-2019/1/9(29修正)prokofiev※未掲載リスト未反映
プロコフィエフ:ヴァイオリンとピアノのための5つのメロディ,○クリモフ(Vn)スヴェトラーノフ(P)(LANNE:CD-R/MELODIYA)1982/4/13音楽院live,,板起こし。ヴァイオリンリサイタルの定番曲でありこの盤のメインである(スヴェトラ自作自演を除けば)。ラヴェルの匂いを嗅いだような脂の乗り切った時期の小品集だが、このコンビにもしっくりきたのだろう、雑多なプログラムの中でも安心して聴ける出来となっている。スヴェトラのスタイルはバンスタのピアニズムを彷彿とさせる、伴奏というよりアンサンブルを仕掛けるような積極的なものだが、このようなプロコにしては単純な曲であっても、しっかり書き込まれたものでは威力を発揮する。なかなか。ただ、ソリストとしての技術にはちょっと問題はあるように思う。これはクリモフにも言えることだが・・・全般性急激烈でメリハリを付け過ぎて、その場限りのセッションになってしまっている。リサイタルはそれでいいのだろうけど。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,○イーゴリ・オイストラフ(Vn)ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(M&A)録音日不詳live・CD,,イーゴリをいぢめる論調はそろそろ減ってきたように想うがはっきりいってヘタじゃないですよ。おやじさん(の最盛期)がすごかっただけです。この演奏、録音のよさもさることながら自分のイメージにストレートにあっていて凄くよかったです。曲がどうもスカスカなところもあるので、シゲティのように「何かを引き出さないと」表層的な曲感で終わってしまうロマンティックな協奏曲ですけれど、スケルツォなんて凄く躍動してよかったし、全てが「予想通り」やっていてくれてよかった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,○グッリ(Vn)チェリビダッケ指揮ナポリ”スカルラッティ”放送管弦楽団(ARKADIA)1957/12/22LIVEグッリははっきり言って役不足。でも、がんばっている。プロコフィエフの娯楽性を強く打ち出した演奏に聞こえるが(ラテン系のオケだからそう感じたのかもしれないが)、グッリはとくに2楽章の技巧的な場面で表現に余裕が無く、ドライヴ感に欠ける箇所も散見される。だが、反面この悪い録音にも関わらず、音符の隅々までしっかり聞こえてくるのは希有の例だ。そのために3楽章の激しく美しい高まりが、プロコの奇怪な構造に支えられていることがはっきりわかる。チェリのつくる音楽の見通し良さによるところも大きいだろう。終わってみて、危なかったけど、面白かった。そう言える演奏にはなっている。佳演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,○シゲティ(Vn)セル指揮ニューヨーク・フィル(BWS他)1945LIVE今聞くと旋律にもリズムにも魅力があり、3楽章クライマックスなど、ソリストが1楽章主題をトリルで再現する一方で木管楽器が3楽章冒頭の音形を散発的に重ねていくなど、構造的な創意も見られ、非常に面白い曲で取り上げるソリストも多い作品だが、作曲当時は評価を受けられず、シゲティが再発見して積極的に取り上げるまでは秘曲の位置に甘んじていたという。まあ、短すぎること(20分くらい)、技巧をひけらかすようなアクロバティックな表現に欠けること(カデンツァも無い)など、ソリストがコンサートプログラムとして取り上げるのに難しい面があったことは否定できない。シゲティはこの曲の中に何を見出したのか。このライヴを聴いていると、さほど難しくないパッセージでテンポダウンしたり、あるいは1楽章のバラライカを模したピチカートが出てくる前後でどんどん走っていってしまうなど、技巧的な不安定さをまず感じる。しかしその反面、音色には非常に魅力的な艶があり、それもフランチェスカッティみたいにおんなじ美音で終始弾き続けるのではなく、音符音符で常に音色的な「揺れ」が見られ、不安定ではあるが、とても人間的な感情をつたえる演奏になり得ている(これは晩年に技巧が衰えたころにさらに明らかになっていく)。1楽章は余りの気迫と緊張の余り指がうまく回っていなかったりするが、その緊張感は異様なほど伝わってくる。前記のように走ってしまったり(セルはどうにかついていっているからまた凄いが)するところもある。2楽章はこの短い協奏曲の中で唯一技巧的な楽章だが、わりとさらっと過ぎてしまう。素晴らしいのは3楽章だ。新即物主義とも呼ばれたシゲティの、とても情緒的な面が出ており、そのレッテルに疑問を提示するものだ。前記したトリルの場面では、シゲティの最弱音が注意深く挿入される木管とあいまってとても夢幻的な・・・多分他に聞けない類の・・・法悦的とも言える世界を映し出し秀逸だ。このフィナーレは素晴らしい。拍手もまあまあ。録音マイナスで○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,○シゲティ(Vn)ビーチャム指揮ロンドン・フィル(COLUMBIA)1、2楽章に強い魅力を感じた。ビーチャムの至極安定したオケの上で自在に謡うシゲティ、美演と駄演の間で微妙なバランスを保ちながらも、何か非常に心の奥底に訴えてくるものがある。安定系の演奏は数多いが、これほど音程がずれ指がついていかない箇所も混ざる反面、そんなことがどうでもいいと思わせるほどの感情的な高まりを感じる演奏は他に無い。まあ、ザッハリヒな演奏だなどといろいろ言われる人だが、私にとってこの人の演奏はとにかく「音色」なのだ。弓を走らせるときは弓圧をかけずに走らせ、返すところで微妙に圧をかける、そういう奏法(だと思う(笑))は、たとえば習字で筆をふるうとき、始めと最後だけは止めをしっかりかけて、その間の線はちょっとかすれたようになる。そういう線は非常に勢いがあり、味がある。その「かすれ具合」がいい。しかし普通にしていては味の有る文字は書けない。シゲティはそのために運指がこけるだとか難しいフレーズで急減速するとか、他の要素を犠牲にすることをいとわない。だから技巧的に「下手」とされがちなのだ。でも一方でシゲティの演奏がこれだけ高く評価されているのは、この奏法があるからなのだ(と思う(笑))。シゲティのやり方は正攻法ではないかもしれない。しかし唯一無比と言わざるを得ない。直線的な解釈(とはいえ微妙に変化をかけてはいる)なのに、とても変化に富んでいるように聞こえるのも素晴らしい。この演奏はセル盤並に音が悪いので○ひとつとしておくが、とにかく1楽章がいい。例のピチカート前後の焔のような激しさは特筆もの。2楽章は技巧的なパッセージで行き詰まることもあるが、全般的にはとてもクリアにシゲティの奏法を味わえる。3楽章はややリアルな世界になってしまい、夢幻的な高揚が今一つだった。総じてセル盤より僅かに上か。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,○シゲティ(Vn)メンゲス指揮ロンドン交響楽団(PHILIPS)1960/6シゲティはこの曲を再発見・愛奏し、その解釈については作曲家より多大な賞賛を受けた人物である。何度か録音しているが、これは最後の正規盤だ(海賊盤は知らない)。旧盤に比べ、ここではずいぶんとスケールが広がっている。テンポをゆっくりとり、思い切り絶叫するように弓を運ぶ。ステレオのせいもあるが、ちょっとシゲティの音が「くどく」感じてしまう。指先の微妙な揺らぎがどうも耳につく(ごく短いポルタメントも混ざるし)。このテンポダウンについては間違いなく技巧的限界に基づくものだと思うが、好き嫌いは分かれるところだろう。しかし、音のひとつひとつに意味づけをし、ひとつひとつ慈しむかのように丁寧に(と言うほどヤワではないけれども)表現し、しっかり踏みしめて進むようなところは演奏的晩年のシゲティの美学が生きている。テンポが遅いぶん雑味が少なく、細かい変化に富んだ解釈をじっくり楽しむことができる。テヌート表現にも余裕がある。セル盤でもビーチャム盤でもみられた1楽章ピチカート乱打直前のアッチェランドがここでは全く聞こえない。民族的興奮は前二盤に大きく水をあけるが、ピチカートのあと、後半から最後にかけてゆっくり丁寧に繊細に表現される夢幻的な世界は前二盤とは異なる世界である。クリアな録音であるからこそ聞けるものである。オケの多彩な動きもよく聞き取れるのでマニアックで奇怪なプロコフィエフ書法もついでに楽しめる。2楽章もややゆっくり。前二盤で感じられた荒々しさが抜け、ややおちついた感がある。最後まで力感が続かないのか、意図的に抜いているのかわからないが、音色的には非常に面白いものの、客観が勝り印象派的演奏になってしまっているところもある(ここでもプロコがオケに施した独創的な書法をゆっくり楽しめる)。3楽章はテンポは普通。前二盤と比べ、肩の力が抜け、リラックスした雰囲気が有る。冒頭より一くさり息の長い旋律をかなでるが、感傷的な雰囲気すら感じられ、高音の意図的に細い音がとてもかなしい。このあとリズミカルなフレーズが特徴的なパッセージに入るが、ここはもう少しリズミカルな表現が欲しい。前二盤にはそれがあった。ただ、そのあとにとてもゆったりとした美しいひろがりのある演奏がオケと共に雄大に表現され、極めて美しい。スラーで音階をかなでる箇所から、ややアクが強くなるが、オケが重なってきてからはまるで交響曲の最終楽章のような重厚な世界が展開。そして一山越えると、グラズノフ以来の伝統、旋律のトリルによる表現が透明な感傷を呼ぶ。印象派的混沌はソリストも一緒になって紡がれて終わる。凝縮力が今一つか。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,△D.オイストラフ(Vn)ハイティンク指揮RCO(KARNA:CD-R)1972/10/8LIVE,,美しさは音色のみ。オケソリスト共に振るわない。テンポが遅く莫大で三楽章などオイストラフとは思えないくらいメロメロだ。調子悪すぎ、こんな録音は出しちゃ駄目だよな。。法悦的なテンポはたしかに一つの見識に聞こえなくもないが録音がいいだけに辛い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,○D.オイストラフ(Vn)クーベリック指揮プラハ放送管弦楽団(ANDROMEDIA)1947/5/15live・CD,,録音が不安定。冒頭より欠損もしくはオケの音が極端に小さくなる場面が多々あり、ソリストとの録音バランスの悪さがきわ立った状態だ。が、個人的にはこれが父ストラフのプロ1のベスト演奏。どこにも隙の無い、隅々まで音の一つ一つまで表現解釈が施され全てが違和感なく融合しきって流れを作る。独壇場とも言っていいだろう。何と言っても流麗なボウイング、豪快なのに繊細なニュアンス、自然に高度な技術を駆使することのできる、この時点での才能はハイフェッツをも凌いでいたと確信する。太く艶のある音色はけして単調にもならず飽きない。貧乏たらしくなく、下卑ず高潔である。テンポが性急で、切羽詰った感じが強すぎると思うかたもいるかもしれないが、クーベリックがバックということもあり、曲がそれを要求している気もするし、そのスタイルに私はプロコの1番はベストマッチだと思う。オイストラフ全盛期のプロコとして記憶に留めたい一枚。録音状態をマイナスして○。オケ聴こえない・・・,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,○D.オイストラフ(Vn)作曲家指揮モスクワ放送交響楽団(LYS/VENEZIA他)1938スタジオ録音・CD,,性急なテンポ取りが特徴的で三楽章など最早突っ走るような感もあるが、独奏者が暴走しているわけではない。プロコが即物的な解釈とスピードに拘ったのはプーランクの証言を得るまでもなく自作自演のピアノ協奏曲第3番の、技巧が追いつかないテンポ設定で既に明確に聴き取れるところである(バックのコッポラもまたスピードに拘った指揮者だが)。プロコフィエフはリズムの取り方が生硬で如何にも非専門指揮者といったふう。不協和な響きや暴力的なフレーズを強調せず、綺麗で透明感があるのは特筆すべき点か。フランス的、土俗的な部分を出さずラヴェルの曲のように純粋にリリカルな音の粒立たせ方をしているところが面白い。独奏者の技巧はやや若い。1楽章の一部と2楽章にはもつれるように怪しい部分が聴かれ、後年の完璧に流麗な解釈の土台はきくことができるものの、旋律も痩せがちで、まだまだ完成された表現とは言えない。クーベリック・ライヴに繋がるものは確かに感じられるが、作曲家の指示に引きずられ自由にできないせいもひょっとするとあるかもしれない。○にはしておく。veneziaがいろいろまとめて復刻している。LYS(DANTE)との音質差は不明。他にも組み合わせの違う復刻があったが、いずれも板起こしであろう。モスクワ交響楽団という表記のものもある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,○D.オイストラフ(Vn)コンドラシン指揮モスクワ・フィル(melodiya)オイストラフは非常に高度な技術を持っているが、それをこまごまと提示していくのではなく、あくまで自分の解釈を大づかみに表現することに専念し、細部は時には捨てられる。だから楽曲を楽しむのにはいいが、分析するのにはたぶん向かない。シゲティとは正反対だ。弱音での装飾音符がごまかしというか省かれたり、「指のすさび」が聞こえる個所もあったりして、意外とテクないのかもしれないなあ、という印象を与えがち。でも、無心で聞きとおせばきっとこの曲に今まで見出せなかった魅力を彼なりに抉り出してくれているのがわかるから、ぜひ。モノラル。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,D.オイストラフ(Vn)ブール指揮ORTF(ina)1959/6/1(1959/6/21放送)live,,ina配信でもAmazonデジタル配信でも聴ける。コンサート冒頭を飾ったせいか、まだ熱していない感および余力を残している感。最初は音がメロウで意外(豪胆な音よりこのくらいの柔らかく適度に細いほうが耳に優しい気もするが贅沢な物言いだ)。解釈表現的に少し堅い感じもする。プロコフィエフの冒険的な時代のトリッキーな仕掛けが、確かな技術により鮮やかに浮き彫りにされてゆく。鮮やか過ぎてすんなり通り過ぎてしまう。しかし技巧を見せつける二楽章にてオイストラフここにあり、というとんでもない曲芸的な表現を披露する。曲芸、というと小手先のイメージがあるがすべて「実音を伴う」。あまりの速さに小手先の動きが省かれるところまで聴いてしまうのはヘッドフォン派の悪いところだが、演奏精度は全般にあくまでライヴであり、オイストラフの録音でもあまり上には置けないと思われるかもしれないが、そのように聴くべきだ。三楽章は変な楽章でソロヴァイオリンが冒頭と最後の主旋律以外は高音アルペジオや変なトリルや装飾音でオケの伴奏にまわるようなところがある。シゲティの技術的限界と表裏一体のギリギリ切羽詰まった表現とは違い落ち着いた安定感が内容的な部分に何か足りないものを感じさせるが(この演奏はオイストラフにしては集中度の高さはなくいつも以上に灰汁が抜けている、前プロだからだろう)これは普通はこれでいいのだろう。客席反応も曲への馴染み無さもあってか普通で、長い拍手の後の方が少し盛り上がる程度である(舞台上に戻ってきたタイミング)。書き忘れたがブールのバックは素晴らしい。やや複雑な曲を鮮やかに処理、響きの透明感を維持し技巧的解れを許さない。同オケ同時代にこの高精度の演奏は素晴らしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,D.オイストラフ(Vn)ブール指揮ストラスブール管弦楽団(GRANDI CONCERTI他)1961LIVE,,これ、CD化していると思うのだが、とにかく私の盤はピッチが低すぎるのだ。この曲の妖しいきらびやかさはもっと高いピッチでないと映えない。それに、演奏がどうも、あたりまえすぎる。余裕がありすぎるのだ(びみょうなところだが余裕しゃくしゃくに技巧をひけらかしているのだといっているのではない、解釈表現は寧ろ地味なほどであるが、余裕が出てしまっているのが気になると言っているのだ)。余裕があることはいいことだが、「余裕の無さを演じる」のも演奏家の一つの技術である。そういう音楽も20世紀にはたくさんあるのだから。ギリギリの感覚というのが、時々は出て欲しい。音色はとにかく艶深く赤銅色のなめし皮のようで、じつに効果的ななまめかしいヴィブラート、だがそれらは余りに安定しているため、初めてこの曲に触れる人にはいいかもしれないが、シゲティを知ってしまっている者にとっては、いかにも余技でやっているように感じられてしまうのだ。いや、贅沢なことを言っているが。録音も悪く、最後のトリルが終わらないうちに拍手が入ってしまう、まあ、拍手に関しては私は寧ろ素晴らしいと思うが。ブラヴォが凄い。実演だとまた違うのだろう。録音として、無印としておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,D.オイストラフ(Vn)メータ指揮ロス・フィル(SLS)1970/3/12ドロシー・チャンドラー・パビリオン(ロサンジェルスミュージックセンター)live,,オイストラフには「出してはならない時期の録音」というものがあって、これは最晩年のそういうものである。かなりヤバイ箇所があり、二楽章は弾けてるのに両端で音程がメロメロというのは下手ではない、他の理由でそうなっているのは安定感のある音からも明白なのだが、この状態の同曲の録音は他にもあり、ひょっとすると同じものかもしれない。シゲティが蘇演し成功をおさめて作曲家も喜んだという、独特だがプロコフィエフ最盛期の精華が現れた名作であり、技巧的にウォルトンがパクるほどの特徴的な叙情性をいかに演じるかだが、オイストラフはもとから「弾け過ぎ」のため同曲の意図して煮え切らないメロディや殆ど装飾的な音符でしか構成されていないフレーズとか前半期プロコフィエフ特有の「前衛性」を、どこが前衛的なんだか、普通の曲じゃん、という印象に変えてしまう。シゲティ後年のカスれて何の音を出してるのか解らない箇所だらけの録音が良いとは言わないが、楽曲には不思議と合う。とにかくハイフェッツしか知らない西側の人々の前に、巧すぎる刺客としてソビエト連邦から現れたこの人、作曲家とも共演しているとおり認められてないわけはなく、上手すぎても問題ないのだが、音楽にはやはり何かしらプラスとともに「マイナス」も必要なのだ(曲によって)と思うこともある。しかし、こんな演奏でも普通に拍手だけで送り出す暖かい聴衆に、この人の受けてきた賞賛の残り香を嗅げることは嗅げる。この曲めあてで同盤を買うことはおすすめしない。カップリングは亡くなってしまったスクロヴァチェフスキとのベトコン。時期的にベトコンというと誤解されそうだがベートーヴェンのコンチェルトです。版は知らない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,ウィウコミルスカ(Vn)シュミット・イッセルシュテット指揮ハンブルグ北ドイツ放送交響楽団(EN LARMES:CD-R)1967LIVE清潔な音色だがあまりふるわない。オケも今一つ。鈍重さすら感じる。ウィルコミルスカは冷たいタッチで圧倒的にバリバリ弾くタイプなのだが、ミスが目立ちアバウトさが感じられるこの演奏は意外だった。作品への共感度が低いのか?決して悪くはないけれども、女史の水準からいうと下のほうだと思う。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,オドノポソフ(vn)ホルライザー指揮チューリッヒ放送管弦楽団(MMS)この曲にしては全般に音が柔らかすぎる感がある。数ある著名ヴァイオリニストの演奏と比べてはやはり少し劣るものとせざるをえない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,スターン(Vn)パレー指揮ORTF(ina配信)1966/6/28放送live,,ひどい。両者とも即物主義的な解釈で聴かせていくかと思いきや、ソリスト、音程もテンポも不安定でミスも目立ち、一楽章終盤の重音進行の不協和っぷりをはじめ、何か調子でも悪かったのかと。オケとズレてしまうところも散見される。三楽章後半のろうろうと歌う箇所ではじめて耳を惹かれる。スターンの音は非常に安定しているが美音とは言えない。普通を突き詰めたような音だ。ニュアンスに乏しく、物語ることをせず、細かいヴィヴラートで何とかしている感がある。全体の構成感への意識も感じられ無い。この曲は浅薄かもしれないが、シゲティがレパートリーとしていた位のものはある。プロコフィエフならではの独創的な表現が散りばめられており、シニカルな調子も夢見るような調子も当時のプロコフィエフの全てが反映されている。後進に与えた影響も少なくはない。そのスコアの色彩感をパレーは何とか展開させようとしているが、我が道を行くソリストが音程悪ければ、全部がバラけて台無しというものだ。これはおすすめしない。録音の良さが却って仇となっている。終演後は普通の拍手にブーイングが散りばめられている始末。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番,パイネマン(Vn)ゲルギエフ指揮ベルリン放送交響楽団(000CLASSICS:CD-R)1985LIVEプロコフィエフの”自由であった頃”の名作のひとつで、協奏曲としては少々不思議な構造であるものの、美しい旋律と飛び跳ねるような音符の躍動を思う存分楽しめる作品だ。私は即物主義者シゲティで親しんできた曲ゆえに、このソリストの解釈の入りまくった演奏ぶりには少々驚いた。面白いが、いかんせん技術がついていっていない。指先のごまかしが聞かれるところが結構ある。しかしそれを押しても独自の解釈を提示した勇気には感服する。大きな呼吸でうたわれる旋律は心に染みる。技術的問題は2楽章スケルツォ・ヴィヴァーチッシモでかなり顕著になり、それゆえお勧めはできないが、ライヴで聞けたらさぞかし迫力満点だったろう、特徴的な演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第2番,○シェリング(Vn)デルヴォー指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(ARDMORE:CD-R/ODEON)1956・LP,,板起こし裏青盤は一楽章にあからさまな針飛びがあり唖然とさせられるが注意書きがある手前文句は言えない。シェリングは最盛期といってもいいだろう、過度に清潔でもなく技巧的に難もなく、暗いロマンティシズムに彩られた同曲の趣向に沿った演奏を繰り広げる。プロコフィエフらしい難度の高い癖のあるパセージも緩やかな旋律と齟齬を生じさせることなく自然に流している。技巧を見せ付けるよりも音楽を聴かせることに徹している。やや音は浅いがシェリングの個性だろう。デルヴォは後年の奇妙な個性を出すことなくバックに徹して雰囲気もよい。フランスとは縁のある曲だがフランスの楽団の軽快な音によって曲のロシア臭が抜けているところも特筆すべきか。三楽章は後年のプロコフィエフを想起する明快なパセージがひときわ目立つが、シェリングはやはり自然体で部分部分を殊更に表現するのではなく大きな流れを形づくるようつとめているようだ。民族性が足りず盛り上がりに欠けるという見方もあろうが、シェリングを楽しむという意味では聴いて価値ある。裏青盤はハチャトゥリアンとのカップリング。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第2番,フランチェスカッティ(Vn)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(SLS)1956/4/30live,,プロコフィエフの才気の衰えを感じる職人的晩年作で正直あまり好きではないがミュンシュはこの他にも演奏録音があるしわりと同時代記録の多い作品である。平易過ぎるというかプロコフィエフがセルフパロディをしたかのようなマンネリ感も滲み出す楽曲は、しかしソリストにとっては最初から最後まで無理なく技巧を見せつけられる曲となっていて、一番のような特殊な面白さではなく、構成された新古典派作品の中での正攻法の面白さを存分に伝えることができる。フランチェスカッティは美音で知られるがその細かいヴィヴラートに埋め尽くされた音は逆に慣れてくると飽きてくる。音色変化を魅せる点でいささか難しい音なのである。しかしこの曲のうまいことできているのはソリストの安定感を詰まらなさの方へ持って行かせない、要所要所で変化を入れて、民族的な激しい動きもあくまで必要なだけ絶妙に入れている。いつも飽きるフランチェスカッティの音がプロコフィエフの体制に沿った作風になぜかマッチしている、この曲でバックオケはそれほど重要ではないけれどミュンシュはほとんど地を出さずむしろ無機質に振っている、それがフランチェスカッティをさらに引き立てる方向に成功している。フランチェスカッティのボウイング、華麗な響き、でもそれしかない、でもそれしかなくても大丈夫なようになっているのは、作曲家、バック、それぞれの配慮によるものだろう。明らかなミスはわたしは一箇所しか聴こえなかった。大ブラヴォの終焉。二楽章に強い撚れノイズあり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」,○サンテ(ms)ストコフスキ指揮ソヴィエト国立放送フィル(M&A)1970live・CD,,めくるめく色彩に先鋭な響きの横溢するさまが如実にききとれるさすがストコの演奏である。録音が極めて明晰でウブいため細部までききとれ、「あっ、ぜんぜん協和しない声部が一つだけある!なんだこれ」とかいろいろ楽しめる。譜面をいじっていたとしてもストコ独自の色を入れるというよりプロコ本人の意思を尊重したバランスいじり程度にすぎないだろう。ちょっとロマンティックだが。かなりアグレッシブな氷上の戦闘のあとで6、7曲目ロシア語とラテン語による独唱・合唱。壮大で非常に録音状態もよい。プシュコフへの入場も非常に壮大だが、ストコフスキクレッシェンドはない。このころのM&A(バークレー所在)盤は日本コロムビア(デンオン)が製作していた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」,○トゥーレル(Msp)ストコフスキ指揮NBC交響楽団(SCC:CD-R)1943/3/7live,,ナレーション入りの放送録音できわめて音が悪いがトスカニーニのNBCならではのきびきびした演奏ぶりがプロコフィエフらしい機械的な躍動を明確にし、そこに改変なくテンポこそ揺れないもののストコフスキらしい誇大な響きが加わって聞き応えに繋がっている。調和が保たれている裏腹で歌唱合唱が前に出てこない感もあるが、コントラストの強すぎるストコフスキの芸風が抑えられ内圧に転嫁されているのが反って良く感じられる。五曲めの磨き抜かれたダイナミズムが素晴らしい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」(一部欠損、合唱リハーサル付き),○ボナッツィ(msp)ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団他(SCC:CD-R)1965/6/21live,,ストコがショスタコを(革命以外)余りやらないのは何となくわかるのだがプロコをそんなにやらなかったのは少々不思議である。音楽外の理由だったのだろうか。ただ例外として劇ないし映画音楽については親しみ易い内容からか演目にあがりやすかったようだ。歌唱を伴うものをストコが好んでいた節もあり、この大曲もその一つ。劇的効果の高い「客受けしやすい」内容がレパートリーにした理由なのかもしれない。プロコフィエフのわかりやすい旋律とリズムが前面に出た演奏ではあるのだが特有の構築性、衝突する響きをしっかり再現し、激しい情景描写をなしている。ここではまた合唱の迫力が凄まじい。攻撃的なリズム切りがストコフスキのトスカニーニ的な側面も思い起こさせる。やはりフィラデルフィア管弦楽団の開放的で華々しい技巧はストコフスキの芸風にあっている。5番氷上の戦いに欠落あり。合唱リハーサルも収録。ピアノ伴奏の聴き心地がなかなか素晴らしい。ストコの「温め」もなかなか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」,○ロジンスキ指揮ローマRAI管弦楽団他(stradivarius)1958/5/22live・CD引き締まって随分聞きやすい。この勢い、解りやすさは買うべきだろう。このテのライヴ録音にありがちな管弦楽が後ろに追いやられることも無い。声楽が苦手な私も嬉しい。弦楽器のカンタービレが美。一貫して旋律に重きを置いているため理解もしやすい。案外きらびやかな演奏、このオケにしては充実した内容だ。○。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」,サモスード指揮ソヴィエト国立放送交響楽団・合唱団、レゴスタエワ(CA)(MELODIYA他)CD プロコの歌の入る曲はどうも苦手な私。この元映画音楽も男声合唱のぶっきらぼうで乱雑な素人臭い声が耳元で響いてくると、あれあれ、といった感じ。この録音、音場が余りに狭いので、耳元でがなりたてられたり叩きまくられたりしている気分がしてどうも馴染めない。曲もプロコの中でも比較的硬派なところが多く、一部美しいプロコらしい場面があるものの、全般にはロメジュリの有名な場面「以外」のような金属質で不協和な音響が大勢を占めている。うーん、サモスードも取り立てて巧い指揮ぶりとも思えないし、個人的に曲マイナスで無印。好きな方も多いようなので、これはあくまで個人的な好みによる判断ということで。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:映画音楽「キージェ中尉」組曲,○ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(SONY)1956/1/9・CDプロコでもロメジュリと並んで有名な作品で、陰うつな民謡風の旋律はしばしばロシア音楽の代名詞のように使われた。「トロイカ」などもプロコの無邪気な作品というカテゴリーの中では抜群の耳馴染み良さを発揮している。ミトプーはプロコを得意としており、ロメジュリ全曲などは同曲の最高の名演とされることもかつてはあった。この演奏も派手さと暗さが適度に制御され非常に聴き易い。ミトプーとしては案外美演です。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:映画音楽「キージェ中尉」組曲,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PEARL)1937/12/22,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:映画音楽「キージェ中尉」組曲,○ライナー指揮シカゴ交響楽団(WHRA)1945/1/14・CD,,極めて古びた録音ではあるが、こんにち我々がイメージする「キージェ中尉」といえば「この」イメージだろう。アメリカナイズされた、ちょっと色のついた、でも明快なキージェ中尉。カリカチュアを皮肉ではなくほのぼのした「暖炉の音楽」として提示する、ライナーは厳しい指揮者だがやはりプロフェッショナルである。技術的にちょっと瑕疵があり、速い場面で弦がばらける箇所が散見されるが、おおむね安心して、要望どおりのものを聴ける。ま、プロコといえばこの曲なんだろうな、というクリスマス間近な感想文。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:映画音楽「キージェ中尉」組曲,シェルヘン指揮南ドイツ放送管弦楽団(tahra)1962/10/26live,,シェルヘンの同曲録音は3種あるがライヴだと例によって激しいアゴーギグで弦がバラけ音がスカスカになる。ものの、外しの天才というか意図的に外すのが天才的に巧いこのモダニストの仕掛けを明確に聴かせる。ポリトナルが楽しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:映画音楽「キージェ中尉」組曲,シェルヘン指揮パリ放送交響楽団(altus)1954/1/20・CD,,シェルヒェンはどんなオケ相手でも自分の音楽を引き出してしまう。強引な曲作りで即興的なのに、オケも崩壊するのにそれでも扇情的な魅力を保つ。プロコフィエフにフランスオケはもってこいで、この曲は映画音楽ということで平易さに回帰したものゆえ、メロディがきわめて明らかで瑞逸のものであることもあってさほど気にならないが、荒っぽい奇矯さやロマンチシズムの重さ、くぐもりが野暮ったくも感じさせるプロコフィエフを、音色の明るさと色彩感でフランス物のように昇華させることができる。さらにここではシェルヘンのスピードに加えてリズム感の良さが光る。それによくオケがついていく。これはあっという間に聴けてしまった。相性の良い組み合わせだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:映画音楽「キージェ中尉」組曲,○コンドラシン指揮ブルガリア国営放送交響楽団(armada)CD,,オケは二流。ペットが何回落ちるんだというところから始まり縦線はすぐ崩れて前のめりになっていくしまあとにかく事故が多いし精度も低い。しかし録音(決して万全ではない)がクリアで非常に明るく色彩的に捉えられており、このオケの特性込でもあるのだろうが意外なほど面白く聴ける。アンサンブルの妙を楽しむのがプロコの曲、なのだがそういう問題でもなく、とにかくカラフル。オケ(ソリスト)は派手に鳴らすべきところ中音域でくぐもってしまったりするのだがなお、何故か綺麗なのだ。コンドラシンの実演は美音だったとはよく言われるが、オケのレベルはともかく、相性は良さそうな演奏。曲自体は言わずもがなのプロコの代表作である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:映画音楽「キージェ中尉」組曲,コンドラシン指揮クリーヴランド管弦楽団(FKM)1979/1/28live,,バラけ気味だが鋭くリズムを刻み乾燥した音で突き進めてゆくコンドラシン。幸福感や皮肉な調子といった情緒的側面は浮き彫りにされないが、明るい音+純粋に音の躍動という点では十二分の効果を発するよう演奏させている。骨皮の印象はあるものの、曲が名旋律に彩られた平易なものであるがゆえ耳は楽しませる。録音にもホワイトノイズがのりステレオではあるがやや聞き辛く、おすすめにはできないがコンドラシンの技量は垣間見られる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:シンデレラより冬の妖精,○D.オイストラフ(Vn)シュライブマン(P)(MSC)1951/11/20・CD,,プロコフィエフの唯一無二の天才性はこういう単純な小曲にあらわれる。こういう奇怪なロマンスをオイストラフは深い音色でいにしえの吟遊詩人のように古雅に演じあげる。なかなかの演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
プロコフィエフ:スキタイ組曲「アラとロリー」,チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル(mphil)1980/1/17live・CD,,ミュンヒェン・フィル設立125周年ボックス所収。海賊盤では既発かもしれないが音質は最上。この、プロコフィエフにしては野暮なリムスキー的異国趣味作品を、初期ストラヴィンスキーの野蛮主義というよりバルトークのように洗練された怪奇趣味の前衛作品として厳しく整えている。角張った響きや異様なアンサンブルに対して、まるで空気の通るようでそれでいて針金細工のようにしっかり噛み合ったものに仕立て、この曲をオケの力まかせでスピードで押し切るのは間違っている、と言わんばかりに見違える、当時プロコフィエフが言っていた「革新」そのもの、野心がきちんと形になっていると実感させる。後年の人好きする旋律はほとんど現れないが萌芽は感じ取れる、それもこのような見通しの良い演奏、そして録音による印象だろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:スキタイ組曲「アラとロリー」,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ASdisc)1948/3/9LIVE・CDなかなか面白い曲だ。バーバリズム音楽の象徴として敬遠している方は、この演奏のように透明感のある色彩を備えた演奏で聴いてみるとよい。音色変化、オーケストレーションは驚くほど巧みで清新だ。クーセヴィツキーはやたらとガンガン打ち鳴らす事がないため、中に詰まった創意が如実に聞き取れる(録音は極めて悪いが)。プロコフィエフは何はともあれスピードの作曲家だが、クーセヴィツキーは複雑な構造に引き摺られ崩れることなくきっちり進めていく。リズムは殊更に強調はされないがリズミカルな感覚はしっかり息づいている。明らかにスクリアビン(一部ドビュッシー)を思わせる妖しく半音階的なパッセージはプロコフィエフらしくないが、若い頃に熱中したというスクリアビンの影響がこの時点(1915年)でまだ残っていたということだろう。ストラヴィンスキーの影響は思ったよりも少ないが、木管のトリルなどにそれを彷彿とする部分もまま聞かれる。しかしそれらの旋律や和声、コード進行の根幹には既に後年のプロコフィエフの癖のようなものが明瞭に現われており、清潔な抒情味は「アラとロリー」などという怪獣映画のような題名とは隔絶している。この演奏で初めてこの曲がわかった私は、いくら録音が悪くても○を付けざるを得ない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:スキタイ組曲「アラとロリー」,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(LYS,DANTE)1947/3/9LIVE・CD尖鋭なハーモニーをこの悪い条件下でもきちんと響かせているところに驚かされる。終曲の最後などけっこうダレがちな長い音符の応酬だが、ギリギリ踏みとどまっているという感じだ。そんなところより美しく精妙な場面での音色操作の巧みさ、音楽の流れを保持する強い力、手綱さばきの巧さにより大きな魅力を感じる。いいスピーカーで聞けば現代の演奏にもひけをとらないクーセヴィツキーのワザを堪能できるかと思う。これはヘッドフォンでせせこましく聴く音楽ではありまへん。ASdiscと同じ可能性あり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:スキタイ組曲「アラとロリー」,コンドラシン指揮モスクワ・フィル(GLOBE)1973/12/27LIVE・CD基本的にアグレッシブで気合の入った演奏だが、クーセヴィツキー張りの押せ押せの演奏かというとそうでもなくて、意外と精妙な曲の抒情味が感じられる場面が多い。うーん、コンドラシンに求めるものを考えるとそれはいいことなのか悪いことなのか。私はコンドラシンに怒涛の推進力しか求めていないがゆえに、却ってハンパな感じがしてならなかった。全曲の流れがイマイチ不明瞭に感じるのである。力感が(モスクワ時代の)いつもほど強くは感じないのはぼけた録音のせいかとは思うが、うーん、終わり方もいまひとつ。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:チェロ・ソナタ,○ピアティゴルスキー(Vc)ベルコヴィッツ(P)(columbia,WHRA)1953/8/11-13・CD,,これだけ感情のない感情を表現することに長けた演奏家であってもどうしてか同郷の友人の作品では、他の曲とは違う思い入れを感じさせる。もちろん(最盛期ではないとはいえ)20世紀を代表する大作曲家の作品、とくにフランス的な色調と明瞭な旋律に多彩で独特の表現を盛り込んだ佳作ゆえ、並ならぬ技巧と腕力さえあれば、音にするだけでいい面もある。でも、微妙な旋律表現の粘りや音の強弱の選び方には、たぶんよその国の人間には直感的には難しい部分がある。新作録音において、感情的で明るいピアティというのもちょっと珍しいし、無個性だが無茶キレるピアニストの粒たった表現も理解を極めているし、ようするに、バーバーとは想いが違うのかな。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
プロコフィエフ:チェロ協奏曲第1番,ジャンドロン(Vc)マッツェラート指揮ヘッセン放送交響楽団(meloclassic)1956/2/23フランクフルト放送スタジオ録音・CD,,ジャンドロンが呆れるほどのっており、音は細くてロストロポーヴィチほどグイグイ持っていく力はないが、ミスがほとんど無く、とくにこの難曲を特徴づける高音がまるで名ヴァイオリニストのような美音で仰天させられる。モノラルでややこもってはいるが、ジャンドロンの「そうは感じさせないほど巧緻な」腕前を愉しめる。プロコフィエフらしくないといえばらしくない作品で、三楽章も終盤になるまで(とつとつとリズムを打ってくるところからはプロコフィエフの才気が爆発する)音楽が根無し草のようにふわふわし、甘くも辛くもなく、しかしジャンドロンで聴くとイギリスの曲のようなジェネラルな魅力が出てきて、これは破棄するには惜しい特異な作品で、更に言えば改訂して協奏的交響曲としたものとは全く異なる「小品」であるように感じる。そう、プロコフィエフからは一方的に「借りのある」ウォルトンの協奏曲に似ているかもしれない。いずれジャンドロン向きなのだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ブロコフィエフ:チェロ協奏曲第2番(1952年版),○ロストロポーヴィチ(Vc)リヒテル指揮モスクワ・ユース管弦楽団(venezia)1952/2/18初演live・CD,,ロストロ先生の既に完成された表現に圧倒される。音色の多彩さ、正確さ、強靭さ、プロコに必要などれもがこれ以上ないくらいに発揮され、注ぎ込まれている。晩年作なりのやや抒情に寄りすぎたところがある作品だが、そうだからこそロストロ先生の重厚だが滑らかで甘い音、ボウイングの美しさが堪能できるとも言える。スケルツォ楽章やアレグロ部のスケールみたいなアレももちろん完璧に弾き熟しそこに不自然さは微塵もない。ラストの最高音域での超絶的なテクニックにもびっくり。ピアティゴルスキーなら絶対外している。バックをリヒテルが振っているがやや生硬か。客席反応はパラパラ。若手演奏会だからか、プロコへの評価か。録音は貧弱。なので○。ロストロポーヴィチという天才がもう完成されていて40年変わらぬ演奏表現をしていたことに驚愕だ(最晩年は厳しかったが、、、オイストラフと同じで)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響的協奏曲,ロストロポーヴィチ(Vc)ザッヒャー指揮ORTF(ina配信)1975/8/11放送 live,,やはり大曲であり難曲だ。同曲の被献呈者にして多大なる助力者ロストロポーヴィチをしても、余裕の無い、辛い部分が無いとは言えない。ロストロポーヴィチの何とも言えず甘やかで太い音色を活かした叙情的なフレーズはここには余りない。チェロという楽器を研究し、ここへきてなお新たな作曲上の技巧を盛り込もうとするプロコフィエフの、前期と後期の混交したような複雑な様相、それが連綿ととめどもなく繋がってゆく音楽、とくにチェロの主音域を強く意識して、高音を使わせないため一般的な耳からするとメリハリがなく聴こえ、私も苦手とする曲なのだが、しかしまあ、ザッハーの引き締まった指揮ぶりも素晴らしく、硬質で高精度の演奏を目したところで、いくぶん見通しは良くなっている。ソヴィエトの偉大なソリストを迎えたライヴということもありオケからも緊張感が伝わる。でもま、ロストロポーヴィチでなければここまで聴かせること自体無理だったかもしれない。熱狂的なブラヴォで終わる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:トッカータ ニ短調 op.11,ブルショルリ(P)(meloclassic)1965/11/19live私的録音・CD,,プロコフィエフのピアノ曲は絶対ハマるので聞かないことにしている。こうやってアンコールピースを一つ聴くだけでも新鮮まくりで沸き立つ。ブルショルリはしょっぱなから持ち味である重くて強い音を駆使して、曲の要求のまま打楽器的な音楽を推進していく。ただ指が回るとかスピードを見せつけるということはしない。音がすべてちゃんと実音として響く。だから短くても聴き応えがある。生誕100年記念盤収録。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」第二組曲,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(LANNE:CD-R他)1982/6/3ウィーン・ムジークフェラインlive ,,落ち着いた演奏で微細な響きの美観を楽しめる演奏。活き活きとした前進的な表現もあるが、かつての録音にくらべ即物的表現に固執していない様子だ。暗い響きの曲でもあくまで明るく綺麗に丁寧に響かせようとするところは非常に現代的で、だからこそプロコの難しい響きも透明な曇りの無い美しさに昇華されているが、そこに生身の音の温度感が加わっていてけして冷たく面白くない演奏にはなっていない。エアチェック録音ゆえ一部録音がかなり悪くなるがおおむね80年代のステレオ録音のため、西欧的な機能性と音色を誇ったレニフィルの技も堪能できる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」第二組曲,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MELODIYA他)1982/11/6・CD,,やはりオケの統制という意味ではピークを越したあとの感は否めないがそこが野卑たロシア風味をかもし、別の面白みで聞ける演奏である。いきなり乾いた不協和音から急くようなテンポの「モンターニュ家とキャプレット家」騎士の踊りがキッチュにすら思え、また客観性が先立っているのにオケはどぎつい音をぶっ放しとなかなかに「スリリング」ではある。トスカニーニ的手法によって考える隙をあたえない感じはこの「読み込んでいってしまうと果てしなく理知的に組み上げられた構造のマニアックな穴に落ちて音そのものを愉しめなくなってしまう曲」にとってはいい方向に働いていると思う。オケの過度な思い入れが弛緩の方向に働かないようにつとめるのはもともと上演バレエ用に作られた素材であることを考えると正しい。まあ、ムラヴィンはプロコと交友こそあれ嫌いだったというけれども、これはけっこうプロコをきちんとやっている。「スピード」そしてリズムだ。踊れると思う。オケはブラスのぶっ放し方もいいが、なかなかに弦楽器が凄みがある。プロコの弦楽器は酷使上等だがきちんと弾けて無いとチャイコ以上にその細密な作曲の手腕(とアイロニー・・・このプラスアルファを付けられるかどうかで凡才と天才の差が出るのだ)の凄みが聞き取れないからタチが悪く、この曲くらいなら皆識っているので大した問題にはならなかろうが、長大なオペラなんかになってくるとけっこうだらしない演奏だと殆どオケなんて聞いてられなくなったりするわけで。しかし最後まで力感は凄いが、醒めてるよなあ・・・ショスタコみたいだ。この組曲にも素材としてストラヴィンスキーや果てはサティの器械リズムまで聞き取れたりするのだが(ワグナーとかそのへんになると他の作曲家もよくやってるのだが同時代から引いてくるところがこの人のあっけらかんとしたいいところだ)、ムラヴィンがロマンティックな意味での色をつけないために原素材の音楽が剥き出しで聞こえてくるところが面白かったりもする。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」第二組曲〜モンターギュ家とキャプレ家ほか,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MSC)1982/11/24・CD,,これは昔ながらのロシア式吹奏法とこの上なく派手な音響を生み出すというこの指揮者の特性を如実にあらわしたもので、目をつぶってもこの人の演奏とわかるたぐいのものである。といっても今手元にデータがなく、音だけでスヴェトラと判断して書いているわけだが、他のロシア指揮者のいろいろ細かい演奏を聞いてきて、やっぱり極めて個性的だなと感じた。そしてこれがスタンダードになり全てのロシアの演奏の基準のものさしにしてしまうことの危うさも感じた次第である。演奏自体は莫大になりがちだけどリッパと言っていいでしょう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」第二組曲,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(RCA)1945/10/30,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」抜粋,ショルティ指揮バイエルン放送交響楽団(BRSO)1984/2/13LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」抜粋,ストコフスキ指揮NBC交響楽団(RCA)1954/10/5,7・CD,,正規のステレオ最初(期)録音として知られ、ステレオ録音時代突入のきっかけとなったものの一つ。ストコフスキー自身すでにベル研究所と10数年前より実験を進めており、商業録音として出せるレベルとなったのが本盤であろう。左右のバランスが悪いというか分離が激しく音も古びているものの、録音操作も念入りに施され、各楽器が浮き上がるように明確にひびき当時のシェフであったNBC響の名技も余すところなく伝えるものとなっている。ストコフスキーの解釈によるところもあるが当時のヴァイオリンのポルタメントを駆使したつやめかしい音色、フレージングの美しさも堪能できる。これはストコフスキーによる抜粋が先鋭なものや激しいものを除き、すべて叙情的で大人しいものであるところにも依るだろう。この音で存分に歌を歌わせたかったのだ。聞き覚えのあるフレーズはすべて暗示的に示されるのみで、そこがまた感情的に揺り動かされる。高音偏重で明るい色調はプロコフィエフにおいてはまったく適している。同曲を得意としたストコフスキーの、通例である選曲抜粋演奏を逆手に取ったような無名曲ばかりの編成で、聴く気が起きない方ほど聴いてほしい。ヴァイオリンのパワーに圧倒。現在は正規の廉価ボックスに収録。,,噴水の前のロメオ/ジュリエット/ロメオとジュリエット/ジュリエットの墓の前のロメオ/ジュリエットの死,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」組曲抜粋,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(SLS他)1957/2/1live,,ふたつの組曲からの七曲抜粋のようである。この頃の演目はRCAセッション録音と密に関係しているので解釈表現の差異はあまりないが、即興的なドライヴの掛け方に胸のすく思いはする。騎士の踊りはつんのめり走ってしまいリズム感が失われるが強引に音楽の力で押し切られる。これが有名な踊りの曲でなければ素晴らしい管弦楽曲のライヴ演奏に聴こえたろう。全般とにかく派手で力強く求心力も強く、我田引水な解釈でフランス的な音響だとしても圧倒的な聴かせる力を持っている。精度も高い。客席はこれだけ盛り上げても、組曲なのでこんなものかという冷静な反応。惜しむらくは録音。モノラルで一部撚れる。リバーブをかけて盛大に楽しむべきだろう。日をおかずピアノ協奏曲2番をアンリオとやっているのもセッション録音と同じ関係性。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」抜粋,○ストコフスキ指揮南西ドイツ放送交響楽団(SCC:CD-R)1955/5/15放送live,,組曲三番から二曲、二番から一曲の抜粋、ジュリエットのテーマはやや地味だが、ジュリエットの死は豊饒なひびきで美しく、ジュリエットの墓のロメオはかなりあからさまな表現でハリウッド映画的な側面を押し出している。オケが落ち着いて精度を保ち音も温度が低いから、プロコフィエフの音楽にはよくあっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」抜粋,チェリビダッケ指揮ORTF(ORTF,ina)1974/5/29live・CD,,得意の曲(独自に選出した4曲からなる組曲)なだけに完璧。ステレオ優秀録音でチェリビダッケが「程よい時期」の威勢の良さと厳しすぎない統制(だがこのオケにしてはミスはまったく見られず乱れもなく裏面での厳しさは伺える)ぶりを娯楽的に楽しむことも可能。プロコフィエフ独自の和声の「毒」も綺麗に整えられ引っ掛かりをまったく感じない。ブラヴォ終演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」〜マスク(ヴァイオリン編),○コーガン(Vn)ヤンポリスキー(P)(multisonic)1947・CD,,それほど際立った曲ではなくアンコール用ワンピースといったていだが、コーガンの安定感と前進性の両立のさまが素晴らしい。,-----,,,,,,,,,,,,,
プロコフィエフ:バレエ音楽「鋼鉄の歩み」〜1、3、5、10,○コーツ指揮LSO(HMV)1932/2/18・SP,,ロシアに学んだ英国の暴君指揮者として知られ、後年の客演録音は余り冴えなかったアルバート・コーツ(エリックとは別人)だが、同時代音楽を積極的に取り上げていたこの頃のスタジオ録音はロシア式の豪放磊落さを体言し、かつニキシュ直伝の感覚的表現を思わせる。英国楽団の慎ましやかな特質がバランサーとして働いており、技術的破綻がないのもこの時代には珍しい。社会主義的作品、機械文明的作品として知られるバレエ・リュス印のこの作品は複雑な構造は保ちつつ案外人好きするような平易な音線やリズムが魅力。ミヨーを思わせる高音の分厚いハーモニーやオネゲルを思わせるアンサンブルが時折耳をひき、無理と言いつつフランスで作曲を続けるプロとしての一種の妥協を作品に差し込んでいる。そこに更に平易な後年の作風の萌芽がはっきり現れる。もちろん趣向からいってメカニカルな面で聞く曲ではあるが、コーツの音楽の娯楽性はプロコフィエフの面白みを上手に引き出す。抜粋なのが残念。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:バレエ音楽「鋼鉄の歩み」〜].工場,ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1956/2/2live2/9放送,,ひょっとこが出てきそうな音楽だが古き良き未来派の雑音をプロコフィエフ的に処理した「スキタイ」のオネゲルバージョンみたいなもの。ノイズとわかりやすさの同居はプロコフィエフの味でもあり、伊福部昭などに繋がっていく要素であり、ストラヴィンスキーからバルトークのやっていた硬質の暴力を肉弾戦に落とし込んだ、ソヴィエトへの道はまだ遠いが志向する方向はすでにそちらだったという、巨大なハンマー持ち上げてバタバタするバレエ音楽をやるにはロザンタールは柔らかくまとも過ぎたかもしれない。もっとバチコーンきたほうがこの曲らしい。色彩の明るく派手なところはロザンタールらしさで、なぜか客席は派手にわいている。プロコフィエフを垢抜けさせてくれているのだが。モノラル。ina.frだとPHD89036288。組曲では終曲。アンコールにあたる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:バレエ音楽「道化師」〜組曲,◎ゴルシュマン指揮セント・ルイス交響楽団(EMI)1953・CDこの時代の指揮者に異常なテンションとスピードで聞かせる人が多いのは何故だろう。トスカニーニの影響といってもヒトコトでは片づけられない幅の広さがある。少なくともゴルシュマンのスタイルはトスカニーニとは違う。とにかく打楽器系に力が集中させられておりリズム性がかなり強調されている。叙情的な旋律も騒音に近い凄まじい音響によって強靭なバーバリズム音楽へと昇華?されてしまっている。だがロジンスキを思わせるこの演奏スタイルに強い魅力を感じるのは私だけではないだろう。ここには更にフランス風の洒落た音色も宿っている。この曲というとやはり終曲だが、ある意味出色である。私の評価はここに対してのみ付けられている。終曲の異常な音楽には誰しも唖然とするだろう。いちばん旋律的でわかりやすいボレロ的構造の曲であるにもかかわらず、ソロヴァイオリンから提示される奇怪な旋律がどんどん騒々しい圧倒的な音響に呑み込まれてゆき、音がほとんど暴力と言ってもいい力で耳を刺激し続けるクライマックスは凄絶のヒトコト。まあ、音楽的とは言えないかもしれないけど、バーバリズムの線を貫いたゴルシュマンの慧眼に平伏。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:バレエ音楽「道化師」〜第一組曲,○アルベール・ヴォルフ指揮ラムルー管弦楽団(VOX)LPプロコらしい不明瞭な音響にごつごつした不器用な転調、さらに名作ロメジュリでも感じられるような生臭いロマン派臭が漂う楽曲だが、プロコらしい美しい旋律に圧倒的な力感、派手なリズムはロメジュリに優るとも劣らない。作品としては1915年着手の作品番号21番(スキタイ組曲が20番、作曲家プロコフィエフのパリ初披露はこの二曲のどちらかで争われスキタイ(アラとロリー)に軍配が上がった)と比較的古いものなのだが、既に作曲家プロコフィエフを構成する要素は出揃っているように感じる。ディアギレフの依属作品のひとつ。ラヴェルのダフクロなどとはおよそ対照的な粗野な作品だが、バレエ音楽作曲家としてのプロコの並ならぬ腕が発揮された最初の作品である。派手な終曲だけ抜粋して演奏されることもある。子供じみた平易な旋律にストラヴィンスキー張りの不協和音が加わりとても聞きばえがする。ヴォルフ(ウォルフ?)はフランス流儀でこの曲を美しく響かせることに専念しているようだ。アクの強い部分や粗野な部分はいくぶん丸められており、聴き易い。逆に爆発的な力感に欠けるとも言えそうだが、録音のせいかもしれないのでなんとも言えない。終曲だけであれば他にもっと盛り上がる面白い演奏もあるのだが、組曲版でいくとこの演奏が上位にいくか。○。モノラル。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:バレエ音楽「道化師」〜舞曲,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ASdisc)1947/10/28LIVE・CDとくに特徴的な曲でもなく、演奏でもない。なんでこれだけ取り出して演奏したのかよくわからない。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:バレエ音楽「道化師」〜ダンス・フィナーレ,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(RCA)1947/11/25LIVE・CD,,クーセヴィツキーはロシア人指揮者らしくやはり表現が荒々しい。現代的なアンサンブルを聞きなれている向きにはばらけすぎ、あまりにアバウトに聞こえてしまうかもしれない。でも、一貫した強固な表現にはそれを補って余りあるものがある。粗さが気にならないのだ。聞かせどころのソロヴァイオリンなど非常に強い弾き方で、しかしだからゆえぎごちない感じもしなくもない。暴力的な推進力がとにかく聴きものだが、何しろこの指揮者の録音は音が悪すぎるので、実は精妙な音響感覚というものが耳を澄ませないと聞こえてこないのは痛いか。好きな演奏だが○に止まる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第3番「古いノートから」,アンドレ・チャイコフスキー(P)(meloclassic)1962/1/20バーデンバーデン南西ドイツ放送スタジオ録音・CD,,もともと簡潔に構築された佳作ということもあるが、均整の取れた演奏ぶりで、古典からショパンという流れで名を成したのはよくわかる(戦中派として若い世代ではあるし早世したからイメージが古いだけでこのスタイルが取り立てて新しいとは言わないが)。軽妙というと語弊があるものの、音楽表現にニ派があるとすればモーツァルト派であろう、ベートーヴェンではない。したがって即興や作曲をこなしたというのも頷け、この初期曲(改作)に溢れるイマジネーションを汲み取り、たっぷり余白を取りながらフランス近代曲のようにペダルを多用することなくぴたりと仕立てる才能はなかなかのものがある。正直作曲もやるのなら他の現代曲もやっておけば評価は違ったろう。コンクール出でも半端な位置、音も含めて奇をてらわず派手さはないがヴァイオリンで言えばスターンのようなパターン化した音作りのスタイルは絶対取らず、編曲も厭わない創意と売出し側の意識のズレ、住む国を移り続けたのにも理由はあろうしこれは仕方のないことだ。チャイコフスキーは戦中ユダヤ系を隠して生き抜くために付けられた偽名で作曲家としてはアンジェイと母国ポーランド風に読まれることが多い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第1番(1911〜12),○カッツ(P)ボールト指揮LPO(CEMBAL D'AMOUR/EMI)CD,,いきなり下品なブラスのぶっ放しから始まるが、すぐにソリストが主導権を持ち音楽を流麗に展開させてゆく。プロコフィエフ的な色彩の鮮やかさな変化は楽しめる。フランスっぽいこまやかな和声のリリシズムはさほど引き立たない。いずれソリストによるところが大きく、同時代のバルビローリに較べれば余り数の無いボールトのバックは丁々発止というわけにはいっていない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第1番(1911〜12),○ケレル(P)コンドラシン指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA)LP,,コンドラシンのものはリヒテルの覇気溢れるものが有名だが縁ぶかいケレルのものも侮れない。この曲にしては振幅を大きくとりしかしパキパキしたじつに明快なタッチで若々しい音楽を仕立てていくさまはリヒテルより聞きやすいだろう。元がロシア暗い野暮さのある曲なだけにリヒテル盤よりやや音がいいことも加えて、こちらのあかぬけたほうがすきな人もいよう。少し表現が若すぎるが。コンドラシンは職人的に支えるのみである。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第1番(1911〜12),○リヒテル(p)アンチェル指揮プラハ交響楽団(supraphon)1953リヒテルの技巧の完璧さが伺える一枚。プロコフィエフの本質をくっきりと浮き彫りにしている。アンチェルのサポートもよく、中仲聞かせる。録音もよい。廉価盤、買って損は無いだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第1番(1911〜12),フォルデス(p) マルティノン指揮ラムルー管弦楽団(VOX)PL6590,LPこの演奏は洗練されたフォルデスのスタイルが若々しい棒に乗って比較的模範的に繰り広げられている。フォルデスはもっと激しくダイナミックに演奏できる技巧は十分すぎるほどに持っているにもかかわらず、背を伸ばし指を立て、余裕をもって感傷を排した美音を並べてゆく。音に流れに決して色を付けないピアニストだが、そのタッチの柔らかさがたとえばミケランジェリのような冷徹を避けている。それは強みでもあり(人気のゆえんだろう)、弱みでもある。弱み・・・音色感が単調で無個性にも聞こえるのだ。非常に気持ちの良い演奏だがモノラルゆえ音は悪い。良い演奏だが、第一に推せるかといえば若干の躊躇をかんじる。演奏記録を評するとき、5回は繰り返して聞いてみよう。もし飽きなければ、それは佳演以上の存在だ。この演奏は3回で飽きた。久しぶりに聴くのには向く。リヒテル/コンドラシンの壮絶な演奏を知ってしまったかたは多分、不満を覚えるだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第2番,○ツァーク(P)ザンデルリンク指揮ソヴィエト放送交響楽団(melodiya)1959・CD,,後退したようなロマンティックな作品でとくにオケ部のどんよりしたラフマニ臭にはウンザリするが、それとはほとんど立体的に絡むことなく音を並べ続けるソロピアノは洗練され垢抜けた非常に聴き映えのする音を提示してくる。旋律がわかりやすいのは3番には負けるものの、3番よりも個性が薄く聞きやすいと言えると思う。とにかくオケが野暮ったいのは演奏のせいなのか、いややっぱり曲のせいだろう。ツァークはやや線は細いものの録音バランスがよく(モノラルだが)細かい音まで聞き逃させることはない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第2番,○フレイジャー(P)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団?(DA:CD-R)1963/7/28live,,線的な音楽をロマンティックにじっくり綴った重めの演奏だが、ピアニストの腕は確かで乱れやもつれは無い。この曲のもつ協奏曲らしからぬ、管弦楽曲的側面を重視して美しい旋律と和声の綾をしっかり紡いでいく。聴ける演奏で、聴衆反応も素晴らしい。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第2番,チェルカスキー(P)クリップス指揮NYP(forgottenrecords)1961/11/25live,,プロコフィエフの野心が剥き出しになってなお根底のロマンチシズムが浮き上がってくる内容豊富な作品で、フランス的な洗練というかストラヴィンスキー的な洗練というか、メロディや構成が依然よくわからないような独創性を1番と比較にならないほど盛り込み、しかしチェルカスキーの粒だった軽やかなスタイルとそれに見合った軽々としたクリップスの棒が、だるさや重さを感じさせずに最後まで聴かせている。聴きやすいモノラル録音であるのもいい。チェルカスキーはびっくりするほど簡単に弾いているように聴こえる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),◎作曲家(P)コッポラ指揮(PEARL他)未だにこれを超える演奏は無いと思う。とにかくそのスピード、プーランクがプロコフィエフからの直言として紹介していた、この曲で唯一つ重要な要素は「スピード」である、という言葉通りの凄まじく且つ完璧な表現を伴うスピード。録音指揮者コッポラも負けずに付けてひるむことがない。古い演奏であろうが、細部にごまかしや綻びがあろうが、そもそもモノラル録音に合わない類の曲であろうが、もはや関係の無い高みに達したレコードである。LP時代から様々なレーベルで再発され続けている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),○オボーリン(P)ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(放送)1955/9/24live,,ソリストもそれほどぱっとせず、演奏全体的にぱっとしない。とはいえ演奏レベルが低いと言うわけではなく、特長に乏しいと言ったほうがいいだろう。スピードもそれほど煽られず、熱気も上がらない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),○カペル(P)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団?(DA:CD-R)1953/3/21live,,唖然とさせるような超絶なピアニズムを見せ付けるカペルの前にはミュンシュは鈍重とすら感じられる。もっとも緩徐部の情感にはやや欠けるように思った。ミュンシュはプロコフィエフですら厚ぼったいロマンチシズムを演出してくるのでその点真逆。でもミュンシュは下手ではない、旋律音楽であるこの曲でさえそのじつ縦をいかに響かせるかが肝要、メカニカルな構造をギリギリのところで守りきっている。曲をちゃんと見切っているのだ。フィナーレ最後はカペルもミュンシュも融合し盛大なブラブォを呼んでいる。録音最悪。よれすぎ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),カペル(P)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1953/3/21live,同上,カペルは同曲にふさわしい攻撃性を秘め、しかし力みすぎず弾きまくる。楽曲に適した、熱過ぎず冷め過ぎずの音を持っていると思う。パラパラ胡麻をまくようなフランス風の軽さも無い。オケは積極的に表に出てソリストとも絡むし主張する。歩調はほぼあっていて、そこにロシア物をやるんだという意識は無く「臭み」が無いから純粋な近現代音楽として楽しめる。ただ、オケは本調子とは言えないところも散見される。弱音部での響きの雑味(弦)、細かい装飾的音符がごちゃっとしてしまうところ、一部わずかにソリストと乖離するところ、ただ、ミュンシュだけはあり力技と言っては失礼かもしれないがそのまま聴かせ通してしまう。ブラヴォで終わるのは協奏曲ではソリストに対するものだろう。音質は推して知るべしのモノラルで雑。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),カペル(P)ストコフスキ指揮NYP(MUSIC&ARTS)1949LIVE音が悪すぎるが、カップリングのラフマニノフ交響曲2番よりは充足感を得られるだろう。そういった演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),○グルダ(P)シュミット・イッセルシュテット指揮ハンブルグNDR交響楽団(GREENHILL)CD,,ソリストは腕がたつがオケがバラバラ。まとめづらい曲でなかなかスピードを出せない演奏が多いが、ここではスピードをあるていど出している反面1楽章あたりはかなりばらついてしまい、イッセルシュテットの冷たい指揮が追い討ちをかけているようにも聞こえる。もたついたり言いよどんだりするたぐいの演奏は多いが、これも健闘はしているものの、ソリスト込みでそういったところがあることが否定できない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),○シュミット(P)ケーゲル指揮ドレスデン・フィル(morgan's他:CD-R)1981/9live,,同じCD-RのSUNJAY(SUCD-128K・・・紛らわしいレーベル表記)盤、17日ジョルジュ・エネスコ音楽祭ライヴとされるものと恐らく同じ。爽快スポーツ系の演奏ではない。熱する傾向はあるが基本的に型にはめようとする四角四面の指揮と技巧派ではないがしっかり表現することに専念するピアニスト、そしてかなり下手な弦をもつオケ(オーケストレーションの問題もある)という組み合わせ、しかし非常にソリッドで生々しい好録音という条件下であるとその聞きやすさから思わず最後まで聞けてしまう。音盤としてはなかなか楽しめていいのである。まるで会場で好意的に聴いているような、応援したくなる演奏ぶりでもあるし、かといってケーゲルだから全体がグダグダになることはなくきちんと聞かせるところは聞かせている。聞こえすぎるから、ピアニストもオケも(引き締めんとする指揮の素晴らしさは伝わる)それぞれ欠点が目立つということもあるのだが、それでも面白かったとしか言いようが無い。これがライヴの魅力。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),○ツァーク(P)A.ヤンソンス指揮ハンガリー国立交響楽団(C&R:CD-R)1970/10/20ハンガリーLIVE,,ザークと表記されることもあるが、多分スヴェトラーノフとのラヴェルの協奏曲ほかいくつかのスタジオ録音でしか知らない向きが多いだろう。私もだ。このライブを聴きはじめて驚いた、う、上手い!ピアノが大きく捉えられているためいかに細部まで掌握し独自のリリカルな世界を築きあげているかがわかる。この一楽章は弾く人にも参考になると思う。完璧だ。,,ソリストは。,,二楽章がだめだ。ソリストは揺らし過ぎ。そしてはなからそうなのだが余りに非力なオケがメロメロな音でずれていくのは聴くのが辛い。父ヤンソンスは実直にケーゲルを思わせる四角四面さを示しているがそれにすら乗れないようだ。三楽章はソリストはやや遅めで独自のロマンチシズムを発揮。だがオケは相変わらずである。まあ、○か。,"",-----,,,-----,,,-----,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),○ワイエンベルク(P)クーベリック指揮ORTF(FORGOTTEN RECORDS:CD-R)1957/3/28live,,◎に限りなく近い○。終始つんのめり気味でオケにはクーベリックらしい熱にうかされたような雑味込みの表現があるから○にしたのだが、このカラフルで打楽器的な曲に、ワイエンベルクがピッタリなのである。まー弾く弾く、機関銃だ。まさにスポーティーである。スピードは作曲家が要求したという必須条件だが実際にこれは速い!と思わせる演奏は少ない。私はここまでインテンポで突っ走った演奏は知らないし、そこに乱れが一切無いのもライブではまったく信じられない。深みは余り無いが楽曲自体が、そしてオケがしっかり語っている。初っ端からオケとピアノが噛み合わずつんのめって始まるものの心配はない。とくにクーベリックの壮年期ライブを好む者は期待するものを得ることができよう。これはブラボーに値する。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),○ワイセンベルグ(P)チェリビダッケ指揮トリノRAI交響楽団(aulide:cd-r/HUNT)1962/1/5トリノlive・CD,,ワイセンベルグの巧さには今さらながら唖然とする。技術的に全く危うさの無い、曲の要求するスポーツ的感興を見事に与えることに成功している。チェリが作り上げているのは縦をガチガチに揃えたドイツ式の伴奏ではあるけれども、まだこの時期独自の涅槃みたいな境地には至っておらず、スピード感に欠けることはない。寧ろきっちり揃った上でのスピーディな音楽作りは安心して聞けてかつゾクゾクする。余り深みの無い曲であるから素直に音の跳ね回るさまを楽しめばいいのだ。これはそういった意味では過不足ない佳演である。このオケには珍しく乱れもないのが素晴らしい(チェリの統制のおかげだろう)。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),○ワイセンベルグ(P)テンシュテット指揮NDR交響楽団(EN LARME:CD-R)1980/12/15LIVEライヴと言いつつこのCDは拍手が全て消されている。やや?だ。音質がちょっと古いのはじっさいに古いせいだろう。この盤はワイセンベルグの圧倒的なテクニックに痺れるための盤である。あまりに強靭なタッチ、一音たりとも不明瞭にせず、鋼鉄機械のような正確さ。音量・音質変化も色彩的ではないが鮮やかである。プロコがわざと不協和な音を混ぜ込んだり変なリズムをとらせてしまっていて、結局うまく響かない箇所も多く、一瞬ワイセンベルグのミスタッチかと思ってしまうところもあるが、たぶんミスはほとんど無い(誰か検証してください)。オケははっきり言ってダメ。音楽的に追い付いていかない。テンシュテットも四角四面すぎて前進力に欠ける傾向がある。流れ良いのはワイセンベルグのピアノのみ。ワイセンベルグというとカラヤンと組み合わせてかなり叩かれていたソリストだけど、私はこれでほとんど最初に聞いたのだが、テクニックは勿論、2楽章などで見せる音楽的な感性も素晴らしいと感じました。傾向でいえばミケランジェリか?まあ、ミケランジェリはこの曲を録音してないわけだが。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),◎ワイセンベルグ(P)小澤指揮パリ管弦楽団(SERAPHIM)CDステレオでは抜群の演奏だ。もちろんソリストが、である。プロコフィエフはスポーツだ。速くなければ意味はないし、シャープでなければ聴くに耐えない。全ての音符が揃っていなければ流れてゆかないし、大仰で激しすぎるとアクが出過ぎて気持ち悪い。この演奏は高速でさらっと弾き流しているが全てをちゃんと弾いている。そのテクニックの凄さにはただただ唖然とする。ここまで弾けている演奏だと「いい意味で」何の引っかかりもないからBGMにはもってこい。スポーツのBGにも使えるのでは。バックオケはあいかわらず鈍重だがそのぶんまでソリストが音にしてしまっている、とにかく素晴らしい。まずは聴いて欲しい。プロコは元来こういう音楽だと思う。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),ミトロプーロス指揮、(P)NBC交響楽団(ASdisc他)1945/12/16LIVE・CD NICKSON盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),ミトロプーロス指揮、(P)NYP(NICKSON)1949/9/8LIVE・CDミトロプーロス得意のレパートリー。ふとしたきっかけでこの難曲を弾き振りしたところ人気を呼び、以後しばしば弾き振りするようになったとのこと。私の手元にも4種ほどあるが(但し1種は弾き振りではない)、どれも・・・趣味ではない(泣)いずれも録音が悪い(この盤はその中でも一番辛い録音で蝋管並の潰れ具合。ゲンナリ)のが大きいが、独特の弾き崩しがイマイチ違和感を感じさせるというのもある。ハッキリ言おう。あまり巧くないのだ。音の弾き損ないやテンポのズレ、ごちゃっとした聴感、およそ筋肉質の引き締まった楽曲にそぐわない腕前である。若い頃は強靭なボクサースタイルでならした作曲家自身すら細部を誤魔化しつつ弾き録音した楽曲である、指揮しながらソロも弾くなどという芸当はおよそ無理がある。とにかく解釈的にとてもケレン味があり、怒涛のように突き進むこの曲特有の力感が損なわれている。無印。1楽章最後に拍手が入る。終演後はブラヴォーが飛ぶが、どうなんだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),ミトロプーロス指揮、(P)フィラデルフィア(ロビンフッドデル)管弦楽団(SONY/DOCUMENTS/HISTORY)1946/7/26・CD NICKSON盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),ミトロプーロス指揮、(P)NYP(SLS)1944/4/23コンサートホールlive,,オケとのシンクロ度が凄く、弾き振りならではの一体感がある。スピーディーで揺れのない力強い表現という点でまったく一心同体である。ミトプーはこの曲の偶然の弾き振りで名を売っただけはあり指は回るし悪い録音の中からも余技と言うには余りにしっかりした演奏となっており、不協和音の一部が不自然に響く、二箇所ほどテンポが流れたりするなど細かい部分は余技ゆえ仕方ないところがあるとはいえ、いくつかある弾き振り記録の中でとくにニュアンスの面では「録音に良く捉えられている」。ノイズだらけの悪い音でもノイズがゆえ削られなかった部分が聴こえるのがこの盤のメリットだろう。もっともオケはゴチャッと中音部が潰れてしまっている。二楽章にもっと「思い」が欲しかったか。音色の硬さも仕方ないか。新発掘音源とのこと。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),A.チャイコフスキー(P)ミトロプーロス指揮NYP(SLS)1957/10/13live,,同人のアメリカデビューの記録。爆発的な拍手で終わる。もっともミトプーが振ったプロ3にミトプーの弾き振り含めいいものはなく、特に1楽章序盤でいきなりテンポが弛緩する癖はここでも健在。いきなりミスタッチを誘発している。ただ中身のない技巧的な曲にあっては、傾向的にはバリ弾きなので単純にわかりやすい腕の良さはみせられている(ただギレリスらとは似て非なるニュアンスの少なさや技巧的な不安定感、たとえば細かい音量制御の弱さが気になる)。50年代録音なので悪くはないが、ましてミトプーの記録としてはいいほうのはずだが、モノラルで分離も冴えないところはあるので、はっきり言ってちゃんと伝わっているのか・・・,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),トラジェ(P)テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(don Industriale)1985/11live,,やけにしゃっちょこばったプロコフィエフだな、テンシュテットらしいな、と思うが、ソリストは鮮やかに弾きこなし、演奏のドイツ臭さというか堅さ、流れの停滞を防いでいる。このガチッとしたスタイルが、スピードを伴い力感みなぎる音楽に結実していく三楽章後半は聞きもの。全体構成がしっかりしているぶんスケールが大きく感じられる(プロコフィエフに適切かどうかはわからないが)。録音は海賊なりのもの。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),ヘルファー(P)マデルナ指揮モンテカルロ国立管弦楽団(SLS)1969/11モナコ(セッション録音?),,パキパキした音で組み立てられてゆくさまが心地よい。響きも調和し細かい音符もやや緩慢なテンポで曖昧にせずデジタルに再現してゆく。ソリストは明瞭に力強く縦ノリのリズムにのせてしっかり音符を敷き詰めてゆく。マデルナの指揮はかなり危なっかしかったり、オケも技術的な問題を感じさせるが、きほんヘルファーのかっちりした四角い演奏にきっちり付けていく形で進むに連れ上手く行くようになる。なかなかに盛り上がる。スタジオ録音だろう。良いステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),○ウニンスキー(P)オッテルロー指揮ハーグ・フィル(PHILIPS)キーンと硬質で非常にクリアな音だ。私の盤は(例によって)状態が悪いので音飛び雑音すさまじいけれども、強力な音のカタマリがそれらを押し分け飛び出してきてちっとも気にならない。オッテルローは落ち着いてしっかりテンポを保っている。プロコはきっちりテンポを保つのが肝要だ。ウニンスキーは異常に強靭なタッチを鍵盤に叩き付けて諸所で胸がすく思いがする。プロコはこうでなくては。スピードは若干遅め(といってもフランソワとは比べ物にならないほど速い)だが、打鍵の強さと確かな拍節感ゆえにスポーツ的快楽を損なわずに済んでいる。盤面が悪いのに5回ほど聞き直してしまった。まあ録音の良さが気に入った一番の理由なのだが、ギレリス、自作自演につぐ感興をおぼえた。こういう曲は考えずに聞こう。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),◎ギレリス(P)コンドラシン指揮(LYS他)プロコフィエフ盤の次に推すのは、やはりプロコフィエフの薫陶を受けた(リヒテルではない)ギレリス盤だろう。スタイル的にも、勇壮で強靭なタッチ、目にも止まらぬスピードを緩めることなく維持しているところが、プロコフィエフに通ずるものが有る。コンドラシンのバックは言うことがない。唯色彩感の欠如が悔やまれるのみである。そもそもギレリスとコンドラシンは似ているような気もする。最近海外でやっとCD化した(LYSだったか?単独盤ではない)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),○ジャニス(P)コンドラシン指揮ACO(PHILIPS)ジャニスも巧い。コンドラシンもコンセルトヘボウを得て色彩感を増している。ギレリスほどの直接的共鳴を感じさせる迄にはいっていないが、徒に巨匠性を求めないならば面白く聞ける。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),○タッキーノ(P)フロマン指揮ルクセンブルク放送交響楽団(Vox)タッキーノは凄い。打楽器的表現が素晴らしい。佳演といえよう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),○バッカウア(P)ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(CON MOTO)1956/1/29LIVE・CD妙に遅い序奏部から、すっとぼけたようなところもあるが、ミトプーによってなんとか推進力を保っている感じ。弾き振りとはやはりかなり違う。ずっと流れがいいし、ソリストもソロの音線に集中し極めてしっかりした表現を行うことができている。バリバリ突き進むような技巧派のピアノではないが、曖昧さの無い表現には自分の演奏に対する確信が感じられて清々しい。これはむしろミトプーの解釈なのか、序奏部の旋律がオケ全体によりリフレインされるところなどかなりテンポを落として情緒纏綿に歌っている。録音が比較的いいせいかピアノとオケの絡み合いが明瞭に聞こえてきて面白い。マニアックなプロコ書法を垣間見せてくれる。旋律の寄せては返すような雄大な表現には魅力がある。ソリストによりやや作為的なテンポ操作(ミスと捉えられかねない)が行われている箇所があり好悪分かつと思うが、総じて安定感のある演奏ぶりは評価できる。第一主題へ駆け上るあたりのピアニズムなど実に鮮やかでかつ無理が無い。2楽章もやや遅めだが、そのぶん豊かな抒情を引き出しすことに成功している。ただ中間部でオケが叫び出すあたりなどもうちょっとコントラストをつけて欲しい気もする。弱点といえば冷たいこと、繊細さがなくやや生硬さを感じさせるのも気になるが、そういうスタイルなのかもしれない。上から垂直に指を落としたような粒立った音は3楽章になるとさらに明確に聞こえ否が応でもリズミカルな気分を高揚させる。オケがやや情緒的に揺れるのがインテンポをキープするソリストと不整合を起こしている箇所も無きにしもあらず。まあソロと絡まない箇所での情緒纏綿さは印象深いものがある。録音のせいで音色変化はよく聞き取れないが、単純にテンポ・ルバートとデュナーミク変化だけを見ても恣意的と言えるほど揺れている。ピアノソロの美しい伴奏が入るが弦のかなでる緩徐主題のクライマックス部分などスケールが大きくきわめてロマンティックだ。そのあと一気に雪崩れ込む終局はいくぶん客観的ではあるが強い打鍵が印象的で、最後どんづまりで急激にリタルダンドをかけひときわスケールアップしての大団円。それがびしりと決まりブラヴォー拍手の渦。十分に感動的だ。1楽章最後でいったん拍手が入るのはこの盤だけのことではないが、かつてそういうのが慣例になっていたのか興味深いものがある。総じて○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),○ペナリオ(P)ゴルシュマン指揮セント・ルイス交響楽団(EMI)1953・CDテンションの高いバックオケと強い打鍵でバリバリ鳴らしていくソリストの高速の饗宴。1楽章のテンションの凄さはちょっと感動的だ。もっと軽く打鍵しても十分聞こえてくると思うのだが、まさに打楽器的にダカダカ弾き倒していく。スピードがあるから音楽の重さは感じない。音響バランスを保つよりもその場のドライヴ感を重視しているようなスタイルは曲にあっている。録音(モノラル)の音場が非常に狭いわりに残響が付加されており、EMIの録音の悪い所が出てしまっているのは辛い。2楽章の中間部のガンガンいくよーと言うような打鍵に追い立てられるようなオケがかっこいい。終楽章の越後獅子ドライヴも言わずもがなのスポーツ的快楽。ソリスト巧いです。迷ったがソリストが走っていってしまうような場面があったりとちょっとこなれていないところがあるので○に留めておく。でもこの名技スタイルはそうそうできるものではありません・・・。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),ブラウニング(P)セル指揮クリーヴランド管弦楽団、(000CLASSICS:CD-R)1969/10/16LIVEブラウニングはもっとバリバリ弾いてくると思ったのだが、楽団とともに、何か客観的で若干遅めの演奏を繰り広げており、作為的な解釈が耳につく演奏、もっともフランソワほどではないが、歯がゆさが残る。録音のせいもあろうがブラウニングの打鍵は弱い。これはプロコフィエフのスポーツ的楽曲、打楽器的演奏を施すべきだろうと思うのだが。セルの棒も心なしか弱々しく感じる。クリーヴランド管は明るくて軽すぎる。心底に情念の渦巻きがあるのがプロコフィエフ、こんな表面的な演奏では何も伝わってこない。これがセルの指揮か、はあ、と思ってしまった。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),フランソワ(P)クリュイタンス指揮(モノ)(EMI)ロヴィツキ盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(1917-21),フランソワ(P)ロヴィツキ指揮(ステレオ)(EMI)ステレオ盤も最近CD化した。フランソワは若い頃はプロコフィエフ弾きでならしたとのことだが、その悪い面〜奇妙に間延びする解釈、ずれてゆくテンポ感〜が出てしまっており、とくに指揮者のせいもあるかもしれないが遅すぎる。ラヴェルの名演とは対照的だ。唯一第二楽章の夢見る詩情のみが流石の表現である。特に新録は美麗。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ヘブライの主題による序曲(1919),○モズゴヴェンコ(Cl)バシュキーロフ(P)ボロディン四重奏団(MELODIYA)LP,,この曲に関して私は初めに譜面を見てしまったがために固定観念が出来上がってしまい聴く耳が偏っているというかうるさい。ほとんど作曲家本人とベートーヴェン四重奏団らによる演奏しか認めない感じなのだが・・・うまいなあボロディンQ。。世界がきちんと綺麗に構築されている。音色も美しい艶が残っている。初期ならではの味だ。丁寧だけどテンポ感はけっして失わず、バシュキーロフ先生なんかは余り目立たないけど伴奏として非常にうまく立ち回っている。ちょっとスピード感には欠けるきらいもあるが(もっとも後年の演奏のほとんどが遅すぎるのだが)ボロディンでプロコ全集いれてくれればよかったのに。録音やや悪し。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ヘブライの主題による序曲(1919),○リヒテル(P)ボロディン四重奏団他(venezia)1951/12/16live・CD,,しょうじきライブ録音として聴けば許容範囲だがしょっぱなのテンポのずれ(クラリネット!!)から最後の調子っ外れのトレモロ(ヴァイオリン!!)にいたるまで諸所に軋みが生じている、けして褒められたものではない。ただ速いテンポで突き通し、縦がそろってくるとノリがよく感じられとても楽しい。初期ボロディンQに技術的問題をどうも感じて仕方ないが音色はとてもロマンティックで甘く、厚みがある表現が耳をひく。チェロソロのバックでリリカルにアルペジオを刻むリヒテルの煌びやかな音色にもはっとさせられた。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ヘブライの主題による序曲op.34(1919),◎作曲家(P) ヴォロディン(CL)ベートーヴェン四重奏団のメンバー他(MELODIYA/LYS/venezia他)1937・CD
プロコフィエフの小品ではこの曲が美しい。アメリカ滞在中の室内楽作品で、三つのオレンジへの恋やピアノ協奏曲第3番といった代表作級の作品が生み出された時期に、ユダヤ人のジムロ合奏団の依属により(ひっそり)作曲された。その陳腐さが作曲家自身は気に入っていなかったといわれる。のちに人気の高さ故、管弦楽編曲が行われたのだが(寧ろそちらが有名だろう)、曲想にあわず(というか元が単純すぎるので)、原曲の方が良いように思うのは私一人ではあるまい。生硬だが素直なアンサンブルと瑞々しい曲想の連続により、プロコフィエフ特有の新鮮な感動を得られる曲だ。スコアは笑ってしまうほど単純で簡潔なものだが、チェロとヴァイオリンによる第二主題の掛け合いや、機械的なピアノのかなでるラヴェル風伴奏音形、非常に耳ごこち良い二つのヘブライの旋律など、この短い曲の中にききどころも多い。奇妙な装飾音もプロコフィエフならではだ。作曲意図からいって当然のことだが小編成の軽音楽を想起するところがあり、ストラヴィンスキーやショスタコーヴィチのジャズ風音楽に通じる印象も受ける。録音は圧倒的に管弦楽版が多いが、是非最初は室内楽編成で聞いて欲しい。この盤はプロコフィエフの紡ぎ出すさりげない美感とシリンスキーらの郷愁をさそう音が耳に優しい。LYS、venezia盤はオイストラフとのヴァイオリン協奏曲第1番とロメオとジュリエット第二組曲とともにモスクワで集中的に録音された自作自演を纏めており資料的にも価値がある(前2曲は指揮、モスクワ・フィル)。管弦楽曲の自演は他にコッポラとのピアノ協奏曲第3番が有名で、プロコフィエフのソロは圧巻。PEARLをはじめいくつかのレーベルでCD化されている。,,
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プロコフィエフ:ヘブライの主題による序曲op.34,○ミトロプーロス指揮THE NEW YORK ENSEMBLE OF THE PHILHARMONIC SCHOLARSHIP WINNERS(BRUNSWICK)珍妙なデフォルメの施された独特の演奏だ。緩急の差が異様に激しく(ミトプーらしいところだが)余りにロマン派的な解釈が施されすぎである。ミトプーのピアノを弾いた3番コンチェルトや交響曲第5番のライヴ録音に感じられるものと同種の違和感が拭えない。ただここでおもしろいのは若き演奏家たちの奇妙な説得力である。とくにヴァイオリンが物凄いヴィブラートをかけていて、フレージングもきわどく、異様にヘブライしている。これは民族音楽の世界だ(中東の音楽?)。アンサンブルはぎくしゃくしていて決してバランスがいいものではない。ピアノが際立って聞こえないためにちょっとぐだぐだに聞こえる。ピアノ弾きプロコフィエフの作品でピアノが入っているものは、ピアノが全ての骨組みを組み立てているようなところがあるから聞こえないのは痛い。またトリッキーなリズムが力を入れすぎて音になっていないところなどやはり若い奏者の演奏ゆえの弱点だろうか。曲を知っていると面白い。でも最初に聞いたらわけわかめだろう。そのままで十分わかりやすい曲を、なぜここまでデフォルメするかな・・。怖いもの聴きたさで聴いてみるのも一興。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:ヘブライの主題による序曲(管弦楽編),○マルティノン指揮ORTF(VOX)CD,,初めて聞いたのがこの編曲盤なのだが、学生時代のうちに原曲譜を手に入れ自作自演などに親しむうちすっかり忘れてしまった。いま再びこれを聴くとよくできている。原曲の敢えてでもあるチープさが、沢山の楽器によって厚みと多彩さを得て音楽的な拡がりをみせている。単純な管弦楽編曲には無い板についたものを感じるのはマルティノンの腕によるところもあるか。オケの透明感ある色彩もプロコの体臭を抜きくっきりと輪郭を浮き立たせる。ややしゃっちょこばったところもあるがこの組み合わせでは良好な方だろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:ロシアの主題による序曲,◎マルティノン指揮ORTF管弦楽団(VOX)CDハリー・ポッター(映画)の音楽を聴くといつもプロコを思い出す。ジョン・ウィリアムズが確信犯的にプロコの作風を真似ているのであろうが、雪降る冬の楽しいお祭りを想起するこの曲など実に瑞々しく胸のすくような心持ちがして、J.W.でなくても剽窃したくなるよなー、と思う。ここに散りばめられた旋律の魅力については誰も異論を挟む余地がないだろう。この人でなくては書けない跳躍やコード進行を含んだ独特の、でも万人が認めるであろう音楽。不思議と構造的でもあり、そのあたりも独特である。野暮なロシア音楽の本筋に復帰して、でも「粋」であることにこだわったプロコの隙の無い書法に感服してしまう。マルティノンはしなやかできらびやかでプロコの音楽にとてもマッチしている。この人も「粋」の指揮者だ。いい香りのする演奏である。引き締まったアンサンブルの中から立ち昇る幻想。それにしてもああ、何て美しい曲なんだ。入れ替わり立ち代わり顕れる走馬灯のような旋律にめくるめきましょう。ソヴィエトで世界初演、アメリカ初演はクーセヴィツキーが行っている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:映画音楽「イワン雷帝」〜カザンの場面 より「Canon Founders」,作曲家(歌、ピアノ)(WARNER)?いかにもロシア!て感じの曲。重苦しい雰囲気の、「えいこーらー」みたいな歌。声はピアノの強奏に隠れわずかしか聞こえない。いっそピアノ独奏でもいいのでは?きわめて短い。プロコフィエフ没後50周年記念ボックスの特典盤として付録されたもの。リーナ・プロコフィエフ・コレクション秘蔵盤。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:映画音楽「イワン雷帝」〜婚礼の場面 より「喜びの歌」,作曲家(歌、ピアノ)(WARNER)?プロコフィエフ・・・お世辞にもいい声とはいえない(笑)録音がすこぶる悪いので、3人がいっしょに歌っているような錯覚に陥るが、もし3人だったとしても、みんな音痴(いや、音程はあっているから音痴というのでもないが)。これはアイヴズのダミ声のほうがよほど聴き易い。珍盤だ。曲の方は甘いメロディのほのかな感傷性を秘めた佳作。古臭いといえば古臭い。ピアノ伴奏も目新しさはないが美しい。プロコフィエフ没後50周年記念ボックスの特典盤として付録されたもの。リーナ・プロコフィエフ・コレクション秘蔵盤。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:歌劇「炎の天使」,○ロード(s)ドプラ(b)ブリュック指揮パリ国立歌劇場管弦楽団他(ACCORD)1954/11/25シャンゼリゼ劇場初演live・CD,,諸所問題はあるがおおむね録音は良好で聴取に支障はまったくない。断続的に再発され続けている演奏会型式の全曲初演盤(フランス語)である。とてもフランス的というか、プロコの問題作とは思えない繊細な表現が目立ち、やはりこういったマニアックな技巧を凝らす作曲家の作品はゴリ押しの方法論よりちゃんと読み解いて綺麗にまとめてやるのが一番あっていると思う。かなり聴き易く、またライヴとはいえライヴ感は維持しつつまるでアンゲルブレシュトのペレアスのように美麗で、かつ独唱者がよい。後期プロコのマンネリズムも前期プロコの破天荒な汚さも全く出てこない、いい曲だなあとドラマティックな場面を含めて思ってしまった。「道化師」に近いかな。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:歌劇「三つのオレンジへの恋」〜地獄、王子と王女、行進曲,○ストコフスキ指揮NBC交響楽団(scc:CD-R)1941/11/18live,,ストコフスキーは同時期に正規録音でも同曲からの抜粋を遺しているが、なぜ組曲全曲を残さなかったのか不明である(順序も違う)。圧倒的な力感のインフェルノはプロコフィエフの闘争性を存分に引き出し、ロマンスはポルタメントも厭わず、しかし透明で明るい音によってオリエンタルな雰囲気のうちに盛り上げる。録音がよれているのは惜しい。NBC交響楽団ならではの素晴らしい法悦的な演奏。有名な行進曲はやや録音が伝えきれていないキレの良し悪しがわからないが、ソロの細かいミスはともかく、圧倒するような気迫には満ちている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:歌劇「三つのオレンジへの恋」〜スケルツォと行進曲,◎ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(BSO)1953/11/28live・CD,,同日のアンコール。クリアなモノラル録音で瑞々しい弾けるような音楽を楽しめる。演奏自体非常に立派で弛緩なく、鮮やかなプロコ節を大管弦楽の隅々まで表現しきっている。素晴らしい。ミュンシュの脂っぽさもこの短い曲ではほとんど聞こえず、ジョージ・ルーカスとジョン・ウィリアムズが組んで作った映画音楽のネタ元を、同じボストンオケの手でやっている、そこが個人的にも面白かった。音が一緒だ。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:歌劇「三つのオレンジへの恋」組曲,○マルティノン指揮コンセール・ラムルー管弦楽団(PHILIPS)アメリカでの名声を確定した歌劇の組曲版。プロコフィエフの海外における出世作と言っていいのでは。この曲がなければジョン・ウィリアムズの映画音楽もなかっただろう。ハリウッドの映画音楽、ディズニーの音楽も味気ない単彩なものとなっていたかもしれない。まずは旋律の素晴らしさ、ロシア民謡を採り入れながらも垢抜けた響きを施し透明で爽やかな感傷性を煽り秀逸だ。同曲いろいろなジャンルに流用された旋律の宝庫である。とにかくこの曲は内容的に新古典的な立場に立ちながらも初期プロコのモダニズムやちょっとロマン派めいた生臭さの残った「イイ混合具合」になっており、後期作品のあからさまな明快さ(「飽き」も速い!)とは一線を画し、何度でも楽しめるフトコロ深さを見せている。演奏はこれまた垢抜けたもの。プロコフィエフが憧れたフランス・パリの響きを明るい音色の中に演出している。生臭さを抜き去り耳馴染みのよいものとなっている。ちなみに組曲版はパリで初演。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:歌劇「三つのオレンジへの恋」組曲〜スケルツォとマーチ,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PEARL)1929/4/22・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:歌劇「三つのオレンジへの恋」組曲〜スケルツォとマーチ,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PEARL)1936/12/20・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:歌劇「賭博者」組曲〜T、U、V、X,ミュンシュ指揮ORTF(SLS)1946/11/14シャンゼリゼ劇場live,,プロコフィエフ意気軒高たる時期「形式の打破」を体現する一曲として現れたオペラである。しかし平易できわめて描写的で、ほの暗くもカラフルな音の縦横に詰め込まれた作品は人好きするものだ。さらに組曲版全5曲となればフランスでも演奏され・・・さすがにディアギレフに扱うのは無理だったろうが・・・スタイルによっては「アラとロリー」をやるよりもフランス的な軽々しいものになりうる。ミュンシュはいきなり咆える。つまりロシア式と言えそうな野獣のような迫力で「これはボストン???」という錯覚を覚えそうになる。その迫力がいっそう諧謔味を引き立て、悪い録音ではあるが、4曲の抜粋ではあるが、この曲の野心的なさまをダイジェストで味わわせてくれる。終曲はまるでマーラーかショスタコかという分厚さがうれしい。筋肉質で弛緩を許さない。それでも鄙びてしまうところはあるが、拍手カットが惜しいほど。ミュンシュがプロコをあまりやらなかったのは惜しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第1番(1930),○エンドレス四重奏団(VOX)LP,,プロコフィエフ屈指の美旋律に貫かれた曲である。殆どがファーストによって歌われるがゆえに(かといって非常にマニアックに作りこまれた内声部の独特の構造こそが聴き所でもある)「音質」というのは非常に重要で、これは室内楽とくに弦楽アンサンブル録音全般に言えることだけれども、アナログに勝るものはない(アナログに対してデジタル以外何があるかとかいう突っ込みは無視)。音の厚み、ざらざらした肌触り、柔らかさは絶対条件だ。弦楽器ならではの横の流れで有機的につながっていくべき音楽を、断ち切るようなエキセントリックな変化が要求されないかぎりデジタルの「断続的な音」はそぐわない。「音」が出来た上でアンサンブルとしての正確さにプラスアルファ解釈が伴えばいい。キンキン金属質の鋭く耳にきつい、つるつるした音で、ただ譜面からの正確さを売りにした「ように聞こえる」録音が増えてしまうのは、CDに代表されるデジタル音源の欠点の裏返しである。この盤は50年代までの雄渾で柔軟な演奏スタイルによるものであることに加えて、そういったアナログのよさを改めてわからせてくれる音を持っている。,,この演奏は1楽章こそやや客観性が感じられるが、若々しさを越えて演奏精度と表現力の調和が板についているさまは聴き心地よく、ただでさえ凄まじいアンサンブルが弾ける2楽章において、絶頂的な表現が聴かれる。全般確かに強い個性は無いが、この楽章では細かく施されたアーティキュレーションが完璧に表現されており、この瞬発力が売り物のような楽章でよくもまあこんなに表情から音量から微細な変化、起伏をしっかり揃えて演奏できるもんだと感服する。しかも非常にアタックが強く、気合が感じられる(そうしないと揃わないんだろうけど)。この楽章の細部に至るまで完璧なアンサンブルは他には無いものに聞こえた。もちろん、これも旋律音楽ではあり、息の長い旋律を太筆で描くように、倍音を豊かに響かせつつうねらせていく有機性も必須で、その点でも素晴らしい。これこそデジタル音源化したら損なわれそうな美質だ。終楽章はどこがやっても似たり寄ったりになるほど素晴らしい挽歌だからここでも特徴的なものは聴かれないけれど、悪くは無い。2楽章だけだと◎でもいいのだが、○。,,"2番",,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!," ","TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第1番(1930),◎ギレー四重奏団(MGM)LP,,この超名曲に名録音というのが極端に少ないのだ。冒頭から気合を要求し、血湧き肉踊る躍動感を発揮する1,2楽章とコントラストとしての暗くも情緒たっぷりな3楽章と言う、プロコお得意の3楽章構成にあって、隙の無い構造(プロコだから全て独創的なクセがある)もさることながらメロディーメイカーのプロコにしても名旋律といっていいもののオンパレード、カルテットとして若干ファーストがフューチャーされすぎな感もあるにせよこの曲に録音が少ないというのは理解できない。あのソヴィエトに立ち返った地味な2番ばかり何故録音されてるんだろう?この演奏はその数少ない録音の中でも「比較論として」一番気分を高揚させられたもので、私の理想に近い。この団体はたぶんフランスだと思うがロシアの楽団といってもいいくらいギチギチでデロデロな演奏を繰り広げてくれ、録音も(古いのでLPの状態は難しいものが有るが)プロコの母国メロディヤのものよりは数倍クリアで聞きやすい。くれぐれもプロコはスピード勝負なのだが、スメタナみたいな透明感とかアンサンブルの整合性なんて考える余裕もなく突き進む解釈には同感する。もっと1楽章は速くてもいいと思うのは主観か。2楽章序奏部で3楽章の陰鬱な旋律前半が動機として使われ、そのあといきなりおおまかに言えばスケルツォ的躍動が(まさにスケールの応酬はプロコならではだが)始まるわけだが、ここはもっと明確に構造を浮き彫りにしアンサンブル精度を見せつけつつ異常なテンションでスピードを保って欲しかったがそれでも、今まで聞いた中でいちばんしっくりいった。3楽章は地味な中にもプロコの暗い側面がわかりやすい旋律の繰り返しと(便宜上)中間部の3拍子の崩壊、そして最後のファースト一本による心臓の停止のさまが、適切な形で表現されている。これはもっと録音をよくして再発すれば絶対この曲の評価を上げるものになると思う。今のスピードやテンションより精度とハーモニーを重視するような団体にはなしえないものだ。おこがましい話だが私の頭の中で鳴っているこの曲(かつて演奏を試みたときの解釈)にいちばん近かった嬉しさから◎にしておく。カルテットの興奮をおぼえさせてくれる面白い団体です。カルテットは絶対に、地味な音楽をかなでるたぐいの編成じゃないのだ。仮にもロシア好きを標榜するならプロコのこの名作、どんなものでもいいので絶対聞くべき。同じ旋律音楽としてのタコ1が児戯に見えてくる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第1番(1930),○スタイヴサント四重奏団(columbia)1941/1/15・SP,,あまりに遅くのんべんだらりとした一楽章、音外しもありどうもパッとしない。終盤でやっと乗ってくる。アンサンブルやハーモニーは美しくまとまっている。適度に表情付けもなされて何度か聴けば面白くなってくる。二楽章以降はちゃんとしている。スリリングとまではいかないし三楽章も今ひとつ深みが無いが、今の耳からしても十分楽しめる。上手いとはとても言えないが。。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第1番(1930),○スメタナ四重奏団(SUPRAPHON)1961・CD,,アナログで聴いていたときにはずいぶんと客観的に整えすぎの印象があったが、確かに整えすぎではあるが、プロコの「仕掛け」はここまで縦をあわせ数学的に組み合わせないと効果を発揮しない側面もあり、盛り上がりどころでは「ドイツ式」の盛り上げ方、すなわち決してルバートによるのではなく縦をきっちり揃えたまま音の強さと太さで人工的な大きさを形づくっていく。それがわかるとなかなか熱のこもった演奏に聞こえてくるから面白い。ろくに曲を知らずにいきなり譜面から入った私はこういう「学術的な1楽章」にはどうしても違和感を感じてしまう。旋律が強すぎる、すなわち熱気があって当たり前の楽章、逆にそこを制御できることこそがプロなのだろう(でもやっぱりひたすら丁々発止にライヴ的にやる1楽章が好きだけど)。2楽章が肝の曲で、三つの楽章の中で飛びぬけて細かく難度も上だが、スメタナにかかるとそこがいちばんの聴き所となる。終楽章の暗さ重みはじつはこの曲の要でもあるのだが、そこはちょっと透明感がありすぎ、純音楽的すぎるようにもおもう。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第1番(1930),○ノヴァーク四重奏団(ETERNA)LP,,これ、確か全集(2曲ね)としてCD化していたように思うのだが、出てこないのでとりあえずLPとしておく。最近CD等媒体を明記していない場合は私がLPしかもって居ないという意味ですのでご留意ください(CD化不明もしくは不確かということ)。,,ノヴァークは技巧派ではない。2楽章の凄まじいアンサンブルなど、ファーストの高音表現に厳しさが感じられ、プロコフィエフ特有の上向音階が音量を出せず先すぼみになりごまかしているように聞こえる。半面親しみ易さがあり、1楽章などテンションとそれなりの速度が聴き易い。遅すぎたり響きに拘りすぎたりするとそれはそれで面白くなくなる旋律音楽である。終楽章も特徴的ではないが、全般しっくりいく聴感の佳演。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第1番(1930),クロール四重奏団(EPIC),,モノラル盤も出回っているが明晰なステレオ。かなりカロリーの低い1楽章から始まり、ゆっくり精緻な響きの美しさだけじゃあこの曲はもたないなあ、と思ったら2楽章では丁々発止をえんじてくれる。しかしどうも終楽章の暗い幻想にいたるまで違和感がぬぐえない。明るすぎる。明確な旋律をもっているので、旋律に囚われると非常につまらなくなる。だから構造に着目し複雑怪奇なアンサンブルを完璧にすることに専念したのだろうが、結果として技術的には余裕ぶっこいているのに大人ぶってテンションが低いとしか聞こえない。うーむ。1935年クーリッジ夫人が設立したアメリカの往年の名団体クーリッジ四重奏団が44年解散したとき、夫人がパトロンとして呼びかけファーストヴァイオリンのウィリアム・クロールを中心に改めてクロール弦楽四重奏団が設立された。クロールはストラディヴァリウス使いであるが音色にとくに魅力はかんじない。ストラディ特有の音量のなさはききとれる。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第1番(1930),パスカル四重奏団(ars nova/forgottenrecords) 1962/5/23live放送・CD,,このコンサートの主題は現代ソヴィエト音楽だったようで、プロコフィエフ1番、ストラヴィンスキー三つの小品、ショスタコーヴィチ1番とチェレプニンの五重奏という、ほとんどもう聴けないような貴重なプログラムになっており、とくに最初の三曲は個人的に、それぞれのこの分野における紹介的作品で極めて分かりやすく、なおかつ隙きのない引き締まったものだと思っていただけに驚きの並びである。プロコフィエフはカバルタ主題の2番ばかりが演奏されるが旋律の美麗さ、簡潔だが特有の書法の魅力、構成の完成度はこちらの方が明らかに上で、旋律がひたすら弾きまくりバックは入れ代わり立ち代わりながらも基本的に律動を表現するのみという前ニ楽章が2番より劣るという評価になるのかもしれないが、アンサンブルとしてのやりづらさと曲としての価値は別物で、一般人は2番はすぐ飽きると思われる。格別の雄渾な主題からいきなり入る一楽章はミスを誘発しやすい粗野な部分はあり、スピードを落として整える録音は多いが、これはライヴゆえか思ったとおりのスピードを堅持し頼もしい。弓の荒れた弾き方も格好がいい。ニ楽章は要で、フーガの錯綜する上行音形の嵐のギチギチするような伴奏は旋律よりも聞き所となる。ここも瑕疵を厭わずとにかく弾きまくり、旋律楽器はそれに負けないよう必死で太い音を出す、そのさまはこの曲のあるべき姿を正面から提示している。やはりスピードは肝要だ。三楽章は民謡ふうの単純なほの暗い音楽で子守唄のように堕ちて退嬰的に沈む、これは謎めいているというか何か暗示しているのか、しかしあざといくらいの効果を上げる。この演奏では、そのコントラストはそれほど強調はされない。総じてライヴ記録としても貴重であり、このスピードじゃなきゃ駄目なんだ、という考えを再確認した次第。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第1番(1930),スメタナ四重奏団(SUPRAPHON)スメタナは至極落ち着いて客観的な姿勢を崩さない。細く鋭い金属的な音でぎりぎりと組み立てられてはいるが、演奏スタイル的に目くるめく音色変化は求めるべくも無く、情熱の迸りが音の鋭さ以外に感じられない。情熱だらけでも駄目だろうがこれは少しやりすぎだ。2楽章の技巧的な完璧さには惹かれるが、特に1楽章終始ゆっくりとしたインテンポ表現は頂けない。プロコフィエフ特有のスピード感が失われ魅力を損なっているとおもう。今はCD化しているはずだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第1番(1930)3楽章(合奏編曲),○ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA他)CD,,曲を知らなければ楽しめるだろう。しかし原曲の「暖炉の前で老人が子供になつかしい昔語りをするような雰囲気」を知っている者にとってはまるで「燃え上がる戦乱の町の前で昔の平和を慟哭するような雰囲気」はちょっと稀有壮大すぎる感がする。原曲はあまりメジャーではないが極めて素晴らしい傑作室内楽であり、2番よりむしろプロコらしいとも言え、もっと演奏されてもいいものである。1楽章の辛らつな溌剌から2楽章のスポーツ的感興ときて3楽章で静かに消滅していくさまが構成の妙としてあり、この楽章も非常に印象的な楽想に彩られているから決して悪くはないのだが、違和感は拭えない。ショスタコのそれと同じで、まったく別物、別の曲として聞くのがいいだろう。そうするととても感情を煽り立てられる感動的な作品として聞こえる。ロジェストは巧いが、やはり別物として演奏しており、一つのドラマとしてこの楽章抜粋編曲を描き出している。オケも力強い。○とはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第2番,◎イタリア四重奏団(ANGEL)これは出色の出来だ。私はプロコのふたつのカルテットでは1番のほうが解かり易くて好きだったのだが、この素晴らしく色彩的で粋な演奏にあたってはじめて2番のよさがわかった。通常プロコに求められるものは1番のほうにてんこ盛りになっているが、プロコの心の深淵に渦まく複雑な思いを昇華したような2番は、プロコ的には1番よりも重要な作品たるものとして評価できよう。2番は「カバルダ(北コーカサス)の主題による」との副題を持ち、民謡主題を基幹としていながらもプロコならではの機知に富んだ内容となっており、リズム処理、和声、メロディなどに鮮やかな技巧が散りばめられている。イタリア四重奏団はまったく危なげなく演奏してのけており、とくに音色の美しさに魅了される。複雑な和声もしっかりと音になって聞こえるし、技巧的なフレーズもさらりとやってのけている。イタリア四重奏団のラテン的な明るさがプロコの暗部を覆い隠して、ラヴェル的な感興を引き起こしており魅力的だ。モノラルだがそう感じさせない素晴らしい演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第2番,○エンドレス四重奏団(VOX)LP,,この団体らしく解釈の手堅さを置いてなお50年代スタイルの雄渾な表現に惹かれる。モノラルでアナログ、スケールが小さな演奏に聴こえがちなのは仕方ないが、この作品は前期の1番とは違い晩年のちょっと分裂的な境地を示す難しさがあり、ただ楽天的に民族的な音楽をかなでているかといえば、ショスタコ的にそれを断ち切る悲痛な叫び、あるいは小声の謎めいた独白がぞくっとさせる。非論理的とすら感じるその構成はやはり、円熟した団体にしか解釈しきれない部分もあるかと思う。この時点でこの団体はまだ、そこまでは至っていないのか。ちょっとハリウッド四重奏団的ではあるが、あの団体の即物性を思うとこの演奏のほうがより真に迫っているとは思う。○。団体自体は一般的にはそれほどメジャーではないが息の長い活動をしているようで録音もままある。,,"1番",,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ","TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第2番,◎カルミレッリ四重奏団(DECCA,LONDON)1960,,正直カルミレッリ女史の奇嬌な解釈や音に期待して、大枚はたいてアナログ盤をやっと手に入れたのだが、これがかなり完成度の高い凝縮された演奏で不意を突かれ感銘を受けた。調和のまずいと印象を受けたラヴェルは、たんに復刻のリマスターが悪かったのか?上の書き方だとハリウッド四重奏団の傾向に近いように読まれるかもしれないが、あのあっけらかんとした即物的な、凝縮がゆえにこじんまりとまとまり過ぎる「単調な芸風」とは違う。あの穴に落ちないのはやはりカルミレッリ女史の表現力にかかるものであり、ファーストのひとつの役回り、すなわち音楽の牽引者としてのメリットがこの人の技術にはたしかにあるから(この作曲家には傾向として旋律のファースト偏重が意外とあるのだ)、プロコならではの醍醐味が正攻法で味わえる。プロコは勢いだ。スピードとメカニックだ。結構無視されるこれら当たり前の要素を満たしている演奏の中でもいちばんしっくりきた。民族色はあまりないが。カルミレッリ女史の超高音の正確さと適度な感情に◎。ステレオ。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第2番,○コペルマン四重奏団(nimbus)CD,,ボロディン四重奏団を飛び出したコペルマンの団体で、より民族的で荒い演奏を志向しているのがここでもわかるが、一部とんでもなく音程が狂っている箇所があり気になった。終楽章冒頭のひとしきりなど大事故と言っていいだろう。そこに限らず技術的な難点の存在は否めない。現代の演奏レベルに比してはいささか厳しい。ただ、線の細く艶のあるコペルマンの音はカルミレッリを思い起こさせる美観がある。1stが突出しがちなプロコフィエフのカルテットではあるが、コペルマンは主張し過ぎないよう配慮の上で個性を出してきている。○にはできるだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第2番,○ノヴァーク四重奏団(eterna),,mikrocosmosの競争率が俄かに上がってもう、ほんとに欲しいLPが買えなくなってしまった。安い早い多い三拍子揃った中古通販だけに、LPの高騰品薄が続く日本からもたくさん注目されているに違いない。珍しいものも多いし、日本の高級店では下手すると10倍するようなものも二束三文だったりしたのだが、最近「気付いた」ようでユニオンくらいにはプレミアをつけている、でも買い手は変わらない。先月はオーダー全滅したのだが、今月は半分だけ成約した(最近はオーダーがバッチ処理なので、画面上成約してもあとでsorryとくるのがどうにも腑に落ちない)。しかし今月オーダー決断したのがレーヴェングート四重奏団のミヨー三番VOX録音だったので、sorryときたときはまたもや落胆だった。VOXがまとめてボックス化するだろうと踏んで新レーヴェングートものは余り手を出していなかったのだが、VOXの現状にくわえ値段が高級店で見た四分の一というものだったこと、状態AAプラスとの表記(状態表記はどこでもあてにはならないが)に、そんじゃついでの安物といっしょに、と思ったのだが。ここでは二度と目にしないようなものも普通に手に入ったので好きだったんだけどなあ。,,腹いせに朝から二十世紀の弦楽四重奏曲である。ノヴァークは力強くて民族的感興と現代的明晰さが高度な技巧の上にしっかり表現されている。ひと昔前の冷静低カロリーのスタイルや十昔前のデロデロロマンチシズムスタイルから脱却した新しさがあり、曲のせいもあるが加えて荒々しいアタックの脂粉飛び散るような元気さに、退嬰のきざしをみせるプロコを再び傲慢な亡命者に立ち戻らせる感じがして楽しめた。音が冷たく普通でもこういう曲なら十分だ。録音はすこぶるいいステレオ。印象には残らないので○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第2番,○ハリウッド四重奏団(CAPITOL/TESTAMENT)1951/4/4,5テスタメントの復刻盤はどうもスケールが小さく聞こえる傾向がある。いや、原盤のせいかもしれないが、ハリウッド四重奏団がまるで狭い四畳半の部屋でレコーディングしているような、凝縮されているけれども、いまいち奔放さが無く発散しない演奏に聞こえてしまう。まあ、好き好きだけれども。この団体にとってプロコフィエフはカンタンな音楽だっただろうな、と思わせる演奏だ。プロコらしい清新な(まあ手垢がついてなくもないが)ハーモニーはじつにビシっビシっと決まるし、全体の音楽的な「勢い」にも欠けていない(ロシアの曲はやっぱり「勢い」が必要)。あまりに非の打ち所が無い演奏だ。2楽章のショスタコ的あるいはルーセル的と言ってもいい硬質の抒情はこの団体にしては意外なほど美しく、磨き上げられている。ともするとよくわからない連環につらなるような楽曲だが、総じてよく纏め上げられている。息が詰まるというか、少し柔和さがほしいところもあるので、個人的には○ひとつに抑えておきます。綺麗な曲ですよ。とくに2楽章。1番のほうがプロコらしいけど。分かり易い構造だし。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第2番,○プラハ四重奏団(DENON)1977/11/8,9荒川区民会館,,オデオンとしている資料があったがDENONお得意のPCM録音です。ただ、ソリッドで金属質という感じは一昔前のデジタル録音特有の不自然さでもあり、もっと生音はやわらかくしなやかだったろう。演奏は民族的な部分は多分に残しながらも過度なヴィブラートやアタックをつけることもない。単純な曲なだけに各声部がかなりしっかり調整できていないとほころびがすぐに耳についてしまう、だが来日録音というハプニング的なものであったにもかかわらずほとんどほころびがない。力みすぎもそんなに気にならない。中庸の演奏とはいえ楽器の音はでかく雄弁であり、どの向きからもこの曲に期待されるものが全部列されていると言ってもいいだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第2番,○ベートーヴェン四重奏団(SUPRAPHONE)LP,,重い発音ではあるが溌剌とした演奏振りである。激しく、深刻さが漂う、ショスタコのイメージとかぶる。初演団体としての気負いがあるとは思えないが民族的で軽いイメージで捉えられやすいプロコの晩年室内楽に、感情的な昂ぶりをあからさまに示すのみならず内面的な抽象化された純音楽としての側面を見出しはっきり抉り取ってみせている。こんな深刻な1楽章は無いだろう。さすがといえる。2楽章は民族的な部分が大きい楽章であるだけに表現も素直なものになっている。技術的にそれなりの難度のある音楽だが裏三本それぞれの細かいトリッキーな動きまで全て気合に満ちたボウイングでやりきっている。緩徐部の痛切な響きが晩年プロコの本当の心を垣間見させる。3楽章もまた重いピチカートから重いスピッカート、そして印象的な主題が全パートの力感溢れる表現で派手に提示される。1番2楽章に似た細かい刻みの応酬もまた一音一音重く深刻さをかもす。アンサンブルのマニアックな絡み合いを楽しむという意味ではプロコらしさをスポイルしている感もあるが、不協和で皮肉な主題へのつながりにおいて不自然はない。このあたりがやはりプロコの本心と言えるものなのだろう。主主題の復活後もショスタコを思わせる雰囲気が通底する。チェロの謎めいた下降音形を中心としたソロから、極めて悲愴な主題がいざなわれてゆくあたりも、やはりショスタコのような痛切さが感じられる。痛々しい表現はこの団体が持ち味とする人間味のある荒々しさによって血肉を得て響く。闘争的な主題からいくつかの主題が再現されてゆくが、結局冒頭主題に戻る。この団体の力量が如実にわかる非常に聴きごたえのある力強い表現だ。フィナーレは大上段に構えずすっと終わる。モノラルだが録音はいい。組み合わせをかえて二枚くらいLP化された。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第2番,○ボロディン四重奏団(MELODIYA)1958・CD,,古い時代のボロディン弦楽四重奏団、即ちまだ名前にstateが入っていたりする音楽院カルテットだったころなわけだが、無難というか、民族色溢れる奏法や解釈といった特徴的なものが殆どないかわりに演奏精度と、演奏精度により損なわれることのないなめらかな音色を確保した演奏とは言うことができる。正直ほとんど惹かれなかったのだが、生で聴いたらよかったのか、アナログだと迫力が違うのか。いちおう○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第2番,○レーヴェングート四重奏団(DG)LP,,よく見る盤だが昨今の初期盤ブームとおフランスブームで高値安定の中古市場。DG盤の質や録音特性の好き好きはおいておいて、演奏はなかなか大人である。フランス的な甘い軽やかな響きと不安定な細い描線がかもすのはかつて作曲家が憧れた往年のフランス派、たとえばミヨーのプロヴァンスふう室内楽のような雰囲気であり、清澄さと繊細さをもたらして民族的な凡演と一線を画している。現代的な団体だなあと思わせるのは2楽章冒頭からの教会的な音楽の部分で、まるでショスタコ晩年の諦念のような悲痛なかなしみが滲み出ている。ユーモア溢れる終楽章でさえ、随所に深淵をのぞかせている。この演奏は素直に民謡室内楽として聴けない何か踏み込んだものをかんじさせる。技術的にはそれほどでもなかろうが、曲理解のために聴く価値はあります。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:五重奏曲,○ミトロプーロス指揮THE NEW YORK ENSEMBLE OF THE PHILHARMONIC SCHOLARSHIP WINNERS(BRUNSWICK)うん、この曲の演奏としてはレベルの高いものといえるだろう。はっきり言ってプロコフィエフの作品としては意外なほど現代的であり無調的なわけのわからない曲なのだが、交錯する響きをまさに現代音楽のそれとしてとらえ、それぞれの音そのものを鋭く研ぎ澄まし、それらの重なりに厳しい透明感をあたえていて秀逸である(ミトプーらしくない)。6つの楽章がそれぞれ小さな結晶体としてのまとまりを作っており、まるでミヨーの一連の小交響曲のような簡潔なミニアチュールとしての作品世界を確立している。もとがバレエ曲でありさしずめバレエの場面ごとの性格分けをするような按配で作られているのであろうが、私にはフランス六人組の感覚に非常に近い簡潔さへの指向を持った作品と感じられた。そう感じさせたミトプーはさすがと言える。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:五重奏曲,指揮者無し、パリ室内アンサンブル(bnl)1991初出はっきりいって余り良い出来とはいえない曲だ。室内楽曲としては、傑作である「ヘブライの主題による組曲」と弦楽四重奏曲第1番の間にあって、マイナー感をぬぐえないのは仕方が無いといえよう。編成はオーボエ、クラ、ヴァイオリン、ヴィオラ、ベースといったもの。元来ロマノフ・バレエ団のバレエ「ぶらんこ」のための音楽であり、それを念頭に置いた上で聞くと若干は理解できるだろう。でも、はっきりいって晦渋だ。非常に似ているのがストラヴィンスキー、ミヨーの音楽である。よーく聞くと、旋律の一部にはプロコフィエフ独特の旋律が聞き取れなくもないが、全般には当時の流行前衛音楽の範疇を出ない無個性な曲である。おすすめはしない。演奏は良い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),◎アンチェル指揮チェコ・フィル(supraphon)LPモノラルでこれだけ聞かせられるのは素晴らしい!アンチェルの人となりが見えてくる。スマートで洗練された棒、それに見事に答え一糸乱れぬオケ(この曲で乱れないほうがおかしいのだが)。このコンビの最良の産物を聞いた心地である。終楽章が頭にこびりつくほど強烈な光をはなっている(爆演ということではない)。しいていえば二楽章がフツーでつまらないか?でも◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),◎オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(Don Industriale:CD-R)1979/4/22live,,この浅い曲のライヴ記録としてはこれがベストだ。とにかくオケに技術がないと話にならない曲、しかもプロオケでもトップクラスでなければちゃんと揃ってアンサンブルして更に解釈を載せて、なんて芸当は出来ない。オーマンディは分厚い音響によって細かい精度のブレを補ういつものやり方をしているが(通常この曲に弦の大編成は用いないものだ)それがなくても黄金期のフィラ管である、技術的に余裕綽々なのが透けて見える。しかしとくにヴァイオリン、その技術に安住することなくメンバー一人ひとりが積極的に演奏を仕掛けてくる。ロシアオケのような音のバラケ味が却って迫真性を生んでいるのだ。余りの古典的な浅さにアペタイズ的扱いをされ、あるいは啓蒙曲のように使われる曲だが、この演奏では完全に大交響曲である。聴き応えがある。オケの気合の入った演奏振りを背景とした表現には深みが自然と醸され、この曲で飽きなかった唯一の演奏。◎。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",-----,,,-----,,,-----,,,-----,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○サモスード指揮モスクワ・フィルハーモニック交響楽団(MELODIYA)LPロシアの伝説的指揮者サモスードの数少ない音盤のひとつだ。鋭いアタックと明瞭なテンポ感で引き締まった曲作りを施している。だいぶノれるが、途中声部間のテンポがポリリズム的に乖離して聞こえるところがありちょっとマイナス。でも大まかに言ってムラヴィンスキーを思わせるスマートな演奏ぶりである。意外と現代的なのだ。もっともハイドンを模した擬古典的作品だからそういうスタイルをとっただけかもしれないが。雑味は無いとは言えないがほとんど聞こえない。録音もまずまず。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(BBC,IMG)1968/8/24エジンバラ祭LIVE・CDずいぶん落ち着いてるな、という一次聴感。安定感があり聴き易い反面、面白さは減退。なんだか舞台が遠く録音の不明瞭さとあいまって正直期待するほど楽しめない。終楽章で爆発するのがスヴェトラの「古典」だが、確かにこの演奏でもそれまでの客観姿勢から一歩踏み込んだスリリングなアンサンブルが繰り広げられるが、爆裂という感じではない。巧い、と言うことはできる。終演後は盛大な拍手。生演奏と録音の差異のせいか、そればかりはいたしかたない。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(INTA GLIO他)1968ロイヤルアルバートホールLIVE・CDどうにも重い。ミスも目立ち、雑な印象。但し終楽章は迫力がある。終演後の凄まじいブラヴォは圧巻。その状況を録音が捉え切れていないだけかもしれないが、聞いた感じでは無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(放送)1970年代/4/6ブダペストlive,,音の切れやリズム良さはそれほど感じられない。スヴェトラらしいというか、少し拡散傾向のある演奏で、終楽章まできてやっとスピーディなアンサンブルを魅せるものの、そこまでは普通の演奏、ちょっと音量のでかい、といった感じだった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○パレー指揮デトロイト交響楽団(da:cd-r)1963/1/9live,,高速パレーにしてはわりとテンポが遅めだが、オケの技術的要因によるところが大きいようにも思う。弦楽器には無理のある細かい音符の応酬である。だが若干落ち着いているだけに曲のせせこましくて実に浅い感じが少しやわらいで、楽しく聴きとおせる。聴衆も楽しそうだ、○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○フィテルベルク指揮ポーランド放送交響楽団(MUZA)LIVE・LP荒々しい演奏だが、素朴な気迫というものが感じられる演奏。オケもけっして巧くはないが、好ましく聞いていられる。録音はあいかわらず悪い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○ブール指揮南西ドイツ放送交響楽団(LIVE SUPREME:CD-R)1967この時代の非正規音源としては録音はまずまずか。じつに堂に入ったというか、抜群の統率力をもってオーソドックスな演奏を繰り広げている。特徴的なところはこれといって思い付かないが、そもそも「古典」はそんなに解釈の幅を許すような曲ではないのでこれで十分だろう。むしろブールが「ちゃんと」プロコフィエフの様式で演奏しきっているところに感服させられた。ロスバウトもギーレンもブーレーズもけっこう「解釈」してしまう指揮者だと思うが、そういったお歴歴に対してブールはあくまで曲そのものの様式を主と考えそれに沿った演奏を行っているのだな、と併録のリゲティと聞き比べながら思った。じっさい同一人物とは思えない指揮ぶりである。どちらも巧い。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○フリッチャイ指揮RIAS交響楽団(DG)1954/1/4・CD11月とされるものと大差無し。というか恐らく同じ物だと思われる。表記上2楽章が20秒ほど短いが他はほぼ誤差範囲内の秒数。心なしかこちらのほうがまとまりがあり活き活きしている気もするが。。。リマスタリングのせいか(11月とされるものは93年CD初出の盤、こちらは2003年のボックス収録盤)。11月の録音を聴きたいとおっしゃる方、こちらがあれば十分だと思う。11月より上のレベルの○ということで。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○フリッチャイ指揮RIAS交響楽団(DG)1954/11・CD遅いテンポだなー。縦が思いっきりぎっちり合っているので聞ける演奏になっているが、この速度は人によっては拒否感を覚えるだろう。ドイツ式というかクレンペラー型というか、タテノリな演奏だ。しかし3楽章あたりになってくるとこの速度に慣れ、対位法的な絡み合いの鮮やかさに魅了されるようになってくる。4楽章は速い。けっこうな盛り上がりが作られる(テンポはインテンポだが)。十分楽しめます。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○マルケヴィッチ指揮フィルハーモニア管弦楽団(HECTOR:CD-R/COLUMBIA)1952/9,,全く危なげないこの曲の演奏というのは古い時期においては珍しかったもので、ここまで安心して聴いていられるのはマルケの厳しい統制に腕こきの録音オケという組み合わせならではだろう(バンスタならこうはいかない)。えんえんと後打ちのリズムとか旋律を乱す装飾音符とかトリッキーなアンサンブルとか、機械的な書法を機械的にならずに前進的に巧緻に仕上げている。三楽章最後のそっと置くようなニュアンス表現など素晴らしい。フィナーレ前が退屈な曲とは言わせない面白さ。モノラルなのは惜しいが、さすがはマルケ、ロシアングルーヴ炸裂。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○マルケヴィッチ指揮日本フィル(PLATZ)1968/3/13東京文化会館live・CD,,可もなく不可もなく、といった印象で個性がどの方向にも向かわないのがマルケヴィッチのいいところでも悪いところでもある。しかし日フィルをここまでドライヴできる腕は確かだ。ほとんどどこの国のオケだかわからなくなるほどまとまっている。個人的に好きなタイプの解釈者ではないのだが、リズム感とテンポ設定の速さを買って○。ジェネラルな活動を行ったグローバルな指揮者の、ルーツでもある国の一つの同時代の代表曲をやっているのだ、という確信は感じられる。だが強烈さはない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○マルコ指揮フィルハーモニア管弦楽団(RCA/EMI他)CDフツーですねやっぱり。引き締まった演奏ですが。「古典」のスタンダードな演奏としての価値はあると思う。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○マルティノン指揮コンセール・ラムルー管弦楽団(PHILIPS)LP巧緻と言うべきか、そつないと言うべきか。速さは無いのに非常に多彩で飽きさせない魅力がある。さすがマルティノンといったところだろう。しかし、これはマルティノンの他の録音とハッキリ言ってあまり変わらない。ラムルーである必然性?・・・音色、と言いたいところだがORTFのVOX録音はすこぶる状態がよく音も鮮やかだ。そちらの廉価盤さえあればこちらはいらないでしょう。いい演奏だけれども、よほどのマニアでない限り看過していいと思う。あ、言っておきますが演奏レベルが低いというわけではないです、同人の演奏としては録音を考慮すると相対的に落ちるかと言ったまで。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○ロジンスキ指揮RPO(westminster他)1956,,古き良き、と言うとロマンティックで揺れ揺れの演奏を思い浮かべられるかもしれないが、そういうのではなく、トスカニーニの匂いを嗅いで、ストコフスキのゴージャスな響きを受け継いだような演奏、という意味での古き良きである。すなわち戦後アメリカというべきか。揺れずまっすぐ突き進むが分厚いオケのうねりが音楽の愉悦性を高め、2楽章のようなだれそうな楽章でも普通に聞きとおせる。むろんスタジオ録音ということもあるだろうがアンサンブルは丁々発止のやり取り、古いので明瞭に聞き取れるわけではないが不明瞭であっても流れは滞らず立体性も失われずに聴ける。ギリギリ引き締められすぎて窮屈になることもない。反面個性には欠けるかもしれないが、まあ、でも悪くは無いでしょう。ロイヤル・フィルの輝かしい響きは私の盤からは聞き取れなかった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ASdisc/LYS,DANTE)1947/11/11LIVE・CDこれがどうも前のめりな演奏なのである。録音が茫洋としているせいという可能性も否定は出来ないが、速い楽章でのつんのめるようなテンポ感はちょっと聞きづらい。スピードに拘るのは分かるがもっと落ち着いた演奏にしてほしかった。もっともライヴだからこんなものか。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PEARL)1929/4/22・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),クーセヴィツキー指揮ロス・フィル(ROCKPORT RECORDS)ハリウッドボウルライヴ1949/9/3放送録音CD、○ボストン交響楽団(RCA)1947/11/25CD作曲家にピアノを弾かせて一生懸命棒の練習をしたというクーセヴィツキー、その作曲家というのがプロコフィエフであった。前者クーセヴィツキーには珍しいロスフィルのライヴだが、最初から最後まで演奏会全部を収録したという趣向で、節々に入るコメント、爽やかな演奏のメインプロ(ラフマニノフピアノ協奏曲第2番ルビンシュタイン)、そしてアンコールの数々まで、ひとつのゴージャスなプログラムをそっくり体験できるという点では、ファンはたまらないだろう。但し、ロスフィルははっきりいってボストンには及ばない。マイク位置が悪いせいとも思うが、古典では高弦が露骨でヒステリックに聞こえ、ピーコンではピアノの音が大きすぎてオケが聞こえないのもしばしば。クーセヴィツキーの前進的で緊密な音作りはこのオケ特有の”バラケ”の妙とは相容れないようで軋みを生じている。音はいいものの、テンポ設定の不安定さもかんがみて、ボストン盤に軍配を挙げざるを得ない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),コンドラシン指揮モスクワ・フィル(GLOBE)1966/4/5LIVE・CD荒々しいが終楽章など一音一音がパキパキ決まりかっこいい。厳しい発音はコンドラシンならではの攻撃性をもって響いてくる。ただアグレッシブすぎて緩やかなラルゲットなど起伏が無く(起ばかりで)つまらない。まあ、コンドラシンファンならモスクワ時代の典型的解釈の記録として聴いてみるのもよかろう。ライヴゆえ一糸乱れぬとは言えず結構とちっており(それを考えるとバーンスタインがニューヨーク・フィルとテレビでやった曲芸的なライヴ演奏はまったく凄かったものだ)録音もぼけているのでその魅力を味わい尽くすということはできない。無印としておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),コンドラシン指揮北ドイツ放送交響楽団(SLS)1981/3/7アムステルダム・コンセルトヘボウlive(コンドラシンラストコンサート),,良いステレオ録音だが2?4楽章にデジタル化ミスのような派手なノイズが断続的に入り非常に惜しい。落ち着いたテンポで1音1音を強く発音し、新古典主義の気配はないが、客観性を保ったまま4楽章はそれなりに煽り盛り上げる。コンドラシンの特徴はあらわれないが、西欧オケを使うことでここまでニュートラルな職人性が出るのかと思うところもある。このあとシェーンベルクの5つの管弦楽曲op.16 となるが、同様のノイズが薄くではあるが入るのでこれは原盤(提供音源)起因と思われる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(EMI)1988/3/26live・CD,,手垢のついた曲にびっくりするほど新しい解釈をあたえるのがチェリの音楽だ。この演奏はひょっとすると既出かもしれないがこの高音質で聞けるというのはまったく驚きだし、チェリの真価を知るには絶対的な価値を持つと言っていい。確かチェリは戦後ベルリン・フィルとこの曲を録音していたと思うが、全然違うものである。重厚壮大な「古典」はしかし決してドイツ式の重苦しさはない。驚嘆すべき構築性を備えた斬新な作品であることに改めて気付かされるし、その構造の面白さが音楽の面白さと結びついて、大交響曲のフィナーレのような最後まで耳を惹きつけて離さない。20分に及ぼうという演奏時間も物凄いが、古典の演奏としては余りに特異であり決して万人受けしないと思うものの、推薦する気持ちを抑えられない。この曲を聞き飽きた人にこそ聞いて欲しい、興味深い演奏です。雪崩れ込むような感興はないけれども、凄く大きなものを聞いた、という感慨がゆっくり湧いてくる、そんな感じでブラヴォーも後から叫ばれる。○。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○チェリビダッケ指揮ナポリ・スカルラッティ管弦楽団(GRANDI CONCERTI他)1959LIVE(1961/10/22と同一?),,冒頭はやや重く、フォルム重視のしっかりした演奏であるがゆえに少し格式ばった感じがするが、厳しく律せられたオケ(巧い!)は弾むようなリズム表現で足踏みするようなテンポ感を抑えこんでおり、非常にバランスのとれた演奏になっている。チェリの後年の様式を思わせる非常に精度が高く形式的なしっかりしたものだが、情が通っている感覚があるのがいい。ヴァイオリンの微妙なポルタメントなど、イタリアオケの悪い癖が最小限に現れているのは逆に素晴らしい演奏効果となっている。最終楽章の勢いには圧倒される。それは壮年期のチェリのものだ。しかも、オケがこれだから、もう嬉しくなるような弾み心地に胸がすく思いがする。何度でも聴くに耐えうる演奏で、つまりそれは娯楽性が存分に発揮されながらも決してだらしない演奏ではないということを示している。本当に素晴らしい終楽章で、録音の良さというのもあるが、チェリ壮年期の何かしらドイツぽすぎる解釈というものが、この演奏この楽章にかんしていえば全く鼻につかない。ここだけをとったら間違いなく◎なのだが、やや古典的に(ハイドンよりベートーヴェン的に)格式ばった解釈が残ってしまっている他楽章のことを加味して○としておく、オケは満点だ。名演。ブラヴォが叫ばれてしかるべきである。ROCOCO盤は恐らく同じものだろう。但し恐ろしく音が悪い。MEMORIESの復刻は同じ組み合わせだが録音日が異なる。1959のほうが怪しいかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),チェリビダッケ指揮RAIナポリスカルラッティ管弦楽団(memories他)1961/10/22live・CD,同上?,古くから海賊盤で知られた音源。録音は悪い。オケもそこまで精度が高くはなく音は鄙びてもいるが、しっかりしたチェリビダッケの構成と緊張感がイタリアオケの緩さをなくしている。スピードがあり、扇情的ではないが力感のある音響で聴衆のブラヴォを呼んでいる。ただ音源の問題としてピッチがかなり高い。memoriesの常だが海賊盤と同じ音源を使用していると思われる。これは気持ちが悪く感じる人は感じるレベルのもので、それゆえ私ものれなかった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),チェリビダッケ指揮ベルリン・フィル(いろいろ),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),チェリビダッケ指揮交響楽団(ROCOCO)LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),パレー指揮ORTF(ina配信他)1957/5/9シャンゼリゼlive 1957/6/1放送,,amazon配信とina配信は同一音源と思われる。コンサートの嚆矢を飾った演目。モノラルではあるがパレーらしい前進力にもまして軽やかで爽やかなORTFの音色を活かした演奏ぶりが心地よい。パレーはフランスのオケだとやはりフランス系の指揮者たるところを示す。統制も行き届いておりまた自然である。演奏効果を狙って何かしてやろうというところのない、かといって新古典主義をことさらに強調しようという堅苦しいアンサンブルもない演奏。聴衆反応は普通。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1953/7/26live,,おそらくプライヴェートSP起こしで極端にノイズが入る。SLSの「原盤どおりにノイズも入れた」盤のようだ。DA復刻では珍しくなかった現象だが、演奏自体はミュンシュらしい勢力的なところが速いテンポと攻撃的な弦のアタックに出ているものの、木管がそれに乗らず「常識的な表現」を維持していてごくわずかに乖離を感じさせる。4楽章で珍しくミスすらみられるのはこの乖離起因かと思われるが、技術的に問題のあるオケではないのでこれは単にたまたまこの時だけの問題だろう。新古典主義作品としてリズムを浮き立つように煽るわけでもなく一貫してプロフェッショナルにやっていて、とくに何も言うことはない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1953/3/27live,,ミュンシュには7/26のコンサートでの同曲の録音もあり、演奏時間は30秒前後の差しかなく(同じDAの別番号なので同一ではない)、これを選ぶ理由もないが、録音状態は全然こちらの方がましで、解像度の良さ、引き締まり度もやや上に感じる(客席反応は心なしか向こうの方が良い)。いずれ新古典主義の先駆をやるにしてはドガシャン的な音の叩き方が気になり、ストコフスキーは論外としてトスカニーニのような筋肉質に引き締まったものとも違って、ミュンシュの良くも悪くもである。情緒的表現は良い。また、さすがに構造が売りの作品なので、発音の派手さはともかくそこはしっかり組んでいる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),ムーティ指揮バイエルン放送交響楽団(BRSO)1999/1/15LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),ロヴィツキ指揮ウィーン交響楽団(FONTANA)LP遅いな・・。縦が非常に揃っており、引き締まったアンサンブルはウィーン響とは思えない緊密さがある、だから遅くても聴き劣りはしない。個人的にはもっと速い1楽章が好きだが。4楽章は速いがアンサンブルは乱れず、ウィーン響らしからぬ充実した演奏ぶりには拍手。ところで私の盤は音飛びだらけだ(またかい)。ということで、無印。でもこの速度は個性になっているかも。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1944/6/25LIVE,,既出の可能性あり。録音状態も演奏精度も戦中ものにしては比較的良好で(三楽章から原盤起因のティッカーノイズや板起こし時のミスによる断裂が入るのは気になった)、明晰な音で素直に楽しめる。スピードがそれほど上げられず、落ち着いて最後まで通している。聞き易さはあるが強烈さはない。激烈なアンサンブルのスポーティな快感はそれほど煽られないかわりにトスカニーニらしい歌心がしっかり感じられる、そういった演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1944/6/25live,同上,針音が混ざり決していい録音ではないが、水際立った演奏ぶりがよく聞き取れる。それは遅いテンポでしっかりリズム取りをした結果ともとれ、トスカニーニらしくないスピードではあるものの、この曲ではこの程度の速さでやっていたようだ。縦がびしっと揃っていて乱れが無いから安心感がある反面、トスカニーニに求めたいものとはちょっと違う気もする。せわしない終楽章も歌いながら指揮するトスカニーニはこのメカニカルなアンサンブル曲をどちらかというとカンタービレの曲ととらえているっぽい。特徴的なものはないが精緻である、そんなところか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1946/1/13live,,アメリカで非常に人気のあった曲でありトスカニーニも一度ならず録音を残している。これも恐らく既出だが、トスカニーニにしてはやや鋼鉄のアンサンブルに錆びがみられる。楽曲の性格上コンディションの悪いときは仕方がないのだが、きびきび律せられたトスカニーニの様式に、そうされることを大いに望む楽曲だけあってそのてのアンサンブルの乱れやザッツのずれは気になることは気になる。録音が悪いので細部がわからないから、そう「聞こえてしまっただけ」かもしれないので○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(PRSC)1950/3/25Studio8H放送live,,冒頭駆け出したときははらはらもしたがトスカニーニとしては比較的落ち着いた古典の演奏になっていて、瑕疵も目立たない。ライヴ中継のため録音はいいとは言えないがPRISTINEによりよくリマスタリングされている。ちょっと聴き別録とされるものとの差異は殆ど感じられず、データ真偽不明の部分もあり、カップリングもドビュッシー「イベリア」他と変わり映えしないからマニア以外は網羅的に聴く意味は無いけれども、初めて聴くという向きは数百円でダウンロードできるので試してみたらいかが。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1961/12/21LIVE,,無難。比較的さっさと進むもののアンサンブルがとりわけ巧いわけでもなく力強さで押してしまうあたりやや温さも感じる。パレーにしては穏やかかもしれない。異常にリズミカルな3楽章から異常にスピードアップする4楽章まではやや技術的な辛さを感じさせるかもしれないが弦のノリはすこぶるよく、この速さでよくアンサンブルできたと好意的に聴くこともできる出来。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○モントゥ指揮シャンゼリゼ劇場管弦楽団(フランス国立放送管弦楽団)(DISQUES MONTAIGNE/MUSIC&ARTS)1958/5/8LIVE・CD ,,元来生気ある音楽においてモントゥはとても活きてくる。はつらつとした動きこそこのころにはかなり失われてきつつあるが、それでも喜遊的な音色とけっこう重厚な響きが音楽に迫力をあたえている。この曲には両極端な演奏があり、物凄い集中力とスピードでギリギリ締め上げオケの機能性を見せ付ける演奏と、交響曲としてのフォルムをしっかり組み上げたうえでプロコの既にして天才的なアンサンブル書法を裏までクリアに聞かせることにより徒に演奏技術に拘泥しなくとも「音楽そのものの力」だけですこぶる気分を高揚させるという「落ち着き系」の演奏がある。これは後者に近いかもしれない。それでもライヴならではの「あやふやな勢い」があり必ずしも後者的解釈の要求する精度(音色的なまとまりを含む)が徹底しているわけではないのだが、とくにヴァイオリンなどは決して技巧をひけらかす楽団ではないので微細なバラケ感は否めないのだが、2楽章のリズム処理など押さえるところはしっかり押さえて音楽のフォルムは崩れずドイツ的といってもいいような堅実さを出している。音色のバラケぶりは終楽章のヴァイオリンに顕著だが、このオケにこの明晰な録音ではしょうがないかもしれない。けして名演ではないが堅実。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○モントゥ指揮フランス国営管弦楽団(ina/M&A)1958/5/8LIVE・CD,,モノラルだし殆ど僅かにミスがあるがこれほどリズミカルに俊敏な演奏も実は珍しい。ライヴならではかもしれない。きっちりした統率力と指示が無理矢理に整えるではなく内面から行き届いたうえで、楽曲の性向にあった軽く喜遊的なふうで飛ばすさまは慣れに慣れた手だれだけのなせるわざだろうか。弦としては決して弾きたくない極度にピリピリしたピアニスティックに細かい音符や装飾音の列ぶ数学的な譜面だが、アンサンブルというものをわからせるのにはうってつけの構造で、バンスタが啓蒙に使ったのもうなづける曲。しかしNYPは勢いと技巧はわかるが曲本来の古典的愉悦感を引き出せていたのか、隈取りが濃過ぎて声部の組み合わせとしてのアンサンブルだけを鮮やかに聞かせることができていない感がある。こちらはオケの長もあろうが上手い。◎にしたい○。録音良好。ina配信他あり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),〇モントゥ指揮ボストン交響楽団(WHRA)1958/1/3live・CD,,ボストンライウ゛はいつもそうなのだが曲によっては分厚過ぎると感じることがある。しかしながらこの曲でこの響きの重量感でいながら一糸乱れぬ気合い漲るアンサンブルが、破綻せず最後まで突き通せるだけでもあっぱれなものだ。モントゥの技術と統率力の凄みを感じさせる。拍手盛大。前時代的な古典だが懐かしい。このボックスはまたもや放送録音集だが音はまあまあ。データはおしなべて初出であることを強調しているが少し疑問はある。〇。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○セル指揮クリーヴランド管弦楽団?(DA:CD-R)1961/11/9live,,素晴らしい技術を見せ付ける。冒頭からの勢いは衰えることを知らず、清清しく駆け抜けていく。録音状態にはやや難があるが、セルが無味乾燥の指揮者だと思ったら大違い、とても楽しい仕上がり。ペーターと狼のように聴こえてくるほどカラフルでチャーミング。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),アンチェル指揮ACO(RCO)1969/2/23live放送・CD,,このオケの鈍重さがあらわれたかと思いきやすぐ機能性を発揮し明るい響きで躍動感あふれる演奏に仕立てている。凝縮され筋肉質の演奏、ではないが、すくなくとも四楽章はミスが聴かれるが、ライヴ感あふれる魅力的な演奏に仕上がっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:古典交響曲(交響曲第1番),○ムーシン指揮ロッテルダム・フィル(RPHO)1997/4/13アムステルダムLIVE・CD,,サンクトペテルブルグ派の巨人と言われた「理論派」ムーシン晩年の珍しい記録。新しい録音とはいえライブであることもあって、激しいアクセント、ティンパニの過剰な轟き、弦楽器の力強く少々ラフなキレ、すべてがいかにもロシア風で、やや遅めのテンポで壮大だが重い表現は特有と思われるものの、マルコよりはガウクの気風を確かに伝えている。独特の解釈理論と豊かな感情表現の乖離具合はスヴェトラに近いように思う。北欧のすっきりした名門オケとはいえしっかり相性はよい。90をゆうに越えた指揮者の演奏とは思えぬ生命力があり(もはや「振る」必要はなかったかもしれないが)、それだけしっかりした方法論をもって伝えるわざを身につけていたのだろう。ブラヴォが飛ぶ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第2番,◎ブリュック指揮フランス国立放送管弦楽団(COLUMBIA)LP,,ジャケデザはカッサンドルだがやや地味というか普通。まさにフランスかぶれの、しかし緻密で聞き応えのある作品だ(プロコでここまでガチに造り込んだ作品も珍しいだろう)。これを真摯なプロコ、他の要素の(音楽的影響以外)一切絡まない真の最高傑作と呼ぶ人に私は反論するすべを知らない。ストラヴィンスキーの素地も残るがほとんどオネゲルのような鋼の構造とミヨーのような複雑な烈しさで出来ているように、このようなフランスの演奏できくと一層感じられる。個人的に苦手な一種マンネリな「わかりやすいプロコ」の癖と、歪んで論理を失ったかのような汚い響きの「わかりにくいプロコ」がまったく目立たない。後半はっとさせられる素晴らしく抒情的で詩的な主題はこの透明なオケできくと六人組以上にフランス的な粋を感じさせる。皮肉もエキセントリシズムもない、じっくり聞き込んでしまう。本来意図はシニカルで(アイヴズふうに言えば)耳に歯ごたえあるよう、意外性というかモダンアートな(モダニズムと言うにはわかりやすいがしかし謎めいた耳新しい)構成がとられており、思わず何度も聞いてしまう。前進的で飽きさせない、かつロシアやモダニズムの生臭さを完全払拭した解釈ぶりは技術の確かさ含めあっぱれだ。モノラルだが◎。流石炎の天使の初演・初録音者。この曲しか録音してないとこがいい。わかる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
プロコフィエフ:交響曲第3番,○コンドラシン指揮ACO(PHILIPS)1975/11/29この曲の間違いなく一番の名演。この引き締まったアンサンブルを聞け!しかしなぜ○ひとつなのか。・・・曲が、ねえ。プロコだから聴き易いし聴きとおせるのだ。そのへんの凡百作曲家には真似できないシロモノであることもわかる。響きやリズムの新奇さが追求され、4楽章他では有名なヴァイオリンのグリッサンドが頻繁に聞かれるし(ACOは凄絶といっていいほど素晴らしい表現を見せ付けてくれる)、鋼で出来たモダニズムの粋ではある。でも、たぶん、スコアを見て聴くならともかく、いや実演を見るならともかく、音しか拠り所の無い音盤でただ漫然と聴いて、タノシイと思う人は少ないのではないか。何度も何度も聞けばたぶん好きになるだろう。そういう可能性は感じるが、あっけなく突如終わる最後含め、奇妙な曲を聞いた、という印象しか残らなかった。あのグリッサンドを聴いて思い出したのは「朱鷺によせる哀歌」。吉松世界の原点?4番と同様、既作から楽想を転用している(歌劇「炎の天使」)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第3番,コンドラシン指揮シカゴ交響楽団(CSO)1966/4LIVE録音状態が不安定な場所がある。基本的にはステレオだが2楽章以降の肝心の場面で音場が激しく揺れてモノラル気味になる。コンドラシンを聴くならACO盤のほうがいい。オケのレベル的にも落ちるようだ。ザッツが今一つ決まらず弦のバラケ具合もコンドラシンらしくないルーズさがある。この曲は野趣溢れ奇矯な書法を尽くすプロコと繊細で世にも美しい音楽を紡ぐプロコの混合具合が面白いが、ここではやや情緒的なほうに傾いている感じがする。そのため2楽章がとても感傷的にひびく。奇矯なポルタメントも情緒を彩る音響効果のひとつとして認識される。ハープの美しい調べが印象的。終楽章はもう少し緊密さが欲しい。怒涛のポルタメントも今一つ弾けない。曲の本質を抉りだそうとしたいい演奏だとは思うが、無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第4番,マルティノン指揮ORTF(vox)CD,,交響曲全集より。オケの音の美麗さとマルティノンの快活な捌きにより効果的な演奏となっている。映画音楽的な分かりやすさの再現に走っているように感じなくもないが、その大袈裟な表情ひっくるめて5番7番加え古典の単純志向とは違い多彩な内容を凝縮してまとめているだけに、わけがわからなくなることがなく、最初に聴くのには向いている。マルティノンも良い盤悪い盤ある人だと思うが、これは客観性に走らずバランスがよい。もう少し聴いていたくなる演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○オーマンディ指揮フィラデルフィア・フィル(RCA)1975/9/30・CDライナーに詳しいがオーマンディが後年テンポを遅くとったのはホールの残響を理解しなかったからと言われる。オーマンディほどの名手がまさか、と思うが楽団員の証言だとそれは一気に信憑性を増す。ブラスを指揮台から遠く配置したために、常にブラスが遅いと指摘していたといい(実は指揮台に時間差で届いていただけで、マイクには時間通りダイレクトに入っていたという)、最終的に妥協の産物として「遅いブラス」に合わせてテンポを落としたのだという。俄かに信じ難い話しだが、この録音を聴いているとあながち嘘ではない気がする。遅いだけではなく、ちょっとテンポがおかしく感じるのだ。ぎごちないというか、微妙に軋む。それはテンポを重くしっかりとらんがために思い直したような遅れが生じているためと思えなくも無いが、かといってクレンペラーのようなしっかりした足取りは無い。微妙にずれるような感覚がある。予備知識があったせいかそれがブラスの挿入される場面に顕著な気もした。まあ、響きはこの時期らしく重心が低くて迫力があるし、古い演奏の焦燥感に比べ円熟した解釈が無理なく音楽を牽引しておりこちらのほうがスタンダードな感覚がある。勿論録音もスケール感と生生しさのバランスが保たれておりいい。ただ、例えば昔の演奏に聞かれた旋律の一音一音を短く切りつめたる事でメロディを歌っている感覚を強く打ち出すような作為が無くなっており、そういった個性的な解釈の面白さは減退している。私は個人的に昔の演奏が好きなので、これはああ、円熟しているな、くらいの感覚しか持ちえなかった。無論録音のよさを鑑みて一般の人はこちらを選ぶべきだろう。響きの重さが足かせになっている感覚は併録のピーターと狼にも感じられる。あるいは単に録音のせいかもしれないが。一応○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○オーマンディ指揮フィラデルフィア・フィル(SCORA)1958/5/28LIVE・CDオーマンディは2回この曲を録音しているが、1回目は57年、このライヴの前年に行われている。プロコフィエフ未亡人がロシアでのライヴのさいにオーマンディをたずねて57年盤LPにサインを求めたエピソードは有名である。夫人はオーマンディを激賞し、プロコフィエフが生前この演奏を聞けなかったことが何より残念だと告げた。・・・そしてこのスコラ盤が、紛れも無く夫人が聞いたライヴそのものなのである。オーマンディはプロコフィエフと親交はなかったがその解釈には定評があり、アメリカ初演も何曲か担当している。ここでは当然ながら70年代の盤より57年の盤に近い演奏が聞ける。それは攻撃的で速く、しかも各パートかなり微細に入る解釈を施していることからも伺える。私はこの時代のオーマンディの芸風は覇気に満ちて好きだが、この演奏会の記録はまさにライヴといった熱気にも溢れており、実に高度な技巧を示しながらも危うく崩れそうになるほどに激しい演奏を造り上げている。但し決して踏み外して崩壊しないのはさすがオーマンディで、そのへんの安定感に安心して浸っていられるのも良さのひとつだ。また、聴きすぎると結構飽きるこの平易な曲、オーマンディはじつに彫りの深い表現で飽きさせない。隅々まで彫刻し直された音楽はまさにオーマンディのものとなっており、新鮮な聴感に最後まで釘付けになりました。録音が悪いので○にとどめておくが、終演後にあのソヴィエトでブラヴォを得られたこともこのコンビの並ならぬ腕を感じさせる、スバラシイ記録である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1945/1/17live,,LYS(DANTE)及びASdisc盤が11/17ライヴとなっており、同一演奏の可能性が高い。DAとはエアチェック音源が違う可能性はある。,,クーセヴィツキーはプロコフィエフを愛好し、在米中は親交も深かったようだが帰国後はよく知らない。どの演奏にも共通した芸風として、最初から最後まで速い直線的なテンポと強いリズムの上に、いかにも弦楽器奏者らしい滑らかにうねる分厚い旋律を載せていくといった方法をとり、精力的な指揮には違いないのだが、演奏する曲によって多少はやり方を切り替えていて、プロコの場合より鋭い音符の切り方をし弦楽主体のオケ特有のロマンティックな曖昧さをプロコ特有の立体構造から抜こうとしている。録音が悪くてわかりにくいが、スコアリングが明確にわかるような、ラヴェルなどをやるときの理知的な(ある意味単純な)整理方法を施している。,,だがやはり血というべきか、3楽章や4楽章序奏部の異様なルバートぶりは、歌謡的と一言で言うけれども、それは明らかにロシア民謡の濃厚な世界なのである。われわれの想像する軽やかな歌ではない。この人の緩徐部はかなりテンポ・ルバートするもののけして全体的なフォルムが崩れず、通しの中ではインテンポに聞こえてしまう。それは(作曲家にではなく指揮者に)意図的に施されたルバートが、決められた短時間に、たとえば譜面上の数小節の間に計算されたようにきっちりおさまるからだ。音量変化も表情付けもそれに沿われ濃厚に付けられている。,,もちろんどんな演奏も原則的にはそういうものなのだが、ここまで予めきっちり解決されるように作られ設計されている、メンゲルベルクなどもっと名人芸的にあけっぴろげにやっているが、素人でもできそうな数学的な方法だけれども、それがこう違和感なくスムーズに聞けるというのはプロフェッショナルな神業なのである。バンスタはこの曲を得意としたが、クーセヴィツキー譲りなのだろうか。それほど遠い演奏様式ではないと思う、NYP時代は。,,終盤で録音音量がガクンと下がるのが惜しい。客席反応もよく、名演であったろうと思われるが、録音状態は推して知るべき。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,(参考)クーセヴィツキーの正規盤。1946/2/6
プロコフィエフ:交響曲第5番,○シッパース指揮フィルハーモニア管弦楽団(COLUMBIA)ダイナミックでスケールの大きい演奏。最初は垢抜けた感じで軽く深みのない音で期待させないが、やがて音楽が命を得たかのように生き生きと息づくようになる。シッパースは都会的なセンスでこの20世紀のロシア音楽をすぱすぱっとさばいてみせている。1楽章の最後には説得力のある語り口が仰々しく威容を放つようになっている。素晴らしい。2楽章は幾分落ち着いている。ひとつひとつの音を内声にいたるまで明瞭に響かせ、かといってチェリのように勢いを殺すこともなく集中力を持続させている。3楽章は内省的だが音から立ちのぼる感情の素直な発露を大切にしている。むやみに泣き叫んだり怒ったりすることなく、細部にひそむプロコ独特の書法を強調しながらこの音楽の案外単純でない思考をわかりやすくえぐる。こうして改めて聞くとじつに美しくせつない音楽だ。テンポに無理がなく屋台骨がしっかりしていることも特筆すべきか。モノラルだがクリアな録音も一助になる。4楽章は結構テンポが揺れる。ゆったりした序奏部からけたたましい主部へのコントラストが鮮やかだ。ややつんのめり気味だがご愛嬌。激しいけれども響きが依然美しい。オケのせいもあるか。クライマックスの水際立ったアンサンブルは聞きもの。シャープで激烈!私の盤が日本プレスの粗雑なLPなので、判断しづらい部分も有り◎は控えておきます。でもこの曲好きだったら聴いてみても決して損は無いです。お試しあれ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(SCC:CD-R)1967/2/26live,,相変わらずの娯楽的演奏で攻撃的なリズムもストコフスキらしい煽り方である。スピードが異様な四楽章コーダでラッパの音程がメロメロになったりコンマスソロが突然テンポを落としたりと事故が目立つが、全般には楽しめるし悪くない。○。録音はよい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○ストコフスキ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA/MEMORIES)1958/6モスクワLIVE・CD,,とことん求心力のある演奏で派手というより勇壮である。しまいには弦など少しほころびも出てくるが、独特の音響表現含めこれがソヴィエトの強力な楽団によってなされているところに面白みが出てくる。つまりあくまでソヴィエトの演奏の範疇でストコフスキがやりたいことをやっているという珍妙な力関係の逆転現象が、逆に抑制されて程よく内圧の高い演奏に昇華されているということだ。ストコフスキ特有の明るく軽い音響が放送響の重く力強い音によって中和され、非常に聞きやすい。「ソヴィエトの演奏」としてきくことができた。聴き物はやはり速い楽章であろう。○。2008年夏やっとMEMORIESがCD復刻した。,-----,,,,,,,,,,,,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○ストコフスキ指揮モスクワ放送交響楽団(MEMORIES/Melodiya)1958/6LIVE・CD,,MEMORIES盤を買ってみたので(山野のワゴンセールだと石丸より1000円安かった!)改めて聴きなおしてみる。クレンペラーのショスタコもそうだけど、聴き易く復刻されており、MELODIYA盤LP特有のノイズも(当時MELODIYAの想定していたレコード針と現代の一般市販品は違うというから当たり前なのだが)殆ど入らない。綺麗なリマスターである。だからこそ冷静に聴ける。,,確かに集中力が高くなかなか白熱した演奏になっている。,,ただ、ストコという指揮者のものなのだろうか。,,これはストコがロシア側に引っ張られた結果の「集中力」ではないのか。,,ムラヴィンスキーと錯覚するような速いテンポ、職人的なアンサンブル・・・「らしくない」。ストコ特有のデュナーミクやテンポの極端な変化は最小限に抑えられているようにも感じた。それであるがゆえに、「特異点」はひときわ人工的に聴こえる。雑然としたり薄くなったり厚くなったり不規則でアバウトな音響が時折耳につく、それはただ単にムラヴィンスキーもしくはコンドラシンのような芸風による「ソヴィエト式演奏」を劣化させただけのようにも思えてくる。ストコはもともとそのくらいのアバウトさと引き換えに「面白い演奏」を仕立てる指揮者だ。「面白い演奏」の部分がスポイルされてしまったらただ単にアバウトな演奏である。,,このオケはムラがあり、その記録中では上位に置ける技術力が発揮されていると思う。,,ただ、恐らくストコは十分に準備できない環境で、下振りもしくは常任がこの曲について教え込んだ素地の上にただ付け焼刃、といったところなのではないか。,,ストコファンには興味深いものだろう。一般ファンでも古い録音やアバウトな演奏に慣れている向きは聴いて損はない。
プロコフィエフ:交響曲第5番,○セル指揮ウィーン交響楽団(ORFEO)1954/1/17LIVE奇妙な魅力のある演奏だ。青筋立てて怒りの棒を振るセルに対して、ばらける寸前(寸後?)の奇天烈な演奏を続ける楽団。ウィーン響はなんて個性的な団体なのだろう。雑味の多さ、演奏のアバウトさに対して艶やかな音色の魅力があり、その美はしばしばウィーン・フィルも凌駕するほどの噎せ返るような香気をはなつ。しかし機能的でストイックな演奏を求めるセルとはあうはずもなく、ここで聞こえるのは両者の闘いの記録なのだ。セルにとってこの演奏は成功とはほど遠いものとして記憶されただろう。しかしもともと淡彩なセルの音楽に「色彩」というものが加わった世界は、セル一人では為し得なかった境地を開拓したものであり、結果としてもともと浅薄な楽曲に深い意味付けがなされ、聴衆の盛大な拍手を呼んだのだ。終楽章のギリギリのせめぎあいは必聴。はっきり言って下手なので最上級の評価は与えられないが、すばらしい珍盤として○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(000CLASSICS:CD-R)1969/9/28LIVE極めて集中力の高い、ドライヴ感溢れる演奏だ。プロコフィエフのスポーツ性を可能な限り引き出しており、同時に豊かな音楽性も感じる。速い楽章にとくに惹かれる。終楽章など漲るスピード感が否が応でも気分を高揚させる。クリーヴランドの垢抜けた音色はセルの指示を忠実に守り機能性の限界に挑戦している。ギリギリではあるがなんとか突き抜けた楽団に聴衆は盛大なブラヴォーをおくっている。即物的な詰まらない直線演奏ではない、血肉のたぎる佳演。VIRTUOSOと同一の可能性あり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,セル指揮クリーヴランド管弦楽団(orfeo)1958live・CD,,軽い軽い。素っ気無く始まりきちっと揃った上でさっさと進んでいく音楽。だがこの曲に顕著なプロコフィエフの「色気」が抜かれ、純粋に律動と機構の面白さを聴かせており、そのことで私みたいに飽き飽きしているリスナーは割とすんなり聴き進めることができる。そのうち要所要所で力感が漲るところがみられるようになり、その厳しいアンサンブルのパワーは四楽章で炸裂する。なかなか聴ける演奏。録音は良好。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(VIRTUOSO)1967/9/28LIVEセルの未発売ライヴ盤が一挙に出るというので一組買ってみた。ステレオだが擬似ステレオっぽい残響の添付の痕跡が認められ、マイクが弦楽器に近く案外弾けてないところも聞こえてしまっている。ゆえにセルとは思えない雑味の多い録音記録となってしまっており、音質の悪さも加えあるていどの覚悟は必要だ。・・・とここでも言っておく。プロコに関して言えば、不思議と共感を示しているのがわかる。この、オーケストラの威力を誇示するだけの表層的な曲と言われがちな曲の細部まで、解釈の手を緩めずに音響操作を施しており(緩徐部での表現の深さにびっくり)、他演とはちょっと違った独自の世界を展開している。とくに作為的なテンポ変化には傾聴。もちろんセル、4楽章などギチギチなアンサンブルもたっぷり聞かせてくれるからご心配なく。この楽章は凄まじい。内声部もしっかり詰まっている。弦のカンタービレも美しい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○チェリビダッケ指揮トリノ放送管弦楽団(CETRA)1970/4/30LIVEなかなか熱気に満ちて、いい演奏。チェリは絶妙の手綱さばきで格調を失わずにドライヴ感ある演奏を繰り広げている。10年前のイタリア・ライヴと比べても成熟した演奏を聞かせている。オケが積極的に表現していて、雑味が混ざることもものともしない弦の迫力に、とくに終楽章では感嘆させられる。3楽章アダージオの表現の深さにも注目。チェリは上滑りした技巧だけの演奏に終わらせない・・・たとえそれがその曲の本質だったとしても。いずれの楽章も深く切り込んだ演奏である。拍手も盛大。佳演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,◯チェリビダッケ指揮トリノ放送交響楽団(opus arte)1970live・DVD,同上?,指揮台の上で踊るようにピシピシ振っているチェリの感情の迸りをメリハリのある表現で音に変えているオケもなかなかのものだ。技術的な難点はあるが、映像込みで聴くと音が絵に補完される、といった現象が発生し気にならない。弦、テンポが流れて走りそうになるところはちょっと気になった。映像はよくレストアされている。音はやや古びたモノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,チェリビダッケ指揮LSO(concertclub)1979/9/21live・CD,,過渡期的だ。なんとも半端で、「四角四面さが足りない」。重量感はこのオケとしては出ており音に迫力はあるが、スピードが前に流れるようで、統率が緩い感がある(とちったりつんのめったり。。)。全体の構成感よりその場その場の表現に囚われがちに感じた。弦の艶のある音色に拘泥するなど、昔の覇気に満ちたライヴ感あふれるスピーディな芸風と、晩年の高精度の響きと構築性に重きを置いた遅い芸風のどっちでもなく、この曲では後者的な立場でドイツオケを振ったものが「通俗的作品の浅薄さを取り去る独特のもの」として評判になった(当時海賊盤)だけに、もちろんプロコフィエフらしい内声部まで独特の動きをふくませる緻密な書法をしっかり再現したりはしてはいるが(三楽章特有の内部構造はほんとうによくわかる)、他の楽章は空疎にやかましかったり、音量変化も場当たり的と感じる。横が今ひとつ流麗さを欠く。違和感を覚えさせる表現の極端さも目立つ。これが徹底されると流麗さを排したタイプの演奏として耳を切り替えて聴けるから、極端とも感じないはずである。最後の方になると昔の芸風に依る。他でも聴けるタイプの破裂的なフィナーレだ。派手で扇情的ではあるが(ブラヴォが飛ぶ)、晩年のチェリビダッケらしさを求めるならこれはおすすめしない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,チェリビダッケ指揮ミラノ・イタリア放送交響楽団(nuova era/ARKADIA)1960/1/29オケが指揮者についていっていないような感じがした。なんだか固くてあまり魅力を感じない。熱して疾走する曲であるはずなのに、盛り上がれば盛り上がるほど冷たさが浮きあがってくる。無理して聞く演奏ではない。そういう聴感。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(METEOR/CULT OF CLASSICAL MUSIC:CD-R/SARDANA:CD-R)1980'S?LIVE重量感溢れスケールのでかい1楽章がなんといっても聞き物だ。太鼓のズシン、ズシンという響きが異様な迫力をもって迫り、不相応なほどに壮大な楽曲を造り上げている。この楽章の出来は特筆すべきであり、これだけで判断すれば超名演と言うことができるが、残念、あとの楽章はこれほどまでの完成度は期待できない(ライヴだから仕方ない)。低弦の音程が怪しかったり木管でとちりが頻発したりで、残念。ピアノが突出したりするのは録音バランスのせいではないだろう。チェリは細部の音符まできちんと発音させたうえで総体の音響を決めているはずだから、これも計算なのだろう。2楽章アレグロ・マルカート、ややゆっくりすぎてセクション同志のテンポがずれを生じ、アンサンブルが乱れるところも散見される。雄大で構築的な演奏を目指しているのはわかるが、これは余りそそられなかった。もっとも意味深い楽章、3楽章は荘厳とまではいかないが、ちょっと人間らしさを感じさせる暖かい演奏だ。4楽章はとくにミスが目立つが、この楽天的なロシア音楽を意味深げなドイツ音楽に昇華?させている点は特筆すべきだ。とにかくスピード狂のプロコだから、2楽章ともども強烈なスピードで駆け抜ける演奏が正解なのだろうが、チェリはそんなことを顧みもせず、独自の歩みで曲を進めている。ハマれば非常に感銘を受けるたぐいの演奏なのだが、ハマらないといまひとつ盛り上がりに欠ける演奏という印象を受けよう。まあ、私は1楽章で満足したのでこれはこれでよしとします。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(EMI)1990/2/3live・CD,同上?,終楽章にやや目立つ演奏上の瑕疵より恐らくミーティア盤と同じ演奏であると思われる。但しデータ上はミーティア盤は80年代のものと推定されているので断言は避けたい。比較するまでもなく、さすがにいい音で段違いだが、感想としてはほぼ同じというか、既に聞いた演奏という感想になってしまう。遅さを補うほどのぎっちりした構築性があるかといえばそこまで徹底されたものは感じないし、響きも瑕疵のために濁ることがしばしばで、音がよくなることが決して感動を倍加させるものではない、という当たり前のことにはっとさせられることもある。やはり前半楽章のほうが印象が強く、まあ、楽想自体の性質上のこともあるのだろうけれども、終楽章の落ち着きかたにはちょっと違和感を覚えなくもない。正直この曲は聴き飽いているので、チェリの演奏ですら凡庸に思えてしまう私はもう向こう10年くらいこの曲を聴くべきではないのかもしれないが、凄くいい、とまでは言えない。そう言いつつ美しい場面(3楽章など)では入り込んで聴いてしまったのも事実、間をとって○。終演後の客の反応はチェリにしては決していいものではない感じがするが気のせいか。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(VIBRATO:CD-R)1990/2/2live,,こういう録音を聞くとああ、チェリが晩年録音を拒んだのもうなずける感じがする。プロ5の解釈において娯楽性を排した孤高の境地を切り開き、ひょっとするとプロ5の旋律や運動性の裏に隠れた真実を抉り出すことのできた史上ただ一人の解釈者だったのではないか、とすら思わせるチェリの芸術を、このような録音再生機器を通しての音で全て理解することは不可能だ。,,特に響きの純粋さを追求した晩年のチェリが、プロコの独特の響きや絡み合いを見事に明晰にカラフルに描き出し、更に真実味を篭めて「解釈する」さまを、たとえばこんな放送エアチェックの(しかも継ぎ接ぎの)音質で実感することは、よほど慣れていないことには不可能だ。もっともこれはかなり音がソリッドで、生のチェリを感じさせるには十分のブートぶりではあるのだけれども。最初にこれを聞いたら曲を誤解し拒否反応を起こすかもしれない。普段親しんでいる人は余りの拙速さと響きや動きの細部への執着ぶりにつんのめることだろう。,,しかしプロコのマニアックに書き込まれたスコアを「ほんとうに」生かして演奏させようとしたら、この重厚なテンポをとるしか方法はなかったのかもしれない。たとえば私個人的に何が効果的なのかわからない、プロコお得意の二拍三連のフレーズが冒頭より(とりわけこの演奏ではわかりやすく)展開される三楽章*、このあたり普通は余り二拍三連であることを際立たせず、ともするとごまかしたように三連符のスラーのかかった伴奏音形を小さく(旋律と絡み合わせず「並行的に」)抑えて響かせるところを、いささかのごまかしもなく、特にこの録音はやりすぎだが、寧ろ三連の伴奏を大きく明確に響かせ、小節内にびしっと正しく収めさせている。ま、結局それでもこの二拍三連の意味がわからないというか、ますます背筋のこそばゆくなるような収まりの悪い感覚以外に効果的なものを感じない私なのだが、それでもこういった縦の動きを正確に表現させることによって、しかも正確なだけではなく、音量変化やルバートぶりにはたっぷりロマンチシズムも取り入れることによって、ただ旋律や表面上のリズムの平易さに流され、すぐに飽きてしまうたぐいの「コンビニエントな世俗交響曲」という印象を、がしっとした構造の中に新ロマン派作品としての清新な響きや旋律が盛り込まれた、すぐれて偉容を誇る大交響曲という印象に入れ替えてしまうことができる。,,プロコの意図がどちらにあったのかわからない、しかし恐らく両方を想定していたが、後者は完全再現不可能と考えていたのではないか。チェリは独特の遅いスピードをリズムが死ぬギリギリの線で導入したことにより、その一面真の姿に接近することができた。プロコの音は本質的にスピードを求めるので、それを拙速で再現できたのは奇跡だし、演奏側にとっても至難であり、緊張感に耐え切れなくなりグダグダ寸前になる場面が出てくるのもしょうがない。この演奏は寧ろグダグダにならないで成功しているほうと言える。,,偉大な1楽章がやはり優れて聞きものだが、2楽章のたとえばヴァイオリンやホルンのポルタメント(風)フレーズの応酬や4楽章の重戦車が戦慄を覚えさせるほどにゆっくり突き進むさまのクライマックスなど、ちゃんと居を正してしっかり聞けば、今まで感じたことの無いプロ5の側面が見えてこよう。スコアリーディングには実はけっこうあっているかもしれない。くれぐれも原典主義とかその類の客観演奏ではない、そこの違いも聴きましょう。時間が無いときにはお勧めしません。○。,,,*冷静になって考えてみると二拍三連じゃなくて単に崩壊しかかってるだけのような気もしてきました。スコアでてきたら確認します。旋律が三連で動き出すところが伴奏二拍(その中がさらに三つに分かれる)だと思うんですが。,-----,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○テンシュテット指揮デトロイト交響楽団(RARE MOTH:CD-R)1978LIVE,,バランスがよくとても自然でオケが上手い。いい意味でも悪い意味でも個性が薄く、聞きやすい。しいていえば全般に音色が一定で艶がなく、個々のパート、特に弦は弱いが、アンサンブルがしっかりしているせいか全体としてよくできているように聞こえるのだ。またリズム感がすこぶる良く3楽章でさえリズミカルで浮き立つような感覚をおぼえる箇所がある。プロコ独特の毒や情念には欠けているけれども、それがさらに聞きやすさに拍車をかけているのだ。4楽章は速く鋭い。最後さすがに瑕疵もあるがただならぬ緊張感が弾けたあとのブラヴォに嘘はあるまい。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
プロコフィエフ:交響曲第5番,◎テンシュテット指揮ニューヨーク・フィル(""0""""0""""0""classics:CD-R)1977/3/1LIVE",,これはびっくりするほどしっかりした出来だ。がっしりしたフォルムはドイツ的な重さを感じさせようなものの全くそんなことはなく、熱狂して最後まで聞きとおす系の熱いものではないが、最後まで「飽きずに」聞き入ってしまう演奏である。この飽きないというところがプロコでは重要であり、テンシュテットが巧いのはプロコのスコアに溢れる客席まで伝わらないくらいの「仕掛け」を、嫌味に聞こえない程度にしっかり表現させているところで、重ねた音の響きの充実ぶりからここまで独特の色彩をもった曲だったのかと思わせるところもあれば、マーラーじゃないかと思わせるくらいの内声の意味深な動きまで聞こえてくるところもある。勿論すべてを浮き彫りにして分析的に振るような人ではないからフランス的な透明感は求めるべくもないが、この人なりのプロコの最も自然で忠実な演奏を最後までやり遂げている。またオケが素晴らしい。たぶんこのオケをしてしか成し得なかった完璧な「テンシュテのプロコ」、激しいアゴーギグに1楽章最後で拍手が入ってしまうほどの熱気、終演後のブラヴォーの嵐は言うまでもあるまい。名演。録音も比較的良好。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○テンシュテット指揮バイエルン放送交響楽団(BR/PROFIL)1977/12/2,随分としっかりなおかつテンション高い演奏になっている。必ずしもテンシュテ向きの曲ではないとおもうけどこれは派手でかっこいい。○。凄い迫力!,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第7番,○テンシュテット指揮バイエルン放送交響楽団(Profil)1977/7/12,,地に足のついた演奏で重心の低い響きがドイツっぽい。でもこの曲瑞逸の1楽章第二主題ではその重厚壮大さが存分に発揮され非常にスケール感のある素晴らしい演奏効果をあたえている。これは終楽章で再現されるところでもじつに効果的である。この主題に無闇に重心を置くのは構造的にはおかしいといえなくも無いが、他の部分でも沈潜するような表現と明確な歩みのあいまったテンシュテット的解釈が巧くプロコフィエフの叙情性と相乗効果をあげているといえよう。オケが手だれ揃いのバイエルンということもあり他盤より技術的にも優れてテンシュテットの意図をよく伝えているようだ。終楽章末尾は静かに終わるパターンだが、ロシアの大地を思わせるブラス斉唱が結構大きく鳴り響き、圧倒的なフィナーレを見せ付けるから面白い。独特というか、巧い解釈である。1楽章でちょっと乱れる個所がある。総じて○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○バーンスタイン指揮イスラエル・フィル(DA:CD-R)1979ザルツブルグLIVE,,じつはこの曲の私の刷り込みはバンスタNYPのCBS録音なのだが、プロコ初心者が刷り込まれる要素が多分に含まれている演奏だなあ、と改めて思った。ようは近現代ではなくロマンティックな前時代の交響曲の視点から曲を構築しなおしている、ドイツ・ロマン派の方法論というか響きの作り方の重心からして低く重く引きずるような表現によって軽さが持ち味でも弱点でもあるプロコ旋律をいかにも「ロマン派交響曲の旋律」として聞かせているのである。したがって本来的にこういうやり方がこの曲にあっているかといえば疑問であり、やはり俊敏で冷徹なソヴィエト・スタイルが似合う現代の曲であることからして、違和感しきりなかたもいるかと思う。オケは確かに上手い。NYPよりもヨーロッパ的でなおさら上記の特徴が目立つ。プロコはスポーツだと再三書いているが、ここではスポーツのドキュメンタリーではなくあくまで「作られた」ハリウッドスタイル娯楽大作となっているのが面白いといえば面白い。○。これしか聴けなくなるかこれが嫌いになるか、どっちか。バンスタにはよくあることだけれども。まあ、確かにユダヤ的表現である。,-----,,,,,,,,,,,,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○ホーレンシュタイン指揮コンセール・コロンヌ管(VOX)?私の手元にはものすごく保存状態の悪いLPしかない。音飛びばかりしていてちっとも集中して聞けない。それでもこのLPを聞きたくなることがある。これほど曇りなく清新なプロコフィエフはあまりないだろう。内声部がきっちりと整理され、プロコフィエフの仕掛けたマニアックな構造の妙味が味わえるし、一方ホーレンシュタインらしい重厚さとか不器用さというものが、コンセール・コロンヌ管の明るく多彩な響きによって中和され、とても聴き易い音楽に昇華している。とくに1楽章が素晴らしい。終楽章の爆発力が足りない気もするが、まさにフランス的な音構造が透けて見えるような演奏で(たとえばハープやピアノの浮き立った音)、プロコフィエフのフランス傾倒時代の痕跡を遺していることに気付かされる。ホーレンシュタインのフランスオケの録音としてはペルルミュテールのラヴェルのコンチェルトがあるが、ホーレンシュタインが足を引っ張っているような不器用さが顕著だった。ここには不器用さは少しも無い。良い演奏だと思う。CD化は確認していないが、あれば買ってみるべき!,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,ホーレンシュタイン指揮フランス国立管弦楽団(MUSIC&ARTS)1956/11/22,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○マルティノン指揮シカゴ交響楽団(DA:CD-R)1968/2/1live,,重厚な音響に支えられた力強いうねりには一切の曖昧さもなく、それほどテンポが速いわけでもないのに異様なスピード感と迫力と精緻な表現が見事にマッチしたライヴとは思えない完成度の演奏。単純な熱気という言葉では片付けられないものがあり、透明感のある音といえばそうだがシカゴ的な「薄さ」はなくドイツ的に感じるほど。しかし鈍重さは微塵もない。やや篭る録音のせいかとも思えるが、フランス録音とほぼ同じような解釈なのに(終楽章には驚嘆すべき極端なダイナミクス変化やコーダ前カット(?)といった変化がみられるが)、ライヴだからというわけでもない、こんなに異なった印象をあたえる演奏というのは面白い。決してテンポアップするわけでもないのに迫力で押し切った終楽章最後で間髪入れず大ブラヴォというのは妥当だろう(他楽章間にも拍手が入りかかるほど全ての楽章が見事だが)。ではなぜ○なのか・・・私の盤だけかもしれないが3楽章で音飛びがするのだ!,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○ミトロプーロス指揮ウィーン・フィル(ORFEO)1954/8/21LIVEミトプーのディスコグラフィにまた一つ奇演が加わった。これほどアンサンブルが噛み合わずぐだぐだにも関わらず、ひたすら激しいアタックをつけ縦を無理から揃えて、結果的にまるで鋼鉄の構築物のような堅固な演奏を造り上げる事に成功した。とにかく演奏的にはグダグダ。但し弦楽器などノリまくりであり、その自分勝手なノリがアンサンブルのグダグダを招いているのである。終楽章の遅さったらないが、終演後ブラヴォーが一斉に叫ばれるのも仕方なく感じられる信じられない奇跡的な演奏。これでプロと呼べるのか、と何度も怒りそうになるし、聴いていて気持ちの悪いテンポのズレかたや、ピッチの不揃い(元々低いピッチをとるオケだが、一部が更に低い感じがする)にはまったくお手上げなのに、全体としては何故か「あっている」。寧ろプロコの書法の新鮮さが際立って聞こえてくる。この人にこの言葉をあげるのは不思議な感覚がするが、かなり構築的な指向を持った演奏である。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,◎ライナー指揮シカゴ交響楽団(DA:CD-R)1958/2live,,最高の組み合わせである。機能性と叙情性のバランスの難しい(たいてい前者で満足してしまうか後者でグダグダにしてしまう)この内容的には浅薄な曲を、とにかくギリギリまで演奏精度を上げて音符を揃え、更に音響を注意深く整えることで芯からの迫力を出したり(低音部を強調するのでヘッドフォンで出先で聞いてると気を使う)、自ずと繊細な抒情味を醸す(3楽章)、全体的にはパレーに似て一直線に突き進むものの色彩的にも富んだ、決定的に違うのはパレーの楽団より数段格上の「楽器」が使えたことであろう。これはムラヴィンスキーより凄いかもしれない。多分飽きないたぐいの演奏だと思う。シカゴの耳の肥えた聴衆もゆっくりめではあるがブラヴォを叫んでいる。名演。50年代モノラル・ライヴエアチェックということで音質に限界はあるがボリュームは十分なので◎にした。,-----,,,,,,,,,,,,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,◎ロジンスキ指揮NYP(COLUMBIA)LP私の盤は非常に状態が悪く1楽章前半は殆ど音飛びばかりで鑑賞不可な代物。それでもあえて◎を付けさせていただきます。プロ5はちょっと聴き清新でわかりやすい音楽だがそれゆえにすぐ飽きる。とくに中間楽章はわかってしまうと非常に退屈。ところが、この人の物凄いテンションとオケの前のめりの態度は1、4楽章は勿論2楽章は激烈なスケルツォを奏で3楽章は感情の迸るままに濃厚な音楽のうねりを表現している。私はこれらの楽想に退屈を感じるようになって久しいが、まさか今ここでこの演奏でここまでのめり込むことになるとは思わなかった。特に2楽章はハイテンションなアンサンブルの饗宴が無茶苦茶かっこいいので必聴です。ロジンスキらしさがいい方向に出た演奏です。この曲はテンションが切れたらおしまい。その点ロジンスキは全てがハイテンション。NYPの音色もささくれ立たずにしっかり安定していて綺麗。さらに極めてリズミカル。太筆描きの名演だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,ロジンスキ指揮NYP(sls)1946/3/24ライヴ,,録音ボロボロで演奏的にも一楽章は表情が無くスカスカでダメ。このコンビの火花の散るようなやり取りは拍手後の二楽章で聴くことができる。激しいリズムとアンサンブルの妙技を楽しめる。三楽章もまあまあ。四は迫力が今イチ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,ロジンスキ指揮NYP(sls)1946/10live,,これはロジンスキのライヴ盤には珍しく音がクリアで聴きやすい。盛大な針音はslsならではだが、それに慣れているおじさん方は余裕で楽しめる盤だと思う。解釈的には他盤と変わらない直球だがそれゆえプロコの緩徐楽章にありがちな退屈な晦渋味も気にならず、聴くものをぐいぐいと引っ張っていく。集中力・力感は言わずもがな、ニューヨーク・フィルは強権的な指揮者のほうがやはり良いのか?何度も聴き返す録音というのは最近そうそうないのだけれど、これは終楽章を繰り返して聴いてしまった。拍手はまあまあ、一人ブラヴォ。10/20録音と書いてあるが誤りで、おそらくその前後数日のどれかの演奏会の初出音源とのこと。COLUMBIAスタジオ録音と同時期。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○ロジンスキ指揮ローマRAI管弦楽団(stradivarius)1957/3/11LIVE最後まで緊張感を保ち弾き切っているのはさすが。ロジンスキの厳しいトレーニングはもとより、このオケの本来持つ底力も感じる。1楽章、4楽章はまったく聞き物だ。一方中間楽章も飽きさせず引き締まった演奏を行っている。けっこうバラける演奏の多い細かな音符の動きも、一縷も疎かにすることなく徹底して表現させている。とはいえ難しい場面でまったくバラけていないとも言えないのだが(笑)、要所要所はしっかりおさえており、聞きごたえのある演奏だ。やはり終楽章の轟進が凄い。録音は悪い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,イワーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)1962・LP変な遅さがどうにもだらしないコンスタンチン・イワーノフらしい弛緩した演奏だが、ロシアらしい豪放磊落さの延長上と好意的に見る事もできよう。決めるべき点をズルっズルっと悉く外している、と言ったら言い過ぎかもしれないが、この演奏の性格を言い表わすのにいい表現がこういったマイナスなものになってしまうのはいかんともしがたい。録音はいいがメロディア録音ゆえ限界はある。これらマイナス面をいったん取り去って聴いてみると、あとには何も残らない。空疎だ。2楽章なんかもテンポが微妙にいびつで気持ち悪い。ただでさえまとまりづらいソビ響であることも要因のひとつか。統率力に疑問。うーん、どう聞いてもいい演奏とはいえません。ライナーの誉めコトバが空疎だ。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(LYS,DANTE/ASdisc)1945/11/17,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(RCA)1946/2/6,7,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,クレツキ指揮ORTF(ina配信)1965/12/9放送live,,壮麗。力任せの猪突猛進ではないプロコフィエフの「娯楽作」を聞かせてくれるが、イメージ的に透明感や構築性を旨とした演奏をするクレツキが、ここではさすがに機を見て隈取濃く激しくやっている(四楽章は弦楽器がついてけないほどドライヴしてる)のを聴いて、そういえばこういう演奏もしていた、と思い出した。客席大ブラヴォ。音は放送レベルのまずまずのステレオ。クレツキは微細なルバートをひんぱんに掛けさせて、ソロが乱れてるように感じさせるところがあり、よく聞くと構造重視でいながらけっこう個性的なのです。和声は美しいが明確な描き分けはここでは無い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,クレツキ指揮王立ストックホルム・フィル(IMG/ストックホルム・フィル記念盤)1968/11/13LIVE・CDクレツキの無骨な音楽は時々奇妙な軋みを放って目を惹く。ひとつのレコードに少なくとも一部分はそういう独特の箇所が有る。この曲の演奏は他に有名な盤があるが、この必ずしも巧くないオケを振ったライヴを聴くにつれ、これは好みを分かつなあ、という印象。スピード、俊敏さが無い時点でプロコフィエフとしてどうかと思うところもある(終楽章はかなり速くはなっているが)。人によっては面白く感じるのかなあ。私は違和感を感じた。聞けないことはないが辛い。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,○コンドラシン指揮ブルガリア国営放送交響楽団(armada)live・CD,,キージェ中尉組曲とのカップリング。両端楽章は表現の幅が大きく、穏やかで慎重な音楽からいきなり大音量がぶっ放されるというかんじでコンドラシン晩年のスタイルであろうことは容易に聞き取れる(状態は悪いがステレオである)。中間楽章は3楽章も含め激烈なアンサンブルで、このオケにしてはびしっとしていて、コンドラシンらしさを楽しめる。惜しむらくは終楽章も後半になると息切れしてきたのかオケの音量が落ち音程も音色もばらけてくることで、いやバラケ自体はその前からあるしロシアオケ的なバラケなので意図なのかもしれないが、最後はもっと大声で終わったほうがよかった。客席反応も悪い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,コンドラシン指揮NHK交響楽団(NHK)1980/1/30LIVEこれは少し違和感を感じた。集中力(技術力?)が今一つの感が否めない。もちろん曲の要求する鋼鉄のアンサンブルを熱血の指揮者が演じようというところにオケの鈍重なドイツ的指向がマッチしていないわけで、そのぶん(録音のせいもあろうが)マイナス。ファーストチョイスには向かないが、聴ける演奏ではある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第5番,フレイタス・ブランコ指揮ORTF(forgottenrecords)1958/3/3パリlive放送,,派手で個性的なブランコらしい演奏。オケがついていってない、そもそも練習不足のような事故(二楽章最初のほうのズレなど大事故)が頻発するが、色々主張させてインパクトの強い演奏にしようとするブランコの意志が反映され、この手垢の付いた、解釈の幅もなさそうな曲に耳を再び向けさせる面白みはある。主情的な演奏というのは久しぶりに聴く気がする。二楽章の遅さは特筆すべきか、オケのコンディションにあわせて落としたような感もある、しかしリズムの刻みのザクザクするところは激しく重く独特のスケルツォ感。四楽章もヴァイオリンがぜんぜん弾けてない、木管ソロはテンポに乗れてないのに、乱暴な指示を加えリズムは狂わせず流れは強引に響きは派手に、なかなか録音では捉えられづらいプロコフィエフ独特の変な合いの手や装飾音がばちりと聴こえてきて、立体的で内声に配慮の行き届いた、なかなかこの作曲家を理解してやっている感が清々しい。縦はズレまくり事故多発するも、何とかテンポを落としてはリズムを揃え直し、主軸をぶらさないようにはしている。ライヴということで許容できるところはある。フィナーレのある意味阿鼻叫喚ぶりは必聴。プロとして良いのか?しかし客席はブラヴォこそ飛ばないものの盛大な拍手。推して知るべし演奏。モノラルだがエアチェック盤のステレオ機器起こしのようでステレオで聴くと気持ち悪い揺れがある。ノイズなどボロボロなところもあるが、個性を評価。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,ミトロプーロス指揮NYP(SLS)1955/5/8シアトルlive,,重い。充実していると言えば聞こえはいいが、響きもリズムも重い。四楽章のテンポの遅さ、硬直した造形は何だろう。徹頭徹尾インテンポを保っている、そこにリズムの跳ねもほとんどなく、ミトプーらしくない客観主義である。フレージング、歌い回しはニューヨーク・フィルらしい素晴らしさがあるが、もう鈍重で四角四面のテンポに無理して合わせているかのようだ。ミトロプーロスのロシアソヴィエトもので、このくらいの規模の曲に良い録音は無い気がする。小品は抜群なのだが。。録音のせいで鄙びて貧弱にも聴こえた。全楽章私には合わなかった。オケが可哀想。少しブラヴォが聞こえたか。しかし爆発的反響はない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第5番,ミトロプーロス指揮バイエルン放送交響楽団(ORFEO/ROCOCO)1954LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第6番,◯チェリビダッケ指揮スペイン放送交響楽団(eternities:CD-R)1972/12/10マドリードlive,,重々しい一楽章、ショスタコーヴィチを聴いていると勘違いしそうなほど深刻に、深層を抉る二楽章、チェリは5番よりこちらのほうがあっている。三楽章の突然の楽天的なフレーズも聴くうちに強制された歓喜にすら聴こえてしまう。突っ走って終わり、という演奏もある中ここではきちんと各部分を分析して立派な交響曲の〆として描ききっている。最後の深刻な延ばしから末尾のキッパリした切り方もなかなか。,オケなかなか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
プロコフィエフ:交響曲第6番,◎アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(LONDON)1951/10名盤の復活である。アンセルメモノラル時代の名演が次々とCD化していき嬉しい。この6番はアンセルメの洗練された音作りとプロコフィエフの内省的な曲想がうまく噛み合い、娯楽的要素を失わずに深刻な楽曲内容をつたえることのできた非常に希有な例である。長いことLPでしたしんできた演奏だが、このたび改めてCDのクリアな音で聞くと、まるで別の演奏を聞いているかのような新鮮さがある。プロコフィエフの交響曲はその内容よりも表面的な機知や娯楽的要素にばかり着目されているように感じるが、初演もになったムラヴィンスキーのいくつかの演奏で聞かれるように、この6番という曲はショスタコーヴィチのように皮肉な調子を持ちながらも、何か言葉で直接伝えることのできない「何か」を伝えるために真摯に作曲されたように思われる。3楽章制だが3楽章のヴィバーチェだけが何故か喜遊的な「いつものプロコフィエフ」になっているところも不気味である。だが、5番や7番を思わせるような胸のすく音楽で、アンセルメは若干深みを持たせすぎている感もあるが、プロコフィエフ屈指の名楽章といえよう。ほか、強いて言えば聴きどころは様々な楽想が錯綜する1楽章だろう。アンセルメはわけがわからなくならないよう巧みに楽想を振り分けている。2楽章ラルゴはいっそうショスタコーヴィチを思わせる深刻な音楽だが、プロコフィエフ芸術の深奥を垣間見せるもので、晦渋なところもあるが、ぜひ聞いてほしい。これは間違いなく同曲の最高の演奏だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第6番,○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(COLUMBIA)1961,,録音は素直でクリア。オーマンディのロマンティックな重さが一部出ているけれども、この曲の通俗的な構成、7番にも通じる平易な旋律の一つ一つを裏や細部までしっかり表現することでおのずとプロコフィエフがこの時期に感じていたと思われる不穏な空気も浮き立ってくる。ただ晦渋に響かせるのではなく、ちゃんと理解させるべく整理された中間楽章の「魅力」は禁欲的なソヴィエトの演奏とは違った娯楽性を含みとして持ちながら、しかしそれこそ重層的なプロコフィエフの「仮面」の再現なのだと言わんばかりである。通俗に流されていることはなく、ただ派手なのではなく、アンサンブルの引き締まった筋肉質の楽団から繰り出されるのはよく言われた「余裕しゃくしゃくの職人的演奏」ではない。この時代の同じ空気を吸った異邦人としてのオーマンディなりの「矢を当てるのではなく当たる」やり方が、楽曲のスコアの裏から引きずり出してきたものが「大団円なだけではすまない」気分のもやもやを残すような音楽になった、そういうことであろう。基本的には「わかりやすい志向」なのだが、録音がクリアすぎないことが過剰な印象を与えずに済んでいるという部分もあるのか。巧さは折り紙。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第6番,○ストコフスキ指揮ニューヨーク・フィル(私家盤/MEMORIES)1949/12/4LIVE・CDなんとまあストコフスキはあれだけいろいろと録れているのに相対的に復刻された盤数の少ないこと!聴きたいのに聞けない盤がたくさんある。さしあたってヴォーン・ウィリアムズの4番とレスピーギのローマ三部作、聴きたい(後者評判はいいとは言えないが)。ここにあげた録音は復刻されているのだろうか。6番という渋い曲の魅力を最大限に引き出し、とくに終楽章の盛り上がりかたが尋常でない、この米放送初演録音を。厳しく磨き上げられたオケが素晴らしく、NYPのいつものアバウトぶりが感じられない事からもストコフスキがいかに凄い統率力を持っていたかをうかがわせる。強力なアンサンブルを聞かせる弦、ニュアンスに満ちた木管、完璧な金管、その他すべてがしかもやる気に満ちている。陰うつな前半楽章も歌心に満ち聴き易くできている。ショスタコの深淵を思わせるプロコ芸術の最奥、この演奏やアンセルメの演奏で聞けばわざとらしいロシア臭さ無くきくことができよう。一方で親友ミャスコフスキー晩年の旋律構造と似通っていることにも気付かされる(まあ主題の多くが民謡ベースだからあたりまえかもしれないが、ハーモニー的にも)。どこまでが体制迎合でどこからが体制反抗なのか?いや、今となってはそんなのはどちらでもいい。高音域が取り残される空虚なひびきはマーラーを思わせるが、各楽章の「第二主題」の位置にある旋律は「プロコフィエフ旋律」そのものだ。終楽章の第二主題など何度聞いても耳を奪われるし、あとでそれに絡むヴァイオリンの下降ポルタメントは3番あたりのモダニズムの残滓程よく留めていて絶妙だ。いいなあ、この旋律。変容のさせかたもプロコらしいリズムの崩しかたがまた何とも言えずいい。もちろん前半楽章の旋律もやや鈍重ではあるがプロコらしい暗い幻想、グリム童話のように残酷なメルヒェンを感じさせ秀逸だ。・・・ここまで書いて、じつはそれがあくまでこのストコフスキ盤の感想ということを付け加えておきたくなった。他の演奏家ではこうはいかないかもしれない。わかりやすさNo.1!録音サイアクだけど、ストコフスキに一票。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第6番,○ムラヴィンスキー指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA/BMG)1947/12/25モスクワ初演LIVE・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第6番,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(arkadia)1968/5プラハlive引き締まった演奏である。1、2楽章については曲構造を明確にし旋律を浮き立たせる操作がみられ、また不協和音の響きについては細心の注意がはかられている。2楽章ラールゴは深刻な様相を呈し少々晦渋な雰囲気をもってはいるが、数々の「歪んだ主題」はたとえば弦楽四重奏第一番の終楽章のようにいずれも何か心の深奥に訴えるものをもっている。プロコフィエフは映画音楽にも積極的に取り組んだが、この楽章は悲劇的な映画の付随音楽の如く、例えようもない哀しみを「間接的に」語り掛けてくる。ムラヴィンスキーの解釈はいくぶん「純音楽的」だが、曲の魅力をつたえるのには十二分であるといえよう。めざましいアンサンブルの饗宴はとくに3楽章ヴィバーチェにおいて盛大にはかられているが、ムラヴィンスキーの洗練された棒さばきはあくまで同曲を高潔に気高く扱っている。クライマックスで素晴らしく対位的に書かれた部分などじつにハマっていて恰好がいい。一転静かな結部で1楽章主題が回想される部分の余りの寂しさも特記できよう。最後の空しい空騒ぎは空恐ろしいものを感じさせる。ショスタコーヴィチに通じる謎めいた構成だ。このあたりのムラヴィンスキーの棒は少々そっけない感もある。古い録音のせいか若干の瑕疵(とくに後者ライヴ)がきこえたり、ヴァイオリンが薄く露骨に響いたりしているのはご愛敬(たしかに難しいのだ)。5番の名演にくらべやや鄙びた雰囲気をかもし上には置けないものになっているが、もっと録音状態が良ければ十分名演として紹介できたのに、とおもう。ムラヴィンスキーの6番は他に71年のロンドン・ライヴと67年のプラハ・ライヴ、59年のモスクワ・ライヴに74年のレニングラード・ライヴ(何かのセットのボーナスCDだそうで未聴)ならびに47年モスクワ初演ライヴがある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第6番,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(INTA GLIO)1971ロイヤルアルバートホールLIVE・CDムラヴィンの盤はよっぽど若い頃の録音でなければ聞き比べても意味が無い。そこには完成された解釈だけがあり、あとはオケがいかに表現しきるかである。この演奏はやや特殊だ。ミスや混乱が散見され、「らしくない」。尤もミスの数だけ勢いがあるというか、1楽章はとても印象的な音楽になっている。このシンフォニーはプロコならではの魅力的な旋律やリズムというものが比較的オモテに立ってこないので難しいところだが、ムラヴィンスキーは峻厳で凝縮された表現を施すことによりラールゴでも決してだれることがない。古典的な解釈表現に徹している。そこに自ずと音楽の本質のようなものが立ち顕れたらしめたもの、カラヤンが日本の弓術の例を出して言った「的に矢を当てるのではなく矢が自ずと的に当たる」ような境地とでもいおうか。2楽章までは真面目なプロコを味わえる。が、それだけに浮ついた終楽章は奇妙に響いてくる。これはもっと諧謔的に表現すべきなのだろう、ムラヴィンスキーはマジメに表現しすぎている気もする。多分あまりこの楽章が好きではないのだ。皮肉という言葉とはほど遠い指揮者だから。そのためかオケはばらつき気味、終演後も穏やかな拍手のみ。1、2楽章の評価として○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第6番,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(LANNE:CD-R他)1982/6/3ウィーン・ムジークフェラインlive,,モノラルでは既出というが私は未確認。ステレオのかなりうぶな音で、放送エアチェックノイズがきつい部分はあるもののムラヴィンスキー録音の単彩なイメージを覆す拡がりある音響で聴く価値はある。1楽章から繊細で沈潜するような表現が胸をうつ。癖あるロシア臭が全く無いのは録音場所に起因するところでもあろう。だから近視眼的な感情の揺れが入らず、落ち着いていてゆったりとすらしており、スリムに彫刻され力強く前進するようなイメージの過去の録音とは一線を画するものになっている。ムラヴィンスキー・レニフィル晩年のオケの弱さか統制の緩さかというところもあるのかもしれないが、見識と捉えたい。優しく夢幻的な感すらおぼえ、プロコを透かして聴くドビュッシイズムという美しさが素晴らしい。1,2楽章は諦念が抒情に昇華していて、そのぶん深刻ぶらずに聴けるが、次第にいっそうの哀しさをおぼえるようになる音楽作りだ。3楽章はスピーディでスポーティな楽想だが、ムラヴィンスキーは柔らかく哀切な雰囲気はそのままに、それほど楽想を煽らず音楽の序破急を整えている。この終楽章にかんしてムラヴィンスキーは一言あったというが、ここではそれまでの録音と比べ異様なコントラストは感じられない。通して個人的には◎にしてもいいくらいインパクトを受けたが、録音状態に左右されている印象であろうし、録音状態というなら放送雑音の存在は無視しがたい。ゆえ○にとどめておく。ここで克明に聞かれるレニフィルこそがベルリンやウィーンのフィルハーモニーをしのぐとすら言われたレニフィルである。ブラヴォも僅かだが飛ぶ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第6番,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(multisonic/BMG,MELODIYA)1958/12/23 arkadia盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第6番,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(PRAGA,HARMONIA MUNDI)1967/5/25プラハLIVE・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第6番,◎ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC)1959/4/21LIVEムラヴィンスキーはプロコフィエフ嫌いで有名だったそうだが、このCDのジャケット写真がふるっている。ややくだけた表情で腰掛けるプロコフィエフ、その横に面白くも何とも無いような仏頂面のムラヴィンスキーが立ちすくんでいる。しかし演奏家としてはムラヴィンスキーは素晴らしいプロコフィエフの解釈者である。やや深みに欠けるかもしれないが爽快なテンポで突き進む5番の演奏は、その演奏史に名を残す録音であった。一方この6番・・・いくぶん謎めいた曲・・・でムラヴィンスキーはその即物主義的態度を徹底して崩さず、しかし結果として恐ろしいほどの迫真性をもった演奏をし上げた。この録音は一応ステレオで、ホールの残響は気になるがおおむね生々しい「オケに近い」録音であり、前記の2盤より古い録音にもかかわらず、とても聴き易い。終楽章の音楽の饗宴は余りに楽天的なお祭りでありそこに何か不気味なウラを感じさせる点で秀逸。二つ目の抒情的な主題はまさにプロコフィエフならではの素晴らしい旋律である。複雑な旋律を作ることなど簡単だ、難しいのは単純な旋律を作り出す事だ、という主旨のことを語ったプロコフィエフが苦心して作った単純な主題、その言葉が嘘ではないことを証明してくれている。プロコフィエフならではのリズムの「遊び」の表現はやや危なげなところもなきにしもあらずだがおおむね成功している。コーダで奇怪に歪んだ第一主題のリズムが破滅的な終わりかたを呼ぶのはショスタコーヴィチ的嗜虐だろう。「これでいいのだ!」的な開き直りを感じるのは私だけだろうか。まあ、音が近いだけに雑味が聞こえてしまう所がないではないが、とにかく名演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第6番,◎ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(SCORA/DREAMLIFE)1961/2/9LIVE・CDやられた!録音の勝利だ。これはいい。素晴らしい。多分他の録音と大差無いレベルの演奏だったと思われるが、録音が鋭角的で、耳にビビッドに響いてくる。決していい音ではないが(寧ろ悪い)、「響く音」だ。そういう録音なので、もちろん終楽章の迫力もいいのだが、2楽章のなかなかにショスタコ的な深刻な音楽では、細かい仕掛けがしっかり録れていて、主題の変容のさまや楽器の絶妙の受け渡し、微妙に変奏して別の主題に変貌するさまが如実に聞き取れる。この作曲家の管弦楽法はやはり素晴らしかったのだ。1楽章の激しい表現も生々しい。この録音で聞くとまるでソヴィエト国立響の演奏のように激しく、雑味が逆にライヴならではの魅力となって伝わってくる。レニフィルのこじんまりとした密度の高い音という先入観は見事に覆される。このオケもまたロシアオケだったんだ、ということに気付かされる。この録音では自信をもって言える。いい曲です!2楽章のうねるような情感に感動。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第6番,○ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団(BMG,testament)CD,,ギチギチくるリズム感とテンポに支えられた極めて明瞭な演奏で、難解とさえ言われるこのプロコ後期の傑作の、とくにわかりづらい前半部をまるで旋律と構造のあきらかなロシア国民楽派往年の交響曲のように強力な推進力で表現しており特筆できる。ここまでなら目鱗で◎必然な見事な表現ぶりなのだが(プロコもここまでスコアを解析表現してくれたら本望だろう)むしろ落ち着いてしまったと思ったのは終楽章で、諧謔的なこの楽天性をそれまでとのコントラストを余り感じさせずにすんなり通してしまっている感じがする。純粋にスピードの問題でありリズミカルな表現にいささかの曇りもないのだが、終演部のロメジュリのタイボルトの死のような爆発がどうしても流れ上奇異に感じるようになってしまう。これは1楽章に曇りが無さ過ぎるせいなのかも、と思った(いびつなアーチ構造なのである)。リズム系のトスカニーニ風演奏としても壮年期オーマンディ系のオケ迫力満点演奏としても聴けるが、そのどちらとも違う、純音楽性を大事にしたものとして、時代の新しい演奏として楽しめる。ザンデルリンクとは対極だ。プロコとしては正しいと思う。プロコの表現史上は特異かもしれない・・・チェリを思わせる、と言ったら語弊があるかもしれないが。ボストンは弦が何故か薄い。ラインスドルフは最近見直されてきたのか妙にブートも増えているようだが正規で山ほどいい録音が残されているし、ブート音質では緻密な構築性が見えないからまずはBMG原盤からあたってみるべし。ステレオの時代からすれば良好な録音。この音はアナログ向きかもしれないが。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
プロコフィエフ:交響曲第6番,オーマンディ指揮ボストン交響楽団(DonIndustriale:CD-R)1962/8/18live,,オーマンディは手兵フィラ管の演奏がベストなのはもちろんだが西欧オケでも職人的で独特でもある腕を発揮できた人である。だがこのアメリカでも西欧的なボストン交響楽団を相手に発生している演奏上の軋みはどう考えても不協和音が発生していたのか、時代背景か。多分練習が余り徹底していないような、ボストン響が時々やった「冷静なくせにアンサンブルも噛み合わない駄目演奏」のうちのこれも一つであろう。とにかく精彩に欠く。解釈表現以前に曲を演奏する意識が余り無いように思う。解釈があったかすらわからない。終演後のブーイングの連発も異様である。無印。,,キューバ危機の真っ最中の演奏会である。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,-----,,,-----,,,-----,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA/SLS:CD-R)1953/11/27live,,派手派手な演奏でびっくり。歌う歌う。分厚い旋律のうねりは対旋律についても同じで内声部の充実ぶりも目を見張るものがある。刻みがテヌート気味のバリ弾きで若干プロコらしくない、バンスタあたりがやりそうな雰囲気もあるし、アラも探せば出てこようが、録音が(悪いのは悪いが)そこそこ聴けるレベルなのがまたよい。3楽章に憂いが足りないが、1,4楽章の有名な緩徐主題はこの曲の表層的な魅力を深層まで染み渡らせるほどの壮麗なものとなっている。4楽章コーダ最後は4楽章の主題が戻ってコミカルに終わるバージョン。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),◎マルコ指揮ウルグアイ放送交響楽団ライヴ(SLS),,ニコライ・マルコのプロコフィエフ7番ウルグアイライヴ(SLS)にビックリして一日マルコのことばかり考えていた。四楽章に音飛びが二箇所、でもそれも突き通すようなトスカニーニ的力感。LPで持っているものはピンとこなかったのに、ライヴだと違うのか。プレイヤーがないから意味のないSACD仕様の、高くて購入断念したラインナップ(父ヤンソンスやら)が多い、TBSの東京ライブCDも買った。気がついたらたくさん買っていた。みんな安いが塵も積もるから注意しないと。もともとロシア出身にしては面白くない指揮者と認識してて、それでも曲目で入手することもあったから、今や買ったんだか買ってないんだかわからなくて、聴取記録もないけど買ったような気がする、というものもあるが、なるべく安い中古盤やダウンロード音源を選んでとりま買った。近いうちに出るlyrita(イギリスの貧乏レーベル。裏青になってしまった。マルコはそつなく穏健なイギリスオケ相手に活動したのが平凡な印象に繋がったと推察する)ライヴボックス、初演したショスタコーヴィチの1番がはじめてお目見えする、チャイコフスキーの2番もあると知り併せて予約した。あとほしいのはルスランとリュドミラだけだが、チャイコ以前のものは結局聴かないから買わないとポリシーを立てているので気を落ち着かせて、要らないと思い込む。チャイコ自体は微妙なところだがバレエ曲や管弦楽曲は論外として交響曲でも後期三部作は他指揮者盤で飽和状態だからやめといた。何よりプロコフィエフで手元になかったピーターと狼、3つのオレンジはマストで買った。海外で最低評価のついた雑音だらけの骨董復刻だから、極端に安い。SLSはLP(CD)化してるかどうか不明なものが多いが、恐らくこれらの曲は同じ音源なので対象外。ひと世代前のグラズノフは考えどころだが交響曲以外は取り敢えず対象外なので無視。ひと世代後のショスタコーヴィチの革命(SLS)も考えどころだが、SLSで欲しいものが溜まった時点で考えることにする。ここは不法盤の無いレーベルで殆ど裏青。すぐ増刷できるし廃盤にはならなそうなので。ショスタコーヴィチも飽和状態なんだけどね。ホーレンシュタイン的な面白くない演奏だったらどうしよう。danacordのマルコ記念盤、新世界のデンマーク録音があるので買ったが明らかに見覚えのあるジャケット、一曲も聴取記録が無いから買ったが、聴かずに売ったのかもしれない。1000円弱は微妙(セールでこのくらいの値段で出てたと思う)。最後に、ストラヴィンスキーは組曲のSP録音復刻やデンマークライヴは市場にあふれてるが、SLSのエディプス王、詩篇交響曲抜粋は初見。ただこれらもじつは飽和状態で、歌モノは特に守備範囲外なので様子見とする。,,いろいろEvernoteに書いてるのだけど、外向きにはこのくらい書いておく。ちなみにSLSはよく調べないとダブって失敗する。コープランドの3番セル盤は初出のはずがダウンロード販売で二束三文、しかも酷いノイズが無くかなり聴きやすくなっている。今回ミュンシュのオネゲルがダブっていることが判明。一枚3000円超えでダブりは痛過ぎる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),マルコ指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)CD,,素直な楽想を簡潔に構造的にまとめた最晩年作でニコライ・マルコは大御所に遅れはとったものの良く演目に取り上げていた。ライヴほどの力感はなく、新即物主義的だが楽譜の要求のままに率直に、より効果的に迫力を増して雄渾に、またオケのニュートラルで技巧派的な面をプラスに活かしセッション録音にしては気を煽るスピードと溌剌とした表現をものにしている。反面予想どおりというところでこれを聴くときのコンディションによって全く耳に残らないこともあるのだが、じっくり聴くと、これこそ「青春」だなあ、と思う。オーマンディより音が良いし、より初心者向けかもしれない。暗さが無いのが物足りない向きもあるか。陰影が人工的なところはすこしある。それはオケの音色のせいもあるだろう。四楽章の迫力はなかなか。一本調子感もなきにしもあらずだが所々戦闘性が凄い。ラストは流れ上当然ながら派手な版による。ステレオ録音も最新ではないが時代なりにクリア。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(一部欠落),マルコ指揮東京交響楽団(TBS)1959/12/11live・CD,,テンポは揺らさないが表情付けは濃い、マルコらしい。この指揮者も掴みどころがないところがあって、なんの引っ掛かりもない凡演もあれば、稀にとんでもなく惹きつける凄演もあり、セッション録音だろうがライヴ録音だろうが関係ない。この曲は二十世紀を代表するメロディメイカーのプロコフィエフにあってもとくに魅力的な旋律が次々と繰り出され、青少年向けという命題のためだけでもなかろう、最晩年の透徹したまなざしで、単純化された書法によりおそらくは遠い過去の記憶を美しく瑞々しく綴った名作。マルコはプロコフィエフと親交がありこの作品をよく取り上げたが、スタジオ録音はこれといった特長のあげづらいごく普通の出来で、一方ライヴ録音ではとんでもなく集中力の高く即興的にも取れるような独特の気の煽り方をしたものもある。この来日記録(盤ではオマケ扱い)はモノラルでありながら情報量の多い良い音だが、演奏スタイルはその中間。後者に聴かれるような、他の指揮者に無い解釈表現や、改変のようなものが(細部の省略のようなものも)聴かれるところは面白いが、演奏スタイルそのものにかんしては実直さも目立つ。ここではオケの健闘ぶりが特筆すべきことで、弦楽器はおしなべて力強く、ブラスも不足無い。耳にバイアスかけて聴かなくても十分聴くにたえる。惜しむらくは二楽章の一部が欠落(放送用に編集されてしまった)していること。一楽章から二楽章へも妙に間がなく突入したりと忙しないが、じつはこのあたりはそんなに気にならなかった。それほど良い出来だった。ジャンジャンジャンジャン、ドンで終わるバージョン。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(URANIA/columbia/sony)1953/4/26爆発的モノ時代のオーマンディは、速くて押しの強いインテンポ気味の演奏を行った。とはいえトスカニーニより柔らかい叙情性があり、繊細な部分も持ちあわせている。解釈的には地味かもしれないが、オケの艶やかな音色を引き出す力に長けていたため、飽きさせることが少ない(無いとはいわない)。この美しい曲も、やや録音が悪いためオーマンディの美質が出ているとは言いがたいが、よくこなれた楽曲解釈とオケの巧みさは気持よく聴くことができる。1楽章は食い足りないが(せっかくの第二主題が弱い)、2楽章のリズミカルでゴージャスな音楽は特筆モノだ。4楽章もやはり疾走する音楽が気分を高揚させる。凄いテンションです。録音のせいかもしれないが、バイオリンが生々しくものすごい気合いだ。この盤はまずこういった「速いプロコフィエフ」を楽しむにはもってこいであり、そのての演奏記録では間違いなく上位に食い込むものである。分厚い響きと強固なアンサンブルが凡庸なオケでは不可能な離れ技をやってのけている。一方ゆるやかな部分はちょっと食い足りない。木管と高音打楽器だけのところなどは独特の「ディズニー的な」無邪気さ、甘さの雰囲気があって味わい深いが、4楽章最後で再現される1楽章緩徐主題など、録音のせいかもしれないが、他の部分との音色変化がみられず、あまりリタルダンドしないこともあって何の感傷ものこさずにそのまま突き進む感じがする。音量もおおざっぱで細かいニュアンスがない。そのぶん最後に冒頭主題が戻ってジャンジャンとなる部分はまったく文句のつけようがない激しい大団円。よかった。総じて○か。1、4だけなら◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(columbia/sony)1953/4/26・CD,同上,復刻盤CDについて。モノラル末期のセッション録音にもかかわらず、不安定で粗雑な録音であることは信じ難い。オーマンディがこの時期(ないしそれから現代に復刻されるまで)にそういう扱いであったことは仕方のないことだが、西側初演の大成功で同曲の認知度を一気に上げた功労者であり、シベリウス同様作曲家の国においても多大な支持を受けた指揮者の、この原盤保存状態は理解できない。同時期に同曲の別の大指揮者盤があったならいざ知らず、これはまったく同傾向のライヴ録音を残しているミュンシュ同様、米国において政治的なものが背後にあることを勘ぐらせる。想像で補って書くしかないほど荒れた録音ではあるが、各声部がいちように非常に強力に発音しているのが印象的で、膨れて鳴りすぎるほどであり、シャープさよりボリュームを重視したアンサンブルは古風な感もあるが、この旋律的でハーモニーも構造もさほど複雑ではない曲については問題ない。力感で押し切るのは前記のミュンシュと同じものがあるが特徴的なのはひたすら素っ気なくインテンポで進めるところで、その速さの中に要素を緻密に詰め込んでいる。同曲のしっとりした旋律をひとつひとつ慈しむように楽しむより、数珠繋ぎの楽想の奔流に流されるのが良い聴き方なのだろう。三楽章など、余裕しゃくしゃくなところは気になるが、構造的な部分も明確に立体的にひびかせ、メロディやハーモニー、リズムだけではない、管弦楽の楽しさを伝えることも怠っていない。全般メリハリのハリしかないところはあるが、職人的な上手さ、オケの力強さを楽しむには、何とかなっている録音である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),○サモスード指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya他)1950'・LPひとことでいって濃厚。1楽章はちょっと野暮ったいテンポで重苦しさがある。だがとてもダイナミックだ。1楽章第二主題がこれほど国民楽派的に野卑で雄大な演奏というのはちょっと他に聞かない。それだけでなく全般に重厚で起伏の大きい表現が目立ち、同曲の初期の受容のされかたを伝えている。4楽章の最後が静かに終るバージョンであることも特筆すべきか。他にも一般的に聞かれる版とは違うロマン派的な改変?が散見される。2楽章や3楽章の中間部のチャーミングな表現は重ったるい解釈の中にあって一服の清涼剤となっている。それにしても重い解釈、死を前にした作曲家の慟哭が聞こえてくる。こんなに深刻で内容豊かな曲だったか。初演者・初演楽団によるこの演奏は、子供向けの筆のすさびという世評を覆す深味ある演奏である。終楽章のかなり速いインテンポはこの演奏においては特異。1楽章の極めて叙情的な主題が再現される部分は分厚い響きの感情的なうねりがロシア的な雄渾さを感じさせる。こういう曲だったのか。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),サモスード指揮ソヴィエト大国立交響楽団(classound)1953・CD,同上?,一時期廉価で出まくったいいかげんなロシア盤で恐らくメロディヤ音源。間違いなく板起こしであり、LPを持ってるならまず必要ないくらいのぼやけた雑音まみれの悪音質だ。ただそれなりのプレイヤー+を使っているのだろう、安定した音像を得ることができるので冷静に聞ける。その意味で1楽章が結構たどたどしいのには気づかされたし、2,4楽章の力感にはやはりそうだったかと得心するところがある。ただ、やはり大推薦とはいかないものだ、という気がした。この盤に対する評価として無印としておく。最後のほうのハープのグリッサンドが大きくてびっくり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),フレイタス・ブランコ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(forgottenrecords)1959/04/17ジュネーヴlive放送,,録音状態は放送エアチェックレベルで3楽章からはノイジーで聴きづらいところもある。モノラル。これは一楽章冒頭から超高速インテンポで度肝を抜かれる。ボレロとは真逆、音に全くこだわりなく心のない即物的解釈。こんな極端なのは逆にブランコの個性だろう。ただ設計の通りらしいのは展開部から中低音域に重みが出てきて、それらしい「音楽」になってくるところで、再現部に頂点を持ってくるよう意図されているのだ。中間楽章はまともだし瞬間的には恣意的なルバートもかかるし、何より四楽章で一楽章主題の再現は盛大なフォルテにより盛り上げている。緩急の緩が意図的に暗くせず流されているのはブランコならではだが、変な思い入れのある演奏「にすべきではない」曲という考えもあるのかもしれない。ラストの軽快な版の選択も当然で、客席は大ブラヴォ(この日のメインプロである、恐らくアンコールを除くコンサート全曲がこの盤におさめられている)。独特のライヴを聴きたいならお薦め。frの発掘音源でブランコをシリーズで復刻している。スイス・ロマンドはアンセルメに鍛えられた技術、透明で明るい色調へのこだわりを良い方向に持って行っている。曲のローカル色を廃しフランス的な音響配置によりむしろブランコとの相性がよくなっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),マルティノン指揮ORTF(ina配信)1971/10/31放送 live,,一楽章は穏やかで悪く言えば平板。例の美しい旋律もロシアの演奏より力感がなくさらさら普通に流される。ライヴなりの生気はあるが、録音が放送音質で(クリアなステレオ録音ではある)気になる人には気になるくらいの極薄いノイズがあるため、弱音表現の美麗さを楽しみたいならセッション録音をとるべきだろう。だが二楽章のドライヴ感は凄い。勢いのある方のマルティノンがあらわれており、終盤の畳み掛けるような舞踏表現は打楽器が強調され凄みを感じる。三楽章は地味ではあるが緩徐楽章というだけの存在ではなくシニカルな楽想や挽歌のような旋律が織り交ざり、前の交響曲でみられた複雑な心情が忍ばせられている。マルティノンは個々の楽想の対比をはっきりさせることはしないが、流れをうまく繋げて聴かせている。四楽章は活き活きして、オケに(かなり)乱れがきたされてもそのテンポと強靭なリズムを弛めない。行進曲風のフレーズも結局は元の楽想に戻るまでには雑味も厭わない力強い表現に戻る。そこから、一楽章での薄い出現ぶりは何だったんだ、というくらい緩徐主題の回想が盛り上げられ、テンポ的にはあっさりしているが揺り動かされるものはある。セッション録音よりやや速いかという感じではあるが、感情的な暗喩というか、途中の暗さはあくまで音楽の流れの中に溶け込み、ガシャガシャっとあっさり終わる。拍手は普通。すぐ次の曲の準備に入る(笑)マルティノンはVOX全集の他、decca(testament/king/londonでCD化)にパリ音楽院管弦楽団と50年代5番、7番をセッション録音している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),マルティノン指揮パリ音楽院管弦楽団(decca,london/testament他)1959・CD,,後年の録音にくらべ心なしか情感が滑らかにこめられており(マルティノンで弦のポルタメントなんか聴こえるのは珍しい)暖かみを感じる。技術的には国立オケに劣るのだろうが、録音のせいもあるのだろう、高音偏重で薄く透明感のある響きがそこまで目立たず、速めにスラスラ流れていく中にしっかりオケの主張がある。このオケのこういうところは好きだった。マルティノンなので耳に残るような特長は無いが、この旧録のほうが音楽が身近に感じる。激烈な楽章のバラケっぷりも全体の中では調和している。軽快な楽章冒頭主題に回帰して終わる。木管は上手で音色が懐かしく、明瞭に捉えられたハープも好きだ。このオケとは五番とこれのみ録音している。ステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト大放送交響楽団(melodiya/venezia)CD,,立体的な書法で簡素に書かれた作品だけに個々のパートがちゃんと主張し、全体はバランスをとってしっかり肉付けする必要がある。旋律だけ流し下支えと分離するようではピンと来ないし、情感に鈍感ではつまらなく、わかりにくい。変な解釈を加えずとも中低音域の楽器が高音楽器を圧するほどに強靭に演奏しているだけで、チャイコフスキー後期交響曲並の大衆的魅力を発揮する。加えロジェストはひときわわかりやすく、ロシア式にのっとって各楽想、音要素を強めに起伏を付けて演奏させる。録音バランスについてそもそも低音が強く(ソヴィエト録音が粗いのはいつものことで置いておくとして)高音楽器が相対的に弱いせいもあるが、構造的に書かれた曲は内声を決して軽んじてはならないという基本を改めて実感させられる、目の詰まった佳演だ。職人型の指揮者がときどき陥っている、自分のやり方に曲を寄せてしまう方法を、ロジェストはとらない。真の万能型指揮者であった。この時代のロジェストは神がかっている。ここでは文化省オケにない力感、技術もメリットとなっている。終わりはガチャガチャを再現しない静かな方をとっており、珍しい。しっくりくる。ステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),ロストロポーヴィチ指揮NYP(DIRIGENT)2005/4live,,終始穏やかなテンポでひたすら抒情的な表現に重点を置いた演奏。晩年のロストロポーヴィチの心境をも伺い知ることのできる演奏。アクの濃くない、自然な抑揚でメロディを歌い継ぎ、二楽章終盤など一部を除きフォルテを避けているのではと思うほど優しく繊細な、この劇的表現にすぐれたオケに相応しくないほど柔らかな光に包まれた薄い響きで、一貫した雰囲気を保ち、解釈的にはセッション録音と同じ傾向ではあるのだが、いわゆる最晩年様式という言葉で説明できそうなものに仕上がっている。四楽章は中でもドラマを演出しているほうだが、リズムの刻みからしてアタックが弱く徒に気を煽るようなことはしない。この整え方、常識的なテンポなので瑕疵もなく、安心して聴く事はできる。反面、瑕疵を避け穏健に走る、現代的な演奏だなあ、という印象も無くはない。楽想間の表情変化に乏しく音色も一緒である。ただ、それこそ個性なのかもしれない。派手なほうの終わり方。拍手はまあまあ盛大。録音は00年代とは思えない砂ノイズ混じりのエアチェックレベルのステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),ロストロポーヴィチ指揮フランス国立管弦楽団(erato/warner)1986/6・CD,,極めて精緻なデジタル録音で演奏も今もって一位に推す人がいるくらいのものである。かつて色調の濃いソヴィエトオケの録音ばかり聴いていた自分には穏やか過ぎて印象に残らなかったがそれは録音があまりに広大な音場を形成し音を遠くしてしまったのと、明るく叙情的ではあるが既に無個性を得たオケのために、本来の細やかでよく練られた解釈が、素人にはあまり響いてこなかった、曲が簡素なだけに物足りなさを感じさせたことがある。内声までしっかり配慮が行き届き構造面もよく聞き取れる。しっとりした落ち着いた音楽は、若い頃にはわからなかった、この偉大な音楽家の歩んできた道のりの険しさの裏面なのである、ということを今あらためて実感させる。スピードが落ち着きアタックが弱めなのはセッション録音であることも理由に挙げられるだろうが、これは「現代の世界的な流れに乗った最新の演奏」であり、旧弊なローカルな音楽を志向していない。まさにロストロ先生らしさなのである。激しい表現も避けているわけではないが、そのチェロ演奏同様「違和感を感じさせず」スムーズに圧力を強め、または弱め。空疎な響きはまったく出させない。瑣末な操作は排除し、壮大な構成感のもとに正攻法で組み立てられている。終楽章クライマックスの壮麗さと、最後の寂しさは聞きものだ。四楽章を通して、些かの不安も心地悪さも感じさせないが、その中に、柔らかいニュアンスの中に、ピアニッシモの中に、僅かな短調のフレーズの微妙な描き方に、友人プロコフィエフ自身も含む、激しい時代の波の中で翻弄された音楽家への遠い思いが、詠嘆のフレージングとなって聴き取れるのは、けして贔屓目に見てのことではないだろう。最後はプレストを省略した静かな版を選んでいる。ペットの挽歌で終わる。アシュケナージなどとの違いははっきりしている。個性を主張したり音楽のちからを見せつける演奏ではないが、現代の演奏レベルと、古きものへの大人な思いを感じさせる「大きな」演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),○アノーソフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(DEUTSCH SCHARPLETTEN,ETERNA)LPいきなりズーンと異常に引き伸ばされた低音に度肝を抜かれる。散漫なオケが不自然に遅いテンポで序奏部(第一主題)をかなで出すと、なんじゃこりゃ、と思ってしまう。しかし有名な第二主題になるとテンポはいきなり速くなり、雄渾で美しい歌が流れはじめる。情緒たっぷりの演奏ぶりはとても響くものがある。この主題をここまで真情を込めて感傷的に歌い上げた指揮者がいるだろうか。終楽章での再現の場面は更に自然な見栄を切り感動的に歌われる(ただ、この録音、基本的にヴァイオリンが遠く弱すぎる。そのため主題の最初の低音のフレーズが伴奏に埋もれて殆ど聞こえない。難点)。アノーソフはかなり恣意的なデフォルメを施す指揮者だが、この曲に限ってはとても自然で地に着いた感じがする。1、4楽章以外の楽章も、彫りの深い表現で耳を捉えて離さない。3楽章のそこはかとない哀しみが涙を誘う。そうだ、「青春」はこういう曲だった。プロコフィエフの遠い目が捉えた夢幻のような幼き日々、その思い出をひとつひとつ音に移し替えていったのだ。4楽章を何度も何度も聞いた。録音が悪すぎるので◎はつけられないが、ひょっとするとチェコ・フィルの盤より個性的で深みを増した演奏と言えるかもしれない(録音年代がわからないのでどちらが後なのかわからないが)。オケが持ち前の散漫さ(とくに弦)を発揮しているのは目を閉じて○をつけておく。いい曲だな、と少し幸せな気分になる演奏です。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),◎アノーソフ指揮チェコ・フィル(ARLECCHINO他)1954・CD音の悪さが悔やまれる名演(当然モノラル)。ロシア伝統のロマンティストにしてロジェストヴェンスキーの父、アノーソフの手による演奏である。曲目はこれまたロマンティックなプロコフィエフの7番。この人の指揮は骨太の強さとうねるようにダイナミックな曲作りが印象的である。ゴロワノフに似たところもある、と言えばどのような感じか伝わるかと思う(そういえばゴロワノフもプロコが得意だったらしい)。この演奏ではその特質がうまく発揮され、無邪気でスケールの小さな曲という世評を覆すほど壮大で強烈な印象を残す。「青春」と呼ばれるこの曲は5、6番の系譜に連なるにしては余りにあからさまにわかりやすさを狙った旋律的音楽である。原曲は子供向けラジオ番組用の音楽であったそうで、書いていくうちに規模が大きくなり交響曲に育ってしまったらしい。たしかに「青春」というより「少年時代」と言った方がしっくりくるようなところもあり、愛らしい旋律、きらきらした音色、簡素な構造、どれをとっても何十年も溯った作品・・・即ちプロコフィエフ自身がまだ子供だったころの音楽・・・に思えてくる。何といっても一楽章の第二主題、四楽章の末尾で印象的に回想されるじつに素晴らしい旋律がこの曲に一本筋を通している。プロコの場合旋律そのものもそうだが、旋律の下でうねる内声部のかちっとした構造がウラの魅力となっており、この名旋律の下でうねうねとうねる内声がなければその魅力は半減していただろう。旋律の中にオクターブの跳躍を混ぜるところもいかにもプロコであり、先祖がえりしたとか古臭いとか言ってもやはり、これは紛れも無くプロコフィエフの作品である。楽しい思い出を振り返り、長かった生涯を回想するプロコフィエフ自身の姿が目に浮かぶ。ともすると無邪気な旋律だらけで飽きてしまうかもしれないこの曲に対してアノーソフがとった態度は、あくまで真剣に演奏する、というものだった。テンションを極度に高く保ち、遊びの無い凝縮された音楽を作る。いい年したオトナたちがギリギリ緊張感を保ちながら懸命に子供音楽を演奏する、それはともすると滑稽になりがちだが、プロコフィエフの素晴らしさは懐の深いところ、こういった演奏に対してはそれなりのオトナ音楽に変身するのが面白い。オトナのほのかな感傷を刺激する「おもいで」音楽、まあこの演奏は「ほのかな」などという薄さは無い「濃いい」演奏ではあるが、「青春」交響曲を理解するためには必要な演奏であると思う。プロコ元来の娯楽性は保たれているので、快楽派の方にもおすすめ。同曲コーダ有無の2版がある。好き好きだが私はないほうが落ち着いて終われる気がする。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),○テンシュテット指揮バイエルン放送交響楽団(EN LARME:CD-R)1977/5LIVEそれほど熱気が無くテンポがタテノリな演奏だが、ろうろうと歌う箇所(終楽章最後で1楽章の第二主題が再現するところなど)は美しい。2楽章のぼーっと夢見るような遅いテンポで始まる(ちょっと法悦的な)短い序奏、それに対して鮮やかに変化する激烈な舞曲はとてもよく出来ている。楽団全体の技術的バランスがいいのでこういうノリのいい楽章は楽しめる。個人的にこの楽章がいちばん好きだ。また、プロコの仕掛けたマニアックで奇怪な細工がくっきり浮き出るように操作され、保守的保守的と言われながらも結構個性的な楽曲であると認識させてくれる。定番のピアノ独奏、弦のピチカートのアンサンブルが美しい。主旋律を繋ぐ経過句の面白さにも耳を奪われる。3楽章のうらぶれた?感じもプロコの白鳥の歌にふさわしい雰囲気を出していていい。4楽章はもっと激烈な演奏などいくらでもあるが、とにかく純粋に旋律とひびきの美しさを前面に押し出しており、最後などけっこう感動する。当然のことながら静かに終わるバージョン。テンシュテットははたしてこの曲に適性があったのかどうかわからないが、佳演とは言えそうだ。最晩年にやっていたらきっとかなり違った演奏をしたことだろう。その意味でまだ円熟期への途上を感じさせる演奏でもある。○。拍手カット。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),○マルコ指揮フィルハーモニア管弦楽団(RCA/EMI他)CD最初ちょっと違和感があった。スコアに手が入ってる?1楽章と4楽章。気のせいかも知れないのでごめんなさい。4楽章最後は賑やかなほうの版。このほうが大団円といったかんじでさいきんは好きです。マルコは手堅い。重ったるいところもあるが(オケの響かせかたが厚ぼったいせいか?)たとえば終楽章の後半などけっこうテンポが上がり水際立ったところを聞かせてくれる。じつはこの曲については自分にとってスタンダードと呼べる演奏が見付からなくて困っていたのだが(自分にとって名演というものとは別)、マルコの演奏はとてもしっくりくる。サモスードの勘違い(?)もないしアノーソフの押し付けがましさもない。中間楽章が爽やかでプロコ独特の奇怪なメルヒェンが子供らしい無邪気なメルヒェンに昇華しているのは特筆すべきだろう。これはなかなか聞かせる演奏です。個性的ではないですが、ブラスの響かせかたやデュナーミクの付け方などにロシア流儀は脈々と息づいています。この集中力はマルコならではの厳しさがあり出色ですね。CDになってますが私は未入手。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」(1951-2),○マルティノン指揮フランス国立管弦楽団(VOX)〜子供のラジオ番組のために考えた素材が、自ずと大交響曲に育ってしまったという伝説がある。ソヴィエトの作曲家として穏やかな晩年を過ごす作曲家の、「残滓」というにはあまりに美しい旋律に満ちた名作だ。互いに対照的な傑作5、6番のあと、はからずも最後の作品として残された無邪気な表情に溢れた交響曲。まさに前世紀の古風なロマンスが、プロコフィエフらしからぬ暖かな情趣を振り撒く。響きの透明さのみが20世紀も中盤の作品であることを思い出させてくれる。全盛時代の尖鋭さは無いが、それで真価を判断するには余りに美しすぎる。美も突き詰めると哀しさをもかもす。幼き日々への憧憬・・・老作曲家の帝政ロシアの時代への遥かな想い。曲には慟哭の影すら無いけれども、透明なノスタルジーにただ身を浸すとき、他に代え難い「涙の宝石」のようなものが、心に舞い降りてくる。若きプロコフィエフばかりがプロコフィエフではない。己の最後を予期し、最早冒険や闘争をする必要も無く、ただ微笑みを浮かべ乍ら素直に浮かんだ楽想を、思うが侭紡ぎ出していく・・・それは諦念の感覚に近いのかもしれない。わかりやすい。半端ではなくわかりやすく、それでいて「大」交響曲だ。ゆえ、ディレッタントの間では評価は高いとはいえないが、一方で、プロコフィエフは余り聞かないけれども、この曲は好き、という方は多いようである。何より有名なのは1楽章第二主題の雄大な旋律で、これは何かテレビ番組でも使われていたと思う。一度聴けば忘れない、夢幻的情感に溢れた傑作だ。いわゆる「映画音楽的旋律」であるが、映画音楽の草創期を支えた張本人にその物言いも無いだろう。濃厚な旋律が嫌いな向きでも、特有の透明感ある響きと音線によって、嫌悪感を抱くようなことは無いはずだ。この主題、4楽章末尾で回想する版と、回想せずに終わる版があるようだが、初めて聴いたときにこれが回想されたさいの感動は涙に姿を変えて私の頬を伝った。回想はあったほうがいい(殆どの演奏には有る)。プロコフィエフ独特の旋律美はこの時代にはお馴染みの定番になっていた。長い旋律の経過部に不規則なオクターブ跳躍をまじえ、ラヴェルや前期ストラヴィンスキーのようなギリギリ踏み外さない美感を保った、清新なオーケストレイションにのせてうたう。そこにリズムの目新しさは最早無いし、若い頃嫌っていた民謡ふうですらある。その人生の末尾にさいして、親友ミャスコフスキーは完全に割り切ったスタンスから凝縮された交響曲を造ったが、プロコフィエフは別に気張らずにただ楽しんで書き流している。そこが良い。伝説がどう伝えられようと、この曲はプロコフィエフの深意の篭った曲だと、私は信じて疑わない。意図して篭っているのではない、自ずと沸き上った想いが気取りの無い中に遺憾無く発揮されているのだ。マルティノンの全集(2セットで全曲+α)は、廉価盤には惜しいほどの名演。かねてより知られたものだ。少々硬質で”薄め”だが、曲を知らないなら、このあたりから触れると良いだろう。ロジェストヴェンスキーの親父さんアノーソフの名演が私のお気に入りなのだが、別項で触れるとしよう。まずは聞いてみて下さい。5番などのスポーツ的感覚が嫌いな方は、特に。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響的物語「ピーターと狼」,○マテツカヤ(ナレーション)ゴロワノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(venezia他) CD,,音は極端に悪いSP起こしだが、プロコフィエフ指揮者としても知られていたゴロワノフらしく、颯爽と明るくリズミカルに処理していくさまは清々しい。開放的な響きが耳につくソビオケも最初は大丈夫かなと思ったが、聴くにつけリリカルな細かい表現にも長けた強力なオケだという印象。ソリストが活躍する曲ではソリスト級奏者を揃えたソビオケは水を得た魚か。はみ出した表現や過剰な起伏もなく、それはナレーションの入るあくまで劇伴だからだろうが、懐ぶかいところを見せる。ナレーションがロシア語(おばさん)なのでネックではある。録音無茶苦茶なので、これがゴロワノフ唯一のプロコフィエフであることに価値を見出だせなければ聴かなくてもいいかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:交響的物語「ピーターと狼」,○ケーゲル指揮ドレスデン・シュターツカペレ、R.ルートヴィヒ(ナレーション)(DENON,COLOMBIA)1971/6/22-24・CD,,非常にクリアでシャープ、自然な拡がりのあるこの上ない録音復刻状態。CDメディアにはうってつけのディジタルな「ケーゲル美学」があらわれた演奏でマニアは金科玉条のように扱うべきだろう(意味不明)ドイツ語によるナレーションに違和感があるのと部分的には少し厳し過ぎる感もあるが、新古典に回帰した時期のプロコフィエフの管弦楽法の粋が現れ、どこにも削るところも加えるところも無いまさに簡潔にして完璧な作品ともいえ、しかしその簡潔さゆえに各モチーフを主として構成するソロ楽器には完璧な演奏が求められる、ちょっとの狂いも何かぐだっとした印象を与えてしまい、この音楽の硝子玉のような美観が損なわれてしまう。ケーゲルはとにかく美しい。ロマンティックな魅力とかダイナミックな迫力とかそういった付加的な表現による音楽ではなく、スコアをスコアのままが最も美しいとしてひたすら磨き上げることに専念した、その結果を愉しもう。禁欲的ではない、スコアは決して禁欲的な旋律(+リズム)を示してはいないのだ、ケーゲルはそこはわきまえているから、楽しめる。とはいえちょっと背筋が固まる感じがするので、曲の内容にそぐわない部分もあるかと○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
プロコフィエフ:交響的物語「ピーターと狼」,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団、ザッツ(ナレーション)(MELODIYA)LP美しい曲に水際立った音がよく響く。とても気持ちの良い演奏だった。私のLPは未開封だったが最初から雑音が入っていた。それでもロシア語のテクストに導かれて入るプロコフィエフの神髄といえる描写旋律のひとつひとつの、なんとまあ明るくあっけらかんとした無邪気さよ!ソリスト連合とも言うべきソビ響の木管ソリスト面目躍如と言ったところか。とにかくやわらかに明るい、それだけが印象に残って、気持ちよかったことだけを伝えておく。下手に技巧をひけらかさないところもさすが。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響的物語「ピーターと狼」,○ロジンスキ指揮ロンドン・フィル、ゲイリー・ムーア(ナレーション)(WESTMINSTER/WORLD RECORD)ロジンスキはちょっと堅苦しい。アンサンブルを磨き上げて一分の隙も残さないから、気楽で愉しい音楽が生真面目でしゃっちょこばった音楽になってしまっている。まあ、むしろ語りを除外して純粋に音楽だけを楽しむといいだろう。各主題の優しく美しい響きが特筆モノ、だがモノラル。プロコとしては一二を争うわかりやすい名旋律の宝庫。腕利きのオケ(ソリスト)の聞かせどころ多い。木管ソロがとくにステキな演奏。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響的物語「ピーターと狼」,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団、ヘイル(ナレーション)(PEARL)1939/4/12CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:交響的物語「ピーターと狼」〜序奏と行進曲(ヴァイオリン編),◎コーガン(Vn)ヤンポリスキー(P)(multisonic)1947・CD,,録音はモノラルでこのくらいなら十分いいと言えるのではないか、まったくコーガンの腕は確かで、とくにこういった同時代音楽をやらせるとむちゃくちゃに巧い。性があったということだろう。有名なマーチは技巧的な編曲がなされているが安定した重音表現とキレのいいリズムで、子供の音楽ながらも聞き惚れてしまう。変にヴィルツォーソとひけらかさないところがすばらしい。ピアニストは私はヤノポウロとてきとうに読んでいたがヤンポルスキーとは違うのか?,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:祝典詩曲「ヴォルガとドンの出会い」,○サモスード指揮モスクワ・フィルハーモニック交響楽団(MELODIYA)珍曲出現。ファンファーレから始まる楽しい管弦楽曲。運河開通の記念作だそうだが、作曲家最晩年の作品であり、交響曲第7番と共通性を感じる。素直で耳馴染みのいい音とリズムと旋律に彩られている。基本的に後期ロマン派的雰囲気にプロコフィエフ旋律とプロコフィエフ和声が組み合わされたような作品で、ちょっとマーラーっぽい経過句が出てきたりと随分古風なナリを見せる。プロコフィエフが最後に辿り着いた迎合的な作風と言って間違いはないが、それにしては気持ちのよすぎる清々しい曲ではある。録音イマイチなのが残念。サモスードは色彩的で迫力があり、じつに完成度の高い演奏を繰り広げている。感傷的なヴァイオリン、チェロのフレージングが美しい。プロコ好きなら誰の演奏でもいいので一度は聴いておきましょう。ショスタコの「祝典序曲」などとは別の視座にある佳曲。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
プロコフィエフ:冬の祝日(子供の組曲),○サモスード指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団、少年合唱団(合唱指揮:ソコロフ)(westminster)LP,,8曲からなる組曲で晩年のプロコフィエフの「境地」をうかがい知ることのできる楽曲。当時西側ではあきらかに日寄った(体制におもねった)と見られた極めて平易な曲だが旋律の魅力だけでも十分に楽しめるものとなっており、現代においてイデオロギーや政治的背景抜きで改めて評価すべき楽曲だと思う。モダンな響きやコード進行は蔭をひそめ、20世紀初頭に作曲されたといっても通用しそうな感じである。演奏はかなりボリューム感があるが躍動感にも欠けていない。細かい瑕疵はともかく素直に楽しめる。録音は悪い。メロディヤ原盤だろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:二台のヴァイオリンのためのソナタ,○オイストラフ親子(monitor/brilliant他)CDプロコは教育用作品のような室内楽編成の曲をいくつか書いているがこれもそのひとつで、しかしシンプルな中にもプロコ独特の隙のない手法が駆使され聴き応えがある。このような手遊びのような作品群中では、旋律が魅力的であるのも例外的な気がする。終楽章冒頭はダウンタウン浜ちゃんの「人気者でいこう」の人気コーナー「芸能人格付けチェック」のBGMに使われていた。チャイコの弦楽四重奏曲弟1番4楽章冒頭というマニアックな曲選もしていたので、なかなかのセンスの番組だった(今でも正月には特番をやって、さまざまなクラシック楽器の聴き比べがハイライト企画のひとつになってますが、私ストラディより安い楽器のほうが音好きだったりしたんですけど)。さて演奏は他にない、ダヴィドの音が多少細く感じたがそのぶんイーゴリとの調和がとれ音色的な齟齬がまったく無く、これだけ聴くと簡単な曲だと誤解しそうな勢いである(譜面面プロコにしては難しいほうではないとは思うけど)。技巧的魅力だけでなく思索的なものを盛り込んだ謎めいたところがあることに気づかされ、短くスパッと聴きとおせる。プロコは基本体育会系音楽なので、ダヴィドの表現にやっぱり最盛期よりは力弱い感じを受ける向きもあるかもしれないが、室内楽とはそうやるものだし(ダヴィドは室内楽もよくした)、これはこれでいい。◎にしておかないと他がない。ブリリアントの廉価ボックスにも収録。

David Oistrakh: Chamber Music Edition
David & Igor Oistrakh
Brilliant Classics

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プロコフィエフ:年老いし祖母の4つの物語,○ソフロニツキー(P)(URANIA他)1946/12/2モスクワLIVE・CD,,乾き、けして顕ではないながらも平易な楽想を持ち、プロコフィエフの先鋭さの対極を例示するさいに引かれる機会の多い組曲。装飾的な音符やリズムが邪魔して聞きづらいことが多い作曲家のソロ作品にしては整理されているのに加え、ソフロニツキのドライで野太い芸風のせいであっさり聞き流すことができる、善きにつけ悪しきにつけ聞きやすい演奏である。力強いが起伏がなくイマジネーションに欠け小粒。プロコフィエフというよりソフロニツキを聞く盤だろう。繊細さはこの演奏家の領分ではない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
プロコフィエフ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ,○ギドン・クレーメル(Vn)エレーナ・クレーメル(P)(PHILIPS)1980版・CD,,作曲意図どおり練習曲としてよく使われる曲である。魅力的な1楽章の機械的走句の連環がいかにもプロコフィエフらしいが、特にその他の楽章ではやはりプロコフィエフらしい創意というかクセもあり一筋縄ではいかない。もっともクレーメルにはお手の物だろう。手軽に聞けるし、流して聞いてもいい、そんな演奏だ。感情とかいらない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------