-2019/1/9(3/18修正)satie
サティ:ヴェクサシオン(抜粋),ダルベルト(P)(erato)言うまでもなく抜粋。同曲には74分録音なんてのもあるが言うまでもなく抜粋。宗教的な趣のある曲で、サティの意図(してるかどうかわからないが)が非常によく伝わってくる。繰り返しの繰り返しが繰り返しに聴こえないほど見事に連環,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
サティ:ヴェクサシオン(抜粋),◎アラン・マークス(P)(LTM)CD,,全曲版なんてありえないわけで、しかしこの悪ふざけを律儀にまるまる一枚のCDに入るだけ繰り返し録音した人というのは何人かいる。ここには意味性を剥奪された無調的な単旋律の問い掛けと不協和音の堆積による宗教祭儀的な不可解な答唱からなるフレーズが40回繰り返されているが、サティの本意ではなかったにせよ計らずも極限までロマンチシズムを削ぎ落とし宗教臭さやアマチュア的な実験性も余りの単純によって際立たず、何にも似ていない、音楽ですらなくなっているこの曲は、ある意味最も先鋭でサティの生涯をかけた理念を最も純粋な形で体言した傑作と言うこともできるわけで、このようにウェットな音でありながらもまったく同じ調子を崩さない演奏家の態度が、ミニマルな側面を印象づけ、ああ、ケージがやりたがったわけだ、これは凄いと感嘆させる。初期の教会のオジーヴから生硬さを抜き去り、永遠の連続性をまるでヤコブの梯子のように続く祭壇への階段、、、これは恐ろしい作品だ。◎。,,"",-----,,TITLE: 幕間に幕間を・・・・,URL: http://drenkaizan.exblog.jp/5087301,BLOG NAME: 六国峠@ドクター円海山の音楽診療室-無用な営みの、えも言われぬ、この上なき喜び,DATE: 02/10/2007 19:16:39,幕間,,サティーのバレー音楽で有名な「本日休演」の幕間に流された映画を素材にした映画,がようつべに・・恐るべし。,,最終部分激しくワロタ・・・ケリはいかんよ蹴りは・・・(笑)
サティ:グノシエンヌ第3番,○プーランク(P)(ACCORD他)1956ちょっとエキゾチックな音楽である。その暗い雰囲気の中に、孤独で、そこはかとなく哀しい雰囲気があふれている。しかしお上品なお客様にとってはまさに一級品の雰囲気音楽、今でも人気があるのはそのせいもあろう。個人的にはあまり好きな雰囲気ではないのでよくは聴かないが、サティの個性のはっきり顕れた初期の名作ではある。プーランクはあまり解釈的なものは付け加えていない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
サティ:サラバンド第2番,○プーランク(P)(ACCORD他)1956ドビュッシーを思わせる装飾的なフレーズや和声感覚が横溢し、この作曲家の先駆性を強く感じさせる一曲である。1887年、作曲家21歳の作品。処女作?オジーヴの次の作品であるが、実験的和音の堆積だけで描かれた前作とは違い繊細な和音で繋がれた美しい旋律の断片が洒落た雰囲気を醸し出している。瑞々しさの中にも深い思索が感じられ、才気溢れる作曲家の多面性が既にして現われている。プーランクはドビュッシーのように演奏している。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
サティ:3つのジムノペディ第1番(ドビュッシー管弦楽編),○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(RCA)CD化不明。クーセヴィツキーの静寂の表現はなかなか聞かせるものがある。この悪い録音条件でも非常に精妙な響きが作り上げられていることに感銘を受ける。LPだと音に生生しさが有り、適度な重みもある。サティの代表作をドビュッシーが編曲したものなわけだが、違和感を感じさせないように細心の注意を込めたクーセヴィツキーの鮮やかな手腕が生きている。ラテン系の指揮者のやるような開放的な演奏だとかなりスカスカ感のある編曲だが、緊密で集中力のある演奏を得意としたクーセヴィツキーならではの安定感のある、品の良さすら感じさせる演奏だ。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
サティ:3つのジムノペディ第3番(ドビュッシー管弦楽編),○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PEARL/HMV)1930/4/14・CDパールのCDには第1番とあるが原曲は3番なので3番と書いておく。ついでに、クーセヴィツキーは1番も録れているのだが、パールは何故か3番しか復刻しなかった。1番については別途書きます。短い曲でもドビュッシーは細かい仕掛けを施しており、楽器法も巧いとまではいかないが凡庸にならず耳を惹く。主旋律の受け渡しなど1番より成功していると思う。クーセヴィツキーはその本領を発揮しているように聞こえる。伴奏のハーモニーが硬質な音で完璧に響いているのに驚かされる。新しい録音だったらまるでブーレーズの演奏のように聞こえたことだろう。バランスのすこぶる良いハーモニーに感動。○一つ。清澄でゆったりした夢幻的なテンポに陶酔。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
サティ:3つのジムノペディ第1番,第2番(原曲3,1番)(ドビュッシー管弦楽編),◎バルビローリ指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ(testament)1969/1/22liveびっくりだ。こんな曲が選ばれていたとは。バルビローリは繊細な音表現に長けており、この演奏もその恩恵を被っている。なめらかで感傷的な音楽、ドビュッシー版はどんな演奏でもあまり感傷的に響いてこなかった気がするのだが(非常にリアルな音の集積の感があった)、この演奏は違う。とくに第一番の注意深く旋律をうたうヴァイオリンのひびき、ハープの典雅な伴奏、オーボエの感傷的な歌。同曲のベストと言ってもいい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
サティ:3つのジムノペディ第1番,第2番(原曲3,1番)(ドビュッシー管弦楽編),アントルモン指揮RPO(CBS,sony)1970/5・CD,,ぶっちゃけて言ってしまえばサティの美学の粋に余計な音色をくっつけまくったドビュッシーの不恰好な編曲を「いかにならして聴かせるか」が主になる曲だと思う。アントルモンはソリストとしてサティに取り組んでいるだけあって、とくにブラスの音が世界観の邪魔をしないよう注意深く響かせている。そのうえでこの2曲を対比させるように明瞭に持ってくるような、もっとうまい指揮者はいると思うが、これなら大丈夫、という意味で一聴に値する。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
サティ:3つのジムノペディ第1番,第2番(原曲3,1番)(ドビュッシー管弦楽編),プレートル指揮フランス国立管弦楽団(ERATO/icon)CD,,ふつう。「この曲でどうやったら個性的になるんじゃい!」と言われそうだが、表出意欲の強い演奏ならもっと古い録音にある。これは平穏なサロンミュージックで、引っかかるところがない。それが意図でもあろう。ドビュッシーの繊細さと乱暴さの同居する奇妙な編曲もサティの原曲の情緒を損ねずに、まるでもとからそうであったかのように聞きとおせる。プレートルの職人性が表れている。原曲は3,1番の順番になる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:3つのジムノペディ第1番,第2番(原曲3,1番)(ドビュッシー管弦楽編),◎ライナー指揮シカゴ交響楽団(CSO)1960/3/25LIVE,,1番(原曲3番)ちょっとびっくり耽美なテンポに陶酔の音。こんな指揮者だったっけ?陶酔もいいところで、またシカゴ交響楽団木管群のいい意味で個性が薄くそつのない響きが絶妙のバランスで響いている。瞑想に陥りそうなくらいだ。そこに仄かな感傷が生じて美しい。3番(原曲1番)これも遅い。そのテンポがキープされ春の海の水面の如くゆったり揺らぐさまが実に心地良い。ハープの煌きも遠く、瞑想の邪魔をしない。これはラテンの演奏スタイルとは隔絶している。でも、ジムノペディ管弦楽版の演奏としては群を抜いて聴き易い。スタンダードと言ってもいい。◎とするのに躊躇無し。こんなに嫌味の無い演奏は初めて聴く。とくに弦楽器の露悪的な響きを極力抑えているのが的を得ている。この曲を奏でるなら木管中心のアンサンブルだ、やっぱり。ドビュッシーの特異な音色絵画が消えてしまう、けどそれでもいい。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:3つのジムノペディ第1番,第2番(原曲3,1番)(ドビュッシー管弦楽編),デ・ランシー(ob)プレヴィン指揮LSO(RCA/sony)1966・CD,,原曲は3,1番なのでややこしい。ドビュッシーの少し押し付けがましい編曲を、プレヴィンは細心の注意を払ってバランスを整え抑え鎮め丸め、これ以上はないほど「ジムノペディらしいジムノペディ」的な管弦楽の演出に成功している。オケが主張するタイプではないこと、木管のニュートラルな音色と技術的な安定感が成功に一役買っている。ドビュッシー版を聴くのにこれより良いものは無いと思う。2番(原曲1番)の密やかさは絶品。サティらしさというより、ジムノペディらしさなのだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
サティ:3つのジムノペディ第1番,第2番(原曲3,1番)(ドビュッシー管弦楽編),○オーリアコンブ指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI/PATHE)1967初出・CD,,ジムノペディGymnopedieはサティの造語と言われている。酒場でてきとうに名づけたという説もあるようだが、語源は古代ギリシャのスパルタ地方で行われていたデュオニソス祭で、戦死した戦士たちに捧げるために全裸の子供や青年たちが踊った舞踏Gymnopedicとされる。直訳すると「裸踊り」という意味らしい。そういう耽美な趣味もあったとか(すべて伝聞なのがサティ伝説の特徴、まあ、後年コクトーと交流したくらいだし)、奇人ぶりに繋がるところも伺える。まあ、文化全般にそういう神秘的でアルカイックなものが流行った時代だったのですね。もっともかなり若い頃の作品だけに、下衆の勘繰りはそれくらいにしておくべきだろう。手書き譜には乱暴に、「ジ・ム・ノ・ペ・ディ」!!と劇画タッチの標題が手書きされている。ちなみにジムノペディックは名前や絵こそ残っているが実態はよくわからない。余談になるが、明治時代の日本の本を読んでいたところ、以下の記述があった。おそらく言葉的に繋がっているにすぎないものとは思うが、なんでも古代ギリシャのアレキサンダー大王治世のころ、支配下にあった?インドに遊行哲学者”ジムノスウィスト”と呼ばれる一派がいて、生涯一切れの布も身につけず、丸裸で過ごしていたという。風雨にも寒暑にもめげず全裸を貫き通し、常に屋外で日暮らしする。あるときは日の出から日没まで太陽を見詰め、あるときは灼熱の砂漠に片足で終日立ち尽くし、それでも少しも苦痛をあらわすことはなかった。この文章は最後にローマ国のキリスト教の一派にも全裸で屋外にて隠遁生活を送るものたちがいて、数十名の妙齢の男女が一切れの布も身につけず森林に棲息しているのを見かけたものがいるらしい、と結んでいる。長々と書いたが、キーワードは「全裸」だ。ようは変人集団である。全裸は修行という意味もあるようで、インドらしいといえばインドらしい。話が何光年も飛んでしまったが、この編曲である。私はあまり意識していなかったのだが、ドビュッシーが管弦楽配置するさい、原曲の第三番を第一番、第一番を第二番に変更している。意図はよくわからないが、クライマックスに、より名曲である1番をもってきたかったのかもしれない。ドビュッシーは割と斬新な響きを密やかに加えていて、リズムパターンに重なる音の不協和なさまが、シンバルの轟きに補足されはっきり聞き取れる。この極めて明瞭な録音で聞くととくに、前奏部分では何の現代音楽を聴いているんだか、という錯覚を覚えるくらいだ。もっとも主部に入れば旋律の爽やかな魅力がリズムの不思議な重さを気だるく覆い隠すので気にならなくなる。耽美なパリ音楽院管のひびきはいかにもパリ的な洗練をもってこの曲のごつごつした異様なところを昇華させ、良質のサロンミュージックに仕立てている。これは貶しているのではない。聴き易く、入門には最適です。典雅で優しいハープも絶妙。○。 ,-----,,TITLE: 咽喉許過ぎても,URL: http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/dddfcb69fd28ae4cbbaff68e01b85d0b,BLOG NAME: Wein, Weib und Gesang,DATE: 02/24/2005 05:46:18,レチーナを再び飲んだ。前回は夏にお土産として貰ったので、清涼感を楽しんだ。今回は冬なので開けるのを躊躇っていたのだが、ギリシャの山羊のチーズと野菜のグリルに合わせてみた。結果は、如何しても冷やした液体が少し食道から胃に沁みる。決して潰瘍ではないはずだが、,-----,,,-----,,
サティ:3つのジムノペディ第1番,第2番(原曲3,1番)(ドビュッシー管弦楽編),○ライナー指揮シカゴ交響楽団(DA:CD-R他)1960/3/25live,,小憎らしいほどに完璧な表現で描かれた「サロン音楽」。アメリカ一般市民が想像しうる「上流階級の師弟が集う場に流れる音楽」そのもの。しかしサティは貧乏な一介の酒場のピアニスト兼作曲家であり、後年もダダイストとして富とは無縁の活動を続けたのである。しかしその音楽はドビュッシーによって、「こうも表現可能なほどに」香気を漂わせるものになった。「あなたが欲しい」などサティは今もスタンダードに歌われるシャンソンの作曲家でもあり、その意味で大成功した作曲家・・・の筈だったのだが、この曲にはやはり闇があり、それはピアノの途切れ途切れの音粒の間から立ち上るものであり、擦弦楽器の途切れないレガート音では表現しえないものである。ライナーは小憎らしいほどのデュナーミクへの配慮、バランス感覚により違和感を極力抑えている。ほんと小憎らしい。録音が悪いので○にとどめておく。(シカゴ交響楽団自主制作CDボックスに正規版が収録、別項で◎評価),"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
サティ:3つのジムノペディ第1番,第2番(原曲3,1番)(ドビュッシー管弦楽編),○ライナー指揮シカゴ交響楽団(DA:CD-R)1960/3/25live,同上,ゆったりと揺らぐテンポで繊細な音響配慮の行き届いた名演。録音状態がよければ◎にしたところで、ドビュッシーのやや奇矯とも聞こえる管弦楽配置に対し極力奇矯に聞こえないように注意深くやっている。シンバルも厳かな範囲を越えず弦楽はアタックをけしてしっかり聞かせることがなくフレージングが柔らかい。たいてい旋律提示のヴァイオリンが強すぎて「変なサティ」になってしまうのだが、この演奏ではそれがまったくない。ここは木管楽器を配置すべきだったんじゃないかと思うことがしばしばあるのだが(じっさいそういう編曲もある)この解釈だと違和感がない。両曲とも美観と感傷が人間的なところで融合をはたした表現として特筆できるものだと思う。サロン的といえばサロン的ではあるのだが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:3つのジムノペディ第1番(ドビュッシー管弦楽編),ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団victor1937/12/12,,悪趣味なデフォルメの施された灰汁の強い演奏、でもプーランクの同曲独奏の表情付けも想起する。これはドビュッシー編曲の輪をかけてストコが編曲したようなもの。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:3つのジムノペディ(リチャード・ジョーンズ管弦楽編),◎ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(NAXOS/CAPITOL)CD,,ドビュッシーの編曲を下地に3曲版に作り直したらしい(ライナーがフランス語なのでよくわからん)。なかなかサロン・ミュージックふうの典雅な演奏になっている。アルカイックな雰囲気を醸し出すハープが美しい。珍しく弦楽器が表情豊かだ(3曲目のチェロの「泣き」のビブラートがイイ!)。さびしげな表情の未亡人が白い窓辺で思い出に浸るある晴れた午後といった感じ。嫌いじゃない。むしろ好き。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,
サティ:スポーツと気晴らし,ヴァージル・トムソン(解説、朗読)マッセロス(P)(SLS)カーネギーホール1969/12/19live,,レクチャーのあと笑いを交えた原詩朗読とピアノ演奏が進む。マセロスはうますぎてサティ屈指の名作の奥まで聴かせてきて、かなりスピーディーでもあり技巧的な曲のように演っているのが、サティファンには情緒がないと思われるかもしれないが、上手いのは上手いのである。こりゃドビュッシー同時期の前奏曲集にも匹敵する名作だわ、と思わせてしまうのは、指回し過ぎかもしれない。まあ、舞台でどういうようなスタイルでやっていたのかによるので、1つの演劇のような構成の中のものだし、このくらいの曲なのでマセロスも片手で弾きまくりながら何か視覚的なこともやっているのだろう。絵画と散文を配しサティが得意のアルカイックな書体でしるした楽譜からして総合芸術的な装飾性を示しており、このような形式の上演はただ音だけ取り出して聴かせるより原意を異化して汲んだものとして正統だろう。残念なことにモノラル。しかし瑞々しさは伝わる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:バレエ音楽「パラード」,○マルケヴィッチ指揮NDR交響楽団(EMI)1960/2/15LIVE・CD,,サティ天才!!ストラヴィンスキーはサティのオーケストレーションを無茶苦茶けなしたが、この極限まで削ぎ落とされた剥き出しの和音とリズムからなる骨の音楽はストラヴィンスキーの一連の小規模作品を思い浮かべずにはいられない。もっとも時代的にはほぼ同時期の作品であり、一方的にサティが新しいとも言えないのだが。序奏の静寂はもうそれだけでまったく清澄でかつ斬新な響きにより新しい次元を示している。マルケがバレエ指揮者としての技量を大いに発揮したといえる主部では騒々しいと言うには余りに音楽的な起伏が耳を飽きさせない。パラードの中心主題がやや冷静にすぎる気もするが、それよりこの半ばパロディな世俗的音楽が、演奏によってはここまで美質を引き出され、高貴な響きを産み出すことも可能なのだ、ということにはっとさせられる。変な冷静さがなければ◎をつけるに異論はないが、逆に冷静さがあるがゆえに(チェリビダッケの手法のように)この斬新な音楽の一つの本質を抉り出すことができたとも言えるし、そのあたりは好き好きかもしれない。とにかくパラードの印象をかなり変える可能性の有る演奏なので、この曲を知らない人が聞くと他が聞けなくなる危険性もある。○。モノラルだがかなりクリア。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:バレエ音楽「パラード」,マルケヴィッチ指揮ORTF(forgotten records:CD-R/ina配信他)1955/1/6(5/12放送)live,,放送日とかなり間があいているが、Amazon配信されている1/6のコンサート音源と曲目が同じであることから同一と思われる(Amazonデジタルとina.frで録音時間が違うことが多いが後者は放送そのものを不器用に編集しており(拍手カットなど)、トラックも分けないのが影響していると思われる)。forgotten recordsのものは1/6と記載されている。この演奏はモノラル録音ではあるが、何度も聞きたくなるくらい素晴らしい。注意深く音響がととのえられ、まとまっており聴きやすい。サティの前衛性、奇矯さをアピールするロザンタールとは対極的に、まずはしっかり音楽として聴かせることに専念し、結果作品の価値を「不当なほど」高めている。私はなぜかクレール「幕間」の映画を思い浮かべた…違う曲なのに。ディーアギレフを通して間接的にサティと同じ舞台の空気を吸っていた、これは舞踏音楽の要素がしっかりとある。リズムがしっかりアピールしているのだ。踊りが見えてくる。この時代のパリ。視覚的で、懐かしい、上品さもある。そういえばロザンタールはサティとは親交していないはず。ロザンタールは突き放したようなところがあるが、これは距離感が近い。冒頭の乱暴な和音からして注意深く配慮され協和してきこえ、ピストルやサイレンすら懐かしい猥雑さをかもしつつ音楽の中に溶け込んでいて、最後のウィットに対しては(この上ずった音はマルケの指示だろう)微笑ましい笑いすら起きる。場面場面の目まぐるしい変化の対比がすくないぶん、耳に優しい。拍手はカットされているが、私はパラードを見直しすらした。遥かに技巧にすぐれた六人組は、だがここから育ったのだ、と思った。,(パラードはバレエ音楽ではあるがそう題名に入れないのは、原典全曲なのか抜粋なのか、ただパラードとされている場合があるのであくまで表記に従い統一していない。),-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
サティ:バレエ音楽「パラード」,○マルケヴィッチ指揮日本フィル(PLATZ)1965/4/15東京文化会館live・CD,,終演後の聴衆の戸惑いが信じられないくらいだ。これほど繊細さと猥雑さの極端なコントラストがつけられた「バレエ的な」演奏があっただろうか。速いテンポでどんどん場面転換していくさまは演奏会型式だと確かに分裂症的な印象をあたえるが元がバレエであることを念頭に聞いていくとこれほどちゃんと踊れるようになっている演奏はなかなかない。ライヴで日本のオケでここまでドライヴできるのは素晴らしい。音響バランスに多少の問題はかんじるが(奇矯な音素材が強調されすぎる)、そもそも主部の「猥雑な演奏」のすくないこの曲の録音にあってここまでキッチュなパラードを聴けるのがこの日本公演記録だったというのは想定外だった(死語)。マルケはバレエ音楽で生きる。ただ、オケがドイツ的だ。音色が暗い。安定感があり聞きやすいのだが、個性的でないわりに楽曲の軽さにはあっていない。楽想間の切り替えもはっきりさせず通奏感を持たせすぎている。これはマルケのせいではないだろう。惜しいが○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:バレエ音楽「パラード」,○ロザンタール指揮フランス国立放送管弦楽団(COLUMBIA/ACCORD/ADES他)CD,,パリ国立歌劇場管弦楽団とかシャンゼリゼ劇場管弦楽団とかフランス国立管弦楽団とかORTFとかいろんな書き方をされていて、じつはそれぞれ(ものによってはびみょうな)差があるはずなのだが実質一緒とみなされることが多い、私は打つのが面倒なのでORTFと書いてしまうが実は余り適切な表記じゃないとかなんとかどうでもいいことに拘る人は書誌学者になれ。ORCHESTRE NATIONAL(後年は外国向けにこのあとにデ・フランスとか書いたのでますますわけがわからなくなった)はすくなくともミュンシュのフランス国立管弦楽団じゃないことは確か。,,前口上ばっか書いてますが、この演奏、ロザンタールらしいというか透徹した演奏で輪郭がはっきりとし見通しがよすぎる。ただでさえ現代硝子のように何の色も綾もない、しかし硬度は高く、防弾加工もなされたサティの音楽が、ますます磨かれてまったく見えなくなってしまうほどに「美しすぎる」。スワロフスキー社がひとしくん人形を作ったような(祝1000回・・・そんなになるのかよ)不釣合いな美しさが原始主義的な側面を持つキュビズムを意図した趣旨から外れている気がする(コクトーとの書簡でもサティがピカソの芸風により惹かれていたことがわかる、ちなみにコクトーはさほど相手にせず結局敵とみなしたが、コクトーはまたピカソから画風を絶賛されたり相互的な関係はあり、芸術の世界というのはことほどさようにひとつの論に断ずるのが難しい・・・何がいいたいんだおれ)。ロザンタールのラヴェル系の芸風が強すぎて(音楽的には透明すぎて)、純音楽的すぎてちょっと違和感しきりだった。といってもリズム処理などにはロザンタールならではのハッキリした表現がきかれるのだが、それはある種のアタックの強さであり、リズミカルとかいったものではない。まあ、音盤にすればこうなるわな。しかし「サティは音楽だけでも十分に完成されている」。アリだろうな。ロザンタールのアデ録音あたりに慣れていないと、なんかちょっと遅くて客観的すぎると感じるかもしれない。リズム処理は水際立っているのだが。相対的には恐らく今いちばん薦められる古典的名演だと思うが、劇場で見ないとね。そういや97年くらいに現代美術館でピカソの緞帳撮影したデジカメ写真がどっかへいってしまった。ここに載せるのには格好の獲物だったのにな(当時はデジカメの画素数なんてたかが知れてたわけだが)。やっぱりちょっと古い織物だけど(事実上ピカソの絵は下絵であり織ったのは職人さんであろう)迫力はあった。ディーアギレフ劇としてはミヨーが曲をつけたブルートレイン関連画もあったな。,,ようは古典的名演ではあるが極めて現代的なさばき方をしていて決してロマン派さん方式の演奏じゃないってことです。,-----,,,,,,,,,
サティ:バレエ音楽「パラード」,ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1967/2/15(1968/2/15?)放送live,,同曲の古典的名盤で知られるロザンタール/フランス国立放送管弦楽団によるライヴ録音。一緒に黛敏郎の饗宴も演奏されている。これはまったく、セッション録音と変わらない。演奏精度はもちろん、何しろサティだから、手の加えようが無いわけで、ライヴだからどうだというところだ。率直に、サティ的にやろうとしたら解釈の余地が無いのであり、相変わらずデジタルに極端な楽想の羅列で、ゴツゴツした冒険的書法も無い後期作品(パロディ風味なので意図的なゴツゴツは(冒頭の乱暴なブラスなど)ある)、ロザンタールは客観的に整えたような和声重視の精妙な器楽的表現とキッチュにドガシャーンとやる派手な舞台音楽的表現を、当意即妙に使い分けて効果的に仕上げている。この音楽は簡素きわまりなく、だから逃げようもないのだが、音符も少ないから、一度理解すればオケはブレようもない。安心して聞いていられる。非常に「フランス的な」明るい演奏。拍手は普通。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:バレエ音楽「パラード」,オーリアコンブ パリ音楽院O
サティ:バレエ音楽「パラード」,アントルモン指揮RPO(CBS,sony)1970/5・CD,,そつのない演奏になってしまったか。フランスの専門指揮者のやる透明感ある少々壮大すぎる演奏や、同時代指揮者にたんをはっした勢いとキッチュさを押し出した「いかにもサティのイメージ」の演奏様式からすると突出したものはなく、どちらかというと前者だが、イギリスの色に染まっていない手練れオケによる品の良いパラードの域を出ない。逆に悪趣味を好まない向きはこのくらいが一番入りやすいだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
サティ:バレエ音楽「パラード」,○E.クルツ指揮ヒューストン交響楽団(columbia)LP,,まるでチャイコかブラームスのようなパラード。最初はけっこう楽しめるが、ミニマル的書法とデジタルな展開がレガートなロマンティックな表現を拒否し始めると違和感が否めなくなってくる。高音域でハープを交え奏でられる(演奏的には美しい)曲と中低音域でうねるように重厚に表現される曲があいまってくらくらさせ、とくに後者がミニマルではなくマンネリズムと感じられ始めると、早く終わらないかな、という感覚に囚われる。まあ、でもサティなのであり、編成が大きすぎることもあろうし、ロマンティックな表現もある程度は許容できる度量のある曲なのだな、といったところで○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:バレエ音楽「パラード」抜粋(ピアノ連弾ミヨー編曲),○オーリック、プーランク(P)(FREMEAUX&ASSOCIES)1937/7/15、16六人組のピアノ演奏にはみな特有の美感が内在する。どこか哀しげで感傷的な音、夜のしじまに流れ出る密やかな涙の滴る音。この盤は音楽とコクトーの朗読が交互に収録されているが、私はフランス語無明なので音楽だけ抜粋して聴く。明るくタノシイ皮肉屋の音楽がサティの意図だろうが、このピアノ版では闇夜にうかぶ昨日の夢のような郷愁が感じられる。サーカスの賑わい、古き良きパリ。サティの、簡潔で隙の無い描写音楽はピアノ化によってその特質をさらに強めているように聞こえる。むしろピアノ向きの曲にすら感じる。この時代においてはすでにサティは時代の先端を行く作曲家ではなかった筈だが、いくぶん荒涼とした孤高の音楽世界は時代を超越して今のわれわれにも訴えかけてくる。いや、オーリックとプーランク〜いずれもサティ晩年には彼のもとを去っていった、とくにオーリックは最年少でサティに寵愛されていたため、その強烈な離反はかなりショックを与えたという〜のふたりのすぐれた音楽性によってさらに魅力を増したのだ。サティの硬質で透明なハーモニーの世界はストラヴィンスキーの言うとおりピアノの方がよりダイレクトに伝わり易いようだ。「展覧会の絵」で言うところのプロムナードにあたる「ちゃんちゃかちゃんちゃかちゃんちゃかかちゃかちゃ」は原曲で聞けば非常に世俗的でやかましい音楽に聞こえるが、ピアノになると「とんとことんとこと・・・」といったふうで変な力が抜け聴き易い。反面力感がなく前後の場面とのコントラストがはっきりしない面もあるが上演版でないかぎりはこのピアノ版で十分満足できよう。○ひとつ。パラードは「春の祭典」以来の確信犯的ダダ・バレエとして大騒ぎを起こした。緞帳にはピカソの絵が大きく描かれた、総合芸術的スキャンダルだった。この緞帳は最近?日本に来たが、かなり巨大なものである(ピカソ作と言ってもピカソが刺繍したわけではない)。この曲はミヨー版のピアノ編曲があったような気がするが、わからない。ミヨーはサティのもっとも重要な共同活動家だった。「家具の音楽」の共作は有名。サティの即物的感覚をミヨーはのちの「花のカタログ(花屋のカタログの1ページ1ページの印象を音楽にしたもの)」などの作品で引き継いでいる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
サティ:バレエ音楽「パラード」(ピアノ連弾),○オーリック、プーランク(P)(BM他),同上?,SP録音でCD未復刻というが(web配信されている)私は全集もののCDで持っていた覚えがある。ピアノは巧い。パラードがどういう曲なのかわかるように表現している・・・抽象化せずキッチュに演奏し、サティのごつごつした書法がどこに源流を持っているのかわからせるようなものである。サティは未完成の才能ある作曲家だった。未完成という部分がしかしサティの最大の価値である。新しい音楽への「抜け道」が示されていたからだ。ただ、パラードぐらいになると、音楽的な先鋭さよりもイデオロギーに基づくパロディ性が先に立ち、流行音楽という範疇で捉えられるものになってしまう。ピアニストとしても腕たつ二人はそのプロフェッショナルな部分がサティを真面目な顔にしつらえるきらいはあり、強い印象は与えないが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:バレエ音楽「メルキュール」,ロザンタール指揮ORTF(forgottenrecords)1961/6/6パリlive,,ノイジーなモノラル録音で放送の板起こしか。ステレオ復刻だが左右が揺れる。ロザンタールらしくもなく?前進的で、生命力のある力強い表現は場面場面ではなく全体の一貫性をしっかり持たせ、重い音響(バレエ音楽で重いのもあまりよくないが)、どうも軽快なサティの管弦楽に聴こえない。この曲が人気のない所以かも知れないがサティは「慣れすぎた」。響きの奇矯さや突然の繊細さや、ゴツゴツしたデジタルな変化はかなり抑えられ、凡庸な世俗音楽の流れに少し山葵が加えられた程度の擬古典的な音楽である。セッションであればもう少し透明感と客観性を持たせた演奏をなせただろうか。最後も盛り上がって終わる凡庸性、しかしまあ断ち切り感はある。ブラヴォが飛ぶからサティとして聴かなければ良い演奏なのだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:バレエ「本日休演」のための交響的幕間「映画」,M.コンスタン指揮アルス・ノヴァ合奏団erato1980年2月、映画が残っており、ミッキーマウシング紛いのことをやっていたサティには驚かされる。パラードほど猥雑ではなく清新。ピアノ曲のようにミニマルな趣はない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
サティ:バレエ「本日休演」のための交響的幕間「映画」,○ソーゲ指揮管弦楽団(the criterion collection)1967・映画DVD,,シャンゼリゼのメンバーによるものか。68年映画館”初”上映用の編集版に、67年ソゲの指揮下で録音された旨のオープニングクレジットが入るが、「音楽監督」と解釈できなくもなく、実のところ誰が振ったのかはやや不明瞭ではある。しかし、ここに解釈は不要だ。リズムとフレーズのひたすらの連環。単純に区切られた世界の中で単純な役割を割り当てられた各楽器が忠実になぞるだけの曲であり、この演奏はそこに何か付け加えようという感じもない。ただやけに鄙びた音は意図的に古い録音のような雰囲気を狙ったのか何かの事情でそうなってしまったのか知らないが多分前者だろう。サティのアイデアが最初にあったかどうか真相は知らないが、ピカビアのメモ→クレールの映像→サティのメモ→サティの作曲→デゾルミエールによる指揮(上映)→(ブランク)→ソゲの上映用録音→(トーキー版上映)という流れはいかにもシステマチックで機械的な冷徹な律動が新鮮に好まれた時代をうつしたもののように一層見える。ちなみに前に載せたが、ピカビアのメモとサティのメモはソゲのサティに関する大コレクションに含まれているもので非常に簡素である。敬意を表して○。それにしても耳に残るサーカス音楽だ。ピッピ〜ラリ。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"",-----,,,-----,,,-----,,
サティ:バレエ音楽「本日休演」?,オーリアコンブ パリ音楽院O
サティ:バレエ音楽「本日休演」,アントルモン指揮RPO(CBS,sony)1970/5・CD,,序曲〜1幕と2幕からなり、この蘇演は極めて珍しいのではないか(後注:たくさんあるそうです((泣))幕間をはさんだ完全版と勘違いしていたようです)。間に上映された無声映画「幕間」の音楽のほうが有名になってしまったが、これがサティ最後の作品で、あまりにもスキャンダルを狙いすぎたおかげで揉み消さなければならないほどの名声の傷〜それは「舞台の見えない舞台装置」などダダイストらにとっても同じだが〜になっていることと無関係ではあるまい。ただ、サティの曲はもはやどこにもスキャンダラスな要素はない。きちっと時間を測ってその通りにスコアを割ったような音楽で、しかもその中身にサティらしいごつごつしたところはもはや僅かしかなく、「ふつう」なのである。「飽きてしまう」と言ってもいい。才能の枯渇というより「幕間」の実験に興味を惹かれて、こちらは悔しくも身に着けてしまった処世術〜凡庸な作曲技法〜で仕上げた、アントルモンもさすがにこの長ったらしい曲を最後まで魅力的に聞かせることは困難のようだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
サティ:バレエ組曲「びっくり箱」(ミヨー管弦楽編),○マルケヴィッチ指揮モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団(ConcertHallSociety/SCRIBENDUM)CD・1972/7,,三曲からなるパントマイム伴奏用の耳馴染みいい世俗作品で、ピアノ譜しか残らなかった(元からなかった?)ものが死後ミヨーにより発掘され編曲された。モンテ・カルロとはディーアギレフつながりで縁深いマルケヴィッチがディーアギレフをしのぶ企画内で録音したもの。録音はこの時期らしい安定しないステレオでスタジオ録音としては余りいいとは言えない。マルケヴィッチはスタジオ録音では割合と小粒にまとめてくるが、これもステレオの音場がなければ曲の内容のなさと透明感ある色彩とあいまって俊敏さとそつなさのみ浮き立つ職人的指揮としか受け取れなかったろう。サティも30代前半の作品で破壊的和声の山葵はきかせているもののポリシーまでに至っておらず、ミヨーのそつない編曲が更に没個性的な古風な作品という趣を助長している。美しいが音だけで成り立たせるのは難しい。キッチュな部分が少ないのでマルケヴィッチもただ立派にまとめるしかなかったのか。アマチュア臭のするオーダーメイド作品、こうやるのが関の山かもといったところで、○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:バレエ組曲「びっくり箱」(ミヨー管弦楽編),ミヨー指揮BBC交響楽団(bbc,carlton,imp)1970/9/21サティはノーテンキだなあ。いや、ミヨーがノーテンキなのか。楽しく猥雑な音楽。サティには旋律の才というものは確かにあって、ごつごつした不協和音のひびきや、ぶつ切れの断片の不器用な接続、それら生硬さを別とすれば、聞ける音楽、である。これはサティがバレエ・パントマイム用に準備した3楽章の小品で、死後残されたゴミだらけの部屋を六人組メンバー+で大掃除したときにピアノの裏から見つかったピアノ譜を、ミヨーが管弦楽配置したもの。3楽章など複調的な響きはミヨーふうだし、モチーフの執拗な繰り返しはストラヴィンスキーを思わせるところもあり面白い(勿論どちらもサティが先んじて使用していた手法なのだが)。最後の奇妙に協和的な和音はサティのオリジナルかどうか疑問だが、「無害な小曲」として楽しむことはできよう。そういう曲。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
サティ:猿の王様を目覚めさせるためのファンファーレ,M.コンスタン指揮アルス・ノヴァ合奏団erato1980年2月録音。他に録音は無いのではないか。サティは朗々と歌わせることはしない。音はすべて断ち切られる。そこが普通ではない。これは古典音楽的なマジメさもある,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
サティ:猿の王様を目覚めさせるためのファンファーレ,ピエール・ティボー ジャヌト
サティ:家具の音楽(1920),M.コンスタン指揮アルス・ノヴァ合奏団(erato)1980/2・CD,,この曲は通常三曲とされるが、実際は5曲を数え、現在何故か2曲は欠品扱いで順番も違えてある。ここには三曲のバージョンがミヨーのアンサンブル編曲によりしつらえられている。,,ソクラートのための習作が二曲(2.鋼鉄の壁紙、3.音のタイル張り舗道)、マックス・ジャコブのための幕間音楽が二曲(トマ、サン・サーンスの素材による「二つの家具の音楽(ビストロにて、サロン)」実演のための)、ユージン・メイヤー婦人のための幕間音楽(1.県知事室の壁紙)が一曲、5曲。(「猿の王様を目覚めさせるためのファンファーレ」が初めに入れられることもある),,このうちソクラートの初期の素材による部分が重要視されるが、実演されたのはジャコブのための二曲であり、サティが一方的に遺恨を持っていたからとも言われるが世俗的で「傾聴されない音楽」として、トマとサン・サーンスが使われたと推測されている。そもそもジャコブの会であり、しかしまあ私も含めて家具の音楽を「それ以外」で認識してしまっている以上、感想は以下になる。サティのコンセプトに同意する者はミヨーしかおらず、人によってはそのコンセプト自体けして新しいものでもないともいう(音楽のBGM化)。サティの意図はもっとダダ寄りだったのではないかとする人もいる。会場で家具の音楽の発注を受け付けており、さしずめ家具のオーダーメイドといったサティらしい発想先行のものだったのだろう。「サロン」を聴くと「わかりやすいパラードの主題」といった代物で、堅い鳴らし方や和声の一部はサティだが、ほとんど学生の提出作品的で、しかも主題はサン・サンなのである。,,?ミヨーと共謀した「BGM」の実験は失敗に終わったが、プープカプープカやられればそりゃ聴いてしまうだろう。ヴェクサシオンのようにピアノ一台で音の連環を聴かせるのが適切だったと思うのだが。,-----,,,-----,,,-----,
サティ:家具の音楽(1920),M.コンスタン指揮アルス・ノヴァ合奏団 (ERATO)1980・CD,同上,4、5年前に沢田研二が司会をつとめていた「ワーズワースの庭で(だったっけ?)」の猿真似番組で、「エリック・サティと椅子」という特集がなされたことがあった。サティ自体ブームが去り、冷静な視点から寧ろ冷ややかな視線すら注がれるようになっていたこのころ、何故そういう特集がなされたのか判然とはしない。 ”BGMの元祖、ミニマル・ミュージックの元祖”として、この有名な「家具の音楽」をとりあげ、二十世紀はじめのアール・ヌーヴォ家具と無理矢理結び付けられていた。ケージのような才能ある作家が必要以上に騒ぎ立てたことで、サティ存命のころ繰り返されていた、「異常に持ち上げて一気に落とす」ブームの波は、戦後現代によみがえった。不思議なのだが中世の王の間で食事時に奏でられた室内音楽や、酒場でよっぱらいのために奏されたピアノ音楽は、BGMではなかったのだろうか。教会や寺院で宗教者が繰り返す音律を持った祈りの言葉は、一種のミニマル・ミュージックではなかったのだろうか。取り立ててサティだけを持ち上げる(=次にはすとんと落とす)ことも無いように思う。寧ろ作曲家にとっては迷惑だろう。奇矯な発言や一種哲学的雰囲気を持った生き方、趣味の特異性(このひとの細密な戯画や飾り文字は一見の価値がある)、存在そのものがパフォーマンスであったから、ストラヴィンスキーが指摘した「管弦楽」における要領の悪さなども、「痘痕も笑窪」的に受け取られている(この音楽でも「いつもと同じ」スコアリングがなされていて、それ自体特徴的でもなんでもない。貧者のミサやヴェクサシオンのころの音響実験のほうが、ずっと豊穣だ)。何より彼の放つ示唆的雰囲気に、パリの芸術家たちは、「自分の中にある」デーモンを引き摺り出された。音楽家でいえばラヴェルやミヨーなど良い例だ。ラヴェルは初期サティの精華を受け継いだのみだが、実験音楽という行為自体を好んだミヨーは、「家具の音楽」の共同作業後も、即物的主題による小曲を同様の趣旨で発表している。特異ではないが佳い曲だ。まあ、でも音楽家以上にダダイストのちシュールレアリストをはじめとする画家・芸術運動家への影響が大きいだろう。サティがまさに本当の「異能の持主」であった若い頃、毎夜「黒猫」でピアノを奏きながら、不躾な酔客たちに店の調度の如く無視され続けた経験が、後年”発見”されもてはやされてのち諧謔的精神と結びつき、「きかれない音楽」へと結晶したのではないか、と私は勘ぐっている。短い間奏曲の一部もしくは古典音楽の展開部のごく一部を切除したようないわば「音の断片」を、ひたすら何度もくりかえすことにより成り立つこの三曲、傾聴してきくには余りに単純で、意図どおり「無視して」聞き流すには「癖」がある。1曲め「県知事の私室の壁紙」3曲め「音のタイル張り舗道」は、特に妙な「力」がある。同曲を画廊で密かに初演しようとしたさい、客を静粛にさせてしまったのも無理も無く、パフォーマンス作品としては「失敗作」だった。最弱音で流したとしても、ペットの堅い響きや、主題の妙な魔力が脳のどこかを捉えてしまうだろう。耳について離れない。これは魅力的で離れないのとは違う。このあたりがサティらしさなのだろうが、どうも「オンガク」とは違う気がするのは私だけだろうか・・・。さて冒頭にあげた番組には一人とてつもなく素晴らしいゲストがいた。マドレーヌ・ミヨー夫人である。出演時間はほんの僅かで、文献でつたえられる「家具の音楽」の失敗風景をそのまま語っているにすぎなかったが、生前のサティを知っているしかも最重要人物が、こんなしょうもない(失礼)番組に出たことに感動した。女優らしい夢見るような口調。今でもお元気なのだろうか。何を書いとんねん、という方のために。サティは晩年の一時期、環境音楽的な発想にとらわれていた。積極的に聞かれようとしない音楽、つまり絨毯や椅子といった家具調度品のように、生活の中に即物的に取り入れられる軽い音楽の在り方を提案しようと思い付いた。お高くとまりコンサート会場でご婦人方の涙を誘う音楽などくそくらえ、そこで同じような信念を抱き、親しく交わっていたコクトー&六人組サークルの代表格ダリウス・ミヨーの助力を得、大正9年3月8日画廊で行われた友人の芝居の幕間に、「絵や椅子、光、温度と同様の快適さをもたらすものとして」試演をこころみる。だが、事前に「無視するよう」周知されていたにもかかわらず、客は会話を止めたちどまり音楽に耳を傾けてしまった。失敗。「ほほえましきいたずら」とされた。反権威の意図すらひとつのステイタスを持つものとして認められてしまう妙な社会。机上の芸術がお遊びのような離合集散を繰り返す。そんな夢見るパリはやがて戦乱のなかに消え去るが、サティ自身はそのまえに、さっさと「お暇」申し上げたという次第(1925年没)。巨人ドビュッシーの影にあって、市井の孤独者として生きた”中世の優しい作曲家”であった。(2000年頃記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
サティ:3つの交響的ドラマ「ソクラート」,○ダンコ(sp)ミヨー指揮ローマ・イタリア放送交響楽団(INA)1954/4/5live・CD,,いやー、3曲聞きとおすのはけっこうたいへんです。起伏の無い曲であり、詩はドラマ的な部分は少しもなくただの読み上げに近いものであり、意図はそこにあり、ちゃんと言葉を理解して聞かないと正直音だけでは辛いかもしれない。ミヨーはサティに最も近しかった作曲家だが、この演奏はダンコの歌唱含めてロマンティックに過ぎる気がする。構造の繊細さも録音の古さはともかくミヨー自身の作品のようなドラマ性が響きあるいは「旋律」の起伏の中に織り込まれてしまって、際立ってこない。とはいえ「死」はやはりどうしても深い感傷を残さざるをえない部分が確かにあり、ミヨーの思い入れがそこに加わってどうなのか、というところもあるだろう。ダンコは巧い。雄弁とまでは言わないが歌いすぎ、表現しすぎである。終始つけられた細かいヴィブラートがどうもサティにそぐわない感じがした。オケがRAIなので音に生気がありすぎるところもあるか。希少記録として○にしておく。アンゲルブレシュトのペレアス抜粋とラヴェルのシェヘラザードのいずれも初出ライヴが組み合わされた「歌曲集」。ところでこれをミヨーによる管弦楽編曲版としている人がいるけど、どこをいじってるの?,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:3つの交響的ドラマ「ソクラート」,◎ラロー(sp)ソーゲ指揮管弦楽団(CEPEDIC)LP,,ソーゲはサティが好き過ぎて一大コレクションまで築き上げてしまったが(この曲の原譜もソゲ・コレクションにあったのではなかったか)、サティ最後の使徒としてのその熱さが、演奏をほんとの交響的「ドラマ」にしてしまっている点は賛否あるだろう。私は聴きやすくて、感傷的になり、◎をつけてしまったが、サティの意図はソクラテスの理念の白骨化した標本であり、語謡のように感情のない歌である。それには沿っていない。ただ・・・私はこの「ソクラートの死」は大好きである!最後、もっとぷつんと切れるさまがはっきりしていればもっと。ちょっとなにげにぷちっと終わるのが短すぎる感じもする。でも名前は不詳だがオケも含めて抑制的な中にも激しさを篭めて秀逸。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
サティ:3つの交響的ドラマ「ソクラート」,◎レイボヴィッツ指揮パリ・フィル他(EVEREST他),,モノラルもあるというが未聴。レイボヴィッツはフォルムを明瞭にし繊細な叙情を注意深く音色にこめて、臭くならない起伏をつけてこのカンタータを非常に聴きやすく仕立てている。美しさの中に秘めたる感傷性が素晴らしく迫ってきて、春のうららかな陽気の中に、皮肉で残酷でしかし化石化した遠い事件を見るような思いがする。歌唱も適度にやわらかくサティの突飛さや内容の強さを適度に緩めている。6人組的な演奏とも思った。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:3つの交響的ドラマ「ソクラート」〜V.ソクラートの死,○モンタイユ(SP)ロザンタール指揮フランス国立放送管弦楽団(COLUMBIA/ADES他)CD ,,史上もっとも繊細なソクラートの死だろうな。ソクラートはそのまんまやろうとするとサティ的な暴走を始める。だからストラヴィンスキーはこのての単純美を反映するものとして管弦楽は適切じゃないとピアノ伴奏版を推したわけだが、ロザンタールのやり方でやると、殆ど朗誦な詩すら「歌」に聞こえる暖かさがあるにもかかわらず、雰囲気としてはドビュッシーの靄すら思わせる非常に注意深い響きへの配慮がみられ、奇矯さが殆ど無く、聞きやすい。ちょっと「歌いこみすぎ」て起承転結がついてしまった最後ではあるが、サティマニアでない限りこういったしめやかな終わり方のほうが印象的だろう。ほんとはあっさり途切れて死ぬ、全く感傷をさしはさまない「哲学的な死」であることこそが本来の意図である筈なのだが。ちょっと誤解を生じる書き方をしたが、ロザンタールなので、ラヴェル的に輪郭は明快。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:3つの交響的ドラマ「ソクラート」〜V.ソクラートの死,◎デレーヌ(T)ソーゲ(P)(ORPHEE)LP,,テノールによる珍しい演奏。この曲はやはりストラヴィンスキーの言うとおりピアノ伴奏版にかぎる。しかも女声による不安定さが払拭されなかなかいい感じに沈んで聞こえる。感情が顕わにならない歌い方、演奏はいたって安定しており、どうして難しいこの大曲を飽きも違和感も感じさせずにかなできっている。最後のサティならではの断ち切られかたは成功している例に出会ったことがなくこの演奏もその範疇に漏れないが、それでもそこに至るまでの生臭さのないフランス的としか言いようのない繊細でも面白みのある音楽の流れは十分に魅力的である(この「魅力」は「艶」ではない)。いわゆるアルクイユ派出身の「直系」作曲家ソゲの演奏もいい。プーランク的なスピードというかテンポ感はあるにはあるのだが、プーランクのように恣意的な解釈を入れず注意深く演奏している。これが絶妙である。サティのおそらく最も評価されているこの曲、フランス語の歌詞がわからなくても聴きとおせるというのは相当な演奏レベル。◎にしておきます。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
サティ:左右に見えるもの(眼鏡なしで),ギドン・クレーメル(Vn)エレーナ・クレーメル(P)(PHILIPS)1980版・CD,,ゆっくりすぎると思った。だいたい70年代の再発見以後録音されたサティは硬質な不協和音を一つ一つ忠実に響かせることを目的とし、横の流れ(「時間」)を無視するかのように非常に遅くインテンポで演奏されることが多いのだが、この曲は珍しく擦弦楽器を使っていることからもわかるとおり、ある程度「生きている」必要があり(死んだ神の目線からの現代楽器ピアノと卑俗な人間の目線からのロマン派楽器ヴァイオリンの取り合わせが妙なのだ)、クレーメルの余りに丁寧で「哲学的な」演奏は含みとしてある本質としてのエスプリに不向きだと思う。いかにサティが破壊的意識をもって「和声」を組み立てていたかがわかるものの、クレーメルが技巧派すぎるということもあってちっとも血が通っていない。だから面白みがないのだ。各曲の描き分けも不明瞭である・・・コントラストが重要なのに。音色が硬く金属質で比較的細いため、共にサティ的な静謐なフレーズを奏でるときでさえピアノ負けしている気もする。とにかく、考えすぎだ。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
サティ:左右に見えるもの(眼鏡なしで),◎トゥルトゥリエ(Vn)チッコリーニ(P)(EMI/PATHE)1970初出・CD,,この曲は奇跡的によくできた曲である。サティがこのスタイルで他に室内楽を書かなかったのが不思議なくらい同ジャンルにおいて独特の境地を示しており、決して筆のすさびではない。楽想的には中期サティのピアノ曲と同じものがあり、パロディ性が強く、一方で洗練・凝縮・単純化された書法や旋律を解体し伴奏と装飾音形だけで短い曲を形作るという斬新なやり方もはっきり表れている。それらのかもす空気感、透明で幻想的な流れはヴァイオリンという生臭い楽器を用いてもまったく失われず、寧ろその魅力が倍加されている。まるでヴァイオリン的な用法を馬鹿にしたようなパッセージも数多いが、それが毒のある雑味として導入されているわけでなく、見事にピアノと調和し、しっかりアンサンブルしているのである(アンサンブルというほど組み合わないが、掛け合いというくらいには組み合っている)。サティの弦楽器がこれほどサティ的情感を表現できていることに驚かされる。題名や3曲の標題はあきらかにダダイズム的でたいした意味はない。伝統的なコラールからはじまり子供音楽のパロディ的なフーガ、そしてなかなかウキウキの終曲幻想曲の最後にはなんと伝統的なヴァイオリンのカデンツァ(的なソロ)が入るが、どこかサティ流儀で、パロディというほどには野暮ではない。何か全てが寸止めされるような余りに短い3章だが、この完成度、サティ好きを自認するなら必聴だ。サティの魅力をまたひとつ発見できるだろう。ヴァイオリン的にはとくに難しくない。でも、サティ風に演奏するのにセンスは必要だろう。少なくとも情感を込めてはいけない。ピアノも同時期の独奏曲と非常に似通った感じでとくに難しくはなさそう。この演奏は数少ない音盤の中でも最も叙情的で美しい演奏である。ちょっと高尚すぎるかもしれないが。譜面は現在は極めて低額で手に入ります。◎。 ,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,
サティ:左右に見えるもの(眼鏡なしで),◎ボナルディ(Vn)ビリエ(P)(ARION,CBS),,おお、サティだ。繊細でシンプル、リリカルな雰囲気とさりげない風刺。どこかの哀しみ。非常に綺麗に純度の高い演奏ぶりを示している。ちょっと小粒かもしれないが、曲が小粒なのでバランス的には正しい。サティはけっこう室内楽への興味も持っていたみたいで、とくに弦楽器作品には挑もうとした痕跡があるが、結果としてのこされたものは伴奏としてのものを除けば非常に少ない。サティの単純化された書法がピアノとヴァイオリンそれぞれに注意深く反映され、おのおののパートとしても素晴らしく、けっして過度でも疎でもない、じつに個性が簡潔にはっきりと示されている佳作だ。からこそ、一般に普及させられたものとしてはこれしか残せなかったのだという見方もわかる気がする。模範的サティの演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
サティ:左右に見えるもの(眼鏡なしで),◎ルビン(Vn)スパロウ(P)(fantasy) ,,この曲でまさか鮮やかな技巧を見せ付けるスタイルの演奏記録があるとは思わなかった。繊細でひそやかな表現をとったり、キッチュで生硬な表現をわざととったり、サティをどのように表現するか、という点でわりと「予想通りのサティ」を演出する向きが多い中、これは気合が入りまくりで二曲目の速弾きなどちょっと勘違いのような感じをおぼえるが、逆にサティが皮肉った名技的な楽曲「側」のスタイルをとることで逆説的に意図を読み取り表現したのか、とはたと膝を打った。カッコイイ。◎。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
サティ:自動記述(1913),グレイツア(p)(VOX)VOX廉価盤2枚で殆どの曲を聴くことができる。サティにうってつけの強調しない解釈ぶりや、安定して不変のリズム、残響の無さが、「サティ像」を彫刻する。だが、この曲はもう少しゆったりとした表現でも良かったか?…しかし、曲自体サティの「客観性」を最も具現化した題名を持つ(「自動記述」とは作者としての人間の“介在”しない作品ということだろう)ことからも、このような感傷を排した演奏をきくべきなのか?…にしてはややエキセントリックかも?,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
サティ:自動記述(1913),プーランク(p)(CBS)ロマンティックすぎるきらいもあるが、好きな演奏だ。残響が心地よい。柔らかい抒情がある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
サティ:潜水人形抜粋,○ベヌイ?(SP)J.ウィーナー(P)(FRENCH BROADCASTING SYSTEM)LP,,同時期に作曲されたピアノのための夜想曲、ソクラート抜粋からなる二回分の放送記録。ウィーナーはピアノ曲集がCD化もされているが、ここではヴィエネルとされている。三曲をとりだしているが子供の歌唱に近づけ(ほんとに子供か?)おもしろく、サティの手慣れた小歌作曲手腕を楽しめる。サティの独自性とパロディのバランスが1番とれていた時期だろう。幼児性が素直に発露しているのがいい。歌手名疑問。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:天国の英雄的な門への前奏曲,○プーランク(P)(ACCORD他)1956プーランクやフェヴリエが独奏・重奏したサティの盤、複数社から出ていたCD、LP群を一気に1枚のCDにまとめあげた恐ろしくコストパフォーマンスの高い盤からの一曲です。アコードのフランス音楽歴史的録音シリーズはまったくEMIの廉価盤と並んで恐ろしいほどお買い得。私はなんだか今までの収集が阿呆らしく思えてきてならない。さてプーランクの演奏はかなり表現意志が強い。サティの楽曲の根本に横たわる歌心を巧く引き出し、ひとつの物語性を持たせ説得力ある演奏を繰り広げている。プーランクのジムノペディ1番については別項に書いたが、サティ本人が聞いたら顔をしかめるかもしれない。現在のサティ演奏の流れからいっても異端である。だが、初期作品の旋律に感傷性が無いといったら嘘になる。このペラダンの神秘主義に感化されていた時期に書かれた作品も、短いながらも剥き出しの新鮮なハーモニーに載せて流れる旋律はドビュッシーやラヴェル(とくにラヴェル)を予言するようなフランス印象派の繊細な感覚に満ちている。結局印象派とは訣別して音楽の単純化を求めたサティも、若い頃はある程度はこういう曲を書いていた。プーランクは早めのインテンポをとっているが、重々しい和音と繊細な和音のコントラストを激しくつけて楽曲の起伏を強調している。ともすると静謐に始まり静謐に終わるような曲、しかし標題からすると重々しさが無くては形にならない。というわけでプーランクの解釈は真をついている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
サティ:馬に乗った三つの小曲,○ロザンタール指揮フランス国立放送管弦楽団(COLUMBIA/ADES他)CD,,組み立てられた三つの小品、組み合わせられた三つの小品、いったいどれがほんとうの題名なんだと言いたくなるが、結局意味の無い言葉と隔絶した奇矯で美しい音楽の集まりである。あきらかに対照的な作風ではあるものの発想の源泉にアイヴズと同じものをかんじる。ただ、ロザンタールのアクリル板でできたキューブのような透明で軽く固い演奏できくと、中期の面白さをかんじることができる。しょうじきあんまり印象には残らない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:馬の装具で,○ロザンタール指揮フランス国立放送管弦楽団、モンティル(COLUMBIA/ACCORD/ADES他)CD ,,パラードとのカップリングはちょっと分が悪い。まあ、ちょっとヘンな曲という印象をのこすだけであった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:馬の装具で,ゴールド&フィッツデール(P)アンサンブル(columbia/sony)1953/1・CD,,四手作品としてはもっとも有名なもの。少なくて硬い音響の羅列、サティの美学が標題と切り離されて存在する。ニ手作品とくらべて私個人的には音が多すぎるというか、掴みづらい小品感があり好んで聴く曲ではないものの、この演奏がことさら醒めているから却ってサティ的過ぎて聴きづらい面もあるが、とても個性的である。私のレコードではミヨーとドビュッシーに挟まれているが、三者三様、強いて言えばやはりドビュッシーに近い世界にも感じる。本質的に世俗性をはらんだミヨーからは遠い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:夜想曲,○J.ウィーナー(P)(FRENCH BROADCASTING SYSTEM)LP,,ウィーナーはピアノ曲集がCD化もされている。さりげなくぶっきらぼうにサティ風の演奏を目指しているが、ニュアンス表現に特有の解釈が読み取れる。ペダルを効果的に使い分けるなど、なかなかいい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:梨の形をした三つの小品〜二曲,○オーリック、プーランク(P)(BM他),,これは護摩粒を撒くような素晴らしい表現の作曲家兼ピアニストの音楽が楽しめる。短いしパロディが先にたつ曲でもあるが、それでもリリシズムをたたえた感傷が心を打つ。リズムの面白みもしっかり伝わる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サティ:梨の形をした三つの小品(デゾルミエール管弦楽編曲),(ina)デゾルミエール指揮ORTF1950/7/18シャンゼリゼライブ、編曲が上手すぎてサティに聴こえないのはともかく、作曲家直伝?ということで歴史的価値がある。三つの小品に四曲加えて七曲、サティが楽章ごとに様式を違えているのがよくわかる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
サティ:臨終の前の思索,◎プーランク(P)(ACCORD他)1956惚れ惚れするような美しい作品群であり、楽曲間のコントラストも明確で変化に富んでいる。小さなダイヤの結晶のような美しさ、単純な中にも必要な音楽的哲学はすべて内包されている。ドビュッシーのピアニズムすらこの中に取り込まれる。完成期のサティの作風をもっともよくあらわした作品のひとつと思う。短いだけにボロが出なかったとも勘ぐれるのだが、そもそもサティはこの長さ(3分くらい)の作品しか(ピアノでは)遺していないのでそう断じるのはそもそも無粋なやり口だろう。プーランクは確固たる歩みでこの曲のフォルムを明確化し、繊細なひびきと一寸聴き不器用な転調をうまいバランスで生かしたサティ像を描き出している。非常に巧緻な演奏。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
サティ:3つの歌※抜粋の寄せ集め,ミヨー (P) バッソーリ 1929
サティ:3つの組み立てられた小品,ロザンタール ORTF
サティ:ジャック・イン・ザ・ボックス,ミヨー BBC SO