-2019/1/9(1/22修正)サ行 satie、shostakovich,stravinskyは別掲
サマズイユ:カンタービレとカプリッチョ,カルヴェ四重奏団(melo classic)1948/11/29パリ放送録音・CD,,こういう「カンタービレの曲」に向くんでしょうね、結局。オールドスタイルなカルヴェら(ほとんど上二本だけという気もする)の流儀は正確かつ厳格さを求められる現代曲には向かず、あるていど自由に歌える少々古風な曲じゃないとだめ。自在なボウイングにあわせたポルタメントにてんめんとしたヴィヴラートは音程をブラすし、同時放送されたミヨーでははっきり言ってハマらなかったが、長い音符からなるロマンティックなメロディをもつこの曲ではとても感情的で、救われる。個性は鰻の山椒程度にしかあらわれないが、案外よい、ほどよい近代フランス音楽なので機会があれば。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サラサーテ:カルメン幻想曲(ビゼー原曲),タシュナー(Vn)レーマン指揮バンベルク交響楽団(ANDROMEDA他)1953/8/21・CD,,これはイマイチだ。凄く上手い、というかこの曲は思いっきりソリストの腕を見せ付けるために作られているのでその点では凄みはある。しかし古今のトップクラスのソリストにくらべ技術的にどうかというとけして上位ではない。ドイツ的な重く切り裂く弾き方からは南欧の楽天的な世界は生まれないのか。ポルタメントを駆使する緩徐主題のメロメロぷりたらなく、これは勘違い演奏かもしれない。もうちょっと力を抜く場所もあったらいいのに。同じ名前の編曲は他にもあるがサラサーテのものは古風。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン,○クリモフ(Vn)スヴェトラーノフ(P)(LANNE:CD-R/MELODIYA)1982/4/13音楽院live,,板起こし。この曲にかんしてはライヴということもあり双方荒い。技術的な問題を感じさせるスヴェトラの誤魔化しに始まり(伴奏ピアニスト専科の人にはありえないタッチではあるがメリハリをつけるための表現の幅と好意的にも捉えられる)終盤は速さと強靭さに正確さがついていかないソリスト、だがライヴであれば十分楽しめたろう。金属的な烈しさはこの名曲リサイタルなプログラムだとロシア様式そのもので(録音であればコーガンのものみたいなかんじ)、このコンビだからというわけではない。つんのめるような激烈さ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン,エルリ(Vn)ビュロー(P)(meloclassic)1952/12/15パリ フランス放送live・CD,,エルリは前半では音が細く、表情変化のつけづらい一定した明るい音色を堅持している。後半激しくなると重音が出てくるせいもあるか、とたんに迫力が増し、聴き応えが出てくる。もしくは録音が音量変化をうまくとらえられてないのかもしれないが、前半の冴えなさとの対比が面白い。ピアノは軽すぎるかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン,作曲家(Vn)不詳(P)(HMV/EMI他)1903・CD,,鈴木清順翁鎮魂、というわけではないが取り上げる。あまりに有名なSP原盤だが(録音は蝋管だろう)演奏自体は手堅くオールドスタイルの踏み外したところは皆無。中年のサラサーテがもはや技巧をひけらかす年ではなかったのもあるだろうが録音時間制約や当時の録音に対する意識が「いつもと違う」演奏を記録させた可能性はある。細かい音はもちろん聴こえず、ピアノを識別することすら難しい局面まであるが、想像力で補って聴けば左手指は回りまくり、きっちり時間通り四角くおさめた職人的上手さに納得する。冒頭こそあっさりしすぎているように聴こえるが一貫してそのスタイルなのである。この復刻(1991)は裏表を返す時に何か言葉が入るのをそのまま入れてあるが、内田百閧フ不安を醸す暗喩的想像を掻き立てる程の代物ではない。三音程度の声である。音楽家の声という意味ではチャイコフスキーの方が喋っている。,-----,,,,,,,,,,,,,
サルマノフ:交響曲第3番,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(DREAMLIFE他)1965/11/24live・CD,,一つ言えることは、この作曲家の曲の録音のほとんどがムラヴィンスキーによるということだ。私情をはさんでいると言ったら言い過ぎかもしれないが、親友ではあった。作風はまったくこの時代の「歪んだソヴィエト音楽」そのものであり、ショスタコやミャスコフスキーなど(ボリス・チャイコフスキー寄りかもしれない)同時代の腹に一物持つ交響曲作曲家のくらーい作品に似通ったかんじで、旋律があっても美しく聞こえず畸形化し、終楽章も死ぬように終わる。唯一聴けるのが3楽章のスケルツォで打楽器系の特殊な響きとリズムが面白いし独特の民族性を煽る。ムラヴィンにしてはそんなに巧いと言うほどの演奏ではない気もする普通の演奏。曲的に3楽章だけを評価して○、マイナスがないという点で○。よって○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サン・サーンス:アフリカ,○作曲家(P)(ARBITER他)1904/6/26・CD,,2006年初出「フランス・ピアノ伝統の創始者たち 1903-1939」所収。驚くべき初出音源も含むこのSP復刻を中心とする良心的なレーベル、雑音慣れしているならその状態の悪さをおしても出そうとする心意気に共感してどれでも聞いてみてほしい(新しい録音や知られざる演奏家モノも出している)。この曲はサンサンが積極的にオリエンタリズムを「あくまで素材として西欧音楽のイディオムに取り入れた」ものの典型である。更に過去のモーツァルトなどの作曲家にもこのような異国ものはしばしば見られるが、その延長上にあるとも言える。旋律とリズムに新奇なものを取り入れているものの全体としてこれは非常に巧く西欧化された、というかサンサン化された職人的作品となっていて、ピアニストの腕をそつなく見せ付けることのできる小品にすぎない。サンサンの腕は言うにおよばず、けっこう録音を残しているがいずれもパラパラ胡麻を撒くようなそつない指先のタッチがかっこいい。ケレン味の一切ない品のいいものだ。短いのでこれ以上は言及不可。○。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
サン・サーンス:アルジェリア組曲 〜フランス軍隊行進曲,○作曲家(P)(EMI/APR)1919/11/24いやあ、よく回る指!ライナーにもあったが、かくしゃくとした演奏ぶりはこの人が非凡なピアニストでもあったことを改めて思い知らせる。84歳だと!曲のほうは楽しげなラテン系。シャブリエなんかを思い起こす。近代でいえばプーランクやミヨーやフランセあたりか。人を食ったようなところもあるサン・サンらしい機知に富んだ曲。なつかしき時代の曲。・・・今日、中古屋を逍遥していたら、10年余り前に買うのをためらった「大作曲家50人自作自演アルバム」のボックスが、新品未開封で出ていた。いや、出ていたのは知っていたが、買い手がつかないのか、今日は半額セールの棚に出ていたのである。未開封なので内容を確認できなかったが、まあ、分厚いライナーと6枚のCDで6000円なら安いほうだろう。思い切って買ってしまった。開いて見ると、自作自演にいれこんでいた時期に集めてしまったものばかりだったが、このサン・サーンスやフォーレ、ダンディなどは未入手だったので、まあよしとしよう、というところ。これらとて、かつてはバラでも出ていたものだろうが、まあ、昔買えなかったウラミをぶつける意味でも、買ってよかったのだ、と自分に言い聞かせる今日このごろ。・・・ ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
サン・サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3番,メニューヒン(Vn)ガストン・プーレ指揮LSO(documents他)CD,,ブルッフの次に聴くべき、弾くべきロマン派協奏曲として位置づけられており、残念ながら作曲年代が遅すぎたというか、いきなりチャイコフスキーへ飛んでしまう状況にはなってしまったが、サンサンならではの創意(二楽章末尾と三楽章最初の方のフラジオ用法なんて耳の良い作曲家じゃなきゃ思いつかない繊細かつ個性的なもの)は突拍子のないところがなくまるでブルッフの一番の簡素に過ぎるところをしっかりリフレッシュして書き直したかのようで安心して楽しめるし、要求される技巧的にも特に三楽章では名技性を盛り込みしっかり一段上のものに仕立てている。型式にこだわった結果、伝統的な様式をことさらに強調し、演奏家に細部に宿る霊感を隅へ追いやるよう仕向けるところはあって、いかにもフランス的な例えば有名な一楽章第二主題の甘やかなメロディもさらっと現れ埋没してしまい、結果ドイツ的な堅牢さの前に飽きる人は飽きるだろう(私も)。逆に型式にこだわって聴けば何ら問題はない。極めて器用なところがこの多作で、スコアをよく書き込む作曲家(一流のピアニストであったが凡百のピアニスト作曲家のような他楽器への理解不足はまったく感じられ無い)の印象をむしろ薄くして、ただ筆の遊びで書き流した「動物の謝肉祭」組曲が売れてしまい今も代表作扱いというのは本意ではないだろうが、このあたり、ミヨーやオネゲルにも通じるフランスの多作家が受ける評価の一つの傾向でもあると感じる。この頃のメニューインは素晴らしく冴えている。音は強靭で高音でも痩せることは決してなく(終楽章で最高音を一箇所とちっているように聴こえたが極めて珍しい)、後年の柔らかさこそ無い、ただ弾きまくる感もあるにはあるが、復刻状態にもよるものの同時代の演奏家のもつ香気の残り香くらいは漂わせ、僅かにポルタメントも入れて演奏しているところも聴かれる。ただメニューインにしてはかなり初期的というか才能と技巧だけでブレなく正確に弾きまくるスタイルで、当時としてはこのような演奏は斬新だったかもしれない。音色が悪いというわけではないがそこは余り売りにならず原曲の本来持つ色がそのまま現れている。父プーレはピタリとつけて、色彩的で勢力的な演奏スタイルをメニューインと融合させている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サン・サーンス:オラトリオ「ノアの洪水」前奏曲,ブルン(vn)メサジェ指揮パリ音楽院管弦楽団(columbia/vogue)1918/11・CD,,重厚で古風な序奏から入るがヴァイオリンソロによる甘いメロディが始まると、景色が明るくなり、職人サン・サーンス節が単純につづられていくことになる。いかにも古いメロメロのポルタメントが、しかし音楽に命を与え、和声も軽くフランスの演奏である主張はしている。ノイズはひどいがここまで聴き取れればこの手の曲は十分。メサジェのエスプリも伝わってくるようだ。妄想だけど。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サン・サーンス:ピアノ協奏曲第2番〜抜粋,作曲家(P)(APR)1904/6/26・CD 蝋管の超巨大な雑音の奥底から聞こえてくる音楽は端正なもの。大時代的な演奏と思われがちだが、確かに現代と比較するとフレージングなど大仰であるものの、それほどデフォルメされた感はなく、高度な技術をさりげなく聞かせているといったふう。技術的にはさすがフランス楽派の雄といった感じでじつにそつなく完璧に弾きこなしている。僅か3分47秒だがこのフランス・ロマン派協奏曲の醍醐味をちょっと味合わせてくれる佳演。録音マイナスで無印。シャミナード、サン・サーンス自作自演集成CDより。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
サン・サーンス:交響曲第3番「オルガン付」,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1963?/2/2live,,サンサンは古めかしいけど男らしい旋律や意表を衝いた転調が素晴らしくカッコよかったりする。ワグナーだろうなあ、フランクよりもワグナーに近い。ベートーヴェンやブラームスの世界の延長上という意味ではロシア折衷派の交響曲にも近い。録音は無茶いい。オルガンの響きもよくとらえられている。よすぎるがゆえに偽演な気もしてしまうのは最後のフラブラのわざとらしい重なりかたからきている感想だが途中環境雑音をかんがみると良好なエアチェックと考えるべきか、そもそもマスターものか。パイプオルガンの導入は賛否あるが、古風な響きに重なるさまは奇妙にマッチして面白い。サンサンはけっこうこういう冒険をする職人作曲家だ。コテコテのロマン派音楽に古典派の教会向けオルガン曲をかぶせたよう。ピアノの導入もまたあざといくらいに効果的である。このへんが後代の先鋭な職業作曲家にも一目置かれていたゆえんだろう。じっさい交響曲でピアノの走句を効果的に導入するという実験はいろんな20世紀作曲家、特にロシア人たちに受け継がれてゆく。ミュンシュは殆ど音楽と同化し、内部からひたすらドライヴし締め上げていく感じ。ブラームス的に緊密な2楽章第一部ではきほんアグレッシブで、緩徐部の「半音階旋律」でも余り感傷的な表現がみられないが、これがミュンシュだろう。爆笑問題のCMでお馴染み、まさに教会音楽的な古風な壮大さを煽る2部でのオルガンはやはり圧倒的で、その後ミュンシュの手をもってしても「竜頭蛇尾」的なすぼまり感は否めないが、そこそこ盛り上がり暖かいフラ拍手で終わる。○。,"",-----,,,,,,,,,,,,
サン・サーンス:交響曲第3番「オルガン付」,スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(weitblick)1998/9/3live・CD,,極めて良い録音で音場も広くオルガンもちゃんとパイプオルガンを使用している。依然ベートーヴェンの交響曲の延長上の保守的な手法を用いながら、循環形式のような形式的で職人的手法をとりながらも、音素材に高音打楽器やピアノ、そしてオルガンを導入して新規性を打ち出し、清新な色彩はフランクやダンディのそれより豊かで効果的である。三楽章まではそれでも古典的な凡庸さを感じさせるも、この曲を象徴するオルガンのフォルテから始まる四楽章ではダンディの民族主義的な音楽に近い感興を与える。そしてスヴェトラーノフはパイプオルガンをフル活用して後年の芸風としての壮大で透明感のある(しかし管楽器を中心としてロシアオケのような響きの整え方をしてはいるが)音楽世界を展開して、同曲をあえて集中ではなく拡散的にやることでマーラー的な誇大妄想感を与えているのが新しい。技術的に極めてすぐれているわけではないが、ニュートラルなオケはフランス曲にはよくあっているし、ニ楽章のオルガンとのしめやかな響きのかさなり、交歓は聞き物だ。オルガンによって強引に盛り上がりを作るこけおどし、という貶し方もできる曲だけれど、それは四楽章のイメージだけであり、この楽章もなかなかうまい。良い録音だからこそ、そしてわかりやすい流れをゆったり作るスヴェトラーノフだからこそわかる良さかもしれない。晩年の指揮記録には珍しく弛緩が無いのは曲自体がピアノによって締まっているせいもあろうが(ダンディ的な協奏曲用法ではなく完全にオケのパートとして導入されているが、動物の謝肉祭「水族館」を彷彿とさせるところなどサンサンならではの簡潔だが煌めくピアニズムが楽しめる)、単純に調子が良かったのか。客席反応は普通であり、とくにブラヴォも飛ばないが、これでもかのオルガンの迫力が録音に捉えられている四楽章はやはり、ラストの物凄い引き伸ばし含めてスヴェトラーノフに期待されるものを与えている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サン・サーンス:交響曲第3番「オルガン付」〜V、W,ブリュック指揮ORTFフィル、グリューネンヴァルド(ORG)(STEF)CD,,同じCDなのに直前のアンゲルブレシュトのダンディとは録音状態がことなり、篭って聞き辛い。曲も古風だし指揮者もぱっとしないので、これは何か思い入れがなければ聴く必要はない音源か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サン・サーンス:交響詩「オンファールの糸車」,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1957/11/1live,,一見無邪気だが機知に満ちた小品。モノラルであまり良くない録音のため、作品の軽やかさが伝わってこない。知的に構成された作品に対しミュンシュとBSOは手慣れた調子で仕立てている。元から完成度の高い作品に余計な解釈はいらない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サン・サーンス:死の舞踏,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(PRSC)1950/3/25Studio8H放送live,,リムスキー的とも言えるこの世俗的で古風な小品、しかしながらソリストをはじめ奏者にはしっかりした技巧がなければ皮肉な曲のよさが出ない。無理の感じられない超絶技巧の披露こそ真のトップ奏者のあかし、トスカニーニの引き締めあってのものかもしれないが、いずれ一流のわざを味わえる。録音にノイズ以外の不足なし。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サン・サーンス:死の舞踏,○ミュンシュ指揮ACO(DUTTON)1948/9/15・CD,,オケ上手い。カラカラと鳴り粒立ったリズムが気を煽る。重厚にならずに色彩的な響きを振り撒く好演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サン・サーンス:死の舞踏,○レイボヴィッツ指揮パリ交響楽団(QUINTESSENCE)「動物の謝肉祭」に端的に見られるような、音響に対する独特の尖鋭性のようなものがよく聞き取れる演奏である。サン・サーンスの実に手際の良い職人的な技は親しみやすい曲想とあいまって現代でも十分通用するようなモダンな曲を産み出した。なかなかの曲、なかなかの演奏。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
サン・サーンス:動物の謝肉祭,○エリアスベルク指揮ソヴィエト国立交響楽団のメンバー、ギレリス&ツァーク(P)、シャフラン(VC) (GREAT MUSICIANS of Palmira Du Nord/MELODIYA)1951・CD,,雑音が混じり聞きづらい箇所も少なからずあるが(板起こしだろう)演奏はなかなか楽しめるもの。フランス的な愉快さというものはないが、音楽を楽しむという意味では十分に楽しんで弾いてる感じがする。マジメではあるがクソマジメではない、このへんの匙加減がいい。そうそうたるメンツの割に技巧バリバリな感じがしないのも親近感を感じさせるゆえんか。たとえば水族館の表現意欲の強さには違和感を覚える向きもあるかもしれないが、そもそもこのあたりを中心としてこの演奏は「展覧会の絵」的な印象を強く与えるもので、サン・サンが筆のすさびとした部分を前衛性ととらえて強く表現しなおした感がある。私はけっこう好きだが違和感を感じる向きはあると思う。シャフランの白鳥はあっさり潤いが足りない解釈で今一つな感じ。でも「瀕死の白鳥」みたいな余計なイメージを排した演奏として評価する人もいるかもしれない。終曲はもう、これはチャイコだ。チャイコフスキーのバレエ曲のフィナーレである。ゴージャスで力感に満ちた曲は僅か2分弱で終わるが、強烈な印象をのこす。総じて○。エリヤスベルグ(エリアスベルグと書く人が多いけどどっちが正しいのかわかんない)は主として伴奏指揮者として数々の名演のバックをつとめたことで知られるソヴィエト指揮者の代表格のひとり。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サン・サーンス:動物の謝肉祭〜白鳥,○ピアティゴルスキー(Vc)ハープ六重奏団(WHRA)?/10/5カーネギーホールlive放送・DVD,,50年代の映像であろう。小ホールにて、恐らく何等かの素材として演出されたものではないか。状態はよい。演奏はやや枯れており線が細くけれんみが皆無。朴訥とした寂しさがある。終盤でたっぷりボウイングを使い歌いこむあたりヴィブラートがとても美しい。ハープも揃って素晴らしい。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
サン・サーンス:動物の謝肉祭組曲,チッコリーニ、ワイセンベルク(P)プレートル指揮パリ音楽院管弦楽団(erato,EMI,icon)CD,,腕利きの家具職人の手遊びで作った小物が後世衆目を集め文化財になった。そんな存在がこの曲集である。精密機械のようなワイセンベルクにしては重くてギクシャクした冒頭はチッコリーニとの敢えてのカリカチュア表現かもしれぬ、と終曲のパロディで猥雑さを実に下卑て描くプレートルらの上で滑らかに音符を並べ立ててみせるさまを聴きながら思う。「水族館」「白鳥」などソリストにやはり弱さを感じつつも、終わり良ければすべてよし。こういうプレートル節好きにもアピールするだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
サンカン:ピアノ協奏曲,作曲家(P)ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1956/2/2live2/9放送,,独特の曲。サンカン教授だから弾きこなせるしサンカン教授だからブーイングより拍手が大きいのだろう。強いて言えばプーランクが前衛に走ったら、という感じか。部分部分にスクリアビンの半音階など要素はあるにはあるが、ほぼ「サンカン」である。かといって新味を追うだけの前衛ではなく親しみやすい範囲の書法も織り込み何とか聴衆に取り付く島を与えている。まずもってピアノの技巧を見せつける曲か。面白みを感じられるのは現代曲に慣れている向きだけだろう。最初で嫌になったら、三楽章だけ聴けばスポーツとして楽しめる。プーランクと言ったとおり娯楽的な和声もなくはない。サンカンの現代一歩前の曲は一部に受けるのか、かつて一曲につき書いたらえらくアクセスがあった。ina.frだとPHD89036288。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サンカン:弦楽のための交響曲(交響曲第2番),ル・コント指揮ORTFフィル(fbro),,現代交響曲らしい短い曲だがハキハキとして室内アンサンブルの妙を楽しめる。ポルタメントをまじえた諧謔的なメロディがストラヴィンスキーも思わせて楽しい。フランス放送音源。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
サンディ:YAQUI音楽に基づきルイ・サンディ編曲:EL VENADO,○チャベス指揮メキシコ管弦楽団&合唱団(COLUMBIA)STEREO・LP 昔の六本木WAVEの現代音楽CD店で流れていたような音楽(意味不明?)。これはもうテーマが「山羊のダンス」という有名な踊りの伴奏からとられているそうだから、民族音楽そのものと言っていいだろう。「山羊のダンス」はメキシコで最も素晴らしいダンスのひとつらしいが私は見たことはありません。フォルクローレって感じがしますが他のトラックのチャベス自身の曲とそんなに遠い感じではなく、最後に各種楽器が賑やかに入ってくる所はいくぶん俗っぽい感じ(でも楽しい)だが全般素朴で気持ちのいい「飛んじゃった感じ」な音楽だ。チャベスはやはりクール。暑苦しさゼロです。この清澄な空気感に○ひとつ。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ジーグマイスター:オザーク・セット,○ユルゲン・ワルター指揮ハンブルグ・フィル(MGM)ジーグマイスターの音楽はほっとする。コープランドのわかりやすいバレエ音楽を聴くようで安心できる。というかそのまんまアメリカ音楽、良くも悪くも旋律的で耳馴染みがいい。ハンブルグのオケがやっているのにここには強くアメリカ西部の匂いが漂い、輝かしくも懐かしい響きに満ちている。この指揮者はあまり馴染みが無いが巧いものだ。アメリカ民族楽派ともいうべき音楽であり、民謡を基調とした作品はちょっとメタ・クラシック風だが、「丘の朝」「キャンプ・ミーティング」「けだるい午後」「土曜の夜」(もういかにもアメリカな題材ばかりだが)という4つの標題付楽章は的確に題材を描き分けている。なんといっても「キャンプ・ミーティング」「土曜の夜」が楽しい。これはロデオか?と思うような雰囲気もあるが、何も考えないで聞けば楽しめる(前者はアイヴズを思わせる題名だがずっと新しく聞き易い)。シニカルな表情で所詮二流音楽と言うのは易しいが、そもそも再生装置の普及していなかった時代のこういった曲は、再現芸術のひとつの有り様を示していたと思う。まあ、単純に楽しいです。○ひとつ。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ジーグマイスター:ブルックリンの日曜日,アドラー指揮ウィーン・フィル(SPA)アメリカ印象派というのは確かに存在して、その一番有名なのがグリフィスだろう。このジーグマイスターという作曲家、ブーランジェ門下だそうだが、旋律には独自性を感じるものの、あきらかにドビュッシズムの影響下にある。直接的には「イベリア」第一曲「街の道や抜け道を通って」だろう。ハーモニーや展開にこの有名曲を露骨に彷彿とさせるところがあり、庶民的というか通俗的というか、適度にアメリカナイズされてはいるものの、原曲を知るものには二番煎じ的な印象は否めない。原曲の隙の無さと比べるとちょっと腋が甘すぎる。まあ、いきなりリズミカルに始まる旋律はぐっと引き込むものがあるし、このテの「B級クラシック」好きにはちょっと面白いものと感じられようが、私は3回目に飽きました。機会があれば、どうぞ。ウィーン・フィルというのがどうにも贅沢だ。初演1946年。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェーンベルク:5つの管弦楽曲op.16,コンドラシン指揮北ドイツ放送交響楽団(SLS)1981/3/7アムステルダム・コンセルトヘボウlive(コンドラシンラストコンサート),,日本でいう大正時代の作品、シェーンベルクの先駆的作品とされ律せられた現代音楽の嘴矢。これをコンドラシンがやるというのが、晩年の行き着いた場所というか、中欧オケだからというのもあるのか、しょうじき、コンドラシンがやらなくても、という気もするし、演奏も上手くて、色彩を繰る指揮者ではないから単彩ではあるが、音の様々を克明に表現しマーラーより後の曲もものにすることのできるこの指揮者の可能性を惜しむ。この前の古典交響曲はひどいノイズが残念だったが、ここでは薄く同様のノイズが入る場面はあるものの、妖しげなものもふくむ精妙な音楽を味わうにはギリギリ大丈夫である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:ヴァイオリンとピアノのための幻想曲,○ヴァルガ(Vn)クルシェネク(P)(audite)1951/9/24・CD,,後期作品にもかかわらずシェーンベルクらしいというか、ヴァイオリンが色っぽい。縮緬ヴィヴラートを駆使するソリストのせいもおおいにある。クルシェネックのピアノは素晴らしく鋭敏。それに対して少し前時代的すぎる演奏かもしれない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:グレの歌,ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団他(PEARL他)/(ANDANTE),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェーンベルク:グレの歌,レイボヴィッツ指揮パリ新交響ソサエティ(音楽院)管弦楽団他(VOX),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェーンベルク:セレナード,ロスバウト指揮南西ドイツ放送交響楽団(col legno)1958ドナウエッシンゲン音楽祭・CD,,意気軒高のシェーンベルクの才能を実感できる。ストラヴィンスキーふうに最小限に整理された音要素のどこにも怠惰な様子はなく常に音楽が変化し音色が変化しそこに同じ景色は二度とつながらない。それでいて「個性」をしっかり印象付けることのできる小品集だ。ギターの孤独なひびきは月に憑かれたピエロを思わせる。ペトラルカのソネット(4楽章)で官能的な表現ののち突如バリトンが中世歌を歌いだすのは弦楽四重奏曲第二番で無調宣言とともにソプラノ独唱を加えたことを思い出させる(ここでは十二音技法が試みられた)、この人独特の感性によるものだろう。ハイドンのような眠りを許さない。また多くの部分にマンドリンが導入されメヌエット(2楽章)などでは諧謔的な風味を加えるとともに、「小夜曲」であるからこそマーラーの「夜の歌U」の世俗的用法をも意識しているかもしれないと思った。シェーンベルクはヴァイマールのひととき世俗音楽にも手を染めているだけあり音楽は高尚なだけではなく人心に寄り添うことも必要だと感じたのか(私にとっては心の乱れ狂った時に寄り添ってくれる作曲家なのだが)、「何らかの」主義主張を抽象化しておさめたのだろう。バスクラやヴァイオリンといった楽器にくわえそういうものを使うことでとにかく耳に新しく聴こえる音楽になった。冷えた抒情は慣れてくればちゃんと音楽として聴ける。音列技法というのはわかってしまえばそういうものとして聴ける(これは頭の切り替えであり混乱ではない)、厳格なまでのセオリーに基づくものであるからこそ意味がある。それだけを使うのも20世紀的には袋小路だったが。ここまでこんなに思い入れない曲について書いているのはロスバウトのせいである。ものすごく見通し良くきわめて緊密なアンサンブル、さらに音の太さ大きさにも厳しく指示を与えたかのようなバランスよさ。モノラルだが面目躍如とはこのことである。同曲は新ウィーン楽派と浅からぬ仲のクラスナーでたしか二種、現役はミトロプーロス指揮のもの(おそらくミトロプーロスがシェフでクラスナーがコンサートマスターであったミネアポリス交響楽団のメンバーによるアンサンブルか)だけ持っていたかと思う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:ピアノ独奏付きヴァイオリンのための幻想曲op.47,マカノヴィツキー(Vn)ノエル・リー(P)(meloclassic)1963/3/29live南ドイツ放送・CD,,単にヴァイオリンとピアノのための幻想曲とも表記される。最晩年作であり先鋭さや厳格さより「音楽性」をとった感もあるが、それよりもかつてのウィーンへの追憶を抽象化したが如く重音の官能性はベルクを、とつとつと、時折走る点描的な表現による思索性はウェーベルンを想起させられざるを得ない。だが編成からしてもあくまで簡潔で、展開は依然シェーンベルク的でやや古風な印象もあり、晩年作にしばしば見られる焼き直し感や日和った感は全くしない。これは6分あまりの短い曲にも関わらず多くのことを学ばせる。今でも頻繁に演奏され、グールドの声掛けで録音されたメニューインの録音は有名である。現代作品にも優れた適性を示すこのコンビにおいては、硝子細工のように見通し良く生臭さのない、かといって血の通った生き生きとすらした印象を受ける。同じ盤に入っているストラヴィンスキーのコンチェルタンテとはえらい違いで、芯の通った楽曲となっており(むろんその技法に支えられたものだが)、心のささくれだったときに共感するシェーンベルクの音楽であるが、これは冒頭を除きむしろ現代に生まれ変わったロマン派音楽のような、何とも言えない味がある。何度でも聴ける音楽だし、もう理由を伝えるにはスコアの分析くらいしかないのかもしれないが、とにかく名曲である。そして、名曲であることをストレートに伝える完璧にシェーンベルク的な、否、ウェーベルン的な、豊穣にして簡潔な演奏である。余計な解釈もなく、計算でできるものではない。模範だ。それにしても良い音の奏者である。太過ぎず細過ぎず、品格ある色艶を安定した技巧のもとに煌めかせている。古典派も非常に上手く、ボウイングに絡めた細かいヴィヴラートの使い方が極めて上手い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:ワルソーの生き残り,○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団他(DEUTSCHE SCHALLPLATTEN,ETERNA)LPとても美しく仕上がっている。文字通りの生き残りの男のモノローグから始まり、ガス室へ一人一人と送られる恐怖の感情の高ぶりに従ってささくれ立った(でも必要最小限に削り上げられた)管弦楽がヒステリックに叫び出す音楽だ。しかし透明でかつ人間的ですらあるケーゲルの演奏は、「聞けユダヤの民」の唐突な合唱にいたるまで一貫した美質に貫かれており、それはマーラー的な意味でロマンティックですらある。聞きやすい演奏なので機会があればどうぞ。私の盤には擬似ステレオ表記があるが、聞いたところかなり聞きやすく本当のステレオのように聞こえる。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:ワルソーの生き残り,○ハイドマン(語)シェルヒェン指揮ダルムシュタット歌劇場管弦楽団他(tahra)1950/8/20・CD,,非常に評し辛い曲だ。この曲に演奏評というのは成り立つのだろうか。ウェーベルンを評するほうがまだたやすい。シェルヘンが徹底的に擁護した作曲家であり、その腕がまた確かだったことは伺える、程度にしておこう。音はやや悪い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:ワルソーの生き残り,シェルヒェン指揮ダルムシュタット劇場管弦楽団他(RCA)1950/8/20結局この人は半世紀近く使ってどのくらい進歩したのだろう。この曲は過度に肥大傾向にあった時期よりそうとうに洗練されてはいるが、室内楽的な緊密さを指向した「月に憑かれたピエロ」あたりとはどっこいどっこいではないか。音列手法もフツーの耳からすれば無調と何等違ったところのない雑音。この人の「オンガク」っていったい・・・とちょっと考え込んでしまう私はじつはシェーンベルク(から立ち昇る生臭いニオイ)がもともと苦手なのだが、この曲は嫌いではない。短いし、過剰な演出も無い。とくにこの演奏はシェルヒェンの手によるだけあって、何かを訴える力がある。しかしその「何か」とは?セリフや題名に意味付けされたものとしては価値あるだろうが、純粋に音として聴いて、感動はあるか?空虚な響きに彩られた殺伐としたものだけを感じた。妙にささくれだったものを感じる以外に、何も感じなかった。それにしてもクーセヴィツキー夫人の追悼としてこんな曲を選ぶか普通(笑)。ストラヴィンスキーでさえ「オード」で追悼の意を表しているというのに。第二次大戦のもたらした惨禍をうたった曲は沢山あるが、ある意味(意味など無い、という意味も込めて)もっともカタストロフの真実に近いものを表現できた音楽であろう。これは演奏を聞き比べるたぐいの曲ではないが、とりあえず無印としておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェーンベルク:歌曲集「架空庭園の書」,○ダンコ(SP)ルーター(P)(audite)1955/11/3・CD,,シェーンベルクが無調への突入を宣言した記念碑的作品だが15曲のゲオルゲの詩による歌は決してそれまでのロマン的な世界〜多分に夜の雰囲気を孕んでいる〜より離れていない。技法的にはともかく作品的にはアイヴズの歌曲と遠からずの現代的抒情が漂い、シェーンベルクの前衛的なのちの作品にみられる一見荒んだような「自由な」世界にはまだいたっていない。シェーンベルクのような作曲家は時代と切っては切り離せない。厳しく荒んだ心にのみひびき、安穏とした心には毒である。これはまだ毒になりきれていない。スザンヌ・ダンコの抑制された歌唱を楽しもう。ピアノの奏でもさらりと美しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:月に憑かれたピエロ,○ビェルクステン(語・歌)コリッシュ(Vn)オーバー他(archiphon:CD-R)1967/4/16live,,録音はモノラルのライヴではまずまずか。室内楽編成でドビュッシーの延長上のような音響風景を更に点描的に簡潔化し、逆にミヨーをはじめメシアンらフランス近代の作曲家たちに影響をあたえた名曲である。無調といってもそこにはかなり旧来の音楽の痕跡が認められ、マーラーをはじめさまざまな作曲家へのオマージュ的な表現が聞いてとれる。それらもほとんどショスタコ的なまでに削ぎ落とされている。演奏は繊細で表出力のごり押し感のないもので、すんなり音楽的に聴ける。あくの強さがないので普通に面白い。心象的な音楽であり、ちょっと気に病んでいることのあるときにしっくりくる曲でもあるが(シェーンベルクは多かれ少なかれそういう曲を書いたが)これは別に通常時にも聞ける「ならされた」演奏である。作曲家ゆかりのコーリッシュはそれほど自己主張しない。語謡含め、わりとアンサンブル的な演奏である。○。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
シェーンベルク:月に憑かれたピエロ,レイボヴィッツ指揮ヴィルツオーソ室内アンサンブル、セムセル(SP)パリー(P)(BAM)モノラルだが音は冷たくクリア。シェーンベルクの記念碑的作品で、その独創的な響きと神秘的な雰囲気はラヴェルやストラヴィンスキー、ミヨー、オネゲルなどフランスの音楽家にも強いインパクトをあたえた。アプローチ方法は違うものの、フランス現代作曲家の志向するひびきの音楽と感覚的には同じである。レイボヴィッツはフランスの作曲家・指揮者だがシェーンベルクに師事し、シェーンベルクの作品を多く指揮した。硬質の響きの交錯とおしゃべり的歌唱の奇矯さは、ともすると気が狂ったような感覚をおぼえるものだが(たぶん1分と聞けない人もいるはず)レイボヴィッツは何らかの意味付けをするように首尾一貫した音楽作りを目指しており、いくぶん聴き易い。古い録音なので歌手の声がややオールドスタイルなのは仕方ない。この演奏を聞きながら頭に浮かんだのはメシアンの「世の終わりのための四重奏曲」だった。もっともこちらはまだ無調の作品なわけだが、結局調性を失った音楽というのはそこに一定の秩序があろうがなかろうが素人耳には同じにきこえるというわけである。気分の余裕があるときにはこんなものを聴くのもいいかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェーンベルク:弦楽のための組曲ト長調,○フリッチャイ指揮BPO(audite)1949/11/28チタニア・パラストlive・CD,,古風な組曲との原題どおり調性音楽として書かれており、旋律要素もはっきりしており、構成要素の呼称から新古典主義の作品であることは明白だが、世紀末ウィーン風とでも言うべき半音階的進行や音色効果は、初期作品から生臭さを抜いて職人的に仕立てあげたふうであり、そのくせなかなかにくせ者な技巧がちりばめられている。とても人好きするが、それはアイヴズでいえば三番交響曲のような位置付け、決して模索の結果の到達点ではなく一種妥協の意図せぬ成果というか筆のすさび的なものと考えるべきだろう。ツェムリンスキーを想起するくらい逆行しているのだ。フリッチャイは比較的余裕のあるオケから溌剌とした輪郭のはっきりした音を引き出している。よく響きが整えられ作曲家の創意をわからせる配慮が嬉しい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」,ミトロプーロス指揮NYP(m&a)1953/10/29live・CD,,完全にノイズリダクション、擬似ステレオ化されているが情報量が削られておらず聞きやすい。一楽章制の大曲で初期シェーンベルクの様式に沿ってひたすら後期ロマン派、リヒャルト・シュトラウスの傍流のような(しかし楽器の扱いが単調で官能性の質(ハーモニー重視)が違う)分厚い管弦楽。散漫な印象はあり、ミトロプーロスはウィーンふうの音色を交えつつドラマティックに描き出し、ウィットの欠片もない曲のままに真摯に高精度の演奏を繰り広げる。「浄夜」のように癖のある半音階の多用は目立たないが、それはミトロプーロスが「うまくやっている」からかもしれない。あのニューヨーク・フィルをライヴでここまで厳しく律せているのも(単調な曲とはいえ)ミトロプーロスの技量なのかもしれない。ミトロプーロスはクラスナーとの一連の録音などシェーンベルクが「行ってしまった先」の音楽はいくつか録音があるが、この時期となると今は同じ盤収録のVPOとの浄夜ライヴと、RCAの同曲正規録音くらい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:室内交響曲第1番,○コーリッシュ指揮・Vn、マルボロ・アンサンブル(ARCHIPHON:CD-R)1964LIVE,,熱い演奏で、シェーンベルクとは浅からぬ仲で現代モノ専科とみなされがちなルドルフ・コーリッシュの本質がかいま見えるマールボロのライヴ。性急なテンポでアタックをしっかりつけながら曲の構成のままにドラマティックな起伏を抉り出していく。ライヴなりのアンサンブルの緩さも表現主義的な激しさの前に気にならない。わりとロマンティックなマーラーみたいな感じがよい。この時期にしてはやや録音は劣るか。モノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:室内交響曲第1番,○シェルヒェン指揮アンサンブル(westminster)1964/6ステレオで圧倒的に音のいいウェストミンスター盤をとりたい。この曲は細かな(マニアックな)仕掛けが数多くある。細かい音の蠢きをとらえられないと、この曲の真価・・・それはもはやロマン派的発想ではない・・・はつかめないだろう。その反面、ロマンティックな発想に基づく、たとえばマーラーのような音楽を求めた場合、ライヴ感溢れるストラディヴァリウス盤のほうがしっくりくる可能性もある。曲を分析的に捉えたければウェストミンスター、ノリで捉えたければストラディヴァリウス盤、とでも言っておこうか(ターラ盤はその中間といった感じで半端だ)。前者はほぼ無調音楽に聞こえる。しかし後者はまさに末流ロマン派音楽に聞こえる。オケのせいもあるだろうが、この差異は非常に興味深いものがある。未だ爛熟した世紀末音楽の香りをのこすものとして、作曲家をして「私の第一期最後の作品」と言わしめたことからも、この作品の過渡的(両義的)位置づけが読み取れるだろう。私は「浄夜」や弦楽四重奏曲第一番、「グレの歌」「ペレアスとメリザンド」といった「第一期」作品を好まない。爛熟というより腐れ果てたようななんとも生臭い香りを感じてしまうからだ。(マーラーと近しく、素材にも影響が聞き取れるのに、聴感がなんでこんなに違うんだろう、とも思う。)しかし、この室内交響曲第一番は、生臭さが抜け、凝縮された編成にマニアックなアンサンブル、硬質な響きの感覚、高度に技巧的でよく書き込まれた譜面が、「次の音楽」を予言する。なかなかに興味深い曲。シェルヒェンは抜群ではないかもしれないが、ふたつの方向からこの曲を奏でる事に成功しているのだ。(ストラディヴァリウス盤は1935年版との表記あり),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェーンベルク:室内交響曲第1番,◎ブール指揮ベルリン・ドイツ交響楽団(TOE:CD-R)1968精度の高い演奏だ。鋭角的なアンサンブルを構じたうえで、熱気溢れる音楽作りをしており聞きごたえがある。ブーレーズのような無機質さがなく、精度と熱気のギリギリのせめぎあいというのだろうか、このライヴ感は難解なシェーンベルクというイメージを覆し、ひびきの美しさだけではない音楽の本質を知らしめてくれる。マーラー臭が濃いのも特徴的だが、こういう演奏スタイルだからこそ臨界点の音楽マーラーの影響が浮き立ってきたのだろう。付点音符付きの行進曲音形はマーラーの6番あたりを思い起こさせるし、そのほかにもいろいろと聞こえてくる。録音も悪くないし、気持ちの悪くなるようなマニアックに入り組んだシェーンベルクの音楽を手の届くところに持ってきたその手腕は素晴らしいものがある。今まで聴いてきたこの曲の演奏で一番耳馴染みがよかった。さすが現代音楽の十字軍の末裔ブール。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェーンベルク:室内交響曲第1番,○フリッチャイ指揮RIAS交響楽団のメンバー(audite)1953/1/10放送音源・CD,,演奏日異説あり。15楽器版による演奏でフリッチャイの鋭い発音が曲にマッチして、響きのぬるまゆさより厳しさが伝わる熱演。だがライヴ的な軋みが詰まらない怜悧さを遠ざけ耳馴染みよくしている。わりと旋律性があり初期シェーンベルクらしいピチカートなど駆使した音色変化の面白さにも惹かれるいっぽう、単一楽章に多要素を押し込めたけっか散漫な印象も与えるが、この演奏でも山場がわかりづらく終始テンションの高い弦楽器と、数では勝るはずが余り引き立って来ない管楽器のひたすらわたりあうアンサンブルをきくのみになってしまう。曲の問題か。マーラーの夜の歌を想起するフレーズがあるが全般はやはりブラームスを突き詰めたかんじだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:室内交響曲第1番,◎マールボロ音楽祭アンサンブル(MARLBORO RECORDING SOCIETY)LP,,非常に録音が明晰で、かつ現代的な側面から切り味鋭く迫った演奏として耳から鱗であった。主催者であるフェリックス・ガリミールの年齢を感じさせない非常に強い発音に導かれるかのように全楽器があくまでこのロマン派の香り残る楽曲を「現代の視点から解体し、”音の構造物”として再構築している」。だからシェーンベルクの仕掛けたマニアックな仕掛けが随所に聞き取ることができ見通しがいいのと、やはり現代曲だったんだなあ、という感慨が最後まで持続する。交響曲としてのまとまりを考えると決してそういうアプローチが正しいとは言えないと思うのだが、新鮮であり、別の意味の感興をおぼえかなり引き込まれた。ガリミールという新ウィーン楽派の生き証人が、かれらの音楽をきちんと伝えることのできた証拠の一つとして価値が高い。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:室内交響曲第1番,クレンペラー指揮ベロミュンスター放送管弦楽団(weitblick)1960/4/24チューリヒ放送スタジオ録音・CD,,オケ名についてはweitblickでは当時の名称を勘案しこれで統一したとのことなので、今後海賊盤など出回ったとしてもチューリッヒないしスイス云々の名がついていれば同一の可能性がある。スタジオ録音だそうだが思ったより状態は悪い。ボロボロな印象を持つ人もいると思う。発掘音源レベルという印象そのもので保存状態が悪かったのだろう。モノラルなのは当然。情報量はあり、リバーブをかけると迫力が違ってくる。クレンペラーは個性的な表情はみせず正面から、マーラー的なものととらえ決して初期シェーンベルク特有の「臭み」を強調しない。和音はそのままの響きで提示され、創意より全体の調和と構成を重視する。オケのレベル(状態)はこの録音では何ともわからない。中庸の音色とは言えるか。この曲はシェーンベルク初期作品としては有名なペレアスや浄夜やグレの歌より聴きやすい曲種の「交響曲」なので、連続して演奏される事実上の一楽章制ではあるが、ここでもクレンペラーらしくもなく、自然に受け容れられる。一か所、欠落ではないかと思えるほど峻厳な断裂的表現があるがこれはクレンペラーらしさの唯一感じられるところかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:室内交響曲第1番,ゲール指揮ベルリン室内管弦楽団(DEUTSCHE SCHALLPLATTEN,ETERNA)LPモノラルだが擬似ステの盤を買ってしまった。失敗。左右の感覚が気持ち悪い。奏者の我の強い演奏ぶりで、やや耳につく。勢いがあり歌謡的だがどこか冷たい音も、どうなのだろうと考えてしまう。シェーンベルクは生温くやると気持ち悪くなるのでこの音がいいのか、とも思うが。各楽器がバラバラで融合しないのは擬似ステのせいだろう。とにかくキンキン五月蝿い。面白いけれども。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:室内交響曲第1番,シェルヒェン指揮ケルン放送交響楽団 ORCHESTRA E CORO DI RADIO COLONIA(STRADIVARIUS)1959/3/2 WESTMINSTER盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェーンベルク:室内交響曲第1番,シェルヒェン指揮スイス放送管弦楽団 ORCHESTRE DE LA RADIO SUEDOISE(TAHRA)1955/11/6 WESTMINSTER盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェーンベルク:室内交響曲第1番,デルヴォ指揮コンセール・パドルー管弦楽団(DIAL)現代音楽の貴重な音源を提供していたダイアルのLPは次々とCD復刻されているが、この盤はまだではなかったか。デルヴォーのきびきびした指揮と昔懐かしい艶のある音色(それであるがゆえに音程が二の次になっているけれども)をきらめかせるパドルーのおりなすちょっとフランスふうのシェーンベルクの登場である。かなり他の盤とは印象を異にする演奏で、録音が悪いのが玉に傷だけれども、生々しくしかしスピード感のある演奏である。最初はかなりごちゃごちゃっとするが次第に雲が晴れ、木管と弦が室内楽的にからみあうさまが、音が薄いだけにひときわよく聞き取れる。シェーンベルクのマニアっぽい複雑な構造がきちんと噛み合わされないままに勢いだけで進んでいくような音楽は独特。内声部がよく浮き立ってきていて、むしろ旋律的な音が沈んでしまうきらいもあるが、新奇なひびきをタノシムのには最適。マーラー「夜の歌」に似た音形があるがほぼ同時期の作品(初演はこの曲のほうが先)なだけに興味深いものがある。最後にふたたび冒頭の回想があるがここでやっぱりごちゃごちゃっと乱れているのが残念。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェーンベルク:室内交響曲第1番,ブーレーズ指揮ウィーン・フィル(LIVE SUPREME:CD-R)2003/1/25liveブーレーズが冷たいのは昔からだから仕方ない。問題はウィーン・フィル(メンバー)の冷血ぶりで、ずいぶんと見通しはいいが、感情移入しづらい人工的な演奏に仕上がっている。ウィーン・フィル(メンバー)は機能的には高水準だが昔ながらの艶がまったく感じられない。冷美、という言葉をウィーン・フィルの演奏に当てはめる事になろうとは思わなかった。無調前のシェーンベルク、リヒャルト・シュトラウスの影響色濃い時期のシェーンベルクらしい、生ぬるく気持ちの悪い(ファンのかた失礼!)雰囲気を漂わせる曲だが、ブーレーズの手によって全ては結晶化された。シェルヒェンの演奏もある意味結晶化したものだが、ブーレーズほど徹底してハーモニーの縦をそろえたものではないため、その崩れ具合が却ってこのシェーンベルクの(たとえば「浄夜」のような)悪趣味な音楽(ファンのかた失礼!)の出所を明らかにして、結果として原曲の目したものを抉り出すことに成功している。ブーレーズのそれからは、生臭いニオイが漂ってこない。新ウィーン楽派の側から見た調性時代のシェーンベルク、という視点、ブーレーズらしいが、ブーレーズのマーラーを知る立場からするともっとマーラー的な分かり易い音楽を組み立ててほしかった。この演奏はわかりにくい。アンサンブルもさほど緊密ではないし(何か求心力のようなものがなく、捉えどころのない音がいくつもきらめきながら通り過ぎていくような感じがする)鈍重さも感じる。原曲どおり15の独奏楽器でやったほうが緊密でよかったかもしれない。無印。単一楽章。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェーンベルク:室内交響曲第2番,ブーレーズ指揮ウィーン・フィル(EN LARMES:CD-R)2003/6/17LIVE 面白くない。現代音楽的に演奏するならこの曲は長すぎる。主張がどこにあるのか、近視眼的には配慮の行き届いた純度の高い音響の堆積ではあるけれども、全体としてのまとまりに欠けている。無論曲のせいもあるのだが、最後まで退屈だった。シェーンベルクは物語性がないとだめだ。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェーンベルク:室内交響曲第2番,ブーレーズ指揮ウィーン・フィル(LIVE SUPREME:CD-R)2003/1/25live 二楽章制。1番に比べよく練り上げられ、無駄が無い(30年以上も暖めていたのだからあたりまえかもしれないが)。1楽章は妖しい響きを持ち、ちょっとフランス的な感じもする。調性はあるのだが、不思議な印象をのこす。アイヴズの音楽を思わせる。2楽章はマーラー、リヒャルト・シュトラウス、あるいはフランツ・シュミットを想起する音楽で、しかし贅肉をこそげ落とした凝縮された音楽になっている。ブーレーズの演奏はこの楽章をとてもスマートで透明な音楽として描き、言ってみればフランス近代音楽のように響かせていて面白い。全体のハーモニーの移ろいを重視し、個々の楽器については自己主張を許さないかのような指揮ぶりも、この曲に関してはアリかな、と思う。だが無印にしておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェーンベルク:主題と変奏op43b,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(SLS)1944/10/21放送(1944/10/20)live,,シェーンベルクが室内交響曲第二番のように調性的な作品に回帰「しようとした」作品で原曲は吹奏楽、これはオーケストラ版の初演である(初演アナウンスがあるので記載上の21日は放送日と思われる)。初期に立ち返るには書法が簡素化しすぎ、これは音に色を籠めないクーセヴィツキーがやっているせいもあるがウィーン時代のローカル色がすっかり抜けて抽象化されて、主題とその半音階的な動きには同時代アメリカアカデミズムに横溢していた晦渋さが滲み、交響曲のように強引にでも聴き通させようという明確な構成を持たない変奏曲という形式を用いた結果、ただダラダラとしてパッとしない音楽になってしまった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:浄夜,○スペンサー・ダイク四重奏団、ロッキア(2ndVa)、ロビンソン(2ndVc)(NGS)1924/10/10、12/30・SP,,これも正規WEB配信化がなされている。スペンサー・ダイクというヴァイオリニストが構造のしっかりしたブラームスっぽい音楽に向いていることがよくわかる。時折混ざる奇妙なコード進行を除けば単純化された後期ロマン派室内楽そのものとして聴こえ、しかしそれほど噎せ返るような音色感は出さず、程よい温もりのあるイギリス的な音できっちりと締めている。ずいぶんと古風ではあるが聴きやすく、いい演奏だと思う。苦手なくせに譜面まで持ってる私だがこれなら聴ける、というか譜面と突き合わせると何か見えてきてしまいそうなので突き合せません。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:浄夜(1943年版),○エリアスベルク指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya)1976/4/19live・LP,,オケがいいのか分厚い音響で乱れも少なくよくできた演奏となっている。それほど揺れず進んでいくスタイルであるがゆえに乱れをきたしにくいのかもしれない。この曲はけっこう細かい音符で雑味を呼び込むことが多いが、版の問題もあるかもしれないけれど、ここではほとんど気にならない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:浄夜(弦楽合奏編),○ストコフスキ指揮ヒズ・シンフォニーオーケストラ(guild他)1952・CD,,わかりやすい。確かに弦楽合奏としては最初からバラケがみられ現代の精度からすると失格、というところもあるのだが、ロマンティックな内容を分厚い響きでうねるように表現していく、シェーンベルク特有の薄い響きとブラームス的構造のアンマッチをそういうものでカバーしていくのは、やはりストコの腕というよりほかない。曲の魅力がわからない、という向きには勧められる。ただ、録音は古い。○。guild盤、私のプレイヤーだと飛ぶ場合があり、PCなど専用機ではないものにかけるとうまく再生できない可能性あり。長い収録時間の最後の長い曲だからか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェーンベルク:浄夜〜弦楽八重奏版(原曲),ハリウッド弦楽四重奏団他(CAPITOL)部分的にはワグナー系なのだけれども、この室内楽編成の原曲で聞くとやっぱりブラームスっぽさは否めない。というかブラームス的な繰り言がブラームス的な緻密な響きを伴ってひたすら耳に流し込まれる、これが好きモノには堪らないのだろうが、私は正直退屈で堪らなかった。とはいえ原曲であるからまだ救われているように思う。弦楽合奏でやるには音楽が厚ぼったすぎる。せめてどこかにマーラー的なものがあったなら魅力を感じられたろうが、うーん、私の全くの個人的な好みからすれば「無し」である。演奏がまたワグナー/マーラー風のくぐもりを取り去って単にブラームス的な構築性だけを押し出しているから尚更そう感じるのかもしれない。ツェムリンスキー的と言ったほうがいいのかもしれないが、総合的に、無印。いや、たぶん八重奏版としては第一級の演奏だということは予測できるが。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェーンベルク:地上の平和,○ヘルムート・コッホ指揮ベルリン放送ゾリステン他(DEUTSCHE SCHALLPLATTEN,ETERNA)LP耳馴染みの良い宗教音楽のような曲なので拍子抜けするが、これはこれで美しい。シェーンベルクはこういうのも書けたのだなあ。コッホの指揮は過不足無し。○。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェバーリン:ヴァイオリンと管弦楽のためのコンチェルティーノOP.14-1,○シュルギン(Vn)プロヴァトロフ指揮ソヴィエト国立交響楽団アンサンブル(OLYMPIA)1978・CD 10分強の小規模な作品だが30年代の流行りの音楽をよく伝える楽曲である。モダニズムふうの無調的パッセージがもろプロコフィエフの作品のように響いて耳馴染みが良い。ソヴィエトにありがちな曲といえばそうだが2楽章の古風で旋法的な音楽の魅力はどうだろう。私はこれを聴いていて寧ろヴォーン・ウィリアムズの澄み切った感傷的な音楽を想起してしまった。この時期のシェバーリンはけっこうフランス音楽やバロック以前の音楽に影響を受けていたようで、ソヴィエト音楽としてはちょっと不思議な肌触りがする。プロコフィエフやカバレフスキーに近いことは近いものの、あからさまな表現を避けており、民謡旋律も決して前面に立って主張することはない。このラルゴ楽章はシェバーリンの白眉たるもの、一聴の価値がおおいに有ります。バッハからイベールまで取り込んだ長い長い旋律に、伴奏はひたすら後打ちで感傷的なハーモニーを重ねる。最初から最後までえんえんとソロ・ヴァイオリンが歌うだけの楽章、最後にちょっとチェロ・ソロが絡みますが、ほとんどそれだけの単純な構造がまた泣かせる。3楽章はふたたびラプソディックで激しい音楽になるが、短い。ちょっと最後が物足りない気もするが、きっぱりとしていて潔い。簡潔な楽曲に○ひとつ。ソロは微妙に不安定になるところもあるがおおむねソフトな音色で聞かせます。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェバーリン:ホルンと管弦楽のためのコンチェルティーノOP.14-2,○ボリス・アファナシエフ(HRN)アノーソフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団アンサンブル(OLYMPIA)1962・CD ヴァイオリン小協奏曲に比べればいくぶん落ちるような感もあるが、ソヴィエトには珍しいホルン協奏曲であり、ロシア独特のホルンの音色を楽しむ事が出来る。といっても12分16秒の短い曲、ホルン自体音域が低くイマイチオケに埋没してしまうというか地味感があって記憶に残りにくいところがある。作風はやはりプロコフィエフ風で、新古典主義の色に染め抜かれた作品といえよう。アノーソフはどこか野暮ったい指揮者だがここではまあまあ。オケは巧い。迷ったが○としておきます。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シェバーリン:マヤコフスキーの詩「ウラジミール・イリーチ・レーニン」による劇的交響曲,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団他(OLYMPIA)1960・CD,,録音状態はモノラルだが良好。ガウクにしては最上のたぐいだろう。曲はレーニン賛歌で特に意識して歌詞を聞く必要はないというか、聞かないほうがいい。音楽の本質を捉えるのにしばしば歌詞は邪魔である。曲的にはほんとに劇的って感じ。ブラスが吼えまくりチャイコフスキー的な盛り上がりやミャスコフスキー的な感情の揺れをわかりやすく聞かせてくれる。派手だし、比較的短いのも聞きやすさを助長している。これまたプロレタリアート賛歌な歌唱が入ってくると結構マーラーの千人を思わせる雰囲気が漂う。壮大でかつ神秘、というと誉めすぎ以外の何物でもないが、確かに聞かせる技は持っている。総じて技巧に優れたロシア音楽の優等生、という感じ。モダンな時代の人だから19世紀民族主義物が苦手なクチでも聞けると思う。もっともショスタコ中期も受け付けない人には無理だが。○。ガウクいいですよ。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シェバーリン:ロシアの民謡主題によるシンフォニエッタ,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(OLYMPIA)1954・CD モノラル。戦後の作品だがもろ社会主義リアリズムといった感じで、20年前の作品より更に50年溯ったような古臭さがある。この曲に対しては依然「ロシア国民楽派」という称号が相応しい。それを念頭に置いた上で、尚結構楽しんで聞くことができる。ガウクはちょっと野暮ったいが力感はあり聞きごたえは十分。ロシア民謡を使用しているとはいえロシア流儀の田舎臭さは少ない。民謡の使い方としては寧ろヴォーン・ウィリアムズあたりに近い。ヴォーン・ウィリアムズの民謡編曲は卑俗な主題と華麗なオーケストレーションというミスマッチの妙が一つの特徴となっているが、この曲もそのケがある。旋法的な旋律廻しも似ている。ソヴィエトのシンフォニエッタといえばミャスコフスキーの名作が思い浮かぶが、あの曲の描く暗い幻想とはまた違った明るい美感を持つ作品とは言えるだろう。迷ったが○としておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シチェドリン:MISCHIEVOUS FOLK DITTIES,○バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1967/6/20放送LIVE・CDひたすら細かい動きをする弦をベースに親しみやすい民謡旋律(でもけっこう垢抜けてる)を載せてくる管楽器、楽しげなフレーズを刻むスネアのジャズ風のリズムが心地いい。鋭いリズム表現はこの頃のバーンスタインならではのもので、この曲の持つリズム的な面白さが引き出されている。それにしてもアメリカ人に受けそうな娯楽的な作品。楽器法や響きにペトルーシュカを意識しているようなところがあるが、楽想はむしろミヨーらのラテンな明るい音楽から影響されているようで、そのあたりの折衷模様が面白い。巧いというのとはまた違うが、非常に効果的なオーケストレーションだ。「カルメン組曲」が好きな人はぜひ聞いてみてください。シチェドリンはいくつかの仮面を持っているが、たぶん一番分厚い仮面を被って書いた曲。本質的に快楽主義的なところがないとこういうウィットに富んだ曲は書けないとは思うのだが。バーンスタインは全体的にはあまりジャズ風の崩しを入れずにスピードを保って突き進む。スマートでシャープな感じだ。このようなマイナー現代曲演奏においてNYP時代のバーンスタインほど曲の知られざる魅力を引き出し、曲本来の晦渋さすら娯楽に昇華させてみせた指揮者はいないだろう。でもきっとこの曲は他の人が振ってもそれなりに聞けるしっかりした構造を持つ楽曲。この盤に拘らなくてもいいとおもいます。最後ちょっとブラヴォーが入る。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シチェドリン:カルメン組曲(原曲ビゼー),○ロジェストヴェンスキー指揮ボリショイ劇場管弦楽団(melodiya,BMG)CD冗談音楽のような編曲だが、ハデハデでとにかくテンションの高い音楽は、どちらかというと中央アジアで繰り広げられる豪華絢爛絵巻のようなものだ。打楽器と弦楽のために編曲した組曲であるが、その笑ってしまうような独特のシニシズムに惹かれる人が多いのだろう、シチェドリンの作品の中ではもっとも有名なものとなっている。お馴染みの旋律はほとんど奇怪なオーケストレーションと構造の中に組み込まれており、しばしば意表をつく。ロジェストのテンションの高さ、オケの緊張感がぴりぴり伝わってきて非常に楽しめる音楽だが、人によっては(というかたいていのクラ聴きには)噴飯モノの受け容れられないものとみなすだろう。こういう冗談が通じる相手にのみ威力を発揮する音楽。だいたいなんで打楽器と弦なんだ。冒頭の鐘と最後の鐘のかなでる旋律はなかなかイマジネイティブな世界を繰り広げている。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シチェドリン:せむしの子馬〜ロシアの踊り,スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立(放送?)交響楽団(LUCKY BALL:CD-R)1983/10/20LIVEオケ表記が放送響となっているが怪しい。ショスタコの「革命」のアンコール三曲目。地味な曲だが明るく穏やかな気分でさらっと聞き流せる。無難な演奏。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シチェドリン:ピアノ協奏曲第1番,作曲家(P)スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)1974LIVE中古CD屋に行ったら、スヴェトラーノフの最初のスクリアビン1番の録音がなんと1万円で売りに出ていた。あんなの誰が買うんだろう・・・スヴェトラなら後年もっといい名演が残されているのにと思ったが、こういうマイナー曲はコアなファンがいるもの、あっというまに廃盤になり、ごく一部のマニアの間で高額で取り引きされるのが現状なのだな、と実感した。とくにメロディヤ盤は今や入手困難なものが多いから、こういう現象が起こるのだなあ、と思った。さて、シチェドリンも思いっきりマイナー作曲家だ。ジャズや前衛音楽を貪欲に取り入れながらロシア音楽の新しい一面を開拓しようとしている作曲家の一人であるが、今は「カルメン組曲」が知られるくらいである。ショスタコーヴィチの時代と違い、シチェドリンはソヴィエトが開放的政策をとるようになった時代の寵児だ。ロシアの縛りはもはやなく、閉鎖的であったがために遅れをとったロシア音楽の現代化を目すあまり、結局ゲンダイオンガク家になってしまい、レコード屋でもコンテンポラリーのカテゴリーに分けられている。「ゴキブリだらけのモスクワ」など、変な作品名でも知られる。さて、この曲は22歳、モスクワ音楽院卒業制作の作品である。ここでは74年改訂版の演奏が聞ける。4楽章制で交響曲的構成を意識しているようだ。二楽章にスケルツォ、三楽章にパッサカリアを置いている。各楽章ともいきなりの旋律強打で強引に聞かせてゆくが、プロコフィエフの影響は否定できないだろう。だが、プロコフィエフにしばしば聞かれる不透明な半音階的書法の影響は皆無だ。とにかく透明感があり、新鮮な響きに彩られた初々しい曲である。旋律や技巧には独特の癖があるものの、美しく清々しい曲想の中で思う存分歌っている。やや生硬で巧いとはいえない書法だが、そういう習作的なものに特有の”ある”種の魅力があるので、マイナー曲好きには受けるだろう。ロシアーソヴィエト系の曲とはっきり認識できるのは散在する取ってつけたような民謡風主題の存在くらいで、それもカバレフスキーのように洗練され国民楽派の臭いは全くしない。旋律はラヴェル前後の作曲家を彷彿とさせる魅力的なものが寧ろ多く、暗めの曲想の中でも決して透明感を失わない。1楽章はやや長いが、旋律と曲想の流れを追っていくだけでも楽しめる。2楽章はプロコフィエフをちょっと思わせる平易な音楽。3楽章はいくぶん謎めいている。4楽章は喜遊的な、ミヨーを思わせるラテン系音楽。リズミカルで軽やかな歩みはまったくフランス風だ。皮肉っぽさすら感じる。この終楽章は出色の出来なのでお勧め。時代柄あきらかに古い作風なのではあるが(ブーレーズやギーレンとほぼ同世代なんですよ!)。終端の旋律ユニゾンでだかだかだかだん!とやるのはグラズノフ以来の伝統か。古き良きモダニズムの香りがするが、それは後年の破壊的音楽の創造へとつながってゆく。シチェドリンは可もなく不可もなくといったかんじのピアニズム(この曲、ピアノ的には余り難しくなさそう)。スヴェトラーノフは完全にバックに廻っている。小粒な曲に対してやや雄大にやりすぎているきらいもある。シチェドリンは作風を転々とし、ゲンダイオンガクに落ち着いてしまうのだが、若い頃はこんな曲もあるのだ。かつてCDで出ていたが最近廃盤になったよう。CDでは1〜3番が自演(2番除く)で集成されていた。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シチェドリン:ピアノ協奏曲第1番〜4楽章フィナーレ,○作曲家(P)ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ音楽院管弦楽団(モスクワ音楽院大ホール百周年記念盤)1954/6/1世界初演liveこの人の作品は隙が無い。かっこいい。現代音楽に分類されることも多いが、さまざまな性向の作品を書いており、この曲のようなものでは(完全に調性的で)ミヨー的な楽天性を示しながらもあくまでスマートで(ミヨーがしばしば陥る野暮ったさが無く)俊敏に描かれ、つねに透明で明るくすがすがしい空気に満ち溢れている。この人の作品の美しい響きが私は好きだ。鳥の声をうつしたピアノ曲があるが、メシアン的過剰にならずとても簡素でリリカルな(しかし非常に現代的な)作品になっている。また、室内楽作品ではかなり「現代音楽」しているが、ここでもひびきの鋭敏な感覚が発揮されており、深い心象をたたえている。それらに対して、この曲はいわば先祖帰り的ヴィルツオーソ向け作品だが、分散和音やトレモロやグリッサンドのとても効果的な用法が印象的だ。その書法はちょっと独特であるがそこがよい。とてもロシア系の作品とは言えない作品で、かなりフランスの空気を感じさせるが、最後のちょっとグラズノフ的なユニゾンの旋律強奏は辛うじてこの作曲家がロシア・ソヴィエトの作曲家だったことを思い出させる。この作曲家、非常に興味があるので、おいおい追っかけていこうと思う。ピアニストとしても非凡の奏者であったというのは、この盤で聞けばわかるとおり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シチェドリン:ピアノ協奏曲第2番,○ペトロフ(P)スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(venezia/melodiya)1977/5/12live・CD,,焦燥感溢れる楽想に対し、線的に音を並べていくだけの感のあるピアノ、断続的かつ現代的だがどこか前時代的な趣をはらむオケ部、ジャズのイディオムを導入したのはわかるのだが正直快楽性を孕むジャズの特性を生かしきれてるとは言えないところ含めて、私は余りこの曲が得意ではない。ただ、ペトロフなので指は極めてよく回り、曲の要求するスタイルにマッチしており、このてのゲンダイオンガクが好きな向きには勧められる。いかにもソヴィエトのゲンダイオンガクだ。2012年veneziaがラフマニノフやプロコフィエフなどと集成したCDに収録。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:「クオレマ」〜悲しきワルツ,ダン・ハーヴェイ、ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団victor1936/1/15,,悪名高いストコの悲しきワルツだけど、個人的にこの人気曲ぜんぜん響かないので、どこがどう違うのかすらピンとこない。少なくともこれは粘らない。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲,○D.オイストラフ(Vn)アーリング指揮ストックホルム祝祭管弦楽団(COLUMBIA)? ONDINE盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲,○D.オイストラフ(Vn)フーグシュタット指揮フィンランド放送交響楽団(ONDINE)1954シベリウス週間 さすがだ。舌を巻くほど巧い。音楽に強力な吸引力が有り、太く魅力ある音で完璧にこなされていく数々の技巧、この人に不可能はないのか、と思ってしまうほどだ。ロマン派協奏曲をやらせても天下一品、熱情的だが決して崩れない強固な演奏。ああ、こんなに弾けたらタノシイだろうな。解釈もまっとうなもので嫌味がない。逆にあまりにまっとうすぎて面白くないという見方もあろう。録音のせいか、後者のほうが線が細く、かつ荒く感じられる。その粗さが逆にスリリングな聴感を与えている。ここでは北欧のオケをバックに使った演奏ふたつを挙げたが、ソリストに対してちょっと及び腰の感もあるものの、過不足ない演奏を行っている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲,○シェリング(Vn)ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(VENEZIA)1970/11/3live・CD,,シャープで無色透明の演奏をするイメージがシェリングにはあり、それが弱みにかんじることも無意思的にかんじることもある。音の線の細さもとくに大管弦楽をバックにした演奏記録では埋没するというか弱みにとれてしまう。たとえばシマノフスキの二番なんてウィウコミルスカなどに比べて弱弱しく解釈もしない、技巧的にも物足りない「優等生のよくできた回答」みたいな感じがあり余り好みではないのだが、ここでストコ・ASOというきわめて強力な布陣のもとにシベリウスを謳歌するさまはとても同じ人とは思えない・・・いや、清潔な音や技術の正確さは確かにシェリングだが・・・熱情と活気にあふれ、この厚ぼったくロマンティックでありながら非常に新しい技巧のつぎ込まれた傑作協奏曲への共感と理解がこのソリストには確かにあり、楽章間でいちいち入る拍手と最後のフラブラを除けば、もひとつ録音の弱さを除けば、私の聴いたことのある中でも最高のシベコンであり文句なしに◎にしていたところだろう。拍手したがる気持ちもわかるのだ!,-----,,,,,,,,,,,,,
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲,○シェリング(Vn)ブール指揮コロンヌ管弦楽団(odeon/EINSATZ)1951・CD,,かなり攻めた演奏で我が曲のように自在に操っていくシェリング最盛期の凄みを味わえるもの。板起こしでやや硬い音だが後年のシェリングの冷えた細い音とは違う、「肥えた女性演奏家のような」我の強さが音の太さにもあらわれたものとなっていて、1楽章など小さい音符を思いっきり詰め引っ掛けを多用したりカデンツァを極端に煽ってみたり、不要と判断したのか音の存在はわかるものの殆ど音として認識できないような加速指廻しをしてみたり、まあコンクールならアウトである(コンクールなど盤には無意味だが)。2楽章の印象的なロマンティシズムはシェリングにドイツ的な重みある表現も可能だったことを認識させる。だがロマンティックにはけしてならない。ヴァイオリンの名手だったシベリウス、そのチャイコフスキーの一歩前を行く書法の特徴でもあるのだが、民族音楽的な表現を更に極端に煽るような弾き方をしているにもかかわらず、まったく舞曲風味が出ない。3楽章に顕著である。これは強弱コントラストが強くしかし余り主張してこないデジタルな透明感のある伴奏との併せ技でもあろうが、シェリング自身が後年芸風として確立していく「冷めた音による熱い音楽」の萌芽が既に十分見えていたということだろう。私はこの頃のシェリングは好きだ。ライヴ感溢れる、瑕疵もあるが、なかなかのテンション系演奏。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲,D.オイストラフ(Vn)オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(CBS)1959/12/21、24ここでのオイストラフも同時期のチャイコン同様やや音が細く感じられるが、ひょっとすると録音のせいかもしれない。ここではオーマンディがまずもって凄い。シベリウスと親交があった指揮者であるから、というだけでなく、前期シベリウスの濃厚なロマン性を強く打ち出した演奏ぶりが板についている。オイストラフの巧さが際立つのは終楽章であり、オーマンディとの丁々発止の打ち合いはスリリングだ。ともに剛力をふるってこの暴力的な楽章を盛り立てている。音はまあまあ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲,D.オイストラフ(Vn)ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA,eurodisc/YEDANG)1965LIVE/(DREAMLIFE:CD-R)1966LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲,シェリング(Vn)バルビローリ指揮ヘルシンキ室内管弦楽団(inta glio/SLS)ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホール1965/9/13LIVE・CDinta glio盤に録音日記載なしだがSLSと同じと思われるためそちらのデータを追記した。シェリングの音は高潔だ。その演奏は常にひんやりとした肌触りを持ち、シベリウスには適当に思える。だが、このシベリウスはいわゆる国民楽派からの影響を抜けきれていない「熱い」シベリウスであり、数々の独特の技巧の表現は完璧であるが、感情移入させるようなフレーズにさいして、ちょっとすんなりしすぎている感もある。2楽章は美しい。この楽章が一番うまくいっている。バルビはあくまで影にまわり、シェリングを邪魔しないようにしているかのようだが、2楽章では感傷的な表現をきかせシェリングと絶妙のコンビネーションを行っている。終楽章はどんな演奏でも熱く聞かせる楽章だからシェリングの場合も多少の熱を感じさせるようになっている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲,フェラス(Vn)フレイタス・ブランコ指揮ポルトガル国立交響楽団(SLS)1957/11/16リスボンlive,,骨太の音でグイグイと引っ張ってゆく、ヴァイオリン弾きになりたかったシベリウスが独特の技巧的フレーズを縦横無尽に散りばめたなかから、いわゆる北欧的なひびきやロマンチシズムをしっかり引き出して、ドイツ的な力強さをもった音楽に仕立てている。録音は悪いがフェラスの素晴らしい腕前は、もちろん現代においては精緻に細かい音符の全てを音にしないと許さないひともいるかもしれないがロマン派音楽にそれはあまり意味のないこと、要所要所、音楽の流れをとにかく重視して、そこにあらわれる大きな起伏をカッコよく、ギリギリと破音のしそうな弓圧をかけながら、二楽章ですらダイナミックに感じさせる演奏ぶりで圧倒する。対してブランコは固く、慣れていないことがバレバレで、この人の雑味のみ残ってしまう感もあるがもうオケはこのくらい四角四面で十分なのかもしれない。ブラヴォ終演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:エン・サガ(伝説),トスカニーニ指揮ニューヨーク・フィル1936/3/29,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:カレリア序曲,○アンソニー・コリンズ指揮ロンドン交響楽団(BEULAH他)1955/6/2-3・CD,,これほどの曲がなぜかこの序曲と組曲しか演奏されないというのはどういうわけだろう。ワグナーの子として、しかしワグナーが材をとった北欧神話の世界を、フィンランドの素材によってより神秘的かつ透明な音楽に昇華させてみせたシベリウスの、既にして円熟した技巧が示された傑作劇音楽である。序曲は組曲ほどはっきりした音楽ではないが、各主題の描き分けを明確にし構造的なものに配慮しながらも、旋律線や和声の変化に印象派的な微妙な揺らぎを加え、暗示や隠喩の存在を錯覚させる不思議さを持たせており、とても新鮮な印象をあたえる。アンソニー・コリンズはリズム処理が素晴らしく巧く水際立っており、茫洋感を抑え素直に聴き易い音楽を作る事に成功している。オケ(弦)も確信に満ちており清々しい。後期ロマン派様式、例えばグリーグから野暮を取り去り、ワグナーの拡大された型式論を採り入れた、初期シベリウスの完成期を示す作品の一つである。一聴損無し。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:カレリア組曲〜T.間奏曲,ビーチャム指揮BBC交響楽団,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:カレリア組曲〜T.間奏曲、V.行進曲ふうに,カヤヌス指揮ロンドン交響楽団(FINLANDIA)1930/3シベリウスの権威カヤヌスが初期の名曲を演奏。親しみやすく美しいこの小品、シベリウスの個性的なスコアをカヤヌスは素直に音にしているふう。間奏曲はブルックナーふうの弦のトレモロによる開始部からブラスの使い方などドイツ音楽の影響が色濃い。しかしその中にも既にフランス印象派に通じる「雰囲気音楽」的なところがあるのがシベリウスなのだが、この古い録音ではぶち壊し。元がどうであれ余りにも録音が素朴すぎて馴染めない。否が応でも盛り上がる行進曲も、あまりに音が鄙びてしまっていて曲の瑞々しさが台無しだ。ミャーミャーいうヴァイオリンのポルタメントも邪魔。鋭いリズムと圧倒的な力感が欲しい。残念ながら無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:カレリア組曲〜行進曲,"",○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(aura,HMV/ermitage)1957/10/20アスコーナlive・CD,,あからさまに気分を煽る国民楽派時代のシベリウスの代表的な曲で、組曲全体も素晴らしい。フィンランディアなどと同系統でけっこうよくアンコールなどでやられる。ドヴォルザーク晩年以上に「垢抜けた民族音楽」の冷たく洗練された響きと巧緻な構造を、単純な民族旋律連環の中に見出すことができる。もう弦楽器は大変なのだが(ワグナーやらブルックナーやらの伴奏音形の影響ですな)カッコイイので団員のやる気はすごい。ただオケ自体の特性が、このギッチリ揃ったアンサンブルを堅固な響きの上に展開するという中欧的な楽曲にあってないというか、弦楽器はっきりいって軽くてギッチリとは揃わないので、こうクリアにリマスタリングされると少し技術的問題を取り沙汰したくもなる。ビーチャムはシベリウス消費大国イギリスにおけるシベリウスの先鋒的権威だし、このスピードにドライヴ感は必須と思ってやってたんだろうけど、ちょっと煽りすぎて聴く側も緊張してしまう。○にしておくが最大評価にはならないという感じ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
シベリウス:トゥオネラの白鳥,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ROCOCO他),,ROCOCOは他に出ている(?)ものと同じか。ROCOCOでは録音がこれだけ極端に悪く、5,6番に比べ演奏効果も長さも足りない曲であるために、流して聞いてしまい、そして別にそのままの印象で終わった。クーセヴィツキー向きのしっとり情緒的な曲ではないか。無印。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
シベリウス:フィンランディア,

○ストコフスキ指揮ヘルシンキ市民管弦楽団(DA:CD-R他)ヘルシンキ音楽祭1953live

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CD化音源と同じものか。DAは非常に録音が悪くブラスと弦の分離すらままならない。ただ、演奏自体は異様な雰囲気に包まれている。スコアは原型をとどめていない。この曲にはないこともないが、カットだらけのいじりまくりで主部以降のヴァイオリンの旋律がオクターブ上げられ続けるあたりなど、分離の悪い録音でもしっかり聞こえてくる奇妙さだ(ストコの「わかりやすさへの配慮」が悪録音で活きてくる見本のようなところだ)。序奏部ではテンポが完全に二分化され主旋律はじっとりゆっくりだが合いの手は異常な速さで入り気が煽られ(というか対位的な書法を完全に旋律とそれへの絡みという主従関係に単純化しているのだ)、主部以降はとにかく異常な速さで突き進んでいる。緩徐主題ではヒステリックに叫ぶ。あっけなく幕ぎれる高速演奏ぶりだが、潔くていい。○。

,"(参考)ストコフスキ指揮のフィンランディアは探せば出てきます。これは品切れの様子ですが・・・
フィンランディア(ヒット・コン
管弦楽団
EMIミュージック・ジャパン

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シベリウス:フィンランディア,マルコ指揮シドニー交響楽団(SLS)1960/12/2live,,同日の交響曲より音がこもって悪い。ダイナミックなロシア的フィンランディアなのではあるが、交響曲にくらべると弦楽器が潰れてしまっていたり打楽器やブラスが比べてひどく大きくとらえられ耳が痛い。演奏的にはいいのだ。最後に僅かに拍手の欠片が入り、ライヴであることがわかった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:フィンランディア,ロジンスキ指揮クリーヴランド交響楽団(LYS/COLUMBIA)1939/12/20これは音悪すぎ。ヴァイオリンの刻みがほとんど潰れて聞こえないし、凝縮力のある演奏であることはわかるが、曲が単純にすぎるせいもあり、いささかおしつけがましく聞こえる。全般として、個性的でもなく、薦められない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:フィンランディア(マシューズ合唱編曲),"",オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団1972/3/23,,かなり「うるさい」演奏。シンバルあたりがやたらと叩きまくるので旋律が沈んでしまい、せっかくの国民賛歌が叙情性を煽るのではなく寧ろとっぴな印象を受けるほど。録音バランスのせいか?合唱も違和感。。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
シベリウス:弦楽のためのアンダンテ・フェスティーヴォ,○作曲家指揮フィンランド放送管弦楽団(ONDINE他)1939/1/1LIVE世界初出 これが正真正銘シベリウス唯一の自作自演、正月放送の記録だということだ。いろいろ経緯があってフィンランディア・レーベルなどで出ていた従来の「自演」盤はまったく他人のものであり、本当のものは放送室で新発見されたこの音源であるということになったのだという。そのせいかこの盤は賞も受けている。聴いてみてなるほど、荘重で、スケールの大きな演奏で、前の「ニセモノ」より(録音含め)数段上に感じた。フィンランディア盤は教会音楽的でけっこうマイクに近く聞こえたが、この盤はマイクが比較的遠く、いくぶん宗教的な感じもあるものの、まぎれもなくシベリウスを聴いている、という実感を持たせるものがある。シベリウスが振っているのにシベリウス的、なんて変な言い方だがそうなのだ。他に形容する言葉が見当たらない。ロマンティックな高揚もあり、感動すら感じさせる演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:弦楽のためのアンダンテ・フェスティーヴォ,伝作曲家指揮フィンランド放送管弦楽団(FINLANDIAほか)1939/1/1放送録音? 1924年作品。至極単純、古風なコラール音楽で、後期交響曲の導入緩徐部を思わせる繊細で透明な響きには惹かれるが、ほかに特筆すべき部分のない美しくも凡庸な小品。ここでは作曲家唯一の自作自演?を挙げた(註:今現在この演奏は偽演とされているが、真の指揮者は特定されていない)。指揮はしっかりとしたものでたどたどしさもなく、心もとないのは録音のほうで、弦の音が震え貧弱に聞こえるが、この時代では仕方ない。大きなステレオセットで巧く聞けば、聞けないほどでもないと思う。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:弦楽四重奏曲「親愛な声」,○スメタナ四重奏団(INA)1956/6/12ヘルシンキ・シベリウス祝祭live・CD,,ピアノトリオなどをやっているとつくづく弦楽四重奏のアンサンブルとしての面白さに気づかされる。やはり同じ音質・音数の楽器同士であわせるというのは絶対的な支配者になりうるピアノをまじえたアンサンブルに比べて「簡単」であるからこそアンサンブルとしてより高度なやりとりができ、また求められるものだなあという感慨を持つ。スメタナは凄い。ライヴならではの熱気もある。ただ、解釈自体は生硬で抽象化されすぎている感がある。シベリウスの作風過渡期のものであるからこそ、多少のロマン性も残されるべきだし、それは単なる音量変化やアーティキュレーション変化の付け方に留まらず、ロマンティックな観点から自主的にのめりこむような態度を必要とするものだ。1楽章の無味乾燥にとくにそれを感じた。楽章がアーチ構造の組曲風のものであることから、急峻な2、5楽章についてはスメタナここにありといった非常に緻密で集中力の高い演奏ぶりが胸のすく思いをさせてくれるが、5楽章の最後にしても古典風の楽曲の盛り上がりにもう少し気持ちがついていっていてほしいし、また緩徐楽章である3楽章にはいくぶん気分がのっているところも感じられはするが、ラフマニノフを想起するような後半部などやはり、この団体の芸風の一種「限界」を感じさせる。そもそもこの曲を余りやらなかったのもわかる気がする。アンサンブル的にさすがシベリウスでマニアックな構造やら響きやらがつぎこまれ面白いことは面白いのだが、スメタナQ的には物足りなかったか。激烈とまでもいかないところもこの団体らしい。○。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
シベリウス:弦楽四重奏曲「親愛な声」,○ボロディン四重奏団(MELODIYA)LP,,かなりテンポの揺らしが大きく、独特の安定したすべらかな音色にも柔らかい抒情が載って、技術的にも読み的にも高度であるからこそ隙がないぶん醒めて感情的には聞こえないのだが、奏者側には精緻に揃えた起伏により聴衆に感傷をいだかせようという意図が感じられる。それを中途半端と感じてしまったのは個人的な好みによるかもしれないが古いとはいえここまでレベルの高い団体がこの曲に取り組んだ成果という価値はあるだろう。○。モノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:弦楽四重奏曲「親愛の声」,○ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、イポリイ、シュナイダー)(EMI/WORLD RECORDS)1933/8/8 COLUMBIA盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:弦楽四重奏曲「親愛の声」,○ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)(COLUMBIA)?前者は最後の初期メンバー(ヴィオラ)が残っていた時期の録音で、後者は一般によく聞かれる新メンバーによる録音だ。共に既に初期メンバー色は一掃され現代的な「揺れない演奏」を行っている。骨太であり、とてもまとまりがいい。ただ、テンポが極めて恣意的に変化していくところにやや抵抗を感じる。1楽章、ファーストとチェロが対話する序奏部が終わったところで、おもむろにテンポが速くなる、といったところだ。表現主義的と言うべきか、緩やかな、あるいは自然な変化というものがなく、ONかOFFか、だけのような感じがする。好き好きではあるし、独特だから面白がろうと思えば面白がれるたぐいのものなのだが。また、音色が単調だ。古き良き演奏家たちの匂い立つような香気を求めて聞くとたぶん落胆を覚えるだろう。まあこの団体にロマンティックなものを求めるのはお門違いである。ただ、せめてアーチ構造の真ん中にあたる緩徐楽章には、ろうろうと歌うような余裕よりも、せつせつと語りときに激情を迸らせるようなきわどさが必要だと思う。2楽章のようなスケルツォや終楽章には高度な技術を見せ付けているが、あまりに巧いので逆に印象が残らない。これは現代の演奏によくあることだけれども。この2演奏は全般的にはほぼ同じ解釈だが、テンポ変化の仕方だけを追うと若干の違いが認められる。録音の良さで言えば断然後者で、聴き易いのも後者。極めて風通しのよい後者の演奏はこの曲の構造を非常にわかりやすく見せてくれる。これが紛れも無いシベリウスの作品だということに改めて気付かされる。とくに4楽章が古典的な曲想の中にもシベリウスらしい音色を散りばめているさまが如実に聞こえてきて秀逸だ。終楽章などやたらと複層的なフーガを導入しているあたり、これがステレオであったならとても効果的に響いてきただろうにと思わせる精巧な作り。弦楽に対する造詣の深さが顕れた楽曲であり、微妙で繊細なハーモニー(この演奏ではあまりはっきりしない)に刻み、飛ばし、装飾音符、もろもろの小技がマニアを唸らせるのだが、初期の国民楽派的なロマン性が依然残っている一方で、印象派的な陰影に、凝縮され精密に組みあがった極めて理性的な現代性をもはらんでいる。交響曲第3番と第4番の間に書かれたことがうなづける感じだ。寧ろ交響曲的な発想のもとに制作された作品のように私には思われる。それだけに演奏解釈は難しいところがあり、ブダペストのように直球勝負で即物的に解釈してしまったほうが合理的なのかもしれない。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:弦楽四重奏曲「親愛の声」,グリラー四重奏団(DECCA)グリラーはブロッホの初演で知られる楽団。ドヴォルザークの「アメリカ」の演奏があるが、あまり魅力的ではない。このシベリウス唯一の(ごく初期の習作を除く)弦楽四重奏曲は末期ロマン派の暗い雲の中に垣間見えるマニアックな構造や現代的な響きが魅力的なシベリウスらしい作品だが、グリラーはつねに聞かせるべきフレーズを若干ルバートして強調し、また細かい音符の場面は徹底して密やかに響かせている。そのため全体的に妙な聴感を与えるが、和声が余り綺麗に決まらず、シベリウスの「北欧的和声」を楽しむ事が出来ない。緩徐楽章はもっと憂いをもって表現してほしいし、民族的楽章は妙に元気なのだが、そこに重心を置いてしまうと全体構造がだいなしだ。終楽章ももっとエキサイトしてほしい。個人的に懐かしい曲だが、こういう演奏を聞くと、また取り組んでみたい気になる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:弦楽四重奏曲「親愛の声」,パスカル四重奏団(ars nova/forgottenrecords)1955/7/9live放送エアチェック・CD,,音質(当然モノラル)のせいもあって小粒で地味感があり、この後期ロマン派の延長上に、チャイコフスキーを遥かに越えた不規則なフーガ構造の多用に代表される、室内楽的ではないほど異様に作り込まれ盛り込まれた現代的な創意に対し、隈取を強く付けて印象付けるのではなく、あっさりめで流れるような演奏をなしているため、モノラルだと折り重なるように波のように長く短く押し寄せるようなフーガが、単純に単線的であるかのように聞き流されてしまうなど勿体無い。しかしながら古い演奏としては手堅いブダペスト四重奏団がメンバーチェンジを繰り返しながらやたらと録音しているのに比べ、圧倒的なファーストの音色の魅力、暖かな響、柔らかな雰囲気の合奏には替えがたいものがあり、解釈にではなく音色とフレージングにオールドスタイルの魅力がある。ライヴなのに熱しない、フォルテッシモを出さないところもパスカルらしいが、いきなり軽い飛ばしで入って面食らう終楽章の後半ではさすがに乱れるほど力は入っているようだ。あっさりしていても、味のある演奏。,ars nova盤はエアチェックかどうか不明。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
シベリウス:交響曲第1番,◎アンソニー・コリンズ指揮ロンドン交響楽団(london)1952/2イギリスはシベリウスの音楽をずっと愛してきた。そのせいかシベリウスを得意とする指揮者が多い。ビーチャム、サージェント、バルビローリ、そしてここに紹介するアンソニー・コリンズだ。この人のシベ1がラジオから流れてきたとき、背筋に電流のようなものが走ったことを思い出す。なんと劇的な音楽!なんというダイナミズム!シベ1は印象的な第一楽章のせいか演奏される機会が多いが、私はバルビローリのもの以外で心底感動した記憶が、このアンソニー・コリンズの録音以外にない(例外的には録音状態の悪いクーセヴィツキーやカヤヌスがあるが)。映画音楽作曲家として知られる存在であったせいか、その棒の産み出す響きは常にロマンティックでドラマティックである。どこにも隙のない1楽章!ティンパニの音が耳をつんざくほどに突き刺さってくる。まるで北欧の氷河が海に雪崩れ込む轟きだ。次いですばらしいのは終楽章で、強力な前進力が感じられる。憧れに満ちた素晴らしくロマンティックな歌をうたうヴァイオリンの艶めいた音、それを支える充実した中低音部の響き、ハープのきらめき。歌に従ってテンポはかなり伸び縮みするし、音量が小さい部分の無いせわしない演奏でもあるが、それを補って余りある、この人独自の音楽が聴ける。2番も面白いが、1番ほどではない(2番は他に沢山演奏があるし)。おすすめ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第1番,○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(BIDDULPH)1940/10/20力強く突き進むような演奏である。力感にあふれダイナミックな演奏スタイルはモノラル期のオーマンディの芸風をよく示している。1楽章を例にとれば抑制された序奏から長い第一主題に至るまでテンポは常に早目のインテンポ。トスカニーニ張りの即物的な解釈だ。しかし展開部ののち第一主題の再現部に至るクレッシェンドはうねるような情緒の揺れがダイナミックに表現され、初めて粘りに粘ったヴァイオリンのフレージングは、ずしんとくるものがある。提示部の即物的表現とのコントラストがじつに鮮やかで、全体設計が計算され出来上がった演奏ぶりは天晴れといったところだ。シベリウスと親交があり、お墨付きの解釈だったたというから、「北欧情緒がない」「民族的興奮がない」などと言わないように。ビダルフレーベルはしばらく没っていたが、最近新生レーベルとして生まれ変わり、積極的な復刻を推し進めている。この録音はさすが40年代で聴き易い。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第1番,◎ガラグリ指揮ドレスデン・フィル(ETERNA/BERLINclassics)CD,,これが大変な名演・名録音なのである。CD化していたらすぐに欲しいくらいだが目下LPしか見たことが無い(註:90年代後半に二度CD化している)。LPは薄盤でジャケも非常に安っぽく、だいたい比較的新しいにもかかわらず、物凄い高値のつくガラグリのシベリウスだが(私も他はなかなか手が出ない)、もともと全てステレオで収録されているにもかかわらずモノラル盤も出て、そちらの数が多いゆえ比較してステレオ盤が高値安定という結果になったようである。それで、この盤はステレオで聴いた。驚いた。演奏解釈自体は文字にすると「実直で手堅い」ということになるのだろうが、厳しくりっせらっれたオケの斬り込むような音と常に速めに設定されたテンポがじつに自然でかつドラマティックな演奏を作り上げている。録音が極めていい。生々しい。かといって演奏に少しの瑕疵もないから「そういう」生々しさはない。とにかく非常にスケールの大きなドラマを呆然とただ聴いた。余りシベリウスのいい聴衆ではない私だが、これはどこをどう評すればいいのか困ってしまうほど解釈にてらいがないにもかかわらず、他とは隔絶した凄みを感じさせ、オケの力もあるのだろうが(これがまた他有名オケのような個性を売りにするような団体ではなく、文字にすると実直でまじめとしか書きようがないのだが、とにかくバランスがとれているのに一つ一つの音は強く、隙がまったくなく、うまいのだ)、とりあえず◎としておくしかない。何か言葉が見つかったら再度書こうと思う。,,驚いた。,-----,,,,,,,,,,,
シベリウス:交響曲第1番,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(DA、vibrao:CD-R)1945/10/13live ,,ナレーションや拍手はクリアだが演奏はノイズ多し。安定はしている。しかし1番はこの人に向かないのか?どうにも鈍重だ。スケルツォの攻撃的なテンポを除けば重くうねるロマンティックな表現が目立ち、かえって飽きてしまう。チャイコフスキー的というか。旋律が重視されている演奏なので構造的演奏を好む人には向かない。演奏的には精度も高く精力も強い。時代のせいか、目の詰まった音に何か非常に感情がこもっている。既出と同じかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第1番,○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送管弦楽団(WEITBLICK)1982/4/6LIVE,,ボウヨウとしたのっぺり客観な1楽章にはどうしようとおもったが、丁寧に響きを整え厳しくりっしながらもロマンティックなルバートをかけたりするさまは、やや響きの質がちがうもののガラグリを思わせ、3楽章から4楽章のドラマティックな展開には切り込みは激しいながらもブルックナー的な精神性を求めるような壮大さが、やっぱりチェリの様式を想起させずにおれない。訴える力はそんなにないが、まあまあといった、客席もそんな反応。録音ややぼんやり。後半だけで○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第1番,○ストコフスキ指揮ヘルシンキ市民管弦楽団(DA:CD-R)1953ヘルシンキ音楽祭LIVE,,録音は最悪。しかし演奏はすさまじい。ゴージャスな爆音だったことを想像させる破裂しそうな録音の中から、テンション高く技巧的にすぐれた分厚いオケが異様な速さで疾走するさまが聞き取れる。この怒濤のテンポは即物的なほどだが、あっという間のフィナーレ後得られるカタルシスはかなりのものだ。録音が悔やまれるのみ。,-----,,,,,,,,,,,,,
シベリウス:交響曲第1番,○デ・サバータ指揮ニューヨーク・フィル(URANIA)1950/3/5なぜか私の手元のシベリウスは古い演奏ばかりがそろっている。カヤヌス、クーセヴィツキー、ビーチャム、コリンズなどなど。このサバータの1番の演奏も古く、非常に音が悪い。ウラニア特有のリマスタリングが若干雑音を消してくれてはいるものの、ほんらいの音までもが痩せてしまっているように聞こえる。でも、それを押しても尚聴く価値のある清新な演奏だ。1楽章はどんな指揮者でもそれなりに聞かせてしまう音楽だが、くすんだ魅力をもつ2楽章に続き、この演奏では力感に溢れるスケルツォ3楽章に偏重することなく、終楽章のクライマックスに向けて緻密な設計がなされている。終楽章冒頭の旋律など、カンツォーネみたいに聞こえ(ちょっと恥ずかしいが)面白い。この人の颯爽とした棒はトスカニーニの影響を否定はできないだろうが、それ以上に機敏で繊細である。だからシベリウスの音楽をいたずらに「明るく強い音楽」として描いたトスカニーニとは違い、「薄明の美しい音楽」として描く。シベリウスにはそれが正解だ。また同時に、シベリウスの内在する「ワーグナー性」を非常に強調した演奏ぶりである。それがまた格好がいい。それにしてもどんな音楽もドラマティックなのにスマートに聞かせてしまうサバータ、ジャケ写から見ても、さぞや伊達男だったのだろう・・・。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第1番,○バルビローリ指揮NYP(columbia/DUTTON,BS)1942/4/11・CD,,私は過渡期的だと感じた。横の流れからロマンティックな音楽を作ろうとするバルビと、冷めた様子でそつなくこなそうとするオケ、という印象も持った。しょうじきぱっとしない。録音はこの年にしてはよくレストアできたなあというレベルの雑音のなさで、逆に言うと冷めた音に聴こえる原因はこのノイズリダクションにあるのかもしれない。まだまだ個性も発揮されず、強靭な歌心も見えてこない演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
シベリウス:交響曲第1番,○バルビローリ指揮ヘルシンキ・フィル(SLS)1965/9/13ロイヤルフェスティヴァルホールlive,,inta grioからヴァイオリン協奏曲と7番は出ていたが(データ記載は不明瞭だが同じだろう)同時に演奏されたこれは初出か。モノラルで録音が悪くノイズが気になるが内容は良い。オケは不安をかんじさせるのはパワーがもっと欲しい最初のほうだけで、技巧的にも、雄渾なスタイルでドライヴしていくバルビの特訓の成果的にも素晴らしく結果を出している。圧倒される音表現、細部まで解釈され尽くしたさまを弛緩なく明確に、弦の細かい動きにすらミスの一つもあらわさず、これはバルビがニューヨーク時代に残した秘蔵音源と言っても通用するくらいの一流ぶりだ。凡百の指揮者がギクシャクさせるであろうメロディの揺れ、音圧の強弱の激しさを、バルビはまるでそう書かれているからやっただけ、とばかりにあまりに自然に描く。刻々の気まぐれでやっているのでは決してない。このオケのまさに北方的な熱を帯びない色のない音がロマンの生臭さを払拭しているのも大きい。その音だからの音響バランスのすこぶる良いところは四楽章で認識できる。ドラマティックなほうのバルビローリであり、同時期の様々なスタジオ録音のような客観性は無い。客席反応は良いようだがよく聞き取れない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第1番,○バルビローリ指揮ヘルシンキ祝祭管弦楽団(DA:CD-R)1964live,,ヘルシンキ・フィルとのロンドンライヴ(inta glioで出ていた7番、ヴァイオリン協奏曲)の最後に1番が演奏されている(SLSで全曲発売)。1965/9/13とあるためこれとは別とみなすが、DAの性格上同じ演奏かもしれない。終始激しい演奏で好きな人は非常に好きなタイプの演奏だと思う。最初はかなりオケが弱体な感じがして、朴訥とした表現と変なカンタービレ音がイタリアオケを彷彿とさせるが、リズムを強く打ち出しぐいぐいと引っ張りまた矢継ぎ早にしかし非常になめらかにルバート表現をつなげてゆく方法がオケの重心の低い響きと合致してくると、依然音にはアマチュアっぽさのようなものは残るものの、シベ1演奏としては解釈の行き届いた充実したドイツふうのまとまりあるものに聞こえてくる。音が分厚くて初期シベリウスにはうってつけという感じだ。録音がまるで50年代前半のもののような悪さゆえ○より上はつけられないが、聴衆の普通な反応が信じられないほど盛り上がる、さすがバルビのシベリウス・ライヴといったふうでおすすめです。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第1番,○マルケヴィッチ指揮トリノ放送交響楽団(LIVE CLASSIC)19801楽章はかなり大人しい。1、2楽章はこのオケにしては良く鍛えられた音楽だとは思うが、これといった魅力に欠ける。やはりマルケヴィッチだけあって、3楽章のキレのよいリズムがいきなり目を覚まさせてくれる。ティンパニが引き締まったリズムを提示すると、このオケにしては非常にまとまりのよいヴァイオリンパートがG線の唸りを聞かせてくれる。4楽章はこの人にしてはスケールの大きな演奏ぶりで情に流されない清潔な情感が盛り上げられる。クライマックスのヴァイオリンのフレージングが美しい。この人のテンポ感のよさが存分に発揮された佳演です。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第1番,アノーソフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(Arlecchino)1947息子のロジェストヴェンスキーもシベリウスの交響曲全集を早くから完成しているが、シベリウス受容がスムーズに行われていたとは思えないソヴィエト国内において、戦後すぐこのような曲選が行われていたことは注目に値する。ただ、率直な演奏ではあるが強引な曲作りもみられ、音質的にも聞きづらいと言っておかねばならない。あまり集中力が高いとは思えず、オケが曲に慣れていないのか?とも思った。これは後期ロマン派ばりばりの曲だがアノーソフはそれほどの共感を示していないようで、いい旋律が浮き立ってこない。チャイコフスキーの影響を受けた国民楽派の音楽の範疇に納まるものであるにもかかわらず、あまり民俗臭もしない。指揮自体は決して客観主義ではなくロマンティックな性向を反映しているのだが、あまり残るものが無い。シベリウスは演奏家を選ぶ。この指揮者は選ばれなかった、ということなのだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第1番,カヤヌス指揮交響楽団(FINLANDIA)1930/5,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第1番,マルコ指揮シドニー交響楽団(SLS)1960/12/2live,,セッションもしくは放送用録音かという音質。モノラルであるもののマルコにしてはノイズレスで聴きやすく、迫力がすさまじい。マルコの演奏は莫大になるか偉大になるかの両極端で、著名オケだと前者になりがちで正直遅くて客観的なのに部分的に激しいというロシアの悪い流儀を踏襲したような演奏になることが大曲では多い。この演奏は完全に後者である。序奏から主題提示よりぐいぐい引き込まれる。ダイナミズムに満ち溢れ、ハープまでが強くひびきイマジネーションを刺激し、何より構成が素晴らしくこの曲は十八番だったのではないかとまで思わせる。1楽章はどんな演奏でもよく聞こえるのだがこれはしっかり四楽章まで大きな構築がなされたうえで、激しい起伏が滑らかに織り込まれており数珠つなぎでどんどん聴かせてしまう。いや、こういう演奏があるからマルコはいい。おまけのフィンランディアは弦楽器が打楽器につぶされて聴きにくいのでフィンランディアよりこちらのほうがフィンランディア的感興を得られるだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第2 番,○ビーチャム指揮BBC交響楽団(EMI/BBC,IMG)1954/12/8ロイヤル・フェスティバルホールLIVE,,叫ぶビーチャム!音は悪いしやたら速くて直線的、時にオケが歯切れ悪くなるし、1、2楽章ははっきり言ってイマイチ。テンション芸で押し切れる後半楽章は面白い。特に3楽章からのなだれ込む音楽は即物的な解釈の中でも覇気と気合いに溢れた凄い迫力のもの。最後のリフレインではテンポ変化を含むフレージングの妙味が初めて感じられ、全てが計算であることを思わせる。シベリウス受容の先鋒たるイギリス、そのさらに嚆矢を担った一人であるビーチャム。力強い凱歌の後の烈しいブラヴォもうなづける終焉である。後半のみで○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
シベリウス:交響曲第2番,○アーベントロート指揮ライプツィヒ・フィルハーモニック管(CLASSIC CLUB/VIRTUOSO)不思議な演奏である。音はドイツ式に重心が低いし、奇妙な解釈(3楽章での牧歌的旋律登場前の大きなパウゼ!)やテンポ操作(終楽章の高速!)にはちょっと笑ってしまう。でも変に粘らず、音の流れ自体は非常にあっさりしているのが珍しい。1楽章では雄大な曲作りに感銘を受けるが、肝心のところでペットが外していたりする。ブラスの響きがどうもシベリウスっぽくない、とも思ってしまう。木管アンサンブルには結構細心を払っているようだ。アーベントロートらしいルバートが木管だけの箇所で聞こえてきたりして、ああ、これはアーベントロートの演奏なんだ、と改めて思った次第。「らしさ」は比較的少ない演奏である。2楽章になってもその感は否めない。ただ、けっこう聞ける音楽にはなっている。オケの低音が充実しているだけに、この深く重々しい楽章は聞きごたえがある。哲学的とでもいうべき謎めいた2楽章に、ひとつの「物語性」を与えている。最後のヴァイオリンの歌は雄大にルバートし、支えるブラスとの絶妙のアンサンブルをかなでていて秀逸。そのあとのダイナミックなヴァイオリンの駆け降りる音形は案外小さく弱くあっさりしていて拍子抜け。最後のペットは雄大だ。3楽章は弦楽器のめざましい動きで聞かせる楽章だが、ここではいくぶん落ち着いたテンポで始まり、音にもそれほど尖った所が無い。冒頭でのべたパウゼなどをはさんで、音楽はだんだんと熱を帯びてくる。ルバートしながら盛り上がって終楽章に突入・・・と、かなりあっさり、かなり早いインテンポで一直線に(これはじつはスコアの解釈では正しいらしいが)。なんだこんだで壮大に盛り上がって終演。まあ、ひとつの見識ではある。・・・と書いたあと、改めてヘッドフォンで聴いてみると、非常に首尾一貫したドイツ式演奏でなかなかにすぐれたものだと感じた。とくに3、4楽章がいい。スピーカでは比較的柔らかく客観的に聞こえた弦楽器の音も、ヘッドフォンで聞くとやや弱いながらも意気が感じられとてもいい。佳演としておくことにする。また変えるかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,◎アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(DECCA)1963/11・CD,,アンセルメの国民楽派は指揮者を見ないで聴いたほうがいい。色眼鏡は不要、当事国以外で最も当事国に近づいた演奏のできた人。才人マルティノンは別として、けしてフランス系やら現代音楽指揮者やらとはみなさないで聴いてほしい。スイス・ロマンドは構造の透けて見える演奏をたたき込まれているだけに音響作曲家シベリウス向きでもあり、ステレオ良録音のために細部に技術のほころびが聴こえるもののそれが荒々しい国民楽派らしさをかもすことにつながっている。アンセルメの天才的なリズム処理は、使い古された表現だがバレエ指揮者としての経験にもとづくものでもあろう。強すぎず甘すぎず、軽めシャープで僅かに前のめり、名盤とされるボロディンよりもリズムが乗りやすく心地いい。廃盤には惜しい名演。迷ったが◎。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
シベリウス:交響曲第2番,○アンソニー・コリンズ指揮ロンドン交響楽団(LONDON)1953/5/5-8コリンズは情熱的だが、この曲ではちょっと暗い演奏をしている。1番のほうが名演だとは思うが曲が違うので単純比較はできないだろう。一楽章はやや散漫でアレ?と思ったが、二楽章の影のある演奏はすばらしい。この楽章だけ独立した曲かのようなドラマティックな起伏が胸を打つ。オケに少し雑味を感じるが、全般としてはよく演奏しきっている。コリンズのシベリウスは安心して聞ける。それはシベ2を聴く者が期待するものをすべて持っているからであろう。結部のヴァイオリンの息を飲むような下降音形の疾走は拍手もの。三楽章もヴァイオリンが冴えている。このくらいの速さがないと牧歌的旋律との対比が効果的に響いてこない。この演奏も牧歌的旋律の出る直前のパウゼを大きくとっている。聴き始めると止まらないのが良い演奏である証拠。CDをプレーヤーにかけて10分くらい聴くつもりが、もうほとんど聞き終えている。このひとはなぜ最近批評の俎上にあがらないのだろう。二度目の牧歌的旋律の詠嘆するかのようなやるせない感じ!隅々まで情熱的な解釈が行きわたっていて、オケの技術的瑕疵を除けば、隙がない。牧歌的旋律からそのまま音量を受け継いで、弦楽器が四楽章への大きな盛り上がりをつくる。但しここは四楽章に入るまえに余りに盛り上がってしまい、そのままの音量で突入してしまうのがちょっと気になる。四楽章はかりそめの明るさをもっているが(このあたりの表現はまあまあといったところ)、ひとつ盛り上がりが終わって木管が暗い旋律を繰り返すところで、ふたたびどん底のような暗さをみせる。ちょっと明るくなったかと思えば低弦がくらーく動機提示するまで、ふたたびくらーく落ち込む。最後のクライマックスへ向けて、ロシア音楽ふうに言えば、倒れた英雄が再び立ち上がり最後の大勝利へむけて走り出すような盛り上げ、そしてふたたび冒頭旋律の再現。やはり頂点前に盛り上がりすぎて頂点の盛り上がりが平坦になってしまってはいるが、そのあとの開放的な音楽はドラマティックなうねりを伴い、息の長い旋律をくりかえす。ヴァイオリンのあこがれに満ちた響きがこころに刺さる。暗い旋律の最後の再現は謎めいているが、マーラー的な曲構造ともいえよう。慟哭するかのような挽歌。その後転調して明るさを取り戻したかのように、大団円へ突入。ブラスの響きが重厚で巧い。そんなところである。機会があれば一聴を。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,○ヴィルヘルム・シュヒター指揮NHK交響楽団(NHK)1962/3/7放送LIVE N響60周年記念LPボックスより。アーベントロートの弟子で歌劇の指揮でも活躍していたシュヒター。堅実で地味なイメージがあるが、ドイツらしい音響感覚と確実なテクニックで聞かせる力をもった指揮者だった。N響との繋がりも深い。この演奏はそれを思わせる息のあった演奏で、とくにN響とは思えない合奏の力強さとブラスの分厚いひびきが耳を惹く。前半楽章より後半楽章のほうが面白い(曲的にもそうだが)。ピアノ表現部分もしっかり音を合わせて細かく刻む弦、それはメゾフォルテ以上のかなりはっきりとした音量でスリリングな饗宴を聞かせる。4楽章へ向けての解釈はオールドスタイル。つまりリタルダンドをかけ4楽章冒頭でとても遅くする。版にもよるのだろうが私の譜面ではここにリタルダンドはない。2度目に盛大に盛り上がるところではじめてリタルダンドし朗々と旋律をうたうようになっている。これは好みだろうが最近は4楽章冒頭では大して遅くならず2度目に爆発するパターンが多い気がする。ベルリン・フィルとは言わないがロンドンのオケくらいには技術にすぐれており、音質はこれはもう北ドイツのそれだ。(音色は残念ながら無個性的と言えるかもしれない)N響のカメレオンのような変化はいつもながら驚かされる。ライヴでこの演奏レベルというのはすばらしい。佳演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団1972/04/26,,けっこう完璧な線いってるんじゃないかと思います。解釈はとてもこなれていて聞きやすいし、オケはパワーがあるし、技術的には言うことが無い。ほの暗さも肯定的な楽想に集結していくところなどこの元来明るい指揮者には向いていると思う。ただ強い個性が無いのですれっからしには若干食い足りなさを感じさせなくも無いか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第2番,○ガラグリ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(ETERNA/BERLINclassics)CD,,がっしりした構えにつねに短く切り詰めた音で力強く音を引かせており、弦などやや薄さを感じさせるものの、抽象度の高い渋い演奏を作り上げている。フィナーレこそ壮麗なファンファーレで盛り上げるものの、おおむね引いて整えた感じのする、あっさりしたテンポ設定の粘らない解釈のもとに表現されているせいか余り没入させる要素はない。深刻な2楽章を除いてそれほど魅力的なものはなく、少し環境雑音が入る(録音自体は良好なステレオ)のも含め、武骨なドイツ式という言葉で表現しつくせてしまう。長年探してやっと聴いたCDなだけにやや拍子抜けした。フィナーレ最後だけで○にしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第2番,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1946/12/16,,既出CDと同じ?板起こしの模様。それっぽいノイズと裏返し音が入っていて、ここが残念なところだが終楽章の盛り上がったところではっきり音とびがする。演奏はテンションが空回りせずこなれていて、始終スピードと野太い歌心は保たれるがシベリウスらしい清潔な叙情が失われず、つまりは音響的に濁りを発生させないよう整理が行き届いた現代的な構築性があるということである。この人は結果はわりと似たり寄ったりのテンション芸になるけれども、曲によって楽曲分析の方法が変わっているようにも思える。ロマン派以前の曲とラヴェル以降の現代曲の間に顕著だが、チャイコとシベリウスという国民楽派で一くくりにされる(両者とも相対的には西欧折衷派的なんだけど)二者の演奏をとってみてもオーケストレーションの違いだけには帰結できない表現方法の違いがあるように思う。チャイコの合理性は旋律主体で構造を非常に単純化するがシベリウスの合理性は音響(コードではなく響きあう「音響」)主体で非常に複雑化する。ドビュッシーの影響があるかなしかでの違いもあるのだろうが、クーセヴィツキーははっきり前者に向く指揮者なだけに、シベリウスだけは例外だったのだ(但し後期を除く)、と思わせる。名演、だが録音マイナスで○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第2番,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1948/4/20live,,初出かどうか調べてないが多分初めて聞く気がする。録音悪。晩年に近い演奏であり、この人らしくなく(ただ2番は余り得意ではない感じはある)スピッカートがレガート気味でキレが悪く揃い方も半端で、旋律がロシア式に粘ったりするために声部がバラバラになるような、あるいは前半細かい音符がばらけるなど奇妙な弛緩がみられる。長い曲でなまじ思いいれがあるとこうなってしまうのかもしれないが、流されたようなライヴに感じる半面、歌謡的な流れに沿って非常に印象的につけられた抑揚には感銘を受ける部分もあり(終楽章の最後にヴァイオリン主題が回帰する場面など力強く独特の感動がある)、近視眼的な変化が目立つ中でもやはり弦楽器奏者だなあ、という面のメリットで評価できる。,,あと、やっぱりこの曲は2楽章が要だ。クーセヴィツキーは型どおり終楽章に雄大なクライマックスをもってくるが(全般スピードが遅めなのはこの人特有の解釈である)、音楽のもっとも引き締まったのは2楽章で、冒頭よりキレよくびしっと揃い、リズムに裏付けられた立体感、内省的な音楽を内声部からしっかり組み上げることで明快にさばいてみせている。終楽章などバス音域を強調し、クライマックス後もロシア国民楽派的な粘着質の旋律を繰り返し続ける長々しい音楽のメリハリをしっかりつけて、ドラマ性を維持し印象的ではあるが、あざとさも感じる。,,一見率直な解釈が持ち味のクーセヴィツキーに明らかに作為が見えるのがらしくないところではあるが、前記のとおり思い入れが強いのだろう。最後の録音とされるものに50年代の録音があるが、かつては定番として聞かれたものである。集中力と統制力という面で最盛期は戦中までだったとも思えるが、没後シベリウスがよせた言辞は(作曲家は彼より6年長く生きた)他の先立った数多い音楽家に比べいっそ個人的思いの深さをかんじる。,,バルビローリはかつてシベリウスの交響曲を時期別にまったく違う作曲家として扱うべきと考え、解釈から奏法までも違えて録音した。クーセヴィツキーはそういう器用なことをしない指揮者であり、恐らく後期作品向きの芸風だ。それでも私はこの終演後には、しばし陶然としてしまった。聴衆の態度はやや悪いが、ライヴとしてはいい演奏だと思う。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----
シベリウス:交響曲第2番,◎ザンデルリンク指揮バイエルン放送交響楽団(EN LARME:CD-R他)1993/4/30LIVE非常にクリアな録音である。オケは技術的に申し分ない。アーティキュレーションの表現が細やかで、彫りの深い表情は密かに面白い。3楽章の独特のフレージングは健在。緩徐部で木管が情緒的に歌い込むところはレニングラード・フィルのころと変わっていない。4楽章へ向かっての盛り上げは盛大で、ブラスの咆哮をバックに偉大にひびく凱歌はとてもドイツ的、堂々としている。ヴァイオリンの絶妙のフレージングに傾聴。人工的なところがなく滑らかで且つ雄弁だ。ライヴとしてはとんでもなく素晴らしい表現で、ザンデルリンクがとりわけこの曲のこの楽章に愛着を持っているのがわかる。緩徐主題の哀しく寂しい解釈も健在だ。管楽器と弦楽器のバランスが絶妙。分裂症的な展開においてザンデルリンクはマーラー的に効果的にフレーズの描き分けをすることによりシベリウスとマーラーの内在的類似性をさらけ出す(そういえば昔「マーラー辞典」という本でシベリウスとマーラーの接近について書いたものがあった。たしか二人は一瞬くらいしか出会う事はなかったが、マーラーは「悲しきワルツ」を酷評したとか書いてあった覚えがある)。ザンデルリンクの最良の部分の出た素晴らしい演奏。◎。最後までトーンが変わらないのがちょっと不満だが、じつに壮大な造形の中にひびくペットの凱歌はとにかくかっこいい。極めてドイツ的な勝利の音楽だ。文句無しブラヴォーが飛ぶ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,○ザンデルリンク指揮ベルリン放送交響楽団(CD-R)1993/4/30LIVE,,録音良好。実直なわりにアクの強い演奏で、テンポや音量操作はまめだが発音やフレージングが念を押すようなドイツ式で、安定感があるけれどもやや単調か。精度は極めて高く、清々しさはないけれども厳しく鋭い怜悧さは感じられ、温かみが欲しい半面これは演奏の個性としては認めておくべきかなどとも思う。派手なのにモノトーン。ブラヴォ飛ぶ。○。,,12/8はシベリウスの誕生日だそうです。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
シベリウス:交響曲第2番,○シュミット・イッセルシュテット指揮ハンブルグ北西ドイツ放送交響楽団(capitol/pristine他)1956,,この時期にしては不思議に良い録音、というのは当たり前だが(ぐぐりましょ)pristineのネット配信は状態のよい原盤からの板起こしだけあって、私はやはり固さが気になるけれども、デジタルにリニューアルされたかんじが冷たく引き締まったこのコンビならではのドイツの理知的な表現にあっていて、好きな向きはまあまあ満足いくものだと思う。演奏自体はけっこういろんな板や媒体に起こされてきただけあってガラグリよりも余程都会的な「ドイツ流シベリウス」。シベリウスはもともと冷たく音響的な、縦の揃った、音符の粒だったピアノっぽいきちっとした表現を求める作曲家であり、まだ国民楽派的なこの曲でも2楽章にはその表現の的確さが求められる。先鋭的な響きと楽想の交錯だけを聞かせるような楽章ではあるが、ここでイッセルシュテットは1楽章でみせた地味で冷めた表現から、逆にイマジネイティブでロマンティックな表現に変化をみせている。1,4楽章なんていくらでも旋律で煽ることは可能(イッセルシュテットは4楽章ではスコアリング通りきちんと強弱のメリハリをつけてのんべんだらりと歌い続けるブヨブヨした音楽に堕するのを避けている)、3楽章は4楽章の前奏的なパキパキなスケルツォなので自ずとオケコントロール次第になる(イッセルシュテットは2楽章からアタッカのようにコントラストをつけて雪崩れ込んでいき弱体オケの弦をそれでもしっかり刻ませている)、となるとやはりこの曲演奏の評価は2楽章次第。ブラームス的な世界観に支配されながら、ドヴォルザークを思わせるブラスへの力の入れようも含め、なかなかに凄い演奏。4楽章の地味な展開部も、それ以外のやや客観的で空気の通るような表現に比べるとボリュームをもたせ、巨視的な構成感を示している。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第2番,○ストコフスキ指揮フィラデルフィア・フィル(PO)1964/12/18放送LIVE,,冒頭の弦の規則的なリズム音形からして既にテンポが揺れておりいかにもストコ節である。ただ、どうも響きが浅く表層的で深層に訴えかけるものが感じられないのが正直な所。クライマックスの作り方も今一つダイナミズムに欠けているように感じた。ほの暗い中からやがてベートーヴェン的勝利に向かう国民楽派の音楽としてはいささかあっけらかんと明るく開放的でハスッパすぎる。かつての手兵を使った貴重な演奏記録だが、無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第2番,○セル指揮ACO(RCO)1964/11/26LIVE,,結構ふつうでいまひとつ面白みに欠ける。あとブラスがうるさい。下品に吹かせすぎ。この曲を得意にしたセルだが得意にしすぎたのか、この客演では音に心情が篭っていない感じがする。とにかく全般起伏が少なく感じるのだ。3楽章の刻みのまとまりはさすがだが勢いだけの突っ走りにライヴの焦躁感を実感できる。さすがに4楽章へ向けては偉大な盛り上がりをみせるが力強い表現はさほどのこだわりを見せずにあっさりしたテンポで終幕へ向かっていく。最後のクライマックスはケレン味たっぷりのテンポやフレージングでかっこいい。スコア通りといえばそうなのだが冒頭やにわに盛り上がり過ぎるより気が利いている。全体設計の行き届いたセルらしい計算だ。あいかわらずペット以下うるさすぎ。拍手は普通。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
シベリウス:交響曲第2番,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(SONY)1970/5/22東京文化会館LIVEどぎつい音。サーという砂のような雑音もあるがおおむね良好な録音だ。低音がやや弱いか?演奏はといえば以前の盤より表現が板についていて、オケもよく(実によく)こなしており、ライヴとは信じられないほどだ。4楽章のクライマックスは壮絶で、セルの気性を感じる。この演奏、いろいろな人が褒め称えているが、そこまではいかないものの、佳演だとは思う。セルにはコンセルトヘボウ盤もあるが余りに評判悪いので未聴。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,○チェリビダッケ指揮オスロ放送管弦楽団(LIVING STAGE)1965/11/28LIVEこんなに情緒的な演奏久し振りに聞いた。一楽章冒頭から細かいニュアンス付け。二楽章はかなりの熱演で、この主題もはっきりしない独特の楽章に、これくらい意味付けをできるのはたいしたもの。三楽章は四楽章の前哨戦、四楽章はまさに譜面を離れ謡いまくりの演奏だ。四楽章冒頭で思いっきりテンポを落とす演奏も久し振りに聞いた。チェリらしいのはダイナミクス。フォルテはバーンと思い切りドイツ風に鳴らす。ピアノは物凄く繊細に聞かせる。この四楽章、とにかく出色だ。思い切り情緒的なシベ2を聴きたいなら是非。佳演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,○チェリビダッケ指揮スイス放送管弦楽団(DA:CD-R)1974東京live,,まだ精緻さをとことん追求するまでいっていない時期ゆえか、チェリにしては荒っぽい。揺れない構築性と巨視的な設計方法は晩年に続くところだが、オケ起因の雑味が多すぎる。弦は弱くばらけがちで鋭い表現ができない。終楽章のブラスはまるでロシアオケのように下品だ。盛り上げ方も今一つ、一楽章で上り詰めて2楽章でそのまま平行線(響きの美しさを追求するのはいいが飽きる)、3楽章から4楽章の流れはそれほど高揚せず集中力もそれほどではない。録音は全般いい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第2番,○トスカニーニ指揮BBC交響楽団(history)1938/3/10live 二盤解釈全く同じ。表現意志がものすごく強く、繊細なシベリウス向きではないが、シベリウスに先入観のない人はその雄弁さに感動するだろう。NBCはブラスがうるさい。小さなクレッシェンドが多すぎて嫌味に感じる。ノイズも多少ある。弦の気合が尋常じゃないので堅苦しい感じもする。とくに二楽章はもっと幻想味がほしい。即物すぎる!BBCは木管がナイス。バランスの良い演奏だ。NBCより薄めの味付けだが、そのぶんシベリウス的にはなっている。音場狭い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DELL ARTE)1939/2/18LIVEこの盤を聞いたらほっとしてしまった。たとえばチェリの盤のように緊張を強いられることもないし、ヒンデミットの曲のように常に耳を澄ませ音を拾わなければならないこともない。国民楽派の明快な作品であり、明快な指揮をするトスカニーニの演奏である。きびきびしたトスカニーニの指揮ぶりが心地よく感じる。よく聞くとトスカニーニも結構解釈を入れてきていて、変なところでルバートしたりフレージングをいじってみたり、録音自体ははっきりいってサイアクなのだが(弦が薄くなってしまったりする)、非常に楽しめた。2楽章はやや地味だが(というかあまり成功していないが)、1、4はいい。素直に楽しめる骨董好きにはおすすめ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(rca)1940/12/7 BBC交響楽団盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,○ドラティ指揮ストックホルム・フィル(RCA/VICTOR),,けっこう評判のいいドラティのシベリウスでも秘盤で知られていたもの。ドラティのイメージにあわない堂々としたスケールの演奏で、今で言うメータのようないい意味でも悪い意味でも安心できる解釈ではあるが、オケに特長があり、とくに管楽器陣に聴かせるところが多々ある。シベリウス前期はブラスは言わずもがな木管ソロにも国民楽派らしい重要なソロが任されている。ペットのよく通る輝かしい音、ほの暗くも感傷を煽る気分に満ちた中音域を支えるオーボエやクラなどの音色にはこのオケにしか出せない色がある。ロシアの原色でもドイツの渋色でもない色。当たり前の解釈と侮るなかれ、これはオケの勝利です。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第2番,◎バルビローリ指揮ボストン交響楽団(statework)1964/10/30live,,web配信されているが針音らしきものからレコードの可能性があり既出盤と同じかもしれない。しかしこれはバルビにとっても凄まじい記録、アグレッシブでスピード感とダイナミズムに溢れた名演だ。オケがバルビに完全に取り込まれその技術力を集中力を全面投入し、各楽章まったく飽きない表現力、とくに3楽章アタッカで4楽章に入るあたりの超スピードとそれに見合う力強い響きはステレオ録音ということもあり圧巻だった。むろん譜面指示どおり旋律再現ではもっとスケールの大きな、過激な山が築かれる。フライングブラボーさもありなん、素晴らしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第2番,○パレー指揮デトロイト交響楽団(mercury,warner/tower records)1960/2・CD,,シベリウスでもだんとつの旋律美としっかりした構成感を誇る交響曲だが、パレーの芸風だと少なくとも「美」は機械的なアンサンブル能力の披露と明るく明瞭な響きの維持にすぎない。そこに特有の剛速球、高速度が加わるとデトロイトの弦ですらついていけない箇所が散見されるようになり、このようなスタジオ録音でさえばらけたままにされている部分がある(パレーは何度も録り直しするような人ではなかろうが)。緊密な演奏を指向する指揮者にもかかわらずやはり、「楽器」の機能性の限界を超えるような解釈についていかせるほど暇がなかったようだ。,,だが迫力は凄い。1楽章から既に力む声が入っている。3,4楽章にいたっては、シベ2の正規録音でもトップクラスの出来といえよう。スコア指示すら単純化解釈し緩急に欠けるところはもうスピードと力で押し切る。でもこれはそういう曲なのだ。そのやり方だと、2楽章はきつい。スコアを即物的に音に換えるパレーの方法論はこの楽章にはきかない。ただ音が鳴っているだけだ。南風の吹くフィンランド、といった音色(しかもいつもどおり単調)も好悪あるとは思うが、セカンドチョイスにはいいかも。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
シベリウス:交響曲第2番,○ホーレンシュタイン指揮フランス国立放送管弦楽団(MUSIC&ARTS)1956/11/19LIVEこの熱い力感、引き締まった演奏ぶりには度肝を抜かれる。異様に速いインテンポで突き進むさまはまるでロジンスキだ。1楽章冒頭からもう力の奔流で、それはそれでとても充実した聴感があり否応無く引き込まれる。牧歌的なんてもんじゃない、ベートーヴェンかチャイコフスキーか、凄いです、引き込まれるあまりほんとに最後まで聞かずにおれなくなる。それは設計の巧さも意味している。弛緩の無いシベリウスは国民楽派的な快楽を与えるものだが、これは国民楽派でもない、これでも、やはりシベリウスの交響曲そのものだ。3〜4楽章ではこの曲に期待されるものを完全にそっくりしっかり表現しきる。4楽章に向けての絶妙のルバートと僅かなテンポダウンは譜面には反しているが曲として自然な流れ。そう、しいていえばアンソニー・コリンズだ。あの恣意的でいながら曲と同化したかのような、シベ2そのものである演奏、あれによく似ている。自然さと熱さの同居は限られた芸術家にのみ許される神髄、雑な指揮者ホーレンシュタインのイメージを突き崩す完成度の高い熱演として記憶されるべき演奏記録である。ライヴ感に満ちていながら演奏には雑味は皆無で欠けたところが無い。固くてクレンペラー型の演奏をする指揮者というイメージはヴォックスの作り出した幻想だったのだ。ホーレンシュタインファンは必聴。・・・そう、しかもこれフランスのオケによるライヴなのだ。フランスのオケにこのような音が、このような表現様式が宿ったというのは奇跡である。まるでイギリスやドイツのオケのようだ。ホーレンシュタインというオーストリアで若くして活躍を始めたにも関わらず、その後ポストに恵まれずに世界を点々とせざるを得なかった不遇の名匠の、真の芸術家としての姿がここにある。録音マイナスで○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,○ロジンスキ指揮トリノ放送交響楽団(DATUM)1955/4/1LIVE・CD荒っぽいがダイナミック。かと言って前半二楽章は特徴的な解釈もなくやや単調か。2楽章後半で渾身の力を込めて歌い上げられる情熱的な主題が印象的。3楽章へかけての力み過ぎに起因するバラケ感が気になるが、勢いは買える。粘っこい表現にならずひたすら激烈にオケをドライウ゛していくロジンスキに共感をおぼえた。4楽章の雄渾な歌も凄い。特に終盤の重い荷物を背負って歩くような第二主題から転調して大団円に向かって輝かしくのぼりつめていく音楽の壮麗さに感動する。大拍手の終演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,〇ザンデルリンク指揮ベルリン・フィル(SARDANA:CD-R)2000/6/17LIVE,,最初から驚いたのだが、随分とメロウな感じなのだ。アタックを余り付けずなめらかに穏やかに進めていく。もちろんこの人だからハーモニーの作りかたに安定した重量感はあり、前期シベリウスのドイツ性は浮き彫りにされているのだが、オケが、録音のせいかもしれないが、軽い。ベルリン・フィルならでは、というところがないのだ。ティンパニの音などでわかる人はわかるだろうけど、弦楽器の音でこのオケと明確に判別できる人はいるのだろうか。速くて流れいい二楽章など解釈的に、深みはともかく入りやすく即物的でもあり面白い。しかし高弦に生気が感じられない。らしくない失敗まである(ちこっと欠落も)。2000年の録音であることを加味しても柔らか過ぎるように思った。アタッカで入る三楽章はさすがにいきなり強靭なアンサンブル力を見せ付けられコントラストに胸がすくが、すぐに柔らかく収まる。最初の緩徐部のオーボエがきわめて美しい。耽美的と言い切ってしまおう。管楽器群の素晴らしい音色にはベルリンの底力の健在を感じる。颯爽としたテンポのままそのまま入る四楽章、譜面どおりで全く感情を煽らない。しかし二度めの主題提示で爽やかに盛り上がりを提示する、これも譜面通り。しかしそのあとの主題展開でいきなり歌謡的な細かいフレージングをつけてくる、ザンデルリンクだなあ、これを聞くために買ったのだよ。老齢でもけして緩テンポに逃げずきっちり解釈された音楽をやりつくす。異常な深みを見せる耽美に沈む暗転部分から再現部に入って初めてこの主題にテンポと音量によって雄大なクライマックスを築き上げる、まさにこの設計に、ここだったのか!と感服させられたままの流れ、しかし弦楽器への不満は残る。余力、残し過ぎじゃないか?もっともここまで解釈で統制されたらそれに対してできることは限られている、最後のバイオリンの念押しするようなフレージングや松葉への配慮も聞き逃せまい。雄大な夕日は北国の遅い夜の到来を荘厳に告げる。やや音響バランスが武骨だがそれもよし。,,結論。録音のせい。〇。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
シベリウス:交響曲第2番,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(RCA/artis他)1950/11/29・CD,,クーセヴィツキー最後の録音の一つとして相対的に破格の音の良さから疑似ステレオ盤もつくられわたしはそれを持っていた。もっとも質の悪い薄盤であまり聞かなくなったのでartis40枚組を入手して聞いた次第。クーセヴィツキーのノイズの中から響いてくる剛速球のイメージが、霧が晴れたようになってあらためて面白い。2番は旧録(1935)もあるがオケの出来からいっても演奏の落ち着きからいってもこちらのほうがシベリウスらしくて良い(クーセヴィツキーもオーマンディもシベリウスと懇意で信頼されていたアメリカの指揮者だ)。音色はさほど魅力はないが厳しく技術的な瑕疵なきようまとめあげられ、音は短く切り上げ気味で発音が強く、このあたりがノイジーなライヴ録音で聞こえてくるスタイルのもとなのだとわかる。音の気を抜かせない、ブラスの長い音符でも決して歪ませずまっすぐ太く保たせる、弦楽器は多少萎縮してテンポを揃えなおしてでも細かい音符まで合わせさせる、これは昔はあまりなかったかもしれないが、なくはなかった。3楽章以降はちょっとまともになりすぎている感もあるがライヴではないからこんなものだろう。比較的ゆっくりでゆるい感もあたえる弦の刻みから4楽章の予兆を木管アンサンブルがかなではじめる前のものすごい空白はプレイヤーが壊れたかと思うが単なるパウゼである。その後はさすがに最晩年なりの落ち着きは出ているが流れ良さは保たれている。作為なく譜面通り、シベリウスのわざをそのままにお届けする4楽章はものすごいアッチェルとかデフォルメを期待してはいけない。むしろ落ち着いて身をゆだねる、さすがにオケのコントロールは見事で自然に立体的に組みあがり調和が保たれている。沈潜する雰囲気は2楽章より4楽章の展開部のほうが強い。もうすっかり灰汁の抜けた大人しい演奏になっているので過度な期待は無用だ。しかしここから最後のクライマックスにかけては意地をみせる。ここを聴かせるためだけに長々とやってきたのかという再現部はいきなり大仰で感動的である。高音の音量がもっとほしく思うが書法のせいだろう。短調のうねりにのったペットのヴィブラートが美しい。転調はあっさりだがテンポは落としてじっくりやる。かつてのこの指揮者にはあまりなかったやり方ではある。ブラスと太鼓により壮大な結末が提示される。ラストはきっぱり切る。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第2番,コンドラシン指揮ORTF(ina配信)1974/11/6放送live,,録音は僅か瑕疵があるがほとんど完璧なステレオ優秀録音。私は表面をなぞっただけのような(高音偏重だし)中身のよくわからない、シベリウスのシンフォニーは苦手なのだが、この曲ではチャイコフスキーあたりの気配を残していて、それでも二楽章など構造や構成に一歩進んだ深みを出す(却って国民楽派としては何言ってるのかわからない)のだが、楽章間の対比が和声的にもただ明るいだけであまり揺れずわりと一本調子の曲という総括になるので、コンドラシンのように最初から猛スピードでオケをぎりぎりと締め上げて機械的にドラマを盛り上げていく、大言壮語はその範疇で、というのは、シベリウス苦手派には聴きやすい。強奏ばかりで三楽章から四楽章への雪崩込みの大一番が際立たないなど、この曲の聞かせどころを強調はしないが、四楽章の弱音処理はそれまでにない柔らかく繊細でORTFならではのメリットを使っている。全般オケは素晴らしく技量を発揮し、ロシア式は無理だが、柔らかな個性をコンドラシンの指揮で雄渾な表現になんとか持っていっている。最後の管弦楽の饗宴の壮麗な構築ぶりは素晴らしく良い。ブラヴォも飛ぶ。コンドラシンはオケの構造的処理も良い。何でも振らなきゃならなかった指揮人生だからこのくらいでは動じない。惜しまれるのはこの道半ばで去世しなければならなかったことだろう。もっと西欧で円熟ぶりを見てみたかった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第2番,コンドラシン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ(TAHRA)1979/3/1LIVEコンドラシンにしては珍しい曲目だ。5番は二種ほど出ているが、2番のように完全な浪慢主義の作品に対して、どのようなアプローチをするのだろう、とわくわくして聞いたら、案の定というべきか、完全な即物主義型アプローチであった。至極まじめであり、几帳面すぎるほどに音を整えている。シベリウスの試金石たる2楽章の表現も、過不足なく行われているように感じる。ライヴなのに、かなり客観的な演奏であり、コンドラシンの熱いところがほとんど聞けないのが残念。4楽章中盤までは至極マトモな演奏だが、後半で4楽章冒頭主題が回帰する直前で初めてものすごいリタルダンドがかかり、とても効果的だ。しかし、主題に入ってしまうとまたあっさり直進型の演奏に戻ってしまう。終演後の客席の反応はふつう。うーん、可もなく不可もなく、といったところか。私はそそられなかった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,ザンデルリンク指揮ベルリン・フィル(SARDANA:CD-R)2000/6/17,,ザンデルリンクの雄大な造形には妙な甘さというか柔らかさがあり雄渾さはない。唯一例外的に深情的な二楽章ではシベリウスの暗黒面が垣間見える重量級の表現を聞くことができるが、他の楽章は余りにオーソドックスな感じがして、現代にいくらでもこういう演奏はあるように思う。だがこれらのマイナス印象はひとえにベルリン・フィルのせいだと感じた。過去を言ってもしょうがないがベルリン・フィルはこういう古参指揮者に対してかつてこんな「流した演奏」をする団体ではなかった。どこにも「らしさ」がない。アタックのあいまいさ、発音の単なる抑制、確かに技術的には高度だとは思うが、こんな音を聞きたくてこの盤を買ったのではない。オーソドックスすぎるというのは解釈のことを言っているのではない。演奏の雰囲気のことを言っている。ドイツらしいシベリウスでも、ロシアらしいシベリウスでもない。単なるシベリウスだ。面白くない。演奏レベル的には○なんだろうが、個人的に全く惹かれなかった。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第2番,ザンデルリンク指揮レニングラード・フィル(?)超廉価盤のベルリン全集盤があるのに今さらソビエト時代の録音もないものだが、例のラフ1などが入っている廉価ボックスにも含まれなかったので取上げておく。といってもこれは特長的なところもなく、いたって平凡な演奏だ。変にいじらず正攻法で攻めているところは好感が持てるが、レニフィルが何か手を抜いているような、単調な演奏になっているところが気になる。速いテンポでロシア吹きさく裂の2楽章は、ロジェベン全集盤とならんでロシアオケのシベリウスとしては面白く聞けるものだが、やはり音色が単調。面白みはほとんどペットソロの艷だけといった感じだ。3楽章は遅いながらも弦は力強い演奏ぶりが耳を惹く。4楽章の予調における木管アンサンブルは情緒たっぷりで異彩をはなっている。でも肝心の4楽章はふつうだったりして拍子抜ける。緩徐部の妙に引きずる念押し奏法はイっちゃっていて面白いが。録音かなり悪し。全般、即物的演奏の悪い見本か。無印。レーベルはCCCPという表記だけしかなかったのでわかりまへん。ちなみに袋はドイツ・シャルプラッテンのものでかなり怪しかった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,ストコフスキ指揮NBC交響楽団(RCA/DELL'ARTE)1954/9有名な盤だがCDでは見かけない。ストコのシベリウス?と期待して聞くとこれがけっこう普通な演奏。蛇蝎のように嫌われていたトスカニーニの統率力には遠く及ばず、でもまあ指揮者無しでも平気で演奏会をやっていたオケなだけあって、要所要所は綺麗にびしっとまとまる。たとえば2楽章終盤で弦が一気に駆け抜ける印象的な走句、こんな異常な速度で且つ完璧に揃った演奏というのは未だかつて聞いたことがない。凄い。。このオケはヴァイオリンの音色に特徴があり、表面は張り詰めているが中はかなりヴィブラートがきいた滋味溢れる音色がウリだと思うのだが、ここではそれがはっきりきこえるのが嬉しい。終楽章ではさすがにストコは自己流にテンポを揺らしまくって歌わせるが、そこでヴァイオリンの例の音が聞こえてくるともうそれだけでメロメロ。かなり速いテンポ設定には異論あろうし、私も全体のバランスがうまくないような感じも受けるが、悪くはない。録音悪し(盤のせいかも)。無印。BBCのライヴについてはそのうち。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,セル指揮クリーヴランド管弦楽団(VIRTUOSO)1966/10/15LIVEセルの未発売ライヴ盤が一挙に出るというので一組買ってみた。ステレオだが擬似ステレオっぽい残響の添付の痕跡が認められ、マイクが弦楽器に近く案外弾けてないところも聞こえてしまっている。ゆえにセルとは思えない雑味の多い録音記録となってしまっており、音質の悪さも加えあるていどの覚悟は必要だ。セルのシベリウスはこれが初めてだが、1、2楽章ははっきりいって凡演。とくにシベリウスの尖鋭性をもっともあらわした2楽章についていえば、理解する事を放棄したような無機的解釈で、ブラスの咆哮のみが目立つ聞きづらい演奏になってしまっている。だが、3、4楽章の集中力、強大な造形力はそれを補って余りあるすばらしいものだ。3楽章はあまりうまいとはいえないクリーヴランドの弦楽群をぎりぎりと締め上げてスリリングなアンサンブルをかなでさせている。注目すべきは4楽章へのアタッカで、最近はなかなか聞けないリタルダンドの果てに朗々とうたうヴァイオリン、これはこのすがすがしいテーマが反復されるごとにリタルダンドがかかり、スヴェトラーノフのように「やってくれというところで予想通りやってくれる」たぐいの感興をおぼえた。セルはずいぶんと独自の解釈をまじえてきており、計算ずくの大きなテンポ操作は効果的。晴れやかな気分でおわったあとには、晴れやかなブラヴォーと拍手が入る。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,チェリビダッケ指揮ルツェルン祝祭管弦楽団(AUDIOR/re-discover:CD-R/rococo)1974/8/14LIVEおっそーい。恐るべき客観解釈。中仲雄大でいいが、人によっては飽きるかも。ブラスが目立つが、シベリウス的にはアリな解釈だろう(ミスもあるが)。フレージングにドイツっぽさをそこはかとなく感じる。二楽章はいい雰囲気だ。ヴァイオリンにポルタメントが入ってびっくり。あいかわらずユックリだが、ハーモニーは美しい。三楽章はけっこうフツウ。四楽章は作為的なところが目立つが、木管が美麗。総じて特殊な演奏ではあるが、チェリ・マニアにはたまらないかも。rococoはオケ表記違いの同演奏LPで音質は悪い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第2番,バルビローリ指揮ケルン放送交響楽団(ica)1969/2/7・CD,,ある意味ドイツらしい醒めた音で構築していく2楽章まではバルビローリらしくないが冷静に音楽を楽しむことができる。テンポ的には激したころの比較的速いところに置き最晩年的な間延びはない。3楽章終盤で突然ものすごいアッチェランドがかかるとあわてたように縦があやうくなる。4楽章はNYP時代のような演奏になり、持ち味である有機的な歌より雄渾な凱歌が放たれる。いかんせんこのオケなので無理して強奏しているような軋んだ弦が気にはなるし、縦があやうくなるのはバルビが即興的に切り回したせいなのか、これが訓練の結果の限界なのか、しかしステレオの比較的良い放送録音のせいもあり楽しめた。拍手はないので放送用セッションかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第2番,ビーチャム指揮ロンドン・フィル(centurion他多数)モノラル・CD,,戦前戦中録音は余程の強烈な個性が無いと聞いていられないものである。この演奏は余りに「普通」だ。即物主義とも違う「薄さ」、いわばスマートな指揮に解釈で、特徴的な部分は限定的にはいくつかあるのだが、音量が出ない古い録音がゆえに印象に大して残らない。ビーチャムがシベリウスを指揮するために生まれてきたようなロンドン・フィルではあるものの、あの微細な音色が聞き取れない録音状態では単なる無個性な技術だけの団体。2楽章終盤の彫りの深い表現、木管アンサンブルの音色の清澄な美しさ(これだけはこの録音でもはっきりと聞き取れる)、あとは3,4楽章にきわめて限定的にみられるルバート表現くらいか、聞き物は。centurionは権利切れの音源をやたら安価なボックスで提供しているhistoryの末裔のようなレーベル(の中でもいちばん安くて盤質が悪いレーベル)だが、まあ、セット販売じゃないと商品になりえない録音。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第2番,ロスバウト指揮スイス・ロマンド管弦楽団(forgottenrecords)1956/1/11liveジュネーヴ放送,,録音はモノラルで残念ながら良くはないが、リバーブをかければ十分迫力が出る。統制が厳しく張り詰めたような雰囲気の中、音響バランスへの配慮が行き届いておりシベリウスらしさが明確で、全体としては一本調子でキビキビしたスピーディな演奏なものの、他の要素でのドラマチックな起伏は十分つけられている。響きのメリットはこの透明感を売りの一つとするオケの力も大きいだろう。技術力はさすがアンセルメのオケだ。ニ楽章の、スピードは早めインテンポの箇所が多いながら楽器同士の交錯する響きの明瞭さ、音量的な変化の仔細にわたる配慮が、即物主義的印象を与えながらも音楽そのものの包含するドラマツルギーを浮き彫りにし、そこにここぞのルバートがかかることによってワグナー的ですらある重みが加わってくる。三楽章は冒頭から大音量で弦の刻みがフィナーレの予言を大声で告げてしまうが、フィナーレ主題を暗示する緩徐部での木管のやり取りも実のある表現で強く印象付けられる。2番は凝りまくるシベリウスとしてはそこまで書き込まれた作品ではないがロスバウドのいちいち抉り出す内声部はいずれも必然性を主張し、結果分厚く豊饒な響きが生まれる。かえってフィナーレ冒頭が薄っぺらくなってしまう独特の書法(譜面上の音量指示はここが頂点ではない)が不思議な浮遊感を産む。やや違和感はあるが、この冒頭が構成的に一番の盛り上がりどころではないことをちゃんと示している。新即物主義的というような力強く一本調子な印象の進行の中で緩徐部での透明感のある響きから生まれる沈潜する雰囲気はコントラストをつけてじっくり味合わせている。ソロミス一箇所、珍しい。この後からの畳み掛けるような持って行き方は計算され尽くしたようにインパクトがあり、テンポは早めインテンポなのにブラスが割れるような音量で爽快というか焦燥感(早く終わりたい?)で持っていくところは独特だ。弦の音の切り詰め方や管楽器の吹き回し方、よくよく聴くと上の独特のスピードと音響のために神経質な指示をしたような痕跡がみられる。凸凹のない充実した響きがあるからこそ苦難のドラマ、転調から終盤へ向けての高らかな凱旋の声が印象的に伝わり、ブラヴォの渦を呼んでいるのだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第2番(冒頭欠落),○バルビローリ指揮西ドイツ(ケルン)放送交響楽団?(DA/VIBRATO:CD-R)1970放送,,冒頭欠落。ラジオエアチェックにしてもかなり悪い(60年代前半までくらいレベル?)モノラル録音。DAはライヴとしているが拍手は入っていず、ナレーションの入り方からしても正規録音だろう。演奏も二楽章こそ独特の粘りを見せてデロデロなところを出しているものの、一楽章からかなりばらつきの感じられる合奏で、四楽章の異常な高速の盛り上がりに思わず○をつけたものの、NYPの正規録音ぽいんだよなあ・・・晩年にあんなテンポはとらなかったと思うが、いかがでしょう?ナレーションはイタリア語?まあ、四楽章が素晴らしい、バルビにしかできない起伏の盛り込まれた胸のすく表現ではあるものの、疑問符をつけておく。他CD−Rレーベルでも同じものが出ているが冒頭の状態は未確認。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第3番,◎アンソニー・コリンズ指揮ロンドン交響楽団(DECCA)1954/5/5-6・CD,,モノラル録音の特性を生かしたダイナミックなアンソニー・コリンズのシベリウスが聞ける。凝縮された響きに男らしいロマンあふれる猛進、それが格調高くつづられる。かねて名盤と知られたこの全集は、長らく市場から姿を消していたが最近何度目かのCD復刻がされた。アナログで聴けばもっと迫力を楽しめるだろう。僅かな隙もない音楽の綴れ織を固唾を呑んで聞きとおす、そういったたぐいの演奏。名演!,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
シベリウス:交響曲第3番,○カヤヌス指揮LSO(FINLANDIA)1932/6・CD,,この時代の録音とは思えない生々しいクリアな音で、雑音はつねに入るしバランス調整やリマスタで改造された結果かもしれないが、それでも迫力ある演奏ぶりには驚かされる。力感にあふれ一糸乱れぬアンサンブルは直入型と言ってもクーセヴィツキーのような直線的なものではなく適度に機微を表現しながら速めのテンポでかっこいい流れを作っていく。まとまりのよさと胸のすくような展開には思い切り引き込まれる。オケも上手いし、強い!ヴァイオリンの総体としてのあまりの力感がほつれを呼ぶ部分も若干あるが、実演では聞こえないレベルであり録音のせいだろう。モノラル録音はそれだけで実際以上の凝縮力を感じさせるものだが、これは元々の極めて練れた解釈とテクニックによるところも大きいと推察される。やはり両端楽章がききものだが静かな場面での特に木管の自然だが巧緻な表現も捨て難い。やや即物的なきらいがありファンタジーに欠ける(三楽章の勇壮な主題が最初にさりげなくたち現れるところなどそれとわからぬようにサブリミナル的にそくっと入って次第にそれまでの主題を凌駕していくスムーズな松葉が欲しい)ところもあるが、無垢のまま聞いても十分堪能できるだろう。一楽章の弦の特徴的な下降音形の四回繰り返しに田舎ふうの牧歌的な旋律がかぶさるところなど昔はマーラーのタイタン1楽章を想起したものだが(たんに途中の音形と重厚なハーモニーにほとんど同じ部分があるだけのせいという気もするが)そういうイマジネーションは湧かない。純粋に古典的なサクサク進む演奏なので印象派的なシベリウス好きには物足りないかもしれないが、シベリウス盟友の演奏としても聞く価値はあり。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第3番,○クレツキ指揮フィルハーモニア管弦楽団(ANGEL)凄まじい迫力!もともと迫力が出るように作ってある曲だからなおさら、クレツキのガシガシいう刻みが生きてくる。録音のせいかもしれないがこの1楽章は徹頭徹尾気合のかたまり。私のLPの状態が悪いのが非常に残念だ。内声部がしっかり聞こえるのもこの人の指揮らしいところである。2楽章の陰うつな旋律を支える低弦のシンコペなピツィカートが聞こえてかっこいい!諸所に垣間見える「新しい音楽」への冒険がこの曲に独特の魅力をあたえているところで、それでもなお終楽章の常套的な高揚感にも欠けていないのがいい。CD化してます。◎にしたいが○にしておく。モノラル。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第3番,○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(GLOBE)1977/4/4LIVE・CDシベ3は案外人気のある曲だ。親しみやすい田園ふうの楽想、3楽章制で20分台という短さもその要因だろう。とくに2楽章の内省的な旋律は薄闇に一寸の光りが射すような、なんともいえない陰うつな美しさをかもしファンが多いようである(私はどちらかといえば元気な1楽章派です)。ロシア国民楽派の影響色濃い常套的な書法から、独特のオーケストレーションとハーモニーに彩られた凝縮された書法に脱皮する過渡期にあたる作品ということで、超有名な2番と最も内省的で最高傑作とされることもある4番にはさまれ今一つ目立たない作品であったのだが、今やアマオケも演目に入れるほどになったのは、ヤルヴィなどの優秀な録音が一般に普及したせいであろう。2番に比べ格段にマニアックになった書法をどのくらい把握しきって音楽に再構成していけるかがカギで、下手すると声部間でテンポがずれグズグズになりかねない。編み物のようにからみあった音の筋をまとめるのは難しく、どこかで妥協して旋律以外はごちゃっとしたままにしてしまいがちだが、ここでコンドラシンはギチギチのアンサンブルを構じ、全くフォルムを崩さない。2楽章の精妙さはまさにそういうきっちりした演奏によってはじめて生きてくる。木管楽器が寂しげにかなでる旋律の下で低弦が打ち始めるピチカートがこれほど重くしっかり響く演奏があったろうか。物凄くかっこいい。2拍3連の上向音形がきちっとハマり、しかも少しの迷いもなく表現意志を丸出しにして、まるで対旋律であるかのようにしっかり響かせる。ピチカートのアンサンブルはしばらくつづくが、難しそうだな、と思う反面、すごいなあ、と感心する演奏だ。構造的にかかれた箇所は例外なく内部もしっかり響かせており、ここはこうやってるんだ的な発見にも満ちている。これは他の楽章も同じだ。1楽章はあまりに力強く強靭なアーティキュレーションが聴くものを圧倒する。中低音域で繰り広げられるリズミカルな旋律(旋律か?)のガツンガツンくるところなど、ほんらいは田舎ダンスのような鄙びた風景を描くべきなのだろうが、ここではもう強靭すぎてまるで農民軍隊出撃風景のようだ。3番あたりになってくるといよいよシベリウス独特の精妙な和声(それはけっこう響かせるのが難しい調性ギリギリのハーモニーであったりする)が縦横に使われるようになるのだが、その底にはブルックナーあたりまでの作曲家の影響が通奏低音のように存在する。この曲の1楽章をはじめて聴いたとき、私が思い浮かべたのはマーラーの「巨人」1楽章だった。音形の一部が似ているというだけだったのだけれども、ハーモニーにも似たところがある。ちなみに2楽章冒頭の和音は「第九」の1楽章序奏部と同じだ。他の作曲家のオマージュが散りばめられた5番(この3番とカップリングになっている)に向かうまでにもこういうところがあったのだ。ドヴォルザークやチャイコフスキーの影響は言わずもがな、それでもしっかり「シベリウスの音楽」になっているのが面白い。独特の和声法に原因があるのだろう。終楽章弦が細かい動きをタカタカしている上で管が旋律を吹くなど、2番3楽章のやり口と同じ物が聞かれるが、これなど「悲愴」の3楽章の、ヴァイオリンがタカタカ刻む上で管楽器が旋律断片を吹くやり口と似ている。しかしまったく異なる印象をあたえるのは和声のせいだろう。話しがあっちゃこっちゃ行ってしまったが、けっしてシベ3の正当な演奏でないにせよ、「強靭凄絶なシベリウス」という希有の奇演として、この盤の価値は高いだろう。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第3番,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1946/12/9live,,クリーヴランド客演時代の古い記録になる。シベリウスとセルは元々相性がいいということもあるのだが、シェフになって以降の演奏ぶりと少し違った感じで、楽しめる演奏。録音が古いので力強さは伝わりづらいのだが、緊張感がびしびしと漲り、なお前進力と内声からえぐるような底深い表現が、とくに1楽章では聴かれる。3楽章がやや力弱い気もするが相対的なものだろう。この曲自体尻すぼみな形態である。とにかく演奏精度が高い、これは客観的に整えたという以上のものを感じる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第3番,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(BBC、medici)1969/8/8live・CD,,このシリーズの多聞に漏れず雑音の目立つややバランスの悪い録音。演奏は1楽章は丁寧なフレージング処理に力点を置いた晩年のバルビらしいスタジオ録音に近い演奏で好悪分かつだろう。2楽章はいよいよバルビらしい緩徐楽章で心根深い表現が心を打つ。3楽章は冒頭から弦楽アンサンブルがのっていて、磐石とは言い難いハレ管のとくに高弦がシャキシャキしたキレのよさを発揮して壮年期のバルビを彷彿とさせるが、主主題提示あたりから録音が旋律に偏重しているように感じ、シベリウスが後期の作り込まれた作風に移行したことを物語る立体的な書法が聞こえづらい。バルビの芸風もあるだろうが録音のせいのようにも思う。ステレオではあるが立体感が無いのだ。稀有壮大になっていって結果バルビ晩年らしい横長のクライマックス後に一斉にブラヴォが叫ばれる祝祭的雰囲気ではあるが、終楽章冒頭のテンションが維持されて聞こえてきたらと思うと手放しで賞賛する気にはならない。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
シベリウス:交響曲第3番,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ALTUS)1963/10/27LIVE・CD録音がどうにも痛い。力感に溢れ豪快な演奏ぶりが逆に違和感を感じさせる。ブラスやティンパニが露骨で荒々しくムラウ゛ィンスキーとは思えないアクの強さなのだ。多分これらの大部分は録音バランスの悪さに帰するものとは思う。でも正直1楽章は苦しかった。前へ前へ行く音楽は2楽章では幾分落ち着きを取り戻している。水際立ったアンサンブルが生々しく聞ける。ベートーウ゛ェンみたいというか、純音楽的で幻想や仄めかしが無い。これは好みだろう。やや騒々しいが私は楽しく聞けた。構造があらわで分かりやすい。3楽章との境目が非常にはっきりしているのも特異な感じがする。明晰というか余りにリアルなテクスチュアの描き出し方も特異だけれどもシベリウスに対するこれも一つの見識だ。弦楽器のガシガシ余りに力強いアンサンブルにどこから出ているのか分からない異常な肺活量の木管・金管がブオブオ折り重なっていく。凄い迫力のまま演奏は終わる。実に前進的で濃い演奏だ。希有の力演に聴衆は冷静に拍手を送っている。この盤は何と3番1曲だけで成り立っている。ALTUSらしいところだが、オマケで残響を加えた改変録音も入っており、こちらは大分聞きやすくなっているものの、音のあけっぴろげさはそのままで、どちらも私は耳が痛くなった。総じて○だが個性という点ではピカイチではある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第3番,バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(DA:CD-R)1969live,,個人的にバルビのシベリウスやRVWのシンフォニーは音のキレが甘く、テンポがもったりした感じがして余り好きではない。もちろん時期や作品、また楽章によっても違うが、ディーリアスあたりまでの響きの分厚い後期ロマン派作品、やはり独欧系の楽曲に適性をかんじる(リヒャルトやマーラーのような)。ハレとなるとなおさら出来不出来があり、アンサンブルはともかく個人技的にはレベルがばらけた印象が否めない。この作品は過渡期的とはいえ前期の覇気に満ちた主情的な書法と後期の精緻な構造からなる主知的な書法が共存する妙味があり、1,2番の冗長さからも4番以降のとりとめのなくなりがちな性向からも離れた一般的な魅力に溢れた作品だと思う。とくに1楽章は民族的リズムのキレが要であり、大昔これをきくとマーラーの巨人の舞曲楽章を思い浮かべたものだが、ハレでバルビだと重量感も余り感じられずノリが半端な感が否めない。好き好きだろうが、私は余りのれなかった。もちろん、これが最晩年の演奏様式にのっとっているせいもあるだろう。中間楽章(緩徐楽章)の旋律的魅力が4番以降より劣っている感もあるのでなおさらバルビの歌心が生かせない曲でもあるのかもしれない。無印。ステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第4番,

○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(dell'arte/biddulph)1932/2/23・CD

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同曲の初録音盤。ストコの常として録音状態はいいが、楽章がアタッカでつながる曲となるとどうしてもSPの継ぎ目が残る。非常に気になるが、仕方ないか。そのせいか知らないが、後半になるにつれ散漫な印象を受ける。シベリウスで最も難解とされる曲で、静謐な楽想が終始支配的であるがゆえ、何か指揮者が仕掛けないと聴衆もけむに巻かれる。しかも録音時期が時期なだけに繊細な表情の再現が難しく、ストコはかなり曲を単純化し旋律線を太筆描きにしていく方法をとっているものの、旋律の役割が薄くなりアンサンブルの妙のみを聴かせるようになってくると、楽想の点滅を繰り返す途切れ途切れの音楽に聞こえてくる。それでは却ってわかりづらい。たとえば同時代のビーチャムなどよりは表現がはっきりしているぶん入りやすいが、コノ曲をきちんと理解したければ無理して古い演奏を聴く必要はないか。○にはしておく。ビダルフは同じ音源と思われる。どちらのレーベルも稼動していないが探せば容易に出てきます。シベリウスはこの録音を賞賛したらしいが、誰でも賞賛する傾向にあるので音盤の売り文句として理解しておいたほうがいいだろう。ビダルフでカップリングされているオーマンディのほうが親交篤かったようにも言われる。

Sibelius: Symphony No1"," Op39; Symphony No4

Biddulph

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シベリウス:交響曲第4番,○アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(DECCA)1963/9,10・CD,,アンセルメの国民楽派は清清しくも盛り上がる名演が多い。これも非常に楽しめた。ほんとは基本は印象派的に沈潜し続けるべき曲なのかもしれないが、研ぎ澄まされた音できちんとスコアから組み立てると「盛り上がってしまう」ことを抑えられない。まずは美しい、そして気持ちがいい。それでさらに熱気が伴うところがこのコンビの録音した国民楽派交響曲のすばらしいところである。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
シベリウス:交響曲第4番,○アンソニー・コリンズ指揮ロンドン交響楽団(BEULAH他)1954/2/22-25・CD,,ロマン性が全く排され、それまでの作品に聴かれた生臭さが完全に抜けて、白く、美しくもわけのわからない哲学的世界に昇っていってしまったシベリウスの尖鋭性が最も顕れた作品。意表を突いた音の連続、論理性を排した展開、明滅するシャープな響きは特に1楽章で目立つ。でもやっとシベリウスらしい旋律が形をなした終楽章にあっても後半はやはり哲学的宇宙に飛び去ってしまい謎めいた終末を迎えることになる。シベリウスの音響に対する前衛的な感覚が室内楽的な薄いアンサンブルの中に剥き出しで顕れた曲でもあり、シベリウスを時代遅れの国民楽派と片づけてしまうことが誤っているのだと確信させる。分厚いのに冷たく硬質、そして微妙に複雑なハーモニーは演奏しているとその独特さに否応無く気づかされる。1度ずれた高音2本の不協和音などシベリウスらしい実に微妙な味わいのある響きだ。とにかく4番は一筋縄ではいかないのである。それは安直な解釈を拒否する。メリハリが明確でダイナミックなアンソニー・コリンズの演奏は、作品の雄弁な部分を引き出そうとするもなかなか掴めず手を出しあぐねているように聞こえる。だがこのほんとにわけのわからない作品を極力わかりやすく表現しようとする態度については十分評価できる。事実演奏の凝縮力、強靭さ、オケの統率も申し分無く、まあこの曲に限らないのだが、これがモノラルでなければ間違いなくシベリウス指揮者として今もCD屋の店頭を飾っていたに違いないと思わせるものがある。4番ははっきり言っていい録音にこしたことはないし、静謐さをしっかり演出することが肝要だと思うから、この人の盤には最上級の評価はつけられないのだが、聴き易さをとって○ひとつをつけておく。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第4番,○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送管弦楽団(WEITBLICK)1969/3/4LIVE,,厳しい印象のあるケーゲルだがけっこう叙情的で甘さの出ることもある。シベリウスも後期向きではないのかもしれない。この奥座敷の襖を開け放ってくれているのは確かで、気持ちのいい聴感ではあるのだが、展開にロマンティックな意味性を求める感じはやや違うようにも思う。正規盤にしては録音はあまりよくない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第4番,○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(DEUTSCHE SCHALLPLATTEN/EDEL CLASSICS)1969・CDシベリウスの交響曲中では特異な位置にある4番。当時の前衛音楽の影響を受け、印象派的な曖昧さと理知的な構成感を併せ持つ、しかも独特の怜悧な美しさを放つ作品に仕上がっている。剥き出しの楽器群によって紡がれる極めて薄い響きはこの曲の特徴となっており、ロマン派音楽との決別を示している。清澄さの中にも重厚な内容をもった3楽章や明瞭な旋律を持つ4楽章を除けば7番よりもイっちゃっており、謎めいたとりとめのない楽想はとっつき辛いものがある。しかし12音音楽などに比べれば全く分かりやすく聞きやすいものではある。ケーゲルはやや重く、また何故か音にキレがない。シベリウスの特徴である細かい刻みがレガート気味でごちゃっとしてしまう。全体的にはわるくはないが、最後までしっくりこない感が残った。ケーゲルらしからぬ精度。○とはしておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第4番,○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SCC:CD-R)1962/3/16live,,ストコフスキにこの曲は珍しいか。さまざまな解釈のなされてきた詩的な交響曲だが、ストコフスキ・フィラデルフィアらしい拡散的な響きの中にも終楽章冒頭の重くねっとりした伸縮する弦楽合奏に象徴される、ロマンチシズムとダイナミズムの独特のバランス感覚に支えられた演奏。きほんは主旋律を追うような線的な演奏ではあるものの、迫力を出すためにブラスを強く弦楽器は雄渾にハーモニーの重心を低く、厚みがあるので聞き応えがある。小虫がうごめくような細かい動きこそ雑でまとまらない感があるが、前期交響曲のフォーマットに沿うような劇的なメリハリがつけられているので気にはならない。かといってありがちな、楽曲を単純化した即物的演奏よりも多彩な仕掛けを一応漏らさず奏でているので面白い。悪い録音ではあるがそれでもスケール感が伝わってくるストコフスキらしい演奏。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第4番,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(CO)1965・CD,,この曲は厳しい曲で、毛一本入る隙の無い音作りが求められる。アマチュアレベルの精度では1楽章冒頭のハーモニックなやりとりすら表せないのが実情だろう。中期以降のシベリウスというとメカニカルで前衛的と言ってもいいくらい入り組んだアンサンブルに尽きるが、これはアンサンブル自体簡素化されている。そこが小手先ではいかない難しさである。長大な音符を微弱な音量でどう綾付けていくか、こそこそした動きにどう意味をつけていくか、全ての動きが正しく複雑な和声として認識できるように響かせられるか、このあたり並大抵の技師にはできないし、オケには無理である。もちろん古い録音では再現は難しい。力技で押す以外の方法は無いし、その方法は殆ど失敗する。その点セルはオケ的にも録音年代的にも恵まれている。迫力もあるしニュートラルなシベリウスではあるが、逆にニュートラルにしか表現しえない曲なんじゃないかと思うことしきりでもある。バルビの名演はオケゆえに軋みを生じているところがあるが、これにはそれがない(しかしレガート表現のしなやかさにバルビを思わせるところがある)。起伏無く終わるのは同曲の悪い点としてよくあげられ、バルビなどは作為的に起伏を作っているが、セルは起伏を作らずに、でもちゃんと聴かせている。曲の魅力をスコアからそのまま素直にうつしたものと言える。スコアから素直に、というと、1楽章の音線にドビュッシー「海」からの影響が現れているのを認識することもできるし、なかなか「勉強」にもなる。けして押しの強い演奏ではないが、いいものではある。録音はこんなものか。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
シベリウス:交響曲第4番,○ビーチャム指揮BBC交響楽団(somm)1951/10/4live・CD,,最初ロンドン・フィルと間違えてて、やけにキレがよく引き締まってるな、とか、いやに分厚くて充実した響きがするじゃないか、いやうまい、と感嘆してたらBBCだった。短い音符のアクセントを強くつけ水際立った表現はシベリウスののっぺりしがちな弦楽合奏を引き締めて、最初別の曲かと思うくらいリズミカルでのりにのっている。だが、、、曲のせいか、、、飽きてくる。単調というか。。ビーチャムのもたらす緊張感は並ならぬものがあるが、シベリウスの精妙さを味わうには、、、録音が悪過ぎる!板起こしのノイズまみれ、これは非正規版並だ。マルにはしておくが、薦めない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第4番,○ロジンスキ指揮NYP(columbia/sony)1946/3/5・CD,,力強い演奏ぶりでオケの技量も最大限に引き出されている。この曲がけしてシベリウスの特異点ではなく5番の前、7番の前に位置づけられる「交響曲」であることを強く印象付ける演奏。ロジンスキはライヴにおいては解れも辞さない前進力をもって押し通す傾向がみられるが、スタジオではその特質のみ残し弱点を解消したスケールの大きな響きの感覚も味わうことができる。録音状態はけしてよくはないが、ぎりぎり鑑賞に堪えうるレベル。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第4番,○ロジンスキ指揮NYP(DA:CD-R)1946/2/21live ,,この音源をエントリしてないことに気づいたのでアップ。4番を5番のように演奏するという、新しい演奏になじんでいる向きには違和感のあろう録音である。しかしこの時代には珍しいことではなかったようである。ドビュッシーの影響どうのこうの、というハーモニーについての配慮は(録音のせいもあるが)殆ど聞き取れず、旋律とそれにつけた和音、というシンプルな方法論のもとにトスカニーニというか、もっとメカニカルなアンサンブルのスリルを愉しませるために、オケをギリギリ引き締めて、そこにロケットエンジンをつけたような・・・「4番」なのである。憂いもなく、序奏的な部分はすっとばされ、弱音部ははしょられ、結果、終楽章は盛大に(「大」ではないけど)盛り上がった挙句、チャイコの「悲愴」のような蛇足的な重い響きで終わらせる・・・「静寂」ではなく「歩み」。RVWが9番の最後に「無」と書いたような表現がこの曲にはあっていると思うけれど。ディーリアスと並べて語られることの多いシベリウスだが、これは「自然」ではなく「都会」だ。でも、この演奏それなりに楽しめたりもする。録音も悪くない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第4番,〇アンセルメ指揮ヘルシンキ市立管弦楽団(lanne:CD-R)1963live,,オケは非常にしっかりしたものだが、アンセルメは壮大にやりすぎている感がある。遅いテンポだが音の芯が強く、繊細なこの曲を国民楽派的に扱い過ぎているようだ。特に速い楽章で顕著であり、終楽章は作為的な遅さと拡散的な音作りが気になって仕方ない。さりげない終わりかたをどうするか、という点においても、だらだら続けていきなり尻切れのような残念な印象が残った。この指揮者の鋭敏な耳と透明な音作りに期待して、さらにオケの性向にも期待していたが、共に半端だった。精度はあり、〇にはしておくが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第4番,〇ロジンスキ指揮NYP(SLS)1946/3/3カーネギーホールlive,,ロジンスキライヴはノイズが当たり前でこれも終始ノイズが入り続けて耳障り悪いのだが、40年代とは思えない情報量の多いモノラル録音でうまくリマスタリングすればかなり分厚い音で楽しめる録音だと思う。演奏内容もよい。力づくで押し通すスタイルを押し殺し、ロジンスキとは思えない(専制君主的統制はロジンスキだが)ひそやかな音楽の再現につとめている。これはロマン派音楽ではない、かといって印象派音楽でもない。シベリウスなのだ、という個性の主張が狂おしくあらわれた過渡期における代表作を、2番や5番の要求する力強く盛り上がり収斂していくことをここでは求められていない、と判断し一つ一つの断片的フレーズと内省的な響きを、つとめてシベリウス的であるようにやっていてある意味ビーチャムのようなスマートな演奏家を足元にも寄せ付けない心の深さを示している。むろんNYPSOの威力によるところも大きいし、NYPSOという猛獣を手なづける手腕もあろうが、それ以前にこの指揮者が同時代音楽を大の得意とし、そういう演目を好んだということがよくわかる。これは好きな人が振っている音だ。バルビローリかと思うようなところもある(しかしあのように愛撫する音楽ば作らない)。飽きさせない名演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第4番,セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1965/9/12live,,矢を正確に放てばおのずと当たってくれるような曲、というと現代指向の複雑な楽曲という感が個人的にはするのだが、シベリウスもまたそういう作曲家のような気がする。だからセルのような指揮者が怜悧にオケを研ぎ澄ましてひたすら精度の高い演奏を行えば、とくに4番などという北方の金属加工製品のような「冷たい曲」をやれば素晴らしい効果をあげることうけあい・・・だと思って聞くとこれが録音が悪い!時代は新しいステレオだがエアチェック状態が悪い。左右のバランスは最初からおかしいが、ホワイトノイズは激しい音響がちぐはぐでシベリウス特有の掛け合いが噛み合って聞こえるどころか完全に片方の声部が聞こえないような気持ちの悪い状態で、4番という全体構造のわかりにくい繊細な曲であればこそこの状態ではまるで、セク練でも聞いているかのようでとても聞いていられない。瞬断も多く、音はガツンと生々しく迫力はあるのに、これでは交響曲として聴けない。駄目だ。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第4番,トスカニーニ指揮NBC交響楽団(MEMORIES)1940/4/27liveシベリウス交響曲の奥座敷にして最も繊細な曲。イギリスの評論家などにはこれこそシベリウスの最高傑作、と評する者さえおり、哲学的ともいえる静けさの中に微妙な音色のゆらぎが何とも言えない深味を残す作品となっている。ここでシベリウスはその独特の和声法にフランス印象派の色を加え、音楽そのものの論理性から離れ、雰囲気で聞かせるという方法をとっており、それをしっかり味わうには、なるべく明晰な録音で聴くに越した事はない。ということで、トスカニーニ盤、ビーチャム盤もそうだけれども、部が悪い。特徴的に動きのある場面(ごく少ない)では緻密なアンサンブルと表出力を感じさせるが、1、3楽章など、何をやっているのかよくわからない。強引なリマスタリングによって雑音は減り擬似ステレオ的な残響がついたものの、音像がかなりぼけてしまっている。だから、細かい音の交錯を聞かせるこの曲(楽章)には、とてもマイナスな録音状態なのだ。演奏そのものがどうであったのか?それはもうわからない。ただひとつ言えることは、この盤は聞きづらい、ということだ。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第5番,"",○チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(RARE MOTH:CD-R)1992/11/8live,,これは紛れもなくシベリウスである。このスケール、この響きの美しさ、実にシベリウス的な雄大な演奏だ。でも、シベ5か・・・?シベ5というとシベリウスのわかりやすい作品の上位にランクされる曲であり、人気曲の1、2番に比べて円熟した書法が駆使された隙の無い作品として頻繁に演奏される。ドラマティックな曲想に富みカタルシスが容易に得られるのも人気の理由だろう。だが、この演奏にはそういったドラマティックなシベリウスは現れない。ここには印象でいうならば北欧の広大な大地があり、肌の切れるような冷たい空気があり、空はどこまでも広く、そこに隅々までひびきわたるような音、シベリウスという存在の本質そのものの吼える声が聞かれるのである。だから構成感とかシナリオ作りとかいう部分を超越した演奏というか、もうひたすら横長に、しかし力強く響き渡るブラス(お疲れさま)の咆哮にもう、ああ、こういうシベリウスも絶対アリだな、と思うのだ。逆にシベ5にわかりやすさを求める人には向かない。4番で見られた印象派的手法が別の形・・・ドイツ的な演奏様式・・・であらわれた演奏ともいえるかもしれない。逆説的な言い方だがこんな盛り上がらない終演もあまりない。ほとんどウォルトンの1番のような空疎な終止和音の連打ににやりとさせられた。個人的に○。もう一度聞きたくなる、でも結局わからない、そういうちょっと面白い位置にいるものだ。チェリらしいし、チェリのシベリウスに対する読みの深さも感じる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
シベリウス:交響曲第5番,◎アンソニー・コリンズ指揮ロンドン交響楽団(DECCA)CD,,シベリウス録音においてモノラル時代並ぶ者のいなかったコリンズの極めつけの一枚。ラジオでもさかんに放送され、ここまでまっとうにカタルシスを得られる演奏というのは他にない。もともと扇情的なこの曲に限らず初期から晩年作まで、全て例のトスカニーニ様式的な力強さと歌いっぷり、ではあるが男らしいというか雄渾で高潔な指揮ぶりは、シベリウス受容において世界一であった英国においてもビーチャムを凌ぐ魅力っぷりは否定できない。構造的な部分の鮮やかな組み立ても「スコアの読める」指揮者であることを再認識させる。まったく、モノラルという限界さえなければバルビローリですら奇演と聞こえたろうに。◎。全集が廉価で手に入るようになっている。お勧めで無いものはない。凄まじいのに聴きやすい。これだけだ。,,"
シベリウス:交響曲全集
コリンズ(アンソニー)
ユニバーサル ミュージック クラシック

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シベリウス:交響曲第5番,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R他)1943/12(2?)/25live,,他録と同じ可能性大。演奏スタイルもまったく同じ。録音はこの時代の非正規ライヴにしてはクリア。DAの記載では2月ライヴになっているがアナウンスが1943年のクリスマスと言っているのでそちらのほうが信用できる。前進的で緊密で浮き立つようなリズムに満ちている反面何度も聴くと飽きるような「わかりやすいがゆえの」単調さも否定できない。○。,,"クーセヴィツキーについてはこちら",,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,"(参考:30年代正規)
Sibelius: Symphonies Nos.2 & 5
Boston So","Koussevitzky
Naxos

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シベリウス:交響曲第5番,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ROCOCO)live・LP,,ROCOCOは詳細情報が一切記載されず、正規音源で出ているものよりマスターに近いものからの復刻もあれば悪質なエアチェックもある。これも情報が無いので既出盤と同じかどうかはわからないがクーセヴィツキーのライヴ盤としてはかなりクリアに細部まで分離して聞こえる良質なものと言えるだろう。スコアをめくる音さえ聞こえる。意思的に突き進み揺らぎの無い自信は作曲家の賛美を背景にしたもの(シベリウスはしょっちゅう指揮者を賛美したが)、オケもそれに応え聞きごたえのあるアンサンブルを力強く提示してくる。これをライヴで聞いたらかなり圧倒されることだろう。オーマンディのスタジオ盤に魂を篭めたようなかんじだったろう(オーマンディも素晴らしいが)。圧倒的なクライマックスに向けて全楽章で盛り上がりを構築するというよりは、冒頭よりひたすら太筆描きで前進していきその結果としてクライマックスが出来上がるといった風だ。私は好きである。○。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
シベリウス:交響曲第5番,○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(GLOBE)1973/12/7LIVE録音状態は決して最良ではないのだが、表現意志に満ちたオケと指揮者によってとても明快なシベリウス像がつむがれているのがわかる。まあ、あまりに輪郭がはっきりとした演奏であり、しっとりした感傷は微塵も無いが、からっと晴れ渡った冬の空を思わせる清々しい演奏はこの曲にはよくあっている。終楽章の強靭な音楽は聞き物だ。コンドラシンによる他の記録と比べて際立ってすばらしいとは言えないものの、たとえばシベリウス特有の弦の細かい刻みが細かい音符のひとつひとつまでびしっと揃って聞こえるなど、印象的な場面はいくつかある。断片的に提示されてゆくテーマのひとつひとつがハッキリと浮かび上がり、つながってゆくさまが手に取るようにわかる。明快な棒により、シベリウスの個性的なオーケストレーションが良くも悪くも浮き彫りにされる。発見のある演奏だ。円熟味はまだ無いが、壮年期の覇気に満ちたコンドラシンを聞ける好演の一枚。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第5番,○ザンデルリンク指揮レニングラード・フィル(MELODIYA)LP,,正直このころのロシア盤は雑音が酷いのだが、ロシア盤は独特の針や機器を要求するという説もあるのでいちがいに悪いとはいえまい。だいたい最近メロディヤ盤が本国から直接入ってくることはなくだいたい旧東側諸国から流れたものがちょぼちょぼという状態なので、CD化でもされない限りなかなか聴けない貴重なものであることは確かだ。見た目綺麗だがじつにしゃかしゃかと雑音が入る。そのため細部が聞き取りづらいのが正直なところなのだが、ロシアらしさというのはブラスのぶわーっという響きだとか弦の必要以上に強くためを作るところぐらいで、おおまかには奇をてらわずに素直に最後まで聞ける「好感の持てる」演奏だ。爆発的な推進力でそれまでの断片的な素材の気まぐれな交錯を一気にベートーヴェン的勝利に収斂させていく楽曲だと思うのだが、しばしばそうではない演奏というのにも出会う。この盤も例えばアメリカの指揮者ほど勝利の凱歌があがることはない。だが全体としてのまとまりはよく、唐突ではなくスムーズにクライマックスへ向かうさまが心地いい。,,シベリウスのシンフォニーは各曲にそれぞれ「主題」がある。これら一連の交響曲群はよく発展論的に論じられ、技巧的に突き詰めていった結果交響的幻想曲である凝縮された単一楽章の7番にいたったという軌跡ばかりで語られがちだが、それぞれの個性を巧く引き出し、それぞれの主題を浮き彫りにすることによって寧ろそれぞれが独自の輝きを放ちだすものであり、隣同士が似ていても、結局は別物だ。たとえばバルビのシベリウスは両論あると思うが、交響曲全曲録音にあたっては曲によって技術的アプローチをどんどん変えていったといわれる。最後の7番をやるころには我々は全く違う音を出すようになっていた、というハレ管の証言者もいる。勿論これも番号順であり発展史観的なものに基づいたやり方ではあるのだが、たとえば3と4、5と6の間の違いをどう解釈したらいいか。あるいは、なぜ最高傑作と呼ばれる4、7番が滅多に演奏されず、1、2、5そして案外3番あたりがよく演奏されるのか、これは発展史観で説明しうることではない。それぞれやはり独立した楽曲であり、個性なのだ。その個性の魅力が、後者4曲が強い、主としてテーマのわかりやすさや楽想の親しみやすさだとは思うが、それでもやはり譜面面だけで「最初から全部楽想や構成が似ている」とかいうことを論拠に論理的に説明しようというのは無理がある。ためしに弾いてみて貰いたい。音形が似ていても、内容はそれぞれ全く違うから・・・,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
シベリウス:交響曲第5番,○チェリビダッケ指揮トリノ放送交響楽団(WME:CD-R)1970/5/1live,,シベリウスの傑作交響曲であり、1,2番の知名度に比べて落ちるが緻密な設計、流麗な筆致と壮麗な盛り上がりは何の欠点もない紛れも無くロマン派の最後に輝く金字塔である。余りに流麗がゆえに音楽的にこじんまりと聞こえてしまうというか、モノラル録音だと更にその点が強調され印象に残らない場合もあるのが難点だが、チェリまだまだ壮年の覇気が爽快な勢いある音楽を突き通し、晩年のガチガチさも若い頃の暴虐さもないバランスのとれた演奏振りが、すっかり馴染みのイタリアオケと組み合いラテンなノリさえ感じさせる。シベリウスを聞くとやはりどうしても自然を想起する。蒼みがかった氷壁を吹き抜ける風、北斎じゃないが凱風快晴、といった清々しさがある。けっこう複雑なアンサンブルや現代的な音響を駆使しているのにそこには非常に素直な自然への賛美が聞こえる。チェリはいささか人間臭いがそれでも旧いシベリウス指揮者たちに比べればずいぶんと透明度はある。チェリのシベリウスはいい。悪い録音のライヴばっかりだが、それでも。○。,"",-----,,,,,,,,,,,,
シベリウス:交響曲第5番,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(CARLTON,BBC)LIVEやや篭ったように聞こえる録音である。バルビローリ独特の解釈が隅々まで施されていて、とくにバルビローリがこだわった弦楽のフレージングが独特の部分が少なからずある。それはときにテンポを乱し拍節感を希薄にするが、構造のしっかりしたこの曲ではあまりマイナスには感じない。面白い演奏であることは確かだ。終楽章でもう少し盛大に盛り上がりたいところだが、録音のせいであることも否定できないので何とも言えない。この指揮者にかんしてはEMI盤さえ聴いていればとりあえずいいと思う。よほど興味が出てきたら買って下さい。ニールセン「不滅」とのカップリングだがこの「不滅」はEMIスタジオ盤よりいいかも。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第5番,○ベイヌム指揮ACO(RICHTHOFEN:CD-R)1957/6/17ヘルシンキ音楽祭LIVE・CD,,はっきり言って雑。とくに1楽章のまとまらなさといったら、アマチュア楽団のようだ。ただ、ステレオでスケールの大きさを直感させる録音となっており、そのテンポ設定と響かせかたに雑然としてしまった要因を求めることもできようか。フォルムはしっかりしており打・ブラスは腰の据わった力強い表現をしっかりとっており、2楽章で弦楽器もようやく落ち着き、ややおざなりの世俗性はあるものの清潔で壮麗な盛り上がりが終楽章に築かれる。いい意味でも悪い意味でもベイヌムらしさはある演奏。おまけで○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第5番,○ロジンスキ指揮クリーヴランド交響楽団(DA:CD-R)1946/10/27live,,録音は許容範囲ギリギリといったところか、ロジンスキのライヴってそれ以上のものはないですしね。これは既出盤とは違うように思えた。さすがの集中力だがややひっかかりがない高速運転。あと、終楽章が思ったより盛り上がらない気がしたのは期待しすぎだったのか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第5番,○ロジンスキ指揮クリーヴランド交響楽団(LYS/COLUMBIA/SLS)1941/12/28シベリウスの脂の乗りきった作品であり、こんな貧弱な録音でも鋭い輝きを放っているのがすごい。終楽章はロジンスキの面目躍如、ギチギチな演奏でギリギリ盛り上がりを造り上げていく、耳を奪う演奏だ。ちょっと繊細さに欠ける気もするが、こういう演奏のほうがあっているのかもしれない。壮大さはないが敏捷な演奏である。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第5番,カヤヌス指揮ロンドン交響楽団(FINLANDIA)1932/6,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第5番,ケンペン指揮ACO(polydor)1943・SP,,平凡。1,2楽章ともぱっとせず、終楽章は冒頭こそ盛り上がりの兆しをみせるもののそのまま平板な表現で中庸に終わる。音源の状態も悪いのだが、同曲の演奏はどんなものでもそれなりに盛り上がるもので、このオケを使ってこの軽い調子はいかんともしがたい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第5番,コンドラシン指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(PHILIPS)1976/11/21LIVEシベリウスにしては表現主義的な演奏だ。エキセントリックというか、コンドラシンの物凄い集中力が、このような優秀なオケにかかるとここまでイってしまうのか、といった感じ。深い思索性に欠けるかもしれないし、客観的すぎるといえばそうかもしれない。突き放したような音作りは、しかしシベリウスの表現としてはありうると思う。ただ、いくぶんの娯楽性を伴った同曲(いろいろな作曲家へのオマージュが散りばめられている、らしい)に対して、このような直線的で乾いたアンサンブルは、余りにシブい!もっとしっとりとした情感がほしい、と思うところもある。また、録音バランスが偏っているのか、弦楽が響いてこないのもマイナス要因ではある。和声が綺麗に響かないのだ。これはシベリウス的には困る。最後はなかなか雄大に決まるのだが、拍手は平静なものでとりたてて大きくはない。そうだろうなあ、という演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第5番,コンドラシン指揮北ドイツ放送交響楽団(TOE:CDーR)1981/1/26コンドラシンのライヴでシベリウス、となると違和感があるがけっこう聴ける。集中力の高さが要求されるクライマックスでは盛り上がる。録音バランスがやや安定しないのがCD-R盤の難点だが、何よりオケが巧い。ヒンデミートの気高き幻想と同時に録音されている珍盤だが、ヒンデミートも良い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第5番,チェリビダッケ指揮スウェーデン放送交響楽団(WME:CD-R)1972/1live,,音響が綺麗でワグナー的な構築性を強調した演奏ではあるのだが、、、ノれない。多分に録音音質の問題はある。終楽章のクライマックスで音が途切れ途切れになるのはいただけない。録音の問題で無印より上にしようがない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第5番,バーンスタイン指揮ロンドン交響楽団(GNP:CD-R)1975/8/13LIVE豪快な表現、精妙な表現入り交じり起伏に富んだ演奏であるものの、全体としてまとまった感じがせず、演奏の「勢い」とは逆にちょっと首をひねってしまった。シベリウスを別の作曲家〜たとえばチャイコフスキー〜として演奏してしまっている。シベリウスはドイツ的な部分とロシア的な部分を併せ持った多面的な作曲家であるが、その音楽は案外演奏者を選ぶのだ。バーンスタインの手法は今一つ曲の性質と噛み合っていない。凡演とは言わないが、佳演とも言い難い。そういう演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第6番,◎クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ROCOCO)live?・LP,,名演。この活き活きとしたオケの躍動、立体的にしてバランスのいささかも崩れない音響を聞け。モントゥもミュンシュもクーセヴィツキーの訓練したBSOなくしてあの活躍はありえなかった。誰がクーセヴィツキーは指揮下手だの楽譜が読めなかっただの言い出したのか(重層的に五線の居並ぶスコアの読めない指揮者に現代作品がやれるわけがない、シゲティが譜読みが苦手だったというソリスト話とは違うレベルだ)。シベリウスの6番をここまで細部まで彫刻し尽し、なおかつ噎せ返るような響きの中に「弦楽合奏ここにあり」といった引き締まったアンサンブルによりスピーディに力強く描き出せた人間はかつていたとでも言うのだろうか。トスカニーニの時代に(ストコは余りに期間が長く世代も後なので置いておいて)ボストンという土地に覇を張ったコントラバスの名手にしてロシア人指揮者の真髄が、少なくともこの録音にはある〜ロシア人指揮者というイメージよりも寧ろフランスなど周辺国作品を得意とした現代指揮者というイメージが強いし正しいと思うが。シベリウスは木管はソロ旋律こそあれ後期になると殆ど弦楽アンサンブルが中心になり、ブラスなど合いの手やクライマックスで斉唱するくらいのぞんざいな扱いを受けたりする。だからこそ、亡命演奏家の多く西欧色の強いこの土地にあって、弦楽の国ぐにである東欧からの直輸入の演奏レベルがクーセヴィツキーの掌中に入ってきた、その結果がこのスピード、ダイナミズムにして細部まで完璧に弾きこまれた統制のとれた演奏に結実している。とにかく弦楽器弾きとして、この弦楽器の響きにはとても魅了されるし、6番というウラ名曲とされる作品の中にそれが如何に重要な位置を占めているか、改めて気づかされた。終幕、クーセヴィツキーの静寂はRVWの静寂に似て、現代的な金属質の「間」の美学に近いものがあるなあ・・・と終幕にて思ったり。ライヴではない可能性がある。録音はクーセヴィツキーにしてはなかなかいい。◎。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
シベリウス:交響曲第6番,○シュニーヴォイト指揮フィンランド国立管弦楽団(EMI,TURNABOUT)MONO少々雑なところもあるが、締めるところはきちっと締めて充実したアンサンブルを聞かせている。シベリウスの独特の書法はとくに弦楽器の緻密なアンサンブルにあらわれている。奇妙なリズム、フレーズの繰り返しが難しい楽曲だが、要所要所はしっかり響くようにできているのはさすが。力感溢れる演奏スタイルは終楽章のダイナミックな表現に結実している。かなりテンポ変化が大きくつけられているが、それ以上にヴァイオリンのカンタービレが美しい。後期シベリウスの白く清澄な世界を幾分人間らしい世界に呼び戻したようなスタイル、と言ったらいいだろうか。けっして良くない録音だが、聞きごたえはある。ちょっと生々しすぎるというか、もう少し幻想的で繊細な音楽を紡いで欲しい気もするが(静かに終わる終楽章の最後など)この録音では仕方ないか。シベリウスは国民楽派の範疇に入るがその後期においては民族的な色彩が殆どなくなり、ある種現代音楽に足を踏み入れたような抽象的な作風に至る。しかしその楽想は極めて個人的な、楽観的で牧歌的なものに限られてきてしまうため、音楽としての内容が少ないというか、小さく地味な作風になっていったような感じだ。6番を聴くと5番の構成感との関連性を強く感じてしまう。ぼーっとしていると、あれ、どっちが5番だったけか、とか思ってしまうかもしれない(まあ無いけど)。うーん、魅力的では有るが飽きる・・。すいません、個人的な感想ですのでスルーしてください!,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第6番,○ビーチャム指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1952/1/27,,俊敏で颯爽としたシベリウスを得意としたビーチャムだがこじんまりまとまってしまうきらいもある。ただ、シベリウスというのはそんなにヤワな作曲家ではないので元来持ち合わせているロマン性が芯となってしっかり支えてくれるので「雰囲気音楽」に終始することはないから十分に面白い。ビーチャムはとにかく速い。そして細部のアンサンブルが非常にきっちり組み立てられ、尚且つ水際立ったリズム感が持ち味である。ボストン(のとくにヴァイオリン)はまるでイギリスオケのように柔らかく繊細な表現をとっているがブラスがやや鈍重な響きをもち、盛り上がりどころではドイツ的な低い音響を中心に展開していくが、6番という3、5番のアマルガムのようなこの楽曲においては、あるていどこれで楽しめる要素はある。ちょっと散文的で叙述的になるきらいはあるが、7番への橋渡しとして考えればその有機的な構造にも理解できる要素はある。人好きする楽想が多く、案外古典的なまでに単純で端整簡潔な書法が見られるので、とくに高音を中心とした意外なほど正統的な響きの美しさを聴こう。ビーチャムのバランス感覚がよくあらわれている。静かな謎めいた終幕は通り一遍の拍手を呼んでいる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第6番,ロスバウト指揮ケルン放送交響楽団(ica)1952/4/21・CD,,真の万能型指揮者で、現代音楽指揮者にありがちな即物的解釈、逆に極端に恣意的な解釈は施さず曲に適したスタイルで、きちんと聴衆に聴かせる音楽を作る。最も活躍した時期が50年代前後なのでモノラル録音が多く、セッション録音も少ないばかりかきらびやかな色彩性に重きをおかないため真価を伝えられていないものもある(モノトーンのつまらないメシアンなど)。牧神のライヴ録音が絶妙の起伏を作りすぐれていたおぼえがあるが、響きにおいてみればあのくらいの淡彩、後期シベリウスくらいの色調が合っているかもしれない。歩調は確固たるものがあるものの独欧風の重さがなく、そこも後期シベリウスに合っている。,,すなわちこの演奏は良かった。弦の弱いオケにここまでグイグイともってこさせ、合奏音楽としてしっかり組み合わせてなお強引さは感じさせず、地味な同曲の少し言い淀むような進行をアンサンブル、微細な和音進行の明晰な表現によってしっかり聴かせてゆき、爽快な終楽章をもって完結させる。オケコントロールの上手さ、アンサンブルの鍛えっぷりは今更言うまでもないが、バーデンバーデンのオケでなくてもここまでできるのである。モノラルで篭もる感じもあるかもしれないが情報量のある録音なので再生側でなんとかすればゴージャスに聴くことも可能。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
シベリウス:交響曲第7番,"",○ガラグリ指揮ドレスデン・フィル(BERLIN CLASSICS/ETERNA)CD,,重厚でワグナーのような響きにガラグリの晩期シベリウスの評判が悪いこともわかる気がする。この繊細な曲にじつにそぐわない無骨さが特徴的な演奏だが、思ったより悪くないのだ。ようは1、2番をさばくやり方で7番をやっているのである。弦楽器の奏法からまるきり変えて挑んだバルビが目を円くするような、一本気な野武士のやり方なのである。だから、晩期のシベリウスがわかりにくい向きは、多少の荒さはあるにせよロマン派的にわかりやすい解釈には馴染める要素はあるのだ。私も大変純粋な未来指向の音響と精密な構造をもった曲だとは思うが好き好んで聞くのは初期二交響曲だからして、まったく違う曲と認識すれば間違いなく楽しめるのだ。響きに軽さはなくとも、不協和音は十分な長さと、明確な遷移をもってしっかり認識できるからこちらも面白い。まあ正統ではなく変なやり方ではあるが昔よくあったスタイルをも彷彿とさせる点でも懐かしい。○にさせて下さい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
シベリウス:交響曲第7番,"",ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1965/7/30live 放送,,驚くほど後期シベリウスになっている。壮大なクレッシェンドの音楽。いつもの性急なミュンシュはここにはいない。強奏が強すぎることもなく、弱音は繊細な配慮が行き届いている。この解釈にアンサンブルの乱れはありえない。音色的にブラスに気になるところはあるが、弦は素晴らしく、終盤の長い音符での詠嘆の表現にはミュンシュではありえない感傷的なものを感じる(感情的ではない)。良好なステレオ録音(右側からヴァイオリンが聞こえてくるのは苦笑するが、高音は右、低音は左という感じ)であることも同曲を聴く必要条件を備えており、ほんとにミュンシュか?と思ったらトゥッティでヴァイオリンが振り下ろすときいつもの掛け声が聞こえた(最後のナレーションでもしっかりミュンシュと言っている)。光明の中に静かに消えていく音楽もまったくシベリウス的で、クーセヴィツキー以来の伝統というべきか、いや、クーセヴィツキーのシベリウスは前期交響曲的な物語性を持ち込んでいた、これは永遠に綴られゆく音詩である。いいものを聴いた。聴衆反応はやや良い。,,※過去に真逆の感想を書いているのでご興味があれば。聴取環境によって違って聴こえるということだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
シベリウス:交響曲第7番,○オーマンディ指揮ACO(RCO)1969/11/27live・CD,,ボックス4集所収。重厚壮大な、オーマンディの力強いシベリウスを聴くことが出来る。こういうのを聞くとほんとうは「どっち」が正解なのか迷う・・・このようにドイツ的な部分を多分に残した「交響曲」として起承転結をはっきりつけて(曲的にははっきりつけられないし、そもそも循環形式でもあるが)やるべきなのか、バルビなどのように半ば「交響詩」として印象派的な軽い響きを尊重しなめらかに壮麗に、イマジネーティブにやるべきなのか?ドイツ的というと語弊があるがオケのせいも多分にあるだろう。こんかい全体としては晩年懇意にしていたシベリウス本人も納得したであろう出来で非常に感銘をうけたのだが、中間部(この曲で特定箇所を文章で示すのは難しい・・)で弦楽アンサンブルが非常に乱れる箇所があり、それ以外にも恐らく奏法的な問題かとは思うが(弓元でガシガシ刻むやり方はアンサンブル総体としてテンポやリズムがずれやすい)乱れる箇所はいくつかあり、ホール残響でごまかされてはいるものの◎にはできないレベルのものと思う。凶悪と書くと語弊があるが、とにかくひたすら引きずるように重い響きがテンポを乱れさせはするものの中間部主題が高らかに謳われるとぴたり合ってきて、しかし重いボウイングに発音、またオーマンディの和声の緻密綿密重厚な整え方は変わらず、いい意味で力づくな感じを受ける。弦は恐らくかなり増強されていて編成が大きいと思われ、乱れはそこに起因するかもしれない。しかし、オーマンディはつくづくヨーロッパでもっと振るべきだったと思う。フィラデルフィアは一種枠内にオーマンディを押し込めてしまった。実演の凄さには録音はとうていかなわないそうだが(私も実演は聴いていない)、そもそもフィラデルフィアである以前に「オーマンディとして」このような客演を聞いたかたはどう思ったのだろう?,,出身地の近さとヴァイオリン出身であることが強みというか、シベリウスを振る人はやはりソリスト級の弦楽器出身だと迫真味が違うなあと思った。クーセヴィツキーもバルビローリもそうだ。ヴァイオリニスト・シベリウスの本領は、作曲的晩年にいたっても依然として弦楽器にあったのだ、と改めてこの弦楽器主体のアンサンブル曲を聞いて思った。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
シベリウス:交響曲第7番,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(DA、vibrato:CD-R)1948/12/17(1945/10/13?)live,,同曲の解釈的には特異だが、ロマンティックな性向が強く出ており、重量感力感溢れる音で、起承転結をはっきりつけて歌い上げてゆく。ブラスに無理な息の長さを要求する曲なのでさすがのボストンでもこのやり方で粘られると乱れを招き、前半に難のある箇所があるが、最後は感動的なフィナーレといった風情だ。録音はクーセヴィツキーのライヴとしては普通。聴衆反応は通り一遍。既出かもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第7番,○ゴルシュマン指揮セント・ルイス交響楽団(RCA)1942・LP,,確かに録音は悪いのだが、色彩的でもけして軽くはなく、比較的ロマンティックな動きを交え盛り上げていく。ゴルシュマンは前時代的な部分を大事にしながら近代曲に取り組む。それは耳にやさしく、聞きやすいものだ。シベリウスの7番ともなるとどうしても新しい録音に分がある。だが、この時代はこういう演奏が行われていたのだ、威勢のいい、力感に溢れた演奏にも耐えうるしっかりした交響曲なのだとも思わせる。同様の嗜好を持つミュンシュなどに比べるとオケの差もあり少し雑然とした部分も否定できないがそのぶん、ラテン的な開放的なまとめ方が、音に含まれる情報量や質に制約を設けないから、いろいろな聞き方を許す。「ついていけないや」が減るのだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第7番,○ザンデルリンク指揮ACO(WME:CD-R)1990's,,重厚壮大なシベ7で、純粋に繊細で透明なアンサンブルを聞かせるよりも、初期テイストを残したロマンチシズムの中に可能性を広げるといった一昔前のドイツ流儀の解釈を重々しく展開している。そのため美感という点で後期シベリウスの磨き抜かれた書法を純粋に味わいたい向きには物足りなさと違和感を覚えさせるところもあるだろう。しかしこれは「交響曲」と名付けられてしまったのである、このくらいのスケール感が欲しい思うのも道理、「交響的幻想曲」ではないのだから、しかもじっさいこうやって効果的に響くのだから、こうやるのも邪道とは言い切れない。現代的ではないところにザンデルリンクの魅力はあったのだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第7番,○ストコフスキ指揮ヘルシンキ市民管弦楽団(DA:CD-R他)ヘルシンキ音楽祭1953live,,ストコフスキの強靭で意思的な流れが本来繊細で細かい変化を愉しむようなところのある後期シベリウスをブラ1のような派手な交響音楽に仕立てているのが面白い。スピードも速く響きは旋律に集約され極めてわかり易いのは事実だ。しかし、録音は極めて悪く鑑賞に堪えない(DA)。,,"(参考)ストコのシベリウスはやはり初期が人気があるし現役盤も多い。ライヴならこれか。
Sibelius: Symphony No. 2; Tchaikovsky: Sleeping Beauty Suite; Beethoven: Egmont Overture

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シベリウス:交響曲第7番,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(CO)1965live・CD,,クリーヴランド管弦楽団ボックス収録の音源だが他で出ているかもしれない。わりとミュンシュ的なところがあり、アンサンブルの妙を聴かせるよりも全体の流れを聴かせる、旋律的な力強い演奏になっている。もっともミュンシュよりは寧ろライナーに近いというべきだろう、厳しくスコアを音にさせるよう鍛え上げた演奏であることも聴き取れる。たとえばバルビローリら(バルビローリも旋律寄りになりがちではあるが)がやっていたような、いわゆるシベリウス的な精妙な響きに主眼を置き雰囲気音楽的に聴かせる演奏とは違っており、これを聴きやすいととる人は2番のような曲が好きなのだろうな、とも思った。録音はよい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第7番,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(CO)1965live・CD,,録音状態がよく、セルのヨーロッパ的な側面もよく聴き取れるというか、意外と重みある響きとスケールの大きな盛り上がり、そこにライヴ的前進力の加わる程よいマッチングを楽しむことができる。シベ7の演奏にはバルビローリのようにいわゆる作曲家晩年スタイルに沿った形で遅いテンポと透明感を保ちアンサンブルの妙を繊細に示していくやり方が適していると思うが、ここでは2番や5番を思わせる「まっとうな交響曲のやり方」に近い、力強さを示すような表現が通されている。しかし不自然さはもちろんない。もっと古い指揮者の大づかみにまっすぐ突進するような解釈ではなく、音符を緊張感の中すべて表現し尽くすようにしっかりと、なおかつ力感の不自然さや不恰好さを排除し、結果深く印象的な聴感をのこす。結構な名演であり、客席反応は穏やかだが、もっと聴かれていい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第7番,○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(EMI)1955・CD,,雄坤でスケールの大きい演奏で、前期シベリウスを聴くような感じがする。録音のよさもあるが晩年らしさを感じさせない若々しい解釈ぶりで、透徹せずロマンティックにも堕さない絶妙を得ている。オケも力強い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第7番,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1965/7/30LIVE,,良好なステレオ。完全にロマンティックなシベリウスになってしまっているが、まるでクーセヴィツキーが蘇ったような迫力、力感で希有壮大にひたすら歌い、内声細部の難しいパセージやアンサンブルはとうぜんそんな方法ではがちゃがちゃ崩れたりもするわけだけれども、同傾向の曲であるRVW8番のときと似たような、どこか強くひきつけるもののある解釈の説得力が発揮されている。RVWよりはやりやすいというかオケにも要領がわかっているというか、ガラグリあたりに似ているというか、初期シベリウスとして聴けば感銘は受ける。没入のあまり最後近くの溜めで大きな力みを声に出しているミュンシュだが、盛り上がりのわりに聴衆は冷静な拍手ぶりにもかんじた。聞きごたえは保証。○。今思えばRVWもなかなかの力演で悪くはなかった、録音が悪かったんだなあ。,-----,,,,,,,,,,,,,
シベリウス:交響曲第7番,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(victor/melodiya)1965/2/23livealtus盤について無茶苦茶書いたが、この古い録音は抜群の音響バランスでその真価を再び問うてきた。ブラスの艶めかしい音色、弦楽器の懐かしくも熱気溢れる音の力にまず度肝を抜かれた。古い録音がゆえに録音に妙な生生しさがあり、それがここではプラスに働いている。全編アンサンブルの饗宴といったかんじで、末期シベリウスの精妙な味わいとは無縁の演奏ではあるが、これを認めないわけにはいくまい。最後のアーメン終止?が決まるまで、固唾を飲んで聴き込んだ。ムラヴィンスキーの棒の力に、また打ちのめされてしまった・・・。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第7番,オーマンディ指揮ACO(eternities)1969/11/27live,,オケ名は正しいのだろうか。どうりで底から唸り上がるような響き、最後の下品なペットの叫び(失礼)はいつものオーマンディではない激しさを示す。フィラデルフィア管の良い意味でも悪い意味でも安定した個性からはなれ、オーマンディは時折こういう客演記録が出るが、いずれ少し面白く感じる。この人はもっと客演をしたら評価は変わっていたのではないか。けして爆発的名演ではなく客席反応も比較的普通だけれど、ミュンシュ張りの凝縮力も含めて、ドイツ的な音が出ているのが面白かった。東欧の人だし、内面までアメリカナイズされてたわけでもないんですよね。しかもヴァイオリニスト出身だから弦のドライヴっぷり、統制がとれている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第7番,ケンペン指揮ヒルヴァーサム・オランダ放送フィル(TELEFUNKEN/PASC)1950/5/11,,pristineは最近発掘ものがなく板起こしばかりで、このグリーグと組み合わされた一枚もそうなのだが、私のようなすれっからしは手が伸びなくなっていた。しかしさきほどプレートルのRCA録音(シベリウス)全復刻のニュースを聞いて、たまたま毎週のDMが来て、じつは一緒に入っている五番はSPで持っていて(メモに「凡演」とある)ところがこちらは「最速の演奏なのではないか?」とあり、16分13秒という。たしかに録音年代が没年も近く新しいもので、スタイルが変わっている可能性はあり、オケは当時もケンペン以外でも聞くそれなりの老舗、腕は確か。ケンペンがマーラーでみせた活き活きとした力強さがロジンスキのような強引な突き通し方ではなく(ロジンスキに同曲はあったっけ?最速といったらロジンスキこそやりそうだ)ちゃんとシベリウスの「組み立て」を音楽的に構成してドイツ的な部分も併せ持った七番をやりそうである。。。で、ペール・ギュントもたまたま聞きたかったので買ってみた。,,いや、さすがpristineの復刻で音は最高に聞きやすい。ひょっとするとLP原盤かもしれないがノイズはない。迫力もあるが音色が美しい。スピードがないとこの曲はダラダラ単一楽章を垂れ流して終わってしまう、印象を与えかねないが、これはクーセヴィツキーのような引き付け方で耳を掴み離さない。まあとにかく、後半がスピードどうのこうのではなく説得力がある。なかなかの演奏でした。ロジンスキ的な断ち切れ方かもしれないが、そこまでの道のりが違う。シベリウスをちゃんと理解して、人様に聴かせる配慮を尽くしている。機会があればどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
シベリウス:交響曲第7番,バルビローリ指揮ヘルシンキ交響楽団/SLS)ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホール1965/9/13LIVE・CDinta glio盤に録音日記載なしだがSLSと同じと思われるためそちらのデータを追記した。バルビローリはたとえばムラヴィンスキーとは対極の演奏をする人で、各楽器パートのかけあいや主張しあいを棒で交通整理するという芸風ではなく、総体の響きをととのえ、あくまで楽曲の要求するスタイルを追求する芸風である。ハレ管との非常に有名な全集では、1番から7番という順番のとおりに録音を行い、シベリウスの作風が変化するに従って楽団員の奏法を変えさせていき、最後には1番を演奏した頃とは全く違う音を発するようになっていたそうである。これはヘルシンキのオケという少々部の悪い(まあ「正統」ではあるのだろうが)楽団を前に振ったライヴで、バルビローリらしい壮大で一種印象派的な茫洋をも伴った演奏に仕上がっているが、楽曲全体にかけられた巨大なクレッシェンドの松葉が余り効果的に響いてこず(録音のせいかもしれない)、結果的にアーメン終止?がどこにあるのかわからないままいきなり断ち切れたような感じをおぼえる。音楽の流れは非常に良いのだが、どこへ向かっているのかわからない。これはそういう演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第7番,ビーチャム指揮ヘルシンキ・フィル(ONDINE)1954シベリウス週間 端正で即物的ですらある解釈に違和感を覚える。情緒的解釈より古典的な形式感を重視したような演奏。解釈はそれはそれでいいのだが、オケが荒い。こればかりは仕方ない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響曲第7番,ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(BBC)1954/9/16プロムスlive・CD,,モノラル録音で音場も狭いのが困ったものだが積極的に聴こうとするとロイヤル・フィルのむせ返るような音とスマートだが適度に意志的なビーチャムの「中庸の美学」に貫かれた、晩年であることを感じさせない演奏で、シベリウス受容国としてのイギリスで、後期シベリウスのあるべき姿を見本的に描いた演奏として受け止められる。迫力とか演出とかいったものとは無縁の職人的な解釈で、それだから活きてくるシベ7の特殊性、構成の特殊な、交響詩的なまとまりを感じさせ、無理して交響曲のように盛り上がりを作り上げていくことはしない。好悪はあるとは思う。小粒は小粒、だが録音のせいかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第7番,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(SLS)1957/10/4live,,モノラルで音も状態も悪いが演奏はミュンシュらしい力強いもので聴き応えがある。ミュンシュはシベリウスをあまりやらなかったがこれは共感をもってやっているように思える。オケをうねるようにドライヴし、細部まで攻撃的な発声を徹底し前のめりの姿勢でシベリウスの男らしい一面を非常にはっきり抉り出している。一寸聴きわからないマニアックな仕掛けを施す後期シベリウスだが、プロが普通にやればその効果的な書法をもって何もしなくても盛り上げることは可能だ。ミュンシュはシベリウスの引いた部分の美しさより、押している部分の説得力により真価をひたすら問うてくる。ラストのコーダ的な部分を含む「長大なディミヌエンド」はフランス物でみせる余韻のある響きから再び大きな山を作っている。これは構成的によくわからない印象をあたえ、好悪分かつかもしれない。聴衆反応は今ひとつだが、少なくともミュンシュはのっている。無茶苦茶歌っている。既出盤と同じ可能性はあるがデータはことなる。併録のマーラー10-1はMEMORIES、プロコフィエフ7はDAと同じ音源。後者録音はシベリウスより良くない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響曲第7番,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ALTUS)1977/10/19NHKホールLIVE録音があまりよくない。録音座席の位置のせいか、弦楽器が遠くぼやけて聞こえ、一方ブラスは耳をつんざくほどに大きい。精妙な後期シベリウスの音楽をたのしむには余りに無骨な録音だ。衣擦れの音なんかも入っている。それら要素をのりこえてムラヴィンスキー芸術そのものを聞こうとすると、そこには何も無い。シベリウスはムラヴィンスキーにあっているのか?別にレニングラード・ライヴの記録も残っているが、話題にならないのはそれだけの音楽だったということの証しではないか?残念ながらこれは推薦できない。併録の「くるみ割り人形」を聴くべきCDだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シベリウス:交響詩「エン・サガ(伝説)」,コンドラシン指揮ACO(eternities)1971/1/14live,,推敲を重ね改訂までして創り上げられた緻密な交響詩で、明確に構成的であるのにテクストに基づかないのはとても理解しづらいのだけれど、国民楽派シベリウスの真骨頂としてカヤヌスを皮切りにそうそうたる名指揮者がレパートリーにしてきたこともあり、この演奏もそうだが「有無を言わさない」。迫力あるシベリウスらしいドラマはコンドラシンの北方的な力感にマッチしており、オケも国民楽派なら中欧ロマン派音楽のうちにあるので音響やリズムに戸惑わされることもなくしっかり、威勢よくやっている。両端の陰鬱さがドライで心情的な部分に訴えてこないのはシベリウス自身の若き悩みが反映された作品として演出力に欠けると言えなくもないが、それでも一気に聴けるのは逆説的に曲がよく出来ているからでもあろう。この個性的な作品をマーラーが振らなかったのは残念。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:交響詩「タピオラ」,○アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(DECCA)1963/11・CD,,描写的な部分を含む和声音楽音響音楽を指向するシベリウスがフランス印象派に接近したのは当然の帰結である。未だロマン派的作風を保ちながらも後半において繊細な響きのうつろいによる抽象的な世界を描こうとするさまはまさにドビュッシー以降のものであり、アンセルメは的確にとらえフランス風の仄かな軽さを持ち込んでいる。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
シベリウス:交響詩「フィンランディア」,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(DA、vibrao:CD-R)1945/12/8live,,ヴァイコンの前プロとして組まれたもの。合唱無し。比較的そっけないほうの演奏かもしれない。音は分厚く歌は無骨で男らしい魅力のある演奏になっている。ブラスは十分に力強いが派手ではなく、求心力が過剰というわけでもない。録音がやや遠いせいかもしれない。聴衆もおとなしい。既出か不明。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シベリウス:悲しきワルツ,○ケーゲル指揮ドレスデン・フィル(delta)CD,,激しく厳しいワルツだ。しかし曲があっているのか、無理は感じさせず、生ぬるさのないロマンを演じきっている。短いので評価しづらいが、セカンドチョイスに向く演奏かもしれない。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,
シャブリエ:スペイン,フレイタス・ブランコ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(forgottenrecords)1959/04/17ジュネーヴlive放送,,ポルトガルの指揮者にしてフランスで活躍したブランコにとってラテン物はお手の物だろう。明るく、しかし開けっぴろげにはせず、軽快に楽しくやってのけブラヴォで終わっている。モノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シャブリエ:ブーレ・ファンタスク(気まぐれなブーレ)管弦楽編,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1953/3/27live,,派手な響き、粘りのある力強い表現、しかし途方もない前進力は求心力に裏付けられ、否応無しにグイグイ持っていかれる。ミュンシュここにあり、といった感じ。ミュンシュに向いた曲とも言え、そこに雑さや違和感は皆無。シャブリエがいかに同時代ないし次代のフランス作曲界に影響したかがわかるリズムと和声、南欧志向はただ楽しいだけではなく、十分に純音楽的に充実したものだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シャブリエ:楽しい行進曲,アンゲルブレシュト指揮ORTF(ina配信)1955/12/13live,,これは楽しいアンコールピース。心なしか楽団も開放感で楽しげだ。音色が直前のストラヴィンスキーとは全然違う。ウィーンフィルのニューイヤーコンサート的なかんじの曲に演奏でした。マダーム、マドモアゼル、ムッシュー。Amazonデジタル配信あり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シャブリエ:狂詩曲「スペイン」,○ガブリロヴィッチ指揮デトロイト交響楽団(victor/PRSC)1928/4/16,,こういう明るい曲にオケは相性が良いらしい。けして派手な演奏ではないが必要十分を満たしている。ガブリロヴィッチの指揮ではこれは好き。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シャブリエ:狂詩曲「スペイン」,パレー指揮デトロイト交響楽団(SLS)1975/8/16ミードウ・ブルック音楽祭live,,カラッと明るく透明感あるスペインだが、賑々しくリズミカルな楽曲本来の民族的内容からすると少し落ち着き過ぎの感もある。そのためあけすけなブラスなど楽団の特性のほうが目立ち耳慣れたアメリカの演奏そのものにきこえてしまう。晩年の演奏(フランスの著名な小品を集めたコンサートだったようだ)で、さすがの高速特急パレーも(ロザンタールのようにリズム感は良いのだが)スピードを緩めて、まるで気軽にやっているようで、それが良い雰囲気を醸している。ブラヴォも飛ぶ。(このSLS盤には一部情報にあるダフクロ二組は含まれていない。フランス名曲選ということでラストにボレロが持ってこられており、同じラヴェルの作品は演奏されなかったのではないか。),-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シャルドン:ルンバ,○シャルドン(Vc)ミトロプーロス指揮ミネアポリス交響楽団(nickson)CD,,何処の誰だか知らないが結構ごきげんな曲で楽しい。チェロは達者だけど深みはない、といっても録音が古いのでなんとも言えないが、○はつけておきます。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シャルパンティエ:組曲「イタリアの印象」,○作曲家指揮交響楽団(PEARL/COLUMBIA他)1928/5/9・CD,,同姓フランス有名人が何人かいてややこしいのだがこれは自作自演が残せる時代に活躍したローマ賞作曲家。マーラーなどと並んでカリカチュアが描かれるなど同時代では(短期間であったようだが)華々しく活躍したライトクラシック系歌劇作曲家である。といっても非常に手馴れた鮮やかな書法が反映され、フランクより更に古い感じは否めないものの、4曲目の近代ロシア音楽のような煌びやかな叙情はなかなかに耳楽しい。指揮者としても活躍しただけあって演奏は若干固い程度でよく統制のとれた、この時代にしてはだらけたところのないものとなっている。オケの奏法もオールドスタイルでもわりと爽やか。ビゼーあたりのロマン派音楽が好きならどうぞ。色彩性はファリャを思わせるところもある。SPはやたら沢山出ていたようだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
J.シュトラウスU:こうもり序曲,○サモスード指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP,,音色変化は少ないが音量や技巧的な変化はばっちり。それほど踏み外した発声もなく、技巧だけでいってもロシアの標準的なレベルには十二分に達している。いきなり唐突に雪崩れ込む始まり方には抵抗を感じるかもしれない。スノブ様の中にはいちいちザッツが揃わず表現の粗さが聞くに堪えないと一蹴する向きも多いと思うが、こんなの録音条件次第だ。マイクセッティングや会場設定でこのくらいのザッツの揃わなさは十分吸収されるものであり、通常客席の人の耳には届かない。その点一本マイクが固定的で弦楽に近くリアルに捉えられすぎているのである。ベルリン・フィルなりN響なり、ソリストでない弦楽器奏者の演奏を間近で聴いてみ。少なくとも20年近く前までは、お上品な人にはとても聴くに耐えないであろう雑味の多さだった。雑味を取り除くのは「会場の役目」でもある。雑味は強靭でしなやかな生命力を生み出すうえで飛び散ってしまう埃のようなもの、音響的にうまく操作すれば・・・たいていのホールでは普通に何もしなくても・・・弓の弦にぶつかる音とか指盤の軋みとか野太い音に弾かれたギリギリガツンガツンいう雑音なんて壁や天井に吸収されてしまう。そういう音を出さないと、アンプなんてものを使わないアコースティック楽器では表現できないものってのがあるのだ。大抵の曲には一,二箇所いやもっとそういう個所がある。弱弱しい音で綺麗に聞きたい耳のヤワな人は自分でそういう演奏をしてみ。人を集められたらの話だが。ちなみに、私はかつてそういうスタンスで結局ソロしかないという結論に達し、ソロとしては余りに下手すぎるので断念し聴く専門の側に回りました。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
J.シュトラウスU:トリッチ・トラッチ・ポルカ,○チェリビダッケ指揮フランス国立放送管弦楽団(VIBRATO:CD-R)1974/10/25シャンゼリゼlive,,同日のアンコールの最後の曲。アンコールらしく雑だが激しく楽しい表現の続く最後にあたる。確かに単品としてはどうかという雑さだが(録音もクリアだがエアチェック状態がよくない)、アンコールとしては最高。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
J.シュトラウスU:ワルツ「ウィーンの森の物語」,○サモスード指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP,,序奏部は軽音楽に止まらないリッパな後期ロマン派管弦楽曲の世界だ。ホルンソロの美しさ。フルートのかもす朝の空気。グリーグやディーリアス的ですらある。そこからヴァイオリンソロでそくっとさりげなく始まるワルツにはぞくっとする。このひとの曲は新しい。クラシカルでアカデミックなロマン派音楽のそれではない。人々の心を捉えたのは魅力的なリズムと旋律と用途+イメージだけだったのだろうか。この美しい序奏・・・ロシア国民楽派の、特に折衷派チャイコフスキーが憧れた高音域だけによるハーモニックな旋律に通じるもの。ロシア国民楽派と呼ばれる一派はプロコショスタコ大好きさんたちに言われるほど頑迷でアマチュアに拘った集団ではなく(そんなのスターリンのイメージにすぎないし時代が半世紀以上違う)、元々ペトログラード楽派(五人組ら独自性を求めた陣営)を中心としたロシア国民楽派の人たちは、本業とウォッカ以外の人生の全てを西欧の伝統的な・・・とくにハイドンやベートーヴェンといった源流部分の・・・音楽の研究についやし、室内楽で実験を繰り返し、そのうえで革新的な表現を求め同時代の前衛であったワグナーらの手法を取り入れるとともに民族音楽の世界に足を踏み出し、ナショナリズムの風を受けてリストの轍を踏み自国の民謡収集から初めて「新しさ」とはどう表現すればいいのか、その源泉は実は足元にあったのだ、ということに気づいた。それはさらにムソルグスキーなどの天才の手によって昇華され、アカデミズムとの拮抗に悩む若きフランス楽派に核心的なインスピレーションをあたえ、結果的に世界の音楽地図を塗り替えた。モスクワ楽派(ルビンシュテイン、チャイコら折衷派と言われた西欧寄りの陣営)とて外から見れば五人組から遠いところには決していない。長い作曲家の人生の中で作風だって変わる。チャイコの初期曲は五人組に模範とさえ言われた。辺境に多いシベリウス至上主義者たちだって政治的に迫害を与えたロシアそのものからの根本的な影響を否定はできまい。ナショナリズムを大管弦楽によって高らかに宣言したのは(伝統的なドイツイタリア以外では)ロシアが初めてなのだ。西本某がロシアオケを振ってフィンランディアを演奏しているCMを見て奇妙な感覚を覚えつつもそのあからさまな表現手法のベースにロシア国民楽派のやり方があることを感じる向きはいなくもないだろう。ヨハン・ユリウス・クリスティアンさんが純粋なフィン族と言えるのか疑問を投げかける人もいる。フィンランディアが最初から民族鼓舞のために作曲されたものなのかという人もいる。そんなとこまで網羅したうえで(そんなのどうでもいい雑音だとは思うが)まだイデオロギー的な口ぶりでロシアを否定するマニアはもう100年前までタイムスリップしちまえと言いたいところだが極東の黄色猿が言うことでもないのでこのへんにしておく。だいたい私もド素人だ。・・・何の話だ。,,ワルツ部分は有名なものだが、それより室内楽的な部分でのさすがロシアと思わせるアンサンブル、弦楽器のウィーンより深い音色に感動しました。リズムを多少ズらしているのも意外。まあ、「多少」であり、けしてウィーン独特の体感的ズラしとは違う機械的なものではあるが(否定的に書いてるけどオーストリア以外のオケは大抵そうだ)。上品に踊れるがいささか遊びはないリズム。ただ、音楽として非常にまとまりよく、オケの力量が発揮された・・・特に音色と各パート、ソロ楽器の実力において・・・そのへんのガキが文句付け様の無い立派な(この曲に似合わない形容だが)演奏だ。ロシアなめるな。ボントロが野暮ったいって?あんたの音のほうがよっぽどみっともないわ(暴言)!楽想の多さのわりに大規模?管弦楽曲的な楽しみは少ない素人聴きカオスっぽい曲ではあるが、好きな人はどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
J.シュトラウスU:ワルツ「春の声」,○サモスード指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP,,いきなりハスキー。思ったより上品で音量表現の幅もあるがどこか粗野。強引なところが好き(キモワル)ロシアの軍人たちが地響きをたててワルツを踊る。まるで機械のようでいてしかし踊り自体は迫力に満ちている。とにかく生命力に満ちている、そんな演奏である。最初はウィーンふうのリズムの崩しが全く無いためマゼールのニューイヤーを聴いているようなつまらなさ(失礼)があったが、これだけ強い発音でしかし俊敏にリズムをとられると身を揺らすということは無いが思わず身を乗り出して聴いてしまう。ロシア国民楽派じゃないから清新な転調やスマートな楽想が脂を中和してくれている面もあるだろう。いや、脂は無い・・・。サモスードは割合とスマートなほうの指揮者だ。ガウク=スヴェトラ系とは違う。パシャーエフ=ヤンソンス父ともまた違うが・・・だいたい時代が違うのだが。ちなみに=は師弟関係を意味しているわけではないので念のため。わかりやすいよういーかげんに分類しただけです。いずれにせよリストの即興旋律が大元であることを考えると、リストの多大な影響を受けたロシア国民楽派と遠からずの縁にあったわけで、シュトラウス的な世界を毛嫌いする私もなんとなく違和感なく楽しめたのはそんなところにもあるのだろう。レコードでよかった。見た目の先入観がないから。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
J.シュトラウスU世:こうもり序曲,○クレンペラー指揮ロス・フィル(SYMPOSIUM)1945/2/11LIVE,,俊敏で機微もしっかり押さえたワルツぶりでドイツ流儀にしてはかなりさまになっていて驚いた。醒めた音にアーティキュレーション指示のなさはともかく、ドライブ感はあり、オケのやる気とあいまって何やらウィーンニューイヤー的な祝祭性をかんじる。とにかく速いしオペレッタですよ。オケ、このころはまだうまかったんだ。,-----,,,,,,,,,,,,,
シュトラウス親子:ピチカート・ポルカ,○チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル(ALTUS)1986/10/15東京文化会館LIVE・CD,,地味なアンコール2曲目だが、締めにはいい軽さかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シューベルト:軍隊行進曲(ピアノ三重奏編曲),○サモンズ(Vn)スクアイア(Vc)マードック(P)(COLUMBIA)SP,,素直に楽しい編曲で、学校の音楽教室のようなものである。だが豪華な面子だ。どうやってもスカスカになりそうなものだが、弦二本がリズムを威勢よく煽りながら雄弁に主張して、ピアノ伴奏とのバランスをとっている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シューベルト:軍隊行進曲(室内楽編曲),○サモンズ(Vn)スクアイア(Vc)マードック(p)(COLUMBIA)SP,,ヴァイオリン、チェロ、ピアノトリオのための編曲、とあり、もっと編成が大きく聴こえるのだが録音状態や再生状態のせいかもしれない。実に音楽室的な音楽の音楽室的な編成による演奏で、でもここまでパキパキリズムをとって演奏できたら聴くほうも楽しいだろうなあ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シューベルト:交響曲第8番「未完成」,○メリク・パシャーエフ指揮ボリショイ歌劇場管弦楽団(melodiya)LP,,この楽曲について書くことはないと思っていたのだがメリク・パシャーエフが余りに復刻されないので思わずこんなものも挙げてみたりする。中古盤としては見ない盤じゃない。ムラヴィンスキーのギチギチな音楽に立つ瀬がないと感じるならばこのくらいの柔らかい表現のほうがいいだろう。歌謡旋律のさらっとした、暖かな表現には品のよさが漂う。2楽章では木管の清澄な響きやそこはかとない感情、穏やかなテンポやゆるやかな表情付けに癒される。ロシアならではのアバウトさというか、ちょっと甘さやバラケを感じる部分もありパシャーエフらしくないなあとも思うが、オケの特性もあるゆえしょうがない。弦楽器主導型のロマン派前期の楽曲で、プルトの多い旧来の編成だとなかなかねえ、まとまらないし。繊細な音楽を巧く紡ぎ出していて、過度に情に流されることはなく、ベートーヴェンよりはモーツァルト的な演奏に思うが、それでも警句的な表現になると厳しいアタックと豪快な弾きっぷりにロシアらしさが現れてダイナミズムに欠けることもない。中庸というと悪いイメージがついてしまうので、バランスの指揮者だと前も書いたおぼえがあるが、西欧に通用するくらいの技を持っていただけに国外で活躍できなかったのは惜しい。ゴロワノフもそうだが歌劇場を中心に活躍したソヴィエト指揮者の復権は(オペラや伴奏指揮を除けば)今もって不十分なままだ。パシャーエフはマジメで立派。プライヴェート盤でCD-R復刻する気持ちはわかります。豪快怪物指揮者好きには受けないでしょうけど。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シューマン:トロイメライ(ワイナー編曲),○レナー四重奏団(COLUMBIA)SP,,編曲は1stの独奏にリズムとハーモニーを重ねる伴奏三本というありきたりの簡単なものだが、そのぶんレナーのヴァイオリニズムを楽しめる。オールドスタイルのボウイングにフィンガリングで、ニュアンスがとても懐かしい、今は聴けないであろう「卑近な音楽」が魅力的。音域のせいもあるがヴィオラを思わせる深い音色には金属的なものがまったく感じられず、まさに蓄音機から流れ出すのにふさわしい演奏。主張やアクの強さは無いものの、素直に落ち着いて聴ける、そくっとした演奏。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シューマン:交響曲第2番,○エネスコ指揮NYP(DA/Lanne他:CD-R)1937/1/31LIVE,,エネスコの指揮は非常に達者。録音が悪すぎて音色は余りわからないし途切れやヨレも多いが力があるので聴ける。1楽章などフルヴェンを思わせる中身のある突進。とにかくがしっとアンサンブルが乱れない。緩徐楽章はわりと静かに落ち着いている。聴き進めるにつれ寧ろE.クライバーに近いかもしれないと思う。躁鬱な終楽章は少しテンポが重いが往年の演奏らしい歌ごころが強く打ち出されている。NYPだからわりと音がニュートラルに聞こえるのか。中々のしっかりしたフィナーレ、ベートーヴェン的なしつこさを粘りに反映させたフェルマータのあとにはヴラヴォも出る。○。現在webで聴ける模様。,-----,,,,,,,,,,,,,
シューマン:交響曲第3番「ライン」(最後欠落),マックス・フィードラー指揮ベルリン帝国放送管弦楽団(PASC)1936/12/11live,,pristineの発掘音源。オケがサイシヨふるわず、いかにもSP時代のライヴ録音の精度といった感じで、またカットや編成を弄るといったことがなされており、音響的には納得行っても、しっくりこない。ただリズムのキレ、スピードに関しては最後(これもまた5楽章の肝心なところでブツ切れる)まで凄まじいといってもいい胸のすくようなところをみせており、ダイナミックな解釈もあって、ワルターの同時期を思わせる。響きはもっとドイツ的な安定感でザクザク切っていくかんじだが、リマスターのおかげかもしれない。楽章が進むほど感心度の上がる演奏。1楽章第一主題で冒頭は頭打ちにし、ワルツで舞曲に切り替える方法はわかりやすいが人によっては違和感があるか(全部舞曲的に処理するほうがかっこいいが結構少数派かも)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シュルマン:クラリネットと弦楽四重奏のためのRENDEZVOUS,スタイヴサント弦楽四重奏団、ベニー・グッドマン(CL)(BLIDGE)LIVE・CD この団体のチェリスト(2002年に没しました)の作品。正直最初の無調的なパッセージに驚嘆。マリピエロやフランスの作品を弾いている団体がなぜ無調に挑む?でも面白くない事はない。クラリネットが入ってくると途端に作品はジャズの色彩を帯びてくる。但し「帯びてくる」だけでこれがそのままジャズとは到底言えない。クラリネットは雄弁で「優しい弦楽四重奏団」を威圧しているように感じるところもある。まあとにかく野太い音だ。ちょっと面白かったが個性は感じられないので無印。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シュレーカー:室内交響曲,◎ヒンデミット指揮シュツットガルト放送交響楽団(SDR,MEDIAPHON)1956/1/14LIVE 後期ロマン派の末裔、爛熟するウィーン世紀末音楽の残照。いいですねー。ツェムリンスキーの透徹した官能性やフランツ・シュミットの構築性を彷彿とする作風。但し1916年作品だからむしろそれら作曲家の同時代人と位置づけられる存在である。この曲は「マーラーの次」を思わせるが、何より溯ってワグナーの確実な刻印がある。スクリャービンの官能性に接近していなくも無い。冒頭、不思議な和音がシェーンベルク的静寂を演出しているが、やがてヴァイオリンを中心にリヒャルト・シュトラウス的なロマン派世界が展開。それでも非常に清浄な感じがするのは何より和声感覚に印象派のそれが盛り込まれているためである。一時期のシェーンベルクに共通する感覚だ。そうした様式混交が特徴的な作風である。歌劇作曲家として知られたが、この11の弦楽器と7つの管楽器、ティンパニ、ハープ、チェレスタで単一楽章といういかにもウィーン楽派的な凝縮された楽曲、なかなかの佳曲である。この盤はその貴重なライヴ録音であり、しかも指揮者はヒンデミット。ヒンデミットとはおよそ掛け離れた作風の曲ではあるが、少しもミスらしきものもなく適度な情のこもった完成度の高い演奏と言える。やや硬質ではあるが綺麗な演奏である。噎せ返るようなウィーンの艶を求めるなら他をあたるべきだが、たぶんこのくらい冷たく演奏した方がバランスがとれるような気がする。この盤、シンフォニア・セレーナとの組み合わせで、かなりリマスタリングが施されていて人工的な感もなくはないが聴き易い音になっており(擬似ステレオふう)、最初に触れるのにも向いていると思う。◎つけときます。この作曲家はむしろ歌劇で知られていた。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショーソン:交響曲,○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(Weitblick)2002/2/23live・CD,,オケ元来の持ち味、指揮者晩年の透徹した響きへの傾倒ぶり、、、よりもやはり指揮者旧来の持ち味であるブラスを中心とした力強い表現に惹かれる。曲の性向とよくあっている。フランクとの組み合わせだがフランクのほうはもっと古い演奏で、それも加味したうえで聴くとより感じ入ることができる。ところで筆者はフランク楽派が苦手である。ショーソン的な淡彩の響き、五音音階の多用には惹かれたが、ここでは褒めどころがよくわからないので、そのくらいで。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ショーソン:交響曲,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1962live,,フランク=ダンディに忠実な、というかまんまな進行も散見されるがっしりした交響曲だが、気まぐれに織り交ぜられる透明感ある風景に、この作曲家の前衛への興味と折衷的な特質が感じられる。ワグナーやロシア音楽の影響は言うまでもなく、サン・サンひいてはドビュッシーをも思わせるリリシズムがマニアックな半音階的進行の中に盛り込まれた前衛的な楽想は耳を惹き、2楽章はディーリアス風の退嬰感を醸し聴き所となっている。強靭なロマン派音楽から一歩踏み出した柔らかい抒情感は、多様な世紀末音楽の序章を飾る作曲家だったことを示すものとも言えよう。,,これは極めて明瞭な録音で演奏も激し過ぎずしっかり構成されたもので素晴らしく聴き応えがある。ショーソンのシンフォニーは悪い録音だと途中でわけがわからなくなる。「一流ではないロマン派音楽」特有にあらわれる現象だけれども、いい録音で聴けば細部の仕掛けが意図してそうある、ということを認識できるので愉しみ方が違ってくる。この曲は悪録音には向かない。,,ただ、ミュンシュでなければならない、という感じもしない。演奏が困難な楽曲としても知られる曲だが(終楽章の長大なペットソロとか意味がわからん)、だからといって演奏が機械的になってしまうのもどうかと思う。ライヴとは思えぬ完成度が逆に、スタジオ録音で聴けば十分、「はみ出した表現が無い」ということは贅沢な物言いだが問題としてある。○にとどめておく。,-----,,,,,,,,,
ショーソン:交響曲,パレー指揮デトロイト交響楽団(merury他)CD,,ステレオだが古びていてノイズもある。演奏は清新で颯爽としておりフランク系の交響曲のやぼったさ、重いロマンチシズムが洗い流され私には聴きやすい。くどさもなく、エッセンスだけが伝わってくる。人により逆の印象になるだろうか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショーソン:交響曲,モントゥ指揮BBC交響楽団(ICA)1956/5/11live・CD,,ショーソンは新しい録音で、明晰な解釈を行う指揮者でないとどうも私は聞いていられず、この演奏も正直ピンとこなかった。こじんまりとしてスケール感はないが引き締まっている、モントゥの特質は出ているが、ショーソン好き向けだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショーソン:交響曲,ロジンスキ指揮NYP(SLS)1946/4/7カーネギーホールlive,,録音は思ったより悪くフランク楽派の爽やかな和声を楽しむことができない。オケ全体に力強さがあり、なるほどトスカニーニスタイルをさらに筋肉質にしていったような芸風なのだが、音楽性に疑問を投げ掛けられたと言われてなるほどと思えるような単調さもある。とにかく響きの美しさが聴こえない以上、単に力づくで推し進めるだけで、オケにはひたすら苛烈なアンサンブル、技術的欠点のなさが求められているような感じもする。磨くだけで出来上がりを想定していないような。曲も曲で構造重視でメロディなど単調であるから、これはちょっと不幸な取り合わせかもしれないが、正直「いつ終わるんだろう」と思ってしまった。耳の単純な人に受けるロジンスキのメリットを、曲が殺してしまった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショーソン:交響曲変ロ長調,○フルネ指揮オランダ放送フィル(REGIS)CD,,清潔で精妙な和声の移ろいを的確に美しく捉えた1楽章が聴きもの。ドビュッシー初期を思わせる煌びやかで清新なさまを透明感あふれるオケを使ってうまく表現している。フランクのエコーはたしかに聴こえるがこの演奏では余り気にならない。1楽章冒頭しかり他の楽章のロマンティックな旋律しかり、フルネにかかるとどこか「ドイツ的でいながらフランスでしかないもの」に変貌する。それはフルネ自体があくまで音楽の構築性に重点を置く正統的指揮者でいながら、どこか「鈍感」でぼんやりとした美観もまた許すようなところがある、そこがうまく楽団や曲とマッチすると名演が生まれるのだろう。オケの性格的なものもあってか爆発的なものはないが、それもまたこの指揮者の面白いところなのだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ショーソン:詩曲,スポルディング(Vn)ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(nickson)1940/12/29live・CD古い曲にもかかわらずドビュッシー的な微妙な美しさを放つ名曲。ソリストの試金石ですね。私は地味な曲のせいかあまり聴くことが無いが、そういうシロートにもこの演奏があまり面白くないことはわかる。優等生的なのだ。ショーソンの「微妙さ」がイマイチ表現しきれていない、もしくは余りにはっきり描かれすぎている。録音の悪さもかんがみて、歴史的価値のみ、無印。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ショーソン:詩曲,スポルディングVnミトロプーロス指揮NYP1940/12/29live酷いノイズ。人の聴く限度を越えている。美音が印象的、絹織物のようなビブラート。揺るぎない表現。一時ばっと集成盤が出たなあ。殆ど聴かない曲だがオケはディーリアス似ですね。nickson,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
ジョリヴェ:5つの儀式の踊り,○ブリュック指揮ORTF(FRENCH BROADCASTING SYSTEM)LIVE・LP,,非常に盛大な拍手で終わるライブ記録だが曲はきわめて世俗的なイメージに沿った異教徒の儀式ふうのソレとなっている。つまりハルサイだ。ドビュッシーやオネゲルやかつて肩を並べたメシアンのやり方を取り入れているふうの部分もありキャッチーで、かつ演奏効果は高い。けして素人書きの作品ではない。演奏はやや鄙びており木管も一部たどたどしいがライブならではか。ブリュックらしく力のある表現で面白いが新しい音できくべき曲だろう。モノラル。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:オンド・マルトゥノ協奏曲,J.ロリオ(OM)ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1966/11/15live(12/8放送),,オンド・マルトゥノのための曲としては有名だが、盛大に盛り上げるというより思索に沈潜していく構成になっており、終わり方も比較的静かである。この楽器を珍奇なグリッサンドを駆使して高らかな音をかなでるものとして使うわけでもない点は特筆すべきものがあるが、逆に低い音域で動くがためにオンド・マルトゥノらしさが聞こえてきづらく、全般楽器以外の新味もあまり無い。この演奏はロザンタールらしくなく構成がしっかりしていないというか「あれ?これで終わり?」的な印象を残す。耳を惹くような仕掛けもなく、雑味もあり、ジョリヴェにしては暖かな拍手だけで終わるのだから成功だったのだろうが、ピンとこなかった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:オンド・マルトゥノ協奏曲(1947),ジネット・マルトゥノ(OM)作曲家指揮パリ国立歌劇場管弦楽団(ADES)1955,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ジョリヴェ:オンド・マルトゥノ協奏曲(1947),ロリオ(OM)作曲家指揮〜異教の寺院に流れるのは麻薬の香りとオンド・マルトノ。ジョリヴェの神秘主義が結構露骨に現れている。ややわかりにくい要素もあり、静かな場面でのマルトノの響きには心響くところはあるものの、全体的には余り面白くないかも…マルトノの用法としてはありがち、かもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ジョリヴェ:クリスマス牧歌(1943),○フィラデルフィア木管五重奏団のメンバー、マリリン・コステロ(HRP)(BOSTON RECORDS/COLUMBIA)1963/10/16落ち着いたテンポで明快なアンサンブルを聞かせるフィラデルフィア木管五重奏団のメンバーによるジョリヴェの佳品。ハープ伴奏にフルートとファゴットの旋律線が乗る。あきらかにドビュッシーの系譜に連なるハープ・アンサンブルだが、エキゾチシズムがより強く感じられ寧ろルーセルに近いものを感じる。戦火に包まれた1943年のクリスマス・イヴに初演された作品であるが、驚くほど繊細で素直な曲想に嘆息させられる。音楽への人間性の回復を叫んだこの作曲家が行き着いた境地を知らしめるものだ。美しく、しかしどこか孤独な旋律に込められた静謐な祈りの気持ちが痛いほど伝わってくる。この演奏はいくぶん隈取りが濃く、静謐さがやや損なわれているきらいがあるが、背景を見ずに純音楽的に解釈したものとして客観的に聴くことができる。1楽章:星、2楽章:東方の三博士、3楽章:聖母とみどり児、4楽章:羊飼いたちの入場とダンス。8年前の朋友メシアンによるオルガン曲「主の降誕」と比較したくなるがおよそ違う風体である。もちろんこちらのほうがわかりやすい。表題はあまり重要ではないかもしれない。インスピレーションを与えた元のもの程度に考えておいた方が理解しやすいだろう。楽章間の雰囲気はさほど変化せず統一されている。これは目下一番手に入り易いCDか。例のプーランクとの六重奏ほかを収録。(2003記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ジョリヴェ:クリスマス牧歌(1943),◎ラスキーヌ(HRP)カスターナー(FL)ファイサンダー(BASSON)作曲家監修(ADES)1957〜モノラルだが同曲を語るに欠かせない古典的名演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ジョリヴェ:トランペット協奏曲第2番,デルモット(trp)ウーブラドゥ指揮パリ室内コンサート協会(forgottenrecords)1957/2/10live放送,,LP起こしというがライヴであり独自発掘かもしれない。管楽器、ピアノ、打楽器とトランペットのための協奏曲第二番というのが原題であきらかにストラヴィンスキーの野蛮主義からきたお得意のエキゾチックな乱痴気さわぎ、三楽章ジオコーソは曲も演奏も出来がよくブラヴォも出るが植民地主義へのブーイングの方が多い。ミュートしたトランペットが旋律をとなえ(この曲はきほんソリストが高音で断続的なメロディをかなで、そのずっと下の音域で他が騒ぐ構造になっている)、一楽章は何も見なくても戦後ジョリヴェとわかるような騒ぎっぷりでジャズの要素はその後の楽章にも現れ諧謔的な雰囲気を支配的にするが、これは好きな人は楽器が絞られているぶん洗練されて特に好き、嫌いな人はまたかよという感じだろう。二楽章は東洋的なフレーズも表れる三分半、ジョリヴェが騒ぐだけではないという見本(支配的な位置の高音楽器がトランペット以外にもまわってくる)。三楽章はパーカッションの腕の見せ所でもはや何の何処の音楽を聴いているのかわからない。娯楽的でもスリリングでもある。悪くはない、赤道協奏曲のようにでかくて長ったらしいものを聴くより、限られた楽器によるこの曲で打楽器主義を娯楽的に楽しむのは悪くない。三つの楽章計で13分くらい。音色も腕も良いが録音が古いためパーカッションが派手に叩くと絡んでくる管楽器が小さくてバランスがとれない。それが原因で全般やや抑えめの演奏に聴こえなくもない。ところで指揮者は必要なのか、とふと思った。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:ピアノ・ソナタ第1番,○ワイエンベルク(EMI他)CD,,赤道みたいなアマルガムな野蛮主義を洗練させたような難曲で、スクリアビンからジャズやらショスタコやら何でもかんでもつぎこんで呪術的世界を紡ぎ上げるも、しっかり構成され聴きやすい。和声的にはフランスな上品さを保っているし、ストラヴィンスキーみたいに隅々まで緻密に組み上げることなく構造的に簡素であるせいだろう。ワイエンベルクは献呈者だったか委属者だったか、バリ弾き高機能なそのピアニズムを、案外おとなしく投入している。とてもややこしいリズム音形と不協和音が駆使され、ワイエンベルクくらいでないとちゃんと弾いていても指がもつれたドヘタ演奏にきこえてしまうだろう曲だが、裏返せばワイエンベルクとてギリギリがんばっている次第で表現を烈しくする余裕がないのかもしれない。最近の老いたスタイルに近い。音の透明感は素晴らしい。爽やかな幻想味がいい。録音もよい。起伏がもっと露骨に欲しい気はしたので○にとどめる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:ピアノ・ソナタ第2番,○ワイエンベルク(P)(EMI他)CD,,作曲家監修による録音のひとつだが、ワイエンベルクの繊細なわざをもって美しく響く。洗練されたバーバリズム、抽象化された呪術は毟ろ抒情性を帯び、現代美術展のBGMにはうってつけの微温的な雰囲気をかもす。高級服飾店の前時代的に幾何学化された前衛装飾、確かにヒヨッタ曲ではあるが、隙のない、1番より単純化したがゆえ陳腐さに堕する危険をクリアしたわざはこの作曲家の依然才気をかんじる。ワイエンベルクに依るところも大きいか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:ピアノと管弦楽のための協奏曲(赤道協奏曲)1940ー50,○アントルモン(P)作曲家指揮パリ音楽院管弦楽団・LPどんどこどんどこ始まる1楽章からやや前時代的なバーバリズムが展開。初演当時センセーションを巻き起こしたジョリヴェ畢生の大作。フランスという国は音楽にイデオロギー的な要素を絡めて評価する癖があるようで、この曲も植民地問題に関連していると見られたのが騒動の一因であった。ジョリヴェの特徴ではあるが常に叙情性が漂い、繊細で美しい場面も数多くある(2楽章)。スクリアビン後期管弦楽作品の隔世的影響を強く感じるのは何もこの曲に限ったことではないが、ヴァレーズ譲りの打楽器要素がやはり何といっても楽しい。3楽章のジャズも微笑ましく感じる。若きフランス仲間メシアンとは豊かな(濃い)色彩性や複雑?なリズム要素に近似点を感じるものの、もっと無邪気で筋肉質な娯楽性がここにはある。ここのアントルモンは巧い。ジョリヴェの棒も申し分なくオケも言わずもがなである。このレコードでとりあえず事は足りる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ジョリヴェ:ピアノと管弦楽のための協奏曲(赤道協奏曲)1940ー50,◎デカーヴ(P)ブール指揮シャンゼリゼ劇場管弦楽団(EMI/PATHE/DUCRET-THOMSON)・CD,,"デカーヴは最近ラヴェルの三重奏のエラート録音がCD復刻された。戦中戦後フランス・ピアニズムの大御所である。ジョリヴェとは家族ぐるみのつきあいがあり、この有名な協奏曲もデカーヴとジョリヴェ自身により初演された。ストラスブール放送響とのライヴの終演後にブーイングが聞かれるが、まさに初演時も演奏会場を二分するブーイングとブラヴォーの嵐が巻き起こったそうである。これは政治的理由によるところが大きく、作曲家も嫌気がさしたのか後日「赤道」の文字を取り除いている。純粋に楽曲だけを聞けばこれは楽しくまた充実したラテンもしくはアフロとのミキシング・ミュージックである。書法的にはシマノフスキの交響的協奏曲あたりに近い感じがする。否この音線はむしろスクリアビンか。ブールの冷徹な棒は熱気ムンムンの楽曲に硬質のフォルムをあたえとても入り易い演奏にまとめあげている。とくに本盤にその傾向は大きい(もっともモノラル録音だからまとまりよく聞こえるのかもしれないけれど)。本盤では各種打楽器のさまざまなリズムはきちんと整理されていて、楽曲の拡散肥大傾向を極力抑えている。ライヴ盤(ストラスブール放送交響楽団(SOLSTICE)1968/1/22LIVE)とどちらが好きかは人によるかもしれないが、ピアノ協奏曲としてのまとまりを重視するならば本盤がお勧めである。ライヴ盤は限りなくモノラルに近いステレオ録音である。ようはマイクが客席後方にあり、舞台が遠く立体感のある音が捉えられない状況にあったということだ。これでは擬似ステレオと変わらない、と思うがスタジオ盤とは異なる演奏模様が聞けるのは魅力的である。ここではやはりブールだけにグズグズな演奏にはならないものの、アントルモンとの自作自演盤に近い白熱した響きのぶつかりあいが魅力的で、響きが一点に凝縮され蒼白い輝きをはなつスタジオ盤にはない破天荒さというか、ヴァレーズ的な騒々しさが楽しい。まあ、けっこうボリュームの有る曲なだけに、いいかげんイヤになる可能性はあるが。大部分無旋律であっても十分聴くに耐えうる抒情性をはらんだ楽曲、白眉は2楽章中間部(後者で3分弱のところ)の極めて美しい旋律。ホルストを思わせるきらきらした夜空のような音楽はヴィラ・ロボスのように生暖かくはなく、清潔で透明な感傷をあたえる。びっくりするほど抒情的なので、注意して聞いていただきたい。たんなる「打楽器音楽」でないことがわかります。個人的に前者◎としておく。名演。",,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ジョリヴェ:ピアノと管弦楽のための協奏曲(赤道協奏曲)1940ー50,○デカーヴ(P)ブール指揮ストラスブール放送交響楽団(SOLSTICE)1968/1/22LIVE・CD,"(シャンゼリゼ劇場管盤評参照)",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ジョリヴェ:フルートと打楽器のための協奏曲(フルート協奏曲第2番),作曲家指揮小出(fl)他(towerrecords)CD,,来日時のセッション録音をタワレコ独自に復刻したもの。呪術的なフルートもこの時期にはかなり抽象化され無調のように哲学的に響く。極度に単純化された野蛮主義は打楽器以外の存在を否定し、1、2楽章は暗く音少なく、ジョリヴェらしからぬ無機質さを感じさせる。往年の現代音楽の如き3楽章は打楽器の派手さに聞くものがあるが、基本的に端的で、連続した流れは形作らない。フルートのみが息苦しくのたうち回る。4楽章はふたたび、空疎な闇に戻る。狂えるフルートはひたすら吹き通し、打楽器は3楽章同様、もっと音少なに端的に合いの手を入れるのみである。楽曲は終わりの場所がわからないほど唐突にこと切れる。呪術的な雰囲気がなく無機質な感もあるがフルーティストはじつに達者。この曲はフルーティストさえしっかりしていればパーカスはあまり見せ場がない。音が少ないから巧拙はわからないが、録音は最上級のステレオでジョリヴェ自作自演の中でも貴重だろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:フルート協奏曲,○ランパル(fl)リステンパルト指揮ザールブリュッケン室内放送交響楽団(HORIZONS、AJPR)1954/6,66/3・CD,,曲はちょっと聴き平明(旋律が美しい)だが何度も聴くとノイズ的に絡んでくるバックオケの存在を無視できず、ああ、「赤道」の人なんだなあ、という感触を受ける。フルートというソプラノ楽器を使うわりには地味なところも否定できず、もうちょっと旋律を引き立たせるオケを書けばよかったのに、とも思うがジョリヴェの否定になってしまうのでそこはそれ。ランパルだからこその「どんな曲も吹いてみせるわ」の意気が若さとあいまって「この曲くらいなら特に何もしないわ」というそつのなさをみせている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ジョリヴェ:マナ〜三曲,○ユーディナ(P)(BRILLIANT)1964/8/24・CD,,MELODIYAに四曲抜粋のライブ録音があるが別物だろう。モノラルながら明瞭で、力強い演奏を楽しめる。ジョリヴェらしい呪術的というか一種マンネリズムがメシアンと歩調を合わせた作曲家としてその時代に存在したことを改めて認識させるわかりやすさ。スクリアビンとメシアンの間。しかし六曲全曲聴きたかった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:リノスの歌,○リノス・ハープ五重奏団(X5 Music Group)2009・CD,,これぞジョリヴェ!という呪術的な曲。古代ギリシャの哀歌(のイメージ)から着想したふうに書いているが、旋法の影響関係はともかく、一般的に抱かれるアルカイックなイメージの雰囲気は無い。静けさとやかましさの交錯はむしろ「呪い」であり、けして日よってはいない。演奏は達者で緊密。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:弦楽のためのアンダンテ,ブール指揮シャンゼリゼ歌劇場管弦楽団(EMI)CD,,前半はひたすら分厚い不協和な和声のうねりで非常に聞き辛い。無調やセリー慣れした人のほうが聞くに堪えないと思う。非構造的なジョリヴェの書法はどんどんドツボにハマっていくようで、はっきり言って弦楽合奏でやる意味すらわからない、室内楽で十分だ。無駄な規模の拡大はジョリヴェの持ち味とも言えるけれども。中盤より音が整理され音域が上がっていくと、おそらく狙いどおりに清新な響きが支配するようになり、依然非構造的ではあるが動きも若干出てきてあざといくらいに美が発揮されるようになる、だがこれもブールの腕により「聞ける音楽」に仕立てられているだけなのかもしれない。本来の意図は無秩序な音の押し付けがましい暑苦しさか、ウェーベルンはおろかベルクすら舌を巻くような鬱進行に、演奏以前に無印。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ジョリヴェ:弦楽四重奏曲,パスカル四重奏団(contrepoint/forgottenrecords)1950・LP,,frは無加工板起こしでノイジー。曲はゴリゴリの現代曲。ジョリヴェ得意の南国趣味、呪術趣味は現れておらず、三楽章の珍妙な音に僅かあるようなないような。パスカルの美音でなんとかフランス的な美質を被せようとしているのはわかるが、最後もよくわからない終わり方だし、無調を楽しめる人にしか向かない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:交響曲第1番,○ツィピーヌ指揮ORTF(INEDITS)LP,,うう、ジョリヴェだ・・・この半音を行き来する極端に少ない音からなる旋律線のエキゾチシズム、オネゲルのにおいを残しながらも明らかにメシアンと共に歩んだ形跡のみられる独特の音響、何よりバーバリズム!ストラヴィンスキーの子であることには間違いないが、そこにアフリカ植民地の香りを持ち込んだのがいい意味でも悪い意味でもジョリヴェの持ち味となった。抒情性漂う若干のロマンチシズムも聞きもので、メシアンの硬派にくらべ落ちて見られるゆえんでもあるが、比較的浅いマニア受けするゆえんでもあり、とにかく打楽器奏者のみならず楽しめるリズム系交響曲でも、ゲンダイオンガク大好きコンテンポラリー系交響曲でも、伝統的な長さと形式をもった「正統な交響曲」でもある。たぶん私は1番がいちばん好きだな。驚くほど明晰なステレオ。比較対象がないので○。ライヴかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:交響曲第1番,○作曲家指揮ベロミュンスター管弦楽団(LYRINX,INA)1963/9/7live,,冒頭のバスドラの打撃からいきなりもうウォルトン円熟期の世界である。ご丁寧に高音楽器のトリッキーな装飾音までウォルトンの2番シンフォニーを彷彿とさせるものである。音要素は確かにフランスの伝統+エキゾチシズムを思いっきり取り入れていて、構造的な要素は完全にオネゲル、音響やポリリズム要素的にはバーバリズム時代のストラヴィンスキー、そういった両端楽章を持ったけっこう取り付きやすい感じになっているが、起承転結がはっきりせずどこか散漫でブヨブヨしているというか、ジョリヴェがメシアンと違うところで、やっぱりどこか脇が甘い。でもそういう言い方でいくとウォルトンなんか脇から腐臭が漂うとか書かなければならなくなるので、同時代同国内の相対的かつ理知的な評価ではなく、あくまで素直に聞けるかどうかで判断すべし。2楽章のドビュッシーと新ウィーン楽派が融合したような静謐で禁欲的なのにエロティックな世界は非常に効果的で私は好きである。ジョリヴェは後の作品になるともっと削ぎ落とされそのぶんパーカスが増強されておおいに客席からのブーイングを買うようになるが、世界観は余り変わらない。エキゾチシズムとともにアフリカンなリズム要素が一層強められるものの、メシアンのような計算しつくされ厳選された音響やラインを芯に持たないせいか、相変わらずオネゲル的な旧来の協奏型式に拘るせいか、こじんまりした感じがありアピール度は低い。構造的かと思いきや弦楽器なんて殆どユニゾンで刻んでいたりして、アイヴズぽいと一瞬感じるのはそういう弦楽器に冷淡な書法ゆえだろう(メシアンも同じようにユニゾンが多いが芯がまったく異なる)。2番とほぼ同じような音響世界の上に展開される有名な「赤道協奏曲」が今や殆ど忘れられているのは何もイデオロギー的な音楽外要素での時代の趨勢だけではない。音響要素の追求ゆえ拡散的な方向に向かったメシアンに対して、リズム要素の強化により凝縮の方向に行くべきジョリヴェが何故か拡散しようとしたのが交響曲という型式であり、1番は前時代同時代の交響曲を意識した型式のわりとはっきりした聞きやすいものだが(独特のスケルツォへの解釈を表現した3楽章も特筆ものである)、ここが限界のようにも思った。2番がジョリヴェらしさが一番出ているとすれば3番は前衛を意識しすぎ、1番は過去から脱出できていないというか。1番のエキゾチシズムは伝統の意識という意味ではルーセル的でもある。2番で完全にジョリヴェになる。ジョリヴェの指揮は達者だったが(でないとこういうリズムや音響構造は処理できないだろう)この演奏も過不足なく、オケが意外とよくついていっているのが聴きもの。モノラルで悪くない録音。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ジョリヴェ:交響曲第1番,ツィピーヌ指揮ORTF(ina配信)1970/4/15放送live,,PHF07009498。さすがにこの位の時期になってくるとブーイングも少ない(拍手も少ない)。ツィピーヌは旺盛かつ職人的にまとまった演奏をするのでこの曲には適しているが、散漫な内容はそのままだしオケも拡散的になっている。何故かこの曲は録音がわりとあり、youtubeでも聴くことができるが、メシアンを百年遡らせたようなブカブカドンドンの「植民地主義的」野蛮主義を交響曲にまとめたものである。ジョリヴェは半端なところがあり前衛としては古く書法も甘く、懐古趣味としてはサービス精神が足りない。ジョリヴェは戦前復古的作品も後年おおく書いていて、異国趣味の精華を理知的に反映させた個性的だが人好きする作品も書けたというのは、前衛にとっては日寄ったもの、復古趣味にとっては歪んでいる、と受け取られる。そこが不幸でもある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:交響曲第2番,○作曲家指揮ORTF(LYRINX,INA)1960live,,これもモノラルだが、ブーイングが響く拍手までえんえんと「赤道協奏曲」の世界である。1番よりも拡散的で、パーカスが大幅に増強されてもう、アフリカかジャマイカかといった耳の痛くなる音楽がわりと前衛的なメシアンチックな「真面目な音楽」と同時進行する。余りアタマに残らない音楽だと思うが、ジョリヴェマニアなら1番よりこちらが好きだろう。オネゲル的な部分はかなりなくなっている。ジョリヴェは1番にくらべ更にめんどくさくなったこのスコアをさすが作曲家、ORTFの限界まで表現させている。冒頭のランドウスキなんかに似たこちょこちょした木管高音の蠢きはさすがに壊れかけてやばい感じがするものの、その後は複雑なリズム処理がしっかりしているせいか聞きにくくなることはなく、欧州の人間がアフリカに抱く幻想怪奇の世界をよく反映したものになっている。稀有壮大な感じも出ていてこのモノラル録音があればとりあえずコトは足りる。○。,"",-----,,,,,,,,,,,
ジョリヴェ:交響曲第3番,ドラティ指揮ORTF(ina配信)1964/12/17放送 live,,さすがの職人ドラティも、起承転結つけてやるにはあまりにも雑然とし色彩と打音を振り撒き続けるだけの曲なので、なかなか「聴かせる」には至っていない。ただ、録音状態にかなり問題があり、音がブルブル歪み、篭っており、繊細で精緻な響きの要求される現代音楽にこの音はかなりのマイナスで、印象の悪さにも繋がっている。メシアンとオネゲルというか、騒音主義と異国情緒というか、前衛と後衛がこんがらがったようなジョリヴェの作風の前者が比較的引き立ち、叙情的な神秘性をかもす中間楽章は聴かせどころであるだけに惜しい音だ。まあ、ガシャガシャ長々と聞かせて唐突に終わるから、ブーイングも口笛も出るわな。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:七人の奏者のためのラプソディ,作曲家指揮田中(Vn)浜中(Cl)他(towerrecords)CD,,現代音楽。ゲンダイオンガク。よく聴くと「兵士の物語」を時代に沿って書き直したような楽曲の志向が見えてくるが、おおむねパーカスを含む楽器編成の響きの面白みを聴かせる「だけ」のように思える。ジョリヴェに期待される肉々しいところはもう無い。ストラヴィンスキーとアイヴズを合成したような感じしかしない。楽器間のバランスはよく、演奏的に不足はない。ヴァイオリンが上手い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:星のバレエ,デゾルミエール指揮管弦楽団(florilege)SP,,音が悪くて如何ともしがたいが、フルートとハープを含むごく短い室内楽であるようだ。得意の呪術的な旋律からジャズめいたストラヴィンスキー的なリズム、一方美しく内省的なもう一つの面も見せる。デゾはリズム処理が鮮やか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:素敵な恋人たち,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1962/11/18live,,擬古典的な作品で恐らくリュリの歌劇「はでな恋人たち」からの抜粋編曲だと思われる。基本的には古典派の流儀に忠実で、ただ楽器の重ね方が過剰でジョリヴェなりの新鮮さを感じさせるところが僅かに織り交ざる。セルはセルと聴きまごうほど力強く前のめりの演奏を仕掛けている。ジョリヴェ・マジックだろうか。最初ミュンシュかと思った。しかし曲が曲なので、それ以上の感情はとくに沸き立たされなかった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:打楽器と管弦楽のための協奏曲,○グッフト(Pr)ブリュック指揮ORTF(FRENCH BROADCASTING SYSTEM)LP,,ヴァレーズの弟子ジョリヴェらしい打楽器主義の曲で、ソリストはえらく忙しいだろうと思わせる。各楽章にメインとなる打楽器が設定されており、個人的には3楽章のビブラフォンが鳴り響くちょっと電子的な匂いも漂わせる世界観に惹かれたが、両端楽章のドラムセットの叩きっぷりでセンスのあるなしがわかると言ってもいい。異教的な平易な楽想はそこそここの曲の知名度を裏付けるものとなっている。のだめよく知らない。ブリュックは肉感的だ。グッフトもスタジオ録音と思われる中でライヴ感あふれるリズムを弾ませている。盤面が非常に悪いので、ちょっとわかりにくいところもあるのだが、○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:打楽器と管弦楽のための協奏曲,○ドロウワ(Pr)作曲家指揮ORTF(FRENCH BROADCASTING SYSTEM)LP,,ブリュックのものに比べて響きが透明で正確な感はあるが魅力は減退している。ソリストにやや生硬で萎縮したものを感じる。とはいえ、曲が曲だけに異教の祝祭的なドカンドカンを大つかみでやってくれる、そこは魅力的。○。CD化していたと思ったのだが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:典礼組曲,◎ラスキーヌ(HRP)ジラドゥ(T)カシアー(OB)ブリザード(VC)・作曲家監修(VEGA)LPこれはハープの響きが支配的な演奏で、「クリスマス牧歌」を彷彿とさせる。じっさいあそこまではわかりやすくないものの、かなり耳馴染みの良い保守的な作品である。聴き易いとはいえ土俗的なリズムやエキゾチックな旋律線にはジョリヴェ独特の原始主義がはっきり感じられるし、前奏から終曲までの計8曲はなかなかに変化に富んでいる。所々まばゆい響きはメシアンに割合と近いものを感じる。「若きフランス」の二人は作風は対照的なまでに異なるものの、どこかでやっぱり繋がっている。ただセリー的ではなく、どちらかといえば無調(それもドビュッシーの晩年のソナタに近いかなり調性的なところのある)風で、透明感を維持しつつも半音階的なところが古さを感じさせなくも無い。テノールとハープ、オーボエにチェロの変則的な四重奏編成になっているが、テノールが登場するまで長い間器楽三重奏状態が続くのも面白い。このあたりなどまさに「クリスマス牧歌」の姉妹作といった風情だ。但しこちらのほうが確か早い作品と思った(ライナーがフランス語で読めない(泣))。テノールも台詞少なで最後はアレルヤを連呼するのみ(讃美歌なのであたりまえだが)。それにしてもラスキーヌは骨太でアンサンブルをぐいぐい引っ張っていっている。ラスキーヌがいるだけで引き締まった演奏に聞こえるのはワタシだけだろうか。チェロのピチカートも効果的に使用されているが、ラスキーヌの強靭な音に拮抗しているのは見事。保守的なジョリヴェが好きなワタシは演奏・曲共に気に入りました。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ジョリヴェ:舞踏交響曲,作曲家指揮クリーヴランド管弦楽団(youtube)1959/1もしくは8live,,正体不明の音源だが、ジョリヴェにしてはドビュッシー「遊戯」の範疇に留めたような作風で、妖しくもわかりやすく美しい曲だけに左右の安定しないモノラル録音なのは惜しい。オケはセルにきたえられているだけあって、超高音で酷使されようが弱みを見せることなく派手に弾ききっている。中間部で銅鑼にのって古臭くもわかりやすい妖気をはなつ箇所など全く舞踏的ではないが、その後にわかにストラヴィンスキー的な低音からのリズムの打ち出し方は、ジョリヴェに期待されるものを十分に示している。それはメシアンまではいかない、ブーレーズまではとてもいかない、我々の理解可能なコープランドレベルの現代性を提示するもので、長続きせず弱音に落ち着いて、銅鑼にのって中低音で奏でられる旋律はどことなく、ハルサイのオリエンタルなものより遥かに人好きするところが、ジョリヴェの「人間性」なのだろう。ヴォーン・ウィリアムズすら思い出させる良い民謡風旋律だ。不安げな終わり方も格好が良い。拍手カット。くれぐれも演奏は充実し音はよく出ている「よう」なのだがyoutubeのものはレンジも狭くボロボロで残念だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ジョリヴェ:兵士の三つの訴え,ベルナック(b)ミュンシュ指揮パリ音楽院管(cascavelle)1943,44らしいオリエンタルな部分が残るが、歌曲ということもあって平易な旋律があり、この時期のジョリヴェの心情を反映した内省的な音楽となっている。オケやや控え目過ぎるか,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
ジョリヴェ:平和の日のためのミサ(1940),○シルヴィ(SP)グリューネンヴァルド(ORG)ジャッキラ(TMB)・作曲家監修(VEGA)LPバーバリズムの作曲家が室内楽を書くと、やたら変則的なリズムを使ったり器楽を打楽器のように扱ったりして面白い。ジョリヴェはちゃんと「わきまえて」いるから、たんなる珍曲にはなっていなくて、叙情性を醸し出す余地があるのがよい。まるでイギリス近代の宗教音楽(RVWとか)のような剥き出しのソプラノが、異界的な旋律にアレルヤを載せてひたすら歌い上げる場面から始まり、二曲めキリエではじめて密やかにオルガンが鳴り出す。この演奏は繊細なデリカシーをもって注意深く挿入しているところが粋だ。単音的なオルガンは単純な響きで神秘を表現する。しばらくはこの二つの声部がただ線的に絡み合う原初的な宗教音楽が続けられる。カソリックの厳粛なミサを思い出させられる。オルガンはわずかずつ音を重ねはじめる。ソプラノの声がケレン味無く伸びが有り曲の雰囲気に非常にあっている。そして音楽は不思議な局面を迎える。タンバリン(というかボンゴみたいなものだと思う)が鳴り出すのだ。まるで闇の虚空からひびきわたるかのように。オルガンが消え、太鼓の・・・これを聴いていてなぜか日本海の荒波をバックに褌ねじり鉢巻き姿の屈強な男が、荒々しく祭太鼓を叩いている姿が思い浮かんでしまった・・・素朴だが力強いひびきに煽られるかのように、「春の祭典」で踊り狂う生け贄の女の如くソプラノが歌唱(無歌詞)を続ける。ちょっとシュールだが聴きなれるとこれがなかなか独特の洗練された(純化された)バーバリズムを感じさせ秀逸である。ソプラノはずっと歌いっぱなしだが、そのオスティナートな歌唱が逆にバックのオルガンや太鼓をかわるがわる載せて音楽を運ぶ役目を果たしている。まあ奏者的にはいずれもそれほど個性的ではないので、ヴェガのモノラル録音の悪さをマイナスして○ひとつ。ヴェガのLPは一時期非常に高騰していたが、今はどうなのだろう。フランス往年の名レーベルだ。ただ、ステレオ化が遅く(というかしてない?)他のレーベルからステレオで出し直しになったものも多いので注意だ。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
シリル・スコット:ホーンパイプとシャンティ,◯ストコフスキ指揮ハリウッドボウル交響楽団(scc:CD-R)1946/7/21live,,カッコイイです。ガランタからグレインジャーと民族舞踏の末にこの焦燥感を映画音楽的な聞き易さで濾過したような派手な曲、オケはお疲れ様だ。しかし、このオケがまたつかれない。弦はよく聞こえない部分もあるので細部はわからないが管打はキラキラしている。印象派を映画音楽に転嫁した音楽は気持ち悪いわけはない。客席反応は普通だが、楽しめた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シンプソン:イプセンの「僣望者」による幕間音楽,○ホーレンシュタイン指揮ニュー・フィル(放送)1971/2/26,,イギリスのニールセン、人によってはブルックナーと呼ぶ作曲家だが、確かにひんぱんにブラスに要求される長い吹奏、ティンパニの重い音、そして透明感を失わないひびき、この陰欝な曲にもそれらに共通するものが聴かれる。演奏は実直。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シンプソン:交響曲第1番,○ホーレンシュタイン指揮BBC北交響楽団(放送)1961/2/18,,中欧志向が強くアメリカの新ロマン主義の曲にもよく似ているシンプソンの純管弦楽曲だが、この作品(ホーレンシュタイン初演)にはニールセンの影響よりもまずはヒンデミット!ほとんどまんまヒンデミットの書法という部分がたくさんある。旋律のみ独自のニュートラルなものだ。フランス六人組系のアメリカ作曲家(コープランドを筆頭とした)、さらにはマーラーやブルックナーもあらわれる。ホーレンシュタインは立派過ぎるほどしっかり演奏。オケの力量を最大限引き出す。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
シンプソン:交響曲第2番,○ホーレンシュタイン指揮ニュー・フィル(放送)1971/2/26,,中欧志向が強くアメリカの新ロマン主義の曲にもよく似ているシンプソンの純管弦楽曲だが、この作品(ホーレンシュタイン初演)にははっきりショスタコーヴィチを思わせる焦燥感や諦念が横溢し、作風変化が伺える。ホーレンシュタインは友人の作品を、自身が得意とするブルックナーやマーラーを彷彿とさせる箇所を浮き彫りにする。繊細な旋律のニュートラルな美しさがシンプソンの唯一の独自性でありホーレンシュタインも弁えている。弦の扱いかたはショスタコ並にひどいが。。RVWの六番と似た曲、で通じるか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スヴィリードフ:悲愴オラトリオ,◎ヴェデルニコフ(b)イサコワ(msp)コンドラシン指揮モスクワ・フィル、ロシア室内合唱団(melodiya他)1975・CD,,極めて美しい叙情的な歌で、ヴォーン・ウィリアムズやアメリカ・ネオロマンチシズムの作曲家を思わせる平易さとカッコよさのバランスのとれた素晴らしい作品に仕上がっている。また演奏がいい。録音も何度かの復刻の末かなりよくなっていて申し分ない。ディーリアスのオラトリオを思い浮かべる人も多いであろう。主題がレーニン賛歌であれどうであれ作曲技法的に目新しいものが見当たらなかろうが作品の美しさにはいささかの曇りにもならない。初曲の暗さでショスタコを思い浮かべたらぜんぜん違うことに驚かされるだろう。いい曲にいい演奏。◎にします。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スヴェンセン:ヴァイオリンのためのロマンツア,モルヴィッツエル(Vn)コンヴィチュニー指揮ベルリン放送交響楽団(ETERNE)LP 曲は平凡だが適度に聞かせる「透明な甘さ」があって、それなりに楽しめる。ただ、演奏含めあまり派手なところがなく、聴いた後何も残らなかった。無印。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スヴェンセン:ノルウェー民謡のメロディ,ゴロワノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(CCCP)LP,,ゴロワノフのグリーグは幾度となくLPにもCDにもなっており、この曲はペールギュント1組EPセットのおまけについていた。CD廉価外盤再発時に収録されている可能性もあるが、とにかくちょっと音が篭り気味で聞きにくいばかりか、曲も非常に暗い民謡の連環からなっている。どこかで聞いたような旋律・・・日本民謡というより、ちょっと前の有名作曲家の旋律に似ている気がするのは私だけでしょうか・・・非常に聞き馴染みのある、何か薄暗くも人好きする旋律がひたすら中低音域で繰り返されるだけで、ゴロワノフの意外と荘重で、まるで追悼曲でもやっているかのような感じには不思議な感傷をおぼえた。短く、演奏うんぬん言えるような曲でもなく、録音も悪いし個性もない。無印。ちょっとジークフリートの葬送行進曲を思い浮かべたが物凄く気のせいだ。それにしても弦の音がアマチュアっぽいのはほんとに録音のせいなのだろうか、自信がなくなってきた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スーク:アスラエル交響曲,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(russian disc)1993透明感のある演奏ぶりはともすれば深刻な表情になりがちなこの「レクイエム」を光明を求めて昇って行く死者の至福を示すかのように明るく、清澄に描いている。繊細な響きが優しい。中間楽章ヴィヴァーチェはかなりダイナミックに演じられており、こういう曲だったのか、と改めて思わしめる。ソロ弦楽器の演奏も決してオケを殺さずに、全体構造の中にしっかりその位置づけを意識したものとなっている。やはり全般濃厚なワグナー・リヒャルト=シュトラウス系の半音階的ロマン性に依っているが、それはむしろシマノフスキを思わせるほど怜悧な美質を持っており、スヴェトラーノフの音作りがそれをさらに増幅しているような感じである。録音がややくもりがちというか、残響がありすぎるというか、決してサイアクではないけれどもややマイナス要因になっている。スヴェトラーノフの指揮ぶりについては彼のマーラーを思わせるほど雄大で陶酔的なものであり、骨太で強烈な表現意志を持っており、アスラエル交響曲の数少ない記録の中でも大きな位置づけを占める演奏であるといえよう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スーク:アスラエル交響曲,アンチェル指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送管弦楽団(SWRclassic)1967・CD,,デジタルリマスター盤だが決して良い音ではない。セッション録音なのでステレオではある。録音の雑味がアンチェルの持ち味としての張り詰める緊迫感を引き立てるが、それ以上にスークの転換点になった世紀末音楽としての同曲の、中欧的な爛熟を清潔な音色で綺麗に仕立てあげ、とても美しい。灰汁抜きされたようなスヴェトラーノフのそれよりは生き血が通っており、長い曲ながら力づくの解釈ではなくとも聴かせることに成功している。ファンの多い曲で民族的表現や多々のメロディといったところが入りやすさになっているが、適度に熱し適度に突き放した距離感で聴ける演奏だろう。作曲家の義父ドヴォルザーク次いで妻つまりドヴォルザークの娘の早すぎる死が題名の「アスラエル(この盤では交響曲とは書かず単にそうしている)」死の天使に投影されているというが、悲劇的な要素はあるが、アンチェルは自身もナチによって家族や友人を殺された壮絶な過去があるにも関わらず、変な情緒的なものは持ち込まず、このオケの冷たい響きを操り、リヒャルト・シュトラウス等の露骨な影響をメカニカルに組み立て聴かせてゆく。曲はグリエールのイリヤ・ムーロメッツに似て(構成や構想には実際似たものがある)退えい的に終わるが、ここはすこし断ち切れたような宙ぶらりんの感じがした。二部構成の5楽章という形はマーラーの三番やスクリアビンなど想起させるが時期的にはほぼ同時もしくは少し遅い程度か。作品的に比較的若い頃のもの。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スーク:アスラエル交響曲,ターリッヒ指揮チェコ・フィル(supraphon)1952/5/22,28ヴァイオリニスト、ヨゼフ・スークの祖父にあたるチェコの作曲家。これは5楽章からなる大作交響曲である。師であり義父でもあるドヴォルザークの死、さらに作曲中の妻の死が、「死の天使」アスラエルを名前に持つこの陰うつな作品を生んだ。陰うつとはいえ諸所に美しい響きの箇所がある。リヒャルト・シュトラウスら西欧の世紀末音楽、印象派のドビュッシー、さらにロシアの異人スクリアビンを彷彿とするところがあり、国民楽派の民族的な作風とは異なっている。第3楽章にヴィヴァーチェ(といってもそんな聴感はない)の楽章を据え、1、2楽章にアンダンテ、4、5楽章にアダージョを置いている。ターリッヒの演奏は古く余り録音状態がよくないため、この精妙な作品を味わい尽くすことはできないものだが、適度に緊張感があり、とくに響きの感覚に鋭敏なところを感じる演奏となっている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スーク:弦楽合奏のためのセレナード 変ホ長調,ターリッヒ指揮チェコ・フィル(SUPRAPHON他) 最初「ウィンザーの陽気な女房たち」かと思った(激似)。19世紀的な国民楽派の範疇から外れない作品で(1892年作品なので仕方ないのだが)、あまりの凡庸ぶりにげんなりするところも正直ある。義父ドヴォルザークの影響ふんぷんであり、露骨な旋律性と平凡なハーモニーが「これが20世紀前半のチェコ音楽を代表する作曲家の作品なのか?」と思わせるが、まあ若書き(18歳)であるから仕方ない。聴き進めば、ドヴォルザークから一歩踏み出したハーモニーや清新な書法が織り交ざり、若干耳を惹くところもあるが、「アスラエル」などを書いた20世紀の作曲家としてのスークを求めると見事に肩透かしをくらうので、注意。ターリッヒの指揮は現代的で合理的な中でもよく歌わせている。往年のチェコ・フィルのヴァイオリンのひびきが美しい。ただ、曲のよさを浮き立たせるには少しそっけない感もあり、ここでは無印としておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スーク:組曲「御伽噺」〜T.ラドーズとマフレナの不滅の愛と彼等の悲嘆,ターリッヒ指揮チェコ・フィル(SUPRAPHON)1940 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スーザ:エル・キャピタン,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(RCA)1945/5/18・CD,,楽しいスーザマーチでトスカニーニが振ろうが誰が振ろうが楽しいものは楽しい。引き締まったリズム、前進性、ダイナミックさ、派手さが特筆すべき点か。トスカニーニの編曲によるもの。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スーザ:星条旗よ永遠なれ,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(RCA)1945/5/18・CD,,やっぱいいですね。マーチの王道。というより軍隊行進曲に聞こえる。物凄い前進する力があり、派手で大音量、しかしオケ全体がびしっと揃って慣れた曲をそれでもしっかり演奏しているという感じ。これ以上のものを望むべくも無い。録音の古さがマイナスか。トスカニーニの編曲によるもの。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スーザ:星条旗よ永遠なれ,◎トスカニーニ指揮ニューヨーク・フィル+NBC交響楽団(NYP)1944/5/25LIVE・・・NYPアメリカ音楽ボックス2巻目、これしか興味ない(泣)シンバルがテンポを煽ってウキウキ気分の行進曲、中間部主題の優美だが決して前向きのテンポを崩さない演奏ぶり、いいなあ。トスカニーニのしかめっ面もこのときばかりは緩んでいたのでは。厳しさはなく、浮き立つテンポを楽しんでいる。録音は悪いけど、演奏は最高。ブラヴォーの渦。これ・・・戦時中なんだよな。マジソン・スクエア・ガーデンにおける両オケのジョイントコンサートのアンコールの記録。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スーザ:星条旗よ永遠に,○ハンソン指揮イーストマン・フィルハーモニア(meircury)CD,,個々の技量についてはイマイチで全般チープな香りが漂うことは否定しないが、ハンソンの厳しい締め上げでとてもまとまった構造的な演奏になっている。ただ楽しくブカブカやっているのではなく、内声部まできちんと演奏されており、更に非常に前進的で浮き立つようなリズムが心地いい。ハンソンの夥しい録音群は録音特性のこともあってやや小粒な感もあるが、これはそれでも「アメリカだなあ」と感心するくらい根っから板についた音楽でもあり、また正統なクラシカルな技術によってしっかり創り上げられた演奏でもあり、聞かせるものはある。総体は楽しげだが、個々の奏者はけっこうきつそうだなあ、とも思ったが聴くだけの人間には知ったことかというわけで○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スーザ:星条旗よ永遠に,ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1967/5/14NYブロンクス・ベッツ病院慰問live,,膝録もので鑑賞に値しない非常に貧弱な録音。演奏も強い表出力はあるものの隈取が明瞭なだけで前進力は感じられず、それほどアピールしない。,,-----,,,,,,,,,,,,
スカルコッタス:弦楽のための小組曲,○ルーカス・フォス指揮ジンブラー・シンフォニエッタ(TURNABOUT/UNICORN)LP,,ギリシャの前衛作曲家スカルコッタスの小品だが、バルトークを薄めて抽象度を高めたような曲で好きな人は好きだろう。演奏は気合いが入っている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:ピアノ・ソナタ第10番,○ソフロニツキー(P)(Arlecchino,MELODIYA)1960/2/2LIVE・CD ,,このあたりになってくるとスクリアビンは動きと響きの微妙なうつろいを聴かせる「雰囲気作曲家」になってくるので、悪い録音はその状態だけでマイナスである。ただ最初こそイマイチ即物的というか、あからさまに律動的すぎて「楽譜を思い浮かべてしまう」感じが否めないものの、どんどん観念的な夢幻世界に引き込まれていき、痙攣的なトリルが鮮やかに、しかしリアル感なく脳髄を震わせてくる。あ、スクリアビンだ、と改めて認識させる頃には曲が終わる。ソフロニツキーの真骨頂は寧ろこういう表現力にあるのだろう。けして技術的にホロヴィッツと拮抗できる人では無いと改めて思うが、ロシアのピアニストらしい豪快さと感情表現の幅の広さが聴ける演奏。○。,-----,,,,,,,,,,,,
スクリアビン:ピアノ・ソナタ第5番,○ソフロニツキー(P)(Arlecchino,MELODIYA)1955/1/14LIVE・CD,,ソフロニツキーの録音はかつては復刻が進まず、LPがなかなか入ってこなかったこともありえらくマニアの間で希少価値を問われ人気があったが、今は復刻が増えすぎて(存在自体ありえないと思わせたステレオ・ライヴ録音すら出)マニアだった私も網羅することをやめてしまった。モノラルの古い録音がだんだんと売れなくなってきたのか、再び話題を振りまく類の演奏家ではなくなってきている感もあるが、この演奏など聴くと、残響が加えられ音質が改善されてはいても、基本的にデッドな響きの中で、ペダルを殆ど活用せずにひたすら激しく打鍵するさまは独特の即物的なスリルがあり、打鍵が荒すぎて音に雑味が混ざることも厭わず力強く突進し、突然尻切れで終わる(ひょっとすると最終音を叩いたとたん立ち上がってるかも)のは楽しい。アメリカのバリ弾きピアニストとも違った土俗的な深いものも感じさせる、泥臭さが解釈的には洗練されたものとあいまって、10年前にはまず一押しにしていた演奏だが、今聴くとちょっと、華麗と言うより呪術的なノリを感じさせるロマン性と前衛性のハザマで、絶妙のカッコのいい盛り上がりを作る単一楽章の、起承転結を無視して(スクリアビンは晩年を除き理知的な形式感覚を大事にしていた作曲家である)弾き切った感があるので、○に留めておく。ただやはり作曲家の娘婿であるこの大ピアニストの力量は認めざるを得ないと言えよう。聴くにつけピアニストとしての盛期が過ぎていると感じられることも考慮して。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
スクリアビン:ピアノ・ソナタ第5番,○ホロヴィッツ(P)(?)1974/11/17NYlive,,METのライヴの一曲で、この頃の定番のレパートリーとして必ずコンサートの演目に入っていたようだ。正規録音化されておらず録音は悪いがwebで聴けるので、比較的安定した演奏として聴いてみてほしい。ノイズの中からも煌びやかなホロヴィッツの万華鏡が展開されるさまは壮観。但し、技術的問題もあることはたしかで、万華鏡がところどころ割れたり歪んでいるのが惜しいが・・・テンポが安定している反面一本調子かもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:ピアノ・ソナタ第5番,○ホロヴィッツ(P)(?)1976カリフォルニアlive,,ホロヴィッツの数ある録音のうちのひとつで決して状態はよくない。客席録音のようだ。しかし聞き取れるのはホロヴィッツがかなりロマンティックに大きな起伏をつけ、没入型の演奏を提示していることで、よたるようにやや危うくなる部分も厭わず同曲のファンタジーを存分に引き出そうとしていることがわかる。凄まじいブラヴォが入る。ホロヴィッツには何故か70年代中期の録音が正規非正規問わず多く、もっと昔の録音、バリバリやっていた時期のものを聴いて見たかった。普通の人は正規録音一つ聴けば十分でしょう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:ピアノ・ソナタ第5番,○リヒテル(P)(PRAGA他)1972/9/24プラハ・CD,,好戦的な時代のリヒテルで清々しいほどに即物的。ペダルを使わず音を粒立てて音楽の煽情性は楽譜そのものから立ち上らせるやり方で非常にかっこいい。まだロマンティックで中期交響曲との関係性の濃い作品だが、この演奏からは乾いたロマンチシズムが感じられ、技術的な安定性をもってちっともほころびなく進む。野暮ったいロマンとは無縁である。強靭なタッチと細部をおろそかにしない完ぺきなピアニズム、リヒテル黄金期の記録だろう。私の手元の音源はモノラルなのだがステレオとのこと。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:ピアノ・ソナタ第5番,ソフロニツキー(P)(classound)live・CD,,どのライヴなのかわからないので同一のものを既に持っている可能性もあったのだが、一応買って聴いてみた。かつてはCD化が進まずマニアが血眼でLPを探すたぐいの伝説のピアニストだったのだが、今はソヴィエトで活躍したひと世代前の大家として普通に聞かれるようになっている。録音が悪いものも多く正当な評価を受けてこなかった一面もあるが、ライヴを含めると膨大なレコーディングが残っており(ステレオもあり)同じ曲でも結構印象の違う演奏をしてみたりもしている。というわけでこの義理の父親の曲なわけだが、曲自体私は大好きであり、ソフロニツキーでよく聴いている。ダイナミックでロマンティックながらもモダンで隙の無いかっこよさを兼ね備えた中期スクリアビンでも野暮さのない聞きごたえ十分の単一楽章の楽曲であり、無闇なトレモロも無調的な哲学性も確実に存在はするものの未だ表面化せず非常に入り易い。だが、そういった曲だけにリスト張りに大仰にやってほしいところで、この録音はその点いささか性急で即物的すぎる感がある。余り揺らさずに速めのテンポで弾き切ってしまう。細かいニュアンスがイマイチだ。音が比較的よく、逆によすぎてそう感じるのかもしれないが、音が一様に大きすぎてダカダカ弾いてハイおしまいみたいな味気無さすら感じる。この曲にはもっとドラマが欲しい。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:ピアノ・ソナタ第5番,ヤコブ・ギンペル(P)(meloclassic)1956/2/22シュツットガルト南ドイツ放送スタジオ録音・CD,,オカルトな世界へいっちゃう寸前のスクリアビンの魅力の詰まった単一楽章。冒頭から悪魔的な和音の迫力の求められる効果的な「ソナタ」だが、妖しい響き、蠢き、そのすべてが明らかな音でさほどスケール感を出さずにあっけらかんと出てきているのがポーランドの奏者というかアメリカで活躍した奏者というか、そんな感じがする。残響が繊細な音響の邪魔になる箇所もあるが、逆に残響を大仰に利用した起伏ある演出を施さずはっきり言えば即物的解釈のため、技術的不足はなく軽く聴けるものの物足りなさがある。娯楽映画のピアノを担当していたわりに抽象度が高く、陶酔表現も醒めたかんじで確信犯的で、クライマックスも作らない。登り詰めて断ち切れる、という迫力もなく、ちょっとフランス風だな、とも思った。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:ピアノ協奏曲(1896ー97),ゴロワノフ指揮全ロシア放送管弦楽団、ゲンリヒ・ネイガウス(P)(LYS,BOHEME)1946,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:ピアノ協奏曲(1896ー97),スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交楽団、ナセドキン(P)(RUSSIAN DISC)1990,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:ピアノ協奏曲(1896ー97),セーゲルスタム指揮ストックホルム・フィル(BIS),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:ピアノ協奏曲(1896ー97),ハイティンク指揮ロンドン・フィル、アシュケナージ(P)1968,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:ピアノ協奏曲(1896ー97),マゼール指揮ロンドン・フィル、アシュケナージ(P),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:プロメテ〜火の詩(交響曲第5番),◎カステルスキー(P)イワーノフ指揮モスクワ・フィル(RCD)1975live・CD,,力強く、烈しく、引き締まったベートーヴェン的スクリアビン。幻想よりオケの力が勝り、その各声部のやりとりのスリルが堪らない(スリルと言っても技術的スリルではない)。ピアノはオケの一部と化し殆ど目立たない。余り派手なピアニストではないようだ。それでもとにかく、たとえばこんな迫力の演奏を実演で目の当たりにしたら圧倒されてしまい、このライヴの終演後のザワザワする会場の反応同様、どう反応したらいいのか、途方に暮れる可能性もあろう。イワーノフの実力、このころまでのロシアオケの真髄を見る思いだ。ペットが凄い。即興的感興を流すようなつかみどころない曲ではあるし、最後の壮大な盛り上がりも録音の音場がやや狭いせいか広がりが足りない感じもするが、リアルな音の交歓だけでも十分味わうに足るいわば純音楽的演奏だ。ステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:マズルカ作品40ー2,ソフロニツキー(P),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:火の詩「プロメテ」(交響曲第5番)(1909-10),◎ゴロワノフ指揮モスクワ放送交響楽団、ゴリデンヴァイゼル(P)(ARLECCHINO,MELODIYA他)1947(1952?)・CD 凄い演奏です。自在なテンポ廻し、強力な表現意志に共鳴したソリストの轟音、全てが暗黒の中、一つの方向に向かって突き進んで行く。余りに扇情的で、とても悪魔的で、邪悪な演奏だ(いい意味で)。ゴロワノフの激しいが板についた解釈はこの冗漫で掴み所のない曲に一本の筋を通し、完全に己がものとして作り替えている。旋律性が強調されてとてもわかりやすいし、面白い。録音もゴロワノフにしてはそれほど悪くない(アレッキーノは残響を加えている)。どこまでも昇って行く音楽の高揚感に最後に加わる合唱がここまで黙示録的に轟いた演奏を私は知らない。曖昧な幻想性や謎めいたところは影をひそめているが、純粋な音楽としての娯楽性を引き出した演奏としてはまったく比類無いものがある。こういう演奏がなぜ今出てこないのだろう。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:火の詩「プロメテ」(交響曲第5番)(1909-10),○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団他、リヒテル(p)1988/4/12live(russian disc他)〜スケール感、幻想味ともにexton盤に軍配があがる。これは間違いなく「プロメテ」の最高の演奏である。ソリストに魅力あるものの細部の音程の悪さや音色の不統一感が耳につくロシアン・ディスク盤には今一つ曲にのめりこめない所があり、曲自体の特性からも気ままで散漫な印象が残ってしまうが、エクストン盤は実に細部まで彫刻がいきわたり、ひとつの「物語」が造り上げられており、演奏家たちはその音色・音程感・アンサンブルともに完璧な調和をもって答え、録音の良さもあいまって、聴く者はただ豊穣な音の渦に巻き込まれ、スクリアビンの壮大で神秘的な音世界を体験し尽くすことができるものとなっている。「プロメテ」は法悦の詩にくらべ演奏機会の少ない曲だが(その編成の大きさも演奏されない一要因)、スクリアビンが、完成された管弦楽曲としては最後の作品として遺した同曲の真価を知るうえでも、是非触れていただきたい演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:火の詩「プロメテ」(交響曲第5番)(1909-10),◎スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団他、イゾートフ(p)1996/5(exton) リヒテル独奏盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:火の詩「プロメテ」(交響曲第5番)(1909-10),○ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(COLUMBIA),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:火の詩「プロメテ」(交響曲第5番)(1909-10),インバル指揮フランクフルト放送交響楽団(PHILIPS)〜全集盤の一枚。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:火の詩「プロメテ」(交響曲第5番)(1909-10),オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団、 ソコロフ(P),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:火の詩「プロメテ」(交響曲第5番)(1909-10),ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(PEARL)1932.3.15,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:火の詩「プロメテ」(交響曲第5番)(1909-10),マゼール指揮ロンドン・フィル(LONDON),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第1番(1899),インバル指揮フランクフルト放送交響楽団(PHILIPS)〜全集盤の一枚。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第1番(1899),ゴロワノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団、レゴスタエワ、オルフェノフ (LYS,BOHEME他)1948〜スクリアビンのスペシャリストとして知られるゴロワノフの貴重な記録。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第1番(1899),スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(RUSSIAN DISC) 1990.4.14LIVE〜ロシアン・ディスク全集の一枚。かつてスヴェトラーノフファンだったのですが、うちにある音源の中で一番気に入っているのが、ロシアン・ディスクで日本盤としても出ていた、スクリアビン交響曲ライブ全集です。それまでスクリアビン不況に苦しんでいた私に福音のように現れた稀有壮大誇大妄想な演奏で、録音の少ない(でも多分一番面白い)第3交響曲については大のお気に入りです。2番の中間楽章の恍惚の歌も、これ以上の感動的な歌はないでしょう。よくいわれるトリスタン的とかではなく、マーラー4番の3楽章を思い浮べてしまいました。振幅は大きいのに、それほど粘液質なものを感じなかった。ゴロワノフのように生臭くない。でも細かい譜面操作が行われていて絶妙。昔聞いたチャイコ5番を思い出しました。ここだというところでは予想以上にヤッテクレル。スヴェトラーノフさんは長年にわたり、メロディヤに膨大な数のロシア交響曲を録音しつづけていました。スクリアビンも一回スタジオ録音で出してます。これも凄いと思いましたがLPのため音色が悪いのが悩みの種でした。法悦の詩だけは日本で何度もやってるオハコですし、ロイヤルアルバートホールでのライブ(60年代後半、終演後のブラボーが凄まじい)なんかもありますが、まだ生硬な感じがします。このライブ、5番「プロメテ」のピアノ独奏は故(泣)リヒテルさんですね。暗照明下で没入するスタイル、スクリアビン自身にそっくりだったことでしょう。スヴェトラーノフさん、マーラー,ラフマニノフ新全集以降は、「巨匠指揮者の陥る晩年スタイル」に入ってしまったような気がして悲しいです。昔のチャイコ2番の破天荒さなんかが懐かしい・・・。(1995記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第1番(1899),フェドセーエフ指揮モスクワ放送SO(MELODIYA)〜全集盤の一枚。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第1番「芸術讃歌」,スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団&合唱団、サリニコフ(T)他(russian disc他)1990/4/14live・CD,,6楽章制(!)で理知的な構成を目指したロマン派大曲。ロシアの鈍重さも西欧の先鋭さもなく、ひたすら幸福感をふりまく旋律に彩られ、後半楽章でワグナーというよりは発想の類似性を指摘されるマーラーの復活(実際作曲前に同曲を生で聴いたそうだ)のようにドラマチックな展開をあくまで組曲的に積み上げるものの、長大な終楽章は延々とふたつばかりの芸術讃歌が繰り返され、唐突な歌唱の導入は確かに復活を意識はしているが、あのように滑らかな起伏なく、楽想の堆積であり、ディジタルである。単純かと思えばそうなのだが、そうではなく華々しいオーケストラの響きは和声感覚の鋭さとともにここですでに萌芽をみせる。結局ピアノへ帰っていく作曲家だが、オーケストラで一つの世界を築いた「世紀末作曲家」の代表格である。スコアを見たくなる瞬間はある(そして見て単調さにガッカリするのだがそれは書法の癖に過ぎない、必要最小限を目指したのだ、ということにしておこう)。スヴェトラーノフのこのライヴはオケや歌唱の出来を含め隔絶して素晴らしい。弱体化したソヴィエトの楽団をかき集めるだけかき集めて迫力を失わせないようにしているかのようだ。他の指揮者の同曲の演奏を聴けばいかにスクリャービンの良い部分を取り出して自然に聴かせているか、スヴェトラーノフがダイナミックな指揮者では必ずしもなく最後にはシンフォニックな響きの指揮者であったことを思い起こさせる。聞いていて、曲が確かにメロディ一個一個に楽章を割り当てたような生硬な組曲ふうのものである(努力して統一感は持たせようとしているが未だ有機的な繋がりを持たせる技巧は持っていない)から演奏によっては瓦解した交響曲であったり、楽章毎の出来が違ってしまったり、ぶっちゃけ下手な管弦楽法の悪いところを露呈させてしまったりして、途中聴くのをやめてしまう。が、これは私は聴くのを止めたことがない。録音が新しい割にはあまりよくないと感じる人もいるかもしれない、舞台が遠いと感じる人もいるかもしれないが、それでも音量を上げて聴いてみてください。「法悦の詩」に通じるものは絶対にあります。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第2番,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(lanne:CD-R)1985/5/19ウィーンlive,,ゴロワノフ以来のスクリアビン指揮者と言えるスヴェトラ、しかもその同曲演奏における最盛期と言える時期の西側エアチェック音源だが、録音が茫洋とし悪いのに加え演奏も覇気が感じられず精細に欠ける。もちろん白眉たる3楽章(中間楽章)の美しさといったらrussiandiscのライヴ録音(近年限定廉価再発されたボックスに収録)に匹敵する法悦感を漂わせるものだが、スヴェトラ本来の前へ流されずフォルムを明確に設定してしまう理知的な部分が出ており、オケの内圧が高まって暴発するような箇所はいくつもある曲なのにいずれ余り響いてこず迫力に欠ける。オケが萎縮しているようなさまは解釈の恣意性を際立たせてしまい、終楽章のゲーム音楽のような盛り上がりの演出が空々しく、まるで外様オケを振ったような、一瞬N響かと思うような変な固さが気になった。ペットの長い音符にスピットピアノから異様なクレッシェンドをかけていたり、こういうところは薄い書法のせいもあるのだが、何かしらの「勢い」が維持されていないと小っ恥ずかしくなる。聴衆も曲を知らないらしく第一部最後で拍手が入ってしまう。若干戸惑い気味でも少しだけブラヴォが入る。無印でもいいのだが恐らく録音の問題がかなりあると思うので、○にしておく。,,それにしてもロジェストも早くから振っていて録音も早かったんだけど、今やスヴェトライメージがついてしまった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
スクリアビン:交響曲第2番,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(youtube)1988モスクワ音楽院大ホールlive(動画),,ソヴィエト末期でまだ楽団が万全であり、スヴェトラーノフも精力的に振りスケールの大きさよりもドラマティックで力強い音楽を志向していた時期で、この曲が得意でロシアン・ディスク(今は他のレーベルで出てる)がほぼ同時期のライヴをCDにしているがそれはこの曲のベストと言える素晴らしい演奏であっただけに、それに良好な映像が加わっただけで、多少音が貧弱でも脳内補完十分な見ごたえのあるものだ。とにかく来日してチャイコばかりやっていたとき指揮台を揺らした紅い扇風機もここにはないし、和製評論家に批判された「振るのをやめる(オケに任せる)」こともあまりしない(終楽章で謂わばドラクエ的なゲーム音楽と化すのだが、そこで軍国調に厳しい顔をしたあとはスコアを捲りながら振ってない。これは再現部で繰り返されるのでそういう約束なのだろう)、思い入れが凄いのかもしれないし、この時期のメインのレパートリーだったのだろうが、背筋が伸びている、このんだという(もう命尽きる頃だが)バンスタ張りの両腕の大振りは、別に見栄えを良くしているわけではなく、ほんとうにしっかり振りたかったのだろう。オケがこれだけ一体となって、しかも個々が技量を存分に発揮して、満場に響かせる…この曲では中間楽章、いやスクリアビンの全曲中この楽章はワグナー風のゆらぎを持つ旋律の恍惚感をもっと透明にカラフルにメロディアスに歌わせることのできる最良のファンタジーであり、その最高の録音者がスヴェトラーノフその人なのだ…スヴェトラーノフは棒に乱れをきたさず冷静な手付きを崩さない。「恍惚をすべて掌中に収めている」。音楽は物凄いファンタジーなのである。スクリアビンは意図的にユニゾンを多用し、スコアはわりと白いが、こういうふうに演奏できるというのはスクリアビンが凄いのもあろうが、スクリアビンの楽器法が面白いのかもしれないが、いや、スヴェトラーノフだからできた、西側流出がいよいよ酷くなってくる直前のソビエト・アカデミーの演奏だからこそだろう。ロシア式ブラスの大軍に包まれ全弦楽器がとことん歌う、本気の打撃で援軍を送るティンパニ、映像だとこのまとまりある響きの正体がよくわかる。弦楽器は中高年が多いように見える。それでしかできないこともあったのだと懐古する。また、後年スヴェトラーノフが響きに拘った源がこの時期までのソビエトのオケの力量を前提としていたのではないかとも感じる。さびしげなフルートなど、ソリストの技量ももちろんあるのだけれど。カメラアングルでだいたいこの曲の単純性、ティンパニ入れとけばいいとかそういうところが見えやすいのはアタッカで入る四楽章(アーチ構造の後半)。千両役者という皮肉な言い方は音楽家に失礼だと思うがそう言われても仕方ない感情的な振り方は後半の方が顕著になる。弦楽器の強いフレージングのまとまりがソビエトを思い起こさせる。無数のホルン、多いわけではないが吹きっぱなしのボントロ、やたら映るチューバ、音だけ異常に聴こえるハスッパなペット、それらは映像ではあまり捉えられないが、編成の大きさを象徴する。ゲーム音楽と言ったが、これをカッコいいと捉えられる人にはこれは名旋律だろうし、ブラスが目立つのはここで、他は木管ソロの断片を除けばほとんど弦楽器。弦楽器のところはちゃんと振るらしく最後は汗と乱れ髪で仲間を労いブラヴォに包まれあらためて、両腕を拡げて律儀なお辞儀、再度のコンマス握手。律儀なお辞儀。国家的云々はともかく本来評価されたのはこのスヴェトラーノフであり、歯抜けを若手で補ったオケを引き連れ出稼ぎに来たスヴェトラーノフではないのだろう。まあ、他国で呼ばれるような巨匠とはそういうものだ。しかしこの曲でここまでまとまったオケによる映像は無いだろう。今後もこのレベルのオケで収録されることはないだろう。。ソースがわからないが恐らく放送物なのでネット配信をレーベル名としておく。音質をマイナスして○(画質はこのての配信物としては最良)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第2番,○ネボルシン指揮ボリショイ歌劇場管弦楽団他(VISTA VERA)1950/6/27・CD,,このあたりのmelodiya音源まで発掘してくるとなるとこのレーベルも凄いが、同時に中堅指揮者というのはプレミア感なしではやっぱり中堅指揮者でしかない、という印象もあたえる。典型的なロシアスタイルをもう少しトスカニーニ寄りに安定させたような、ムラヴィンスキーに近づこうとしたような芸風だが、処理は荒っぽく武骨で、同曲のアーチ構造の頂点に位置づけられる天国的な緩徐楽章においてはスヴェトラーノフの繊細な音表現にはとても敵わないリアリスティックな楽器表現に終始している。録音は悪い。この指揮者は余り長生しなかったがクーセヴィツキーの弟子筋あたりの世代ではなかったか。,,"Russian Conductors Vol.10 -Vassili Nebolsin / Vassili Nebolsin", USSR State SO, Bolshoi Theatre SO," etc","",,同曲について書くのはひょっとするとサイト初期以来かもしれない。スクリアビンの最も形式的な交響曲で、既に古い世代となっていたリムスキーらにもおおむねは好感をもって受け容れられたものだが、5楽章制で1,4楽章は続く楽章の序奏となっており、前半と後半がほぼ同じ、闘争的な暗い楽想、、、できて最後だけしっかり転調着地してベートーヴェン的大勝利というかなり恥ずかしい(ロシア的な)音楽となっているため、現代においてもロジェストくらいしか演奏せず、当人も恥じて後年は余り好まなかったようである。管弦楽法は正直単調だが下手ではなく、特に楽器法や音色操作には円熟したものを感じさせる・・・それがワグナーの模倣であったとしても。ピアニスティックな発想というと古い系統に属する弦楽器や木管楽器にはしばしば演奏困難な細かい装飾的音符の散りばめられパズル的に組み合わされたアンサンブルや、楽器毎の性格や音色の違いを加味せず数理的に処理された結果の複雑なハーモニー志向などが挙げられる。スクリアビンの場合、それはもっと素朴な程度で留まっている。シューマンのようなものだ。改訂も加えられていたと思う。スコアは極めて単純だがそれでここまでの演奏効果を与えられるというのは非凡以外の何者でもない。悪魔的な詩という副題をつけられることもある。スクリアビンのシンフォニーとみなされうる作品は全て後年の人智学的誇大妄想スタンスに基づき神秘主義的な題名を伴っており一部は自身による。,-----,,,-----,,
スクリアビン:交響曲第2番,○ロジェストヴェンスキー指揮ロイヤル・ストックホルム・フィル(bis)1972/11/26live・CD,,とても聞かせる技に長けた指揮者で面白い演奏を紡ぐ職人と言ってもいい。そのため深みに欠ける場合もなきにしもあらず、この演奏も急くようなテンポで表層的なドラマ表現が目立ち、前半楽章の暗澹たる雰囲気や中間楽章の繊細な抒情などに今ひとつ物足りないものも感じるが、全体としては面白くできている。中間楽章はともかく前半楽章の暗澹たる雰囲気が至極苦手な私はいきなり楽しく聞けて寧ろよかった。初心者向けと言いたいところだが、オケがいかんせん楽譜についていっていないところが多く、録音のホワイトノイズを含めロジェストの意図を表現するに最良の状態とは言いがたい。これは曲によるものと言っても過言ではない。ワグナーへのオマージュがちりばめられた楽曲であり(1楽章前半のブラスからいきなり度肝を抜かれる人もいるかもしれない)、弦にとっては非常に弾きにくい複雑な装飾音符がえんえんと続いたり、リズムの奇妙にずれた細かい音符の多用や半音階的で独特の旋律は弾き慣れないと巧くまとまって響かせることができない。3番と2番の違いはひとえにこの部分が大きい。だからまともな2番の演奏というのは案外少ないのである。,,この曲をワグネリストであるリムスキーは大絶賛しペトログラードでの評判はおおむね上々だったという。今の耳からすると豪快な楽器法や強い旋律性(作曲家ものちに恥じたあまりに恥ずかしい終楽章の旋律を代表とする)にはロシア様式が現れているし、作曲技法上の工夫、表現方法、そして与える印象は当時の最先端の音楽・・・マーラーなどの西欧音楽・・・に接近もしくは並行したものを感じさせる。何も知らないで聞くと寧ろ後者の印象が強くてロシアの曲であるという意識を持てないかもしれない。いずれ国民楽派の時代においては異端であり西欧かぶれでありながらも中間をいった異色交響曲として、マニアなら一度は聞いておいたらいいと思う。前半で寝ないこと。ロジェストが来日公演で取り上げたこともある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
スクリアビン:交響曲第2番(1897-1902),○イワーノフ指揮モスクワ・フィル(MELODIYA)LPつかめない指揮者で、ここではかなりさらっとした演奏を行っている。オケがコンドラシンの手兵モスクワ・フィルであることも原因の一つかもしれないが、実にしっかりしたアンサンブルが聞かれ、この不安定な指揮者にすこぶる安定した聴感を与えている。揺れずまっすぐな速いテンポが保たれる1、2楽章に対してアーチ構造の中心にあたる3楽章は悠揚という言葉があてはまるほどにゆっくりと恍惚の音楽を紡ぎだしており、決してデロデロ演歌節ではなく遠い目をして春の花園を眺めるような感覚を与えて秀逸である。うすーい感覚というか、カロリーの低い恍惚、という独特の感覚を楽しめた。この音楽は個人的にスクリアビンの書き得た最も美しい緩徐楽章と思うが、その名に恥じない出来になっている。スヴェトラーノフの名演に飽きたらこういうのもいいかもしれない。再び戦闘的な渦巻きが始まる4楽章からアタッカで入る5楽章のファンファーレは力強く、ロシアンブラスの底力を感じる事ができる。ただ、やはりさらっとしているというか、テンポはあくまで揺れずにまっすぐあっさり進んだ感じがある。クライマックスでヴァイオリンの勝利の旋律にフーガ風に絡むホルンの歌いまわしが実にかっこいい。ロシア臭のあまりない演奏だがここではやはりロシアを感じさせる音色を楽しめる。単純で陳腐な曲にちょっと面白いワサビを効かせている。総じて○。ちょっと意外ないい演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第2番(1897-1902),○ゴロワノフ指揮ソヴィエト国立放送SO(LYS,BOHEME/MELODIYA)1950・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第2番(1897-1902),○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)1963・CD純粋なシンフォニーとしては3作しかないスクリアビンの2作目。いずれも標題的な言葉を伴うが、本作は「悪魔的な詩」と呼ばれる。広義ではスクリアビン独特の「詩曲」に含まれるが、あきらかに爛熟した末期ロマン派音楽の影響色濃い「交響曲」だ。余りに豊かな楽想と余りに安易な楽器法(シューマンになぞらえ、これを良しとする向きもあるかもしれないが)、陳腐な展開と深い思索といった、相反する要素のゴッタ煮だ。といっても1番ほど分裂症的ではないが。明らかにひとつの到達点を示す単一楽章(但し有機的に結合する2部(曲想的には3部分)から成る)の3番と比べて、特に終楽章のゲーム音楽のようなファンファーレは本人も後年かなり気にしていたということも肯ける一種幼稚さを感じてしまう。だが、チャイコフスキーや、何よりも同時代の作曲家、暗い情念の蟠りから突き抜けた明るさへの盛り上げかたに工夫を凝らしたシベリウスのそれも初期、1、2番シンフォニーとの共通点を感じる。畳み掛けるような旋律のクドさがスクリアビンの場合目立ちすぎるだけで、本質は同じ物だろう。だが一方で、リムスキーの側で思いっきりロシア国民楽派の人間関係にどっぷり漬かっていながら、他のどのロシア人作曲家とも異なる、ショパン、ワグナーの申し子たる特異な中欧的作風は特記すべきだろう。スクリアビンの中期までの曲はどこを取っても両先達の影響を指摘できる。この曲もそうだ。しかし、聴く者はそれでもあきらかに「スクリアビン」そのものを聴き取ることもできる。シンメトリー構造の頂点となる3楽章に聞かれるトリスタン的法悦性は、ワグナーそのものの音楽でいながらも奇妙な明るさと透明感、そして神秘性を秘めており、独特である。この楽章は恐らくスクリアビンの書いた最も美しくロマンティックな管弦楽曲として特筆できよう。さて、スヴェトラーノフ盤である。この指揮者が現代的演奏とロシア的伝統の高度な融合を誇示していた頃の旧録に比べ、迫真性と円熟の極みを示す、ロシアン・ディスク(今は廉価レーベルで全集盤が出ている模様)のライヴ盤が圧倒的に面白い。スクリアビン全集としては恐らくこのスヴェトラーノフ盤の右に出るものはいまい(1994当時)。オーケストラの力量とスヴェトラーノフの絶妙な距離感のコントロール〜それは決して過剰ではなく、オケの自主性を重んじ、それを舵取る程度にとどめられている〜、そして作品への共感がこのような豪華な響きを可能としたのだ。3楽章の美しさは比類無い。ワグナーよりむしろスヴェトラーノフが好むと言われるマーラーを感じさせる。刹那的な法悦、幻でしかない天上の国を夢見る哀しさを持つ。(1994記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第2番(1897-1902),◎スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(RUSSIAN DISC他)1992/5/14LIVE・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第2番(1897-1902),インバル指揮フランクフルト放送SO(PHILIPS)CD、フェドセーエフ指揮モスクワ放送SO(MELODIYA)CD,インバル全集盤はドイツ・オケによる貴重な音源。ちょっと鈍重に感じた。フェドセーエフ全集盤はゴロワノフを弱くしたような感じで、十分聞かせるものは持っている。(1995記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第2番(1897-1902),ゴロワノフ指揮,,○ソヴィエト国立放送交響楽団(LYS,BOHEME/MELODIYA)1950・CD、ボリショイ劇場管弦楽団(COLOSSEUM)LP,,いずれも物凄い音の悪さだが、スヴェトラーノフの旧録のメリハリを5倍位にしたようなロマンティックな音。スクリアビンのエキスパートとしての自信と、甘美な陶酔が心地よい。もっと美しい音で聞ければよかったのだが・・・。ロシアのメンゲルベルクと言って正解だろうこの指揮者は、よく言われるほどロマンティックな表現者ではなく、緻密なスコアリーディングを元に計算ずくで加えられた独自の解釈を、本番で忠実に再現させようとする、20世紀的な、表現主義的な指揮者であったと思う。グラズノフのシンフォニーの演奏でも、スコアに無い表情が際立っていた。でも、それはともすると原曲を凌駕する効果を産んでいた。そんなところもメンゲルベルクによく似ている。オケはポルタメントを多用し、金管はひたすら開放的な最強音という、ロシア・オケの特徴を決定付けたゴロワノフの再評価が近年進んできているようだ。むしろ遅すぎたのだ。ムラヴィンスキーやコンドラシンを聴いてロシア・オケをわかったつもりでいるのは勘違いも甚だしい。ロシア・オケのローカルイメージを払拭しようと尽力したのがこのお二人だったのだから。ちなみに後者はアメリカのレーベルだが、信用できないレーベルのため疑問符付きとしておく。録音状態は前者に増して悪くとても鑑賞には耐えない。だが、このオケで録音していた可能性は十分にあるというか、ロシア国内には記録だけに残っている未発売の音源が大量に存在している可能性が高く、それがちょろっと漏れた可能性もないではないので、載せるだけ載せておく。(1995記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----
スクリアビン:交響曲第2番(1897-1902),ゴロワノフ指揮ボリショイ劇場O(COLOSSEUM)LP ソヴィエト国立放送交響楽団盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第2番(1897-1902),ムーティ指揮フィラデルフィアO,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」,○アシュケナージ指揮ベルリン放送交響楽団(DECCA)CD,,1楽章が少し乱れるのはフーガ的な構造を駆使した凝った書法に散りばめられた細かい音符を、きっちり全部聞かせようとするがため流れが失われたということか。ねっとりしたフレージングに裏づけされた響きはよく、3楽章など聴きごたえがあり、またリズミカルな楽想の表現にも長けているが、頭拍のアクセントが強く聴きやすい反面裏拍の音符が抜けスカスカやグズグズに聴こえるところもある。ヴァイオリンに雑味あるものの魅力がある。オケの冷たい音色を生かした音響が美しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」,○イワーノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP,,雑味多くバラバラ感の強いいかにもロシア流儀の演奏で、押せ押せで流れてってしまうガウク的な部分含めこういうひたすらな半音階的旋律が続く曲ではいささか辟易しなくもないが、オケ内部から湧き上がる表現意欲の強さは買うべきだろう。これほど揃わない気持ち悪い演奏なのに強く惹かれるのである。録音はやや悪く、私の盤はさらにB面の中ごろが歪んでいてピッチが定まらず物凄く気持ちが悪い。ただ、前期(中期の前期?)スクリアビンがちょっととち狂うともうこういう「現代曲」に変容してしまうのか、と面白く感じるところもあった。妖しい動きはやがてほんとに妖しい和声感に満ちた世界へと変貌していく、この曲はその瀬戸際の曲であり、交響曲としての大きなまとまりをもった最後の曲である。普通の人には薦められないが、とにかく「本場モノ」としての確信に満ちた表現を買って○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」,○キタエンコ指揮BPO(dirigent:CD-R)2010/5/29live,,底から轟くような響きで展開されるスクリアビンで、客観性が感じられる点はハイティンクの全集盤にやや近い感じか。スクリアビンでも断トツのロマンチシズムが盛り込まれた法悦的な中間楽章が同曲の聴かせどころであるが、ロシアオケに比べ構築的なあまり跳ねず地味になるのがドイツオケ、この演奏も交響的で色彩はやや地味かもしれない。とまれ中低管の活躍する両端部はかっこがよく、キタエンコの円熟とあいまってほどよく楽しめる。雄大なフィナーレは聴きもので聴衆も盛り上がる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」,○コンドラシン指揮ACO(ETCETRA/RCO)1976/2/12live・CD,,実はけっこう手堅い演奏で地味だが、後半になるにつれテンションが上がりミスも混ざるもののライヴとしてはなかなかのしっかりした演奏になっている。1楽章は特に手堅く神との闘争を描いたにしてはいささか大人しい。だがオケはさすが大したもので巧く、木管の音色など素晴らしい。ダイナミックな曲想の連続で大仰にやればいくらでもできる非常に演奏効果の高い音楽だけれども、コンドラシンは敢えて引き締めることにより下卑ることなく純音楽的に高度なものを作りだそうとしているようだ。スクリャービンはじつはけっこう曲想に乏しいところがあり、非常に美しく印象的なメロディを造る反面ひたすらそれを繰り返すだけで長大な音楽に仕立ててしまうところが、中期にあたるこの3番までの交響曲では目立つ。そのため飽きも来易いのだけれども、この演奏くらいしっかり出来ているなら飽きないかもしれない。中間楽章である2楽章は出色の出来で、ねっとりと描かれる「人間の快楽」が、何か非常に高貴で憧れに満ちた希望の音楽に聞こえる。作曲家の貼り付けた標題を音楽が凌駕した見本のような楽章であり、緩徐楽章が得意なスクリャービンの面目躍如たる音楽なだけにコンドラシンもらしくないほどに思い入れをもって演奏しているようだ。再び楽想が戻り3楽章に突入すると1楽章とは少し趣の違う、これこそコンドラシンという強烈さもブラスの響きに聞き取れたりしてくる。思わずペットが裏返ったりしているが御愛敬。神聖な遊びという標題の意味するところは或る程度表現できているが、高みに登り神と合一するイメージはやや弱い。しかし純粋に音楽的なものを求めているのであればこうなるのは必定か。総じてまあまあ。一応○にはしておく。,,(後補)RCOライヴボックス4・1970年度(2007/2末発売)収録の音源と同一。,-----,,TITLE: スクリアビン作曲、交響曲第3番「神聖な詩」,URL: http://yurikamome.exblog.jp/1968713,BLOG NAME: yurikamomeが言いたい放題にしゃべるブログ,DATE: 06/04/2005 19:26:07, バーレーン戦での勝利、この勢いで北朝鮮に向かい合いましょう。きっと良い結果を出してくれると思います。, 今日は皆寝不足らしく、8時に待ち合わせたのですが、先方は30分ほど遅刻してきました。連絡くらい欲しかったなぁ。私は早めに出たので外で40分待ちぼうけ,-----,,,-----
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」,○シノーポリ指揮NYP(DG)CD,,スワロフスキの弟子らしい分析的な演奏で、ドイツ的な構築性を前面に出し透明感と客観性を失わない。音色による音楽の実現を志向することはないが、どこかしらマーラーを意識したような(スクリアビンは交響曲作曲にさいし「復活」実演からの強い影響を受けていると言われる)柔らかい膨らみのある音響によって無味乾燥になり過ぎることを避けている。但しここにおいてマーラーオケであるNYPからの逆影響は無いだろう。,,シノーポリも早世してのち急速に忘れられていっている指揮者だが実演向きの現代指揮者(師匠マデルナも早世した)だっただけに、真価のよりはっきりとした痕跡が残せなかったのは悼まれる。,,この曲は元来厚ぼったく後期ロマン派のうちにあり、ロマンティックにやるところに意義があるとかんがえればこの演奏に価値はないが、旋律とハーモニーだけ見れば長大で繰言ばかりの音楽の、内声部に秘められた細かい音符が装飾音ではなくきちんと機能的に働くように出来ていること、一見単純なスコアリングを、実演で整理整頓していく事によりいかにもピアニスト作曲家らしい精緻な立体構造が立ち現れる、そういう真価を見出すには唯一無比なところがある。スクリアビンが苦手な人や、中期までのピアノ曲は聴けるが、管弦楽曲は長くて臭い・・・という向きは一回試してみるといい。,,ま、印象には残りにくいけど。○。,-----,,,-----,,,-----,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」,○セムコウ指揮ワルシャワ国立フィル(STOLAT)LP,,あっけらかんとしたところはあるが、中庸という表現が最も似つかわしいか。特長は挙げづらいが聴きやすく適度に楽しめる。この曲にも注ぎ込まれているどろどろしたものは殆ど濾過されているようで、オケの特性でもあろうが、純音楽的だ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」,ロジンスキ指揮NBC交響楽団(sls:CD-R)1939/1/1live,,DANTE盤が前日の録音とされており、一楽章などかなり似通っているのだが、後半録音時間に違いが生じており、別録の可能性が高い。SLSは初出表示はしていない。ノイズが破滅的に吹き荒れる復刻状態で音量すら一定に保たれないため、慣れたすれっからしにすらとても勧められないが、ロジンスキの即物的な解釈はスクリャービンの過剰なロマンチシズムを雄渾なドラマに仕立て上げ、それなりに聞かせるものとなっている。オケがいい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),◎ギーレン指揮SWR国立交響楽団(HANSSLER)1975/5/22,23〜ギーレンの解釈により最後の和音が削られていて一時は回収騒ぎにもなったギーレン・エディションの1枚。とんがっていた頃のギーレンの尖鋭性がよくあらわれた演奏だが、録音のクリアさやオケの達者なところも大いに貢献している。このうにゅうにょした曲をきちんと分析して、各声部(とくに装飾音符で絡んでくる内声部の弦など)に分解したあとそれぞれしっかり響かせている。だから、この曲の構造的な弱さや独創性がよくわかってくる。その和声を中心とした曲作り(ピアノ的発想とも言える)に気付かされ、やはりドビュッシーの同時代人だったんだ、と思わせる。ロシア系演奏の持つ生臭さが皆無なのがいい。音楽だけをタノシムことができる演奏だ。そして、それだけでも十分聞かせるだけの魅力の有る名作だということを改めて認識させてくれる。こってり系の演奏は感動させるが何度も聞けない。逆にあっさり系の演奏は感心したうえ何度も聞ける。これは後者だ。そして、決して客観的演奏とも言い切れないところが何ともいえない味となっている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),○ゴロワノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(ARLECCHINO/BOHEME/MELODIYA)1946ああ、やっぱり凄い。マイナーロシアン交響曲ばっかり聴いてきて、改めてスクリアビンのこの大作を聞くと、その個性、その旋律の才、その和声的な面白さ(ゴロワノフはけっこう響きに拘っており、「あ、神秘和音!?」とはっとさせられる瞬間が幾度と無くある)、スケールの大きさ、そしてローカリズムから完全に脱した現代の交響曲としてのしっかりとした佇まいに感服する。ゴロワノフはさすがスクリアビンの権威、他の曲のように恣意性が曲のフォルムを大きく崩したり、ベタベタしすぎてクドくなるところは皆無。曲が息づく呼吸にあわせてじつに自然な抑揚をつけており、大きく変化するところもほとんど違和感無く聞ける。何よりその確信に満ちた音楽の雄弁さに圧倒される。これはメロディヤのLP時代から非常に音が悪く、初CD化となったアレッキーノのCDはLPに負けず劣らずの異常な低音質、それさえなければ文句無し◎なのだが、涙を飲んで○にとどめておく。ボエームで再CD化したときはどんな音質だったのかわからないが、もし向上しているなら買うべき。といいつつ私は聞いた事がございません。すいません。とにかく最初から最後まで息をもつかせぬドラマの展開に酔いましょう。中間楽章の法悦境(スクリアビンにふさわしいコトバですね)は白眉です。「神聖な詩」マニアはこれを聞かずして何を聞く、ぜひ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(RUSSIAN DISC)1990/4/14LIVEあっけらかんとした明るい演奏で録音も軽くやや不明瞭だが(バランスはいい)、その明るさゆえに清潔なリリシズムが感じられ印象的。最初は比較的速くスマートな演奏にきこえるが(それゆえ私は何度聞いてもここでは入り込めなかった)、音楽が進むにつれかなり自在な起伏がつけられてきて、響きも豊穣になってゆく。硬質な録音ゆえに逆に洗練された感もあり、もっと豊穣な演奏が聴きたいという贅沢も言ってみたくなるが、強力なブラス陣だけでも一聴の価値有り。緩徐部で木管ソロが聞かせる鳥の鳴き声など、この曲本来の妖しさが灰汁抜きされ、純粋に交錯するひびきの美しさだけが残る。スヴェトラ=爆演?そんなことはない。ゴロワノフの時代から下った、いわば雪解け後の指揮者であり、新しい明晰な理論を身につけた新しい世代の作曲家指揮者なのである。だからくぐもった響きや重苦しいロマン派流儀を振りかざす指揮者ではない。異様なテンポ・ルバートも冷静な計算に基づいてのものであるからこのようにバッチリ決まるのだ。それが見えてくるといえば見えてくるが、ここでは非常に自然である。大見栄を切るようなクライマックスでは壮大な伽藍の中にいるような感覚をおぼえる。このあとどんどん遅く長くなってゆくスヴェトラの演奏ではこの録音あたりがもっともバランスがとれているほうだろう。演奏は決然とし男らしく引き締まり、最後までミスらしいミスが見付からない素晴らしく立派な演奏。でも・・・録音の浅さが気になったので○止まり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),○スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(exton)1996/5〜スクリアビンの本格的な交響曲としては最後になる「神聖な詩」であるが、ここではいたずらにドラマを表出させるのではなく寧ろ沈潜するような音楽を描き出している。指揮者のかつての演奏とは一線を画すものとなっており、より壮大な世界を構築している。晩年のスヴェトラーノフをよくあらわした演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),○ムーティ指揮フィラデルフィアO,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),○ロジンスキ指揮NBC交響楽団(HISTORY)1938LIVE〜音は悪いがイタリア盤にくらべれば聞き易い。ロジンスキの弛緩のない演奏ぶりがスクリアビンのだらだらしたところをシェイプアップして適度に溌剌とした音楽に創りあげている。歌、歌、歌の楽曲で、ひたすら耽美的な歌をうたいまくるだけで終わってしまうという無謀な大交響曲なのだが、ともするとこってりしすぎて胃もたれしてしまうところ、ロジンスキはしっかりとしたインテンポを維持することでなんとかしのいでいる。重層的な響きの美しさはロジンスキにしては繊細に歌い上げられている。ロジンスキはよく歌をうたう指揮者だがここでもロマンティックな旋律にあわせて鼻声を披露している。ちょっと邪魔。スクリアビンらしいといえば内声部のまるでシェーンベルクやベルクのような無調的なフレーズ(弦が裏でピチカートをはじくところなどウェーベルン初期の「パッサカリア」を思い出す)もきっちり聞こえてきて、現代曲にも並ならぬ興味を示していたロジンスキの趣味が出ている。「運命」とのカップリングで(ヒストリーレーベルの20世紀の名指揮者たちボックス40枚のうちの1枚。私はこの1枚のために40枚買いました(泣))楽曲が聞き劣りしてしまうのは仕方がないが、それでも聴いてなにがしかの感銘が残るから、聴いてみてください。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),◎ロジンスキ指揮ローマRAI管弦楽団(STRADIVARIUS/DATUM)1958/2/22ローマ放送LIVE・CD〜音ははっきり言ってサイアクだが、この曲は音の悪い演奏ほど良く聞こえるらしく、ゴロワノフ盤とならんで私は感銘を受けた。スクリアビンの肥大傾向の曲をびしっと引き締めて聞かせる。オケがやや弱いが、表現意志が強く、聴いていて清々しい。ちょっと思い入れの有る盤なので多少贔屓目に◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),アシュケナージ指揮ベルリン放送SO,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),インバル指揮フランクフルト放送SO(PHILIPS),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),コンドラシン指揮ACO 1976.2.12,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),シノーポリ指揮NYP(DG),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立SO(MELODIYA)1966,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),セーゲルスタム指揮ストックホルム・フィル(BIS)1989/8/14,15〜スクリアビンの大交響曲中もっとも充実した作品で、おおまかに2ないし3の部分(楽章)に別れるが全て続けて演奏される。いささか楽天的で、無上の快楽を描いた卑俗的な側面を持つ作品だ。ストックホルム・フィルはさすが北方的、生臭さが無く清潔で透明な音は曲のロマン性をうまく濾過して聴き易いものに仕立てている。巨漢セーゲルスタムは陶酔的なテンポでこの曲をたっぷり雄大に描く。それは部分的に非常に美しい。内声部が強調されているかのように大きく響き、それゆえ音に奥行きが出ているが、それが過度になりしばしば旋律が埋没してしまっているところも聞かれる。中間楽章は清潔な音が独特の桃源郷を映し出しており特徴的。全般、管はいいが、弦が弱いかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),バレンボイム指揮 パリO(ERATO),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),フェドセーエフ指揮モスクワ放送SO(MELODIYA),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」(1902-04),ヤルヴィ指揮デンマーク放送SO,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:交響曲第4番「法悦の詩」,○ストコフスキ指揮RPO(DA:CD-R)1969/6/15live,,最後は拍手喝さいの雨嵐でいかに「生」が凄かったかを伺わせる演奏記録。ストコフスキ・クレッシェンドは確かに効果的だ。しかし演奏自体アクが強いかといえば全くそんなことはなく、寧ろ普通にすら思えた。曲の特殊性からきている部分も大きいだろう・・・これは手を入れたり見栄を切ったりすることに躊躇のいらない曲なのである。その裏返しで、どう極端にやっても効果にそれほどには差は出ない。何しろDA盤なのでエアチェック音質に輪をかけたような音であり、○より上はつけられないが、颯爽とした面と気を煽る面のバランスの非常によい演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第4番「法悦の詩」,○ブーレーズ指揮VPO(DIRIGENT:CD-R)2009/6/12LIVE,,完全アウトな音源だがまあいい。とにかく響きが美しく、調和しており、いささか古めかしいながらも当時先端の妖しくゆらめく楽想を、しっかりつなぎ止めるように厚みを保ちながら足どり確かに進めていき、畳み掛けるような表現をまじえながら長大なクレッシェンドをぶらすことなく最後、激しく引き延ばされた終止音にいたるまで明確に作りあげる。最初はいかにも鈍重だが響きに耳を集中すると「聞き方」がわかってくる。NYPのような雑味なく、録音はともかく、のめり込んで聴ける。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第4番「法悦の詩」,○ミトロプーロス指揮NYP(GUILD)1953/4/19live・CD,,このレーベルは一日のコンサート放送をアナウンス含めまんまCD化するというどこかの海賊レーベルで聞いたことのあるような企画からスタートしたものだが、新発見が時々混ざるのと比較的低価格であるがゆえ侮れない。もっともデータが「正規化」されているだけで既出の「誤データ盤」と同じだったりもするようなので注意は必要だけれども。音質改善は無い、ノイズ慣れしていないかたには向かない。これはルビンシュタインとのサン・サンがメインとなるプログラムだが、裏メインとしてミトプーの音盤カタログにも出ていなかったこのスクリャービンがあげられる。ミトプーのスクリャービンはもちろん法悦の詩しかなく、スタジオ正規盤でなおかつかなり抽象的な即物性を持った、自身の芸風に寄せた演奏で、法悦の微塵も無い力感だけで出来上がったものだった。単品なら面白いが、スクリアビン側より聞き比べると没個性的な所は否めない。だがこの演奏は「ここまでやりきったらもう楽しいとしか」。運動なのだ・・・そっちの運動ではなく・・・素直にスポーツとしての運動。これは艶かしさの一切無い、オケがひたすら機能性を発揮して筋肉を見せ付ける、マッチョな演奏なのである。ミトプーとバンスタにつきまとうソッチのイメージとつなげられてもまた困るが、そういう不自然なマッチョではなく、健康的な運動公園でこじんまりと日常的に行われている運動選手のトレーニング、そういったイメージ。いやこじんまりといってもそれは録音状態に起因したもので、実演の迫力は凄かったと思う。集中力、演奏精度共にスタジオ録音を上回っている(後者は録音が悪いせいで聴こえないだけかもしれないが)。○。,,"","Rubinstein & Mitropoulos - Recordings 1953: Saint-Saens", Borodin, Franck, Scriabin / Arthur Rubinstein, Dimitri Mitropoulos," NYP","",-----,,,-----,
スクリアビン:交響曲第4番「法悦の詩」,○モントゥ指揮サンフランシスコ交響楽団(DA:CD-R)1947live,,実に明るく音響的な演奏だ。このオケの硬質で開放的な響きが確実な技巧に裏付けられているさまは表現の奇矯さを除けばストコフスキの法悦を思わせるところもある。オケの実力が発揮されたシカゴ並の機能的な演奏として特筆される演奏であるが、反面「機能」が前面に出てしまっているがために情緒的な部分が金属質のアンサンブルに払拭されてしまいがちなところもある。しかし「音」としてこれは理想に近いものを表現できており、モントゥの構築性と計算ずくの推進力にめくるめく色彩の渦に巻かれてしまう感覚を覚える。惜しむらくは途中で録音の継ぎがあること(別日のつぎはぎかもしれない)、あと継ぎではないと思うのだが、ストコのような妙なパウゼが挿入される箇所があるところで、モントゥらしくもなく、不思議な感覚をおぼえた。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第4番「法悦の詩」,マデルナ指揮ハーグ・レジデンティ管弦楽団(SLS)1967/10/11live,,これは上手く行った。最初ねっとり粘着質の表現にスヴェトラを濃くしたような演奏になると思いきや、主部に入ると速いスピードでドライヴしていく。マデルナなので音のキレは悪いがそれがブヨブヨした曲の雰囲気にマッチしており、感情的に引き込まれていく。色彩感はマデルナに期待されるほどではないがオケを考えるとこの透明感は仕方ない。前半でここまでやってしまうのはどうなの、と思いきや盛り上がりは持続し、クライマックスでは覇気ある壮大な(ここはスヴェトラ的)表現へ。オケならびに第一トランペットも僅かなミスのみでマデルナの機知に付けている。思わぬ拾いもの。むろん何よりスゴイ演奏とは言わない、思わぬ。録音もよい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第5番「プロメテ〜火の詩」,アルベルト指揮ORTF&cho(ina配信)1971/6/9放送 live,,ルドルフ・アルベルトはセント・ソリのレコードがやたらマニアに聴かれていて、ところがACCORDがいきなり廉価復刻したらワゴンに直行、しかも比較的新しい人というイメージで、マニアだからいくつか持ってはいるが、印象に強く残るものはなかった(プレートルについても同じイメージがあった)。名前のイメージからか職人的でフランスの演奏に期待される響きが引き出せない人のような気がしていた。そう、期待していなかったので驚いた。最初の神秘和音の美しさ!重心を敢えて軽く、粘り気なく響かせ(それでもしっかり調和している)、そのうえでこの色彩感!このオケではロザンタールが得意としたカラフルな管弦楽の饗宴。ロザンタールの雑な部分は無く、まあそのぶん個性は薄まっているのかもしれないが、でも、気づかせてくれたことは、この曲は短い音符が要ということだ。ソリスト不詳なのは完全に融和的な演奏だからで、そのような扱いで良かったのだ(終演後の反応からして名のある人ではあると思う)。パラパラと胡麻を撒くように高い音を散らし、分厚い和音をユニゾンでただ動かしていくようなスクリャービンのやり方をそのまま音にするだけではいかにも、ロシアロシアした泥臭さが残ってしまう、そのあたりに動きを出し、だからといって協奏曲的な大仰なやり取りをするとまた古臭くなってしまう、ここをピアニストはまったく声部の一つとして「管弦楽を動かす」ことに専念し、取り出して聴けば生硬で冷たく感じるかもしれないが、そこがじつにオケの志向とあっている。交響曲と言いながらピアノとトランペットのための協奏曲を書いたと言えなくもないショスタコチックなこの曲を、ピアノとトランペット主体ではなく、たとえば弦のピチカート、たとえば鉄琴、そのへんのやはり「胡麻を撒くような音」によって響きの拡散性を強く印象付けたり、そういったことをやって、まったくフランス的な〜スクリャービンもそういう表現を求めたろう〜夢幻的で、決してどぎつくない音楽を仕上げている。褒めすぎたが、同じことをダラダラ書いてるだけなので、全世界で100万人はいると思われるプロメテウスファンは一度聴いてみてほしい。リヒテル/スヴェトラコンビとは対極にある。明るいスクリャービン。合唱が入ったら「シレーヌ」かと思った。ちょっといじってるかも。案外保守的な聴衆は戸惑い気味な拍手から始まる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第5番「プロメテ〜火の詩」,リヒテル(P)スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(parnassus他)1972/4/3live・CD,,最初少し緩いものの、ひたすら力強く派手なオケ、発音が明確過ぎて武骨だが圧倒的迫力のリヒテル、録音の悪さを置いておいてもこれは、全盛期の両者がわたりあった有数の記録。プロメテウスのとりとめもない音楽を、ソナタをやるようにしっかり「ソロとして」音楽的に構成して聴かせているリヒテルに驚かされる。そしてオケとのアンサンブルはアンサンブルでしっかり組み合い、総体としても至極まとまっている。起伏は他録のように大きくはつかず緩急がなく、録音のせいもありひたすらフォルテのイメージだが、弛緩なく最後まで聴かせる充実したものとなっている。響きに無頓着なわけでもなく神秘和音もちゃんと聴き取れるから、ロシアの演奏だからといって馬鹿にはできない。再発を重ねた古くからある盤。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:交響曲第5番「プロメテ」,○ミトロプーロス指揮VPO(M&A)1958/9/28live・CD,,ミトプーにしては良好な録音状態で聞けるスクリアビン畢生の誇大妄想。現代作品に意欲的であった反面わかりやすさを追求しバンスタへの芸風の橋わたしをした側面もあるミトプーではあるが時代の旧い前衛なだけにそれほど聴きづらい演奏でもなく、とりとめのない楽想も印象派音楽的に聞き流せ、むしろあっさり聴きとおせてしまうところがミトプーの巧みなところといっていいだろう。VPOとは完全に相性がいい。アンサンブルと指揮がずれるという場合がこのオケにはしばしば聞かれるがここにはまったく合体して「奇怪な幻想を妖しく」演出していく。リアルにすぎる演奏の気もしなくもないが、スヴェトラと言われて信じてしまう人もいそうなほどに自然に聴ける演奏。職人です。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
スクリアビン:交響曲第5番「プロメテ」,メシュチャニノフ(P)vista vera スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立so781226、針音露骨な板起こし音悪し。魔術的な曲、ピアノ協奏曲とは違うがもっと前に出てほしい。ねっとりした遅い演奏で音も疎、しかし大波のうねるような合唱部圧巻。,,最近は「プロメテウス」と表記することが多いが、この時点でスクリアビン(スクリャービンと今風に書くのに抵抗が・・・)はフランス語で作品をつづっていました。ちなみに兄弟子?敵?のグラズノフもフランス語で書いてましたね(フランスで客死)。,,「火の詩」。交響曲とも交響詩とも呼ばず、独自の「詩曲」というジャンルの曲としていました。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
スクリアビン:交響曲第5番「プロメテ」断片(実験的ステレオ),◎ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(history他)CD,,※この録音は信じられないほどクリアで、色彩的で素晴らしい。当時の最高の録音と演奏の幸福な出会い。色光ピアノの光が目に見えるようだ。ピアニストも立っていて、演奏がいいのか録音がいいのか、断片だけではわからないが、とにかく良い。,,"ストコフスキーによる最初のステレオ録音(ベル研究所との協同) →ここ",,"historyのSP復刻第一集(もとは全10枚CDだったものを2001年位に二組に分けた)到着、早速このサイトのパブドメ音源(正規ではLPで復刻が出ていたとのこと)と比較。ワグナーに関してはすべて別録ないし被らないSP音源と思われる。展覧会の絵抜粋の抜粋はまだ聴いてないが全四曲ということから同じと思われる(モノラル含む)。historyは音源(録音年も?)を明記していないので同じものかどうかデータだけでは判別できない(実験的ステレオ録音かどうかすら書いてない)。わたしの入手目的の一つであったスクリャービンの交響曲第5番プロメテ「火の詩」から計6分あまりの抜粋は、録音年表記が一部異なるが同じでしょう。(正解は1932年3月12日ライブ△のようですが、historyでは1931/1932年となっておりました。私の古いリストに3月15日というものが記載されていましたが(交響曲第4番「法悦の詩」と同日)ここによると恐らくこの組み合わせだと3月19日の録音だと思われます。というかそういうの持ってたのか。原盤はvictorですがいかがわしいCDになっていたんでしょう。それにしてもパブドメっていいね。著名演奏家の骨董録音はかんたんに入手できる可能性が高いので買うのが馬鹿らしくなる)",,こういうサイトがもっと検索できるエンジンだったのに何で今はあんななんだろう某Google。,,△これは実験的ステレオではなく正規セッション録音もしくはそのテスト録音という意見が強い。実験的ステレオというより偶発的ステレオであり、二枚刃でカッティングされた一枚の原盤から拾った音を左右から聴こえるステレオに整えたという。本来は左右が逆に聴こえるのが正解というが、この理屈はよくわからない(いずれ近年手を加えているのだ)。ライヴ説に関しては咳の混入が根拠とされるが、テスト録音だったらありうるとのこと(ゆえに全曲盤とはやはり違うものだろう)。確かに精度が高過ぎる。精緻なライヴ録音のできる環境のあった時代ではない。演奏価値は揺るぎないのだが。,-----,,,-----,,
スクリアビン:神秘劇「宇宙」一幕の断章(ネムティン編),○コンドラシン指揮モスクワ・フィル、国立合唱団、リュビモフ(P)オルロワ(ORG)(RUSSIAN DISC/BMG/MELODIYA)1973・CDスクリアビンが書き残した最後の作品の断片であり、これはネムティンが演奏会用に編曲したものの初録音盤である。私の知る限りこの曲はあと1、2回しか録音されてないはずで、初録音もあったもんじゃないが、名匠コンドラシンが取り組んだ事で非常に価値の有るものとなっていることは確かだ。編曲者の存在と構造の明瞭なコンドラシンの音楽作りが曲感を変えてしまっている可能性があるが、洗練された響きと色彩的な楽器法によって(モチーフが引用されてはいるが)5番シンフォニーからさらに一歩進んだより現代的な音世界を楽しめる作品になっている。ピアノソロが重要な役目を果たすが、それだけを聞いても後期ソナタを彷彿とさせる調子で面白い。型式感がなく流れの読めない曲ゆえ冗長さは否めないが、派手で妖しい音の奔流に身を委ねるのもまた一興。無歌詞合唱に彩られた悪魔的なクライマックスの盛り上がりは古今東西のどの曲よりも地獄に近い。ベルリオーズなど可愛いものだ。コンドラシンでなかったらグダグダで聞いちゃいられない演奏になっていたかもしれないが、例えばスベトラがやっていたらもっと誇大妄想的で熱狂的な演奏になっていたかもしれない。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:二つの小品(op.11-9、10),○ジョイス(P)(columbia)1941/11/11・LP,,ショスタコの協奏曲の穴埋めに入れられた二曲で、ジョイスの確かな指を感じられる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番),
○クレツキ指揮フランス国立放送交響楽団(KARNA:CD-R他)live(1955/11/24?),,分厚く力強く厳しい演奏でオケはかなり本気である。テンポに実はかなりデジタルな起伏があり、遅くなると異常に粘るため、冒頭の木管アンサンブルを始めとして音線が繋がっていかないところも散見されるものの、おおむね精緻な整え方ですっきりとした響きが支配的になっている。スクリアビンのスコアは単純だが響きはなかなかに複雑で分厚く、その響きをいかに明瞭に浮き彫りにするかが鍵になってくる。その点よくできている。リマスターは快適だが録音自体バランスがよくないモノラルのため時々スカスカに聞こえたり、ヴァイオリンなどどことなく音がばらけて聞こえたりもするが、これは仕方ないだろう。スクリアビンは非常に耳のいい作曲家で、20世紀音楽への幕をあけたと言われるのもなるほどと頷ける響きが横溢していることがこの演奏を聞くとよくわかる。後年の音列書法による新ウィーン楽派の作品とよく似た楽器法が現れたりするところもはっとさせられる。ラフマニノフは微分音まで正確に聞き分けることができたというが、スクリアビンも自然音に含まれる倍音要素を分解し明確に捉えることができたようであり、神秘和音に代表される独特の重低音を含む不協和音も、共振音を含む自然音を再現もしくは「凌駕」しようとしたと思われるものである。弦楽器の響きに厚みを持たせるために長い音符を刻ませるということは古来よくやられてきた方法だが、(ロシアにはグラズノフのように長い音にトリルを多用し厚みを持たせる「伝統」があり、その延長上と考えることもできるし、ピアノの書法からの単純な移しかえとも考えられるが)この曲など非常に刻ませる場面が多く、それはともすると単純に厚みを持たせる以上に、その音響的な「ブレ具合」を音色のひとつとして取り入れていたようにも感じられる。いずれ神秘のものだがこの古い録音ではそこまでは聴き取れないものの頭で理解することはできる。最後の盛り上がり方は実に誇大妄想的でスクリアビンにふさわしいスヴェトラ的伽藍の構築だ。終演後客席がややどよめき気味だが成功していると言っていいのではないか。○。盤にはただ「交響詩」とあるが法悦の詩は元々詩曲のひとつとして(ドビュッシーの夜想曲のやり方だ)かかれたもので、「交響曲」「交響詩」のどちらでもなく、どちらでもあるから、間違ってはいない。初期の習作に交響詩のような題名をつけている例もあるが、それとは違います。,
(後補)inaより1955年11月24日のコンサート(悲愴等)が配信(Amazonデジタルミュージックでは2016年8月〜)、同一音源と思われる。forgotten recordsから音盤化もしている。
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スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番),○アシュケナージ指揮ベルリン放送交響楽団(DECCA)CD ,,重量級の演奏で安定感のあるひびきとスピードが心地よい。洗練されているのか野卑ているのかわからない美しさがある。原曲の「難しさ」・・・たとえばペットの終始難しさ、終盤の音程など・・・はやはりどうしてもそのまま残っている。このあたりがプロフェッショナルな根からの指揮者ではないところか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番),○グーセンス指揮フィルハーモニア管弦楽団(medici)1956/2/14・CD,,美しく清潔な演奏。グーセンスらしい押しの弱さがあるが、明るい色彩と無難な解釈の演奏ぶりであり、初心者向けかもしれない。スヴェトラをはじめとするロシアのデロデロ節を知ってしまうとこういうのは歯ごたえが無いと感じるかもしれない。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),△コーツ指揮ロンドン交響楽団(PRIVATE他)1920/4,5 CDになってますがハッキリ言ってLPで十分です。起伏の無い詰まらない法悦。これじゃ彼女も満足せんだろ。もちろん録音年代から言ってそういう文句は贅沢なのだが、それでも個性のカケラもない演奏。クーセヴィツキーの爪のアカでも飲ませてやりたい。この人もロシア移民だがロシアの豪気なところが少しも無く、現代の演奏で聞かれるような「巧いんだけどね」タイプに聞こえてしまう。発射しない音楽。△。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),○ギーレン指揮ハンブルグ北ドイツ交響楽団(LIVE SUPREME:CD-R)1976/11LIVEうまくできている。優等生的な演奏ともいえそうだが、旋律以外の声部に力をあたえ、とくにピッコロがよく突出して聞こえるのが新鮮だった(単に録音位置のせいかもしれないが)。スクリアビンを現代音楽側から見た分析的な演奏を行うのかと思ったら少し違って、けっこう面白く解釈している。ただ、この曲には他にも多数のスペシャリストがいる。それらと比しても巧いと言えるのか、私には自信はない。最初に言ったとおり、優等生的演奏であり、ある意味フツーなのだ。とりあえず○ひとつつけておくが、決して突出した演奏ではない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),○クーセヴィツキー指揮ボストンSO(LYS) CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),○ゴロワノフ指揮モスクワ放送交響楽団、ポポフ(TP)(ARLECCHINO,MELODIYA他)1952(47?)・CD いささか表層的な感もあるが聞ける演奏。生ぬるい中期スクリアビン特有の世界に更に甘い雰囲気を加えており、ちょっとヘキエキするところもあるがまあまあ面白い。攻撃的な前進性が曲の弛緩を防いでおり、ロシアらしい底響きする音世界に浸る事が出来る。プロメテの後に聞くとやや聴き劣りするが、録音もそれほど悪くないので(但しゴロワノフにしては、だが)○をつけておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya/BMG)1977/2/8live〜颯爽とした中に過激な表情もまじえ、同曲の面白味を程よく引き出している。後年の円熟した表現に比べればまだまだ若い指揮ぶりだが、壮年期のスヴェトラーノフをよくあらわした演奏といえよう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),○スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立SO(INTA GLIO)1968ロンドンライヴ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),○スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立SO(MELODIYA) 初出1967,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),◎スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立SO(RUSSIAN DISC)1990.4.14LIVE〜他盤と同じ可能性あり。ロシアン・ディスクはデータ誤りが多い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),◎スヴェトラーノフ指揮フランス国立管弦楽団(naive)2001/1/25live〜総演奏時間25分32秒の凄絶たる名演である。中規模の管弦楽曲として前プロに組まれる程度のものと扱われてきた同曲に、「交響曲」という名前をあたえるのに何の躊躇も与えさせない、そういった演奏だ。スヴェトラーノフの演奏にはしばしば付与される「神懸かり的」という形容詞を、ここでも使わせて頂きたい。クライマックスの、これ以上は不可能なほどの超遅テンポで粘りに粘った表現は、オケの美しく透明な音で浄化され、高くおおきく、眩い光に満ち溢れて、それはもはや崇高ですらある。スクリアビンが聴いたらさぞ感動したことだろう。「法悦」という個人的で卑近な感覚を、スクリアビンの目したとおり、万人の解脱と神との融合という壮大な妄想に解き放つものとなりえている。そんな演奏を私は他に知らない。解釈の全般はEXTON盤とほぼ変わらず、オケの力量や総体の完成度でいえばそれらロシア盤に水をあけねばならないかもしれないが、ここでスヴェトラーノフとフランス国立オケは不思議な釣り合いを見せており、ライヴならではの臨場感も含め、独特のカタルシスを与えるものとなっている。終演後のブラヴォーの嵐はこの演奏の凄さを裏付けるものだ。最晩年のスヴェトラーノフの底力を見せ付けられた。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),○スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(EXTON)1996/5〜長い間お蔵入りになっていたが、奇しくも指揮者の死と時を同じくして発売とあいなった全集盤の一枚。ここでは晩年様式による非常に壮大な演奏が聴ける。テンポは一貫してかなり遅く、唯独奏トランペットの提示する主題が現れると急速に加速し、波が引くとまた遅く横長のデリケートな音楽となる。主題が回復するとまた急加速。テンポのみならず、とにかくダイナミクスの震幅がかなり大きいのだが、決していやらしくはならない。コントラストの付け方からして硬質ですらある。オケの調子や全体のバランスという面では過去の演奏録音に水をあけるかもしれないが、指揮者の最後に到達した独特の世界を楽しむことのできる盤だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),○ストコフスキ指揮チェコ・フィル(decca)〜とても色彩的な演奏だ。チェコ・フィルの各声部の音色がじつに良い。色彩的というと先ごろ亡くなったロザンタールの颯爽とした演奏を思い浮かべるが、それ以上に(どきつくはならないのだが)むせかえるような音楽の華を咲かせている。スピード面ではあまり緩急をつけない率直な演奏だが、場面場面の楽器の際立てさせかたがとても美しい。はじめからもう耽溺するような演奏ぶりなのだが、ハープのきらめきが強調されて響いたり、一部楽器が突出して聞こえてきたり、さすがストコフスキ、いじりまくっているといったところだ。しかし決して曲の本質から外れるものではない。同曲、表題からもわかるとおりセクシャルな意味合いが強く、あからさまな描写音楽、とされることもあるが、ストコフスキは決して「いやらしい」描写音楽にはしていない。それはチェコ・フィルの清潔な響きのせいも大きいだろうが、神秘や淫靡とは無縁の、「ただ音楽としての娯楽」を追求したストコフスキの意外な生真面目さを反映しているように思えて仕方ない。変な幻想なく極度にロマンティックな音楽を堪能できる演奏です。クライマックスの迫力がすごい。ストコフスキにはまだたくさんの録音がある。ステレオ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),○ストコフスキ指揮ヒューストン交響楽団(EVEREST)1959/11初出〜鮮やかな録音だ。ちょっとオケが近すぎるが、まずこの時代では最上級の録音と言っていいだろう。演奏も立派である。ストコフスキの他演とくらべとくに解釈に変化はないが、後半の高揚感は極めて色彩的な表現に彩られる一方で、十分に抑制がきいている。派手に弾き散らかして終わるような下品な真似はしない(それが悪いとは言わないが)。鐘が鳴りひびくいかにも妖しい桃源郷の場面はあくまで明るく美しく、いやらしさは無い。スクリアビン的にどうかといえば疑問が残るが、この曲にあまり変な先入観を持ちたくない向きには薦められる。ストコフスキ向きの曲だといえよう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),◎ムラヴィンスキー指揮モスクワ・フィル、ユリエフ(TP)(BMG/MELODIYA)1945・CD紛れも無い名演だ。漲る力感、クライマックスへ向けてのドライヴ感、ソロ奏者の極めて高い音楽性、音楽を弛緩させない集中力の持続、どれをとっても第一級である。むしろソロ性の強いモスクワ・フィルであるからこそレニングラードの手堅い演奏から一歩抜きんでた奔放な表現が可能となったのではないか。とくにソロのユリエフの演奏はロシア奏法の粋と言ってもよい美しいもので、扇情的なヴィブラートが確かな音程感の上に力強く響き渡るさまは、まったく予備知識なくして聞いても深く印象に残るものと思う。ムラヴィンスキーがお気に入りだったペット奏者ユリエフの同曲唯一の録音だそうである。ボリショイ歌劇場管とソビ響の首席をつとめた名手だとのこと。それにしてもムラヴィンスキーの「法悦の詩」の録音は案外多いが、ここまでのめりこんで聞ける演奏はなかった。いや、他は全て客観が勝っており、その冷静さが「あまり好きじゃないんだなこの曲が」と思わせるほどだった。それがここではまさにこれこそが「法悦の詩」だ!と膝を打つほど迫真味のある演奏になっている。録音の悪さなどどうでもいい。別の曲が混信してようが構わない。そういう演奏が世の中には確かに存在し、これもまさしくその一つといえる。最後、静寂の中ハープの煌くような音がきっちり捉えられていて印象的だった。美しい。確かにこれはロシア近代の名曲であり、19世紀のワグナーを前提に20世紀音楽の起点で輝く楽曲であると思わせるに足る力のある演奏である。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC)1959/4/21LIVE〜およそ法悦とは縁遠い顔のムラヴィンスキー(ファンのかたすいません!)、でもその演奏は十分に法悦を感じさせてくれる。プロコのところでも書いたがこのライヴは当時にしては音が良く、別記の録音よりも迫真味がある。主部に入ってすぐソロ・ペットが妖しい旋律を吹くのだが、そこで完全にこけているのは痛い。あとでこっぴどく怒られたハズである。この演奏はムラヴィンスキーにしては率直というより奔放な感じがする。そのあたりが派手なカタルシスを感じさせるところだ。また、ムラヴィンスキーの手にかかると曲の構造がよくわかる。そこに別の面白さがある。後半盛り上がってくるところで、内声の弦がひとしきりピチカートを弾くくだりがあるのだが、そこだけ取り出してみると調性感がまったく無くなっているのがよくわかる。そのほかいろいろと普段気にとめないようなところにスクリアビンの工夫が凝らされているのがわかり、楽しめる。まあ雑味があるので○ひとつにしておくが、聴いて損はない演奏だ。聴衆の反応はふつうだが、よーく聞くとブラヴォーだかハラショーだかの声が聞こえる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),○ロザンタール指揮パリ・フィルO(EMI他)CD〜客観的で色彩的なフランス指揮者お得意のパターン。こういう「法悦」も可能なのだ。ロザンタールも今や鬼籍。合掌。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),アシュケナージ指揮ベルリン放送SO ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),インバル指揮フランクフルト放送SO,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),ストコフスキ指揮ニュー・フィル(BBC)1968/6/18LIVE/ロイヤル・フィル(MUSIC&ARTS/BBC)1969/6/15LIVE〜イギリスのオケを使っているせいか率直でスマートな演奏に聞こえる。色彩的な処理も板についていて、違和感を感じさせない程度にうまく響かせていて秀逸。この2盤印象が若干異なり、ロイヤル・フィルのほうが速く感じる(演奏時間も若干早い)。そしてどちらかといえば大人し目かもしれない(それでも終演後のブラヴォは物凄いが)。ニュー・フィル盤は音がクリアなせいかいろいろと聞こえてくる。中盤でドラの音が強調(追加?)されていて面白かった。但し、ソロのペットが外しまくっているのは傷。アーティキュレーションに細かい指示があるようで、ソロ・ヴァイオリンが奇妙に伸び縮みしていたりするのも面白い聴き所だ。ニュー・フィル盤の結部の壮麗さは凄まじい。当然ブラヴォーの嵐である。もしスヴェトラーノフがいなかったら、ストコフスキこそがスクリアビンの交響曲の具現者として祭り上げられていたかもしれないな、と思うほどだ。両盤ともテンポはそれほど揺れないのはチェコ・フィル盤と同じ。低音がしっかり響いているので、音響的に安定した感じがする。良い録音で細かいニュアンスを汲み取れるという意味ではフィラデルフィアやチェコ・フィルのスタジオ録音より優れているとは思うが、今一つ強烈なものに欠けている気がして、いい演奏ではあるのだが、無印としておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),ストコフスキ指揮フィラデルフィアO(PEARL)1932.3.15,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),バレンボイム指揮パリO(ERATO),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),マゼール指揮クリーブランドO(LONDON),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),ミトロプーロス指揮NYP(COLOMBIA)〜昔イれ込んだ演奏が今は全く聴けない、という経験は愛好家なら一度は味わったことがあるだろう。この盤はスクリアビンの目した法悦性を原曲以上に生生しく浮き彫りにした演奏として長く記憶に止まっていたが、最近聞き直してみて、評価を変えざるを得なかった。私のLPの保存状態が悪く、録音バランスも狂っていて(擬似ステレオっぽい電気的変換を経ているように聞こえる)耳障りが悪いせいというのもあるが、どうもここ何年か「作曲家の強烈な個性が異常に強く押し出された曲」というのは「恣意性」を加える余地が少なく、そこへ無理に演奏家の個性を詰め込もうとすると、すこぶる座りの悪い駄演になってしまう傾向があるように思えてならない。マーラーなど、指揮者の力で崩しすぎると、断片(歌曲的フレーズ)の集合体としては面白く聞けても、近代管弦楽の極致「交響曲」としての感動を十二分に与えるようなスケールの大きな演奏にはならない(誰の演奏を指しているというわけでもないが)。だからといって平均値的な演奏が良いというわけでも(決して!)無く、つまるところ個人的な「好み」の変化にすぎないのかもしれないが・・・。この演奏についてはストコフスキほどではないにせよ、兎に角嫌味を感じる。ブラスや弦が厚ぼったく「旨みがありすぎる」ため(誉め殺し)、胃にもたれる。NYPというよりフィラデルフィアの音に聞こえるのはひょっとすると前述の「歪み」のせいかもしれない。とにかく昔はお勧めだと思っていたが、今はそうでもない。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(multisonic/MELODIYA/BMG)1958/12/2ムラヴィンスキーはいくつもこの曲の録音を残している。その中でこの演奏は比較的個性的なほうだ。ボレロ同様この盤はピッチがおかしく、いきなりのペットが音外しのように響いてしまっているのは少々驚かされる。しかし音楽が盛り上がっていくに連れ気にならなくなる。圧倒的なペットの表現力、クライマックスでの大きなゴングの音。スヴェトラーノフのような巨大な造形力は無いが、特色ある音の響かせかたをしており、純音楽的演奏の限界に近い所までは行っているだろう。よい演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)(1904-07),モントゥー指揮ボストン交響楽団(RCA)?〜速い速い。すっきりと細部に固執しないやり方はムラヴィンスキーを思い出させる。手元の盤がちょっと状態が悪いもので、音色がどうだとか、色彩感がどうのといったところははっきりいってよくわからない。モノラルでもあるし、印象に残らない。モントゥーと私はどうやら相性があまりよくないらしく、ここでもちっとも楽しめなかった。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スクリアビン:夢op.24,○アシュケナージ指揮ベルリン放送交響楽団(DECCA)CD,,ピアニストとしてかつてはスクリアビンを弾きこなしていたアシュケナージはわりとスクリアビンの指揮においても適性をはなっている。力強くしかしゆるくうねる旋律が濃厚な響きを伴って一節ぶってくる。オケがあるていど意識的にかっちりやるオケでないと、ワグナーの構造を抜いた旋律構造のみを流用したようなゆるゆるの横長音楽スクリャービンの管弦楽曲は聴いていられないものになりがちで、ワグネリズムの匂い濃厚な特にこの作品、録音を調べるとけっこう職人的オケに発掘系職人指揮者がやっているのはそのせいと言えよう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スクリアビン:練習曲嬰ハ短調op.2-1(ストコフスキ編),○ストコフスキ指揮ハリウッドボウル交響楽団(scc:CD-R)1945/8/26live,,亜流ショパンとかそのへんの前期スクリャービンではあるが第二主題とでも呼ぶべき静かなフレーズにはあきらかにロシア国民楽派の手法が聞いて取れ、スクリャービン自身の嫌ったロシア臭が、ストコフスキーの下品な表現によって顕にされているのが面白い。編曲はセンスがあるがいささかスクリャービンらしくない感もある。ストコフスキーが好んで取り上げた編曲小品。ショスタコやラフマニノフにもある。私は網羅するほどマニアではない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ステンハンマル:交響曲第1番,○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(LANNE:CD-R)1998ベルワルドホールlive,,まだ初期の色の残る保守的過ぎるくらいに保守的な折衷的交響曲である。両端楽章にはワグナー+ロマン派中期交響曲の影響が色濃く、3楽章も含め全般にベートーヴェンが範とされているのが露骨である。シンプルな古典志向はニールセンにも近いがだらだらした長さは(特に終楽章コーダの書法においては)ブルックナーだろう。またブラスがポイント的に重要な役割を果たすのはシベリウスに同調した音響感覚の発露だ。北欧的といえば北欧的である(マーラーの言うとおり「北欧的とは具体的に何のことかわからない」けれども)。これらは晩年スヴェトラだからそう聴こえるということも否定できない。部分的には初期のフランツ・シュミットやアイヴズのやり方を彷彿とさせる無理のある書法や強引な転調が織り込まれ、また緩徐楽章である2楽章はこの曲の白眉であるワルツ風主題が旋法的な清新さを振りまき洗練されている。,,スヴェトラ晩年の「チェリやケーゲルを思わせる」繊細な音響感覚に自然に感情を織り込んでいく様子がみられ、特にここでは抑制的に聴こえるが、大人の演奏ともみなせる。最晩年スタイル、といっても本当はここから晩年スタイルを円熟させていって欲しかったのだが、時間は待ってはくれなかった。この人はそもそもブルックナーが得意だったから、チェリとは別の到達境地を見てみたかった気もする。オケはやや弱い。エアチェック音源であり、その点でも割り引いて聴こえている可能性がある。最後は盛大な拍手と一部ブラヴォ。,,スヴェトラはソヴィエトの指揮者としてソヴィエトのトップオケのシェフの座を得、壮年期は国外活動よりも国内で酷使されまくった人民的指揮者である。ソヴィエトのトップ指揮者、表向き体制側指揮者特有の慢心と国家的に育てられた芸術的環境への過信も否定できないが、しかし劇場や国家的演奏会で場数をこなし人の目に触れる機会が多かったせいもあろう、バレエ音楽をやるような臨機応変さに旋律偏重・流れ重視でいながらも構成的にガウクのような崩れをきたさないスタイルで、新世代の旗手として前任イワーノフより人気を博すことになる(西側ではキタエンコ、フェドセーエフと並んで三羽烏と呼ばれた頃もある)。,,幅広いレパートリーをこなす技術と作曲家的な積極解釈の賜物でもあり(アカデミックな範疇で十二分に力を発揮した作曲家スヴェトラーノフに比べ作曲家イワーノフの悲惨さといったらなかった)、個性的な表現解釈をムラヴィンスキーやコンドラシンとは違う「音楽」にでき、それが人民と呼ばれる人々に受け容れられる派手さとわかりやすさを持ったものだったからであろう。,,但し古い録音、モスクワ放送オケや歌劇場オケの時など、万人受けするものとは少し違い、前衛に向くような乾いた響きの骨ばった音、メカニカルな構造への志向も感じられた。そちらの個性は非力なオケを任されたせいでやむなく「教育的に施された手段」ともとれる。ただ、本来的な個性の一部だったとも思う。受ける要素は前記のようなところであったので、一旦心の底に沈めたのだろう。,,晩年になり国立オケと別れ国外客演を主体とした活動を行う中で、表層的というかチェリ的な「純度の高い薄さ」を感じさせる高音偏重の音響と、カスカスした簡素な構造そのものを露呈させることがあったが、このあたりが本来のスヴェトラであった可能性はあると思う。何せラフマニノフ的とはいえ20世紀中盤という時代のソヴィエトの作曲家であったのである。バンスタを好んだというのは(バンスタ晩年の胆汁気質な表現とは違うけれども)高音かつ旋律偏重という部分で似たものを感じただけだろう。,,本人はソヴィエト時代国内に留まった(留まらざるを得なかった)なりの狭い見識しか無かった節がある。しかしおそらく特に後年は国外でもっと幅広い活動を望んでいたと思われる(チャイコなんかウンザリだったのだ)。特に雪解け後積極的に国外に出され、オケの層の厚さと技術の高さ経験値の高さで回数がこなせることから、地上移動しかできず動きのとれないムラヴィンスキーの代わりとなっていた頃に一気に海外認知度が上がった。ソヴィエトの指揮者というと誰であっても「重戦車のような演奏」との評が貼り付けられるばかりで指揮者表記ミスすらあった頃のことである(もっともmelodiyaですらそういうアバウトな音盤表記をして混乱させていたのだが・・・今も続いている)。,,「外気」の中で、指揮者もオケも壮年期の覇気漲る音楽を提供することができ人気を博した。英国での凄まじい人気ぶりはCD化されているが、その理由には客観的演奏や様式美的演奏が指揮者やオケの目指すところとされていた時代の西欧の業界風潮に反した「異分子」であったせいもあるだろう。感情的指揮者が悉く鬼籍に入った後に「遅れてきたロマンティスト」が来たわけである。ストコフスキは意識的に恣意的解釈をなした多産型現代指揮者としてスヴェトラと似たものを持っていたように思うが、ストコですら亡くなった時代に、物凄い指揮者があらわれ客演していった、あるいは物凄いオケを引き連れて100年遡ったようなチャイコを演じて見せた、日本での特に80年代から90年代の頻繁な演奏会は更に遅くにそういったインパクトを与えた。コンドラシン、ムラヴィンスキーが没したことも大きいが。
ステンハンメル:弦楽四重奏曲第3番,○ボロディン四重奏団(TELESTAR/Barben)1958/6/7・LP,,最近はステンハマルと表記されることが多い。未だ19世紀的な国民楽派の範疇にいたことが如実にわかる曲で、特殊なリズムと清澄な旋律を除けばチャイコフスキーの弦楽四重奏曲に非常に似通っている。一部シベリウスの「親愛の声」を思わせる構造的書法が伺えるものの、基本的に単純なロシア国民楽派的作品と言えよう。だからボロディン弦楽四重奏団で聴くとまるきりチャイコに聴こえてしまうのだ。緊密なアンサンブルの中にノンヴィブ奏法を織り交ぜひたすら正確な音程で音楽の本質を自然に抉ろうとする。結果、この作品が人好きする素直な要素はあるものの、浅薄な部分の存在も否定できないことがわかる。いや、旧ボロディンQがストックホルム訪問時にこの作品を選んで録音していることはその得意分野を考えれば自明であろう。ステンハンメルを聴くなら5番あたりかと思うが、ロシア国民楽派が好きで旧ボロディンQに愛着があるなら聴いて損は無い。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
スミス:アメリカ国歌,◎ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA/rare moth:CD-R)1969/10/6live,,どんな国でもどんな人種でも、その国で最も愛されている曲を皆が喜んでうたい楽しんでいるさまというのはすがすがしくなぜかしら涙もさそうものである。フラブラがどうこうとか拍手のタイミングがどうこうとかいうのとは無縁の、どちらかというとロックバンドのライヴに近い感覚かもしれない。わーわーいうとります。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スミス:アメリカ国歌,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(RCA)1942/3/19・CD,,あれだけアメリカに根を下ろしていながら決してアメリカ音楽に積極的ではなかったと言われるトスカニーニ、それでもファシズムに対する怒りからくるアメリカ民主主義の理想への共感は言われる以上に大きかったのだろう、大戦を挟んでこういう曲の演奏が少なからず行われている。ゆったり大仰で立派すぎるほどの演奏。トスカニーニの編曲によるもの。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スメタナ:「わが祖国」〜モルダウ,ワルター指揮NYP (magic talent他)1941/2/4,,板についたものでこの安定感はオケによるところも大きいだろう。録音無茶悪いがスタンダードと言わせてもらう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スメタナ:モルダウ,○クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(DA:CD-R)1976live,,他録と同じか。クーベリックのお国ものは表現のアクが強く、とくにバイエルン相手のころはオケの特性にまかせて弦楽器などかなりばらけた表現を許していた節があるが、この演奏を聴いてもヴァイオリンにまるで往年のロシアオケのような音色の不統一感と表現が揃わないがゆえの薄さが目立ち、ただそれ起因で強い感傷性を卑近に感じさせる長所もある。オケ自体にムラがありアンサンブルが乱れることもいとわない場合があるのも確かで、このコンビが如何に相性がよかったとしても、ライヴ録音における完成度という点ではやや問題はある。ダイナミックで強靭なクライマックスには思わず引き込まれるものがあり、この曲の印象派的な描写性を前面に出すというよりは国民楽派音楽の象徴として、フィンランドにおけるフィンランディアのような表現をとるのは道理かもしれない。それにしてもやはり東欧オケのような響きがするなあ。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
スメタナ:弦楽四重奏曲「わが生涯より」,○カーティス四重奏団(WESTMINSTER),,作曲家はよく自分の生涯を音にしたがるものだ。しかしまあ、この悲劇的なソロで幕を開け幕を閉じる曲はいくぶん劇音楽的な構成をしていて、全般国民楽派的ないかにものお膳立ての聴きやすい音楽であるあと、最後の盛り上がりを断ち切る「耳鳴り」のフラジオが耳が聴こえなくなったことを示したところが少々前衛的な印象を与えるものであるけれど、あざといといえばあざといし、劇音楽的な表現といえばそれまでの「描写」である。カーティス四重奏団はややメロウに描いているがそのぶん旋律をたっぷり聞かせ、両端以外の部分の叙情性をおおらかに訴えている。牧歌的な印象をもった。十分悲劇を表現する力はあるがここではそれを余り強く出さず、あくまで「アメリカとのカップリングの曲」としてバランスをとったような表現に終わっている。それはそれで変に深刻なより聴きやすい。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
スメタナ:弦楽四重奏曲第1番「わが生涯」,○ブラフ四重奏団(EMI)CD,,歪んだ擬似ステ録音のために音場が遠くなり迫真味がそこなわれている。すがすがしくも感傷的な演奏ぶりで各楽器の音色にはいずれも素晴らしくソリスティックな艶があり、ヴァイオリンのヴィブラートも美しく雄弁で、それだけにもったいない。終楽章は抑制的なテンポで精度のあるところも示しいかにも東欧団体といった趣があるが、それとて一枚オブラート越しに伝わってくるような音響。室内楽のデジタル復刻は難しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スメタナ:弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」,○フロンザリー四重奏団(victor/PRSC)1929/3/19,20ビクタースタジオNo.1,,抑えて忠実に演奏しているのが聴いて取れる。とくに前半楽章にメトロノームテンポというか、しゃっちょこばった感じが強い。そのぶん技巧派ならでは「制約下での表現力」が味わえる。前時代的なメロメロの音、ひっきりなしのポルタメント、しかし決してフォルムが崩れない。音符の「切れ」はとても明確だ。リズムの切れのよさ、「引っ掛け」の巧みさはこの団体の長所のようである。後半楽章ではもっと自由になっているようにきこえるが、それはこちらが慣れてきただけでSP録音特有の演奏家の「緊張」はあると思う。最後の耳鳴りがリムスキーやボロディンのように聴こえ、なおかつさっさと切られて余韻も無しに、「純音楽的」に終わるのも興味深い。これもSP録音特有の時間制約か、啓蒙主義的な客観的処理かもしれない。録音はそれなり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
スメタナ:交響詩「わが祖国」〜モルダウ,○シュヒター指揮NHK交響楽団(KING,NHK)1959/10/4放送live・CD,,堂々たる演奏で下手にヨーロッパのやる気の無い有名楽団にやらせるより余程完成度が高くなっているのではないかと思う。うねうねとうねる伴奏音形の連綿と綴られ行く中に一切のほつれがなく、ズレもブレもなく、だから主旋律や、コントラストのついた中間部も活きてくる。シュヒターの面目躍如といったところだろう。アンコール音源かもしれないが、それであればなおさら驚愕である。○としておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
スメタナ:組曲「わが祖国」より「モルダウ」,○シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(westminster/tahra)1957/5・CD,実に落ち着いたテンポで、よく言えば細部まで丁寧、悪く言えばドイツ臭くリアルに冷静につづられていく。tahraがCD初出というが冒頭のような静かな場面で混信のような雑音が激しく入りやや聞きづらい。ちょっと特有の魅力があり、土俗的な演奏とはまた違った大人の魅力がある。漲る民族的なパッションや、イマジネイティブな情景描写の力には欠けるところもあるが(中間部が終わりモルダウ川の煌きにかえるあたりの木管からヴァイオリン、ハープの繊細な絡み合いと纏綿とした美しさは例外・・・冒頭主題に戻ってからは実に重く遅く弦が崩壊寸前でブラス絶叫パーカスぶっ叩き、しかし木管は素朴に棒吹き、なんじゃこりゃになる)、ホールで客観的に聴く音楽のよさというか、主情的な演奏が見失いがちなスコア自体の魅力に立ち返ったような、他国の音楽を他国のものとして、自国のワグナーのような音楽をさばくやり方でしっかり表現しているというような演奏。シェルヒェンの立ち位置がよくわかる。爆演なんてイメージはライヴ録音がやたらとCD復刻されたここ10数年に出来たものだ。きちんと曲を腑分けしてから、自己流に組み立て直して提示する人。変だけど、「爆発」なんて非制御的な解釈は施さない。,"
Le Concert Imaginaire
Scherchen
Tahra

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スメタナ:組曲「我が祖国」〜モルダウ,シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(tahra他)1957/5・CD,,大人しいモルダウだな、と思ったら大間違い。中間部後半でえんえんと管楽器がユニゾンに近い形で吹き続ける場面、その響きといったらワグナーかな?マーラーかな?というくらいキツい現代的な表情で、シェルヘンがニヤつき始めるのが目に見えるようで、まだ続くのかよと思ったら弦による主題再現の圧倒的なことといったら、まあほんとウィーンの響き込みでモルダウの国民楽派的野暮ったさを払拭する設計である。これはセッション録音か。録音は意外と悪い。解像度は低い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
スメタナ:連作交響詩「わが祖国」〜「モルダウ」,○ワルター指揮NBC交響楽団(SERENADE:CD-R)1940/3/2序奏部の木管アンサンブルのテンポが危なっかしい。確かにいきなりうにょうにょした音形を剥き出しで演奏しなければならないのだから大変だが、弦の奔流が入ってきて初めてほっとした。とても流れのいい演奏で歌心にも欠けず非常に聴き易い。録音ははっきり言って悪いのだが、あまり補正をしてないそうで雑音まみれでも音の抜けがいい。力強い音で聞かせてくれた。改めてこの曲の尖鋭性に気付いた次第。各国国民楽派の嚆矢ともいうべき作曲家、ドヴォルザークが新世界の終楽章でオマージュ音形をしのばせるのもうなづける。実はわが祖国はあまり好きではないのだが、モルダウはやっぱり別格だった。いや、ワルターの名技のせいもあろう。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
スメタナ:連作交響詩「わが祖国」〜モルダウ,ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団(BSO/IMG)1967/4/22放送live・CD,,ボストン交響楽団自主制作ボックス収録の一曲。分厚く美しい響きのしなやかな流れ、舞曲の弾むようでいてたしかなリズム、ラインスドルフの良い面が出ている。なかなかの聴き応えで録音もよいのだが私の盤は一箇所音飛びがあり興をそいだ。。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
セッションズ:交響曲第3番,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1957live,,この曲はわりと演奏していたようである。一部録音に難あり。冒頭より響きに明らかにマーラーのエコーがあり、二番に続きシェーンベルクの影響が強い。新古典から十二音に向かっていった作曲家の指向を象徴している。言われるほど晦渋ではなく意外性より必然性をとり豊かな音響と色彩性を重視した作曲家らしく、無調性であっても非調性感はそれほどないから聞きやすさはある。しかしだからこそもっと削ぎ落とすべきでこれでは長すぎるようにも思う。ミュンシュは曲を一本にまとめにかかりすぎるところもあるが、音響がバラけないモノラル録音であることもあり求心力の高いリズムの立った流れのみで聞きとおすことができる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
セッドン:16,◎ピアノ・サーカス(argo)CD,,偏愛というのはこういうことを言うのだろう。ポップスの興奮を単純な電子ピアノアンサンブルの中に極めて純化した状態で持ち込んだ傑作に名演であり、プログレ的発想でありながらミニマルの領域を物凄く身近に引き寄せ無邪気に浮き立つ気持ち、和声に宿るほのかな感傷をかもすさまは絶妙といっていい。誰しも一枚は、個人的感傷を掻き立てられる音盤を持っているものだが、私にとってこの曲は、例えばブルックナー全曲を投げうってでも身近に置きたいものである。◎◎◎◎◎。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
セッドン:16,○演奏家不詳(動画配信),,ナイマンで名をあげたピアノサーカスが作曲直後に録音して知られたもので、分野としてはミニマルで、複数のピアノアンサンブルというまとめるのが難しい曲であるからして、そちらはスピードが遅かった。youtubeでは「打ち込み」によるものも配信されているが、スピードは申し分ないものの何かが足りなかった。これはミニマル音楽の持つ「娯楽性」をスピードによって熱気を持ったものに仕上げた佳演。元の音源不明。,,"https://youtu.be/Ig71fGcYk2Q",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ソーゲ:セミとアリ,○デゾルミエール指揮パリ音楽院管弦楽団、短い管弦楽曲。キッチュで時代と国をよく反映した作品。わりと楽しめる。デゾルミエールは躍動感ある。(lys)現状lysのみ(SP復刻),-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
ソーゲ:バレエ音楽「牝猫」,○マルケヴィッチ指揮モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団(ConcertHallSociety/SCRIBENDUM)CD・1972/7,,なかなか機知に充ちたミニアチュールで、サティからプーランクの手法としての表層的な流れを受け継ぎながらも、新しさを失わない、というか、非常に映画音楽的な洒脱さがあって、瞬間瞬間の面白味を持ち味としている。演奏は立体的で適度な派手さをもったマルケらしいものだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ソーゲ:バレエ音楽「旅芸人」,○作曲家指揮ラムルー管弦楽団(le chant du monde/KING)CD,,楽しいキッチュな作品で、「パラード」から毒気を抜き職人が書き直したようなバレエ音楽、と言えば大体想像がつくだろう。職人性という意味ではミヨーに近いが冒険は無く、ガーシュインに対するグローフェのような感じ、と言っても作風はぜんぜん違うけれども。派手で色彩的なオーケストレーションが演出する刹那的快楽の連環を辿り、哀歓の興に気を揺らせる、世俗的ではあるが決して焼き直しやマンネリズムには陥らない、まさに20世紀初頭パリ的な、コクトーの六人組の方向性を受け継いでいたことを示す代表作。映画音楽作家というのもうなずけるそつのなさ、わかりやすさだ。国内盤オムニバスCDに一度なっているが廃盤の模様。私はデヴェツィ・ロジェストのピーコン1番との組み合わせLPで聴いているが別にCDで構わない類の音だと思う。意外なほど演奏精度も録音も良く、ソゲの指揮も作曲家自演に多い堅さを殆ど感じさせない手馴れたものである。わりと派手に鳴っているが下品ではなく、透明でニュートラルな音色。とりあえずこれとプラッソンくらいあれば十分ではないか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,PING:,TITLE: ボードとソーゲのミヨープーランク&ソーゲ,URL: http://drenkaizan.exblog.jp/1323123,IP: blog-web06.exblog.jp
ソーゲ:ピアノ協奏曲,バイロン(p)デゾルミエール、パリ音楽院o(lys他)。同時代の新古典的なピアノ協奏曲群と歩調の合った作品で、プロコフィエフの1番の影響がある。ミヨーよりも保守的だが特有のリリシズム、世俗性を感じさせる所もある。独奏は巧みだがオケはだらしない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
ソーゲ:ピアノ協奏曲第1番,○デヴェツィ(P)ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(le chant du monde他),,楽器用法などめくるめく個性的ではあるのだが、一貫して古風なロマン派協奏曲的楽想が支配している。2楽章はこの曲の白眉でサティ的ピアニズムの延長上にある単純さの美学が光る極めてフランス的な美観をはなっているが、両端楽章はどうしてロマンティックで、線的で構造性の希薄な書法が裏目に出ていることもありグリーグからチャイコフスキー、ラフマニノフに至る近代ロマン派ピアノ協奏曲の系譜を「受け継ぎ損なった」だけのように感じられるところが痛い。それでなくても設計が甘く冗長感があり、何か、いやこの録音自体が独特の響きを持つソヴィエト録音であることも多分に働いている印象だと思うが、カバレフスキーなど社会主義レアリズムのピアノ協奏曲に近似した「二流感」が漂う。演奏陣に不足は無いと思うが、解釈に対して主張する強さも繊細さも感じ無い。ソゲは個性的ではあると思う。響きに初期ミヨーの協奏曲を思わせるところもあるが構造性を否定した数珠繋ぎのような書法は独特で、フランス風でもロシア風でもない個性が底流にはある。ただいかんせん・・・楽想が足りない。○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ソーゲ:映画音楽「ザイルのトップ」,デゾルミエール指揮,,premier de cordée, ザイルのトップ, 1944年作品, 曲、アンリ・ソーゲ, 指揮、ロジェ・デゾルミエール,,山岳小説の傑作の映画化第一号!,,映画本編:,"https://youtu.be/zGFeJVLqtKs",-----,,,-----,
ソーゲ:協奏的メロディ,○ロストロポーヴィチ(Vc)作曲家指揮ソヴィエト国立交響楽団(russian disc)1964/1/14初演live・CD,,ろくなチェロ協奏曲のない20世紀にあって(プロコとかほんと苦手)、こんな多彩なオケを従えた、ローカル色も酷い個性も技巧ばかりのつまらなさも楽器の性格そのものでしかない渋さもない、さすが職人ソゲというか、題名からして旋律の存在を押し出しているからわかりやすい面もあろうが、かと言ってメロディアスと言うほどでもない。初演を約束されたロストロポーヴィチのあの音色に頼っていないのだ。その超絶技巧を見せつけ続ける書法は小気味良いくらいで、もちろんロストロ先生だからここまで聴かせられるのだが、しかし純粋に「曲として」耳をひきつけてやまない。繰り返しになるがオケ表現が多彩で、時代が新しいなりの新鮮な部分もあるが映画音楽程度に聴きやすく、前衛とはまた違う。そのへんの塩梅もまた良い。ウォルトンもよいが、ソーゲのほうがチェロの魅力を良く知っていると思う。オケも迫力がある。統率も良い。日本帯がつけられ日本盤扱いとしてたまに図書館で見かける盤なので、興味があればどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ソーゲ:組曲「パリの風景」,ジュネス・ミュジカル・フランス、ル・コント指揮Ortf(fbro)バレエというかシアターミュージックぽい。パリの風物を標題にもつ小曲を集めて、平明で世俗的で何の工夫もないパノラマを展開。普通の人は好きだと思う。演奏は個性的ではないが現代的にそつがない,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
ソーゲ:預言者,デゾルミエール指揮(lys他)ソプラノ独唱と簡素なオケが楽章間の性格の違いはあれど共通して平明でわかりやすいソーゲ的な作品。音楽的にどこにも引っ掛かりが無いので歌唱頼り。録音はよくレストアされておりノイズがない。演奏はさすがにこなれている。後発既出。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,