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マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○テンシュテット指揮シカゴ交響楽団(EMI)1990/5/31〜6/4live・DVD,,満席の客の入りがすごい。録画は数日のライブの楽章継ぎ足しである。テンシュテットは指揮を始めると微にいり細にいり全身全霊で表現しはじめるから視覚的にみごたえがあるが音楽は別だ。1楽章、やや重く引きずるようなテンポが気になる。丁寧で遅い。これは最晩年様式というにはまだ寿命はある頃、静かな場面が異常に暗く深刻なのはそれでも何かを予感したもののように錯覚させられてしまう。重厚で広がりのあるドラマはドイツ的で、再現部でのペットの威勢よいファンファーレからの展開がじつに巧く壮大感を煽っている。シカゴという生気より技術を感じさせるオケの「弱点」も聞こえてくる部分もあるが、テンシュテットの読みを純粋にきける、というのはサウンド的演奏を繰り広げる2楽章も同様のことだ。愉悦感はあるが浮き立つような舞踊のリズム表現より重厚な演奏の安定感をとったようにも感じられる。とはいえ弦楽器の強固に統率された表現には凡百を寄せ付けないキレのよさがあり、頑ななタテノリテンポを守る姿には裏でテンシュテットの鬼のような指示があったんだろうなあ、とも思わせる。タテノリはドイツ系指揮者のマーラー舞踊の特徴だからなあ、ウィーンの風情はないのだ。中間部のアンサンブルの優れたさまは認めざるを得ないがどうも「サウンド的」でもある。綺麗で統率され巧いんだけど、団員の表情からしても(誰一人として)愉悦という部分が・・・。ただ、テンシュテットの解釈は素晴らしく正鵠を得たものだ。派手さはないが細かい表情付けの自然さ(しかし独特の情緒表現)には感服させられることしきりである。細かい部分まで聞き取れる録音も素晴らしい。ブラス分厚いなあ。。,,3楽章は重さが強みになる楽章だ。ちょっとチェロソロがうますぎるが(ヴィブラートをしないだけでフォルムを崩さないのだ)純粋に悲しい田舎の葬列の進むさまを思わせる音楽の流れよさはある。この楽章の連環のように継ぎ足しされていく民謡旋律(展開に伴う変形というより似ているが違う旋律を継ぎ足していくように私には思える)の流れよさ、しっくり感は瑞逸のものだ。崩れが無いのが気にはなるがそういうオケだしテンシュテットもそういう人だし。何気に現代指揮者でありワルターやバンスタの時代の指揮者ではないのだ。このひと存命のときはなんでこんなに一部で盛り上がってるんだとか思っていた。サバリッシュなんかと同じような頭の片隅の指揮者だった。しかし病で「行ったり来たり」しているうちになんだか異様な指揮をする鬼気迫る人という印象に変わっていく。今改めてこうやって振り返ってみるとしかし、音楽はそれほど変わってはいなかった。世間の情報、音楽外の情報が如何に印象を変え幻想を見させるか、そういうものを廃して純粋に音楽だけ楽しむにはもう年をとりすぎてしまった、と哀美をほこる3楽章中間部をききながら思う。ここはもっと噎せ返るような表現がほしいところだが端整で重い響きを指向しているようだ。この頃のマーラーのパート譜はもう白くて、いかにも機械的、中期以降の「意味のある無音少音」とはまた違う歌曲作曲家の穴におちたようなスコアなのだけれど、テンシュテットは音の少ない場面にあえて中期以降の「意味」を持たせている。タイタンで大地の歌を想起させるような涅槃の演奏をしたのはテンシュテットだけだ。末尾ブラスのランチ気の場面すら(珍しく音は下品だが)気品を持たせ、遠く見つめるようなテンポで堕ちていく。美しく哀しい3楽章にはしかしシニカルなヤング・マーラーはいない。,,アタッカでの終楽章はいきなり激しく、重くて緩いテンポながらもテンシュテットらしい見得を切るルバートが気を煽る。オケがしかしひたすら律せられて楽しそうじゃないのが気になる。楽しそうなのは指揮台の上の人だけだ。でもシカゴはこういうもんだろう。だって演奏精度は素晴らしいのだから。ブラームス的な威厳を持ったタテノリの音楽が展開されていく。落ち着いてウィーン・マーラーが顔を出す法悦の場面は、陶酔のきわみである。テンポと音の静謐で張り詰めた、しかしとても陶酔的な詠嘆にはテンシュテットの凄さを感じざるを得ない。ここにきてこうきたか、といった感じである。シカゴのヴァイオリンもできうるアーティキュレーションのわざを出しまくっている(もちろんアンサンブル可能な範囲で)。音色が生臭くないがとても感情的な揺れにこの曲の聞かせどころは上手くいったのだなと思う。後作でもリフレインされるホルンのワンフレーズがしっかり「9番にまで繋がるように」詠嘆を表現している。静謐さも胃が痛くなるほどに統率されている。決して激しはしないが必要十分な破滅が訪れ2番への布石をはなち、勝利の予感があらわれると愉悦感が煽られ始める。このへん設計の妙だなあ。。挽歌に戻るとヴァイオリンあたりの伴奏音形がやや甘くなる。つまんないとこだけどね。そりゃブラスはいいよ。もちろんプロとして最高の技術は聞き取れる。物凄いレベルでの話だ。,,そして最初の勝利に至る場面はテンシュテットのルバートでベートーヴェン的な頂点がいったん築かれる。音には余りのめりこめる要素はないが、巧緻に計算された表現には乗らないわけにはいかない。1楽章の朝の情景が再現されるところではフラジオではなく実音がきこえる(あれ、譜面では実音だったっけ?)。音楽が厳しすぎてなかなかあの情緒に戻れないところもあるが、噎せ返るような主題の仄かな再現から「マーラーのアダージエット」的な静謐さが相変わらず厳しい静寂の中に表現されていく。この厳しさはタイタンじゃないよなあ、大地の歌だよなあ、と思いながらきいていると、朝の情景がやがて「しっかり」現れ、テンシュテットの大振りが非常に情緒的な揺れを弦楽器にもたらす。コーラングレの憧れの予兆から壮大なロマンへといたる場面などもなんだかワグナー的な大仰さがあり、コントラストが余り感じられない人工性にちょっとのめりこめない要素がある。2番の予告編が始まるところも余りコントラストがない。同じ暗く律せられた雰囲気から出てきた主題のように思わせる。弦楽セクションの機械のようなアンサンブルが歯切れよく身を揺さぶる。いつのまにか現れる1楽章の再現(ファンファーレがイマイチ効果的じゃない)、モザイク状に入り交ざる闘争の主題から全てを突き破り勝利のファンファーレが現れるわけだが、ここは大仰な表情付けが物凄く効果的にきいている。テンシュテットの独壇場だろう。アメリカのブラスならではの重量感とアンサンブルが、この解離性人格障害的な終楽章を一貫して論理的に進めてきたテンシュテットの王道の壮麗なゴールを高らかに表現する。ブラスがやや下品だがここまできたら下品も芸のうちだ。ミスなんかどうでもいい。ブラヴォもさもありなんな「計算」、団員はちょっと疲れているけど観客は大喜びだ。上の席までスタンディングオベーションで鳴り止まぬ拍手のままに。ステージ狭いなあ。○。,-----,,,-----,,,-----
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),◯テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(WME:CD-R他)1981/4/3live,,立体的で構築的なテンシュテットのタイタンはマーラーの未だ簡素なところの残る書法の面白みをケレン味含みで壮大に提供する。このオケの管楽器のパワーや音色を上手く利用しており、聴き応えがある。弦の弱音においても極端すぎるくらい落としているのがまたこの人の解釈の特徴の一端を示している。振幅が大きいがどっしりともしている。◯。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),◎テンシュテット指揮ロンドン・フィル(EMI)1977/10テンシュテットの名高い「巨人」の録音だが、私個人的に最も心動かされたのは77年の正規録音のものだ。情緒的な解釈でありながらもどっしりとした安定感もある。2楽章など浮き立つ雰囲気も忘れていない。この人はとにかく語り口がうまい。旋律線の揺らし方を知っている。若々しさすら感じる。一方晩年ライヴのほうは、他の晩年ライヴ同様横長で大味な印象があり、終演後のブラヴォーの嵐にむしろ違和感を覚えた。マーラー若き日の作品、未だ死の観念に囚われていないころの作品だけに、死を前にした指揮者の演奏といっても結局明るい音楽にならざるを得ない。そんなところが晩年ライヴの位置づけを中途半端にしているような気がした。一方北ドイツ放送交響楽団の出元不明の怪しい録音は、オケの音がドイツの怜悧なものなだけに、澄み切った空気感が印象的な演奏である。テンシュテットの指揮にあっているような感じもしたが、板についているという点ではロンドン・フィルに水をあける。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○テンシュテット指揮LPO(bbc,medici)1990/1/28ロイヤル・フェスティバルホールlive・CD,,がっしりした骨格の大きな「巨人」・・・言葉面当たり前かもしれないが。ピリピリした空気が最後まで張り詰めてミスを許さず(細部まで一音たりとも外させない!正しい音、勉強になったりする)、どうにも身の置き所のないような堅苦しさが個人的には、ああテンシュテットだな、と。しかし壮大な伽藍が鳴動するようなフィナーレにはブラヴォの一斉咆哮も頷けた。喉頭癌からの生還直後ということもあるし元々「ブラヴォ慣れ」した国民性であることもあるけれど。ワルター的な滑らかな歌謡性は塵ほども無いが、クレンペラー様式とも違った現代ドイツふう表現、確かにマーラー指揮者であったのだろう安定した説得力。録音はいいことはいいが、標準的な正規CD録音と比べては落ちる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),テンシュテット指揮NDR交響楽団(RED他:CD-R)1980年代LIVE LPOのEMI盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),テンシュテット指揮ボストン交響楽団(000CLASSICS:CD-R)1976/7/31タングルウッドLIVEうーん、録音が悪いです。3楽章の中間部後半、弦が室内楽になる部分でハウリングのようなノイズがキーンと入り、かなりげんなり。溯って1楽章の最後に拍手が入って小休止、調弦が始まるというのもびっくり。だいたい舞台が遠く、バランス良く響いてこない。弦があまりはっきり聞こえないのはこの曲では痛い。オケ自体もやや綻びが目立つ。テンシュテットの見事な解釈は確かに健在であり、まさにマーラー、という響きのする演奏にはなっているのだが、感動を与えるまでには至っていない。だがそれも録音のせいか。終演後の強烈なブラヴォーの渦ときたら!終楽章最後なんて案外ゆっくりしたテンポなのにここまで盛り上がるか・・・と思った。録音のせいだろう、としたうえで無印。独特のケレン味とドイツ的骨太さのないまぜになった名人芸的演奏です。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○カイルベルト指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(VIBRATO:CD-R)1950/2/4live,,録音が悪いのが惜しまれる熱演。といっても4楽章まではかなりインテンポ気味だし(1楽章冒頭の序奏部からほぼそのまま遅いテンポで主部に入るところなどびっくりしたが、ここだけではない)、どちらかというと横の流れより縦を揃えるほうに気を注ぐ客観的なまとめかたをしているのだが、ややバラケ気味の発音とあいまって、特に3,4楽章の緩徐主題のフレージング、表現の深さや甘い感傷性にはちょっと驚かされ、感動を呼び覚まさせられるものがある。また4楽章最後のクライマックスの力強いうねりにも胸動かされる。バンスタあたりのうねりかたに比べれば全然たいしたことはないのだが、全般揺れない中でのコントラストということでこの3,4楽章の一部に見られる情緒的起伏は非常に効果的に働いている。旧来のドイツ式の表現をベースにウィーンふうの情緒をここぞというところで盛り込んだ解釈は、決して調子の良くない単彩なオケによっての表現ではあるものの、他には聴かれないたぐいの巨人を描き出しているということで余裕で○をつけておく。拍手カットはこのブートレーベルの特徴か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),カイルベルト指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(tahra他)1950/2/4live・CD,同上,TAHRAでも大して音質向上していない。元テープが悪いのだろう。響きが重くテンポが硬直しがちで(そういう芸風だけど)、更にオケが雑然とした粗い演奏ぶりでとうてい薦められたものではないが、3楽章の冒頭ベースソロの下手演技ぶりと中間部のヴァイオリンの音色、終楽章の俄かに盛り上がるドラマに聞くものがある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○クーベリック指揮ロンドン交響楽団(LIVE SUPREME:CD-R)1975/9LIVE録音悪し。サーサーいってるし途絶もある。しかし演奏は真剣。1楽章からものすごく情緒的に揺れていてびっくりする。適度な集中力。ロンドン響の音色は美しい。さすがイギリスのオーケストラ、牧歌的表現はお手のもの。盛り上がりどころでブラスがズレたりもするが、総じて聴き易い音だ。2楽章はわりとまとも。中間部の旋律の歌い込み重視の手法は面白い。3楽章もふつう。4楽章、キレがよい。オケが気合入りまくりだ。面白いなあ、と思っているうちに終幕、ブラボーの嵐。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○クーベリック指揮ローマ・イタリア放送交響楽団(KARNA:CD-R/ARCHIPEL)1959/4/24live・CD,,録音は悪いがすぐにクーベリックとわかる主情的な演奏で、楽しめます。ただ、やっぱり録音が気になる人はよしといたほうがいいかも。クーベリックのライヴというと萌えるもとい燃える、って印象がありますが、そこまで物凄い萌え方もとい燃え方はしてませんが、DGの正規みたいなものとは違う。オケ自体情熱的ですしね。録音が問題です。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),クーベリック指揮ウィーン・フィル(LONDON)1954/6熱血クーベリック、バイエルンとの全曲録音前のモノラル録音である。この時期のクーベリックは即物的といおうか、終始直情型の沸騰演奏を行い、表現はそれほど揺れない。強力な推進力を持っているが、反面オケの個性を自分の色で塗りつぶしてしまうきらいがある。この盤もそうで、ウィーン・フィルの技の達者なところは見える半面、その音色の艶だとか耽溺させる魅力がクーベリックの強烈な音楽作りの前にほとんど浮き立ってこない。ただ、オケにやる気が無いということでは絶対に無い。これはオケがクーベリックを理解しその指示に忠実に従ったからこその結果なのである。かつて相性がいいといわれたこのコンビの、最良とは言わないけれどもそれらを象徴する演奏とはいえよう。聴きどころは終楽章最後の英雄的表現か。あるいは、意外にも2、3楽章の中間部の表現。ヴァイオリンの音色勝負のここにウィーンの色が垣間見え、クーベリックの巧みな手綱さばきとともに出色である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(audite)1979/11/2LIVE IN MUNCHEN,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(DG),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(MA:DVD)1980LIVE IN MUNCHEN,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○クレー指揮ベルリン放送交響楽団(lucky ball:CD-R)1979/10/28live,,どちらかというとバンスタやメータのような古いタイプに聞こえる。しかし情緒的な部分は前半楽章では目立ってこず、むしろ後半楽章のほうが聞きものだ。特に3楽章終盤でのテンポルバートや4楽章の緩徐部は情緒纏綿である。そういうところ含め逆にヴァイオリンのアンサンブルの乱れが目立つのは仕方がないのか。実演の恐らくエアチェック盤ということもあって音の悪さは(取り立てて言うほどではないレベルだが)あり、それも含めて雑味は多い。しかし全般速めのインテンポ気味でも流れというかテンポ回しの巧さは特筆でき、演奏自体は最後のブラヴォ模様からしても成功だったのだろう。ここぞというところでの力感のなさなど肩透かしな場面も少なからずあるがそれも録音のせいかもしれない(ホルンだけは物凄い)。○としておく。ライヴ向きの指揮者かもしれない。何度も日本に来ている人。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○ドラティ指揮デトロイト交響楽団(VIBRATO:CD-R)1978/3/30live,,意外と重厚な演奏で、かなり音の厚みを感じる。だからしなやかなマーラー青春期の作品というイメージよりもロマン派の延長上のドイツ式交響曲をやるような感じでさばいた、といったドラティのライヴのプロフェッショナルな指揮者としての方法論というか美学を感じる。そういう意味では職人的かもしれない。だから解釈自体はぜんぜん客観主義ということではないけれども生気はあるのに乾いた感じが残る。それでも観客大喝采。たしかにマーラーを聞くという感じはしないが、稀有壮大な演奏もできたのだ、というドラティの職人性に同調することはできる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),バーンスタイン指揮NYP(SONY),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),バーンスタイン指揮ACO(DG)1987/10,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),バーンスタイン指揮VPO(ユニテル:DVD)1974LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○バーンスタイン指揮ACO(sardana records他:CD-R/RCO)1987/10/9LIVE,,マーラー、聴きすぎているために、「一般の」視点から聞き直すのは中仲至難だ。一応公共の場のホームページだし、初心者的視点をつねに忘れないようにしたいと思うのだが、つい面倒で(時間さえあればちゃんと書くのだけれども)説明を略しがちになり、特に出てくる単語について、「わからない」といわれてしまう。・・・かなしいが仕方ない。くれぐれも長い目で見て欲しい・・・これは晩年のバーンスタインらしい穏やかなテンポ設定で、明るく柔らかい音が印象的だ。一楽章は牧歌的な優しいテンポで、解釈も揺れない。二楽章の出だしもまたゆっくりだ。テンポ変化は引き続き余り無いようにきこえるが、良く耳を澄ますと随所パート毎の音響(音量)操作を施し、総体としてバランスを面白く纏めている。バンスタ解釈である。中間緩徐部になると全く趣が変わり、バンスタ流ルバーティッシモな歌が波のように押し寄せる。但し音色は明るめ無個性で変わらない。基本はゆっくり、さらにゆっくりめのルバートがイヤラシイ・・・。コーダで一気に加速、しかし、そのまま維持しておわる。さらにアッチェルすることはない。この最後のテンポが聴きなれた普通の速さといえ、やはり可成ゆっくりな演奏。明るい表情のまま三楽章へ。まっとうな表現がつづくが、ヴァイオリンの挽歌がはじまるといきなり思い切り謡わせるのは少し違和感の有るコントラストだ。オケだが、ここまで余り個性的な引っかかりのない演奏ぶりで、美音の単調さに起因すると思われる。平均的巧さも単調さに拍車をかける。音符ひとつひとつの細かいニュアンス表現のできないオケ?バンスタのせいとも思えないのでそう感じた。バンスタは相変わらず突如局所的奇妙ルバートをかける。ミトロプーロスなどの伝統だ。4楽章冒頭、嵐の激しい表現が、横長のダイナミズムにより大きくはじまる。「溜め」を多用するペット。でも、音に思い入れ無し。局所的変調以外は比較的穏やかなまっとうなテンポだ。第二主題の歌謡については、二楽章中間部と全く同じことがいえる。バンスタ良くも悪くも真骨頂、とくにテンポルバートのせわしない動きが雄大な中にも刹那の美を感じさせる。揺れまくる歌は他所の平均性と著しいコントラストを示す。(余談)不思議なのだが・・シェルヘンの、5番アダージエットの物すごく謡いまくったライヴはあれだけ非難ゴウゴウだったのに、バンスタは「バンスタだから」で済むんだなあ(BYみつお)。シェルヘンを凌駕するほどの恣意解釈者ではないか?悪いことではないが。タテの音響でいくと、中音域の抜けた、通奏的低音と高音旋律というマーラー的ハーモニーが、明らかに意識されて効果的に響いているのは流石。バランスが絶妙であり、歌としても交響楽としても聞ける。これら恍惚旋律の最後の、ホルンや低音弦楽器の動きへの配慮は深淵な雰囲気を醸し出している。その後も、音符が長く音量音域が下がるたびに、音楽の深い溜め息がきかれる。1番と9番の相関関係を意識しているのだろうか。9番を感じる。さてそのあとカタストロフの再現前の弦楽器のトレモロに付けられた>が異様に強くて耳につく。ライヴならではの感覚だ。そして破滅の中で骸骨の吹く凱歌、ペットの「溜め」もこうなると落語の名人芸。「きたきたきたきたきたあー」!でも、そのあとのダイナミックな再現部は、かなり聞かせる。冒頭の確かめるようなテンポよりよほど流麗な流れで素直にノれる。偽コーダへ向かう巨大な音楽は言うまでもなく素晴らしいが、良く聞くとペットが頂点で「僅かに」とちっている・・・そんなんどーでもいい瑕疵だけど。第二主題の断片的回想から第一主題のリズムがかなでる断頭台への重い足取り、そこへふとさりげない転調のうちに顕れる一楽章冒頭の牧場の夢、マーラーらしい暗い幻灯器、走馬灯の回転のなかに、4番3楽章のような切なさを伴って想いで深くそこはかとなく流れるうつろいの中で、空虚なダイナミズムであっても盛り上がりがあり、また静まると有名な2番「復活」冒頭の、ベルリオーズ的悪魔の前兆音形がヴィオラより提示される。っこでは暴力性がほしいがバンスタは割合と品良くまとめている。全く自然な流れの中で再びコーダの前兆が現れる。壮絶に盛り上がったあとに壮麗な転調が真の勝利を空しさの中にも力強くうたう。真の凱歌は骸骨によってではなくバーンスタインによって謡われるのだ。やがてわずかのアッチェルで完全に終わる。ブラヴォの渦。それだけの、ことはある終楽章だ。,,,後注:RCO公式サイトより登録制でmp3をフリーダウンロードできるようになっているが、現在メニューにはあるもののデータファイルのみ削除されている。別途正規音源としてCD化した模様。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○バーンスタイン指揮ACO(sardana records:CD-R)LIVE,同上,4年前くらいに挙げた盤でありこのレーベルも現存しないが、つくづくまだ当時はこのくらいの高い録音水準が保たれていたのだなあ、と思った。しょうじき今の海賊CD−Rの低品質インフレ状態にはついていけない。旧譜の確認も追いつかない状態でどんどん怪しげな「一見新発見ぽい」データの海賊録音が、限られた海外エアチェックマニアや膝録マニアを源泉に流通するようになり、その数は有象無象含めると膨大である。網羅的に聴くことを信条としている私にとって、失敗演奏や悪録音が極めて多くなっているのにそれでも無闇に集めて聴かねばならない状況はかなり厳しい。場所もとるし資金的にももう耐えられないのが正直なところだ。網羅的音盤マニアというのは大変、音楽について作曲家とか指揮者とか一つの狭い枠にはまった偏ったマニアになるというのは一種「自己防衛」の手段でもあるが、そういう枠をはめることで偏狭な視野を堅持せざるをえなくなり、大して面白くも無い演目にまで手を伸ばさなければならなかったり、音楽マニアというよりコレクター色が非常に強いものになってくるのは嫌なのである。そうなるのならいっそ暫くペースを落とし、手元の音源を処分も含め整理していきつつでも十分ここは成り立つよなあ、と思っている次第だ。,,そこでこのCD−Rを改めて聴いてみた。・・・印象は余り変わっていないかもしれない。重い。いちいち思い直すようなリズム取りは2楽章などは本来の姿でもあると思うが、ただこれだけを聴けば「マーラーはこうなのだ」、と洗脳されもしようが、タイタンという曲の終始もつ響きの軽やかさや書法の単純さ、そういった部分の表現としてこのまるで晩年作品を演奏するような深刻な解釈ぶりは重すぎる、と思ってしまう。一回性のライブならこれでもいい(じっさい一回性のライブである)。会場にいたらここに収録されているように間髪入れずの大ブラヴォに加担していたことだろう。だが、音盤としてきくとき、演奏技術的にも録音的にも全く危なげないからこそ生の「バンスタ解釈」が耳に重くのしかかり、何度も聴く気は起きない。毒消しにケーゲルを聞きたくなってしまう。毒は少量ならとても甘美、これは毒なのだろう。○にはしておくが、やはり何度も聴く演奏ではない、と思った。海賊ライヴ盤は難しい。一回性のものを何度も聴く必要はない。ほんらいはやはり、そんなに流通させるべきものではない、この役割はやはり旧来どおり放送局が担うべきものなのだろうと思った。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),バーンスタイン指揮ACO(RE!DISCOVER:CD-R)1987ベルリンLIVE,同上, おそらくSARDANAと同じ演奏。これはもうバンスタのマーラーであり、こうやったら面白いのに、こうやったらかっこいいのに、ということを余す所無くやってくれている。コンセルトヘボウ(ジャケにはウィーン・フィルとあるが誤記)はやや硬質の響きで1楽章などひんやりとした空気感を漂わせ、ややバンスタにそぐわないか、とも思わせるが、機能的であり、バンスタ解釈を律義にこなしている、といった感じである。まあまあ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),バーンスタイン指揮VPO(DA他:CD-R)1974/10/8パリlive,重い。悪い録音のせいもあるとはいえ生気なく遅い。4楽章終盤を除けばかなり「客観的な」演奏のようにも聴こえる。フレージングに持ち味のねちっこさや特有の表情付けがあらわれているとはいえ、この鈍重さではブレのひとつの現れとしか聞き取れず、何を言いよどんでいるのか、といった感を最後まで抱き続けた。キーにも馴染めない。聴衆反応も冷たい。無印。

(参考)VPOとの映像全集から最近分売されたこちらはほぼ同時期のもの。1〜3番。
マーラー:交響曲第1番ニ長調《巨人》

ユニバーサル ミュージック クラシック

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↓そもそもバンスタで「遅いタイタン」というとDGのこれ。なぜか最近CBS=SONYのNYP盤再発が多いけど、基本はライヴ中心の新全集盤でしょう。
Mahler: Symphony No. 1

Deutsche Grammophon

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",↓NYPの旧全集盤,"
Mahler: Symphony No. 1; Adagio

Sony

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",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○マゼール指揮NDR交響楽団(KARNA:CD-R)1986/12/8LIVE,,結構客観的でうすーい演奏をするような印象のあるさいきんのマゼールだが、これはずいぶんと「マゼールにしては」速いテンポでドライヴしている。かっこいい!正直面白かった。それはある意味「中庸」だし、ブーレーズ的な面白さに近い部分もあるのだが、オケの音とマゼール解釈の相性がいいというか、硬質で響きの透明なドイツオケ、という部分で得をしている。特徴的な解釈も没入型の面白さもないが、「まるでスタジオ録音のような」良録音と演奏精度、正直、偽演(というか何か正式に録音されたもののコピー?)を疑うような拍手の完全カット(たぶんブラヴォ出たはずである、あの偉大なフィナーレでは)もあるものの、あくまでカルナが良質な業者であるということを信じて○として評価しておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団(BMG)CD,,非常にストレートな演奏で集中力も高く最初に聞くのに向いている。音色的な魅力がさほどなく、特に叙情主題の表現には物足りなさを感じるが、「直裁である」という特質を前面に打ち出した演奏であり、ダイナミズムにはいささかも欠けていない。考証派も納得の恣意性のなさではないか。スコアリーディング向きだけど、分析的な演奏にとどまらない迫力ある演奏ぶりは一回聞くのも損にはなるまい。すれっからしやウィーン狂には薦められない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ワルター指揮COLUMBIA SO(CBS)NYPとする場合もあるらしい。当時の放送オケはセッションごとにメンバーが組まれ、名前が違ってもメンバー重複など激しかった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○ワルター指揮コロムビア交響楽団(CBS)CD,同上,なるほど整えられた演奏で生気が薄く(リズムどりがいいので無いとは言わない)録音も当時最高峰のステレオとはいえ、今の耳からすると少し聴き劣りがするくぐもったところもある。安定した解釈はライヴ性がなく完全に地に足をつけたものではある。しかし音響を現代的に整えることなくごちゃっと押し通すところもあり(もちろんかつてのライヴ録音に比べればかなりきちんと整理された響きも多いのだが)、根底にはやはり古い管弦楽の演奏様式があるように思う。いわゆる録音用の混成楽団ならではの求心力の無さは2楽章の舞曲で弦が崩壊スレスレにまで至ってしまうところに象徴的に聴かれるが、晩年のワルターの非常に落ち着いたテンポ設定と割合と隈取の濃いリズム表現の間で若干奏者が戸惑った結果と聴くこともできる。悪い部分ばかり書いたが、これは「安心して聴けるマーラー」であり、ファーストチョイスにも向いているとさえ言える。ブーレーズに同時代性のなせる臭気を加えたような演奏、とでも書いたほうが適切なのかもしれない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ワルター指揮NBC SO 1939/4/8,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ワルター指揮NYP 1950/12/2,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ワルター指揮NYP 1954/1/25,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ワルター指揮NYP(MOVIMENTO MUSICA(WEA italiana spa Milano A WARNER C.C.)他、LP)1954/1/24(1955?) 演奏日についてだが盤には1955年と記載されている。宇野功芳さんの「名指揮者ワルターの名盤駄盤」(講談社+α文庫)によると、日本ではセブンシーズレーベルで発売された同演奏、正解はソニー・クラシカル(CD)のモノラル録音の前日に行われたものらしい。最近店頭に並んだマイナーCD、ひょっとするとこの演奏の初CD化かもしれないが(私は入手確認していない)、表記はどのようになっているのだろうか。内容については、ワルターのライヴらしい熱気と雑味の入り交じったもの、としておく。録音が比較的悪く、音像がぼけていて、また客席の雑音もよく拾っており(1、2楽章間にはぱらぱら拍手が入る)、そういったことが嫌いな向きには決して薦められない。ただ宇野さんも書かれているとおりフィナーレの勇壮さはワルター瑞逸のものだ。ルバートを多用した歌い廻しも全編満ち溢れて惜しむことがない。野暮にならないところがワルターの巧いところで、沸き立つような躍動感が情に流れやすい曲を良く引き締めている。前向きで明るい演奏。オケはやや弛緩気味(金管に失敗が散見)、そのせいか3楽章冒頭のベースソロはヘタヘタ気分を実に良く表現できている(誉め言葉か?)。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○ワルター指揮NYP(M&A)1942/10/25LIVE・CD,,録音のせいかオケのせいかバラけ味が気になるのだが、両端楽章でみせる大仰な表現はのちのバンスタにもつながる前時代的なロマンチシズムを濃厚に漂わせるものとなっている。ワルター30年代の芸風にまだ近い感があり、スピードは保たれ中間楽章など飛ばすところは飛ばしてさほど粘らない。録音のせいかピッチがおかしい感じがするのは併録の復活も同じ。この録音は初出とのことだがワルターNYPの録音はたくさんありデータが混乱している可能性もある。とりわけ個性的ではないし客席反応も普通なのでワルターファンなら、というところか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○ワルター指揮ロンドン・フィル(TESTAMENT他)1947/11/6live・CD,,国内代理店売りしているためレーベルを「他」という書き方にした。非常に激烈なワルター壮年期そのままの演奏で10年遡ったような感じがする。ただ、ロンドンの聴衆は騙されない。拍手は冷静でよく聞くとブラヴォが混ざる程度である。かなり高精度で終楽章のコーダなどワルターにしても異様な迫力ある力感をぶつけてきていながら、全般には醒めた音で生硬さを感じさせる。音色の綾やスムーズな横の流れの作りがワルターらしくないというか、最初ボストン交響楽団の演奏かと思ったくらい機械的な作り方が目立ち入り込めない。3楽章冒頭のコンバスソロからしても中途半端な表現で、決してこのオケと相性がよくなかったことを伺わせる。ただ、技術的には凄い。BBC交響楽団の調子のいいときのようで、ボールトの曇りをオケから一切取り去ったような明快さは、この指揮者が同時期にトスカニーニ的演奏を求められていたのではないかと推察させる。バンスタ的起伏もバンスタに増して人工的、、、更にこの演奏、録音が極端に悪い。ノイズ慣れしていないとまず、聴くに耐えないだろう。演奏的に精度を求めるなら、あるいは30年代的なワルター解釈を求めるなら(そしてウィーン風を求め「ない」なら)薦めてもいいが、まずもってマニア向け。個人的にはワルターでも歌心の少ない特異な高精度志向とリアルな世界観が作られている点興味深かった。○。,,"Mahler: Symphony No.1 ""Titan""; R.Strauss: Tod und Verklarung Op.24 / Bruno Walter", LPO, etc,"",-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ワルター指揮バイエルン国立管弦楽団(ELM:CD-R/ORFEO)1950/10/2LIVE 音さえ良ければ推薦の盤(もっともウブい音だから慣れれば細かいところまで聞き取れる音質)。既に知られた他盤と比べ更に激烈な解釈を秀逸なオケがしっかり表現しきっていて素晴らしいし、逆にオケが堅実な表現を得意としているだけに、ワルターの即興解釈がひときわ直接的につたわってきて、「ここまでやるつもりだったのか!」という感動がある。晩年様式に至る前の、トスカニーニに接近した時代の骨頂を感じさせる出来栄えだ。面白い。恣意的なのが苦手な方はご遠慮。終楽章コーダどんづまりでカットがあり、違和感。残念。2001年2月新譜。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○ワルター指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ(TAHRA)1947/10/16LIVEワルターの1番もいろいろある。NBCをはじめニューヨーク・フィルとの何枚か、それにコロンビア響の正規録音。そこにこのヨーロッパ・オケの演奏記録が加わったのは喜ばしいことだ(と書いておいてバイエルンのライヴ(オルフェオ)があることを思い出した、ごめんなさい)。この演奏、やや作為が見えてしまうところもあるが、ワルターにしてはとてもダイナミックだ。コンセルトヘボウの演奏精度の高さがそれをしっかり支えており、危なげなくとても弾力のある演奏が繰り広げられる。これは最後までノって聞ける。録音の悪さが難点だが、佳演だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ケーゲル指揮ドレスデン・フィル(WEITBLICK)1981/2/25live・CD,,偏った評論家の寡占的状況に無防備な提灯言論業界の本筋は事実上瓦解してるねー(脇筋はのだめという名のもとにしっかり通ってるけど)。ついこないだまで誰もたいして見向きもしなかったケーゲルをこんなに持ち上げることないのに、明らかにヘンな恣意性が感じられる煽りがあそこにもここにも。中堅指揮者としてチェリと並ぶ独特の「響き系指揮者」だと思うが、音楽にロマンを求める人にケーゲルの情熱がどうたら言ってこれ聞かせると「遅い・・・何これ」てなことになりかねない。人工的な造形の渦。ドイツ的なるものは発現しているが音が明るく透明なため軽さを感じさせてしまい、録音は金属質な冷たさがあり「あー、ケーゲルだわー」といったいい意味でも悪い意味でも独特な客観性を見せ付けるような演奏である。戸惑いの拍手に無理やりのブラヴォ一声、当たり前だろうな。色白のくせに鈍重な巨人のぎくしゃくした作為的な歩みを見ていてもちっともノれない。タイタンに客観性はいらないって、そこまで深い曲じゃない。でも、こういう演奏が聴きたくなるときもあるんですけどね。て程度のものです。煽りに騙されるな。あ、「作為的な解釈」は既存2盤に比べ「いちばんヒドい」ので、そこを面白がるならどうぞ。,-----,,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○C.アドラー指揮VSO(tahra)1952/3/6放送録音・CD,,tahraレーベル初期のCDで版元に直接聞いたが在庫無しとのこと。3番でさえebayでプレミアつくくらいで、他のCDの例を見ても「90年代後半CDにもついにこういう時代が来たのか」という思いだ。中古屋は久しく使っていないがプレミアつけているのだろうか。00年代のCDはほとんどweb配信販売されており、値段もまあまあ安く便利。遡ってこの年代のCDも圧縮音源配信される可能性はある。アドラーのこれは奇妙なブル6とのカップリングで比較的有名。いや、シェルヘン並にミスだらけの奇盤なのだが、がっしりしたブルックナー的構成感があり、スケールの大きくかつ世俗的な聴きやすい解釈も施された見事な聴感。かなりスコアに忠実でいようとしながら(三楽章冒頭のベースがほんとにヘタクソ!)オケのせいか独特の感情的なものを感じさせる。古い録音だが機会があれば。アドラーはけして下手ではなかった。オケがダメなのだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○クレツキ指揮イスラエル・フィル(DA:CD-R他)1955,,"板起こしで、恐らく正規録音の音源である(旧サイトに記載)。クレツキ・イスラエルフィルのマーラーは9番と共に最近CD化されていたような気がする。演奏は初期イスラエル・フィルというウィーン・フィル並みのボリューム感溢れる素晴らしい楽団によってしなやかな起伏を織り交ぜながら非常な盛り上がりをみせており、この指揮者とマーラーの相性のよさも感じさせる。奇を衒ってはいないのだが、たとえばロスバウトなどと比べて格段に印象的。感情を煽るような攻撃的な突進をみせる終楽章コーダで突然のカット、これだけは何度聴いても慣れない。○。",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○ケンペン指揮トリノRAI管弦楽団(tahra)1955/5/20・CD,,秘蔵音源に名演なし、とは私の言葉だが、この「新発見」はオケがひどい。でも、ケンペンの威厳ある表現、確かなテンポ感、外さないドライヴはなかなか聴かせる。とくに終楽章にきて炸裂。巨人ってこうだよなあ、という憧れに満ちた中間部の旋律表現はケンペンとは思えないほど。このオケのカンタービレ炸裂。いずれにせよ録音状態はよくはなく、この二枚組を買うのに迷うくらいならワルターでも買ったほうがましだが、正統なタイタンとしてはなかなか面白いので、マニアならどうぞ。間違って二枚(組)買った。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○ジュリーニ指揮BPO(testament)1976/3/1live・CD,,重厚な巨人で驚くが、スケールも巨人で、テンポも表情付けも今のマゼールのような印象だ。もっと感情的な歌いまわしがあって、そここそマニアを惹き付けていたとは思うが、それにしてもベルリン・フィルとの組み合わせの奇妙さというか、ジュリーニのどろどろした歌謡的な重さがオケの純粋に響きの重さと合致すると、けっこうあくが抜けて過度なロマンチシズムが薄まり、ブラヴォーに昇華するのだなあと。ジュリーニとしてもマーラーとしても少し違和感はあり、物足りない人もいようが、これはこれでありだと思う。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),◎マゼール指揮NYP(EnLarmes:CD-R)2006/5/25LIVE,,現在NYPの名シェフとしていよいよ意気さかんな、マゼールのマーラー美学の集大成とも言うべき名演。録音最良。聴衆のすさまじいブラヴォが物語るまでもなく、細部まで彫刻され尽くした解釈のフリーズに、伝統のNYPが絶妙な肉付けを施している。技術にほころびは皆無、表現は冷静に、しかし熱情はクリアに描き出され、隙がない。振幅は大きくスケール感に溢れるが莫大感はない。こりゃ多少のデフォルメはともかく、全般に手本たるべき名演奏だなと思った。人工的なマゼール・マーラーのイメージはここにきて自然さを加えた。◎。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),マゼール指揮(SONY) VPO,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○ラインスドルフ指揮クリーヴランド管弦楽団(LuckyBall:CD-R)1983/11/19live,,録音は最高レベルのステレオ。演奏は分厚い響きでヨーロッパの楽団のように重みある表現をなしており、異様な精度の高さとあわせてこのオケの懐深さを感じさせる。厳しい統制や組み立ての明確さはセルを思わせるところもある(しかしセルとは違い音楽的だ)。若々しい曲なのに何か老人の回顧する若き日の幻想のような、滋味が染み出してくるところがいい。冷静に言えば情緒的な場面が少ないラインスドルフの無難な解釈によるものであるが、3楽章、4楽章の緩徐部のしっとりした、それでいて緊張感を失わないカンタービレはとりわけ深い情趣をかもし、晩年の9番あたりの雰囲気を漂わせている。そこだけが聴き所と言ってもいい・・・すれっからしには。たとえば最後などあっさりしすぎており、即物的な軽さがあり、まとめて全般普通と聴こえるのだが、普通の人には、とりわけ初心者には過度なデフォルメがないゆえ、向いているのかもしれない。ライヴでこの精度であればブラヴォが出るのは当然か。○。,,(参考)1,3番のボストン・RCA録音廉価盤。あるていどマーラーを知っている人なら6番のほうが入りやすいかな。,"
Mahler: Symphony 3 & 1

RCA

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マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○ロスバウト指揮ベルリン・フィル(TAHRA)1954/11/8・CD,,TAHRAお得意の抱き合わせ商法である。すなわち散々既出のヘフリガーの歌った大地の歌とのカップリングで5000円以上也。CD-Rで出ていたものと同じかどうかわからないが、ノイズは少なく聴き易い音であるものの、モノラルで拡がりは無い。細部が不明瞭で分離が悪い。演奏はオーソドックスと言ったら悪いが、古いベルリン・フィルの雑さが1楽章には少し出るものの、あとは精度は維持され、素直でスコアに忠実であり、乱れなくて、表現主義のグロテスクに陥らない。3楽章冒頭はスコアに忠実にしっかり「下手に」弾かせようとしているが。しかし結局下手ではないし緩徐旋律もさらさらして粘らない。ライヴでないこともあって安定感がひときわありすぎる。,,4楽章は盛り上がる。音楽自体がそうできているだけと言う事もできようが、ロスバウトはこういうやり方をすることがある。緩徐部ではベルリン・フィルが「お仕事」から「やる気(やる男ではない)」へと切り替えた感がひときわ強く、けして相性がよくない(と私は思う)ベルリン・フィルとの、珍しい幸福なアンサンブルぶりを聴くことが出来る。,,ただ、傑出も突出もしない演奏であることは確か。,,○。,-----,,,,,,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ロスバウト指揮ベルリン・フィル(P&CP1008:CD-R/MEMORIES)1955/10 BERLIN LIVE・CD スッキリシャッキリ感傷を廃した超現代的演奏(古臭いスタイルともいえる)。高速にびっくり(かなりピッチが高く、回転数がおかしい可能性もある)。スマート。流麗。解釈もおもしろい、だがお勧めはしない。発音は綺麗、だが録音は不明瞭。終楽章終盤にタイミングの悪いピー雑音が入る。,,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ロスバウト指揮SWDR SO 1961/9/13,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),クレツキ指揮ORTF(ina配信)1970/6/24放送live,,これは安心して聴いていられる。マーラー前期に合っているのだろう。ブラヴォこそ困惑混じりの感もあるがラストのカットのせいだろう、このカットは他でも稀に聴かれるもので、肝心のクライマックスで足をすくわれるが、それでも全体として起伏も激しくしかし均整は失わずに音響的には素晴らしく調和し和声変化が明確でカラフルだ。タイタンのスタンダードと言ってもいい〜ラストのカットと、オケの非力を除けば。三楽章はしっかり弾く方をとっている。クレツキらしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),クレツキ指揮イスラエル・フィル 2006年末CD化。デュナーミクの幅の大きさと流れるようなフレージングの入念さ(フレーズ間の継ぎ目処理の巧さは特筆もの)が耳を惹く。別盤でもほぼ同じ解釈だが、共に見事なスコアリーディングに基づく佳盤といえよう。(但し終楽章コーダのどんづまりでの大胆なカットは、何度聞いても凄く違和感を感じる。あのカットがなければこの終楽章は類希な名演として推せただろうに、惜しい。惜しすぎる。2盤とも同じカット。)クレツキがしばしばみせる軋みや綻びはこの録音では余り目立たない。イスラエルの弦の豪胆且つ繊細な表現力の凄みに、後半楽章唖然とさせられる。終楽章の第2主題(緩徐部)導入部のぞくっとするほど密やかなヴァイオリンの響きは特筆ものだ。余り揺れの無いテンポ廻しのなかで、ここぞというところだけは細かいテンポ・ルバートを多用し謡わせるのがクレツキらしい。オーボエをはじめとした木管楽器も強烈な個性こそないが巧い。一方ブラス、ホルンやペットの技巧にやや弱さを感じる。録音のせいかもしれないが、舌足らずの箇所や曖昧模糊と聞こえる場面もある。全般情緒に溺れないのはクレツキの太筆書き的な男ラシイ棒に起因するものだろう。音色は比較的モノトーンに纏められている。冷静だが重量感ある響を伴う鋭く斬り込むような音作りは、表現主義的だ。それゆえ踊りの表現が弱いところがあり、2楽章はいただけない。音の強さが流れに乗らない。だが3楽章の繊細な美しさと終楽章の昇り詰める高揚感はそれを補って余りあるものだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○クレツキ指揮ウィーン・フィル(SERAPHIM)1961/11 ◎にしたい!でも、できない!終楽章のコーダのカットはどう考えても不可解だ。まるでメンゲルベルクのチャイ5である(コーダの序奏がまるきりカットされる)。重みがありしっかりした表現力をもつ並ならぬクレツキの棒に、しっかりつけて歌いぶりには深い共感すら感じさせるウィーン・フィル各パートの名演技、こんな「タイタン」ライヴでも見当たらないだろう。人によっては荒れて荒れてしようがないこのじゃじゃ馬のようなオケをしっかり引き締めて自分の骨太の解釈に載せている。特筆すべきは対位法的なフレーズの処理で、流れるような旋律と弾むリズムがほんらい相容れないほどそれぞれの表現に没頭しているにもかかわらず寸分違わずぴたりと組み合っているのだ。縦を揃えてそう聞かせているのではない、それぞれの時間軸はあきらかに違うのに、「音楽的には」噛み合っているのである。1、4楽章はほんとすごい。録音もウィーンのブラスのひびきや弦の適度な艶やかさがはっきり聞き取れる。どこも薄くならず、完璧なバランスだ。ステレオ初期のため音の分離がややはっきりしすぎているものの、気にならないほどしっかり出来上がったアンサンブルである。2楽章の重さが気になる向きもあるかもしれないが、マーラーの舞曲はこんなものだと思う。まあ、終楽章終盤のいきなりのカットには目をつぶって、ぜひ聴いて下さい。良い意味で「スタンダード」というものを感じさせる紛れも無い「マーラー指揮者」の演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○バルビローリ指揮ニューヨーク・フィル(NYP/WHRA他)1959/1/10カーネギーホールLIVE・CD DUTTON盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(DUTTON,CEDAR/PYE他)1957/6/11,12・CDバルビの演奏は優しさで出来ている。聞こえるべき音がつぶれていたり(前者)音場が不安定な珍妙ステレオ録音だったり(後者)しても、一貫して流れゆく柔らかな抒情味には独特の味わいがある。ハレ管など技術的にかなり危なっかしいが、長年の付き合いもあってバルビの特質がニューヨークのものより一層よくあらわれているといえる。たとえばゆっくりめの2楽章などいい意味でも悪い意味でもバルビ的。リズム感はあまりよくないが旋律としての表現は微に入り細に入る配慮の行き届いたもので、とくに中間部のデロデロ具合は並じゃない。ポルタメントも多用されちょっと気恥ずかしくなるほどだ。終楽章はとにかく壮麗。光り輝くコーダのニュアンスに富んだ表現は実に美しい。一方NYPの演奏はダイナミック。録音こそ悪いが、たとえばブラスと絡むと聞こえなくなるヴァイオリンの音を脳内補完して聞くなどするとそれなりに楽しめる。終楽章の後半はとくにダイナミズムと抒情の絶妙にバランスの取れたカッコイイ音楽になっている。この組み合わせの演奏をアメリカで聞いたアルマが絶賛したという話は有名だが、NYPなりの荒々しさを巧く情熱的な音楽に昇華してみせるバルビの腕は相当なものだ。しかしここでも聞きどころは何と言っても緩除部の旋律表現である。3、4楽章中間部の感傷性は印象的で、甘やかで自在な歌いまわしはバルビの真骨頂というべきものだろう。完成度でいえば前者、個性でいえば後者。あとは好みか。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),バルビローリ指揮チェコ・フィル(bs)1960/5/15live・CD,,"協会盤。これはバルビローリの得意中の得意曲で、ニューヨーク・フィル公演にてアルマの賞賛を受けたことは有名だ。その遺された記録の中ではやや下の録音か。まず状態が良くない。分離が悪くて、このオケならではの折角の弦楽器の各声部がきちっと別れて聴こえて来ず、もやっとヤキモキする。しかしそれでもヴァイオリンの音域は比較的はっきりしているので、三楽章の(冒頭コンバスはヘタクソバージョンだが聴こえづらい…)中間部、夢見る歌謡旋律は縮緬のようなヴィヴラートの襞までびっちり揃って美しくひびき、「弦のバルビローリ」を堪能できる。もっとも独特の効果的な歌い回しは控えめ。オケの(ヴァイオリンの)美質を(異様に)引き出すに留まっている。この演奏では四楽章の緩徐主題でも同様のものがきかれ耳を虜にする。一方でブラスは野放図にきこえる。あけっぴろげで雑味がある。これもオケの特質かも知れないが。もう一つ文句をつけるとすれば二楽章の遅さだがこれは解釈なので仕方ない。全般とおして拍手も普通で名演の範疇には入らない、あくまで客演記録のレベルとして認識できるものではあるが、バルビローリ好きでイギリスやアメリカ以外のオケを聴きたい向きにはいいか。フランクの正規録音とは比べるまでもない音質なのでご注意を。",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),プレートル指揮VPO(dirigent)2007/11/11live,,外連味たっぷりの名演。同じウィーンでもウィーン響かと思うようなオケの音の細さ、雑味、軽量級っぷりはともかく、音色ややる気は素晴らしくマーラー向きで、最晩年のプレートル翁のいっそう過激になった棒につけて動きまくる。それはすでに化石となった「表現主義」そのものと言ってもいいだろう。ここはこう引き伸ばすとカッコイイ、と思うところは尽く引き伸ばす。ためをつくるところはとことんためる。速いスピードは勢いとなって音楽を推し進め、そのスピードを感じさせない小技の数々もまたよい。ここまでスッキリ聴き終えられる演奏は物凄く久しぶりだ。どの楽章が突出してということはなく全てがまとまっている。大ブラヴォで終わる。壮年期のスヴェトラーノフを彷彿とさせる。音も良いし、追悼に如何。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),◎マルティノン指揮日本フィル(EXTON/FUJI:DVD)1970/11/24LIVE 日フィルってこんなにうまかったっけ??ダイナミックかつ引き締まった演奏。ブルックナーやマーラーは振らないと公言していたマルティノンは、それでもいくつか記録に残している。このテレビ映像もそうだ。ホルンをはじめとするブラスの力量不足を感じる場面もあるが、対して弦はがんばっているし、木管もそつなく巧い。マルティノンの彫刻は掘りが深く、構成が明確だ。また、とても瑞々しい感性に溢れている。音色的には何等魅力の無いこのオケを前に、上半身をダイナミックに動かしながらニュアンスを伝えていくマルティノンは、いつしか音色などどうでもいいほどに熱気溢れる演奏を作り上げた。買ってすぐ3回観た。見てないかたはぜひ。4楽章の盛り上がりはすばらしいですよ。弱音部でもドライヴ感が失われず、颯爽としたテンポで(必要なら大ルバートで)盛り上げる。満腹します。何より素晴らしいマルティノンの解釈に喝采。打楽器系のここぞというところの短い打撃音が畳み掛けるように盛り上げるコーダでは忘我。・・・ちょっと誉めすぎかな?マルティノン、最後は飛び跳ねてます。髪型がバンスタみたい。。ブラヴォーもあり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),マルティノン指揮ORTF(ina配信)1971/11/17live,,マーラーを得意としただけあり、かなり揺らしてきて面白い。基本的には他の記録でも聴かれる解釈ではあるが、即興的なところが多かったのだろう、機能性に欠けるオケが前半楽章の随所でついてけないのは残念。特に一楽章、後半から終盤ではミスやズレが頻発し瓦解寸前、終わり方も無理矢理。そこから二楽章冒頭、よせばいいのにリズムをズラそうとして、これが揃わずバラバラで人工的。重量感もありそこそこ楽しい踊りなのに勿体無い。ラストの再現ではズラさず明確なリズムできっちり演っている。これは敢えての解釈だろう。後半楽章は前半楽章はほどの揺らしはなく、滑らかなアーティキュレーション付けが楽しめる。相変わらず弦の細かい動きが揃わないなどフランスオケ特有のアバウトさは感じられるが、本来的にドラマティックな要素が強い音楽なので、多少瑕疵はあってもそこに沿って進行するだけでも十分揺さぶられるものである。極端に煽ったり激しい音は出さないが(ブラスの丸い音はオケの性格なので仕方ない)、アルマを魅了したバルビローリのような確信犯的な設計自体で惹きつける。マルティノンの解釈の面白いところは曲によって分析的であったり主情的であったりするところで、タイタンについては後者だから、素直に楽しい(マーラーでも千人など大曲になると前者の色が濃い)。大ブラヴォで締まるのも頷ける。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96)〜T、U,○メータ指揮ジュネス・ミュージカル・ワールド・オーケストラ(AULIDE:CD-R)1973LIVE,,オケはまるでバンスタ的な意思力を高い技術力とかけあわせ、壮年期メータの過激な攻撃性とあいまって、一時代前のマーラー像を提示する。これは楽しいというより印象深くなつかしい。ただ、録音が悪い。終始こもり、ハウリングも聞きづらい。細部がわからないのだ。一楽章あと拍手が入る。別日か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(WEITBLICK)1978/5/9LIVEケーゲルはディジタルな指揮者だ。曲想と曲想の間に付ける激しいコントラストこそが命である。その解釈は多分に情緒的なものを含んでいるにも関わらず、客観的で冷静な視点を失わず、陳腐に陥らない配慮を行っている。解釈は非常に細やかだが、著しいのはテンポの起伏。フレーズの頂点の前で「必ず」激しいリタルダンドをかけたりするところなど特徴的だ。デフォルメとも言えるテンポ操作は非常にダイナミックで否応無く引きずり込まれる強力なものであり、ライヴであるからということもあるだろうが、こんなに確信犯的に派手な起伏を付けた演奏は他に知らない。「ケーゲル節」にいったんノってしまえば面白さ格別だろう。◎でもいいと思ったのだが、改めて聞き直して、作為が目立つような気もしたので、○ひとつとしておく。でも、ケーゲルのマーラーはひとつの解釈の頂点を示しているので、機会があれば聴いておくべきだと思う。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○ケンペ指揮BBC交響楽団(BBC)1965/5/22liveケンペの実力をはかりかねている。それは私の守備範囲とケンペのレパートリーがなかなか重ならないからだ。いくつか聞いた演奏はどれも細かい仕掛けを配しながらも、それと気が付かないように自然に組み立てられた佳演であったが、同時にシロウト聴きにはふつうの演奏としか聞こえない(これは録音のせいということもあると思う)演奏であり、オケの統率力とあたたかな音作りのみ心に残る、といったものだった。だが、ここにきて今日、ケンペの凄みを確実に感じさせる楽曲に出遭った。それが「タイタン」である。私の守備範囲でもあり、聞き比べできる盤も数多いことからじっくり聴いてみたのだが、まるで「マーラー指揮者」のように板に付いた、かつ独特の歌心に満ちた演奏であり、このひとがマーラーを積極的に取り上げなかったのが不思議なくらいに思った。わかりやすいところで2楽章中間部の舞曲の表現。私はマーラーにおいても何においても、舞曲は徹底的に舞曲らしくスウィングする演奏が好きだ。この舞曲、まるでウィーン情緒。ケンペの絶妙なルバートがBBCの機能的な力とタッグを組んで、どうだこんな演奏今までなかっただろう、と笑いかけてくるかのような演奏だ。こんなに揺れ、こんなに肩を揺らす演奏を知らない。美の極みだ。他の楽章でも、奇矯な解釈こそ望めないものの、思わぬ楽器が突出したり、BBCとは思えぬほどウェットな音色を楽しめたりと、飽きさせることがない。しかもこれだけ乱れないということ、ライヴとは思えない。「復活」はまだ聴いていないが、期待できそうだ。佳演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),コンドラシン指揮モスクワ・フィル(MELODIYA/BMG)1969,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○コンドラシン指揮NDR交響楽団(EMI/CINCIN/TREASURE OF THE EARTH:CD-R)1981/3/7LIVE〜コンドラシンの正真正銘白鳥の歌だ。有名な録音ゆえCDーR(TREASURE OF THE EARTH)を含むいくつかのレーベルから出ているが、代打なのにこの統率力、というところにまずコンドラシンの凄みを感じる。ただ、それだけの演奏ではない。いつもの一本調子でイケイケなだけではなく、そこにより深みを加えた味わいのある演奏になっている。亡命後のコンドラシンはストイックな解釈にまろやかな味わいを加え、円熟へとむかうその途中で病死したわけだが、マーラーの演奏にしてみても、モスクワ時代のものはひたすら強力ではあるが、それだけ、といった感じのものが少なくない(それも人によっては十分魅力的かもしれないが)。ゆえにこの演奏記録の重要性が高まってくるというわけだ。終演後の充実感ったらない。おすすめ。〜迫力のある演奏だ。だが鬼気迫るというのとはまた違う。コンドラシンが西側に渡ってきてもう随分日が経っており、その芸風が一皮剥けたというか、柔らかな表情も見せるようになってきていて、ここでもモスクワ時代の演奏では想像できなかったような細やかな配慮の行き届いた演奏が、とくに緩徐楽章や緩徐部で聞かれるようになってきている。ただ力で押すのではなく、いったん引いてから強く押して効果をあげているところもある。こんな脱皮の仕方をしていたというのに、まったく、無念だっただろう・・・このコンサートのあとホテルで急死してしまったのだ。コンドラシンの白鳥の歌として、イタリアのCINCINのCDが出たときからもう評判になっていた演奏であり、人によってはここに壮絶なコンドラシンの断末魔を聴く人もいるようだが、私は最初聞いたときから、あれ、白鳥の歌というにはあまりにあけっぴろげで力強く、かといってモスクワ時代の恐ろしい魔力のようなものはなく、透明感があり(オケのせいだ)、突き抜けているなあ、と思っていた。CD−Rで再発されたとき(多分CINCIN盤のコピー)、その音がいちだんと金属質になっていたがゆえ更にその印象を強くした。しかし、今日この放送音源からの正規盤を聴くにつけ、いや、イタリア盤は録音がかなり酷かったんだな、と。このEMI盤は比べ物にならないほど音がいい。雑音を消したりバランスを調整したりとやや手を加えすぎている感もあるが(拍手も消滅)、聴き易さ、そして弱音部の明瞭さは間違いなくこちらに軍配が上がる。冒頭に述べたような緩徐部の繊細さ、美しさに気が付いたのはひとえにこのEMI盤の音の良さに依っている。今から聴くかたは間違ってもCD−Rを買っちゃダメです。NDRの音色はそれでも透明で固いのだが、とても正確であり、コンドラシンの指示にびしっびしっと合わせている。テンシュテットのかわりに一回のリハだけで急遽指揮台に登らなければならなかったコンドラシンだが、この演奏の完成度は(ミスというミスは終楽章後半のブラス以外には聞き取れなかった)それが信じられないほど高く、テンシュテットとは全く違う、生命力、生きていく喜びに溢れたものになっている。これはあきらかに本流のマーラーではない。どことなくマーラーではない、リヒャルトでも聴いているような感じもする。だが、旧共産圏に、これだけの演奏をやってのける指揮者がいたのだ、ということに括目し、その個性にいまさら胸打たれるのもまた一興。○。個人的好みで◎はあげません(爆),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○シェルヘン指揮ロイヤル・フィル(MCA/WESTMINSTER)1954/9 録音はあまりよくないが(モノラル)、シェルヘンらしい演奏で独特。1楽章は思わぬ遅速にびっくり。でもリズムをくっきり刻ませる「表現主義的解釈」のため「音楽が」だらしなくならない。「音楽が」と言ったウラには、いつものシェルヘン節というべきか方々に「綻び」が見られることがあるのだが、それはあくまで細部のだらしなさというだけであり、しっかり筋の通ったシェルヘンの音楽を妨げるものにはなっていない(几帳面な向きは顔をしかめるかもしれないが)。ロンドンのオケがキリキリ締められたようにギスギスした音をたてるところもお楽しみ(?)。2楽章の超高速はまさにシェルヘンの面目躍如たるもの、普通ルバートするようなところもぜんぜん揺れずにひたすら速度にこだわる。オケも気合が入っている。この楽章は特筆すべき解釈だ。3楽章や4楽章緩徐部は情に溺れるもうひとつのシェルヘン節。5番アダージェットの異常なライヴ演奏を思い出させる。これがあるからシェルヘンは面白い。コントラストを聴くべき指揮者。4楽章の激流のような音楽は楽しい。耳にキンキンくる高音打楽器系はシェルヘンのせいか録音のせいか。最後は派手に終わります。録音がもう少しバランス良ければいいのだが。とりあえず○としておく。MCAのダブルデッカーでは「ロンドン・フィルハーモニック交響楽団」名義となっている。もとはウェストミンスター音源。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○ボルサムスキー(borsamsky)指揮ベルリン放送交響楽団(URANIA)同指揮者ルーセル3番の剛直な演奏しか知らないが、一言で言ってクレツキ的面白さがある。オケも棒も決して器用ではないけれども、ブラスのあからさまな咆哮や中音域の一部を突出させたり打楽器を妙に引き立てたりなど、諸所に創意がみられ楽しめる。1楽章冒頭や終楽章緩徐部の、幻想というよりリアルな響きを持つ弱音が、前代ロマン派音楽っぽい表現で独特。聞きどころである終楽章はダイナミックで、ロマンティックなテンポやデュナーミクの変化が期待を裏切らない。ルーセルでもそうだったがテンポの縦がしっかりしていて独特のノリがあり、中低音域の充実したいかにもドイツ的な音響は耳心地良い。終楽章コーダでは強烈な太鼓の打撃とともに重戦車が凱旋行進していくような迫力がある。”行進”と言ったのは、あくまで速いインテンポを保って突き進むところでそう感じたわけで、これはこれで格好良い。総じて独自色ある佳演といっていい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),○マルケヴィッチ指揮フランス国立放送管弦楽団(DISQUES MONTAIGNE他)1967/6/21LIVEトリノ放送交響楽団(MEMORIES)1967LIVEこの二盤、演奏時期がほぼ同じなのだが、聴感はかなり違う。録音のせいかもしれない。前者はギチギチのアンサンブルが聞ける。オケに弱みがあるが、生々しい音(ステレオ)によって再現されるマルケヴィッチの表現主義的なほどに攻撃的な音楽、たとえば1、2楽章や終楽章では前進力に溢れる表現が聞ける。対して3楽章、4楽章の緩徐部ではコロっと変わって情緒纏綿な歌い込み、ちょっと面白い。後者はいくぶんオケが遠く聞こえるせいか(”ほぼ”モノラル録音であるせいもある)マルケヴィッチの尖鋭な音がまろやかに聞こえ、瓢箪から駒か、円熟味が感じられる演奏になっている。録音はやや悪い・・・バランスがおかしい。だが、フランスのオケよりもゆとりが感じられ、演奏レベル自体も上のように思える。面白味でいえばフランス盤(終演後のブラヴォが好意的)、完成度でいえばイタリア盤といえようか。どちらも清新な演奏であり、一聴の価値がある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),アンチェル指揮CZECH PHIL. 1964,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),オーマンディ指揮PHILADERPHIA O,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ケーゲル指揮ドレスデン・フィル(DS)1979/11,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),スヴェトラーノフ指揮RUSSIA STATE SO(SAISON RUSSE:HARMONIA MUNDI)1992,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ドホナーニ指揮CLEVELAND O.,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ノイマン指揮NHK SO(放送録音),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ハイティンク指揮ACO(PHILIPS)S47,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ベルティーニ指揮KORN RSO H3,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ボールト指揮LPO(EVEREST他)S33,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ホーレンシュタイン指揮LSO 初出S44,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ホーレンシュタイン指揮VIENNE PRO MUSICA SO(VSO) (VOX,TURNABOUT)初出S28 音も解釈も野暮。が流石手練ホーレンシュタイン、マーラーらしい演奏にはまとまっている。終楽章の解釈で面白いと思ったのは後半転調前煉獄の火中にてトランペットの咆哮が叫ぶ直前、長大なパウゼ。不格好でごつごつしたところが逆に魅力かもしれない。ウィーンの音はこういう無骨な棒を補う色がある。ウィーン・プロ・ムジカ・シンフォニーは実体はウィーン交響楽団(契約関係でそう表記したらしい)。VOXのCDにはVSOで記載されているものもある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ミトロプーロス指揮MINEAPOLICE SO S15,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ミトロプーロス指揮NYP S26.10.21,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ミトロプーロス指揮NYP S35.1.9,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),ムーティ指揮PHILADERPHIA O.,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」(1884-96),小澤指揮 BOSTON SO 1987,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第1番「巨人」花の章付(1884-96),○フィッシャー指揮ブダペスト祝祭管弦楽団(放送)2011/9/2プロムスlive,,花の章を付けたこの曲の演奏にはおなじみの組み合わせだが、演奏も息の合ったところを見せている。多少恣意的で長い音符が間延びするような、ホーレンシュタインのような感じのところが気になったが、そのあとちゃんと爆発するなど解釈が尽くされていて安心して聴ける。花の章は単独で演奏されたようだがまあ、そういうくらいの曲である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」花の章付(1884-96),○ブリーフ指揮ニュー・ヘヴン交響楽団(odyssey)1968live・LP,,花の章挿入版(初稿版ではない)初演時の演奏かもしれない。録音としては巨人に花の章を入れた最初のものと言われる。だが個人的に花の章は蛇足もいいところの楽章で他の楽章との落差が激しく、歌手がトランペットに変わっただけの歌曲、みたいなものと思うので、そこでの価値は余り感じない。ということでタイタンの演奏としてこれがどうかというと、地味。まったく奇をてらうことなく、実直で、譜面から外れず、感興も催さない。雑味もあり、オケに全体的に難もあり、おすすめではないが、歴史的価値をくんで○をつけておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」花の章付(1884-96),○ブール指揮南西ドイツ放送交響楽団(sudwestfunk),,花の章はやっぱり余計な感じがする。そのぶんの冗長さを除いたとして、演奏的にはかつてのブーレーズのような指向をかんじる。ロスバウトよりは現代的で長い音符の響きや表現などに非常にこだわりを感じるが、個性的なものは感じない。面白いとかいうより、巨人のドイツふうの模範的演奏といった非常に中途半端な言葉で表現せざるをえない部分が大きい。現代でももちろん通用するレベルの非常に高精度な演奏だし過不足ないが、体臭とか無味無臭とか、何か一つ特徴があってほしいものを、オケの鈍重なドイツ的音響すら透明感によって拭われてしまっている。非常に完成度が高いとはいえ、特徴的なものも感じない、今も聞けるたぐいの演奏かな・・・といったところか。マリスさんの芸風をふと思い出した。しかしまあ、根はロスバウトだろう。正攻法でひっかかりが余り無い。クライマックスはそれなりに盛り上がる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」花の章付(1884-96),ウィン・モリス指揮NEW PHILHARMONIA O.(EMI)1970/9/7,8(1893年版),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第1番「巨人」花の章付(1884-96),メータ指揮ISRAEL PHIL.(EMI) ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903)〜U,シェーンベルク指揮キャデラック交響楽団(PASC/動画配信等),,"https://youtu.be/F9KGqRoKGiY",,音声のみ ,,pristine(レストア版をケンペンの4番(tahraと同じ)と共に有料配信中)のデータによれば1934/4/8NY(NBC放送ライヴ) ,,ここではLAとなっています。オーケストラはアメリカで見られるスポンサー名のついたオケでNBCsoの可能性あり。,-----,,,-----,,,-----,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),フリード指揮BERLIN STATE OPERA O.、ビンダナゲル、ライスナ(PEARL他)1919/4全曲初録音,オスカー・フリートの手によるロマンティックなうねりが表れたマーラーの時代の演奏。ベルリン・フィルとする表記は誤り(SPなど),-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),○ワルター指揮NYP、シュターダー(s)フォレスター(a)ウェストミンスター合唱団(WME:CD-R/M&A)1957/2/17カーネギーホールlive・CD,,既出(協会盤?)と同じ可能性がある。ただこの力強さはただ事ではない。トスカニーニの洗礼を受けたワルターというのはよく語られることだが、ここにはその勢いをまさに借りたかのような勢いとドライヴ感が満ち溢れており、表現の起伏も決して頻繁ではなく自然にここぞというところでしっかりつけられている。NYPがいかにこの指揮者を信頼しきって力を出し切っているかがわかる演奏でもあり、悪いがソリッドで耳に届きやすい音と共に轟音で終始圧倒してくる。終わらないブラヴォーにも納得。録音さえよければワルター屈指の名演としてもいいくらいだ。もっとも静かなマーラーが好きな向きには薦められないが、安心して「マーラーとして」聞ける板についた安定感も兼ね備えている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),ワルター指揮COLUMBIA SO、クンダリ、フォレスター(CBS),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),ワルター指揮NYP、コナー、ワトソン 1948,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),ワルター指揮VPO、チェボタリ、アンダイ 1948/5/15,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),○ワルター指揮NYP他、コナー(SP)パウレー(MSP)(M&A)1942/1/25放送LIVE・CD,,録音は悪いし前半は余り迫力のある音はしないが、語り口の上手さはさすが。旋律と響きの調和、テンポの持って行き方はいかにもライヴのよさを感じさせてくれる。やや落ち着いた感もあるが、乾いたスピード感ある表現も織り交ざり、ねっとりした旋律表現にはのちのVPOライヴなど想起する部分もある。弱音部がじつに美しく後期交響曲をすら思わせる恍惚。ソロ楽器が美しい。弦のバラけはなんとかならないものか。原光は若い歌いぶりで、浅い印象。しかし終楽章は波打つようにダイナミックで、ワルターのマーラーをしっかり聴かせる。荒れ狂うと性急過ぎて情趣がなくなるところはご愛敬。放送ノイズのようなものが混ざるのは聴きづらかった。歌手のラインナップから初出音源で間違いないと思われる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),○クレンペラー指揮ウィーン・フィル他、ヴィシネフスカヤ(Sp)レッスル・マイダン(Msp)(M&A他)1963/6/21live・CD,,近年M&Aで集成された盤には良好なリマスタリングの施されたものが収録されているが、撚れなど聞きづらさを感じさせるところが依然ある。決して良好とは言えないモノラル録音。同盤では拍手カット。演奏はさっさと進みあっというまに原光、終楽章もどんどんテンポがあがってインテンポで突き進んで終了する、50年代まで特徴的だったクレンペラー式即物解釈が依然聴かれる。クレンペラーの復活はかなり数があり、時期によってテンポ設定が極度に変化するがこれはまだ壮年期の解釈を残している。だから、ちょっと物足りない。安定感に裏づけされた力感はあるのに、つんのめって終わるような尻切れ的な印象がどうも・・・である。後年の威容を誇る解釈まではまだ数年の時間がいるということなのだろう。ウィーンのオケを使っているところもまた評価できない。ウィーンふうの横ベクトルの音楽とクレンペラーの縦ベクトルの音楽が、結局前者に流され中途半端になってしまっている。若干の甘さが音以外にアンサンブルにも散見される・・・もちろんクレンペラー的には、だが。歌唱は特に癖もなく素直に聴ける。それほど取り立てて言うほどの演奏ではないが、いちおう○。昔tahraの何かの盤に、当時出ていたクレンペラーの復活の録音時期と録音時間による比較表がついていた。まあ、単純に長くなっていくだけであるが。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),クレンペラー指揮VPO,同上?,マイダン、ヴィシネフスカヤ1963/6/13,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),クレンペラー指揮VSO、シュタイングルバ、マイダン,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),クレンペラー指揮ACO、フェリア、ヴィンセント1951.7.12,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),クレンペラー指揮BAYERISCHEN RSO、ハーパー、ベイカー1965.1.28,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),◎クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団、シュワルツコップ(sp)マイダン(msp)(EMI)1961/11,1962/3・CD,,ライヴとは違ったスタジオならではの音のよさとバランスの素晴らしさが楽しめる。細部まで聴こえて初めて価値がわかるたぐいの指揮者ではないがこの演奏では弦のアーティキュレーションの細部まで指示が行き届き(オケの自主的な可能性もあるけど)、終楽章でオラトリオ的な合唱の下に消えてしまいそうなところでも伸び伸びと弓の返しまでしっかり表情付けがなされているのがわかり面白い。オケが中性的だからこそ聴こえてくるものがある。独逸のオケではクレンペラーの色が濃すぎて却って耳煩わしくなることもあろう。これは「清清しい復活」という混じりっ気の無いCDならではの「音響」を愉しむための盤であり、変な色をつけない解釈もそれを助けるものである。生臭さのない稀有壮大な宗教祭儀の如き演奏。まだ晩年の超遅速にはいたっていない。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),クレンペラー指揮NEW PHILHARMONIA O.、フィンレイ、ホグソン1971.5.16,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),クレンペラー指揮PHILHARMONIA O.、ハーパー、ベイカー1963.12.19(LUCKY BALL:CD-R(LB-HS1001))BBC放送ライヴ。数年前NHKでラジオ放送されたものと同じ。同時期のライヴとしては珍しいステレオ録音。晩年の悠揚としたスタイルに移る前の、即物的傾向を示した演奏。音が良いため最終楽章の盛り上がりが存分に楽しめる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),クレンペラー指揮シドニー交響楽団、バグナル、タイラー1950/9,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」〜T、Uリハーサル部分抜粋,クレンペラー指揮ニュー・フィル(archiphon:CD-R)1971live,,ごく短い、自由な雰囲気の切り取られた情景。晩年らしい遅いテンポと重く確信に満ちたリズムのみが伝わる。ドイツ臭い英語ははっきりしており、老年の衰えは指示にはあらわれない。一楽章の冒頭を含む二箇所ならびに2楽章一部のリハ抜粋をクレンペラーの伝記映画に収録した、その音だけを採録したもので評価外として無印。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),○C.アドラー指揮VSO、フェルバーマイヤー(SP)ドレクスラー(A)オーストリア放送合唱団(M&A)1956/3/29、30オーストリア放送スタジオ録音・CD,,ブル3ライヴ(LPと一日違いの録音)とのカップリング。期待していなかったが情感たっぷりの壮大な演奏でウィーン交響楽団の音が何とも言えない情趣をかもし出色の出来。スタジオ録音だけあって演奏精度に問題はなくこのオケのいい部分だけが出ている。一楽章から引き込まれるが二楽章のウィーン情緒などもなかなかのもの。ブルックナー指揮者としても名をなしていただけあって力感と起伏と自在なテンポで強引にもっていくワルターやストコのようなことはせず、ごく一部を除き師匠の譜面を尊重した正当な解釈ぶりで、それで最後まで飽きさせずに聴き通させるのは凄い。歌唱陣もふるっている。モノラル。ホーレンシュタインのVOX録音にきかれるウィーン響にも近いがもっと質はよい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),◎ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団他、パーカー、ムーディ(vibrato/DA他:CD-R)1971/4/6(3?)live,,ライヴにしては録音もかなりいいステレオ、とにかくこのアグレッシブさに瞠目せよ、いじりまくりで後半楽章などどこをやってるのかわけがわからなくなるほど錯綜して聞こえる轟音の饗宴、賛否あろうが終演直前の「ストコフスキ・クレッシェンド」(スヴェトラなど寧ろ後塵を拝する立場だったわけで)に間髪入れずの大ブラヴォーにはちょっとワナワナ震えるくらいの恐ろしくスゴイものを聴いたという印象だけが残る。最初これを聴いたとき長々しいけして趣味的に得意ではない復活が、こうも飽きさせずにどんどん聴き進められていいものかどうか戸惑いを覚えるほどだったが・・・じじつとことんアグレッシブな攻撃性を維持しつづけ(実はそれほどでもないのだが)退屈部分カットや楽器追加編曲等原型を感じさせない「ひたすら威圧感動させる姿勢」を貫いた演奏であるわけで・・・いつのまにか終楽章に入り、まあ各声部の近いこと、合唱もブラスも弦もひたすら耳元でがなりつづけ、あけっぴろげに下品に、しかしこういうぶっぱなした音楽こそマーラーだというストコの確信が説得力をもって最後まで私の耳を離してくれない、そういう復活を私は初めて聴いたような気すらしたのだ。もうなんだか最初は、遂にこの曲の決定盤を聴いてしまった、誰も認めないだろうけど俺にとってこの盤は最高の復活だ、と思って忘我としたが、繰り返し聞くうちに冷静になり、けっして正規盤など既出のものから離れた演奏様式ではなく、ただ異様な熱気がダイレクトに伝わってくる、アメリカ交響楽団はこうして最後の頂点に上り詰めた、最晩年になってもまだ攻撃的な姿勢を崩さなかった(ここにおいてはシェルヘンを凌駕する)ストコとともにあった、ストコそのものの楽団だったのだ、という信頼関係の最も素晴らしい形を聞き取ることができる。ロンドンのオケならこうはいかない。アメリカそのもの、賛歌といってもいいこの強烈な音楽には、しかし何度聴いても最後には自分も歌っている、そういう世界なのである。これこそが真のカリスマである。音だけで圧倒する、ロック魂溢れるマーラーである。◎。vibrato盤等は6日と表記しておりDAのみ3日とある。放送エアチェックの場合収録放送日と誤認している可能性もあるが、一般公演生放送の場合別録の可能性もある。未検証。,-----,,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),○ストコフスキ指揮ロンドン交響楽団他、ウッドランド(S)ベイカー(Ms),(BBC legends/inta glio/M&A他)1963/7/30ロイヤルアルバートホール・プロムスlive・CD,"
Mahler: Symphony No. 2

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",,BBCレジェンズはマスターからの良復刻。非正規盤はモノラルで余りよくない(intaglio)。残響付加がややうざいが重低音はなかなかに迫力がある(ストコの臨機応変なハーモニーバランスのとり方は実に素晴らしい、高音に偏重せず必要な音域を響かせる)。編成が極めて大きいから安定感があり貧乏さが皆無で安心して楽しめる(貧乏な復活は貧乏な千人同様聴くに堪えない、古楽器マーラーなんて言い出したらもう・・・)。演奏は冒頭より稀有壮大あるいはゴージャスで甘美あるいは厳しく邪悪なもので、メリハリがある、しかしスムーズな、いかにもストコだ。ロンドンオケにここまで隈取の強い音を出させるのもストコの魔術。,,どうにも壮大なぶん遅い部分もあり、管楽ソロのミスも散見されるものの、弦楽器、とくにチェロバスの迫力が凄い。マイク位置のせいかもしれないが弓音がいちいち強く脂粉飛び散るが如くだ。派手なもののおおむね歌謡的な演奏で上記変化はメロディの動きに従属的に付けられたものだが、やりすぎといった違和感はない。対位的な動きもきびきびしたリズムにのってしっかり立体的に組み合って聞こえてくる。この曲を得意としたストコらしい板についたところである。遅いテンポと重い響きでダレる寸前に2楽章へいくのがうまい(1楽章と2楽章の間に休憩を入れるならまた違う表現になるのかも)。やや遅く構造がきちっとしすぎているものの小気味いい音楽ではある。3楽章は迫力あるティンパニから邪悪な音楽。4楽章「復活」はベイカーのそつない歌唱を芳醇でそっと包み込むオケが巧い。,,終楽章は録音が捉えきれない迫力の表現から、ただ、ブラスがやっぱりいきなりしくっているのは気になる。直後、静かな表現のほうがストコの繊細な音響感覚を良く伝えている。終始リズムセクションがきっちり正しく刻んでいるのでダレない。ストコにバンスタのようなグズグズイメージを持っている人もいるが、曲によってはかなり厳しくリズムを意識した演奏を行う。スピードも相対的には遅くは無く、わりと攻撃的だ。弦のコントロール、ブラスの扱い共に自在なストコはこの終楽章では一長を持っている。いや、合奏部を生で聞いたら圧倒されたことだろう。さすがに生なのでセクション間で僅かに縦がずれるところもあるが芳醇な響きが打点をあいまいにするゆえ気にはならない。,,行進曲は生気に溢れた独壇場だ。旋律に極端なテンポルバートをかけている記録もあるがこの演奏ではそれほど派手にはかけていない。バンスタの芸風で言えばNYP常任時代であってウィーン大好き自由契約時代ではない。バンスタ晩年のバブル来日の代演時はセレブが荒れたなあ。ホロヴィッツパニックとか、ほんとあほな時代だった・・・脱線した。舞台裏のバンダが大編成で派手に吹かしてびっくりするがそこがまたしっくりくるのがストコマジック。マーラーの指示なんてどうでもいいのだ。ある意味、音楽外効果に頼らない純音楽的配慮(そもそも舞台配置が特殊な可能性は高いが)。テンポが後半にさしかかってどんどん速めになっていくのはいつもの方法である。,,天国から行軍ラッパが響いてきた情景とは到底思えないリアルな表現から、しかし合唱はとても美しい。このくらいの遅さでミスるのはロンドンの木管らしくない。伸び伸びと情緒たっぷりのボウイングが印象的な弦。各声部の絡み合いが実に美しく、そこから立ち上る混声合唱及び独唱の慎重に途切れない音、重層的な響きはここぞとばかりに情緒を畳み掛ける。独唱のやや浅い声に誘われ、音楽は終幕へと向かう。ストコの芸というより、このあたりはソリストと合唱指揮と総合的な芸となっていて、個性は情緒たっぷりのテヌート表現のみか。そこから焦燥感のない、壮大なクライマックスへと至り、ストコのカリスマ性を感じさせる盛り上がりが形成される。合唱はなかなか弾けないしブラスは重々しいアクセントを付けて煽ることは無いが、最後の最後にいきなり合唱がストコフスキ・クレッシェンドをかけてあっと言わせる。そこからはパウゼを伴うブラスとパーカスの派手派手な響き、最後の輪をかけたストコフスキ・クレッシェンドの凶悪さ、観客のブラヴォの渦。いや、千両役者だ。○。,-----,,,-----
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),ストコフスキ指揮LSO、プライス、ファスベンダ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),ストコフスキ指揮LSO、ベイカー、ウッドランドS38.7.30,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),ストコフスキ指揮PHILADERPHIA O.、タイラー、ゴドイ S42.11.3,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),ストコフスキ指揮PHILADERPHIA O.、タイラー、ゴドイ S42.11.9,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),○オーマンディ指揮クリーヴランド管弦楽団、合唱団、タイラー(S)ワッツ(MS)(RARE MOTH:CD-R)1972/11/2LIVE,,SP時代の名録音で知られるオーマンディの復活だが、やはりと言うべきか素晴らしい流麗さだ。こけおどしのようなフィラ管を使わないぶんクリーヴランドの余計な美音のない禁欲的な技術屋集団ぶりがこの指揮者の揺れの少ない反娯楽的解釈の側面を浮き彫りにし、トスカニーニを聴くような、いやもっとすがすがしい覇気に満ちた演奏に心揺らすことができる。面子的にも因縁のストコを思わせるが演奏は違う。やはりスタンダードということばを使ってしまうがそれにはマイナスの意味は少しもない。セルのオケには向いている。異様なブラヴォはこの曲の権威への形式的なものではけしてない。エアチェック音質ゆえ○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),○クレツキ指揮ケルン放送交響楽団・スイス音楽祭管弦楽団他、ヴォイトヴィツィ(s)ファスベンダー(Ms)(rare moth:CD-R)1970年代live,,クレツキのマーラーが次々と発掘されているがむらはある。これは派手さは無いが堂々たる演奏で感情的な超名演ではないにせよ職人的な色のつかない演奏として楽しめる。録音も最初が撚れるだけで明晰なステレオ。筆描きのようなしっかりしたアクセントある音がクレツキらしいが、違和感はなく、変な解釈というのは余り無い。録音がはっきりしていることもあるがレンジの広い表現でただそのダイナミズムを楽しめる。終楽章のソリストの絶唱も聞き物。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),○シューリヒト指揮シュツットガルト放送交響楽団、マック・コサック(sp)テッパー(a)(hanssler)1958/4/17live・CD,,放送マスターからのCD化だがモノラル音源に大幅に残響が付加されており不自然な拡がりを持つとともに少し撚れもみられ、私は余り好まない音。シューリヒトはマーラーに興味がなかったものの2、3番および管弦楽付歌曲伴奏のライヴ録音が複数残っている。したがってマーラー的にやろうという気はさらさらなくあくまでブルックナーやブラームスをやるとき同様、そつなく流麗に進めていく。この大仰な曲でさえ軽くハイテンポな表現を進めていくさまはまさにシューリヒト。絶妙のリズムを維持しながら常時歌謡性を重視しスマートなカンタービレを織り交ぜ、スムーズな流れを作っている。,,二楽章などこの指揮者にあったとても心地よい牧歌だが、三楽章冒頭の打撃からリズミカルに進む音楽はなかなか扇情的でデモーニッシュ。それにしてもけして途切れない「流れ」を作るのが本当にうまい。こまかいアーティキュレーションもびしっと揃って雑味を混ぜない。連綿とつづく軽くも鋭いスタッカートが鮮やかに構造的書法を浮き彫りにしている。弦のレガートにみられるこまかな抑揚の変化はじつに説得力がある。ただ、マーラーという作曲家はモザイク状に楽想を継ぎ接ぎするのが特徴とすればこの余りに自然な繋ぎっぷりは意趣に反するのかもしれないが。,,終楽章はさすがにオケに綻びが出てくるが依然精度は高く厳しい(その厳しさを感じさせないのがシューリヒトだ、ケーゲルとは違う)。ただ、行進曲主題が提示されるところで意外とテンポが落ち着き、ブラスの表現ぶりからオケ指示の客観性を強く感じるようになる。よく知られたとおり「幻想」の影響の強い「復活」においてのこの主題の役割は「断頭台への行進」に思える私には、抽象楽曲としてのドイツ・シンフォニズムの意識が強すぎるように思えた。余りに縦重視のリズムと整えられたテンポにライヴとしての「流れ」が失われた感は否めない。ここからは均整感が重視されているのだ。威厳はあるが軽やかさも明るさも維持される。,,舞台裏オケの響きあいはじつに立体的に捉えられているが、録音操作が入っている可能性は高い。合唱が意気を張るあたりからは、意外と常識的に盛り上がり、計算どおりに終演するといった風情である。,-----,,,-----,,,-----,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),○シュミット・イッセルシュテット指揮北西ドイツ放送交響楽団、バルスボルグ(s)ワグナー(m-s)他(TAHRA)1956/11/12live(放送録音?)・CD,,聞いてさっさと売り払ったの失敗だったかなー、改めて聴くとかなりいい。カップリングのカイルベルトの1番とワルターの4番はいずれもCDないしCD−R既出だがこの復活だけは初出と思われる。演奏はアグレッシブで高速軽量級だが緻密に計算されたドラマと精度の高いオケコントロールがライヴの迫力を加え非常にアピールする力があるものになっている。どんどんはしょっていくような進行ぶりに沿った終楽章のカットがなければ(全曲がCD1枚に収まっている)◎にしてもいいくらい印象に残る演奏だ。難はまずは録音。打を中心としてバス音域が必要以上に強調される反面、高音域を中心とした主要な部分が音響的にまったくこじんまりとしており、聴こえづらい。ゆえに強弱のコントラストが異常に強く出てしまい、ティンパニが入ると耳がおかしくなるくらい大音響なのに他はおしなべて貧弱という感じが座り悪い。本来はこの指揮者らしく重心低くもまとまったバランスいい音響であったろうことを想像するにどうもよろしくない。しかし元がかなり悪い録音だったのを何とかここまで整形したのかもしれない。オケの技巧はそこそこで、ブラスがやや下品。しかしライヴとしてはまとまっていると言えようか。拍手なし。○。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),○ハーパー(Sp)ソッフェル(A)テンシュテット指揮ロンドン・フィル(VIBRATO:CD-R)1981/5/10live,,凄まじいライヴ記録だがそれ以上に録音状態が凄まじい。細かく継ぎ接ぎしてあるらしく概ね物凄く聞きづらい。終盤のノイズも耳やかましい。一楽章は良好なステレオ部分と物凄いノイズまみれ左右バランス偏りまくりのステレオ部分が入り混じり、一部欠落もしている。これらだけでもう、販路に載る音盤としてはアウトだろう。テンシュテットマニアだけが聴けばいい。演奏自体はテンシュテットなりの熱のこもったネットリしたフレージングと重く盛大な響きの支配する、かなり「やりまくった」ほうの演奏だと思うが、基本的にテンシュテのマーラーは「空疎」である。マーラーの書法自体がそうとも言えるのだが、テンシュテは余りに一音一音を厳しく整え過ぎる。音と音の間に風を通しすぎて、いくらロマンティックな解釈を施しても、何かしら「軽さ」を感じてしまう。群小指揮者にはないマーラー指揮者としての力があることは確かだが、方法論は寧ろブルックナー向きだと思う。クライマックスの物凄いスケールはまさに後期ブルックナーのさばき方であり、チェリのブル8を彷彿とさせるそのスケールには「そりゃライヴで見てる奴らはブラヴォ叫ぶわな」という感じ。このブラヴォはとりわけ凄まじい。そこを買って全般としては○としておく。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),○バーンスタイン指揮クリーヴランド管弦楽団・合唱団、ブロッサム祝祭合唱団、ヘイウッド(S)ルートヴィヒ(Ms)(BELSONA CLASSICS:CD-R他)1970/7/9ブロッサム音楽センター・セル追悼live,,きわめてクリアなエアチェック録音で、放送録音特有のマイク配置というか、ソリストやフォアシュピーラーに近すぎて「肌のきめの粗さを否応にもカメラに写されてしまった”美人アスリート”のように」薄くへろへろに聞こえてしまう場面も少なくないが、それでもこのセルのオケをよくもまあ「崩し」、そして「再構築」したものだと思う。過渡的な芸風であり、終楽章の嵐のような表現はそれまでのNYPとのものを思わせる荒々しさを発揮して突っ走るし、前半楽章ではオケの音の透明感を利用してけっこう美的センスを発揮しようとしている反面非常に揺れまくりで独特のルバートの横溢するはちゃめちゃ演奏になっている。そこが一回性のライヴ、しかもこの特別な追悼演奏会にふさわしい異様な雰囲気を醸し、楽章単位で拍手が入るという戸惑うような場面も面白く聞ける。1楽章最後の雪崩落としで欠落があるが単なる音階の途中が抜けるだけなので気がつかない人は気がつかないだろう。既出盤と同じもののようだが、デジタル音源としてもこちらのほうがいい。過渡期芸風にくわえ、クリーヴランドが余りに汚されてるさまをマイナスして○以上にはならない。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),○バーンスタイン指揮クリーヴランド管弦楽団、ヘイウッド(s)ルートヴィヒ(ms)(BelsonaClassics:CD-R他)1970/7/9セル追悼コンサートlive,同上,一度書いた気もするがもう一回。ベルソナ盤は音(ステレオ)が破格にいいが一楽章最後の下降音形に2小節ほど欠落があるのが惜しい。演奏自体は、ああ、セルのオケを完全に自分のオケにしてしまったなあ、というところ。バンスタのあの独特の伸縮するふにゃふにゃマーラーを徹底させ、独特の感動をあたえ、ブラヴォ大喝采を呼んでいるが、正直セルの磨き上げた弦楽アンサンブルが音色感からしてバラバラと崩れる最初のところでがくっと頭を落とした人もいたのではないか。バンスタ壮年期の復活は生命力に溢れすぎており、キリスト教的な復活を呼ぶ追悼音楽に向かない気がする。もっと後年ならすっと美しい涅槃を織り交ぜることもできたろうが。近視眼的には非常に面白いのは認めざるをえず、楽章ごとに拍手が入るのも仕方ないかなといったところで、○にはしておく。ちょっと終楽章がどうなんだろう・・・もっと求心力が欲しい。,"",-----,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903)〜X.リハーサル,○バーンスタイン指揮ボストン交響楽団他(whra)1949/3/21live・CD,,鄙びた音を出していたオケがバンスタの力づくの指示で粘着気質のアクの強いオケに変貌するさまが面白い。まさに指揮により変貌するのだ。まず終盤の歌唱から確認し、次いで頭からつまみ食いしていくが、場所こそ違えどどんどんアンサンブルがまとまっていくのは凄い。キレも良くなり合奏も分厚くなる。伸び縮みはいくらなんでも極端で恣意的過ぎるが(歌手もそれに合わせさせられるのだ)それはまた別問題、これはドキュメントとして面白い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903)〜X,○バーンスタイン指揮イスラエル・フィル他、ダヴラス(SP)トゥーレル(M-SP)(CBS)1967/7LIVE 速い。相当速い。私の手元には他に5種(映像を含めると6種か)の録音があるが、楽章全体の時間的には大して違わないものの(34分。それでも速いほうだが)、とくに冒頭のテンポはやはり一番速いように感じられる。ピッチもやや高めに感じるから、ひょっとすると盤の回転数の問題なのかもしれないが、それにしてもこの速さは即物的にすら思えた。私は速い演奏が好きなので許せるが、人によっては受け付けないだろう。行進曲主題など格好よく颯爽と進むが、軽い感じがしなくもない。これは録音のせいかもしれないが。感動的に盛り上がる終盤でも、終始明るい調子がちょっと気になる。歌舞伎役者が大見栄を切るようなバンスタ特有の謡い節と、明るく透き通ったオケの音のアンマッチも気になる。気になるといえば歌詞だ。全編ヘブライ語で歌われている。まああまり気にしないで漠然と聞けば気にならないが、歌詞を見ながら聴いていると違和感は拭えない(ライナーに英独語対訳がついている)。また、マイク位置のせいか、立体感に乏しく、音場が狭い。ヴァイオリンなど生の音が入ってしまって、却って薄く聞こえる。だがそれゆえに細かい部分を楽しむこともできる。フレーズの終わりを必ず粘らせているところなどはっきり聞こえ、なかなか面白い。こういうところも人によって好悪はっきり別れるところだろう。また、管楽器が巧い。このライヴには殆どミスらしいミスは聞こえないから(音程に揺らぎを感じるのは録音のせいだと思う)、それだけ特別な意味を持った演奏会だったのだろう。演奏の前後に拍手が入るので抜粋演奏とわかる。「復活」終楽章抜粋というのも面白い。スターンのメンコンとヘブライの合唱曲との組み合わせ。ステレオ。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),バーンスタイン指揮NYP、ルートヴィヒ、ヘンドリクス S62.4,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(放送)1952/3/12live,,壮年期バルビの復活として価値は高い。スピーディでダイナミック、ハレ管の緊張感漲る演奏ぶりも凄まじい。トスカニーニを想起するような音楽作りではあるが、緩徐部ではまさに歌謡的なバルビ節炸裂。録音の悪さ、とくに2楽章での物凄い歪みは看過しがたいものがあるものの、これはNYP時代を思い起こさせる怒りに満ちた演奏であり、ぜひ復刻してほしいものだ。ただ、終楽章はかつてより巨匠指揮者がおのおの個性的で偉大な演奏を繰り広げてきた楽章であり、それらに比べるとやや地味である。バルビは合唱導入部よりダイナミズムを抑え気味に、荘重さに重きを置いており、音量も表情変化もオーソドックスだ。終演後のカタルシスも思ったよりは得られずブラヴォも飛ばない。そういう解釈だとわかってはいるのだが、ここは派手な演出で劇的な盛り上がりが欲しかったかも。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),バルビローリ指揮ハレ管弦楽団&cho、エリオット(sp)ザレスカ(Msp)(rare moth)1959/3/12live(1952?),,久しく見なかった裏青(CD−R)レーベルがいくつか発掘新譜を出してきている。そのうちの一つ。もはや同じ海賊(ないし権利切れ)音源を色んなインディーズ裏青が使いまわしてどんどんダンピングしていくのが通例で、レアモスのような古くからの「高額海賊盤」はお役御免の感もあったが、何処かで見たようなものの中にも、このような恐らく初出のものがあるので侮れない※。とはいえ、内容はいつものエアチェック録音でモノラルのあまり良くない音。エアチェックノイズが流れ続け、二楽章では耐え難いレベルとなってほぼ欠落のようになっている箇所がある。演奏は50年代バルビの覇気が手兵に伝わり、シュツットガルトの有名なライヴよりむしろ板についた感じがする一方、最後までの盛り上げ方は若干単調というか単純というか、うねるような所謂バルビ節が無くはないがそれほどカタルシスを与えない。拍手は盛大だがタイタンや後年のライヴとくらべてはさほど気を煽られなかったようだ。弦と声楽にメリットのある指揮者で、その音楽作りの根底には歌があり、歌謡的な表現をいかに管弦楽で実現するかに長じているが、ここではその一方でブラスへの抑制的ともとれる指示、薄手と評されたブラスの、音色が全体の中で実に融和的で、イギリス的中庸ともまた違い、ハレ管弦楽団全体としてのまとまりという意味で良さが出ている。,,※以前1952/3/12という放送音源を取り上げたが同一かもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),○バルビローリ指揮シュツットガルト放送交響楽団、ドナー、フィニレ(BBC他)S45.6.19LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),○バルビローリ指揮ベルリン・フィル、STADER、BAKER(PASSION&CONCENTRATION:CD-R/TESTAMENT)1966LIVE・CD シュツットガルトの名演のみで知られるバルビローリの「復活」の、これはベルリン客演時の貴重な新発見だ。悠揚たるテンポの中にパッションが迸る。3番のライヴのような弛緩が無く、終楽章はバルビらしい”有機的な”音が緊張感を保ち大きな造形を描く。シュツットガルトに劣らぬ佳演だ。テスタメントにより2003年10月正規CD化。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),ウィン・モリス指揮SINFONICA OF LONDON、アンダー、ホジソン,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),キャプラン指揮LSO、フォレスター(CONIFER/SONY),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),キャプラン指揮VPO(DG),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),クーベリック指揮BAYERISCHEN RSO、マチス、プロクター(DG),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),シェルヘン指揮VSOO(RCA/WESTMINSTER),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),シューリヒト指揮HESSICHEN RSO.、プエツ、ヘフゲン S35,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),シューリヒト指揮ORTF、ゼーリッヒ、ザレスカ(ALTUS他、INA)1958(1959?)/2/20マーラー祭LIVE・CD,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),スウィトナー指揮BERLIN STATTUKAPERE S58,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),スヴェトラーノフ指揮RUSSIA STATE SO、アレクサンドロワ、グエロシモワ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),スラットキン指揮SAINT LOUIS SO バトル、フォレスター S57.8.10,12,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),ブーレーズ指揮BBC SO、パルマー、トロヤノス S48,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),マゼール指揮VPO、ラウティオ、ルートヴィヒ H5.7.4,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第2番「復活」(1888-94、1903),メータ指揮NYP、バトル、フォレスター 1982.3.7,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○ボールト指揮BBC交響楽団他、カスリーン・フェリア(CA)(TESTAMENT)1947/11/29放送用スタジオ録音・CD

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新発見の音源で非常に珍しい。録音状態はかなり厳しいがテスタメントは何とか聞けるレベルには持ってきている。遅く重苦しい出だしからしばしば大太鼓が派手に鳴り響き、まさにマーラー的な深刻な音楽が展開されていく。序奏部からしてただの主部の付け足しではなく役割をもってしっかり設計されており、この指揮者が手遊びで同曲に取り組んだわけではないことが伺える。ボールトはけしてマーラーに疎かったわけではなく積極的に取り組んでおり、歌曲伴奏録音など有名だが、レコード市場的にはアルマ夫人に認められたバルビの影に隠れてしまった感は否めない。しかしもともとドイツ流儀に憧れイギリスでは珍しい重厚なスタイルを持ち味とした指揮者であり、ライプツィヒでは同曲の初演者ニキシュを心の師と仰ぎ学んだ(この時代のライプツィヒはイギリス人にとっても音楽教育の首都であった)、マーラーに近い場所同じ時代の空気をまさに吸っていた人である。マーラーが下手なわけがない。手兵BBC響もマーラーは勝手知ったる作曲家である、もちろん時代なりの精度ではあるにせよこの時代のオケとしてはかなりの技術と集中力をもって壮大な音楽を繰り広げている。

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行進曲部ではヴァイオリンの水際立った律動が楽想の変化を明確化し、瑞々しく音楽を盛り立てていく。曖昧さの無さが特徴的だ。リズムは厳しいが主題はつねにレガートで、この乖離具合にボールトらしさが感じられる。行進曲はボールトにはけして得意な分野ではないが、BBCの一糸乱れぬ弦のアンサンブルはその弱点を隠す。録音に音響的な広がりがないのが惜しい。輝かしい盛り上がりは重厚かつ壮大で、非常にダイナミックであり、ちょっと歌劇的なまでの表現力で音楽を盛り上げる。ボールトがやや即物的な傾向にあった時期ではあるが、エルガーのシンフォニー録音にも聴かれるようにBBCとはかなり派手な起伏のある演奏も行っており、バルビ的なロマンの表層性すら感じさせるくらいである。中庸の指揮者?それは晩年の話だ。陰鬱な再現部はこれ以上ないくらい暗く、沈潜する。これもまた劇的な重さで印象的。やや重さを引きずった形で再び行進曲が始まる。重さゆえややくどいが、音量的な迫力がより強まり、高音のトレモロなど装飾音形が煌びやかなのが印象的だ。BBCの力だろう。ドイツ後期ロマン派的な盛り上がりが圧倒的迫力で形作られる。打楽器とブラスの異様な凄まじさが悪い音の中からも聞き取れる。

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2楽章はスピーディだが技術的に安定しニュアンス表現は巧みだ。また対位構造が単純化され明確に聞き取れるのはボールトらしい。中低音域のしっかりした明瞭な表現により高音域を引き立てる職人的技である。3楽章のメルヒェンでは相変わらずブラスに瑕疵があるものの、夢想的なパセージから重厚な盛り上がりまで明確な変化がつけられている(ちょっと響きが重いが)。性急なテンポだけれども立体的でリアルな作り方がボールトらしい。ペットソロはやや生々しく歌いすぎか。木管が夢幻的で舞台裏オケまでくまなく美しい。ハープや弦の細かい伴奏もとにかく水際立って巧い。時折まるでロシアオケのような激しいやりとりが、同曲の幻想交響曲パクリ的側面を強烈に抉り出している。最後の破裂が意外と破裂しないのは見識か。恐らく全体設計の中の整合性を重視しているのだろう。ただ、フィナーレはパーカスが派手に鳴り響くどんちゃんになっている。

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歌曲楽章になっても相変わらずドラマティック。「原光」はハープが幻想的な雰囲気を盛り立てるように始まり、リアルなロマンの感じられる、呼吸するような起伏が荘重でやや生硬な歌唱に対し強くつけられている。後半になるに従ってフェリアの力量が出てきた感もある。5楽章はやや物足りない。冒頭の子供の合唱からして力感不足で、テンポも生硬なインテンポであり、らしくない。ゴングの音だけがボールトらしいドラマを感じさせる。荘重さは前楽章からの延長でもあり、見識ではあろうが。伴奏とはいえオケは決して手を抜かない。歌唱の下で何をやっているのか、はっきり聞こえるという意味ではボールトはあくまでシンフォニックな3番を指向しているのだろう。打楽器の悪魔的な重厚さだけは印象的。

,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,

そして遅く、重厚な終楽章である。弦楽合奏をドイツ・ロマン派流儀でやることに関しては英国瑞逸。お涙頂戴の歌曲的ロマンに走らず、大編成オーケストラとしてのロマンチシズムの粋を見せる。ちょっとやそっと聞きかじって泣くたぐいのものではなく、時間をかけて心の底から深い感動を呼び起こすような演奏である。BBCの透明な音によって更に、教会音楽のようだ。長いけど。録音がかなり劣化しているのが惜しいのと、最後のコラールでやっぱりペットがしくってるのが気にはなる。ハーモニーバランスは理想的なのに。なめらかで壮大な音楽は完全に浸りきるように、大団円を形づくり終わる。ライヴに近い一発録音のような気がする。

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録音状態からして◎にはできないが、ボールトのマーラーをうかがい知ることのできる数少ない録音のひとつとして価値がある。併録のクレンペラーの新発見伴奏音源を目当てにする向きは多かろうが(テスタメントにもその意図はあるだろう)、古い録音に抵抗のない向きは是非聴いてみてほしい。

,"なぜかテスタメントの新譜(2008年5月発売)がリストにないので参考までに巨人。
Mahler: Symphony No.1

Everest

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マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○ケーゲル指揮ドレスデン・フィル、マジャロワ(A)(WEITBLICK)live・CD,甘さの無い峻厳な演奏。時折奇矯なほど鋭く強いスフォルザンドの付けられた単音や、アクセントを異様に付けられた装飾音が聞かれるケーゲル節だが、「節」という言葉ほどこの人に似合わない言葉もない。これはドイツ古典派的な均整感を重視しロマン派的な歌謡的情緒性を禁じた演奏である。終楽章が陶酔的な節回しが印象的にもかかわらず、ひたすらに静謐で重厚で(長大すぎて)まったく感傷をあおられないのはきわめて統制され縦のブレを許さない表現ぶりに起因している。ただ、悲劇的曲想でいきなりアッチェルし溜めをつけて極端にダイナミックな表現をつけているところが山葵になっている。このデジタルな変化付けが表現主義者ぽく、ケーゲルらしい「改変」だ。最後の時間をたっぷり使った雄大な盛り上がりは設計のしっかりした指揮者にはむしろありがちな表現で、ケーゲルの足踏みが聞こえる重々しいフィナーレは印象的ではあるが特異ではない(テンシュテットよりも音響の目が詰まって聴き応えがあるが)。1楽章こそオケに乱れがありケーゲルの陽の部分が多少人間味をおびて聞こえてくるが(楽曲がそうなのだが)、中間楽章はじつに静かで暖かい演奏ぶりが心地よく、ついうとうとさせるような雑味のなさがいい。原光は静謐すぎてほとんど届いてこない印象があった。だが細かい部分でケーゲルらしい独特の切り裂くような音表現というか「解釈」が入りはっとさせられる(注意深く聞けばもっといろいろやってるかもしれない)。5楽章は子供の合唱の録音が乱れ耳障り。全般、やっぱり「表現主義的演奏」だが、客観主義の気のより強い現代的な演奏ではある。個人的には一部を除き眠かった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○シェルヘン指揮ウィーン交響楽団、レッスル・マイダン(MS)(TAHRA他)1950/10/31・CD,,↓売り切れのようです,"
Symphony 3
Mahler",Scherchen,Vso,"Rossel-Majdan
Tahra

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",↓データ詳細不明(ASINは別、2枚組)要確認,"
Mahler;Symphony No.3
Scherchen","Vienna So
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",TAHRAから当時のシェルヘンCDディスコグラフィーと同封でCD化されたもので他にも復刻はある。個人的にTAHRAのシェルヘン復刻は篭り気味で音場が狭く迫力がないから好きではない。もっと突き刺すような音表現が開放的に響いてほしいが、これはリマスターの好みだろう。LPではもっと派手だった気がする。,,演奏の印象はさっさと進む感じでリズミカルでテンポ感がいい。だが緩徐部にはしっとり情緒がある。オケがいいのだろうが、シェルヘン自身がデジタルに表現を変えているせいもあるかもしれない(録音のせいではっきりとは聞き取れないが)。じつにマーラーを聞いている楽しさはあり、マーラー指揮者を楽しむという感覚に酔える。ライヴかもしれないが(拍手なし)、VSOOとの一連のマーラー録音のように自己主張が抑えられているから聞きやすい。同時代の個性的な指揮者と比べ比較的地味な印象があるのはそのせいかもしれない。終楽章ももちろん情緒はたっぷりだが、それほど乱れない。○。,,,↓ライプツィヒ・ライヴ、異常なテンションの演奏(再販は品切れの模様),"
Mahler: Symphony No. 3 / Adagio from Symphony No. 10

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"
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○シェルヘン指揮ライプツィヒ放送交響楽団、チェルヴァーナ(A)(TAHRA)1960/10/1-4LIVE 思えばターラ・レーベルの名を轟かせたのがこのシェルヘンの実況録音だった。シェルヘンの発掘から始まったといっていいターラ・レーベルの快進撃はヲタなら周知のとおり。そのリマスタリングの優秀さと発掘音源の希少さゆえにたくさんのファンを獲得している。モノラルではあるが、音質は良好である。迫力に欠ける感じもなくはないが、シェルヘンの特異な解釈を聞かせるには過不足無い録音である。シェルヘンは曲を分節ごとに切り刻み、ディジタルなコントラストをつける。ピアノのあとにいきなりスピットでフォルテッシモ、といったかんじで、ダイナミクスにかんしては松葉が無くいきなり最強音逆に最弱音といったやりかたを(全部とは言わないが)やっている。音量だけでなくテンポについてもそう。いや、テンポこそもっとも気になる所で、基本はかなり速めのテンポなのだが、叙情的な主題が一節挿入される場面でいきなり急激な(スピットな)リタルダンドをかけ歌わせて、またもとの行進曲に戻った途端速いテンポに戻す、こういったことを、とくに1楽章では頻繁に行っている。それが聞き物にもなっており、全般的には颯爽とした表現ではあるが凡庸な客観解釈に堕しないのはそのあたりに要因がある。細部はアバウトだけれども、聞かせる演奏だ。2楽章もまた面白い。ミステリオーソの4楽章は歌唱がややふるわないが悪くはない。終楽章がまた面白い。非常に速いテンポでさっさとそっけなく進んでいくが、歌わせる所は目一杯歌わせている。クライマックスなどそうとう速いのだが、結果として23分を要する演奏となっているのだ。これがマーラーなのかどうかわからない。しかし、「シェルヘンのマーラー」としては間違いなく第一級だ。佳演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○スワロフスキー指揮ロス・フィル他、チョーカシアン(A)(WME:CD-R)1965/2/19live,,超客観主義で響きの指揮者のイメージのある人だが、響きの重視やいたずらにテンポを動かさない冷静さを保ちつつも、実に偉大な演奏ぶりで終始聴衆を魅了し続けている。いちいち楽章間に拍手が鳴り止まず(第一部の終わりだけではない)、それは必ずしも指揮者に対してだけのものではないかもしれないけれども、ロス・フィルとは思えない粗さの無さも含め、録音状態が悪いのではっきりと断言はできないが、特別な演奏会だったことが伺える。ロスバウトを思わせるドイツ的な重厚な力み、けして音楽をさらさら前に流すことは無く真摯に最後まで立ち向かい、終楽章では感動的な盛り上がりを音楽的に作り上げる。特徴的ではないが、部分部分にはっと思わせる表現があり、たとえば1楽章はわりと率直な解釈でいながらコーダでのちょっと見得を切るようなアクセントの表現など実演ならではのものだろう。客席録音の模様。終演後のブラヴォも凄い。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○テンシュテット指揮ミネソタ管弦楽団、ウェンケル(Ms)(WME,KARNA:CD-R)1981/2/13LIVE,,うーん・・・テンシュテットのライヴ盤はびみょうなところがある。正直「見る」のでなくたんに音を聴くだけであれば、どの演奏でも解釈のパターンは一様、最晩年はちょっと違う延び方をしたけれども、とくにアメリカのオケを振っているものを聴くと、オケがあきらかに「恐怖政治をひかれて却ってやる気を失っているかのように」きこえるときがあり、更にのめりこめない。相性の善し悪しが非常に出る人であることは確かだ。このオケはシカゴなどに比べれば落ちる点は否めず、アメリカのこのクラスのオケらしい軽く明るい音がテンシュテ・マーラーの解釈された情熱、透明感を悪いほうに煽る部分もあって、何か聴衆は喜んでいるけど人工的で、情熱的な表現と冷徹な構造的解釈の乖離ぶりは、この人の特徴としてつかめてしまった後だと「別にもうこのオケで聴く必要もないか」と思わせる。熱狂的ファンなら。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○テンシュテット指揮ロンドン・フィル他、ウェンケル(A)(EMI)1979/10テンシュテットはバーンスタイン以上にマーラー指揮者だなあ。。。第1楽章の連綿と続く音楽絵巻を楽しみながら、そう思った。バーンスタインの盤を聴いていると、奇妙な居心地悪さを感じることがある。いかにもマーラーといった響きに決して欠けてはいないのだが、他の所謂マーラー指揮者の演奏と比べて、余りに「特異性」が高いというか、それはもはや「バーンスタインのマーラー」という別の曲なのだ。やっぱりこれだよなあ・・と思いながら、細部のデフォルメはあるにせよ全体のフォルムを常に意識して演奏するテンシュテットの巧緻さに感服した。テンシュテットの焔のように情熱的な音楽はロンドン・フィルという柔らかい響き(そしてやや茫洋とした演奏ぶり)の緩衝材によってうまくおさめられている。細部の彫刻には若干の不安要素もなきにしもあらずだが、それ以上に印象的な音楽を演じているのでそれほど気にならない。1楽章のとくに行進曲主題については溌剌としたテンポで気分を浮き立たせる演出が心憎い。1楽章末尾でのブラスのダイナミックなダイナミクスはツボを押さえた非常に巧い解釈。1楽章だけを取り出してみれば十分推薦に足るものといえよう。そのあと、軽い楽章がつづくが、やや凡庸。終楽章が結構速いテンポでさっさと進んでいくのは面白い。奇妙に粘る演奏の多い中、テンシュテットがなぜこのようなテンポをとったのか、ナゾではある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○テンシュテット指揮ロンドン・フィル他、マイヤー(MS)(000CLASSICS:CD-R他)1986ロイヤル・フェスティバルホールLIVE放送録音らしいノイズが気になるが演奏自体は立派なもの。1楽章は暗黒の闇から始まる。弦の厳しいトレモロが漆黒の闇を駆け降りる。対して行進曲主題はカツゼツの良い発音がいかにもドイツ風。でもかっこいい。コンマスソロが多い曲だが、ここでは力みすぎて失敗している。自在な歌い方はいいのだけれども、やりすぎ。22分あたりではもう凄い行進で、リズムの厳しさ、テンポの速さは特筆ものだ。管にミスが目立つがご愛敬。どうもこのライヴは変な緊張感に満ちている。2楽章はコントラストの激しくついた演奏だ。速い所はほんとに激しくついていけない団員もいる。3楽章は輪をかけて速い。テンシュテットの頭に血が上るさまが手に取るようにわかる。5楽章、天使の合唱の中にもマーラー的な死の予感がしっかり表現されている所にこの指揮者とマーラーの親和性を強く感じる。バシバシはまってくる。長大な6楽章は一音一音確かめるように進む。それは感情の起伏というよりもはや諦念に近いところのそこはかとなく哀しい音楽だ。やわな情に溺れないところがテンシュテットらしい個性である。音楽が上り詰めていく所は崇高な死である。がっしりしたフィナーレは壮麗で、宗教的ですらある。穏やかなブラヴォーの次第に盛り上がる終演後はこの演奏の素晴らしさを伝えてくれる。でも万全ではないしノイズが気になるので○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○テンシュテット指揮LPO&合唱団、イートン校少年合唱団、マイヤー(MEMORIES他)1986/10/5ロイヤル・フェスティバル・ホールlive・CD,同上,非常に質の悪い「海賊盤の海賊盤」のようなMEMORIESのCDは買ったらすぐ聴いておかないと劣化します・・・はいいとしてやはりどうしても音質、とくに耳ざわりな放送雑音の混入には鼓膜が破れるかと思うくらいだ・・・は言いすぎだが、この演奏は円熟期のテンシュテットだからそれなりに深みもあるのだが決して暗さはなく、はつらつとした趣さえある。若々しい覇気がみなぎり前向きな演奏ぶりはオケや演奏家たちのやる気にもつながっているようだ。ロンドンとの相性というか慣れた調子は安心して聴ける。ロンドン・フィルの巧さは決して強い個性を押し出してはこないがどんな曲でもその曲の内実を色付けずに引き出して聞かせてみせるところにある。寧ろドイツ臭くもユダヤ臭くもない演奏ぶりはマーラーのコスモポリタンな側面を反映した正統な演奏と言ってもいいのかもしれない。コスモポリタンと言えばアメリカオケの意気雑然や逆に理路整然としたマーラーなどと比べてもどこかヨーロッパ的なしなやかさと滑らかさが感じられ耳ざわりがいい。だから録音が気になるのだ・・・。うまく調整してスピーカーできききましょう。終楽章の盛大でロマンティックなうねりには今聴かれないたぐいの古来のマーラーも宿る。小売初出はCD−Rレーベル。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○ノイマン指揮チェコ・フィル、ルートヴィヒ他(SUPRAPHON)CD,,こういう軽量級のほんわか明るいマーラーって新鮮。さっそうと進む一楽章、冒頭から音は短く品よく切り詰められ、深刻さはない。ブラスがとにかく独特だしアンサンブル的にもいわゆるマーラー指揮者の整え方ではなく、オケの個性を尊重した結果なのかけっこう不思議に不協和なハーモニーバランスの整えかたなどして独自色も強い。あまりに軽くこじんまりと聴きやすいと思っているうちに、じつはクーベリックがチェコを振ったらこうなっていたかも、という勢いもでてくる。水準、といったかんじで〆までそつなく演じているが、毛色がおもしろいのでマニアなら。ノイマンやベルティーニが全集せっせとまとめてたのもついこないだのことだと思っていたが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),◎バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル他、リプトン(M-SP)(SONY)1961/4/3素晴らしい出来だ。この緩慢な曲をニューヨークフィルの機能性を駆使して起伏ある物語に仕上げている。1楽章(行進曲主題の水際立った指揮!)にとくに惹かれたが、後半楽章もなかなかだ。終楽章はやや平凡に終わった感もあるが(バーンスタイン節が聴ける絶好の楽章だったにもかかわらず)全般に、この曲の演奏として望みうる最上の演奏といえるだろう。ニューヨーク・フィルに雑味が多い。弦の音色が不統一で、1楽章の行進曲などかなりごちゃっとしてしまっている。この演奏にかんしてはなぜか後半楽章になるにつれてよくなっていく。4楽章の敬謙な祈り、天より降り注ぐような少年合唱、そして教会音楽のようなおごそかさをもった最終楽章。終楽章の盛り上がりではバンスタお得意の恣意的テンポ操作が横溢。9番かよ!!と思うような悲壮さや諦念が入り混じり、生臭くもドラマティックな音楽が形作られる。あけすけなペットの音がいかにもバンスタのマーラーだ。ただ、ここでもやはり弦がへた。カンタービレ!!っていうところでアマオケみたいな不揃いな音が出て脱力。ま、そこがこのオケの面白いところなのかもしれないが。3番のような幸福感に満ちた曲はバーンスタインの性向とあっているようで、印象的である。第一部がだめだったので無印としておくが、第二部はスバラシイと付け加えておく。但し、スタジオ録音のわりにけっこう事故があるので、そういうのが我慢できない向きは聴かない方がいい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル他、ルートヴィヒ(ALT)(DG)1989LIVE 30年弱前の演奏よりオケの演奏精度は上がっているし、録音状態もかなりクリアになっている。しかし、何かが足りない・・・1楽章はとても美しく組みあがっているが、行進曲に不可欠な前進性にやや欠けており、縦をそろえるよりも横の流れを重視するやり方がどうもうまく機能していないように感じる。よそよそしさがあり、バンスタらしからぬ客観性が感じられるのだ。ひょっとしたらこのデジタルな録音がそう聞かせている可能性もあるが、いずれにせよ私は余り惹かれなかった。それは続く第二部の小楽章についても同じである。また、ニューヨーク・フィルは巧くはなっているが、個々の楽器によっては技量不足を感じるところも聞かれ、1楽章ではペットの下降音が揃わず変な聴感をあたえているところもあるし、5楽章では少年合唱の音程が怪しい。悪い所ばかり言ってしまったが、2楽章は綺麗に仕上がっているし、4楽章ではルートヴィヒの雄弁な歌が面白い。6楽章はバンスタの独断場のように思えるが、案外そうでもない。30年前の演奏よりもぐっと「人間的」になっており、コラール音楽のような雰囲気は少しも無く、5番のアダージェットなどに通じる雰囲気だ。録音のせいかもしれないが音がリアルに聞こえるので、幻想性や神秘性は少ない。荒れ狂った様子もなく、30年前よりおとなしいと言っていいかもしれない。堂々とした音楽ではあるが、バンスタの水準としては必ずしも高いものではないだろう。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○バーンスタイン指揮VPO、ルートヴィヒ(Ms)(DA:CD-R)1974live,,拍節感が希薄でとくに1楽章はいただけない。悪いときのバンスタVPOが出てしまっている。すなわち即興的に横に流れてしまいきっちりしたマーラーの書法がグダグダに崩れてしまう場面が多いのである。だが中間楽章に入るとリズム的なノリが加わり音楽的な面白さが出てきて、原光あたりの歌唱ではとくに引き込まれ、終楽章は暖かく盛大に盛り上がり拍手喝采。録音弱し。,-----,,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○マゼール指揮NYP(NYP)2004/6/16-19live,,WEBデータ配信のみのNYPマーラーライヴ全集収録。復活を得意とするマゼールは、やはり長大な作品のほうが活きる。当然終楽章は素晴らしく美しく響き、NYPのだらしない部分が一切発露せず、非常に統制がとれており名演。全体としても当代一のマーラー指揮者と言わざるを得ない演奏ぶりであり、NYPの力量もまた素晴らしく、迫力と繊細さの両方を兼ね備えた万能ぶりを遺憾なく発揮している(まるでテンシュテットの恐怖政治のような緊張感だ)。マゼールの緩急極端な設計は健在で、その緩い部分が1楽章をはじめ「のんべんだらり」と受け止められてしまうことも多く、リズム表現にこだわりを見せるわりに、弦楽器にスタッカートで切らせていくべき部分を敢えてレガートで弾かせてみたり、ヴァイオリニスト指揮者ならではではの「流れ重視(旋律重視とは違う)」の方策ではあるが、総体としてはいまひとつ締まらなく感じるところも諸所にある。ただ、この曲、牧歌的に「世界」を描いたひたすら長く、雄大な抒情詩ゆえ、その方法がプラスに働いているところも多々。細かい解釈の奇矯さも時折、違和感を感じさせるが、その世界の巨大さの前には殆ど目立たない。マーラーの意図はこういう演奏だったのだろう、というところもあり、久々にこの曲を聴いて、1楽章だけで盛り上がって終わってしまうような演奏とは違う、ブルックナー的な時間感覚の中に「全てを描き込む」演奏ぶり、少し感じ入った。フォルテのまま異常な長さに引き伸ばされた終止音にマゼールの巨視的設計の確かさを見る。ブラヴォの嵐。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),マゼール指揮 VPO,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○ミトロプーロス指揮NYP、クレブス(A)他(DOCUMENTS他)1956/4/15live・CD,異様なスピードでインテンポ気味に突き進み、音表現はひたすらけたたましく騒々しいミトプーだが、第三は特に得意とした曲だけに細部まで明瞭に表現され、オケの隅々まで技術の綻びなくテンションが漲るさまは若者に受ける要素盛りだくさんである。反面慣れている向きは煩過ぎると感じるかもしれない。長い曲だけに(1楽章は例によって細部の省略が目立つが)飽きる人も多いであろうことを思えば、実演指揮者としてこういう演奏を繰り返した理由はわかる。アメリカだしね。NYPがとにかく凄まじい迫力で、のちのバンスタを思わせるわかりやすい表現も織り交ざるものの、バンスタ時代には考えられない厳しい統制が行き届いている。ミトプーは恐怖政治の人ではなかったというから人望のなせるわざかもしれない。オケのトップを悉く手篭めにしていたから・・・?真実は藪の中。マーラーに期待される音色をもよく引き出している。1楽章の行進曲をテンションアップのために聞きたい、という人にはお勧め。もちろん中間楽章でもスピードとテンションは維持されている。3楽章の激しさは出色。幻想交響曲を意識したといわれる角笛交響曲群の中でも露骨な表現のみられる楽章のひとつだが、幻想のほうを聴いてみたくなる独特の派手派手でリアルな肌触りの演奏だ。4楽章も音量が大きくちっとも原光の神秘性が感じられないが歌唱はいい。5楽章だけは何故かテンポが落ち、非常に重い。オケ部の表現からしてそういう解釈ではあるのだが、前半がとくに合唱の集中力が落ちて聞こえる。弛緩して巧く組み合っていない感じだ。最後は壮麗な合唱のあと余韻をのこし、そのままアタッカで終楽章に入る解釈は独特。終楽章はNYPの分厚い弦楽器群の面目躍如だろう。滋味溢れ眩いばかりの光彩に心打たれる。,,録音は古い録音慣れしている向きには気にならない程度。明確に音像が捉えられ実演を彷彿とさせる感じは評価できる。CD初出時は1枚に収めるために異様に曲間を詰めていたのが印象的だった。3番を1枚に収めること自体が異様だが。,,<ミトロプーロスの現役盤は恐ろしいほど少ない。現代音楽を使命とした実演とオペラの指揮者であり、時代も半端だったせいで正規録音が無いのが理由だ。マーラーでは記念碑的な8番VPOライヴを聴くべき。>,"
マーラー:交響曲第8番「一千人の交響曲」 (2CD) [Import]
Vienna Philharmonic Orchestra
ORFEO

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マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),◎ユーストラティ(Msp)スツェンカー指揮ケルン放送交響楽団(ARCHIPHON)1951/3/5LIVE・CD,,大変に立派な演奏で録音や演奏技術上の瑕疵はこのさいどうでもいい。ドイツ的な重厚壮大解釈の範疇にあるが、密度の高い音響への鋭い感覚とスコアに埋もれたフレーズへの緻密な配慮が、古典的な堅牢さとロマンチシズムの両端を満たしたまさにマーラー的な音楽を表現主義的に描き出す、響きの軽さをもって奇怪なメルヒェンを感じさせるいかにも前期交響曲的な表現ではなく、6番以降の後期交響曲を思わせる分厚く立体的な聴感を与える演奏になっている。芸風からしてもオケの表現の指向からしてもロマンに流されることはないが、構成の妙で、横のフレーズが表立ってきたときにはとてもロマンチックに聞こえるし、情緒的に揺り動かされるところも多い。力強くドラマチックな1楽章やリアルで雄渾な終楽章もよいが(人によっては後者はやや飽きるかもしれない)、聞き物は中間楽章で、時には9番、時には大地の歌の頃を思わせるようなところがあり、スコアの構造をくっきり抉り出し特に中低音域に散置されたフレーズに重心を置きなおすことで、「角笛交響曲」と呼ばれる歌曲編曲音楽にとどまらない、たんに旋律線と音響というのではない、交響曲としての聴き応えというものを構造的に明確に提示してきている。中間楽章でダレる演奏というのは類多々あり、それを終楽章の謳いまわしで挽回したりすることは多いが、これははっきり違う。「原光」の歌唱と管弦楽の対比においても、あくまで歌曲としてではなく交響曲の一部として器楽的に捉えているような節があり、全体のフレームのしっかりした歌唱付き管弦楽になっており、前後ともコントラストのついた楽章として聞き流さずに聞き込むことができる。,,全般、近視眼的には揺れず予め作りこまれた解釈が緊張感溢れる演奏として提示されている、これはオケの共感なしには成り立ち得ない。ちょっとオケが暴走気味になるところも含め、ライヴとしてかなり聞ける演奏という位置に置くことに躊躇は感じない。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○ルートゲルス(Ms)マルティノン指揮ORTF、cho(cascavelle,INA)1973/10/3live・CD,,マーラーイヤー記念でフランスから出るとは思わなかったが存命中はマーラー指揮者として活躍していたマルティノンによる新発掘の3番である。シカゴ時代とはオケの違いもあり印象が異なる。まず響きが軽い!ペットあたりの音色はマーラーに似つかわしくないハスッパな響きで、1楽章より「それでいいのか??」と思わせる。そういう透明感をまといながら全体にきわめて見通しがよく、そこから見える構造は立体的である。明快であるがゆえに奇怪な解釈も目立ってしまう。シェルヘンとまではいかないが、奇妙な強調、奇妙な伸縮、奇妙な「ズレ」、いずれもいわゆる中欧系マーラー指揮者のものとは異なる視座にあるように思う。やはり「作曲家指揮者」なのだ。第一部終了で拍手が入り、2楽章以降第二部は一気に通して演奏されるが、解釈は第一部が最も面白く、終楽章までくるとまともになる。熱狂は呼ばないが、幸福な楽章は幸福な音がふさわしい。8・10番にも通じるマルティノン独特の盤だが、○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),〇ベイヌム指揮ACO,フォレスター(A)(RCO)1957/7/14LIVE・CD,,生命力溢れる演奏ぶりで、取り立てて特徴的な解釈もなく知見も感じられないが、この大曲をまっとうに聞き通すには適しているだろう。正直この曲に親しんでいる向きは余りの正統ぶりに飽きてしまう可能性はあるが、緊張感を保ち力強く引き締まった演奏ぶり、ACOのマーラー適性を最大限引き出したような明確な音色の妙には魅力はあり、〇とすることに躊躇はない。技術的な綻びはご愛嬌。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),ホーレンシュタイン指揮RAIトリノ放送管弦楽団&合唱団、ヴェスト(alt)(FKM/rococo?)1970/12/16トリノLIVE,,おそらくROCOCOのLPで出ていたものと同じだがステレオで音質は段違いに良い。プチプチノイズや片側欠落など入って70年代にしては悪いが、バランスは良く音圧はあり聴き応えは十分だ。がっしりして立体的・構築的な音楽作りはイタリアオケをもってしても不安を感じさせない堅牢たるところをみせながら、VOXにウィーン交響楽団と録音していた頃のような、情緒的なアーティキュレーション、音色変化、終楽章においてはインテンポでありながらポルタメントすら使わせ、ワルターのような感じで3番の緩徐楽章による終焉を盛り上げている。中間楽章の印象が薄いが、ある意味いつものしゃっちょこばったホーレンシュタインのやり方が裏目に出ただけかもしれない。オケがオケなのでミスの多少は目をつぶること。最後の盛大な盛り上がりは確信に満ち、声を上げる者はほぼブラヴォ。ホーレンシュタインとしては上出来。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○ホーレンシュタイン指揮トリノ放送管弦楽団(ROCOCO他)LIVE,同上?,※FKMより2017年夏にCD-R化された比較的良好なステレオ音源(1970)と同じと思われる。全曲、ソリストはルクレチア・ヴェスト。別項参照。
(以下LP(1,2楽章のみ)評)
これ、おそらく2枚組みLPなのだが、目下1枚目しかお目にかかったことがないので、とりあえず前半だけ、俎上にあげてみます。録音はロココの常で良くない。分離が悪いし、雑音も多い。ただ、ホーレンシュタインの至極安定した指揮ぶりはそんな音でも不自由なく芸術の翼をはためかせている(意味わからん)。1楽章緩徐部でブチ切れB面にいくという悪条件下でも、この紛れも無いマーラー指揮者のライヴの連綿たる気迫を感じることができる。オケは管にミスがないこともないのだが、トリノ放送としては異例なほどまとまった演奏といえよう。重厚さすら感じさせるが、行進曲主題になるとラテン持ち前のリズム感のよさを発揮しておりとても面白く聴くことができる。ホーレンシュタインはリズム感が少々鈍いように思うのだが、ここではそんなオケによって補完されているから言うことがない。1楽章はオーソドックスと言えるほどマーラー的な音楽が展開され、後半楽章への期待を盛り上げるのだが・・・。やっぱり前半だけで評するのは難しいですよ、社長さん(誰や)。○ひとつ。〜この盤は全曲ある可能性がある。私が秋葉原の石丸で大昔に買ったときは1、2楽章の1枚のみが出ていた。オケがやや不安定で、二楽章冒頭のオーボエソロなど裏返っているし、仕方ないのだがちょっと残念。さすがこの指揮者だけあってがっしり安定感のある演奏スタイルが暴走傾向のあるオケに徹底されており、ライヴとは思えぬほど。縦が重視され、客観的すぎると思うほどにフォルムのしっかりした演奏になっている。1楽章は対位法的な構造の扱いが巧みで、「旋律追い」傾向のある人にはつまらない単調な音楽に聞こえるかもしれないが、立体的な聞き方が好きな人はしっかり噛み合った旋律と内声の安定した響きに豊穣な聴感が楽しめると思う。格調のある演奏だと思うし、個人的にはステレオ盤より好きであるが、録音の悪さも鑑みて無印にしておく。ホーレンシュタイン好きなら。,,
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マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),ホーレンシュタイン指揮 LSO、 プロクター,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団他、ラーション(A)(WME他)1999live,,スヴェトラーノフはマーラーをレパートリーとしていて、手兵国立響を率いて九番を演った頃は「日本人に馴染みのないマーラーを教えてやる」(1990年代にもかかわらず!)というような調子で、バーンスタインを尊敬していたということからも、また晩年N響で7番などをやったこともあるように、大曲志向などという言葉にとどまらない好感を持っていたのだろう。壮年期の力感や破天荒な表現は退行し、この曲の最後もいつもの「引き伸ばし」はするが音量や表現の起伏は付けられていない。だが円熟した解釈を常に明瞭な発声で表現させていくさまはマーラー指揮者と言ってもいいくらいしっかりしたもので、地に足の付いた演奏である。牙の抜けたロシア国立とのチクルスしか正規の全集が残っていないのは残念で(最初の九番の評も良くなかった)、全集くらいでないと演奏されない三番が第二の手兵と言えそうなスウェーデンの手練れ楽団とのコンビで音盤化されたのは歓迎されるべきことだ。じっさいバランスの良さ、解釈の浸透ぶりはロシアのものとは比べ物にならない。自身の指揮方法の変化や穏健な解釈への変化(相対的にはけして穏健ではない)があったにせよ、マニアックではなくニュートラルに聴けるスヴェトラーノフというのはそれだけで真価を問えるもので価値がある。この曲のほとんどの魅力は両端楽章にこめられているが、一楽章は期待に違わぬハッキリした演奏でいちいち発音の頭が強く、わかりやすい。シェルヘンをちょっと思い出させるが歌心というか横の流れも程よく、晩年陥った響きへの過度なこだわりもない。終楽章でオケがバテたのかうねるような感情表現までいたらず、平凡な印象なのは残念。少年合唱の音程が少し。。全般に聴く価値あり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),スヴェトラーノフ指揮 RUSSIA STATE SO、 アレクサンドロワ H6.12 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○バルビローリ指揮ベルリン・フィル、ヴェスト(HUNT/testament他)1969/3/8LIVE・CD自由に伸縮するバルビ節全開!その棒にじつに共感をもって積極的にぐいぐいつけてくる弦、文句無しに巧く馬力ある管、ハレ盤ライヴで不完全燃焼だった人も、この演奏なら満足するハズ。じつはこの盤、もう5年くらい聴いておらず、その5年前の印象が、まず録音が悪い(モノラルでいくぶん篭っている)、そして事故が多い、というものだった。あまりいいイメージがなく、以来人に薦めることも躊躇していた。でも今回改めて聞いたところ、その大半が終楽章の終盤のイメージであること(疲れのせいだろう、ちょっとアンサンブルが乱れるしブラスに(僅かだが)事故もある)、あと、モノラルで質の悪い録音に耳が慣れていなかったため、聞こえるものも聞こえなかったのだ、ということがわかった。録音状態はもうどうしようもないので、集中して一つの音も漏らさず聞こう、という態度で望めば、隅々まで解釈され、細かいルバートの連続がまったく不自然なく有機的につながって絶妙のカンタービレを聞かせる、バルビローリの類希な力を実感できるだろう。この人の演奏の基本は「歌」である。旋律楽器はつねに歌う事を要求される。しかしそれはあくまで総体の響きの中に納まるように組み込まれる「歌」であり、オケを崩壊寸前にしたりするたぐいの気まぐれな即興演奏とは格が違う。またベルリン・フィルというところがいい。これがウィーン・フィルだったら、甘い音色に甘い曲+甘い解釈というじつに甘ったるい演奏になりかねなかったろう。ベルリン・フィルの深く太くストイックな音色がバルビの解釈に深みをあたえている。1楽章は細かい分節に分けられそれぞれに細かいテンポ変化をつけてくる。それは冒頭の葬送ファンファーレから既に始まっている。しかしシェルヘンなどのようにディジタルなやりかたではない。分節に分け解釈をつけたうえで、それらを大きな曲の流れの中に有機的に連接させていく。そういうところがじつに巧い。この楽章は非のつけどころがなく、強いて言えばやや個性的なため好みが別れるかもしれないというくらいだ。2、3楽章も凄い。ここではベルリン・フィルの恐るべきアンサンブル能力が遺憾無く発揮されているし、幸福感に満ち満ちた表現はバルビ節の独壇場である。ウィーンふうのフレーズではまさに噎せ返るようなカンタービレを聴くことができる。奏者の自発性にまかせているようなところも多分にあるが、うまく融合している。歌唱の入る4、5楽章はオケはいくぶんバックに下がり、バルビローリ独自の表現というものはあまり聞かれないが、5楽章の少年合唱に合いの手のように入るオケはボリューム感のある語り口で表現意欲満天だ。終楽章はもう雄大で情緒纏綿な、いつまでも続く歌、とうとうと大河のように流れる響きの世界である。耽美的、と言ってもいい。緩徐楽章としてはやや長すぎる楽章であり、バルビの腕をもってしてもやや飽きがこないでもないが、もっとクリアな音質なら、美しく強靭な弦楽合奏の表現力の前に忘我する可能性はある(註:この演奏は正規録音で出る可能性がありそう)。さて、この演奏に強いてケチをつけるなら、マーラーの持つブラックな面、終始暖かく明るい曲の影にひそむ”死”のイメージを抉り出すことなく、ただひたすらに幸福感を歌うだけの演奏になっている、ということぐらいだろうか。それだけでも十分なのだが。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),バルビローリ指揮ハレ管弦楽団ほか(BBC)1969/5/3LIVEやはりハレは少々弱い・・・とくにブラスの音量のなさと弦楽器のばらけように不安を感じた。といっても音のいい録音だし、この暖かくうららかな春の陽射しのような曲を味わい尽くすのに過不足無いものではある。一楽章の行進曲は聴き所のひとつだが、ここでもバルビは歯切れの悪い余り前進性を感じさせない音楽を作ってしまっている。無論オケのせいでもあるだろう(ほんとに危ういアンサンブルになっているところもある)。晩年のバルビはリズミカルな処理が余りうまくないように思う。2楽章以降は気持ちのいい音楽だ。歌心にあふれたバルビ節をたのしもう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),バルビローリ指揮ベルリン・フィル(RARE MOTH:CD-R)1967ベルリンLIVE?,同前掲?,ぶっちゃけ67年にはこの曲でベルリン客演していないはず。1969年定期の一回だけしか振っていなかったはず。ルクレチア・ヴェスト、聖ヘドヴィッヒ教会合唱団という組み合わせまで1969年HUNT盤とそっくり同じなわけはない。演奏時間を比較すると、だいたい誤差範囲内(最大10数秒、テープの伸び縮みがあるのでこのくらいは十分ありうる)、全楽章ほぼ一致。明瞭なところでは最後の拍手の入りかたが同じ、最初音楽に圧倒されたような客席、暫ししてパラパラ鳴り始め、次第に盛大に至る。終楽章は楽器が少ないだけに一番分かり易い。聴きとおすと、それが同じ演奏であることがわかる。バルビの鼻歌も同じ。但し、演奏の瑕疵を比較するのが最も手っ取り早い検証方法ではあるものの、ハッキリここだと断定できるものがない。というのがこの盤は曲がりなりにもステレオで、しかし終始音がかすれ気味で非常に汚い録音という一方、既出のHUNT盤はモノラルではあるが音に安定感がありカスレもない良好な録音で、単純な比較対照がしづらいのだ。広がりの無い後者の録音だとソロ吹奏者が強音を発するときに背景音から妙に突出して聞こえたりするから、デュナーミクのミスのように感じられたりする。一方前者はステレオということで比べ物にならないほど音自体の情報量が多く、音場も著しく拡大しており、HUNT盤でミスと思っていたところが実はその背景の木管アンサンブルがじつに広く響き渡っている上に発された音だから強く吹いて当然、だったりする。だが後者もそのリアルな音ゆえにバルビのあからさまなあけっぴろげな感情の迸りに思わず引いてしまう感もある(同曲ハレ盤(デリック・クックがEMIに出せと詰め寄った逸話で有名なライヴ)や6番テスタメント盤でも感じられたことだ)。後者とて不十分な途切れ途切れの録音、今度出るテスタメント正規盤の音質に期待しときましょう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○ベルティーニ指揮 KORN RSO、S60,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),○マルティノン指揮シカゴ交響楽団他、レズニック(M-SP)(CSO)1967/3/23〜25 シカゴ交響楽団の20世紀記念セットは原価は?だが中古で2万6千円ほどする。これを買おうか買うまいか、そーとーーー悩んだ。しかし、「ヒンデミットの指揮記録は全部集める!」というポリシーと、「フランス系指揮者のマーラーが聴きたい!」という欲望が、本日遂に我が体躯をうち倒してしまった。つまり買ってしまった。そうとう後悔した。が、目的のマーラーを聴くに及んで、つくづく、買ってよかった、と思った。これは凄演である。そう、その目的というのがマルティノンの3番だったのだ。マルティノンはけっこういろいろと振っているので(しかも今回シカゴというところが泣かせる)マーラーがあっても不思議はないのだが、凡百演奏に尽きてしまうのではないか、と半ば諦めていた。しかし、この1楽章、軽やかな曲運びに色彩的なひびきを加えた行進曲主題の展開するさまや、複雑な対位的構造を呈する箇所での正確無比な緻密なとりまとめ方を聴くにつけ、これが60年台の演奏とは思えない新鮮な名演であることを感じた。この1楽章にかんしていえば、◎モノである。楽章が進むにつれ、曲は穏やかな趣を強くしてゆき、最後には5番のアダージエットを拡大したような緩徐楽章に行き着くわけであるが、穏やかになるにつれ音楽が空疎になっていくのはいささか残念だ。音色で勝負できないオケと、指揮者の余りに率直な解釈のため、かなりつまらない演奏になっていく。1楽章にあれだけ漲っていた集中力がほどけていくのは、ある意味仕方ないのかもしれない。まあとにかく、この1楽章、というか「第一部」はマーラー好き必聴と言っておきたい。第一部の最後にも拍手が入る。録音超良。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),アドラー指揮VSO、マイダン S26,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),アドラー指揮VSO、マイダン S27.4.20,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),クーベリック指揮BAYERISCHEN RSO、トマス,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),コンドラシン指揮モスクワ・フィル(ロシア語版)、レヴゴ(MELODIYA) S36,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902)〜W、X,コンドラシン指揮モスクワ・フィル(ドイツ語版)、 ティクヌーセ(MELODIYA)S50 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),シューリヒト指揮SHTUTTOGART RSO、 ズイーベルト S35 *R含め3種ある。どこかへいってしまったので見付かったら補記します。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),ショルティ指揮CSO ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),ブーレーズ指揮 BBC SO、 ミントン NYP、 ミントン S51.8.23,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),マデルナ指揮 MIRANO RSO S48.1.12,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),ミトロプーロス指揮KORN RSO、 ヴェスト S35.10.31,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902),ミトロプーロス指揮NYP、 クレブス S31.4.15,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902)〜VWXY,○伝レオ・ブレッヒ指揮ストックホルムフィル、ライル(a)1944LIVE(valkyrie:CD-R),,拍手以外音が良すぎ。偽演かもだが、それはそうとして流麗でメリハリのハッキリした佳演。事故もあるし終楽章にはもっと潤いが欲しいものの、これが本当にブレッヒであるとしたら野村胡堂氏が口を濁した指揮者も経験を積み素晴らしく円熟といったところか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル、グリスト(SP)(SONY)1960/2/1/◎ウィーン・フィル、ベルギウス(BOY SP)(FIRST CLASSICS/GREAT ARTISTS他:CD-R)1984/2/12LIVEニューヨーク・フィルは何か堅苦しいというか、折り目正しい演奏をしている。それはそれで清々しいし、終楽章のソプラノ起用もまっとうだと思うが、バーンスタインの震幅の大きい解釈が余りに人工的に施されたさまが、ちょっとひっかかった。ニューヨーク・フィルの音も、あまりに無個性である。曲を知らない人には聴き易いかもしれないが・・・。ウィーン・フィル盤は映像を含めれば2種、ここでは廉価盤のファースト・クラシックス・レーベルのもの(CD-R盤はいずれも同じ音源)を取り上げるが、これはまったくウィーン・フィルにして為し得た素晴らしい演奏記録だ。ニューヨーク盤とは全く違う響き(敢えて雲泥といっておく)、とくに弦楽器の絶妙のポルタメント、フレージングの柔和さ、音色の生々しい美しさ、すべてがバーンスタインの円熟した恣意的解釈のもとに集約され、それが物すごく自然に聞こえる。震幅は広いのにそうとは感じさせないし、そうでなければならない、と思わせる威力をもつ。コンセルトヘボウ盤もいいが、ウィーン・フィルにはかなわない。じっさいニューヨーク・フィル盤はウィーン盤よりも短いのに、ウィーン盤が余りに魅力的なためむしろ逆の印象をあたえる。ただ、重大な難点がある。ウィーンもコンセルトヘボウも、ボーイ・ソプラノを起用しているのだ。不安定な感じもするし、女声に慣れた耳には非常に奇矯にきこえる。天上の音楽としてはどちらが妥当か意見がわかれようが、私はこれは女声で聴きたい。最後に、バーンスタインの3楽章の解釈は非常に印象的で、たとえようも無く美しい。2、3楽章は聴いていて時を忘れるほど巧くできているので、マーラー好き必聴、としておきたい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○バーンスタイン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管、ヴィテック(BOY SP)(DEUTSCHE GRAMMOPHON)1987/6LIVEマーラー指揮者の権化とされているバーンスタインの新録音。穏やかで静かな演奏だ。それ以上でもそれ以下でもない。私は4番に関してはこの指揮者を評価しない。穏やかに過ぎる。美麗以外何のひっかかりも感じなかった。ボーイソプラノの技術は限界がある。但し違和感は無いので成功とはいえるだろう。少年である必然性は個人的に余り感じない。純真であるとか、天国的であるとか、この曲における4楽章の存在を過大評価する向きには受けるかもしれないが・・・,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),◎バーンスタイン指揮VPO、ウィテック(ボーイソプラノ)(MEMORIES)1984/2/12live・CD,,ボーイソプラノによる4楽章には演奏的瑕疵が僅かに聞こえるものの、全般として、これは絶後の名演である。晩年のバンスタVPOらしくないとも言える非常に精緻な演奏で解釈も隅々までこなれており、マーラーのスコアからこれほどまでの情報量を取り出し纏め上げた人間はバンスタを置いて他にないと思わせる。得意としたワルターすらも凌駕していると言い切ってしまおう。1,2楽章が素晴らしい。3楽章の最後の涅槃的恍惚感、ここにおいて何も感じない人間がいたとしたら私はその人間を信用できない。指揮者とオケ、相互の信頼感がブレのない演奏の精度を保ったとも言えるし、既に変質を始めていたVPOのローカリズムが丁度薄まって精度に反映されたとも聴けるものでもある。データが違っても恐らく既出海賊盤と同じだと思う。◎。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),バーンスタイン指揮ミラノ・スカラ座フィル管弦楽団、ベルギウス(b-sp)(rare moth)1984live,,驚くことにモノラルで、それだけならいいのだがノイズからも三楽章の無惨な二箇所の音飛びからも四楽章の撚れからも、とても80年代のエアチェックとは思えない録音状態。音場も狭く50年代前半の録音と思って聴くしかない。レアモスも久しぶりに出してきたと思ったらこれである。情報量も少な目だが演奏は円熟の極みで、「バーンスタインのマーラー」とはひとりの作曲家として不可分の存在なのだ、という余人を許さない独特の境地をしっかり届けてくる。歌心をわかっているオケに統制をしっかり効かせて、乱れがないから、イタリアオケの悪い特徴がなくなるとなると、別に他のオケとの記録でも良いのではないかと思うが、三楽章なぞはやはり美しい。作為的にテンポが揺れるといっても、この指揮者晩年は不自然さのない流麗さが素晴らしい。この曲はむしろ速く、かつ華麗でもある。どこか暗くも美しい三楽章はもともと感動的な要素をはらんでいるが、それを一歩進めた、感動だけではなく、感傷に昇華させたようなものがある。ボーイソプラノはバーンスタイン特有の起用だが、やや棒のような歌い方がめだち、不安定で重いか(男声だから子供とはいえ重くなる)。天国のような歌声とはいかない。あるいはそういう意図なのかもしれないが。オケは嵐のように、あるいは木の葉を撫でる風のように上手い。当然のように嵐のような拍手とブラヴォ。録音が悪すぎる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○クレンペラー指揮ウィーン交響楽団、シュティッヒ・ランダル(SP)(TESTAMENT)1955/6/21ライヴ・CD,,うまくリマスタリングしたもんだ。VSOとの記録なんて余り褒められたもんじゃない聴感のものが多かったのに、ここでは敢えてかどうか知らないがVOXのようなソリッドな音ではなく輪郭のぼやけた耳優しい音に巧くまとめられていて、ウィーン響の粗さが全く聞こえてこない。とくに弦だ。ウィーン響じゃなくウィーン・フィルだと言われても誤解するくらいまとまっていて聴き易い。ほんらいの姿ではないかもしれないが、クレンペラーの若干速めのテンポ(殆どインテンポ)と水際立ったリズム処理に俊敏に対応している「ように聞こえる」ため、録音がもう少しよければ◎にするのもやぶさかでないほどである。再評価期のクレンペラーの真価が問える内容といえよう。もっと引いた耳で聞くと実は同時期のクレンペラーにしてはそれほど速くはないこともわかり、特に2楽章がむしろ「遅い」ことにも気づかされるが、リズム処理の巧さが重さを感じさせず、とても心地いい。古典的というのともまた違う、これはウィーンの音のせいかもしれないが情緒も充分にふくんでおり過度にも不足にもならず、素晴らしい。3、4楽章についてもクレンペラーに通常感じられる情緒不足など感じられない。非常に立派で「聴き易い」ものだ。古い録音の遠さ、モノラルさが普段気にならない人なら、聞いて損はない。ライヴならではの雑音も楽章間を除けば殆ど残されていない。リマスターの勝利かも。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),◎クレンペラー指揮ベルリン放送交響楽団、トレッチェル(Sp)(HUNT他)1956/2/18・CD,,うーん、何度聞いても名演だ。ユダヤ臭はないが古典的整合性を重視とかいう次元じゃない境地である。唸りながらノリまくりのクレンペラー、かれに全幅の信頼をおいているかのように自在に操られる完璧なオケ。クレンペラーにはやはりベルリンが似合う。リズミカルで明確な刻み、しかし繊細な配慮の行き届いた音量変化をはじめとするルバート、必要以上にむせ返らないがてんめんなところはとことんてんめんな香気、全てがコントロールされているのにいささかもノリが失われず、とにかく愉しさすら感じさせる異例さで、他録も同じだがクレンペラーとこの曲の適性を考えさせられざるをえない。ワルターのように三楽章だけ突出することもなく(二楽章の舞曲表現の血も感じさせる見事さは特筆すべきだろう)全体としてコントラストがはっきりしているのにまとまっている。ライヴでこの精度とは。クレンペラー壮年期の物凄さを聞こう。HUNTにしては音もいい。◎。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○クレンペラー指揮ベルリン放送交響楽団、トレッチェル(Sp)(audite)1956/12/2・CD,,同じ組み合わせの名演ライヴ録音が存在するがこれは録音復刻状態がよくデータも僅かにずれているため初出ではないか。環境雑音からライヴとは思うが拍手はない。クレンペラーの古典に取り組むような真摯なアプローチ、ピリオドを思わせる強く厳しい発音に忘れかけていたクレンペラーのマーラーを思い出した。まったく独特でしかしフォルムに崩れはなく、前半楽章ではマーラーの楽器法ではなく和声の奇妙さをくっきり浮き彫りにし、三楽章では自ずとロマンチックな表情を表出させ心底揺さぶられ、その終止音がそのまま四楽章の冒頭に繋がるという、既存楽章の切り貼りとは思えないこれまたマーラーの離れ業をしっかり印象に焼き付けてくれる。歌唱はやや俗っぽいが、一楽章へ回帰するさいのヒステリックな祝祭的表現が柔らかさを打ち消してしまう。突然終わる、これもクレンペラーらしい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○クレンペラー指揮バイエルン放送交響楽団,リンダーマイヤー(SP)(music&arts/GOLDEN MELODRAM/green hill/MEMORIES)1956/11(10,12表記もあり)/19・CD
佳演である。聞き物は3楽章で、途中クレンペラーらしくない激しいルバートが入り、ドラマティックなロマンスを演出する。冒頭の震えるような弱音!響きは教会音楽を思わせる。大きな伽藍の中で祈っている。そこに顕れた深い淵、地獄をふと覗き込むような不気味な雰囲気はクレンペラーの独壇場。音符の少なく低い音で静かに動く箇所など素晴らしい。率直で武骨というイメージのクレンペラーだが、ノリまくりのオケ、特に弦楽パートを前に、少し気が入ったようだ。足踏みするようなテンポもここではそれほど気にならない。惜しむらくは(録音のせいかもしれないが)管楽の音程が時折低い方に揺れ、ハーモニーが決まらないところも散見される。他楽章は「イメージ通り」といってよい。ダイナミックな音とがっちりした表現に惹かれる。フォルテの音は割れんばかりで軋みも感じさせるが、この指揮者いつものこと。それでマーラー独特の「衒い」が無いかといえばそうでもなく、同時代者の凄みをも感じさせる。一押しではないが聴いてある種の充足感は与えてくれる。それはワルターとは別宇宙のものだ。オケは巧いほう。クレンペラーとバイエルン放送交響楽団の組み合わせでは2017年初頭に「復活」が廉価復刻された。この音源も詰め合わせになっている。,,
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マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○クレンペラー指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、シュターダー(SP)(RARE MOTH:CD-R/AUDIOPHILE*)1955/11/10LIVE〜なんて繊細な音楽なんだ!3楽章終盤を聴きながら私は唸ってしまった。クレンペラーの4番の記録はけっこう多い。インテンポで客観的な味もそっけもない演奏と思ったら大間違い、クレンペラーのライヴはなかなかに味わい深かったりするのだ。バイエルン、ベルリン、ケルンの放送楽団を指揮したライヴ記録が残っているが、まあどれも似たような解釈なんだけれども、オケの違い、歌手の違いというのは大きくて、ここで聞かれるコンセルトヘボウなどは録音の若干の悪さを押しても聴く価値のあるしっかりした演奏を行っている。やはりメンゲルベルク以来のマーラー・オケ、1楽章の対位的構造の明瞭な表現、2楽章の雰囲気のうまさ、3楽章(これが聴き所)の心に染み入るような歌、4楽章のシュターダーの少し上ずった歌唱と大地の歌を思わせる室内楽的なアンサンブルの完璧さ、魅力的である。クレンペラーの指示が隅々まで行き渡り、その意図するところ(それはけっして即物的なものではない)をさらりとやってのけているさまは感動もの。佳演だ。1楽章が途絶・欠落する箇所が何個所かある。〜惜しい!1楽章に二個所の欠落があるのが惜しい!それさえなければ大推薦なのに。ちなみに録音も悪い。当然モノラル。しかしこの演奏はクレンペラーの客観構築的な解釈から一歩踏み出したもので、「情緒纏綿なクレンペラー」というものを味合わせてくれる希有の演奏なのだ。コンセルトヘボウは渋い音色ながらもこの光に満ちた交響曲を美しく演出するすべに長けている。今更メンゲルベルク以来の伝統とは言わないが(じじつ演奏はぜんぜん違う視座にある)、マーラー慣れしたオケのかもす情緒がクレンペラーの棒にうまく乗っかり、魅力を倍加している。CDに付記された文では、ここでのクレンペラーを「自然体」と評しているが、たしかに不思議なくらいしなやかでゆるやかな棒さばきである。たしかにケルンのライヴでもクレンペラーにしては柔らかな情趣が漂っている気がした。幸福感が横溢している。クレンペラーはこの曲が好きだったんだろうな、と思った(じじつ残っている録音は2番に次いで多い)。だからといってクレンペラーはグズグズなカンタービレ音楽を作ることはしない。音の細部までもがきっちり几帳面に整えられ、締めるところは締めている。ここまで充実した4番はそうない。冒頭にあげた瑕疵を乗り越えられるなら、聴く者にきっと幸福を約束してくれるだろう。*同盤、現在ではコンセルトヘボウの歴史的ライヴを発掘しているポルトガルの廉価盤レーヴェルAUDIOPHILEより正式に復刻されている。レアモス盤にみられる欠落はまったく無い。ややソリッドな音で音質は良いとはいえず、好悪別れるかもしれないが、価格的に手ごろな価格なので機会があれば手にしてみるのも良いだろう。併録アイネク。(ちなみにレアモス盤の併録はモテット「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」でシュターダーが歌唱。),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),クレンペラー指揮KORN RSO、トレッチェル S29.2.11,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),クレンペラー指揮PHILHARMONIA O.、シュワルツコップ S36.4,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○ワルター指揮ローマ・イタリア放送交響楽団、シュレアン(S)(KARNA:CD-R)1959(52?)/4/19live,,時代なりの録音状態で雑音もあるし3楽章では中断もする。しかしKARNAはよいリマスターをしているようで聞きやすい。余りリマスターしすぎると音がニュートラルになり余り特徴的な部分が出てこなくなるのは確かで、この演奏でもイタリアの開放的な演奏という感じがしない、何かNYPなど既出盤を聴いているようなある種「ワルター慣れした人間には飽きてしまう要素」が感じられてしまいそれもどうかというところもある。いい意味でニュートラルで、ワルターのカンタービレが過度にならず聴けるから、雑音を除けばワルターの4番初心者にも薦められるものだろう。すれっからしには単にワルターにしては引き締まった演奏ぶり、程度。○。tahraで正規化した音源と同じとのこと、中断もない(録音年は1952年が正しい模様)。後日別項で挙げます。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○ワルター指揮ローマ・イタリア放送交響楽団、シュレアン(S)(tahra)1952/4/19live・CD,同上?,TAHRAのモノラル音源復刻はどうしたものか原音を痩せさせてしまうというか、レンジのきわめて狭い音場、すなわち一点「モノラル音そのもの」に押し込めてしまうようなところがあり、拡がりや潤いが必要なマーラーではしばしば首を傾げさせることがある。この録音もいかにもモノラルな音になってしまっていて、元の録音が悪いせいもあるのだがイタリアオケならではの高弦のカンタービレ音を全く聞こえなくしてしまっている。ノイズ除去の結果なのかどうか知らないが。演奏自体は激しい。とくにしょっぱなのコンマスソロから奇怪な伸縮を続ける2楽章、ワルターの独壇場と言える3楽章においては他盤にも増して激情的なワルターを聴くことができる。4楽章は歌唱がなかなか繊細でよい。1楽章は録音状態のせいもありがちゃがちゃしてしまって聞きづらい。乾燥した録音・復刻状態で艶めいた音色が聞き取れないのが少し辛い。この録音は別項にあげたKARNAのCD-Rと同一演奏とのこと。あちらにある間断はこちらには無い。一長一短か。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○ワルター指揮ボストン交響楽団、ハルバン(S)(SEVEN SEAS/KING)1947/3/25放送LIVEニューヨーク・フィルとの演奏と同じハルバンとのセッション。音はかなり悪いが、オケが非常に引き締まっていてうまい。精巧である。楽器の音が無個性でやや冷たいようにも感じるが、録音のせいかもしれない。ワルターは他盤にくらべいくぶん客観的だが、それでも「浮き立つようなリズム」や「いつもどおりの素晴らしいルバート」が冴え渡っていて面白い。音が悪くても十分聞ける。ハルバンも手慣れたもの。ちょっと単調な気もするが。最後まで、いつもどおりのワルター解釈なのだが、オケのどこにも瑕疵のないライヴ演奏は珍しい!よかった。拍手はおだやか。KING盤CDは私家盤LPにくらべ決して良い音ではなく、LPのほうがむしろ聴き易い感もある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○ワルター指揮ボストン交響楽団ほか(DA:CD-R)1946-47live,同上,既出かもしれない。録音状態は雑音が多いが同時期のワルターライヴとしては標準的。演奏はかなりスピーディでインテンポ気味に力強く押してくるスタイルで、30年代ヨーロッパライヴを彷彿とさせるもの。マーラーでも民族的な舞踏要素の目立つ楽曲だが、装飾音符の頭を強調しリズムに独特の民族性を持たせている部分が目立つ。ボストンというわりとヨーロッパ的といわれるオケのせいもあるのかもしれないが、アメリカオケのイメージとはちょっと違った印象を受ける。2楽章終わりで拍手が入ってしまい、ワルターはそれを無視して3楽章に突入するというハプニングがある。この曲が知られてなかった証左かもしれない。3楽章はいつものワルター節だ。ソリスト不詳。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),ワルター指揮NYP、ハルバン(sp)(COLUMBIA/SLS他)1945/05/10スタジオ,,戦争末期のセッション録音でSP起こしのSLSの音はというと、パチパチノイズの嵐。慣れていないと聴いてはいられない。アナログ生音源ではないためデジ化によりエッジの立ったノイズが凄まじい。最近のSLSはましになったがこれは昔のSLSの、超マニアック音源と言うべきものだろう。生なましいのではなく剥き身という感じ。音はマーラー向きで明るくはなく、一楽章前半こそ鈍重な感じもあるが、その印象はすぐになくなり、四楽章に至っては俊敏なアンサンブルを楽しめる。歌唱も安定している。セルフノイズキャンセリングすればまだワルターが最盛期の香りを残した速いスタイルに胸踊らせることも可能かもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),◎ワルター指揮NYP、ゼーフリート S28.1.4,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○ワルター指揮ORCHESTRE NATIONAL(FRANCE)、シュターデル S30.5.12,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○ワルター指揮ウィーン・フィル、ギューデン(DG)1955LIVE買ったときはさほど印象は無かったのだが改めて聞き返して、精妙・芳醇な響きと良好な録音に至福のときをすごせた。ワルターの微にいり細にいる解釈が好調なウィーン・フィルの表現力をもって遺憾なく魅力をはなっている。ライヴゆえどこにも瑕疵が無いとはいえないが、他演よりは余程少ない。ソロ楽器の音外しが僅かでも耐えられない向きには薦められないが、総じて佳演といえよう。3楽章はどちらかといえば明るめの表現で、全編天国的な眩さに満ちている。このあたりもう少し暗さも伴うほうが私は好きだが、曲表現としては真っ当である。4楽章はギューデンの歌唱に少しの衒いも無いのがやはり好みではなかったが、これも真っ当であろう。一聴損無し。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),ワルター指揮ACO、シュワルツコップ S27,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910)〜T抜粋(リハーサル),ワルター指揮ACO(動画配信)1952,,9番のリハはCD化もされてますが4番のしかも動画は珍しいですね。,,"",https://youtu.be/A8nS3JO-BzQ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),ワルター指揮VPO、ゼーフリート S25,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),ワルター指揮VPO、シュヴァルツコプフ(CD初出M&A)1960/5/29LIVE告別演奏会らしい独特の緊張感に満ちている。硬く明瞭にひとつひとつアタックを付け直すような発音により、終始遅めのテンポを保っている。要所要所ではルバートするが、それもかつての柔軟なものではなく、むしろインテンポとも思える解釈はクレンペラー的ですらある。タテ線の軋みも感じるし、アンサンブルが少し弛緩してしまった所もある(冒頭など)。かつての手兵ウィーン・フィルは割合あっけらかんとした現代的な発音が目立つが(録音のせいもある)聴感は総じてほの暗く、同曲で喜びを表現しつづけてきたワルターとしては異質だ。弱音部の精妙な音響演出も50年代ライヴを聞き慣れた身には耳新しい。そこに流麗で暖かなロマンチシズムは無い。ワルター晩年の透徹した視線を感じる。聴き所は後半楽章だ。ワルター得意の第三楽章は、明るいだけではない、深層に迫る思索のふかい演奏。非常にゆっくりとしたテンポを保ち、徒らに感傷に陥ることはない。中間部は出色。重厚で畳み掛けるようなフレージングに心を抉られる。暗い夢の回想。所々に顔を出す静かな諦念。これこそマーラーだ。第4楽章も、「大地」の中間楽章をきく様だ。哲学的なまでの深い心根を持つ演奏である。歌手は独特のヴィブラートをきかせて表現力豊かな所を見せるが、録音のせいか少し弱い(特に高音の輪郭がぼけてきこえる)。だが歌もオケの拡がりの中に吸収されてしまったかのような交響曲的表現であり、そう思って聴けば違和感はまったく無い。一音一音をしっかり噛みしめていく中に微妙なテンポ・ルバートが絡んで、ヤワな落涙慟哭などではなく、深刻な想いを一心に込めた演者の姿を想像させる。末尾は何かしら葬送の祈りにも似た暗い沈黙の中に消え入るさまが何ともいえない。名演かといえば疑問だが独特の演奏であることはたしかだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),ワルター指揮フランクフルト歌劇場(博物館)管弦楽団、アンネリー・クッパー(green hill他)1950/9/4LIVE 弦は巧い。さすがヴァイオリンは強力である。しかしオケとしては各パートがばらつきがちで、テンポのズレが生じるに至って少し耳を覆いたくなる。また、音が全般に冷たいため、この暖かい光に満ちた楽曲が少々損なわれ気味。ワルターも苦しんでいる。ワルター解釈のダイナミズムをきくならウィーンかニューヨークを・・・。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910)〜W.(ピアノ編曲),作曲家(ピアノロール)(teldec/victor/tacet/Preiser/WME他)1905/11/9・CD,,ヴェルテ・ミニョン録音の多種多様な自作自演ものはCD時代になってやたらと再発されまくり、マーラーのようにロールしか残っていない人気作曲家については単純に現代ピアノで再生したものから加工も含めて録音時の再現性を高めた(実際はわからないのであくまで想定であるが)ものまで質も聴感も違う。特にLP時代のモノラル録音など現代の耳からすればひどい音で、それを板起こししたものさえあるから始末に負えない。,,但し、ピアノロールはあくまでパンチ穴に記録された「音」である。もともと残響は記録されないし、音色は再生するピアノ次第、強弱程度はわかるが繊細なタッチは脳内で補うしかなく、機構上どうしても「よたって」しまう。それらの補正にも限界がある。参考資料として、あるいはマニアが愛好物として楽しむのであれば、いくつか原盤・環境(楽器等)・録音補正違いのものを購入するのもよいが、私はコンドン・コレクションの最初の青いCDをはじめ四種が限界であり、それで十分満足している。過度な補正などはむしろもともとの演奏から離れる可能性もあるのは流行りの補正盤同様。評価の高い近年のもの(TACETのスタンウェイによる残響の大きい盤、Preiserのマーラー愛器ブリュートナーによる盤)は楽しめるとはいうがそういう意味で未入手。所持盤もそれぞれで、最近のWME(CD-R)などひどくよたっていて聴くのが辛いが、ドビュッシーのものにも感じられる「オールドスタイル」、もともと音楽自体の示すままに、今の耳からするとよたったようなテンポをとっているところはあろう。歌謡的な大ルバート(歌曲楽章だから歌謡的なのは当たり前だが)、大仰なアルペジオ、性急なテンポなど、名の通ったレーベルの盤であれば十分わかるし、あんまり高額出さなくてもいいです。,,一個のピアノ曲として劇的に演奏している面もあろう。マーラーの指揮スタイルはかなり揺らすものであったという説もあったし、古臭い、おかしい、というほどでもない。そのスタイルはこの曲より、5番1楽章のロールではもっとしっかり伝わります。こちらもやたら再発再録音がある。これに加え「若き日の歌」〜緑の森を楽しく歩いた、「さすらう若人の歌」2〜朝に野辺を歩けばと計4曲を同日一気に録音したのが自作自演全記録。,,"http://www.nicovideo.jp/watch/sm14570709",,"youtube(全4録音)",-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910)〜W.(ピアノ編曲),○作曲家(P-ROLL)(TELDEC,BELLAPHON他)1905・CD,同上,躁鬱なテンポ設定ゆえロールだと急進部の細かい音符がきちんとリズムどおり聞こえてこない。ぎくしゃくしている。もっと自在な動かし方をしている筈で、確かにメンゲルベルクの解釈がマーラーの気に入ったというのはわかる気がする。ただまあ、歌曲なのだから、とくに不思議な揺らし方ではない。耽美的。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○スツェンカー指揮デュッセルドルフ国立交響楽団、ソレル(Msp)(ARCHIPHON)1960/5/13LIVE・CD,,無骨で真面目なマーラーで、やはりドイツ流儀という特有の雰囲気を感じるが(多分に渋い音のオケのためというのもある)3楽章だけは重厚な語り口でいながら情緒的な揺れをかなり盛り込んできている。4楽章も歌唱共にまじめで面白みがないが恍惚とした雰囲気は感じ取れ、ちょっと独特の魅力をもつ。クレンペラーに近いかもしれない。スツェンカーは10台の頃にマーラーと会見しているが師弟関係は無い。○。原盤の劣化が時折耳につくがクリアなモノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○テンシュテット指揮シカゴ交響楽団、Auger(s)(SUNJAY:CD-R)1990/6/7live,,アメリカ製とあるが日本で作っている匂いのする海賊盤。録音はまずまずステレオのクリアなもの、やや金属質か。演奏はテンシュテットらしく暗く静かに沈み、また突然ヒステリックになり、シカゴ響のせいかもしれないが、満天を覆う雲の下にとどろく空疎なひびきが支配的な何とも言えないやりきれない感じがする。これもまたマーラーなのか。演奏的にはややぎくしゃくもしないでもないがそれがいかにもこの曲らしい骨ばったメルヒェンを表現しているようで、また何とも言えない暗澹たる感じがする。すべて歌は歌として表現されているのにそれはまるでサウンドスケープの一部でしかなく、どこまでも続くヒースの原野にたたずんでいるような絶望の音楽。「美しい」の呟きで始まるブラヴォ・拍手はこの演奏がなかなかすぐれていることを示しているが、何か嫌な予感のする、いや音楽的には図星なのだろうが、何か嫌だ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○テンシュテット指揮ボストン交響楽団、ブライン・ジュルソン(MEMORIES)1977/1/15live・CD,,前半楽章は手堅い。2楽章にもデモニッシュなものは感じられず、明るくはっきりした演奏だ。しかし音符の一つひとつを慈しむかのような3楽章になるとやっぱりそこに力点を置いてきたか、といったところである。悲劇的な叫びや孤独で不安な歌いぶりから前向きな主題に回帰したとき、テンポを俄かに上げてしなやかにどんどんドライヴしてゆくさまにはテンシュテらしさ全開。オケとの相性もいい。というか弦が強力じゃないとボリュームが出ない曲だから弦がアンサンブル的にまとまっていてしっかり響かせられる音量を出せていないと、なかなか感情の綾の隅々まで表現を求めるテンシュテの芸風を活かすことはできない。テンシュテの場合オケの内面的燃焼度はあまり重要ではないからこそ(解釈は十分感情的なのだから)アメリカオケの機能性オンリーな性格にもあっている。4楽章もそうだがリズム取りは絶妙の域。激しいが見事。後期をさばくような構造面をしっかり把握したうえで起伏を盛り込んでゆく手法ではあるがこんな充実した4番もありだろう。この曲はそもそもマーラー屈指の構造をそなえた曲である。穏やかな独唱も綺麗。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),テンシュテット指揮ボストン交響楽団、フィリス・ブライン−ジャルソン(SP)(000CLASSICS:CD-R)1977/1/15LIVE,同上, いたって危なげなく普通の演奏。巧いところはたしかに巧い。しかし私はこの曲を濃厚なワルターのライヴで聴き慣れたせいか、どこかしら物足りなさをおぼえる。無論オケは技術的に巧いし音色もいい。だが、あまりにすんなりと聞けすぎてしまう。こういう根っから明るい曲はテンシュテットにはあわないのか?なんとなく腑に落ちない気持ちが残ってしまった。終楽章の晴朗な響きはよかったが。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○ハイディ・グラント・マーフィー(MSP)マゼール指揮NYP(NYP)2006/9/20〜26live,,NYP公式ほかで配信されているマーラーティクルス音源の一つ。ゆったりと透明感ある表現ぶりは独特で、大オーケストラを駆使しながらも、出てくる音は密やかとすら言える。NYPらしくない美しさだ。2楽章の止揚する音楽には浸りきってしまう。最初の調弦を下げたコンマスソロが荒すぎると思えるほどにスケルツォを支配するのは夢の中のウィーン情緒である。3楽章のほうがむしろ霞んでしまうほどだ。歌唱は若い!喉が横に開いたような感じでちょっとそれまでの楽章との噛み合わせが悪い感じもした。○。,,"",,<ランキングサイトへの投票ボタン。なんか無意味そうなので効果なければやめます。宣伝したいわけじゃないけど、計測したい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○ベイステル(MS)ケンペン指揮ヒルヴァーサム・オランダ放送フィル(TELEFUNKEN/DOREMI)1949/12/28・CD,,一応CDと書いたがマーラーディスコグラフィなる余計な一冊が付いて2万円とはさすがの米国マニアもビックリの様子だった。SPはこんなにはしない。私の聴いた原盤は音量が大きくなると聞こえなくなるダメ原盤だったが、演奏内容を鑑みてレストアされていても二万円は高すぎる。ハント版目録だとしたらペーパーバックだから旧版はプレミア載せても五千円くらいだったと思う。だいたいディスコグラフィなんて復刻新発見目まぐるしい昨今水物で五年もすれば役に立たない。古い情報なら古い安本かネットで十分。かつて私もハードカバーの研究用ディスコグラフィなど二万円以上で買っていたこともあるが、今やアルファベットで彩られたゴミクズだ。見識を疑う。演奏はテレフンケンの正規録音でめずらしくもない。ヒルヴェルサムは上手いといえば上手いが、録音が古くいまひとつわからない。歌唱は最初とても心もとないくぐもった声で入るが次第に乗ってはくる。ただ前に書いたように声を張り上げると音が小さくなる録音のまずさ。解釈は実直で滑らかさは無いが音楽的に楽しめる。クレンペラータイプだ。ケンペンは1番が新発見ライブ音源としてtahraより出ている。私は誤って二枚買ってしまった。一枚は枚というより組、MP3ダウンロードである。古い音源だから圧縮音源で十分ということもなく技師によってはmpeg特有の軋みを生じさせてしまい耳障りに聞こえることもある。だからCDも持っててよかった。よかったのだ!ダウンロード購買だとライナーは付かないが1000円ほど安い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○ベイヌム指揮ACO、リッチー(sp)(DA:CD-R)1952/5live,,基本的に剛直・テンション高留まりの、50年代にありがちな演奏スタイルだがちょっと技術的に軋みを生じている部分もあり、終楽章冒頭にいたり独唱とオケのテンポ感のズレという形ではっきり露呈してしまっている。リッチーの歌唱は落ち着いていちいち思いなおすような生硬なもので、オケ側がえんえんとスピーディな演奏を繰り広げてきただけにそれにあわせることができず、指揮者もどちらかといえばオケにあわせたまま調整しようとしているような感じだ。これはリッチーがKYなのかもしれないが(この「流行語」いつまで通用するんだろ)、この終楽章はちょっといただけなかった。最後はなかなかの詠嘆ではあるが。いちおう○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),ベイヌム指揮ACO、リッチー (PHILIPS)1951,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○ベルティーニ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団、ニルンド(sp)(WEITBLICK)2004/2/29live・CD,,緻密な構成感、一縷の隙もない計算し尽くされた解釈の、更にライヴとしてドライヴの効いた表現ぶりである。素晴らしい。ベルティーニ最晩年のものだが遅くて透明な「よくある最晩年の指揮者の解釈」の様相はなく、あくまで力強いアンサンブルとドイツ式の男らしく整えられた音楽がこうじられている。意外なほどマーラーであり、ともすると日本でマーラー指揮者として持ち上げられていた時期よりも前の芸風に戻ったような壮年の相もある。3楽章など完璧すぎて却って人間性を失うようでもあるが、4楽章など深刻な相の無いこの曲にもっとも似合った解釈を示し人間性を取り戻している。○。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),ベルティーニ指揮KORN RSO H1,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○マンダック(Sp)オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(ETERNITIES:CD-R)1972live,,馬力のあるオケで勢いのある演奏なのだが、スタジオ録音を聴いているようで、それなら録音のはるかにましなスタジオ録音で聴きたいところだ。アメリカの職人的指揮者のそつなさ、の典型のよう。さらっと聴くには向く。二楽章のソロバイオリンの音が汚すぎるがこれは仕方ないか。三楽章でひどい音飛びがあるのは私の盤だけか。とにかく、ステレオではあるが雑な録音がいただけない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○ロスバウト指揮バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団、ログナー(SP)(ARCHIPEL)1959/5/14放送録音・CD,,スピーディーでさらっとした演奏だがオケはよく鳴っているし統率は素晴らしい。三楽章が唯一起伏をつけたダイナミックなものになっているがそれ以外はマーラー的な「世俗性」を感じない。一本調子にすら感じた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○ロスバウト指揮バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団、レクナー(SP)(URANIA)1951・CD,同上?,放送ライブか。スピーディで鮮やかな演奏ぶりで、付加された残響からロスバウトの色彩性を窺い知ることもできる。素晴らしい高精度かつ適度に感情的(時折意味不明なテンポ設定もあるが)なマーラーであるが、一点、とくに終楽章後半で録音の痛みが激しく補修も追い付かないほど聞き辛いものになっている、惜しい。ロスバウトはつくづく録音に恵まれていない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○エリアスベルク指揮ソヴィエト国立交響楽団、ロジェストヴェンスカヤ (Sp)(great musicians of palmira du nord/MUSIC ONLINE)1954/10/19live・CD,,ソヴィエト国家を代表するオケならでは、さすが。レニフィル同様出来不出来の差がある(二軍の存在はともかく)同じロシアオケなれど、ソリスト級の奏者を揃えてなお強固な合奏力と強力な表現力を兼ね備えることのできた時代の「幸福なほうの記録」の一つといえよう。ライヴだから決して期待しすぎてはいけないが、世評よりずっといい演奏、まさにマーラーらしい演奏であると感じた。ソリストも強力で危なげなく、二楽章のコンマスは調弦を下げているとは思えない安定した音で歌っている。歌いまくらせる、という指揮者ではないのでその点は注意だけれども、レニフィル二軍と演奏する時とは違って、颯爽とした解釈がちゃんとオケに反映され、それが西欧的な香りをすら漂わせ、一部にみられるロシア式の特殊な音色すら余り気にならない。中間楽章がとくに出来がいい。母ロジェストも悪くない歌唱である。エリアスベルクの芸風の代表例にあげていいうちの一枚である。一点、この人の録音は中声部以下で聴こえるべきところで聴こえなかったり聴こえづらかったりする音がよくある。この演奏でも録音バランスの悪さは感じた。古い録音なので、その点も割り引いてください。もしくは、割り足して聴いて。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○近衛秀麿指揮新交響楽団、北澤栄子(sp)(DENON/日本COLUMBIA/ローム)1930/5/28,29パルロフォン録音・CD,,メロメロで縦ずれ危なっかしいが、きっぱり歯切れいい近衛の棒によって崩壊せず寧ろ引き締まった感さえ与える演奏に仕上がっている。アーティキュレイションに古めかしい所も無きにしもあらずだが、基本的に粘らず直截である。エーリヒ・クライバーに私叙していたのもさもありなん、古い録音のため音色が潰れているからなおそう感じるのかもしれないが現代的である。録音のせいかピッチがずれて気持ち悪い箇所もあるし3楽章から4楽章のところでカットがあるが、同曲最古の録音(マーラーのシンフォニー全曲録音としてはフリートの復活に次ぐ二番目の古さ)としての資料的価値のみに留まらない面白さがある。一種アマオケを聞くような一期一会の緊張感があり(といいつつソロ楽器がコケまくりだったりもするが)2楽章あたりからマーラーらしさが感じられてくる。奇怪さがよく演じ上げられている。基本的には明るい色調ではあるが3楽章などワルターを思わせるドラマがあり、テンポは基本的に速く揺れないものの、美しくむせ返るような音には感じ入らざるを得ない。古典的な構成感を大事にしながらも時代の景色を香らせて、5番アダージエットの先触れとなる弦の終止音形あたりの幻想味などなかなかに感動的だ。落ち着いた4楽章のテンポも前楽章の余韻を残していてよい。依然幻想は続く。オールドスタイルの歌唱は同時代の西欧の歌手の録音に決してひけをとるものではない。進駐軍のレコードマニアが日本に来た時買いあさって一時品薄になったというこのSP音源、1、2回CDになっていたかと思うが恐らく現役ではない。どこかで見掛けたら手に取ってみて下さい。なにぶん古いので過度の期待は禁物ですけど。録音月日はN響の4楽章抜粋盤と相違するが恐らくこちらが正しい。ソプラノの名前が違っているが同一人物である。どちらの記載ミスなのかわからないのでそれぞれの盤にあわせて書いておく。2006年1月ロームのSP日本録音復刻集第二弾で10数年ぶりに復刻された。,-----,,TITLE: マーラーの交響曲第4番の謎,URL: http://suisse.exblog.jp/2043651,BLOG NAME: 鎌倉・スイス日記,DATE: 06/13/2005 21:06:02,マーラーという作曲家は実に不思議な作曲家だ。先日、第5の交響曲についてエントリに対して、そのテーマが第4番の第1楽章の展開部の終わりに出てくるのは何故?という\"じぃさん\"のコメントに、数日にわたって考えさせられてしまった。確かにそのフレーズは出てくる。そ,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910)〜W,近衛秀麿指揮新(NHK)交響楽団、北沢栄?(SP)(NHKSO)1930/3/2?,同上,残念な事に今手元には全曲盤が無い(注;2000年時点の話、別項に全曲掲載)。マーラー4番の世界初録音となった有名な録音である。戦後進駐してきたアメリカ軍のレコードマニアがこのSPをこぞって買いあさったと昔の音楽現代で読んだ。非常に貧しい音だが、テンポ・ルバートの多用など情緒纏綿なところが少なからず聞かれる。ソプラノの歌唱はこの時代にしては素晴らしい。いくぶんはっきりしないところもあるが、綺麗に遠くまでひびく声である。オケもなかなかに引き締まっているように聞こえる。近衛の棒は確かだ。ここでは無印にしておくが、昭和一桁時代の録音としては物凄く優秀なものであると思う。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),クーベリック指揮ACO、アメリング(sp)(WME)1962/5/2live,,非常に達者なオケにボリュームのある表現。音色変化など配慮が行き届き細部まで統制された見事なアンサンブル。骨太な印象ではあるがオケのみならずクーベリックのこなれたマーラーが楽しめる。壮年期録音ないし一部ライヴ録音から期待される破天荒なところはなく、DGのセッション録音に近い。オーソドックスなマラ4として楽しめる。歌唱は管弦楽と同調するように程々に明るい。特徴的なところはない。一部ノイズが入るが良好なステレオ録音。WME(CD-R)盤はなぜかマーラー自身のピアノロール録音(四楽章)を併録。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),クーベリック指揮BAYERISCHEN RSO、モリソン(DG),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),D.オイストラフ指揮MOSCOW PHIL.、ヴィシネフスカヤ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),D.オイストラフ指揮ORTF、イヴァネヴァ(msp)(ina配信)1968/4/30live放送,,中低音域のしっかりした分厚い響き、その統制ぶりでフランスオケではないような演奏を引き出している。しょっぱなから派手な左ヨレが二か所ありがくっとくるがおおむね良好なステレオ。テンポよく(速い!)リズムよく、正面切って颯爽と進むが軽量級ではなく、分厚いオケを堂々と動かし新即物主義からの影響も感じない。打楽器を派手に鳴らすのはロシア流儀だろう。パウゼの多用も強調処理としてロシアを感じさせる。3楽章もいきなり左側がノイジーになってしばらく情報量自体の削られた状態が続き清浄な音楽を損なうが、こういうところが正規盤化されなかったゆえんか、これは放送エアチェック音源なのだろうか(それにしては撚れのない部分の音がノイズレス過ぎる)。情緒的なものをよく分厚い弦楽セクションに伝えている。徹底しており、チェロのポルタメントなど他では聴けない。耽溺することなく雄渾に表現していく。4楽章も僅かな録音歪みはある。イワノワは声が若く滑舌の甘く感じるところもある(言語的問題だろうか)。ここでもオケの調和を厳しく統制し、フランスオケではないかのような錯覚をおぼえる。しばらく沈黙が続き、盛大な拍手となる。ブラヴォも飛ぶ。演奏日は推定。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),ギーベル(SP)カイルベルト指揮ケルン放送交響楽団(weitblick/SLS)1967/12/8live(1967/12/28?)・CD,,SLSは28日としているがおそらく同じ演奏。一楽章から凄いバラケ方をしていて、ドン臭いなあ、この頃のケルンはまだこの程度の技術だったんだなあ、音は相変わらず無色だなあ、と思いつつ、カイルベルトの「ドイツ臭いマーラー」の分厚い響き、重いテンポによるじっくりとした語り口には魅力を感じる。二楽章の調弦をズラしたコンマスソロがほんとに調弦狂ったような感じに不安定になっているのもドン臭い、やはり弦の俊敏さに欠けるから協奏的な同曲にはちょっと向かないかなというところもある。ウィーン情緒を醸そうとフレージングを工夫するも音色が一定して冷たいのでテンポにのみ感じ取れる程度。三楽章は軟らかな耽溺こそしないものの美音に情感を籠めて透明感のある爽やかな音楽をこうじている。カイルベルトは音符の最初からしっかり発音させ、軟かく小さな松葉をつけて発音させることがない。それがこののような明瞭なステレオ録音だとあからさまに耳につくのだが、三楽章についてはいくぶん弱められ、展開部では意外とフレージングへの配慮の行き届いたさまが激情として聴き取れる。オケは相変わらずだがマーラーらしくやろうとしている。深淵を覗き込むような音が少なく低く長く暗い場面は後期すら彷彿とさせる諦念だ。転調すると意外と主張するチェロが浮き立つように愉悦的に音楽を盛り立て、弱体なヴァイオリンを押し上げる。だがやはりホルンや木管が挽歌を奏でる暗い音楽のほうが音域的にもカイルベルト向きかもしれない。角笛交響曲の児戯から離れ、悲劇的の四楽章をほうふつとする。後期作品への予兆と取れる断片が散見される楽章だが、基本的には天国的な明るさを志向してはいるので、解釈としてはワルター的なやり方のほうが耳には残るだろう。カイルベルトは終幕へ向けて長い音符を印象的に響かせながら微妙な機微を詠嘆的に聴かせておき、「大いなる喜びへの讃歌」を炸裂させて劇性を高めるも、それはあくまで空疎であり、やはりゆっくりと着地するほうを選ぶ。感情に任せた若々しい音楽にはしない。ヴァイオリンの長い高音、ハープのとつとつと明確な響き、そこから下降する「アダージェット音形」に至る終幕のほうがしっかりと耳に残るようになっている。四楽章は本来的にはどうあれこうなると付け足しのような歌曲だが、伴奏の付け方は上手い。俊敏とは言えない弦や木管に細かい動きをはっきり付けさせて、一楽章の再現など一楽章より良く出来ている。歌唱はライヴなりの少し甘いところはあるが、力がある。終盤素晴らしい。環境雑音があるのでライヴと書いたが拍手はなく、恐らく放送用ライヴだろう。ステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○ウィン・モリス指揮ロンドン交響楽団、ロザリオ(collins)なかなかの名演。とくに3楽章は、この人独特の静謐(冒頭の凄まじい弱音!)を保ちながら、ゆっくり、ゆっくりと世界を広げてゆき、いつしか明るい光彩の中にすべらかな激情の波打つさまが美しい。2、8番そして10番クック版の終盤と同様、暖かなロンドンのオケとそれを率いるモリスのえがく壮大な水彩画にただただ浸ろう。他には無い類の演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○オッテルロー指揮ハーグ・フィル、シュティヒ=ランダール(EPIC他)CD スマート且つ緊密な演奏。音に確かな情熱も感じられるなかなかの秀演。オッテルローの棒は同曲を古典の一作として、またウィーン情緒の発露と踏まえ的確な表現をおこなっており、オケの力量もそれにこたえることのできる素晴らしいものがある。音色が適度に明るく実におだやかな気分にさせてくれ、同作に期待されるものを十二分に味あわせてくれる。「マーラー指揮者に期待される類の」個性的なものは無いかもしれないが、入門版として最適ともいえる。モノラルにしては音が良い。CDになっているような気がするが、手元にLPしかないゆえここではレコードのレーベルだけを挙げた。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○クライネルト指揮ベルリン放送交響楽団(SOUNDS SUPREME:CD-R)1972LIVEさらさらして地味無難な演奏だ。オケは巧いし指揮も的確であるが、+αが無い。3楽章が聴きものと聞いていたのだが、やはり普通という第一印象。奇をてらわない古典音楽的な演奏は確かに美しいが、元々音質が悪い(音自体は明瞭に捉えられているが放送録音のようなホワイトノイズや混信のような雑音が大きい)ために本来あるべき透徹した美感がやや損なわれている。北方的な冷たさが1、2楽章などではすっきりした感じを与える反面穏やかに暖かな春の音感に欠けている。発音は比較的激しいのだがテンポが殆ど変化せず、イマイチのめりこむことのない客観性も感じられてしまうのだ。31Q楽章よりもアタッカで入る4楽章の音楽のほうが印象的。3楽章で膨らみ4楽章で落ち着く演奏はよく聞くが、このように3楽章は古典的表現に留めておき、4楽章で初めて雄弁に語りイマジネイティブな解釈表現を尽くすという設計は珍しい。ヴォイトヴィッツの歌唱は録音バランスのせいでちょっと耳につくが、オケの細心の込められた演奏を損なうことはない。終楽章に○をつけておく。それほど取り立てて騒ぐほどの演奏とは思えない。「隠花植物」というライナー評はどこを見て言っているのか???拍手は消されているが、かわりに変なピアノ曲が混信しているのはご愛敬。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○クレツキ指揮フィルハーモニア管弦楽団、エミー・ルース 清い空気に満ちた佳演である。一楽章、しなやかな音楽だ。古典的と言われる同曲に期待される雰囲気をよく描き出している。ダイナミクスやテンポへの細かな表情付け、局所的にかなり恣意的な解釈が演奏に独自色を加え面白くしている。この人特有といえる無骨な音響の取りまとめ方も耳につくことは無く、寧ろマーラー流の毒を下卑ない程度に演出しているように聞こえる。録音バランスが少し変で、右からダイレクトに響く高音木管楽器がややうるさいか。そのかわり弾けるようなテンポ感に基づくフレージングの妙をたのしむこともできる。一方ペットなど金管はもっと突出して聞こえたほうが良いかもしれない。二楽章は一楽章の牧歌的な雰囲気のまま、おちついたテンポで少し客観的な表情を保つ。軽いメルヒェンといった風。三楽章は出色。非常に静かで清澄な音楽。祈りの音楽。陽の光差すどこまでもつづく野のほのかな哀しみ。息の長い旋律のオーボエ謡い廻しのすばらしさに感動した。チェロ・パートソロ旋律の息づくようなフレージングといい、巧さに舌を巻く。後半の悲劇的な表情は依然距離を保った柔らかなものではあるが6番のアンダンテ楽章を思わせる影を落とす。最後の眩いばかりの光は”解脱”を演ずるワルターなどとはまた違った味わいをもち、深い心象をもたらしてくれる。四楽章は野菊の様に無邪気で活発な音楽。非常に音のバランスが良い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○ショルティ指揮ニューヨーク・フィル、ゼーフリート(NYP)1962/1/13LIVE 強い表現意思を感じさせる立派な演奏だ。しっかりとした各声部の発音、NYPの技術力の裏付け、ダイナミックなダイナミクス、総体の音響の絶妙な操作により、モノラル録音なのに立体的に聞こえてくる。男らしい演奏だがむせかえるような美の演出も忘れてはいない(1楽章ヴァイオリンのポルタメントの艶美!)、それにしてもさすがNYPだ。3楽章ではブラスに瑕疵が認められるものの弦楽器はすべからく絶品である。一楽章は特にすばらしい。二楽章はコンマスをはじめやや荒く乱暴な発音が目立つ。三楽章は清澄というより荘厳という言葉が似合いそうな教会的な雰囲気が印象的。四楽章は手馴れたゼーフリートの歌唱が余りに速く、あけすけな発音も目立つがまず合格点だ。総じて佳演といえる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),○スワロフスキー指揮チェコ・フィル、ローレンツ(MSP)(SUPRAPHON)1972/6/20-23,73/6/8凄く気品のある演奏だ。スワロフスキーはどこまでも透明で厳しく整えられた音楽を奏でている。オケも巧いが決して主張せず指揮者に付き従っている。それがこの曲では当たり。5番みたいなチグハグな超客観解釈になっておらず、ずっとこなれている。明るい曲に明晰な解釈がマッチするのは道理だ。構造が見え易いといえばそうで、5番アダージエットを予感させる何気ないフレーズや、巨人1楽章のエコーがクリアに聞こえてくる。音楽的純度の高い演奏ぶりは、通常純度高い系に入れるべきウィン・モリスやクレツキの演奏など超ロマン派的でベタベタだと思わせるほどだが、それが肝心の3楽章から灰汁を抜き去ってしまって物足りなさを感じさせるのも事実。でも1、2楽章はそれを補って余りある美しい演奏で、この曲がなぜマーラーの古典交響曲とみなされるのかがよくわかる。これはもう、モーツァルトとか、そういう系統の音楽だ。そういう系統の音楽として振っているのだ。独特であり、なかなかである。○。ただ、この芸風は受け継ぐのが難しいだろう。事実アバドをはじめとしたスワロフスキー門下の指揮者たちはみなバラバラな芸風だが、一人として超客観解釈に拘っている人はいない。それにしてもチェコ・フィル巧い。。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),コンドラシン指揮MOSCOW RSO(ロシア語版)、ピサレンコ S47,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910)〜W,コンドラシン指揮MOSCOW RSO(ドイツ語版)、ピサレンコ S48,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),バルビローリ指揮BBC SO、ハーパー,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),ブーレーズ指揮BBC SO、ガエターニ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),フェドセーエフ指揮MOSCOW RSO S55,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),ブリテン指揮ロンドン交響楽団、カーライル S36.7.6,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),マゼール指揮BERLIN DEUTSCHES SO、ジーベル S44/10/16,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),マゼール指揮BERLIN RSO、ハーパー S44,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),マゼール指揮VPO,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),メンゲルベルク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、ヴィンセント(PHILIPS)1939/11LIVE 気合系の演奏をするメンゲルベルクの気合盤のひとつ。第二楽章の冒頭からの勢いや中間部の厚い響きは出色。しばしばメンゲルベルクの特徴とされる恣意的解釈・・・曲によって使い分けしていると個人的には思う・・・はここではまさに”超”のつくテンポのコントラストが激しい演奏で、デロデロ感が違和感をもたらすところもある(第一楽章)。かれの棒はべつにワンパターンなロマンティシズムに基づくものではなく、シェルヘンらの表現主義的解釈に近い。だからハマれば非常に面白く聞ける。この演奏は全てがベストではないが、聞き所も多い。第二楽章、やはり濃厚な音でうねるようなルバートがイヤラシイ。清澄さは皆無。弦がひとしきり唄って木管が間奏を入れるところの静寂への沈み込み、次いでオーボエ・ソロから再び弦のうねり、といったドラマティックな変化はけして”あからさま”ではなく、しばしば沈思させる雰囲気があり、第三楽章でも弱音部にはとくに「諦念」を感じさせるほどの深みがある。楽器間の受け渡しにはとくに細かなルバートが頻見されスコアに無い表現もある(ヴァイオリンの妙なアタックとか)。木管ソロに音色配慮がなさすぎると感じるところもあるが、弦は非常になめらかに且つ正確に表現し情感を確実に高めてゆく。繰り返しになるがストンと弱音に落ちたところの寂々とした音色は出色だ。暗さの表現は非常に的確である。ポルタメントの嵐はご愛嬌。第四楽章はスウィング、スウィング!!いきなりのノリ、次いでヴィンセントの歌唱は真綿に包んだようで余り上手には聞こえないが趣はある。テンポはやや速めで気持ちがよい。ここでも弦は立派だ。総じて「聞ける」独特の演奏。録音は悪い(雑音系)。メンゲルベルクはマーラーの弟子格で同僚でもあった”十字軍”のひとり。マーラーはメンゲルベルクの表現に一目置いていたといわれ、アルマ夫人の信望も厚かったらしい。だがナチに絡んで晩年は演奏機会を与えられぬまま失意の死を迎えた。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第4番(1892〜1910),ケルテス指揮バンベルクsoガブリィsp(DG),,ライブにしては精度が高い。落ち着いた上品な演奏。情緒的な解釈は2楽章に顕著、そこまでポルタメントさせなくても、と思う位面白い。録音の分離が良すぎて曲構造が分かり易いのもプラス。歌は少し甘い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番,◯バーンスタイン指揮VPO(DG)1987/9・CD,,やや遅いテンポでねっとりするところはねっとりと、しかし揺らせまくるところは余りない。アダージェットだって歌いまくる演奏は他にいっぱいある。オケの音色を前面に押し出すこともなく、その点素っ気なさも感じた。スケルツォが聴きものか。◯。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),◎バーンスタイン指揮VPO (sardana records他:CD-R)1987ロンドンライヴ もう・・・ですね・・・これを聞いて、非難する人間の気が知れない。間違いなく20世紀の名盤。シェルヘンすら凌駕する壮絶なアダージエットの慟哭、続き終楽章、恣意性が完璧な流麗に溶け込んで同一化して、全ての人間の業を背負い天界へと昇華するような、、、 1楽章の、ワグナーでもブラームスでも無い紛れも無く「マーラーのダイナミズム」(弱音部の光と闇を聞け!)!!レントラーの伝統をくむ重厚なリズム処理の2楽章、だが音色がこの指揮者特有の高音域偏重であるがゆえ総合の美しい響きで飽きを感じさせない。ここでも弱音部、ウィーン舞曲風のズラシは無いものの、静かな感傷は聞き物。空回りしない「真の情熱」のみならず、隅々のパートに至るまで技術的に「何一つ」瑕疵の無い・・・カラヤンに匹敵する、否、ウィーン・フィルの扱いに関しては、とてつもなく上を行く内面からの統率力。指揮者をまるきり信頼しきって、勝手な自己主張は差し挟まず、ひたすら最上の演奏を行おうとするオケ。バーンスタインの(特異だが)これ以上考えられないほどリアルなマーラー像を入念に劇的に、これは最早どんな装飾文で飾っても、とても語り尽くせぬ巨大さ。悪評高いCD−R盤だが、「命掛けの鑑賞者」として(辛辣な盤評を口にする人間は皆そうであるべきだ、でなければ表現者(表現記録)に対して余りに無知無責任な鼠人間と呼ばざるをえない)、海賊どうのこうの音楽以前の戯れ言言う前に、少しでも5番を深く知りたいと想うのであれば、この限りなく深淵な演奏に触れるべきだ。どんな人間にも、素晴らしい音楽を聴く機会を断絶する権利は無いと思う。このような演奏記録を放っておく権利者・レコード会社こそ、攻められるべきである。以上私見だが内心そう思っている人間は多いとみている。話しが外れたが、これはまさしく5番の最高級の録音記録。録音も明瞭で細の細部まで聞き取れる。全般、豊潤な音塊で押し通すのではなく、しっかり各声部をきかせながら、巨大なアンサンブルの形に的確に(半ば本能的に)まとめ上げており、スコアを見ながら聴けば尚更素晴らしさに心打ちひしがれることだろう。虚無に満ちた1楽章にしても、バルビローリの示した突き抜けたような涅槃性とは異なる「人間の声」が響く。アタッカの激しさがそれを裏付ける。「人間の記録」。 そう2、3日前にNHKでヴィスコンティの「ヴェニスに死す」をやっていた。マーラー役の役者は案外巷にありがちな顔で、小道具や仕草で真似ているだけ、言われるほど似ているわけではないことに今回気が付いた。エキセントリックな映像で知られたケン・ラッセルの作曲家シリーズ「マーラー」の長顔の役者の方が、妄想や影の付け方がマーラー的だった。性格分析的にケン・ラッセルは秀逸な分析家だったとおもう。話しがずれたが、ヴィスコンティ画で多用されたアダージエットは本来的な序奏としてのつつましやかな音を選んで挿入されていた。正しい選択だろう。でも、そういうことではこのバーンスタイン晩年の神懸かりな演奏は、主張が強すぎて向かないだろうなあ、と思う。あの映画では酒場だかで3番もちらりと顔を出す。にしても、ウィーンは凄い。バーンスタインも、実は凄かった。草葉の陰のマーラーも、著作権ウンヌン以前に喜んでいるに違いない・・・ああバーンスタインも草葉の影か。十年昔日の想い。恐らくプロムスライヴとして出ているものと同じ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),○バーンスタイン指揮VPO(GREAT ARTISTS:CD-R/LIVE CLASSIC)1987/8/30ザルツLIVE バンスタのマーラーは定評あるものでもはや何の説明もいらないだろう。この記録はブラスにややミスが目立つものの、一本筋の通った「バンスタ・マーラー」が大いに展開されており、聴いていても安心感がある。バンスタは決してマーラーのスペシャリストではない。バンスタはあくまで「バンスタのマーラー」の体現者であり、その芸風は誰も真似できるたぐいのものではなく、一世一代で終わるべきものであった。アダージエットの陶酔、ロンド・フィナーレの歓喜は真骨頂。バンスタ好きなら聴いて損はあるまい。とくにそうでないならば、他にも入手し易い録音はあるのでそちらで楽しんでも十分。間をとって○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番,バーンスタイン指揮VPO(VIBRATO:CD-R)1972/5/15live,,無印の理由は真っ先にこの録音状態にある。貧弱で撚れまくりのエアチェックテープ。この時代の一般市民のエアチェックなら仕方ないかもしれないが、時折モノラルになったりブツブツ切れたり(冒頭欠落楽章あり)不安定すぎる。鑑賞に耐えうるレベルを超えている。いくらウィーンオケにしてもこのピッチは低すぎるだろう。各楽器の音が生(き)で近く、必要以上に聞こえまくるぶん、弦楽器ではその「まとまりのない音響的薄さ・乱雑さ・崩壊しても勢いを失わなければ構わない的態度」が気になり、管打は奏法(楽器特性)の「どウィーンぶり」が聴こえすぎることにまた苦笑せざるをえない(ユニテルのウィーン・フィル映像を「聴いて」も同じ印象を受けるけれど)。音色操作・・・これはシェフ次第だと思うのだが、ここの例えば終楽章で「悪録音化されて却って浮き彫りにされた」田舎臭さは何だろう、余りにキッチュで、原曲の潜在的に持っている世俗性を煽ってしまう。バンスタの歌謡的でのたくるようなアーティキュレーションの中にも激しい打音、力強いドライヴがこの時期の解釈の魅力でもあるのだが、ここでは晩年しばしばあった「悪い面」に近いものとして聞こえてしまう。バンスタ壮年期のもので、「晩年の自身ほどの」やりすぎたうねりはなく(常人からすれば物凄いやりすぎているが)、そこが「ドッチ側でもない普通の聞き手にとって」聴き易さになっていたであろうぶん余計惜しい。まあ、シェフ・奏者共に悪い面が上手に引き出された「録音」であり、バンスタ好き以外はまず最初に手にとるべきではない。ブラヴォが出ているのだから。盛り上がっては、いるようだから余り演奏に責を問うべきではなかろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番(1901-02)〜W,バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルのメンバー(SONY)1968/6/8LIVE ケネディ暗殺追悼日のミサで演奏された実況録音とのこと。SONYのバーンスタイン・マーラー録音は1セットに加えて5、8番の抜粋に2番のオケ違い盤があり、2003年6月現在は全集セットにあわせて収録されているが(8000円強)、古いセットには含まれていないので注意。アダージエット、非常に繊細な静寂の音楽を形作っているが、盛り上がりどころでは物すごいクレッシェンドがかかり、ゴリゴリ音のしそうな感情的なフォルテが演奏される。ややアダージエットにしては表現過多の気もしないでもないが、単独で演奏されているので、まあ許せる範囲か。ライヴならではのへっぽこもちょっとある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番〜W,○バーンスタイン指揮ボストン交響楽団(WME:CD-R)1974/7/21live,,アダージエットだけの演奏になるとまるでバーバーの弦楽のためのアダージォのように単独曲としての魅力を引き出すやり方をなされてしまうわけで、確かにバンスタは全曲演奏でもこれくらいのことはやったが、それにしてもやはりこれは単独で演奏されることを前提に構成された「確信犯」であろう。非常にゆるーーいテンポの地盤の上に、突如急速な昂まりを築いてはまた穏やかに静かに響きの底へ沈む(これはボストンの弦・ハープならではの素晴らしい技術、そしてセンスと怜悧な響きあってのわざだ)、これが5楽章のお祭り騒ぎの序奏部だということを「よそに置いておかないと」きかれない。シェルヘン晩年のライヴとは又違う、単独曲としてのひたすら耽美な世界で(演奏精度も格段に違うし)、しかし既に作曲後すぐくらいから単独演奏されていたくらいだから(マーラー自身も普及のために自作の抜粋演奏をやって(やらせて)いたわけだし)それも「正統ではない」とも言い難いものではある。クレンペラーが嫌悪感を抱いたのもこの「不必要なエロティシズム」のはなつ「交響曲という伽藍」の中の不恰好な居住まいに対してであった。ただ、バンスタがこれをウィーンとやっていなかったから、ボストンでやったから非常に崇高な世界を会得できた演奏、ということは言える。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番,○P.スタインバーグ指揮ハーグ・フィル(AULIDE:CD-R)1998/6/14ハーグLive,,やや無個性なオケに職人的な指揮者、というとマーラーでは余り受けないたぐいの演奏ととられようが、軽快なリズムに力強くしなやかなライン、エッジの立った明快な表現から立体的な音楽作り、そつなく見えて劇的な効果を与える、二世指揮者にとどまらぬ並ならぬ力を感じさせる熱演。ミスや事故は頻発するがライブを聴いているという前提においてはけして捨てたものではない。速いテンポに対し重量感ある響きや振幅の大きなうねりが整合性を保ったまま最後までしっかり盛り上がりを作る。大粒とは言わないが良い演奏。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番,○カラヤン指揮BPO(DA:CD-R)1973/8/28日本live,,昔なつかしNHK−FM放送エアチェックものでございます。当時の民生エアチェック録音レベルということで左右の分離が極端で中央がどんより曇っているかんじがするけれどもしょうがないか。演奏は至極まっとうなスタジオ録音的解釈でよく制御されたものだが、ソロミスが多い。あと個人的にピッチがやや高い気がする。弦のピッチは低いほど巧く味よくきこえるものだが響きが揃いにくく、高いほどきちんと響きが整いやすい(がソロ感覚的にはズレが生じる)。従って大オーケストラのピッチが時代に従いどんどん高くなっていくのは、求められる機能性からいってごくあたりまえのこと、カラヤンなんかもストコ同様そういうとこを求めたというのがここからも伺えるなあと憶測してもみました。けっこう楽しめた。けど、マーラーのドグマはないかも。ブラヴォが凄いけどあてになるのかどうか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番,○コンドラシン指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA/bmg他)1974・CD,,マーラーは譜面の細かい指示や、頼りない剥き出しの音による立体構造の組み立てかたがしっかりダイレクトに聞こえてこないと、格段に演奏理解が浅まる。録音はソ連ものにしては素晴らしいのではないか(BMG盤ですらそう感じた)。コンドラシンは元々個性がら力強いブラスを敢えて抑制的に扱い、剥き出しになりがちな弦楽パートは実際プルトが少なそうで音の数が数えられそうなほどなのだが、そこは無理して音を出させている。このオケにそうさせることからも精度を担保した西欧志向を感じる。楽団がなんとかコンドラシンの高い要求に答えられている姿はカッコイイ。トスカニーニ的突進も単純ではなく、マーラーの神経質な指示、細かいデュナーミク変化やアクセントを余すところなくえげつなくつけまくっているのが余りに作為的で、頭が痛くなるほど。ここまでくると現代音楽指揮者の域か。アダージェットは楽曲的には単純感傷性が売りの書き方ゆえ、その芸風だとまったく単調で聴いてられない。しかし、終楽章は小気味よく、間違いなくロシア最高のマーラー指揮者であることはたしかだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番,○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(KARNA:CD-R)1996/9/13live,,最晩年様式という言い方をこの人にも使うことになってしまうとは。結局体を悪くしたり老齢にさしかかったりすると人間誰しもテンポ感が極端に遅く雄大になり「クレンペラー型」造形を指向するようになってしまうものか。そのうえでチェリやスヴェトラはあきらかに神経質なほど響きを研ぎ澄ます方向に向かっており、スヴェトラはその「作られたイメージ」がゆえに余り言われないが、マーラーのような大曲においてはきわめて繊細精緻で合理的な音響を求めるようになる。この演奏でも3楽章くらいまでの間で時々放送ライヴ(のエアチェック)とは思えないほど、厳しく音響バランスの整えられた(機械のように)隙無く正しい音響が形作られるさまを感じることができる。スヴェトラには元々スコア分析を主とした客観性へのケはあり技術的問題への認識も強く、決してその場その場のノリにまかせたロマンチック没入型の爆演指揮者ではないのだが(そのたぐいの実演や録音ばかりが西側で取り沙汰されただけで)、この遅く踏みしめるような足取りの演奏は客観にすぎ、興をそぐ部分も少なからずある。語り口のビミョウな巧さで辛うじてそのバランスを保っている。人によっては哲学的とみる人もいるだろう。だが終楽章はまるで小クレンペラーのような趣さえあった(オケが非常に優秀な北欧オケであるがゆえにイギリスオケの甘さがないぶんはメリットとして聴ける)。フランス盤でまとめられた全集(後日廉価ロシア盤化)で6番など僅かなものを除けば莫大演奏が多いという様相から繋がった解釈ぶりといえる。じっさいこの演奏は特徴といえばオケの違いくらいで、録音はいいとはいえ放送ライヴのエアチェックで電子的な雑音もあり、ならばちゃんと正規をきくべきだとは思う。ロシアオケのクセや弱体化が気になる向きには薦められるが(このようなソヴィエト傀儡国家ではない国のヨーロッパオケを振ったものは、私などは今はロシアの手兵オケを使った余りにクセのある全体の演奏ぶりよりもしっくりくる。スヴェトラという人が実は西欧的な機能性と怜悧な音を持った「アンサンブルオケ」を求めていたのではないかと思うくらい、「現代の巨匠」たちの客観的なスタンスとの類似性を感じるのだ)、あと、スヴェトラマニアには薦められるが、ここはしかし、実際じわじわと拍手が広がりブラヴォの渦になるという部分で「あー実演と録音の違いだな」くらいの印象を見識としていただく程度で、取り立ててこれを聴く必要もあるまい。確かに長く聴けばこの演奏様式に独特の見識を見出し面白く聞くこともできるので○にはしておく。大見得なんて切らないよ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番,スヴェトラーノフ指揮NHK交響楽団(king)2000/9/28live・CD,,演者を確認せず聴き始めて「遅いなー」「ドイツっぽい音だなー」「マゼールか?」と思ったらスヴェトラの来日公演だった。スヴェトラーノフのマーラー、とくに晩年だけあってとにかく遅い。情緒纏綿というわけではないのだ、かつての近視眼的な伸縮は伸びる方向にのみ働くようになり、そのうえで響きの精度を求めている。よくブラスがついていくなあと感心する。この頃もN響はドイツオケのような音がしていたのか(これはスヴェトラーノフにはまったくプラス方向に働いている)。相性が良かったのだなと思う。音の末尾を開放する、ぶっ放すのはスヴェトラーノフらしいが、マーラーでは賛否あったこの人もこの時期には円熟していたのだ、とマゼールと間違えた私はおもった(直後にマゼールNYP聴いたらずっと地味だったが)。かつてのスヴェトラーノフからすると抑制がきいている。2,3楽章は間延びとは言わないがこの曲に親しんでいる人は戸惑うかもしれない。そのためアダージェットはことさらに取り出されて演奏される楽章ではなく、スケールの大きな3楽章のあとにハマって聴こえる。デロデロ節ではない、時間をとって静かに描いていく。このあとの5楽章の弦の激しいアンサンブルが曲の聞き物なのだが、残念なことに乱れる。これは一箇所だけではなく、この曲の引き締めどころで弦楽合奏がこれだと、それまでの楽章を耐え抜いた意味がなくなる。まあ、ライヴなので仕方ない。とんでもない怒号のようなブラヴォに郷愁を感じる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第5番(1901-02),スヴェトラーノフ指揮RUSSIA STATE SO H7.8,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番〜W.,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(lanne:CD-R他)1982/11/26live,,恐らく既出のコンピレーションと同じ音源。比べ音質は悪い。ただ、演奏はスヴェトラが好んだマーラーの、スヴェトラが好みそうな旋律音楽の、スヴェトラが一番脂の乗り切ったソヴィエト末期前夜の演奏だけあって聴き応えがある。ドイツ式の剛健さもフランス式の軽やかさも併せ持ちなおパワフルなロシア式の伝統を継ぐこの組み合わせに昇華されており、分厚い弦楽合奏の迫力に、迫力ではあるのに、じんとくる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番,○テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(EnLarme:CD-R)1979/3/29,,前半楽章の録音が酷すぎて何とも言えない。ステレオがアダとなり音場が不安定で、私のプレイヤーだと1楽章の途中で音飛びするのも含め聴いていられない。オケは豊潤でミスやアバウトさはあるものの重厚でフォルムがはっきりした、なおかつしなやかなマーラーを演じているだけに勿体ない。アダージエットあたりから安定してがぜん聴けるようになってくるが終楽章末尾で音が落ちるのはまたもやがくり。盛大なブラヴォも拍子抜けした。でも、やっぱりこんな緻密で盛大な終楽章を聴かせられると○をつけざるをえない。テンシュテットはマーラー指揮者かというと私はそうでもないように思う。マーラー特有の丸裸のソリストが技巧的な走句を突出させたりとかそういうところでちゃんと背後の音を整えてそこに丸くおさめてしまうような、ワルターが聴かせたマーラーそのものというような特殊な響きが無くなってしまう。オケに強いる緊張感というものもそのバランス感覚を保つためのもののような気がして、とくにニュートラルな曲であろう5番あたりを聴くと、単品では充実したよい演奏だったと思うものの、マーラーに通底する奇怪な精神性のようなものは無かった、と感じてしまう。個人的な部分なので異論はあると思います。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),テンシュテット指揮ロンドン・フィル(EMI)1978/5,6 000CLASSICS盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番,○テンシュテット指揮ロンドン・フィル(TOKYOFM)1984/4/13大阪フェスティバルホールLIVE・CD ,,mpeg/HDプレイヤーを使うようになったがプレイヤーの仕様でアルバム名等参照しづらく誰なのかわからないまま聞くことが多い。それでもなんとなくわかるというか、「ドギツすぎるなー」と思って表現を控えた感想を述べていたものを、時をへて無名で聞くと、まさにその「ドギツい」感想そのものが直に頭に浮かぶ、それは後でデータを調べ奏者が明らかになった時点ではじめて一致を確認できるのだが、こうなると控えたこと自体がどうなのかと考えてしまう。「自分の好み」と「客観的事実」の区分すら明確と思えなくなってきた今、さらに後者における様様な指標、演奏面、演奏環境面、録音面、奏者のコンディション、伝える媒体特性、変換方式、更には聴取側のコンディションなどなど無数の決定要素を一趣味人が網羅し勘案することなど不可能と考えると、「自分の好み」しか残らない。音楽を知れば知るほど書けなくなってくる。アナライゼーションを音楽の楽しみとしている人々が私は羨ましい。私は音楽を聴くことによってしか楽しめない不具者である。,,テンシュテは隅々まで解釈され尽くしたスコアに基づき音楽をガチガチに組み上げる。しなやかな整形が加わるため嫌味にはならないもののロマン派音楽の表現においてそのやり方は両刃である。横の流れの音楽の場合裏目に出ることもあるし、横の流れの音楽を好む「歌謡派」の人たちには受け容れづらい芸風になっている。だがやはり名演は名演だ。このオケの何と締まったアンサンブル、ドイツ系楽団には出せない明るく美しい音、テンポ的には緩く、それが客観的な演奏との印象を与えがちだが、漫然と聞き流せない「何か」が時折顔を出す。「時折」というのは多少否定的な意味合いも含んでいるのだが、バーンスタイン・マーラーが好きな人は、つまらないがライヴにしては異常に完成度が高い、と思うだろうし、逆の人はまさにこの「バランス」を求めていた、と思うだろう。カンタービレの噴出せざるを得ない弦楽によるアダージエットも、素晴らしい感情移入の音が覆い被さってくるものの、没入させるような情緒的な要素は解釈面では薄い。かといってもっとドイツ的な演奏に比べれば、オケの関係だろうが美しく流れよく素直に聞ける。素直に入ってこさせるというのは、奇をてらい強引に惹きつけるよりも数倍難しい。その芸当が、芸当と思わせずにここにある。この長大で一見散漫な曲の冒頭葬送ファンファーレからきっぱり明るく断ち切る終始音まで途切れずにある。それが凄い。,,これは現代の演奏である。現代最高峰のマーラーである。この場に居合わせた聴衆は幸せだ。そこで叫ばれるブラヴォには他のテンシュテ・マーラーのライヴ盤できかれるものと同じひびきがする。それは一テンポ置いたもので、決して熱狂で我を忘れた愚かな声ではない。しかし音楽そのものに対する賛美であったか?寧ろ指揮者個人への想いが強く伝わる。上品な拍手こそがふさわしい演奏なのに、漠然と思う、そんな印象だった。長く書いたが稀なる完成度は認めるし音はいいけど結局惹かれなかったということでした。クリアな音なのに強奏部での内声部の動きが余り聞き取れないのも理由のひとつか。終楽章など明快な対位的構造と主として伴奏部分での弦楽器のマニアックなアンサンブルが聴きモノなのに、音が重なれば重なるほどブラスや太鼓だけしか聞こえなくなっていった。旋律偏重と聞こえないように旋律偏重にしている、巧い録音操作だと思うけどそれでは長さのわりに楽想に乏しいこの楽章は浅薄になる。,,難しいけどね。真実を伝えるだけが音盤の目的じゃない。一般聴取者が楽しんで聞けるものに仕上げるためにはマニアックに読んでくるマニアの嗜好なんて排除されて当たり前。ソレが嫌なら懐の許す限り生聴こう生!,-----,,,-----,,,-----,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),○テンシュテット指揮ロンドン・フィル(GNP/RE!DISCOVER:CD-R)1984/4LIVE,同上?,〜1楽章、随分落ち着いている。それでも弛緩せずよく演奏している。弦楽器なんてこのテンポで歌いまくるのは指揮者のカリスマ性のなせるわざか。静寂時の底の無い怖ろしさはテンシュテットならではだ。他の楽章でも随所に聞かれるところである。2楽章もタテノリ的なテンポの落ち着きは残るがライウ゛ならではの荒さが出てきて寧ろ楽しい。極端なデュナーミク変化やポルタメントの付け方が前衛的な雰囲気すらかもし、マーラーがこれらを果たして演奏効果だけのために記載したのか、前衛的意図があったんじゃないかとすら思わせる。響きが軽く技術的にも万全じゃない演奏だが、細部のアバウトさを払拭するだけのスケールの大きな設計が光る。1楽章1 楽章が完成された曲のように起伏をつけてしっかり表現され(2楽章などほんと独立した曲のようだ)、ドイツ的といわれるだけの構築性は確かにあり、立体的なアンサンブル、またしっかりした音響に顕著だ。構築性は情熱をしばしば退ける。これも没入型のマーラーを好む向きには少し客観に過ぎると感じられるかもしれない。情熱は寧ろ細部の執拗な表現に向けられており、そのアンビバレンツなところがいかにもテンシュテでありマーラーであるのだが。明るい3楽章でさえ深淵を垣間見させるのがすごい。ワルツのむせ返るような響きもいい。勿論本場のソレとは違うが、気分を高揚させるのには十分だ。1音1音の発音がしっかりきっぱりしてきてテンシュテらしくなってくる。3楽章にきて大分に引き締まってきた、という感じだ。ブラスが遠くパワーが無いのは少し惜しい。最後かなりの畳み込みに聴衆の一部から拍手が出るのは後愛嬌。アダージエットはゆっくり慈しむようなテンポ廻しで期待通りのものを提供してくれる。時折の音の空疎さにはテンシュテ独特の「死」を思わせる緊張感ある静寂が宿る。だがここでは生への賛美(もしかしたら憧憬)がより強く感じられる。パワーはないが、温もりのある演奏だ。明るく目覚めのような5楽章にアタッカで入る。テンポ的にはさほどかわらない。冒頭の木管アンサンブルが美しい。主部に入り弦楽器のフーガ的フレーズの応酬、引き締まっていていい。最初の緩徐主題がいきなりテンポダウンでたっぷり歌われてびっくり。4楽章主題のリフレインではそれほどでもないが、他の楽章に比べ激しい起伏がついているのは確か。テンポ的に早くなるわけではないが。弦楽器の松脂の飛び散るような激しいアンサンブル、ウ゛ァイオリンの音色の美麗の極み、実力が全開になった感じだ。最後は程よく盛り上がって終わり。ブラウ゛ォの嵐。○。〜ヴァイオリンの驚異的な気合いにびっくりする。この勢い余って雑味の混ざるほど歌いまくりのヴァイオリン、これがロンドン・フィルだと?テンシュテットのテンポ感は足を一歩一歩踏みしめていくような感じで、けっして速くはない。なのに、その遅い速度の中で、異様に気合が入りまくるものだから、機械的に入り組んだテクスチュアのこの曲が、実にぎしぎし軋んで、固く骨張って、良く言えば男らしくひびく。ドイツ臭く野武士のような解釈はクレンペラーの様式に近い気もするが、細かいところでテンポの急激な伸縮が聞かれたりする所は違う。作為的ではあるが、それほど目立たないので気にはならない。管楽器がやや後ろに引いてしまっている感もあるが、もともとこんな気合の入った演奏をするような団体ではないのだから(ロンドン・フィルの皆様すいません)特段悪いわけではない。弦について、ライヴでしかありえない気迫を感じられるロンドンには珍しい演奏とは言える。ソロ楽器が裸にされ孤独をうたう、音の空白が目立つような解釈は、テンシュテットの抱えていた健康上の問題と関係があるように思えてならない。最終楽章の希望に満ちた音楽も、何か諦念のようなものの延長上で空元気を張り上げているような空虚さも感じられる。最後のコーダはじつに壮大なフィナーレとなり大団円ではあるのだが、何かウソの盛り上がりを作っているようにも思える。そこまでの虚無と絶望に満ちたのたうちまわるような音楽と隔絶した・・・。終演間髪入れず熱狂的なブラヴォーの渦、たしかにこれは素晴らしく個性的な演奏である。だが同時に、5番がこんなに死の淵を覗き見るような暗黒に満ちた音楽だとは思わなかった、その恐怖の余韻が私の肩を震わせるのだった。このRED盤はかつて別の海賊レーベルで出ていたものの焼き直し。1980年代としか書いていないが、84年4月のライヴであり、同年のものとされる他CDとは別である。やはりちょっと「軋み」「雑味」が気になるので、○ひとつとしておくが、ライヴ盤としては絶品である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),○テンシュテット指揮ロンドン・フィル(RARE MOTH:CD-R)1984/7/26LIVE 000CLASSICS盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),○テンシュテット指揮ロンドン・フィル(EMI/ICA)1988/12/13LIVE・CD/DVD ,2011/9ICAより映像発売。,000CLASSICS盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第5番(1901-02),テンシュテット指揮ACO(000CLASSICS他:CD-R/RCO)1990/12/9LIVE・CD,というわけでテンシュテットのマーラー5番を集めてみたわけである。疲れた(聴くのも)。はっきりいって結構冷静な演奏もあるし(荘重なアダージエットは特に冷静)、それぞれが独自の色を出しているわけではなく、むしろどれがどれだかちょっと聞き余り差が感じられないものだ。この中で正規録音なのはEMIの二枚である。よほどのマニアでないかぎりEMIの二枚さえ手元にあればいいと思う。個人的に好きなのは84年のライヴで、音質はかなり悪いし(左右のバランスも不安定)しょっぱなからペットが裏返るし、他に比べてこれだという決め手はないのだが、全体として演奏自体がこなれており聞き易く、一方非常に緊張感にあふれ、終楽章など凄絶な表現が耳を惹く。終演後の拍手も凄まじい。聞き易さの点ではテンシュテットがまったく元気だったころの78年盤も侮れない。一方発病後の演奏であるEMIライヴとACO盤は一期一会の独特の緊張感がある。前二枚と同じロンドン・フィルのEMI盤は音的にはやはりロンドンの音であり、その点で耳をひくものはないのだが、終楽章の緊密な動きに魅了される。暖かく大きな拍手がマエストロに捧げられている。ACO盤の緊張感は並ではない。弦の響きにはロンドンにはない骨太の重心の低い音が篭っている。各声部とも音色が綺麗で安定感もある。終楽章は心持ちテンポ変化が激しいように思えるが、反面豊かな広がりには欠けるような気も。ブラヴォーの声と暖かい拍手。それにしてもどの演奏も(ライヴも)解釈が団員に行き渡っていて、じつに安定している。録音時間もそれほど変化が無い。感情の爆発で曲を組み立てる指揮者とは別の、やはり現代的な視点から曲を分析・表現した指揮者の類に位置づけられる指揮者であり、その手法はこの5番という散漫で巨大な楽曲を組み上げるさいには非常に役に立ったに違いない。,,,RCOアンソロジー90年代ボックスに収録された。(2011/6),-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),○テンシュテット指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1980/6/18この一枚を忘れていた。意気軒昂なテンシュテットが、ニューヨーク・フィルという良質の楽器を使ってぶち上げた熱い演奏が聴ける。ブラスに若干瑕疵があるが、録音自体は良く(放送録音)、比較的ノって聴ける。なかなかだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番,○バルビローリ指揮ヒューストン交響楽団(DA/VIBRATO:CD-R)1966/3/24live,,実演はさぞ凄かったろう。とくにチューニングをはさんで壮年のバルビ節炸裂の4楽章からドライヴ感と歌心の絶妙な5楽章にかけてはオケの技術に問題があるものの非常に気を煽られるものがある。しかし音盤として決定的な問題がある。これはDiscoArchiviaというアメリカの(一応)非営利組織が超廉価で通販している海賊盤というより参考用資料なわけだが(アリアCDからリンクが張ってあるようですので参照されたし)、元々販売目的ではないため恐らく各所からかき集めた音源をCDか何かに焼いて図書館的に保存しているものの、単純なコピーを売るという形をとっているようである。普通の市販CD-Rに番号が手書きされているだけだ。CDということは(とくに膨大な量を保管しているとなれば)やはり劣化が気になるところで、この音源の、肝心の4,5楽章にもデジタル劣化音が耳障りに入るのである。もちろんこのてのことは聴く機器の性能にもよるので、特に支障なく聴けるかもしれないし、製作側のコピーミスの可能性もあるが(ただ、圧縮音源でもないかぎりデジタル音源がこういうノイズを混入させるというのは汚れか剥離のような物理的ダメージが原因であることは間違いない)元々60年代以前のものはかなり音質が悪いものが多いようなので、その範疇からすれば「聴き通すことは出来る」だけでよしとすべきなのかもしれない。VIBRATO盤はDAのまるごとコピーということだが盤質やリマスター具合については未確認。たとえば悲劇的のベルリン・ライブのような壮年期バルビの威勢が聴けるだけに非常に惜しいのだが・・・晩年のしっとりした(弛緩した)バルビではない力強い魅力を放ったものとして価値が高いと思う。バルビは指示が細かく独特なロマン性が露骨に出るだけに、ハマらないとベートーヴェンのように違和感が最後までぬぐえない演奏になってしまうが、マーラーは物凄いハマる。バランス的にバンスタまで行かないもののバンスタを越えるような深みをかもすことがあるからやめられない。,,ねっとりと性急の狭間でせめぎあう音楽である。ちょっと晩年の弛緩傾向が前半2楽章にはあらわれている。冒頭のペットソロの独特な歌いまわしというか不安定さからして不安がある。1楽章あたりは暗くていいのだが、一歩引いた客観性を感じる。だが横の流れで歌う様式に対してまだ激昂のほうが勝っており、2、3楽章あたりでは弦楽器がズレて乱れまくる場面もみられるが(ベルリンライヴの事故を彷彿とする)アメリカオケのいい意味で明るくしゃきしゃきした音がキレをもたらしバルビ特有の伸び癖を薄めて秀逸だ。リズム処理の上手さが意外と光っている。ドライヴが巧い。肝心のアダージエットはさすがチェリストとしても一流と目されていたバルビだけあって弦のアーティキュレーションの付け方が絶妙だ。これは真似できないものであろう、その場その場で気分次第でテンポを揺らす指揮者ではあったけれども、ここはかなり意識的に細かく指示した結果だと思われる。アンサンブルがしっかりしている。5楽章はもう楽しみましょう。間髪入れずのブラヴォの渦が自然に思える名演だ。テンポ的には決して早くは無いのだが、バルビにしてはかなりドライヴしている。緩急絶妙。,,この盤はソサエティか何かのプライヴェートLP盤の板起こしと思われる。雑音弱音慣れしていない人は、まずこのレーベルの骨董録音に手を出すことは躊躇されたほうがいいでしょう。それでも聴きたければ、どうぞ。,-----,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第5番,◎パレー指揮デトロイト交響楽団(VIBRATO:CD-R/TAHRA)1959/11/12LIVE・CD,,いやー、激しい。マルティノンみたいな起伏ではなく、真っ直ぐ力強い。気合いまくり。これも立派なマーラーだ。ミュンシュのマーラーなんかとは桁違いに上手い。ウォレンシュタインの芸風に近いかな。普通はトスカニーニに例えるんだろうけど、ああいうよそよそしさはない。生々しさを煽る録音操作のせいもあるけど。抜群のオケコントロール、力感溢れるアンサンブルの組み立てが素晴らしすぎる。直球勝負の演奏としては躁状態のシェルヘンに精度を与えたくらい凄い。アダージエットはともかく(弦の歌い上げ方も凄いけど)ガチャガチャした機械的構造のえぐりかたは凄まじいので、未だちゃんとは書けません。何で5番しか残さなかったかなー?オケもマーラーの音になってるし。上手いなあ。終楽章で(たぶん)ちょっとカットしている。マーラーは長いくせに隙がないからカットが難しい。違和感が生じる。でも◎。終演後になぜブラヴォが出ないのか・・・デトロイトではこれが常識だったのか?終楽章の弦は物凄いです。印象批評ばんざい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番,○フリッツ・マーラー指揮ローマ・イタリア放送交響楽団(KARNA:CD-R他)1958/7/16(1961/7/16?)live,,YouTubeに1961年の録音なるものがあるが日付が一緒でおそらく同じ。まさにドイツ臭い演奏でがっしりと律せられた響きがじつに印象的である。こんなに格調高いイタリアのマーラーを聴いたのは初めてだと思う。勝手なカンタービレを一切許さず、コンヴィチュニー張りに縦を重視した重厚で力強い演奏ぶりはちょっとライヴとは思えない緊張感(精度というと現代的なイメージを持たれるかもしれないので避けておく)を保っており、本当にこれがイタリア?南西ドイツじゃなくて?といったふうである。音色は録音のせいかもしれないがやはりイタリア的ではない。クレンペラーの出す音に似ている。テンポは遅めだが、ガシガシとくるので5楽章の最後は盛り上がるし、まるで奈落を覗いているかのようなアダージエットの陶酔的なテンポ設定がまた凄い。ワルターなどと対極にある音作りで、職人的なオーケストラの纏め方ができる人だと思うが、テンポの揺れ方はワルターどころかシェルヘンすら思わせる。しかしこの音量的まとまり、各声部の噛みあった見事なオーケストラのドライヴのさせ方には、正直、「ほんとにアメリカなど周縁諸国でしか活躍の場のなかった無名指揮者フリッツの演奏なの?」と思わせるものがあり、これは当代であれば一流の演奏家として認められるべきものは十分に持っている。おじさんの曲をただ情に溺れることは決してせずに、純粋に音楽として敬意をもって表現している、アダージエットにおいてその一音一音を慈しむような磨き上げ方、まことこれほどの名演が、しかもイタリアから生まれていたというのは驚きに値する。フリッツのマーラーを私は嘆きの歌しか知らないが(YouTubeにはライヴ録音もある)、この完成度からすればもっといろいろ復活してくるだろう。これからの再評価に期待したい。ドイツ的マーラーの象徴的演奏。時代精神がそこに魂を入れている。録音よれなどが散見されるので○にとどめておく。比較的リアルな演奏ぶりで幻想を呼ぶたぐいではないので念のため。グスタフと血縁こそあれ同一人物ではない、フリッツのマーラーだ。,-----,,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第5番,○プレートル指揮ウィーン交響楽団(WEITBLICK)1991/5/19live・CD,,うーむ、オケの雑味も、異様に清澄なのに纏綿としたアダージエットから気を煽りまくりの壮麗な終楽章にいたってはブラヴォやむなしといったところだ。じっさいにブラヴォが叫ばれている、叫ばれてもいい演奏で、VSOのノリがまたいい。このオケの最上の類の演奏ではないか、音色はかなり近代化されているとはいえカンタービレはやはり色を帯びて美しい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番,○ベルティーニ指揮ウィーン交響楽団(WEITBLICK)1983/4/12LIVE・CD,,いつ果てるとも知らない透徹したアダージェット!手綱さばきのうまさがこの癖の強い楽団を一気にとりまとめ、音色のみを強みとしてのこし他は高精度のベルティーニ・マーラーに仕立てている。晩年より生き生きしているが、アダージェットなど悟ったような涅槃性に9番のような死の気配がただよい、その前の楽章の暗い場面同様この指揮者の裏面を垣間見させる。指揮中激して足を踏みならしたり掛け声をかけたりと厳しさが聞こえる演奏だがそれほど萎縮しているように聞こえないのはプロのわざか良録音のせいか。中期純管弦楽交響曲に非常な適性をしめしたベルティーニのライヴの名演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),ベルティーニ指揮KORN RSOKORN RSO H7,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番,○ホーレンシュタイン指揮BPO(放送/PASC)1961/8/31エジンバラ音楽祭live,,ホーレンシュタインとベルリン・フィルの関係は古い。1920年代のブルックナー7番は最初期の録音として認知されている(マーラーの歌曲も録音している)。ユダヤ系であり、奇しくもある意味似たスタイルを持つクレンペラー同様、亡命後は自分のオケを持たない不遇の時代を長く過ごしたが、これまたクレンペラー同様VSOとのVOX録音が大量に残されていることは幸いである。共にマーラーとブルックナーの十字軍であり現代音楽擁護者だった。ホーレンシュタイン自身はウィーン育ちで(マーラーを聴く機会もあったが逃している)指揮デビューもVSOとの巨人他だった。そういう意味で柔和なワルツ表現に通じていたが、既にBSOのシェフとしても拠点にしていたベルリンにてフルトヴェングラーのアシスタントの座を獲得し、25年から29年までベルリン・フィルを振る機会を得ている。憧れのフルトヴェングラーとの経験が男らしい剛直性と肉感的アプローチといった個性に取り込まれたことは言うまでも無いだろう。アカデミックな研鑽を積んではいるものの、複雑な近現代曲を直感的に掌握し振る才能には若くして定評があった。晩年頻繁にイギリスに呼ばれるようになったが、BBC企画による59年3月20日「千人」を無経験のままほぼ一発で演奏し上げ大成功をおさめたことが大,きい(近年マーラー再評価の標となった)。VOX録音時代にはフルトヴェングラー様のスケールの大きい有機的表現が特徴的で、ロマン性が強かったが、同時にコントラストの強さ、すさまじいフォルテッシモも持ち味であった。晩年にはそれらは巨大な理知的構造の中に取り込まれるが、ライヴでは凄まじいものも残した。5番はその一つである。,,ベルリン・フィルがカラヤンの指揮下に入ってからまだ7年程度とあって楽団にはフルトヴェングラーの匂いが残る。とくに弦楽器だ。ホーレンシュタインによってより厳しく統制されてはいるが、とにかく音が均質で融合し、響くとまるで一本の大きな楽器のように強靭になり、かつ自在に動く。また管楽器についてはカラヤンの要求に従い増強が図られていた時期であり異常な「肺活量」を要求するこの曲ではいい方向に働いている。それらセクション同士のアンサンブルは訓練されバランスよく強固で、そこらの「突出オケ」とはわけが違う。,,前置きが長くなった。一楽章はホーレンシュタイン後年のやや遅いテンポの中にドラマティックなアーティキュレーションを盛り込んでいく。しかしこれよりも2楽章の凄まじいロマン性に瞠目する。目まぐるしく変わる悲劇的曲想を柔軟で有機的な横の流れのうえでびしっつ、びしっと決めていく。ラジオ放送録音なのでモノラル末期盤同様多少は録音マジックを割り引いて聞かねばならないが、それでもバス音域楽器の底強さは音楽を揺り動かし弦楽中声部の太い響きとがっしり組み合っている。マーラーなのでわりと掛け合い数珠繋ぎのアンサンブルになる場面が多いが、もうベルリン・フィルを使うのは反則、というか、音量的にも音質的にもブラスと弦が対等に渡り合っているのが凄い。マイクはあれだけ吼えるホルンに近い位置にもあり、ちょっと不自然な点録音設備でよくバランスをとっているということもあるかもしれない。どんな指揮者でも楽曲でもベルリン・フィルを使うと名演になる。これは真理であり、ホーレンシュタインの若干形式主義的な堅苦しいマトリクスも、その空間にみちっと音を詰めてくれて、骨皮に血肉を与えるとまでいうとホーレンシュタインのことではなくなるが、それに近い「補完」をしてくれる。いや逆にホーレンシュタインとBPOだからこそこの奇跡が生まれたのだ。とにかく、2、続いて3楽章も気分の浮き沈みの激しいドラマが演出され揺り動かされる。ファーストホルンの物凄い息の長さにも着目。ホーレンシュタインの面目躍如たる完璧なウィンナーワルツもじっくり聴くべき。すばらしいリズム感だ。決してテンポに影響させないのが凄い。,,アダージエットはいつものホーレンシュタインである。冷静で静謐。清澄で綺麗。よくドライブして歌わせるしアンサンブルは言わずもがなだが、個性という面では弱いし、こういう曲はロマンティックな即興指揮者の領分かもしれない。終楽章はアンサンブルの化け物だが、前記のとおり合奏でホールをとどろかせる場面はわりと少なく、数珠繋ぎの線的な書法による部分のが目立つ。ソロ表現になってくると楽器おのおのの個性が出る。オケ総体のパワーが一番の売り物であるベルリン・フィルにとってはやややりづらいのかもしれない。これはもう近年のBPOのうわさ話だが弦楽器奏者はもはやソロを演奏するような「作り」になっておらず、ギリギリ弓を押し付けるように弦を軋ませ、ノイジーな大音量の中に正しい音を情報量たっぷり盛り込むやり方をする。ノイズ部分はホールに「吸わせる」のだ。だからあのようなパワフルな演奏ができる、という見方である。俄かに信じがたいし一つの弾き方しかできない人間もいまどきいないと思うが。弦のソロはともかく、管楽器のソロにもそういうことがあるのかもしれない、と思うのはこういう楽章での「平凡ぶり」である。パワフルに合奏させる場面ではホーレンシュタインの面目躍如といった強靭なアタック、巨大なクレッシェンドが圧倒してくるわけだが、牧歌的にやり取りしているところでは、普通、である。暗い、とも言える。これは元からそういう音のオケだしピッチも低いのでしょうがない。あとこのあたりからノイズや撚れがかなり酷くなってくる。これは放送エアチェックを継ぎ接ぎしてなんとかレストアした音源(webにある)で、これ以上は正規化しないかぎり望めないようだ。ずーっとジャズが小さく混信している点も付記しておこう。形式的な表現をとるホーレンシュタインにしばし息をつくが、最後が近づくにつれ設計どおりか盛り上がりができてくる。リズムはより明瞭にマーチはリズミカルに、イキイキとしたクレンペラー、といったふうだ。うねるようなクライマックスからコーダの凱旋、一発ブラヴォーはもう何も言えない。そこまでの凡庸さを覆す勢いだ。総体としては○だが、中間楽章は◎。ホーレンシュタインの5番はこれしか無いと思う。pristine配信音源はデータが詳らかではないが同じとみなす(未聴)。,-----,,,-----,,,-----
マーラー:交響曲第5番,○マゼール指揮NYP(KARNA:CD-R)2003/9/18live,,ようはオケのやる気、統制度なんですよ。稀有壮大なだけの最近のマゼールかと思ったら、構築性の中にも緊張感に満ちたアンサンブルが構じられており聴きごたえがある。とくに目立った解釈がないというのは最近よくあるパターンの演奏にのっとってるとはいえ、遅いだけの演奏とは違う少しアクの強い表現様式は残り、美しいアダージエットのあとのロンド・ブルレスケの派手なのに縦の締まった演奏ぶり、リズム処理の巧さ、そして大団円後のブラヴォーの渦は最近のマゼールの好調ぶりをうかがわせる。今度NYPでリヒャルトのCDのサイン会をやるそうだが行けるかっ(笑)録音も終楽章の一部を除けばほぼスタジオ並。マゼールのマーラーではかなり上のほうだと思う。,-----,,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),マゼール指揮 ウィーン・フィル(LUCKY BALL/CULT OF CLASSICAL MUSIC:CD-R)1983/4LIVE〜ドラマティックな演奏だが適度な客観性があり聞きやすい。格調のある演奏。全編ウィーン・フィルの威力を聞かせてくれる。二楽章のヴァイオリンの巧さは舌を巻く。五楽章の気合も凄い。録音はやや遠めか。しかし音響バランスはとてもよく楽しめる。終演後のブラヴォーも納得。佳演。〜非常に明晰な演奏であり、ウィーン・フィルもやればここまで機能的になれるんだ、と感心させられた。飛び抜けて素晴らしい点というのは見当たらないが、しいていえばライヴでこの精度というのは驚異的である。弦の刻みがきっちり揃ってるウィーン・フィルなんてウィーン・フィルじゃない!なんて言ってしまうが、巧いことは認めねばならない。抑制された音色表現の中でも時間軸だけが異様に伸縮するさまが独特の4楽章アダージエットまで、ブラインドで聞かされたらアメリカのオケと間違える方もおられるのではないかと心配になる演奏ぶりだが、終楽章では各声部の積み上げによってしっかり盛り上がりを作ってくれている。弦楽の室内楽的なアンサンブルが聞きどころの楽章だから、機能的な演奏で盛り上がらないはずはない。終演後凄まじいブラヴォーが出るのもさもありなん。作為的な盛り上げというか、シェルヘンを百万回磨き上げたような計算が見えてくるところもあり、何よりそのひんやりした冷たい感触ゆえ、のめり込めない人もいるかもしれない。かくいう私ものめり込めなかったのだが、その金属的な美しさ、技術的な完成度は認めざるをえない。・・・しかし無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),マゼール指揮 ウィーン・フィル(SONY),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),マデルナ指揮MIRANO RSO S48.2.23 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番,○マデルナ指揮フィラデルフィア管弦楽団(sls)1971/11live,,唸らせる名演。天下の奇演7番VSOライヴで知られるマデルナの、作曲家ならではの理解と創意が、極めて細かに織り込まれた表情付けの一つ一つ、そして全体的にも、意識的に扇情的であろうとして、完全に扇情的であることに成功している。冗漫なこの曲をシェルヘンは叩き斬ることで突き通したが、同じ突き通す演奏でも、構造をしっかり組み立てること、予め各楽器にデュナーミクの一つ一つフレージングの一つ一つまでも徹底して指示したうえでライヴとして最大限の効果をあげることに成功している。却ってアダージェットのほうが埋没する感もあるくらい他がよく出来ている、アダージェットが激烈な終楽章の序奏に過ぎないことがわかる。オケもまた良いのだ。ライヴのレベルでは要求に殆ど答えられている。特に強力で分厚い弦楽器の一糸乱れぬフレージングの妙は、いつもながら感服させられる。ブラスはまるでロシアオケのようにあけすけではあるが、マーラーという宇宙によく鳴り響く。,,スヴェトラーノフがマーラーを録音するという情報が流れた時、我々が期待したようなものがここにある。スヴェトラーノフは円熟期の横長のスタイルに移行して、細部のアバウトさも手伝い残念感しきりの結果だったが、壮年期であれば、、、いや、ここまでしっかりした演奏にはならなかったか、、、,,録音劣悪なエアチェックレベルのステレオ。そこは堪忍してください。聴衆反応はブラヴォが飛ぶ程度。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
マーラー:交響曲第5番,○ロスバウト指揮ケルン放送交響楽団(ica)1951/10/22・CD,,擬似ステレオで左右が揺れるという録音状態はいただけないが、演奏は厳しく律されながらもねっとりしたフレージングがマーラーらしさをかもすところもあり、即物的では無い。オケが弱く弦などバラケが目立ち、それでもそれであるがゆえ、迫真味を感じさせる。カラヤンと比較されることもあったロスバウトだがバンスタに近いようにも感じたのはそういうところもあるのだろうか。重々しく引きずるような一楽章からどうなっていくんだろうと思ったら二楽章中盤で見事に切り替え、バラケが無くなり、アダージェットではポルタメントも感情的で再びねっとりするが、ブラスが強力に吼える終楽章は素晴らしく変化に富んだ内容。弦のアンサンブルに聴かせどころが集中しがちなところ、弦があまりに歌い過ぎるせいもあるのだが弦よりむしろ全オケの総力戦となって大団円を迎える。名演。録音マイナスで○。これはなぜかネット経由だとダウンロード販売しかなかったりするので、店舗注文か直販か、イギリスのサイトから買ってください。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番,アブラヴァネル指揮ユタ交響楽団(VANGUARD)CD,,音量バランスや楽器の出方など一部譜面をいじっているようなところも聴かれるがメータに近いストレートな聞きやすさがある。性急な部分があるのは否めず、そこも含め軽快さと、オケの弱さに起因する迫力不足が感じられる。二楽章はフォルテ部分はヤバいが弱音の緩徐部はまさにマーラー。三楽章も穏当な部分では魅力あるが、激しい表現にオケがついていかない。四楽章は薄くて速いが室内楽的なよさがある。五楽章は弱体部分を隠し巧くバランスで素早く流れよく聞かせている。構造的な楽曲の面白みを引き出した演奏。かなりヤバげだがテンポで押し切っている感。○にしてもいいが、無印にしないと他の盤と違いを示せないか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番,ドラティ指揮ストックホルム・フィル(HAYDN HOUSE:CD-R/NHN)1973/9/14-15・LP,,ドラティのこの組み合わせはシベリウスがあったかと思うがどういうわけか四角四面の能面みたいな演奏でとにかくインテンポで遅い。ホーレンシュタイン晩年のスタジオ録音かと迷うほどのつまらなさなのだ。このオケのブラスの響きはしっかり届いてくる。それにかぎらず技術はバランスのとれたそこそこのもの。だが、解釈に特徴がない。ホーレンシュタインの鋭い切り込みや重さに比肩しない。ある意味現代的な冷静な演奏だ。ドラティ??結局終楽章コーダの突然のテンポアップにどんちゃんで初めてドラティだとわかる。あと楽しみかたとしては終楽章にてひたすら旋律を奏でるバイオリンと線的に絡み合う、対旋律の数々に傾聴してみることか。見通しがよいのでマーラーの書法の簡潔な魅力が非常にわかりやすい。だが久しぶりに無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),◎クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(FIRST CLASSICS/DG)しいていえば終楽章が落ち着きすぎているが、全般にテンションの高い名演だ。しばしば壮絶な表情を見せるドラマは異常な感情の高まりを感じさせる。一方で解釈に余計な部分が無いので至極安定していて聴き易い。無闇なルバートをしないところも安定感を感じさせる一端となっている。クーベリック/バイエルンのコンビはまさに相性ピッタリ、その演奏は鮮烈でいつ聞いても感動できる。クーベリックの解釈はたしかにオーソドックスであり、伝統的なロマン派音楽の延長上にマーラーをとらえている。だから音響的な危なっかしさや震えるような噎び声は聞こえない。4楽章アダージェットはテンポでいえば相当に起伏有る演奏だが、実音の印象が強く、ヴィスコンティの映画に象徴されるような、印象派的な静かな情緒には欠ける。でもこれはこれでいいのだ。5番で寝ないですんだのは久し振り(笑)◎。ちなみにAUDITE盤とは異なる演奏。演奏時間や演奏状態から、ライヴではなくDGと同じ音源と思われるが、音質的にはDGより落ちる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),クーベリック指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管(TAHRA他)1951/9/21(6/21?)LIVE ,,音場狭っ!雑音も多い。当然モノラルである。若き?クーベリック、荒れ狂っている。荒っぽい場面が続出で、コンセルトヘボウがついていっているのかどうか、聞こえてこない場面さえある(録音のせいだろう)。それでも一生懸命聞こうとすれば、クーベリックの非常に”合理的”な解釈が透けてみえてくる。この人のマーラーの解釈は巧いのだ。巧すぎてあまりにあたりまえに聞こえてしまう。無論後年のDG盤ではその解釈が板についたところが聞けるわけだが。まあ、素直にクーベリック・ロマンチシズムを堪能しよう。録音あんまりなので無印。,,,記載上は6月21日のライヴとなっているが、9月21日と訂正しているデータもあったので併記しておいた。2016年発売のインディーズボックスでは後者の日付が記載された。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),◎シェルヘン指揮VSOO S27シェルヘン唯一の正式録音。ライヴと比較すれば冷静な解釈だし、カットもほぼ無い。練り上げられたものだ。だが同時にライヴ的な感興もあわせもっている。バーンスタインを思わせる熱い演奏だ。素で聞いているときと、スコアや楽譜を片手に聞いているときに、ギャップを感じる事はないだろうか?根本的に音楽を見る視点が変わるのである。もともとこの録音が大好きだったのだが、あるとき5番の演奏に参加する機会をいただいた。そこで改めて楽譜を片手に聞いたところ…のけぞった。これは作曲家に対する冒涜か?旋律線の偏重、細かい仕掛けの無視、フレーズ処理の乱暴さ、etc…聴けなくなってしまった。そして私が手にしたのは、普段余り聞かない、新しいマトモ系の録音だった。…音楽観賞という面では後者は邪道だと思う。やはり耳で判断するのが正しい。たとえ録音というかりそめのものだったとしても。それがわかったのは、ほとぼりもさめて再び何枚かのレコードを、無心で聞いたときのことだった。…やはり、この盤が一番感動したのだ。理由は明確。粗雑さ、過度の恣意性というリスクを越えた強い表現意欲。整えた音響では表現できないナマの音楽を表現することに殉じた姿勢。高尚な芸術に一方的に仕える「司祭」としてではなく、「人間」としてこの巨大なものにどう立ち向かってゆくかをひたすらに考えたような…ちょっと考えすぎだけれども、そこに強く惹かれた訳である。一旦離れ、再び見返したときに感動するものは、その人にとってホンモノである。これは少なくとも私にとってホンモノの演奏であった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),シェルヘン指揮MIRANO RO(STRADIVARIUS他)S37.4.8ライヴ オケの好みもあるだろうけれども、他のライヴ盤に比べてこの盤は深く訴えてくるものがある。シェルヘン晩年の5番ライヴは暴虐なカットと速度でつとに有名だが、オケがいかに「ついてきている」か(技術的にとかではなく、心情的に、)が印象の分かれ目になる。いくら巧くても音色に少しの面白味も無いようでは駄目だし、その類の演奏で評価してしまうのは可哀相だ。この盤では、オケが指揮者の投げかける極端なルバート、極端な速度の中で、それでも懸命に歌おうとしているし、自己主張しようとしている。時にバラバラになってしまうけれども、全体としてはしっかりした音楽になっている。感動的である。それでいいのではないだろうか?難点をあげるとすれば、やはりアダージエットか。妙に長い…あと終楽章はちょっと気が短すぎる…(この2点はライヴ全てに共通),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),シェルヘン指揮ORTF(HARMONIA MUNDI他)S40ライヴ 怒号飛び交う最後が有名なフランス盤。本人は誇らしげに「今日は何分かけてアダージエットをやってやった」と家族に電話していたとか。シェルヘンには往年の大俳優を思わせる芸人魂がある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),シェルヘン指揮フィラデルフィアO(PO/TAHRA)S39.8.30ライヴ比較的音が良いのが仇?思い入れの無い硬く強い響きが余りに耳につく。弦がマイクより遠くバランスが悪いのも一因。折角のフィラデルフィアなのに…,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),○ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(YEDANG)1973/12/23LIVEこの人はほんと器用な人だ。収集したいのは山々だが余りに録音数が多すぎて躊躇してしまう。このマーラーにおいては、3楽章までは素晴らしい。何よりも、わかりやすい。ロジェストヴェンスキーはじつにロマンティックでわかりやすい棒を振る。オケの技術も非常に水準が高く緊張感も漲っている。ただ、アダージエット以降がグズグズになってしまったのは惜しい。ライヴゆえ仕方ないのかもしれないが、コンドラシンよりずっと人好きする演奏だし惜しい。この人にはもっとマーラーに取り組んでもらいたい、と思う。いろいろ書きたい事があったのだが、あんまり長い曲なので忘れてしまった。ごめんなさい。いい演奏です。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),◎ワルター指揮NYP S22.2.10 一貫して速めのテンポをとり、率直な表現に終始。アダージエットにも偏重せず正しく終楽章の序奏部として扱っている。流麗で小気味よいリズムが最後まで崩れず聴くものを惹きつける。暖かい音。非常に配慮の行き届いたこなれた演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02)〜W,ワルター指揮ウィーン・フィル(PEARL他)1938/1/15・CD 音が余りに悪すぎるのだが、それでも一生懸命聴いてみるとこれがかなりあっさりしていてとにかく速い。即物的と言ってもいいだろう。ウィーン・フィルらしさの感じられないドライさで、壮年期のワルターのある側面を非常に象徴している。弓返しなどできつめの表情を付けている箇所もあるがそれも何か表層的な感じもしなくもない。9番の有名なライヴを思わせる、強い生命力の感じられる演奏ぶりである。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),アバド指揮CSO S55.2,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),アンチェル指揮トロントSO 1969.11.4,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),ウィン・モリス指揮SINFONICA OF LONDON S52,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),カラヤン指揮BPO S50,52,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),ゲルギエフ指揮ロッテルダム・フィル(LIVE SUPREME:CD-R)2001/1/2LIVE CDーRは高い。欲しいものはたくさんあるのだが、なかなか手が出ない。たまに手を出すと、後悔するハメになることも。今日など、マラ5、このゲルギエフ盤とテンシュテットACO盤を買ったのだ。が・・・後者、既に持っていた(前述のとおり!)。そういう後悔は自業自得なわけだが、期待して買って、演奏がダメダメだったら、いたたまれない。人気沸騰のゲルギー、マーラー中期の演奏は如何に!・・・ぐだぐだ。それが1、2楽章とおしての印象だった。正直がっかりした。録音が遠かったりオケが弱かったり、何よりゲルギエフの統率力が感じられず、アバウトさが目立つ。音響的に面白いところもあるし(打楽器を必要以上に強調したり、弦のアタックを必要以上に強くつけさせたり)、変に伸び縮みしないぶん素直で共感が持てる(これとテンシュテット、バーンスタインを並列するような文がCDについていたが、彼等前時代の恣意的解釈とはあきらかに違うし、「現時点では」比較にならない)。でも、スヴェトラーノフの代替として扱うにはいささか心もとない。3楽章に入って、オケがようやく俊敏に反応するようになってくる。音楽がやっと動き出す。曲構造のせいでもあるのだが、私もここでやっと安心した。まあまあ楽しめる。次いで4楽章アダージエット・・・ここを必要以上に思い入れたっぷりに弾かせる指揮者は数多いが、ゲルギエフもそうだった。やっぱり弦が弱いし音色も魅力的ではないから、名演とは言い難い結果であるが、気持ちは分かる。5楽章はライヴならではのドンチャン騒ぎが期待されるが、まあ、こんなものか、といったところ。デフォルメの妙はここにきてはじめて味わえる。といっても節度ある中庸解釈、音のダイナミズムだけで勝負しているのではあるが。終演。なんでブラヴォーなのかわからないが、ブラヴォーが叫ばれる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),コンドラシン指揮ソヴィエト国立交響楽団 S49,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),スワロフスキー指揮ウィーン交響楽団(VIRTUOSO Twise)1963/2ほんとにおもしろい指揮者だ。超客観主義とでもいおうか、かたくななまでに四角四面な解釈を施し、決して激して揺れることもなく、あくまで遅めのインテンポを押し通す。この指揮者、今をときめく著名指揮者たちの師匠として知られるようだが、私は「小ロシア」の演奏しか知らない。これまた四角四面なところが却って独特の魅力となっている演奏だ。このマーラーではウィーン響という特殊な団体を振っているところがまたイカしている。妙なひずみ、妙なきしみが曲全体に響き渡る。この終楽章のじつに客観的であること!こういう指揮者に学んだ指揮者にはきっと客観解釈というものが骨の髄まで染み渡ってしまうのではないかと思わせるものだ。うーん、独特のひとことにつきる。評価は人それぞれ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),バルビローリ指揮NEW PHILHARMONIA O. S44 晩年スタイルのよく現れた演奏。横広で異常に遅い。近視眼的に耽美を追求するのもバルビらしいところか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番〜W断片,バルビローリ指揮NYP(Guild)1939/12/17・CD,,すさまじく中途半端な、いわゆるアダージエットの断片である。異常な悪録音の中から聞こえるのは異常に恍惚とした、止揚する音楽。耽美の極み、ワルターを思わせるがそれ以上で、オケが完全に陶酔したバルビにしっかりついていっているのにも驚く。全部聞いたら寧ろ甘ったるすぎて投げ出していたかもしれない。単品では商品にならないだろうがボーナストラックとして影の目玉にしたギルドの意図は汲み取れる。ここまで陶酔しまくっていたらベニスだろうが錦糸町だろうが死ぬわなー。参考記録として無印にしておく。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第5番(1901-02),ブーレーズ指揮BBC SO S43,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),ブーレーズ指揮BBC SO S45,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),ブーレーズ指揮VPO H8.3,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),ミトロプーロス指揮NYP S35.1.2 威厳に満ちた堂々たる演奏。1楽章重苦しい雰囲気での幕開け。沈痛な表情は2楽章になっても変わらず、比較的揺れの無い遅めのテンポを維持する。譜面をいじっているようだがこの演奏に限った事ではなく、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスに通じるドラマティックな要素を際立たせようとする、指揮者の意図がはっきり読みとれる。意図の知れぬ演奏よりは余程良い。並々ならぬオーケストラコントロール力には只只平伏。3楽章、いつもながら完璧な音響バランス、アンサンブルの絶妙。ワルツの瑞々しく弾むようなリズム処理はまさに「ワルツ」、ズラしも的確。ここまでマーラーで「踊り」を表現している演奏も少ない(ペットの事故も挟むけど)。テンポはやはり遅めで珍妙な表現も余り無い。アダージェット前に一度拍手が入る。4楽章アダージェットも重い。ロマンティックな重苦しさが漂う。再現部に至ると内省的な程に沈潜してゆき、儚さや幻想のうちに悲しみが染み渡る。だが密やかな告白は最後に暖かな回想となって終楽章へ向かう。ミトロプーロスは決して後ろ向きにはならないのだ。終楽章になってもテンポは落ち着き気味で重い。ゆっくりの方にルバートするシーンがまま見られる。細かく動き敏捷でしなやかな演奏を求める向きには不評だろう。終盤に至る盛り上がりにおいてホルン、トロンボーンら金管楽器の放つ偉大な響きは印象的だ。全編のききどころとしてはやはり前半楽章+アダージェット終盤だろうか。いま春の川原でヘッドホンで聞きながらこの文章を打っているけれども、川面に滴る光粒とボートのたゆたう情景に、このアダージェットが見事にハマり、グっと来た。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02),ヤルヴィ指揮SCOTTISCH NATIONAL O. ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02)〜W,キャプラン指揮LSO,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番(1901-02)〜W,クレツキ指揮LPO,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第5番〜T.(ピアノ編),○作曲家(P-ROLL)(TELDEC,BELLAPHON他)1905・CD,,いろいろ言う人もいるが基本的に交響曲のピアノ版演奏は過度に起伏がつけられるもので、自作自演も例外ではない。これを聴いてマーラーの自作解釈はロマンティックで前時代的だとかオケがこの芸風につけるのは大変とか論じるのは間違っている。これは「ピアノソロ曲」として演奏されている節があり、その点ではかなり意図どおりの表現に成功している。このくらいの音数ならロールでも違和感は感じない、ロマン派ピアノ曲として楽しみましょう。まあ、揺れるし、重い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第5番〜W.アダージエット,○メンゲルベルク指揮ACO(pearl他)1926/5・CD,,これは前に書いたシンポジウムのようなSP板起こしできくべきではない。雑音はこの曲にはそうとう邪魔。パールの綺麗に整えられた音できくと、メンゲルベルクらしさ全開(+SPらしいセカセカしたテンポ全開)のこの独特のアダージエットをたのしむことができる。有名な録音だがマーラーらしさというよりメンゲルベルク芸の一環として、非常に颯爽としたテンポですがすがしさの中に物凄い瞬間ポルタメントの渦、ルバートはわりと自然で雑味を呼び込んではいない。アダージエット単品としての解釈ともいえ、この曲だけで一つの激しい感情を表現している。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○マリス・ヤンソンス指揮RCO(KARNA/ELS:CD-R)2005/8/29live,,これが意外なほど良い。解釈等他と全く同じで、あとは些細なミスや録音状態の違いということになってくるわけだが、左右反転しているし、明瞭に確認できるソロのミスも4楽章にあり、決して最上級ではないのだけれども、「聴きやすい」のだ。不要にクリアなリマスタリングのかけられない素直であるがゆえに生々しい音、そう、ライヴとはこういうものだ。継ぎ接ぎして綺麗にしたてたものはライヴとは言えない。ぎくしゃくするところもあるし、物凄く激情的というわけでもないが、マリス氏の唸り声を聴きながら圧倒的な迫力をもって迫るRCO(録音のせいだろうがすこぶる「良い」)に心揺り動かされる。ロマンティックであり、ベトベトではないがガツガツとは来る。ああ、もうどう言ったらいいのだろうか。○。EnLarmesの録音月表記は間違い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ロンバール指揮ハーグ・フィル(RO)CD,,態度が悪いことで有名なロンバールによる「フランス人であることが信じられない」紛れもないマーラーの演奏。こりゃマーラーそのものです。この速さ、鋭さ、張り詰めた気合だけでもう満点をあげたくなる1楽章(ハーグがやる気になったらここまでできるのだなあ!)、2楽章も常に明確な発音とテンポ感でかっこいい。やや平板な3楽章とちょっとダレる4楽章前半を除けば「現代の演奏とは思えないほど」ガツガツしたマーラーになっていて、非常にうれしかった。管楽器は弱いところもあるけど、弦はとにかく素晴らしい。バランスもいいし感情もある。カウベルが低めな音なのも好き。ちゃんとハンマーガツンと鳴るし、買ってよかった・・・これでも80分かかってるのだから、いったいどういうテンポ設定なのか、少なくとも冒頭のテンポだけとってみればシェルヘンと比較できるくらいなのに(しかも精度は段違いにこちらのほうがいい)。とにかく余りのドラマティックで迫力ある演奏ぶりに、久しぶりに「悲劇的」の醍醐味を味わった感がする。連続してバルビ・ニューフィルのHUNT盤ライヴが始まったのだが、テンポのダレっぷり、余りの落差に聞くのをやめた。◎にしたいが3楽章の叙情の不足をかんがみて○。いやー、生で聞きたくなる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ベイヌム指揮ACO(TAHRA)1955/12/7LIVE・CD,,録音劣悪。覚悟がいる。ニュアンスの伝わらない平板な音に超ドライな解釈ではいくら力感に満ちていても聞くのが辛い。いや力感すら四楽章になるまで伝わってこない。緩徐楽章が二楽章にもってこられているがこれもつまらない。要所要所のテンポルバート以外に耳をひく要素がない。四楽章になると音楽そのもののせいかダイナミズムが結構伝わってきてやっと聞けるようになってくる。雄渾で男らしいマーラーに色もついてくる。弦の音のニュアンスがかなりしっかりつけられていることに気づかされる。引き締まった演奏ぶりに憧れのような感情もやどり、ベイヌムのライヴらしい烈しさが肉付けされて聞こえるようになってくる。ブラス陣の表現力にも感服させられる。起伏の伏のほうの表現がなかなか聞きごたえがあることにも気付く。独特の「リアルな」歌をかなでる。だがミスも目立つ。この演奏、案外危ういのだ。弦楽器が激しすぎて崩壊しかかる場面もミニマムではけっこうある。集中力がシェルヘン的な方向へいってしまう、基本解釈が率直なベイヌムでそれは逆効果だ。それでも四楽章は興奮するし、この長さを感じさせないドラマティックな楽章は評価されてしかるべきだろう。録音マイナスで無印以上にはできない。,,後日補記>よく聞くとかなり面白い面もあるので○に修正。けっこう短気な起伏もあり力強い。アンダンテ楽章のニュアンス表現がけっこう強くつけられているが全体的なバランスは崩さない。スケルツォ楽章のテンポ感には賛否あると思う。個人的には三拍子が均等に重くアクセントつけられている点にはちょっと違和感をかんじた。舞曲じゃなくて行進曲だ。行進曲として聞けば重々しい表現はしっくりくる。でも個性的な中間楽章である。ベイヌムには交響曲のほか、戦争直後のロンドンでの歌曲伴奏のライヴCDもある。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,,,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ベルティーニ指揮ケルン放送交響楽団(EMI)CD,,これは私がハマった最初の演奏であり、あのティクルス以後都響との好演でハマった向きも多いことだろう。この人はやや現代寄りの曲を専門としていた。フランス経験でフランスものも多くやったが、この全集を聞く限り本領はやはりマーラーにあったと言わざるを得ない。一楽章、最初はアタックが甘くやや精度低いなあと思った。けして遅くはないが解釈もやや単調である。しかしこれが計算だったとは!精度はともかく設計の妙で展開部が進むにつれ徐々に引き込まれていき、再現部からコーダへ向けて雄大にリタルダンドしながらすこぶる絶妙なルバートを仕掛けてくる。曲を知り尽くし、確実にツボを押さえているのだ。弱音の丁寧さ、美しさも特筆したい。ロンバールには勢いはあるがコレがない。基本的にオーソドックスではあるが、解釈にメリハリがあるからつまらなくはない。確かに歪みがない点スコアをしっかり表現しつくしている点初心者向けだ。内声までしっかり組み上がり詰まっているから聞けば聞くほど味が出る。提示部反復あり。二楽章はやや冗長だが重くマーラーらしいぎくしゃくした舞曲を忠実に表現している。弱音部の丁寧さは冗長感もあるが音数の薄いマーラー特有の「諦念」にも聞こえるから不思議。三楽章はやわらかい抒情をはらんでやさしい。四楽章は壮大にドラマティックに進み聞きごたえがある。やはりオーソドックスながらも弱音部の表現に細心の配慮がなされ魅力を感じる。細かくも結構はげしいデュナーミク変化のしなやかさ自然さは持ち味だろう。やはり一部にパワー不足を感じる部分もあるが総体として充実しており音響はふくよかで立体的に感じる。最後の高揚感とコーダの落差は出色である。録音がやや古いので人により音場がせまく音像がぼやけて感じられるかもしれないがアナログ世代は聞きやすいかも。ファーストチョイスに向いた好演。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○M.ヤンソンス指揮RCO(DonIndustriale:CD-R)2005/9/1LIVE,,放送エアチェックで音的にはインホール録音、即ち残響もバランスもそのままのものであり、茫洋として、逆に冷静に聞くことができる。1、3、4楽章は演奏の印象的にはLSO同様のもので寧ろ激しくなっているようにも感じるが、「音の迫力」や「聞き取れないレベルの精度」といった面でやや劣るようにも思う。というのもやはり録音のせいで細部が不明瞭で、それがために寧ろ「凡演領域」に近づいた感じが否定できないのだ。せっかくの高精度もやや不明という残念さがある。だが、2楽章(アダージオ)の表現の深さといったらない。これはもう完全にマーラーだ(マーラーなんだけど)。感情の起伏が激しく氏の昂りを感じる。他の楽章でも他の盤でもうなり声は聞こえるのだが、この盤では演奏に伴ったものとして印象的に残る。傍証的なことを書いてしまったが、暗くロマンティックなマーラーの情念を表現しきるまでにいたっている。基本的な解釈はLSOと同じなのかもしれないが、ここでも更に激しくなった感があり、いかにもライヴらしい。これはよい。4楽章も飽きさせないスピードが気を煽り、この曲では相対的に余りフューチャーされないブラス陣もRCOらしい中欧的な重厚さと生々しさがあってLSO盤より聞きごたえがある。総じて録音のために大推薦とまではいかないし、明瞭な正体は正規盤に譲るものとして、○だけつけておく。氏の悲劇的は聞きやすいうえに血が通っている。血という部分ではLSOより濃いような感じがするとだけ付け加えておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),◎M.ヤンソンス指揮ロンドン交響楽団(LSO)2002/11LIVE・CD,,難点を言えば三つある。,,1.録音が余りに優秀すぎて本来の姿がよくわからない(ヴァイオリンの細かい装飾音符まで明確に聞き取れるのはいかがなものか),,2.ブラスが相対的に弱い。録音バランスのせいかもしれないが弦主体の組み立てになっているように聞こえる。,,3.奇妙な解釈や大仰な表現を好む人には向かないまっとうな解釈である,,つまり難点は無いに等しいのだ。冒頭中低弦の僅かなアッチェルで瞬間的に引き込まれ、体感的に速いスピードのうえで実にリズミカルな処理の巧さ、水際立ったテンポ感は素晴らしく、水のように淀み無い流れの中にもしかし確かな起伏もあり(この演奏ではやや穏やかではあるが)飽きさせない。音響の厚さ、深く重厚な表現にも欠けていずあきらかにこれは最新録音によく聞かれるたぐいの軽量級の悲劇的ではない。このようなドイツオーストリア系の音楽にも確かな適性を示すところが父君アルヴィッド氏とは違うところかもしれないが、いかんせん父君の演奏復刻は遅々として進まず抜群のオケコントロール(もちろん晩年は教育者として国外で活躍した父君のメンタリティの影響もあるだろう)や幅広いレパートリー(父君はロシアにおいて南欧の曲を南欧ふうに演奏できる数少ない指揮者であった)という共通点を除けばなかなか単純比較はできないものである。父君の国内実演を目にすることのできた幸運な人は限られている(私も聞いていないが、ムラヴィンスキーの代替指揮者というイメージで捉えられすぎていた面もあるようだ)のだからそもそも父君との単純比較論は無理がある。活躍した場の違いが大きく、振ることのできたオケの演奏適性や能力の違いがまるで出てしまっている状況を鑑みるに、マリス氏が「父君を越えた」かのように喧伝されるのは不思議な現象であるが、これも日本のマニアの狭量さを示す一例である。,,もっとも私も僅か10年ほど前と今のマリス氏の変貌に驚嘆することしきりで、この進歩が確実に父君を越える日も来るのかもしれないとは思う(スタイルが違うので「越える」という表現自体おかしいかな)。10年以上前、氏と親しい方に推薦されて盤を聞いたりしてみたのだが、振っていたオケのせいだったと今になっては思うのだが、硝子のような透明感と客観的な奇をてらわない解釈が、横広がりで莫大な「当時ありがちだった現代的な演奏」に聞こえてしまい、奇演不思議解釈にどっぷり漬かっていたロシアマニアの私には「肌が合わなかった」。リハを聞く機会もあったのだがパスしてしまった。音響の美しさを追求するのは曲によっては正しいやり方かもしれないが国民楽派からロマン派末期の音楽をやるには物足りない。,,しかし今のマリス氏はもうそんなレベルではないようだ。ここには熱いマリス氏が聞ける。弦楽器のパキパキゴリゴリいう音が終端部まで聞こえ続けるこの緊張感。それに細かい音まで全て計算ずくでパズルのように組み立てるマーラーに対して、その計算を余すところ無く音にし一本の音楽に纏めきった物凄い演奏精度(どういう「磨ぎ方」をすればロンドンのオケがここまでノって気合を入れ音にできるようになるのだろう、ヴァイオリンの装飾音が全てビッチリ揃って聞こえる演奏に初めて出会った)が伴っているのが氏の「通好み」(嫌な言葉だ)なところであり、後者に拘る古いタイプの聴衆にも受けるゆえんだろう。これがしかも実演記録なのである(もちろんいじってると思うし残響も拍手もカットしている)。,,このCDはロンドン響の自主制作扱いだが、かなり安価に簡単に手に入れることができるので現代の名演奏として是非聞いてみていただきたい。あくまで正攻法ではあるが随所にちりばめられた細かい操作が自然に演奏を盛り立てている。1,3(スケルツォ)楽章の腹の底に響き胸を切り裂くような低音のキレのよさがわくわくさせる。2楽章のいかにもマーラーらしい、寧ろ氏のほうからマーラーに歩み寄ったような演奏ぶりや、4楽章のあっというまのドラマも、ベルティーニに欠けていた何か(それはテンシュテットには確かにあったものだ)が補われた、進化した、でも伝統的なマーラーそのものの見事な記録である。ほんらい個性を重視する私はこのてのものに高評価はしないのだが、録音の見事な明晰さとのタッグマッチで◎とせざるをえない。名演。ノリより精度を重視したようなウィーンのニューイヤーを聞くにつけ正直期待していなかったのだが、何にでも同じスタイルで挑む昔かたぎの人ではないのだと納得。
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),カラヤン指揮ベルリン・フィル(DG)1977ライヴ盤にくらべ心なしか落ち着いている。さすがに音は細部まで磨き抜かれている。細部まで聞こえるから、「へーここでこのパートこんなことやってんだ」的な感動がある。1楽章は面白かった。2楽章スケルツオは落ち着いている。4楽章も比較的ゆっくりだ。じっさいに演奏時間もライヴ盤より長いのだ。行進曲主題の溌剌とした歩みは心地よい。少しばらけたように聞こえる所もあるが。ブラスがちょっと武骨すぎるかもしれない。テンポの揺れは比較的少ないように感じる。だから少々一本調子な感じもしなくもないが、このへんは好みだろう。意外と骨太。弱音部の精妙さとのコントラストが面白い。聴後カタルシスはどちらかといえば少ない演奏だが、総体においてレベルの高い演奏たりえているのはさすがといえよう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),カラヤン指揮ベルリン・フィル(FKM:CD-R)1977/8/27LIVEこれは「解釈しない」演奏だなあ、と思った。とくに一楽章、アルマの主題があらわれるところの機械的なリタルダンドに音色変化の欠如など、たしかにこの人のマーラーが評価されない原因がわかるような気がする。ただ、スケルツオと終楽章は精妙なうえダイナミックで、聞きごたえがある。このスケルツオが面白い演奏というのは巧いオケの演奏しかありえないわけで、ベルリンの力に感動。弦やっぱり強い。強いといえば一楽章の行進曲主題も暴力的に強い。しかししょっぱなでペットが裏返っていたりも。この盤、音質に問題あり。音像がぼーっとしているところがあり、とくに中低音の動きが聞こえないのはきつい。拍手は通り一遍の、ってかんじ。1楽章の「繰り返し」は行われていない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○カラヤン指揮ベルリン・フィル(KARNA:CD-R)1977/6/17パリLIVE,,なかなか聞ける。とにかく異常に気合が入りまくったオケの力量の高さには瞠目だ。カラヤンでも記録としては最初にあたるものだと思うが、解釈に奇をてらったところはなく、だからこそ味わえるオーソドックスな味、それが極上のオケによって歯ごたえのある料理に仕上がっている。他の盤と比べてもこのテンションは尋常じゃないが、やはり1楽章が素晴らしく、冒頭のガシガシ斬り込むようなバス音域の弦楽器からしてわくわくさせるものがある。アルマの主題では壮大にリタルダンドし、しかしフォルムは決して崩さない。速めのテンポで颯爽と進むので、提示部を繰り返していても違和感はない。むしろ何度でも聞きたい提示部だ。2楽章スケルツォの完璧なアンサンブルといい、3楽章の期待される通りの叙情といい、4楽章の期待される通りのドラマといい、終演後の異常なブラヴォといい、最初の記録なのに、これが一番成功しているかのように思える。エアチェック録音のため雑音等気になるゆえ○にとどめておくが、最初に聞く6番としても、これは適切なのではないか。これを起点にいろいろと聞くと楽しめるだろう。聞きやすいから、初心者向き。・・・反面すれっからしからすると後半飽きてくるが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ギーレン指揮SWRバーデン・バーデン交響楽団(hanssler)1999/10/7・CD,,楽章が進むにつれまともになっていくが、1楽章は特徴的だ。テンポの人工的な操作が異常なまでに施され、ルバートでさえ人工的に彫刻していくさまはまるで「かつての」ブーレーズやロスバウド、もしくは珍演大将マデルナを思わせる。変ではあるけど、特徴的であり、昔の現代音楽指揮者の解釈を思い起こさせる点魅力的だ。しかし異常に細かく設定されるテンポ変化(特に「アルマの主題」の一音一音の長さを変えて構造的に「歌わせて」いく細密的な操作は懐かしい)についていけない向きもあろう。それは声部のバランスを極端に変化させているところにも言える。ブラスが東欧の曲のように強烈に響くのと弦が思い入れの無いドライな音を出すところも現代的な「怜悧な熱さ」を演出するのに十分で面白い・・・不思議解釈に奏者の心情がついていってないバラバラ感も含め。ただ、日寄っていくのにそうそう時間はかからない。ひょっとして2楽章以降には余り興味はないのか?もっともまともな悲劇的の演奏としては楽しめるので決して悪くは無い。1楽章の提示部の繰り返しもくどいと思えるほど印象が強かった。総体で○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),コンドラシン指揮レニングラード・フィル(MELODIYA)1978LIVE・CDこれは余りにマイクに接近したクリアな音が災いしているのと、コンドラシンの単彩でストイックなアプローチが曲のロマン性を一切取り去ってしまったため、目茶苦茶弾けるオケがその運動性を誇るだけの「裸の演奏」に聞こえてしまうという結果を産んでしまった。決して悪い演奏ではないが…,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○コンドラシン指揮南西ドイツ放送管弦楽団(バーデン・バーデン)(SIBERIAN TIGER:CD-R)1981/1/18(13?15?)LIVE,,前注:2011年正規の放送録音音源より復刻されたhansslerのものと同じとされている。そちらには13日から15日とのクレジットがある(流布していた非正規配信音源にも同じ日付の記載があった)。日本でも放送されたものであるが、クレジットが違う以上後日別途書く。,,,話題盤になってもよさそうなものなのに話題にならなかったのはやはり録音の悪さ(明らかにエアチェックもの)と演奏の荒さのせいだろう。晩年のコンドラシンとは思えない粗雑さというか、オケ側にもミスが目立ち精度に問題があるし(この精密機械のようなオケにはあるまじきことだ)、解釈もやけを起こしてその場限りで荒々しくなっているのか?というように感じるところがある。気まぐれにも感じる。弦のスピッカートが頻発する曲でそれが音楽にきびきびした律動を与えるのだが、一部なぜかレガートでやらせたりしている、これはロシア時代のコンドラシンであればむしろ逆、粒立たせるほうに専心したであろうものなのに。しかも余り意味を感じない。オケの技術的問題か?と考えると辛い。音色に期待できないオケだけに技術面についても完成度が低いと厳しいのだ。1楽章の最初のアルマの主題やクライマックスなど大きくリタルダンドして格好をつけているのだが、無理があるというか機械的に感じられて仕方ないのは音楽にのめりこまないオケのせいだろう。音は出ているがイマイチ感情を煽らない。3楽章(通常どおり緩徐楽章)もコンドラシンはいつになくゆっくりしたテンポでしっとり聞かせようとするが、入り込めない。どこか音が醒めているのである。解釈に奇怪さをまじえ聞かせるシェルヘンみたいなタイプならこれでもイケたかもしれないが、率直な解釈で直線的に突き進むコンドラシンにとっては厳しかったのではないか。このオケとの相性は余りよくなかったのではと言わざるをえない。コンドラシンらしい激しく突き刺すような音表現が無いとも言えない(2楽章)のであるが、まとまりがなく強い特徴としては感じられないのである。,,4楽章は正真正銘速い。揺れず即物的で豪速球勝負、コンドラシンらしい凝縮された表現がオケにも浸透してテンション高い音楽が繰り広げられる。余りの速さに弦など厳しいところも僅かにあるが、概ねこのオケらしい機械のような精度が戻ってきたと感じた。胸のすくようなスポーツ的快感があり、ドラマティックな曲想とあいまってまるでジェットコースターに乗っているような何も考えなくていい心地よさ。とにかく1楽章に比べればかなりアンサンブル精度が高い(元々マニアックで無理のある書法ゆえ録音バランス次第で聞こえかたがかなり違ってくるから、1楽章はそんなところでたまたまおかしく録れてしまっただけなのかもしれない)から安心して聞ける。最後の奈落に至るまで余りの即物ぶりに拍手にも戸惑いを感じる。ひとつの見識ではあるが、マーラー的な物語性を求めるならお勧めできない演奏であることは確かだ。 ,,とはいえコンドラシン好きはロシアでの正規録音との比較も含め興味深く聞けるだろうし、決して演奏として悪いというわけではない。異常に速くショスタコのようなマーラー、という寸評がいろいろなところに流用されているがあまり知らない人はそういう印象を受けるだろうから、そのてのものが好きなら聞いて損はなかろう。ただ正規を聞いてないなら正規から聞くべきだ。そうすると別にショスタコのようなというよりこれはそういう解釈なのだということがわかるし、シェルヘンを知っていれば決して速くは無くそう奇異なものでもないということがわかるだろう。すれっからしは思ったより「らしく」ないところが気に入らないというだけで、マニアは情報だけで楽しめるだろうし。ラフ2、チャイ5と並んで三大コンドラシン亡命後ライヴとなりうるかと期待したのだが・・・やや拍子抜けした。それにしてもホワイトノイズが非常に煩い。,,最後に、これは2005年1月の新譜であり、一部小売店でのみ取り扱われるCD-R即ち海賊盤である(殆どがアメリカ産のプライヴェート盤を名乗っている)。一部というところがミソで、大々的に売り出せない種類の商品なので情報が不正確だったり素早く入ってこなかったりする。「レーベル」自体消えては新しく出来たり名前を変えたり頻繁に変化していく(SIBERIAN TIGERは前からあるが)。そのため私は誤解してこの盤の中古を物凄い高額(新品の13倍!)でオークション落札してしまった。基本的にCD-Rはクレームが入ったり余りに売れないということがなければ何枚でも注文で作れるたぐいのものなので、ネット通販なら1年くらいは確実に手に入る。入手したいかたは、是非私みたいなヘマをしでかさないようにしてくださいね。中古CD−Rは中古買取店には原則売れないし、ネットオークションも本来的にはそういう出品を禁止していますからリスキーでもあります(逃げ切りで短期出品してる人が多いから私みたいなのが出るんですけどね)。ちなみにCD−Rで人気が出ると正規盤が出るという構図もある。逆に少数販売盤をCD−Rで増産という場合もあり、VOXなどは注文生産型で廃盤の「正規CD−R」を作ったりもしている(一部国内店でも行っているところがある)。様様な形態があるが、いずれにせよ「CD−R」はいずれ正規化のリスクのあるブート盤で、品質も期待できないものとして肝に銘じて入手していただきたい。,-----,,,-----,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○コンドラシン指揮南西ドイツ放送交響楽団(hannsler)1981/1/13-15live・CD,同上,放送音源として長らく個人のエアチェックが闇流通していた音源の正規発売。音質も格段によくなっている。日付違いの裏青があるが同一の可能性が指摘されている。ラフマニノフ2番のコンセルトヘボウライヴを思い浮かべていただければ、そういうような演奏である。快速インテンポで突き進む解釈と、美麗に磨き上げられた音のあいまった胸のすく演奏。「あっ」という間に聴けてしまうので、じっくり派は耳を欹てて聴くがよし。どの楽章が際立って、ということもないが、コンドラシンの同曲録音としては最上位に置けるのではないか。オケの鋭さが目立つ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ドラティ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R)1975live,,普通。派手な解釈はなく、終楽章あたりにフィラデルフィアならではのゴージャスな音が男らしい一本木な展開の上に少し花を咲かせているが、基本的に渋く、解釈よりはテクニック系の指揮者であり、1〜2楽章などはとくに全く特徴のない、揺れもしない「オシゴト的演奏」でどうかと思った。3楽章は若干の綾があるものの他の指揮者と比べて特徴的とは言えない。4楽章はドラティの他のもの同様ダイナミズムに溢れ・・・と言いたいところだが前半は少し客観的な感じがする。クライマックスが近づくにつれドラティらしい強いアクセントをつけて突き進む雄渾な表現が気を煽るようにはなるがヴァイオリンのテンポがずれてしまったりフィラ管らしくもない箇所があったりする。また録音は安定して良好なステレオなのだが、一部非常に聞きづらいエアチェック録音ミス・テープ媒体ノイズがある。音量に起伏が無いのは録音レンジの狭さゆえか。最後のコーダだけが特徴的に陰鬱さを示すほかは暗さがないのも気になるといえば気になる。こういうのが聞きやすいと思うときはあるとは思うので、○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ドラティ指揮シカゴ交響楽団(DA/FKM:CD-R)1971live,,FKMが2018年4月出したものは同じだろう。正直3楽章まではまったくそそられない、余りに「普通」なのである。解釈もそのまんまで殆ど特殊なことは行っておらず、また録音が悪い。ステレオだがモノラルと勘違いしそうなエアチェックで、スケルツォなどかなり聴きづらかった。しかし終楽章の盛り上がりには驚いた。まるでここだけで一つのドラマを作るのが目的であったかのようなボリューム感とオケの合奏力が、あくまで奇をてらわない直球ではあるけれど耳を話さない。最後のブラヴォーの渦もうなずける名演ぶりだ。これは特徴的なものは何一つ無いけれど、実演だったら感動したであろう演奏。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ドラティ指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1978live,,インホール録音(膝録)。不安定だが過不足ない迫力のあるステレオ録音。演奏自体は集中力は高いものの職人的で解釈に目立ったところはなく正直面白みはない。が、無心で楽曲だけを聞けるメリットはある。4楽章など細かくはより効果的にドラマを演出するためにいじっているような箇所もあり、楽曲だけ、といってもスコアが透けてみえるたぐいではない。とにかくこの曲によく慣れている人のどちらかといえば即物的なスピード感ある演奏。3楽章など凡庸で地味かも。オケはデトロイトだけに?鉄鋼製品のようなところがあるが巧い。よく制御されておりミスもない。実演だったら何度でも行きたくなる演奏だろうなあ。ブラヴォがわりと凄い。,-----,,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),◯ドラティ指揮シカゴ交響楽団(ritardando:CD-R)1968/1/4live,,一部欠落・プチ雑音あり。ドラティの悲劇的はドラマチックで素晴らしい。シカゴ響の機能性はドラティのうねるような力強さにこたえている。どの楽章もおすすめだが、やはり四楽章が弛緩せずキレよく演じきっているということでおすすめか。ドラティの悲劇的でも技術的に充実した記録(音外しなどあるにはあるが)。ラストは鮮烈。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ドラティ指揮イスラエル・フィル(hilicon)163/10/27live・CD,,イスラエル・フィル秘蔵音源のひとつとして正規発売されたもので、ドラティの悲劇的としては初の正規CD化ではないだろうか。しかし、音はかなり悪く、モノラルで音場が狭い、撚れているところがあるなどいわゆる骨董録音好きにしか許容できないような要素満点で、気になるかたには薦めない。演奏自体はいつものドラティにも増して荒れ狂う。つんのめり気味でものすごいテンポをとり、非力なオケをぶんぶん振り回してシェルヘンのようなばらけかたを見せる場面もある。このオケは弦が美しいはずなのだが、なぜこの曲でこの薄さなのか理解できない。おそらくマイク位置とか単純な別の理由からだろう。いつもより多く揺らしております、というところがもうマーラー好きにはたまらないところもあり、古いスタイルのよさ、というものも感じさせる。わりと全楽章がよいが、しいていえば両端楽章か。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ドラティ指揮クリーヴランド管弦楽団(放送)1977/3/31live,,素晴らしい悲劇的の放送録音をいくつも残しているドラティの、最近CD化されたイスラエル録音を除けば殆どがアメリカオケとのもののひとつであるが、中でも名高いセルのオケとして、ウィーンの響きと高い機能性を誇ったクリーヴランド管弦楽団とのステレオ録音だ。状態はよいが内声はやや聞き取りづらい。基本的にトスカニーニを模したような直線的で乾いたドラマを描いていくスタイルで、マーラーでも保守的できわめてロマンチックな音楽であるのに、とくに緩徐部や楽章があまりに素早くまるで興味がないかのように音色も何も無く投げられていくのには唖然とさせられるが、ドラマティックな楽想、歌謡的な旋律の分厚い表現、スピード、それについていくオケ、ラッパは下品だしブラス走り気味だが、臨時記号だらけの細かい音階をひたすら高速で正確に刻み続ける弦が素晴らしい。セルのライブ録音にときおり聴かれた程度には音程ミスやアタックの甘さボウイングのずれなどなくはないが、ほぼブレイクなしに最後迄弛緩しない演奏ぶりは驚異的だ。クラシックを知らない人間がこんなライブをこの曲で聴いたら、圧倒され魅了されざるをえまい。精密で響きばかり気にする現代の演奏にはない熱いものがある。ハンマーがよく聴こえなかったがまあいい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06)抜粋,ドラティ指揮ナショナル交響楽団(DA:CD-R)1974/10/27live,,録音は非常に明晰でステレオ効果も抜群だが、弦が後退しブラスばかりが浮き立って聞こえバランスが悪い。これはおそらくいわゆる膝録り(インホール録音、隠し録り)であり、カセット入れ替えのため3楽章と4楽章冒頭が欠落してしまったものと思われる。演奏はいたって普通。ちょっと隈取が強い感じを受ける部分もあるが録音バランスのせいなのか解釈のせいなのか定かではない。何よりワシントン・ナショナル響がちょっと弱い。ブラスやパーカスの威力は認めるが、けして「巧い」と思わせるものはなく、軋みが生じるというより甘さが生じている。キレよくしようという意図が聞き取れてしまうほど、キレが悪いのだ。ドラティはかなり引き締めるほうの指揮者だと思うがラインスドルフかと聞きまどうほどに「普通」な解釈を施してきているがゆえに加えて物足りなさが残るのである。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○バーンスタイン指揮VPO(DG/ユニテル)1976/10live・DVD,,バンスタの残したライヴ映像全集の嚆矢に掲げられる(バンスタの動きが)ダイナミックな演奏である。視覚的にも非常に楽しめる。4楽章のハンマーにこだわる人には三回目のハンマーが見所といえる。非常にアグレッシブでテンションの高い1楽章から始まる演奏は「カッコイイ」のヒトコト。この速さはやはりカッコイイ。ウィーンとは思えぬほどの精度を伴ったテンションも特筆ものだろう。2楽章も攻撃的だがやや重いか。有機的に詳細に作り込まれた解釈ぶりは余りに板につきすぎているがゆえに違和感はない。しかしこれは独特の演奏であり解釈であり、バンスタの時代にバンスタしかなしえなかった演奏と言えるだろう。この相性のよさはウィーンの個性の薄まりとともに現れたものとも思えるが(音色的な魅力はそれほどないのだ)どん底まで暗い場面から天にも昇るような場面まで余りに劇音楽的な盛り立て方を施していて、好悪はあるかも、と3楽章を聴きながら思う。この緩徐楽章は確かにやや重い。重たいロマン派音楽の手法でまとめられ、マーラー独特の薄い音響の軽やかさ繊細さが余り際立たないので私などはちょっと余り好きではないが、素直に普通に感情を煽るブラームス的な音楽なので、普通好きだろう。4楽章は攻撃的にクル。これはいい。長いからこそ攻撃的テンポでいくべきなのだ。序奏部の地獄の暗黒世界から世俗的な闘争への展開はまったく、いかにもな煽り方が逆にすがすがしい。ウィーンはほんとにうまい。技術的問題など(ミスはあるが)ない。テンションの高さが物凄い。細かい音符の一つ一つまで物凄いテンションで弾き吹ききっているのが如実にきこえ、この時代の録音にしてはじつにクリアなのにも増して演奏自体すごいことになってるのがわかる。マーラーもここまでちゃんと細部のマニアックな音響的仕掛けを意図どおりに(?)やってくれたら本望だろう。それほどまでにバンスタは自分のマーラーを確立し唯一無二と思わせるまでにいたっている、まあすごいです。よく聞くと細かい改変もあるんだけど、それも全てマーラーの意図の延長上と思わせるところが凄い。もちろん、マーラーはバンスタだけのものではなく、他を聞けば他の魅力が出てくるし、確かにこの精度と音色のバランスを他の指揮者のウィーンオケものから引き出すのは恐らくもう無理かもしれないが(少なくとも音色については)、これはあくまで一つの素晴らしい見識とみなし余りのめりこまないようにしておかないと、という警句が浮かぶほどドラマの激しさは尋常ではない。起伏のつけ方テンポ変化とくに4楽章後半のねっとり感が極めて極端である。晩年様式にいたる前、NYPの一種マンネリ万能化した頃からの過渡期にまだ精力溢れる力づくの演奏ができたころの記録として非常に貴重である。後半弦楽器がややばらけてくるがこの音楽にバンスタだからそれもライヴの迫力のうちと捉えられるところがまた得している。うーん、これを基準にこの曲を他に聴き進めるのはなかなか難しい。卑俗にすぎる、わかりやすすぎる、何とでも言えるが、これは一時代前のマーラー像の権化である。よきにつけ悪しきにつけ、バンスタのマーラーはマーラーを聞くうえで避けて通れないものだし、画質の問題はあるがこの映像を見る見ないでは大きく違う。エポックメイクだったものの、最も精力溢れる記録として見ておきましょう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),バーンスタイン指揮1988/8/25(FKM:CD-R)LIVEグラモフォン盤だが、あまりにデジタルで明晰な録音がキンキン耳につき、聞きづらかった。CDーR盤のほうがまろやかな音で安心して聞けた。二つはほぼ同時期の録音(一部同じ?)のため、解釈はおろかオケの表現もまったく同じ。後者にはごく少しだがペットあたりに異なるとちりが聞かれ、恐らく違う演奏だとはおもうのだが、共に、「現代ウィーン・フィル」の硬質で機能的な響きは気合は入っているが決して感情的ではなく(だからバーンスタイン解釈の恣意性があからさまに浮き彫りになりわざとらしさを感じさせる)、没入して心酔しきった演奏というバンスタのイメージとは異なる。独特の震幅の大きい解釈もここまでくっきり彫刻されるといささか違和感を感じざるをえない。この曲が元よりかなりドラマティックであり、しかも奇異なほど明瞭な型式に基づいていて、さらなる恣意性を導入するに不利なところがあることは留意すべきだろう。1楽章の葬送行進曲の早いテンポと激しいアタック、対して独特にコントロールされたアルマの主題(第二主題)の息の長い歌い込みは印象的だった。あと3楽章(アンダンテ)が魅力か。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),バーンスタイン指揮ウィーン・フィル1988/9(DG) FKM盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(SONY)1967/5/2,6素直に聞けた。聞き易い。後年の演奏に比べ恣意性が表に立っておらず(無論萌芽は見えるものの)あの長い終楽章もそつなく聞き終えることができた。・・・つまり、そういうことである。平凡なのだ・・・「今」となっては。どれもこれも、新録の解釈と比べて弱い。あと、オケがやや雑味を帯びているというか、アンサンブルが整っていない感じもする。いや、聞き易いのだからそれだけで十分、価値を持つ演奏といえようか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○フェドセーエフ指揮チャイコフスキー・モスクワ放送交響楽団(relief)CD,,珍演奇演好きならこの指揮者はおなじみだろう。キャリアが長いにもかかわらずチャイコの悲愴終楽章の”原典版録音”(テンポを譜面指示通りにやったってだけなのだが)でやっと知られるようになった。日本にもしょっちゅう来ている気がするが、何故スヴェトラほどの人気が出ないのかよくわからない。統率力に問題がある、ムラが多い、その共にスヴェトラも似たようなものだったと思うのだが・・・フェド、スヴェトラにキタエンコがソヴィエト三羽烏と呼ばれた時期もあった(日本だけだと思うがロジェストは別格なんですね)。爆演とはいかないものの、チャイコの例にもあるようにテンポ設定において独特の「価値観」を持っており、この演奏でも(マーラーはこのシリーズ前もかなり昔に4番を録れている)楽しめる部分がある。1楽章は◎にもしたいくらい面白い。近年滅多に聞けない「アルマの主題(第二主題)大リタルダンド」。雄大に盛り上がり歌っていてここまでいくと有無を言わせず豪快にロマンティックな気分になり、かっこよさすら感じる。「ああ、古くはこういうふうに演奏されていたんだよなあ、この部分」といった感慨もある。提示部は再現されないが却って颯爽と前進する感じがしてよい。オケはすっかりロシア色が抜けただの西欧地方オケの様相をていしているものの1,2楽章あたりではかなり頑張っている。,,ただ、かなりあっさりとした3楽章から後半楽章にかけて精彩に欠ける感もある。終楽章は部分的に極端なテンポ操作は聞かれるものの、基本的にはインテンポである。漲る緊張感は前半楽章に集中しているといえる。3楽章の某箇所でセカンドヴァイオリンのエコー6連符が削除されていたのにはびっくりした(両翼展開してる意味が・・・)。細部の雑さは旧来のロシアのものというより全体レベルの問題のように感じたが、全般、決して凡演ではない。少なくとも1楽章の小気味いい進展と極端さには惹かれました。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○マリス・ヤンソンス指揮RCO(RCO)2005/8/22・9/7,8・CD,,まー実演でこんなに隅々まで聞こえるわけはないのだが、ぼーっと聞いているとさらっとするする聞けるのに、譜面を意識して聞くとかなりアクの強さも感じさせる演奏だ。比較的ニュートラルで弦楽器は非力といってもいいこのオケで、充実した聴感を与えるには異常なほどのテンポのメリハリや細かいフレージングへの配慮にオーケストラ総体として広く響かせる解釈の絶妙と統率力の強さがあり、またとくに静かなパセージの恍惚的なテンポの丁寧な表現には、音の透明感と崩壊しかねないほどの感情の起伏の絶妙な(計算された)バランスが聴かれ秀逸だ。あくまで現代の覚めた演奏でいながら、かなりの深い呼吸ぶりが必ずどこかの声部に感じられる。両端楽章の聞き易さと面白み、ライヴ感には当代随一のものがある。一楽章提示部の繰り返しには少し辟易するが、鋭い切っ先のリズム刻みがグダグダになることから救っている。アンダンテはロマンチシズム溢れるものだが、マリスのマーラーは基本的に明るいので(スケルツォからフィナーレの中では角笛交響曲の牧歌を思わせるほどに安らかな緩徐部も聴かれる)さほど引っ掛かりはない。優しい。実演はここまで綺麗に聞こえるものではなくかなり操作されているが、何か一枚だけ、新しい録音で、と聞かれたときに差し出すには適した好演。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○メータ指揮イスラエル・フィル(TELDEC)CD,,懐かしいテイストの演奏だと思った。ストレートだけど部分的に作為が目立ち、オケがついていかない(特にヴァイオリン)、けれど何か目の詰まった感じがして聞きやすい。雑然としたふうが最近の演奏にはない「ふくらみ」を感じさせるところがある。シェフの統率「範囲」が狭い、それが逆に意識的なものだと思うが、自発性という点ではモノラル時代のNYPがよく見せた態度に似ているというか、強烈な吸引力はないけど、音楽的に豊潤に聞かせるくらいにはまとまっている。非常に一般的な書き方をしたが、まったくスタイルは違っても、やはりバンスタを思わせる音がしている、そんなところにとどめて、無難に○。いや、普通に聞きやすい。敷居が低い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),◎ラトル指揮BPO(BP)1981/11/14,15live・CD,,ラトルの「衝撃のベルリン・デビュー」をベルリン・フィル自主制作盤として再編集したもの。ベルリン自主制作シリーズは全般、海賊盤CD−Rなどに比べれば全然聞きやすいが期待ほどではなく、環境雑音も比較的入る(モノによってはエアチェックのような趣さえあるが、ほうぼうから掻き集めてきたものをシリーズで出したようなので仕方ないだろう)。しかも私の盤だけかもしれないが4楽章24分直前より26分くらいにかけて音飛びのようなものが聞かれる。短いがプレイヤーによってはかなりプチプチといわゆる「修復不能な劣化音」に近いものが聞かれ不安を煽る。いずれ自主製作ものとはそういうものなので仕方ない。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,,<後日記>交換したところ全く支障なくなりました。たんに盤が駄目だったようです。したがって聴きなおしたところかなり耐用年数の長い「うまい作り」であるという観点から◎に上げておきました。確かに性急でストレートではありますがとてもよくまとまっている。ベルリンも全幅の信頼というわけではなくバラケもなくもないがドライヴがすこぶるいい。何よりたぶんリマスターがいいのでしょう。<後日記終わり>,,録音がクリアなだけあり印象が以前の海賊盤とはあきらかに違う。エッジがやわらかく丸められたことで逆にボリュームと聞きやすさが増し、雑味とも受け取れた角がとれている、いずれ「若い演奏」ではあるのだが非常に気分を高揚させられる巧さがある。本番はもっと違ったのだろう。つくづく録音状態、盤質というものが音楽の本質自体を悪いほうに歪めて伝える可能性というものにおもいはせた。怖い。,,楽しんで聞くには十分の素晴らしいドライヴ感、オーソドックスかもしれないが若さゆえの先走りという部分もなく巧緻のうえに実力も感じさせる。何度聴いても楽しめます。それゆえの強烈な個性は無いが。,-----,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ラトル指揮バーミンガム市交響楽団(EMI)1989/12・CD,,一楽章。鈍重というか鈍い感じの反応をするオケだがラトルの落ち着いた棒にしっかりつけていて、確かにパワーはないけどそれほど気にならない。しっかりした足取りは後ろ向きの感もなきにしもあらず、好き嫌いは別れるかもしれない。この醒めた感じは現代的演奏の典型。音を常にレガート気味に伸ばすのをだらしなく感じる向きもあるだろう。だがテンポ感は悪くはない。柔らかな音色はマーラーを中欧世紀末のくぐもりから解き放ちロマンティックな明るい音楽に昇華させている。コーダは崩壊寸前まで突っ走る。絶妙のテンポ変化ですこぶるかっこいい。ラトルはたまにこういうシェルヘン的?なかっこよさを混ぜてくる。ソナタ形式の提示部を繰り返している。,,二楽章。アダージオを置いている。作曲当初の姿で演奏との記載があるがどこまで考証的に行っているのか不明。音楽は静謐で柔らかい。ゆったりしたロマンスだ。非常に注意深く繊細な演奏で特筆できる。だが他の楽章でも聞かれるけれどもテンポがやや流れがちなところがあり、つんのめるような局面もある。まあオケの弱さは仕方ない。録音のせいだろう、カウベルがやかましい。普通こんなに聞こえるもんではない。クライマックスあたりの表現はバルビのベルリン・ライヴを少し思わせる。ゆったりした中にも若々しい烈しさを秘めている。彫りの深い表現は最後まで印象的だ。,,三楽章も重く踏み締めるような発音から始まるが迫力はある。極端なテンポ変化は楽しい。中間部は素晴らしく爽やかなアンサンブルが楽しめる。,,四楽章はロマンティックというか素直に曲想に沿ってデフォルメを加えた演奏ぶりで起伏に富む。特にテンポの揺れが激しく、速めの箇所では走っていってしまいそうな感じさえ覚える。オケの目覚ましい演奏ぶりも特筆ものだろう。ブラスのパワーには驚かされる。ハスッパなペットの音色はじつにマーラーらしいチープさがあっていい。ラトルのマーラーは割合派手で充実した響きを持つように思うが、木管の印象が薄いとも思う。イギリスは木管の国、緩徐部のソロの連続など聞いていると非常に美しいのだけれども、全般やや軽視されているようにも思う(警句的なフルート、ピッコロの叫びは別)。若々しい力強さは明瞭なリズムに支えられて、英雄は木づちで二回撲られてもたいしてダメージを負わずに「あぁ疲れた」と路傍に座り込んで一息ついて終わる。しいていえば暗さのなさがこの演奏の弱さか。,,全般に○。意外と激しい演奏である。,,-----,,,-----,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ラトル指揮ベルリン・フィル/ウィーン・フィル(EN LARMES:CD-R)2005/4/2合同演奏会LIVE,,RVWと比べてオケが弾き慣れている。やる気も違う。,やや鈍重なところもあるが、性質の異なる二楽団が一緒にやっているのだから大目にみるべし。初めてでこの曲にしてはこの演奏、なかなか聞けるのである。録音の瑕疵が気にならないほど。,,全般、現代の演奏にしてはかなり揺れるのに非常にスムーズな聴感の演奏に練り上げられている。ラトルの解釈に円熟味を感じる。だが遅くて客観的なわけではない。テンポ設定が巧みで面白いのだ。特殊打楽器による宇宙的な音響も録音でこれだけ聞こえてくるのは珍しい。,,ラトルは前から古典的な型式感を一応大事にしている。一楽章の提示部の繰り返しや二楽章にアダージオを持ってくるところにうかがえる。85分弱という演奏時間がバーミンガムの録音から殆ど変わっていないのは凄いが、上記二点に限らず基本線は同じなので不思議はない。,,一楽章は厳しい発音にまだまだ序盤戦といった解釈をのせてきている。アルマの主題へのテンポ変化などじつに巧みだ。この楽章は計算がそれと見えないように自然に反映されているので気持ちいい。コーダの全く揺れない突進はユニーク。ラトルは少々熱くなりすぎたようだ。余りの速さにオケが唯一ばらけているのがここ。,,穏やかで明るいアダージオは最近の演奏らしいところだがスムーズな割に表現は結構揺れている。弦の厚い響きやフレージングが聞きもの(後者ややどっちつかずだが)。,,スケルツォはかなり烈しい刻みがびっくりさせる。この楽章は攻撃的だ。行進曲部分はみなそうだがラトルのリズミカルな処理の上手さが光る。しかし一番気合いが入ってるなあ。。面白いルバートも聞ける。音が増えるとザッツ不揃いになる所が気になる人は気になるだろうが、この曲でライヴなら普通のこと。音の長さの不揃いはブラスに目立つが混成楽団ゆえの仕方ないところだろう。ピッチを合わせても奏法まで完全にあわせるのは土台無理な話だ。,,だいたい一本で練習してても、弾きまくりで曲になるくらい音が詰まっている曲だからライヴで完璧に揃ったアンサンブルはありえないのだ。5番も弾きまくりだがここまでマニアックに造り込んでいないし7番になるといわゆるオケ譜で一本で弾いててもわけがわからない(シンフォニーとしてはむしろ妥当な譜面だろう)、逆にオケ曲としての合理性がある。6番は詰め込みすぎがゆえに楽しめる。しかもそのうえで込み入った構造がある。難しいんです。,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ラトル指揮ベルリン・フィル/ウィーン・フィル(放送)2005/5/4合同演奏会LIVE,,参考。ふたつのオケに、より融合がはかられた反面まろみを帯びた演奏になっていて鋭さが更に後退したように感じられる。短くリズムを刻む場面でも記譜どおりに音符の長さを保たせるためにせっかくのキレがなくなるという現象がここでも頻繁に見られる。ウィーン側のアバウトさとあいまってだらしなかったり鈍重になったり。だが、そこがこの演奏の面白さでもあるのだ。,,一楽章、弦の刻みの鋭さなどバーミンガムとは比較にならない迫真味があるのだが、アルマの主題での弛緩、特に繰り返しのときの音色のバラバラ感は気になる。前回よりウィーン側に自己主張が強く感じられ、いっそウィーンだけでやったら音色均質化の問題など解決なのにと思ってしまった。録音の問題もあるのだがパワーやアンサンブルの面では前回に劣ると感じる向きもあると思う。,,アダージオではヴァイオリンの音色の不統一感がいっそう明確になってくる。一部奏者の突出、フレージングのばらけ具合が気になる反面、こりゃまさにウィーン・フィルの芸風だ、とニヤリとさせられる。弱音部の美しく艶っぽい音色にボウイングはまさにウィーンのそれである・・・本数は少ないけれども。この演奏はそのせいかいつになく激情の感じられるものになっており、アマチュアリスティックなまでに奏者の感情が出てしまっており、遅いテンポでねっとりじっくり世紀末絵画が描きあげられるさまとあわせてかなり意外に感じられる。じつはこの演奏、スピーカーで何度か聞いて、掴みどころのない、特にこの楽章はなんともすっとぼけたのっぺりした演奏だな、と思っていたのだが、今回ヘッドフォンで細かく聞いて、音色と荒々しさという面における意外な面白さを見出だした次第である。テンポだけでいえばこの演奏全般に大人し過ぎるし、期待からすれば精度も低い。粗い。でもミクロに聞けば、小技の中に充分に面白みを見出だせよう。これはヒストリカルなトンデモ盤を聞くような少々邪道な聞き方かもしれないが。,,スケルツオは意外と大人しい。ラトルにしては、と付け加えておこうか。アタックが甘めなのを除けばしっかりしているし音響バランスもいい。ウィーンらしさが後退しやや硬質さが出ているものの、テンポが余りにゆっくりすぎる。印象が薄い。,,終楽章はオーソドックスだ。ラトルにしても大人しい感じがする。このメンツならもっとできるだろう、という感覚と、でもこれは充分マーラーだ、という感覚が交錯する。録音バランスがそれなりにいいので、気持ち良く聞けてしまうということもある。豊饒なひびきはしばしば気持ちを揺さぶってくる。感情が荒さとバラケになってほとばしってくるのが好悪分かつところだろう。ペットなどに疲弊感が漂うが、弦の空回りや暴走が面白い。行進曲になると急に揃うのもまた楽し。コンマスソロは音色はあいかわらずだがこなれている。このあと見せ掛けの勝利のあたりの豊饒感はなかなかのもので、祭りの終わりへ向けてオケが喜びのやる気を出しているようにも聞こえる。最後の挽歌は意外とよかった。拍手は穏やか、殆どブラヴォ無し。○にしておく。,,-----,,,-----,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),ラトル指揮ベルリン・フィル(PANDORA'S BOX:CD-R)1987/9/14LIVE,,ラトル若干32歳、衝撃の演奏として当時話題になったもの。のちのち長くマーラーに取り組み、またベルリン・フィルと組むそもそものきっかけとなった。全般率直で速く、後年とはかなり印象を異にする。さっさと進みしかしテンション高く若気の至りを時々迸らせながらドライヴしてゆく。解釈のミニマムな部分には後年に引き継がれるものももちろんあるし、アダージオの純粋に音を磨き過度に思い入れを込めないあたりは同じなのだが、テンポが格段に速いのはやはり大きな違いとして認識される。また、解釈の個性という面ではそれほど魅力的ではない。,,一楽章冒頭からもう、若いというか、統率力に疑問を感じさせるバラケっぷりが聞かれ、アルマの主題は音色を付けることなくあっさりやりすごし、ひいてはパート、セクション間に微妙なテンポ差が出るという危ない場面も見られ、ベルリン・フィルの合奏力や鋼の音を生かしきれていないようにも感じられるが、音楽的には妙に引き締まっており、若手の客演ライヴとしては充分許容範囲と言えるだろう。直球系指揮者の暴走みたいなところもある。鞭の音が面白い。提示部反復あり。二楽章アダージオは前記のとおり。この楽章はほんと後年と全然テンポが違う。スケルツォは烈しさが感じられるものの割合普通。,,四楽章はとにかく荒々しく突き進むがちゃがちゃした音楽で、これはもうシェルヘンだ、と思えば楽しめる。もっとも解釈的な面白さは少ないので三度聴くもんじゃない。ゴングなど金属打楽器を強調して響かせているのが特徴的だが、緩徐部での余りにリアルでやかましい響きはファンタジーを阻害しマーラーの本質を殺している。もっとも、シェルヘンと思って聴けばそれも許せるだろう。とにかくオケが崩壊しようが構うもんかの態度は若い者の特権だ。これが衝撃的デビューとされたのはちょっと意外というか、そこまで凄い演奏とも思えないが(ブラヴォも出ません)、ベルリン・フィルの特に弦楽器をここまで必死にさせることができた(つまり即興的にアッチェルしたり気まぐれな部分で必死についてこさせた)のは並ならぬ統率力の証拠と好意的にとらえることもできるだろう。まあ、カラヤン後のベルリン・フィルでは滅多に聴けなかった必死な演奏である。もうアンサンブルとかザッツの乱れとか音色とかいうレベルじゃないので、神経質なかたには絶対お勧めできない。2005年のウィーン・フィルとの合同ライヴに比べ、コンマスソロがかなりまともなのは評価できる。標準レベルに美しい音色だ。奏者の問題ではあるが。,,悲劇的ばかり、しかもラトルばかり聴いてきたが、やはりこの曲は並ではなく、結局何度もどんな演奏でも聴けてしまう、じつに練り上げられた名曲なのである。この一大叙事詩のあとに7番という全く異なる散文詩を書いたというのは信じられない転換といってよく、マーラーという才能がいかに短期間でめまぐるしくさまざまな力を発揮して去っていったのかがわかる。最近時間の関係上マーラーは聞いていなかったが、久しぶりに聞くとやっぱり、凄いもんだ。,-----,,TITLE: マーラー 交響曲第6番,URL: http://blog.goo.ne.jp/dsch_sym11/e/7b6a4ae556b6a4a1fdf2caf1f150c0d7,BLOG NAME: イマドコ?いまここ。,DATE: 06/01/2005 00:03:25,■もうおわかりと思いますが,  わたくしは クラシック音楽を
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ロスバウト指揮ベルリン放送管弦楽団(DA:CDーR)1942放送,,ドラティのあとに聴いたせいかこれぞマーラー!と膝を打つ思いだった。この赤銅色の響きがなくては!スケール感溢れ意外と正攻法でマーラーはこれだ!ときっぱりやってのけている。遅さなど気にならない、ロスバウトってこんなにはっきり覇気に満ちた演奏してたっけ、と一瞬疑うが4楽章の緩徐部のねっとりしたロマンチシズムから途方も無いスケールで憧れに満ちた演奏を繰り広げるあたり、ああロスバウトだ、と思った。歌曲の混信やら放送由来の雑味はあるが安定した聴きやすい録音。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),ホーレンシュタイン指揮ボーンマス交響楽団(KARNA:CD-R)1969/4/16LIVE,,精彩に欠ける演奏。録音は茫洋とし薄いノイズが支配している。演奏自体確かにホーレンシュタインらしいものなのだが、オケのせいか個性がなく、いたずらにフォルムを大事にしているわりにはがっしりした構築性が感じられずいささか心もとない。ゆるいテンポで終始余り揺れずに流れるだけで、パンチがなくマーラーを聴いている醍醐味がない。3楽章から4楽章はまだ楽曲自体の魅力で聴けるものがあるが、なんとなく腑に落ちないまま終わってしまった。もっと重いオケなら個性が際立ったろう。無印。直後に聞いたコンドラシンの正面切った魅力との落差が・・・,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),ヤルヴィ指揮日本フィル(JPS)2000/6/23サントリーホールlive,,オケが技術的に大変厳しい状態だし録音も何かぼやっとしているわりに弦のフォアシュピーラーがやたら強く入ったり距離感がちぐはぐなので無印にせざるを得ないが(管はいいんですよね)、ヤルヴィのとにかくさっさと進むドライヴぶりには古いスタイルの指揮者がイタリアあたりの放送オケを鼓舞しているような錯覚に陥るところもありちょっと懐かしい感じがする。とにかく弦は薄くてまとまりが今ひとつだし、3楽章など珍しく正攻法で情緒的なテンポ・ルバートが導入されても「これが精一杯」というような無個性的な音しかきかれないし、しかし、全編が焦燥感に満ちた非常に速いテンポで推し進められてゆくので、小コンドラシンという趣もなきにしもあらず。ヤルヴィ自身の演奏解釈もけっして奇をてらわないが正攻法でとにかく突き進むスタイルをもともと持っていたのであり、それを日本のオケが半分アマチュアぽくなりながらもライヴでやりとげたという部分ではいい演奏と好意的に見る事もできる。あ、パーヴォ氏じゃないですよ、さいきんはいちいち断らないと息子と間違われる。。ネーメ氏です。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),参考)テンシュテット指揮ニューヨーク・フィル(MEMORIES)1986/10/23エイブリー・フィッシャー・ホールLIVE,,RARE MOTH(CD-R)のもの(表記上1985LIVE)と同じ。イタリア盤名だが制作は台湾である。このレーベルは殆どCD-Rの再発であるが、データは同じ海賊盤でもこちらのほうが信用できる模様。テンシュテットのライヴものは正規盤化予定があると聞いているので注意。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),朝比奈指揮大阪フィル(GREEN DOOR)1979/9/7LIVE・CD,,割合コンパクトで軽い演奏。一楽章の提示部が繰り返されていても全く気にならないくらい軽い。艶やかさのない、しかし烈しい切れ味のあるオケは朝比奈のしばしばクレンペラー(50年代)と比較される無骨で率直な表現によくあっている。古典的な意味での交響曲の終焉にこの作曲家を位置づけていた朝比奈らしい構成感がよく出ていて、例えばアルマの主題に入るところで全くテンポを落とさずロマン派的な歌謡性を煽ることを避けている(リフレイン時に一気にリタルダンドするが)。愚直なまでに即物的に音楽を組み立てていく朝比奈、好悪物凄く別れるだろう。一楽章コーダ前のアンサンブル崩壊などあんまりな箇所もあって、余程即物好きかアナライズマニアでないと正直浅薄でヘタな印象しか残らないかもしれない。スピードはかなり速いから同じ即物主義とみなされていたシェルヘンと比較できるかもしれないが、近いようでいて遠い・・・恣意性の有無以前に作品に対するスタンスが違いすぎる。シェルヘンは自分の解釈を積極的に入れこんでいくが、朝比奈はまずは原典主義、そして原典にプラスアルファするのではなく「引き算する」ことでマーラーの指示を「正している」。近いようでいて、というのは現代の分析的な精緻な演奏スタイルとは共に掛け離れている、という意味だ。録音のせいもあろうが朝比奈の響きは美しいとは言い難い。弦楽器の健闘にも関わらず余りに思いの感じられない三楽章など、戦後期のクレンペラーならやりそうな類の乱暴な組み立てかただ。誰がやってもそれなりに聞ける、それだけで一大叙事詩の四楽章、これはやっぱりなかなか聞ける。二十年前の演奏といっても通りそうな熱気だ。オケにまずは拍手、ここにきてやっと名人芸的な瞬発芸やリズムの刻みを見せた朝比奈にも、やっとかい、と拍手。緩徐部もいずこも前後のつなぎかたがややぎごちないが、それなりに雰囲気を出すことに成功している。アマチュアリスティックな技術の不全は疲れてくると出やすいものだから、終盤の音色のだらしなさや不揃いには目をつぶるべきだろう。高揚感の不足も仕方あるまい。コーダの抑制と開放は上手くいっているが。なんというか、ちらほら「ぶらぼうー」と日本語発音が飛び交うのは日本ローカルオケならではの終わり方か。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),◯アバド指揮BPO(DG)2004/6live-CD,,颯爽としたテンポで粘らずさっさと進むのはいささか面白みを欠いているように思うが、響きや音量で変化を付けているので即物的な感じはしない。オケの内声が豊潤に鳴り響き、細部まで磨かれているのはなかなかのものだ。一楽章提示部繰り返しありで二楽章アンダンテ、敢えて古典的な構成で、ロマンティックな部分を抑えた古典的な解釈を目指したのだろうか。四楽章はもう少しメリハリがあると楽しめた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○アブラヴァネル指揮ユタ交響楽団(VANGUARD)CD,,終始即物的なさっさとしたテンポ設定だが音響的にはじつにマーラーを感じさせるバランス感覚が働いている。計算する指揮者なので、細かい仕掛けは判ればおもしろいが、オケがいかんせん弱く、音色が鄙びて揃わず、細かい動きで弦が乱れすぎるのが気になる。3楽章みたいな楽想だとそういった雑味が感情表現の強みにはなりうるのだが、パワーがないのは如何ともしがたい。4楽章はスピーディで即物的な表現がプラスに働いて、めくるめくドラマの奔流に流されるままに楽しめる。録音含め音場の狭いリアルな音作りに賛否あるだろうが、古いスタイル〜シェルヘンなどといった〜のマーラーのこれも典型のように思う。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○アンドラーシュ・リゲティ指揮ハンガリー(テレコム)交響楽団(自主制作)2001/2live・CD,,とにかく冒頭からスケルツォまでつんのめるような異常なテンポ。ドラティみたいなドライさはなくウェッティなのが印象に残る。スヴェトラ的な姑息なわざとらしさのない絶妙のロマン性がシェルヘンにも似た表現主義ばりの起伏を落ち着かせる。一楽章提示部を繰り返しておきながら1から大カット。しかし曲構造のバランスはいい。オーソドックスともいえる3楽章からドラマティックなフィナーレはスピードの違和感も減り、あとはスコアに加えたとおぼしき派手な音を楽しもう。太鼓の音が変。音符の数も多くないか。木槌もずしゃっという重いながらも変な音。ブラスは録音のせいかもしれないが強力。弦は辛いとこも多いが健闘。しかしどういう専制君首指揮者だ?2001年2月だそ。○。次第に盛り上がる拍手に足踏みがローカリズムを感じさせる。これはけして興行主が発見し世界引きずり回すべきじゃないオケだ。技術的にもセンス的にもすばらしいからこそ。あ、誉めすぎた。基本はライヴでこの芸風、今の聴衆にはぐだぐだにきこえよう。1楽章がねえ。振り回しすぎ。。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○エルダー指揮ロシア国立管弦楽団(放送)2009/4/17モスクワlive,,録音状態の悪さが気になりまくる。ソビエト時代の分厚く力強いオーケストラの面影もなく、ロシアオケ特有の響きと雑味がエルダーのエキセントリックでロマンティックな解釈とあいまって往年の栄華を思い起こさせる、という一点でだけ楽しめる。二楽章に配されたアンダンテではアンサンブル能力的に難のある弦楽がそれでもエルダーの特異なアーティキュレーション付けによりうねるようなロマンチシズムを捻り出し感動的。両端楽章のあからさまな感情表現は十分な技術力を背景にしていないがソリストとしては素晴らしい奏者がブラスを中心に散見され、聞き所はあり、ロシア的な魅力がある。最後に、ピッチが低すぎる。レニングラードフィルは低いが国立響はそうだったっけか?録音のせいか?,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ゲルギエフ指揮LSO(KING,LSO)2007/11/22live・CD,,攻撃的な音、時に前のめりにつんのめるようにさっさと進む基本速めインテンポの演奏ぶり(アルマの主題でも殆ど落ちない・・・そのため異様に比重の軽くなった提示部は繰り返されている)は同曲の戦闘的側面を好む人には向いている。但しオケが抑制的なイギリスオケでありゲルギーの生来の持ち味であるブラスの力感に欠けていると思うところもある。雑味は信じられないほど無いがオケの力だろう、皆無と言えば嘘になるが。マーラーの意図してかしないか描いた空疎なバランス悪い響きがもろにそのまま出ているところも僅かに聴かれるのはこの指揮者が譜面を(細かく文字で示された部分はともかく)守って演奏するタイプであることを感じさせる。いまどき無い勢いのある指揮者でありイギリスオケも伝統を守った万能型のところをみせ、1楽章コーダや3楽章スケルツォの中間部のノリのよさ、どんな演奏でもそうなるのだが終楽章のドラマのカッコよさ、ブラスや打楽器の重用ぶりはロシアっぽいものの、スヴェトラのような未来志向とも違う、現代と歩調を合わせた演奏ぶりはライヴを聴きに行きたくなる要素十分である。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ゴルトシュミット指揮BBC交響楽団(WME:CD-R)1962live,,ゴルトシュミットというとデリック・クックとともにマーラー研究で有名な人だが指揮記録というのは珍しい。オケが現代的な機能性をもったオケだけにゴルトシュミットの見通しいい解釈をただ音にするだけではなく伸びのある表現で増強している。分析的な表現といえばそれまででホーレンシュタインのものに似ている。がっしりした枠組みの中に独自の変更(というか恐らく根拠はあるのだろうが)を加えたものでアナライズ好きにはアピールするだろう。普通に聴いてもまあまあ面白く聴けるし、しろうとではないことは確かだ。ただひたすら録音が茫洋としていて迫力も音量も無い。だからどうも、インパクトがない。解釈自体が熱情的でないだけに昔のブーレーズの演奏に似ていなくもなく、マデルナとまではいかないが、作曲家兼指揮者の解釈に近い不思議な表現を持っているところも賛否わかれるだろう。1楽章の提示部繰り返しあり、2楽章はアンダンテだ。○にはしておくが、音が悪いことと終演後ぷつりと切れてしまうところ(どこか欠落があるようだが気がつかなった)など盤としての瑕疵もあり、無印寸前か。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ノイマン指揮チェコ・フィル(SUPRAPHON)1979/4/24-28・CD,,牧歌的と思うなかれ。トスカニーニを彷彿とさせる突進するテンポの上に、粗野さもあるものの起伏の大きなダイナミックな音楽を、チェコ・フィルの未だ独特の表現をもつ技術力の高さが支えているさまはなかなかによい。弦楽器の東欧的な艶やオーボエをはじめとする美しい響きの木管、強靭なブラスがロシア的とも言うべき雑味の中にもバイエルン放送管のようなライヴ性溢れる魅力をはなっている。悲劇的が「劇性」を交響曲の峻厳な枠組みの中で表現したマーラーの型式音楽における極地とすると、ノイマンはその劇の部分をとても大事に表現している。若々しさすら感じるものゆえ円熟味は無いが、6番がとりわけ好きな人は好きな類の演奏だと思う。浅薄な部分もあるかもしれないが、録音のせいとも思える。名演とは言わないが楽しめる演奏。スケルツォの表現の面白さはノイマンとチェコ・フィルの丁々発止のやり取りに尽きるし、3楽章の美麗さも深い感傷性に裏付けられている。終楽章のハンマーの金属質の打音に戦慄せよ。○。1楽章提示部の繰り返しをやっている。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○バルビローリ指揮ニュー・フィル(TESTAMENT)BBC放送、ロイヤルアルバートホール1967/8/16LIVE・CD,,バルビライブとしてはすこぶる調子がいい。演奏上の瑕疵は皆無で、スタジオでは絶対ありえない荒れ狂う50年代的芸風で押し進めていく。反面個性は薄まっている。緩急起伏が余りあおられず、職人的でもある。しかしそれら引っくるめて録音の悪さが痛い。エアチェックではないか。音場は狭い。マイク起因であろう特殊打楽器の変に高い音の近さ、安定しない音像。ノイズがひどいところはまるでHUNT盤のようだ。とくに一楽章と四楽章クライマックスというかんじんな箇所が聴いてられないくらい。音量幅のなく立体感のないのも録音のせいかもしれない。ステレオエアチェックの悪いところが出て、位相が狂ってきこえたり。二から四中盤までは悪いなりに安定して聴き易いのだが。しかしじっさい特徴に欠ける部分もあったのだろう、聴衆反応も穏やか。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○バルビローリ指揮ベルリン・フィル(HUNT/testament他)1966/1/13LIVE 定期ライヴ。テスタメントから正規盤が発売予定(2003/9現在)である。録音は悪いが語り口の巧さでは抜群。スタジオ盤とは全く違うパッションと抒情味にあふれた演奏である。1楽章は比較的遅いテンポで始まるが、旋律の流れが自然にかつ効果的に浮き立っており、アルマの主題もテンポはそれほど変わらないが、有機的な柔らかい解釈で最後には感動的な盛り上がりを作っている。2楽章はアンダンテになっているが、暖かい抒情があふれた慈愛に満ちた演奏ぶりで、ヴァイオリンや、オーボエなど木管旋律楽器の情感にあふれる歌にはむせかえるような雰囲気さえある。ベルリン・フィルの弦の美質、効果的に引き立たされている。この楽章はかなりテンポが揺れ、その点でもスタジオ盤とは全く違うが、揺れに揺れるあまり、クライマックスで急きたつようにアッチェルがかかったとき(ブーレーズ旧盤に似た解釈)、若干崩壊しかけたりしている。クライマックスの高速演奏は最後に下降音形に入ったとき再度急激なリタルダンドがかかってつじつまがあわされている。最後は幸福な終わり方。3楽章スケルツォは遅くペザンテな出だしだが、若干テンポが前につんのめり気味。テンポの刻みが若干柔らかく、旋律に重点が置かれているのはバルビらしい。中間部で穏やかな弦のアンサンブルが聞かれる箇所では、リズム要素は二の次で、ひとつひとつの音をきれいに響かせる事に重点を置いたような美しい有機的な演奏になっている。テンポはやはり若干ユックリ気味だが、後半アッチェルがかかったりしてかなり揺れる。ここでも音楽の流れの良さには括目。終楽章は出だしが弱い感じもするが、そのあと沈潜するような陰うつな音楽の中から高音打楽器の清明な響きが強奏主題への活力を産み出す。闘争の音楽が始まると、若干テンポは遅めではあるが、各楽器の情熱的な表現は隅々まで計算されたように互いにうまく組み合わさっており、バルビの指示の確かさが感じられる。ドラマはつねにイマジネイティブであり、感動をあたえる。金管あたりに失敗も聞かれ、バルビの「甘さ」が出てしまっているが余り気にしないことにしよう。闘争の主題の展開していく途中はかなり速いテンポでドラマティックな旋律の勢い良い流れが耳をとらえて離さない。このあたりの音の奔流を聞いていると、うまくは言えないが、「非常にマーラー的」だな、と感じた。ハンマーが金属的な音がしたり、カウベルが高音だったり、個人的に残念な点もあるが人それぞれだ。強奏部での速いテンポはヴァイオリンのアルペジオやトリルにのって盛り上がる最後のクライマックスまであっというまに連れていってくれる。英雄が倒れ、再び冒頭の主題がよみがえり、挽歌になるとその陰うつさに気が滅入る。バルビは死んだような音楽を作っていて、しばしの沈黙の後、轟音、そしてピチカートで曲はおわる。少し時間を置いて、拍手が盛大に起こる。独特な名演だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),バルビローリ指揮ニュー・フィル(EMI)1957/8/17,18総演奏時間83分以上の悠揚たる演奏だ。「悲劇的」演奏史上特異な位置にある盤。一貫して非常にゆっくりとしたテンポをとっているが、音ひとつひとつの密度は高い。その速度のせいかテンポの揺れは殆ど見られず、やや客観的な印象がある。ライヴ盤とは大きく異なったものとなっているが、それはライヴではアンダンテを2楽章へ持ってきていたのが、ここでは通常通り3楽章に持ってきていることにも伺える。但し1楽章の「繰り返し」はライヴでもこのスタジオ盤でも行われていない(にもかかわらずこの演奏時間!)。1楽章の葬送行進曲はそのテンポとフィルハーモニア管のあたたかい音により牧歌的な趣さえある。厳しい発音にもどこか優しさがあり、穏やかな気持ちにさせる。第二主題(アルマの主題)でも殆どテンポは揺れず、最後に少しだけルバートするくらいだ。スケルツォ楽章もそれほど特徴的な変化はなく、ゆっくりとした足取りでひとつひとつ確かめるように進んでいく音楽だ。アンダンテ楽章はさすがに真情の篭った表現で特筆できる。やはり暖かな抒情に包まれており悲劇的な表情は薄いが、バルビの弦楽器へのこだわりが前面に押し出され、とくにクライマックスでのヴァイオリンの「うた」は美麗の極致だ。テンポも少し速めになっている。詠嘆の終端まで美しい音楽が奏でられる。フィナーレはさすがに少々悲劇的な趣を混ぜてきている。それにしても遅速だ。管楽器は堪らないだろう。密度の高い音の集積によるドラマティックな音楽が、壮大なスケールで語られていく。アレグロ主題の果てにははじめて意識的なテンポアップを行い気分を高揚させる。壮麗なクライマックスのあとに突然打ち倒される英雄、ティンパニの重々しい連打が効果的。・・・この演奏は好悪がはっきり別れると思う。私はどちらかといえば苦手。盤によってなぜか2楽章と3楽章が入れ替わっている(ライヴは2楽章を緩徐楽章にしている)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),バルビローリ指揮ニュー・フィル(HUNT等)1969/1/22LIVE 今やほとんど見かけなくなったHUNT盤だが、やはり音はサイアクだ。HUNTをはじめとするイタリア盤はCDーRで随時復刻されてきているようなので、聞きたいかたは気長に待たれるといい(後日註:この盤もCDーR化した)。ベルリン・フィル盤は既にCD−R化されたし正規で改めて復刻される予定。ベルリン盤は瑕疵も多いが壮年のバルビらしい壮絶な記録である。対し晩年のライヴであるこの盤は、スタジオ盤ほどではないにせよ、だいぶ常識的になっている。1楽章のアルマの主題のテンポ設定は6番を聴く上で非常に興味深いとされるところだが、バルビはここでは余り緩急をつけずすんなりと通している。バルビはもっと大きな視点からこの楽章を構成しており、終盤の盛り上がり所にもってきて初めて歌心溢れるルバートをかけている。2楽章、ライヴでアンダンテ楽章をスケルツォ楽章と入れ替える指揮者は(昔は)多かったようだが(版を勘案しているわけではなく単に入れ替えているだけのことが多い模様)、バルビはここでもアンダンテを持ってきている。個人的にマーラーのスケルツォ楽章は苦手なのだが、6番はとくに1楽章と共通の気分に満ちているから、続けて聞くとけっこう飽きてしまう。このようにアンダンテ楽章が二楽章にきてくれると嬉しい。このアンダンテ楽章は私がマーラーにハマった最初の音楽であり、特別に思い入れがある。シェーンベルクが研究稿をのこしているほど良く書けており、5番のアダージエットより数倍憧れと諦念の入り交じった曲想は深い感動をもたらす。バルビはベルリンとの演奏に見られた破綻をこの演奏においては(やや穏かにした結果もあろうが)まったく感じさせず、最後は諦念というより肯定的な幸福な結論へと導いている。ニュー・フィルとの相性の良さを感じる楽章でもある。3、4楽章だが、はっきり言ってベルリン・フィル盤の解釈と余り差が無い。ベルリンを先に聞いていると無個性にすら思えるだろう。・・・全般の印象はこんなところである。さて、バンスタやブーレーズ等新しい録音を立て続けに聞いたあと、この演奏を聞いて、1楽章の「繰り返し」が省略されていることに今更ながら気づかされた。昔のライヴはけっこう省略していることが多いようにおもう(ホーレンシュタインは繰り返している)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ビシュコフ指揮BBC交響楽団(放送)2011/8/26プロムスlive,,前半楽章の緩徐部が面白い。ねっとりと(ねっとりしすぎてずれそうになるところも)しかし計算ずくで盛り上がりをつくる。1楽章の提示部を繰り返しているがいずれもアルマの主題が再現したところの壮麗さには圧倒される。また裏で対旋律を吹くホルンソロの力強さ(あの遅さ!)が印象的だ。マーラーは肥大化したオケがどうこう言われるものの基本的にソロをとっかえひっかえ取り出しては線的に絡ませていく、室内楽的なアンサンブルが特徴的だ。決して構造的に複雑になることなく旋律で進行していく。だからこそ構造をグズグズにしてしまうと音楽にならず、テンションとスピードで無理やり押し切るか(構造も精度も無視)、ビシュコフもそうだが、基本線はきちっと仕上げ、局所的に個性を打ち出していく方法をとるしかない。前者だと「マーラー的な音響」を味わうことはできない、この曲などカウベルや木槌などといった視覚的なものまで含む空間音楽的な意図が入っているので、4楽章のコンマスソロが現れる神秘的で感傷的な緩徐部など、このような演奏じゃないと楽しめないのだ。まあしかし3楽章や、誰がやっても聴けてしまう長大な4楽章はビシュコフでなければならないという必然性を感じないが、とにかくブラスが無茶苦茶上手いということはわかる。いや他も、弦も非常に完成度の高い演奏をライヴで提示している。結論としては、オケ激ウマ!,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○プレートル指揮ウィーン交響楽団(WEITBLICK)1991/10/10放送live・CD,,こんな中途半端な時期の稀曲演奏を復活させるよりもEMIのチャイ5などまっとうな、というかこの特異ゆえに評の長らく安定しなかった指揮者の盛年期の姿を伝える正規録音を復活させてほしいと思うのは私だけだろうか。恐らく2008年WPニューイヤーコンサート起因の人気沸騰を見込んでの発売だと思うが、正直それほど名演とは思えない。後半シェルヘン張りの極端なディジタル・ルバートがテンポにかかるところは熱が入るが、とくに1楽章の凡演ぶりといったらなく、ああ80年代はこういうマーラーが多かったなあと思わせる。提示部の繰り返しが尚更冗長感を増す(この盤は80分超の収録時間を1枚に収めるという近年珍しいコストパフォーマンス重視の制作になっている)。非情緒的な(ショルティを思い出した)音色にインテンポ演奏、ただゆっくりする場面においては極端にテンポダウンして音響を確かめるのがいかにもこの人らしくVSOには珍しい純度の高い響きが聞かれるものの、基本的に音が篭りがちで(盤質か録音かホール起因か)開放感のないイマイチな盤であるから、少なくともファーストチョイスで推薦する気にはならない。著しく攻撃的なスケルツォは特筆ものだし、誰がやっても感動する4楽章にいたってはやっと表現主義的な極端なテンポ設定の解釈が板についてきて楽しめるが、それも一流のマーラー指揮者のものというより、現代音楽を得意とする指揮者の余技という感が否めない。個人的にマルティノンのマーラーを想定しながら聞いたが、プレートルは構造性よりも純粋に響きを重視した作り方をしているため、立体的とか色彩的とかいう感想は浮かばなかった、純粋な音響を指向しているという感じのみである。そこが面白みがないという感想につながっている。ウィーン交響楽団のシェフとしてならしたころの録音だと思うが、このオケの特質をいい意味で殺して違う魅力を引き出した、それはあのニューイヤーコンサートでの非ウィーン的ワルツと同じ性向のものである。面白いと捉えるか、受け付けないか、そこは聴く貴方次第。4楽章を買って○にしておく。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),◎ベルティーニ指揮ドイツ・ベルリン交響楽団(WEITBLICK)1973/4/30live・CD,,戦慄を覚える名演。音のドイツ臭さとベルティーニらしい鋭さ精度とライヴならではの引きつるようなテンションがまったくケーゲルに生気とスピードをあたえたような硬質のダイナミズムをはっして、これは録音もいいのだけど、ベルティーニのみならずのことで、「指揮者は晩年ではなく壮年がいちばん面白い」の見本である。オケがほんとに指揮者の恐怖政治に迎合し、シカゴみたいに組合作って生気なくやさぐれるではなく、戦々恐々としながら命だけは助けてと抑制し叫び、アンサンブルするのである。ぐわ、最初はドラティ系だな、「往年のマーラー解釈」らしい演奏だなと思ったんだけど、もっとぐいぐいと抉り深層にまで迫る音楽の彫刻の周到さが背景にあるように思う(あくまで録音のうえでの話だが)。ベルティーニ晩年の異常な演奏精度に裏打ちされた静謐さや哲学はないものの、そもそもマーラーに晩年はなかったのであり、50台で頓死した作曲家を描くのに80台の美学は必要ないのである(暴論)。とくに6番のような激情とロマンの交錯する音楽においては。フランスものや現代を得意としたベルティーニであるが、ここでははっきりロマン派のマーラーをドイツ流儀で残酷にぶった切っている。それは冷徹ではない。凄まじく迫ってくる。焦燥感溢れる1楽章はこんな演奏けっこうあるが(提示部繰り返し無し)、物凄いリズム表現の2楽章と物凄いアンサンブルの繰り広げられる4楽章が圧巻だ。テンション高め安定だからしっとりした抒情は求められないものの、音楽にめくるめく翻弄されるのが好きな向きには堪らないだろう。こうも盛り上がるとコーダは単なるクールダウンである。◎。拍手カット。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ベルティーニ指揮ケルン放送交響楽団 ベルティーニの名を世間に知らしめた佳盤。私もこれでマーラーにハマりました。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ホーレンシュタイン指揮フィンランド放送交響楽団(WME,DA/CD-R他)1968/9/21live,,悲劇的の演奏には定評のあった、マーラーの大曲ではクレンペラーと肩を並べる堅牢で構築的な録音を遺したホーレンシュタインのこれはかなりいいほうの演奏。後年けっこう間延びした緩い演奏もした人だが、ポテンシャルの高いオケを使っていることもあり集中力の途切れない厳しく男らしい音楽が続く。中間楽章にはやや潤いが足りないが両端楽章の威容は聳え立つような、1楽章は特にこなれた解釈が冴え渡り聴き応えがある。人工的な構成でテンポ設定など難しい音楽だが緩徐主題など無味乾燥にもロマンチシズムにも偏らず違和感の無い模範的な表現でぐいぐいと引っ張っている。VOX録音のVSO時代はまだウィーンで活躍していた頃の情趣が別の魅力を発揮していたが、ここではとにかく冷徹な峻厳さが支配しており、そこで更に何かを言っている、クレンペラー的と言ったのはまさにそこのせめぎあいが「ここでは成功している」というところで、クレンペラーでもライヴ録音では失敗があるのと同様ホーレンシュタインでも正規録音では詰まらない地味な演奏に堕しているものもある、この演奏の終演後の反応のよさはムラのある指揮者のここでは成功していることを裏付けている。ただやはり、緩徐楽章など平板で魅力はない。○。webで配布されている音源は日付が明確ではないが同じと思われる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ホーレンシュタイン指揮ボーンマス交響楽団(BBC)1969/1/10・CD,,ガシガシと音は強いが遅めインテンポでフォルムの崩れないやり方は最初は抵抗あるだろう。だが内声部までぎっちり整えられた音響の迫力、またテンポ以外で魅せる細かなアーティキュレーション付け、デュナーミク変化にホーレンシュタインの本質が既に顔を出している。ブルックナー的な捉え方をしているなあと提示部繰り返しを聴きながら思うのだが、コーダの盛り上がりはそうとうなもの。続いてスケルツォでは切っ先鋭い発音が絶妙なリズム表現を産み出し出色である。アンダンテ楽章も意外にロマンティック。しかしやっぱりこの演奏は長大な4楽章に尽きる。独特の設計を施された英雄譚はこれはこれで成立している。ホーレンシュタインの表現も幅が出てきて、法悦的なテンポの緩徐部などそれまでのこの指揮者の表現からは逸脱している。威厳ある演奏ぶりはオケがやや残念な部分もあるものの十分堪能できます。モノラルなのが残念。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○マーツァル指揮チェコ・フィル(exton)2006/5/4,5・CD,,1楽章提示部繰り返しありのため冗長感があるが基本的にアグレッシブで、なおかつ極端に走らない正攻法の演奏ぶりはなかなか聴かせる。聴かせるといえば2楽章スケルツォの輪をかけたアグレッシブぶりだろう。3楽章アンダンテにおいてはやはり正攻法というべきか適度に感傷的な音楽をうまく作り上げている。さて肝心の4楽章なのだがヴァイオリンが乱れる個所が多い。スタジオ録音とは思えないバラケが聴かれる。難しいパセージが多用される楽章でありライヴであるならばうまく誤魔化すという方法もあろうものが、なまじ録音がいいために細かい音符がバラバラと崩れたりして上手くないのが聴いて取れる。弦の国チェコも遠くなりにけり、なのだろうか。音楽自体は正攻法。あくまで悲劇的のイメージ通りの演奏で好感が持てる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○マゼール指揮NYP(NYP)2005/6/22-25live,,NYPサイトから有料配信されているチクルスの中の一つ。相変わらず「壮大な」マーラーなわけで、弛緩とはいわないものの余りに遅すぎてついていけない部分がいくつかあるし、何故かきちんと(失礼)悲劇的ぽい気のあおり方をしている場面ももちろんある。きほん「詰まらない系」の悲劇的ではあるが、響きは的確で、「マーラー的なるもの」の本質をよく浮き彫りにしている。「ああ、マーラーの音ってこうだよね」ということを思い出させる。中声部の空疎な響き、半音階的な進行の中で微妙な不協和音の醸す特異性、そういった部分部分の再現へのこだわりはある。デフォルメに過ぎるところはあるが、全般はわりと「マーラーに忠実な演奏」だと感じた。1楽章提示部は当然繰り返す。2,3楽章は逆。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○マゼール指揮バイエルン放送交響楽団(EN LARMES:CD-R)2002/3/8LIVE 1〜3楽章はとにかく退屈。特筆すべきは1楽章第二主題のテンポ設定、たぶん今まで聞いたどんな演奏よりも遅いと思う。第一主題から急にスピットで遅くなるそのコントラストが非常に奇異に感じた。それ以外はいわゆるマゼール流というべきか、音を磨き上げ演奏精度を極限まで上げる、ただそれだけの無機質な感じ。特筆すべきはけっこうレガート気味なところ、カラヤンまではいかないけど、スタッカートもレガートで流すような横の幅を感じさせる表現がまま見られる。それは4楽章においてよりあきらかになる。この4楽章は名演だ。アレグロ主題の速いスピード、ガツガツというアタックの強さに耳を奪われ、これが1〜3楽章とは一味違うものだと認識させられる。音は磨き上げられているものの、その上に強い意志が感じられ、アンサンブルが不揃いになりそうになるのも厭わず、明確な創意が見られるようになる。クレッシェンドの頂点でわざとレガート気味に弾き崩させたり、妙に内声部を際立たせて面白い音響バランスを産み出しているところなどある。雰囲気もそこそこに焦燥感があっていい(強奏部での張り詰めた響きは1〜3楽章では見られなかったもの)。個人的に惹かれたのは最後のほうでコンマスがかなでるソロ、二番目のパッセージでの跳躍が通常はA線→E線と普通に1stポジションで遷移するところ(音響的にも開放感の有るE線で弾くのが正しいと思う)、なんとsulAでポジション移動している。そうすることでポルタメントがかかり音色に面白い艶が出る。反面響きが開放されず篭ってしまうのだが、それでも私はつねづねsulAの演奏を聞いてみたいと思っていたので、感動した。マゼールの良さはこういうマニアックな仕掛けがあるところ、表面的には詰まらない無味乾燥な演奏に思えるが、あるていど譜面を頭において聞くと面白味が出てくる指揮者、私はそう思います。木槌の音がはっきりガシンと入るのでお聴き逃しのないように。4楽章だけの評価として○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),マゼール指揮ウィーン・フィル(sony)1982 比較的客観的な演奏である。テンポの揺れも作為的であり、基本的には一歩一歩確かめるようなタテノリで、横方向への柔らかい広がりは少ない。第一楽章で特徴的なのは第二主題(アルマの主題)を思い切り急激にテンポを落として奏でている所。作為的な感は否めない。クライマックスの重量感ある足取りは面白い。スケルツォ楽章には余り特徴的なところはないように感じる。アンダンテ楽章は悠揚たるテンポで男らしい感傷をえがき特筆できる。終楽章はゆっくりとした歩みで思わせぶりな出だし。序奏がおわりアレグロ主題が姿を現すと依然重々しさは残るがテンポアップして旋律の流れを作っている。しかしイマイチひたりきるほどの感情の高まりが感じられない。このチクルスでは良い位置に置かれている6番の演奏ではあるが、おすすめするほどの魅力的なところは感じられないというのが正直な感想である。分析的な演奏という特異な位置にはあるので、人によってはハマってくるかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ロスバウト指揮南西ドイツ放送交響楽団(movimento musica/WME:CD-R/DATUM/memories)1961/4/7?(3/30-4/6、WMEは表記上1950年代、DATUMは1960)・CD,,ややこしいことにCD化以降データが錯綜しているが、恐らくいずれも同じスタジオ録音の板起こし。DATUM盤については既に書いたがこれも表記上のデータと実際の録音期日にはずれがあると思われる。正解はディスコグラフィどおり1961年3月30日〜4月6日のセッションであるようだ(ちなみに私はLP含めこの三種全部持っている)。戦中録音とはオケ違い。しかしロスバウトのセッション録音とは思えない演奏上の瑕疵が特に中間楽章に目立ち、最終テイクでないものが流出している可能性もあるかもしれない。WMEは最新の復刻になるが(後注:2016年12月にMEMORIES(1961/4/7表記)が廉価で全記録復刻)、DATUMと同様板起こしであり、なおかつ原盤の状態が非常に悪いらしく、盤の外周部すなわち各楽章の冒頭が必ず耳障りな雑音だらけになり、そうとうに聴くのに苦労を要する。更に馬鹿にしているのは3楽章であり、ロスバウトの雄大で情緒てんめんなマーラーの緩徐楽章が音飛びだらけ。はっきり言ってこれは販売に値しない盤であり、LPを探して聴いたほうがよほどマシである。,,演奏の独創性はマーラーに対するロスバウトの思いいれによるものだろう。この冷徹ともされる指揮者が如何に起伏に富んだマーラーを描いたか、とくにテンポを遅い方にルバートするやり方を駆使した粘着質の情緒が、ドライで研ぎ澄まされた音の鋭さ・・・特に打楽器・・・と何故かマッチして、非常に美しい音世界を描き出している。詳細は前に書いた内容と同じなのでもう書かないが、現代音楽指揮者というイメージはそろそろ払拭されたほうがいいのではないかと思う。古典からロマン派から独創的な演奏を残しているのだ。演奏に対して○。録音がよければ◎にできたであろう演奏。,-----,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),ロスバウト指揮バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団(DATUM)1960表記・CD,同上,全般に音のキレが良く、遅めのテンポでもだらしなくならず音響バランスを保ち、録音の悪さを我慢すれば、かなり聞ける演奏。1楽章冒頭から、行進曲のはずむようなテンポに引きこまれる。調子の良いときのワルターのライヴやシューリヒトを髣髴とさせる。アルマの主題の僅かなルバートも絶妙。とにかくこの1楽章は絶品。細かいテンポ操作や音響(譜面)操作が、新鮮なだけでなくぴたりとハマってくる(違和感を覚える向きもあるかもしれないが)。3楽章は直截ながらもオケの響きに透き通った美しさがあって、おだやかな表現が優しい。最後の盛り上がりが遅めにルバートするのは、バルビローリのライヴなどとは正反対だが、こういう朗々と歌う表現においてロスバウトは実にうまい。全般的に遅めの4楽章においても、盛りあがったところでの雄大な旋律の響かせ方、ニュアンス深さは絶品。彫りの深い情緒的な表現は現代音楽の紹介者としては意外に思えるかもしれない。現代曲指揮者や作曲家の棒の面白さは、常識に囚われない独自の解釈表現にあるが、この演奏は常識という土台を踏まえながらも、やはりロスバウトでしか聞けないものを持っている。そして造形的とも言うべき首尾一貫した哲学が感じられる。たとえば四楽章冒頭の引きずるような遅さはこれ以外に考えられないと思わせる必然性を持って響いてくる。この重さは3楽章の夢見るような軽さとのコントラストを明らかに計算してのものであると思う。盛りあがったらアッチェランド、歌うところはリタルダンドみたいな、その場その場のワンパターンな棒は決して振らない。音の悪さが実に悔まれる名演です。あえてケチをつけるとすれば、4楽章も最後のほうのコンマスソロ近辺は、あまりに歌いすぎ… ,,
※他の盤と同一音源の模様、別項参照
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マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(ARTS&ELECTRONICS/MCA)1989/12/26LIVE・CDこれはソヴィエト崩壊当時に唐突に発売された旧録。弦楽器の弱体化が痛々しいが、この指揮者の大曲をまとめる類希なセンスが伺える佳演となっている。管楽ソロの表現力の凄みは諸所感じるが、弦の弱さ(プルト数の少なさ及びマイク位置のせいであろうか)はいかんともしがたい。雑味の多さはライヴのせいでもあるだろう。スヴェトラーノフ解釈は想像するよりはずっと率直で常識的な解釈である(金管の発声法だとか奏者側に依る要素は別)。終演後の拍手は暖かい(少々ブラヴォの声も混ざる)。ところで、昨秋まで店頭に並んでいたハルモニア・ムンディの新録が今(2003/1)どこへ行っても品切れである。入荷予定なしだと。この旧盤だけでとりあえずいいか、と思っていたが急に聞きたくなり、方々へ行ったが、どこもそんな感じだった。残念。再発を気長に待とう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),スヴェトラーノフ指揮NHK交響楽団(king,nhk)1999/2/11live・CD,,やっと出てきたか、というスヴェトラN響のマーラーライヴである。一気に中期純管弦楽交響曲三曲が、収録時期はばらつくが発売されたということで、「当時の思い出を聴きたい向き」にはすすめられる。同じライヴではないが7番などTV放映もされているので、このシリーズの売れ行き次第で映像として発売されるかもしれない。またマーラーは90年代中盤の9番ライヴ(評論家の評判は悪かった)を嚆矢として日本では人気の演目であり、スヴェトラ自身も(バンスタを好んでいたという)当時一番力を入れていたと言っていい作曲家ゆえ、興味深く聴ける人はほかにもいるかもしれない。すでに全集化していたものはまさに最晩年様式というような、弛緩したテンポの薄味のものだったが、さらにその先にこのような生き生きとしたマーラーをやっていたわけである。ただ往年の粘り腰は無い。4楽章の一部を除きスヴェトラにしてはさらさらしてオーソドックスであり、テンポが速く、普通に聴きやすいのだが過度に期待すべきものではない。わかりやすくドラマティックな交響曲で形式的にも整っているから、慣れていない楽団や一期一会のコンサートには向いており、N響とスヴェトラの相性が良いといってもこれを聞く限り踏み外した棒にまでついていけるような感じはしないので(4楽章後半にはミスが目立つ)、「6番が最も良かった」という印象は「6番だから良かった」とするべきと思う。1楽章の提示部の繰り返しを行っているが、繰り返しに入るまでの序盤がじつに固い。かなり低カロリー。1楽章は旋律主体なのでそれを思いきりうたわせればなんとかなるものの、ここではそこまでの歌いこみはなく、ちょっと冷めている。中間楽章ではスケルツォがまとまっていて、リズミカルで聞きやすいが、この2,3楽章も「スヴェトラでなければならない」というものはない。4楽章、これが出来ていれば他の楽章はどうでもいいとまで言ってしまうが、このドラマの作り方はさすがに上手い。ロンド形式のように同じ楽想の緩急バリエーションを配置してうねらせていく交響詩、長い楽章はスヴェトラ本来の腕が生きてきて、シェフにより巧拙極端なN響がやっと本腰を入れたような技巧的なアンサンブルやソロを聴かせてくる・・・が前述のとおり後半で息切れ。弦がずれたりソロがとちったり、それでも難曲であることを感じさせずに終焉へ向かうのだが、気になる人は気になるだろう。スヴェトラの悲劇的としては正規録音より上かもしれないが、過度な期待は禁物。圧倒されてブラヴォが出ない、という聴衆反応でもなく、普通の拍手がさっさと入ってくる、そういうものだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団?(FKM)1999/2live,,オケ名不詳だが時期的にベルワルドホールからの放送エアチェックか良好なインホール録音か(概ね透明感があるところに残念ながらノイズが結構ある、とくに右)。録音状態は良いステレオ。音場も広い。一楽章冒頭からやや穏健で、斬り込むような表現はない。スヴェトラーノフの円熟ぶりが伺える。発音に独特の力感があるほか意外とまっとうで、提示部繰り返しも気にならないほどすんなり聴ける。まっとうさはそのまま後の楽章まで引き継がれる。変な山気は無いが、そのぶん精度が高く現代的で、真摯な印象を与える。爆裂、のような表現を私は好まないが、これを聴いて爆裂と評する人はいないだろう。90年代中期の9番のときだったか日本人にマーラーを教えてやる、と時代錯誤を口にした御大が(4番カット全曲の世界初録音は近衛秀麿)、当時の歪んだマーラーではなく、緻密に構成され整えられた悲劇的というドラマを演じているのは感慨深い。オケが無個性なせいもあるかもしれない。四楽章、ガシャーンとやる響かせ方、ホルンの咆哮にスヴェトラーノフらしさは残る。しかしどうも真面目だ。弦楽器はおとなしいし(スウェーデンとしたらやや技量の問題もあるか、ホールのせいもあるか)、ペットも突出しない(ミスが目立つので技量か)。木管は清潔だ。オケにちゃんとやらせすぎである(それでいいのだが)。10年前の2つの録音とは違う。テンポも恣意的に揺れることはまったくない。それでもドラマティックなうねりはさすがの板の着き方で、テンポも音量も変化の付け方は自然にうまい。音量ピアノの響きのイマジネーションは晩年スヴェトラーノフ特有のものだろう。打楽器類を使ったマーラーなりのサウンドスケープが明確に見える。英雄を打ち倒そうとする木槌の音の凄さにもスヴェトラーノフの欠片は残る。行進曲で縦が怪しくなるとやっと、スヴェトラーノフだと思う(失礼)。このあと右からかなりひどいノイズが入るが仕方ない。音量が上がると目立たなくなる。二度目の木槌でドラマは悲劇的な方向に振れてゆく。二度目の冒頭再現からやがてこの曲最高のサウンドスケープへ。(またも右のノイズが…)コーラングレにカウベル。懐かしさより不安が勝るリアルな雰囲気から、コンマスソロよりクライマックスへの前向きの曲想が提示されるが、ここでヴァイオリンのアンサンブルの乱れが惜しい。というかオケ全般に疲れて乱れる。ドガシャーンで録音の右が撚れるのも惜しい。しかしまた正攻法としか言いようのないスヴェトラーノフ、どうしちゃったのか、というより結局こうなったのであろう。ブーレーズのようなものだ。しつこいアンサンブルが畳み掛けるようなフレーズとともに繰り広げられ終末へ向かう。ヴァイオリンやブラスが復活してきていて、バランス良くなる。変なソロミスもあるが、いきなりの独特パウゼから偽物のフィナーレへ向けてやっと、スヴェトラーノフクライマックス(音符の引き伸ばし)、で、英雄は突然死し、冒頭の再現から低音ブラスによる挽歌。まあこのあたりは付け足しのようなもので、しかし、スヴェトラーノフはしっかり吹かせている。沈黙から、ドガシャーン、あまり重くないティンパニ、低音ピチカートで完結する。ブラヴォを叫びにくい曲だがブラヴォが散発される。指揮者へのものだろう、演奏はそこまで個性的ではない。拍手は割と普通のように思えたが、五分を越えるのはやりすぎである(カットしていい)。これをスヴェトラーノフの悲劇的の最高傑作とする人もいるそうだが、マーラーらしさの点ではそうかもしれない。私はオケに不満があった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(harmonia mundi/saison russe他)1990LIVE・CD ARTS&ELECTRONICS盤より数段音が良く、演奏もバランス良く安心して聴ける。ぜひ大音量で浸っていただきたい。弦には量感があり、凄い気合が感じられる。少し雑味がある箇所も見られるものの総体では余り気にならない。骨太でありながら自在に動くテンポ、デュナーミクがとにかく、わくわくさせる。また、高音打楽器の音が強調されて響くのは面白い。カウベルは個人的に低く深い音のほうが好きなので、この盤の高音のベルのような音は少し不満だが、好き好きだろう。1楽章の行進曲で音を短く切り上げる作法は独特だ。気合が入っている。2楽章スケルツォの弦楽の強靭な表現は恐るべし。弦、調子良い(録音のせいもあろうか)。3楽章アンダンテは余りテンポが揺れず少々あっさりめだが、全曲を通じて幸福感のある演奏だ。クライマックスの「うた」はなかなか感動的。終楽章のドラマティックな強奏表現は圧巻。終端の寂滅表現もなかなか味わい深い。この盤、新宿HMVでやっと見つけたが、探して良かった。ちなみに池袋HMVには6番以外が全て揃っていた。生産中止だそうなので、興味のあるかたはお急ぎを。(2003/1),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),ノイマン指揮チェコ・フィル(EXTON)1995/1/23-26・CD,,エッジが立たず穏やかゆったりの演奏である。丁寧でスケールが大きく、瞬間的な激し方はしない。悪く言えばのっぺりしている。ゆえに3楽章がしっくりくる。他は甘く感じる。4楽章は遅すぎてブラスが乱れる場面もある。粘りもないので案外すっきり流れる演奏ではあるのだが、3楽章は例外的に丁寧に大きく粘るようなクライマックスから結部はあくまで幸福感の中にドラマを感じさせる。ひっかかりがないので無印。,-----,,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),バルシャイ指揮読売日本交響楽団(TOBU)1989/11/25live・CD,,だいぶ遅くなってしまったが聴いた、バルシャイらしい引き締まったアンサンブルに、揺れない、無骨な表現、切り裂くように激しく、しかし正確な音、このころロシア系指揮者というと巨匠系のスヴェトラーノフが丁度悲劇的に連続的に取り組み(ドラマティックでロマンティックかつかっちりしたこの曲はグズグズにもなりづらくマーラーではスヴェトラーノフ向きに思われがちだ)話題になりつつあったが、じつは悲劇的の価値をしっかり引き出しているのはこの時点ではバルシャイの方だったと思う。計算的だがとても個性的な、意志的な解釈はスヴェトラーノフよりよほど板についている。ロストロポーヴィチが指揮者としてショスタコーヴィチに取り組んでいたようにバルシャイも当然取り組んでいたが、室内楽団イメージのせいか小粒感を持たれがちで、でも、ショスタコーヴィチが類似性を指摘されるマーラーにおいて、コンドラシンによく似たスタイルで、しかしもっと煽情的にあおりたて、このオケにここまでの精度、迫力、艶を出させたのは見事。散見されるミスなどどうでもよくて、四楽章後半、偽物のクライマックスが何度も訪れるあたりは50年前なら歴史にちゃんと残った録音であったはずである(現代は色々難しい)。音場の広がりがなく、空間的配置がなされるカウベルなどの効果も薄いがこれは録音、ホールのせいだろう。しかしバルシャイなのだ、乾燥した集中力、しかしそれにとどまらないドラマの壮麗な演出を聴いて、スヴェトラーノフの白眉が6番などと言わないでおこう。スヴェトラーノフは3番、7番を振る指揮者だ。それにしても弦楽器は上から下まで、ここぞの艶めいた音色が良いなあ。難曲を最後までやりきったオケに拍手。ブラヴォは一声だけ、拍手が雑で少なめなのは当時まだ曲に馴染みがなかったからだ。ベルティーニによってやっと聴かれるようになったところである、日本では。アマチュアがやると練習を聴きに来る評論家がいたくらい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),ハロルド・バーンズ指揮ハンブルグ北西ドイツ放送交響楽団(forgottenrecords)1955/6/27-29放送用録音,,モノラルで音は普通。バーンズはアメリカでマーラー演奏に貢献した指揮者でアルマとマーラー生前未発表曲の演奏にかんして直接交渉したことで知られるが演奏は知られていない。さもありなん、つまらないのだ。あまりに予想どおりで、譜面をただ音にしたような演奏ぶりであり、型式ばった演奏はドイツ系のやり方といえばそうなのかもしれないが(父クライバーとレオ・ブレッヒに薫陶を受けている)音にはドイツ系の響きにあるべきパワーがなく、かといって超客観主義のスワロフスキーのように透明に振り切ったところもない。まるで中庸でまるで魅力の語りようのない、曲自体の魅力で聴かせるだけだ。2,3楽章を入れ替えているのはバルビローリなど同時代やっている指揮者はいるので珍しくもなく、稿が違うようにも聞こえない。悪しざまに言ってしまったがただ一言で済ますなら「普通」。期待過剰であった。オケは必要十分といったところ。いや、ふつうなりに2(通常3)楽章など聞かせますが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),△ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団(RCA)1965/4/20,21はっきり言ってつまりません。とくに前半楽章、いや4楽章以外の無個性さといったらなく、こころなしかボストン響もふるわない。ただ、4楽章は次第に盛り上がるドラマティックな演奏で、ハンマーの打撃が入るところなどアドレナリン炸裂(とはいえ爆演系の指揮者の盤にくらべればやはり弱いが)。ボストンの弦もしまってくる。金管はどうも息が続かない感じ。ラインスドルフは職人肌の指揮者で、オケトレーナーとしては一流だったが、その演奏が取りざたされることは余り無い。あまりに職人すぎて、客を楽しませるという重要なことを忘れてしまったのか。ウィーン生まれなのに、それらしい柔らかさは皆無。かといって剛直でもなく、中庸。「強靭さ」の無い即物主義者、といった感だ。この盤、職人に鍛えられたとは思えない場面もあり、なんだかこの指揮者は得体の知れぬ存在として記憶されてしまいそうである、私にとっては。マーラーはほかに1、3、5があるが、私は1しか聴いていない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(DG)1969オケがよく統率されており、なかなかダイナミックな音楽を聞かせる。弦楽の充実ぶりは特筆できよう。解釈自体は奇をてらわず率直で模範的であるが、そのスタイリッシュな指揮ぶりは「ボヘミアのマーラー」という田舎くさいイメージとは隔絶したものとなっている。1楽章葬送行進曲の攻撃的な表現(テンポ)、アルマの主題のドラマティックな謡いかた(絶妙)、主旋律だけでなくその下で蠢く中低音の充実した響きが曲に深みをあたえている。クライマックスまで一気に聞かせる力感のある演奏だ。全てが一本調子かといえばそうでもなく、一部ではあるが面白い所でテンポ・ルバートがかかったりもしている。2楽章スケルツォも弦楽の強固な表現が印象深い。3楽章アンダンテは心根深い祈りの音楽。4楽章も速いテンポで始まるが、(多少武骨ではあるが)精妙な緩徐部をへて、闘争の音楽をかなでる主部へと突入する。個性的なものは余り無いが、雄渾な表現には引き込まれるものがある。「テンポ良さ」はこの演奏の特徴の一つだろう。豊穣な音響の中にうねりのたくるようなドラマが描かれていく。イマジネーションをかきたてられるようなところは薄いが、リアルな音作りには好感が持てる。ずっとCD棚で埃をかぶっていた演奏だが、改めて聞き直してみてそのクオリティの高さに今更ながら驚かされた。佳演である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(audite)1968/12/6live異様に即物的な演奏で独特だ。しかし、これがベルリン・フィル、せめてシェルヘン盤のライプツイヒであったら、と思わせるほど、オケが駄目・・・である。弦は薄いし管はしょっちゅうミスる。第一楽章は異様な速さで始まり、第二主題初回でのテンポダウンを除けばかなりの高速演奏に終始するが、どうもつんのめり気味で、オケがついていっていない。クーベリックの若い棒は熱を帯びてくるとどんどん速くなっていくようで、それもオケのミスを誘っている。最後の下降音形で急激なリタルダンドをかけているのにはにやりとさせられた(スコア指示無し!)。スケルツオになるとアンサンブルは整ってきて、音楽の性格上からもかなり楽しめる。アンダンテは抒情味の少ない演奏で個人的には余り好きではないが人それぞれだろう。終楽章も幻想の無い即物演奏に終始するが、行進曲主題の勢い良い音楽は耳を惹く。あと、英雄が結局打ち倒され、挽歌に入った最後の場面はなぜかかなり丁寧に演奏されており、そのリアルな音作りもあいまって面白かった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○シェルヘン指揮ライプツィヒ放送交響楽団(TAHRA)1960/8/4LIVE・CD ライプチヒが巧い。シェルヘンの無茶な要求がこの演奏ではけっこう実現している。計54分…これだけでも無茶はわかるだろう。無論繰り返しなしカットあり(スケルツオが僅か6分強!)の演奏ではあるが、聞き進むにつれ速さが必然性をもって響いてくる背景にはライプチヒの強固な合奏力も大きい。音色を損なうことなくドラマティックに弾ききっているところが凄い。特に終楽章聞きごたえあり。1楽章、暴力的なテンポによる力技の行進曲、アルマー!!と叫んで頭を張るような第二主題の強力な表現は特筆物。飽きる暇もありません。2楽章(緩徐楽章、通常は3楽章)がやや潤いに欠けるようにも感じるが、ライプチヒの渋い音が曲の湿気た情緒に合わなかったのかもしれないとも思った。とにかく、余り横広がりの無いタテノリ演奏で、情趣より音そのものに立ち返らせるようなドラマツルギーが大魅力。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ショルティ指揮シカゴ交響楽団(LONDON)1970/4・CDストイックな演奏だ。贅肉が無く、現代的である。シカゴの音はそのずば抜けた機能性に比してけっこう無個性的だが、ここでもやはり情緒的なものに欠けた演奏をくり広げているように聞こえる。私はベルティーニやショルティからマーラーに入ったので、この演奏もそうとう聞いたのだが、いろいろと耳が肥えてくると、オケ・指揮共に技術的余裕がありすぎるせいか、あるいは単にその速いテンポのせいなのか、余りに軽やかに曲を進めていっているように聞こえて仕方が無い。冒頭の葬送行進曲など音自体が軽やかに感じるのは、ひょっとしたら録音のせいかもしれない。比してアルマの主題が朗々と歌われるのは印象深い。あまりに自然に行っているため耳にとまりにくいが、結構起伏のある演奏でもある(スコア指示のとおりだったりするけども)。目立たない低音域の楽器がしっかり鳴っているのには瞠目。このあたりがムニャムニャな演奏が多いし、じっさい目立たぬ書き方がしてあるのだが、シカゴの奏力とショルティの鋭敏さに圧倒される。たぶん6番演奏記録中で最も技術的に高みにある演奏であり、精度を求めるなら聴く価値は十分にある。中期純管弦楽交響曲においてはショルティはとても評価が高い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(sony/PASSION&CONCENTRATION:CD-R)1967/10/14LIVE(註:ソニー盤とCD-R盤は同一演奏の異録音であることが判明した。)これといった耳をひく点はない。非常にストレートな演奏である。音楽に妙な意味付けが無い点、初心者向けかもしれない。抜群のオケコントロールに緊張感の漲る演奏者というセル作品らしい魅力には溢れており、このような解釈を好む人にとっては名演といえるものだろう。(CDーR盤:モノラルのうえ、ピッチが高い。最初はかなり違和感をおぼえる。原盤(テープ?)の回転数のせいか。また、録音自体も余り良好とはいえない。),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),セル指揮クリーヴランド管弦楽団(VIRTUOSO)1967/10/12LIVE ,有名なSONY盤の二日前のライヴだそうである。とはいえセルのこと、演奏内容はほぼ同じで、音質が若干悪い(客席等雑音も混ざる)ことと些細な事故(ブラスが外したり弦がずれたり)が聞かれること以外にはとりたてて違うところはない。セルのマーラーは粘らない。そこが物足りなさを産むのだが、この盤でも1、2楽章はかなりあっさり。3楽章アンダンテはなかなか情趣があるがクライマックスではバルビローリのベルリン・ライヴ並に高速運転になる。目玉はやはり長大な4楽章にあるだろうが、テンポはやはり速めで、じっくり浸る暇もない。うーん。ハイレベルな演奏ではあるのだが・・。比較的廉価で出ているが、まあセル・マニア以外はとくに聴く必要はなかろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○テンシュテット指揮ロンドン・フィル(EMI)1983/4,5テンシュテットは熱狂的なファンを持つ。そのせいかライヴ盤(海賊?)が跋扈しており、全てを手に入れて吟味するのにはそうとう困難(と金銭)が伴うと思い、手を出すのを躊躇していた。・・・すると、いつのまにか店頭から綺麗さっぱり消えてしまった!結句探し回る羽目になってしまったのだが、やっとみつけたのが今手元にあるボックスセットで、6000円弱。全集だが「大地」は未収録である。さて、CDをてにとり、プレイヤーにかけてしばらく。・・・「さすがだ」。これは名演である。バーンスタインの新録のようにかなり恣意的な操作が加えられており、大きな起伏があるものの、音に重量感があり、非常に安定しており、また(リヒャルト・シュトラウスのように)じつに豊穣にひびく。解釈は奇をてらう一歩手前でおさえられ、まるでライヴ盤のような緊張感がある。とくに気に入ったのがアンダンテ楽章だ。この楽章は旋律を際立たせ、情緒を揺らす表現が通常とられるのだが、この演奏では(まるでクレンペラーの演奏様式のように)重量感のある音響によって古典的なほど荘厳な音楽がかなでられている。独特だ。終楽章のダイナミックな表現はかつてないほどの迫力をもって迫ってきた。嵐だ。あの温厚なロンドン・フィルがうなっている。フレーズの全てに意味付けがなされ、一分の隙もない。分析的な側面も垣間みえるが、このような素晴らしい結論に達せたのであれば、そこへ至る過程なぞどうでもいい。いまどきの録音とは思えぬような綻びがきこえなくもないが、かえってライヴ感があって好きだ。弱音部のぞっとするような冷気にもはっとさせられた。それにしても骨太で力感に溢れた、それでいて壮大で気高さすら感じさせる演奏だ。・・・うーん、意外な誤算だった。これは聞いて損はない。但し、個人的にはカウベルはもっと低い音を・・・(もういいって?すいません),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),◎テンシュテット指揮ロンドン・フィル(sardana records:CD-R/LPO,BBC)1983/8/22プロムスlive・CD NYPライヴ盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),テンシュテット指揮ニューヨーク・フィル(rare moth:CD-R)1985/10/23live(1986?) というわけで6番だけはライヴ盤を買ってしまった。しかし、予想以上の出来だったのがプロムス・ライヴ盤である。スタジオ盤が大人しすぎるように思えるほど、張り詰めた緊張感と溢れるパッション、とくに終楽章の世界の雄大さには感激。アンダンテ楽章もスタジオ盤より歌心に満ちており、心を揺さ振る。終演後のブラヴォーの凄まじさはこの演奏の成功をつたえるものだ。文句無し、「悲劇的」のベスト。対して2年後になるニューヨーク・ライヴは録音自体に問題がある。音質が悪く、またレンジが狭い。大音量の箇所になると、音量がカットされてしまい、拍子抜けする。ニューヨークの音には独特の魅力はあるが、しなやかで美しいロンドン・フィル盤をさしおいて聴く必要はあるまい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),テンシュテット指揮ロンドン・フィル(EMI)1991/11/4,7LIVE私がこの人の演奏を聞きすぎたせいか、どうも恣意的で客観的な莫大演奏に聞こえて仕方がなかった。演奏的には最晩年にあたる演奏であるが、指揮者にありがちな最晩年様式に陥っているように聞こえた。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○トーマス・ザンデルリンク指揮サンクト・ペテルブルグ・フィル(RS)1995/7/2,3,4限りなく◎に近い○と思って下さい。これは聴き易いです。ザンデルリンクは、まあ奇妙独特な解釈(改変?)を混ぜ込んでくるのはいつものことだが、全般に武骨でギスギス軋んだ演奏をするときもあれば、無茶苦茶わかりやすい王道的演奏をすることもある。ここでは後者。些末な部分を除けば多くの人がこの曲に期待するとおりの演奏を繰り広げてくれている。表現には適度に潤いもあってドイツの放送オケのようにキシキシしたところは見られない。録音がクリアで少々分離が激しいせいか打楽器要素が際立ってきこえるのと、ダイナミックレンジが異様に広い(弱音部はほんとに聞き取れないくらい小さくてオープンエアのヘッドフォンだときつい)のが特徴的だ。1楽章は思い通りの演奏というかこれ以上もこれ以下もない決定版的演奏と言っておこう。提示部の繰り返しもきっちりやってます。第二主題のテンポ設定に拘るマニアもいるそうだがこの演奏は絶妙、ダレすぎも素っ気無さすぎもしていない。ある意味中庸的だがだからこそ聴き易い。展開部に入るとそれまでは割合と常識的だったのが少し面白い解釈が混ざってくる。奇妙なダイナミクス設定(突然スピット・ピアノがかかったり、ドラが不意打ち的にゴーンと響いたりしてびっくり)がちらほら。テンポは大きくは揺れないが有機的に微妙な変化をつけてきていて芸が細かい(漫然と聴いていればわからん)。終盤の畳み掛けでも面白い解釈が混ざるがそれを聞き流してしまうほど気分が高揚させられる。聴いていてザンデルリンクがいいというかマーラーは何て完璧な曲を書いたのだろうと感服させられる。とにかくこの1楽章はスバラシイです。2楽章、ここではスケルツォ、3楽章アンダンテ、この二つの楽章は、平凡。私自身がいちばん嫌いな楽章といちばん好きな楽章の組み合わせなのですが、前者は退屈(フツーです)後者はあまりにそっけない。もっともアンダンテ楽章はザンデルリンクならではのスケールの大きなテンポ設定を施されており、冒頭の味もそっけもないさっさと進むテンポとクライマックスでの悠揚たるテンポは大きく違うのだが、あまりに自然すぎる抑揚というか、表現主義指揮者がやっていたようなデジタルな変化を避け非常に自然な流れを創り出しているので、漫然と聴いていると気が付かない。感傷的な気分を煽る演奏はこの人の芸風ではないのでそれも仕方ないのだが、曲自体の持っている「センチメンタリズム」というポテンシャルを生かしきれていないような感じがして、個人的に食い足りなかった。転じて終楽章、これは30分余りがあっと言う間の効果的な演奏だ。ぐいぐいと引き込まれる感覚をおぼえた。緩徐部における低く響くカウベルとハープのとつとつとした弾音、他高音打楽器の遠い残響のかもす雰囲気は、それぞれの音がクリアなだけに、純度の高い「真空的な」異空間を幻出している。これは巧い。もちろん盛大に盛り上がる所は盛り上がり、オケのパワーを感じる力演となっている。これまたやけに拘る人の多い最後の2回の木槌が個人的には少々弱く感じたが録音のせいだろう。音楽的にはぜんぜんOKだ。この盤私は最初ベルリン放響と思って聴いていたのだが余りに生々しく艶があるためおかしいなと思って見たらサンクト・ペテルブルグ・フィルだった。レニングラード・フィル時代に比べて凋落したとは言われるけれど指揮者によってはやるときゃやるのだ。久し振りに聞いたマーラーのせいもあるけれど、テンシュテットらほどの熱狂する凄みは無いが、安心して楽しめる万人向けの演奏である。総計81分強は遅いか速いか。まあ1楽章繰り返し有りだから妥当な長さだろう。優秀録音だし、おすすめ。とくに10番クック版(ザンデルリンク版?)の演奏が好きな人なら。<後補>この演奏、父クルト・ザンデルリンク指揮と勘違いしてました、すいません!今更文章の不整合をごまかす気もしないので、このままにしておきますが、ご注意を!(芸風似てるなあ・・。),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ブーレーズ指揮BBC交響楽団(ARTISTS)1973LIVE それにしてもウィーン・フィルの音は随分変わった。同じDG盤のバーンスタイン/ウィーン・フィルと立て続けに聞いたが、音は隅々まで無個性なほど全く同じ。機能性は格段にアップしているからそれはそれでいいのだが、冷たい印象を与えてしまうのはいかにも残念だ。ブーレーズのDG盤はかつてのライヴとは全く異なり、非常にまろやかだ。言ってしまえば常識的な演奏に落ち着いてしまった。でも聞き心地は悪くない。1楽章のアルマの主題の展開がバーンスタインのテンポ設定と似ており、面白いと思った。緩徐部での響きの感覚はさすが鋭敏な耳を持つブーレーズならではの繊細さで、印象派的。3楽章の美しさも特筆すべきだろう(旧盤とは全く解釈が異なっているが)。終楽章、思わぬところでハープが響いたりして、そういうところは(少ないのだが)個性的な部分を遺している。個性的、と書いた。旧盤、イタリア盤のライヴは素晴らしく個性的で、一期一会の迫力を持っている。事故も多いが、震幅が大きく、しかもその付け方が特徴的で(以前書いたようにバルビローリをちょっと思わせる)、冷徹な印象のあったブーレーズの「熱気」が、ふんぷんと伝わってきた。録音は悪いものの、ここでは円熟したがゆえ「薄く」なった新録より、お勧めとしておく。終演後のブラヴォーも凄い。昔ブーレーズのマラ6ライヴが聞きたくてたまらなかった折、「ブーレーズ・フェスティバル」で同曲が取り上げられると聞いて飛び上がって喜んだものだが、じっさいはティルソン・トーマスが振ったのだった。まあそれはそれで興味深かったのだが(面白かったとはいわない)。ちなみにHMVでブーレーズの「大地の歌」(DG)が990円で投げ売りされていた。果たして今現在のブーレーズ・マーラーの評価はいかがなものなのだろうか。関係ないが秋葉原石丸電気でALTUSのコンドラシン・ライヴシリーズが1枚950円で同じく投げ売りされていてショックだった(私は全て原価で買っていたし、悲愴にいたっては間違って2枚買ってしまっていた)。たまにレコード屋めぐりをするとこんな発見もあったりして。(2003/1記)(BBCso 追記)ブーレーズ、ドイツグラモフォン盤でないライヴ録音です。私は偏見もあって、最近のブーレーズは指揮者として巧くなった替わりに閃きや鋭さがなくなったと思い込んでいるのでご容赦を。CDが出た7年くらい前に書き留めておいた文章をそのまま載せます。ブーレーズの悲劇的を聞いた。ブルーノ・マデルナ張りの珍妙な表現も多かったが、何より驚いたのが対照的とも思われるバルビローリのライブ盤との近似性。3楽章(バルビローリは2楽章)終盤の急激なアッチェランドなどはこの二人をおいて他に見られないものだ。通常ブーレーズとバルビローリにとって、ライヴとは別の意味を持つものであったろう。おおむねスタジオ録音に近い精度の演奏を求めるブーレーズに対して、バルビローリはスタジオの入念で神経質なものとは異質の、一期一会の激しい演奏を行う。スタジオはバルビローリにとって余り重要な存在ではなかったのかもしれないとさえ思う。ニューヨークフィル時代のチャイコフスキー5番の録音はその最たるものだが、悲劇的のベルリン・フィル定期の記録もそれに迫るものがある。チェロ奏者から始めやがて徹底したプロ指揮者として生涯を尽くした演奏家バルビローリと、アグレッシヴな活動家として音楽界を席捲したあとに指揮に手を染めた作曲家ブーレーズが、ここでこんな近似性を見せるのは面白い。尤も4楽章でブーレーズはおおむね一般的表現に落ち着くのに対し、バルビローリは益々度を越してきている。このへん乖離してきてはいる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ブーレーズ指揮グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラ(EN LARMES:CD-R)2003/4/13LIVE 1楽章繰り返し有りで73分というのは速い部類に入るだろう。さっさと進む乾いた解釈はブーレーズらしいが、いかんせんオケが弱い。あちこちで事故が起きているしリズムに鋭さがなく雑然としている場所も少なくない。1楽章などテンポがたどたどしく感じる。また奏者の技術にもばらつきがあるようで、弦は薄く一部奏者が突出してきこえる。ソロをかなでるコンマスも固い。オーボエなど妙に巧い奏者もいるが管楽器もまとまりがいいとは言い難い。ただ、3楽章アンダンテから4楽章へむかって流れが良くなってきているのは確かで、4楽章などなかなか聞きごたえがある。余り揺れない解釈であるがゆえに揺れたときのインパクトは凄いし、また響きが完全にマーラー的になっているのはすばらしい。粘らないあっさりしたテンポにも関わらずとてもロマンティックに聞こえるのはそれゆえだ。豊穣なひびきが確かな聞きごたえを感じさせる。最後のハンマーの打音はかなりリアルに捉えられており、腹の底にズシンとくる。日本でもこれをやったブーレーズだが、かつての解釈と微妙に変わってきているようであり、一流オケでやったらどうなっていただろうか、と思わせるところがある。若いオケということで多少大目に見て○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),ブーレーズ指揮ウィーン・フィル(DG)1994 BBC交響楽団盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○フリプセ指揮ロッテルダム・フィル(PHILIPS)1955/6/25オランダ音楽祭LIVE モリスの10番のカップリングとして8番(たしかなんかの初モノだったかと思う)がスクリベンダムから出ている指揮者の演奏。スケールが大きい。近視眼的な揺れかたは絶対しない。「ルバートしどころ」でも決してルバートせずさっさと突き進む。そして大きな波が揺れるように、クライマックスにいたってはじめて雄大に歌う。オケがけっこうノっているのでそれほど気にならないが、ある程度は客観性のある演奏であり、ゆっくりした後打ちしっかりのリズム感含めクレンペラーに似ている(クレンペラーにはこの曲の録音はないが)。音響バランスの良さはこちらのほうが上かも。絶妙。モノラルで聞くと声部間の受け渡しがわからないほどだ。ライブ演奏にしては欠陥がなく、オケのやる気が音に出ていて清々しい。バイオリンが弓を大きく使ってアタマを付けて弾くところが個人的に好き。けして物凄く巧いわけではないが意外なところにポルタメントをかけたりと結構やっている。全般に音作りがリアルで幻想味はないが音楽的な凄みがある。ペットの下品な発音含め音響もとてもマーラー的。やりなれた感じがする。1楽章のアルマの主題の遅いテンポも独特絶妙だけど、4楽章がとにかくかっこいい(同曲どんな演奏でもかっこいいけど)。最後までダレないでイキのよさを保っている。ハンマーが殆ど聞こえないのがちょっと残念だが、末尾の葬送音楽まで厳しく律された音楽には説得力がある。あと、内声部に埋もれた木菅の何気ないパッセージが歌心たっぷりに歌われていたりするのも面白い。ぐいぐい押す勢いこそないが、一定の水準にある充実した演奏だ。○ひとつ。2楽章にアンダンテを置いている(あっさりした演奏であまり惹かれなかった)。あと、録音が悪い・・。前後の拍手入り。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ミトロプーロス指揮NYP(WME:CD-R/NYP)1955/4/10LIVE・CD,, 見事な演奏だ。NYPの量感ある響きは他に代え難い魅力があるし、ミトロプーロスの力強いアプローチに見事答えている。荒れ狂うケルン盤にくらべ表現の起伏はかなり抑制されているけれども、そのぶん雑味が混ざらずに済んでいて、アレグロ楽章(第1、4楽章)の緩徐部ならびにアンダンテ楽章(ここでは2楽章)では精妙とでも言うべき繊細な音響を創り出している。アンダンテ楽章の情緒てんめんさは特筆もの(音色変化に乏しいのは難点だが)。対してスケルツォ楽章の力感とスピード感にあふれる表現はミトプーらしいもので意外に楽しめる。無論アレグロ楽章(とくに終楽章)も一気に聞かせる力を持っており秀逸。録音もこの時代にしては聞き易い。おすすめ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),○ミトロプーロス指揮ケルン放送交響楽団(いろいろ)1959/8/31LIVE 何度かCD化されているライヴ録音。恣意的表現の嵐で、オーケストラの集中力も凄い。余りの印象の強さにしばらくこれ以外聴けなかったときもあった。「ここでこうイってくれ」というところで予想以上にやってくれる類の演奏。6番の録音史でもやりすぎランキング一位を争う演奏だ。好き嫌いはあろう。今では私も少し眉をひそめたくなるところがある。だが決してその場の思い付きで伸び縮みさせているのではない。その証左にオケが最後の「一撃」に至るまで、全ての解釈を完璧にこなしている。プロ指揮者としては当然、しかも驚異的なスコアリーディング&記憶力を誇ったミトロプーロスであれば当たり前のことなのだが、この大曲を完全に自家薬籠中にし、その上で的確なオケトレーニングを行ったようだ。オケに共感させる力もまた驚異的であったというが、さもありなんと思わせる演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),アドラー指揮ウィーン交響楽団(CONIFER/SPA)1952・CD(世界初録音盤)チャールズ・アドラーは20代の頃にマーラーの8番ミュンヘン初演を手伝い、合唱指揮を行ったことで知られるイギリス出身の指揮者だ。ヒトラー前のベルリンで楽譜出版社を設立し、アメリカ現代音楽(アイヴズやカウエル)をヨーロッパに紹介したこともある。この演奏は決して器用な演奏ではないが、壮大で安定感のある解釈とウィーン響の美質が、ゆっくり感銘をあたえる。録音の難点として、ピッチが高すぎる。この点を乗り越えてきくことがまず第一。1楽章はかなりゆっくりだ。第二主題でのリタルダンドも余りしない。提示部の反復は行っていない。2楽章(アンダンテ)は往年のハリウッド映画音楽のような甘美な音が聴ける。ウィーン響の弦はちょっとばらける場面もあるが、その艶やかな美質をよく聞かせてくれている。クライマックス前の妙なアッチェルとか、他では聞けないものもある。この楽章は特筆もの。3楽章(スケルツォ)は重く引きずるような足取りで始まる。「重々しく」の指示どおり。1楽章と同様緩慢なテンポだ。細部に特徴的な解釈が聞かれるが、テンポ自体は一貫してほとんど変わらない。穏やかな雰囲気の中かなでられるウィーンの音に溺れるべし。マーラーの子供たちが遊ぶ姿が8ミリ映画の画像の中に浮かんできそうな幻影におそわれる。ふたたびスケルツォ主題が戻り重厚な音がかなでられる。このへんの音響、かなり「マーラーっぽい」。終楽章、チェレスタ、ハープの上向音形がいきなり鮮烈に響いて始まる。遅いテンポで丁寧に音響を組み立てている。イマジネーションを刺激する精妙な響きだ。アレグロ主題もやはり重くひきずるように始まるが、徐々にスピード感が増してくる。苦しいホルンなど技術的瑕疵がまま見られるが音楽の総体は損なわれていない。弦セクと管セクのテンポが完全に分離してしまっている箇所もあるが、なぜか最後にはつじつまがあっている。緩徐部での打楽器群の精妙な響きはなかなかイマジネイティブ。カウベルが遠い教会の鐘の音に聞こえてナイス。原譜にはないコンマス・ソロが聞こえたりする(たんにコンマス以外落ちただけかも)のはご愛敬。盛り上がりどころではややオケのパワー(&技術)不足が露呈するところもあるが、敢えてテンポを落として表現される音楽の異様な壮大さには圧倒される。このテンポのせいか旋律楽器以外の中低音の動きがじつに聞き取り易く、マーラーの特殊なオーケストレーションの秘密の一端が聞ける。ペットの音程がかなり怪しくなってくるが気にしないでくれ。後半やや音楽の起伏がなくなり飽きてくるところもある。英雄が打ち倒される衝撃が甘い気もする。最後の打撃で英雄が打ち倒されたあとの挽歌のコントラストが少し足りない。不満点もままある、というのが終楽章の聴感だ。じつはこのCD買ってからすっかり忘れていた。一寸聞き余りひっかかりがなく、放っておいたのだが、今日なんのきなしにスコア片手に聞いたら、かなり楽しめた。ふだんスコアは見ないで聴くのだが(スコアなんかあると音楽に集中できない!)スコアがあったら逆に楽しめる演奏というのもあるのだなあ、と思った。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),インバル指揮フランクフルト放送交響楽団 S61,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),ホーレンシュタイン指揮ストックホルム・フィル(UNICORN-KANCHANA)1966/4/15・17LIVE はじめに言っておくと録音状態悪し。ただ、この時代にこのような非情緒的な演奏は特異で、ある意味先見的であったから、その価値を認めておく必要はあるだろう。ホーレンシュタインの独特のスタイルは、この曲の構造を解体し、四角く巨大な構造物へと組み直すものである。オケは弱いし指揮者も求心力にやや欠けるから、その意図が巧く表現できていないところも見られるが、たとえば弱音部で、ブーレーズを彷彿とさせる繊細で印象派的な音響を産み出している所などなかなか面白い。聞き込めばいろいろと見えてくるだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),ボンガルツ指揮ライプツィヒ放送交響楽団(WEITBLICK)1969/6/30・CD 1楽章は正直期待外れ。遅くて揺れが少なくすこぶる客観的。またそういう演奏にしようとする作為が見え過ぎ、こういう解釈でオケは納得してやっているのだろうか、と疑ってしまう。情緒的なものが少なく冷徹に纏め上げていくやり方はやはりケーゲルを彷彿とさせる。ケーゲル流だと思って聞くと確かに聞ける所はあるのだが(情緒過多なマーラーが露骨なクライマックスなどは寧ろ聞きやすいしせせこましくならず壮大だ)。2楽章アンダンテはあっさり過ぎてひっかかりがない。流れはいいが音色が単調。録音のせいかもしれないが、純粋に楽曲そのものを味わいたい人向けにしても少し微温的過ぎる。音に迫力がない。ケーゲルのようなザクザクガシガシ斬り込むアタックの厳しさが無いのだ。3楽章も速めだが、比較的厳しめの発音と共に曲の性向にマッチした感じはする。まあつんのめり気味な一本調子といった感じだ。カットがどうにも痛い。4楽章になると芸風に一種の風格が備わってくる。量感はないし事故もあるが、音符のキレがよく、そこに確信のようなものが感じられ、遅くてバラケを生じるところもあるが(盛り上がり所は一段と遅くなる)聞きやすい。密度の高い書法が遅速により解体され、厳しく再構成されている。金属ハンマー2回だそうだが私の耳にはちゃんと聞き取れなかった。終楽章は小技も聞かれるし比較的面白く聞けるから、前半楽章がどうにも惜しい。無印。スタジオ録音。*すいません、2点修正しました。(1)スタジオ録音だそうです。(2)ハンマーが聞こえなかったのですがちゃんと入っているとのことでした。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」(1903-06),レーグナー指揮ベルリン放送交響楽団(DEUTSCHE SCHALLPLATTEN)1981いやー、カロリーの低い演奏だ。透明で繊細な構築性をもち、至極客観的で、ひたすら響きを美しく鳴らせる事を重視したような演奏である。そのせいかライナーに書かれているほど流れ良いとは思えないが、かといって欠点とあげつらうほど気になるわけではない。これはこういう演奏なのだ。その音楽はやわらかに明るく、たとえばここでは2楽章に置かれているアンダンテ楽章にしても慟哭し激しく肩を震わせるバルビローリのライヴのような表現とは対極にあり、ノイマン的牧歌とでも言おうか、ほとんど穏やかな気持ちを崩さずに聞ける音楽になっている。3番の終楽章の柔らかな輝きに満ちた安息の音楽に近い(ちなみにレーグナーのこの楽章は名演である)。溯って1楽章は足踏みするようなリズム感と言ったらいいのか、緩慢なテンポで感情を音にあらわさない演奏ぶりが食い足りない。3楽章はたぶんこの盤の白眉、リズムがとても明瞭に刻まれ、交錯するアンサンブルに水際立った躍動感をあたえている。こういう鮮やかなスケルツォはけっこう珍しい気がする。そしてこの曲のカナメ、終楽章であるが、弱い。1楽章と同じ弱みを感じる。劇的で爆発的な演奏ができない指揮者なのだ。劇性の強いこれら楽曲にはそもそも向かないのか。見通しはいいが、マーラーの音楽は中音域スカスカであったり管弦楽が意図的に薄くなる部分も少なからずあり、下手に見通しが良くなると歯ごたえがなくなるところがある。まあ、構築的演奏でスピードも遅いからスコアリーディングには適していると思う。でも、熱狂するたぐいのロマンティックな演奏ではない。しいていえば愚直なほどスコア指示を守るがゆえのおかしなところ、たとえばヴァイオリンのグリッサンドを実直に、かなり粘っこくしっかり響かせており(しかも通常1、2本の音が突出するようなところ、全ての楽器が推移の動きまできっちり揃えて大きく聞かせているのだ。)4楽章では通常聞こえないような下降音形のグリッサンドも揃ってしっかり聞こえ、ちょっと拘っている模様。マーラーの現代性を浮き彫りにした解釈とも言えるかもしれない。そんなところか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),マデルナ指揮ミラノRAI交響楽団(ARKADIA)1971/12/24ミラノLIVE,,お世辞にも上手い演奏とは言えないがウィーン交響楽団とのものに比べれば解釈が穏やかなぶんいくぶんマシか。音色も普通。1楽章のバラケぶりは聞けたものではない。3楽章くらいから割と聞けるようになってくるがいい意味でも悪い意味でもイタリアオケ、ブラスは申し分ないが弦が勝手というかまとまらず薄くなりがちである。荒い演奏が耐えられない向きには猛毒だ。4楽章のマンドリンが異様にハッキリ聞き取れるのは不思議。構造的配慮はしっかりなされており5楽章など響きは充実している。ただこの楽章いささか遅い。ライヴゆえ緊張感は維持されているが、旋律追いの傾向のある向きは少し飽きるかもしれない。打楽器系の縦が甘いのも気になる。とはいえマデルナにしては激情に走らずまとまっているのは評価できる。最後のアッチェランドがかっこいい。拍手が余り盛大でないのもしようがないか。ただこの拍手、別録りに聞こえるのが?無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),マデルナ指揮ウィーン交響楽団(HUNT)1967/5/27live かなり変態な演奏。あまりの不自然操作に第一楽章で既に崩壊気味である。昔はよく聞いた盤で嫌いではなかったのだが、どうもオケの崩壊模様が気になって仕方が無い。解釈としては面白いのである。普通考えつかないところを操作する。楽章が進むにつれ、まとまりが出だしてはくるのだが。天下の奇盤として後世に残すとしよう。。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○ブーレーズ指揮ロンドン交響楽団(KARNA:CD-R)2004/10/13LIVE,,エアチェック雑音あり。辛口淡麗。いや淡くはないか。硬質でハッキリしていて、引き締まった俊敏な演奏を展開している。このともすると淡い色調をかもしかねないオケの本来の技術的ポテンシャルを引き出し、メリハリのきいた表現を(緊張感のすさびのようなミスもあるが、弦楽器など合奏パートはとくに)極めて統率の行き届いた驚くべき完成度をもって提示してくる。確かに面白いかどうかは趣味による。初めは大局的な特徴のない演奏だと思った。ブーレーズならではというかつての閃きのない。しかしこのひとの指揮者としての円熟は、確かに客観の枠をこえてロスバウトと別の地平に主知的な抽象の個性を楼閣している。きくほどに読みの深さが歴然としてくる。ここではとくにアグレッシブさも顕著だ。非常に評価を迷うところもあるが(「どっちか」なのだ)敢えて中間の○をとる。当代1番の夜の歌であることは確かだろうなあ。ムラも否めないブーレーズだが、やはりオケの力は大きい。ブーレーズはだいたいマーラー振り過ぎ。,-----,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),ブーレーズ指揮CLEVELAND O. H6.11,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),スヴェトラーノフ指揮RUSSIA STATE SO(SAISON RUSSE,HARMONIA MUNDI)H4.2,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(VIBRATO:CD-R)1995/8/9LIVE,,最初に断っておくとこのAC盤、頭が切れてる楽章がある(1ですらぶちっといきなり始まる)。二番目の夜の歌冒頭のヴァイオリンソロが切れてるのはきっつい!!スウェーデン放送はWEB放送を行っており、何もわざわざこんなブート買わなくても聞けるよ、という人もいるだろうが、私は天性のモバイラーなので速度が足りません。まあ、エアチェックとなると音盤じゃないからなあ。,,さて、演奏自体は素晴らしい。つくづくこの人はロシアに封ぜられてキャリアの大半を過ごすような人ではなかったと思った。バンスタのような没入はなく常に意識的だけど、あきらかに扇情的な演奏を狙っていて、ゆっくりしたテンポも強い表現によって力感を失わず終楽章の最後の長大なクライマックス(クレッシェンドと書く人もいるけど音量的には別に飛びぬけてるとは思えない。むしろテンポがどんどん遅くなっていくのとクレッシェンドが同調しての「偉大な表現」だろう)へと至る。この終盤は今まで聞いたこと無い、比類ない素晴らしさだ。昔この人がチャイコばっか振ってたとき、ロシアオケのどぎついローカル色の中で諦めもしくはあがいているように見えた。元々は割合意識的に表現を操作するタイプの指揮者でいながら奔放なオケの自己表現にも対応していて、結果として「最もロシア的な最後の巨匠」というわけのわからないレッテルを貼られてしまったわけだが、私はつねづね西側へ出て最後はドイツオケを振って、フルヴェンに対抗しうる芸当を見せ付けてほしいと思っていた。ロンドンのオケとはやっているが大人しすぎる感があった。でも私は何か新しいものが見えた気がした・・・この人は「ロシア」という称号が無くても十分に現代的で立派な芸術家なのだ、と。結果としてこのスウェーデンとのタッグでは録音には恵まれなかったけど、この演奏を聞くかぎりでもバンスタとは明らかに違う地平を狙っていながらバンスタ並の感動を与えることのできる、もはやローカルの域を完全にだっした「真の巨匠」の顕現を感じることができた。通して非常に聞きやすく、美しく、録音が悪くないことも手伝って、冒頭の瑕疵が気にならないほどの魅力的な潮流が出来上がっている。聞きものがどの楽章、と聞かれて答えに窮するが、物凄くゆっくりしたテンポでいながらチェリの芸風のような飽きをきたすゲイジュツ性とは無縁の奥底のドラマツルギーが見事にスウェーデンの音色によって纏め上げられている。オケも瑕疵はあるものの、ここでは非常によく演奏できている。さて、N響とのマーラーも「ドイツオケとの演奏にかわるもの」としていずれちゃんと出しなおされることだろう。スヴェトラーノフは、マーラー指揮者であった。私が言うまでもなく。録音瑕疵他マイナスで○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○スヴェトラーノフ指揮NHK交響楽団(king)CD
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○バーンスタイン指揮NYP(WME,DA:CD-R)1986/3エイブリー・フィッシャー・ホールlive,DA未確認だが同一音源と推測される。WMEは不良品あり検品注意。録音は篭り、ステレオ状態はいいものの細部不明瞭で聴きにくい。演奏自体は基本的にリズミカル&スピーディでジャムセッションのようなアンサンブルの妙技を聴くたぐいの壮年期バンスタに近いもの。緩徐主題で異様にねっとりゆっくりうねるようにくねり踊るのが晩年バンスタらしい。わりとスケールの小さい演奏に聞こえるのは録音のせいかもしれないが、聴きやすさはあるもののそう取り立てて特徴的でもなく、好みもあろうが、この曲にお定まりのロマン性よりも前衛性だとか構築性だとか、マーラー中期純管弦楽作品の極致を期待する向きには陳腐で常套的に聞こえてしまうかもしれない。○。

,,(参考),sony正規のSACD盤,"
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」
バーンスタイン(レナード)
ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル

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マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○バーンスタイン指揮NYP(DG)1985/11/12 RARE MOTH盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),バーンスタイン指揮NYP(RARE MOTH:CD-R)1985LIVE 一貫したドラマを繰り広げる6番に比して、気ままで散文的な7番の演奏は奏者に異なる演奏スタイルを要求する。さすが元の手兵NYPを使っての7番の演奏は板についていて、恣意的な解釈(特徴的な緩慢なテンポなど)もこの曲の中ではおおいに羽根を伸ばせている。この二枚はほぼ同時期の異なる演奏であるが、共に魅力がある。無論後者(恐らくテープ録音)は音が格段に落ちるし、演奏にもグラモフォン盤とそれほど差は無いから、聞きたい人だけ聞けばいい類のものではあるのだが、ウィーンより(事故もあるが)熱気あるNYPの演奏は、別ライヴとあれば何でも聞いてみたい気にさせてくれるものだ。なかなか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○ケーゲル指揮東京都交響楽団(TOBU)1985/6/25東京文化会館ライヴ(第218回定期演奏会)・CD,,いささか乱暴なスタートからつねに速めのスピードでえぐるようなハッキリした音楽を提示している。オケがまるでドイツオケのように上手い。とくに青白い音が武骨な表現とマッチしてなかなか冷えた、しかし激しい夜の情景を面白く見せてくれている。ケーゲルはよく訪日し日本人受けのよかった指揮者のように思うが、ローカルな人気に留まらない実力派であることの証明のひとつだとおもう。むろん本来のウィーンの夜とはまったく違うものだが、これが国内オケの演奏だという点をまったく意識させない説得力は凄い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○コンドラシン指揮ACO(TAHRA)1979/11/29live・CD,,素晴らしく律せられ、愉悦的で官能的。(この曲の演奏にありがちな)ねっとりした情感は感じ取れないものの、音楽的な完成度は非常に高い。終始テンポが速く、それがこのだらりとした長々しい楽曲の弱点を克服するための手法に聴こえてくる。ただ、4楽章も異常なスピードでさらりと通してしまうのは、この指揮者の特質とはいえちょっと納得のいかない部分もある。前後の楽章のアンサンブルが胸のすくものなだけに、夜の歌2はもっとコントラストをつけて粘着質にいってもらったほうが「らしい」と思う。それを割り引いて○。オケの精度の高さにはびっくりする。コンドラシンのライヴはけして精度が高いものばかりではないのだが。,-----,,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○コンドラシン指揮レニングラード・フィル(melodiya/BMG)1975/3/3・CD,,力強い演奏だ。コンドラシンの、強引と紙一重の表現がある種の節度をもって披露されており、ロシアオケの特性を活かしながらも決してそこに流されることなく、西欧の演奏にひけをとらない巧さで万人の耳に耐えうるものとなっている。レニフィルならではの精度が強みになっている。とはいえロシアオケの響きのバラバラ感が好きではない向きには気になる雑味もあるかとは思う。ファーストチョイスには向かないが、コンドラシン好きは聴く価値あり。○。弱音と強音の差が激しくヘッドフォンなどで聞くとびっくりすることもあるかも。終楽章が聴きものか。個人的にはその前の楽章が生ぬるいウィーン情緒を刷新したようにすっきりしており好きだった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○テンシュテット指揮LPO(WME:CD-R)1980/8プロムスLIVE,,ブラヴォ大喝采のライヴだけど、この人にはイギリスやアメリカのオケよりドイツのオケでしっかり正規録音を残してもらいたかった。主情的な演奏ではないし、テンポ感だけをとってみれば落ち着いてさえいる。音の強さ、表現の磐石の堅さにマーラーの真理の一片が確かにあらわれている、だから下手に有機的であったり音響的に高音に偏ったようなカンタービレなオケでは軋みを生じる。げんにミスの多い演奏である、終盤まとまってくるとはいえお世辞にも緊密とは言えない。テンシュテットの少なくともライヴはこのようなものであるかぎりどれも同じような問題をかかえている。正規があれば十分だし晩年か壮年かでもそれほど目立った解釈の差は無い。放送エアチェックゆえ僅かな欠落や雑音など多く、マニアのみに有用であると言うべきか。それほど熱は感じられない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),テンシュテット指揮LPO(bbc/medici)1980/8/29エジンバラlive・CD,同上?,テンシュテットはクレンペラーと似た表現主義的傾向も持つ典型的な20世紀ドイツ式の音楽を作るが、決定的に違うのは残された録音年月がわりと偏っているため芸風に幅や変化がなく、一回性のライヴも全て解釈は同じ。したがって実演記録コレクターにとっては魅力の薄い指揮者であり、その時々のオケの調子や出来によって違いが出てくるだけである。そしてその振り幅がでかくリスキーである。私もこの人の演奏は正規だけあればいいと思っている向きなのだが、マーラーは仕方なく資料として集めている。7番は純器楽交響曲の最後(自身で実演を聴き整えられなかった、ある意味未完成な9番以降を除く)の作品で変な情緒的な揺れのない、器楽交響曲に適性のある指揮者に好まれる演目でクレンペラーやシェルヘンなどドイツ系の指揮者はよくやっていた。テンシュテットの7番はやはり空疎で、それはマーラーの和声の特徴的な薄い響きを的確に抉り出しているといえばそれまでだがやはりどうも室内楽的なきちっとしたアンサンブルを意識する余り迫力がなく、極端な起伏も人工的で、えてして「ピアノ的解釈」であり擦弦楽器的、すなわち横の繋がった流れの音楽になっていない。のめりこむ要素が無い、とくに散文的なこの曲などでは殆ど「その時々のオケの調子」に左右されるだけで、基本はそのような解釈だから、録音が悪ければ尚更余り音盤価値は無いわけだが、mediciはまだ違う名前だったころからかなり海賊盤エアチェックに近い音質のものまで正規化してきたレーベルであり、リマスターも万全とは言えず、この録音もハッキリ悪い。オケの各声部の収録バランスが悪く、ただでさえばらけがちな各パートが完全に分離してまとまらないように聴こえるところもあり、とくに1楽章や終楽章では酷いアンサンブルの乱れや弦楽器のまごつきが、テンシュテットはきっとこれを一回性のライヴとしてしか認識しておらず、この録音など生前だったら絶対市場に出さなかっただろうと思わせる、雑な出来で酷い。終楽章を5番終楽章同様如何にかっちり噛み合ったメカニカルな構造物として提示するのかがフィナーレとしての締めの肝要な部分だが、これでは締まらない。しかし、ブルックナー的な大きな押しの強さで強引に盛り上げてブラヴォ大喝采を呼んでしまう。不可解である。録音のせいだと思っても腑に落ちない。同月のプロムスのライヴというものも非正規CD−Rで出ているが、まだ聴いていない。期待していないので。無印。テンシュテットのマーラーはマニア以外は収集価値が余りないと思う。正規で十分。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(CULT OF CLASSICAL MUSIC:CD-R)1987/2LIVE フィラデルフィアのパワーは凄い。とくにブラス。さらにこの曲の演奏では後半部分における弦楽器のむせかえるような音色とパワーが特筆もの。ヒスノイズがかなり目立つ録音ではあるのだが、音像はクリアで、慣れればなんとか楽しめるレベルだ。終楽章などやや壮大に過ぎて間延びしたようなところもあるが、オケはだれずに緊張感を保っている。なかなか聴ける演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),テンシュテット指揮ロンドン・フィル(EMI)1980/10,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),◎テンシュテット指揮LPO(EMI)1993/5LIVE この盤、2003年現在かなり入手難となっているが(注:後年再発した)、探して損はない内容だ。ライヴだからというわけでもないが(ライヴとしてもかなり完成度の高い演奏になっている)88分40秒の長さをまったく飽きさせることなく首尾一貫一気に聞かせる力がある。独特の伸縮をともなう解釈も全オケに指示が行き渡り、板についた表現となっている。わりあいリアルで幻想味はさほど濃くはないが(中間楽章にはいくぶん幻想がほしいところだけれども)このあたりは好き好きだろう。一音一音が重く、しっかり引き締まっていて、この若干拡散傾向にある曲に緊張感を与えているのが印象的。特徴的な打楽器群の音がしっかり捉えられているのは嬉しい。弱音部の奇妙に空虚なひびきはまさにマーラー独特の和声法のかもす空間的広がりを体言している。合理的ですっきりとした構造の曲で、多少厚ぼったく演奏したほうがぴったりはまってくる感はあるが、多分オケの発音がかなり熱を帯びて強いせいであろう、決して厚ぼったいロマン派的演奏ではないにもかかわらず、不自然さはない。バーンスタインほどではないにせよかなり作為的な表現が目立つが、そういうデフォルメされた部分と通常の部分の「継ぎ目」の処理が絶妙で、あまりに自然であるため何の違和感も感じない。これは天才的と言ってもいい。明瞭に表現される内声部、対旋律には思わぬ拾い物がある。まあまあ良い音で収録されているので、そういうところも楽しめる。やや深刻になりすぎるところもあるが、逆説的に言えばこの段階で既にマーラーの頭の中には退嬰的な幻想が根づいていたことを示しているともいえよう。1、2楽章あたりではそういう聞き方もできる。ずいぶん散文的に書いてしまったが、機会があればぜひ聴いてみてください。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○ベイヌム指揮ACO(IMC)1958/6/4live・CD,,2楽章以降の音質が非常に悪い。テープよれや途切れ、最大音量がとらえきれずに聞こえなくなるところなど、私みたいなすれっからしですら耳を覆ってしまうほどの音だ。終楽章にいたっては冒頭のティンパニソロが一部欠落。演奏自体は力強くロマンティックで、これこそ昔ながらのマーラーだよ、と膝を打つことしきり、コンセルトヘボウも冴えていてマーラーオケの名に恥じない力量を発揮しているためにこれはほんとうに惜しい。ドラティと似て非なるのはやはりオケの差か(ドラティに7番はないけど)。音の悪さに耐えきれる自信があればどうぞ。マーラーらしさ、ベイヌムらしさは健在。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○マゼール指揮NYP(NYP)2007/6/20-23live,,マゼール・ニューヨークフィル・チクルスの一枚。NYPサイトより有料配信されている。とにかくやたらと遅くて、粘り腰が持ち味かと思ったら急に通常並みのテンポで快活に進み、マゼール近年のイメージから外れていない演奏だが、ここではとても厳しく統制され乱れのない演奏ぶりが聴くものをひきつける。フィナーレ末尾の異常な遅さに対してブラス陣の力強くけして途切れない肺活量の凄さに感動をおぼえる。そしてフラブラの凄まじさからもこの演奏の魅力が伝わってくるだろう。1楽章ののっぺりした遅さでウンザリしてしまったらもったいない。3楽章あたりからの流れを楽しもう。マゼールはクレンペラー的な表現主義者ではないので、4楽章の生ぬるい音楽はそれなりに柔らかく仕上げている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),マゼール指揮ウィーン・フィル(SONY),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○マゼール指揮ウィーン・フィル(PANDORA'S BOX:CD-R)1984/9/30LIVE これはウィーン・フィルが見事である。極めて珍しいことだが弦楽器が実にまとまりがよく、艶の有る音色も雑味を呼び込まず、ヴィブラートのひとつひとつまできっちりあっていたりしているところが特に前半楽章で聞かれる。度肝を抜かれた。マゼールのオケコントロール力に瞠目である。この前半楽章だけを取り出してみれば(3楽章まで)乱れ無く強靭なアンサンブルにひとつひとつの楽器の張り詰めるような音色表現、無理のないマゼールの(一部独特だが)解釈を完全に表現していると言える。4楽章はちょっと面白い楽章で、マンドリンがかなりマイクに近く、ハープのような音色で入ってきたり、バテてきた奏者がミスっていたり(終楽章では更にグロッキーになったペット等がテンポ乗り切れなかったりしてこけており、パート間にずれが生じかけているところすらあるが)生暖かい旋律にただシェルヘンのようにウィーン情緒を歌い込むというのではなく、清澄な雰囲気を持たせようとしてる。そしてそれはやや遅めのテンポで丁寧に歌い上げられる。この楽章にこれだけ力を傾注している演奏は珍しいので必聴。終楽章はさらに遅いテンポでミスにまみれながらなんとか壮大な終結部(ここでのルバートや休符の取り方が見栄を切るように大袈裟で鮮やか!)まで行き着く。いい音(但し瑕疵がないわけでもない)の録音で聴き易い。かなり楽しめます。機会があればお試しを。ブラヴォーが出るかと思ったら拍手だけだった。ので○ひとつ。でも近来の指揮者のマーラーじゃこのひとが最高峰だと思いますよ。ブーレーズもいいけど。ラトルはちょっと?あ、インバルとハイティンクもいるか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○マゼール指揮バイエルン放送交響楽団(EN LARMES:CD-R)2002/6/3LIVE 厳しく律せられた演奏だ。マゼールらしい。しかしオケは萎縮する事なくその枠の中で羽を広げている(枠と言ってもかなり巨大な枠ではあるが)。ボリュームのある音はウィーンのオケより強い表出力を感じる。音色は渋いがクーベリックとのタッグがそうであったように何かしら熱いものを感じる。かなり横幅の広い演奏ではあるけれど、けして弛緩することなく表現力のかぎりをつくすオケに拍手を贈りたい。とくにブラスだ。よく息が続くものと思う。どの楽章もシャープで聞かせる力があるが、とくに4楽章の独特の抒情が耳を惹いた。ふつうの演奏では4楽章は他の楽章から浮くことが多い。ソロヴァイオリンのポルタメント付きの跳躍から始まって、世俗的なマンドリンと甘やかな旋律、響きが支配的な軽音楽ギリギリの内容だからである。しかしここでマゼールは、クレンペラーがそうであったように、わざと音楽の感傷性を取り去って、純粋な響きの精妙さや、音色に頼らない骨太な音楽を描いて見せた。これは出色のものである。個人的にいちばん苦手な楽章なだけに、面白がって聴くことができた。終楽章も横幅の広い解釈だがダレることはない。ここでもクレンペラーを思い出してしまうのだが、わざと遅めのテンポでひとつひとつの音響をしっかり響かせるやり方はマイスタージンガー的な祝祭音楽のえんえんと続く楽章というイメージを覆し、寧ろ飽きさせない。最後は決して凄い盛り上げがあるわけではなく、クールさを崩さないのだが、それでも客席からはブラヴォーが叫ばれ盛大な拍手のもとに終演する。特筆すべき演奏。これはひとつの哲学だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○クレンペラー指揮NEW PHILHARMONIA O.(EMI)S43 想像を絶する演奏。これを聴いて他を聴けなくなる危険を顧みないなら、どうぞお聴きください。遅いにも程がある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○シェルヘン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(PALLADIO,CEDAR他)1953初出・CD 激しいアタック、気合いまくりでザッツが揃わなくても装飾音符が聞こえなくても平気。おまけに私のCDはかすれたり音が割れる(たぶん今出ている盤は大丈夫でしょうが)。でもやっぱり無類に面白いのだ。この独特の四角張ったイキオイ、きりきりしそうな金属質の悲鳴、でも4楽章では甘いロマンスも聞かせる。テンポの起伏が極端なのはこの人流儀、普通の人が真似て振っても曲にならないだろう。シェルヘンの夜の歌はいくつかあるが、最も安定しているのはこのスタジオ録音盤です。シェルヘン好きには食い足り無いかもしれないけど、一般人向きのセカンドチョイスには成り得るでしょう。グサグサ突き刺さるような音の衝撃に震えよ、○。モノラル。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),シェルヘン指揮TORONTO SO(MUSIC&ASRTS/KING)1965LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),シェルヘン指揮VSO(ORFEO)1950LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),◎シェルヘン指揮VSO(ASdisc)1960LIVE 10年前の演奏に比べて音質が良くなっており、ウィーン響の美質が良く聞き取れる。音塊の並列方法がディジタル的でコントラストを激しく付ける演奏解釈、発音がヒステリックでともすると無味乾燥に聞こえるシェルヘンの棒は、機械的技巧に優れプロフェッショナルにこなす有名オーケストラよりも、寧ろ情緒的でアマチュアリスティックなオーケストラによって、互いの欠点を補い合い、絶後の音世界を繰り広げる事ができる。欠陥数多いこの演奏は、総体的に言えば7番演奏記録史に燦然と輝く超一流の音楽である。シェルヘンの一番に推してもよい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),ロスバウト指揮BERLIN RSO ロスバウトの7番はかねてより評判のものだ。マーラーの狙った音色効果の鮮やかな再現が楽しい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),ロスバウト指揮SWDR SO(WERGO)S32.2.20 WERGOのロスバウト・エディションCDから。緩慢なテンポを緊密なアンサンブルで締め上げるスタンスはここでも貫かれる。冷たく透明感のある音響のために濁った劇性は薄く、純音楽的取り組みといえそうだが、振幅は大きい。しかし機械的で単調。オーケストラの音色に幅が無く面白味に欠けるのも欠点だ。1、4楽章は中仲良いが、肝心の2、3楽章が潤いに欠けており、速/遅のテンポメリハリが過大で計算的。そう聞こえてしまうところを補うのが本来オケの表現力であるべきなのだが、この演奏の大部分はオケのノリが今一つなのだ。繊細な響きの仕掛けがちゃんと計算どおりに響いてくるのは嬉しいけれども、生ぬるさのひとつもない7番というのは、クレンペラーくらいまでいっちゃわないとつまらないかもしれない。不自然な解釈もある。2楽章冒頭の異様な速さ、しかし主題表現に入ったところからの異様な遅さ。対比が必然的に聞こえない。冒頭のテンポは何だったのだろうと思ってしまう(速いのは冒頭だけなのだ)。途中の行進曲にいつもの抜群のリズム感が垣間見えるし、陶酔フレーズの壮大さもききどころではあるが、そうでないところの方がずっと多い。4楽章はすっきりした温かさに特徴がある。無論アプローチは全曲一貫しているのだが、このただでさえ生ぬるいロマンチックな楽章が、襟元正した交響的楽曲としてきちんと響いてくるのは新鮮だ。5楽章は激しいティンパニ連打に次いで、エルガー風の威厳に満ちた足取りにまた驚かされる。これも新鮮だ。「交響曲の最終楽章」として重厚壮大な表現をとっているのだろう。音色は平坦だがおだやかで気持ちの良いテンポだ。但し緩慢なテンポの上に硬質の音をディジタルに配置する手法は一長一短。この長大な楽章、冗長感は否めない。総じて面白い面もあるが機会があれば一聴を、という程度か。好みだけれども。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),○レーグナー指揮ベルリン放送交響楽団(P&C:CDーR)1993/2LIVE 震幅の大きい恣意的な解釈だが、一方なかなか決然とした締まった演奏だ。ダイナミックな解釈はクライマックスでとても雄大な波をつくり耳を惹く。テンポ設定が人工的で面白く、速い4楽章など、独特である。但しこのオケ特有というべきか醒めた音が気にならなくはない。感情移入なしに震幅が大きい、となると表現主義的なシェルヘンなどに近いものがある(まあシェルヘンはライヴでは感情移入ありまくりだが)。5楽章の堂々たる演奏は必聴。壮麗なフィナーレだ。恣意的解釈が許せる人なら。○ひとつ。1楽章の最初に録音難あり。レーグナーには3、6番があるが現在入手難。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),ギーレン指揮 H5,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),クーベリック指揮BAYERISCHEN RSO(DG),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),クーベリック指揮NYP S56.2.28,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),ショルティ指揮CSO(LONDON)S55.5,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),バルビローリ指揮BBC北SO+ハレO(BBC)S35 1楽章遅すぎる。オケも少し甘い。録音も悪い。曲がバルビ向きではない気がする…,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),ホーレンシュタイン指揮ニュー・フィル(bbc)1969/8/29LIVE 全体に速い演奏。いきなりホルンが裏返ってのけぞるが、どんどんとインテンポで進むところは(オケとはややぎくしゃくするところもあるが)恰好がいい。インテンポといっても時折ものすごいテンポ・ルバートをするし、アンサンブルの整えかたは武骨だ。5楽章はやや遅めに始まるがテンポアップしてハイスピードのインテンポを通し、そのままブラヴォーの大合唱で終了となる。それほどブラヴォーを叫ぶべき演奏とは思えないが、録音状態が決してよくない(こもった感じで音像が少々ぼやけている)ことがあってそう聞こえるだけかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」(1904-05),小澤指揮BOSTON SO S64,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),◎テンシュテット指揮ロンドン・フィル他、ヴァラディ、ユーグレン他(EMI)1991/1/27,28BBC放送live・DVD,,非常に有名な映像でプレミアもついていたLD、それでもまだ10数年しかたってない「晩年の演奏」なわけだが、LD映像がもっともっと復刻されてほしい(チェリとか)。新しい映像だから画質音質へのこだわりはほしいところだが、DVDは画質は劣るといわれているものの普通の家庭の機器ではまずまったく問題ない。演奏はスケールが大きくなってはいるが相変わらずダイナミックさが目立つ第一部(テンシュテットの精力溢れる指揮ぶりと終止後の憔悴振りの差が凄い)この曲の核心である第二部はテンシュテット自身の生涯の終焉を崇高に巨大に、密やかさからまさに歌劇的な盛り上がりを見せる結部の威容(やはりドイツの指揮者だなあという音響含め)、演奏自体極めて完成度も高く、二日の編集版とはいえこの演奏振りをプロのカメラワークと上質の音で楽しめるのは非常に贅沢である・・・いや、贅沢というスノブな言葉はこの純粋に人間の一生をえがく交響曲たる音楽に似つかわしくない。熱狂を呼ぶのではない、心の底から徐々に深い感動が沸き起こるのだ。終始わくわくして時間を忘れるたぐいの演奏ではない、この類稀なるマーラー指揮者のバーンスタインの主観的芸風から解き放たれた真の「千人」を眠い部分圧倒される部分揺り動かされる部分すべて包括したものとして聞ける。客観的演奏ではない、しかしそこには客観的な読みは確かにあるからその手の上がどのくらい広いかで現代指揮者の格は決まる。テンシュテットはきっと釈迦くらいの手の大きさなんだろう。憔悴しきっても満足げなテンシュテットの顔を見ても、これ以上望めないほどの布陣で素晴らしい会場設定のうえで行われた名演。音だけ聴いてみたがそれでも「指揮者にありがちな最晩年様式」を殆ど感じさせないダイナミズムが聞き取れるうえに、映像つき、◎にせざるをえないだろう。バンスタほどの有無を言わせないものがあるかどうかは置いておくが、千人の映像を見たい?ならこれしかない!という判断を下せる映像が来たという感じである。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),◎テンシュテット指揮ロンドン・フィルほか(emi)1986/4 堂々たる名演である。第一部の出だしからその語り口の余りの巧さに否応無く引き込まれる。その演奏は計算ずくであることは間違いないのだが、解釈が板についているというか、余りに自然に耳に入ってくることに驚嘆した。第二部がいささか冗長になりかけてはいるが、合唱陣、独唱陣のがんばりもあわせて、◎をあげたい。テンシュテットには映像もある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),○クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団他、アローヨ、ディースカウ他(audite)1970 /6/24LIVE・CD(SACD),,名演で知られた演奏のステレオ良好録音による登場である。DGの全集でも「千人」が最も素晴らしいとされてきただけに期待させるものがある。やや硬いが聴き易い。 SACD仕様だがCDとしても聴取可能。但し拍手はカットされる。突き進むような第1部は私は大好き。バイエルンもとてもマーラーにあったオケで特に金管の響きに正統的なマーラーを聴いているのだという実感を得ることができる。とにかくこの第1部は速い!後半輪をかけて速く、力技でねじ伏せるような説得力、私は感服いたしました。また合唱の扱いも巧く、オペラ経験も豊富だったクーベリックの面目躍如だ。特に少年合唱の統制が厳しくとられているのは素晴らしい。全声部が一致団結したまとまった音楽となっており、十分この楽章だけでも楽しむことができる。肝心の第2部は巧みな歌唱が主軸となる。穏やかな表現もテンポ良く進み淀み無く流れていく。このあたりはやや中庸的と言ってもいいかもしれない。まとまりはいいがこれといった押し出しの強さに欠ける。バーンスタインのドラマを求めると少し物足りないかも。クーベリックのライヴにおけるエキセントリックさというのはこの演奏においては少しも立ってこないが、むしろそのほうが正解だと思う。クライマックスももっと壮大に天国的にしてほしかったが、クーベリックの解釈はこうなのかもしれない。○。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),クーベリック指揮BAYERISCHEN RSO、ディースカウ(DG)昔から評判の高い録音なのだが、印象薄し。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),○カイルベルト指揮ウィーン交響楽団、ヴンダーリッヒ、レッスル・マイダン、プライ、エデルマン、ムツリ、シェイレル、リップ、ボーズ(KARNA:CD-R)1960/6/19ムジークフェラインlive,,久しぶりに千人を聞いたが、粗末な録音でライヴの精度とはいえ、なんて美しい曲なのかと聞き惚れた。演奏のよさもさることながら、和声の心地よさ、各声部の絶妙な絡み合い、何より「歌」の素晴らしさ。長ったらしいと思っていた曲だが、この82分を要する演奏ですら短く感じた。むろん演奏にもよるのでしょう。,,これはエアチェックものでモノラルでかなり雑音が耳障りだし音は小さい。冒頭など撚れている。しかしリズミカルで生気に満ち、特にソリストの歌唱は全て力強く美しい。ひたすら颯爽と流麗な「歌」の歌い継ぎで飽きずにえんえんと聞き続けることができる。ただ、マーラーの旋律性の美しさは堪能できるが、マーラーの暗さは無い。「大地の歌」へつながらない。これはたぶん録音的にも大きくいれすぎた歌唱による感想ではある。オケの細部まで音符の明瞭な発音はカイルベルトの持ち味か。とにかく、よくこんな名演が残っていた。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),マルティノン指揮ハーグ・フィル、ユトレヒト交響楽団、フォーレイ他(DA他:CD-R)1975音楽祭live,,マルティノンは合唱の扱いが余り上手くないようだ。あるいは合唱指揮との連携の問題なのかもしれない。とにかく合唱が出てくると途端に精彩を失う。顕著なのは第二部後半の児童合唱が完全にズレて「極めて精緻なポリリズム」になっているところだが(この一点、アイヴズ的で面白かったが逆にコノ一点のせいで私は○以上つけられないという判断をした)。オケコントロールやソリストとの連携は完璧なのに、冒頭のヴェニ以下の合唱にしても矢鱈とメロウでマルティノンらしい鋭さがちっともない。録音(録音条件含む)のせいであることも否定できないが、最初がいきなりメロウつまりアバウトな発声だと千人は無茶コケる。柔らかく聴きやすい音であることは認めるが、また(配置上仕方ないのかもしれないけれども)舞台が遠い。ステレオだが放送エアチェックゆえ、特に前半テープ撚れ(左右のアンバランス)や途切れが激しいせいもあり全般にぼんやりした聴感になってしまうところが少なからずある。欠点ばかり書いてもしょうがないので長所、長い全曲通して一貫して明るくて軽い。とにかく明るすぎるほど「白い演奏」で勢いよく通しているのだ。見通しがいいといえばいい。オケにかんしては水際立った発音や絡み表現の明快さが素晴らしい。しっとりした情感の表現も暗くなりすぎずに天国的な軽やかさを保つ(いや、この長さをそれだけで通すことに私は余り賛成できないのだが)。スケール感も十全である。しかしやっぱり・・・合唱はねえ・・・最後もイマイチ盛り上がらない感じがした。客は喜んでいるようだが。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),○ラインスドルフ指揮クリーヴランド管弦楽団他、チョーカシアン他(DA:CD-R)1976live,,これが不思議な演奏で、後になればなるほどふつふつと感動が湧き上がってくる。第一部はやけに軽くスピーディで、この指揮者らしい即物的な職人性が際立って、マーラーらしくない、詰まらない演奏に聞こえるのだが、けして良くは無いステレオ・エアチェック録音のうえでも管弦楽・合唱そしてソリストの実に計算された緻密なアンサンブルが聞こえ、対位的構造の明快なさばきぶりに加えて、第一部も後半ではこの指揮者のルーツを思わせるリズミカルな処理の巧さが光ってくる。第一部終盤でもインテンポで軽い響きは変わらないがただ強いだけではない、意気を煽るような胸のすくリズムが高揚を呼び、既に大喝采が入る。もっと聴き所は第二部に一杯あるが、いちいち挙げていたらきりがない。とにかく声部間のバランスの整え方や、スコアの透けて見えるような「現代的な」処理ぶりが巧く(ソリスト含め速めのインテンポを基本としているからできたのかもしれないが)、そういった土壌の上にドラマが「自ずと」展開されてゆく様は、セルやカラヤンに似た美学の存在を感じる。だが決定的に違うのは「軽快さ」と「リズム処理の巧さ」。マーラー的な響きが徐々に引き出されていき、大地の歌を聴いているような恍惚のままにスピーディな終演を迎えると間髪入れずのブラヴォーの渦、これはちょっと異常なくらい長く続く。確かに名演だ。ただ、第一部にマーラーらしさが希薄かなあ、という点も含め○にとどめておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),○シェルヘン指揮VSO(TAHRA)S26 音の悪さはこの50〜51チクルス・ライヴの特徴。平板で分離が悪い音。ものすごく集中力の高い表現主義のゴンゲのような演奏で、歌手も粒ぞろいなのはわかるが、…何しろ音が…LPのほうが良い音だ!,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906)<第一部>,◎シェルヘン指揮BERLIN SHUTATTUKAPERE(TAHRA)S26.8.8 ウィーン交響楽団の全曲ライヴとは音が段違いで、しかも超名演だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),◎ストコフスキ指揮NYP、イーンド、リプトン(HUNT他)S25.4.6・CD 8番の録音を残した著名指揮者の中で唯一ミュンヒェン初演に立ち会ったストコフスキ。このとてつもなく古いライヴの無茶な音の中から立ち昇る香気は何だろう。この音で初めて8番の素晴らしさに気付いたのだが、上手く説明できない。わかりやすさ、ニューヨークの音色の艶、何より歌手陣の(オールドスタイルによる)巧さが光っている。第2部をこれだけ聞かせるのは並ではない。長大ゆえかなり散漫なこの楽章を…,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),◎バーンスタイン指揮VPO、プライス S50.8 私はバーンスタインを好まない。しかし、この演奏は完全だ。第2部の結部で心を打たれない者はいまい。音の良さも手伝っている。もしバーンスタインが、第2チクルスの中で8番の再録音を果たせていたら、どんなに深く切り込んだ演奏を聞かせてくれたのだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),○フリプセ指揮ロッテルダム・フィル(SCRIBENDUM)1954/7/3LIVE・CD 普通だ。マーラー指揮者らしい板についた表現含め、普通だ。80分余りの長丁場をさほど苦痛無しに聞けることからして凡庸ではないのだが、ちょっと印象が軽いのだ。響きが軽い。旋律重視しすぎる。というとバーンスタインを想起する向きもあるかもしれないが、全然違う。恣意性は極力抑えられており、マーラーよりむしろそれ以前のロマン派作曲家の交響曲を解釈しているような感じがする。合唱の扱いも巧すぎて逆にひっかかりがない。音響操作の巧みさを感じるが、巧みすぎるのだ。すんなり聴き遂げる力がある演奏として○ひとつつけておくけれども、6番の名演よりは下かも。ちなみにロッテルダム・フィルは巧い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),○ホーレンシュタイン指揮BBC SO(ARLECCHINO/BBC)S34 巨大にして峻厳、後期ホーレンシュタインの正統的性向が現れた堂々たる演奏。第一部は手堅いものの、第二部長大な音楽を理知的手腕によりじりじりグイグイとクライマックスへ持っていく造形力は括目モノ。潔癖崇高な音楽作りはBBC交響楽団という協力者を得て見事な結実を見ている。歌唱陣(特に女声)も隅々までニュアンスに富み素晴らしい。一部悠々たるテンポに管弦楽がほころぶ場面や、少年合唱がばらけてしまうような部分もみられるが、この時代のライヴとしてはまず最高の部類だ。何とステレオ。現在はBBC正規盤で出ている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),○マゼール指揮VPO(SONY)マゼールはかねがねクレンペラーに似ていると思っていたが、この曲の、クレンペラーに替わる名盤として刻まれよう。ウィーン・フィルの8番はバーンスタインが名盤だが、対極の表現である。心に深く斬り込んでくるギラリと光る刀のような音だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),○ミトロプーロス指揮VPO、ヴェスト、エデルマン(いろいろ)S35.8.28 ストコフスキ盤と並び、古いライヴにも関わらず解釈の見事さと演奏陣の充実で非常に聞きごたえのある音に仕上がっている。一気に聞かせる前進力と、オケの音色が魅力。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),インバル指揮FRANKFURT RSO S61.10.14-18 随分前の話しになるが、この大曲が1枚のCDに収められているというだけで購入したことを懐かしく思い出す。シノーポリ、モリスと同傾向だが、適度なダイナミズムをもって、すっきりと纏めている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),ウィン・モリス指揮SINFONICA OF LONDON これはモリスらしく、美に徹した演奏。第2部がややダレ気味。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),ギーレン指揮FRANKFURT OO S56.8.28つめたい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),シノーポリ指揮PHILHARMONIA O.(放送ライヴ)(日本でやったライヴの評です。正式録音が出ているかどうか調べてないので…すいません)何故か印象に残らない。とにかく印象薄かった(和製合唱陣の弱さばかり目立った)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),ショルティ指揮CSO、ハーパー、ポップ、コロ(LONDON)S46 歌が充実。ショルティのマーラーは5から7、9番の純器楽交響曲がすばらしい(少しも贅肉の無い、9番などはクレンペラーに接近した鮮新なアプローチをみせる)が、この音もそれなりに楽しめる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),ノイマン指揮CZECK PHIL. S57 マーラーを良く知らない頃、よく聞いていたのはノイマンだった。とにかくわかりやすい。この録音は合唱陣の充実が特徴的だ。反面チェコ・フィルが弱い。個人的には愛着がある一枚。ボヘミアのマーラーという意味でも興味深かろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),ブーレーズ指揮BBC SO マゼール盤に似る。オケのせいか、やや堅い。オケの音色に魅力が無いのは仕方ないか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906),ベルティーニ指揮KORN RSO(放送ライヴ)H3(以下は放送録音の評です。CD化しているかどうかわかりませんが、スタジオでもアプローチにそう違いは無いと思うので勘弁してください)「大地」とこの曲は1991年の日本チクルスでも好評不評が別れた。「よりオケの充実したモリスの演奏」とでも言うべき、余りにすっきりしすぎたものとなっているが、ベルティーニ特有の硬質で「男らしい」音が、熱い部分も冷ましてしまっているようである。その意味ではギーレンの録音にも同様の感がある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906)<第一部>,オーマンディ指揮ハリウッドボウル管弦楽団(BIDDULPH)1948/7/29放送LIVE・CD 復活したビダルフの放ったモノラル録音集成2枚組に収録。既出のものばかりだが、この演奏は初出とのこと。音がそうとうに悪く、ストコフスキの有名なライヴ録音を思い出したがあれより酷い。なにしろ合唱や独唱が入ると管弦楽が潰れてまったく聞こえなくなってしまう。管弦楽は伴奏で、あくまで声を拾うことが重要と考えられていた時代のものなら仕方ないが、戦後アメリカという時代を考えると唸ってしまう。颯爽とインテンポを貫く即物的スタイルは時代柄新しい芸風と言うべきだろう。しかしライヴならではというか、音楽がどんどん流れていってしまうところがあり、ハッキリ言ってぐだぐだなところも無きにしもあらず。非常にノり辛い。歌を中心に聞く人ならいいが、私のようにあくまで歌も管弦楽のうちと考える者にとっては、余りに録音が悪いこととあいまってどうも好きになれない。オーマンディの明晰で力感のある指揮ぶりは想像力を逞しくすれば聞き取れるので、否定的評価は避けいちおう無印としておく。オーマンディ好きなら。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○セバスティアン指揮ORTF、リタ・ゴール(Msp)ケネス・マク・ドナルド(T)(INA,Le Chant Du Monde,Harmonia Mundi/ina配信)1969ブザンソン音楽祭live (10/8放送),,ステレオだが録音は少し雑味があると感じるかもしれない。セバスチャンはバルトークなど知られるが例えばアンチェルのショスタコ7番のような醒めたテンションを持っており、しかし曲が曲だけに客観的な面も感じさせる。結果として速くインテンポ気味ではあるが、オーソドックスな表現といったところか。マーラーは10番1楽章のみがよく知られているがあれともちょっと違っているのは、恐らく歌曲伴奏という意識があるからなのかも。ORTFもボリュームのある、それでいて精度の高い音楽を提示してはいるが、特筆できるような色は出してきていない。独唱者に関してはともに正直それほど魅力的なマーラー歌いとは感じない。特にテノールは彫りが浅く表層的で、痩せぎすの若者のような歌になっている。リタ・ゴールはマーラーと意識して歌っている感じがしない。「告別」も無難という感じはするが、詠嘆の表現も余り粘ることが無く、セバスティアンの即物性とある意味合致してはいるのだが、何か違和感がある。全般普通に聴けるライヴではあるものの、マーラー指揮者のそれを期待するのはお門違いか。,
(後補)ina.frから配信された音源(10/8放送)と同じと思われる。
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マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○ワルター指揮VPO、フェリアー(Msp)パツァーク(tenor)(DECCA)1952/5,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○ワルター指揮VPO、フェリアー(Msp)パツァーク(tenor)(TAHRA/harmonia mundi)1952/5/17live 驚愕の盤である。私はこの存在すら知らなかった。全く同じメンツによるスタジオ録音(decca)はかねてより名盤で知られたものだが、これはほぼ同時期の実況録音である。録音状態は余り良いとはいえない(とくに前半楽章)。また、歌唱が大きすぎて管弦楽がやや小さく聞こえるのもマイナス要因だ。しかしここにはスタジオ録音のおすまし顔ではない、生の演奏家たちの呼吸が感じられる。パツァークの詠唱はやや開放的にすぎるように感じたが、フェリアーのとくに終楽章「告別」の詠唱は絶唱といってもいいくらいに素晴らしい。最後長調に転調したところのニュアンス表現の繊細さには脱帽。一方オケもライブならではのとちりやばらけ等もなく、スタジオ盤以上に緊張感をもって演奏している。表現がじつに板についていて、これほど情熱的であるにも関わらず、全く無理が無い。とにかく、「大地」好きなら聞いてみて損はあるまい。ちなみに高価なうえ不良品続発で悪名高いANDANTEの演奏はライヴではなくスタジオ録音の音源に拍手や雑音を挿入した偽演であるそうだ。(下記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),ワルター指揮VPO、フェリアー(Msp)パツァーク(tenor)(ANDaNTE)1952/5/17live(?)これをここに切り出して書いたのは、某レコード店店員への抗議の意味がある。アンダンテで出たこの「大地の歌」は、最初デッカの有名なスタジオ録音に拍手を重ねただけの偽演という説が出て、物議をかもした。しかしそのレコード店員によると、アンダンテの版元に問い合わせた所、あくまで17日のライヴで初出だと言い張っていたらしい。しかし17日ライヴといえば既にターラから出ている(前記)。それと同じなのではないか、と店員に問うたところ、パツァークがミスっているところがあり、ターラ盤とはあきらかに違うという(ターラの日付誤りということなのか?)。寧ろデッカ録音に似ているので前述のような説が出たのだ、と。その店員を信じ、二度と買うもんかと思っていた高価なアンダンテの当盤を買ってしまったわけである。しかし、うちに帰って比較聴取してみたところ、はっきりいって、まったく同じなのである。音質がよくなっていればまだしも、ほとんど差がない。店員のいう事を信じて、ということでここでは別項にあげておくが、私の耳が正しければ、これはまったくの同じ演奏である。それにしてもレコード店員はレコード評論家のようにあてにならないものだ。同盤には復活と4番が併録されているが、どちらも(CBS、DG)既出のものである。初出と言い切れるのは、4番の録音と同時に録音された数曲の歌曲で、歌唱は4番と同じギューデンだ。これだけがせめてもの救いだった。でも、あー、腹が立つ・・・後記:某雑誌で、この盤はデッカ盤に拍手等を挿入したものだと断言してあった。どちらでもあんまり変わらないからどっちでもいいのだが、このレーベル、信用ガタ落ち。ちなみにこの盤、一枚他のセットのCDが間違って入っていた。サイアク。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○ワルター指揮VPO、フェリアー(Msp)パツァーク(tenor)(andromedia)1952/5/18(?)live・CD,,この音源はandanteが偽者を出したあとtahraが正規に復刻したものを何度も焼きなおしていろんなマイナーレーベルが出していた、その一番最近の復刻で音がいいというフレコミだったが石丸の店員は「いやー・・・かわんないす」といっていた。それ以前にレーベル表記上の収録月日が一日ずれているため、資料として入手。ワルターは元々リアルな肌触りの生々しいマーラーをやるけど(作曲家じきじきの委託初演者とはいえ同時代者から見ても「ユダヤ的にすぎる」と言われていた)、透徹した「大地の歌」という楽曲ではとくに違和感を感じることも多い。このEU盤は最近の廉価リマスター盤の他聞に漏れず、輪郭のきつい骨ばったのリマスタリングで、もっとやわらかい音がほしいと思った。でもたぶん普通の人は聞きやすいと思うだろう。大地の歌に浸るには、やっぱ新しい録音にかぎるんですが。イマかなり厭世的な気分なので、ドイツ語による漢詩表現が薄幸の電話交換手キャサリン・フェリアーの万感籠もった声と、ウィーン流儀の弦楽器のアクの強いフレージングとあいまって奇怪な中宇の気分を盛り立てられる。穏やかな気分で消え入る死の世界なのに、この生命力は・・・とかおもってしまうけど、ワルターもけしてこのあと長くないんだよなあ。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,,中間楽章でのパツァークの安定した、でも崩した歌唱にも傾聴。個人的にdecca録音にむしろ似てるきもするけど。(某SNS日記より転載),-----,,,-----,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○ワルター指揮VPO、トルボルク(A)クルマン(T)(PEARL他)1936/5/24・CD トルボルク(イ)の歌唱に尽きるだろう。特に終楽章「告別」の歌唱は絶唱と言ってよく、生臭さもドライさも無く、ただここには歌がある。私の盤が劣化してしまい最後が雑音まみれなのでなんとも後味が悪かったが、それでもそこに至る過程でのいい意味で安定し曲調に沿った真摯な歌唱ぶりが耳を傾けさせるに十分であった。録音が悪いためオケの美質はあまり際立ってこないが、後年のワルターとは違う覇気に満ちたところが聞かれる。颯爽としたというかとにかくドライで、この人が初演を託されたのか・・・と少し不思議な心持ちになるが、案外そういうスタイルがマーラーの想定していたものなのかもしれない。となるとこの曲はやっぱり連作歌曲集と考えるのが正しいのか?・・・などとごにょごにょ考えながらもいつのまにか聴きとおしてしまう演奏ではあります。正直ワルターの大地の中では余りお勧め度は高くないが、今出ている盤だともう少しましな音で聞けるかもしれないという希望込みで○をつけておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09)〜X抜粋、Y抜粋,○ワルター指揮VPO、ピアース(T)フェリアー(Ms)(PEARL)1947/9/11放送live・CD,,SPエアチェックの板起こしらしく、両楽章冒頭から四分前後で切れている。ワルターの、後年のバーンスタインを思わせる独特の伸縮するロマンチシズムがオケの身体的共感により音楽に昇華している様子がとくに顕著で、全曲聴きたかったが仕方ない。ピアースの晴朗な歌唱が印象的だが、このCD自体はフェリアの小品集。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09)〜U、V、W、X,○ワルター指揮VPO、フェリアー(Msp)パツァーク(T)(VPR)1949/8/21ザルツブルグ音楽祭live・CD,,モーツァルトの40番と一緒に演奏された抜粋、即ち歌曲として演奏されたもの。だから録音も声だけが生々しくオケはやや音が遠くて悪い。若々しく張りのあるパツァークの声が素晴らしいし、インタビューも収録されているフェリアも闊達な歌と喋りでのちの不幸な死を微塵も感じさせない。まるで電話交換手のように闊達に喋る。歌を味わうものとして特筆できる、両者雄弁さを発揮した録音で、交響曲としては肝心の両端楽章が抜けているのだから土台評価できない。歌好きなら。依然溌剌としたワルターのライヴ芸風が楽しめる側面もあるが、とにかく時代がらまあまあの音質できける自主制作盤として、マニアなら。確かに交響曲じゃないものとしてワルターの大地の歌が聴けるというのは面白くはある。やはりベツモノなのだ、と各曲に明確な性格付けがなされ統一性を持たせようとしていないところに感じることが出来る。,-----,,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),◎ワルター指揮NYP、フォレスター、ルイス(M&A他)1960/4/16ライヴ・CD 2006年再発。ワルターの音楽は「呼吸」している。吸っては吐き、吸っては吐く。時に深く、時に息せき切って、音楽は進む。これは恐らく初演者最良の「大地」のライヴ記録だ。オペラティックと評さるルイスの「酔えるもの」は心の深層に轟く諦めと宣告の歌だ。つづく歌もまた荒野をうつろう放浪者の気分に満ちている。個人的にフォレスターの「告別」がとても気に入っている。抑制の効いたくぐもった声が、なぐさめの言葉となり語りかけてくる。幼き頃に聴いた遠い母の子守歌。時折管弦楽によって表現される抑えられない複雑な感情の渦。ハープとオーボエの響きは、遠い牧場の声となる。これはサウンドスケープだ。アイヴズの思い描いた世界に先行し、より高度に純化された俗謡の世界。想い出はやがて旋回し更に遠く溯っていく。暗い苦悩と幻想はいつしか記憶の奥底に沈殿した純粋な生への憧れを謡う。天上の聖母の声が、途切れ途切れのヴァイオリンと木管の僅かにたゆたう霧の中で、やがて春を迎え芽生える草ぐさを夢見て横たわる身体を包み込む。大地に横たわる、わたしは死ぬのである。惑いは低く不吉なフレーズによって復活する。痛む足を引き摺り、底の無い炭坑へ向かう骸骨の列に加わる悪夢に身が竦む。しかし・・・穴の底から最後に現れるのは美しく輝く「永遠」だ。永遠の生という「死」を、むかえ入れる準備は出来た。母なる大地の高らかに謡う永遠の歌は、ハープの調べにのって、風のように私を運び、あの高く澄んだ空の彼方へ連れ去ってゆく。遠く、見えなくなるまで。秀作。マーラー畢生の作品、「告別」。これが私の決定盤だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○ワルター指揮NYP、エレーナ・ニコライ(Msp)スヴァンホルム(T)(NOTES他)1953ニューヨークliveCD これは何度かCDが出ていたと思うが、私の手元の盤はかなり質が悪く、レコード盤からモノラルで録音し直されたものと思われる。だがそのせいか狭い音場にハチキレンばかりの音楽がぐわっと飛び出してくるような迫力があり、寧ろ聴き易い(個人的には余りに聴き易いので◎にしたいくらいだ)。演奏は信じられないほど瑕疵の無いもので、歌手二人にしてもどこにもマイナス点が見付からない。しいて言えば中間楽章で間違えたらしき拍手がパラパラ入りかけているところくらいか。ワルターの解釈はまるでこの曲がワルターのために書かれたかのように板についており、この盤に限らないが、たぶん一回聞くと他が聞けなくなるくらい迫真性が有る。中間楽章の速いパッセージで歌手がテンポに追い付いていけず音程を崩したりするなどワルター盤であっても瑕疵のある録音はあるが、この演奏ではそういう危うさが全く無いから大した物である。「告別」にはもっと陰影があってもいい気がするがその幸福感はワルターの本質からくるものであり、諦念も至福に変えるワルターならではのものか。最後のエーヴィッヒまで、固唾を飲んで聴いてしまう演奏です。いい演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),ワルター指揮NYP、ミラー、ヘフリガー S35.4.18/25,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○クレンペラー指揮ウィーン交響楽団,デルモタ、カヴァルティ(tuxedoほか)1957 私にとって愛着のある盤だ。ウィーン交響楽団の薄いが味のある弦・・・とくにヴァイオリンの響きに魅了される。クレンペラーといえば何といってもフィルハーモニア盤だろうが、それより早く録音されたこの盤は、クレンペラーが速いインテンポをとり円やかさの欠片も無い指揮ぶりを堪能できる。没入する盤ではないが、誰しも感心するところがあるだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○クレンペラー指揮ハンガリー放送管弦楽団、レスラー(T)シャーンドル(A)(archiphon:CD-R/MEMORIES)1948/11/2ブダペスト放送live・CD,,2017/1に他の録音とまとめてMEMORIESより廉価CD化。同盤はこの音源のみがCDフォーマット初出(私個人の記録上歌曲の歌手情報が混乱しているがMEMORIES盤については販売代理店に特記がないので確実に既出と思われる)。大地の歌の表現者としてはマーラー直系のワルターとともに双璧をなしたクレンペラーの驚愕のライヴ記録である。このときの放送スピーチ内容がシュトンポア編野口剛夫訳「クレンペラー指揮者の本懐」春秋社1998に収録されている。推して知るべしな音質ではあるがリマスター状態はよい。録音エアチェックなのだろう、歌手がマイクを通したように生々しく捉えられオケはやや引きで聞こえるが、前半楽章はクレンペラーの気合の掛け声と劈くような切り裂くような響きが圧倒する。気になるのはテノールのハイの出なさで、音痴で非力と言ったほうがいいくらい(それでもこれ見よがしにオペラティックな表現をとったりするのがまた。。)、もう1楽章から別の意味で酔ってしまうような感じだが、ソプラノはパワーも表現力も中堅どころマーラー歌いのレベルは十分に果たしている。そして何よりクレンペラーだがまだ戦前ベルリン時代の即物的な表現様式を高速インテンポという方法で維持している。しかしオケが素晴らしく感傷的である。クレンペラーが指示しているのだろうが(ライヴですし)大づかみには即物主義にもかかわらずよくよく聞き込むと実に細かい繊細な表情が諸所に付けられており、微妙なテンポの揺れを最大限に活かし音楽的に、じつに音楽的に、ワルターすら陳腐に落ちるとしたクレンペラーの確信的な表現が、落涙すら辞さないほどに絶妙の煽り方をして身を惹きつける、とくにやはり、「告別」だ。堅牢とした構造を最後は美しく、号泣にも落ちず昇華もせず、ただ、ひたすらに美しい。それが二次的に「悲しい」のである。速度についていけない部分もあるにせよオケは立派にマーラーオケとしての役割を果たしている(多分にオケ自身がノせられ過ぎて勝手にソリスティックな細かな動きを突っ込んでしまった要素が強いが)。クレンペラーの過酷なトレーニングもあったのだろう。しかし・・・ほんとに素晴らしい記録が出てきたものである。オケにはシューリヒトの旧いACO録音を思わせる生気がやどり、指揮にはさすがにライヴなこともありマーラーにどうしても共感せざるをえない部分も残しつつも、慄然とした「これはクレンペラーである」という筋の通った表現、これらの総合が実にバランスがとれている。このすぐのち50年代というとVSOとの不遇時代だが、VSOの録音が単なるクレンペラーだとすれば、これは「クレンペラーとマーラーの対話」である。ちょっとしばし、考え、沈んでしまった。こんな演奏に出会うことは滅多に無い。クレンペラーは、例え奇人で厭な大男だったとしても、稀有の芸術家であった。不遇時代とて例外ではない。これほどの指揮者に、今後我々は出会うことができるのであろうか?歌唱の不調と録音の不備でやむなく○にするが、告別一曲だけで私は◎をつけたく思う。他の楽章も素晴らしいのだが。。クレンペラーが告別で鼻歌、なんてのを聴くことができるとは。「永遠に」主題の最初の出現のときのマンドリンがなんとも涼しげで憂いがあって・・・,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○クリップス指揮VSO、ヴンダーリヒ(T)ディースカウ(B)(DG)1964/6/14live・CD,,最近のDGはこういう録音状態の悪いものも出すのだなあ。また、男二人大地というのも、とくに告別が男というのは興を削ぐなあ。その二つがネックではあるものの、演奏自体はアグレッシブで、リズミカルな表現ではこれがウィーン響かというような統制のとれたさまが愉快であり、クリップスとの相性良さを感じさせる。それが度を越して前のめり過ぎるのはご愛敬。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○シェイナ指揮プラハ国立歌劇場管弦楽団、クラソワ(A)ブラシュト(T)(aulide:cd-r)1960/5/29live,,雄弁で感情豊かなソリストが聞きものの演奏。技巧的にも安定し、チェコ語だからこそ板についた感情を出せているのかもしれない。ワルター壮年期張りの指揮にアマチュアレベルのオケ(技術的にばらけすぎである)、しかし内燃率が高く表出意欲は満点。力強く突き進み、ボリュームある音は好きな向きには好ましいものだろう。たんに下手くそと聞くか30年代頃に遡ったような珍しい音源ととるか、録音が戦時中並に悪いのもあってけしてオススメはしない。客席反応は静か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団、ソウクポヴァ(A)ゴールドベルク(T)(WEITBLICK)1977/4LIVE・CD,,最初はどうにも客観性が気になる。巨大な四角い枠組みだけの建物を見ているような、鉄骨の間に風の通るような1楽章。オケもやや不安定でブラス陣の音程が低いように感じる。弦はしかし装飾音にアタックをつけびしっと揃えるところがいかにもケーゲル流でかっこいい。丁寧さの美質は2のような楽章にあらわれる。くぐもった音楽のアク抜きがなされ聴きやすい。抑制の美質は3にもあらわれる。弦がとにかく前に出ないが、しっかり下地を組んでいる。4では緩徐部で歌と共にかなり無茶なテンポ・ルバートが入るが、いかにもケーゲルらしく凄い。このような沈潜は巧いがプレストのドライヴは抑えられるかんじだ。5もヴァイオリンの下降装飾音のアタックが強烈だがテンポ的には落ち着き響きも抑制的、だからこそ室内楽的アンサンブルがしっかり楽しめる。歌はじつにそつない。告別も調子は同じで心象的な響きが印象にのこる。明るいが沈む光景に歌が載る。後期マーラー的な特殊な音響を鋭く読取り、異常にはりつめた空気の中に点描させる。とつとつとしたハープの響きがじつにいい。雰囲気的なところから自ずと感傷の沸き上がるような、ワルターとは反対の方法で同じ域にたっしたような演奏である。歌とオケのバランスも理想的。長長しいが、浸りきることができる。,,後半になるにつれ起伏が板につき素晴らしくなる演奏。たしかに他には聴けないたぐいのものだろう。録音もけしてよくはないが実像であろうものに非常に近づいているのではないか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○ザンデルリンク指揮レニングラード・フィル、バラノワ(SP)ドウェンマン(T)(SELECTMEDIA)1958LIVE・CD,,廉価盤で質も悪いがこれが存外いい演奏なのだ。たっぷり歌うザンデルリンクに輝かしいレニフィルの耽美的表現、ロシア語ではあるがじつに堂に入った歌唱陣、とくに告別の最後の詠嘆がいい。自然なマーラーとなっているのがロシアらしからぬ見事なプロフェッショナルぶりといえ、このオケが黄金期を迎えていたことをつたえる。ほかのロシアオケとはレベルが違う、ソロ管の音が違う、ライヴなりの乱れはあるがそれでも弦の音はまぎれもないあのレニフィルのものだ。ザンデルリンクがこういう余裕のある、過度に庶民的にならない表現ができたというのにも感銘。録音は残響過多でやや悪い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○ザンデルリンク指揮ロス・フィル、ネス(A)ジョーンズ(T)(LANNE:CD-R)1989/3/12ドロシー・チャンドラー・パヴィリオンlive,,聴衆はやけに沸くのだが、演奏はゆったりした法悦的なテンポよりもフォームが崩れず熱しない音楽、そつない整え方が気になる。ザンデルリンク壮年期にみられた情緒もなく、このロマンティックなオケをもってしても伝わってこない。録音がぼんやりとしステレオではあるが悪いせいもあるだろう。歌唱はオーソドックスに巧く、告別の末端にいたるまで楽しめるのだが・・・そういえばオケの精度も妙に高い。ちょっと緊張し過ぎた演奏ということなのか。耽溺するでもなく、すっと透明感を売るでもなく、以前に流行った客観スタイルを保ちつつ、多少ロマンティックにやったふう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○クレツキ指揮ウィーン交響楽団、ドミンガス(A)スヴァンホルム(T)(ORFEO)1954/11/12ウィーンlive・CD,,1楽章のスヴァンホルムのオペラティックな大仰な歌唱にはちょっと首を傾げてしまう箇所もあるが(やりすぎだ)それでなくてもこの演奏はややデフォルメに過ぎる部分があり、VSO本来のちょっとグダグダに唄ってしまう部分とあいまって聴きづらい感じもある。クレツキのイメージとはやや離れたものになっている。借りてきた猫がさかっているような演奏(ひどい言い方)。ライヴなのでこうなるのはしょうがないか。○。スヴァンホルムってこんな歌唱をする人だったかなあ。。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),クレツキ指揮ORTF、ヘフリガー(T)メリマン(Msp)(ina配信)1964/5/7放送live,,比較的良好なステレオ。マーラー歌いとしてヨッフム盤では同じタッグで取り組んだヘフリガーとメリマンの余裕安定の歌唱に対し、クレツキは交響的でダイナミックな指揮でオケを盛り上げる。これは交響曲的演奏であり連作歌曲集的な繋ぎ合わせ感、あくまでバックオケとしての薄い響きのアンサンブルという観点はない。ちょっと音色が一本調子で中間楽章のニュアンス(アイロニカルな色とでも言おう)に欠けるところがあり、音楽の起伏のわりにすんなり聞けてしまう点は長大な告別でも変わらない。静かな終わり方の曲なのでブラヴォも後から少しずつ増える感じだが、これらがあくまでソリストに向けてのものであることはかんじとれ、クレツキもこの弱いオケをよく引っ張ったのに、と思うところもある。マーラーをやるにしてはやはりちょっと弱い、音色的にも。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),クレツキ指揮PHILHARMONIA O. ディツキ、ディースカウ S34 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○ライナー指揮シカゴ交響楽団、フォレスター(CA)ルイス(T)(RCA)1959・CD,,SACDで復刻されているが、元の録音がどうしても旧く、前半楽章では所々に旧いなりの瑕疵が認められる。だがこの歌唱陣は反則だ。とくにライナーの珍しく心象的なものの入り込みすら感じさせる深い呼吸の中に暗く大きなマーラー世界を描き出し秀逸な「告別」の中で、囁くような、そくっと染み入るような非常に繊細なフォレスターの歌唱がもう素晴らしすぎる。これこそ絶唱というものだ。それは絶叫ではない。じつに自然に、じつに静かに、じつに美しく、注意深いヴィブラートのさまはびろうどのように滑らかで柔らかくしっとりと心に染み入る。そもそもライナーはわりとシェルヘン的なマーラーというか、ややぎくしゃくした軋みを生じる彫刻を伴った、かなり解釈の感情的なマーラーをやっているが、いっぽうで醒めた感覚が聴取者と一定の距離を保つような感じもあり、各楽章のコントラストも余りはっきりしていないせいか歌唱は素晴らしく演奏は器用ではあるもののそれほど印象に残りにくい。けっこう過激なのにそう聞こえない悲しさがあるのである。だがやっぱり「告別」となると曲が線的で解釈の綾が目立ちやすく、歌謡に支配された室内楽的なアンサンブルなだけにワルター的なドライヴを余儀なくされるところもある。表面上は冷徹なライナーもワルターと化してしまう、そういう曲なのである。とにかくまあ、演奏も立派だが、それ以上にフォレスターの静かな絶唱に傾聴。○。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○ライナー指揮シカゴ交響楽団、ルートヴィヒ(Msp)、ルイス(T)(DA:CD-R/archipel)1958/2/20live・CD,,呼吸も大きく音楽のボリュームも変化に富んでいるのになぜか冷めて客観的なスマートさを感じさせるところがデメリットな指揮者にオケだが、1楽章などまさにそのとおりで魅力がない。録音がやや古いせいもあるが、やろうとしているドラマがドラマに聞こえない。2楽章あたりもほとんど印象に残らない。3楽章からしばらくの牧歌的な楽章においてはスピード感と即物的なからっとした表現が曲の細かい動きをきちんと聞かせて爽やかに楽しい。歌唱についてはこの音では何とも言えないが共にそれほど好調というわけでもなく力強さを感じない。可もなく不可もない、染み入ってこない様子ではあるが技術的にはすぐれていることはわかる。終楽章の告別にかんしていえば、この人は緩徐楽章において活きる人なんだなあと思わせる。とくに最後の「永遠に」あたりの法悦的な呼吸の深い表現は意表を衝かれるといえば変だが非常に感動的で、音響的にもマンドリンの奇矯に世俗的な響きまでしっかりと取り込まれ聞こえてくるのがまた、マーラーの意図をうつして秀逸である。歌唱はやはりそれほど強く迫るものはないのだが交響曲の中の声部として機能させているようにもとれる。この告別は聴く価値はある。それだけのために○。archipelでCD化したらしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○セル指揮クリーヴランド管弦楽団、フォレスター(M-SP)ルイス(T)(LIVING STAGE/HUNT/DA他)1967/4/21ベルリンlive・CD,ステレオ(HUNTはモノラルで出ていた)だがLIVINGSTAGEの廉価盤では大幅に残響が加えられている。しかしこの人の演奏は音が悪いと駄目だ。擬似ステレオ的な作為は演奏の本来の姿をよく伝えられるレベルにまで音楽を飾ってくれており、評価できる(盤質は悪く電子雑音が混ざる場合もあるが)。歌唱はワルターとの演奏でも定評あるとても正統で素晴らしいもので、とくにフォレスターの「告別」は絶品である。抑制のきいた詠嘆の表現には感嘆を禁じえない。セルの音を磨きボリュームをもって引き締めた純音楽的態度は音楽の迫力となって迫り、「高精度というもののの凄み」が感じられる。アンサンブルはめいめいがただがなればいいものではない、全員が厳しく律せられ一方向にまとめられることで音量がそれほど出なくても確実に強いインパクトを与えることができる。この演奏を再評価したい。録音は◎に値しないので○にしておくが、いい録音であれば◎にできたかもしれない。ライヴとは思えない精度だがライヴだからこその迫真味がいい。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),セル指揮クリーヴランド管弦楽団、ベイカー(Msp)ルイス(T)(cult of classical music)1970/2/5live,,これが素晴らしい。ステレオで環境ノイズ程度の状態であることも手伝いボリュームある、底深い表現が手練れの歌手陣込みで胸に迫ってくる。ヨーロッパのオケのごとく重心が低く、マーラーに似合っている。セルの解釈も時には呼吸するように大きくうねり、古いワルターの録音をちょっと聞いてみたのだが格段に深みと板についた感じがして「大人」だ。書法が個人技的で細いせいもあるが技術的なほころびは目立ってなく、併録の9番に比べては全くすぐれている。ベイカーの、声色こそニュートラルだが表現力において絶唱が聴ける「告別」は、セルのつむぐ重厚なアンサンブルともども聴きもの。絶版だがネットで探せば聴ける。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○クーベリック指揮VPO、マイダン(Msp)クメント(t)(ORFEO)1959/8/30live・CD,,歌唱陣は盤石とみていいだろう。しかしまあ、クーベリックらしい雑なオケコントロールに笑ってしまう。よく崩壊するする。それでもそれを犠牲にしてでもの勢いは凄い。音楽をドライヴしまくってあっという間に告別に至ってしまう。個人的には好きな部類の演奏ではあるが、こんな乱れた音源出してウィーン・フィル大丈夫か?大丈夫だ、問題ない(死語)。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団、ベイカー(ALT)クメント(T)(AUDITE)1970/2/27LIVE クーベリックの当レーベルによるマーラー・ライヴ盤はいずれも音場がやや狭く、スケールの小さい演奏に聞こえてしまうところがある。そのぶん密接に固まった密度の高い音楽を楽しむこともできる。一人一人の奏者の意気込みがダイレクトに聞こえ、クーベリックがいかにオケを鳴らし、のらせているかをはからずも聞かせてくれる。歌唱はライヴ特有というべきか、オケのしがらみから逸脱して独自のルバート表現を聞かせているところがなきにしもあらず(とくにクメント)。そういったこともひっくるめて雑味は多い。解釈はオーソドックスと言っていいだろう。歌唱先導の感もなきにしもあらずだが、余り気にはならない。なぜ○ひとつかって?「告別」のベイカーの歌唱ですよ・・・長調になったところの震えるような表現は感動させられる。全般に比較的明るく、諦念のようなネガティブなものは余り感じないし、器楽的魅力も持ち合わせた演奏だから、セカンドチョイスくらいで手にしてもいいかもしれません。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09)〜Y.告別,○ディースカウ(T)クーベリック指揮ベルリンRIAS放送交響楽団(Lanne:CD-R)1963/3/24フリッチャイ追悼コンサートlive,,追悼の慟哭が聴ける演奏ぶりで、特にこのオケの、名シェフに対する鬼気迫るというか、悲しみを情念としてぶつけたような表現ぶりに圧倒される。フリッチャイ的な引いたような整えた演奏では決してなく、壮年期クーベリックの生命力溢れるライヴそのままの解釈で、ディースカウの違和感バリバリだが巧さと力強さは認めざるを得ない表現とともに純粋にアグレッシブな50年代ふうの告別として聞ける。だがやはり最後は詠嘆の雰囲気を漂わせ、沈黙のままに終わる。個人的には追悼コンサートの最後の演目という前提条件無しに、こういうマーラーは好きであるし、また、こういう解釈であれば逆説的に、9番ではなく「大地の歌」こそ「本来生命力溢れる独裁者であった」マーラーの白鳥の歌にふさわしい作品であった、と思った。,,かつて壮年クーベリックの実演を聴いた人が殆どおらず、特にマーラーに関してはDGのスタジオ録音しか聴かれていなかったころ、この人は中庸の指揮者として、8番は例外的に持ち上げられることもあったが、他は、可も無く不可も無くといった評をつけられていた。バンスタが強烈な輝きを放ち続けていた時期でもあり、提灯の脇の輝きに見向きもしない評者が多かったし、何よりマーラーを全曲個別に検証して、この曲はこう、この曲はこう、といった因数分解をする当然の評法すら避け全集としてまとめて「中庸」「中途半端」「ボヘミア的」といった単語だけで片付けることもまかり通っていた。だがクーベリックの演奏はあきらかに主情的なものが支配しており、それはDG録音にも萌芽は見えていて、異常なテンションで押し切るライヴ録音が海賊盤含め出だしたとき、それらが突然変異ではなく、延長上にあるものだと感じたマニアは多かったと思う。だが「前記のような論評を前提に」聴いていたとおぼしき若手ライターに、余りに違うとして堂々と「偽演認定」していた者がいた。評本にもそのように記述していたと思う。,,今そのようなことを言う者はいない。,,ネットに一時期多かったが、「偽演認定」をやっきになって行う向きがいる。特定の指揮者や演奏家に固執する「特化型マニア」がそういったことに熱をあげるのはしょうがない。だが、そういったマニアがとことん検証して追及して、更に様様な生きた意見を照らし合わせて認定するのとは異なり、たいていがスコアすら参照せずに一人で主観的に判断、もしくはあやふやな状況証拠に基づく邪推を安易に受け容れて判断している。私は敢えて明白でない限りは偽演うんぬんの記述は避けている。盤に記載されているものをそのまま受け容れ、そのときどきの印象で記述している。このサイト(ブログ)は前置きに書いているとおり全く同じ盤ですら10年の間をあけて全く違う感想を書いていたりするわけで、それが少なくとも「評を生業としない」「生きた人間」が網羅的に盤評を行おうとするさいには仕方ないことだと割り切っているが、なおさら偽演や、極めて録音状態が異なるものを識別してどうのこうの、なんてことを追求するのはめんどくさい。,,詰まるところ今の私は「音盤コレクター」ではないからなあ。コレクターなら、固執する点なのかもしれないな。なんてちょっと余談。,-----,,,,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),◎ロスバウト指揮南西ドイツ(バーデン・バーデン)交響楽団ホフマン、メルヒェルト(VOX)1957 切れのよさ、録音のよさでいえば断然後者である。手兵南西ドイツ(バーデン・バーデン)交響楽団との丁々発止、一番。ほんらいのロスバウトの音を忠実かつ完璧に演じており、ケルンのほうは逆に指揮者の個性が見えにくい感じがする。録音のせいといえばそうとも思えるが(ケルンはややオケが遠い)、独特の個性は断然後者のほうがストレートに伝わり強いのだ。このゲンダイ指揮者の「祖」はマーラーをけっこう演奏している。ここでも「交響曲」として大地の歌を演じており(本人はどう思っていたか知らないが)、独唱者もその構造物の一部となっているかのようだ。しゃっちょこばった演奏ではない。がっしりと曲の大枠を打ち立てた中で、各パートの細部まで磨き上げられ聞き取ることが出来る一方、かなりルバートもする。魂の演奏(ワルター、バンスタ?)とは違う聞き方ができる。音響的に面白いと感じたのはとくにバーデン・バーデン盤の中間楽章だ。歌唱はあまり良いとはいえないものの、一聴の価値あり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○ロスバウト指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送交響楽団、ホフマン(CA)メルヒェルト(T)(stradivarius/andromedia他)1960・CD,,新しい再発がいくらでも出ているがリマスターはあくまで好みなので私はCD初出のstrで聴いている。一楽章はどんなに室内楽的な細かいアンサンブルも乱れを許さないロスバウドだが堅苦しさは感じない。良い音ならどんなに多彩な響きを再現していたことだろう。陶酔的なアーティキュレーションは歌唱に沿ったものでもなさそうだ。二楽章は暗さより美しさが印象的。歌唱によりそうオケが絶妙で、マーラーの響きがする。うーむ、池畔で陽光のボートの動きにちらつくさまを見ながらきいていると、ケン・ラッセルになった気がする(うそ)。音は潔癖なのに表情が耽美だ。三楽章はしっかりしたテンポで規律正しくドイツ風。歌も奇をてらわず真面目だ。四楽章はピッコロに少し乱れがみられるものの基本三楽章と同様均整感のあるしっかりした表現。リズムがキレたロスバウトらしい激しい音表現が嵐を呼び込む。だが一部演奏にみられるキッチュな崩しは無い。歌は終始真面目なままだ。嵐の後もさらっと流すように過ぎていく。五楽章は三、四と違い味付けが濃い目となる。曲自体がそうとも言えるがリズムこそ律儀なもののアーティキュレーションがじっくり付けられている。陶酔的なテンポルバートも印象的だ。コンマスソロが巧い。,,「告別」は怖い。長い休符の間に余計な音が一切入らないのが怖い。ホールが恐怖で静まり返っている。虚無感はそうとうなもので、そこからマンドリンが鳴り出したりすると荒地に一気に花が咲きだすような眩暈をおぼえる。とにかく音に雑味がない。この純粋さが怖い。思いいれで演奏していないのに(歌なんて殆ど素直)ルバートやアーティキュレーションは部分的だが思い切りつける。ウィーン風の味をこのオケの「音」ではなく「表現」で出そうとしたのか。ewigまでの歌唱とオケの融合した味は他の「歌曲的演奏」とは一線を画する。歌唱がついえたあとのシロホンの即物的な響のほうが印象に残るのだ。ワルターなどとは全く違う。しかし紛れも無いマーラーがここにはある。,,<記載データが違うもの>,,1957スタジオ録音,"
Hans Rosbaud Conducts Mahler & Bruckner

Vox

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",,ホフマン、ヘフリガー、ケルン放送交響楽団 1955/4/18,"
Mahler: Das Lied von der Erde

Phoenix

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",-----,,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),ロスバウト指揮ケルン放送交響楽団ホフマン、ヘフリガー(CONCERTO)1955/4/18 VOX盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○シューリヒト指揮ACO トルボルク、エーマン S14.8.5 戦前の「大地の歌」演奏をつたえるものとしてワルター/ウィーン・フィル盤とならんで貴重な一枚。メンゲルベルクを想像させる熱いシューリヒトが聞ける。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○シュミット=イッセルシュテット指揮北ドイツ放送交響楽団、ヴンダーリッヒ(T)、メリマン(A)(ARLECCHINO)1961ハンブルグLIVE・CD 端正だがどことなく情緒があるのである。これはいいかげんなイタリア盤なのでひょっとすると前掲の録音と同じ音源かもしれないが一応別と考えて書くと、さらさらした肌触りの音楽。ヴンダーリッヒの声がどうも若すぎてとくに1楽章など老人の詩にあわない感もあるが、メリマンはまずまず(ちょっと野暮ったいところもあるが)。それよりこの指揮者のバランス感覚の良さに聞き入ってしまう。あくまで正攻法だが音は非常に繊細に磨かれており、時に法悦的な響きに溢れ、時にこの上ない詠嘆の表現に尽きる。マーラーには向かないというような先入観を持っているかたは聴いてみられるとよい。決して良い録音ではないし、ソリストはやや不調だが、「告別」の物語的に語られる音楽には何かしら感興を覚えると思う。○。思ったよりよかった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),◎テンシュテット指揮ロンドン・フィル、バルツァ(A)ケーニッヒ(T)(EMI)1982/12,1984/8 ちょっと他にないようなダイナミックな演奏だ。表現の震幅が大きく、細かく伸び縮みし、そのあたり計算づくというかスコア解釈のたまものといったかんじもするのだが、不自然さがないところがテンシュテットであるゆえんだろう。ここまで「情感の篭った解釈」というのは他に見られないものである。とくに前半楽章、弦楽の豊穣さ、表現の豊かさには唖然とさせられる。反面ブラスのやる気なさ(というか客観的発音)には少々落胆もする。ソリストは可もなく不可もなくといった感じで、むしろ器楽的な発想に基づくこの演奏解釈にあっている。一音一音確かめるような発音(木管・ブラスに顕著だが「告別」の弦楽も)はクレンペラーの手法を想起するが、テンシュテットの場合もっと自然である。バーンスタインの没入とはあきらかに違う垢抜けた次世代の演奏、しかしそれでも、とても情緒的な印象をのこす演奏だ。深みのある「告別」の解釈は一聴の価値あり。終始明るい色調が印象的。現在は廉価盤で容易に入手可。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○バーンスタイン指揮VPO,キング(t)フィッシャー・ディースカウ(B)(LONDON)1966/4 オーケストラは万全だ。指揮も多少近視眼的ではあるがオケと独唱の底深い響きに支えられ恐らく指揮者の意図したとおりの効果を与えている。だが茫洋と聞き流していると、何か印象が薄く感じる。ソプラノをバスに置き換えての演奏は音が低音に集中してしまい、ひっかかりが無いのだ。メゾソプラノの息が絶え絶えとなるくらいの演奏をたのしむ4楽章も低音で余裕綽々とこなす名手ディースカウにすこし首をひねってしまった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),◎バーンスタイン指揮イスラエル・フィル、ルートヴィヒ(M-SP)コロ(T)(SONY)1972/5/18,20,23 こういう曲をやらせるとバーンスタインは抜群に巧い。感情が歌手の赴くままにうねりのたくる音楽作り。とはいえやりたいほうだいの演奏ではなく、楽曲の要求する程度のデフォルメでおさめている。ウィーン盤も名盤だが、イスラエル・フィルのレベルも高く、たとえばニューヨーク・フィルのマーラー演奏にみられるような雑味がない。ホルンなどに若干不安要素もあるし、弦も意外と薄いようだが、おおむね成功している。一番印象的だったのは4楽章「美について」の俊敏な演奏で、ダイナミックな動きの音楽を真摯に作っている(この楽章の中国ふうの音楽をわりあいと茶化したような演奏も世の中にはある)。6楽章「告別」の美しさは語るまでもない。音の少ない場面でのこの上ないさびしさの表現、感情の爆発する場面における悲痛なまでに狂おしい「歌」。往々にしてヴァイオリンによりもたらされるカンタービレはバーンスタインらしい歌心に溢れている。ポルタメントはご愛敬、艶やかで生々しい音色は好悪別れよう。ユダヤ式という演奏方法があるとしたら、ここではまさにユダヤ式の演奏が繰り広げられている。また、それほど粘らない(要所要所は物すごく粘っていたりもするが)テンポよさはこのイスラエル盤独特の表現。これも好悪別れるかもしれない。まあ、とにかく歌手とオケがこれだけ融合し美しく結晶した演奏もそうないだろう。後期マーラーにおけるバーンスタインはまったくすばらしい解釈者だ。明るく柔らかな美しさは比類ない。なんといってもルートヴィヒの絶唱は聞き物。EWIG(永遠に・・・)のくだりでは息を飲む。高潔で滋味に溢れる歌唱だ。それにからむオケの余韻たっぷりの抒情も秀逸。絶妙のルバート。名演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),バーンスタイン指揮NYP、トーマス(T)フィッシャー=ディースカウ(B)(eternities)1967/3/18live NY,,左右が揺れたまに片方が聴こえなくなる粗いステレオ録音だが、リアルな肌触りは悪くはない(終楽章にデジタル化(CD-Rのせい?)による音飛びのような耳障りな部分があるのは残念)。実音は強く重心が低くしっかり捉えられている。バーンスタインの男声だけによる大地の歌(楽章単位に拍手が入り、交響曲ではなく連作歌曲集として演奏されている)は賛否あったが、音域的に安定し、この曲に横溢する夢のような明るさが逆に絶望の闇を暗示する、マーラーらしい世界観を良く示せる配慮だと思う。尤も終曲末尾は女声で消え入るのが、やはりしっくりとはくるのだが(マーラーは男性なので告別もまた男性としてのものと考えれば適切なのかもしれない)。テノールの声質は少し気になったが、ともに表現力はあるものの見せつけるのではなくあくまでシンフォニックにオケと絡みあるいは吸収されるようなところはバーンスタインの意図に沿っているのだろう。そのオケの演奏はダイナミックでバーンスタインらしい。しっかりした劇的解釈がオケに完璧に伝達され、壮年期のニューヨーク・フィルとのライヴとしては、論えばミスがないわけではないが、晩年のものに近く可也精度が高い。「告別」を繰り言をのべる退屈な30分ではなく波乱の心情をうつした交響詩として聴かせてくるのは快楽派には嬉しい。細部までしっかり太く弾かせ吹かせ、歌いながらアグレッシブに(自在に)ドライブしていく中にも、バーンスタイン晩年の深み、余韻の表現への予兆が聴きとれる。アグレッシブなだけでは告別にふさわしくはない。面白く聴ける演奏。ワルターでいえばまだアメリカに来る前の録音のような感じ。ブラヴォが聴こえる気がする。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団、フェリアー(SP)ルイス(T)(APR)1952放送LIVE 目を疑った。こんなものが残っているとは・・・そのうち8番や10番も発見されるんじゃないか、そんな気さえする。バルビローリ・フェリアーの浅からぬ仲を知る者は、尚更感慨深いだろう。リチャード・ルイスにしてもニューヨークでワルターと競演したこともある「大地の歌」歌い、ここでも手を抜いていない。音質は悪い。とくに前半部分が顕著だ。放送ライヴをエアチェックした音源らしいのだが、レーベル面に記載のとおり、冒頭7小節が欠落している。これは「大地の歌」にとっては痛い。しかしそんなことを忘れさせるほど、ロマンティック、だがワルターのような生臭さがないというか、決して踏み外さず、品位を失わない「大地の憂愁をうたう酒の歌」、そしてフェリアーの深い声が冴える「秋に寂しき者」、牧歌的な「青春について」と、スムーズに聴き進めていける。独特のカンタービレを伴う「バルビ節」はこの時点ではそれほど明確には現れず、寧ろ率直な感じもする。やはりバルビらしく、弦楽器の扱いは素晴らしい。自由自在に操られるヴァイオリン、それに丁々発止でつける中低弦、ハレ管にしてもこれは非常に調子がいいといえよう。その弦楽器が全開のバルビ節にうなるのが次の「美について」だ。バルビローリはふつうの歌いかたをしない。「ああ、そうだったのか!」という発見に満ちた「歌」を聞かせる。無論ここでのオケは伴奏なのだから、勝手に歌ってはいけないのだが、もはやソリストもオケも指揮者も渾然一体となって、ひたすらに独特の美しいものを「歌って」いる。次の「春に酔える者」は冒頭1フレーズが欠落しているが、前曲同様、あたたかい音色でバルビの歌を歌っている。そして、長大な「告別」なのだが、これはもうフェリアーの絶唱とバルビ節の交錯に陶酔する。あたたかい曲作りはこの死の曲に対してけっして絶望をあたえない。弦楽器のまるでコンチェルトを演奏するかのような歌いまわし、太くたくましいフェリアーの声、バルビのしゃがれた唸り声、こんなに飽きない「告別」は久しぶりだ。ワルターの盤ですら飽きる私は、びっくりだ。ペシミズムが薄い感もあるが、こんな暖かい「告別」もあっていい。録音マイナスで○ひとつ。佳演だ。ところでクレンペラー・ウィーンフィルの2、9番、バルビローリ・ベルリンフィルの2番も復刻されるらしい。久し振りにマーラーに浸ってみてはいかが。(2003/6/6記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○ヨッフム指揮ACO、メリマン(MS)ヘフリガー(T)(DG)1963・CD この録音がCD化してるなんて気づかなかった。しかもリマスター盤ですか。。うう。高価な初期盤LPを手に入れてしまった。しかもCD-Rに落としたら謎のノイズが混入し、盤の状態はいいものの気になる気になる。悲しすぎる。。・・・そんなことはどーでもいいことで、この演奏の印象なのだが、普通。いたって普通。中庸としか言いようがない。磨き抜かれた音で完璧なアンサンブルを聞かせているが、いかんせん解釈が平凡。中間楽章ではちょっと独特な表現やスピーディでかっこいい個所も無きにしも非ずだが、そもそもマーラー本来の情念の蟠りとそこからの解脱というドラマ性がすっぽり抜け落ちていて、聞いていてひっかかりがない(うーん、具体的に言えないけど)。「告別」の明暗すら描き分けられていないというか、オケは若干マーラーらしく演奏しようとしているようだが、全般的にあまりに穏やかで透明すぎ、マーラーを聞いているのではなく、ただ後期ロマン派の作品を聞いている、という感じしかしない。そう、ジャケットの題名表記が原譜に書かれていた「交響曲」の文字が削られたんなる「大地の歌」になっていることからしても、これは「連作歌曲集」として演奏されたものなのだ。だから全体の大きな流れ・・・最後は死の園で終わる・・・の中にマーラーイズム(こんな言葉あるのか?)をダイナミックに浮き彫りにしていくような意図は少しもないのだ。こういう演奏が好きな方もきっといらっしゃると思うし、安いので(泣)ちょっと買って聞いてみても「損は」しない。歌唱は二人とも達者。ヘフリガーの一本調子な歌唱が嫌いなかたもいらっしゃるかもしれないが。二人ともこの曲の音盤ではしょっちゅう目にする名ですね。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○ロジンスキ指揮NYP トルボルク、クルマン、S19.11.19 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),C.クライバー指揮VSO ルートヴィヒ、クメント S42.6.7,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),オーマンディ指揮PHILADERPHIA O. コッカシアン、ルイス ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),カイルベルト指揮バンベルク交響楽団、ヴンダーリヒ(t)フィッシャー・ディースカウ(b)(cincin他)1963(1964/4/2) なんじゃこりゃ。ピッチが高すぎる。録音状態は悪いと言った方がいいだろう。折角のふたりの歌唱を損なうようなピッチの高さ。さすがイタリア盤だ。私はあまり男声二人による「大地」を好まない。音が低いところでうねりつづけるのがどうもしっくりこない。これも違和感を感じて仕方なかったが、ふたりの歌唱の素晴らしさはそんな条件の悪さの中でもしっかり伝わってはくる。だれだこのテナー、と思ってジャケットをめくるとヴンダーリヒの名。なるほどね、といった感じ。カイルベルトのしっかりとした音楽作りは特筆すべきであるが個性的とはいえない。逆にそれがこの盤の魅力かもしれない。中間楽章はやや食い足りない感もあるが、「告別」は出色。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),クレンペラー指揮NEW PHILHARMONIA O. ルートヴィヒ、ヴンダーリヒ(EMI)S39,41,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),シュミット=イッセルシュテット指揮北ドイツ放送交響楽団、ヴンダーリッヒ(T)、メリマン(A)(disques refrain)1964/4live 構築的な演奏で、情に流されないしっかりとした音楽になっている。つまらないという感想も産むかもしれないが、ふたりの歌唱のすばらしさがそれを補っている。ライヴにしてはまったく崩れない。しいていえばクセのないのが仇か。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),ブーレーズ指揮ウィーン・フィル、URMANA(MSP)SCHADE(T)(DG)1990/10・CD 値段も叩き売り価格だが・・・安っぽい。チープな感じが終始つきまとう演奏だ。音符がみんな短く切り上げられており、早く先へ行かなきゃ的な変な焦燥感があるのも安っぽさに拍車。ウィーン・フィルが悪い方向に行った感じの音色ではっきり言ってこのオケの美質が少しも感じられない。録音も軽い。ライヴ録音みたいだ。テノールも軽すぎ。 1楽章とか酒の歌なのに未成年みたいな声はちょっと・・・。全般、一欠けらも魅力を感じなかった。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),ベイヌム指揮ACO ヘフリガー、メリマン S31.12.3-6 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),ベルティーニ指揮KORN RSO H3 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),ホーレンシュタイン指揮BBC北交響楽団,ホジソン、ミッチンソン(M&Aほか)1972/4/28 独特の演奏だ。一貫して明るい音色を緩やかなテンポにのせ、それは「告別」の最後(眩い光に包まれたような終わりかたは秀逸)までつづく。至極客観的でもある。オケはあまり巧くはない。歌唱にしても飛び抜けて優れているわけではない。どちらかといえば器楽的発想に基づく演奏で、ロスバウト盤よろしく面白い音作りが施されている。テンポの遅さと太筆書きの演奏ぶりは言葉で書けばクレンペラー的だが、やはりホーレンシュタイン独自のものである。1楽章より壮大でドラマティックな起伏が楽しめる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),◯ホーレンシュタイン指揮ストックホルム・フィル(放送)1968/11,,録音状態はかなり悪いし、演奏レベルもけして褒められたものではないが、緩徐楽章での荘重壮大な表現はホーレンシュタインらしく、ホーレンシュタインマニアなら聞いてもいい演奏かと思う。早い楽章は乱れたりリズム感がいまいちだったりと薦められない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○カラヤン指揮ベルリン・フィル、ルートヴィヒ(Msp)、スピース、ラウベンタール(T)(PANDORA'S BOX:CD-R)1970/12/14-15LIVE,,いやー、リキ入ってます。オケも物凄い迫力だし、うねるように雄大な音楽作りは歌唱を圧倒。録音は放送ゆえ雑音すら混ざるものだが悪くは無い。大地の歌としてのいまひとつの深みは無いが、何か異様な迫力を感じるのは私だけだろうか。ルートヴィヒの歌唱が中間楽章でやや下卑てしまったり、ソロ楽器に瑕疵が聞こえるのはライヴゆえ仕方ないだろう。73年のDG録音よりいいと評する人がいるのもなんとなく頷ける。ちなみにCDにはメゾソプラノとテノール(バリトンと表記しているが)が同じ歌を相互に歌っているように書いてあるが、実際にはテノール二人が歌い分けているもよう。というか二日間の編集なのでテノールが交代しただけのような気がする。歌唱に明るくないのでこの二人のどちらがどれを歌っているのかよくわからない。可もなく不可もなくという印象、どっちにせよ。○。,-----,,TITLE: マイスターのための葬送行進曲,URL: http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/e1a09ea8af86bdc8362ec0352d3049ae,BLOG NAME: Wein, Weib und Gesang,DATE: 04/15/2005 14:39:36,ドイツの食生活において、最も素晴らしいものは小さなパン、ブロットヘェンである。わが町のパン屋の親父が亡くなってからどれぐらいが経つだろうか。脳腫瘍を患って、日々の焼き方にバラツキが出て来たのに気がついてから、一年位であったろうか。死の三ヶ月程前にも、店に,-----,,,-----,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○ジュリーニ指揮ベルリン・フィル、ファスベンダー(Ms)アライザ(T)(CD-R)1984/2/14live,,ゆったりと浸れるマーラーだ。透明で明るく清清しい。たとえ2楽章や告別の暗黒面であっても少しの曇りもみられない気持ちのよさだ。歌唱も違和感なくその世界に溶け込んでいる。大地の歌の演奏としてこれは別に遅くもなければ間延びもしておらず、ジュリーニまだまだ壮年の輝きが感じられる中間楽章の俊敏さなど(俊敏というよりしなやかと言うべきかもしれないが)少しの乱れもなくドライヴされてゆくこのリズムよさにも演奏の素晴らしさが覗える。ベルリン・フィルの灰汁抜きされた音色に反感を持つ人もいるかもしれないが、私には程よく感じられ、技術的なベルリン・フィルの巧さが発揮されていると思った。録音もかなり良い。かといって◎にするほどの個性はないので、○にとどめておこう。この完成度ならブラヴォが出るかと思ったが拍手後半に少し入る程度で品のいい客だ。この曲なら拍手ナシで沈潜してもいいのだけれども、そういう雰囲気の演奏ではない。くれぐれも爽やかな明るさで統一された演奏である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○ジュリーニ指揮ベルリン・フィル、ファスベンダー(Ms)アライザ(T)(testament)1984/2/14,15live・CD,一部同上,2/14のみの実況が7年ほど前に裏青盤で出ていた。じつに好意的に書いた覚えがあるが、今聴くと、ライヴなりの粗さも感じられ(ソロミスに煩い向きには気になる個所もあろう)、解釈的にも地味で、ファーストチョイスに向くかと言えば疑問がある。個人的には歌唱も飛びぬけたものは感じなかった。この曲は「告別」の悲壮感が全体の印象に暗く影を落としているが、歌詞はそこまで悲しいものではないし、諦念諦観といったものは必ずしも悲壮感と並置される感情ではない。ジュリーニの告別は古い時代の演奏に聴かれた「闇とそこから開ける光明」といったものとは少し違う。清澄な空気感が支配的で、楽器の一つ一つ音符の一つ一つの純度が高く、休符が効果的に使われ音量に細心の注意が払われており、室内楽的なアンサンブルをBPOの力感みなぎる音によって崩さぬべく抑える配慮が感じられる。それが一貫して、歌詞の起伏や調性の変化に左右されることなく、悪く言えば平板だけれども(録音が歌唱偏重なせいもある)、ゆったりとうとうと流れる大河のように聴かせていく。音量を抑える余りヴァイオリンパートソロの「歌」がばらけて聴こえたりはBPOらしいといえばらしい音なのだけれど、気になる人は気になるかもしれない。オーケストラだけの再現部(?)、弦楽器の息が長い旋律におけるレガーティッシモな表現。じつに表情変化が細かく、統制が行き届き美しい。「永遠に・・・」のくだりもそれほど明瞭な変化をつけて突入することはないので、ドラマチックな告別が好きな人には向かないが、セレスタの煌めきに彩られながら静寂の中に消えていく末尾は出色。これぞ大地の歌。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○マゼール指揮ローマ・イタリア放送交響楽団他(KARNA:CD-R)1959/3/7live,,時代性と言うべきものなのか破竹のいきおいの若きマゼールにはクライバー並みの神性が宿りとにかく乗らせる。ならではのアクの強い表現もあるものの聞きやすく流れるように明るく聴き進められる。同時代の名匠たちの影響も想像に難くない。モノラルでそれほどいい録音でないせいか、しかしやっぱりどこか同時代の名匠たちに比べて「やや落ちる」感もないわけでもなく、中間楽章での信じられないメゾソプラノの落下を考慮しなかったとしても、名演と呼ぶには躊躇がいる。リアルな大地の歌であり、ロマン性を打ち出したマーラーとしての告別。○。トラックが一本なのには驚いた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○マゼール指揮バイエルン放送交響楽団、ブラウン(A)ディーン・スミス(T)(EN LARMES:CD-R)2002/2/18LIVE いちおうクリアな音質だが、客席からの雑音と、時々左のほうからシャリシャリ放送雑音のようなものが聞こえるのが気になるといえば気になる。たとえば「告別」の最後でアルトがエーヴィーッヒとやる場面に大きく咳き込む音が重なったりシャリシャリ音が混ざったりするところで、もうぶち壊しと考える人が出てくることも予想される。神経質なかたは聞かないほうがいいかもしれない。告別の最後の音がぶちっと途切れるように終わるのはひょっとして解釈かもしれないが、エーヴィーッヒの傷で顰めた顔が怒りに変わる可能性もあろう。さいわい私は別に気にしないほうなのでそれはそれで録音の個性として楽しめた。さて、内容である。1楽章ははっきり言ってあまり面白くない。どことなく座りの悪い粗暴な音楽に聞こえる。楽団もあまり艶のある特徴的な音を出すわけでもなく、むしろたんなるアンサンブル下手に聞こえる。じつに面白くない。だが2楽章、暗くて沈んでばっかりの2楽章の途中から、俄然面白くなってくるのだ。常に大きく構えた演奏が持ち味のマゼール・マーラー、それがそれだけでないのがライヴの面白いところ。この楽章ってこんなに面白かったっけ、という間に東洋的な牧歌、3〜5楽章。ザクッザクッと斬りつけるような独特の乱暴さが怜悧な音とあいまってこれらのカワイイ音楽を哲学的な偉大な音楽に昇華させている(言い過ぎかな?)。意外とスピード感があり、マゼール・マーラーに共通する泰然とした様子からは隔絶したダイナミックな表現が耳を惹く。雄大な音楽の上に奇妙な軋みを産む独特の伸縮がこの人の魅力なのだろう。私は決して耽溺はしなかったが適当に楽しめた。アルトのカツゼツがやや悪く歌詞があまりよく聞き取れないところも(5楽章)。歌唱はだいたい可もなく不可もなくといったふうなので特筆すべきことはない。荒々しい器楽演奏と奇妙に均衡がとれている。演奏解釈の荒っぽさは終楽章「告別」に引き継がれる。告別がうねり、怒号をあげる。面白い。退嬰的でない、ダイナミックな「告別」もいいもんだなあ、と思った。これは30分聴きとおせます。非常にスケールの大きな演奏のわりに解釈が近視眼的なところがあり、構造上のコントラストがあまりはっきりつけられていないため、最後の転調が今一つ、ぱっと花が咲くようには変化しないが、音楽的な連続性はあるので、特記すべき欠点とは言えない。これは解釈だ。マンドリンの感傷的な音がくっきりと聞こえ、耳に残った。すべて聞き終えて、もう一度、聴きたいと思った。1楽章に戻ると、ああ、やっぱりダメ。というわけでこの盤、1楽章以外おすすめということで○にしておきます。終演後暫く間を置いての客席の反応は凄まじく、ブラヴォーこそ少ないものの、拍手は盛大だ。客観的で透明感のある今風の演奏ではあるが、どことなくケレン味のある特徴的な盤である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09),○クリップス指揮ウィーン交響楽団、レイノルズ(A)トーマス(T)(orfeo)1972/6/24・CD,,クリップスはリズム処理が滅法巧い。くわえてVSOをここまでコントロールできる指揮者というのも無かったのではないか。VPOよりもウィーンらしい、いい面も悪い面もあるローカルオケを、VPOのようにしなやかで統制のとれた楽団に・・・いやVSOとVPOは別物とわかっていて書いている・・・昇華させた。歌唱は余り残らないし、あっさりとしている面も否定できないが、これを凡演とはとても言えない。誤解を恐れずに言えばカルロス・クライバーのような巧さだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09)〜断片,ターリッヒ指揮ストックホルム・フィル、トルボルク(alt)(BIS)1934/11/7live ストックホルム・フィル75周年記念ボックスより。2、4楽章の断片しかないが、ここから読みとれるのはストレートで直線的な、ターリッヒらしい流れのよさくらいだ。情熱的で凝縮された響きに独特の感性の発露を感じる。ターリッヒはマーラーをよく振っていたらしいから、ぜひ全曲を聞いてみたいものだ。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09)〜W(欠落あり),○フリード指揮BBC交響楽団(arbiter)1936/2/1ロンドン・CD,,「美について」だけであるが、イギリスのライブラリーからの驚愕の新発見音源であり、マーラーの使徒、不遇の指揮者オスカー・フリートの真価を問うための材料がまた増えたことになる。最後が8小節切れる(SPの収録時間のせいか?)のと、きわめて状態が悪い(SPからの板起こしだろう)のが残念だがそれでも価値はある。このCDはほとんどこの一曲のために作られたようなものでそこに賛否はあろうが、私にとってはそれで十分だ。歌唱は若々しく明るい、軽さすら感じさせるもので、オールドスタイルでありながらも原盤の状態からか新人の歌唱のようにすら思わせるちょっと独特のものがある。歌に詳しい人なら余り評価しないかもしれない。バックオケはこの指揮者が史上初の全曲録音を果たした復活よりも音に厚みがあるように感じる。円熟味はこの録音がこの指揮者の西側での最後に近い録音であることからくる感じなのかもしれない。録音状態のためかもしれないが、予想したより重く、うねるようなロマンティックも鼻につかないなかなかに大人のしっかりしたマーラーである。ワルターのような心酔は感じられない。BBCを使っているので重苦しさや変な演奏陣のルバート表現がないのはそのせいか、ドイツっぽいというほどしっかりしたフォルムを示しているわけではないし、武骨でもない。特徴をあげるほど長くないので評しがたい部分もあるが、個人的にはじつにマーラーを理解した演奏ぶりだと思った。真価を問うにはまだまだ足りない。ライナー筆者ではないがもっと音源が発見されることを期待しつつ○。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲「大地の歌」(1908-09)〜ピアノ伴奏版,カツァリス (P) ファスベンダ、モーサ ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○ロスバウト指揮南西ドイツ放送交響楽団(KARNA:CD-R)1960年代live,,既出盤と同じ可能性があるが音がいい。クリアとまではいかないが60年代の放送エアチェックにしては撚れが少なく安定している(KARNAのリマスターがいいのかもしれないが)。モノラルだがふくらみは十分にあり、シェルヘンを落ち着かせてその緊張感を演奏精度に向けさせたようなロスバウトの芸風を楽しめる。楽しめる、と書いたが普通の意味でのロマンティックなマーラーではない。精神性にこだわる人にはこれを聴いて精神性を感じなかったらそのセンサーは壊れてる、と言ってあげよう。何もしない、解釈も揺れず(とくに1楽章はテンポが揺れないのが特徴的)終始同じトーンで、だが音色とふくらみには明らかにマーラーならではのうねりが存在する。昨日テレビで指揮者がオーケストラの楽器の五箇所くらいの音符が変わったことを当てて凄いと言われていたが、職業的訓練を受けていれば当然、曲を知っているだけの人でも、コードで聴くことに慣れている人や中声部以下や打楽器・ソロ管楽器等の奏者にとってみれば至極簡単な話で、これは特別でも何でもない。プロなら奏者にさえ必要条件である。スコアがなくても響きで聴いていればその演奏の「温度」がわかる。その意味でいけばこういううねりがきっちり隅々まで聴こえるというのは、全て「正確」で「忠実」なのだ。改変や手抜きのない演奏なのである。4楽章の速いテンポにおいてもやはりシェルヘンを想起せざるをえないのだが、それはテンポだけの問題であり、響き(のバランス)で聴いていくとまるで違う。更に非常に微細なテンポ設定があり、それが生きてくるように、計算ずくの盛り上がり方がじつに秀逸である。カラヤンの実演に近いかもしれないがカラヤンはマーラーを「余り」知らない。カラヤンにかわるカラヤン式にのっとった「マーラー」が造れた人というか、そういう比較を昔はよく目にしたものだが、今あらためてゆったりと、絶望にも希望にも浸ることなく、ただ音の美しさと曲全体の調和の中にマラ9の一つの様式の高度に純化されたものを聴いているといったかんじである。それにしても名コンビだ。オケはドイツ式だがロスバウトはドイツオーストリアなどといった枠組みでは語れない、現代に通じる感覚をもった新世代への扉をあけた指揮者であり、なおかつその枠によりかかったまま、室内も、屋外も見渡せる場所で、このような純音楽的演奏を「自分の世代の限界として」あくまでライヴで提示し続けた。けして面白い演奏ではない。しかし、細部まで素っ気無く、だからこそはっきりとスコアが透けて見える、そこに何かしら、プラスされるものが・・・たぶん、近い時代、戦争の時代を生きた者としてのどうしても隠しきれない色が・・・あるからこそ、ロスバウトのマーラーは愛されるのだろう。ワルターやバンスタやクレンペラーといったところとは全く違う地平にいながら、ロスバウトもたしかに、自分の方法でマーラーの本質に触れていたのである。○。拍手が別録り臭いかんじがするが、このころの放送ではチャネルを変えて客席音を入れている可能性があるのでいちがいには言えない。でも、スタジオと言われても不思議はない演奏ではある。,-----,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ロスバウト指揮BADEN BADEN SO ,同上?,透徹した演奏。音が悪いので美質が良く伝わらないのが残念。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(LANNE:CD-R)1971/5/30プラハLIVE,,録音はあまりよくはなく演奏的にも荒くて危なっかしい、精度が低いものだが、真に迫ったものはあり一気に聞かせる。MELODIYA盤よりわりと個性は薄く、コンドラシンらしい一貫した力技という特色は出ず、刹那的な激しさもマーラー的、という言葉で説明できる範囲なのだが4楽章だけは次元が違っていて、他楽章でも往年のロシアオケらしいボリュームと彫りの深さはあるが、ここにきていきなり即物的にテンポが速くなりコンドラシンらしさが前に出てくる。最初は軽すぎる気もしないでもないが、ホルンソロの音に確かにロシア奏法が聞かれたり、弦のうねるような重厚で滑らかな起伏のつらなりが往年のロシアの弦楽アンサンブルらしさを出してきて、かなり感情を揺り動かされるフィナーレになっている。それだけのせいでもなく、全般通して音さえよければかなりの名演だったことが想像された。○。,,日本初演ライヴ(67)ただいまダンピング中(2008/12現在),"","","",,KONDRASHIN;,"",-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(Lanne:CD-R)1973/11/2アムステルダムlive,,奇しくもこのエントリをあげる直前に知人の訃報を聞いた。コンドラシンのマーラーを初めて聞いたのは、その知人よりダビングしてもらった9番のテープでである。。この盤は短時間だが酷い録音撚れ起因の歪みがいくつかあり、演奏精度的にも正規より落ちる。疲労がうかがえるが集中力は最後まで高く、特に3楽章の鋭いリズムと速いインテンポには瞠目させられる。ここで中間部のテンポをぐっと落としすぎると4楽章と全体バランスがおかしくなるという配慮から音量もテンポもそれほど落とさない演奏はままあるが、コンドラシンの新即物主義的方法が一番成功しているのはこの楽章だろう。即物的方法は感情的な1楽章や愉悦的な2楽章では余りメリットに働かない。あっさり、というより音のコントラストは強いのに無感情という殺伐とした印象を受ける。だが横に流れる歌謡性ではなく一つ一つの音圧とテヌート奏法でズンズンと踏み込んでくる4楽章には説得力があり、最後は大ブラヴォ。アムステルダムにコンドラシンが受容されたのはわかる気がする。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),コンドラシン指揮モスクワ・フィル(SERAPHIM/MELODIYA,BMG)率直・剛直クレンペラー型演奏だがテンポはもっと速め。あらゆる感傷を排した独特の演奏で、個人的に一時期非常にハマったおぼえがある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(ALTUS)1967/4/16日本LIVE コンドラシンの場合、意図するところを楽団が如何に演じ切っているかというところが重要、評価もそこに分岐点を置いて見るべきだろう。ここでは終始力感の中に柔らかな雰囲気をまじえ、スタジオ盤よりも荒い面があるものの、より明快なコントラストが演じられている。1楽章など素晴らしい。コンドラシンの多分に漏れず速めのインテンポに近い表現だが、緊張感に満ちた楽団が指揮者により予め研ぎ澄まされたように自然な演奏を行っている。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○ジュリーニ指揮CSO(DG)1976/4・CD,,クレンペラーを思わせる鈍重さ(崩壊含め)がきわだった演奏ではあるが、旋律表現での重厚な盛り上げは聞かせるものがある。一楽章はフィラ管ライブに比べて音が茫洋とし鋭さが感じられず、録音のせいかもしれないがピンとこなかった(おかげで長い長い時間二楽章以降を聞かずにいた)。シカゴ響らしい機能性は二楽章で活かされていたと思う。重い舞曲表現はこの楽章ほんらいの姿だ。三楽章は制御がききすぎて勢いを削いでいる感もあるが、時折聞かれるこの指揮者独特の解釈が明瞭にそれとわかるように示されているのもよい。武骨さがあるジュリーニのマラ9だが四楽章は暖かい。分厚い響きで正しく演奏している。奇矯な解釈はなく、概ね早めのテンポでドラマを綴っている。秀逸な終楽章。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○ジュリーニ指揮ウィーン交響楽団(sardana:CD-R)1975LIVE,,ジュリーニの9番は評判に違わず良いものだ。即物的な演奏に飽きたらゆったりとした、そこはかとない歌心あるジュリーニの演奏に身を浸すとよいだろう。といってもこの時期のジュリーニはまだ壮年の激しさを維持しており、ワルター晩年のような巨匠様式の透明感ある世界ではなく、かといって過度にロマンティックでもなく、テンポ的にも速めなのだが。有機的な1楽章は表情の深さで耳を打つ。ゆったりとした、しなやかな音はウィーンならではでこの盤の価値を示すものだ。しっくりくる演奏で、9番の本来の持ち味が殊更にドラマを煽らずに生かされている。素晴らしい。2楽章はかなり音が悪く聴きづらい。エアチェックものならではの弱さだろう。4楽章でも聴きづらい場面がある。中間楽章は共に遅く鈍重な感もある。このあたりは好き好きとも言えるが本来はこれでいいと思う。余り速いのは内容的に意図ではなかったのではないか。4楽章は速めだが表現は自然な起伏があり人間的な美しさがある。けっして無機的な美しさではない。ただ、カンタービレともまた違うと思う。教会音楽ふうの雰囲気は確かに維持している。ウィーン響はむせかえるような甘い音こそないものの、オケ本来の滋味を効かせた深情の篭ったフレージングで自然に聞かせる。丹念ではないがそこがまたいいところでもある。もうちょっと艶のある音色が欲しいところもあるが、ニュートラルな音がジュリーニの意図だったのかもしれない。ライヴ自体はそこそこ成功していたような拍手の反応である。○。エアチェックテープ特有の録音よれあり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○ジュリーニ指揮スウェーデン放送交響楽団(KAPELLMEISTER他:CD-R/weitblick)1973/2/9ストックホルムlive・CD,,ジュリーニはオケに恵まれている。スウェーデン放送交響楽団も名門であり聴けばわかるとおり非常に上手い。透明感があり精密だからジュリーニの重い響きを適度にあく抜きして聞きやすい。とにかく遅いことは遅い(1楽章は30分を越える)。しかし無駄な溜めがなくこれはこうとして素直に聴ける。中間楽章もドラマティックだ。四楽章が薄味かもしれないが無い解釈ではない、げんに客席反応はよい。ホワイトノイズが終始混入し聞きづらいところもあって、解釈もさほど変わらないからジュリーニを聴きたいならもっとちゃんとした音源でどうぞ。ジュリーニマニア向け。一楽章に小欠落のある裏青が出たことがあるが、恐らく同じ。CD化音源も恐らく同じ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○スヴェトラーノフ指揮ハーグ・フィル(residentie orkest)CD なかなかの名演である。中でも第一楽章が秀逸。超遅のテンポの上に大きな音のうねりをダイナミックに描きだしている。こまかいデュナーミクの付け方も特徴的で、ある意味バーンスタイン的だ。やや弦楽器の音が遠いが、そのぶん他の声部の動きが手に取るように解かり、面白い。ハーグ・フィルはなかなかどうして健闘している。情熱的な三楽章もききどころのひとつだろう。また終楽章など、弱音の表現もデリケートで巧い。この演奏、マーラー指揮者としてのスヴェトラーノフの面目躍如といったところだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),◎スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(KARNA:CD-R)1998/5/30LIVE放送,,主観で恐縮だが、録音状態が適度に「悪い」がゆえに音が深くドラマが迫真味をもって描き出されており、しかもスヴェトラ本人も特に気が入っているせいかはっきり大きな唸り声まで聞こえ(ここまでのってるスヴェトラというのは日本では余り見られなかった気がする)、単純に面白い。テンポは速めで揺れず、特に3楽章中間部で殆どテンポが落ちた感じがしないほどさっさと過ぎ去るところなど創意に満ちている。スヴェトラはバンスタを好んだがマーラー指揮者としてのスタイルは異なる。ここではトスカニーニ的な演奏を聴く事ができる、いや、あの時代のスタイルだ。リズミカルな処理もすこぶるいい。中間楽章で聞かせる。音のコントラストが明確でメリハリがあり、直進する音楽が終楽章でいきなり止揚する、この終楽章がまたいいのだ。初めてスヴェトラ節らしいものが聞こえてくる。つまりは演歌だ。しかしここは北欧の名門オケ、音色が冷たく硬質なためいやみにならない。そのバランスが丁度録音の状態とあいまって非常にいいのだ。演奏も成功といっていいだろう、盛大な拍手。放送エアチェックものだが、9番はこれを第一に推しておきます。職人的名演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(KARNA:CD-R/weitblick)2000/1/21LIVE放送・CD,,2013年CD化。音色が明るく透明感のある演奏で、軽やかですらあるのは恐らく録音のせいだろう。非常にクリアなエアチェックものであるがゆえの、妙に現代的に研ぎ澄まされてしまっている感が否めず(無論そういうベルティーニ的なものが好きな人にとってはスヴェトラ最高の記録になりえる)、スヴェトラ最晩年の「期待させる」境地が、まるで現代にマッチした颯爽としたスタイルに迎合したかのように聞こえてしまったのはちょっと問題かもしれない。また解釈も割とオーソドックスであるがゆえ聴感が軽い。スヴェトラにしてはかなり厳しく律せられた演奏であり、音の輪郭が全てしっかりしていて細部まで聴きやすい・・・もちろんオケの影響が大きいのだが・・・うえにテンポも速く、これは他の盤でもそうだが3楽章まで殆ど揺れがない。2楽章の前半までははっきりいって凡庸といってもいいくらいだった。3楽章までなら、私は「まるでワルター最晩年のような音をかなでながら、少しも心を揺り動かされないテンポ」とまでこきおろすことも可能であった。しかし終楽章は違った。ここでスヴェトラは感情を隠しきれない。もしくは、設計がズバリ当たっている。思い入れたっぷり、というわけにはいかない北欧オケの音、でもここには明瞭に感情の起伏があり、遠くスヴェトラ節のエコーも響く。なんとなく、やはりワルターのコロンビア録音を思い出してしまうのである。透明で明るいのがスヴェトラの実は持ち味であり、ロシアオケという呪縛から放たれてやっと、本来の自分の欲しい音楽を得られたという矢先の死、その直前のこの記録からはしかし死は聞こえない。そこには安らぎと、美だけがある。終楽章のバランスは瑞一、ただひとつ、これは盤によるのかもしれないが、私の盤の終楽章は録音ムラがあり、かなり耳障りな雑音が盛り上がりどころで入ってくる。更に不可思議なのが、終演後の拍手との間の「ブランク」。録音のつなぎ目が聞こえるのである。あきらかにロシアオケではないし、あきらかに他の録音とも違う(万一同じだとしても録音状態がかなり違う)から、この盤自体信用していいとは思うが、少し気になった。相対的に無印にしてもいいのだが、最晩年においても精力的な演奏を行っていたという証拠として、○をつけておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(harmonia mundi/saison russe)1992 録音が悪い。個性的解釈で所々聞けるが、円熟味にはやや欠けるか(解釈が地に付いていないように感じる)。何よりオーケストラの調子が悪いのが決定的!日本ライヴはこんなではなかったようだが…(後補)この演奏は一旦「荒い」のヒトコトで片づけたオボエがあるが、よくよく聞き直してみると、たしかに粗雑な面もあるし、録音バランスに若干の問題も感じるものの、演奏全般としては悪くない。ダイナミックな起伏を付けた演奏で、中間楽章が思いのほか面白かった。リズミカルな処理がうまくいっている。終楽章の表現などもう少しデリケートなほうが好みだが、これは名演とは言わなくとも佳演とはいえるだろう。両翼展開したヴァイオリンが面白い聴覚効果を与えている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R/MEMORIES/ARKADIA/stradivarius他)1969/1/30(1968/5/9?1968/1/30?)live・CD,,セルの9番ライヴは無編集ではこの録音と2/6の演奏記録がある。たいていはこの1969/1/30の演奏の録音である模様。後者は1970年大地の歌他との組み合わせのCD-R、cult of classical music、廃止レーベルだがwebで聴ける(放送エアチェック、別項参照)。これは初出はモノラル聴衆録音だが後発はステレオ、エアチェックものと思われる(MEMORIESやCD-R)。重厚な語り口でしっかり表現していくもので、迫力がある。録音が撚れ気味で、音量にも録音起因の揺れがあり聴きづらいが、一応ステレオなりの立体感は保たれており、セルがけしてせせこましい音楽を指向していたのではないことがわかる。マーラーらしい聴感の佳演になっている。まあ、セルはあくまでクリアな録音でこそ活きてくる精度を持っていた人であり、正規ですら物足りない録音が多い中、この音質でも少々きついかもしれないが。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(TCO)1969/1/30,2/1live・CD,一部同上,30日録音については再三海賊盤が出回っているので言外とするが、クリーヴランド管弦楽団による生誕100周年記念の正規復刻(CENTENNIAL CD EDITIONボックス収録)とはいえ音はけしてよくはない。リマスタリングもされておらず、結構多いオケのミスや雑さ(終盤疲れたね。。)はおろか環境雑音までもが余りにはっきり聞こえすぎ。2楽章では正規にもかかわらず混信のような変調が一カ所。三回の演奏会の寄せ集めのはずなのに、、、うーん。そりゃ記録用録音よりもホール座席のほうがいいバランスで録音できるだろうさ?しかし重量感が強く感じられ、MEMORIES盤の印象が正しかったことがわかる。スピードのドライな速さは一部非常に特徴的な解釈表現を除けば気になるところで、トスカニーニ様式を極端にしたようなところも否定できない。リズム感のよさが発揮された2楽章は気の利いた解釈含め聞き所ではあり、高価なボックスという条件さえなければロスバウト好きにアピールできる演奏、ということでお勧めできなくもないが。録音は拍手も無いが、そこも含めオケのぎくしゃくがリアル過ぎて、細かいところまで聞こえることが必ずしも楽しめるということには繋がらないということがよく認識できる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第9番(1909-10),セル指揮クリーヴランド管弦楽団(cult of classical music:CD-R)1969/2/6live,,このとっくに消えた海賊盤レーベルは既出音源を指揮者毎にソートし直して組み物で出す高額レーベルと感じ、データも確認せず看過していた。セルの同曲は自主制作正規盤以外では一音源(1969/1/30ライヴ(1968年説、5月9日記載盤あり))しか存在しないと言われており、データが違っても既出盤と同じと思っていたが、最近ネットで環境雑音が違う、一緒に収録されている大地の歌も1970年セル最晩年のもので両方とも初出と知り、webを探して聴いてみた。結果、環境雑音を置いておいても、違うと思われるので別記する。すでに入手できない盤だが聴くことは聴けるので興味がわけばどうぞ。録音はセルの同曲盤の中でも一番いいと言う方もいたが、砂ノイズが入り続け、4楽章終盤でははっきり言って邪魔。かなり辛い。言うほどけして良くない状態ではあるがソリッドなステレオ録音でバランスもよく、聴衆録音(インホール録音、膝録)ではなく放送エアチェックだろう。3楽章の肝心なところで派手な音飛びがあるのは、原音には無いと思うので惜しい。演奏的には極端な新即物主義という点は同じ。サウンドとしてのマーラーを追求する。一楽章のヴァイオリンの音色には思い入れを全く感じないが音は素晴らしく出ている。発音の頭を極めてハッキリさせるセルの方法で、経過句には緩やかな表現もとるが、休符後の音符の最初は常にアタックがかかるくらい「キッチリ譜面通り」の音を出させて違和感がある。ただ、これはシェルヘンの同曲ライヴを思えば、速いインテンポでサッサと進むドライさもまるきり同じで、即物的といってもこれはこれで一つの解釈なのである。まあ、聴いているうちに飽きるかもしれない。シェルヘンと違うのは音響バランスの完璧さか。締め上げられたオケは、アメリカオケとか欧州オケとかそういった垣根を越えたものを提示している。マーラー9番のスコアの隅々まで耳でわかる。これが復刻されない理由は事故の多さかもしれない。前半ではそれほど目立ったものはなく2楽章でブラスの一部がとちる程度だが、4楽章は最初からひときわ性急なテンポがとられ、インテンポではなく前のめり、ともすると走って行きかねないほどで、そのくせ緩急つけるところは極端につくので、即興的とでも言うのかオケが勝手に動いてしまったのか、他の楽章と違う感情的なものを感じる。危ういなあと思っているとついに大事故。緩急のテンポの制御がつかずオケが完全にずれてしまい大崩壊してしまうのだ。復旧して最後はしめやかに終わるものの、これは復刻されないな、と思った。拍手は盛大だが、セルマニアならどうぞ、というところか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),セル指揮クリーヴランド管弦楽団 (HUNT他)1968 最近CD-R盤で再発された。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(CULT OF CLASSICAL MUSIC:CD-R)1988 まずロンドン・フィルの演奏であるが、威厳に満ちた素晴らしい演奏である。立派な演奏だ。まるで古典を演奏するようにこの大曲をさばいている。それでいて情緒的なものにも欠けていないのが素晴らしい所で、フィラデルフィアのライヴでは尚更激しい表現も混ざってくる。フィラデルフィアは楽器の音色にそれぞれ特徴がありその音色の艶に音楽の深刻さが損なわれてしまうところもなきにしもあらずだが、魅力は十分だ。どちらかといえばロンドンを推すが、フィラデルフィアも機会があればどうぞ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○テンシュテット指揮ロンドン・フィル(EMI)1979/5 フィラデルフィアライヴ盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○テンシュテット指揮NYP(VON-Z:CD-R)1982/4live,,少し篭っている。1楽章、わりと速いかと思いきやすぐに物凄い粘り節。瞬間湯沸かし器的なアッチェルより粘りやどん底の暗さが印象的。またNYP(あのバンスタのNYP)とは思えない雑味のなさも特筆すべきだ。弦が音色感を損なわずに雑味を消されている。ブラスはさすがに遅さの余り乱れるところもあるが全体の迫力に消されている。例のバンスタにしか聴かれないヴァイオリンのスル・ポンティチェルリの箇所をやらせているのに驚いた。2楽章は冒頭からリズムがきつく耳に悪い。演奏もその重さに振り回される。後半は整ってくるが、録音に難あり。3楽章、きついアタックも嵐のようなこの楽章にはあつらえ向き。中間部は割と明るく速いが響きは前衛的な美しさをよく拾っている。4楽章は明るく静謐な感傷表現で、かなり粘るが明晰な響きで冷静さを保っている。テンシュテットにしてはブラヴォが少ないか。バランスはいい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),テンシュテット指揮NYP(en larmes)1982/2/18放送live,,日本でもFM放送されたものであり、ここでは本編以外拍手などカットされているので詳細は不明だが、混信めいたノイズが静かな場面で非常に耳障り。籠もって音域が狭く感じられ、いかにも80年代のステレオ放送エアチェック録音音質である。しかしなおテンシュテットの雄渾で粘り腰の九番の魅力は強力に伝わってくる。二楽章のいかにもレントラー舞曲らしい重々しく突進する動きもいいのだが、やはり一楽章に尽きるだろう。暗い情念の感じられる表現は時に極度にデフォルメされるも、バンスタのような個人的な表出意欲より、マーラーの音楽の包蔵するそのものを引きずり出しているようで、変な言い方だが、「ドイツ的な感情」を発現させているように聴こえる。漢らしく、弱々しい自己憐憫などなく、ただ諦めと荒んだ心が抽象音楽に昇華されてゆく。ニューヨーク・フィルがこのような(ペットの派手なミスが1箇所あるが)高精度の演奏をマーラーで成すのも珍しいように思う。バンスタの一部の演奏にも神懸かり的なものが残っているが、強いて言えばそれを下敷きにしたようなところもあり、例のファーストヴァイオリンへの「スル・タスト」奏法導入はまさにバンスタ解釈からの借用だろう。いずれ録音状態からも後半楽章の煮詰まり方からも完成された完全な名演名記録とは言えないものの、マーラーの九番はこういう曲だ、というのはこの人の「黒い演奏」とワルター晩年の「白い演奏」を聴けばわかる、それでもわからなければバンスタで肌で感じろ、といったところか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○ドラティ指揮ベルリン放送交響楽団(""0""""0""""0""CLASSICS:CD-R/WEITBLICK)1984/5/30LIVE・CD,,2009年CD化。かなり厳しく律せられた演奏で驚くほど完成度が高い。何も特異なことをせずに力強く率直な解釈を施しているだけなのにこの音楽の何とマーラーであることか。オケの力も一方であることは確かで、今のラトルのオケにはこの音は出せないだろう。1楽章の音楽そのものが自ずから語り出すような何気ない、しかし生身の人間の苦悩と平安がいっそうリアルに伝わってくる演奏ぶりは、何度聞き、弾いてみたかわからない耳飽いたこの楽章がそれでも限りなく魅力的であることに改めて気付かせてくれた。繊細でしっとりした情感には欠けるかもしれない。響きの美しさや正確さを求めるのはこの時代の指揮者にはお門違い。だけれども論理ではないのだ。未曾有の苦難に塗れた時代をタクト一本で生き抜いてきた指揮者の生きざまがここに滲み出ている。マーラーに余り熱心ではなかった人だけれどもこれだけの演奏ができるというのは並ならぬ。中間楽章となると意見の別れるところだろうが(私は遅めのテンポはアンサンブルが乱れるので余り好きではない)、引き締まり統制のとれた,厳しい演奏であることに変わりはない。一音一音が強く突き刺さり、叩きつけるような発音は一時期のクレンペラーを想起する。もっともリズム感のよさにおいては全く上をいくが。3楽章中間部のドラマはリアルに感情を刺激する。楽想変化がスムーズで、テンポ差が小さいせいか緩徐部から抜けるあたりがとても自然にキマっている。テンポもデュナーミクも揺らさない直球の人だけれども4楽章の静かな旋律のニュアンス付けはヴァイオリンを始めとする旋律楽器の思い入れの余った音とあいまって美しい。内声の隅までしっかり弾かせるタイプの指揮者ゆえどうしても音楽がリアルになるきらいがあるが、それでもここでは歌わざるを得なかったのだ。テンポがとにかく前へ前へ向かい異様に速い場所もあるが、そんな演奏ぶりにはワルターの有名なウィーン・ライヴを思い出させるものがあり、同時代性を感じさせずにはおかない。思いでをかたるようなハープに載って単純な木管アンサンブルがひとしきり流れる場面の哀しさ、そのあとの奔流のような弦の流れ込みにはもう少し深刻さが欲しかったがそれでも充分にこれはマラ9だ。没入型の演奏ではなく、暗くはないけど、何か訴えるものがあり心にずしんと響いてくる。最後の美しさといったらない。最近ありがちな透明で金属的な美しさではない。温かみの中に生々しい感情の押し殺されたような呟き、これは涅槃の音楽ではない、「人間の音楽」だ。,,長い沈黙のあとのブラヴォもうなづける佳演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○ノリントン指揮シュツットガルト管弦楽団(BBC放送)2011/7/25プロムスlive,,まさにノリントン。ノンヴィブラートを堅持する弦、鋭く突き刺すようなアーティキュレーションで煽るブラス、極端なテンポ変化に強いリズム表現。特に四楽章は物議を醸した演奏である。そのスピードとあいまってシェルヘンを彷彿とさせた。しかしシェルヘンはヴィブラートで耽溺する。ノリントンはまったく、言い方は悪いが子供の演奏するように音色感のないノンヴィブ、プラスぶっきらぼうなブラスが興ざめさせる。でもうまく構成されていて、コンマスソロはヴィブラート解禁しているし、響きに神経質になることもなく、ライブ感を維持している。いつもの奇妙なノリントンではあるのだが、三楽章は水準以上に聴かせる。○にはしておく。オケが機能的で音色も比較的冷たいのが逆にノリントンにはあっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○ノリントン指揮シュツットガルト放送交響楽団(?)2008/9/5放送live,,webで配信されていた音源でのちに再演されることになったほど人気を博したものである。凄まじい統制力で音符のギリギリまでズレることを許さず、弦楽器の長い音符は響きのブレをなくすため全てノンヴィブラートで通し、オケもよくついてこられるものだという極端なテンポ設定も独特のものだ。1,2楽章は完成度が高い。精緻さよりもそのうえでの異様な迫力に押される。附点音符付のフレーズをリズムを死なせずにここまでギッチリ合わせられるというのも凄い。おしなべてテンポは速いが2楽章の好戦的な調子は白眉だろう。だが3楽章は冒頭から乱れる。疲れというよりは楽章自体の難しさからきていると思うが、ミスも目立ち、「このての演奏として」聴いている側としては一服つけてしまう。4楽章はノンヴィブが光るがこの楽章はもはや線的なフレーズの弱い絡まりでしかないので、特殊な思い入れが必要となるぶんこういう解釈には不向きか。ヴァイオリンソロ前後で一瞬ノイズが入る(入らない音源もあるかも)。総じてはしかし、凄いものであった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○バーンスタイン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管(DG)1985/6LIVE バーンスタインはやはり別格だ。私個人的には最後のコンセルトヘボウ盤を◎にしたいところだが、ニューヨークのものは聞き易さの点でずば抜けており、ベルリンの問題演奏はその崩壊寸前の危うさが驚異的な起伏を持った独特の演奏たり得ており捨て難い。音質でいえばベルリン盤はあまりよくない。別項で記したがこの盤は手が加えられていて、分かり易いところでは1楽章の終盤で観客の咳が二個所ほど入るはずが、消されている。そういうところがややこの盤を最上級にまつりあげることに躊躇を覚えさせる。ここにはあげなかったが映像の全集版ではウィーン・フィルとの非常に美しい演奏もある。どれもすばらしい。恣意的であるがなお、それを凌駕するような説得力をもった演奏だ。できれば、それぞれに接していただきたい。いつでも同じ演奏をするたぐいの指揮者ではないから、なお。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),◎バーンスタイン指揮VPO(ユニテル:DVD)1971/3LIVE このころからポンティチェロ奏法を取り入れていたんだなー。いえ、独り言です。映像だが見た目に左右されない強固な音楽表現を行っている。むしろバーンスタインが飛び跳ねる姿を見ずに聞いたほうが純粋に楽しめるかもしれない。個人的にはヴァイオリンのボウイングが「歌うため」だけに作られているような感じで面白かった。音質は良くはない、とだけ言っておく。まあ、ヴィデオよりはずいぶん聴き易い。スピーディなところはスピーディ、耽溺するところは耽溺(手綱さばきが異常に巧い、違和感を感じさせずにこれだけ音楽を伸縮させられるのは凄い。後年の演奏は度が過ぎているというか耽溺が耽溺とはっきりわかってしまうところがある)、それが互いに有機的に溶け合ってひとつの大きな音楽を形作っている。瞬間湯沸かし的な演奏は世間に多々あるが、バーンスタインはそう感じさせない独特の技術を持っている。曲の隅々まで知り尽くした者だけのなせるわざだろう。まったくミスのないウィーン・フィルも凄い。緊張感がある。2楽章のリズム感も明瞭でスピーディさを感じさせる。後年の演奏とは違うところだ。3楽章は序奏部がいきなり間延びしているのが不思議だが、すぐ主題に入るとテンポアップ。こういう細かい解釈の積み重ねがバーンスタインの余人を許さない独自の解釈に結実しているのだな、と思う。それにしてもライヴとは思えない完成度の高さ。このころのバーンスタインはスピード感があり颯爽としている。なんだかんだ言ってもバトンテクのある指揮者である事は誰も異論を差し挟めないところだろう。ウィーン・フィルのブラスはなかなかはじけてくれないが、丁々発止の木管や音程感覚の明瞭なティンパニ等打楽器、ノリのいい弦ととても調和している。中間部もそれほど極端に遅くはならない。生臭くならない程度の心の篭った表現が聞かれる。クラなどが警句を投げかけ再び主題が戻るあたりはかなりハイ・スピードにかえって表面的な悲劇を演出する。「表面的な」としたのは終楽章こそが「内面的な」悲劇を顕していると勝手に思ってるからです(笑)。嵐のような結部はライヴ感溢れ物凄い迫力だ。音だけを聞くと弦はかなりヤバいところまで来ているのがわかる。さて、バーンスタインがうつむき加減で棒を振り下ろすとヴァイオリンの荘重な旋律が始まる。この曲の終楽章はかなり歌謡的で、また「白い」。錯綜する書法で聞かせたそれまでの楽章とは違いあまり錯綜した響きはなく、楽器の用法もいくぶん単純である。なので私は好きではないのだが(爆)この演奏は逆説的に好きだ。深く入り込まず純粋に歌っているように思う。音楽的な範疇で情熱的に歌い上げているのがいい。バーンスタインは時に大口をあけ耽溺しきっているが。弱音部の異様な静寂も聞き物。全般、円熟味より若々しさを優先するような演奏だが、若い聴取者はむしろこういう演奏の方がいいのではないだろうか。マーラーに溺れないで聴くこともマーラーを理解する一つのやり方だ。マーラーは一つのやり方だけで理解できる単純な作曲家ではない。ドイツ奏法を学んだ後でロシア奏法を一から練習するようなかんじで気長につきあいましょ、マーレリアンのみなさま。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(SONY)1965/12/16 ACO盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○バーンスタイン指揮ベルリン・フィル(DG)1979/10LIVE ACO盤評参照 (ベルリン・フィル盤後補)カラヤン・バーンスタインの確執も今や昔。でもこれがドイツ・グラモフォンで日の目をみたとき、初めて耳にした感激は忘れられない。やはりオケの力というのは凄い。1楽章緩徐部でファースト・ヴァイオリンが駒脇に載せた金属音、何時聞いても背筋を凍らせる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),バーンスタイン指揮ベルリン・フィル(PANDORA'S BOX:CD-R)1979/10/4LIVE,同上?,この組み合わせでピンとくるだろう。そう、有名なDG盤と同じ演奏だ。それをなぜここでCDーR盤という形であえて提示するのかといえば、DG盤がかなり編集・修正を加えられて(ひいては翌日の演奏とかけあわせて、という説まである)実演と異なる印象の演奏に仕立てられてしまった、という俗説の存在にある。このCDーR盤は「無修正版」という謳い文句で現れたものなのだ。書籍やWEB上でそれら比較検証は相当になされているので、その点では特に深く触れない。それではここで何をいいたいのかというと、「あまり変わんねー」のひとことである。もんのすごーくド暇になったら細かく比較検証しようとは思うが、ちょっと聞き違いなんてわからない。音質もとりたてて良いわけでもない。高価なこの盤をそれでも手にするか?各人の判断にお任せする。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),◎バーンスタイン指揮VPO(DA:CD-R)1971/5/9live,,すごい。前半楽章の音質はアナログステレオ録音としては最高のレベルである。後半なぜか篭りピッチも下がりいつものエアチェック音質に戻るがそれでも美しい。これは程よいホール残響のためだ。舞台から離れた客席という位置でミキシングされて聞こえるそのままの形でしっかり収録できている。細かい瑕疵などほんらいホールが吸収するもので、とくにウィーンやベルリンのオケはそれをある程度想定して多少の雑味を表現力のための必要悪として出しているものである。正しい聴取方法を録音によって示してくれているのが有効にきこえる、エアチェック海賊盤としては稀有のものだろう。いや、VPOの精度も並ではない。バンスタの統制はここまで隅々まで行き届き、ここまでピリピリ緊張感があったのか、と叱驚する。ビデオではマイクが近く音だけだとかなりきつい生々しさ、デッドな感じがあるが、これには皆無である。,,そしてやはりバンスタがとてもいい。過渡期というより、長らくタッグを組んできたNYPとの定期公演的マーラーから、VPO果てはBPOほかでどんどんディープなマーラーを追求していった晩年期のあいだにあたるこの時期こそ、バンスタのマーラーは汎世界的な表現を獲得していたのだと思う。即物的前進性と情緒的ルバートの最高にバランスがよい。ルバートも完全に制御がきいているからグダグダ感はゼロ。マーラー自らになりきったような解釈は、この時点では「マーラーを越えてマーラーにならんとする」ことがない。やりすぎがないのだ。怒れる足踏み(耽溺する鼻歌ではない!)くらいである。NYP時代に持ち味としていた力強い前進性は1楽章のみならず全楽章において保たれ、4楽章に一箇所非常に気になるソロミスがあるほかは極めてアンサンブル的なまとまりが保たれ非常に高精度にきこえ、ユニテルの映像音楽でもなかったような、まるでVPOでないかのような「大人の音」で、雄渾でかつ壮大な世界が、絶妙の手綱さばきに乗っかって開けていく。精度とひきかえに音色の個性的な艶が低いピッチ以外が失われているが、これは録音のせいだろう。それがゆえにまるでBBCSOとかSWRSOのような鋭い表現が「グダグダバンスタVPO」のイメージを完全に覆す。多分録音がちゃんとしたホール録音機材でおこなわれ、恐らくは市販されることを念頭にちゃんとなされていたのだろうということは想像つくが(じっさいここまでの名演なだけに既出でないのか?日付だと違うようにも見えるが検証する気ゼロ)復刻されてないならぜひ正規化すべきである。最後まで鋭く細い響きを保ち耽溺に流されないでいながらも、常にフレージング指示の見事さはバンスタの作曲家としての感性がマーラーとシンクロして一体化したころの、まさに空前絶後の、慟哭ではなく、美しく、仄かな哀しみを載せた世界である。ワルターの解釈の延長上にあるような結部の消え入るような音、ここにも注意深いテンポルバートが指示され、きちんと表現されている。しばしの沈黙の後拍手が入るがすぐカットされている。惜しむらくは後半楽章の媒体撚れ、でも◎。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----
マーラー:交響曲第9番(1909-10),◎バーンスタイン指揮イスラエル・フィル(helicon)1985/8/25live・CD,,録音状態にけちをつける向きもあるかもしれない。しかし、バンスタのM9というのは異論を差し挟む余地の無い一つの頂点を示していると思う。オケがすばらしい。田舎臭さも鈍重さも無く、バンスタの要求にびしっと応え、バンスタの解釈を完璧に再現している。ベルリン・フィルなどとのライヴに比べると強烈な個性には欠けるかもしれない。やや即物的な解釈に寄っていて、スピードも速く感じる。だが、スヴェトラーノフがかつてそうであったように、「やってほしいことを全てやる」演奏であり、「ここではこう行ってほしい、行ききってほしい!!」という期待に全て答える。ここが、かなり伸縮し恣意性の強い演奏にもかかわらず「聴きやすい」と感じるゆえんでもある。とくに聴きやすいな、この演奏は。過剰な思い入れとプロフェッショナルな「技」のバランスのとれたすばらしい演奏。規律のとれた一楽章がいいのだが、中間楽章も実に聴きやすい。個人的にこの曲の中間楽章はキライだが、これはとても愉悦的で、絶望的だ。終楽章には少し弛緩を感じた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),◎バーンスタイン指揮イスラエル・フィル(LANNE/eternities:CD-R)1985/9/3live,,数日ずれているとされるものに比べ録音のクリアさはなく篭っているが、音場が安定しておりノイズも極めて少ない。一部ステレオ乱れはあるものの、恐らくエアチェックもの(スピーカー前録音?)であるせいだろう。ホールがオケの雑味を吸収しており、イスフィル特有の表現の癖が目立たないぶん、BPOとのライヴに似ていることに気づかされる。数日ズレのものと壮年期の勢いぶりは同じだが、これも録音状態のせいだろうけれども、より深みを感じるのだ。いかにも第九らしいものを。いや、表現の振幅が大きい解釈は同じなのだけれども。1楽章緩徐部ではBPOライヴで行っていたファーストヴァイオリンのスル・ポンティチェルリ奏法(譜面指示無し)がはっきり聴ける。指揮台を踏み鳴らす音がティンパニより大きい。2楽章冒頭ではブラスがつんのめり気味で少しテンポが乱れるが、弦は終始ボリュームがあり凄い表現力である。荒いけれども、「音楽の空騒ぎ」を超高速でやり通しバンスタなりの見識を見せる。3楽章も荒々しくテンポは速い。弦にはとにかく歌わせ、木管にはトリッキーなことをさせる。緊張感溢れる演奏である。4楽章は涅槃ではなくあくまで地上の音楽として、ロマンティックな、寧ろ明るい音楽になている。生臭さが無いとはいえないし、メータなどの解釈に似ているように思うが、ある時期のマーラー解釈の典型を示すものでもあるだろう。終演後のいつまでも続く沈黙が演奏の素晴らしさを物語っている。この録音なら◎にして構わないと思う。激しい演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○バーンスタイン指揮イスラエル・フィル(LANNE/eternities:CD-R)1985/9/5LIVE,,劣悪なエアチェック音源(オーディエンス録音?)だが実演にふれられた幸運なかたには懐かしいであろうバンスタイスフィルのまさにそれである。まだ生気に満ちた音楽で、三楽章の荒れ狂うさまは特に木管ソロの聞いたことのないような技巧、ジャズ的ですらあるアーティキュレーションが聞き物だ。少し舞台が遠く弦のアタックがなかなかはっきり聞き取れないのは辛いが、オケ特有のものもあるだろう。全般速く常にアッチェランド気味のさまは世俗的な感興をもよおし生々しい音も至極現世的、でもそれがこの人壮年期のマーラー。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),バーンスタイン指揮イスラエル・フィル(vibrato)1985/9/8東京live,,モノラル膝録。歪み、情報量の少なさからリバーブをかけてもつらい音質。環境雑音は仕方ないが高音が弱く、弦楽器、肝心のヴァイオリンの音が遠く薄霧がかかったようで、音量変化すらとらえづらいのは残念。そんな状態なので細部は聴き取れないし音色も評価不能である。基本解釈は他の同時期の正規非正規盤と同じなので、それら幾分音のましなものを聴いたうえで、脳内補完できる人向けの音盤。この実演を聴いてバンスタにハマった知人が確かにいたが、ここで聴こえるものは実演とは程遠いと思われる。変な「伝説」に惑わされないほうがいい(この夜バンスタの枕元にマーラーが立ち「ありがとう」と言ったというが〜当時そのての作文は多かった〜アルマの枕元にすら立った記録がないのにありえない)。1楽章冒頭はそれでも迫力がある。物理的な迫力ではなく異様な音楽の始まる緊張感だ。マーラー9番としてはさすがのこなれっぷりでオケも演奏瑕疵のない点は晩年のバンスタの達していた境地を察して余りあるが、、、解釈は他と同じなので新味を感じず私は次第に飽きてきた。この時期にバンスタの導入していた(これは譜面改変なのだろうか)ヴァイオリンへの一部スルタスト奏法はここでも一応聴こえるが、ほとんどの人にはこの音では差がわからないと思われる。これ自体意味不明の「ミョ〜ン」という効果を狙ったもので導入しないこともあったから、まあ聴こえなくても問題はない。細部はともかく、解釈はこなれており起伏に富んでなお自然な流れの寸断されない大きく有機的な演奏で、印象的には他の記録より激情に駆られて急激なテンポ変化など行う率が高く、しかしながらオケに一切乱れがないのは迫力の源である。三楽章でパチン系ではない音飛びがある。そしてこの後半楽章になると音質が一層不明瞭で、アンサンブルが明快には聴こえない。音楽そのものの力で押し通す前半楽章と違って構造的な魅力をみせる後半楽章は録音状態の影響を強く受ける。四楽章になるとさらに弦主体なので正直きつい。伸び縮みと流れを追うことしかできないが、その点でいうと異常に清澄で異常に引き延ばされた結部近くは印象に残る。余韻を無音部分含め全ておさめてからでいいのに、音は一応なくなってはいるが、あっさり切れて拍手カットなのは勿体ない(元のテープが足りなかったのだろうか、四楽章だけで30分超は長すぎではある)。以上、やはり既出盤で十分な録音であり、海外っぽくしておきながら国内焼き臭いこの盤の、そらぞらしい浮世絵ジャケを眺めながら、どこぞの音楽評論家の檄文でも読み返し、なんとなくその場にいたような気分になるくらいのものである。その場にいたのであれば、終演後に当日のライヴ盤を手売りされた気分で、あくまで思い出の記録としてとっておくのもよい。,,<参考>バーンスタイン最後のマーラー9番記録について(現時点でのデータ),,NYP(65/12/16)、VPO(71/3live映像)、VPO(71/5/9live)、BPO(79/10live)、BSO(live)盤を承前として(一部疑義・編集・無編集版あり、以下含めまとめブログ参照),,1985年,,・5/29-6/3ACO live編集版(stereo):DG,・8/25IPO テルアビブ、マン・オーディトリアムlive(stereo):Helicon(IPO) ☆これを聴きましょう,・9/3IPO大阪フェスティバルホールlive(stereo):LANNE、ETERNITIES※,・9/5IPO名古屋市民会館大ホールlive(stereo):LANNE、ETERNITIES※,・9/8IPO東京NHKホールlive(mono):VIBRATO(本盤)※,・9/12IPO東京NHKホールlive(mono)2017/4発売※,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),バーンスタイン指揮イスラエル・フィル(vibrato)1985/9/12live,,これでバンスタ/IPOのマーラー9番来日公演のすべてが出揃ったわけである。前回の「伝説の公演」の酷い状態に比べ、良い座席だったのか声部間のバランスがよく、放送録音かと思えるほど安定しており、数倍聴きやすい。擦れた部分もあるが、依然きわめてノイジーなモノラル録音ではあるが、これなら60年代の放送エアチェック音源と言っても通用するだろう。演奏は均整が取れており過度なデフォルメが目立たない。客観的に見れている感じである。圧倒的に重厚壮大な四楽章はともかく、テンポが早めな印象を与えるのも、録音バランスの(帯域も幅も十分)良いところからくる「聴きやすさ」に起因していると思われる。一楽章など私は一連の記録の中で特記していい「統制が取れバーンスタインの解釈をきちっと具現化した演奏」だと思う。戦闘的な中間楽章も素晴らしい。四楽章は延々と続くような詠嘆の表現には至っていないが、これも均整が取れていて、生演奏はともかく、こうした記録として聴くにはむしろ良い。お約束の沈黙のあと長々と拍手やブラヴォまで入り、翻って各トラックほどよく編集されていることから、もともとはしっかり全公演を録音できている(つまり前回のように心持ち尻切れるような音源ではない)と思われる。邪魔な砂ノイズは何とかできそうだ。情報量はある。80年代中盤なんて放送エアチェックですらまだまだ依然モノラルでテープ録音していたような人は多かった。私は90年代のスヴェトラーノフの放送すらMD録音時間の制約でモノラルで録音していた。況やインホール録音をや。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),バーンスタイン指揮ボストン交響楽団(CD-R)LIVE 音が悪い。但しこれを名演とするひともいます。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○ブーレーズ指揮ロス・フィル(WME:CD-R)1989/5LIVE,,例によってエアチェックもので録音悪質。一楽章なんて左右がそっくりかえっている。まだ血気盛んなブーレーズと激情的なロス・フィルが意外とおもろい不協和音をかなで聞ける演奏ではある。オケ暴走の二楽章最後なんかブーレーズらしからぬ感じだが一楽章後半でいきなり感情を煽る極端な表情を恣意的につけてきたり、四楽章にいたっては見栄を切るような深い表現を駆使してくるあたりマデルナを思わせ面白い。ブーレーズなりの構造のあぶり出しかたはロス・フィルというきかんぼうと録音の不明瞭さにはばまれ余り際立ってこないが、直情的でリアルなマーラーをブーレーズで聞けたという愉しさはあった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○ベルティーニ指揮VSO(WEITBLICK)1985/2/3LIVE・CD,,どんなに技術的瑕疵が多くても、歌謡的なマーラーにはウィーンのオケが最も似合う。ベルティーニは見通しよくかつかなり激しいアタックで切り裂くような硬質の表現をめざしているがオケは指揮者の構造に対する鋭い感覚を従順に受け入れつつも容赦なく歌うところは歌い、結果として、旋律とそれにからむ対旋律しかない単純さの目立つ、和声的に空疎な部分の多いこの曲の、本質的な不可思議さがそのまま浮き彫りにされ、効果的にマーラー晩年そのものの魅力が生きてきている。すばらしい記録であり、VSOにしては出来がよく、ベルティーニにしては激情的、聞いて損はあるまい。私は後年のものよりおおいに買う。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ベルティーニ指揮オスロ・フィル(KAPPELMEISTER:CD-R)1996/3/15LIVE,,この曲でベルティーニで、終始ブツブツ放送ノイズが入る時点でアウト。非常に聞き辛い。エアチェックならもっとましな音を使ってほしいものだ。鋭くアンサンブルを磨き上げた熱演だが、オスロはところどころ鈍重で甘い。のったりした重さが3楽章など気になる。分厚くも音色は怜悧でベルティーニにはあっているのだが、繊細な美観をみせるのにこのノイズ塗れでは俎上に上げようもなく、名演だった可能性もあるものの、幾度となく録音しライヴもやってきたオーソリティには必要な記録とは思えない。無印。演奏は良くも悪くもベルティーニの九番です。マーラー指揮者としてすばらしかった、けど、何か明るくて、現代的であるがゆえに強く主張する解釈がない。もっとも4楽章の重いうねりと遅さは凄絶で、粘りに粘る表現はある意味暗い。バンスタなどと同じく、ベルティーニの血を感じさせられざるを得ないもので、ライヴならではのものかもしれない。4楽章は始めから最後まで一定に凄絶なので、やや起伏に欠けるとも言えようが(オケの響きが重すぎてマーラーの特徴的な和声的書法が浮き立たないかんじもする)。,-----,,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ベルティーニ指揮KORN RSO,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ベルティーニ指揮KORN RSO(放送ライヴ)1991LIVE(以下は放送ライヴの印象です。そのときどきで解釈を変える指揮者の類ではないですから、その点ご容赦ください)マーラーの演奏にもしスタンダードというものがあるとしたら、それはこのベルティーニ演奏のようなものをさすのだろう。ベルティーニは細部まで研ぎ澄ました音たちを、マーラーの意図した響に近づけるべく巧みにさばききっている。結果、「クセ」のない非常に精度の高い演奏が出来上がった。それゆえ第一楽章はひっかかりがなく客観的な演奏にきこえるが、中間楽章のアンサンブルの饗宴は目覚ましく、動ずるばかりである。「マーラー臭さ」は希薄だが「マーラーそのもの」の演奏になっている。実力ある指揮者だ。それにしてもベルティーニ下のケルンは舌を巻くほど巧い。それだけでも聴く価値はある。「あの」マーラー・ティクルス以降、日本ですっかりお馴染みのマーラー指揮者として認知され称賛されるようになったベルティーニだが、もっともっと円熟した演奏をぜひとも目指していただきたい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○ホーレンシュタイン指揮ウィーン交響楽団(DA/WME:CD-R)1960LIVE,四角四面で武骨で遅くつまらない解釈を施すイメージのある人ではあるが、縁深いウィーンのオケとやるとがぜん感情的でスピーディな表現を行う。だからホーレンシュタインは追う価値があるわけで、この演奏は「いい方」である。録音が時代からして極めて貧弱なので、絶対に薦められないが、ホーレンシュタインのガシンガシンと重い発音が、共感を音色に籠めて力強く歌うウィーン響と合致したとき、たとえばイギリスや北欧のオケとやったような無味乾燥さはいささかも感じられない。艶はないが感傷はある。4楽章の弦の迸る熱意、なめらかな表現、織り交ざるポルタメントの妙。厚い響きの歌が途切れることなく、ついえることもなく、足踏みしながら激しく、続く。ああ、ホーレンシュタインの音感覚というのはあくまで中欧のもともと色のついたオケでやることを前提にしており、それが差になってくるのか。アメリカ響のライヴやVOX録音に惹かれた向きにはお奨めする。男気溢れる熱情が構築性の中に活きている。1楽章も聞きものだが、個人的にリアルで生々しく、素晴らしく立体的な造形の施された4楽章が印象的だった。○。WMEはDA音源を利用した模様。,,<ホーレンシュタインのマラ9 主要レコード>,"
Mahler: Symphony 9/Kindertotenlieder

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Mahler: Symphony No.9 & Kindertotenlieder

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マーラー:交響曲第9番(1909-10),ホーレンシュタイン指揮ウィーン交響楽団(VOX)1954,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ホーレンシュタイン指揮ORTF(ina)1967/9/7live放送,,ina配信ではPHF07009231。ステレオではあるが部分的に一部のチャネルしか音が入っていないことがあり、他のチャネルは音を発する楽器がないとしても少し気持ち悪い。ホーレンシュタインはペルルミュテールとのラヴェルのコンチェルトのようにぶっきらぼうなフランス向きでないスタイルを貫くことがあり、一楽章ではそれが楽団の軋みとなって各所に雑味を残している。それでも中間楽章よりはましか、とくに三楽章は遅く確かめるようなテンポ取りがもどかしい。何も考えず音を堆積させていくような、硬直した野暮さを感じる。それでもこの曲は四楽章が上手くいけば拍手喝采になってしまうし、ホーレンシュタインもクレンペラーをふやかしたようなスタイルが少し解釈的になってきて楽しめる。でも余韻は無い。ブラヴォから始まるが、ブーイングのほうが高まるのもやむなしか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ホーレンシュタイン指揮ORTF(DISQUE MONTAIGNE)1967/6,同上?,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ホーレンシュタイン指揮アメリカ交響楽団(MUSIC&ARTS)1969/11/LSO 1966,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10)〜リハーサル,ホーレンシュタイン指揮アメリカ交響楽団(放送)1969NY live,,ホーレンシュタインの耳の鋭さは感じ取れるが、解釈には疑問を抱く。拘る部分と拘らない部分の基準がわからない。再現部相当の部分でのばらけた演奏ぶりを看過しているのは単にその後の練習風景をカットしたからなのだろうか。うーん。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),◎マデルナ指揮BBC交響楽団(BBC,IMG)1971/3/31LIVE・CD,,表現の振幅の烈しさ、異様なテンポ設定にルバート多用で感情のほとばしるままに表現するマデルナは、バンスタまで確かに存在した一つの流れ、人間臭いマーラーを体言する指揮者の一人であったことは間違いない。イギリス一の手だれBBC響においては他のオケでは棒にあわせさせることもままならない状態であったのに較べ極めて精緻にマデルナのマーラーが描き出されている。静謐と激情の躁鬱的なコントラスト、見栄を切るような仕種に余りにあざといパウゼの挿入もすべて計算ずくであったのかと思わせるまでに、成功をおさめている。マーラーらしいマーラー、「解釈されるマーラー」を久しぶりに聞いた。一楽章の引きずるような重い出だしから、激情がほとばしるパセージでは必ず突っ走るテンポ(素人指揮にありがちな、盛り上がりどころでアッチェルしまくるクセはここでも決まり事のように繰り返される、但しその律せられかたは決して素人ではない)、ここぞというところでの見栄の切り方に激しく共感する。重々しい静かな場面での一種陶酔感とのギャップが凄い。アバウトさもないし録音もよい。何よりオケ、やや下品なブラスはともかく木管、弦楽器の共感の音色が例えようなく美しい。警句的に楽想を断ち切る太鼓の打音がまるで運命の重き槌を思わせる。心臓を停める。感情の描き分けがはっきりしていて、とにかくドラマが見えるような、飽きない一楽章だ。他のライヴでもこの楽章は素晴らしいが、これは畢生の出来であったろう。二楽章はいきなり物凄く速いが(マデルナは基本は結構飛ばす人だ)再現部以降のガツガツした激しいテンポが特に凄い。オケの能力とやる気にも驚く。一楽章とマクロな点でもコントラストがつけられている。三楽章は躁鬱の気がいっそう濃い楽章だが、予想通りやってくれている。激しい曲想でのアッチェランドは果てしない。四楽章は更に烈しさを増す人間的なうねりが最後、響きの中に溶け入り美しく静かに終わるのがよい。音響感覚の鋭さが際立つ。沈黙させる終わりかただが、拍手を早めに入れたがる気持ちもわかる名演。マデルナのマーラーでもラテン臭のしない汎世界的な価値を感じさせる崇高さすら持ち合わせた一級の演奏。オケの無個性がマデルナの強い体臭を上手く昇華させている演奏でもある。マラヲタは聞くべし。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:交響曲第9番(1909-10),マデルナ指揮TORINO RSO S47.12.22 1楽章がすばらしく深い読み。4楽章はやや劣るか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),◎ミトロプーロス指揮NYP(wea,warner)1960/2/12NYlive,,荒れ狂うミトプー、と言いたいところだが踏み外しどころはなく、二楽章の異常に速いテンポ設定を除けば、ああ、やっぱりこれがマーラーだ、「旧来のマーラー」だと安心させるものがある。ミトプーのマーラー録音の大半(全部?)はライヴ録音だが、やはりライヴの迫力、NYPの臨する気持ちも恐らく違うだろうし、コントロールの内面からの共感を得て行き渡った、ミトプーの時代における骨頂を示す素晴らしく感情的に揺り動かされるものを持っている。時代がらどうしてもトスカニーニの即物的な力技を彷彿とさせる前進力をもっているがそれこそミトプーの芸風の素晴らしいところでもあり、まあ、NYPのマーラーをききたければバンスタの旧盤よりミトプーのものをおすすめしたいくらいだ。録音もそんなに悪くは無い(一部雑音は入る)。強弱の弱に透明感がない、という言い方もあるかもしれないが、人間的である(4楽章結部の響きはそれでも見事である)。個人的にさいきん稀に感じる感傷をこの曲に対して抱くことが出来た意味で(シェルヘンのマラ9が一番とか思う人間なので割り引いてもらって結構)◎。録音が篭り気味でききづらいという人もいるかもしれないがこれはこの人の非正規ライヴ録音にしては最良の部類。ドラマチックだけどルバートしっぱなしの演奏ではまったくない直線性のある演奏。,-----,,,,,,,,,,,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(DG)1967/(audite)1975/6/4東京文化会館live 立派な演奏だ。速めのインテンポで熱の篭った指揮ぶりには心を動かされる。嵐のようにドラマティックな(少し乱れもあるが)1楽章がおすすめ。スタジオ盤の終楽章の速さも他では聞けないものだ。速くても情は篭っている。新旧解釈に余り差はないのだが、演奏時間で言えば新しいライヴのほうが長い。何度でも聴くに耐えうる演奏。なぜ評価されないのか不思議(やや単調と感じる人もいるかもしれない。)個人的には光彩よりも闇の雰囲気を持っている所が好きだ。こういう演奏で聞くとバイエルン放送響は巧くきこえる。クーベリック向きの曲!,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),クーベリック指揮NYP(KARNA:CD-R)1978/1/24・LIVE,,ダイナミズムに溢れ雄渾な指揮ぶりなのだが、比較的速めのインテンポで細かいニュアンスへの配慮がないのと、録音が悪く(ステレオではある)音量変化が無くて平板に聞こえがち(特に「凪」がない)なために印象に残りづらい。即物的だ。NYPの余り個性的でない音(ヨーロッパ的な重い音ではあるが)とあいまって、確かに九番としては、例えばブラスの発音のようにあからさまな情感の表現も申し分ないのだが、バランスが良すぎて予想通りのスタンダードなもの、という聴感になってしまう。もちろんそれはすれっからしの文句であり曲に親しみのない向きにはお勧めできる・・・だが録音は悪いので大音量で聞かないと響いてきません。そんな感じ。拍手前に録音の瞬断があるのが気になる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○ウィン・モリス指揮シンフォニカ・オブ・ロンドン(IMP)1992初出 モリスは常識的な指揮者であるが、その特徴としては、近視眼的な解釈は一切施さず、とても大きな造形で曲を組み立てていくところがあげられる。遅い所はとことん遅く、崩壊寸前まで落としていくのだ。オケがその解釈に耐え切れないところも見えなくはないが、なんとかやりおえている、といった感じ。1楽章は蒸留水のような演奏というイメージがあったのだが、改めて聴いてみるとけっこう生々しかった。冒頭からけっこう早いテンポで進むが、まさにマラ9の1楽章、といった感じの解釈だ。2楽章も案外速い。中間部の耽溺ぶりがなかなか。3楽章は対向配置のヴァイオリンが面白い効果を出している。テンポ良く進み、非常にまっとうな解釈だ。4楽章、これは美しい。。終末へ向けて何度も消えようとするはかない灯のような音楽。じつにモリスらしい静謐な世界。ワルター的な昇天をもって曲は終わる。全曲を通して「人間臭さ」があり、あたたかい。明るい色調も終始変わらず、バーンスタインのような芸風とは正反対ではあるが、これもマラ9のひとつの有り様だと思う。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○カラヤン指揮ベルリン・フィル(DG)1982/9live旧録(スタジオ盤)は何これ?といった箇所が多い。オケの各セクションが統率されずばらばらに動いているかのような居心地悪さがあるし、棒にもたどたどしさを感じる。特に一楽章だ。スタジオ盤とは思えないようなミスも聞こえてくる(ライヴ盤ではペットのミスくらいしか聞こえないのに)。管楽器の調子が余りよくない。比して弦は薄く遠く聞こえる。よってバランスが悪い。本当にぎりぎりのところでアンサンブルを保っているようなところがこの一楽章には多々あり、各楽器間で微妙にテンポがずれるのもしょっちゅうだ。楽器ごとに別別に録音したものを重ねたような感覚、といったら一番伝わるだろうか。録音も余りいいとはいえないし・・・。ただ、「何かしでかしてやろう」的な感覚は捉えられる。たとえば鐘がごーんと鳴るのにはびっくりさせられる。そういうものに面白味を感じられる人には向いている。あと、末筆ながら後半楽章はちょっと聞かせる。さて、新録なのだが、旧録にくらべやや速くなっている。演奏は非常に整っており、録音もクリアで自然である。この解釈(ストレート!)では完成度の非常に高みに達しており、これ以上は無理だろう。この後カラヤンが二度とマーラーを振らなかった理由が分かる気がする。とくに楽器間のバランスが非常に良いのには旧録の問題もあっただけに安堵。だが、そうであるがゆえに「体臭」のようなものが感じられない。美しい、しかしこの曲にはそれ以外のものを求めたくなってしまう。ベルクが死の香りを嗅いだ一楽章にかんしては、だからなんとも評価しかねるところがある。単純に余りテンポの揺れない演奏だからそう感じるのかもしれない。二楽章もテンポはやはりあまり揺れないが、弦にびりびりと気合が感じられ「音のコントラスト」が激しい。三楽章は割合と「純音楽的」で意味付けは深くない感じだ。四楽章は一楽章もそうであったが強弱のレンジが非常に広い。録音はバッチリだ。古典的アプローチであり、変に解釈を入れないところが「らしい」。ヴァイオリン、明るく美しい緩徐楽章の表現としてはよいが、9番終楽章としての低音で蠢く「深意」がやや薄められてしまっている気もある。中間部、ハープのとつとつとしたしらべにのって奏でられる木管楽器の哀しさは訴えてくるものがあった。教会音楽のように荘重にかなでられる終端はこの美演の白眉だ。息をつくのも憚られるほどの消え入りそうな音楽。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),◎カラヤン指揮ベルリン・フィル(GNP:CD-R)1982/5/1ライヴ DG100周年記念コンサートの放送音源の海賊盤らしいがよくはわからない。権利者のDGが正規発売を許さないようだ。でも、さいしょにいっておくと正規2盤を凌駕する名演。聴けるものなら是非聴いてみて欲しい。カラヤンの盤は昔から賛否が有り、全編豪華耽美な音・解釈すぎるがゆえ悩みの無く格好をつけた演奏、オーケストラの機能を見せ付けるだけの演奏、という偏見としかいいようのない評?が、多くの書籍に堂々と載っている。「殆ど同じ評論文」が著者交代して載り続けるという音楽書籍界も困り者だが、聴衆は馬鹿ではなく、カラヤン・マーラーは人気が無いどころか、依然支持者も多い。美音を楽しんで何が悪い、というわけだ。マーラーの絶筆、壮絶に泣きたい、なのにこの演奏はなんで・・・なんて、文学的背景は音楽観賞の「前提」としては不要、あくまで音楽をもっと楽しむ為の「次の」手段が、作曲もしくは演奏背景の探求じゃないでしょうか。そこまでいかない鑑賞というのもあっていい。かつては名盤として知られていたジュリーニの9番の、一時期の聞かれ方(ジュリーニはマーラーに興味が無いから、とかいう中傷的評論を見たことが有る)にも似て、かつて”マーラー指揮者”だけがマーラーの”深遠な”世界に至れるという偏見が支配していたころ(バーンスタイン信望者だけを指しているわけではありませんので念のため!)の悪しき習慣、やっと抜けてきたイマ、遅き旬ともいえるだろう。比してバーンスタイン・マーラーの異常なほどの人気は平静を取り戻しているようである。私の専門?は全集なぞできる時代より前の演奏記録ゆえ、テンシュテット支持者やクベリーク・ライヴ信望者などの熱い思いが他演を排斥する勢いの中にあっても、全く影響されることなくマイペースで聴けている。自慢ばっかし・・・嫌わないでね(ハートマーク)キモワル79年の定番と82年9月の驚異的なライヴがDG正規盤の全てである。両者似ているといえばかなり似ている。が、特に話題盤であった後者、ライヴではないという噂が立ったほどまったく瑕疵が無く、ディジタル録音の明晰とあいまって「音響」は高度に磨きぬかれており、客席の感嘆の声を聴くまでは「ぶつ切れ融合方式じゃないか?」と勘ぐったりもした。旧盤にバルビローリ解釈の影響をみる人もいるので、そう勘ぐった訳だけれども(マラ9はそうでもないみたいだが、バルビはスタジオでは完全主義者ゆえ、ブツ切り録音も辞さなかったとか)、ここで挙げるライヴは楽章間(2ー3、3ー4)の調弦音がそのまま連続収録されているので絶対違う。さいきん長くなりがちなので、ここからは端的に(できるかな?)!一楽章ゆったり少し踏みしめるようなリズムにのって幕が開く。豊潤に流れるカラヤン・テヌート。ジュリーニとも違う透明度。・・・嘘・・・すごい。深い。やさしい。心を打つ。弦。流れは至って順調といったふうの常識的なものなのだが、第一の盛り上がりのあとの寂滅。弱音の美の魔術師、面目躍如といったものだが、そんな即物的な言葉では意味違う気も。ドイツ的剛直マーラーでもここには何かやさしさのような憧れのような非道く感傷を刺激するものがある。少し雑音入るが至って名演だ。スピット・ピアノの決まり良さ。いつもながらだが、いつもより感情的。ブラスは全てハッキリした発声による感傷の薄い直截音だが、この演奏では至極耳障りが良い。何か大戦前後のドイツの音を思い出した。ダイナミクスの創意にバーンスタインへの接近が指摘された同時期の恣意性を感じる。このあともかなりの恣意的解釈が混ざるが(デュナーミクや細かいルバートに顕著)決してバンスタイコールではない、対極的なものだから念のため。しかし、明るくやわらかな光に包まれているにも関わらず、どん底の諦念を感じるのは何故だろう?あからさまな感情表現やアッチェルも無いのに、やはりこれは弱音部の表現の深さにあるのか。この一楽章は聴く価値大有り。二楽章重いテンポ。これは凡庸。強いて言えばヴァイオリンの発声が少しハスキーだったりする。時折のカラヤン・デュナーミク(s.pp<ff)は堪らない人には堪らない。堪らなくない人の私も感動。表現主義的な突然のコントラスト。しっかし剛い音に思い入れは無いのに、凄く「気」が入っている。プロフェッショナルも昂じるとこの境地なのだろう。途中急速部の迫力!!かなり恣意的な解釈が続きテンポも頻繁に変化。舞曲はウィーン風のズラしが無い普通の表現。三楽章激しい中、面白い音のバランス。弦が異様に強く管がすこぶる弱音、マイク位置のせいでもなかろうし、カラヤンの意図だろう。昔の指揮者の音響操作は面白い。カラヤンも新しい人にみえて古い人、拙稿の対象として選んでよかった解釈表現、指揮者だ。緩徐部の表現は他盤と同様、批判者の斜め見やむなしの非感傷常套・・・だが、全く平らな張り詰めた静寂(現代音楽のミニマル的表現との共通性をかんじるのだけれども)を聴き続けるうち、これもまた独特の「個性」だなと納得。コンマスソロのあたりのさみしさは絶品。四楽章冒頭よりルバーティッシモな伸縮する音線。限りなき詠嘆の表情と寂滅のひびきが聞き物だが、強奏部も素晴らしい。高弦の歌にあふれる表現の一方で、ベースのアタックがしっかりとした足どりを保ち、遠く果て無き世界へと旅立つ小男の背中を思わせる。でもやっぱり弱奏部のさみしさは異様なほど。バンスタとは対極でも、同じ厳しい時代を生きた証しを見る思いだ。コンマスソロの長いながいテヌート、澄み切った様でも抑えきれぬ想いが運指の間から零れ落ちる。切れ切れの小波が打ち寄せるうちに再び冒頭の回想、低音域の強奏がそのまま、マーラー最後の叫び・・・それはどこかあたたかく、生きていくことの果て無き辛さより、其の間に零れるかけがえの無い輝きを感じる。カラヤンのこの表現は、「教科書的指揮者」のそれでは決して無い。重厚な想いの発露、壮絶無比な強奏。次いでの最弱音の異様美とのコントラスト。そこにまじえるグリッツアンド・・・ふと顕れる幼き想い出の影絵。オーボエとクラリネットの挽歌がしばし虚無をうたう。もう何も無い・・・と思っていたのに、生への執着が再び首をもたげる。激烈な感傷。諦めきれない生への執着。それはやがて暗闇より陽の下へ出るかのような、暖かい冒頭主題への回帰に繋がる。この残り僅かな生命の尊さをうたい、決然とした威厳をもって最後の旅路に就く心根を示しているかのように力強い。惑いを捨て、力強く・・・そのあとにはもう、本当に静かな、白い世界が残るのみである。中音域のはっきりとしたフレージングが、音楽がダラダラ流れるのを抑えて、高弦の「密やかな絶唱」を見守る。カラヤンの寂滅の表現はマジに上手い。・・・しばし沈黙のパウゼ。そこに闖入する客席のモノオト(咳)が実に残念だが、この永遠に続くとも思われるパウゼのあと、すきとおった夕映えの輝きの中を、やるせなくも仕方の無い、心臓の鼓動の停止していく様を・・・詠嘆のうちに幕を閉じる。感動的な拍手の渦のなかに無数のブラヴォが混ざる。これはカラヤンの残された記録中もっとも高みに達した演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),カラヤン指揮ベルリン・フィル(DG)1979-80 82年ライヴ盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),カラヤン指揮ベルリン・フィル(sardana:CD-R) 1982/8/27ザルツ・ライヴ 一楽章、やはり暖かい音。いくぶん客観的で正規盤の表現に近い。踏み外さず、突き放したような様式美を保ってはいるが、諸所に聴き処がある。一楽章は後半になるとノリが良くなってくる。考えずとも研ぎ澄ませば自ずと当たる弓の矢。弦だけで奏される最弱音部は特筆物で、殆ど聞き取れないほど弱音化する。このあと4楽章でも同じように聞き取れないほど小さくなるところがある。それらは殆ど音色感を損なっていない。何時にも増して激しいppp表現を行っているということなのだろうか?そうであればまさに希有の寂滅表現といえよう。あるいは単なるマイク位置か?前者と信じたい。二楽章、中間部の強烈さと耽美系緩徐部が◎。12分くらいあと、かなりテンポアップしたノリが心地よい。弦の音色が野卑てさえいるのがカラヤンにしては珍しい。それだけ奏者ノリノリ。この楽章はテンポの変動がかなり大きい。三楽章、二楽章同様少し速めではじまり中仲良い。軽めの出だしだ。中間緩徐部とくに後半の”ひびき”は流石。四楽章、いくぶん厚ぼったいが矢張り良い。チェロトップソロの消え入るような弱音、静けさのうちに自然に入るパウゼ(また咳が入っているけれども)、やがて限りなく小さきヴァイオリンの夢。無言のうちの拍手。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○クレンペラー指揮ウィーン・フィル(1968年6月9日ライヴ・HUNT 2HUNTCD578/NUOVA ERA 033.6709/MUSIC&ARTS/testament)28’01(27’20)/17’49(17’23)/14’14(13’50)/24’43(24’05)*括弧内はNUOVAERA盤の記載分秒 冒頭から珍しく豊穣な歌が聞ける。音もモノラルにしては良い(NUOVAERA,M&A盤はステレオ)。オケ内からの表出意欲がトニカク強いらしく、ソリスティックに勝手に謡いまくる各パートと、音色幅を削りタダの「音塊」として「音楽」へと彫刻していこうとする棒が、余りに無骨でアンバランス。謡いすぎて大きなダイナミクスが分断され、円やかに響いていかない(1楽章)。弦楽が雑然と崩壊する箇所もみられる。一方、クレンペラー独特の、テンポを引き擦り、時折立ち止まるような特異表現が、最もはっきりと聞けるのもこの演奏。こういった流れは、ちょっとバーンスタインを思わせるところもある。さて全曲聴きとおしての感想、前記と矛盾しているが、“淡彩”。クレンペラーがウィーンを振ると結局こうなるのであった。終楽章の「古典的終止」後、拍手が厳かに、しかし情熱を秘めて響くのが印象的だった。ちなみに演奏上HUNTとNUOVAERAは同演奏と判断したが、後者に演奏に関する詳細な記載が無いため、別である可能性もある(後者は拍手がカット)。念のため計測分数をそれぞれ付記した(僅かな時間の違いはメディアの回転数の微妙な差の可能性がある)。MUSIC&ARTS盤とNUOVAERA盤は同じと思われる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○クレンペラー指揮ニュー・フィル(1967年2月スタジオ・米EMI:CDMB63277他)28’19/18’39/15’21/24’11クレンペラーの正式録音としては唯一のもの。音は無論一番良いし(ステレオ)、名盤である。往時のブコツな風も残るが、オケの穏やかな音色により何とか円やかになっている。しかしそのためにやや過渡的な感じは否定できない。全楽章一番速い(見くらべて分かるとおり本当に年々長くなっていっているのだ)が、そんな感じもしない。数学的時間と解釈表現は、必ずしもリンクしないものだ。特にこのような特異な指揮者にとっては。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),◎クレンペラー指揮ニュー・フィル(1968年エジンバラ祭ライヴ・HUNT 2HUNTCD563)29’15/19’00/16’12/25’49 「クレンペラーの第9」としては一位に推したい。残されている中では一番音が悪い(当然モノ)が、この盤、特に1楽章が素晴らしい。トランペットなどソロ楽器に発される特異な解釈、ダイナミクスの付け方にそそられる…。極度に遅いテンポで莫大な壁画を描くようなところは何もこの曲に限ったことではないが、感動的だ。よく解釈が行き届いている。2楽章最後のピッコロがゆっくりルバートするところはクレンペラー独自の解釈だが、この演奏が最もしっくりきた。3楽章同じく最後でプルガトリオ風にガツンガツンとくる金属的な響きの饗宴も、この盤に限ったものでは無いものの白眉である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),クレンペラー指揮イスラエル交響楽団(1970年ライヴ・NAVIKIESE:CD-R,NAV-4017/8)30’26/19’22/16’24/25’59 このライヴ盤には決定的な難点がある。1楽章ファースト・ヴァイオリンが完全に落ちている箇所があるのだ。しかも最初に盛り上がった頂点でのこと。それが逆説的な面白味を産んでいるともいえるのだけれども…。最晩年クレンペラーのどこまでもスローダウンしてゆくテンポ設定に、さらに即興的なスローダウンが加えられたため、ついていけなくなったのだろう。CD-R製品。隠し録りらしく両翼散開しているヴァイオリンパートのセカンドだけが生々しく聞こえるのに比べ、向かって舞台左側に配置された弦楽器群の音がいかにも弱いのも弱点だ。総じてオケが弱く寄せ集め感が否めない。冒頭より低弦とホルンのピッチが低くかつズレているのは録音の歪みのせいだけではないだろう。これらの音程の悪さは最後までかなり耳につく。さて、クレンペラーの解釈の見事さは背筋の寒くなるような「現実感」にある。その意味で1楽章中間部は最高の部類だろう。下手でもオケの情熱が心を揺さ振ってくるところが全楽章を通じて散見される。又、一応ステレオである。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),◎シェルヘン指揮ウィーン交響楽団(ORFEO/MELODRAM)1950/5/19ライヴ 1楽章の圧倒的な速さに有無を言わさず吸い込まれてしまう。速いだけではなくフレージングに配慮が行き届き説得力のある曲作りだ。ウィーン響の歌謡性に満ちた音も存分に発揮されている。比べてややゆっくりめに感じる2楽章のあと、3楽章中盤あたりから再び強力な表出力を感じる。終楽章は雰囲気のなかに表現するのではなく、音そのもの旋律そのものに力を与え、寧ろ古典的なアプローチの中にマーラーの一面本質を見出すことができる希有の演奏だ。…というように冷静に分析するのが馬鹿らしくなるほど異様な迫力に満ち、史上最速といった表層的な言葉だけで論じるのは尚片手落ちだろう。シェルヘンのライヴという点を割り引いても、ミスや事故の多さ、何といっても録音の悪さ(メロドラム盤は幾分良い音だが一部欠落や偏聴があるためオルフェオ盤も捨て難い)は申し開きの仕様も無く、そういった類の音に不慣れの方には薦められない。しかし少なくとも今は絶対に聴くことのできない演奏であり、9番に興味のある方は是非一聴お勧めする。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10)〜T、V,○シェルヘン指揮BBC交響楽団(DA:CD-R)1952LIVE,,しょっぱなからトップギアに入れ爆走。天下の奇演VSO盤以外にこんなものもあったのかと驚かされるが相変わらず録音も悪いしピッチは高く耳が疲れる。さすが機能性をほこるBBCオケとはいえマッハ越えたら乱れるところは乱れる。音色からして冷たさが際立ち、情緒抜きにメカニカルに音楽をドライヴしていこうというシェルヘンの意図がウィーンオケのものより明確になっているともいえよう。1楽章の後半からそれでも一種ロック的な魂が感じられ始め、3楽章はそのままやや済し崩し的に雪崩込んでいく。中間部ははっきりした発音で新ウィーン楽派的な鋭敏な響きがいくぶん醒めてはいるが、異常にドラマチックな起伏がつけられしまいに大見得を切る。しかし最後はプレスティッシモで一気に駆け抜ける。ウィーン響よりは崩壊していない。基本的には旧盤と全く同じ解釈なので、マニアならどうぞ、といったところか。○。情け無用の1楽章に狂え。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○ショルティ指揮CSO(LONDON)クレンペラー型でテンポも同様に遅い。ショルティの全マーラー中の白眉といえるのではないか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○バルビローリ指揮トリノ放送交響楽団(HUNT他)1960年11月25日ライヴ(1/25?) 「バルビローリのライヴ」らしい「激しい」演奏。見方によっては整えられたベルリンフィル盤などよりも優れた演奏ということができるかもしれない。オケの弱さは否定できないが、アマチュア的ノリのよさは格別。オーボエなど木管ソロ楽器の音色表現は特筆物。2楽章が面白い演奏というのもなかなか無い。音程が改変?されている等根本的におかしな点も散見されるものの、総じて佳演とはいえるだろう。ハント盤は終楽章のみモノラル。アルヒペルは全面モノラルの模様だが実際は全曲ステレオ録音である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○バルビローリ指揮ニューヨーク・フィル(NYPマーラー記念盤)1962年12月8日ライヴ 1楽章、冒頭から陰鬱な雰囲気。引きずるようなフレーズの持っていきかたは、他盤とやや印象を異にしている。よく聞けばおおまかな解釈は2年後のベルリン・フィル盤と同じように思えてくるが、オケの方、パワーはほぼ互角かそれ以上であるにせよ、音の魅力という点ではかなり水をあけている。これは余りに録音が悪く、部分的に弦楽と管楽の分離すらはっきりしないという難点も大きく作用しているかもしれない。明瞭な音で聞けば清新な好演であったかもしれないが今となっては想像の領域である。ライヴで燃えるこの指揮者にしてはややストイックで真面目すぎる演奏という印象も受けた。総じて響いてこない演奏…。1、2楽章間のざわめきを指揮棒の打音で諌める様子が微笑ましい。2楽章も印象薄い。3楽章、あいかわらず思い入れの無い正確な音が響き渡るが(特にブラス)、遅めのテンポを踏みしめるように進む音楽は少し面白い。…4楽章…バルビローリで、この曲で、悪いわけはなく…斯界一の「弦楽器使い」、面目躍如。それまでの調子とは打って変わって、ここにはさまざまなドラマがあり、風景があり、走馬灯のように流れる思い出の中で、やがて寂滅のしじまに輝く明星を見上げながら、永遠の帳が降りてくるのを、静かに待つ…五島プラネタリウム最後の日に、明けの明星を見上げるとき、こんな気分かもしれないなあ、などと考えながら、浸りきった。…,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○バルビローリ指揮ベルリン・フィル(EMI)1963年スタジオ 比較的中庸の演奏だが、部分部分には独特の解釈表現が見られる。外部(棒)からも内部(楽団)からも磨き抜かれた「音」は特筆もの。明るく整えられ過ぎの感もあるが、美しいことには変わりない。1楽章、そして意外に2楽章が良い。3楽章はこの指揮者の悪い癖?か音楽が横に広がり前進性が損なわれる所も。4楽章は穏やかな雰囲気でありながらも深く染み込むような曲作りが印象的。迸る激情もやがては遠い過去のものとなる。黄昏刻の音楽。エルガー、ディーリアスのようだ。客演時の素晴らしい棒に感激した一部団員がたっての願いでスタジオ録音を行ったという伝説を持つ。ベルリン・フィルにマーラーを「教えた」のは、このときのバルビローリと言っても良いかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○ブーレーズ指揮シカゴ交響楽団(DG)1995/12 まずBBC盤から。一楽章は非常に自然に耳に響く。ドラマティックで独創性もあるが、すんなり聞けた事にまず驚いた。マーラー指揮者の音だ。二楽章は速めのテンポ。三楽章は逆に緩慢なテンポで細部が透過して見えるような演奏だが、緩徐部は速めでその後かなりテンポが揺れる。弱音部の響きの綺麗さは特筆もの。大分に構築的な演奏で、全体構造を見こした上での細部の彫刻が巧い。即興性はゼロだが、冷たい演奏という感じがしないのは指揮者の腕だろう。無機質がウリのこのオケに対して、うまくその機能性だけを引き出し、自己の多分に情緒的な解釈の中に嵌め込んでいっている。四楽章はやや薄味だが、明るい雰囲気が幸福な終末をもたらし独特である。響きは非常に繊細でデリカシーにも溢れている。惜しむらくはこの楽章の途中でCDのかけかえが必要なこと(アルカディアの場合)。録音は劣悪の類。初出はモノラルだがステレオ盤もあったはず。グラモフォン盤のほうであるが、オケがシカゴであり、情緒面でやや不安があったが、ショルティ盤くらいには情緒的に響いているので少し安心。一楽章に関しては旧盤と同じような解釈だがより完成度が増している(ライヴとスタジオ(教会)という差も有るだろう)。音符が少ない場面での沈黙が怖い。磨き上げられた演奏なだけに発生する、全くの無音状態というのはマーラーの心の深淵を覗いているかのようで、おそろしい。大掴みな解釈、絶妙なバランス、特徴的な「レントゲン奏法」、客観的な音作り。独創的だ。明瞭な録音であるぶん旧録より薦められる。ややブラスの音色に不安がある箇所もなきにしもあらずだが、贅沢な物言いだろう。豊穣な響きは十分にカタルシスをあたえる。二楽章は明るい。弦楽器が元気。対位的な動きをはっきり明瞭に浮き彫りにしていて面白い。中低音の動きがはっきり捉えられるのはこの指揮者ならではだ。第二主題?のテンポは遅く踏みしめるような表現。対比が明瞭。三楽章は攻撃的に始まる。旧盤とはやや異なる趣だ。豊穣な響きの交感。四楽章はやはり明るめだ。テンポはかなり揺れるがどちらかといえば速い。純度の高い美しい響きが印象的であるが、全般に薄味ではある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ブーレーズ指揮BBC交響楽団(ARKADIA他)1971/6/6LIVE DG盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ブーレーズ指揮VPO,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○レオポルド・ルードヴィヒ指揮ロンドン交響楽団(EVEREST他)MONO 最初は特徴の無い手堅い演奏のように聞こえたのだが、何度か聴いていくうちにそれはあくまで録音の状態に起因していただけで、じつは結構力の入った気合いまくりの演奏であることに気が付いた。1楽章の弦楽器は音符の頭に常にアクセントが付き、いちいち思い直したような発音が特徴的で、音音の折り重なるさまが明瞭に聞こえてくる。細部までかなり明確な表現を指向しており、内声部のよくきこえる演奏だ。デフォルメはほとんどないが自然な抑揚に従ったデュナーミクやテンポの変化は聞かれる。震幅が大きいとは言わないがそれなりに付いている。2楽章はとくに印象的な場面はなかったが、3楽章はなかなか。中間部の心象風景が美しい。4楽章はすばらしい。純粋に音楽として楽しめる。全般に速い演奏だがとりわけこの4楽章は速い気がする。ワルターのウィーン・フィル盤も速かったがクレンペラーが評して「ユダヤ的すぎる」といったその表現の呪縛から解き放たれた後の世代の演奏である事を感じさせる。個人的な世界に留まらない普遍的な歌として聞き取れる、逆に言えばそこに特有の体臭や思い入れはなく、純粋なる悲歌に留めている。私は非常に聴き易かったが(じつはこの楽章苦手なのである)人によっては物足りないか。○にしておきます。CD化不明、私は盤面の悪いLPで聴いている。この曲で音飛びはきついなー。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),◎ワルター指揮COLUMBIA SO 柔和で透明。終楽章「青空に溶け込んでゆく一握の雲」言葉通りの素晴らしい表現。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ワルター指揮VPO(EMI他)1938.1.16 激情・ロマンティックに過ぎるような気がする。かなり音質の改善された盤が再発売された。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),アバド指揮VPO S62,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),アンチェル指揮チェコ・フィル(SUPRAPHON)1966 1楽章は「マーラー指揮者じゃない指揮者が振っている」とはっきりわかる。こなれていない感じがあり、ごつごつした感じもする。2楽章は速いテンポとチェコ・フィルの弦楽器の合奏力が物を言う楽章であり、これは聞き物となっている。3楽章は緩徐部がなかなかの力演。音作りがリアルで生々しい。全般に明るめの演奏なのだが、ここでは深い物言いをしている。ブラスが勢い良い。ティンパニも目立っている。荘重な4楽章は威厳に満ちており、少々力が篭りすぎている感もあるが、良い演奏だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ギーレン指揮南西ドイツ放送交響楽団(バーデン・バーデン)(intercord)1990/4,8 面白い解釈を混ぜてくる。細かい事だがヴァイオリンが刻んでいる所を意味も無く短く切りつめて弾かせたりしている。ギーレンのマーラーとしては早くから出ていた盤だが、現代音楽指揮者がロマン派音楽にアプローチするさい、けっして冷たく分析的な解釈を加えるのではなく、新しい視点から清新な音楽を構築するのだということをわからしめてくれた。無論ブーレーズのような個性は薄いし7番の演奏など粗さも目立つ。先輩ロスバウトの実力に比してまだまだと思わせる所も多いが、この9番の演奏を聞く限り、「これから」期待できる指揮者だと思う。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),クレツキ指揮イスラエル・フィル(MUSIC&ARTS)2006年末CD化。イスラエル・フィルの初録音とある(LP)。クレツキは客観堅実だがときおり極端なルバートをかけたりする。そこが面白い。音はばらつきもあるが、総じて気合に満ちている。気合の入ったオケの音はいいですね。ちょっと盤面が悪いものを持っているので、頻繁に聴くレコードではありませんが、クレツキ再評価とともにCD化するといいなと思います。イスラエルとの録音は巨人もあります。CDのものとちょっと解釈が違う(カットが違う)ような。他にもあるかもしれませんが目下この2枚しか手元にないです。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ザンデルリンク指揮BBC PHIL. O. S57.7.17 クレンペラーをギスギスさせたような堅い演奏。ザンデルリンクは常にそうだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ナガノ指揮HALLE O. H8,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ノイマン指揮CZECH PHIL. S57.1.12-16,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),マゼール指揮VPO(SONY)クレンペラーとワルター・コロンビア盤の中間的な感じ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),マゼール指揮バイエルン放送交響楽団(DREAMLIFE:DVD)1996LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),マゼール指揮バイエルン放送交響楽団(EN LARMES:CD-R)2002/6/9LIVE マゼールは透徹したまなざしで独特のマーラーを描いている。バイエルン放響はたとえばウィーン・フィルのような柔らかい魅力はないが、マゼールの「感じ」を忠実によく描き出している。技術的にはさほど目を見張るものはなかったが、骨太で奇をてらわないマゼールの「狂気」がよく見えて面白かった。かなり横長な演奏だが、硬質でまとまったひびきが冗長とは感じさせない。録音はちょっと落ちるか。まあまあ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○マゼール指揮NYP(NYP)2008/6/4-13live,,ついに完結したマゼールNYPライヴ全集、といってもMP3ネット配信だけのようだ。最近のマゼールの精細に欠く締まらない部分と流れで無難に聴ける部分が・・・悪口になってしまった・・・よく認識できるシリーズとなっている。amazon.comとemusicは日本ではダウンロード規制がかかっているもののinstantencoreなどはアカウントを作れば可能なようである。この曲も何度もの記録の継ぎ接ぎにもかかわらず(それほどクリアな録音でないせいもあるが)1楽章は雑な弦をはじめとしてオケにかなりのばらつきがみられ、解釈自体も殆どケレン味のない、弛緩しただけで粘らない長大演奏になっている。2楽章でテンポアップしアンサンブルも統制がとれて、やっとほっとできる。聴き所はやっぱり4楽章、常時精細に欠くNYPのヴァイオリンパートがここぞとばかりに歌いまくる。その音色の一体感は、NYPらしさでもあるが、他の楽章でもやってくれ、と言いたくなるほど。マゼールもブーレズもそうだが晩年になるに従いいい意味でも悪い意味でも個性が薄れ、往年のファンは離れてしまった感があるが、「それなり」に楽しめる、昔の意味での巨匠性は無いけれど格は感じられそれなりに聞きとおせてしまう点で現代のファンを掴んでいるのだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),○マゼール指揮バイエルン放送交響楽団(VON-Z:CD-R)1998/2/24シャンゼリゼ劇場live,,1楽章。丁寧で荘重なテンポとフレージングが一種重さや暗さを孕み、同じ遅いテンポでもゆったり横の流れで壮大さを演出するジュリーニなどと違い深層的なマーラーらしさを獲得しているのがマゼール。BRSOだとVPOよりリアルな甘さの無いマーラーに聞こえる。色艶や荒々しさや力強さはなくマーラーの世俗の側面が煽られないぶんマーレリアンに受けがよくないのかもしれない。流麗で特有の空気感があり、しかし所々でテンポを思い直すようなリズムの重さがクレンペラーの解釈を想起する。もちろん時代柄もありそうとうに大人しく、また大人な演奏でもあるが、厳しく疎な音響(この1楽章であっても「音符が少ない!」と思わせてしまう!)に常時緊張が漲る、そういうリアリズムはライヴ演奏特有の迫真味を味あわせる。特に緊張感の高い演奏ではあると思う。,,2楽章。1楽章に比べれば速い。弦がBRSOらしい雑味を入れながらも軍隊行進曲のように鋭く音符を切るさまにもこの指揮者の厳しいアンサンブル指示ぶりが伺える。律儀ですらある。じつに色のないベートーヴェン的な演奏。この生臭いスケルツォをこう捌くやり方は、私は好き。オケは堪らないか。スタジオ録音ならここまで制御されると分析的で詰まらなく感じるかもしれない。あくまで設計ありきで近視眼的な変化を付けないさまもマゼールらしい。,,3楽章。少しテンポが重過ぎてダレ味が出る。ザッツもそれまでの精度が保てない。2と3の曲想の変化が無いゆえにテンポや表現で違いを付けないと聴く側も気分的な切り替えができないから、そういう細部が気になりだす(一応チューニングを挟んではいるが)。この曲特有の難しさでもありマーラーの中間楽章に時折感じられる難しさでもある。中間部の悲愴な音楽を際立たせるのであればテンポでなくともせめて色調に変化を付けて欲しいものだが、わりと即物的に処理されている。ハーモニーのバランス良さには聴くものがある。コーダで初めて激しく動き出すがどこかバラケとテンポ的な躊躇を感じさせる。派手な音響を煽ったのは長い無音状態のあとの4楽章とのコントラストを付けるためだろう。,,4楽章はしかしそれほど力まないsulGから始まる。録音が遠いのかもしれない。音構造の透けて見えるマゼールの整え方はやはり弦主体の部分で最も的確に生きてくる。チェロバスの弾く和音的フレーズの何と詰まらないことか。でも肝心なところで動くため、無いと成立しない。こういったところが実にわかり易く聞こえる演奏である。まるで鉄鋼機械のようなガッシリしたアンサンブルがマーラーの「境地」をしっかりうつす。線的で単純な、音符の少ない音楽。でもワルターのようなウィーン的な横の動き主体のメロディ音楽にはせず、あくまでマゼールは縦のしっかりした「アンサンブル」としている。だからこそハーモニーの妙なる動きが手に取るようにわかり、立体的なマーラーを好む向きには向いている。その方法はクライマックス後に本数を減らしていくオケの退嬰的な「響きの音楽」にスムーズに受け継がれ、繊細極まりない終演までの大きな流れに首尾一貫した印象をのこす。,,拍手が変に歪んでいるがブラヴォはけっこう凄い。,-----,,,,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ミトロプーロス指揮NYP(HUNT)1960/1/23LIVE 意外に深刻な音楽。1楽章結構起伏のある表現なのに、それほど派手な音楽とは感じない。バランスが余りに良すぎ、音色が平均化してしまったせいか?総じて渋い演奏。最後のコンマスソロだけが独特のルバートで耳をひく。2楽章の異常な速さ、突き刺すような音の厳しさは特徴的だ。ここに至って極端なテンポ変化も織り交ざる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ミトロプーロス指揮ウィーン・フィル(ANDaNTE)1960/10/2LIVE 録音がだいぶよくない。まあ聞き進むにつれ慣れては来るのだが、9番の持つ精妙な美感が多分に損なわれていることは覚悟すべき(高価なアンダンテ盤をそれでも買うかどうか!)。ウィーンの音も耳をすまさないとなかなか味わえないが、強奏部分のヴァイオリンの響きにはウィーンらしい艶が辛うじて聞き取れる。ミトロプーロスの棒は一貫した強い意志をもっており、解釈も率直であり、安心して聴ける。即興的なところもないわけではないが、ごく細部にとどまっており、余り前面に立ってこない。一楽章はひとつひとつの音符を確かめるような動きが特徴的。ウィーンの弦のパワーが全面発揮されており、なかなか聞きごたえがあるが、録音の質が安定せず、冒頭など、やや聞きづらい箇所も有る。二楽章はやや凡庸か。三楽章、激しい嵐のような表現に括目。四楽章、コラール音楽のような響きが安息をもたらす。美しい。ウィーンの弦の魅力がここでも全面発揮。全般として余り個性的なところは見られないが、指揮・奏者共に決して手を抜かない真摯な演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第9番(1909-10),ラトル指揮VPO,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,○ゲオルゲ・シュナイダー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(ETERNA,DS)1960'LP,,奇をてらわないすっきりした演奏。このオケの非常に美しい響きを最大限に活用した演奏ともいえる。尋常じゃない弦の純度の高い響きの交錯は、これがマーラー的かどうかは別にして、とても音楽として高みにあるものを聞いているという実感を持たせる。磨き上げられた響きのしかし何と暖かいことか。ケーゲルと似て非なる美しさだ。一貫してさらさら流れるテンポにもごくわずかながらニュアンスの揺れがあるのがいい。現代的な、というか現代音楽指揮者的な分析的な棒であればこその美しさではあるけれど、どこか人間的な気もするし、よかった。内声の奇嬌な音形をくっきり浮き彫りにする箇所などはいかにも現代音楽指揮者的だが。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(000classics/SLS:CD-R/memories)1959/12/5LIVE・CD珍妙な盤が出た。ミュンシュは理解する事を放棄して演奏しているかのようで、客席の反応も今一つだ。全般にかなり速く、とばしており、さらに加速するテンポで盛り上がりを作るやり方は独特。全く粘らず、まさに即物的な演奏にてっしている。キレの良い音が心地よい。アルマのAの咆哮が突然ものすごい大音量でびっくりするが、そのあと何事もなかったかのようにさっさと速いテンポで音楽が進んでしまうのには唖然とした。たまに聴くにはいいが、これはマーラーでは、ない。19分9秒。,,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T、V,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1959/12/3live(12/5?),一部同上,"プルガトリオ付きなのが珍しい。クシェネク版か。一楽章は恐らく""0""""0""""0""classics(CD-R)既出のものと同じ(録音日表記は違うが演奏時間がほぼ同じ)だが、エアチェックノイズ含め音質は悪い。序奏部など一部を除き非常にドライで軽い独特の演奏。乾燥しており、インテンポで、音の迫力でのみ起伏が感じられる。こだわりが無い。ただ、若干こなれているというか一定の精度は保たれており、それなりの充足感が得られるところをみると慣れていないわけではなさそうだ。むしろ力感溢れるリズム表現が聞かれるプルガトリオのほうに魅力を感じた。ミュンシュらしくもない「マーラーになっている」。カップリングにフォレスターの歌唱による亡き子をしのぶ歌と若き日の歌という歌曲集が入っている。ミュンシュのマーラー歌曲伴奏はRCA正規録音がある。",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,○ギーレン指揮ハンブルグ北ドイツ交響楽団(LIVE SUPREME:CD-R)1976/11LIVE前半は「フツーだなあ」と思ったが、後半どんどん情緒的になってゆき、しまいには耽溺してしまう(ギーレンにはあるまじきことだ(笑))。現代音楽指揮者の他聞にもれずギーレンも客観的でやや機械的な指揮を行うが、この時代においては今とはまたちょっと違った情緒的な面も持ちあわせていたのだろう。ギーレンは他にマーラーくらいしか知らないが、シェルヘンやロスバウトといった先人に比べ個性が薄い感じがある。マーラーの7番など、私は退屈した。でも、それらより前に、こういった美しい演奏を残していたとはびっくりだ。佳演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,ギーレン指揮SWR交響楽団(バーデン・バーデン)(HANSSLER)1989/11/16、17・CD,,ギーレンもやたらとマーラーを振っており今はクック版に取り組んだりしているが、このころはロスバウトの流れをくみ、ブーレーズとはまた違う暗く冷たいオケを使ったザクザクした人工的な彫刻が、また新鮮に感じられたものだ。しかし今改めてこれをきくと、どうだろう、人工的なわりに整えかたが甘いというか雑な感じを受ける。仕上げを施していない未完成の芸術品、という印象だ。これがアダージオだけの録音なだけに、他の指揮者の施すような、「これでとりあえずマーラーの絶筆」という「完成感」がない。美的に消えゆく末期すらない、聞く者は不完全燃焼になってしまうのだ。むろん変な文学情緒的解釈を入れず純粋に絶筆スコアを音にした卓見と言えばそれまでなのだが、そのわりにテンポ操作なんかが機械的で恣意性を感じさせるんですよね。。現役で素晴らしい演奏を聞かせてくれる人だからこれにこだわることもあるまい、無印。マーラーの広大な立体音響感覚は往々にして舞台の指揮台の上でのもの、という感じが強い。この曲の録音も難しいだろうな、とくにこのようなスタジオ録りでは。雑なイメージは録音のせいなのか?,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,○クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(DG)1969クーベリックの全集は素晴らしいのに何故最近は口辺にのぼらないんだろう。バイエルンの集中力、ライヴ感溢れる生々しい録音、そしてとても強い求心力をもつクーベリックの棒。この断章の演奏も、私は楽しむ事が出来た。クーベリック・バイエルンらしい情熱的な演奏で、音のキレがとても良く、気持ちがいい。10番にしてはいささか饒舌すぎるかもしれないが、ドラマ性を求める向きにはおすすめだ。集中力はとても高いが、強いて言えば、やや力が入りすぎかもしれない。まあ、そういう10番もあっていいと思うが。どの音符も主張しすぎかもしれない。まあ、そういう10番もあっていいのだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T.,クーベリック指揮ケルン放送交響楽団(eternities)1962/10/2live,,モノラルでノイズレスだが少し不安定な録音。しょっちゅう縦が揃わないのが当時のこのオケぽいところではある。クーベリックライヴなので分かりやすく、演奏瑕疵がさほど気にはならないのは良い点だろう。解釈は手堅さもあるのだろうが即興的というかやや流れがちなテンポなど、その場で掴む力はさすがで、まあ、録音に残すべきかは別にして、クーベリックのマラ10という価値もあろう。個人的には聴きやすかった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,◎シェルヘン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(PALLADIOほか)1952初出耽美的な曲・オケに対し、比較的リアルな音作りを行っているものの、穏やかなテンポに乗せた音は終始美しく、情緒纏綿。アダージオを独立した一つの曲とみなした場合、最高の出来であると言ってもいい。シェルヘンがスタジオで行った録音はライヴと異なり比較的客観的な表現をとるが(7番など)ここでは細かい動き一つ一つに絶妙な手綱さばきを行っており、感銘を深める。終盤でもう少し「異界性」が欲しい所だが贅沢な物言いだろう。誰が何といおうが私はおおいに推薦する。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,○シェルヘン指揮ライプツィヒ放送交響楽団(TAHRA)1960/10/1,4LIVE序奏は遅いが、主部に入ると速い速い!とにかく遅速が極端につけられている。こわれたおもちゃのように突然カタカタ動き出す。ライブのせいかシェルヘンの表現主義的解釈がかなり露骨に出ている。オケは割合ドライな音で、アンサンブル的にも粗い。シェルヘンの細かい揺さぶりに、ヴァイオリンがついていっていないところも聞かれる。だが、これほどドライで粗いのに、凄く響いてくるのは何故だろう?どうしようもない地獄の中で、過去の甘い幻影を夢見るような感じが、すごく響いてくる。クライマックス(Aの咆哮)の表現が何ともやるせない、虚無的な印象。GOOD。音量的には物足りない感もあるが、録音のせいだろう。まさにシェルヘンのマーラー、一聴の機会があれば、ぜひ。20分40秒。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,○テンシュテット指揮ロンドン・フィル(EMI)1978/10/ウィーン・フィル(TIENTO:CD-R)1982/8/29ザルツブルグLIVE テンシュテットはこの奇怪に歪んだ音楽を、奇怪に歪んだものとして演じている。そこには許しも憧れもなく、悲痛にうめき死に行くものの姿がある。全般にかなり遅いテンポをとっているが、その空気感がなんともいえない空虚感を与えている。一方で私はバーンスタインの晩年スタイルを想起した。自由に曲を動かし、まるで自らの作品であるかのように思い入れたっぷりに演奏している。内声部の充実ぶりがバンスタとは違うところで、ポリフォニックに交錯する音楽の断片が各個明瞭に聞き取れるような演奏だ。ロンドン盤はかねてより知られたものだが、この時点でスタイルは確立しており、聴き易い音質もあいまって楽しめる。ザルツブルグ・ライブはウィーン・フィルの魅力ある音(それほど強くは感じないが)にくわえ、ロンドン盤よりさらに長い時間(29分)をかけてじっくりと演じられており、そのゆたかな演奏内容は心をいやがおうでも動かす。とはいえ常識で考えればちょっと長すぎる感じもするので、両者とも○ひとつということにしておく。ウィーン・フィル盤はアルマの象徴であるAの咆哮が前後の音楽にやや(ほんとにやや)埋没してしまっており際立って聞こえないのも気になった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,○テンシュテット指揮ボストン交響楽団(WME:CD-R)1982/8/15live,,わりと地味めの手堅い演奏で、粘り気のあるフレージングや引きずるような表現もオケの技術と醒めた音と早めのテンポによって殆どそれと気づかないようになっている。録音が篭っているせいもあると思うが、個性的とは言い難く没入もしない。何かこの曲に求められる涅槃性が肩透かしを食らったような気がしてどうものりきれなかった。でも演奏的には普通に聞けるので○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,○テンシュテット指揮ボストン交響楽団(WME:CD-R)1982/8/15live,同上,さすがにこの作曲家の作品になると「莫大茫洋」にはならない。もっとも、テンポは遅い。点描的な音響効果が散りばめられた現代直前の曲といった側面に目を向けているようにもとれる丁寧さもあるが、きほん客観的に構築しつくした音楽を即興でロマンティックにずらしていくといったテンシュテットらしい方法論が聴いてとれる。だから、最後に近づけば近づくほど板につき俄かに神さびてくる。名演とまではいかないが何かしらのものを残す演奏、といった程度か。他録と同じと言えば同じなんですけどね。録音あまりよくない。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,○バーンスタイン指揮VPO(DG)1977/10バンスタのアダージオはかなり感動したオボエがあるのだが、今ふたたび聴いてみると、いろいろ他に聞いたせいもあるのだろう、それほどでもなかった。情緒的に揺れる演奏よりも即物的に突き進む演奏に惹かれるようになってきているせいもあろう。そんなわけで、改めて客観的に聞いたわけである。15年あまりの間があいた二盤だが、両者さほど違いはない。「歌」を中心に据えた起承転結の明瞭な演奏であり、つねに情緒的なものが根幹にあるのは、高弦のフレージングひとつ聞いてもあきらかである。かなり遅速ながらもそう感じさせないのは、バンスタお得意の「ドラマ性」があるからであって、その点テンシュテットの遅速とは大きく違っている。テンシュテットを例にあげたが、とくに新盤はffの表現が弱く、アルマを象徴するAの咆哮が前後の音楽に埋没しがちだ。ここはアダージオのクライマックスといってもいい。おだやかな曲中唯一の激しい感情の発露である。ここが中仲突出しないのはちょっと不満(旧盤も同じ)。それにしても、全体悲劇的な曲というより平穏な曲のように仕上げられているのは意外だ。諦念とは違った、本当におだやかな気持ちの中にある音楽のようにきこえた。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,○バーンスタイン指揮VPO(DA:CD-R)1974/10/8live,,録音が弱いもののかなり情緒的に柔らかく、しかし重く音楽の進む感じで、独特の軽やかな前衛性が無くボリューム感がありすぎるようにもおもった。Aの咆哮もいきなりだから活きてくるのだが、かなりコントラストをつけているものの何故かいきなりに聞こえない。予測できたような破滅的な雰囲気があるのである。いや、世紀末的と言うべきか。しかしユニテルの映像とほとんど変わらないとも言える。精度はVPOライヴ、推して知るべし。横に伸びに伸びたねっとりした終焉はハッキリこの曲はこれで最後、というバンスタのポリシーが出ている。じつに30分以上かかる長演。いいプレイヤーで聴きましょう(プレイヤーの相性があるようです)。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,○バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(SONY)1975/4/8 DG盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,○マゼール指揮VPO(SONY)1984/10/3なかなか思索的な演奏で、鋭く、深い。マゼールは何とオケに恵まれた指揮者だろう、この演奏でもウィーン・フィルならではのケレン味たっぷり艶のある音が、マゼールに”欠けている所”を充填してくれており絶妙だ。マゼールのマーラーを聞くと私はその構築的な演奏ぶりにいつもクレンペラーを思い浮かべてしまう。細かい操作は施さず一見無骨だが、切り口は鮮やかで、聴きなれた曲にも清新なイメージを与えてくれる。マゼールは「比較的」揺れずに曲を進めて行くが、時折現代的な不思議なハーモニーがあると強調して響かせてみたり、面白い内声部の動きがあれば明瞭に浮き彫りにする。そういった一見気まぐれなところもクレンペラーっぽい。発音がつねに強く太筆描きなところも似ている。Aの咆哮によるクライマックスの作りはじつに現代的で特筆ものだ。ハーモニーがまるでパイプオルガンのように分厚くしっかり響いていて、そのあたりの和声の妙をじっくり聞かせてくれる。機械的といってもいい解釈ではあるが、下手に情緒的なよりもぞくっとする涼味をあたえ独特だ。ヴァイオリン1パートだけで細々と(絶え絶えと)旋律をかなでる場面など実にぞっとする。客観的なのに、どこか情緒的で印象深いのは、オケのせいだけでもあるまい。佳演である。26分16秒は常識的か。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,○マゼール指揮バイエルン放送交響楽団(EN LARMES:CD-R)2002/6/9ミュンヒェンLIVEバイエルンとのマーラー・チクルスの最後を飾ったライヴの記録。84年のウィーン・フィル盤よりさらに厳しく、構築的な演奏である。スコアの読みがさらに深まった感があり、マゼールの思い描いているであろう表現主義的なマーラーの姿に、より近づいていると思う。有機的な演奏とは無縁で、古典曲のように縦線をあわせた厳格な彫刻を施しており、ハーモニーはオルガン的なまでに分厚く、正しく響く。まだまだ完成形ではないと思うし、マゼールにはまだまだ時間は残されている。今後に期待(できれば全曲版を聴きたい・・)。27分51秒。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,○ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1960/1/16放送LIVE(カーネギーホール)/(HUNT)1960/1/17カーネギーホールLIVE ロマンティックなアプローチはむしろスタンダードな印象をあたえ、ほっとするが少しくどい。17日のライヴのほうがハーモニーが良くキマり、まとまりがあるように聞こえる(が、単純に録音のせいかもしれない)。この17日のライヴの完成度は非常に高いと思う。ハーモニーのバランスが凄く良くきまっており、特に不協和音の和音が完璧、とは矛盾した表現かもしれないが、とにかくそのように聞こえるのである。だから安心して聴いていられるし、クライマックスあたりの文字どおり心を引き裂かれるような響きに、改めて感銘を覚えるのである。個人的には後者のほうが良く聞こえたが、たった1日しか違わないライヴなので、ここでは共に○ひとつということで。16日25分41秒、17日25分2秒。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜V,◎ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1958/3/16LIVEプルガトリオのみの演奏としては最上級。1楽章とあわせて聞いてもこれだけの充実感があればとりあえず納得するだろう。ミトロプーロスは必要以上に起伏を大きくつけ(音量、テンポ共に)、この短い短い曲をスケールの大きなドラマティックな楽章に仕立てている。前期交響曲の中間楽章を思わせる、牧歌的、だがどこか奇怪なメルヒェン臭を漂わせた冒頭から、何か”あがき”にも似た闘争的な旋律、気まぐれにも思える曲想の展開、其の中に浮かび上がるロマンティックな”何か”。ミトロプーロスのロマンティックな性向はここではプラスに働いている。オケも引き締まって好演。4分17秒。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,アバド指揮VPO S60,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(SAISON RUSSE,HARMONIA MUNDI)1992/2遅い!いきなり悠久のかなたへ連れ去られる。主部はとことん粘る演奏。ヴァイオリンのポルタメントにびっくり。両翼展開のヴァイオリンパートの聴感が面白い。遅速の中でハーモニーの奇矯さが顕わになる。面白い。それにしても異様な遅さだ。クライマックスがクライマックスに聞こえないほど横長に伸びきっている。しかしAの咆哮の余韻はとてもGOOD。虚無だ。コラール音楽のような美感の中に音楽は消え行く。31分46秒。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,ベルティーニ指揮 KORN RSO H3,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,ロジェストヴェンスキー指揮MOSCOW RSO ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T,○ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団(DG)2010/2・CD,,取り組みは昔からであるものの近年とみにマーラーを振るようになったブーレーズだが精緻な響きと構造の抉り出し方はそのままに、柔らかな自然さを身に着けて尖鋭さは後退しているように感じる。この演奏もストレスなく聴け、また、文学的感傷とは隔絶した純粋な音楽としての美しさが持ち味だが、攻撃的解釈とか、激情的表現が無い同曲というのは、A(アルマ)の絶唱も全体の音楽的調和の中で響くのみの鳥籠の小鳥。オケが非常にすぐれているし好きな演奏だが、感情的なマーラーではない。マーラー的といわれる空疎な響きも豊潤にまとめられそうとは聴こえないから、マーラー指揮者ではない人のマーラーとして聴く覚悟をもって臨まれるが吉。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T、V(クルシェネック版),アドラー指揮ウィーン交響楽団(CONIFER)1952マーラー最後の使徒のひとりチャールズ・アドラーのクシェネック(マーラーの娘婿、最近まで長生きした作曲家)版による古い演奏だ。無論この時期の演奏である、テンポはインテンポながらも音を引きずるようなロマンティックなアプローチに清新さはなく、こんなものか、というところもあるが、プルガトリオ付きであるのは魅力的だ。ロマンティック、と書いたが、この人はあまり棒振りとしての素質がなかったのかも、と思えるほどオケコントロールがイマイチだったりする。細かい検証をするのは可哀相。ロマンティックに「なってしまった」だけかもしれない。なにせオケがウィーン響だし。末尾の詠嘆の表現は豊かで、美しい。これは印象的だった。アダージオ24分20秒は平均的か。プルガトリオは若干遅めである。無骨だがダイナミックな表現も織り交ざる。たどたどしさのようなものもそこはかとなく感じられる。突然ダ、ダ、ダーンののちハープのアルペジオで唐突に終わる曲は尻切れの奇妙な印象をのこす。4分13秒。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T、V(クルシェネック版),○アドラー指揮ウィーン交響楽団(M&A)1953/4/8live・CD,,これは前年のスタジオ録音に対するライヴ記録として初出だと思う。文字どおりライヴなりの出来で、1楽章冒頭からつんのめるような演奏が始まり、VSOらしい雑さと音色の美しさが生硬な書法の中に浮かび上がるような、まだこなれていない曲、演奏、そういったところだ。3楽章にいたっては木管ソロが揃って猛ダッシュを始め他のパートと乖離する。牧歌的に歌うシーンで何故???とも思うが、アドラーは現代指揮者らしくシェルヘンのような緩急の極端な解釈を施しがちであり、ここではほとんど急で通しているような感じだから、この曲もそういう方向性に対する楽団の戸惑いが現れているというべきか。朴訥とした味わいはあるものの、それ以上のものはない。○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T、V(クルシェネック版),セル指揮クリーヴランド管弦楽団(sony)1958/11/1集中力は凄いが演奏としては平凡。余り細部に拘泥せず直線的に進む音楽は(もっとも1、2個所特徴的な操作が行われているが)潤いが少ない。プルガトリオはこの盤の聞き物だが、曲想が軽いこともあり、聞き流してしまった。セルは公式非公式にマーラーの録音を少なからず残しているが、情緒が薄い点こういう想像力を必要とする曲では難しいものがある。(だから6番のようにしっかり書かれている曲では素晴らしい冴えをみせる),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)〜T及び各楽章クック補筆断片・レクチャー,○デリック・クック(解説・P)ゴルトシュミット指揮フィルハーモニア管弦楽団(私家盤?/testament)1960/12/19BBC番組・CD,,有名な10番補筆に関するレクチャーと試演で、WEB上で音源が出回っているゆえ挙げた(2011年2月にtestamentよりCD化)。荒削りではあるがこんにち聴けるクック完成版に至る、最初の段階での状況を聴くことができる。最初はクックがピアノを交え解説(一部オーケストラ)、のちゴルトシュミットが黄金期フィルハーモニア管を振って全楽章の主要部分を聴かせている(1、終楽章はほぼ全部)。断片しかない楽章について、付け加えるハーモニーをどうするかを主軸に、オーケストレーションをどう展開させていったかがわかる、かなり無理のある部分が今はいくぶん丸められているのだなと思わせるところが多々あり、正直聴きづらいほど生硬なところもある。ゴルトシュミットはオーケストラをきわめて分析的に繰る人で(ここでは特に意識しているとも思われる)遅めのインテンポでリズムをひたすら単調に整え、「響き」を前面に押し出すやり方をしている。そのため和音の一つ一つが重過ぎて胃がもたれてくるが、これはウィン・モリスの有名な録音にも共通するところがあり、クック完成版が「やりにくい曲」だったことを伺わせるものでもある。しかしそういう棒に対しダレも飽きもせず緊張感と技術の精度を保っているフィルハーモニア管がほんとうに素晴らしい。モノラル録音なのが惜しい、クレンペラー組の音である(同様に音色の魅力という部分ではイマイチ)。ごく一部ソロミスのような音があったようなかんじもするがひょっとするとスコアがそうなっているのか。特徴的なのは3楽章プルガトリオの異様なテンポ設定。クック初期版の指示がそうなっているのか異常な高速、中間部での異様な遅速、ここではオケに軋みが生じている。非常に参考にはなる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<クック補筆完成版決定稿>,◎インバル指揮ケルン放送交響楽団(EN LARMES:CD-R)2003/5/3LIVE 絶美!ケレン味がなくマーラーっぽくないが、それでもこの演奏の素晴らしさを損なう理由にはならない。新しいだけあって録音も文句無し。細かい独特の謡い回しが目立ち、表現の起伏は激しいが、いたって冷静に振っているインバル、対しケルン放送響の技術的な巧さにはまったく舌を巻く。このオケにはライヴならではの失敗が皆無である。この指揮者にこのオケ、二つがあわさって、怜悧な、でもとても熱い演奏が繰り広げられる。ライヴというのが信じられないくらい完成度が高い演奏だ。透明で明るいトーンは終始変わらず、この曲の「白さ」をよく表現している。中間楽章が冷静すぎる感もあるが、録音が明瞭すぎるせいかもしれない。絶望より希望を感じさせる終楽章の暖かさには、インバルの人間性があらわれているようだ。終演後もしばらく拍手が起きない。名演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<クック補筆完成版決定稿>,○インバル指揮フランクフルト交響楽団(DENON)1992/1/15-17かなり情緒的な演奏である。それは1楽章や終楽章最後のヴァイオリンの粘っこいポルタメントに象徴される。10番の補筆完成版はクック版の繊細なフォルムを崩さないように注意深く響かせているような演奏が多く、終楽章ではそれがコラール音楽のように聞こえる事が多い。だがインバル盤では、クック版の構造的に弱いところも力を込めて歌ってしまっており、中間楽章ともども、マーラーらしさが希薄になったり違和感スレスレだが、とても情の篭った演奏になっているのが面白い。アンサンブル的には弱く感じる所もあるし、掘り下げかたも甘い気もするが、今のところ独特の位置を占める演奏となっている盤。廉価で発売中。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<クック補筆完成版決定稿>,○ザンデルリンク指揮ニューヨーク・フィル(rare moth:CD-R)1984/1LIVEかなり粘る解釈だが、オケの流麗な演奏ぶりによってあまり気にならない。ニューヨーク・フィルは実にマーラーに適性があるのだな、と思った。特に弦楽器の響きが美しい。とくに、終楽章!これだけの演奏に仕上がれば、ザンデルリンクも満足だったろう。マーラーの10番がこんなに美しい曲だったとは、と改めて気付かせてくれる。テープ録音のようだがさほど気にならない。佳演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<クック補筆完成版決定稿>,◎ザンデルリンク指揮ベルリン交響楽団(deutsche schallplatten)1979/11.12かねてより名盤で知られたこのクック改訂版の演奏、改めて聞いてその完成度の高さに恐れ入った。クック版の弱みともいうべき音の薄さ(これはあくまで作曲家の手稿にたいし「最低限」のオーケストレイションを施すという見識のもとに行われたものでクックの力不足ということではけっしてない)をカバーするように巧く音量・音色調節を行っている。そのためこれは「ザンデルリンク版」と呼ばれることもある。前半楽章はやや弱いが後半とくに五楽章、消音したドラムの耳をつんざく打撃、断片的に提示されやがて悲痛な歌となってフルートにより提示される抒情主題、死にひんしてもなお立ち上がろうとする弦楽器の強奏主題、これほどドラマティックなクック版演奏も無い。拍手をおくるべきはザンデルリンクのみならずじつに雄弁にあるいはデリケートに曲を演奏しつくしたベルリン響だ。ザンデルリンクは無骨な指揮ぶりがマーラーのしなやかな音楽と合わないような気がして余り聞いていないのだが、この演奏で聴く限り柔軟でかつ非常に強い求心力のあるすばらしい指揮者であることがわかる。うーん、手を出すべきか・・・。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<クック補筆完成版決定稿>,○ラトル指揮ベルリン・フィル H11ライヴ こ、これは…ベルリンの地渋い音とラトルの存外情緒的で彫りの深い表現が、すごい相乗効果をあげている。深刻。美麗よりまず深刻。深刻な音楽をほんとうに深刻に演奏している。…ラトルがベルリンの音を得て表現し得た史上絶後のクック+α盤だ。これほど暗い幻想に満ちた演奏が可能だったのか…。間違いなく10番全曲盤の最高の記録だ。だいたいベルリン・フィルの10番全曲なんてものが出る時代になろうとは。以上が3楽章迄の感想。…じつは4楽章からあと、いまひとつノレなかった。棒のテクニックは冴えているし、ベルリンも巧い。うまいのだが…太鼓の打撃で始まる奈落が、ここにきてなぜか明るめ(いつものラトルといったふう)。そしてただでさえ断片的なオンガクが、断片のまま平積みされている奇妙さ。ここまでの、流れのツボを押さえた見事な解釈が何だったのかと思わせる、クライマックスの盛り上がりの無さ。全体的にソロ楽器の音量がちいさく、あのマーラーの“白鳥の歌”たる名旋律にしても、他の音響に埋もれて最後まで浮き立ってこない。いびつに変奏化したところだけ強調される。…これはクック盤でもちょっと違うのかもしれない。やけに現代オンガク風な固雑な聴感があった。あるいはそういうまごついた失敗解釈なのか?素直に、フルートソロの場面から「わたし間違ってました…ゆるして」的雰囲気(どんなやねん)を出してくれれば感動するのに、中間楽章まで渋い音で違った10番を聞かせてくれていたのが…だいなし。これじゃアルマも振り向かんぞ。(そういえば、“A”の絶唱も甘い…)でも、ピンポイント的に背筋が痺れるような感触を覚える。総じては不思議な名演だ。録音は音場が狭い気がする…。はっきりいって昔の録音のように聞こえる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<クック補筆完成版決定稿>,シャイー指揮BERLIN RSO S61,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<クック補筆完成版決定稿>,モリス指揮ニューフィルハーモニア管弦楽団(SCRIBENDUM他)1973 最近CD化した。マーラー専門指揮者ウィン・モリスの有名な盤。これが出るまで10番の補筆完成版の盤はほとんど知られていなかったため、改めて賛否両論を巻き起こした。モリスは決定稿(3稿)の初演者であり、これは直後の初録音盤である。初稿の初演はBBCの記念行事として60年に行われたが、アルマ夫人のお墨付きを得て更に改訂をくわえ、2稿はオーマンディが録音している。モリス盤は一般に不器用だが丁寧と評されているが、とくに終楽章、ひたすらに綺麗な彫刻といえよう。2番といい8番といい、モリスは大曲の終焉を氷細工のように透明で儚く表現することのできる、独特の指揮者だ。第一楽章は一応のフルスコアが残されたもので、これだけをマーラー自作と認める向きは多い。原典(クシェネック版)とクック全曲版とで少し異なるようだが(確か昔の音楽雑誌で詳細な検証がなされていたと思う)、じっさい大交響曲の「第一楽章」として聞くのと、単品の「アダージオ」として聞くのでは印象が違う。不安定な調性のもとに紡がれる音線。不協和音の炸裂。クライマックスでの、離れゆく妻アルマを象徴する「A」の強奏。大地の歌そして9番で静かな諦念を描いたのちに、だが結局人間的な苦しみに立ち戻ったかのような曲。この演奏では引きずるように重く終始超遅のインテンポが保たれ、しかし音はどこまでも透明で低音のくぐもりすら底まで透けて見える海のように涼やかだ。最後までドラマはさほどの起伏も作られず壮大さだけを浮き彫りにするが、”予兆”としての第一楽章の位置付けを明確にした風でもある。第二楽章は補筆部分の多い楽章だが十分聞ける。ここでは一楽章から一変して速めの出だし。客観性は保たれるものの、ブラスの咆哮などに激しさがまざりだす。”警鐘”の趣。緩徐部の牧歌はいかにもマーラー的なメルヒェンをよく演出した演奏振り。はっきり現代的な響きをひびかせる個所、高弦のポルタメントなど、次第にドラマが盛り上がっていく予感がする。二度目の緩徐部は美麗の中に劇的というモリスの特質を示している。このあたりから演奏が非常に流れ良くなってきて、スコアの穴もうまく隠されている。最後の上向音形のスピットなアッチェルは格好いい!!第三楽章プルガトリオ(煉獄)はマーラーのほぼ完成したショートスコアが残されており、アダージオと併せてクシェネック補筆版でしばしば演奏される。すごく静かに開始するこの演奏、やがてくるブラスの咆哮とのコントラストが鮮やかに描き出されている。牧神と悪鬼の交錯はごく短い曲中でさっと演じられ、そのまま終わる。第四楽章はフランツ・シュミットの4番交響曲に似た響きをもち、ブラームスに似たメロディがあったと思うが、それでもなお「クック完成版」の聴き所のひとつといえる。3番あたりを彷彿とさせる10番中間楽章の中でも独自色を感じさせる(マーラー自身の色とは言えないが)。悲劇的な曲想は打楽器群により殺人的衝撃をともない、弱音部とのコントラストは激しく演じられている。オケの音はここで必要となるケレン味に欠けるが、モリスの音響操作によって適度な劇性を保っている。テンポは遅いインテンポを保っているから、好悪分かれるかもしれない。途中のヴァイオリンソロの典雅さがまったくマーラーらしくないふしぎな安息を与えるが、クック版を嫌悪する向きには特に猛毒だろう。そして、バスドラムの突然の打撃。6番クライマックスで英雄が打ち倒される木槌とはまた一味違う、深刻な打音。アルマによれば、ニューヨークで、窓下を通った名も無き消防士の葬列より響いたドラムのエコー、これにより中間楽章のまるで先祖がえりしたかのようなメルヒェンの趣が断ち切られ、再び第一楽章の「現実」に引き戻される。悲痛な書き込みの混ざるショートスコアの残された第五楽章、この演奏のドラムは殊更に響かない空虚な音で、表層的な衝撃のさまよりも、突然わけのわからない悲劇に見舞われた者の、宙に浮いたような呆けた心を描きだす。そして次に、10番白眉の名旋律といわれるものが、ピッコロにより提示される。さすがロンドンのオケのことはあり、木管ソロ楽器の優しい響きは他に替えがたい。美しく心に差し込んでくるなつかしい日差し。高弦のやわらかな音もそくっと染み入る。ここまでの楽章の印象がはっきり言って薄かっただけに、ここにきてはじめてモリスの真骨頂を見る思いだ。弱音の響きの指揮者、面目躍如。神への祈りというよりどこまでも人間的な、あたたかくもはかない夢の世界・・・これは誰にでも振れるというものではない。このあとのドラマは調性がうつろい、明るく透き通った音響のもとに劇的な展開を示す。第一楽章の回想(Aの咆哮から始まる)から全オーケストラをもって再現されるテーマあたりは、明るさが無くなり、果てしなく長い絶望感を、やがてついえた暗闇の中に幻想として立ちのぼる遥かな野の光へいざなうさまが素晴らしく感動的に描かれている。ここがモリス盤一番の聴き所。モリスの良さをわかりたければこういうところを聞くべきだ。やりきれなくも平穏な心地の中に深く沈潜して、ヴァイオリンの思い切った跳躍(ブルックナーの9番や自身の9番終楽章冒頭のよう)をもって曲はおわる。同演奏、他人の筆の入った曲にこう言っては何だが、指揮者によってさらに手を加えられているのではないかと思わせるところもある。のちの他演とくらべて聴感が若干違うのだ。検証せねばわからないところではあるが・・・(まあクック版は多かれ少なかれ指揮者によって手を加えられるものらしいのだが)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<クック補筆完成版決定稿>,ラトル指揮バーミンガム市立交響楽団(PANDORA'S BOX:CD-R)1992/8/1ザルツLIVE テンポは大揺れするしオケもそこそこ巧いのだが、どうもいまひとつ入り込めないところがある。音色が明るく底浅い感じがしてしまうせいか?盛り上がりどころでの迫力あるティンパニなど、ダイナミズムには欠けていないのだが、どういうわけだろう?ラトルの棒はその場限りの気まぐれな感じがするところがあり(1楽章)、全体設計が甘い感じ、あと、オケが無個性というか感情移入させる太い音響を創り出せていないのも理由のひとつか。しっとりした情感よりもすっきりした透明感を指向するラトルの好みも働いているとは思う。それが長所として働いているのが終楽章の終盤で、4番の3楽章を聴くように穏やかな気持ち、輝かしい光に包まれて消えていく感じ。終演後の長い長い沈黙、そしてブラヴォー拍手の渦(この拍手がクセモノで、1、2楽章最後で拍手が入ってしまっているのにはびっくり)。この終楽章は個性的ではないが綺麗だ。総じて粗削りな感も否めず、無印としておく。ラトルも(この時点では)円熟にはまだ遠い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<クック補筆完成版決定稿>,ラトル指揮ボーンマス交響楽団(EMI)1982 EMIデビュー盤。ラトルのマーラー録音出発点。マニアックなあ…。清新。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<クック補筆完成版決定稿>,○ギーレン指揮SWR交響楽団(HANSSLER)CD,,さすがマーラー指揮者と思った。やはり万能型指揮者やよその畑の人のマーラーとはどこか違う。ツボを押さえている。裏返して言えばそれほど外れたことをやっているわけではない。ただ、アゴーギグなんかに独特のきつさというか、硬質のコントラストが見られるというかんじで、全般的には寧ろ客観的に整えた現代の演奏という感じも強い。但し、ギーレンにしてはいくぶん人工的であるものの没入した演奏という感じもする。とにかくこなれており、録音のクリアさゆえに薄味に感じられるものの、確かにマーラーであり、確かにクックである。中間楽章のダイナミズムはなかなかに巧い。○は十分つけられます。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<クック補筆完成版第2稿>,○マルティノン指揮シカゴ交響楽団(CSO)1966/5/19-20LIVEシカゴ交響楽団自主制作ボックスより。時期的にオーマンディと同じクック2版によるものと思われる。新しもの好きのマルティノン、滅多に振らないマーラーなのに10番補筆完成版を取り上げるというところが面白い(但し1番巨人の日本ライヴがDVD化されているし、生前はマーラーもちょくちょく振っていたらしいが)。マルティノンにはハーグ・フィルとの75年録音もあるというが未聴。そちらは恐らくクック決定稿によるものと思われる。音質は余り良くない。一応ステレオだがサーというノイズが薄く入ることと、ダイナミックレンジはかなり広いが声部が前面に集まりちょっと平板な感じもしなくもないことが気になった。演奏的には後半が面白い。1楽章はあまりにさっさと進めてしまう。マーラーらしい陰うつも情念の渦巻きも、そして諦念も無く、これは思い入れも何も無い即物的演奏か?と思わせるが、2楽章になっていきなり物凄いスピードになる(つんのめり気味に異様な速さで始める木管のせいかも)ところから面白味が増していく。このあたりライヴだから責めはしないが崩壊の兆しがそこかしこでしているのがドキドキだ。プルガトリオは颯爽としている。マーラーらしさはあいかわらず無いが、普通の楽曲として楽しめる。二番目のスケルツォはなかなか聞かせる。シカゴの音は無機質で余り魅力が感じられないが、それでも面白いのはクックの功績か。このあたりはマーラーの手稿が少なくクックの作曲になってしまっているな、と冷静に聞ける。バスドラムの打撃も余り効果的に響かないが、マーラーという概念を頭から外して純粋な楽曲として聞けばそれなりに楽しめるだろう。バスドラムはともかく、終楽章はこの演奏の白眉だ。それまでのマイナスイメージが、覆されてしまった。例のフルートの旋律が余りに美しい・・・!ルーセルの弟子マルティノンは精妙な表現にも長けている。こんなところでその手腕が生かされている。最後に1楽章の警句的な主題が回想される箇所は、あまりにもあっさりしていて受け容れ難かった(というか楽曲の構成上ここを聞かせなきゃどうするの?と半ば怒ってしまう私であったが)。しかしそのあとはやはり美しい。シカゴの音はこういう高音偏重な曲になると生きてくるのだろうか。全般、あっという間に聞けてしまった、という感じ。要は聴きとおさせるだけの力の有る演奏ということ。終わって何かしら心に残るものがあったから、これは個人的にはお勧め盤である。決してマーラーではないが、マーラーの素材を使った「何か」として。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<クック補筆完成版第3稿>,○マルティノン指揮シカゴ交響楽団(Ritardando:CD-R)1968/11/21live,,マルティノンにはクック改訂途中の版によるものを含めて何枚か同曲の録音が残されている。この演奏はかなり板についた感じがする。さっさと進む明るいマルティノン節、録音音質もよく、同じ組み合わせでシカゴ交響楽団自主制作ボックスにも10番クック版が収録されているのだが、遜色無い聴き心地である。私はかなり楽しめた。もっともクック版ならではの問題はあり、声部が剥き出しになる個所が多く、2楽章のヴァイオリンパートだけが細かい音符を刻む場面などではバラケがみられて「らしく」ない。流れ良さがそれを救っている。クック版ならではの「マーラーぽくない」フレーズでの違和感もこのスタイルだと率直に伝わってきて、終楽章フルートから提示され奇怪な変容をなすメロディなど「もっと生きていたらこんなの差し替えたろうな」と思ってしまう。ザンデルリンク盤の恣意性がもたらした説得力がここにはない。音響の迫力に欠けるところもあり、後半楽章を象徴する葬送の太鼓も響きが浅くて「音楽的過ぎる」。いろいろ書いたが全般にはじつに聴きやすく、マルティノンらしい色彩味があって他には聴けない特色があり、終演後一人ブラヴォを叫ぶ人に加担したくなる、そんな演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<クック補筆完成版決定稿>,◎マルティノン指揮ハーグ・フィル(RO/Disco Archivia他:CD-R)1975/6/13ハーグ・オランダ音楽祭LIVE,,名演というか独特の演奏である。すばらしい音「楽」ではある。全体にはよくまとまった筋肉質の演奏で、異常なほどの集中力と立体的な音楽作り、諸所の印象がマーラーでなかったとしても、純粋に「音楽」として充実した聴感が与えられる。特に中間楽章の激烈さと乖離性人格障害のダイレクトにあらわれる特異にごつごつとした終楽章には聴く者を唖然として惹きつけるものがある。録音は古いものとは比べ物にならないほど明晰でバランスのとれたステレオだ。ちゃんとした録音なのになぜハーグ・フィル(レジデンティ管)が未だCDでの再販に踏み切らないのか、マルティノンの人気が今ひとつなのか腑に落ちないが仕方ない(後註:CD−Rでは発売されているとのこと、但しリストはカットされている模様(いやそういう意味じゃなくて))。改めてデジタルな変化のついた非常にダイナミックで、かつきわめて分裂症的な演奏である。,,シカゴのものとアプローチは変わらないが、終楽章冒頭のバスドラの残響の無い打撃には心臓が止まる、もうやめてくれと思うほど悪魔的な辛らつさが感じられ、スコアが進むにつれ決して一つのなめらかな解釈にまとまることなく、分節ごとに全く異なる感情をただガシガシとつぎ込んでくる。ともすると余りこなれていない解釈に聞こえ、これが決して正しいとは言わないが、少なくともバスドラの打撃と、雑然と聞こえるまでに「そのままの音響」を聞かせようという態度には感銘を受けた。ほんとに短く感じるほど飽きない演奏である。終楽章の淋しい旋律をもっと旋律として楽しみたい、というきらいは残ったが(旋律の途中でどんどん調性がおかしくなっていくところ(これこそマーラーの個性なのだが)が、そのまま旋律が奇怪に歪んでいくだけのものとして(まるで前衛音楽的に)感傷を込めず表現されていくところはザンデルリンクと対照的なもので好悪分かつだろう)、それでもこの即物的な演奏ぶりは特筆できる見識と考えることができよう。マルティノンの作曲家としてのスコアの読みはマーラーともクックともまた一線を画してしっかりした独自のものとなっている。マーラー指揮者ではないからこそできたものとも言えるだろう。マルティノンが新ウィーン楽派を振ったら面白かったろうなあ。◎。,,マーラー好きにアピールするものというより、クックによるマーラー編曲といったものとして聴けば真価が確かめられるようなものだ。ハーグは巧かったんだ。これ(原盤LP)はレジデンティ管の自主制作で、一応正規に販売されたもののようだ(確認できるもののレーベル面にはサンプル表記が加えられているが、ネット通販でかつて正規のものとして販売されていた記憶がある)。マルティノンの追悼盤の扱いでリストのファウスト交響曲とのカップリングである。DAは放送音源でホワイトノイズや電気的雑音により音質は落ちる。ファウストもCD-R化された。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<クック補筆完成版第2稿>,オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(CBS)1965/11/5・CD 2007年久々に復刻。クック版の録音としては最古にあたる、アメリカ初演者オーマンディによる豪華な演奏である。決定稿(第3稿)前のクック版の姿をつたえる希少な演奏記録だ。ただ、決定稿との差はちょっと聴きわからないので、特に気にする必要もないだろう。オーマンディはマーラーに積極的ではなく、「復活」の古い演奏(野村あらえびす氏の著作にも見られる)が唯一店頭に並ぶくらいか。でも演奏は引き締まった統制のとれたもので、オケの気力も強く聞きごたえのあるものとなっている。アダージオやフィナーレなどなかなか美しい響きをつたえてくれる。但しクック版の中で「マーラーっぽくない」と思われるフレーズを「マーラーっぽくなく」表現してしまっており(まあ仕方がないのだが)、時折違和感のようなものも感じるのも正直なところだ。聴き始めればあっというまに全曲聴き通せる力のある演奏なので、機会があればぜひ一聴。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<バルシャイ補筆完成版>,○バルシャイ指揮ユンゲ・ドイチェ・フィル(BRILLIANT)2001/9/12・CD ショスタコーヴィチの弟子バルシャイが、師のカルテット編曲で絶賛されたその腕を、この未完の大作にどう活かしているか?話題盤の登場である(ちなみにショスタコは10番補筆完成の依頼を断っている)。廉価盤レーベルよりの非常に手ごろな一枚(5番とあわせて2枚)だ。ショスタコーヴィチが得意で室内楽団の名指導者ということからしてもおよそマーラーの肥大化した豊穣な音楽のイメージにあわない気もするが、そんなことはなかった。この演奏、意外とねちっこいのである。弦のフレージングのねちっこさはとくに1楽章(遅い!)で感じられる。まあ、音質が乾いているというか清潔でバルシャイの至極客観的な解釈との違和感はないのだけれども、ひどい言い方をすれば若い奏者たちの底浅い思い入れが不格好に発揮されている感じがした。これで音色がもう少し生暖かいというか甘い感じがあればぜんぜん違った演奏になったかもしれないのに(まさに「マーラー的」な名演になったかもしれないのに)もったいない。でも多分そんな音色バルシャイがユルサナイのだな。そういえば弦に必要以上に重きが置かれている気もする。むしろ「バルシャイ版」独自の打楽器群増強には一寸違和感をおぼえた。マーラーじゃない、ショスタコだよな、こりゃ。でもショスタコのホネホネロックにも成りきれていないところが弱い。録音についても触れねばならない。この値段だから僅かな雑音などには目をつぶるにしても、オブラートに包んだような茫洋とした残響はいかがなものか(すごい偉そうな言い方)。好き好きだが。この盤でいちばん印象的なのはアレグロ・ペザンテの悲痛な表現だが、正直クック版との違いがあまり感じられなかった。というか全楽章それほど奇異なことをしていなくて、これなら簡素なクック版で十分では?とも感じたりもした。そうそう、どこかで誰かも言っていたが(月光仮面じゃないです)、例のバスドラのミュートされた一撃が、弱い。なんだか遠くでひびいているだけで、まあ、窓下遠くの葬列の残響と言ってしまえばそうなのだけれども、これはやはり心にグサっと刺さるような、胸の底を抉るような一撃であってほしい(一撃といっても何度もありますが)。対象から距離を置くバルシャイの解釈なんでしょうけど、いや、バルシャイであったなら、もっと峻厳で硬質な打撃をしてほしかった。総括すればこの盤はバルシャイにしては軟弱なのだ。中途半端なのだ。・・・って言ってますが5楽章かなり入り込んで聴いてしまいました。総合74分少し、2楽章以降は短く感じました。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<フィーラー補筆完成版>,オルソン指揮ポーランド国立放送交響楽団(NAXOS)2000/5,6 クック版との違いに括目。どっちがいい、という単純比較はできない。あまりに違うからだ。演奏自体は非常に完成度が高く、この希少な盤のために十分に表現している。4楽章スケルツォは私はクック版で満足していたもので、(2楽章スケルツォでもそうだったが)単純な曲想をいたずらに混乱させるような展開にしてしまったように聞こえて仕方ない。フィナーレ前の例の打音、この演奏のせいなのか、この版のせいなのか、遠く弱く聞こえる。そして断片的な旋律の交錯、これはマーラー的といえばマーラー的かも。程なくフルートが提示する有名な旋律は暖かな響きの上にきわめて抒情的に展開する。これはマーラーとは違う気がするが、非常に綺麗で印象的だ。やすらぎに満ちた音楽がつづく。このあたりはクック版より良いかも。盛り上がってふたたび葬列の打音で打ち倒されてあと、ふたたび冒頭のような断片的な旋律が交錯する。続いて新しい主題が提示されるが、このあたりはオーケストレーションの細部を無視すればクック版とそうそう変わらない。胸のすくような前向きな音楽から再び暗部をへて例の旋律が変容して顕れるころには音楽はだんだんとわけのわからない方向へ向かっていく。これは原譜の問題だろう。総じて興味深いが、クック補筆完成版に慣れているかたは少し心構えてお聞きになるのがよかろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<マゼッティ補筆完成版(1989)>,○スラットキン指揮セント・ルイス交響楽団(RCA)1994/3/10-13世界初録音盤 以前も紹介したマゼッティ版のこれは世界2回目の全曲演奏にして初録音盤である。スラットキンはまったくすばらしいまとめ方をしていて、これがマーラーかどうかは別として、音楽としての完成度はかなり高い。録音もいいし、けなす箇所が見当たらない。垢抜けすぎているし、綺麗すぎてマーラーのケレン味のようなものが味わえないという向きはクック版の録音をあたろう。マゼッティJrはクックよりいくぶん厚めの音響を施しているが、それをかなり整然とまとめているために、マーラーのアクのようなものが抜かれてしまっているように感じるところもある。でも、クック以外の版ではもっともよくできた版だと思う。3、4楽章がとくにおすすめ。プルガトリオはより重厚に響き、そして個人的に一番好きな楽章4楽章はバスドラの打撃までの間しばし「マーラーの知られざる楽曲」の世界に浸らせてくれる。スラットキン自身による解説盤がボーナス盤としてついている。スラットキンの盤は高価なイメージがあるが、2枚でこの値段(2500円前後)ならいいだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<マゼッティ補筆完成版(1997)>,ロペス・コボス指揮シンシナティ交響楽団(TELARC)これは拒否感無く聞けた。割合とクック決定稿にならってかかれている(スケルツォとか)部分が多いことも要因のひとつだ。そして、かつて次代のマーラー指揮者として嘱望されていたロペス・コボスのマーラー・センスによるところも大きいだろう。ハーモニーの整えかたが美しい。フィナーレがやや長い(カーペンター版ほどではないが)のは少し気になるが・・・。ウツクシイからいいか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)<カーペンター補筆完成版>,リットン指揮ダラス交響楽団(DELOS)これは手を加えすぎだ。あまりに音を追加しすぎて、マーラー的なものがすっかり払拭され、下手なムード音楽や映画音楽のように響いてしまった。終楽章の主題・・・クック版ではソロ・フルートの細々とした演奏ではじめて提示される・・・が弦やらなにやらいろんな音で壮大に奏でられまた変奏されていくのは耳を覆いたくなる。例のドラムの一撃も弱いしなんだか他の音とからんでわけがわからなくなっている。78分は長い!しかしこれもまたひとつの見識、聞いて損はしない。アダージオとプルガトリオはほとんどそのまま。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マーラー:葬礼(交響詩),プレートル指揮シュツットガルト放送交響楽団(WEITBLICK)1998/6/24-26live・CD,,前半プレートルらしく前のめりにならず一歩引いて整えた感じがある(単楽章の曲にもかかわらず複数回のライヴを継いでいるのでそこは斟酌すべき)。先ずはそこまでやるかという丁寧なフレージングが聴きもので、緩徐主題のほうが耳に残る。デロデロな演歌ではなく、晩年のワルターのような懐深い表現である。冒頭も含め激しく叩きつけるような箇所では少しぼやっとするところがあるが、ホール残響が過剰なせいかもしれない。プレートルが単独で前プロに使っていたとおり、「復活」の一楽章の原型、「巨人」の続編、ではなくひとつの管弦楽曲として構成されており、この単独曲の中での劇的効果を狙った創り上げ方をしている。中盤から後半になると突如極端にスピードを上げたり、ホール残響問題も気にならないほど派手に、開けっぴろげな音響の拡げ方をして、昔のプレートルならやらなかったであろうダイナミックな表現には雑味すら混ざるが、プレートルのものとしてはそこまで濃くならなかったマーラーの、「体臭」に肉薄している。静謐からの駆け下りる結部は、次に繋げるというよりそのまま奈落に墜ちる雪崩状の感じが出て、なるほど復活一楽章とは違うな、という箇所もわかりやすく示されるし、復活の一楽章が長過ぎる、という向きもこういう「交響詩」として聴けば、リヒャルト・シュトラウスの初期作品群と肩を並べた作品として楽しめるだろう。マーラー指揮者ではなく珍曲指揮者としての腕の現れた佳演。別のオケ、特にフランスやイギリスだったら全くマーラーに聴こえなかったかもしれないな。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:歎きの歌,○フリッツ・マーラー指揮ハートフォード交響楽団、合唱団、ホスウェル(SP)、チョーカシアン(CA)、ペトラーク(T)(PHILIPS)LP,,なかなかダイナミックで引き締まった演奏である。ワグナーの影響は否定できないとはいえ「復活」を始めとする後年の作を予感させるような中空の響きや暗いメルヒェンふうのフレーズが横溢しており、この曲にありがちな客観的で透明な演奏ではない、こういう一時代前の熱演で聞くと余りの完成度の高さにマーラーが自らop.1を与えたことも頷ける。勿論改訂があり、これは二部からなる短い版に拠っているのだが。マーラーがオペラを書いたらこうなった、と想像して聞くもよし。ディーリアスらと同時代の世紀末作品として時代性に着目するもよし。フリッツはマーラーの甥だが録音に恵まれなかった。これは後年のシェフであった手兵との記録。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:連作歌曲集「若き日の歌」〜私は緑の野辺を楽しく歩いた(ピアノ編),○作曲家(P-ROLL)(TELDEC,BELLAPHON他)1905・CD,,こんなものがレアとされるんだなあ。マーラーが集中的に録音した自作自演記録の中のひとつ。新しいものほどきちんと復刻されているので、ロールは新しいもので聞いたほうがいいと思う。これはすがすがしくさっぱりした曲の、またあく抜きされたような演奏で割りと聞きやすい。角笛時代のマーラー節を味わえる曲の、若々しい演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:連作歌曲集「さすらう若人の歌」,○フィッシャー=ディースカウ(B)アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(放送)1959/3/18LIVE,,音源はwebに出回っている有名なもの。状態は悪くノイジーだが、ディースカウの声は的確にとらえられている。安定した表現、悪く言えば起伏のない声だが意外と二曲目あたり軽妙にみせている。ナイフは管弦楽の見せ所だがワグナー的な重厚さが面白い。フランスふうのマーラーという評もあるようだがそこまではっきり管弦楽が聞こえないのでなんとも。○。レマン湖市民管弦楽団名義としているものもあるようだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:連作歌曲集「さすらう若人の歌」,フィッシャー=ディースカウ(B)シューリヒト指揮ORTF(ORTF,ina)1957/9/9live・CD,,5年前のフルトヴェングラーとの録音で有名なディースカウの「若人」だが、まだ若々しくはつらつとしている面もさることながら繊細な詞の再現における技巧的にすぐれたさまも今更ながら楽しむことができる。あくまで歌唱につけただけでバックがどの程度影響したかわからないが同曲をレパートリーとし翌年のライヴも発売されているシューリヒト/フランス国立放送oの組み合わせも昔のシューリヒトのデフォルメも辞さない積極的解釈が出ていて特筆できる。柔らかく落ち着いた面より細かい機微の表出力が印象的。これを振るなら直接引用先の「巨人」も振って残しておいて欲しかったが、まあ、結局バックに徹した結果なのだろうか。モノラルだがノイズもなく非常に安定した良い復刻。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マーラー:連作歌曲集「さすらう若人の歌」,○フォレスター(CA)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA/BMG)1958/12/28・CD,,明るくかっこいい指揮ぶりにそつのない美しい歌いぶりで、かつてのブーレーズの分析的視点から見たマーラー、というような多彩な響きの再現に終始した極めて整理された演奏という印象を受けた。没入はしないが音楽そのものが没入しているようなものなのでこれはこれでいい。「巨人」との関係の深い曲であり素材も共通している部分が多く、共通していない素材はまったくロマン的であり古風だから、マーラーのこの作品ならではの魅力というと、「巨人」に昇華する前の歌詞付の姿が垣間見える点につきるだろう。録音は極めてよいが、一箇所原因不明の瑕疵あり(マスターか)。今回初めてのCD化とのこと。まあ、これを聴いて交響曲の演奏も聴いてみたかった、とはなんとなく思えない。そんな微妙なところもある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:連作歌曲集「さすらう若人の歌」,フォレスター(Ca)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(SLS)1958/12/27live,,改訂は重ねられたものの既にして完成されたマーラーの歌曲世界、円熟した管弦楽技法を実感させる四曲である。これは歌曲ではあるがまず伴奏無くして曲たりえない絡み合い、まして管弦楽伴奏となると、二、四曲目で共通の主題を使用したタイタンに繋がるスケールの大きな楽曲になる。ミュンシュはマーラーをほとんどやっていない。歌曲集2つに交響曲第10番一楽章くらいである。だからこの曲はミュンシュがもし第1番一、三楽章をやったら、という「もし」を少し実現するものとなっていて、しかも(まずフォレスターは安定した歌唱力を提示していると置いておいて)とくに前者は浮き立つようなリズムが、調性こそ違えどタイタンの一楽章をこうやってくれたら素晴らしく愉悦的なものに仕上がっただろう、と思わせるくらいハマっている。後者も歌唱に沿ってではあろうが止揚するテンポがロマンティックな抑揚を、しかし明確にデジタルに付けていて、最後など退嬰的にしぼむ表現を上手にコントロールして秀逸である。冒頭の一曲目も同じような、まるでウィーン風を装うようなテンポの揺らし(コントロールされている)がミュンシュらしくないくらい積極的にマーラーをやろうとしているように聴こえる。まあ、しかし正規セッション盤があるのでこの音の悪いモノラルを聴く必要があるとすれば最後の拍手くらいか。演奏自体は既に完成された揺るぎないものに感じた。これはフォレスターも同じ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:連作歌曲集「亡き子をしのぶ歌」,フォレスター(ca)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(SLS)1958/12/27live,,環境ノイズがうるさい、あまりよくない録音。フォレスターは安定した技量をもって必要十分なマーラーの、最もマーラーらしい円熟した歌を聴かせているのだがオケが冷たい。最後のロマン派たる情念のうねりも歌唱につけるだけの「伴奏」にてっして冷たい。これまた技巧はすぐれるも、至極普通であり、ミュンシュとはいえそのマーラーに求めるべくもないことなのだが、一欠片のロマンティックな表現もない。起伏は楽譜の通り。うーむ。正直つまらなかった。この曲の頃にはソリストとオケは不可分のねっとりした絡みぶりを見せてほしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:連作歌曲集「亡き子をしのぶ歌」,○フォレスター(CA)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA/BMG)1958/12/29・CD ,,マーラー中期交響曲が好きな向きは、歌とはいえ避けては通りえない名作にもかかわらず、私は内容的に聴く気になることがあまりない。ミュンシュならいいか、と思って聴いてみるのだが、内面にぐいぐい入ってくるような曲内容にうねるようなミュンシュの分厚い表現の起伏もあいまって、ロマンティックに滅びていく後期マーラーのとろけ落ちるような退廃的な雰囲気がけっこう如実に表現されていて、ああ、こんなの聞いてると昼間から「落ちて」しまうなあ、と思う。もちろん曲による。しかしフォレスターは美しい。下品にならずに感傷を煽る慎ましい表現を身に着けている。さすがマーラー歌いだ。だから演奏的には退廃的にならずに済んでいる。根底には肯定的で明るいものがあるミュンシュだからこそ、やはりこれを聴いて交響曲も聴いてみたかった、という気にはならないのだが、単独演奏としてなかなかの名演だと思う。伴奏慣れしている指揮者は何にでもつけられるのだなあ。録音もクリアなステレオ。やや早くさっさと進みすぎる曲もあるし、やはりマーラーというより歌曲伴奏として取り組んでいるミュンシュの職人性が気になったため、○にとどめておく。けっこう伴奏でも難しいというか、交響曲並みに取り組まないとならない場面も多いところが「大地の歌は歌曲集か交響曲か論争」なんかに通じる部分でもあるんだろうな。この曲、初期のありふれた後期ロマン派様式から大地の歌のエキゾチシズムから9番の辞世にいたるまでの要素が「角笛交響曲と5番7番を除いて」ふんだんに盛り込まれているので、やっぱり聞き込みたいところではあるんだけど。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:連作歌曲集「亡き子をしのぶ歌」,○ファスベンダー(Ms)チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル(""0""""0""""0""classics:CD-R/topazio)1983/6/30live・CD",,放送音源らしきノイズが僅かに入りキンキンいう箇所も少しあるがほぼ明晰なステレオ録音、チェリらしい巨視的な響きを聴き取ることが可能である。歌唱の注意深い情感表現もさることながらチェリの響きへのこだわりが決して神経質なのではなく、なめらかなレガート表現を伴って初めて音楽的なふくらみを持ったものとして成立している。抑制的で柔らかく十分マーラーのロマン派的側面を感じ取ることが可能だ。聴き応えがある。マーラーの中期以降の歌曲はバックオケの比重が重いので、当然独唱だけではなく指揮者やオケにかかっているところがある。曲に起因して一部チープな街頭音楽ふう煩さも無きにしも非ずだが、おおむね大地の歌以降を思わせる無駄無く書き込まれた管弦楽を、如何に「重くさせずに」表現するかがこの演奏の鍵であったように思う。それは成功であり、チェリがマーラーを嫌い記録としてはこれしか残さなかったのは(演奏自体は9番か大地をやっているはずである)ちょっと残念であった。海賊盤でcdrはそのコピー。盤質は悪い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:連作歌曲集「亡き子をしのぶ歌」,○リタ・ゴール(Msp)アンゲルブレシュト指揮ORTF(INA,Le Chant Du Monde,Harmonia Mundi)1959/10/13パリlive・LP,,この世代のフランス系指揮者でマーラーをやったとなるとマルティノンくらいしか思い浮かばないし(実際はミュンシュもパレーもアメリカではやっている)、この演奏についても記録としては唯一のもののようだが※、若い頃には様々な楽曲に挑戦していた流石「アパッシュ」アンゲルブレシュト、意外なほどの板の着きようで、リタ・ゴール名演集収録の一曲にすぎないとはいえ同ボックス一番の聴きものと言って過言ではない。色彩的で立体感のある構築性、と訳のわかったようなことを書くことも可能ではあるのだがこれはそう言うよりも素直にマーラー中期の声楽付き管弦楽曲の演奏としてよくできており、後期ロマン派の起伏ある表現を施したものだ。このさいゴールの独唱は全く無視して書くがアンゲルブレシュト統制下のORTFであるからこそ緊張感が半端なく、器楽ソリストの音色感や音響の透明感は素晴らしい。クリアなモノラル末期録音より終演後のブラヴォまで生々しく轟いてくる。高音打楽器の響きなど、密やかで精妙な管弦楽の施された楽曲においてはアンゲルブレシュトらしい、ドビュッシー的なメカニズムを見出したような注意深さが感じられて秀逸である。だが、冒頭からいきなり引き込まれるのはやはり、「マーラー」が出来ているからであり、もちろんそんなことはやらなかったろうが、もし中後期交響曲に取り組んでいたらマルティノン以上に清新且つ、自然なマーラーを描き出すことに成功していただろう。これはなかなかの演奏である。おそらく、CD復刻されるのではないか。音源提供していただいたかたありがとうございました。セバスティアンの大地の歌(69年ブザンソン音楽祭ライヴ、ケネス・マク・ドナルド(T))と、ル・コント伴奏の「若き日の歌」他ベルリオーズなどが収録されている。,,,※inaより別の放送ライヴ録音が配信された(2016),-----,,,-----,,,-----,,
マーラー:連作歌曲集「亡き子をしのぶ歌」,ルクレチア・ウェスト(msp)アンゲルブレシュト指揮ORTF(ina配信)1955/3/24live(放送日?),,既に知られた音源よりさらに4年古いもので、ソリストがウエストというのも特筆すべきか。狭く立体感のない音はノイズこそ無いが残念。ロマンティックな暗がりからなるマーラーの歌曲なのでモノラルでもさほど印象は変わらないとも思えるが、盛大な聴衆反応を聞くにもっと瑞々しかったんだろうなあというところ。ここで聴き取れるかぎりはオケの響きが薄くて軽く、楽想の示す闇を感じさせるところはない。しかしこれは歌をきかせるものなのだ、それ以上は必要なく、ヴェストの安定した歌唱で純粋にマーラーというものの音だけを聴く、それでよかったのだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マーラー:連作歌曲集「さすらう若人の歌」〜朝の野を歩けば(ピアノ編),○作曲家(P-ROLL)(TELDEC,BELLAPHON他)1905・CD,,交響曲第1番「巨人」1楽章提示部主題に転用されたことで知られる軽い甘やかな歌。わりとロマンティックな演奏ぶりだが歌曲でこのくらいの揺らしは別に不思議ではないだろう。交響曲の演奏ではもっと変化をつけているものがいくらでもある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------