしっかり入っている。しかし、これが面白いのだ。生演奏の醍醐味というか、一期一会の異様な集中力がみなぎり、まるでクーベリック・バイエルンのライヴのように、些細な穴をももろともしない強烈な推進力が感じられ、聴いていて胸がすく思い。1楽章などはもっとスケール感が欲しいが録音のせいもあろう。2楽章はなかなかドライヴ感があり面白い。3楽章はやや表層的ではあるものの聴いていて気持ちはいい。終楽章は緩徐部でだれてしまいがちなところを旋律線を強調し、しっかり聞かせている。終盤の盛り上がりも快楽的で私は好きだ。スヴェトラーノフ盤をほうふつとするのはオケのせいかもしれない。いつもの文化省オケではパワー不足になることは目に見えている。それにしてもロジェストは異様にレパートリーが広いが外れがない。さすがアノーソフの息子。この人の演奏はオケ次第。ウィーンの4番は名演だった。スケールが若干小さめではあるが、とても器用な優れた指揮者といえよう。冒頭に述べた欠点を割り引いて、控えめに○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),○ロストロポーヴィチ指揮ナショナル交響楽団 音の美麗さでは他のロシア系演奏と一線を画しています。どちらかといえば明るくダイナミックですが、ロストロ先生の解釈はコンドラシンの深く切り込んだアプローチと共通するものを時折感じます。私はこの演奏で同曲の魅力に憑かれました。これも定番です。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),アンチェル指揮チェコ・フィル(SUPRAPHON)1957/9/2-20テンション高い。でもそれがアダ。1楽章は一直線豪速解釈で感情移入の隙がない。常に音を短く切り上げる方法は独特だが、全般正直まったく面白くなかった。2楽章もオーソドックスで特徴に欠ける。まあ、テンションは凄く高いのだけれども(とくに弦)。3楽章は綺麗で感動できる範疇内の演奏といえそうだ。ショスタコの悲歌をアンチェルは自分のことのように慈しんでいる(まあ、アンチェルにしては、という前提付きだが)。でも全般にこの演奏はかなりトスカニーニ盤に接近しており、トスカニーニで感動できなかった向きはそれ以上のものは得られないだろう。好き好きだが。ところで私のCDはゴールドエディションだがやたらと音飛びする。ゴールド仕様はささいな揺れにも耐えられないほど繊細なのかもともと安定しないのか?この音飛びが私の低評価に通じていることは言うまでもない。だって「テンション芸」なのにぶちぶち中断雑音入ってばっかでは売りであるテンションを聴衆は維持できないでしょー。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),クーベリック指揮ACO(audiophile/RCO)1950/2/9live 若い若い!かなり情緒的で自由なテンポ変化、直線的なアッチェランドなど、クーベリックのライヴに特徴的なものは既に現われている。録音が悪いのが残念だが、非常にわかり易い演奏であり、この曲に馴染んでいないひとでも聞き通す事ができるだろう。かなり速めな演奏であるぶん変にだれないのがよい。想像力をかきたてるほど深い演奏ではないが、タノシイ演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(weitblick)1972/5/16live 純音楽的演奏といったらよいのだろうか。オケからは情熱のひとかけらも感じられず、棒も四角四面で潤いに欠けている。終楽章の最後など音量だけは盛り上がるものの、聴く者は盛り上がらない。大体が「空疎」なのだ。全体的に「音」としては緊密に出来上がっているものの、「音楽」になっていない。強いて言えば緊張感の保たれた第一楽章がまあまあか。情緒的な曲には向かないケーゲル、ここにあり。透明感のある(しかし単調な)音の印象だけが妙に残った。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941),スタインバーグ指揮バッファロー・フィル スタインバーグの世界初録音盤とされる演奏(1946/12)、旋律性に重点を置いた聴きやすいものだ。ひたすら旋律を強調し全体の流れを重視したもので、テンポの細かい揺れは少ない。一部木管楽器の弱さと強弱のダイナミズムの薄さ(弱音が少ない)に少し不満も覚えるが、初録音の手探り感は無く、個性的な演奏に仕上がっている。 1楽章、ファシズムのテーマ提示は「ボレロ」同様小太鼓の刻む剥き出しのリズムから始まるが、この演奏ではいきなりの大音量に驚かされる。通常慎重に開始されるところだが、録音のせいもあるにしてもいささか違和感がある。そのまま同じくらいの音量のまま、楽器が重ねられて行く。だから頂点までのクレッシェンド感は薄い。他では聞けないし妥当かどうかは別にして面白い。 2楽章は今一つ力感が足りないような気もするが、 3楽章はマーラー性を浮き彫りにしなかなか聞かせる。前記した大地の歌終楽章中間部のリズムの残響というよりも、 7番2楽章夜の歌の中間部に聞かれる奇妙な静謐さとの共通性を強く感じた。音響などそのものだろう。「夜の歌」は組曲風に並べられた旋律を不思議なハーモニーに載せて聞かせる交響曲だから、旋律を重視したこの演奏とひときわ共通性を感じたのだろうか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第8番,○コンドラシン指揮フランス国立管弦楽団(lanne:cd-r)1969/7/29パリlive,,これは最初こそラジオノイズが気になるが細部までウブい音でとらえられ、素晴らしい拡がりあるステレオ録音、バランスは弦が強くブラスは比べれば若干引き気味でとらえられてはいるが、アバウトさもひっくるめて力強いコンドラシン壮年期の表現が最上級の聞きやすい(ロシアの癖のあるオケやホールの音ではない)録音で聞ける。曲自体の価値を高める感すらある。コンドラシンがロシアでアメリカなど他国の音楽をやったときのような、ショスタコなのにショスタコじゃない、スヴェトラが外国へ出て振ったときのような「ロシアオケじゃないとこうなるんだ」的なものもあるが、意外とショスタコをロマンティックにとらえ、ギチギチの楽章こそ即物的な「らしさ」が強調されるものの、ゆるやかな大半の部分にあっては暗すぎず響きと旋律の美しさが感傷的な起伏をお自ずとおりなしていき、バンスタをふと想起するところもある。「革命」の隔世エコーがひびくとその感を強くする。曲は違うがprofilのバイエルンライヴに似た録音の感触があり、機会があれば聴いてみてください。○。,,正規録音全集(この値段て・・・),"","","",,KONDRASHIN;,"",-----,,,-----,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第8番,○ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(ASdisc/Archipel)1944/10/15LIVEロジンスキ節はここでも頻繁に聞こえる。気合い系直情型だけれどもけっしてコンドラシンにはならず、血が通った匂うような演奏表現を求めるロジンスキは未だ根強いファンを持つ。録音が少ないだけにこの盤などけっこう今でも中古市場を行き来しているのでぜひ捕まえて聴いてみてほしい。ロジンスキの気合は期待を裏切らない。惜しむらくは2楽章あとの拍手だけれども(ロジンスキ盤にはよくあること)、7番のモチーフを変容させたような楽想の入り乱れる長大な1楽章(26分30秒!)の一大ドラマのあと、一転諧謔的なアレグレットがちょっとそれまでのショスタコには聞かれなかった類の奇怪に明るい楽想に彩られる。軍隊行進曲のような歩みはロジンスキお得意の強靭さだ。次のアレグロ・ノン・トロッポの不安な刻みの旋律もやはり新しい。ショスタコ新機軸である。この曲は旋律性が強く、ただアンサンブル的には極限まで削ぎ落とされた線的なからみが多くて奏者に異様な緊張感を強要するものであるが、ロジンスキはそんなのあたりまえだと言わんばかり。こういう焦燥感はロジンスキはお手の物だろう。あまりにうまくまとめすぎているきらいもあるが、聞きごたえ満点です。アーチ構造の後尾4楽章ラールゴと5楽章アレグレット、ラールゴは並ならぬ諦めと悲しみがこれまたそれまでのショスタコには見られなかった深みをかもす。アレグレットでは例のウィリアム・テルの模倣が登場。と言ってもこれはもはやショスタコの音形と言ったほうがいいかもしれない。奇怪な音形が絡んだり旋律とも経過句ともつかない音線がてろてろ続いたり、やはりショスタコとしてはちょっと新しい感じだ。テンポは速め、いつものこと。全般聴き易いがこれがショスタコの本質をえぐっているかどうかはノーコメント。聴いて面白かったが、ショスタコを聞いたという重みはあまり感じなかった。えんえんと続く旋律はじゅうぶん魅力的な曲だが、やはりムラヴィンスキーやコンドラシンに任せるべきなのか、こういう曲は?○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第8番,ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(REVELATION他)1959/10/7静謐な作品である。晩年作品を除けばこれほど不気味な静けさをもった作品はないだろう。ブリッジ構造の中央に特徴的な行進曲が配されているほかはあまりに動きが無いというか、ハッキリ言えば面白くない。穏やかな気持ちのときに聞けばいいのかな?5楽章制だが3、4、5楽章は連続して演奏され、時間的には6分程度の2楽章アレグレットを真ん中として1楽章、3〜5楽章がそれぞれ27分前後となっている。7番で既に完成されていた流麗で充実した書法が存分に発揮され、聴き易い曲となっている。モチーフ的にも7番に似たものがある。1楽章は印象的な悲劇性をはらんだ弦楽による主題提示で始まる。これは5番の1楽章冒頭と似ている。だが5番のように表層的というかお手軽なものではなく、長く苦しい民衆の苦悩を象徴する主題である。以下荘重な雰囲気の中20分あまりもすごすと、唐突に酔っ払いのような3楽章が始まる。この演奏はアバウトなガウクらしくパワーはあるがよくこけるソロ楽器が目立つ。ペットがまるで1番シンフォニーのような歪んだウィリアム・テル主題を速吹きする箇所があるが、やっぱり途中でろれつがまわらなくなっている。でもまあこの速度なら仕方ないか。非常に焦燥感に満ちた音楽なのだが、この演奏はどことなくリズムに甘さがありひとつひとつのモチーフが粒立ってこないから、ちょっと食い足りない感もある。ここでしっかり引き締めてくれれば長大な両端楽章も引き立ってくるのか。どうも中途半端さが否めない。3楽章アレグロから4楽章ラルゴ、5楽章アレグレットへと退嬰的に静まっていく世界はなかなか聞かせてくれる。全般無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第8番,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(eternities)1944/4/21live,,全曲は初出ではないか。驚いた。残念なことにショスタコーヴィチにもクーセヴィツキーにも冷めてしまい冷静に聴いてしまうが、クーセヴィツキーが無解釈で突き進むだけのショスタコーヴィチをやっていたような覚えはあったが、ここでは必ずしもそうではない。アメリカによくいた初演指揮者として色んな曲を振りすぎた指揮者とはいえ、ショスタコーヴィチには思いがあるらしく、オケの、とくに弦の引き締め方はいつにも増して厳しく、充実している。特徴的なものはないがこの曲の躁鬱の激しさに一貫した物語を設定し、空疎で深刻な思いをしっかり打ち付けられている。ただ音色や表現が単調にも感じるが、それは極めて悪い録音のせいでわからなくなっていることもあるだろう。取り立てて聴かなければならないものではないが、クーセヴィツキーマニアなら聴いていいと思う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第8番〜T,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(BIDDULPH)1945/4/25・CD 公式にはこのCDが初出だと思う。シャープではあるが割合とくぐもった音楽を得意とするクーセヴィツキーの解釈に、テクスチュアの明快なショスタコの音楽は余り合わない。この演奏も、非常に切迫した時代の影響を受けた深刻な音楽になってはいるが、どこかショスタコではなく、アメリカ中流アカデミック作曲家の悲劇的傑作、という感じに聞こえる。クーセヴィツキー自身もとくに他の新曲と変わりなく改変を含む解釈を施しており、44年4月の全曲放送を聞いた作曲家の不興を買ったと言われている(改変が入っていたのはスケルツォ楽章らしいが)。ちなみに9番の正規録音でも2楽章に改変が入っているらしいが未確認。さてこの曲。あきらかに5番「革命」冒頭に類似したフーガから始まり、シニカルで陰うつな音楽がぎくしゃくと動き出す様は、馴染み易い6、7番とは異なっている(ちなみにライナーには二楽章とあるが一楽章の誤り)。革命1楽章が苦手な私はどうもこの曲の始まりも好きになれないので、後半マーラーぽい付点音符のフレーズが繰り返されたり独特の微妙な不協和音がひびく方に耳が寄ってしまうのだが、クーセヴィツキーの律動はこれはこれで気分を高揚させる何かを持っている。クーセヴィツキーがマーラーを何故演奏しなかったのか良く知らないが(ライバルのストコフスキが得意としていたせいか?)ギチギチに締め上げられる中にも一貫して歌心があるのがよい指揮者だから、マーラーには適性があると思うのだが。でも、この楽章はそれだけで30分近くかかる長大なもので、忙しい現代人が通勤の合間にショスタコをタノシムのに十分な長さの録音であるし、内容的にも完結しているように聞こえるから、便利な録音ではある(どんな評だ)。誤解の無いように、勿論マーラーとはまっっっっっっっっっっっっったく違うコンセプトの楽曲である。似ているのは些末な部分にすぎない。くどくど書いたが、結論。そんなに悪くはなかった。45年4月という録音時期を考えると貧弱な音でも許せます。でも無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第8番〜T,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1945/4/7通しリハーサル,,重く引きずるようなテンポで、かなり後ろに持っていかれる形で始まる。重苦しいというよりロマンティックな「操作」の感じられる音楽。革命やレニングラードに娯楽性を見る人には向くだろうし、逆に、ちっとも骨ばったショスタコ的洗練がなく、編成を厚くしてどんどん解釈を反映させている感じで、作曲家が駄目出しをしたのはまさにこの録音だったかもしれない(リハと銘打ってはいるが恐らく正規のお蔵録音でモノラルながら状態もよい板起こし)。歌謡性は強いもののそれを支える音響もまた分厚くロシア男子的な粘着気質を感じさせる。クーセヴィツキーらしいし、これはこれで面白く聞ける。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第8番,コンドラシン指揮ORTF(ina配信)1969/2/9live,,各声部が剥き出しで使われるショスタコの書法にあって、弱音で弦の返しがきちっと揃わないとか、一部音に迫真味が足りないとか(場面場面でバラツキがある、肝心なところは押さえている)、木管ソロの技巧的なフレーズが厳しいとか、オケ起因と思われる難点は指摘できるが、全体の調和、響きの明るさ、音の柔らかさはコンドラシンの音楽の印象としてある強引さ、響きの渋さを払拭しており、音楽的に美しくなかなか聴かせる。色彩感はこのオケならではだ。七番と対照的な、謎めいた物語をきれいに読み解いていて、ステレオの良好な録音ともあいまって変な思い入れ無しに普通に楽しめる。陰影が無いところ印象は異なるが、解釈としては他でも聴けるコンドラシンのものであろう。拍手カット。この前に演奏されたフランソワのプロコ3番は残念ながら残っていない模様。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第8番,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(BBC,IMG)1960/9/23ロイヤル・アルバートホール(英国初演)LIVE・CDこれは話題になった盤であるが、イマイチピンと来ない。録音が遠い、とくに弦楽器のパワーが無さすぎである。ブラスや打楽器がやたらと轟きまくる終楽章終盤でも、弦だけは一歩引いたような音でちっとも迫力が無い。音量をいくぶん上げればとりあえず聞けるレベルにはなるが、正直解釈的にも他の演奏とそうそう差は無いし、この盤でなければ、という決定打に欠ける。英国初演とあって被献呈者によるこの演奏は最初から違う眼で見られていたわけであり、ブラヴォーの渦も出るべくして出たもの。英国の聴衆はときに変な判断をするから信用してはいけない(英国人ごめんなさい)。ショスタコの中でも謎めいた曲としてある、マーラーの影響がもっとも強いと言われる大曲、長大な1楽章の混迷の音楽を乗り切れば、残り4楽章は変化に富んでいるので(というより分裂症的なので)それなりに楽しめるでしょう。でもまあ、苦悩に満ちた暗い色調の曲ですので、好みを分かつと思う。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第8番,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(放送)1955/9/24live,,なにげなく始まって素っ気ない感もあるが勢いのある楽章では拍手が飛び出すほど力強い疾走を聴かせる。但しやはり雑味が気になる指揮者ではある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(melodiya)なかなか凄い。弟子ムラヴィンスキーとそっくり(註:ムラヴィンスキーは9番の演奏記録を残していないので念のため!)。ガウクは古い指揮者だが、演奏を聞く限り前時代的なロマンティックなところは少なく、やや雑味はあるが緊張感に溢れる演奏ぶりは素晴らしい。ギリギリ締め上げるのではなく、演奏者の自発性を十分に発揮させたうえで実に巧妙な手綱さばきをみせている。愉快な演奏だ。皮肉もたっぷり!,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(RCA他)リズムは鋭いながらもやや重いが、音色的には明るい1楽章。牧歌的な出だしは、なかなかいい感じだ。古い録音だがスタジオ録音のせいか音質は余り気にならない。主題が展開していくにつれ勇壮で悲愴な音楽に変化してゆくが、さほど暗くならずにジャン、ジャンで終わる。クーセヴィツキーの表現はまずまずか。ショスタコらしい晦渋な楽章に入ると、ボストン交響楽団の安定した技量を誇る木管陣がまるでストラヴィンスキーのように皮肉なパッセージを見事に演じる。やがて低音域から沸き上る弦楽群の不気味な半音階的主題は、ややマーラー的なハーモニーの中で盛り上がって行く。なかなか主情的で心根深い表現だ。9番というとよく「古今の偉大な作曲家の書いた9番と比較されることを承知でわざと軽い曲を書いた」と言われるが、私にはそもそも9番が「軽い」とは思えない。親しみやすい喜遊的な楽章よりも、この2楽章以下の悲愴な音楽のほうが長いのであり、それはまるで8番を蒸留凝縮させたような挽歌だ。「証言」でいうところの「墓銘碑」たりえている。急峻な3楽章は喜遊的ではなく皮肉が前面に立った音楽であり、主題そのものは明るい無邪気なものだが、すこぶる充実した書法によりめまぐるしい狂宴が繰り広げられるさまは圧巻である。「小交響曲」のイメージはここで完全に払拭される。続く楽章はより陰うつで、警句の鳴る中、低音域を這いずり回る音楽から、奇怪な律動が湧き起こり、ヴァイオリンによって行進曲が組みあがっていく。木管陣はうねうねと暗い雰囲気を投げかけてきて行進曲を遮ろうとするが、フルートやヴァイオリンがふたたび力強く行進を始めると音楽の歯車は回り出す。このあと行進曲と晦渋な挿句の相克が音楽の主幹となってゆくが、人をバカにしたようなフレーズが多くなり(このあたりが9番が冗談音楽扱いされるゆえんだろう)その調子と悲劇的な調子があいまって悲愴な頂点が築かれていく・・・そしてその極みを越えると、そこには調子外れな進軍ラッパに率いられた(ファシズム的な)勇壮な行進主題があらわれる。高弦がショスタコらしいリズム音形を刻む中、ブラスが盛大に主題を吹きまくる。内容を考えなければこのあたりは同曲のクライマックスとして十分楽しめる盛り上がりであり、クーセヴィツキー盤だとけっこう開放感が味わえるだろう。この開放がニセモノかどうかはいいとして、とにかく表向きにはファシズムの圧政から開放された民衆のパレードを示していることになっている。それなのになんで音楽にはこんなに諧謔性が・・・まあいいでしょう。締めはじつにあっさりと、ジャンジャン。クーセヴィツキー盤の古さを加味して○ひとつにとどめておく。もっとメリハリが欲しいところもある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,○クーベリック指揮チェコ・フィル(supraphon)1945/12/13live・CD,,クーベリック/チェコ・フィル時代の録音の一つだが、クーベリックらしく雑味も厭わずつんのめり気味に突っ走る演奏でそういうのが好きな向きには聴いていただきたい。とにかく感情的に突っ走るので弦が必死に追いつこうとがんばる(しかもこの時代のチェコフィルなのでなんとかついていっている)一方、木管が最初からピッチがあわずテンポも後ろ向きでミスも散発。録音がそんなによくはないので音の詳細はわからないが、そういう詳細にこだわらないライヴを繰り広げる指揮者なのであり、楽曲のフォルムが崩れても気にしない人なのであり、興奮するか噴飯するかはクーベリックの、まだ中年の頃の芸風を理解できているかどうかにかかっている。この曲だから、とにかく全編ウィリアムテルなんですよ、ということで早回し映画の劇伴音楽気分で楽しむがよし。縦の揃った演奏ばかりの中、前に倒れかかった演奏ぶりは今では聴けないたぐいのものだろう。終楽章は強引に盛り上がるので楽しい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(000CLASSICS:C-R)1972/9/29LIVE終楽章がいい。弾むようなテンポとびしっと締まった表現が弛緩せずに最後までテンションを保っている。78年のものより寧ろ盛り上がっていていいように感じた。とはいえケーゲル、ほとんどおんなじではあるのだけれど。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(WEITBLICK)1978/5/9LIVEややオケの技量に限界があるように感じるが(とはいえ激烈なケーゲルの指示下で仕方ないとも思えるが)、速い楽章はとことん速く楽しめる。作為的な解釈はこの人の特徴だが、2楽章などの緩徐楽章に重点を置いてしっかり演奏させているところはこの人なりの見識を示していて面白い。速い楽章は諧謔、ゆっくりの楽章は深刻な心象と解しているようだが、これは正解だと思う。だからときどき聞かれるこの曲の無邪気で喜遊的な演奏とは一線を画し、他の大曲交響曲に劣らぬ偉大なシンフォニーと聞かせる(チェリのように壮大とは言わないが)。弦楽の奏法へのこだわりがここでも聞かれる(スピッカートの中に奇妙なレガートの挿入)。まあまあ。○。録音良し。ところで1楽章の提示部の繰り返しでちょっと違和感を感じたが、どうしてだろう・・・。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,○コシュラー指揮チェコ・フィル(le chant de monde,PRAGA)1981コシュラー巧い。どこにも崩れやずれがなく、水際立った指揮ぶりは気持ちが良い。こういう技巧的な指揮者はこの曲にあっている。1楽章がびしっと決まっているのが何よりも気に入った。チェコ・フィルも相当の合奏力をもってこたえている。とくに弦楽器に拍手。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,◎コンドラシン指揮ACO(PHILIPS)LIVE緊張感に満ち、しかし適度にアンサンブル上の遊びも盛り込まれ、ちょっと立派すぎる気もするがとても聞きごたえの有る演奏に仕上がった。けっこう明るく、喜遊的な雰囲気が保たれている。とにかく敏捷なオケがいい。響きもまとまって美しい。細かい仕掛けもしっかり表現されている。ダイナミクスに独特の創意もある。唯一無比とは言わないが、十分名演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(melodiya)1966 ユンゲ・ドイチェ盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,○コンドラシン指揮ユンゲ・ドイチェ・フィル(BERLIN CLASSICS/Aulide Classiques:CD-R)1980初出live(9月?)・CD,,Aulide Classiquesは9月ライヴの記載があるが同一音源と思われる。,,力感に満ちたモスクワ盤もいいし、洗練されたドイツ盤もいい。明るく軽やかなドイツ盤は個人的に好きな演奏だ。ショスタコーヴィチの交響曲を聴く、という点でモスクワ版は多分に生生しさを伴っており、とくに緩徐楽章の不気味さ・底強さには大作交響曲にひけをとらないものを感じる。オケの力量でいえば、とくに木管楽器などモスクワのほうがかなり秀でており、それが聞きごたえに影響するところもあろう。ただ、この交響曲にプロコフィエフの古典交響曲のようなものを求めた場合、モスクワ版は重過ぎる。ドイツ版のほうが入り易いだろうし、録音のよさという面でも薦められる(モスクワ版はマイクが近すぎる)。また、うまく言えないのだが、ショスタコーヴィチの「皮肉」という面が、ドイツ版のほうがよく表されているように感じる。引き締まった響き、ぐいぐいと引っ張るような前進力、コンドラシンのショスタコーヴィチは娯楽的要素こそ少ないものの、異常な迫力と説得力をもって聴くものに迫ってくる。9番のような喜遊的な曲でさえ、その例外ではない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,○コンドラシン指揮英国ナショナル・ユース管弦楽団(BSR)ロイヤル・アルバート・ホールLIVE ステレオだがライヴ特有のノイズが入る(インホール録音なので曲はきちんと聞こえるが、サーというノイズがかなり目立つ(註)。ついでに客席の咳や物音も目立つ)。技術的限界は感じるが、それでもよくコンドラシンの高度な要求に堪えられたものだと感心する。1楽章など結構集中力が散漫になっている(もしくは「あがっている」?)せいかばらける寸前で音楽が紡がれている。コンマスソロ、下手(音程も低いし(オケが逆に音程を合わせている?)弓の飛ばしも中途半端)。だがハッキリ下手と感じたのはそれくらいで、楽章を聴き進めるにつれコンドラシンのコンセルトヘボウ盤を聴いているような錯覚に陥った(無論演奏レベルでは段違いにコンセルトヘボウが上だが)。ブラボーが若干早めに入って終演。それほど感動するほどの熱気を感じなかったが、暖かい反応ではある。(註)じつはこの盤は特殊なノイズリダクション機器用に録音されたものらしい。そのため普通の再生機機で再生するとこのようなノイズが入る。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,◎スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(ZYX/MELODIYA)1978・CD〜1楽章の異常なテンション!前のめりの音楽が圧倒的な力感で迫る。弦の分厚いひびきがgoo。2楽章は音色が少し開放的で明るすぎるきらいもなくはないが、不気味な弦が加わると何かしら映画音楽のような趣が漂い美しく感じる。暗くささくれだった音楽を求めるなら筋違い。スベトラのショスタコはあくまでロマン派的アプローチなのだ。3楽章は木管・弦・ブラス・パーカスすべてが激しく自己主張しあう音楽が回帰。ギチギチのアンサンブルを楽しもう。4楽章ラルゴはマーラーのようにダイナミックな音響を伴う暗さがある。アタッカで入る5楽章アレグレットの皮肉な音楽は明るく無邪気な音楽へと昇華され、強制された歓喜もどこか本当に喜んでいるのではないかと思わせるほどあっけらかんと聞こえる。やや暗く沈んだあと、大リタルダンドして派手で強力なやる気のないペットの下降音形から再度長調の行進曲の凱旋に至り、うそっぽいクライマックスが始まる。こういう馬鹿っぽいノーテンキ音楽をやらせるとスベトラはじつにうまい。派手派手しさはピカ一。次第に錯そうする曲想の中唐突に曲は断ち切れる。これはききごたえがある。7番につぐ名演。もはや小交響曲ではない。〜異常な速さで始まりびっくり。ややキーが低めなのにこの体感速度。分厚い弦のアンサンブルが一切乱れないのにも驚かされる。ムラウ゛ィンスキーみたいだ。フレージングに個性的な味付けが聞かれるのでムラウ゛ィンスキー流とはまた違うのだが。3楽章でも一糸乱れぬギチギチなアンサンブルが聞ける。この速さでも一つ一つのフレーズにきちんと意味付けがなされているのは特記できる。どん暗い緩徐部も旋律がきちんと歌われていて聞きやすい。終楽章へかけてのテンポ設定も計算ずくというか効果的に聞こえるよう解釈が徹底されている。こういうあざといまでのエンタテイナーぶりは私は好きだ。最後にはこの曲にはもったいない位の雄大なフィナーレが用意されている。シニカルが欠けた立派過ぎる演奏だが、変にウラを読んだ演奏よりも好感が持てる。個人的に◎。スウ゛ェトラらしくない精度・音質。ほんとにスウ゛ェトラ?多分そうなのだろうが。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,○チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(METEOR他)LIVEたぶん今まで聞いた中で一番スケールの大きな演奏だ。堂々とした大曲に仕上がっておりびっくり。後半圧倒される。どっしり地に足のついた演奏で、喜遊的で軽い曲、という常識を打ち破っている。中低音域の充実が迫力となっているのだろう、スピードでいえば決して遅くはない。野暮ったさギリギリの線で踏みとどまっており、ショスタコ本来の俊敏さは生かされていないが、違う曲を聞いているかのような錯覚に陥る。ちょっと前のめりなオケが気になるがそんなに変ではない。緩徐楽章がやや深みに欠ける気もするが、概して良演と言っていいだろう。5番も良い録音で遺してくれればよかったのに。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,○チェリビダッケ指揮ミラノ・イタリア放送交響楽団(ARKADIA)1967/2/17live・CD,,この時代は過渡的な時代であったと想う。振ったオケの影響だろう、70年代に大きく変貌をとげ、更にドイツで今のイメージが確立した、と考えればこのころは比較的特長が薄く、どっちつかずの時代であったと言えるかもしれない。個人的に俊敏なドイツ指揮者の演奏は好きなのでそのスタイルに沿った、しかもけっこう音もいいこの録音には惹かれるところはあるが、和声を磨き抜く以外の特徴というとドイツの職人的な巧さのような部分しか指摘できない。ドイツのショスタコ、というのも独自の世界があり、東西でも違うし、東側にしても「遅いテンポで雄大かつ透明にえがく」というやり方が通用していたわけだが、その意味では「早いテンポで比較的重みをもって壮大に表現する」チェリの指向は面白い部分はあったと言える。人によってはとても楽しめると想う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,チェリビダッケ指揮スウェーデン放送交響楽団(DG)1971/3LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,チェリビダッケ指揮スウェーデン放送交響楽団(weitblick)1964/11/20live・CD,,軽妙というよりクレンペラーみたいな斬り裂き方で始まる9番。ショスタコーヴィチはこのあとも一応6作交響曲を書いてはいるが、実質このときに自分流の総決算として極めて諧謔的な「第九」を書いたのだ、という気分を持たせてくれる奇怪さと深刻さの錯綜する音楽に、チェリビダッケのショスタコーヴィチに対する見識を伺い知ることができる。これは録音は良くないが悪くもない。ショス9に食い足りなさを感じる向きにもおすすめだ。五楽章の歪な構成の末尾が、これはクレンペラーとは違いしっかり解釈し音にした、チェリビダッケの響きへのこだわりにより明確にフィナーレとして感じ取ることができる。断ち切れ感も、何を言いたいのかわからない謎めきもあまりなく、逆に終演後の戸惑う客席反応こそ、何故だと思う。何かしら過去の交響曲作家と違う総決算を提示したかのようで感慨すらある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,チェリビダッケ指揮ベルリン・フィル(TAHRA)1947/8/31 1楽章、何か焦燥感に満ちておりこの軽快な音楽が軍隊行進曲のように聞こえてしまう。ベルリン・フィル弦楽パートの強靭な音によるところも大きいだろう。2楽章、まるで夜の歌、やや武骨すぎる感もなきにしもあらずだが、気味の悪さが十分に表現されている。プレストは超絶的な木管アンサンブルに突っ込んでくる弦楽器、強烈な表現意欲を感じる気持ちのいい楽章。はればれしくうたわれるペットの歪んだ歌も全体の前のめりな音楽に吸収されていく。不吉なファンファーレではじまるラールゴ、このあたりの構成はマーラーのたとえば6番終楽章冒頭をちょっと思わせるものがある。軽快な9番、とはいえこの楽章は短くとも十分に不吉であり暗い。陰うつな雰囲気の中から立ち上がるようにアレグレットの終楽章が始まる。最初はそろそろと、やがていくぶん速めの音楽になっていく。骸骨の踊りのような不気味さをはらんでいるが、ベルリンのほの暗い音が曲にさらなる重厚さを与えている。最後には主題が行進曲化してまるで軍楽パレードのようにかなでられる。ピッコロやペットなどが諧謔的な音を添える。最後は弦楽がディヴェルティメントみたいに駆け上がって終わる。特徴的なところは思ったより少ないが、ベルリン・フィルの「第9」というだけでも価値はあろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,○バーンスタイン指揮NYP(sony)1965・CD,,スピードはあるが響きはズシンとくる一楽章。バンスタならではの魅力的な歌い回しであるとか、二楽章に入っても活きている。旋律の取り出し方が上手い。プレストはリズムはキレているがテンポ的には前のめりにならず比較的落ち着いている。ラールゴから復活のアレグレット、いくぶん暗さを引きずりながら強制的に盛り上がっていく。奇怪な引用旋律の変容、あとは駆け抜けるだけ。NYPの弦はやはり上手い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(SONY)1965/10/19,同上,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,○バーンスタイン指揮NYP(vibrato:CD-R)1965/10/17live,,録音が悪く放送ノイズが混入するのも辛いが、演奏はバーンスタインNYPらしい特有の迫力があり聴く価値はある。重い響き、暗く巨大なロマンチシズム、ショスタコらしさという点ではもう少し「血抜き」が欲しいところだが、純粋に音楽的な楽しさでは他のソヴィエト指揮者などには真似できない域に達している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,◎バルシャイ指揮西ドイツ(ケルン)放送交響楽団(brilliant)1995/1996巧緻な演奏だ。こういった小交響曲を振らせてはさすがに右に出るものがいない。統一された美しい音色を持つオケ(巧い!)を抜群のコントロールで引っ張っている。1楽章の結部はオケが変拍子で崩ればっさりと終わるが、ここでけっこう崩壊する演奏が多い(ほとんどと言ってもいい)。しかしこの名手はしっかり振り切っており、模範的な、かつ力強い完璧な終結を聞かせてくれる。2楽章はややこの指揮者向きではない緩徐楽章のように思われるが、怜悧な演奏で一つの見識を示している。プレストのめざましい演奏はこの作曲家がロシアだということをわすれさせるほどの汎世界的な音を獲得している。ペットの歪んだ主題提示は皮肉屋のショスタコをよくあらわしており秀逸。ラールゴも決して手を抜かない。純音楽的感興をあたえるものだ。アレグレット主題が弦によりあらわれると、この運動会のような主題はさまざまに変化してまたふたたび木管で再現されるが、その隊列を決して踏み外さずに行進していく人々の姿が目に浮かぶ。デュナーミク変化が細心の注意を払って付けられている。音楽はやがて速度を増し、一直線に突き進む。熱気は少ないがアンサンブルは完璧。最後、弦らのリズム音形にのってブラスによって主題が再現され、弦が展開し、音楽は盛り上がりを見せる。コーダのギャロップははじめ小さく次いで大きく爆発的な終結へ突き進む。うん、この演奏は素晴らしい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,○フリッチャイ指揮ベルリンRIAS交響楽団(EMI)1954/4/30,5/3LIVE「20世紀の大指揮者たち」シリーズより。とにかく気合が入りまくり。それでもフリッチャイだからアンサンブルは乱れず精緻である。とにかく聴いていて気持ちがいい演奏だ。とくに5楽章は凄い。あくまでマジメな演奏であり、全編スケルツォのような諧謔的な曲ゆえ、皮肉が足りない気もしなくもないが、いい演奏。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,D.オイストラフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(RUSSIAN DISC/GPR)1969/12/29LIVE MONOこの大ヴァイオリニストは相当の数の指揮記録を残しているが、中途半端というか、集中力に欠けている演奏があるのも残念ながら事実である。この9番はコンドラシンなど他に名演がたくさんあるわけで、それらと比較してみると雑味の多い演奏に聞こえてしまう。決して悪い演奏ではないのだが、一番に選択すべき盤ではあるまい。この曲では緩徐楽章が冗漫になるきらいもあるが、終楽章アレグレットなどとても組み立てがうまく楽しめる。オイストラフはそれほど巧くはないが、この小交響曲を大交響曲のように堅固にしっかり描いているところが好感が持てる。また、行進曲でのテンポ廻しが巧いのは特筆すべきことだろう。緩徐楽章が冗漫になるきらいもあるが、終楽章アレグレットなどとても組み立てがうまく楽しめる。オイストラフはそれほど巧くはないが、この小交響曲を大交響曲のように堅固にしっかり描いているところが好感が持てる。また、行進曲でのテンポ廻しが巧いのは特筆すべきことだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ASdisc)1946/8/10アメリカ初演liveRCAに残る録音とは別録。クーセヴィツキーの芸風は意外とショスタコーヴィチに「合わない」。ショスタコーヴィチがウィットや皮肉を織り交ぜるような所も無骨に振って通してしまう。当時のボストン響にはこまかい音符の疾走するような演奏は難しかったのか?この軽妙であるはずの曲がじつに悲劇的に暗く描かれているのが気になった。ちょっと手探り感もしなくはない。アメリカ初演であることをかんがみると仕方ないのかもしれないが。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,クライネルト指揮ベルリン放送交響楽団(URANIA)LP東欧の知られざる指揮者クライネルトは積極的に新しい音楽を紹介し続けた指揮者として知られる。だが芸風は正直けっこう地味である。この軽快な曲も非常にボクトツとして野暮な音楽になってしまっている。ギシギシいうような独特の固さや軋みは東欧の指揮者共通のものだとしても、これはいささか軋みすぎである。渋い。渋い演奏だ。だが、その渋さは曲自体のイメージを一転させるほどの説得力を持ち合わせていない。無印。この指揮者、未だナゾ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,クルツ指揮ニューヨーク・フィル(CBS,columbia)1945(1949?)CD フツーなんですよね。とくに集中力が高いわけでもないし、恣意的解釈の嵐で圧倒するわけでもない。エフレム・クルツは名前くらいしか知らない指揮者だが(すいません)、とくにこれといった印象を与えなかった。ニキシュ最後の弟子なんだと。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番,クレンペラー指揮トリノ・イタリア放送交響楽団(FONIT CETRA/MEMORIES)1956/12/17live・CD,,うお、クレンペラーだ!ぎくしゃくと、しかし全く揺るぎない遅いテンポ。楽団は熱血カンタービレのひとびと、その齟齬から生じる軋み具合がまさにクレンペラーだ。重くて感情のカケラもない1楽章はむしろマニアには嬉しい独特のクレンペラー節。カットせずしっかり繰り返し、でも何度やっても同じテンポで揺れはゼロ。長い。3楽章や終楽章はそれに比べれば随分こなれて聞きやすい。特に終楽章は遅すぎもせず、スケールの大きい立派な演奏となっている。俊敏さとは無縁だが、品格のある泰然とした演奏だ。チェリの整えられた雄大さとも違う、太筆描きの無骨な魅力がある。その厳しさは表現主義的と言ったほうがいいかも。原典主義の権化でいるようで、じつはかなりエキセントリックです、クレンペラー。こんなショスタコもないよな・・・○つけたいが御大の筆のすさびということで無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○A.ヤンソンス指揮レニングラード・フィル(KARNA:CD-R)1984/6/19ソフィア音楽祭LIVE,,やはり客観性を感じる。厳しさはあるのだがムラヴィンほどの切れ味はなく、ややゆるい。このゆるさと、盛り上がりどころでも決して走らない客観的なところがあいまって、やや物足りない。ただ、この曲がかりそめのシニカルな盛り上がりを(またしても)作り上げ、スターリンが死んだことへの歓喜などと簡単に断じ得ないものと思わせる解釈にもなっている。カタルシスを与えるような2,4楽章のごく一部ではなく、1、3楽章など長い静かな部分に重点が置かれているのだ。フィナーレ最後の悲愴を模したようなヴァイオリンの音階表現など軽く粗く流され「チャイコ好きスターリンへのあてつけ?」とも深読みできるような感じすらある。謎。正直無印のような気もするのだが、○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,◎アンチェル指揮チェコ・フィル(DG)1956初出 いやー、テンション高い!!ドラマティックな起伏有る演奏で、1楽章の次第に盛り上がっていく悲劇的な音楽、ギチギチな緊張感が身震いするほどに凄まじい2楽章、旋律がくっきりと浮き立ち非常にわかりやすい3〜4楽章にかけて、さらに4楽章の異常にハイテンションなクライマックス、その後の悲劇に雪崩れ込む場面の凄まじさは言を逸するほどだ。アンチェルはナチに家族を殺されひとり生き残った人物である。ここまで本質を抉り取った演奏を行えた背景にはオケとの信頼関係とか棒振りとしての技量の高さがあるのは当然だが、そこにプラス、ファシズムに対する絶対的な拒否感があり、ショスタコの反ファシズム的性格を持つ10番との強いシンクロがあったのではと思う。自作自演の盤と比べても迫真性が比べ物にならないくらい強く、もはや作曲家を越えて作品の本質に迫った解釈を行っていると言ってもよいだろう。文句無しの大推薦だ。オケの技術的な高さ、弦はやや薄いが強い合奏力がそれを補って余りあるし、何よりブラスの絶叫に近い叫びにうっくと息を呑む。無論他セクションを含めた全体の強靭なアンサンブルの勝利であり、アンチェルとの共同作業のもっとも優れた形のひとつだ。10番を知らないかた、ぜひ入門盤として聴いてみて頂きたい。モノラルなのが辛いが、印象に残らない場面の少しも無い完全なるエンターテインメント性すら孕んだ超絶的な名演である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○ヴォデツコ指揮ワルシャワ・フィル交響楽団(ETERNA),,LPでモノラルのものを持っているが恐らく元はステレオ録音。演奏はアンチェルに似るか。引き締まった演奏振りにこの指揮者の厳しい統制が聞いて取れる。緩急をそれほどつけないが全般にテンションの高いところで演奏を続けており、激しく斬り込むような表現でこの緊張感を高めている。弛緩のシの字もないがかといって面白くない渋い演奏というわけでもなく、アンチェルまではいかないが、適度に楽曲の深刻さと娯楽性のバランスをとりつつ高尚さも保った佳演といっておこうか。聴きやすいが個性的ではない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,◎エフレム・クルツ指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI/TESTAMENT)1955/3/22-23・CDじつに峻厳な演奏だ。重量感、スケール感が凄じい。録音もモノながら細部の音まで逃さないクリアなものである。オケもしなやかで上手い。クルツはニキシュの最後の弟子だというがそのスタイルは余り強い印象を与えるものではなかった。この演奏はそんなクルツの燻し銀のような職人性を理解するのに格好のものである。10番という曲がどんな曲か、これを聴けば理解できるはず。抒情的な旋律を丁寧になぞる甘くロマンティックな表現も特筆すべきところ。クルツのイメージに無かったもので私は意外だった。2楽章の破壊的な力感、爆発的な推進力にも瞠目する。ドラムの重機関銃のように腹の底に響く音がジダを圧倒する。この速さで弦や木菅がびっちり合っているのも凄じい。驚異的な演奏である。3楽章はややリアルにやりすぎている気もするが(そういう指揮者だと言われたらそうかもしれないが)わかりやすい。内声部がよく聞こえるクリアな録音なので、そこに絶妙の表情を入れてくるクルツのワザにもにんまりさせられる。低音楽器のアンサンブルにもロマンティックなくぐもった音楽への志向が読み取れる。音の力感にはトスカニーニに似たものがあるのだが、解釈には物語性が強く、シイ性があるから、ショスタコマニアにとってコレがアリなのかナシなのか、どうにも言いがたいものがある。4楽章アレグロ部、ドイツ風に厳しく切られたリズムは重量感を保ちつつも速いテンポで突き進む。弦のリズムのキレの良さにゾっとした。旋律に拘りすぎている感もあるが内声との絡みもしっかり結びつけられており不足は感じない。バイオリンの音色が美しい。ファゴットの皮肉屋なソロ旋律から最後の盛り上がりにかけてはいくぶん落ち着いている。お祭音楽の中に挿入される弱音部の恐ろしさが印象的。引きしまったフィナーレである。録音込みで◎、おすすめ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(sony)1963/2/17・CDド迫力。けっこうオーソドックスだけれども要所要所ではこのオケの底力がぐあっと迫ってきてコワイほどだ。ゆっくりした場面では無個性的というかひっかかりの無い感じだが、プレスト楽章のガツンガツンいう打音と終楽章クライマックスでの俄かな盛り上がりはとても気分を高揚させる。但し、一部アレ?と思う変なところがある。たぶんいじっていると思う。終楽章のどんづまりの最後あたりとか、???。そのためどうもしっくりこない。迫力を狙ったのがオケのバラケを呼びこの人にしては珍しい雑味の織り交ざる音楽になってしまっているかのようだ。全般にはこの時代にしては現代的でスマートで且つ迫力ある演奏だから○をつけるのに吝かではないが、若干疑問符付き。たんに私のカンチガイかもしれないし、場所は特定しません(すいません)。オーマンディのショスタコはストコフスキと同傾向だがより集中力が高く解釈も割とストレートでスマート。響きの豊穣さのベクトルもちょっとずれていて、オーマンディの場合は純粋にサウンドとしての豊穣さだけが感じられる。悪い演奏ではないけれども、何かプラスアルファを欲しくなってくる演奏ではあります。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○カラヤン指揮ドレスデン・シュタッツカペッレ(SARDANA:CD-R)LIVEカラヤンの知られざるオハコだが、ちょっと録音が悪い。音場が遠くオブラートに包まれたように茫洋としている。だが人によってはこれがカラヤンのベストと言う人もいるから、聴いて損はないと思う。オケは巧い。こういうところはさすがカラヤンと言うべきか、とにかくミスが無く、厳しく整えられている。やはり浅薄に技巧が楽しめる速い楽章が聞き物だが、だからといってアンダンテ部分が平凡というわけではない。ひとつひとつのフレーズに意味を持たせ、起承転結をきっちりつけた巧みな設計の光る演奏である。終楽章のアンダンテからアレグロへの変貌はこの曲の最大の聞かせどころだが、この盤ではじつに自然な変化が与えられており、そくっと入ってきたアレグロのフレーズがどんどん巨大化してドライヴ感溢れる音楽に至る過程はこれ以外はありえないと言うばかりに巧い。末尾に聞かれるようなこの曲の謎めいた部分にかんしては掘り下げが浅く蛇足的に聞こえてしまうきらいがあるが、総じて名演と言っていいだろう。ブラヴォーの嵐。○。カットがある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,◎カラヤン指揮ベルリン・フィル(ART NOVA)1969/5/29LIVE カラヤンは同時代音楽に対しては注意深く選曲を行った。ショスタコーヴィチの交響曲作品において選ばれたのは、この10番のみである。彼はこの曲以外を演奏しなかった。ヴォルコフの「証言」によれば、ソヴィエトにおいてもカラヤンのカリスマ的人気は高かったという。ショスタコーヴィチ自身の言葉でカラヤンを評した文章は「証言」には見当たらないが、69年モスクワ・ライヴにかんして、作曲家は称賛の意味合いの言葉を残している。そのまさに69年ライヴが、ここで挙げたART NOVA盤の演奏なのである。実際、この演奏の迫真性は凄まじく、とくにアレグロ表現の滅法速く突き刺すような表現は、ムラヴィンスキーの名演に迫るものがある。対して2回のグラモフォン録音は、録音のせいもあってかやや柔らかい表現が目立ち、豊潤ではあるが「ショスタコーヴィチ」なるものを表現するのには少々やわな感もある。新旧あまり差はないのだが、録音の明瞭さで新盤に○をつけておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○カラヤン指揮ベルリン・フィル(DG)1981/2 ART NOVA盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,カラヤン指揮ベルリン・フィル(DG)1966/11 ART NOVA盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,◎コンヴィチュニー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(BERLIN Classics)1954/6LIVEもうひとつ、東側諸国の演奏。これぞショスタコーヴィチ!ショスタコのイメージに忠実な演奏の登場である。オーソドックスというと無個性なイメージをあたえるかもしれないが、ショスタコをたとえばプロコフィエフのように演奏する人とか、「革命」のイメージを引きずったような演奏をする人が多い中、マニアがニンマリするようなじつにショスタコらしい演奏を繰り広げているのだ。「怒髪テンツキ」と評する人もいるが、ごく短いにも関わらず10番のイメージを固定化するギチギチの2楽章にかんしていえば決して物凄く集中力が高いわけでもない。終楽章後半のアレグロ部についていえば適度に節度ある表現をしていて、決して血管ブチギレな演奏にはなっていない(この終楽章後半、個人的には客観的にすら感じた)。でも、この演奏で重要なのは緩徐楽章である。3楽章が非常に感銘深かったのだが、いかにもショスタコな諧謔的な旋律をさまざまに楽器を組み合わせて織り上げていく過程が非常に明瞭である。10番は旋律の執拗な繰り返しや重層的な構造が目立つが、この演奏はコンヴィチュニーらしく内声部をしっかり固めて、かなり構造的な演奏に仕上がっている。各声部の絡み合いが線的で単純だが、とても合理的に仕上がっている楽曲であり、このように表層的にならずしっかり音を固めた演奏で聞くと非常に聞きごたえがある。1楽章などオイストラフの演奏と似通ったところも感じたが、コンヴィチュニーは一歩踏み込んで、音楽を純粋に突き詰める事で、その本質的な部分を抉り出すことに成功している感がある。3楽章のホルン・ソロのろうろうと歌う旋律は、まさにマーラー的であり、ショスタコの本質に肉薄している。フルートのスケルツァンドな謡いかたもまさにマーラーの前期である。ここまではっきりと影響を示した演奏は少ないのではないか。コンヴィチュニーの読みの深さも感じる。まあ、深刻だがすこぶる単純な楽曲で、私の感じたことがはたして深読みになっていないかどうか不安でもあるが、総じて名演であることに異論はないのではないか。残念ながらモノラル。客席の雑音が入るのでライヴだと思う。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,◎コンドラシン指揮モスクワ・フィル(MELODIYA,VICTOR他)1973・CD ほんとさいきんはいい演奏にばかり出会ってシアワセです。といってもこの盤は10年以上前に買ったものだけど。全集復刻が出ているので(2004年4月現在)手ごろな値段で手に入ると思う。CDだと三回目くらいの復刻になるのかな。コンドラシンのショスタコはムラヴィンスキーが全集を出していないだけにソヴィエト圏の録音としてもっとも有名で評価が高い。この10番もショスタコを知り尽くしたコンドラシン入魂の演奏といえる。やはりといってはなんだが灼熱の火の玉のような演奏。といっても色彩は割合とモノトーンで渋い。緩徐楽章、とくに3楽章アレグレットは予想外の感情的な起伏が印象的で、まあそれも男らしいのだけれども、いい意味で力づくで感動させてくれる。何といっても一番耳を惹くのは2楽章と4楽章のアレグロ部だろう。2楽章は1楽章の余韻を断ち切り物凄くコントラストがついていて、峻厳で力感に満ちた表現には戦慄すらおぼえる。ひたすら暗黒のうちに突き進む音楽だ。もっと素晴らしいのは終楽章のアレグロ部で、ギチギチに引き締まったとてつもなく恐ろしい演奏になっている。DSCHの音形が、演奏のあまりの説得力に諧謔であることを忘れさせるほどびしっびしっと決まっているのも面白い。というかかっこいい。それにしても作曲家のサインとされるDSCHの音列はじつにシニカルで、曲のヤワでお定まりな流れを断ち切るのに丁度いいひびきがする。それでもこれはけしてメインの主題ではないわけだが、煮えたぎるような音楽の奔流はDSCHも主旋律も取り込んで突進して突き抜けて果てる。この暗く骨張った音楽の最後はいきなり開放的な和音で〆られるわけだが、コンドラシンの演奏は直線的な設計の果てに結局開放されず、めちゃめちゃに激しい太鼓殴打が暗示する何か恐ろしい結末を想像させる。ここには確かにカタルシスはある、下手すると現役盤でもっともカタルシスが得られる演奏だ。しかし、それはベートーヴェン的勝利ではない。全ての祭りは夜のうちに、結局は闇の中に終わるのだ。この4楽章は何度聞いても凄い。オケはそれほどバリバリに巧いわけではなく、結構雑味があるから、それでもこれだけ聞かせることができる、というコンドラシンの凄みがもっともよく顕れている演奏のひとつといえよう。名演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○ザンデルリンク指揮ニュー・フィル(VIBRATO:CD-R)1973/3/15LIVE,,なかなか渋く立派な、マジメな演奏だがいかんせん、録音が悪い。テープよれが割と頻繁に聞こえる。勢いのある演奏ぶりはこのオケらしからぬドイツっぽい重厚な音響に支えられ壮年のザンデルリンクらしさを示している。よく理解した演奏だとは思う。娯楽的要素は薄いが、10番らしい10番である。とにかくオケがいいですね。終楽章のアレグロ部で声部が薄くなる場面ではやや甘さが出ますが。最後は期待どおり盛り上がり、ブラヴォの渦。これでいいのか?○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○ザンデルリンク指揮フランス国立管弦楽団(ina,naive)1978/1/8live・CDまさにショスタコ、まさにマーラーといった響きの横溢する演奏だ。ショスタコにマーラーを感じる、ということは私の場合あまりないのだが、音の動きや重なりかたが明瞭に聞こえるこの演奏だと、はっとさせられる場面が少なからずある。録音は決してよくなく、茫洋として浅い。しかしザンデルリンクの決然とした発音がバシバシ決まる場面〜たとえば4楽章のアレグロ部はとても格好がよく胸がすく。オケのせいか2楽章などは力感がイマイチでちょっと落ちついた感じがして、音も(とくに弦)柔らかすぎるのだが、ブラスやパーカスは弾けていて面白い。やはりスケール感溢れる1楽章の叙事詩的な壮大さがキキモノか。やや甘さが目立つカンペキとは言い難い演奏であるが、マーラー好きにはアピールするものがある。中間とって○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○ザンデルリンク指揮ボストン交響楽団(WME:CD-R)1991/4/11live,,録音は安定しているが撚れが目立つ。ザンデルらしい情緒的な音が最初から聴こえる。遅くて重い解釈で、ザンデルらしい有機的な揺れもあるわかりやすい演奏。オケがアメリカにしては重心の低い分厚い音を出すのでザンデルの時折感じさせる骨ばった部分もここでは全くなく、相性はいい。三楽章などショスタコにしてはちょっとロマンティックな深刻さを醸しすぎている部分もあるが、往年の映画音楽のように聴けるという意味では楽しめる。四楽章など楽想のおもむくまま派手なところはルバートしてガシャーンとやるのが少し違和感。ショスタコはそういう作曲家ではないような気も。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,◎スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(ICA,bbc)1968/8/21ロイヤル・アルバートホール(プロムス)live・CD,,2011年初出。有名な「プラハの春」翌日の「ブーイングコンサート」で、ロストロ先生によるドボコンが既に販売されたところだが、そのメインプログラムになる。チェコ侵攻を糾弾する怒号の中平然と序奏部に入る御大だが楽団の緊張感たるや相当のもので、最終的には名演であるスタジオ録音を(モノラルにもかかわらず)大きく上回る完成度の出来となり、DSCHの刻印が大音響となって響き渡る(自己顕示欲の塊か!?)終演間髪いれず大ブラヴォーの結末。音楽の力を思い知らされる。このころの神がかった御大と充実した楽団を聴いてみたかった。同曲はカラヤンも着目するところとなるくらいショスタコでは隠れた名作で、ただ書法的にすこぶる単純なところがあり三楽章を中心とした緩徐部ではフルートがひたすら息の長い旋律を吹くだけ、など、構造性を拒否した単線的な進行が目立つ。それが悲痛な叫びと聞こえるか退屈な蟠りと聞こえるかで年がわかるというものだが私は今は後者だったりする。ので迷ったのだが、とにかくこの楽団でここまで隙がなく、また、御大らしい「伸び」のないムラヴィンスキー的な突進というのはそうそうない。◎だろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA他)CD 弱音部での表現が雑になるきらいはあるが、おしなべて集中力が高く、また歌心にあふれた演奏である。この演奏で聞くと、10番という曲がえんえんと繋がる旋律で出来あがっていることがわかる。録音も粗雑なステレオであるものの比較的バランスがよく聴き易いから、楽曲の大半を占める緩徐部の綾がよくわかり、モノラルではわけわかめになりそうな部分もしっかり楽しめる。短い2楽章と終楽章終盤のアレグロ部分は物凄い嵐のようで圧倒的だ。また、ソヴィエト国立らしいブラスのパワフルな咆哮は他の楽団では聞けない。いつもペットの強い音色に魅了されるが、ここでも期待を裏切らない。じつにパワーのある楽団だが雑味も多く、そんな綻びが見えなくもないのだが、スヴェトラーノフの常、マイナス要素もあるがそれ以上のプラス要素で全てはカバーされてしまう。佳演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(SCORA,ARTE)1966/3/25LIVE・CD*打楽器は轟きまくるし弦楽器はしょっちゅうその弦を軋ませる。だが・・・ぱっとしない。ライヴならではの迫真味もいまいちだし、何より巨視的な音楽の造型が不明瞭だ。音場がやや狭く茫洋としているのは時代柄仕方ないかもしれないが、それにしても聴きとおして何の引っかかりも無い。個性という点でスヴェトラーノフの本領はもっと後の時代に現れてくるもので、解釈に独自の秩序立ったものが感じられないのは仕方無いか。個人的にはアゴーギグをきつめにした小ムラヴィンスキー、という感じがした。ブラスの抑制されたような吹奏も「らしくない」。得意の近視眼的な爆発もあまり無いものだから、ちょっとがっかり。そんな一次聴感。たしかに終楽章の最後は凄まじいけど。*メロディヤ盤と同じ説もあるようだが録音状態には違いがあり(SCORA盤はモノラル)別とみなしておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○ストコフスキ指揮シカゴ交響楽団(CSO)ストコフスキはやっぱりいじっているのだろうか。あまりに響きすぎる。あまりに響きが充実しているがゆえにちょっとケチがつけたくなってくる。シカゴ響はもう何も言うことがない、完璧だ(技術的には)。まるでショルティの演奏のようにシャープで贅肉の無い演奏ぶりはストコフスキらしくないくらいだ。だから逆に、もっと独特の解釈を出してほしかったし、人によっては純音楽に徹するがゆえに皮相的で中身の無い演奏と感じるかもしれない。10番をよく知っている人が聴くときっと、わかりやすくできているがゆえに物足りなさを感じるだろう。流し聴きするぶんには申し分ない。旋律性、運動性共耳を楽しませてくれる。でも、それぞれの場面で描写される「何か」が何なのか、伝わってこない。即物的に訳しすぎているとでも言おうか。素晴らしくごきげんな演奏なのに、最後の空元気のギャロップに辿り着くころには、飽きていた。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○スメターチェク指揮プラハ交響楽団(OCCD)1968/3/6live・CD,,ブラヴォを叫んでいるおじさんには申し訳ないが、至極普通の10番に聴こえた。これはいい意味としては同曲の内容をよく理解して、構成感をしっかりつけて、ショスタコ指揮者たちの演奏に引けを取らないものをやってのけている、悪い意味としては、特徴的なことは何一つやっていない。地味である。そんなところか。ステレオだが撚れて聞きづらい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(CBS)1954/8/18同曲の西側の録音としてはかなり早い時期のものだ(53年初演、ちなみにムラヴィンスキー(12/17)とされているが、このライナーにはミトロプーロスの国外初演のほうが先(10/14)とされている)。状態は極めて良好だが私の盤はモノラル録音に下手に残響がついてしまっているため、結果としてミトプー独特の軋みが聞こえてきそうな鋭く力感に満ちた表現がかなり和らげられてしまっている。想像力をもってすると非常に集中力の高いテンション高い演奏のようなのだが、録音が個性を薄めてしまっている。とくに短い中間楽章の爆発的な音楽がギチギチな表現の片鱗は聞き取れるもののおおまかには「ちょっと激しい」程度に聞こえてしまっている。でも音がいいから長い緩徐部においては音楽の揺らぎが手にとるようにわかり面白い。最後の諧謔的で暴力的な疾走までの道のりがきちんと設計されていて自然な流れに聞こえる(人によってはいきなり人が変わったように狂奔したりもするし、それが正しいのかもしれないが)。DSCHのテーマがくっきり浮かび上がって独特の味を醸し出しているのがいい。ミトプーは5番よりこちらのほうがしっくりくるようだ。○。個人的には残響さえなければ◎でもいい気もするが。10番の良さがしっかり引き出された演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(URANIA)1955/10/2アテネLIVE・CD,,かなり情緒的だが2、4楽章の驀進力など崩壊寸前なまでに凄まじく、ミトプーらしい力技を見せる。この曲を得意としただけあって、一つとして無駄なフレーズを残さず演じきっている。表層的な盛り上がりに力を入れ過ぎていると感じる向きもあるかもしれないが、4楽章最後がここまで盛り上がる演奏も滅多にない。このあたりは完璧である。祖国凱旋の指揮者を称えるブラヴォも果てしなく続く。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,◎ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(GPR/PRAGA)1955/6/3LIVE・CD 9番の軽妙さへの批判に答える形で仕上げられたような10番交響曲は(8年のタイムラグはあるが(爆))、依然短期間でかかれた作品であるものの、真摯な態度においてかかれた純器楽交響曲としては最後の大作とでもいうべきものに仕上がっている。その構成にはやや不安定なところもあるが、時代精神への深い洞察を反映した傑作として5、7番に次いで親しまれている作品である。この作品について国家をあげて論議が繰り返されたことでも知られている。初演者ムラヴィンスキーはいくつか録音をのこしているがこれはプラハで行われたライヴの記録である。モノラルであるものの、いくぶん晦渋なものも含んだこの交響曲を、晦渋と感じさせないほどの明瞭な描き方であざやかに振り分けてみせており、二楽章アレグロなど一糸乱れぬ怒涛のようなアンサンブルを聞かせていて秀逸である。さすがの演奏だ。GPR盤はかつてロシアン・ディスクで出た音源を含むショスタコーヴィチ作品集4枚をわずか2000円台で販売しており、お買い得。コンドラシンの「バービ・ヤール」初演直後のライヴを含んでいる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MELODIYA,VICTOR)1976/3/31LIVE・CD驚くことにこれがモノラルなのである。ロシアではよくあることかもしれないが残念。素晴らしく充実した演奏で、録音以外に隙が無い。長大なモデラート楽章も隅々まで配慮が行き届き緊張感がピリピリ。ちょっとでも盛り上がるところではシャープな音で筋肉質の隆起が形作られる。当たり前だが超短いアレグロ楽章など驚天動地の激演で固唾を飲む。終楽章のアレグロへの展開の場面なども絶妙の手綱さばきで胸踊る。ロシア的な爆発力を希に見る統制力で押さえ込んだ演奏、◎にしてもいいのだが録音がちょっと不満なので○にしておく。時に顕れる深く思索的な雰囲気は楽曲のはらむ闇を的確に捉えている証左だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MELODIYA)1954,,一度CD化していると聞いた。さすがに木管など鄙びた音であるが解釈自体は引き締まって贅肉のかけらもない鉄骨の骨組みのようなものになっていて他盤とたいして変わらない既に完成されたものとなっている。ちょっとムラヴィンスキーは慣れると飽きてしまうというか、一枚あれば十分なところがあってこれを敢えて聴くべきかどうかはマニアかどうかにかかっていると思うが、個人的には強烈に惹かれることものめりこむこともなく、客観的にスポーツ感覚で聴く事ができた。緩徐部に救いがないんだよなあ。。そういう音楽なんだけど。,-----,,,,,,,,,,,,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(VICTOR)1976/3/3LIVE・CD有名なライヴだ。ゴステレラジオ音源で、日本盤CDにより幾度と無く復刻されている。だが私は若干後のモノラル録音をよく聴いていただけに、どこか拡散的で音楽が締まらない感じがしてならなかった。ステレオなりの良さは勿論あるのだが、たとえば2楽章や4楽章後半の激烈音楽に必要とされる極度の集中力が今一つに聞こえてしまう。たぶん各声部がくっきり分離し過ぎているせいだと思うのだが、終楽章の弦なんて案外バラバラ感がある。客席雑音の多さは耐えられるけれども、オケの表現の弱さはいかんともし難い。ほとんど録音のせいなのだろう、でも私はやっぱりモノラル録音派だ。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,○伝作曲家指揮ナショナル・フィル管弦楽団(COLOSSEUM)1950'S 問題の演奏だ。この曲をショスタコーヴィチ自身が振って、ナショナル・フィルを引き連れてヨーロッパを巡る計画があったのは事実のようで、政治的問題によりフランスでボイコットにあってうやむやになった模様。それにしてもコロッセウム・レーベルは奇盤を持っているなあ、と思った。以前ゴロワノフが「ボリショイを振った」スクリアビンのシンフォニーなる怪しい代物が出ていたのを思い出す。ナショナル・フィルについての詳細は記載が無いが、恐らくソヴィエトのナショナル・フィルということだろう(ナショナル交響楽団というのはイギリスとワシントンに実在した。ストコフスキやチェクナヴォリアンの盤にナショナル・フィル名義のオケとの録音があるが、詳細の記述が無く不明)。ソヴィエト国立交響楽団にしては音がスマートだが、そのあたりの一級楽団であると思われる。さて、演奏のほうだが、とても引き締まって緻密な指揮ぶりが伺える。これが指揮棒を殆ど持たなかった作曲家の指揮か?と思わず疑ってしまう。実際は下振りが完成直前までもってきて、最後の指示を作曲家が与えたようなものだったのだろう。でなければとても素人指揮とは思えないから、もっと振った盤があってもいいはずだ。いわゆる「企画盤」なのだろう。10番はワインベルグと連弾版の演奏も残されており、この曲について何か思うところがあったのかもしれない(まあ、単なる政治的理由だったのかもしれないが)。荘重な薄暗い音楽の始まりは、盤面の悪さからくる雑音の海の中からもよく響いてくる。プレスト楽章の迫力は凄い。終楽章も見事に場面場面を演じ分けて、聴くものを飽きさせない。全体のバランスがすこぶる良く、ここだけがいい、とかいう指摘は難しいが、自作自演にしてはとても完成度が高いと言うことができる。指揮ぶりに個性は余り感じない。そのあたりが職業指揮者との違いと見るべきか。多分に情緒的ではある。○ひとつとしておく。モノラル。(後補)ショスタコーヴィチが生涯でタクトを握ったのはただ一度、公開演奏会で祝典序曲を振ったときだけ、という説もある。そのとき、もう二度とタクトを握らないと言っていたようだが、真相は不明。(後後補)今更だが、この録音はコロッセウムがムラヴィンスキーのメロディヤ録音(1954)を偽って出したものであるとのこと。オケはレニフィルと思われる。作曲家監修という言葉を指揮に変えて発売したものの模様。ムラヴィンスキーの複数記録のどれと一致するものかは不明だが、ライヴではなさそうなので恐らくブログ側で紹介している正規盤だろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,D.オイストラフ指揮ベルリン交響楽団(HARMONIA MUNDI)1972LIVE まあまあか。オイストラフの指揮は豪快だが繊細な配慮に欠ける気もする。緩徐楽章の占める割合の多い同曲、掴み所が無く茫洋となりがちなため、全楽章を通して何か一本筋の通った解釈が欲しい所だが、その点ちょっと食い足りない。ムラヴィンスキーらを思わせる部分があり、熱意は感じるので悪くはないのだが、曲をぴりっと締める重要な役割の短いアレグロ楽章の猛突進は、ライヴだから仕方ないとはいえ雑味が多くいまいちまとまりに欠ける感じがするし(彼のピアノ三重奏第2番2楽章の激烈な演奏を知る者にとってはちょっと期待外れだ)、いろいろ細かい欠点を孕んだ演奏ではある。せっかくベルリンのオケなのにうまくその特質を汲み上げた演奏になっていない。いろいろ言ってしまったが、あくまでマニアックな視点からの注文なのでご注意を。全体的には、まあまあだ。ザンデルリンク/ベルリン響ボックスに収録。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,シルヴェストリ指揮ルーマニア放送交響楽団(ELECTRECORD)LP,,なかなか峻厳、かつスピードのある演奏。弦楽器の厳しく力強い表現が2、4楽章で炸裂している。ただ、解釈的には割合と直線的で個性は余り感じない。アゴーギグに多少の激しさは宿るものの聴いていて余りにまっすぐ聴きとおせてしまうのが逆に弱みか。ひっかかりがないのだ。終楽章のコーダに至ってシルヴェストリらしい絶妙のリズムが高揚を産むが、それ以外の部分ではリズムもデュナーミクもあまり特筆すべきものはなく、「率直」と言ったほうがいいだろう。また録音もちょっと浅い。盤が新しいせいか(録音もステレオ)軽くてキンキンする。これはプレイヤー調整で回避すべきだろう。私のプレイヤーではどうもうまく再生できなかった。そして一点難点を挙げるなら木管の不調ぶりだ。フルートこそ無難なものの、総じて技術的な問題を感じさせるところが多々ある。終楽章のショスタコ特有の速吹きパッセジがよたったり吹けてなかったりするのはまだわかるが(プロとしてはどうかと思うけど)、ソロ・パッセジの音程やテンポが怪しいところがけっこう聞かれる。これは気になる。全般、悪くはない。ただ、いいところ特筆すべきところを見つけようと計6回連続で聞いたが、結局何も評する言葉が見付からなかった。○にしてもいいのだけれども、個人的に6回も聴いて感想のひとつも浮かばないのはどうかと思った。無印。これはシルヴェストリのショスタコ録音の中では知られざる盤であり、マニアには珍重されてきたものである。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,スクロヴァチェフスキ指揮ハレ管弦楽団(IMP)1990/11/23,24・CD録音はいいが少し柔らかい。解釈は割合と大人しいというか特徴がない。オケの音が明るいので渋さはなく聞きやすいが、この曲に慣れている向きには物足りないかも。さすがに2楽章は重量感ある攻撃的な演奏ぶりで盛り上がるが、弦はパワー不足か。ブラスもやけに醒めていて発音のキレがないように感じた。木管はやっぱり上手い。3楽章はよくできている。丁寧なアンサンブルで場面展開も鮮やかだ。4楽章ではアレグロ部に入るあたりのコントラストがイマイチ。ピッチが低いのも気になる。集中力が感じられないというか、盛り上げがイマイチ物足りない。総じて、ひとつひとつのパートが上手いというわけではないが、よくまとまった演奏とは言えるかもしれない。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番,ロジンスキ指揮ローマRAI管弦楽団(stradivarius)1955/3/18live・CD 肝心の終楽章が殆ど壊滅状態(原盤ミスの模様)の盤ゆえかなり厳しいが、ロジンスキの掛け声が聞こえる気合い盤ゆえそのスジが好きな向きにはアピールするだろう。過度の感情移入をしないぶん流れ良く、もっといい音であったらと惜しい気分がする。しばしばあることのようだがこの演奏にも長大な1楽章にカットがある。2楽章のスピードといったら!後半走る走る!ここまで快速だと却ってリズムが軽くなり聞きごたえが無くなる。この楽章から次の緩徐楽章にいたるまで何故か異様に速く軽快な表現が目立ち、かといってショスタコのシニシズムを意識したようなふうでも無く、軽く聞き流すぶんには面白いが、飽きる。ここまできて・・・4楽章は前記の理由で評価不能(泣)。木管とか凄いキレイなのにー。アレグロ部は最初からあまり飛ばさず落ち着いたテンポできっちりアンサンブルしている。音の密度が高く聞きやすい(位までは聞き取れる)。このオケ結構雑味が多いのだがロジンスキのもとではよくまとまる。いいテンポだ・・・ていうかそれしか解らん(泣)。このレーベルにしては録音も悪くないだけに惜しいっ!無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番〜U,○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SCC:CD-R)1965/6/21live,,ド迫力のスケルツォで雑味もいとわず我先にと主張するかのような各楽器パートが凄まじい迫力を出している。抜粋演奏のため単曲として通常全曲演奏よりもボリュームある表現で一定の聴感を与えようとしたのかもしれない。ストコフスキに10番全曲はなかったかもしれない。同曲は皮相的にはこの楽章しか強いインパクトを与える部分がない、という考え方もあったかもしれない。客席もはじけっぷりに戸惑い気味。○。余りよくない客席録音で耳に痛い音質。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番〜ピアノ連弾版,○ワインベルグ、作曲家(P)(melodiya/REVELATION)1954/2/15・CD メロディア盤LPを愛聴していたが、マイナーレーベルでCD復刻された機に広く知られるようになった。ワインベルグと作曲家の連弾による記録である。このように大規模な曲の自作自演というのは他にないので(コロッセウム盤は除く・・あのLP、海外のオクサイトでも見かけた)貴重なものだ。ショスタコのピアノはよたっており、はっきり言ってへなちょこである。また4楽章後半など盛り上がりは凄い(かなりカタルシスのえられる)のだが、いかんせん4本の腕では足りなさすぎる。悲愴の3楽章の弦のスケールを模倣したと思われるパセージなど二人揃ってつんのめっており、それとわからないほどにごちゃっとしている。でも3楽章など意味深い思索的な音楽になっている。じつは10番の肝かもしれないこの諧謔的な楽章は、まるで鍵盤の上を悪魔が踊っているようにきこえる。4楽章への流れもいい。1、2楽章は若干大人しめで線の細さが聞こえてしまうのだが(編曲の限界かも)、後半2楽章は両者の腕も確かになってきているので評価できる。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」,◎ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(BRILLIANT/REVELATION)1958/12/21LIVE・CD,,不当に評価の低い曲だが、そもそもショスタコの交響曲と先入観を持って聴くからいけないのだ。ロシア国民楽派におもねりながらもショスタコの影響を受けた職人的作曲家の大作とでも思って聴けばいい。すこぶる演奏効果の高い密度の濃い作品である。ガウクはひたすら演奏効果を狙うというか、この筋肉質の情念を完全燃焼させつつも、織り交ざる死の静寂には繊細な音響をやさしく響かせる。とてもわかりやすく、無理なく、無駄なくドラマを組み立て、聴き始めたらあっという間である。多彩な作風のモザイク的な座りの悪さもきちんと整え取り纏められているので気にならない。凝縮的であり、最後まで厳しく統制されている。名演。ゴステレラジオ音源。かなり残響を付加したモノラルで低音打楽器が凄く響くがバランスはいい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」,◎ストコフスキ指揮ヒューストン交響楽団(CAPITOL)ショスタコーヴィチの後期交響曲の中では不人気なほうの作品だろう。11、12番、とくに12番は不成功という評価が一般的のようだ。11番は「血の日曜日」を題材とした表題音楽だが、表題性から切り離して、さらにこれがショスタコとは思わずに聞けば、けっこう面白く聞けるだろう。旧弊な民族交響曲的なところが少しあり(とくに民謡臭い旋律に顕著)極めて平易でわかりやすい。長い長い旋律をただひたすら歌い続け(但し終楽章はちょっと違うが)、楽器の用法もシンプルである。対位法的な箇所も少なく、音響的な新味もないし、オーケストレーションは異様に単純。どうしてしまったのだろう、と思う反面、ショスタコ・マニアまでいかない私のような者にとっては取りつき易く楽しみやすいものとして価値がある。2楽章アレグロが1月9日という悲劇の日を自作の十の詩の中の同名曲を引用して(この引用は単なる手抜きなのかもしれないが)克明に表現した描写音楽であるという前提条件がなくても楽しめるし(楽しんではいけないのだが)、だいいちショスタコ自身の本領としての暗く哀しくささくれだった音楽とは比べ物にならない平凡な楽想を用いているから、そういう楽しみかたもよしとしてもらいたい。群集がさわぎ行進し、通奏主題である1楽章宮殿広場の静かなコラール主題による一瞬の静寂ののち殺戮の銃撃、最後は阿鼻叫喚。2楽章はこういう内容であると知らなければプロコフィエフのようなスポーツ音楽という感覚をおぼえかねない。続いて3楽章葬式の音楽は平凡だが美しく悲しい挽歌。そして強烈なコントラストで雪崩れ込むアレグロ・ノン・トロッポの終楽章はちょっとショスタコらしさがあるというか、まあ過去の音楽の剽窃主題や民謡風主題(というか革命歌)がちょっとげんなりさせるものの、構成上決してきちんと解決しないのが面白い。内容的には壮大強烈なクライマックスを構じたあとそのまま終わらずに1楽章主題を回想させ静かにした後、2楽章の民衆のテーマを唐突に配して終わる。5番などでも見られる擬似クライマックスだ。ストコフスキはさらにダイナミックにこの音楽の表層的な娯楽性を浮き彫りにして秀逸である。名盤の誉れ高い演奏だが私の手元の2枚組LPが雑音まみれで残念。でも元の音はクリアなようなのでCDでは問題無いだろう(未確認)。この曲は深読みの余地がないのでストコフスキは大正解。この人、弦の扱いうまいなー。気合の入ったオケも聞き物。うまいですよ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」,○ストコフスキ指揮モスクワ放送交響楽団(RUSSIAN DISC/MEMORIES他)1958 MOSCOW LIVE(後発は1958/6/7liveと記載) 1楽章「宮殿広場」2楽章「1月9日、血の日曜日」3楽章「永遠の追憶」4楽章「警鐘」、2・3楽章は続けて演奏される。言わずと知れた第一次革命を描いている。・・・昔ショスタコをあまり知らないときは11、12番をよく聴いていた。革命歌、ロシア民謡風の旋律が・・・ショスタコらしからぬ・・・常套的な手法を使って紡がれていて、和声的にもきわめて保守的であり、耳ざわりのいい音はえんえんと響き渡る。その壮大さはまるで革命の大壁画を描きあげているかのようだ。映画音楽ふう交響曲と言い換えてもいいかもしれない。多分に描写的(といっても具体的な情景を描写しているのともちょっと違うのだが)だ。国民楽派くらいまでしか馴染みのなかった耳には、親しみが持てる楽想であり、快楽的に聴いてタノシムには最適だった。「森の歌」などにも同様の感を抱いたおぼえがある。一方5、7、10番は独特の楽曲表現が耳につき、尖鋭で暗くヒステリックというイメージしか抱けなかった。さてそれから幾星霜、今の私は「真逆」である。快楽派であることは変わり無いのだが、快楽を感じるツボが現代のほうに大きくシフトしてしまった。わかりやすいし、聞き流すには最適な楽曲ということは認めるが、あまりに常套的なところが、至極ツマラナイのだ。ショスタコのアレグロのタカタカ旋律が大好きなのだが、この曲はアレグロ部でも決してタカタカ走らない。まあ終楽章のアレグロ部でワグナーふうの軍国調がちらっと出てくるのは面白かったが、それにしてもこれはショスタコのアレグロではない。弦がタカタカ走って、管が必死で吹きまくり、打楽器が焦燥感を煽る、いつものショスタコがここにはいない。終盤でとってつけたように壮大になる(7番に近い構成か)が、そこでやっと高音打楽器がはじけてきた・・・と思ったらすぐ終わる。私はロジェストヴェンスキーの演奏が適度にわかりやすくて好きだったが、このたびストコフスキのモスクワ公演を聞いたら、音響がそうとうに派手である裏腹、颯爽でスタイリッシュな表現が格好いい。譜面をいじっていないのではないか、ストコフスキの常を思うとずいぶん素直にすら感じられる。ロシアオケの特質をうまく自己の派手な解釈にあてはめて、耳がキンキンするようなブラスの咆哮、ゴリゴリ脂粉が飛び散るような弦の強奏、抑制を知らない打楽器の一撃、すべてが融合して、快楽派としてはなかなか楽しめる演奏となっている。緩徐部はやや詰まらない感じもするが、曲のせいもある。スヴェトラーノフを思わせる壮麗な終演後、拍手がパラパラだったのは意外だった。ただ、ライナーではストコフスキのモスクワ公演は大成功をおさめ、11番の演奏にはショスタコーヴィチも臨席し、終演後ステージにあがって指揮者を賞賛したとのことである。ストコフスキはステレオで正規録音も遺している。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(revelation)1959/11/2・CD,,録音が篭っていてかなり聞きづらいモノラル音質。演奏はスリムでしなやか。1楽章など悲愴にドラマチックにアゴーギグをつけてはいるが印象として素っ気無さが残る。焦燥感のあるスピードからきているのだろうか。これはムラヴィンの芸風の特長でもある。トスカニーニも原典主義といいながらかなり独自の解釈を投入している場合もあり、それでもやはり直線的で原典主義という捉え方をされるところに通じるものを感じる。生々しくリアルな音作りはラフリンなどと違い幻想的な音風景を常に現実世界に引き戻して純音楽的であろうとする、そのへんが好悪あると思う。4楽章になると途端に息を吹き返したようになるのは曲自体の性格のせいもあるが、ムラヴィンの芸風とレニフィルの合奏力が最も活きるのがこのような闘争的な楽章であるということもあるだろう。最後の沈潜がやはりリアルでちょっと物足りない。警鐘の鐘よりもオケ全体の破裂のほうがすさまじいのは録音のせいだろう。全般小粒な印象。おまけで○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC/VENEZIA/profil)1957/11/3初演LIVE・CD,,たいへんに引き締まった演奏でとくに3楽章までがいい。筋肉質のアンサンブルが底浅いと捉えられかねない曲を純音楽的な感興のほうへシフトさせしっかり聴かせる。4楽章は異様な部分がある。アレグロの途中で力感が落ち表現が薄く失速する感じがするのは意図か?それが終盤の異常に暗く凄惨なクライマックスへの布石としたら余りに怖い演出である。鐘は恐怖の警鐘として残響無く泣き叫び続け、やりようによっては大ルバートをかけ引き伸ばしてブラヴォを呼べよう最終和音は、何とも異様に短く、即物的に断ち切られる。何か抗議のような主張。拍手は冷たく通り一遍にあたえられる。音はぼけて聞き辛いモノラル。ラフリンと頒けた「同時初演」の記録で(後注:この情報のソースは今となっては不明ですので悪しからず、今はムラヴィンスキーが世界初演と記載されることはありません)、今はVENEZIAの選集で容易に聴ける。作曲家はこちらに臨席したと推測されているが定かではない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(melodiya/jvc)
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」,○ラフリン指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA),,初演者による記録である。国家的作曲家の作品初演はしばしば分業的に当時のトップ指揮者に分け受け持たれたようである。このときはムラヴィンスキーと「同時初演」という形がとられた(後注:この情報のソースは今となっては不明です。今は初演はラフリン、レニングラード初演はムラヴィンスキーと表記されます。ムラヴィンスキーが初演という表記は誤り)。ラフリンはモノラル期のほうが統率力もオケの力量も上で聞き応えがあるが、この演奏もラフリンとは思えない、ガウクよりムラヴィンスキーに近いくらいの集中度である。オケの充実ぶりも、最も調子のいいころのスヴェトラよりも凄いと言わせてもらおう。録音の問題がなければ◎にしたところである。,,予め「そう」かかれている部分については牧歌的なリャプノフや晩期ミャスコフスキーの臭気に近いものが強くかんじられ、ソヴィエト国民は共感するだろうがショスタコ好きはどう聞けるのかというところがある。最初と最後の教会音楽のひびく風景、オルガンを模した分厚いコラールがとてもリアルで、しかし最初のほうはまるでロンドン交響曲のように牧歌的な暖かさ(それが「臭気」にもなっているのだが)がある。不安の予兆としての半音階的な揺らぎが余り不安として捉えられない感じもある。これは中間楽章の表現においてもどちらかといえば娯楽的に聞こえてしまうところにあらわれているが、4楽章にはやっとショスタコらしさを引き出して、骸骨の暴力的な宴が繰り広げられる。最後は挽歌のように暗く遠く囁き、最後の最後の警鐘までどちらかというとそのまま沈潜する感じに収められている。,,ロマンティックな性向の強い演奏だと思うが、意思的なコントロールはロシア指揮者の伝統にのっとった力強いもので、筋書きの理解抜きに感覚的に内容をわからせるだけの説得力を持ち合わせている。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第12番「1917年」,◎ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(venezia)1961/10/1初演live・CD,,放送音源的な録音の悪さがどうでもよくなる凄演。レニフィルも最高の状態で、最初から弓音がカチカチ鳴るところから気合のほどが伺えてゾクゾクする。一糸の乱れもない。曲はショスタコが退化して聴きやすい民族的主題を取り入れたり、わかりやすい構成をとっていて、それがまたムラヴィンに合っている。ムラヴィンには謎めいた表現を要求する曲よりも、単純明快ですかっとした曲がいい。とにかくこれを聴かずして同曲を聴くなかれ。一言より一聴。安いうちにどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第12番「1917年」,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(melodiya/jvc)
ショスタコーヴィチ:交響曲第13番「バビ・ヤール」,◎コンドラシン指揮バイエルン放送交響楽団&男声合唱団、シャーリー・カーク(Bs)(PHILIPS/TOWERRECORDS)1980/12/18、19ミュンヘン・ヘルクレスザールlive・CD,,落ち着いた美観で円熟した演奏ぶりをみせている。ロシア時代に持っていた異様な迫真味は録音のバランスよさと演奏陣のニュートラルさの前に落ち着いてしまっているが、こういう曲は外様のもののほうが万人に受け容れられやすいものになる。それほどいい録音ではなく鋭さはいまひとつだが、同曲が「まっとうな」ショスタコーヴィチ交響曲の総決算的位置づけにあること(14番は内容的に「まっとうな」ショスタコーヴィチ交響曲ではないし、15番は個人的にかなり異質な感じがする)に余り拘泥することなく、素直に、暗黒の時代に生まれた近代交響曲の一つの希望として聞ける。陰鬱さも重くならず寧ろ清澄な響きやかつての自作のエコー〜「レニングラード」など〜のほのかな感傷のほうが爽やかにのこり、最後ブラヴォを叫ぶ聴衆が邪魔と思えるほど静かな抒情のうちに聞き終わることができる。この曲は歌曲としても交響曲としても聴けるが、個人的に後者として聞くならば、ここでショスタコーヴィチはあるていどの楽想の枯渇を意識したうえで、14番ほどでないにせよ自分の癖や作風のエッセンスを抽出しなおし無駄なく配置しているような印象を受ける。それを楽器数から削ぎ落とし更に内面的な単純なものに磨き上げたのが14番、しかし無理に復活をとげようとしたのが15番、と勝手な憶測をしているがそれほど外れてはいまい。だから、大交響曲作家としてのショスタコの作品としては白鳥の歌に近いのではないか、とこの終わり方を聞くと思う。この盤はまさにそういった静かな諦念の中に確かな希望をたくした真摯な音楽を聞かせて適切である。◎。昨年タワレコがCD復刻し話題になった。LP国外初出時に話題になった盤で数も多いが、10年以上前に正規CD化したとき殆ど流通しなかったこともあり、最近までかなりの希少盤の扱いを受けていた。じっさいには国内のネットオークション市場でのみの希少価値であり、中古LP自体は国外を探せば二束三文で見つかったものである(勿論高級店はプレミアをつけていたが)。曇り無い静謐な響きや明瞭な音のキレが聞こえてくることを求められる曲なだけに、CD向きであろう。歌詞は第二稿。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,
ショスタコーヴィチ:交響曲第13番「バビ・ヤール」,○ロジェストヴェンスキー指揮ハーグ・フィル、アレクサシュキン(B)他(RO)1998/11/8・CD,,新しいものにかんしては否定的なこともいろいろ言われる人だが盟友ショスタコにかんしてはいずれ外れはない。ドロドロとした曲始めからムラヴィンやコンドラシンのような妙にキリキリした抽象的な引き締めもなく、曲のそのままに暗く、不健康な情念の躁鬱に揺れるさまをドラマをこめてわかりやすく提示し、展開させてゆく。ショスタコはこれなのだ。余りスコアに固執して骨皮に削ぎ落としてしまうと、元来わかりやすいテーマと強い表現力をもった世界がヘンに歪みわかりにくくなる。リズム表現だって執拗に厳密に刻ませる必要はない。全体が何を歌っているのかわからなくなるほど正確で激しい刻みの重視は、この曲のような歌詞のあるものはいいけれども、純管弦楽のものについてはそこにピンポイントにスポーツ的な娯楽性を見いださせてしまうという、誤解に近い状況をまねく。音楽の必要以上の引き締めはスケール感をそこなう側面もある。生なら別だが音盤では、渋い、完成度が高い、などと詰まらない感想しか呼ばない。ショスタコはあるていど、いやかなりサービス精神の旺盛な作曲家、だからスヴェトラやロジェストヴェンスキーのほうが似合うように思うのだが。録音もきわめて良好だがなんとなく最高評価にはしない、でも興奮も感動も巨大なスケールの中にもりこまれた名演である。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:交響曲第14番「死者の歌」,○バーンスタイン指揮NYP、クビアク(S)ブシュキン(B)(Lanne:CD-R)1976/12NY LIVE,,何と評したらいいかわからない簡素な連作歌曲集で、バンスタとはいえ「らしさ」は出し様が無く、純粋に歌唱のみの判定になってしまう。このサイトでは歌曲でも歌として評しない(できない)ことにしているので累々難しいが、点描的なバックに諦観を隠しきれない抑制されたラインが載り、表面的なシニカルさよりも、深刻な心象の水面に浮いた影のみを聞き取ることができると言ったらいいのか。一部ややロマンチックかもしれない。歌唱は普通。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第14番「死者の歌」,◎バルシャイ指揮モスクワ室内管弦楽団他(VENEZIA/MELODIYA)1969/10/6初演LIVE・CD,,余計な音や楽器を削ぎ落としたショスタコーヴィチ晩年を代表する極めて純度の高い連作歌曲集であり、ロマン派のマーラーとは異質の文字通り骨と皮だけの作品であるものの、交響曲と名付け量産したそれまでの作品の必要な部分だけを必要な形で最小限にとりまとめたようなところがあり、大げさで長たらしいショスタコーヴィチが苦手な向きにはお薦めである。13番もそうだが、言いたいことが言えるようになってきた時世において、歌詞をともなう歌曲の形をとっているところがわかりやすさに輪をかけている。言い淀んだり余計な形式感にとらわれる必要もない。バルシャイは厳し過ぎるくらいにアンサンブルを磨き上げ、厳しくテンションの高い、しかし一種怜悧な美しさをたたえたバックを整えて対話的な歌手の背景を決めている。バルシャイの持味である現代的な冷たさは同時代性の前に影をひそめている。迫真味ある演奏である。個人的には室内合奏を得意とした焦燥的なオネゲルと静ひつなRVWが諦念をたたえつつ交互にあらわれるような、やはり少し作風的には時代を遡るショスタコーヴィチという存在の、しかし時代とは隔絶した価値をよく示した曲であり、演奏であると感じた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第15番,○コンドラシン指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(PROFIL)1974/1/23live・CD,,研ぎ澄まされたクリアな音で聞けば聞くほど荒涼たる気分になる演奏。しょっぱなこそ異常なテンションと統制具合に並ならぬコンドラシンらしい切り詰めたスリリングな音楽を楽しめるものの、次第に楽しさは失せ、ただ音楽の提示するやるせなさが最後の一音まで続く。このオケの渋い音と見事な弦がストイシシズムをひときわ際立たせ恐ろしいくらいの雰囲気をかもす。ただ、聴衆はポカーンなところもあったかもしれない。ボリス・チャイコフスキーといっしょに録音されたもの。海賊盤CD−Rでも出ていたが音は段違いにいい。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:交響曲第15番,○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(STATEWORK)1972/9/14放送LIVE,,極めて良好な録音。web配信されている。ミュンヘンオリンピックの文化プログラムの一環として演奏されたもので、本国での録音とも違う一種異様な緊張感が感じ取れる。折しもイスラエル選手団が襲撃され多数の死者を出したときでもあり、時代の気色濃い。コンドラシンの洗練されたスタイルはのちのコンセルトヘボウ時代に通じるものがあるが、オケの調子はその時代を上回る。ショスタコ最後のシンフォニー、自虐的な皮肉に満ちた一楽章のオリンピック風味(ウィリアムテルなどの引用)は象徴的な乾いた調子で激しく響く。しかし楽章を追うごとに過去作品の緩徐楽章から14番死者の歌のあの点々とした風景へと尻窄みになる。まるで死。生への皮肉。ソビエトへの皮肉。自分への皮肉。さまざまな想像をかきたてる抽象性の高い演奏だ。軋みも歪みも無い名演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:交響曲第15番,○伝イワーノフ指揮モスクワ・フィル(regis)1980・CD,,人生の最後にこういう大交響曲を残したショスタコの心情を察するに複雑なものを感じるが(1970年代にコレですよ!)、4楽章制の古典的構成に立ち返りながらも1楽章と4楽章はウィリアムテルを初めとする古典的楽想によって、まるで1番のようなシニシズムを秘めたカリカチュアライズされた交響曲の両端楽章を演出し、2、3楽章は逆に死者の歌までで至った哲学的な世界の延長上にいるようないささか静かで難しい音楽になっているのはコントラストが激しすぎてかなり分裂症的、私などははっきりいって余りのちぐはぐさについていけない感じすらした。2楽章の長大なチェロ・ソロは極めて晩年的で深刻な諦念(マーラーのような夢すらない空疎な諦念)を出してくるのに、4楽章ではワルキューレの運命の主題がそれほど悪くない運命であるかのように変な盛り上がりをもたらしている。決して傑作とは言わないが、天才作曲家にしか書けない交響曲ではある。最後の巨匠世代と言わせてもらいたいコンスタンチン・イワーノフのこの演奏はとてもしっかりしており他のショスタコ指揮者がことさらに曲を掘り下げて演奏しているのに対して素直に曲想に従ってしっかり仕上げている。聞き易さではかなりいい線をいっていると思った。1000円以下の廉価盤で手に入るのが信じられない。○。,,(後補)当盤はポリャンスキのCHANDOS録音のコピー(偽盤)の模様。,-----,,TITLE: ショスタコーヴィッチ作曲、交響曲第15番,URL: http://yurikamome.exblog.jp/1588195,BLOG NAME: yurikamomeが言いたい放題にしゃべるブログ,DATE: 04/24/2005 17:24:53, 調子はイマイチだけど昨日、早退してしまったので今日も仕方なく仕事です。, みんな観光に来ている人たちが楽しそうなのがせめてもの救いかな。, 今日はでもデートには最高。写真は、みなとみらいの帆船「日本丸」。連休中はこの帆を張ります。それはそれで壮観です。,-----,,
ショスタコーヴィチ:交響曲第15番,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(melodiya/jvc)
ショスタコーヴィチ:祝典序曲,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(REVELATION/MONITOR)世界初録音1955/9/24:CD化廃盤 とびきりの腕利きが集まった楽団にとっては格好の腕の見せどころ。あまりのわかりやすさにショスタコ好きに敬遠される曲とは思うが、ガウクの天地を揺るがす激烈演奏にあっては圧倒される。引き締まった素晴らしいアンサンブルだ。ダイナミックなブラスの咆哮から終盤の雪崩れ込みは圧巻。佳演だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:祝典序曲,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(放送)1955/9/24live,,開放的な指揮で放送響とは思えないバラケ味もかもす演奏だが、勢いはある。しょうじきそれほど旨くは無いがガウク好きなら。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:祝典序曲,◎スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)1978これはスウ゛ェトラらしいテンション高い演奏だ。なんでこんな異常な早弾きができるんだ弦!とにかく速いし、引き締まったアンサンブルで最後まで疾駆する凄演。野暮が顔を出す前に終わってしまうから丁度いい。響きも懐かしいソウ゛ィエトの音。この人のショスタコは最高だ。精神性クソ喰らえ。◎。グラズノフみたいな終わり方だなあ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:祝典序曲,◎パシャーエフ指揮ボリショイ劇場管弦楽団(MELODIYA)1955-62初演者/団体による演奏だが驚くほどクリア。録音も演奏もすこぶる見通しがよく、覇気に満ちていて清々しい。決してそれほど人好きするような旋律ではないと思うのだが、この演奏で聞くととにかくワクワクする。私は同曲あまり得意ではなかったのだが、流れ良いこの演奏に我を忘れて聞き込んでしまった。あっけらかんと、じめじめしたところのミジンもない。弦はきわめて統制されており、ブラスの叫びも吹き散らかすのではなく重量感のあるきちんとした響きに制御されている。ボリショイとは思えないほどしっかりした演奏だ。ムラビンスキーを一瞬思い浮かべたのだが、やはり違う。音色が地味めなのは同じだが、もっと素直な喜びがあり、娯楽的な要素もおろそかにされていない。スヴェトラーノフなどに比べて自由度は無いけれども、ロシアオケの迫力と西欧オケのアンサンブル力をかけあわせたような極めて完成されたものを感じた。今まで聞いてきた中で一番面白かったので、◎にします。ボルガとドンの運河開通式典用としてかかれたことを初めて知った。プロコフィエフも「ボルガとドンの出合い」を書いている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:祝典序曲,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC)1955/4/21LIVE・CDいろいろ逡巡してムラヴィンスキーに帰ってくると、その好嫌はともかく非常に端正で引き締まった演奏ぶりには感銘を受ける。鄙びた録音に比してとても統制のとれたオーケストラは安定した音を送り出している。スリリングな緊張感に溢れた無茶苦茶速い演奏だけれども、あまりにさらっと(でも中身はテンション高い!)流れてしまうため今一つパンチに欠けるように感じる向きもあるかもしれないが、たぶん、十全な録音であったなら圧倒され呆然とするだろう、と想像。まあ、祝祭的雰囲気が盛大に盛り上げられているという感じでもないので、○としておく。禁欲的すぎるんですよね、このひと。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:祝典序曲,○ロジェストヴェンスキー指揮LSO(BBC,MEDICI)1985/7/8ロンドンLIVE・CD,,ややオケが上品でそつなく録音も引きだが、演奏はすぐれて熱と技のバランスのとれたもので聴衆も盛り上がる。ロジェストヴェンスキー最盛期のいきおいを感じることができる。それにしてもイギリスオケが巧いことは確かだ。。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショスタコーヴィチ:森の歌,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団、モスクワ国立合唱学校少年合唱団、モスクワ放送合唱団(MELODIYA)LIVE分かりやすさでいえば確かにショスタコ異例の作品だったわけで、それをこう正面切って堂々とやられると、本当にショスタコ作品ではないようにさえ思えてくる。ちょっと聞きは宗教音楽のようだ。ショスタコ節と言えるものは断片的にしか顕れず、やけに上滑りする耳馴染み良いメロディに貫かれた作品は、もはや誰が書いたかは問題じゃなくて、それがソウ゛ィエトの音楽である、というだけのものになっている。いや、オルフのように単純なリズムで、明快な響きは英語だったらRVW作品と言われても信じそうな勢いだ。クライマックスだらけの作品を、その通りに演じたスウ゛ェトラ、これは一つの見識であるし、ライウ゛とは思えぬ引き締まった演奏ぶりは、拍手と共にブラウ゛ォを叫んでもおかしくないものではある。○。私がこの曲苦手なだけなので、ほんとは◎かも・・・。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショスタコーヴィチ:前奏曲とフーガ第16番 作曲家(P)
ショスタコーヴィチ:前奏曲とフーガ第17番 作曲家(P) 1956
ショスタコーヴィチ:前奏曲とフーガ第18番 作曲家(P) 1956
ショスタコーヴィチ:前奏曲とフーガ第20番 作曲家(P)
ショスタコーヴィチ:前奏曲とフーガ第22番 作曲家(P)
ショスタコーヴィチ:前奏曲とフーガ第23番 作曲家(P)
ショスタコーヴィチ:前奏曲とフーガ第24番 作曲家(P)
ショスタコーヴィチ:24の前奏曲から4つのバイオリン編曲 ショスタコーヴィチ (P) コーガン
ショスタコーヴィチ:前奏曲第14番(ストコフスキ管弦楽編),ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1971/4/3(6?)ive,,ストコフスキがよくやっていた演目でいかにも稀有壮大なストコ節。ただやっぱり元が重く暗いだけに聞き栄えはしない。演奏的に評価不能。vibrato盤は6日表記あり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:前奏曲第14番(ストコフスキ管弦楽編),ストコフスキ指揮NYP(MEMORIES)1947/10/19live・CD,,メモリーズは海賊盤の海賊盤のような形で廃盤歴史的秘盤を復刻したものをほうぼうからまとめて一気にボックス化する方向に舵を切っている。これも少し前に比較的高価なm&aがまとめた交響曲三曲集を、音源状態や盤質はともかく、値段は半分で、さらに他のおそらく正規セッション録音以外の全てを三枚組で、盤質にこだわらない向きはほぞを噛んだかもしれない。調べたところHMVのデータに誤りがあり全て交響曲は既出でとくに手に入りにくいものでもない。ただ最後のこの曲(ストコフスキーが編曲し好んで演奏したものである)だけ、調べがつかなかったので一応初出として書いておく。といっても3分の小品だが。重苦しく足を引きずるような音楽は、編曲のせいでほとんどマーラーに聴こえる。オケのせいもあろうか。ストコフスキは千人のミュンヘン初演に臨席した唯一の千人録音者で(ライヴ)、復活と千人という効果の高いものしかやらなかったとはいえ雰囲気作りには慣れた調子が伺える。ショスタコーヴィチもそうとうに好んだがレニングラードの初演をトスカニーニに奪われたのは有名な話。とまれ、このお得ボックスを買ったら、忘れず聴くと良い。これだけを目当てに買うのは薦めない。音が悪いのだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショスタコーヴィチ:忘れ得ぬ1919年(想い出の年1919)(1951),ガウク指揮ソヴィエト国営放送管弦楽団(MONITOR)うーん。駄目な曲(すいません)。ショスタコーヴィチが小手先で書いて体制に尻尾を振って見せたような音楽と言ったら言い過ぎだろうか。中には若干モダンな曲想もあるものの、大部分は旋律とリズムをただ組み合わせてハイ出来上がり、とまではいかないまでも、それに近い感じを受ける。ショスタコの楽曲にはショスタコらしからぬ作品というものがあり、これはたとえばクーチカ時代のマイナー曲と言われても通じてしまうような古臭い作品群である。「社会主義リアリズム」の目指す所は決して過去の国民楽派に回帰するというものではなかったハズだが、こういう音楽を作り出さざるを得ない土壌を敷いてしまったのは他ならぬ「体制」そのものである。この曲は(ロシア音楽では必ずしもないが)過去へ回帰する音楽であり、体制におもねったものとして、ハチャトゥリアンの民族的音楽とともに記憶される位置にある。演奏は大変に引き締まったものだが、音楽自体の魅力が薄く、それを覆すまでに至っていないから、無印としておく。まあ、こう言ってしまったら併録の「祝典序曲」も同じようなものなのだが。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,