-2019/1/9(30修正)ま行、mahlerを除く
マキューアン:タイムの香る地にて,○アラスディア・ミッチェル指揮LPO(CHANDOS)CD,,これまたRVWがウェンロックの崖あたりに加えてそうな曲だがじっさい曲もRVW的。ただもっと身近で「ちゃんと書かれた曲」感がある(両義的な意味で)。美しくたゆたうようなイギリス音楽が好きな向きはぜひ。演奏達者。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マキューアン:ヒースの丘,○ウェルシュ(Vc)アラスディア・ミッチェル指揮LPO(CHANDOS)CD,,これは佳作。RVWあたりが書きそうな題名だが弦楽器を単独で鳴らすのが得意なこの作曲家らしくチェロソロを効果的に使って荒涼とした、でもどこか暖かな風景を描き出している。RVWくらいには印象派的でありその点でも期待していい。演奏もまたいい。何より、この作曲家はメロディである。ソルウェイよりこちらのほうが聴きものかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マキューアン:弦楽四重奏曲第13番,○チリンギリアン四重奏団(CHANDOS)CD,,個性が時代性を呑み込んで昇華された佳作。古典的な4楽章構成をとり内容的にも国民楽派が同時代的に進化しただけのようなところはあるが、まずは聴いて単純に楽しい。発見もある。ドビュッシー後の弦楽四重奏曲の世界の変貌というのを如実にあらわした作曲家が多かったイギリスではあるが、ここまで旋律的で面白い曲に結実させられている人というのはそうそういない。RVWですらどんどん希薄な作品になっていったのだから。といってもRVWの習作弦楽四重奏曲と似たようなところはあり、そういうところがメジャーになれない折衷性なのだろう。楽団はこの難曲を激しくやりきっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マキューアン:弦楽四重奏曲第15番「小四重奏曲〜スコットランドのムードで」,◎チリンギリアン四重奏団(chandos)CD,,快活で軽い出だしから掴まれる。突如転調して晦渋になったとしても長続きしない。透明感のある民謡音楽がRVWらの前期を思わせる聴き易さと、そこに僅かにプラスされる個性的な「前衛性」のミックスでマキューアンの到達した領域を垣間見させる。特筆すべきは3楽章で、こりゃ奇妙だ。冒頭、平易な民謡調で通している楽曲では異質の、これも民謡から来ているのだろうが、奇怪な装飾音型にリズム、響きには瞠目。この律動は新鮮で魅力的でもある。再現されるさいには待ってましたと思ってしまうほど。適度にモダンでもあり恥ずかしい旋律も素晴らしく、これはイギリス民謡室内楽としては名曲である。小規模だがそれなりのボリュームはあり、書法はヴァイオリン偏重で複雑ではないが上記のとおり聴いていて面白い部分が多く、しっかりした3楽章制が生きている。演奏はこれ以外ないほど素晴らしいし、実際これ以外録音されていない。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マキューアン:弦楽四重奏曲第16番,○チリンギリアン四重奏団(CHANDOS)CD,,一言で言って変な曲。各楽章には夏の朝など夢想的なフランス語の題名がついているもののまっったくその雰囲気は無く、ただただ「個性的」である。何かを拗らせてしまったような曲。確かに個性的だが、チリンギリアン四重奏団も大変だな・・・と思ってしまった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マキューアン:弦楽四重奏曲第17番「ファンタジア」,○チリンギリアン四重奏団(chandos)CD,,単一楽章からなる小品ではあるが連続して演奏されるいくつかの部分で性格分けされている。低弦により奏される暗く律動的な旋律によりアーチ構造をなしており、それはロマン派的なものであるが、中盤には目の覚めるような前衛的転調を盛り込んだ意欲的な表現やミヨー的な響きを持つ部分、あるいは古典的な表現も入ってきて、近現代要素の展覧会となる。この10分の間に詰め込むマキューアンの「個性」を実感できる。あの奇怪な転調はこの人じゃないとやらない。どちらかといえば中欧的でいつものフランス風の表現は目立たずそのようなものを期待すると裏切られるが、この短さなら耐えられる。演奏家は達者。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マキューアン:弦楽四重奏曲第2番,○チリンギリアン四重奏団(chandos)CD,,伝統的な四楽章制の国民楽派弦楽四重奏曲で、中欧志向の強い作品だが、既に自然な旋律美と独特の調性変化が表れており、マキューアンを代表すると言っていい佳作になっている。緩徐楽章のワルツ主題の美しさはウィーン的で筆舌に尽くし難い。響きが浅く中欧ふうと言うには躊躇もある楽章だが、続くスケルツォ楽章からフィナーレの律動は重い響きに支えられ充実している。もっともこの後半楽章の雰囲気が同じような感じであるためにやや飽きもする。チリンギリアンは上手いが、もう少し艶のある表現が欲しかった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マキューアン:弦楽四重奏曲第2番(6もしくは8番)「ビスケー」,○ロンドン四重奏団(M&A)1951/3/2live・CD,,この楽集(LSQ図書館ライヴ集)の目玉だと思う。イギリスの楽団がイギリス近代をやると音色的にしっくりくるが、スコッツマンであるマキュアンの民謡に基づくこの作品(8番として出版され6番として知られるがここでは2番とされており現在も盤によって表記が異なるという大混乱)、古風な国民楽派のフォーマットを踏みながらも横溢する独特の音形(このての個性を「知られざる作曲家系」で見出すことは私は稀である)とこの年代(68年生まれ)の作曲家にしては和声的と言う点で明らかに英国群小作曲家とは違うものを持っている。晩年シェーンベルクすら取り入れたというから貪欲だ。とはいえしょせんアマルガムといえばそうだし問題はある。陰鬱な始まりの1楽章はファーストだけが魅力的な旋律(民謡的ではない)をろうろうと歌い、他は刻む。印象としてはヤナーチェクだ。2楽章も出だしは陰鬱なのだが突如明らかなドビュッシーが投入され頭を洗われる思いがする。3楽章はこのために聴いてきたんだというような素晴らしいヴィバーチェで民謡を活かす手腕に胸がすく。移調転調の鮮やかさ、個性的な旋律の魅力、まあ、よくぞまあ、埋まっていたものだ。もちろん楽団のやる気によるところも大きいが。あと、これはアマチュアはやりたがらない類の書法で、繰り返すがファーストばっか目立ってアンサンブルとして楽しめるところは3楽章ぐらいだと思うので(それは19世紀までの国民楽派弦楽四重奏曲の特徴でもある)、仕方ないかも、とも。もっと聴かれていい作曲家であるので、とくに平凡な民謡音楽は嫌だが新しいのも聞き飽きたという人におすすめ。ところで、ビスケーとはビスケー湾のことである。この作品も各楽章にフランス語の題名がついている。1楽章が灯台、2楽章が砂丘、3楽章が牡蠣掻き。民謡って、スコットランド民謡じゃなくフランスのものなのだろう。1913年の作品。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マキューアン:弦楽四重奏曲第3番,○チリンギリアン四重奏団(CHANDOS)CD,,20世紀初頭の作品だがみずみずしい感性に溢れ、中欧的な古風な音楽のていをなしながらもリヒャルトであるとかロシア国民楽派といった新しい和声感覚、おそらく自国の民謡によるものも含むであろう「異質さ」をそうと感じさせないように浸透させている。無茶苦茶達者なチリンギリアンの力量もあるかもしれない。とにかくメロディーが強いマキュアンの作品だが、一本でソリスティックに弾きまくら無ければならない場面がひんぱんにある。これがまた魅力的ではあるのだが、その技巧的なフレーズの中にも細かい表情の機敏が汲み取られ難無く弾き熟されている。いや凄い。けして若書きではなく円熟した作品なので、これで楽しんでください。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マキューアン:弦楽四重奏曲第4番,○チリンギリアン四重奏団(chandos)CD,,突飛な転調により常套的な表現を途中で捻じ曲げるといったマキューアンの個性が既に現れているが、基本中欧ふうの前衛傾向の強いながらロマンティックな内容もふくむ暗い音楽から抜け出せないまま楽曲は進み、、、しかし終楽章でいきなり民謡になる。これがマキューアンなのだろう。この終楽章の民謡編曲も一筋縄ではいかないアレンジが加えられてはいるが、楽天的すぎて1楽章がうそのようだ。晦渋で難しいがやりがいはありそうな曲で、もっと聴かれてもいいかもしれない。演奏は達者。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マキューアン:弦楽四重奏曲第6番「ビスケー」,○チリンギリアン四重奏団(CHANDOS)CD,,結局全集にはならなかったのか。数はやたらと多いマキュアン。フランスの風物を描くといいながらドヴォルザーク風の民謡音楽で始まり、主として和声面でモダンさを持ち込んで行くミスマッチさが魅力。内声から調えるハーモニーの正確性、細かい動きの的確さが求められる難曲であり、チリンギリアン四重奏団くらいの円熟した腕がないと聴かせるのは無理だろう。解釈的にはより旋律的でロマンチックな音楽としてとらえ、古臭さが勝ってしまう感もある。ワグナーからドビュッシーといった先進的な響きに色目を使い、目まぐるしい転調に鮮やかさな色彩感をかもす場面はあるが、借り物感もなくはない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マキューアン:弦楽四重奏曲第7番,○チリンギリアン四重奏団(CHANDOS)CD,,なんというか、リズムというか構成というか、独特な感じのするマキューアンだが、ここでも和声はまったくドビュッシーの枠から出ていないし、高音の使い方はミヨーだし、民謡使うし、マンネリズムを感じないといえば嘘になる。フランス的なスコットランド。レントに始まりレントに終わる小品で、その短さが飽きをきたさないゆえん、まあ、ドビュッシー影響下でかかれたSQ好きという人はいるだろうから、かなり薄味だけれど、チリンギリアン四重奏団の腕込みですすめておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マキューアン:弦楽四重奏曲第8番,○チリンギリアン四重奏団(chandos)CD,,ドビュッシー色の非常に強い和声感覚で仕上げられているがよりどぎつく力強い音楽になっている。わずか10分余りの三楽章制であるからあっさり聴けるし、この作曲家特有の旋律の美しさは響きのフランス的透明感をもってとてもいい。毒も灰汁も無いが毒や灰汁のある作曲家に匹敵する個性も発揮されており、それが演奏困難さを産んでチリンギリアンくらいしか録音しないことにつながっていようが、これはいい演奏であり、とくに他に必要性は感じない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マキューアン:弦楽四重奏曲第8番「ビスケー」,○エジンバラ四重奏団(meridian)CD,,細く金属質の音でいかにもイギリス(スコットランドだけど)的な音楽を紡ぎ出していく。これは英国(スコットランドだけど)産室内楽好きとして、とても納得感のある演奏だった。RVWの1番の音響を彷彿とさせるような、清々しい音でロマン性の高い作品の「匂い」を現代的に聴こえるよう編み直しているかのようだ。チリンギリアンQの技術や、恐らく楽器にも及ば無い楽団であり、ギリギリのところで力づくでなんとか弾ききった、という高音処理部分など、逆に真実味があり私にはむしろ音「楽」的に思えた。◎に近い○。チリンギリアンのほうが上なのは確かだから。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マキューアン:交響曲嬰ハ短調 「ソルウェー交響曲」,○アラスディア・ミッチェル指揮LPO(CHANDOS)CD,,島嶼系作曲家として知られるマキュアンだがこれはスコットランドとイングランドの境界にあたる風光明媚なソルウェイのあたりに焦点を置いた、陸地系の曲。,参考:http://pedia.mapion.co.jp/art/%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E6%B9%BE,マキュアン代表作のように言われるいわば表題的な交響詩だが(マキュアンは交響曲を何曲も書きはしたが一般的にはこれが唯一の交響曲とみなされる)冒頭よりよく鳴る交響楽に余り達者ではないが前時代的なロマンティックな音楽のやり方を踏襲した構成感は、時代がら印象派の影響がもう少し出てもいいのではないかと思わせるところがあり、それを期待した私は少しあてがはずれた。表出力が強いし持ち味として旋律が強いので、聴き易いし、2楽章あたりではとくに鮮やかな転調の連続がワグナーともドビュッシーともつかないカラフルな印象をあたえ印象的だが、これもマキュアンのいつものやり方なのかもしれない。3楽章制なのにけっこうなボリュームがあるので、体力のある時に聴くといい。LPO達者。指揮者も並みではない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マクダウェル:ピアノ協奏曲第2番,○リガイ(P)ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1966/11/20live,,ドイツロマン派に範をとった事実上黎明期の近代アメリカンクラシック音楽の筆頭にあげられるマクダウェルで近年人気が復活しているようだが、ちょっと民族様式的なものも聞かれるとはいえ全体的にリストやグリーグからチャイコフスキーやラフマニノフといった同時代ロシアと歩調をあわせたような曲想で一貫しており、権威主義的・凡庸で面白くないという聞き方もできるのかもしれない。私自身は何故か聞いていて楽しかった。あんまり聞かない曲だけど、たぶん、ストコとソリストの力なのだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マクダウェル:ピアノ協奏曲第2番〜Ⅰ、Ⅱ,◯フランセス・ナッシュ(P)ストコフスキ指揮NBC交響楽団(SCC:CD-R)1942/4/7live,,美人ピアニストでならしたナッシュの得意としたマクダウェルだが、どうも地味なロマン派で、メロディの美しさくらいしか聴くところがなく、ピアノもありきたりの書法とあって、興味が惹かれない。二楽章はまだ個性があって楽しいのだが短い。ナッシュはそつないし、どちらかといえば現代的なピアニズムを発揮している、けしてデロデロにはならないし、ストコも伴奏にてっしている。うーん。演奏レベルに◯。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マクドナルド:アーカンサスの旅人,ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団victor1940/3/27,,このへんはアメリカ保守派であっけらかんとした軽い響きの楽想をリズミカルに躍動させ、ストコなら目をつぶってもできるであろうコープランド風の流れ。特徴に欠ける。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マシューズ:ノーフォーク行進曲(2016),イエイツ指揮国立ロイヤルスコティッシュ管弦楽団(dutton)CD,,ヴォーン・ウィリアムズ曲集に入っているのは編曲等でかかわっているからだろうが、半世紀以上遡ったような穏健な作風ではあるが、ヴォーン・ウィリアムズに作風が近いから、とは言えない。極めて美麗でダイナミックな描写風音楽である点は近いが、ヴォーン・ウィリアムズほどの癖はなく弦楽合奏の扱いのみ共通点として感じさせ、楽器の用法はモダンだし、洒落た和声は特に序奏部などオネゲルを彷彿とさせるし、本編は派手な行進曲だがヴォーン・ウィリアムズよりも押しが強く、それが末尾では退嬰的になって具象的なものを伴わない描写音楽となり、ウォルトン風の空疎な音世界からソロヴァイオリンの気狂い風の走句で終わる。ディーリアスを思わせるところも無くはないが、多分2世代くらい後の表現だ。ヴォーン・ウィリアムズの音詩好きなら楽しく聴けるだろう。ヴォーン・ウィリアムズ狂いの人は聴けないだろう。演奏はこの上を求められないレベル。素晴らしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マニャール:交響曲第3番,○アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(CASCAVELLE)CD,,非常にアカデミックな作風で踏み外しの無い曲。ずっと洗練されてはいるけれど、1楽章と2楽章の大半はしょうじき凡庸な亜流ロシア国民楽派(しかも中欧ロマン派交響曲+ワグナー派の影響を受けた)。民謡主題の扱いや和声展開のごく一部に師匠ダンディからの影響が新風を吹き込んではいるものの、個性的な新しさ・・・大して新しくは無いが・・・といったら終楽章の旋法的で謎めいたフレーズの交錯まで待たなければならない。フランク的な3楽章制で形式主義的ではあるが、厳密ではなく曲内容的にはアーチ構造の効果はさほど感じられない。2楽章で楽天的に派手に盛り上がるのは奇異でもある。書法は緻密で対位法の見事さといったら100点の答案のようであり、さすが「センセイ」である。アンセルメは国民楽派音楽もよくやっていて、ボロディンが有名だが、案外理知性が際立たない気を煽るような録音も残している。もっともロシア人がやるたぐいの気の煽り方はせずリズムを引き締め響きを整え、風通しのいい演奏に仕立てていく。この曲も国民楽派交響曲的に普通に楽しめる出来となっている。2楽章などなかなかのボロディン風味である。曲的にはまったく興味を惹かれないが、演奏の出来含め初心者向きではあろう。○。DECCA録音とは別との説があるが個人的に確かめる手段も気もない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
マリピエロ:ドビュッシーの墓銘碑,○ウルマー(P)(CONCERT HALL)LP 旋律ははっきりしている。曲想はまるきりオジーヴのサティ。雑誌のドビュッシー追悼特集用の曲として提供された数々の曲が、なぜか皆サティ的なのはなんでだろう。1920年という時代のなせるわざか。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マリピエロ:弦楽四重奏曲第1番,スタイヴサント弦楽四重奏団(BLIDGE)CD 単一楽章にしては長すぎる(21分19秒)。初作にもかかわらず雄弁で洒落た絡み合いを聞かせる曲になっている。たんに歌謡旋律を四重奏に移し替えただけの凡庸なラテン系室内楽とは違う。だが、だがそれだけに曲想に霊感が感じられずどれも手堅さしか感じないのは何故だろう。演奏の責任はあると思う。音はそれなりにいいのだが音色幅が無く単調。連綿と続く歌謡にラヴェルライクなハーモニー(その点でヴォーン・ウィリアムズの1番にかなり似た響きが聞かれるのも当たり前のこと)、この時代の空気をわかりやすく伝える曲ではある。それにしてももうちょっと短くできなかったのだろうか。録音も決してよくはない。無印。これは20年(印象派の影響を受けるには余りに遅すぎる)に作曲され「リスペットとストランボット」と副題されている。20年代はいくつかの歌劇を手がけたあとにあたり、30年代に初めて交響曲に手を染め、次いで協奏曲も書くという意欲旺盛なところを見せている。それだけにここには依然若々しいひびきが聞かれるのも当然のことだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マリピエロ:弦楽四重奏曲第2番「ストルネッロとバッラータ」,◎ポルトロニエリ四重奏団(PASC/NGS)1928/3,,この時代の録音演奏者にしては巧い。スペンサー・ダイクとは比較にならない。安心してオールドスタイルのなめらかなボウイングに艶っぽいポルタメントを楽しむことができる演奏である。曲がカゼッラを巧緻に構成しなおしたように明るくわかりやすく、変則的で短いものの歌曲的発想を背景としたものであることも歌謡的な演奏向きの団体のスタイルにあっている。この長生の作曲家は外れは無い、この曲では特にフランス派が好きな向きは、踏み外さない前衛性とミニアチュール志向を込みで楽しめよう。同団体及びファーストのアルベルト・ポルトロニエリは古典演奏を中心とした活動を行ったが(古楽ではない)、同SP期にカゼッラとボヌッチでブラームスのトリオ二番を録音している。マリピエロもイタリア復古主義の中で古典志向に変遷した作曲家だった。オルフェウスQが全集を出している(8番まで、殆どが表題付き)。,,"ネット配信中。",,オルフェウス弦楽四重奏団の全集;今や1133円・・・,"Malipiero: Complete String Quartets / Orpheus String Quartet",-----,,,-----,,,-----,,
マリピエロ:弦楽四重奏曲第4番,イタリア四重奏団(ANGEL)マイナー室内楽らしい曲、と言ったら言い過ぎか。はっきり言ってあまり印象が残らない。明るい曲想にもかかわらず晦渋な感じさえおぼえる。うーん。。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マリピエロ:弦楽四重奏曲第7番,◎スカラ座四重奏団(URANIA)LP 聴いているぶんには楽しい、取りつき易くわかりやすい擬古典曲。でも弾きたくないっす・・・(やれば面白いかも知れないが)。終楽章なんて細かい音符がいっぱい。でも何度も言うがわかりやすい平易な曲。非常に旋律的で、ちょっとモーツァルト以前の室内楽を彷彿とさせる走句も混ざる。終楽章の最後の最後に面白い転調があったりして興味を保たせる。これは短いがいい曲です。演奏カンペキ。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マリピエロ:交響曲第4番「ナタリア・クーセヴィツキーの思い出に」,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ASdisc)1948/3/2LIVE・CD 短いがこれがいいんですよね。ミヨーのように明るくからっとしていて開放的だが、数倍旋律的でわかりやすい。これが追悼曲?と思ってしまうほど覇気に満ちた1楽章アレグロ・モデラート。快楽派はこの楽章だけ聞いても楽しめるはず。個性的ではないが巧緻なオーケストレーションの施された歌である。2楽章もトーンは明るい。途中レスピーギ「ローマの祭」そっくりの箇所があったりするのは意図的か。レスピーギの作品との共通性は旋律以外でもいろいろ聞かれる。レスピーギの曲が美しいからこの曲も美しくなるのは言うまでもない。レント・フュネブルという題名もちょっと?な綺麗な音楽だ。3楽章はアレグロ、楽しい・・・追悼なのに。レスピーギのようなわかりやすい音楽。そして、終楽章は何とレント。ここにきてやっと追悼曲の雰囲気が出てくる。だがそれは暗く寂々としたものではない。生身の人間の真摯な祈りがある。最後に1楽章旋律に似た旋律が回想のように顕れるが、注意して聴いていないとそのまま終わってしまうので気をつけて。これは私は何度も聴くほど気にいったのだが、ふと演奏の力のような気がしてきた。現代の職人的指揮者が中庸オケを振ったら「なんだこれ」といった印象になっていたかもしれない。覇気があり集中力があり、また人間的な温もりが終始支配的な偉大な演奏である。それにしてもクーセヴィツキー夫人はいろいろな作曲家に追悼されて幸せだったと思った。名演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
マリピエロ:交響曲第4番「ナタリア・クーセヴィツキーの思い出に」,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R他)1948/2/3(3/2?)LIVE,,既に書いたASdiscの演奏と恐らく同じ。輝かしく気高い演奏ぶりにこの指揮者のいつもと少し違う意気込みが感じられる。曲は基調ミヨーで民謡音階やアメリカ的なブラス中心の「ぶっぱなし」というか「挽歌」などちょっと前時代的な魅力がある。20世紀の国民楽派好きには結構アピールするだろう。録音はノイズを抑えればまともに聴ける。迫力が伝わる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マルタン:クラヴサンと小管弦楽のための協奏曲,ネフ(clv)ウーブラドゥ指揮パリ室内コンサート協会(forgottenrecords)1955live放送,,LP起こしというがライヴであり独自発掘かもしれない。これはいかにもこの時代の前衛の響きを嗅いだ保守的な作曲家の作品という様子で、昔よく聴いたたぐいの半端な不協和音に半端に晦渋な書法、だが、クラヴサンという楽器の爽やかな響きによってそれらの「曇った要素」が比較的取り除かれているのがポイントだ。なのでずっと聴いていられる。このソリストの腕なのか楽器に工夫があるのかわからないがとても大きく響き、また実に細かく動き回り、終いにはシンセサイザー協奏曲を聴いている錯覚に陥る。録音の古いせいもあるだろう。編成を絞ったのは新古典主義を狙ったというよりクラヴサンとの音量差を無くすための配慮だろうが、この演奏はバランス良く聴けた。楽しめるかどうかは曲との相性次第。わたしは二度聴くことはないかな。七分半と十二分の二楽章構成だが二楽章はカデンツァを挟み4つの部分に分かれる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マルタン:管弦楽のための四つのエチュード,アンセルメ指揮ハンガリー国立交響楽団(放送)1965/9/20live,,ネット配信されている音源。良好なステレオだが放送ノイズが入るところが多い。ショスタコが始まったかと思いきやいきなりのバルトーク楽章にずっこける。換骨奪胎しているが発想やリズムや響きはほぼまんまなピチカート楽章。ここはしかしオケががんばり、鋭く、なかなか圧を感じる。緩徐楽章は似たものを知らないが、よくある晦渋な「クッション楽章」といえるかもしれない。四楽章はやっとマルタンらしさが出るかと思いきや、このリズムに曲想は…オネゲルだ。もっともここは換骨奪胎度が高く、また一楽章のショスタコぽいメロディ(マーラーぽい付点音符リズム)が現れる。三楽章で休んだけれどかなり厳しい弦楽。だが、ここは個性的な上り詰め方をし輝かしい長大な音符をもって弾ききっている。アンセルメにとってはバルトークもオネゲルも好きな曲だろうし、マルタンはパクリというか「換骨奪胎」しているので解析的には「オリジナル」と言えよう。蒼く燃え立つ焔の如し。この日のライヴでは最も好き。客席反応は比較的良い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マルティヌー:ヴァイオリン協奏曲第2番,○カウフマン(Vn)ル・コント指揮ORTF(cambria)1955・CD,,録音は悪いがルイス・カウフマン(コーフマン)の無数に残された盤の多くは古いため音が悪いものも多く、中ではいい類か。ヨーロッパ滞在中で、しかもORTFというところがマルティヌーの出自を鑑みても面白い。作品ははっきり転向後のマルティヌーそのもので欧風のロマンティシズムの中にも露骨な折衷性が目立つ。ウォルトンの協奏曲に無理やりストラヴィンスキー初期のバーバリズムや連環する音列といった要素を加えたような冒頭からのけぞらせるものがあり、中欧的なくぐもりを含むロマンティックな音楽の中に開放的なアメリカイズムやフランス派から借りてきたようなフレーズ、新古典的要素の散発するさまが聴かれ、更にオルガン的な分厚いハーモニーを並べるのみの擬古典的書法の横溢(いつものことだが後半部どんどん簡素になってゆく)、終楽章は民族主義的な定番のやり口で、やばいほどに卑近な表現になっている。確かに面白い。聴き応えのある大曲で数十年遡れば大衆曲として残ったろう。同時代にも人気はあったであろうが、後世に残りづらい多産化マルティヌー後期の難点もまたあらわれている。しかし、弦の国の人だけありヴァイオリンの使い方は自然で巧みだ。名技性を求められてただ無茶を注ぎ込むのではなく、こうさらっと書けた人は古今少ないだろう。,,"依属者エルマンを彷彿とさせる「最後のロマンティスト」カウフマンは艶のある太い音に安定した技巧で友人の作品を盛り立てている。その並ならぬヴィルツオーソぶりに反し、タイタニックに乗り損ねることに始まる波乱万丈な人生は、一応純アメリカ人として市場主義に振り回されたとも言え、ミュージカル・アーツ弦楽四重奏団でヴィオリストをつとめる前後の逸話(無名の叩き上げにもかかわらずクライスラー、エルマン、カザルス、ジンバリストに室内楽団に誘われ名を上げたものの、ピアニストと結婚しソリストとして活動する道を選んだ)に始まるちょっときな臭い話はこちらの死亡記事に詳しい。そのきな臭さの中で「風とともに去りぬ」のソロヴァイオリンとしての「仕事」も含まれているわけだが、LAオケメンバーとしてのハリウッドとの密接な関係が「正統の」ヴァイオリニストと一線を敷かれたこともあり、ヨーロッパに逃げて活動を修正しようとしたものの、最終的には当時の同時代音楽の紹介者としての役割に終始し、大成せずピークを超えてしまった。とはいえミヨーやヴォーン・ウィリアムズなど初演作品の中には同時代の作品として重要なものが含まれ、いずれの録音も贅沢なほど完璧な演奏技巧と表現力に支えられたプロフェッショナルなものである。膨大な放送演奏に魅せられた記憶のある聴衆はLAに戻って後もカウフマンの演奏を求めたというが、しかし技巧の衰えを感じてのちはリタイアしてしまった。それが録音方式の変遷と巧く噛み合わず、一般的に評価可能なレベルの音質のものが、四季など「代わりはいくらでもいる」作品しか無いのは不幸なことだ。いずれにせよ近現代作品初演者としてこの名前を知らないのは、もぐりである。コープランド好きならとくに。",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
マルティヌー:ピアノ協奏曲第3番,フィルクスニー(P)クリップス指揮NYP(DA:CD-R)1965live,,新古典主義のロマンティックで凡庸な曲。初期プロコの影響も強い。クリップスらしい小気味いいテンポ回しが悪い録音状態を跳ね除けるが、3楽章のテープ撚れはきつい。ピアノは胡麻を撒くようにパラパラ難なく弾きこなす。まるでアディンセルとかそのへんの曲のようなもので、名技的ではないため、クラシカルミュージックという立場では、どういうスタンスで聴いたらいいのかわからない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マルティヌー:交響曲第4番,○アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(CASCAVELLE他)1967(76?)/3/15ジュネーブlive・CD,,アンセルメは40年代に集中的に作曲されたマルティヌーの交響曲を好み地域初演も担ったが、録音は非正規含めても僅かである。これはモノラルだが残響で聴き易い正規ライヴ音源として貴重だ。戦争終結への喜びに満ちた表現から始まる前半楽章は変拍子が多用されるもわかりやすい旋律に繊細で細かな明るい響き、しかしそれを根っこで支えるのは低音楽器の刻む極めて単純なリズムというところ、ほとんど師匠ルーセルのバレエ音楽を中期交響曲に合成したようなものである。旋律性が強く、書法に一種の限界もしくはダンディやデュカふうの「欧風形式性」を彷彿とさせる古風なものが枷となって働いているため単純さが目立ちすぎる箇所もあり、特に後半楽章にきてやや前衛ふうの硬質な響きが目立ちだしても、突飛な感じはせずルーセル3番の2楽章程度の印象しかあたえず、叙情性はそれを上回り、前衛嫌いのアンセルメはやりやすさも含めて同時代者としての共感を持ったであろうことは想像にかたくない。速筆で薄っぺらな感も否めないもののよく書き込まれた1楽章には魅力が溢れており、アンセルメもまた現代バレエ指揮者としてキレのよいリズム表現に構造の鮮やかな「整理整頓」を加えて、共感に満ちた演奏を繰り広げる。ライヴならではの迫真性とそれでも崩れない美しいオケのレベルの高さに瞠目。○。既出と同じ音源でCASCAVELLEの76年表記は誤りとのこと。,,"","H.Dutilleux: Symphony No.1; Martinu: Symphony No.4 / Ernest Ansermet"," SRO","",-----,,,-----,,,-----,,
マルティヌー:交響曲第5番,

○アンセルメ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1948/1/24初演live

,

ルーセル風のエキゾチシズムから派手な新ロマン主義音楽に終わる折衷的作品で、やや把握しづらいところがあるが、20世紀交響曲が好きな向きは楽しめるだろう。アンセルメは最初こそ繊細で綺麗な響きをかなでさせるもののバレエ音楽的というより完全に民族主義的な感興にシフトしていく。ロシア国民楽派を得意としたこの指揮者がライヴで、しかも機能的なオケを使うとどういう演奏ができたのか、終盤のもはやフランス的ではないリズム楽器の強調ぶりに高音楽器の派手な鳴らし方、オケドライヴの流麗さ、煽りに煽るような表現で理解するといい。こんな演奏でなければ冗長で飽きる曲だ。NBCオケはボストンのような西欧風オケに比べ音のキレがよく響きが重くも軽すぎもしないのでアンセルメの性向にもあっている気がする。この人がアメリカ演奏旅行といわずじっくりオケを持って演奏していれば、スイス・ロマンドの印象とは違ったものを残せただろうに。○。録音は時代柄まあまあ。

,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,"(マルティヌーは鬼門なのでwiki参照)",-----,,,-----,,,-----,,,-----
マルティヌー:交響曲第6番「交響的幻想曲」,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA/BMG)1956/4/23・CD,,多産・多様の作曲家というのは不幸である。前にミヨーの例をあげたが戦中戦後を生きた東欧の作曲家はもっと悲惨であり、文化的侵略や民族的理由による亡命などさまざまな困難の中で「不要なほど多様な語法にせっし、自ずのアイデンティティを見失うほどに」作風を切り替える結果となったり、完全に違うものになってしまったりする場合もまま見られる。ミヨーは寧ろ余りに個性と民族性が強くまた「幸福だった」ため自分を見失うようなことはなかったが(寧ろ最初から確立された語法の応用方法をさまざまに変容させるすべを知っていた結果として多産するはめになったところはヒンデミットも近いかもしれない)、マルティヌーの個性が一つの尖塔として認識できにくいのはその部分で非常につかみどころが無くなっているからとも言えるかもしれない。ただ、湯水のように楽想が湧き出る天才性は一緒で、使い捨て世俗音楽ジャンルへの接近という部分ではミヨーとの共通点はなきにしもあらずだ。,,基本的に理知的で機械的で冷たい先鋭な響きを用いるところはチェコとは言わないが東欧の同時代の作曲家・・・バルトークやシマノフスキなど・・・と共通すると言っていいだろうが、この人、アメリカの影響もまた強く受けており、一時期のバーバーのように「描写的な一種映画音楽的な表現」が目立つようになった点が特徴的である。同曲でも(前記東欧の諸作曲家と近似した書法は別格として)RVWに近い響きをもった「甘い」表現が聞かれるところもあり、基本的に計算式のような構造の楽曲でありながらも(ボストン75周年作品として一部合奏協奏曲的であり、特殊なアンサンブル能力を試すかのような構造を面白く聴けるようになっているせいもあるのだが)循環形式の中で表現されているのはどうしても戦争の傷跡のようなものであったり戦争そのものであったりもするのである。非常に斬新な聴きごたえの曲ではあるがRVWの6番あたりを(全く異なる作風なのに)想起するのはこの「戦争の機械の描写」的な中間楽章スケルツォのせいだろう。ドヴォレクの逆行形からなる神秘的な終幕は「交響的幻想曲」の意味を明示するものとして特筆すべき部分である。ここでミュンシュは新作慣れを示している、程度にとどめておこうか。比較対照する演奏が余りないからである。,-----,,,,,,,,,,,
H.マルテッリ:交響曲第3番,ブリュック指揮ORTF(ina)1960/3/8live放送,,1957年作品とは思えない戦前戦後的かつ非フランス的な交響曲で、重苦しさがあるが、人好きしそうな要素も多い古風でいびつな四楽章制の作品となっている。僅かにフランクのような響きがあるだけで、相対的に長大な一楽章のアレグロ部や二楽章は弦の焦燥感溢れる木管がマーラーふうのフレーズを被せてきたりして、規模は小さいから寧ろショスタコ風といったほうがいいのか、後者の不安なワルツはなかなか面白い。ほんとに「フランス以外のどこかで聴いたような」感じで、アメリカ産同時代交響曲よりは聴きやすいが中身が薄い感も否めない。三楽章は独特の美観がある。諧謔性もある管楽の響きに、やっとフランスっぽさがあらわれるが、メシアンなどいる時代なのに。。ひたすら瞑想的な引きずる音楽が一楽章と同じくらい続く。四楽章は行進曲的な戦闘性を発揮するもどこへ辿りつくのかわからなくなり飽きてくる。萎んで終わると大ブーイング、それはそうか。ブリュックの派手目の色彩が曲の隈取を濃くして聴きやすくしている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マルトゥッチ:交響曲第1番,トスカニーニ指揮NBC交響楽団(LYS,DANTE他)1938/11/26 最初シューマンかと思った。時代柄(1895年の作品)世紀末音楽の爛熟を示していてもおかしくないのに、思いっきり前期ロマン派音楽である。構造的でよくできているのだが、主題やハーモニーの単調さにちょっと飽きてしまった。しかし4楽章になると躍動感がある音楽が始まってとても気を浮き立たせる。いい感じだ。ハーモニーもやや新味を織り交ぜてきて、やっとドヴォルザークの域に達した感じだ。ブラスの咆哮が印象的で、心酔していたというワグナーの様も呈してくる。イタリアだけあってカンツォーネのような旋律も密やかに織り交ぜられて、大団円まで耳をそこそこ楽しませてくれる。無論トスカニーニの厳しい指示あってのものだろうが、演奏と曲が一体化してここまでのものができたという感じか。2番のほうがより自由だが、オーケストレーションの腕はこの曲でもよく示されている。堅実で難の無い楽曲だが、こういう曲が好きな人もいるだろう。私は二度聴く気にはならないが(泣)無印。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
マンシーニ:映画音楽「ピンク・パンサー」より二曲,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1967/5/14病院慰問live,,マンシーニの全てはアメリカ往年の名画の郷愁のうちにある。ピンク・パンサーは新しく70年代のイメージがあるがそれは量産体制に入ってのちのマンガ。ここでは有名なテーマこそ単体では聴けないが、近似する童謡を対位的に絡ませたマーチなどプロフェショナルなわざの刷り込まれた楽曲が、音楽家世代的にはマンシーニより半世紀遡る魁偉なストコフスキの手によって実に楽しげに強いリズムで表現されている。録音が極めて悪い恐らく聴衆録音だが、スピーカーなどのフィルターを通して雰囲気を愉しんで欲しい。他にもいろいろやっているがこのあたりの「アメリカ」を体言する曲が一番、楽しい。今の映画音楽のすべてはこのあたりの世代が作り上げたものだ。ジョン・ウィリアムス(ギタリストではない)もそういえば同世代。おまけで○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,(参考)マンシーニの世界を自作自演で俯瞰してみましょう。,"
「シャレード」「ムーンリヴァー」/ヘンリー・マンシーニ自作自演 with RPOポップス
マンシーニ(ヘンリー)",マンシーニ,"ロイヤル・フィルハーモニー・ポップス管弦楽団
コロムビアミュージックエンタテインメント

このアイテムの詳細を見る
",ピンク・パンサーのアルバムはたくさんあります。,"
アルティメット・ピンク・パンサー
ヘンリー・マンシーニ楽団",警視庁ブラス・バンド,ボビー・マクファーリン,トム・ジョーンズ
ピック・マンジャガルリ:弦楽四重奏のための三つのフーガ,○スカラ座四重奏団(URANIA)LP 美しくいかにもラテンな曲。高音の多用や時折の晦渋さ、和声感がミヨーのカルテットを思い起こさせる。とても円熟した技法が駆使されており、聴いていて安心感がある。半音階的だったり不協和音が多用されるなど思索的な場面も多いが、旋律そのものには独特の感傷的な匂いがあり終始聞かせるものがある。南欧的なあけっぴろげなところがある一方で、ささくれ立った現代的なパッセージも織り交ざり、それらのミックスされた、いかにも近代と現代の狭間の音楽らしい多彩な魅力を放つものになっている。○。ミヨーの室内楽が好きな人なら気に入るとおもうが、ミヨーがさっぱりわからない向きは聴かないほうがいいでしょう。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミニョーネ:四つのブラジルの教会,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(?)1944/4/2live,,ガーシュインのピアノ協奏曲と一緒に演奏されたもの。ブラジル現代作曲界の大家ミニョーネの、民族主義的ロマン派作品で、豪華絢爛な響きと甘いメロディ、ブラジル舞踏のリズムがそれぞれ個性的では必ずしもないにもかかわらず一つの作品としてまとまってくるとこれほど魅力的な音楽になるものか、特にブラジル固有の音楽要素を西欧の語法によってジェネラルなものに昇華させる手腕は先輩ヴィラ・ロボスよりも優れていたのではないかと思わせる。同時代の作曲家同様時代に沿った作風の揺れが真価を見えにくくしているが、この作品のような、少々幻想味は足りなくも娯楽的な要素はピカイチな作品では、まったくなぜに一部にしか知られていないのか理解に苦しむ作曲家である。初期にイタリアで多大な西欧音楽の影響を受けており、トスカニーニもまたイタリアの指揮者として強い自覚を持って生きてきた指揮者でもあり、そういうところにもこの作品が演目にあげられた理由はあるか。ゴージャスで力強い演奏である。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミャスコフスキー:シンフォニエッタ イ短調(1945-46),○ヴェルビツキー指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)後期ミャスコフスキーの中にも聞き込めば良い曲はたくさんある。この弦楽のための小交響曲も、一度演奏してみたいと思わせる美しい旋律に溢れている。仄暗い雰囲気は寒々とした夜の雪景色を思わせる。其の中の一軒家暖炉の暗い火を前に、楽器を弾いている人々、という感じか。どこか悲しい曲想は、生涯の終焉に際し自身の芸術的人生を思い返して、実の実らない苦難の連続に対する深い諦念を象徴しているかのようだ。演奏も素晴らしい。音色幅のある響きの重なりが心を打つ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミャスコフスキー:チェロ・ソナタ第2番,○ロストロポーヴィチ(Vc)デデューヒン(P)(MELODIYA)1959 作曲家最晩年の作品であり、完全にロマンティックな世界に立ち返った作風は好悪別れよう。ひたすらロマン派的な旋律が歌われ続け、それは驚く事に最後まで続く。さすがロストロは巧く起伏をつけ魅力的な音色でどんどん引き込んでいく。でも・・・私は引き込まれなかった(爆)飽きた。終楽章で初めて細かく動くが、そこではミャスコフスキーらしいクセのある技巧が込められていてちょっと面白い。ロシア・ロマン派好きなら。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミャスコフスキー:チェロ協奏曲,○ロストロポーヴィチ(Vc)?指揮?(MELODIYA)ミャスコフスキーはチェロのための名曲をいくつか書いている。その哀歌ふうの旋律にチェロの音色がよく乗るせいかもしれない。この協奏曲でも、内省的な1楽章(2楽章制)はせつせつとえんえんに悲歌を謡うチェロに、オケはあくまでそっと身を寄せるだけ。ミャスコフスキー独特の「アク」を感じる場面は少なく、弦楽合奏に後期ミャスコフスキー特有の謡いまわしが僅かに聞かれるのみ。旋律は明瞭ではあるが、不安定で、ひたすら長く(チェロはもうえんえんと難しくも無い主題を歌い続けるから、アマチュア・チェロ弾きには向くかも)、清潔な抒情を帯びながら、2楽章へ入っても、いつ終わるともしれない「無限旋律」が続く。きつい言い方をすれば、ほとんどの音符が「だらだらしている」。くどい愚痴をいつまでも聞かされているような感じだ。もっとも愚痴と斬り捨てるには美しすぎる。愚痴と聞こえないような速い場面は僅かだが、そういうところのチェロの走句の半音階的な動きはミャスコフスキーそのものだ。きわめてロマンティックな雰囲気に満ちている。こういう柔らかい音楽を聞くとプロコフィエフの角張った音楽とは完全に隔絶しているのがわかるが、二人はそれでも仲良しだったとは、不思議なものだ。ところで私の盤にはロストロ以外の名が見えない。コンドラシンあたりが振っているのかとも思うが、確証がとれるまで?扱いとしておく。この曲、ロストロではなくクヌシェヴィツキーに献呈されている。ロストロのあっさりと安定した弾きぶりからして、あまりこの曲に思い入れがなかったのかな、とも感じる。無論最盛期のロストロだから技巧的には物凄く完璧ではある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミャスコフスキー:ピアノ・ソナタ第3番(1920/39),リヒテル(P)幻想味溢れるミャスコフスキーの一面が良く表れた曲。後期のいわゆる社会主義リアリズムとも違った世界。親友プロコフィエフの認めたミャスコフスキーの異才は、最終的には窮屈な調性のなかに押さえ込まれてゆく。ここではリヒテルの腕をしてフランスの曲のように美しく透明に仕上がっている。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミャスコフスキー:弦楽四重奏曲第13番,○ベートーヴェン四重奏団(westminster/melodiya)1950年代・LP,,大量にある作品中でも名作のカテゴリに分類される最後の作品。序奏こそ「また国民楽派の室内楽か・・・」という陰鬱さに聴く気をなくさせられるが、この作曲家としては驚くほど機知にあふれた音楽が展開されていくうちに引き込まれる。あくまでこの時代のソヴィエトの「風紀」の中で、ということにはなるのだが、構成力の高さ、和声展開の独自性、加えて構造の見事さがこの作品に見られる特長である。やはり大規模作品より小規模作品に自己の真実を投影していこうとしていたのだなとも思った。ベートーヴェン四重奏団は音色の郷愁性に惹かれるが演奏も破綻なく巧い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミャスコフスキー:弦楽四重奏曲第3番,タネーエフ弦楽四重奏団(russian disc)1982 ミャスコフスキーは決して古い人ではないのだが、この1910年作品(1930年まで)は終始古臭く陰うつな雰囲気を漂わせている。決して悪い作品ではないが、薦められたものではない。ベートーヴェンなど西欧からの影響が顕著で、ロシアの民族的な室内楽からの影響はほとんど無い。のちの作品には注目すべき清新なものがあるが、やはり前中期ミャスコフスキーの作品は晦渋でわかりにくい。2楽章制だが1楽章はレント、アレグロの2部分からなり、2楽章は主題と変奏という構成。グラズノフ的な分かり易さは皆無である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミャスコフスキー:交響曲第15番(1933ー34),○コンドラシン指揮モスクワ放送交響楽団(AUDIOPHILE)1963 この作品は晩年のわかりやすいものとは少し異なる。音線やハーモニー(特に弦楽器の重厚な響)にはミャスコフスキー特有のものが現れているが、茫洋とし捉えづらい旋律は「らしくない」がゆえ逆に新鮮。グラズノフを思わせる常套的な描写もみられるが、1楽章の夢幻的な音風景は特筆もの。この特異性はあきらかにスクリアビン以降のものだ。全編突出した印象はないものの、よいものをきいたという聴後感を残す佳品である。特に終楽章後半ブラスの清々しい響きはすこぶる抜けが良くアメリカ的と思えるほどだ。出色。無論これらコンドラシンの引き締まった棒によるところが大きい。音が野太で微妙なニュアンスに欠けるところもあるが、これを他の大味な指揮者で聞いたら、「凡作」と書かざるを得なかったかもしれない。こんなマイナー作品でもオケの表現意欲をぐいぐいと引き出すことができるとは、やはり侮れない指揮者だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミャスコフスキー:交響曲第16番,○イワーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya)LP,,引き締まった指揮ぶりが曲の魅力を最大限引き出した佳演。行進曲ふうの出だしから引き込まれ、美麗な旋律、古典風のフレーズと半音階的な内声のおりなすミャスコフスキー特有の不協和な響きが新しいのに古いという独特の音楽に結実している。意図的に挿入される民謡旋律はいささか浮いてはいるが、イワーノフは上手にさばいてそう感じさせない。三楽章制の大曲ではあるが、マーラーを聴くようにすんなり聴けるので、ミャスコフスキー入門にもオススメ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミャスコフスキー:交響曲第17番(1936-37),○ガウク(初演・献呈)指揮ソビエト放送SO(MELODIYA/GREAT MUSICIANS of Palmira Du Nord,IMA)CD さすがにガウクである。オケの響きにはゴロワノフ、指揮ぶりにはムラヴィンスキーを感じる。このまとまりの無い曲を、ここまで聞かせるかというところである。分裂症的にロマンスと絶望・狂気が交錯するようなところのある中期ミャスコフスキーは、それゆえにこのような凝縮する指揮のほうが聴きやすい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミャスコフスキー:交響曲第18番「十月革命」,○ガウク指揮ソヴィエト大放送交響楽団(GREAT MUSICIANS of Palmira Du Nord,IMA/melodiya)1954・CD ,,ちょっとあやしいロシア流出盤CDの一枚(2003年発売)。サンクト・ペテルブルク建都300周年記念とのこと。17番とのカップリングだが、17番は私の持っているメロディヤのLPと同じなので、恐らくこの19番もメロディヤ原盤だろう。録音は悪いのは仕方ない。でも、この曲などたぶんあと1、2枚くらいしかレコードがないと思うから貴重は貴重だ。録音のせいで茫洋としてしまうところもあるが、ガウクはおおむね引き締まった演奏を繰り広げている。この曲はミャスコフスキー作品の中でも独特で、尺も3楽章制で20分弱と短い。冒頭から古風な、ロシア国民楽派よりもひょっとするともっと古い音楽の形式の中で手堅い(美しい旋律や独特のハーモニー、移調はささやかに聴かれはするものの)書法を繰り広げる。チャイコフスキー的で劇的な17番とは著しく趣を異にしている。1楽章はブラス先導で進むボロディン派的音楽を基調に、中欧ロマン派風の構築性も取り入れた意欲的な楽章で、速い走句がミャスコフスキー独特の書法を示しながら民族色をうまく振り撒いている。明るく垢抜けており清新で、しかしどこか物悲しい。アンサンブル的に特徴的なところは少なく、ひたすら旋律であり、派手さは無いけれども、そっと心に染み入るものがある。それはミャスコフスキーという閉ざされた作曲家の世界にとどまらない汎的な意味を持つものである。私はこの曲を評価したい。2楽章の哀しいほどに懐かしいワルツ、アレグロ・ジオコーソのはずなのに、至極平穏な中央アジア的朗唱がえんえんと続く3楽章フィナーレ。元気がいいのは1楽章だけで、どんどん静かになってゆく滅び行く音楽の流れ。旋律はけっして暗いものではなく希望に満ちた光の中に静かにひびくのだが、やはりこの作曲家、一筋縄ではいかない。管楽器がどれも強力で音色も極めて民族的だが、吹き方がやや下品で、音程もちょっと妖しすぎる。ミスもある。だがまあ、ロシアの曲はこういうふうに演奏すべきなのだろう。○ひとつ。CD化当初は19番の誤りとされたが18番で正しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ミャスコフスキー:交響曲第19番,

○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団他(OLYMPIA/仏WARNER・スヴェトラーノフ協会)CD

,

ミャスコフスキーの中では特異なブラスバンドのための交響曲である。そのまんまの意味でのオーダメイドに近いのだろう。しかし意外とこれがすんなり聞きやすい。旋律がいつにも増してわかりやすく親しみやすいせいもあるが、弦を使わないことでストレートに強靭なブラスの音で表現できていることがプラスと受け取れるせいかもしれない(コノ演奏にかんしてのみ言えばソビ響のバラケた独特の弦が入らないこと、世界一強靭なブラスがそのぶんのびのび全開なことも要因だ)。ミャスコフスキーは弦の人だが、ゆえにか弦の扱いが独特で、旋律表現にもクセがある。というか妙に機械的で単純なのだ。特に後期における単純さへの指向(もしくは体制側からの要望)がロシア臭をきつくさせている面も否定できない。,,この曲は交響曲的な構成をとっているが1楽章はほとんどブラスバンドのための序曲であり、最初の上向音形からしてラフマニノフの交響曲第3番1楽章の有名な第二主題を想起せざるをえないあけすけさである。コノ曲だけ抜き出して軍楽隊が演奏しても誰も気がつかないだろう。構造的には交響曲であっても内容的に純粋な交響曲ではない。ただ、主題展開は末期交響曲特有の常套性があきらかにみられる。,,2楽章もラフマニノフ末期の書法や旋律展開を思わせる明快さとジャズ的なちょっと洒落た和声展開やうらぶれた楽器用法の感じがあるが、これは交響曲らしい魅力的な間継楽章になっている。暗い第二主題などわりとRVWとかそのへんを思わせる西欧的な部分もある。これも含めミャス末期交響曲的な単純さである。さて3楽章制を旨としてきたミャスとしては異例な4楽章構成だが、この楽章も含め本人も言っているように行き当たりばったりな感じがするまま3楽章も緩徐楽章となっている。ベースとホルンの取り合わせがいかにもな出だしの暗さだ。,,4楽章は楽想変化に終楽章らしさはあり、弦が加われば末期交響曲のそれとまったく同じ雰囲気だけれども、結局また祝典序曲な出だしから、スターウォーズの終幕のような音楽と言わざるをえない。ただ、展開部(というかロンド的に繰り返し祝典主題があらわれるの中の「継ぎ」)で旋律が音量の小さいソロの数珠繋ぎで痩せてパンチに欠けている。もっとも、この演奏ではソビ響のブラスや木管の独壇場が聴ける点ではいいけれども、曲的に4楽章がもっと盛大に盛り上がればもっと交響曲らしかっただろう。楽章全体がマエストーソという名前なところも変。結局同じような音量で平坦なまま、祝典主題の何度目か回想であっさり終わる。まあ、これもミャスの個性だが。ソロ楽器に任せる部分が多く、スヴェトラは楽だっただろう。○。

,"
Miaskovsky: Complete Symphonie

Wcj

このアイテムの詳細を見る
",,"ミャスコフスキー(総論・本サイトまとめ)ミャスコフスキー(ブログまとめ)",-----,,,,,
ミャスコフスキー:交響曲第19番,○ペトロフ指揮ソヴィエト国立ブラスバンド(MELODIYA/MONITOR)LP,,ブラスバンドのための交響曲としてミャスコフスキーの作品中でも異例の知名度を誇る作品。ペトロフは初演者でこれは初録音盤になる。楽団は恐らくソヴィエト国立交響楽団の管楽器メンバーだろう。抑制されたパワーがきいていて下品にならず洗練されている。一楽章の木管に課された超絶技巧は聴きものだ。弦の役割を木管に果たさせているのが無理があるのだがここではじつにそつない。ミャスコフスキーらしいマンネリズムの中にもカバレフスキーやプロコがやったように先進的なひびきや進行がしのばせられていて、半音階的な動きの精密な再現が難しいところもあると思うが、中間楽章の謎めいた表現から最後の盛大な盛り上げにいたるまで、弦がいるんじゃないかというくらい「オーケストラ」になっている。鮮明さの足りない録音が惜しいが、メリク・パシャーエフやエリヤスベルクを思わせる名匠ぶりが○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミャスコフスキー:交響曲第1番,○ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立文化省交響楽団(REVELATION他)1986/3/10・CD,,西欧折衷派らしい世紀末中欧ロマン派交響曲!書法はしかし単純なメロディ+ハーモニーで構造的なものはなく初期らしい生硬さをみせる。スヴェトラのように音響バランスの悪さや体臭がなく、曲そのものを客観的に聴ける。気持ちの悪い半音階的進行も目立つが清々しいミャスコ節が既にあらわれており、ワグナー+ブルックナー的な世界の中に初期シベリウス的な単純美が光る。言い淀んで先に進まない長長しい感じはいかにもロシア交響曲でもあるが、ロジェストヴェンスキーならではのリズムの強さと表出力で、通して聴かせる演奏にはなっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミャスコフスキー:交響曲第21番,○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SLS:CD-R)1944/10/28放送live,,ノイズがかなりきついがこの組み合わせでは47年11月22日の名演が残されているので、三年遡ったこちらも期待してしまう。じっさいにはスタジオ盤と余り変わらず(録音時間は5秒しか違わない!)、しかし一部過大なデフォルメであるとかちょっと雑味が混ざるようなところがあるとか、確かに違いは認識できる。苦難の中に希望を見出し這い上がろうとするも最後は力尽きるというような、単一楽章で短いながらも充実した内容の作品、オーマンディはよくとらえて演じている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミャスコフスキー:交響曲第21番「交響的幻想」,

スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(OLYMPIA/仏WARNER・スヴェトラーノフ協会)CD

,

きわめて遅く沈潜した晩年スヴェトラーノフ的な表現で、ねっとりしたフレージングはきかれるけれども力がなく楽想変化もぎごちない。オケが余りにぼろぼろで迫力がまったく出ないのだ。弦のプロとは思えないバラケ具合にはスヴェトラーノフの傷心を想って余りある。求心力がないのは解釈のせいでもあろうが、この短い単一楽章交響曲はミャスコフスキー晩年の凝縮されたロシア節がもっともよく現れたものの一つであり、この雑で稀有壮大傾向な演奏では長所が殺されてしまう。スヴェトラーノフの響きは統制された冷たく透明なものを志向しておりミャス晩年の理知的傾向と合致した思想があるように思うが、テンポが弛緩しすぎているからオケがだらけて却って演奏の個性を殺すほうに動いてしまっている。無印にせざるをえない。のんべんだらりとした演奏。

,"
Miaskovsky: Complete Symphonie

Wcj

このアイテムの詳細を見る
",,"ミャスコフスキー(総論・本サイトまとめ)ミャスコフスキー(ブログまとめ)",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ミャスコフスキー:交響曲第21番「交響的幻想」,○ラフリン指揮ソヴィエト国立交響楽団(COLOSSEUM)LP,,イワーノフにくらべればボリュームがある。序奏の弦のコラールふうの重なりがしっかり響いている。録音のせいか(共にモノラルだがこちらアメリカ盤のほうが若干ピッチが高い)。アマチュアとききまごうバラけたアンサンブルや響きも指揮者によってはしかねないオケだが、ここでは許せる範囲ギリギリか。主部の躍動感もこちらのが上である(ヴァイオリンの薄さは否定できないが)。テンポ的に粘らないので垢抜けているが半面解釈の面白味はない。素っ気ないほどにインテンポ気味な流れよさだけを評すべきか。もちろんクライマックスはルバートするが、人工的というか若いかんじ。オケの音量変化まで統率が届いていない(録音のせいかもしれないが)。音への思いのなさはなんなんだろうか。ミャスコフスキーへの思いの問題?型通りには成功しているのだが、ちゃんとまとまってはいても、何か物足りない。聞けるレベルにはあるので○だが、ソビ響の悪さの出た演奏。,原盤ソヴィエト版SPとのことなので音質のことはそこに起因している可能性大。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ミャスコフスキー:交響曲第21番「交響的幻想」,イワーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)LP,,なぜか伝統的にソヴィエト国立系のオケが録音することになっているミャスコフスキーのシンフォニー。しかしこの録音は悪いうえにメリハリがなく地味である。音も薄くて迫力がない。わけわからない感じがする。スヴェトラも評判がよくないし、ロシアオケよりまとまりのよい西欧オケに向いているかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミャスコフスキー:交響曲第21番<交響的幻想>(1940),◎オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(COLOMBIA/HISTORY)1947/11/22〜フィラデルフィア管弦楽団の弦楽器群を得て、不相応なほどの高みに達している。モノラルだが美しい音色は少しも損なわれていない。暗い幻想が熱く熱く歌われる。廉価盤レーヴェルよりCD化済み。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミャスコフスキー:交響曲第21番<交響的幻想>(1940),○モートン・グールド指揮シカゴ交響楽団(CSO)1968/1/30〜モートン・グールドというと軽音楽の作曲家と見られがちだが、指揮においても軽音楽に止まらない活動を行っていた。これはRCAに残した録音で、確か単独盤でも出ていたと思う。シカゴ交響楽団に献呈された曲だけに期待させるものがあるが、グールドのテンポ感がすごくいい。水際立った指揮はこのいくぶんロシア的な暗い幻想を仄めかせる曲に対して明快なフォルムをあたえ、民族的な呪縛から解き放つことに成功している。同時期のオーマンディの録音の完成度には至っていないものの、佳演とは言えるだろう。この僅か14分半の交響曲、ミャスコフスキーのシンフォニー入門盤としてはオススメです。「交響的幻想」は通称らしい。あと、初演はシカゴでなくモスクワだった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミャスコフスキー:交響曲第23番(交響的組曲),○スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(warner他)CD,,全集の一枚。スヴェトラのアンソロジー中の演奏水準でいけば後期にしてはかなり上。若干大人しめだが小音量部分での繊細な音響配慮、しんとした空気感が晩年の特質を示している。○,,楽曲は交響的組曲とクレジットされることが多く、やや散漫ではあるが一応三楽章からなる交響曲の形骸は保っている。全般印象はきわめて伝統的なロシア・ロマン派音楽でありボロディンの国民楽派の伝統にのっとっているように感じるが、終(3)楽章は古典派に立脚点を求め西欧ふうの構造的書法が特筆すべき点として挙げられるが、終幕の不思議に気まぐれな場面転換ぶりは、その洗練ぶりがフランス的ですらありミャスコフスキーの個性を僅かに感じさせる部分となっている。2楽章は暗いだけ。全般薄い音楽の中で1楽章は印象に残る。「交響的幻想」を思い出させる構成にカバルタ主題(同時期行動を共にしていたプロコの弦楽四重奏曲第2番3楽章主題と同じ民謡を使っているのが印象的)を織り交ぜ、これもやや気まぐれではあるが何か哲学的というか暗示的な雰囲気を持ち面白い。少し混乱して長すぎるものの、清澄な音楽で聴きにくい部分は少なく、お勧めできる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ミャスコフスキー:交響曲第25番,○スヴェトラーノフ指揮モスクワ放送交響楽団(brilliant/melodiya)1957/10/9・CD,,これは曲がやや弱い。晩年ミャスコフスキーの形式に囚われすぎた作品で、27番のような締まった様子が無くマンネリズムが気になる。ミャスコフスキー特有の濁ったハーモニーや半音階的にうねるフレーズに奇怪な転調が排除され、ただメロディとそれを支える他の要素、といった構成ではどんなに充実した書法でも飽きてしまう。チャイコフスキーを狙っても(狙わされても)チャイコフスキーは越えられない。3楽章制だが、楽想の弱さもあって曲の長さがあだとなっている。演奏はオーソドックスで現代の一流どころの演奏と変わらぬ真面目さ。後年の演奏とはちょっと緊張感が違う。同曲の旧録でスヴェトラ若き日の数少ない記録(スターリンが死んでまだ4年余り)、オケはボリショイ劇場管となっている場合もある。brilliantは包括的にライヴ表記がなされているが、リマスターが非常にしっかりなされモノラルだが残響により聴きやすく仕立てられているとはいえ、想定される原音が良すぎるので恐らく放送用スタジオ録音のお蔵か何かであろう(50年代くらいのソヴィエト録音だと特殊な再生方法が必要になり、そうなると非常に音質が上がることから、完全否定もできない)。brilliantの抱き合わせ商法は一枚頭が安いとしてもどうかというところがあり、このスヴェトラボックスもまとまった初CD化音源は少なく、再発もしくは記録データのみ違う同一音源とごちゃごちゃしたソヴィエトらしい雑曲が占めている。,,"スヴェトラーノフ・エディション(10枚組)",,,"新録(全集収録)","Miaskovsky: Complete Symphonies & Orchestral Works / Evgeny Svetlanov", USSR State SO, Symphony Orchestra of the Russian Federation,"",単品,"Myaskovsky: Symphonies Nos. 1 & 25",-----,,
ミャスコフスキー:交響曲第27番(1949ー50),○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)LP ミャスコフスキーの白鳥の歌、雄渾に簡潔に綴られていくロシア民衆歌の連環。ガウクのメロディヤ録音の常としてブラスや打楽器が大きく弦、木管とのバランスに欠けているが、想像力をもって聴いてみると、雄渾というより非常に悲壮感のある音楽であることに気が付く。私はスヴェトラーノフ盤の印象しかなかったもので、このような、ラフマニノフを演奏するようにロマンティックでドラマティックな味付けがなされていると、あまりの印象の違いにびっくりしてしまう。ブラスが咆哮すると他の楽器が聞こえなくなるなど録音上の煩わしさはあるが、木管ソロが緩徐主題をひたすら歌う場面など、死を前にしてもなお憧れをもった作曲家の切ない思いが伝わってきて、じーんときてしまう。この曲は殊のほかメロディが美しく(いささかチャイコフスキー的ではあるが)、きちんとした構成感の中に常套的に配置された各主題はどれもロシア民族主義交響曲の最後を飾るのにふさわしい力のあるメロディであり、曲のわかりやすさに拍車をかけている。2楽章の哀しい歌が何といっても聞き物だが、終楽章も特徴的である。1楽章の闘争の主題が出てきて拮抗する場面から、断片的な他楽章の主題が織り交ざり、そこに唐突にファンファーレがひびき他の闘争や追憶の主題がかき消されて簡潔な結部にいたる。非常に合理的な流れだが、この演奏ではテンポルバートをかけ大袈裟な表情付けが付けられているがゆえに逆に、「偽りの勝利」というか諧謔的な印象が残る。スヴェトラーノフのように客観的に表現すると、あまりにわかりやすすぎるベートーヴェン的勝利を感じさせるが、ここではむしろ各楽章の美しくも哀しい緩徐主題の情緒が大きな震幅をもって表現されているがゆえに、それら緩徐主題を押し退けてやってくる軍隊調のファンファーレがいかにも赤軍の侵攻を示すかのようなあつかましさを持っているように聞こえる。寧ろこのほうが正しいのかもしれない。この演奏ではスヴェトラーノフと比べ物にならないほどテンポや表情の変化が付けられているので、スヴェトラーノフのように小さくまとまるのではなく、きちんとロシア大交響曲の流れを汲んだスケール感のある演奏になっているのがポイント。最後に、1楽章第二主題が終楽章で再現されるところで、あ、と思った。映画「ハリー・ポッター」シリーズで繰り返し流されるメロディによく似ている!ハリー・ポッターにミャスの影響が?などと馬鹿な事を言ってしまうのでした(まあ親友プロコフィエフの作品はよく剽窃されているが)。録音がいかんせん悪いのが玉に傷だが、初演者の確信に満ちた(若干おおざっぱだが)演奏として評価しておきたい。○。編集痕がやや気になる。とくにA,B面の最後が残響を残さずぶちっと切れるところはさすが鷹揚なロシア式と皮肉ってしまいたくなる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミャスコフスキー:交響曲第27番(1949ー50),○スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立SO(MELODIYA) ミャスコフスキーの白鳥の歌にして最高傑作の呼び声も高い。伝統的民族主義及びベートーヴェン的交響曲の立場に立って、大曲の「粋」だけを抽出し再構成したような曲。凝縮されているがゆえ至極あっさりと聞こえるが、社会主義リアリズムの「後方の」雄としてもまずカバレフスキーを凌駕した力量を感じさせる。スヴェトラーノフは正攻法、上記スタンスに真正面から取り組んだような演奏で、メロディヤ独特の録音が少し嫌味を感じさせるものの、紹介盤としては十二分の仕上がりとなっている。少し冷静に聞き込めば、2楽章など底はかとない悲しみに満ちており、終楽章の余りに定型的な勝利と開放のイメージがいささか茶番に聞こえてくる。ショスタコーヴィチ的ランチキだ。そういう聞き方をするにはスヴェトラーノフ盤の音は少し開放的すぎるかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミャスコフスキー:交響曲第3番(1913-14),ヴェルヴィツキー指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA) 手薄なオーケストレイション等習作的な雰囲気は否めないが、リヒャルト・シュトラウスらの色濃い影響下にあってその手法を推し進めようとした努力は聞き取れるし、後年も特質として残った旋律の才は認められる。当時モダニズムという立場にあってスクリアビンからプロコフィエフという系譜の中間で頑張っていた姿を残す貴重な作品及び演奏。決して万全の演奏ではないが殆ど録音の無い同曲にとっては貴重な盤。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミャスコフスキー:交響曲第5番,○イワーノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP,,ミャスコフスキーが半音階的なうねうねした音線と不思議に複雑?な和声とリズム等民族的要素のミクスチャーにより、独特の作風を確立した作品として特筆すべきものではある。ベートーヴェン指揮者で知られたイワーノフの力強い求心力と「やるときはやる」モスクワ放SOの実力がここに見事に結実している。作品的にもミャスコフスキーにしては(特に後半楽章)変化があり面白く、また冗長さも若干軽減されたものなのだが、こういうしっかりとした演奏で聞くとまるで別の作品に聞こえる。ミャスコフスキーの20番以前の交響曲はCD時代には無名指揮者かスヴェトラ先生(ロジェヴェン先生も録音してたかな)の演奏でしか知られることがなく、共に一発録りなどセッション時間がとれなかったせいか、乱雑だったり解釈に一貫性がなく(特にスヴェトラーノフの場合オケのソリスト重視の姿勢や時期的な弱体化はもちろん、独特の録音と特有の解釈ゆえ、曲の「本性」が見えず印象の好悪を分かつものになっている)拡散的な演奏になってしまっているがゆえ、不当な悪評価を与えてしまっていることが多いように感じる。イワーノフはミャスコフスキーをいくつか録音しており、私も全てを聞くことはできていないが、この作曲家についての先入観を覆す「意外と面白い交響曲を書く」印象に遷移することができた。発掘しがいのある作曲家であり、スヴェトラ先生が全集を録音で何とか残したがったのはわかる気がする。この曲について言えば西欧からの影響度を含めラフマニノフの1番の雰囲気によく似ている。フィナーレの最後などラフ3そっくりなフレーズも顔を出す。ラフマニノフの2番は別格にしても、他の管弦楽曲と比して決して劣るものではない。3楽章の民族的な浮き立つ雰囲気もペトログラード楽派風に前近代の常套手段に訴えるだけではなく複雑な要素をはらんでおり(やりようによってはわけがわからなくなるだろうが)、一筋縄じゃいかないところにプロコフィエフも共感したのだろうか。いずれにせよ、これは○だ。ミャスコフスキーというくくりで言えばオーマンディの21番に並ぶ◎。珍しく飽きない名演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミャスコフスキー:交響曲第5番,◎ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立交響楽団(revelation)1982/2/12・CD,,非ロシア的な先鋭さをはなちシベリウスの交響曲に匹敵する霊感が独自の方法論とあいまって完成された見事な作品。1楽章冒頭より奇妙な揺らぎをもつ主題が、大きなハーモニーのよろめきの上でフランス風の不安定な魅力をはなっている。独逸墺太利の匂いが抜けたわけではないが殆ど感じさせなくなっており、ミャスらしい語法のはなつ体臭もここでは灰汁抜きされ、更にロジェストの手によって20世紀的な硬質な響きの中に聞きやすく昇華されている。アメリカ音楽的ですらある。オケの中低音がしっかりしているので楽曲の構造的な弱さも目立たない。2楽章は繊細なディーリアスのような楽章で(きわめて半音階的なメロディを使えば容易に作れるたぐいの音だが)、冒頭の高音トレモロからして美しく、主題がロシア民謡ふうの暗い筆致でかかれていても、音の少ない心象的な流れの上ではあくまで叙事詩的表現の最小限度の発露のようにとらえられるのみだ。ロジェストは弱音表現ではとても研ぎ澄まされた空気感を演出するが、クレッシェンド過程で少し雑味を呼び込んでしまっている。だからどうもペット以下とくにロシア的な楽器の主張とともに、せっかくの「汎世界的価値」がローカリズムに戻されてしまったような残念さが残る。終端でグラズノフ8番に通して使われとくに二楽章に象徴的に使われた暗い分散和音がちょっと入る。意味深だ。三楽章は民族的な舞曲だがやはりソヴィエトの素朴な民族音楽というよりはルーマニアの先鋭な作曲家の抽象化された国民楽派音楽を彷彿とさせる。ダイナミックで洗練された、アメリカ・アカデミズムのようなからっとしたもの。響きが新しい。終端の響きの美麗さはロジェストのわざのなせるところだろう。四楽章はあきらかにソヴィエト・アカデミズムに沿ったような曲想でロシア産交響曲の終楽章ということを意識した作りに見せかけており、いつものミャス節が顕露する。だが細かい音符で込み入った変化をつけ、けして先例と同じ方法論で片付けようとはしていない。皮肉な調子の行進曲主題は親友プロコを思わせ、闘争的で常套的な主題との対比を見せている。ブラスが無理やり「ソヴィエト」を主張するものの、何か腹に一物ある、そういった楽章だ。ほぼユニゾンの末尾はいつものミャスだが、ロジェストは臭くならないように開放感ある清新な響きを強調し、見事に収めている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミャスコフスキー:交響曲第6番,◯コンドラシン指揮モスクワ・フィル他(melodiya)1978/12/5live・CD,,合唱まで加えたいささか大がかりな作品だがミャスコフスキーの癖のようなものが比較的抑えられ、美しい旋律や神秘的なムード、祝祭的なリズムなど聞き所は多く、コンドラシンによって引き締められ飽きずに聴き通すことができる。これはモノラルで出ていたものとは違うと思う。データが正しければコンドラシン亡命直前の録音ということになる。◯。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミャスコフスキー:交響曲第6番「革命」,○N.ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団、交響合唱団(DG)1998/8・CD,,スヴェトラーノフの交響曲全集録音(ロシア音楽アンソロジー)がついに2008年6月再版される(後日修正:ワーナーの協会正規盤でした)。6000円台という値付けは昨今のロシアもの復刻の流れからすればいつかは、と予想されたものだとはいえ、高額な「ボックス限定版」や単発CDを買い集めた向きにとってはかなりショッキングだろう。9曲程度ではない、27曲もの交響曲全集の廉価復刻というのは大きい。しかしこれで晴れて皆がミャスの「とりあえずの」全貌を容易に俯瞰できるようになる。その耳で聴き、その頭で判断できるのだ。他人の言説の継ぎ接ぎで「聴いたフリをして」論じる必要もない。皆が「聴いて言える」ようになることが、逆に楽しみである。,"
Miaskovsky: Complete Symphonie

Wcj

このアイテムの詳細を見る
",,ヤルヴィはやはり要領一番の指揮者である。今やネーメとつけないとややこしいことになってしまうが、依然としてかつてのようなスマートですぐれた技巧を示す演奏振りを見せてくれている。もちろんこのような「そつない」指揮者は実演で判断しないとならないのだが。この録音も引いた様な解釈ぶりが「つまらない」と判断されるようなところは否定できない(スヴェトラのアクの強い演奏に慣れていたら尚更)。前ほどではないが時おりライヴ放送や実演の機会もある指揮者だ。,"
Maskovsky: Symphony No. 6

Deutsche Grammophon

このアイテムの詳細を見る
",1楽章。軽い響きで要領のいいこじんまりとしたまとめ方は、スヴェトラやロジェストの向こうを張って西側オケにより東側の珍曲を録音し続けた頃の夥しい音盤群から得られる印象とさほど変わっていない。ORFEOのグラズノフに非常によく似た聴感の演奏振りである。ハメを外さず中庸で聞きやすいが、音響的に拡がりがなく、ホール残響があってすらミャスの素朴な書法がどうしても露骨に聞き取れてしまう。この時期のミャスはもっと解釈者がケレン味を持ち込み血肉を盛り付け方向性を明確にしないと、単調でわけのわからないまま、形式的に骨ばった「交響的大蛇」を聴かされる気になってしまう。数少ない楽想をミャスコフスキーらしい文学的・劇的欲求を満たすべく極端に伸縮させ交錯させる音楽にあって(劇音楽的背景があるのならテキストを残して注釈すべき部分ではある)、アンサンブルは緊密であるのに、指もよく動いているのに、正直飽きる。珍曲を職人的演奏家がさばくときにありがちな感じというか、なまじ巧いだけに曲の悪い部分も思い切り聞こえる演奏になってしまい、価値を却って低く印象付けてしまう、ちょっと厄介なたぐいと言えるかもしれない。,,2楽章は事実上スケルツォのプレスト楽章。曲がイマジネイティブで変化があるため1楽章より入り込める。三部形式のトリオでセレスタと弦が奏でるなだらかな音楽は澄み切った殆どRVWの教会音楽で、フルートが雰囲気を壊さないようにスラヴィックなメロディを奏で出すあたりはミャスの最良の部分をヤルヴィの音感とテクニックが忠実に繊細に紡ぎ出し成功している。スケルツォ再現で断片的なテーマが交錯しシンバルで〆られるあたりも実にスマートできっちりしている。,,3楽章アンダンテは一番謎めいていて、陰鬱な1楽章末尾に回帰してしまう。1楽章第二主題の延長上に甘美な主題もあらわれるものの、2楽章中間部も含めての中から寄せ集められた断片が気まぐれに連ねられていく。難解でやや机上論的な音楽が進み、ミャスの緩徐楽章は独自の旋律が一本しっかり立てられていないとこうも散文的になってしまうのか、という悪い見本に思える。だがヤルヴィが力を発揮するのは俄然こういう「人好きしないのにロマンティックな音楽」である。そつなさが長所に感じられるところだ。独自のと言えば甘美なメロディがまるで世紀末音楽的に・・・書法的影響が指摘されるスクリアビンやよく言われるところのマーラーのように・・・現れて、2楽章のトリオに繋がるところは非常に繊細で美しく描かれている。,,終楽章はまるでハリー・ポッターのように能天気な引用革命歌2曲から始まりミャスらしくもない明るさがあるが、虚無的な不協和音を軋ませる半音階的進行がハーモニーの下部に聞かれるのもまたミャスらしさだろう(スクリアビンやグラズノフのやり方に既にあったものだが)。暗さはミャスの多用する「長い音符の伸ばし(弾きっぱなし、吹きっぱなし)」の下に、「怒りの日」の主題がハープとバス音域のピチカートで挿入されるところで反転して表に出る。世界が暗転するこの部分でもヤルヴィは注意深いが、その洗練された手腕がややミャスの「匂い」を抑えるほうに行っているのが気にはなる。既に3楽章で暗示されていた「怒りの日」の主題すら耳をすまさないとちゃんと聴こえなかったりする(この終末論的な曲では重要な提示だ)。この楽章には他にも聖歌引用などが交錯し、音楽的というより文学的な分析を施さないとわからない部分も多い。とにかく音楽がどんどんおさまっていくことは確かである。「怒りの日」から美しい音楽が展開されていく。聖歌「魂と肉体のわかれ」がクラによって提示され、簡素なRVW的世界が回想されたと思ったらまた引っくり返され珍奇なパレードのような革命歌によって再現部が構築される。「怒りの日」をはじめどこかで聴いたようなフレーズも織り交ざり、だがどんどん低音になっていき、宇宙的な深淵の中に無歌詞合唱がムソルグスキーのような響きのバスクラを従えて入ってくる。聖歌の再現である。しばらく合唱曲のような状態が続いた後、その歌詞に沿ったような運命論的な結末へ向けて、1,2楽章からの美しい引用が余韻をたっぷり残した後奏のように響く。ヤルヴィは実に厭味なく清清しい音楽に仕立てているが、本来はもっと「気持ちの悪い感じ」の残るものである。○。,-----,,
ミャスコフスキー:交響曲第6番「革命」(1921-23/47),○コンドラシン指揮ソヴィエト国立交響楽団、ユーロフ・ロシア合唱団(RUSSIAN DISC)1959/2/7 この曲はよく聞くと単純。リズムの絡み合いがなく、構造的な面白さは皆無。ハーモニーの独特さもいったん慣れてしまうとつまらない。ミャスコフスキーが最後の27番まで持ちこんだこの暗くて重いハーモニーは、コンドラシンをもってしても魅力的には響かない。この大曲、前期のミャスコフスキーはみなそうだが、常に一本の旋律(的な流れ)だけが半音階的な伴奏にのってひたすらかなでられるだけで、最初で抵抗感を持ってしまった人はおそらく最後まで聞き通せないだろう。この人はだいたいが聴く人を選ぶ。万人に受入られるであろう要素といえばごく部分的に挿入されるフランスふうの繊細で夢のようなパッセージ。この曲も計15分くらい入る。表題交響曲であればなんらかの意図を感じることもできようが、ここではその存在はナゾである。3楽章はとくにrvwぽい部分やディーリアスぽい箇所がある。しかしこの楽章で顕著なのはワグナーとスクリアビンの影響だろう。スクリアビンぽさは2楽章までの部分でもなくはなかったが、この楽章の奇妙な生温さはそのへんの影響がひときわ大きいことを示している。但しそのへんが見せる巧みな管弦楽法からの影響は皆無。あいかわらず単純なスコアに分厚い響きといったかんじだ。寧ろ偉大なロシア・アマチュアリズムの伝統の上に成り立った楽器法によるところが大きい。どことなくグラズノフ、というところもそうだ。4楽章はそれまでの陰うつさとがらっと変わって浅薄な祝祭音楽から始まるが、このあたりもミャス嫌いをますます寄せつけないところだろう。その楽章配置は一見グラズノフのように機械的になされたようで、首尾一貫性を失わさせているように感じるが、じつはこれはかりそめのシニカルな盛り上がりで、本筋はやがて見えてくるフランスの神秘をかいだような音楽にある。「怒りの日」の主題が低弦のピチカートであらわれるあたり(この旋律も途中から何故かロシア民謡になる)から、印象的な美しく清浄な音楽が始まる。グリエールのイリヤ・ムーロメッツ終楽章のような感じだ。そして合唱が唐突に入ってくるわけだが、このあたりはほんとに美しい音楽になっていて、逆にミャスらしくない感もある。コンドラシンはちょっとドライに演奏を続けていくが、そのドライさゆえに、なぜか20世紀アメリカ・アカデミズムのシンフォニーのようなあっけらかんとした聴感をあたえ面白い。また終盤においてはその音楽の妖しい美しさを巧く引出し、「ぎごちないクセ」をなるべく目立たせないように演奏しているから聞き易い。全般、この曲の盤としては高く評価していいのではないかと思う。が、曲的にはどうか、というところで無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミャスコフスキー:交響曲第6番「革命」(1921-23/47),ヴェロニカ・ドゥダロワ指揮ロシア交響楽団(olympia)変ホ短調の曲としては唯一とのこと。しかし晦渋な大曲だ。改訂版しか知らないが原曲はよほど生硬で習作的なものだったのだろう。初期シマノフスキを下手にしたようなリヒャルト的壁画、兎に角錯綜する曲想(多分に良いものを含んではいるが)の「分裂症的展開」は、しつこいほどの半音階、不協和音を伴って、(個人的にはこういう曲を聞きたくなる時というのはあるのだけれども)多くの人は頭が痛くなるだろう。終楽章冒頭(もしくは再現部)いきなりのグラズノフ的祝典音楽にはびっくりさせられるが、只挿入されているだけで他の部分の暗い蠢きと余りに掛け離れている(あるいはこれがひょっとすると改訂部分・・・?)。難解だが、「現代曲」でないところがミソで、スクリアビン中期の管弦楽曲から旋律性を取り去ったくらいの印象は、いかにも半端。神秘和音をおかしくしたような低音の響きは不可思議な感じで、高音の無闇な盛り上がり(ヒステリー)と完全に乖離している。・・・というか全般的に管弦楽セクション同士の連携がうまくいっていない。構造的に終始噛み合っていないような感がある。アイヴズやミヨーなどの確信犯的な用法ならまだしも、自覚的でないようで、要は「聞きづらい」。この作曲家の特徴のように思われている民族的表現はここでは皆無に近い。同盤オケはやや弱く感じるが、弦など、このような珍曲でよくがんばっているものだ。ふと思ったがこの曲は叙事劇の付随音楽などとして使用されれば、ぴたりとはまったかもしれない。そうこれは「第一次大戦、十月革命から恐怖政治への歴史の変革を音楽に刻んだ叙事詩(新世界レコードのライン付記から)」である。予め「これこれこういうものを描写しているんだ、うん、ここのフルートの叙情的なソロはこれこれこういう意味があって・・・」といった情報を入れていれば面白く聞けるのだろう。それにしてもこんな晦渋な曲がよく「”悲愴”以来最も偉大な「第6」」とソヴィエト人民に称えられたものだなと思う。といってライナーを見ると初演者はゴロワノフ。だからか・・・!「生と死の交響曲」という言い方はある意味当てはまっている。これは生と死が入り組んで進む苦悩の人生を象徴しているのだ。全編あまり身を入れず聞き流すぶんには、面白いかも。終楽章終盤でスクリアビンのように無歌詞合唱がはいるのには度肝を抜かれる。このひとの曲は静かな部分ですこぶる美しい(ヴォーン・ウィリアムズなどを思い浮かべる)響きをもたらすことがあり、魅力のひとつとなっているが、この終盤はホルスト「惑星」の終曲など想起するものだ。他2楽章スケルツオに入り交じる軽く美しい旋律は(例外的に)珠玉といえよう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミャスコフスキー:交響曲第9番,スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(OLYMPIA)1991,1993 なんて曲だ・・・ドビュッシーのスコアに溢れる自然にたいするイマジネーションに感動して造り上げたらしいが、下手なディーリアスのような出だし、あいかわらずの初期ミャスコフスキー節(わけがわからない晦渋な音楽)。まず1楽章には耳を惹く要素は見当たらない。2楽章プレストは清新な響きとスピード感がなかなか恰好良くできている。3楽章レントは「ミャスコフスキーの最も奥深く美しいメロディ」だそうだが、それほどでもないような(後期のシンフォニーのほうがずっとわかりやすい)。でもまあ、ここで言えるのは、この時点においてミャスコフスキーはロシア国民楽派のひとかけらも口にしておらず、言ってみればスクリアビンや初期プロコフィエフのような西欧的な作風を持っていたということだろう。4楽章の冒頭は(他の部分でも少しあるのだが)プロコフィエフの音楽にちょっと似ている。モダニズムらしい曲だ。晦渋さはあいかわらず拭えないものの、少し聴ける。総じて「ロシア交響楽中最高の「第9」と言っても過言ではない」とあるが、過言ではないかと逆に問う。演奏自体はりっぱなもので、スヴェトラーノフとロシア国立は一流の仕事をやってのけている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミャスコフスキー:祝典行進曲,ニコラエフスキー指揮高校ブラスバンド(MusTrust)1931/3/8・SP,,webで盤違いを何種も聴ける。再生条件でまったく印象が違うものの、このブラスバンドは下手ではない(ミスが無い)が平易な作品を力強く演出するまで至っていないのはわかる。二部構成で、僅かにミャスコフスキーらしい期待を裏切る和声が混ざるが、ほぼ、メロディとリズムだけの魅力的な曲、今演奏されないのは不思議だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:「ニューヨークのフランス人」組曲,○フィードラー指揮ボストン・ポップス(RCA VICTOR)初録音盤 CD化。この演奏以外知らないので相対評価のしようがないが、ノリの良さを買って○ひとつとしておく。ただ、「ノリの良さ」とはいえこの曲は全くもってポップスの雰囲気を汲んでいない。もともとRCAビクターがガーシュウィンの「パリのアメリカ人」に対抗する曲としてミヨーに委属したもので(無論、”この”録音のためである)、当初からガーシュウィンとは対照的な異なる雰囲気の曲が求められていたようである。そして出来上がった音楽はいかにもミヨーらしい牧歌と複調性のおりなす心象風景、最初のほうなどガーシュウィンというよりアイヴズの情景音楽だ。ガーシュウィンのことをほとんど意識せず我が道を行っている。とても美しい明朗さ、肉太の快活さ、ミヨーの晩年作風の典型かもしれないが、ガーシュウィンとは「階層の違う」立派な曲。フランス組曲やプロヴァンス組曲に並ぶものだ。オケも当然のことながら好演。クラシカル・ミュージックの語法も難なくこなしている(まあ、主にボストン響のメンバーで構成されているのだから当たり前か)。フィードラーの俊敏な棒はミヨーの複雑な構造やリズム、楽器法も難なくクリアして曲の魅力を引き出している。もっと演奏されても、聞かれてもいい曲だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:「ルネ王の暖炉」組曲,ウーブラドゥ指揮パリ音楽院管楽アンサンブル(forgottenrecords他)1951パリ,,LP起こし。颯爽としたテンポで軽く、素っ気なく進めていく。これもウーブラドゥらしさなのだろう。楽器の音色も意外とニュートラルでフランスの土着な感じがしない。音がこもって良くない、それはこういうスタイルの演奏にはマイナスに働く。いつのまにか終わっている、そういうまるでスナック菓子のような印象で終った。スナック菓子で良いのかもしれないが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:「ルネ王の暖炉」組曲,パリ管楽アンサンブル(forgottenrecords他)1956,,木管楽器が互いにソロを披露しながら穏やかな、暖かな音楽を紡ぎあげていく。こういう編成では人気曲であるが、ホルンなど一部難度の高いところもあり、そうそうたるメンバーが録音している。これもその一つと言えば一つ、そもそもフランス楽器、奏法を前提とした曲のようなところもあるので、自然とフランスの団体を選んで聞いてしまう、だからこれがフランス特有の何かなのか、ということに気づかずただのスタンダードに受け取れてしまう。音色と技巧のみ、わかるといえばわかるし、共に過不足なく、いたずらに音色を切り替えていったり技巧を披露するようなことをする曲でない以上、うん、、、評なんてどうでもいいので聴いてほしい。この盤はニュートラルなフランスの管楽アンサンブルという意味ですすめられる。穴はない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:2台のピアノと管弦楽のための協奏曲第1番,ジョワ、ロビン(P)ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1972/1/31放送,,最近思うところがあって聴いてないが、アイヴズを聴く私は「音の洪水」が好きである。音の奔流に有無を言わさず押し流されていくところに岩があって必死でしがみつく。洪水には秩序が無い。ミヨーをよく聴くのもそういう側面がある。アイヴズにせよミヨーにせよある程度独自の方法論に従って作曲してはいるが、聴く者に意図が伝わらない、伝えようとしていないところもある。この曲も相変わらず小洒落た細かい装飾音をなぜか「合奏」させてごちゃっと潰れて結局ノイズ化するようなところが多々見られるが、これはロザンタールの指揮技術とかオケの技巧的問題というものではなく書法的問題で、しかもミヨーはそういった無理のあるスコアを細部まで徹底しようとしていたのか、全オケが鳴る部分での豊満な不協和音にはミヨー特有の複調性が、一般人にはただの不協和音としか聴こえない、そういう事象は多作家のミヨーの作品の「多く」に共通する「問題」でもある。ただ、私にはなぜかそのノイズが心地いい。この作品もそういったわけで、ミヨー後年の凡作群の中では演奏機会のある方の佳作だが、その長さを耐えきれるか、唯一の「すがる岩」としての明確なメロディが(いつものような1楽章冒頭だけでなく)3楽章にも表れるので、爆ぜるように奏でる二台(二台必要なのか?)のピアノの美音とともに楽しめる要素はある。ロザンタールなので発散的で色彩的なのが逆にミヨーの(普通の耳からすると)悪いところを助長することになっているが、そこはそれ、各楽器のはなつ美音でなんとか。良好なステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:4つのブラジル舞曲,○ストコフスキ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1944/1/9live,,録音が近くて物凄い重い音!それこそ大砲を連射されるような感じだ。冒頭のペットからして強烈。重いし強いし前進力はあるし、まさにミュンシュを思わせる。一曲めはあきらかにストラヴィンスキーのバーバリズムを意識しており、ハルサイぽい音や楽想が頻発する。曲感は「男とその欲望」に近く、リズムと旋律の南米性はストラヴィンスキーと全く違う地平を指し示している。二曲目からミヨーらしさははっきりしてくる。一筋縄ではいかないのはやはり新古典末期のストラヴィンスキーの三楽章のシンフォニーや同時代英米圏の管弦楽曲の感じに近い。ただ、ストコは(というかNBCは)重い!書法のせいもあろうが、録音のせいもあろうが。最後のヴァイオリンの超高音の動きはミヨーの特許的なものだろう。三曲めはポルタメントが荒れ狂う。音色は明るく硬いが、録音が近いから生々しく迫力がある。四曲めは「フランス組曲」あたりの舞曲に近く、楽天的なミヨーらしさが完全に支配した楽曲である。物凄いわかりやすいのに現代的な書法のワサビもきいている。楽しめます。ただ、ミヨーマニアは何と言うかな。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:イーゴリ・ストラヴィンスキーへの追悼,○パリジー四重奏団(naive他)CD,,僅か一分半程度の小品だが自身の晩年も迎えつつありながら依然若きミヨーを思わせる透明感を保った優しい曲になっている。演奏どうこう言う曲ではないので仮に○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:インディアナ州のための音楽,◎作曲家指揮BBC交響楽団(bbc,carlton,imp)1970/9/21 3楽章の瞑想的な音楽の美しさよ!硬質なひびきが仄かな感傷性をはらみ、とくにヴァイオリンのかなでる高音ヴィブラートの美しさといったらない。BBC響の怜悧な響きが、逆に怜悧であるがゆえの蒼白い光彩をはなっているところが秀逸で、これは作曲家本人にしか為し得ない神懸かり的な技かと思わせる。長い楽章で、不協和音も頻出のアイヴズ風雰囲気音楽だが、素直に清潔で爽やかな空気感を楽しもう。重ったるいミヨーのハーモニーも、透明で軽いBBCの音で聞くと意外といけます。2楽章などもミヨーらしからぬわかりやすさがあり、完成度が高いのでおすすめ。4楽章のトライアングルも戦後ミヨーにしては新手で面白い。インディアナ州150周年記念作品。戦後ミヨーの書いたオーダーメイド的作品群のひとつで、一連の大交響曲群と似通った作風ではあるが、「4楽章の組曲」としての完成度の高さはさすがである。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ミヨー:ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとピアノのための四重奏曲,○アンサンブル・ポリトナール(CHANNNEL CLASSICS)CD,,いわゆるピアノ四重奏曲という普通の形態を晩年になって作曲したというのも不思議で、この作曲家の本領はけして木管楽器ではなく、弦楽器とピアノなので、型にはまった晩年様式での作品には安心感もある反面少し飽きるところもある。とはいえ、この曲集で一番聴き易い。朝にぴったり。演奏は朝っぽい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ヴァイオリン、クラリネット、ピアノのための組曲,○アンサンブル・ポリトナール(CHANNNEL CLASSICS)CD,,ミヨー100歳記念で結成された団体でそれだけにオーソリティぶりを発揮して巧い。リリカルな面とラジカルな面を同時に提示するミヨーに対しあくまでリリカルなものとして描いているようで聴き易い。この曲集は曲数が多くけして多様とは言えない部分もあるが(作曲時期的にやや異なる趣がみられる程度)ミヨーの挑戦したのは音楽自体よりむしろその楽器の組み合わせにあり、とくに、この曲のようにピアノが入るとアンサンブルが締まり非常に引き立ってくる。ピアノが難しいのではなくサティの伝統を継いで必要最小限の効果的な転調を繰り返し音楽に変化をつける。この作品は36年作品でミヨー最盛期といってもいい時期のものだが、最盛期をどこに位置づけるかによるが、実験的時期は既に過ぎていて、実用的側面での個性を濃くし、いい意味でマンネリ化している。晩年になると本当にマンネリになるのだが、ここで面白いのはクラの存在で、通常ヴィオラなど想定される位置に置くことで音色的な幅を出している。とてもよくできており、演奏もすばらしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ヴァイオリン、クラリネットとピアノのための組曲,○リッター(Vn)ケル(Cl)ローゼン(P)(Cherry)1953/4NY・CD,,ミヨーらしい牧歌的な室内楽。この組み合わせならではの、兵士の物語をオマージュしたと思われる3楽章にはニヤリとさせられる。ヴァイオリンの開放弦の重音が楽しい。演奏は生々しくも鋭利でもなくいい意味で中庸、技術的には何ら問題は無い。とりあえずモノラルという点を除けば私はこの盤だけで十分だ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ヴァイオリン・ソナタ第2番,○ボナルディ(Vn)ビリエ(P)(ARION,CBS),,じつに美しい曲で、武闘派は日寄った作品とみなすだろうが現代の人間にとってはイデオロギーなんかどうでもいい。ジイドに献呈されたこの作品はミヨーのわかりやすく暖かい楽曲のカテゴリの中に含まれる。やや薄いかんじも一連の牧歌的作品と共通した、ミヨーの職人的なよさがあらわれたものと好意的に聞ける。演奏はアクの強さもなくミヨーのこの作品におけるスタンスを綺麗に提示している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ミヨー:ヴァイオリンとクラヴサンのためのソナタ,○キャッスルマン(Vn)ハーバッハ(HRPS)(ALBANY)CD,,とりとめのない一楽章、印象的な旋律をもつ二楽章、ミヨーらしい機知が感じられる三楽章と性格分けのはっきりした新古典的な作品で、よく聞けば牧歌的なミヨー節を楽しめるが、ハープシコードの音の奇異さに前衛性が先に立つ節もあり、好き嫌いはあるかもしれない。演奏は荒いが、まずまず曲の雰囲気は出ている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ヴァイオリンとクラリネット、ピアノのための三重奏曲,○パレナン(Vn)デルクルース(Cl)ハース・ハンブルガー(P)(DIVINE ART他)1953・CD,,PRISTINEでデータ配信しているものはトラック別けされてません、注意。ミヨーの小編成室内楽として典型的な美観をみせている。面白い組み合わせでもある。奏者も一流どころを集めており、なかなかいいのだが、録音は今ひとつクリアではない。ミヨーらしいミニアチュール、○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第2番,○アンサンブル・ポリトナール(CHANNNEL CLASSICS)CD,,1917年、比較的若い時期の作品となる。というとまさにプロヴァンスの民謡旋律に美しい和音を載せて、しかし突然暗雲たちこめ雷鳴がとどろくようながちゃがちゃとした現代的フレーズも混ざり、そこにほのかに後年のミヨーらしさが漂う。美しい民謡はRVWを想起させられざるをえず、RVW的なるものの源流はオネゲルだけではなかった、と感じさせる。多作な中でもこういう作品を作れてしまう作曲家の類稀な才能に感動。演奏もまた美しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ヴァイオリンとピアノのための春,○マルツィ(Vn)アントニエッティ(P)(coup D'agrbhet)1951/10/31・CD,,春という曲を無数に書いていたミヨー。シゲティのものをはじめとして器楽の範疇に入るような曲を5分程度の小規模な形で録音した例が多く、何かの録音集の穴埋めに使われていることがままある。しかし曲は美しい。ビアノが実に爽やかで個性的なファンタジーをかもすのがよいがミヨー自身もよくしたヴァイオリンの扱い方も凡庸な作曲家の教科書通りの書法にはならない。演奏は欠点がなく長所ははっきりしているところ、くらい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ヴィオラとピアノのためのソナタ第2番,○アンサンブル・ポリトナール(CHANNNEL CLASSICS)CD,,正直戦争が影を落としていると言わざるを得ない曲で、チェロ音域にとどまり静謐陰鬱な情景を描く冒頭からが印象的だが、面白いのはそれでも浄化されたように透明な響きで耳を飽きさせず、かつ、快活な場面もしっかりとあって、これはヴァイオリン音域でヴァイオリン譜のような音符を煌かせ、まるでヴィオラのための曲というより、チェロとヴァイオリンの音域によるヴィオラのためのソナタ、という感じがするところだ。ミヨーは健康なころはヴァイオリンをよくしたそうだが、ヴィオラという楽器の特殊性をわかっていてこう書いているのは明白で、そういうところが興味をひく。演奏もヴァイオリン的かもしれない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ヴィオラ協奏曲第1番,○ルモワーヌ(Va)ロザンタール指揮ORTF国立管弦楽団(FRENCH BROADCASTING PROGRAM/ina配信),,近代ヴィオラ協奏曲の隠れた名作と言われ新古典的な趣はストラヴィンスキーよりはやはり同曲の立役者ヒンデミットを思わせる。ただ先すぼみの感も否めず、牧歌的な1楽章においてもヴィオラの音域が浮き立ってこず音色の魅力も余り引き立たないように思った。30年代くらいのミヨーは可聴音域ギリギリの超高音で旋律を響かせその下でメカニカルな構造を面白く聞かせていく魅力的な方法をとっていただけに、更に音盤にあっては高い音が引き立たないとよくわからない音楽に聴こえてしまう。このソリストも力は感じるがそれほど魅力的ではない。ロザンタールが意外ときびきび動きを聴かせて来て、そこは魅力になっている。第二番のまだ作曲されていない50年代前半のモノラル放送用録音か※。,,"※ina.frから配信されている音源と同じと思われる(未検証)。1968/5/2放送のライヴ録音で、オーリックやバローの3番と共に演奏された。",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ミヨー:ヴナスク伯爵領人の典礼op.125,○ブヴィエ(A)作曲家指揮アンサンブル(VERSAILLES)LP,,ストラヴィンスキーっぽい削ぎ落とされ骨ばったアンサンブル(サティ的でもある)にオーケストレーションで、音楽はシェーンベルク的に重く晦渋なものはあるが旋律をはじめ根底には南欧の楽天性が流れる。「結婚」とか、あのあたりに影響されたフランス近代の作曲家もまた多いが、ミヨーは換骨奪胎のさまが聞きやすい方向に向かっている。そのぶん脇も甘くなるがミヨーなのでそこは構成の妙で乗り切っている。短いのでまだ耐え切れる範囲か。演奏評はしづらいけど、いかにもフランスの典雅さが漂う範疇にはある演奏ぶり。前後収録の曲の間にあっては少しへこんだ感じか。○。「コムタディンによる典礼」と表記される場合あり。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ミヨー:エクスの謝肉祭,○エルフェ(P)ロバートソン指揮フランス国立管弦楽団(erato)1991-92・CD,,ラヴェルが嫉妬したという(そんなかんじだったとおもう)「サラダ」をもとに12曲の小品集として編まれた、ミヨーでは有名な作品。非常に美麗な旋律がきかれ、ミヨーふうに調性を重ねられなければ著名作品として売れただろうな、とも思った。サティにおける「パラード」のような作品、と言えば通じるだろうか、ミヨーにしては保守的だがそこがいい。エルフェは達者、オケはやや緩い感もあるが音色的には美しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:エクスの謝肉祭,ダルレ(P)デゾルミエール指揮ORTF(forgottenrecords)1947/10/30パリlive放送,,ラヴェルが嫉妬したといわれるバレエ音楽「サラド」の改作op.83bだが圧倒的にこちらのほうが有名である。民謡調と世俗味に彩られた12曲の旋律音楽はミヨー好きにはむしろ分かりやすすぎる剽窃感あふれる即物的な雰囲気を持つが、特有の和声感や構成感は若干のノイジーなものも含めて至るところに顔を出し、六人組の一員として時代の先駆にいた、この作風をずーーーーーーっと1970年代まで貫いたんだ、という嚆矢の初々しさを味わうのも良い。ヴァイオリンの超高音の下で滑らかにピアノが流れるなど、どちらの楽器も良くしたミヨーならではの感覚が活きたりしている。録音がややノイジーで古ぼけているのと、デゾルミエールのどこか緩いのにテンションの高い伴奏ぶりが気になるところもあるが、ミヨーの書法には気合を入れないと弾けない側面はあり、そこをデゾは理解しているともいえる。意外と色彩感は出ていて、ダルレの鮮やかだが力任せには決してしない弾きっぷりと合わせて、往年の色褪せた演奏の感はしない。この音楽の「現役感」はさすが同時代+後代の音楽の擁護者デゾ、メシアンはさすがに厳しかったがジョリヴェは立派にやっていたし、ミヨーだともう時代的には同志ということになろう(サティをめぐっては総体としては離反した六人組のあとにアルクイユ派と称し入ってきたわけだが)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:エクスの謝肉祭,ベロフ(P)プレートル指揮モンテカルロ・フィル(EMI/warner,icon)CD,,プレートルの名を上げたモンテカルロとの録音の一つだが、響きの美しさとしなやかで高精度な演奏ぶりが一種勢いとも結びついて、かえって曲の底浅さを感じさせる「無害な小品集」の印象を強くする。ソリストも完璧。私は単にフランスの田舎音楽としてしか楽しめなかった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ミヨー:エクスの謝肉祭,マデルナ指揮ローマ放送交響楽団、ボジャンキーノ(P)(ARKADIA)1960/12/23LIVE 「サラダ」からの編曲。サラダは悪巧みの意味。ラヴェルが賞賛したバレエ音楽であるが、このピアノ協奏曲ふうの編曲の方が有名である。ただ、この演奏どうもソリストが鈍い気がする。また、オケもラテンのオケなのに遊びが無く、魅力に欠ける。ミヨーの音楽は「お祭り」だ。調性を失うほど派手に騒いでジャンジャンジャンで終わる、それでいい。この演奏は堅苦しさを感じた。まあ、曲も内容の薄い断章の堆積にすぎないものだし、そんなに深く考える音楽ではない。ミヨーを聞きなれた耳からすると典型的なミヨーであり、ジャズふうの楽想にいたってはいささかライト・ミュージック臭く感じる。真剣に聞くと馬鹿をみるので、遊びながら聞きましょう。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:エクスの謝肉祭(バレエ音楽「サラド」よりピアノと管弦楽のための幻想曲),ボジャンキーノ(P)マデルナ指揮ローマRAI交響楽団(arkadia)1960/12/23live・CD,,ミヨーがアメリカ大陸、とりわけブラジル音楽から得た素材を料理した曲中ではかなりクラシカルな意味で個性的に出来上がった作品だと思う。旋律やリズムを浅薄に取り入れるだけではなく自分の性向、とくに響きの独自の感覚と照らし合わせ、曲によっては確かに「本筋のミヨー」として聴ける(後半は「屋根の上の牛」的なまんまラテン音楽をなぞっただけのようなものが目立つ)。ヴァイオリンを中心に各楽器を達者に弾けた人だそうで、ピアノを使わせると言いたいことを簡潔にスカッと示してくれるから、分かりやすさもある(「家庭のミューズ」に似た美しい曲も現れる)。12の極めて短い楽章は「タンゴ」といった即物的な表題をもつが、本来それぞれ特徴的な道化師ふうの名前に割り当てており(サティ的だ)、対照的な性格をスパッスパッと短くあらわしていく。皮肉も含む作品であることも考慮しないと浅薄な印象のみ残るおそれもある。原曲の「サラダ」はまずもって演奏録音されないが、ラヴェルがただでさえ多作のミヨーの示した「新味」の多様性に、同じく新しい響きを目指す自らの寡作を嘆いた話が本に出てくる。この演奏は「輸入音楽」ではなくミヨー側に寄せた演奏に聴こえる。楽章の即物的性格よりも響く音の鋭敏さ、雑然とした特有の魅力が、確かな指で遊びを交えず先導するソリストのもと抽象的に引き出され、提示されている。ゆえ地味だったり遊びがなさすぎるなど批判もあり得るが、私はこれがしっくり来た。どうしてもただの世俗音楽の翻案にすぎない楽章は眉をひそめてしまうが、三分の一の曲はマデルナにブヨブヨした部分を削ぎ落とされ明確なフォルムを与えられており、最良と考える。この曲が(屋根の上の牛同様)嫌いな向きにはすすめられる。なぜかオケが上手い。敏捷でピアノにピタリとつける。マデルナが変なことをしないからだろう。ハッキリした演奏なので勧められる。録音も明晰なほうではないか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:オーボエ協奏曲,○ヴァンデヴィル(Ob)スーザン指揮ORTFフィル(barclay,INEDIT)LP,,比較的晩年の作品で筆のすさびのようなものの多い中、協奏曲と言う点を除けば無難な牧歌的小品に仕上がっている。,,協奏曲のジャンルに並ならぬ情熱を注ぎあらゆる楽器の組み合わせで書いていたミヨーだが、いずれの作品も楽器をよく知り特質を引き出しつつも自分の作風をはっきり打ち出すという高度なわざを見せ付けるものになっているが、ここでもオーボエという楽器の懐かしく輝かしい音色を技巧的パセージを織り込みつつも表現させてゆく手腕が鮮やかである。,,ヴァンデヴィルは舌を巻くほど上手い。相対的にバックオケが貧弱過ぎると思えるほどにである(音はどちらとも暖かくよい)。終楽章などオーボエなの?というような技巧的なフレーズも気合一発吹き飛ばしている。明るく軽快な演奏を楽しめる。○。,-----,,,-----,,,-----,,
ミヨー:オパス・アメリカナム2番(「モーゼス」),作曲家指揮ORTFのメンバー(CAPITOL)LP,,陰鬱とした大管弦楽曲である。しょうじき聴きとおしても何か腑に落ちないような感じは否めなかった。大交響曲の晦渋な緩徐楽章をえんえんと聞かされるかんじである。それでもオネゲル風の構造の面白さや真面目な顔のミヨーを真摯に受け止められる局面もあるのだが、録音が古いのも手伝って少々辛い。別に演奏だけのことを言っているわけではないが、無印。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ミヨー:カンタータ「栄光の冠」Op.211,○デミニ(B)作曲家指揮アンサンブル(VERSAILLES)LP,,「三つの聖なるカンタータ」と題されたミヨーの宗教カンタータ集で、「ヴナスク伯爵領人の典礼(コムタディンによる典礼)」および「格言カンタータ」という多少時期のずれた作品が裏面に入っている。この曲は題名からして聖書めいているが祭儀の進行を8曲(4節)のいずれも音楽的にはプロヴァンス風味たっぷりで(それを言えばそもそも裏面だって思いっきりプロヴァンスな主題の曲なのだが風味は違う)1940年の作品とはいえ未だ六人組のもっとも輝かしい時代の、素直な牧歌的室内楽の系譜につらなる雰囲気をもった作品である。前年の有名な「ルネ王の暖炉」に似たものを別の編成で別の目的のもとに作り上げたといったふうである。ユダヤ系であることに対する迫害をおそれアメリカに亡命したまさにその年の作品であることは、懐古的でなつかしい曲感の示す意味をストレートに示している。,,RVWが第一次大戦で外国人として戦下に見たプロヴァンスの暖かい風景(異説あり)を、緩やかな音線にうつした曲をもって世に名を轟かせたことを思い出す。ミヨーはパリジャンとしての生活がありながらも、まさに国がどんなに戦に乱れようとも暖かな情景を保ち続けたエクサンプロヴァンス生粋の作曲家であったことを思い起こさせる。RVWは客観的な時代には戦争をそれなりに苦々しく描いたが、いざ戦争の害に逢ったところでストレートに描くことをやめ、田園の哀しくも美しい情景をひたすら美しい音にたくした5番交響曲をまとめた。ミヨーの心情もまさにその、戦争に向き合い闘争するのではなく、戦争を遠く見守り収まるのを待つ、懐かしい風景がせめて壊されないようにと回顧する、そういったところにあったのかもしれない。,,やや古めかしい歌唱に対して僅かフルート、トランペットに弦楽四重奏という擬古典編成のバックがとても親密な雰囲気をもち、田舎教会のミサ(ユダヤ教だと神聖祭儀とでも言うのだろうか)の進行風景を思わせて秀逸である。演奏自体は戦後の録音だが、安堵と喜びの生々しさをどことなく感じる。ミヨーの指揮はかなり巧みなので安心できる。素直な曲なのでもっと演奏されてもいいと思うが宗教曲は難しいか。○。,,それにしても「ミヨー」とググるとうちのいいかげんなページが2番目に上がってくるのはどういうわけか(1番はwikip)。直系の弟子も未だ現役だろうにもっと敬いなさい聞きなさい演奏しなさい分析しなさいと言いたい(苦笑,-----,,,-----,,,-----,
ミヨー:チェロ協奏曲第1番,ロストロポーヴィチ(Vc)ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(russian disc)1964/5/13live・CD,,いきなりミヨーらしくない渋みのあるカデンツに驚くが、オケがパリっぽいメロディを載せてくると一気に六人組っぽくなる。30年代ミヨーの脂の乗り切った頃の作品で、ネルソヴァやシュタルケルも録音していたか、20世紀のチェロ協奏曲としては比較的有名だ。全編パリっぽかったらそれはそれで更に名前が上がったかもしれないが、それだけでは誰も録音しなかったかもしれない。ミヨーが己に枷を嵌めるように作風を固めてしまう前の、色々詰め込んでみよう的なところが感じられ、得意としたミニアチュールではなく、しっかり3楽章制の協奏曲として書いているから、ちゃんと聴かないと仕掛けを掴みきれずに途中で飽きる。ロストロポーヴィチは我が物のように演っているがこの曲では余裕といった風。ブラヴォが飛ぶ。後年正規録音している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ハープ協奏曲,○マーン(hrp)P.ミュール指揮ORTF(FRENCH BROADCASTING PROGRAM)LP,,ミヨーのえがく南欧の牧歌がハープの神秘的な典雅さを身近な調べに見事に変換して美しくやさしく聞かせている。ミヨーの作風はもうワンパターンの安定したものだが同時代の円熟した作曲家たち同様楽器の組み合わせや新しい響きの導入によって幅を持たせようとしており、たんなるドビュッシーの末裔ではない。わりとしっかり長めの形式的な作品である点にも仮称反ドビュッシイストのリアリズムの反映が聴いてとれる。演奏はクリアがゆえに少し音が鋭過ぎて、浸るべき曲なのに浸れないもどかしさがあった。録音もよくない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ハーモニカのための組曲,○アドラー(hrm)M.グールド指揮RPO(rca)LP,,古典風の書法は簡素で奏者に負荷をかけない。技巧家には少し食い足りないかも。作曲家の多面的作風が3つの標題曲で描きわけられ、やや地味だがそれなりに聴ける。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:バレエ音楽「屋根の上の牛」,○デゾルミエール指揮ORTF(RICHTHOFEN:CD-R他)1948/3/11シャンゼリゼ劇場live,,板起こし。この擬似輸入海賊盤(恐らく国内産だろう)は原盤状態が余りよくないものが多いかもしれない。これを別のものと組んで裏青化するくらいなら同じ演奏会をまとめて裏青化してほしかった。そしてこの演奏はデゾのライヴということでスタジオではしばしば軽くそっけない一直線の演奏をしたこの人の、実演におけるリズム処理の巧さと案外情緒的に揺らすところが聴けて面白い。反面、技術的に問題があるのかオケは乱れがち。音色も情緒的になり過ぎるために、浅薄なラテンふう音楽の浅薄な旋律・リズムだけがえんえんと聴かれる感じで飽きる。ポリトナリの微妙な響きや精緻な構成をもっと浮き彫りにしないとどうも、ザ・六人組という範疇を越えられない曲ではある。デゾにしては楽しい、ということでおまけで○。アンゲルブレシュトのバックによるシェラザードを裏青化するほうが先ではっ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:バレエ音楽「屋根の上の牛」,○ナガノ指揮リヨン歌劇場管弦楽団(erato)1992・CD,,キッチュで賑賑しい雰囲気はよく出ている。オケの感じが「ちょうど良い」。半面、やや地味というか特長をあげづらい演奏であり、どちらにも振り切らない感じがする。まあ、○です。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:バレエ音楽「屋根の上の牛」,○バーンスタイン指揮フランス国立管弦楽団(EMI)1977・CD,,やや重いが旋律に重点を置いているためだろう。ペットソロや弦楽器が終始民謡旋律を情感たっぷりに歌い継ぎ、木管やブラス、打楽器が普通じゃない絡み方をして曲を盛り立てる。調子っぱずれとみなされかねないポリトナルな重なりはアイヴズを思わせる尖鋭性をしめし、リズム楽器にしても一筋縄じゃいかないところがある。だがバンスタ盤で聞かせどころはやっぱり分厚い弦楽器の響きだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:バレエ音楽「屋根の上の牛」,○ミトロプーロス指揮ミネアポリス交響楽団(cherry他)1945/3/2・CD,,こういうあほみたいな曲が代表作とされるとミヨーも浮かばれないよなあと思いつつ、見る人は見ていて譜面から先進性を読み取りそれを価値基準に演奏を聴く。私はもうめんどくさいので漫然と聴くのだが、まあ古いのとこのオケなのとミトプーなので雑味が感じられるのはしょうがない。猥雑な印象をあたえる意図もあったと考えればこれでいいのだろう。ラヴェルが嫉妬したというのがよくわからないが、旋律とリズムの天才性はたしかに感じ取れる。旋律といっても引用だけど。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:バレエ音楽「世界の創造」,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1953/7/26live,,壊滅的な録音状態で酷いノイズが支配的だが、けたたましくも迫力のオケの表情がしっかり聞き取れそれなりに魅力がある。ミヨーが借りてきたようにジャズ表現を取り入れて、ガーシュインのシンフォニックジャズと共時的に制作したバレエ音楽だが、ここでは舞踏要素よりも、純粋に音楽的な魅力を刳り出し比較的透明度を保っているさまが新鮮だ。ミュンシュにはスタジオ録音もあったと思うのでこれを取り立てて聴く必要はないが、ライヴならではのひときわの集中力を味わうことはできる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:バレエ音楽「世界の創造」,ウーブラドゥ指揮室内楽団(forgottenrecords他)1951パリ,,LP起こしだが見たことがない。音もこもり悪い。しかし演奏はきわめて明確な輪郭を持ち聴き応えがあり、ミヨーってキッチリやればしっかり聴こえるんだ(あたりまえだけど)、と膝を打った。挽歌ふうの暗いフレーズはすでにミヨー特有の世俗と芸術の融合した世界を象徴する。楽団のソリストを始めいずれの奏者もいかにもフランス往年の響きで魅了するが、そこにジャズの引用が入ってくると、まるで化けたかのようにアメリカになる。しっかりとジャズの音を出しているがそれは、さきほどのフランス風の憂いある音と同じものだ。音はジャズだがリズムは厳格に保つ。そうすることでガーシュウィンではなくミヨーになるのだよ、とウーブラドゥに教えられる心地がする。リズムの錯綜もウーブラドゥにかかると全く自然かつしっかり捉えられ、ジャズを用いながら野蛮主義のストラヴィンスキーのはっきり影響下にあることを認識させる。ウーブラドゥといえば兵士の物語だがこの捌きの旨さはこの人の個性なのだろう。一歩引いて整えるのではなく、積極的に表現させながらも統制をきかせまとめてしまう、非民主的な?この時代だからできたことかもしれない。op.81aで未だかつて感銘を受けたことはないが、最期の一音まで耳を離せなかった。録音マイナスで○はつけないけど。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:バレエ音楽「世界の創造」op.81a,ロスバウト指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送交響楽団(forgottenrecords)1955/7/16live放送,,録音が古ぼけて精緻な統制ぶりと的確な響きを引き出すテクニシャンぶりがほとんど伝わらず、耳を澄ませて集中して聴いて初めてこれがとても良くできた「クラシック」であることに気付かされる。ロスバウドのメシアンなど精緻であってもただ音符をオケの性質のそのままに音にしただけのような、モノクロームで魅力のない演奏になっているが、ミヨーにかんしてはほぼほぼジャズとして書かれているところを、ジャズに思いっきり振り切って吹かせておりまずはそれが単に楽しい。ガーシュインを先駆けたといわれるのもわかる。ロスバウトなので型に嵌められる堅苦しさはありドイツの重く渋い音の範疇ではあるが、それが逆にミヨーのアマルガムとわかるように書かれたアマルガムを、純粋なクラシックとして仕立て直し、きっちり纏めている。同曲をセミクラシックとしか認識できない向きは一度聞いてみるのも良いかもしれない。フランス物にはフランス物ふうの美しい演奏もなしたロスバウド、ここではそのての美観はなく、ジャズが主役である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:バレエ音楽「青汽車」,○マルケヴィッチ指揮モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団(ConcertHallSociety/SCRIBENDUM)1972/7・CD,,ブルートレインである。ディーアギレフのロシアバレエ団のための軽音楽で擬古典的な書法を基調としつつ特徴的なリズム(コープランドなんて影響受けまくりですな)と解放感のある清新な和声(楽器法〜プロヴァンスに材をとった一連の牧歌的作品と共通点がある)を織り交ぜることによって「上流階級のランチキ騒ぎ」のようなものを仕上げている。繊細な音響表現が綺麗すぎるきらいもあるマルケだがミヨーでもかなり日寄った作品ではあり、フランセあたりを聴くような軽い気分でどうぞ。ヴァイオリンソロなんてありえない。ブルッフじゃないんだから。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:バレエ組曲「世界の創造」,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1953/7/26タングルウッド音楽祭live放送,,非常にノイジーな板起こしで、元はモノラルのくせに左右の揺れが酷い。拍手に重ねてナレーションが始まり、作曲経緯の説明がひとしきり行われて演奏に入る。訪米時ポール・ホワイトマン楽団との邂逅で初めてジャズを知りニューオーリンズで本場物に触れて帰国のち黒人音楽のイディオムを組み込んだバレエ音楽を仕立てた、時に1922年のことである、といったものだ(ジャズを採用したクラシック音楽としては非常に早いものになる)。題名はネイティブの伝承から取ったが本国では余り受け入れられなかったと、ウィキに書いてあるようなことも付け加えている。とある単語が耳についたが話の流れ的にも時代的にも他意はなかろう。ミュンシュは思い切り勢いづいて、この軽薄な音楽を押し通している。ミヨーらしくやかましく音を重ねる箇所は散見されるものの、セオリーを持ってやっているという感じは無い。イディオムがどうこうというか、世界的な先行事例なので当たり前だが二曲目など全くまんまのジャズである。終曲にかけてミヨーの浅い方の作風〜フランス組曲とかそのへんの感じ〜に巧く取り込んでまとめてはいるが、全体として所々に現れるのはガーシュインだ。尤もガーシュインに先行している部分もあろうので、ホワイトマンと言った方がいいだろう。厚くて強引だから聴けるのであり普段の私なら欠伸で終る曲なので、演奏的に成功はしてるはずだし、ナレーターもアメリカ音楽の影響下にあるものとして誇らしげにも聞こえるから、良い記録とは言えよう。多分もっとちゃんとした録音が復刻されていたと思う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ピアノと管弦楽のための5つの習作,○バドゥラ・スコダ(P)スウォボダ指揮ウィーン交響楽団(WESTMINSTER他)CD この曲もいい曲だ。ピアノの音線は感傷的で、選び抜かれた最小限の音符で密やかな美をうたっている。習作とはいうが確かにミヨーらしくない不思議な感傷性を感じさせるものも織り交ざる。しかしそれらを総合してみると、サティという作曲家の姿が浮かんでくる。これはサティの延長上のピアノ曲なのだ、と半ば確信めいたものを感じた。ミヨーのピアノ曲にサティが色濃く影を落としているのは周知のとおりだが、サティよりも美しい旋律と暖かな感傷性をあわせもったミヨーの真骨頂を見る思いだ。スコダのピアノもじつに要領を得た演奏で、音楽の前進性は際立っている。オケは多少晦渋ないつものミヨー節も聞かれるが短い曲ゆえそれほど気にはならない。 ○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:ピアノと管弦楽のための5つの練習曲,○エルフェ(P)ロバートソン指揮フランス国立管弦楽団(erato)1991-92・CD,,ミヨーの持ち味である複調性が愉しめる人には愉しめる曲。耳心地があんまり良くないのでミヨーマニアが聴けばいいくらいのものか。ミヨーマニアである私は楽しんだ。管弦楽もピアノも自然に組み合って、といってもポリトナルな曲だからアンサンブルどうこうではない部分もあるのだが、ミヨーの芸風をどちらもよくおさえている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ピアノと管弦楽のためのバラード,○エルフェ(P)ロバートソン指揮フランス国立管弦楽団(erato)1991-92・CD,,これも美しく密やかな旋律から楽天的で素直に楽しいリズムまで一連に楽しめる曲。7分程度だが飽きさせない。エルフェは上手い!バックオケもまずまず。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ピアノ協奏曲第1番,○エルフェ(P)ロバートソン指揮フランス国立管弦楽団(erato)1991-92・CD,,極めて短い前期ミヨーらしい協奏曲だが、ミヨー自身の振ったものなどを聴くと単純さ短さを補うかのように大仰で拡散的な音楽を志向しているのがわかる。だからテンポに緩さや弛緩を感じたりしたものだが、この演奏はまたこれで「地味」である。録音のせいも大きいと思うがエルフェの発音は弱くて柔らかすぎる。ロバートソンもまた強靭さに欠け達者とは言い難い。複調性による進行において強引な表現をとらないがために自作自演よりも構造の見通しが良くその点面白みをより強く感じることができる。まあ、自作自演が特殊なのである(ロンとの古いものは別)。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ピアノ協奏曲第1番,○ジャッキノー(P)フィストゥラーリ指揮フィルハーモニア管弦楽団(naxos他)1953,,テンポ取りなどややたどたどしさを感じる。ミヨーの特殊性を意識せず古典的な協奏曲をやるように正面から取り組んだ結果のようにも。モノラルというとどうしてもロンの演奏と比べてしまうが、細かいリリカルな表現にはオケもろとも惹かれるものの、何かプロヴァンスではない、北のどこかの協奏曲に聞こえる。アントルモンのようにやたら派手に一気呵成に攻めるのが良いとも言わないが、半分は篭りがちな録音のせいと思うが、勢いや説得力が足りない気もした。オケは上手い、美しい。ソリストも繊細で技巧に陰りはない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ピアノ協奏曲第1番,アントルモン(P)作曲家指揮パリ音楽院管弦楽団(cbs)ミヨー自作自演の新録は若きアントルモンとの競演。ロン盤に比べて遅くもたつくようなテンポ感があり、録音も(ステレオのせいでもあるが)拡散気味で、ミヨーの和声的に噛み合わないアンサンブルの妙を聞かせるには少々音場同士が遠すぎる感がある。じっと聞けば特にイマイチな2楽章でも繊細な音色の世界を感じることができないことはなく、決して悪くはないのだが。両端楽章はこの曲を特徴付けるじつに敏捷で無邪気な楽章だ。明るく旋律的な音楽は初期ミヨーらしさ全開で、ミヨーのプロヴァンス風牧歌が好きな向きには堪らないものだ。多数のピアノ協奏曲の中でこの嚆矢の曲が一番受けるのもそういった素直さが原因だろう。ただ、あまりに素直すぎて飽きるのも確か。そうなるとソリストがどのようにもってくるか次第だが、アントルモンはやや生硬で解釈にキレがない。指先の細かいニュアンスが無く、そのまま音にしているような感じがする。全般に、ミヨーにしては素直すぎる曲がゆえに演奏を立派にゆっくりやった結果底の浅さが見えてしまった、そんな感じを受けた。でもこの曲、親しみやすさのみならずちょっと聞いただけでミヨーとわかる独自性はラヴェルの作品に比肩しうるものがあり、フランス近現代ピアノ協奏曲の系譜の中にも確実にその足跡を残したと言えると思う。ようは演奏次第でしょう。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:ピアノ協奏曲第1番,ドワイヤン(P)ミュンシュ指揮ORTF(ina)1966/11/22live(1966/12/4放送),,ina配信でもAmazonデジタル等でも聴取可能。ミュンシュはこの時代の指揮者としてはミヨーを振った方で、ドワイヤンも腕は確かだが、にもかかわらずこの演奏の失敗はオケが全くついていけなかった点にある。簡潔な書法を旨とする新古典主義に立ちながら、複調性であったりポリリズムであったり瓦解しやすい要素を盛り込んでくるゆえまとめるのが難しいミヨーが、それでも一番わかりやすい小交響曲系の、短く牧歌的で耳易い楽曲として、ロン御大による素晴らしい記録以降演目にも上がりやすかったこの曲(実際ミヨーのピアノ協奏曲では唯一録音が複数手に入る曲ではないか)。難しさは一楽章既に各声部がバラバラになりそうなところで感じ取れる。これはドワイヤンのテンポ感がやや安定しない、ミュンシュも何故か取り纏める力が弱く空回りする、そのうえで、オケのソロ楽器やセクション毎に出来不出来があまりに違いすぎる。三楽章も込で言うとミヨーの無理な高音域の無理な音符の詰め込み方など色々あるだろうが、これは吹けなさすぎだろう、というピッコロ等、一方でホルンなど立派に吹いており、弦ははっきり言って曲慣れしていなさすぎ。ミュンシュなら力づくで押し通せそうなものだが、アントルモンと作曲家が再録したもの同様、やはりテンポを落としてキッチリまとめていかないと瓦解する曲なのかもしれない、ライヴにはとても向かないのではと思わせる。二楽章は晦渋さも寸止めの叙情味で気を落ち着かせてくれるが不安感は拭えない。と、三楽章、何と物凄いテンポで煽り始めるミュンシュ!もうオケは狂乱状態というか、ある程度は理知的に構築されていないとミヨーの当時として冒険的な響きの良さは出ないので(翻ってこれに比べれば一楽章はWW1前の猥雑で世俗的な旋律やサティ的な和声など聴きやすい要素が耳を和ませるところもあるから良い)、みっちり詰まった響きを持つ曲なら総体的に押し通せるからともかく、空気の通るような簡潔な曲の各声部の出来がバラバラでは押し通すこともできずきつい。ソリストは攻撃的で指も確かなのでやはりバックが惜しいのである。無理矢理のフィナーレ後、いくらカリスマのミュンシュであっても拍手には戸惑いが感じられ、ピアニストに対してであろうブラヴォが少しずつ混ざってはいくが、六人組時代の単純な曲と最盛期を過ぎた職人的な曲以外ミヨーが全般としてあまり演奏されないのもわかる気がする。カルテットの譜面をわりと持っているが、一本で弾くと素晴らしいメロディなのに四本で合奏すると調性もリズムも合わずとんでもなく聴きづらくなるものが幾つもあった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ピアノ協奏曲第1番,ロン(P)作曲家指揮ORTF?(columbia/cascavelle/pearl他)1935/4/5・CD,,被献呈者と作曲家による骨董記録だが、今聞いてもやっぱりこの曲の決定版。一楽章は録音のせいもあって少しまだのりきっていないが、二楽章は前衛性がパリのオシャレな洗練により後年の作品より晦渋にならずに済んで、ロンだから硝子のような響きが、六人組の世俗性より、ミヨーもわりと仲の良かったラヴェルに近い仄かな感傷を燻らせる。何より派手に始まる三楽章のロンの大御所たる表現力、曲がじつに簡潔に上手く出来ている、そこにきてタッチの確かさとスピード。重すぎず大風呂敷すぎず、これぞフランスのピアニズム。これに尽きる(その盛り上がりはまさに新古典主義!)。作風がミヨー得意のプロヴァンス風の牧歌的な旋律で曇りのないもので、全三楽章でも15分もかからないから初心者にもわかりやすい。細部が聴こえないゆえ一部技巧に陰りがあるように聴こえるかもしれないが、この曲だから弾けないはずはない。錯覚だろう。pearlのほうが音が聴きやすかった覚えがある。自作自演新録はアントルモンだが作曲家も年を取りアントルモンも芸風が芸風なので熱量とスピードは劣る。オケは聴き劣りしない。オケ名は原盤にちゃんと書いていないようでまちまちだが、まだ設立されてなくてもまあ書いてある通り、ということでハテナ付きで。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ピアノ協奏曲第4番,○エルフェ(P)ロバートソン指揮フランス国立管弦楽団(erato)1991-92・CD,,このコンビの1番にくらべしっかり聴かせる音楽になっている録音。エルフェは相変わらず品がよく強靭さに欠けるが、依属者ソコロフスキーがその名技性を見せ付けるために使った曲であるがためにどうしてもそういうスポーツ的側面に目が行きがちなところ、中間楽章のトレ・レントにおいては重々しい音楽に何かしらの意味づけをするように表現を尽くしており、完成期ミヨーの表面技巧に偏らない内容的特徴をよくとらえている。なかなかスケール感のある演奏で、同曲の印象が変わった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ピアノ協奏曲第4番,○スコロフスキー(P)作曲家指揮ORTF(COLUMBIA他)CD,,焦燥感のあるピアノの雪崩れ込みからいつもの牧歌的なミヨーが高音部で鳴り響く。高音部が管弦楽によって前期ミヨー的な暖かな音楽を繰り拡げるいっぽうで中低音域のピアノはひたすら動きまくる。依属者らしく表現に不足はなく危なげなく強靭に弾きまくる。せかせかした音符の交錯する結構入り組んだ楽章ではあるがさくっと終わる。2楽章は低音ブラス合唱で始まるこれもミヨーらしい人好きしない前衛ふうの深刻な音楽だが、ソリストは繊細な表現で音楽の無骨さを和らげている。3楽章は比較的有名なメロディから始まる楽天的な音楽で、打鍵の確かなこのソリスト向きの打楽器的用法が印象的である。喜遊的な雰囲気はミヨーの手馴れたオケさばき(必ずしも最高ではないが)によって巧くバリ弾きソリストをかっちり組み込んだ形で保たれていく。リズムが明確で押さえどころがしっかりしているゆえ、ミヨー演奏の陥りがちなわけのわからない冗長性は免れている。テンポ変化はほとんど無いが、そもそもそういう曲である。作曲家の職人的な腕による手遊びを楽しもう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ピアノ協奏曲第4番(1949),○ザデル・スコロフスキー(P)、作曲家指揮ORTF(COLUMBIA他)〜この曲は壮麗な第4交響曲の後、弦楽四重奏曲第14、15番(一緒に演奏すると八重奏曲としても「いちおう」演奏可能)と前後して書かれた作品。アメリカ時代以降の典型のようなところがあり、多くの弦楽四重奏曲と同様、折角魅力的な旋律と明晰な和音が、複雑なテクスチュアの中に沈殿し結局かなり晦渋な印象を残す。オネゲルのチェロ協奏曲あたりを思わせるところもある。 1楽章ではいきなりの律動的なソロ、対してヴァイオリンのピチカートにはじまるバックオケの煌くような音響的伴奏が鮮烈な印象を与えるものの、曲想は複雑怪奇となり、わけがわからなくなってゆく。ヒンデミット張りに疾走しつづけるソロと対位的な構造の豊潤さにだけ耳を傾ければ面白く聞けるだろうが(3楽章も同様)、 1番にみられるような素直な美感は失われているといわざるをえない。依属作品としてやや軽く書き流したのかもしれないが、それにしては2楽章の晦渋な重みが少し奇異にもおもう。ミヨー好き向きの作品とはいえるが一般向けとはいえない。同盤2003年CD化済。律動、律動、スコロフスキーは流石依属者、嬉々として技巧をきらめかせている。「ダリウス・ミヨー〜幸福だった私の一生」別宮貞雄訳音楽之友社刊(1993)は 20世紀フランス音楽を語るうえでは見逃せない書籍だ。同時代の貴重な証言に満ちており、作品表含めて資料的価値は計り知れない。その279、80ページにこの作品についての記述がある。ミルス・カレッジのミヨーのところへ紹介を受けてやってきた若いヴィルツオーソ・ピアニスト、スコロフスキーが未出版のピアノ協奏曲を欲しがったので、この作品を書き上げた、と簡単に記されている。「それを彼は何度も演奏し、次の冬にパリで、私の指揮で録音しました」そのLP化がこの緑ジャケットのレコードだ。人気曲「ブラジルのソーダード」のほうが大きく記されているけれども。この記述直前に触れられている弦楽四重奏曲第14、15番+「八重奏版」の録音も同じcolumbiaでLP化されている。ブダペスト四重奏団がレシーバ耳に録音した涙ぐましい話しは別項に置いておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:フィルハーモニック序曲,○バルビローリ指揮NYP(DA:CD-R)1962/11/30LIVE,,びっくりするくらい前進的で明快な演奏。これが60年代のバルビ?と思わせるほど躍動感というかタテノリの力強さというか、横の流れ「だけ」を重視した音楽作りをする前の芸風ということなのだろう。もちろんプロフェッショナルだから曲により解釈も変えるし演奏方法も変えさせるのだろうけど、シベリウスや正規のステレオ録音などにみられるあの「ユルさ」が微塵も感じられないライナー張りの推進力にいたく驚きました。このレーベルにしては音もエッジが立って聴きやすい。曲はほとんどヒンデミット(変に構造的なところやヴァイオリンの超高音を多用するところは元々似てるんですけどね)。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ブラジルのサウダージ,○チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(SARDANA:CD-R)LIVE 新古典主義的な面を強く打ち出した透明感のある響きが特徴的な演奏。特殊楽器の新奇な音よりもペットのアカデミックな響きや構築的な弦楽器の動きに耳が惹かれる。ポリリズムやポリフォニーが余り奇矯さを目立たせることなく、結果として凡庸な軽い曲に聞こえてしまうところがウマイだけに付けられるケチとなっている。ブラジルの熱気は微塵も無いのでご注意を。軽く聴くにはマジメすぎるしじっくり聴くには底の浅い音楽。ミヨーが苦手というかたにはいい演奏だろう。ミヨーだとシンフォニーをよく聞くというかたには、この構築的でしっかりした演奏は面白く聞けるかもしれない。雑然とした不協和音もここでは気にならない。「らしくない」ところが好悪分かつ気もするが。キレイなので○をつけときます。チェリの響きへの拘りを損なわない録音状態。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:ブラジルのサウダージ,チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(GREAT ARTISTS:CD-R)1979/10/31LIVE 録音時間が異なるため恐らくサルダナ盤とは違うもの。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:ブラジルのサウダージ〜「ラランジェイラス」,○チェリビダッケ指揮フランス国立管弦楽団(000CLASSICS:CD-R)1974/9/17LIVE サウダージかソーダードか、それとも端的に「思い出」か、けっこう訳しづらい題名ではある。リオ・デ・ジャ・ネイロの細かい地名や通りの名前、名所などのついた12もの小品により構成される即物的発想の曲で、ピアノ曲に序曲を加えて管弦楽編曲されている。ミヨーの代表作のひとつだ。チェリのアンコールは1分程度の曲がいくつもいくつもやられてそのどれもがけっこうマニアック。これはフランスだからだろうか、チェリ自身も何度か取り上げている作品の断片をアンコールの一曲としてやっている。前後にラヴェルやストラヴィンスキー、ドヴォルザークがやられているわけだが、その中でもやはり強い個性を放っている。ミヨーはしばしば忘れられがちだがなんだかんだ言ってもフランス20世紀音楽の巨匠。ごつごつした調性同志の衝突、同時にふたつのリズムが進み独特の音響を醸す場面、それはしかしすべて南米の音楽体験をベースとしているので娯楽的に楽しめるようにはなっている。ミヨーの複雑で錯綜した音楽はじつのところチェリのような砥ぎ師に砥ぎ上げてもらうとその意図する所が明瞭な名演が生まれたろうに、残念。アイヴズのような混沌一歩手前の音楽断章、これは無難にそれほど盛り上がらずに終わるが客席の反応はいい。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:ブラジルのソーダード,○スコロフスキー(P)(COLUMBIA)LP,,わりと著名な南米系作品であるが、しっかり落ち着いた表現でミヨーの内面的な部分を意外と的確に表現している演奏。サティよりも作風として確立している常套的な手法(ミヨーのピアノソロ作品の作風のすべてがここにある)によるとはいえ、魅力的な旋律の醸す儚げな楽天性の魅力は南米のリズムにのって、パリの社交界を彷彿とさせる都会的な不協和音を織り交ぜた抽象化をへたものになっている。古さもあってちょっと感傷的になれる演奏。けして旋律の魅力や民族的な舞踏リズムを煽るほうに逃げないどちらかといえばクラシカルなスタイル。なかなかに引き込まれる演奏ぶりで傾倒していることが伺える。ミヨーにレパートリーとして4番協奏曲をオーダメイドしてもらった気鋭のピアニストが同曲の裏面に収録したもの(作曲家自伝に記述がある)。協奏曲のみ最近CD化されたようだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ブラジルのソーダード(管弦楽編),○チェリビダッケ指揮南ドイツ放送管弦楽団(DA:CD-R)1979/10/31live,,正規盤が出ていたかもしれない。録音は最悪。しかしチェリビダッケが何故この曲を得意としていたかわかるくらいには楽しめる。ともすると旋律とリズムだけに単純化された形で猥雑に演奏されがちなミヨーを、精妙な響きの作曲家として意識的に構築している。ミヨーの真価が伝わる演奏スタイルは、ただでさえ単純化される録音音楽を、楽器個々の独立し統制されたさまを体感させる生演奏に近づける。まあ、録音のいいにこしたことはないけど。オケは表記のまま。シュツットガルトか。ペットの高音が出てないところが気になる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ブラジルのソーダード(思い出),ルビンシュタイン(P)(meloclassic)1948/10/13live 放送・CD,,これは40年代録音なので音は良い方と言っていい。何でも弾いてるルービンシュタインなので何が出てきても驚かないし、それが南の楽天的音楽や東の舞踏的音楽であればミスだの雑だの問題にならない有無を言わせぬ血の勢いで聴かせてしまう。だがそれにしてはこの曲は「現代的に」聴かせている。とても抽象的だ。ミヨーのスコアの示す技巧的な側面を突いたかのような演奏で驚いた。そこから楽天的要素を抜き出して思い出に浸らせる気はない。まるでシェーンベルクのようなミヨーである。傑作だとは思うがむしろ素直な「春」「家事のミューズ」みたいな後期作品に本領があると思う私には、まだ前衛とみなされていたミヨーが、オネゲルの嫌うブヨブヨした作曲家ではなかったことを裏付けるメカニカルな技巧も兼ね備え、ちゃんと研究し発想に結実させることもできていたのだと解釈した。妄想上ルビンシュタインは恐らく顔色一つ変えずにただ一度スコアを舐めただけで弾き抜いたのだと思うが、それが面白くなったかどうかは別として、作曲家本人も気づかないくらいの楽譜の本質を衝いた記録として特筆できる。くれぐれもブラジルっぽくはない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ブラジルのソーダード〜]U.パイサンドゥ,ロン(P)(columbia/cascavelle)1935/5/10・CD,,クローデルの秘書としてブラジルに逃れた時期、当地の音楽に強く影響されて書いた作品として有名で吹奏楽などでも演奏されるが、ミヨーのピアノ独奏曲はサティの音符の少ない簡潔な音楽の影響があるせいか、独特の孤独感や抽象的な雰囲気が出て良い。ブラジルの思い出、ブラジルの郷愁などと訳されることも多いが、各地方の名前を題名にもつ。これは終曲にあたる。タンゴのリズムにのって、でもブラジル的なラテンの明るさはなく、孤独な響きのステップが踏まれていくうちに、別の音楽によって断絶し交錯し、まさにミヨー独自の複調、というか複数の異なる雰囲気を持つ音楽との簡潔な邂逅をへて、ステップを止める。短い中にもミヨー、そしてミヨーのピアノ曲の一種「高潔さ」のあらわれた曲である。単なる翻案ではなくミヨーの作風にブラジルが取り込まれたのだ。ロンは難なく弾き通す。旅先のミヨーの孤独を適切な表現で示している。ロンは他にも録音があったのではないか。,-----,,,,,,,,,,,,,
ミヨー:ブラジルの思い出(管弦楽編),○ロザンタール指揮ORTF(INEDIT,Barkley)LP,,薄く莫大なステレオ期ロザンタールらしい演奏。私にはミヨーの肉汁垂れ滴るような感じがちっとも伝わってこないので、ただすらっと長々しく聴きとおすだけになってしまった。繊細で美しい響きはよいがリズムの表現に難があるように思う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ミヨー:プラハのための音楽,○作曲家指揮チェコ・フィル(multisonic)live・CD,,交響曲第10番と共に録音されたもの。いい音で、ミヨーらしい折り目正しい演奏だが、曲もまたいい。管弦楽組曲的に見られがちな題名だが、むろん楽器の用法や旋律に皆無とは言えないまでも「〜のための音楽」というのはたまたま受けた仕事にかこつけて「交響曲」という題名のかわりにつけられた即物的な命名方法に基づく、と「幸福だった〜」に書いてある。言葉どおりに受け取って素直に交響曲として聴くとなるほど、しかも更にそれまでで「完結」したはずの大交響曲とまったく同内容の、いい意味でも悪い意味でも「ミヨーの常套的な型式音楽」になっているのが面白い。しかも既に数多の中でも出来はいいほうだと思う。3楽章構成だが、1楽章中のブラスの用法、それに伴う響きの饗宴が耳をひく。管弦楽法はいよいよ簡素化しリズム的にはユニゾンが目立ち一種型にはまった不協和音を重ねるという戦後ミヨーそのものの音楽だが、そこにもいつも、「一つ」違うものを挟んでくる。得てしてそれはシェーンベルクふうの前衛的なパセージであったりもするのだが、ここではチェコのブラスの音色を聴かせるため挿入された、ととって不思議はない、そこがヤナーチェクとまではいかないまでも、中欧的な硬質さを音楽にもたらし、南欧風のマンネリズムに陥らないで済んでいる。この1楽章、弦楽器なんかは常套的でつまんなさそうだが、耳には適度に新鮮だった。そのあとはますます常套的だがライヴであるせいか作曲家の権威のせいか、とても引き締まったオケの好演が目立つ。ミヨーは腐ってもミヨー、構築的なアンサンブル技術はしっかり要求し、ヒンデミット的ではあってもちっともヒンデミットではない聞き応えの結末まで面白く、弛緩なく聞けた。きっぱり短くしすぎたり、変に展開させすぎたりするものもある中、いいバランスだと思う。○。multisonicは録音データが明示されないことが多く困る。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:フランス組曲,○チェリビダッケ指揮ベルリン・フィル(BP)1951/3/31・CD,,この盤は全般残響付加とノイズリダクションが目立つが、演奏的にはチェリのフルヴェン的な覇気溢れる前進力と既に現れている構造への神経質な配慮が同時にあらわれたなかなかのものと言える。喜遊的にやらずともこの曲は面白く聞かせられる、チェリがだいぶ後年まで取り上げ続けたことからも楽曲的に脆弱でも何でもなく寧ろ計算された構造に妙がある楽曲の集合体であることがわかる。だがまあ、そこまで神経質でもなく、どちらかといえばベルリン・フィルがまるでベルリン・フィルじゃないくらいの「多少透けた」音を出しているところに聴きどころがあるか。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
ミヨー:フランス組曲,チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(AUDIOR)LIVE おそらくCD−Rで出ているものと同じ。録音状態は劣悪。ラジオ・ノイズがひどく、まるで戦前の録音のようだ。でも、思ったより熱い演奏だ。チェリものっている。大した曲ではないが、いたずらに壮大にやるでもなく、等身大の演奏をしているところが意外だし気に入った。楽しい。ま、録音が悪すぎるので無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:フランス組曲,プレートル指揮モンテ・カルロ・フィル(erato/icon)CD,,小粒でキレもそれほどだが、世俗的な雰囲気は満点でスピーディーで少し猥雑な、南仏の田舎を夢見る…ベル・エポックのパリを夢見る…ミヨーの思いを汲み取った演奏になっている。本人の演奏より曲の意味を汲み取って表現したとまで言えるかもしれない。若々しい勢いはあるが、ただひとつだけ、一曲目などリズムのキレがもっとあると愉悦的な表現を深めることができたかもしれないが、そのぶん響きの華やかさは損なわれるのでこれがプレートルの慎ましやかさとして受け取るべきかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:フルート、オーボエ、クラリネットとピアノのためのソナタ,○アンサンブル・ポリトナール(CHANNNEL CLASSICS)CD,,1918年、比較的若い時期の作品となる。小交響曲第1番2楽章とほぼ同じ民謡主題を使用しており、崩し方こそ違うものの、同じ系統の暖かさは健在である。がちゃがちゃした部分は小交響曲とは違うもの。やはりピアノの存在感が際立つ。演奏はアベレージですばらしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:フルートとピアノのためのソナチネ,○ランパル(fl)バイロン・ラクロワ(P)(HORIZONS、AJPR/BAM)1949/5/18・CD,,1922年才気煥発な時期のミヨーの新古典的な三曲のミニアチュールで、ミヨーらしいピアニズムが前面に立ちフルートは比較的低域で地味にしている感はあるが、最後は名技的な表現で締める。ここにきてやっとランパルらしい技巧が出るものの、やっぱりまだ少しヤワだ。録音がよくレストアされているだけに何か高音が思うように伸びないような焦れを感じる箇所がある。しかし、やはりランパルはこういった現代的な作品を自由にやるほうがあっている、そう思わせる雰囲気はあった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:プロヴァンス組曲,◎ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)LP,,こりゃ名演だ。大変だ。南フランス国民楽派(南欧ユダヤ人集落民謡楽派)ともいえる楽曲をしばしば書いたミヨーだが、アメリカ時代はとりわけ民族問題をこえて自国を心配しこのような楽天的な民謡に基づく牧歌や舞曲による組曲をえがいている。しかしそれは敢えてローカライズを演じたような薄っぺらい演奏様式でやられることが多く、ミヨーがとくにアメリカで軽音楽作家とみられがちなゆえんの一つでもあるのだが、ガウクは全く異なる地方からフランスを応援するかのような(ステレオのきわめて明瞭な録音ゆえ戦後演奏ではあるのだが)気合の入った演奏をしかけており、ミュンシュのような我の強いやり方ではなく、とても整えられたうえの揺れの無い力強い表現が「ローカル音楽ではないプロヴァンス組曲」の純粋な発現と感じられた。自作自演もあったと思うが全然に巧い。ガウクってこんな技術に至っていたのか・・・もっと復刻され、普及されるべき「ムラヴィンスキーの師匠」である。プロヴァンス組曲の一流の名演。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:プロヴァンス組曲,◎ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(BMG,RCA)1960/11/21・CD,,ミュンシュがミヨーの曲にすぐれて適性をもっていたことが伺える演奏である。ミヨーの曲の演奏ではしばしば声部間がスカスカにあいてしまい、高音域と低音域が完全に分離して、結果として音線もリズムも派手で明瞭な高音だけが耳に届くようになるケースが多い。書法に問題があるといえばそれまでだし、曲によってはそもそも複層的な音楽の流れを狙った意図でもあるのだが、ミュンシュの場合そういったスカスカ感は皆無といっていい。そのためこの曲のようないかにもミヨーの民族的素養が発揮された職人的作品と見られがちなものにおいても、中声部まで目の詰まった響きがしっかりと噛み合って重くひびき、メカニカルなリズム構成にみられる構造的創意も、雑然と堆積させられるのではなくきちんと納まるところに納まって、最大限の威力を発揮している(ここを理解しないでやるとたんなる民謡旋律音楽に聞こえてしまうのだ、ミヨーは・・・そしてミヨー自身の指揮も決して自作の威力を発揮しきれているとは言えないのがまた難しい)。ピストンらアメリカ・アカデミズムに多大な影響を与えたことが理解しやすい演奏ともいえよう。じっさい、アメリカ60年代テレビ音楽などに聴かれる特徴的なひびきをラッパなどの重奏に聴き出すこともできる。ジャズ的な表現と民謡素材が不可分なほど融合した変則リズムは冒頭から聞かれるところだが、ここでは明るく開放的な民謡としてより暗くテンションの高い動きの絡みで楽しませるジャズ的な側面がより強く感じられる。ミヨーのやたら楽天的なところが苦手な向きでも聞けると思う。,,ユニゾンでのパウゼ頻発によりいちいち止揚するリズムというのもミヨーの特質であるが、流れを損なうそういった要素は極力抑えられている。とにかく耳なじみがいい旋律音楽というのではなく、純音楽として聴きやすい。二つの大戦で戦乱の渦中でありつづけたフランス南部、それでも陽気で美しいエクサンプロヴァンスの情景が描かれた、戦争とは不可分の作品と扱われることが多いが、だからこそノーテンキにナショナリズムを歌う、と見られがちなところ、ミュンシュのように「この曲は新古典主義にしっかり立脚したうえでの独創的な作品で、ストラヴィンスキーの擬古典様式にひけをとらない巧緻な設計のもとに創り上げられたなかなかに複雑で抽象化された作品なのだ」と主張してくれる演奏は、ミヨーがプロフェッショナルな作曲家として如何にすぐれた技巧と創意を持って作品に真摯にのぞみ、創作の場に「他意」がなかったのかを改めて認識させられる。いや、他意は多分にあったろう、故郷への思い、心痛は通奏低音のように流れていたと思うが、それは創作の場には影響していないのではないか、とこのようながっしりしたヨーロッパ的演奏をきくと思う、いや、演奏がそう聞かせているのだろう。独墺系の分厚い響きをもつボストンの弦、とくに中低音域の弦が「たとえ自身わけがわからなくても」オケの1つのパーツとして割り切り、大編成のもとに要求されるまま主張したら、ミヨーはこのように合理的にひびくものなのだ。その点ラヴェルなどの機械的な書法を思わせるところもあり、ミヨーが硝子職人ラヴェルと互いによきライヴァル関係にあり、鉄鋼職人オネゲルが六人組でプロの職人作曲家として唯一認めていたのもわかる気がする。オネゲルは低音域の弦をわかっていたからともかく、ラヴェルは完全にわけのわからない「パーツ」を受け持たせることがままあった。ミヨーはどちらかというとヴァイオリンからせいぜいヴィオラの人なのでラヴェル同様のところがある。補うのは解釈者と奏者の役割である。,-----,,,,,,,,,,
ミヨー:プロヴァンス組曲,アンゲルブレシュト指揮ORTF(ina配信他)1955/12/13live,,フランス各地の民謡旋律を変則リズムにあわせてトゥッティで奏でさせるという曲集で、これはシャブリエかなんかなのか、と思う程古風で単純なもの。確かにミヨーの響きだが、複調をそれと意識させるほどには強くない。第二次世界大戦におけるナチスのフランス侵攻への思いからアメリカ聴衆のために吹奏楽として平易に書かれたものがもとになっており、わかりやすすぎて大人気となった。個人的には大昔の「ブラジルのソーダード」なんかより後退した感じがイマイチ。もちろん開放後の本国では大喝采を受けるわけで、アンゲルブレシュトがミヨー好きとも思えないが、ミヨーのもつ構造的な単純性をハッキリ刳り出している。響きは今ひとつ濁っているように聴こえるが、録音のせいか。モノラル。Amazonデジタル配信あり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:プロテー(交響的組曲第二番)〜ⅠⅣⅤ,○チェリビダッケ指揮BPO(audite)1949/9/10,,初出ではないか。プロテー組曲として演奏されるものと一部重複した組曲である。序曲が聴けるのは嬉しい。リリカルさは足りないが中低音の分厚さはミヨーらしからぬ安定感をあたえ交響曲的な聴き応えがある。わずか10分の録音なのは惜しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:プロテー組曲,○フルニエ指揮ヴェルサイユ管弦楽団(ARIES)LP,,エキゾチックでもかっこいい出だしから、平易という意味ではなく、大人が非常に聴きやすい娯楽的なミヨー節が展開。ルーセルのように力強いリズム表現にメカニカルな構造のかっこよさはミヨーの南米ふう作品の中でも極めてよく作られており魅力的なものだ。力溢れる演奏ぶりは楽しむのに十二分なもので古いものとしては音響的にも不足はない。ステレオ的な音場の広がりもいい。古い録音がメリットになるのは難しいフレーズや調性が崩れる細部がほどよく「ぼやかされて」聞こえ、耳易いところだけに集中できるところだが、演奏自体もミュンシュ的にわかりやすい音を選んで強調しているようにも感じた。イキのいい楽しい曲に演奏であるから楽しみましょう。録音マイナスで○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
ミヨー:プロテー組曲,○モントゥー指揮オケ名不詳(サンフランシスコ交響楽団?)(DA:CD-R)1952/4/19live,,元はクローデルのための劇伴音楽で合唱付。1910年代初期ミヨーの「穏健なほうの」作風が同時代のストラヴィンスキーのバレエ作品や前時代のロマン派音楽の香りを嗅ぎながらも、しかし極めて緻密で完成度の高い作品としてあらわれている。映画音楽的に楽しく聞ける牧歌的な音楽ではあるが、浅い曲感をもつ南米的・南部フランス的な民謡編曲作品群にはない、オネゲルに匹敵する鮮やかな技巧的手腕を楽しめる楽曲だ。のちにアメリカ・アカデミズムへ与えた影響の現れ方やヒンデミットとの必然的な交流(第二曲のがちゃがちゃした構造的な音楽はヒンデミットやその影響下にあるもっと「わかりやすい」作曲家の作風を思わせる)などいろいろなことも考えさせられる。しかしミヨーの特に六人組時代に威を張っていた才気がもっともわかりやすい形であらわれた曲であることには変わりはない。,,コープランドの円熟期における「丸くなった」作風がいかにミヨーのこのての作品の影響を受けているか、しかし入り組んだ管弦楽法の巧みさはいかに「アンファン・テリブル」コープランドをもってしても上をいかれている気がする。ラヴェルが嫉妬したのもうなずける才能というよりほかない。ただ、作品をよく吟味し選ぶという態度にやや欠けていた(というかオーダーメイドで作曲しすぎた)のが今もって正当な評価を受けられないゆえんだろう。膨大な作品数が邪魔しているのだ、ラヴェルのように容易に全集化できないから、名前の通った作品(おおむね通俗的なもの)以外音源数的にも選びようがない「と思われてしまっている」のが惜しい。「フランス組曲」「プロヴァンス組曲」なんかよりよほど内容も濃く深く楽しめると思うんだけどなあ。あ、モントゥーの弾むリズムと推進力のせいも多分にある。スピーディにこの曲を通して楽しめる演奏だ。録音もこの時代の非正規記録としては悪くはない。ミヨーの複雑晦渋な響きも全体のわかりやすい流れの中に的確に織り込まれ、勘違いして現代性ばかり強調する余りわけのわからない聴感にしてしまう指揮者とは一線を画している。終盤のドラマツルギーはドイツ的な重さを伴うロマンティックな趣があり、これはもうちょっと透明感が欲しい人もいるかもしれないが、高音でポリフォニックに織り交ざる通奏旋律の断片がフランス的な牧歌性を辛うじて保っている。作曲の妙に救われている。最後の締め方ももうちょっと盛り上がりが欲しい気もした。全般楽しめたが、客席反応もそれほどよくはなく(贅沢な客だな)○としておく。おそらくこの安定した音なら既に他レーベルでCD化していてもおかしくはないが、いちおうDAとしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ミヨー:プロテー組曲,○モントゥ指揮サンフランシスコ交響楽団(DIVINE ART他)1946・CD,,交響組曲第2番という標題もあるようだ。DAで出ていたものと同一?安定した録音で聴き応えがあり、オケもなかなかに巧い。聴き易い曲なので、機会があれば。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:プロテー第二組曲,○スタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団(forgotten records:CD-R/ASCAP)1952ピッツバーグ音楽祭live・LP,,編成が大きいためか押し出しが強いので牧歌的な同曲の美観を楽しむ向きにはすすめないが、理知的な指揮者のしっかりした構成感にもとずく演奏であるためミヨーらしい重なり合う響きがよく聞こえる。和音の衝突が楽しめる向きには薦められる。リズム取りは単調で浮き立たない。録音良好。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:マリンバ、ヴィブラフォーンと管弦楽のための協奏曲,○チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル、ピーター・サドロ(M,V)(EMI)1992/4/16,17LIVE・CD チェリの手にかかるとミヨーやルーセルもここまで綺麗に磨かれるのか、という見本のような一枚。両者とも響かせにくい過度に重ねられたハーモニーが特徴だが、チェリの響きへの拘りは余りにあっさりそのくぐもりを取り去って、透明な音響に仕立ててしまった。ミヨーにおいてはそこがとても素晴らしく垢抜けた印象をあたえ、ミヨー本来の田舎臭い野暮ったさが全く感じられなくなる。そこが大きな魅力だ。二回の演奏会のツギハギとはいえライヴでこの精度は尋常ではない。ルーセルの録音には少し無粋な硬さも見え隠れしたが、こちらでは実に気持ちのよい清々しさのみが感じられる。ここまで立派に表現されるとは、草葉の陰のミヨーも照れくさかったろう。これはミヨーのプロヴァンス風味たっぷり盛られた牧歌的作風によった作品であり、やや長々しいが、聴き易い曲である。特徴はやはり二つの鍵盤打楽器の導入であり、木と金属の硬質な響きがミヨーの柔らかな抒情に異質の怜悧な刺激をあたえ、長くぶよぶよしがちな音楽を引き締める役割を巧く果たしている。ただでさえ硬質に磨き上げられたチェリの音楽にこの打楽器の響きは加速度を与える。これはもうミヨーではないかもしれない・・・。とにかく楽想の割に長い曲なのでチェリの熱して前進することのない比較的遅い解釈では、最後には飽きる可能性がある。縦にぎっちり揃えられた音楽は決してフランス的な美質を持てていないわけではないのだが、ミヨーの洒脱を期待すると、どこか違和感がある。非常に盛大な賞賛を受けた演奏であり、私もこの完成度というか立派な構築性には大きな評価をつけるべきだとは思うが、◎をつけるのには躊躇させるものがある。涙をのんで○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ミヨー:マルティニーク諸島の踊り,○カサドシュ夫妻(p)(cascavelle/columbia)1941/12/18・CD,,クレオール主題によるごく短い二つの曲。まったく楽しく南方的な音楽で、若き頃南米時代のミヨーを思わせるがもっとスマートで聴き易い。一曲めはまさにクレオールの歌と題されているが、響きには優しいミヨーのピアノ曲特有の抒情が染み出している。尖鋭さや奇矯さはすっかりなりを潜めているが、穏やかで瞑想的な主題と突然踊り出す派手な主題が交互にあらわれ、楽しいし、ほっとする。ミヨー円熟期以降のピアノ曲はほんと、ほっとする。二曲めのビギーンはビギン・ザ・ビギンのビギン(ほんとか?)。南米のボレロ調の音楽だがここではもっと洗練され、しかも汗臭さや嫌味の一切無いほんとの「楽しみ」だけが奏でられている。打楽器的というか、硝子を弾くようなカサドシュ夫妻の音色のせいもあって至極透明で繊細でもある。主題は単純なものでその繰り返しだが、和声にミヨーらしい微妙なズレやサティ的な意外性のある展開が込められており飽きがくるのを辛うじて避けられているといった感じ。総じて○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ルネ王の暖炉,○フィラデルフィア木管五重奏団(boston records)1960/9/21・CD 速くてあっさり、しっかりしすぎているのが気になるといえばなるが、純粋に音楽としてはよく出来上がっている。ミヨーがプロヴァンス民謡を意識した牧歌的で平易な曲の中でも特に人気の高い曲、案外録音は少なくない。バレエ組曲のようにも聞こえるが元は管弦楽による映画音楽である。アンサンブルとしてもよく組みあがった曲群で、速いパッセージが多く低音楽器には辛いぽい場面もなくもないが、一部楽器に偏らないゆたかな響きが耳を楽しませる。ミヨーらしい微妙なハーモニー+明快な旋律を表現するにこの老舗アンサンブルの確かな技量が生かされている。「ルネ王の暖炉」〜日だまりの雰囲気をもう少し軽くしかしニュアンスを込めて表現してほしかったが、贅沢というものか。健康的な力に溢れた演奏。ミヨー室内楽の最高峰を楽しむのには十分だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:ルネ王の暖炉〜Y.ヴァラブルでの狩猟,○デニス・ブレイン木管五重奏団(BBC)1956/6/19live・CD,,ライブの寄せ集めの一曲でむろんホルンが際だった曲でもなく普通に聴く以上のことはできない。ルネ王は「ほぼ」全曲がBBCレジェンドで別に出ており、そちらで評価すべきだろう。ちなみにルネ王の記録は他にもあるようだがブレインのコアファン以外には聴く術はないようだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ルネ王の暖炉組曲,○PAYS-BAS五重奏団(MMS)LP,,自演室内交響曲集の裏に収録。生命力があり、新古典の範疇にある整った曲に世俗的な感興を持ち込んだような動きある演奏になっている。技術的瑕疵はない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ルネ王の暖炉組曲,○デニス・ブレイン管楽五重奏団(bbc)1955/6/22・CD,,モノラルで録音も良くない。デニス・ブレインの名もこのホルンのほとんど目立たない木管中心の曲にあっては意味がない。中庸で地味だ。フランス南部的な牧歌的な雰囲気もあまり醸されていない。うーん。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ルネ王の暖炉組曲,○デュフレーヌ(FL)ORTF木管五重奏団(EMI)1953・CD,,明晰なモノラル後期の音。ORTFメンバーらしい繊細なそつのない音色で美しいこの曲を美しく表現しきっている。ミヨーはヴァイオリン出身の人だが(勿論この時代の人なのでいろいろ吹き弾き叩きはできたのだが)弦楽器よりも木管を使った室内楽のほうがアピールできる美質のある人だったとこのような曲をきくと思う。擬古典の範疇にある楽曲でリズム要素には南国の変則的なものも含まれるものの全体的に南欧風の牧歌的な微温性を保ったものになっており、その表現には柔らかい音色の木管楽器だけによるアンサンブルが最も適している。ミヨーは大編成の曲よりこのような小編成の曲のほうが工夫の凝らしようがないぶんわかりやすい(ミヨーは工夫しすぎるのだ)。ラヴェルの管弦楽組曲作品を彷彿とする旋律と構造の繊細なバランスがここにも存在して、リズムさえ克服すればアンサンブル自体はそれほど難しいものはないと思うが、声部間の音量や音色のバランスには配慮が必要である。しかし木管アンサンブルという性質上、ロシア吹きやアメリカ吹きする人でも織り交ざらないかぎり妙なバランスになることもない。美しくさっとした演奏で、如何にも現代的な「オケマン」による演奏、何か突出した個性を聞きたかったとしたらデュフレーヌのそつのなさ含め裏切られるかもしれないが、楽曲の要求はそこにはなかろう。◎にはしないでおく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:ロンサールの四つの歌,○リリー・ポンス(Sp)コステラネッツ指揮管弦楽アンサンブル(cascavelle/columbia)1947/4/2・CD,,じつに美しい。透明感のある管弦楽が高音域で醸す爽やかで牧歌的な雰囲気と、安定した伸びやかな高音を発するソリストが(三曲めの中ほどの表現にはやや荒さが出ているが)ミヨー独特の超高音アンサンブルを実にプロヴァンス風味たっぷりにかなでている。これはミヨーの「美しい方」の作品、とくに前半二曲が素晴らしいので、小交響曲や春のコンチェルティーノあたりが好きなかたは一聴の価値あり。コステラネッツのオケは抒情が優り「ハリウッド的艶」がなくはないが、基本的に俊敏で瑞々しく十二分に聴ける。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:永遠の主題による練習曲,○パリジー四重奏団(naive他)CD,,エチュードなので決して面白いとは言えない単調さもあるのだけれど、確実にミヨーである、という明るい響きと新古典的な構造を示している。演奏レベルを要求する曲集ではないが手だれのパリジー弦楽四重奏団のそつない表現が楽曲理解につながっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:屋根の上の牛,○ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(NAXOS/CAPITOL)CD このてのメタ・クラシック音楽はたくさんあるが、ルーツをたどればミヨーあたりがその原流になるのでは。品のよい美しい音の楽団だが、薄いヴァイオリンあたりがフレージングにケレン味を出そうとしてポルタメントめいた「うにょーん」を入れているところなど面白い。なつかしい音色だ。ゴルシュマンはリズム感のしっかりした指揮者らしくそのテンポには乱れがなく颯爽とした歩みをしるしている。音は優しいがテンポ的には即物主義的指揮者の範中に入る人だろう。○ひとつ。それにしてもこの雑音なんとかしてくれー(LP)。音も飛びすぎだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:家庭のミューズ(1945),○作曲家(P)(ODYSSEY),,泣けます。このLPは中古屋で比較的良く出回っているので、突っ込んで聞きたい方は中古通販等で入手される事をお勧めします。ミヨーの巨体からなんでこんなに優しく暖かい音が出てくるのか不審にすら思います。ミヨーのピアノ曲は6人組でも特にエリック・サティの影響が強いと思うのですが、題材はともかく、珍奇に走らず練られた曲であるだけに、数倍聞きやすいと思います。単純だけれども密やかな美しさを醸し出す旋律に傾聴。ミヨー自身の演奏でなくてもきっと満足させます。お勧めです。この盤は録音が非常に悪いので○ひとつにしておく。マドレーヌ夫人に隠れて作曲されたといい、そのまま捧げられた。いとこ同士で、幼時から親しく過ごしてきた夫人には多数の献呈を行っている。たとえば弦楽四重奏曲第16番(1950)は結婚25周年に夫人に献呈されている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ミヨー:歌劇「クリストフ・コロンブ」〜第一部,○ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル他(nickson)1952/11/9放送liveCD ロザンタールのディスク・モンテーニュ盤を手に入れ損ねて長らく不完全燃焼だった私にミトプーのライヴ録音イシューは福音のようだった。コロンブスの偉業を称える?大曲だが、第一部だけの演奏会(放送初演というがそもそも放送でこのどでかい曲を流すことなど以後あったのだろうか)であるこの盤だけを聞いても親しみ易く気持ちのいい流れを70分余り味わう事が出来る。ミトロプーロスの弛緩しない音作りのせいもあろうが、ミヨー自身が理解される事を念頭に書いたと思われる世俗的な魅力がある。いちばん近いのはオネゲルの「ダヴィデ王」あたりの雰囲気だと思うが、もっと表層的というか、たとえば「男とその欲望」を思わせる太鼓のドンドコいうリズムの上にナレーションが入り、時々歌詞のない男声合唱が「ワーオ」というようなイカニモ土人的合いの手を入れてくるところなど、面白いけど、、、、いや、面白いです。クローデルの台本によるがここでは英語で歌われており比較的わかりやすい。でもわかりやすいがゆえの何か浅薄な感じも無きにしもあらず。私の記憶が確かならこの曲はそもそも映画音楽かなんかだったと思うが、それも肯ける内容である。ちょっと長いけど、ミヨー好きは聴いて損はありません。ミヨーとくに好きでない向きも、聴いて不快ということはない。と思う。だといいんだけど・・・。ミヨーのいちおう代表作ですから。集中力が途切れず、不協和音を余り尖鋭に響かせない配慮がこの演奏の大魅力。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:歌劇「クリストフ・コロンブ」全曲,○ロザンタール指揮リリーク放送管弦楽団(ORTF?)、フランス国立放送合唱団他(DISQUE MONTAIGNE/ina配信/ina)1956/5/31LIVE(1956/6/1放送)・CD,,極めてダイナミックな大作で多様な表現の散りばめられたミヨーのいわば集大成的な作品である。クレーデルの本による歌劇だが映画音楽を元にしているのではなかったか?描写的でわかりやすく、ウォルトンのベルシャザールに更に慎重なワサビを効かせて、後半は新大陸のリズムや楽天的旋律を過不足ない書法で巧みに組み入れ、「男とその欲望」を彷彿とさせる原始主義も洗練された都会的な無駄無い表現により陳腐に陥らせることなくそのエッセンスだけを伝えている。複調性や不協和要素は無いわけではないのだが殆ど目立たない。新大陸の場面で感傷的にあらわれるプロヴァンス民謡ふうパセージも新大陸に爽やかな風を吹き込むだけで違和感はない。ジャズが顔を出すのは御愛嬌。最後はまさにオネゲルのダヴィデ王を彷彿とする雄大で感動的な盛り上がりをみせる。ロザンタールは明るく乾いた音で色彩感溢れる生命力に満ちた表現を最後まで崩さない。他曲のスタジオ録音にきかれるような弛緩は無い。フランス流儀としての声部間のバラバラ感も全く違和感なく寧ろ色彩感を倍加している。終演後の盛大な拍手も演奏の成功をつたえる。モノラルであることをマイナスと考えても○をつけざるをえない。このCDは今はなき六本木WAVEで長らく棚を飾っており、金を貯めてやっと買おうとしたら売れてしまっていて、「ミヨーなんて聞く人が俺以外にもいたんだ」と落胆した覚えがある。当時なんばでミヨーのカルテットを集めていたら「研究家のかたですか?」と訝しげに見られた、そんな頃である。,(後補)ina配信音源ならびにAmazonデジタル配信にORTFの演奏として一日違いのものが掲載されているが、inaの記載日は放送日の可能性が高いため、同じと思われる。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,
ミヨー:格言カンタータ,○作曲家指揮アンサンブル、ブヴィエ、J.コラール、C.コラール(VERSAILLES)LP,,合唱部分はにぎやかだがバックはほとんどハープかクラリネットくらいのもので非常に簡素である。ハープの残響を抑えたとつとつとしたバックに歌唱がのるさまはサティの遺伝子をかんじるが、後半では古典的な手法もとられている。おおむね牧歌的で明るく、演奏的には合唱陣がやや近すぎてうるさいが一般受けはしそうだ。○。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ミヨー:管弦楽のためのセレナーデ,◎スウォボダ指揮ウィーン交響楽団(WESTMINSTER他)CD すごくいい曲!きよらかで抒情的で、いやミヨーは決して抒情の欠けた作曲家ではないのだが、音やリズムを重ねすぎて一般聴衆を寄せ付けない雰囲気を作ってしまっている事が多い。この人のどんな尖鋭な曲でも一声部の旋律を取り出して聞けば楽しく素直な抒情を歌っていることがわかる。一般受けするにはその歌の扱いかた、手法に問題があった(もちろんミヨーは一般受けを狙う事などしなかったろうが)。だがこの21年作品ではもう「春のコンチェルティーノ」に近い素晴らしく聴き易く耳に優しい音に彩られており、晦渋な響きは皆無に近い。この素直さはオネゲルの「夏の牧歌」を彷彿とする。南欧のあたたかい空気を感じることができる。演奏も素晴らしい。溌剌とした音楽は引き締まって且ついかにも楽しげに跳ね回っており、とにかくリズム感がいい。素晴らしい。このオケの本来の力量をつたえる水際立った演奏ぶりだ。乗りに乗りまくっていて、いつもの乱雑の微塵も無い。あるいはこのオケの好演のために曲が良く聞こえてしまうのかもしれない、とさえ思った。ミヨーでここまでのめりこむ曲・演奏には久し振りに出遭った。◎。ウィーン響ブラヴォー!,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:劇音楽「エウメニデス」前奏曲,○モントゥ指揮ボストン交響楽団の管楽メンバー(DA:CD-R/WHRA)1958/7/25live・CD,,モントゥらしい脈絡無く詰め込まれたロシア&フランスプログラムの中の一曲で、とち狂ったようなチャイ4の後休憩を挟んで演奏されたものか。チャイ4同様性急かつ覇気漲り、このブラスバンド曲として単品で演奏されることの多い荒んだ楽曲を演じきり、上品なお客さんがたに少し戸惑いある拍手を促している。ミヨーでもコエフォールのようなかなりやり過ぎたあたりの作風に近く、それだけに楽天的なものは求めるべくもないが、モントゥの職人的なさばきがこういう曲に寧ろ向いているのではないかと思わせる意味でも貴重な記録。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:劇音楽「コエフォール」,○マルケヴィッチ指揮聖チェチリア音楽院管弦楽団他(eternities:CD-R)1952/5/29live,,DGGにラムルーといれている演目のライヴになる。同曲はストラヴィンスキーの原始主義の影響を受けたあと多調性を研究した結果生み出された最右翼作品として知られるが、しょうじき、アイヴズを聴いている身からするとリズムが揃っているだけ数倍まし、むしろ旋律性が強く、無調的な部分もシェーンベルクのような秩序が感じられ茫洋として聴きづらいことがない。演奏自体のテンションの高さ、とくにリズム処理のうまさに感服させられる。最後はもうえんえんと旋律の楽天性に身を任せ気持ちよく終われる(最終音も不協和だが)。通常の人なら気が違ったような曲と顔をしかめるかもしれないが、私は非常に楽しめた。ライヴ的な前進性が心地いい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽三重奏曲,アルベール・ルーセル三重奏団(cyberia),,曲的には全くプロヴァンス的なミヨー節で、しかも三重奏という比較的軽量な響きを持つアンサンブルであるがゆえにミヨー節の一種鈍重さが抜けて、とても合理的でバランスのいい、ひょっとしたらこれがミヨーに一番あっていた編成なんじゃないか、と思わせるほど適合性を感じる。ただ、旋律の魅力が薄いのと、2楽章と4楽章のよく魅力のわからない暗さ、5楽章の常套性から、余り演奏されない理由もなんとなくわかる。旋律に高音を多用するミヨーがゆえに仕方ないかもしれないが、この決して巧いとは言えない団体のヴァイオリンの音程は、ちょっと心もとない。柔らかい運指はうまくやればいい感じの雰囲気をかもすが、ひたすら高音域で動く曲となるとその一音一音の変化が聞く側の耳に捉えきれなくなる。これは痛い。ピアノ的に明瞭な音程をとっていかないと、わけのわからない印象しか残らなくなるのだ。この演奏の弱点はまさにそこにあるといってもいい。無印としておく。曲的に一番の聞きどころは3楽章のギター的な重音ピティカートにのって楽しげに動く旋律線だろう。イベールなどの室内楽にも似たようなものがあるが、ああいう世俗性(親しみやすさ)が無い、旋律に溺れず複雑なリズムとしっかりした書法に支えられた構造的な面白みは独特のものだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第12番,○イタリア四重奏団(columbia/URANIA他)CD,,音程感などいろいろ文句をつける向きもあるかもしれないが、「歌うタイプの演奏」はこれでいい。「曲構造をえぐり出すタイプの演奏」ではないのだ。うららかなプロヴァンス民謡を1stにとことん(高音で)歌わせ、複調性で重なる伴奏系は静かに引っ込ませ、エキセントリックさを出さないようにするやり方は、この曲にはあっている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第12番,カルヴェ四重奏団(melo classic)1948/11/29パリ放送録音・CD,,直前に入っているドビュッシーのライヴよりは録音が良いものの、音場は狭く音質も硬くノイズもあり、けして聴きやすいとは言えない。同曲は3楽章構成で、計13分程度にミヨーらしい南欧風牧歌のキュッと詰まった比較的人気のある曲であるものの、ファーストには超高音で正確な音程を取り続けるなど機械的な技巧を要求し、長い音符で気持ちよく歌わせる箇所はほぼ無い。これがカルヴェの特質を損ない、魅力的な音やフレージングを聴かせることのできないまま、そういうスタイルの奏者に事故を促す書法そのまま、(そもそも同楽団は技巧を誇るタイプの楽団ではないが)技術的問題を感じさせる結果になっている。世代下のレーヴェングートや弟子格のパレナンのミヨーの精度とは比べるまでもなく、2番しかいれてはいないが、クレットリと比べても、ミヨーのデジタルな音楽には向かないのだな、と思った。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第12番(1945),○パリジー四重奏団(naive)CD,,「フォーレの思い出に」と添えられたミヨーの極めて美しいミニアチュールだが、演奏が現代的過ぎるというか、もう少し柔らかいニュアンスが欲しい。気合いを入れないと弾けない超絶パセージがあるのは認めるが、技術面を多少おろそかにしても曲に「入り込む」余裕がほしい。技巧は闊達だが。。○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第14番,○パリジー四重奏団(naive他)CD,,全集の一部。しっとりした魅力のある一曲で、「ミヨーの晦渋」はほとんど出てこない。祝祭的な終楽章にいたるまで簡素なまでに美しい。それはこれまた可愛らしい15番とあわせて八重奏曲としても演奏できるように作られたためだろう。この楽団はいかにもフランス的という仄かな感傷と明晰な表現を兼ね備え秀逸である。技術的瑕疵はみられず少しパレナンを現代的にしたようなところがある。聴いて損はない。朝のひとときに。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第14番,○パレナン四重奏団(EMI),,例によって15番と八重奏曲(14,15番を同時に演奏することにより八重奏曲としたもの、ベルネードQとの合同録音)の組み合わせだが、この14番は、最初の旋律だけが目立つ15番にくらべ対旋律まできちっとした旋律になっている(ミヨーは旋律重視の人です)がゆえの、ミヨーならではの弱点が目立つ。高音二本と中低音二本がしばしば完全に分離し、おのおのが違う楽想を流し、構造的には組み合っているが和声的には「耳ごたえのある」分厚く衝突するものになる場面がやや多いために、楽器元来の威力的にどうしても高音部が負けてしまう。耳に届く音として、とくにミヨーのように高音旋律の作り方が巧く、更に超音波に達するくらいの(大げさ)高音を個性として駆使する人においては、確かにはっきり届きやすい要素はあるのだが、もちろん音量的に(倍音含め)出る音域ではないため、チェロが楽器角度に左右されずしっかり収録できてしまう「録音媒体」となると、土台のしっかりした深い響きに消し飛ばされてしまう。ミヨーの低音はかなり低い位置でひびくことが多いが、音が永続的に鳴り続ける擦弦楽器となると通奏「重」低音としてアンサンブル全体の響きをかき乱してしまうことがあり、低すぎて明確な音の変化まで聞き取れなくても、牧歌的な楽想にたいしては「強すぎるデーモン」になりうる。小規模アンサンブルでこのような明るい主題の曲で、どうしても両方に主張させたい場合弱者側にはピチカートなどの奏法を織り交ぜさせ書法的に対抗するか(ミヨーもやってるが)、演奏者側が意識して音響をととのえないと、数学的には合理でも音楽的には非合理になりうるもの。この演奏が、あきらかに耳ざわりのよいはずの14番より15番のほうが聞きやすく感じがちな理由は、チェロとヴィオラが「田園に射し込む一握の雲の綾なす陰」を逸脱し「田園を覆い尽くさんとする暗雲のドラマ」になってしまっているせいだと思う。まあ、録音のせいかもしれないが。ミヨーの厚ぼったい書法を解決するのにパレナンの透明感はマッチしているので、ちょっと惜しかった。○。しかし・・・この曲に更に4本追加して8本にするなんて無茶だ。この曲だけで十分お腹一杯な音響なのに。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ミヨー:弦楽四重奏曲第14番,○ブダペスト四重奏団(COLUMBIA)ミヨーのカルテットはいろいろある。ショスタコーヴィチのようにしかめ面なものもあればシェーンベルクのように不条理な?ものもある。その中でこの14番、ならびに姉妹作の15番は牧歌的で比較的わかりやすい作品と言えるだろう。いずれもイベールのように暖かな響きと快活な主題の躍動する明るい作品だ。14番は終楽章がいい。快活で楽しい音楽だ。ブダペストは音色が揃っていて巧い。曲の性格上ちょっとごちゃっとしなくもないが、作曲家お墨付きだけある演奏だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:弦楽四重奏曲第15番,○パリジー四重奏団(naive他)CD,,全集の一部。極めて短い喜遊曲といったらいいのか。14番とあわせて八重奏曲としても演奏できるように作られている。余り印象に残らないが演奏のせいというより曲のせいだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第15番,○パレナン四重奏団(EMI),,師匠格のカルヴェと違いケレン味の無く素っ気ない、しかしアンサンブル技術をきわめいわゆる現代フランス的な美しい表現を持ち味とする団体だ。ミヨーは厚い響きの複調性的な重奏を多用するわりに基本は南欧の牧歌的世界を軽い旋律で描こうとしていることが多い。この作品はカルテット作品でも成功した良作と思うが、それは高音域の非常に美しい旋律線を、低音域のカイジュウなアンサンブルが邪魔しない程度におさまっているせいかと思う。じっさいこの曲の旋律は旋律作家ミヨーとしても屈指のインパクトがあるからなおさらバランスよく感じられるのかもしれない。完成期以降のミヨーの緩徐楽章は前衛嗜好のあらわれた耳辛いものが多いがこの曲も多聞に漏れない。しかしここでパレナンならではの軽やかな響きが楽想の暗さを薄め、はっとさせる、そうか、ミヨーの意図は20世紀の作曲家としての辛苦を表現することではなく、この演奏で感じられるような、けだるい午後の空気感の創出にあったのだ、と。終楽章はかなり派手に表現しており、曲もそれを求めているので大団円。とはいえ、○にとどめよう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第15番,○ブダペスト四重奏団(COLUMBIA)この15番は譜面を持っているが1パートだけ弾いてみると実にわかりやすい旋律性の強い音楽に思える。しかしあわせて弾いてみるとこれが重層的でわかりにくくなる寸法。ただ、ミヨーの中ではかなりわかりやすい作品であることは確かで、とくに1楽章ファーストがスピッカートで刻む旋律はささやかで美しい。尻すぼみな感じもあるが、暖かなプロヴァンスの田舎風景を思わせる佳品だ。演奏は非常に調和したもので技巧に走らず美しい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:弦楽四重奏曲第1番,○WQXR四重奏団(POLYMUSIC RECORDS)LP,,第一ヴァイオリンに技術的不安定さを感じる。アンサンブルとしてはけして物凄く上手くはないとは思うが、他メンバーはなかなかである。WQXRはNYのラジオ局で、当時の放送局はたいてい放送用の専属楽団をもっていた。この団体のチェリストのハーベイ・シャピロ氏は現在齢95を数えてジュリアード音楽院マスタークラスで教鞭をとっている。もともとトスカニーニ下のNBC交響楽団で10年近く演奏をおこない最後の三年は第一チェリストの座にあった。そのあとプリムローズ四重奏団で4年活動、さらに以後16年間この放送局楽団をつとめあげた。スタジオミュージシャンとしてしばらく各レーベルをわたったあと、渡欧。名声が高まり、ミュンヘンではカサルスと並び賞されるまでに上り詰めたが、台北のレストランで腰を打ってのち教職に転換、1970年からジュリアードに教授として就任以後、名教師として知られるようになった。,,弦楽四重奏曲以下の器楽曲を末流ロマン派(そうとうに幅を拡げた私の定義内)の範疇において少なからず書いた作曲家の、習作を除く作品番号1番と2番にはある種の共通した傾向がある。1番は折衷的だが当時前衛的とみなされた要素をふんだんに盛り込んだ野心的な作風により、散漫でまとまりに欠けるもののマニアックに読み解くのが面白い。物凄く乱暴な例をあげればグラズノフのカルテットやアイヴズのピアノソナタである。対して2番は洗練され本当の個性が最小限の編成の中に純度高く反映されたもので、一般にアピールする率が極めて高いものの雑多な面白さには欠ける。従って情熱的に聴きこんだあと一気に飽きる可能性もある。ショスタコは例外的に書いた時期が遅いこともありここに1番がくるが(プロコもかな)、ボロディンなどはまさにこのパターンである。ミヨーももろにそうである。この1番は書法的にあきらかに「人のもの」がたくさんつぎこまれ・・・たとえばドビュッシー、ロシア国民楽派、新ウィーン楽派といったもの・・・、本来の縦のリズム性と歌謡的な旋律を基調とした楽天性は余り浮き立ってこないが、よくよく聴くと後年あきらかになる独特の複調性や高音処理方法が、後年は殆ど浮き立ってこない清新なひびきの連環による観念的な楽曲構成の中に織り込まれている。その点で欲張りな作品でありそこが野心ともいうべきものだろう。正直あまり好きではないのだが、2番のあからさまにわかりやすい世界との対比できくと、ボロディンのそれに相似していて面白い。世代的にウォルトンのニ作品との相似形ともとれるだろう・・・ウォルトンは初作でさらに前衛を狙っていたが。,,演奏的に特筆すべき部分はあまりないが、不可でもない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
ミヨー:弦楽四重奏曲第1番,○アリアーガ四重奏団(DISCOVER)1994/11・CD,,簡単に言えばRVW1番のような曲。ドビュッシー後の国民楽派室内楽の典型といったところか、民謡旋律を中心に手堅い書法でまとめている。しかしミヨー特有の表現、和声も確かに現れており、冗長な曲に新風を吹き込んで耳楽しい箇所もみられる。アリアーガ四重奏団はイギリスの楽団のよう。激しさはなく響きは穏健で美しい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第1番,○パリジー四重奏団(naive)CD,,ミヨーが既にして個性を発揮した魅力作ではあるがフォーレがいなくてもおそらくミヨーはこれを書いたであろう、数々の民謡主題を彩る多様な響きにはドビュッシーなくしてはありえなかった斬新さが散りばめられている。フォーレ的だがフォーレではない、この曲にはそういう表現がふさわしいようにおもう。楽団は楽曲を掌中におさめそつない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第1番,◎ペーターゼン四重奏団(capriccio)CD,,これは快演。鋭い表現で同曲の叙情性よりも前衛性を抉り出し、高い技術をもって完璧に再現してみせている。メロディ重視を公言していたミヨーの魅力は叙情的な部分に尽きる、とは思うのだが、ここまでメカにてっしてスピード感溢れる音楽を演じてみせてくれると、こういう聴き方もできるのだなあ、と曲自体の評価も変わってくる。線的な書法で楽器同士の絡みが弱いミヨー初期カルテットではあるが、ここではそういう弱みもまったく気にならない、1番の演奏としては第一に推せる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第2番,○アリアーガ四重奏団(DISCOVER,Koch Discover International他)CD,,同曲はミヨーにしては疎な譜面で拡散的でだらだらする部分もあるけれども(5楽章制でアーチ構造を頑なに守っている)、各楽章で変容する南欧旋律の美しさ、簡素にまとめられた響きの透明感(ミヨーを取り付きづらくさせている複調性が分厚くならずほとんど気にならない・・・演奏する側としてはやはりやりづらさはあるのだけれども)は実に魅力的で、番号付きだけでも18曲ある、時に実験場と化しもした全ての弦楽四重奏曲の中で最も聴きやすく、コーフンする曲だと信じて疑わない。前記のとおり構造に執拗に囚われ音楽の流れが停滞する場面もあるにせよ、ノイジーな響きで耳を濁らせるよりはましというもので、とくに、ベートーヴェン的な弦楽四重奏が好きな向きには薦めたい。ミヨーらしさを残しながらも、前時代的な弦楽四重奏曲を踏襲している、この絶妙さはドビュッシーでもラヴェルでもない、ボロディンの気は少しあるけれどもロシア的ではまったく無い、まさにフランス近代のミヨーそのものである。アリアーガ四重奏団は落ち着いた演奏ぶりに円熟が感じられるが、多分ミヨーの書いた最もスポーティな楽章、ミュートされた四本によるスケルツォ3楽章が余りに落ち着きすぎていてがっくりした。しかし、冒頭よりヴィオラ以下がしっかり音を響かせ主張していて、ドイツ的な面もある同曲の勘所をよく理解した解釈だなあと思った。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ミヨー:弦楽四重奏曲第2番,◎パリジー弦楽四重奏団(AUVIDIS)CD,,強靭さのないアンサンブル。しかしそのアンサンブル能力の自然さ、高さと柔軟性が長所に感じた。柔らかく線の細めな、フランスというよりイギリス的な融和しやすい音に惹かれたわけでもあるが、ミヨーのカルテットでいちばんわかりやすく、かつ魅力的な旋律が理知的な構造の中に組み合わされ配されて、しかもその中に非凡な技巧的工夫が過剰にならずさらっとミヨーならではの形で篭められている。「雑多で硬派なミヨー」のファンにはまだ「六人組の描く牧歌」の範疇を抜けていない日寄った作品ともとられかねないわかりやすさだが、コントラストの著しくとられた各楽章にも鮮やかに統一主題が変容され導入されて形式感をしっかり維持していたり(かなり中欧の古典的作品を研究したようである)、2楽章には宗教的な暗い主題がミヨーの代表作にも一貫してみられる独特の雰囲気をカイジュウなハーモニーにより(また構造的に懇意だったシェーンベルクあたりに通じる萌芽も感じる)しっかり内容あるものに仕立て、四、五楽章のボリュームとともに力作大作感を強めている。この演奏はとくに構成が練られており意図を理解しやすい。三楽章を軽く風のように流しているのは少し物足りなさもあるが実に安定し上手い楽団だなあと感心させる無理のない柔軟性を兼ね備えた俊敏さだ。とにかくプロヴァンスのあたたかな日差しを思わせる融和的な音色と、作曲の技巧や先鋭さを強調したような分析的演奏に走らず音楽として綺麗なものを聞かせようという意図に惹かれた。◎。パリッシー四重奏団と表記していたが原音のパリジーに直した。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第2番,○パリジー四重奏団(naive)CD,,全集の一枚。これは少し客観的というかおとなしい感じもするが技術的には高い。よく構造を分析した演奏という感じで、まだ生硬な部分のあるミヨーの書法をきちんと読み解いて、三連符のモチーフが表や裏に出ては隠れしながら統一感を保っているとか、基本はロシア国民楽派の弦楽四重奏曲を意識しながらもそこに皮肉をさしはさむように無調的フレーズや複調的構造を織り込んでいる部分が明確に聞こえる。ミヨーにはやや構造が重過ぎて旋律線がわかりづらかったり速筆のせいか勢いで押し通さないと首尾一貫して聞こえないなどといった楽曲も散見されるが、この曲は全弦楽四重奏曲の中でも一番わかりやすいだけに、却ってマニアックな書法の出現が唐突で違和感を感じさせるところもある。だからこうやって整理されてくるといくぶん均されて聞きやすさが増す感もある。4楽章では牧歌的ないわゆる「ミヨーのプロヴァンス民謡」が少しあからさまに出てくるが、こういった部分ではもう少し感情的な温もりが欲しかった。小粒だがしっかりした技術に裏付けられた演奏。○。パリッシー四重奏団と表記していたが原音のパリジーに直した。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第2番,○パリジー四重奏団(naive)CD,,演奏的には速いテンポでさっさと軽めに進んでしまう感がある。ひそやかで地味。だからちょっと印象には残りづらいがうまいことはたしかだ。この作品はミヨーの室内楽の傑作のひとつとは思うが、1番とくらべ格段にシンプルで、全体設計こそ循環形式の5楽章制だから特殊とはいえベートーヴェンぽい和音の重奏をアクセントに使った表現にせよ古風なカルテットの形式を意識したようなところもある作品。姿を微妙に変えつつ統一された旋律の魅力は全カルテット中瑞逸。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第2番,アルカナ四重奏団(cybelia)。ミヨーの中でも取っつきやすい曲。複調性が非常に上手く使われている。全集の一枚で(団体は異なる)かつてこれしかなかった。録音もじっさい音も鄙びているが、それなりの味がある。技術的に舌足らずなところあり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
ミヨー:弦楽四重奏曲第2番(1914-15),△クレットリ四重奏団(新星堂EMI盤)ほぼ同時代の録音として特筆できるが、余りに音が不利だ。高音部のレンジが非常に狭く、装飾音などの細かい動きは殆ど聞き取れない。ききどころの3楽章など旋律が聞こえないためヒンデミットのようなひたすらの運動になってしまい、若々しく勢いづいた雰囲気だけを感じる演奏になってしまった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:弦楽四重奏曲第2番(1914-15),アルカナ四重奏団(CYBELIA) CY808 昔国内盤でも全集で出ていた記憶があるのですが、とりわけこの演奏が良いというわけではないので今手に入る音源で一聴頂ければ幸いです。オネゲル同様ミヨーの怪獣もとい晦渋な世界は四重奏曲に遺憾無く展開されているわけですが、この22歳のときの作品は素直な感情と美への賛美の心が現れており、18曲中の異質となっているものの、多分一般に最も受け入れられる要素を備えた佳作であります。3楽章の軽妙さと4楽章の鄙びた味わいは絶品です。特にソルディーノで奏でられる3楽章のきらめくような律動は、フランス近代四重奏曲の中でも傑出した表現のひとつではないかとも思います。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:弦楽四重奏曲第3番,○ディエシー(Msp)パリジー四重奏団(naive)CD,,前二作とはまったく違って、無調の世界に突入している。レントの2楽章からなり、二楽章には女声独唱が入るということからも「シェーンベルク・ショック」の背景は自ずとあきらかである(ミヨーは「月に憑かれたピエロ」パリ初演も担っている)。だがこの歌唱部分はシェーンベルク式の厳しいものではなくサティまで想起する比較的メロディアスなもので、もちろん弦楽四重奏は無調的な耳障りの悪い響きを静かにうねらせているのだが、ちょっと中途半端な感がある。1楽章はひたすら晦渋。演奏はこんなものだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第3番,○デュモン=スルー(msp)レーヴェングート四重奏団(vox)1960年代・LP,,レーヴェングートらのミヨーはフランス近代の一連のvox録音ではこれだけ、あとはライヴ録音があるのみである(恐らく既記のものだけ)。しかも作風を一変し晦渋な曲想で通した異色作という、溌剌とした技巧的表現を持ち味とした後期レーヴェングートQにはどうにも合わないように感じるのだが、聴いてみれば意外とロマンティックというか、旋律の流れを素直になぞる聴きやすい演奏となっている。シェーンベルクの影響を受けた最初のSQであり歌唱が導入されるのもそのためと思われるが、無調には踏み込んでいない。寧ろ後期サティ的な単純さが感じられる。比較対象が少ないので評は難しいが、透明感ある演奏が重い響きを灰汁抜きして美しい暗さに昇華している、とだけ言っておこう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第4番,○パリジー四重奏団(naive)CD,,パリッシーと英語式に表記していたがどうやらパリジーとのことなので直します。この曲は3番に引き続き晦渋な様相をていしているが、3楽章制をとっており、楽想も決してわかりにくくなりすぎないところにミヨーの楽天的な特質が残っている。複雑な構造は演奏的にはけっして技巧的ということではないので、この前に収録されている12番にくらべ落ち着いて曲の内面に入り込める演奏にはなっている。ものの、やはり若いというか、硬質な音で小さく機械的に組み立てるようなところも否めず、このような曲では別にそれでも構わないとはおもうが、もう一歩踏み込みが欲しいか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第6番(1922),○タネーエフ弦楽四重奏団(melodiya)LP,,プーランクに献呈されている。短調で始まるミヨーの室内楽というのは余り聞かないように思う。とくにこの曲の冒頭主題はあきらかに古典派を意識したものでありちょっと聞きミヨーかどうか迷う部分もある。もっともこのくらいの時期のミヨーの作品にはシェーンベルク派や新古典主義なども顔を出し、晦渋さがいっそう濃くなってはいるのだが。よくオネゲルは晦渋でミヨーは明るい、という誤解があるがミヨーはそもそも聞かれる曲が限られているので、なるべく多くを聞いていくと、作風の傾向として両者ともに晦渋さも明るさも兼ね備えており、実はその両者の傾向がよく似ていることがわかる。作品ごとの性格分けがかなりしっかりしている点で両者ともにやはりプロフェッショナルなのだ。オネゲルにミヨー的な高音旋律を聞くこともあれば、この曲のようにミヨーに非常に目のつまった隙の無い構造を聞くこともできる。また両者の室内楽に共通する雰囲気としてルーセルやイベールの室内楽(の無調的なほうの作品)も挙げられよう。,,この盤に同時収録されているオネゲルの3番より、寧ろこちらのほうが計算ずくで斬新さもあり、よくできていると思える。難しさで言えばある種「作法」に囚われたオネゲルのものよりこちらのほうが数段上とも言える。それは単に弾きにくいということではなく、書法的に難しくできているということだ。ただ、両作とも「名作」とは言いがたいのは難点。どうも頭で書いた作品という印象が拭えない。まあ共に短い曲だが、なかなか曲者だ。タネーエフはとても巧い。内声のぎゅうぎゅうに詰まったミヨーの作品で旋律性を如何に浮き彫りにするかは重要だと思うが、タネーエフは正直その点十全とは言えないものの、この「外様の曲」をやはりショスタコのように料理して、しなやかにまとめている。ミヨーって凄いな、とつくづく感じられるのもタネーエフのびしっと律せられた演奏のおかげか。ミヨーが「勢いで演奏すべき類」の作曲家ではないということを証明する意味でも、よく表現していると思う。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ミヨー:弦楽四重奏曲第7番,○スタンフォード四重奏団(M&A)CD,,哀しげな表情を湛えた牧歌的な小品だが、コントラストを強調せず密やかに優しげに表現する楽団には好感をおぼえる。譜面自体に力があるミヨーには、案外エキセントリックでない表現のほうがしっくりくる。技術的に弱いかというとそういうこともなく最高音の音程もしっかりしていて、曲が比較的大人しいせいかもしれないが、ミヨーの楽曲演奏には珍しい音楽的安定感が漂う。イギリス近代の弦四を聴くように楽しめる演奏。ブリッジ、フォーレとのカップリング。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第7番,○パリジー四重奏団(naive)CD,,ミヨーの平易な職人的作品で暗い旋律から楽天的なミヨー流牧歌にいたるミニアチュール。曲に派手さは無いがミヨーらしく旋律はしっかりしており聴かせる。楽団は上手いがやや地味。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第7番,○レーヴェングート四重奏団(FRENCH BROADCASTING PROGRAM他)LIVE,,レーヴェングートSQのミヨー録音は2,3あるらしいのだが手元にはこの英語放送音源しかない。放送用ライヴではなく公衆ライヴ録音の放送のようである。ちなみにこの音源、アナウンスと本編がそのまま収録されジャケットも内容も一切記載されないのだが、昔「夏の牧歌」などエントリした盤については本編にも演奏家について触れた部分がなく且つ恐らく通常のスタジオ録音の切り貼りだった。この二枚組はライヴとスタジオが半々のようで、全貌のよくわからない音源ではある。,,演奏のほうは、ミヨーを「ちゃんとした同時代演奏家たち」がやればこうなるのだ、というかなり感情を揺さぶられるものになっている。暖かい音色が違う、フレージングの柔らかさ、優しいヴィブラート、技巧と音楽性の調和、即興的なアンサンブルのスリル、どれをとってもミヨーを新しいスタジオ録音(と現代の生演奏)でしか聴いていない者にとっては目から鱗の「ほんもの」である。しかも曲がミヨーの中ではやや抽象度の高く旋律主義ではない、晦渋さもあるアンサンブル重視のものだけに(それでもまあ小交響曲にかなり近似しているのだが)、こういうふうにやればスカスカの音響に惑わされず緊密で適度な美観をもった演奏になるのか、と納得させる。もっとも技術的に難のある箇所もあるし、ミヨー特有の超高音での音程の悪さはプロらしくないが、しかし、盛大な拍手もさもありなん。モノラルで環境雑音もあり、曲も短く比較対象になる演奏もないのでひとまず○にとどめておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ミヨー:弦楽四重奏曲第8番,パリジー四重奏団(naive)CD,,三楽章制のミニアチュール、典型的なミヨーのプロヴァンス牧歌だが、メロディが弱く色彩がくすみ、聴き応えがない。全盛期ミヨーの作品は大衆的なメロディアスな曲とシェーンベルクなどに影響された人好きしない晦渋な曲に別れるが、これは少し後者に傾いている。特に聴く必要はない。演奏はそつがない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽四重奏曲第9番,○パリジー四重奏団(naive)CD,,作曲家が「曲数において」意識していたというベートーヴェンの弦楽四重奏曲を思わせる厳しさを持ち合わせた4楽章制の曲で、ミヨーらしい楽天的な主題から始まるものの最後はヤナーチェクかというような重いやり取りのうちに幕を閉じる。けして楽しい楽しいの曲ではないが、たとえば3,4番などにくらべると「らしさ」が垣間見えるところはプラスに感じられるだろう。演奏はこの曲にあっているように思う。冷たく重い音がうまく、わりとドイツ的な曲が得意なのかもしれない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽八重奏曲,○パリジー四重奏団、マンフレッド四重奏団(naive他)CD,,パリジーによる全集の一部。14,15番SQを一緒に演奏する趣向のもので、ブダペスト四重奏団の依頼だったようだが、正直、音が多すぎる。ミヨーは音の多い作曲家だが無駄はそれほどない。ここでは縦線があっただけのような動きが多く、複調性にしてもやりすぎ。演奏はうまい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽八重奏曲,○パレナン四重奏団、ベルネード四重奏団(EMI),,何度聴いても無理のある「二重四重奏曲」だが、双方音は軽いもののけっこう力強い団体だけに2楽章、終楽章はがちゃがちゃの喧騒になってしまい、アンサンブルというより合奏曲の様相を呈してくる。しかしこの作曲家が弦楽器による室内合奏曲を余り書かなかったことからわかるとおり、八本が皆、横の音線を主張するようなやり方では(ピチカートが出てくると安心する・・・)正直正解の無い問題に取り組んでいるようなもので、根本から作風を変えるより他無いかなあと思う。まあ、遊びで書いたようなSQ14+15番=Oct.なので、こんなものか。金属的というか硬質で現代的な鋭い音が、音程感をはっきりとさせ救いになっているので○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:弦楽八重奏曲,○ブダペスト四重奏団(COLUMBIA)ミヨーの自伝にこの録音についての記述がある。ここでブダペストQは相当困難なことをやってのけた。これは14、15番のカルテットを同時に演奏することにより成り立つ八重奏曲で、ミヨーの筆のすさびというか、バッハやモーツァルトの遊びの精神を持ち込んだというか、とにかくはっきり言って音が重なりすぎて律動しか聞こえてこないという珍曲である。ミヨーによるとブダペストQはとりあえず14番を演奏・録音したあと、全員がヘッドフォンをして、14番の録音を聴きながら15番をあわせていったのだそうである。結果できあがったこの録音は、確かに前述の欠点はあれど、まさか同じ楽団が録音を聴きながら重ね録りしたとは思えない出来なのである。音色はまったく調和し不自然さはない。そう聴かされなければまず気がつかないだろう。残念ながら曲は不発だが、ブダペストQに敬意を表して○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:交響曲第10番,○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(cpo)CD,,全集盤の一枚。よく整理された分析的な演奏で、透明感や細部の仕掛けの聞き易さに一長がある。美しい反面勢いに欠け(もっとも三楽章は素晴らしく愉悦的)、ミヨー自身が強調していたメロディを始めとする曲の聴かせどころが明確でないところや、弦楽器の薄さ(じっさい本数が少ないのだろう)も気になるところだが、全体のバランスがいいので聞きづらいほどではない。戦後ミヨーの職人的なわざが先行し実験性や閃きを失った、もしくは単にオーダーメイドで流して作ったというわけではない、しっかりした理論の範疇において交響曲という分野で4番で確立した自分の堅固な作風を純化していった中でのものであり(ヒンデミットを思わせる明快な対位法がこのようなしっかりした構造的な演奏では非常に生きてくる)、アメリカのアカデミズムにあたえた影響を逆手にとったような響きがいっそう際だっている点はこれがオレゴン州100周年記念作だからというより元々の作風の純化されたものという意味あいの中にあるにすぎない。余りにあっさりした断ち切れるようなフィナーレも元々旧来のロマン派交響曲の御定まりの「形式感」に反意を持っていた証であろう。もっとも単純にこの曲の四楽章の落としどころを失敗しただけかもしれないが。録音秀逸。ミュンシュらやミヨー自身のやっていた流れ重視の主観的な指揮とは違う、繊細な響きと構造の明快さの魅力がある棒だ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:交響曲第10番,○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(CPO)CD,,全集の一部。ほんとに素晴らしいレベルの演奏録音を達成したもので、この曲は他の交響曲に比べて若干録音記録が多いのだが、中でも群を抜いて演奏精度が高く緊張感の漲る記録となっている。1楽章の出だしこそ重いが3楽章のヒンデミット的構造の抉り方といったら巧みでオケも余裕でついていく。弦楽器が素晴らしい。4楽章は若干謎めいた感じもあるものの演奏の力できちっとまとめあげる。オレゴン州百周年委属作(1960)。60年代でこういう楽天的な音楽というのも美しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:交響曲第10番,○フルニエ指揮ヴェルサイユ管弦楽団(ARIES)LP,,恐らくライヴ。引き締まったリズミカルな演奏でミヨー自身の演奏スタイルによく似ている。細部はともかくちゃんと押さえるところ押さえているので楽曲の把握がしやすい。聴き所のスケルツォ的な三楽章などなかなか面白く仕上がっている。四楽章は勢いに流されてしまった感もあり雑然としてやや凡庸だが、ライヴだから仕方ないかと思う。全般「誰かと置き換え可能な演奏」だとは思うが、この曲の数少ない音盤としては価値があるだろう。二楽章などの静謐さの描き方はやや要領を得ない。四楽章の途中でハープ等から出てくる音列技法的な主題は、委属元であるまんま「OREGON」の文字を織り込んだものとミヨー自身が言及している。こういった名前を織り込むやり方は古来特に珍しいものではなく、現在ショスタコーヴィチの専売特許のように見られがちなのは何か変な気がする。フランセもそうだが、わかりやすい楽曲に突然無調的な静謐な音列が導入されると、曲にワサビがきくというか耳に残りやすくなる。この演奏では旋律性と強引な流れがある程度重視されているがゆえに、そこだけに流される凡庸な印象というものが、無調的主題により覆されるというのは逆説的にミヨーの作曲技法の巧さでもある。晩年作では比較的有名であるのは、単に演奏録音機会が多かっただけでもなかろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:交響曲第10番,作曲家指揮チェコ・フィル(multisonic)1960年代live・CD,,分解して聞けばわかりやすく頭の体操的に楽しめる曲なのだが、まあ、曲が悪いと言うべきか指揮技術の問題と言うべきか、かなり崩壊的な演奏である。とくに1楽章は無茶な装飾音が旋律線を崩壊させ、無闇に縦を揃えようとする余り却って各声部がバラバラになってゆくさまが痛々しい。音程が狂うのも仕方ない跳躍的な展開が多くヴァイオリンは特に大変だ。結果としてタテノリなだけの物凄くたどたどしい演奏になっている。装飾音は個々人の表現は綺麗ではあるがまとまらず、また残響の多いホールのせいもあって細部が殆ど聞き取れないのが痛い(クリアなモノラル録音ではある)。ただ、この残響のおかげでなんとなくごまかされて聞けてしまう部分もあると思う、一長一短だろう。リズムのズレだけはごまかしようが無いが。緩徐楽章は心象的で硬質な響きがモダン好きミヨーの感覚未だ新鮮なところを聞かせて印象的である。チェコ・フィルを使ったのは正解(技術的にはアメリカのバリ弾きオケのほうがよかったのだろうが)、金属質で抜けのいい音がすばらしく美しい音風景を形づくっている(部分的にはこの楽章に限らないが)。3楽章になると入れ子的な構造が面白く、まあ殆どヒンデミットなのだが、厳しく叩き付けるような打音で縦を揃えたのがここではきっちりハマってきて耳心地いい。スケルツォ的表現の中に寧ろ安心して聞けるものがある、ミヨーならではの逆転的な感覚だ。4楽章フィナーレではスケルツォと違い横の流れが必要になってきて1楽章同様ぎごちないリズム処理に弾けてない装飾音がひたすらのインテンポに無理やり押し込められていく。その軋みが音程の狂いとなって全体を崩壊させてゆく。フィナーレ前の静寂にヴァイオリンが一生懸命左手で音程を確かめている音が聞こえるが、この無茶な高音多用では全楽章を通してその繰り返しだったのだろう。結局ほんとにわけのわからないクラスター状の音楽のまま断ち切られ終了し拍手と僅かに戸惑いの声が聞かれる。新ウィーン楽派的であったりプロヴァンス民謡的であったりといった(ミヨーにとっての)同時代要素がぎっしり緻密に詰め込まれているがための雑然〜まるでいくつもの美しい原色の絵の具を点描にせずぐちゃっと混ぜ合わせたら灰色の汚い色になってしまったような感じ〜が残念だ。これはしかし、ほんとにちゃんと音楽に仕上げるのは演奏技術的にそうとう大変である。机上論理の産物であることは否定できない。でも、現代なら可能だろう。曲が面白いのは確かで、もっと録音が増えてくると真価が認められるものと思う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:交響曲第11番「ロマンティック」,○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(CPO)CD,,全集の一部。ミヨーもこの頃には依属による作曲が多くなり、最終的に交響曲の名を捨てて「〜のための音楽」という露骨な皮肉な?題名の曲を量産することになるわけだが、これはダラス交響楽団とダラス・パブリックライブラリーの共同依属作品である。当然初録音だが初演はクレツキ。内容はけして過度にロマンティックに寄っているわけではない。アメリカ新ロマン主義に近い表現はあっても複調性による独特の響きと、これは新たな試みの一つとして投入されているようなダンサブルなリズムがミヨーという未だ挑戦的な作曲家の刻印を刻んでいる。もっとも、型にはまった戦後様式、という主として「内容」にかんする評は変わらない。3楽章制をとっている。演奏は立派である。ちょっと硬くて冷たい感もあるが、ジュネーブで亡くなったミヨーが目指したものに近いところがきっと、この演奏にはあらわれている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:交響曲第12番「田舎風」,○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(CPO)CD,,全集の一部。カリフォルニア大デイヴィス校農業科の依属により作曲されたものだが、パストラルから始まる短い4曲にもかかわらず、昔の小交響曲にみられた牧歌的雰囲気は薄く、わりとラジカルな印象をあたえる。複調性のミヨーというイメージにとらわれない新鮮な書法もあらわれる。演奏は過不足ない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:交響曲第1番,アラン・フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(cpo)CD,,パキパキした発音で明晰な構造とリズムを打ち出してくる、抽象性の高い演奏で、客観的に整えたようなスタイルではあるが、終楽章などなかなか暖かな情趣を醸し出し、対位法を効果的に使って「踏み外さないミヨー」の抽象音楽における名作であることを直感させてくれる。クライマックスを除きやや音量の起伏が少ないが、構造を聴かせる趣向なのだろう。晦渋な楽章をそうと感じさせず楽しく聴かせるのも腕か。プロヴァンスの牧歌的交響曲といえばこれを聴くべし的な曲です。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:交響曲第1番,ストコフスキ指揮NBC交響楽団(GUILD)1943/3/21NY初演LIVE・CD,,突然、異常なハイスピードで始まりびっくり。そしてそのままのインテンポで明瞭なリズムを刻み、いつものストコらしさも無い直球勝負。この牧歌的な曲を何故に。。響きよりメロディだけで突き進んでいく感が強く、しかも全楽章、最後までこの調子で突進していくのだ。つまりはトスカニーニ流儀を意識し過ぎているのである。だれずに集中力を維持し続けている点聞きづらさはないが、この曲を知っている向きはのけぞること必至なこのテンポ。ノイズキャンセルがしっかりなされていて音は悪くない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:交響曲第1番(1939),○作曲家指揮 CBSso(コロンビア・ブロードキャスティング・シンフォニー交響楽団)(columbia,cascaville他)・CD このプロヴァンスの作曲家は膨大な数の作品を残しているし、20世紀音楽史上にも名を残した人物であるにもかかわらず、その音楽はマニアとプロ以外には殆ど知られていないのではないでしょうか。CDにしてもフランス6人組時代の喜遊的な表題音楽が、「ジャズの影響」「ラテンのリズム」と称して出る程度。弦楽四重奏曲など純音楽指向の曲もたくさんあるので、もっと聞かれて欲しい、と思います。交響曲については、小交響曲と題されたミニアチュールが集中的に書かれた後、円熟期より本格的に取り組まれたもので、晩年まで15曲位(?)作曲されました。分かりやすさという点では、1桁番号のもののほうが良く、番号が若いほどみずみずしい感性が溢れた才気溢れる歌を聴くことができます。1番は冒頭のフルートソロから古雅な雰囲気を漂わせ、春の陽のように美しい曲想は小交響曲1番によく似ています。旋律の流れを時折不協和音が横切るところは好悪別れると思いますが、私などはエリック・サティの思想の昇華といった好意的な聞き方をしてしまいます。各楽章に共通する楽想はなく、全体に組曲風ですが、総じてある種の心象風景を描写したようでもあり、RVWの田園交響曲に共通する思考の発露すら見出してしまいます(出てきたものは全く違いますが)。新古典的といいながらはっきりとした古典回帰はなく、「空想の古典主義者」といった趣であります。終楽章は対位的な構造を用いながらも独特の複雑なハーモニーを乗せて、祭典の気分を盛り上げています。LP時代にはミヨー自身の指揮のものがありました。4番8番の組み合わせでエラートから出ているCDもお勧めです。他3、10番と小交響曲が2組までは確認していますが、他にも振っているかもしれません。(註:1番自作自演盤は2003年CD復刻した),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:交響曲第2番,"",○ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI)1953/11・CD,,かつて日本では協奏曲の伴奏指揮者としてのみ知られる知る人ぞ知る存在であったが、比較的多数の録音を残したモノラル期の名匠であり、EMIの復刻は再評価への恰好の指標となるものである。ドイツ偏重のこの国にもこれら復刻によってフランスやラテン諸国の十字軍指揮者への評価が一過性のものではなしに定着すればいいのだが。,,手堅いながらも非常に計算された演奏で、散漫でアイヴズ的カオスを呼びがちなミヨーの音楽に一本筋を通している。複調性によるフレーズも聞きやすい響きに整理され、繊細で牧歌的な色彩を強めている。2楽章あたりの硬質で烈しい楽想もオネゲルふうに緊密に仕立てられ飽きや理解不能といった事態を避けることに成功している。リズムにみられる南米ふうのズラしは余り強調されないが、このスタイルにはそれが正解だろう。半音階的な奇妙な旋律も奇妙と感じさせないまっとうさに○つけときます。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----
ミヨー:交響曲第2番,ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI)モノラル,,ミヨーというと複調性(多調性)の代名詞。あまりに多用するところも含めて一般人の許容できる範囲は一歩越えていると思う。この曲でも重層的に異なる調性が存在する箇所が多い。新古典主義に立ちながらも構造的に入り組んだところは少なく、オルガン的に単純に響き続けるため、ダイレクトに好悪をわかつ。慣れてしまえばミヨーの個性として許容できるが、こういうところは「現代音楽に慣れる訓練」に近い。そういっておきながらこれはかなり穏健な方。牧歌的な主題が支配的であり、晦渋さはほとんど現れないから、入門的な位置づけに置ける。「ミヨーの牧歌」は洗練された民謡というか、ヴァイオリンの高音がきらめきプロヴァンスの陽光を思わせるとても人好きするものである。,,ツィピーヌは一部で人気がある。私にはぱっとしない印象がある。同時代音楽ばかり録音したので、繊細な響きや構造が聴き取れないと問題にならないとすれば、ほとんどがモノラルなこの人には不利ではある(デゾルミエールにも言える)。あるいは伴奏が多く日陰のイメージもあるか。この録音は骨董音源をフランスEMIが集成したシリーズに復刻されているが、同シリーズの多くと同じく余りいい音ではない。開放的なミヨーにとって、このような「閉塞的な音」はとりわけ不利でもある。どうかもっといい音で聴いてほしい。,,ミヨーの交響曲は数は多いが円熟期以降に書かれたもので1番からしてほぼ組曲であり、この曲も5楽章制で構成的に盛り上げが考えられていないというか、終わり方もばつっと切れるだけ。まとまりという面では4番など一部を除きあまりうまくはない。ただ、自著でも述べていたように大事にしていた「メロディ」という点では満点。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
ミヨー:交響曲第3番「テ・デウム」,ロジェストヴェンスキー指揮ロシア国立交響カペッラ(OLYMPIA)1993/4LIVE 現役盤(CD)としては自作自演盤があるのみだと思う。神秘を孕んだ2楽章がいい。1楽章はどことなく野暮ったく、ミヨーの欠点とも言うべきぶよぶよな面が強調されてしまった感があるが、緩徐楽章における合唱の教会音楽的効果が印象的だった。オケがコレなので、どうにも今一つノれないのだが(たぶん演奏者たちもあまり乗り気ではない)、この楽章だけは別、です。3楽章パストラレ、あまりに南仏の雰囲気が「無い」ためがっくり。もっと暖かく、もっと軽やかな音楽のはず。妙にハマっている木管が唯一救いであった。終楽章もまあ原曲がコレなので(さっきからこればっかりや)、無難にこなした、といったふう。才人ロジェストヴェンスキーもわざわざこんな曲を持ってくるとは恐れ入った。このひとのフランスものは悪くないので期待はしたのだが、ライヴではこれが限界なのだろう。無印。オケ名は国立交響楽団と国立室内合唱団の総称とのこと。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:交響曲第4番,アドラー指揮VSO(SPA/forgottenrecords)1954,,フランス二月革命百周年委属作で、ミヨーの大交響曲としては最高傑作として良いのではないか。古典的には自作自演しかなかった同曲にこのセッション録音が復刻された意味は大きく、ウィーンのチャールズ・アドラー(アメリカ人)の現代音楽LPレーベルSPAより一度きりしか発売されず、frはそれを単に板起こししたにすぎないとしても、手に入りやすい形となったわけで、貴重な記録としてもっと聞かれて良い録音だと思う。合唱を取り入れたり迷走した後のミヨーの以降委託交響曲(ほとんどの大交響曲は委託によるもので後期は交響曲の名すら外してしまう)のフォーマットとなった作品でもある。型式的にはいずれも完全に四楽章制の古風な佇まいを堅持し管弦楽のみによる。一楽章は行進曲風の進行の中に革命歌の旋律を取り入れ、そこに複調性をうまく融合させたものとして極めて取り付きやすい。4つの楽章には「蜂起」「共和国の犠牲者たちへ」「自由の回復の静かな喜び」「1948年の記念」という表題がつき、その通りの内容であるうえ、交響曲としての形式にもぴたりと当てはまり、内容を意識しなくともカタルシスの得やすい全曲構成。マーラー最後の弟子アドラーの指揮はそれほど強い印象を与えはしないが、癖のあるオケを使いながら純度の高い音でローカル色を排し、このいかにもフランス的な交響曲を戦闘的に、偉大に、力強く聞かせにかかっており、キッパリしすぎた終わり方でありながらも、しっかり大曲を聴いた感をのこす。モノラルなのは惜しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:交響曲第4番,フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(CPO)CD,,新しい録音は珍しいミヨーの大交響曲なのでこの全集は貴重。革命歌等に彩られた派手で聴きやすい一楽章、四楽章を持つだけにミヨーの大交響曲でも一番に推せる曲、自然に聴こえるよう精緻に整えられた複調性の響きや絡み合う構造的なリズムは入門編としても完全である。交響曲におけるミヨーが牧歌の延長ではなくしっかり西欧的な交響曲をフランスの現代作曲家として四楽章制で書ける人だった、その才人ぶりを知るにも好都合の一枚だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:交響曲第5番,フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(cpo)CD,,ミヨーの交響曲でも30分超えはこれくらいではないか。この前後は長い交響曲が多いが群を抜いている。しかし内容は同じ。ただでさえ連綿と続く同じような調子、騒がしさの音楽なので、構成への配慮が感じられず、構造や部分部分の創意で楽しめないと聴いていられない。一番のような牧歌だけの交響曲ではなくより深く、複雑な交響曲らしい交響曲になっているのは四番とくらべてもあきらかで、メロディもあまりわかりやすいものではなく工夫は重ねられている。それが逆効果になって、断ち切れるフィナーレまで、四楽章のおのおのの性格の違いは明確だが、おのおのの中はごちゃごちゃした同じ調子にきこえてしまうのだ。まだフランシスとバーゼルだから明晰で耐えられるのだと思う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:交響曲第6番,○プラッソン指揮トゥールーズ市立管弦楽団(DG)1992/10・CD,,有名な録音で出た当初は決定版の趣すらあった。ミヨーの「田園」である。まあ、これまでもミヨーは田園ふうの大交響曲(少なくとも楽章)はいくつも書いてきているわけで、これだけを田園と呼ぶのは相応しくないかもしれないが、古典的な4楽章制でありながら、気まぐれな楽想がただ管弦楽だけにより綿々と綴られていくさまは自然の移りゆく様を彷彿とさせ、牧歌性をはっきりと示している。いきなりミヨー特有のヴァイオリンの超高音の煌くところから筆舌に尽くしがたい美観を魅せ、ヒンデミットに近い管楽器の用法には古雅な音色が宿り、いつもの「踏み外したミヨー」は殆ど姿を見せない。構造的にも円熟したものがあるがそれは余り重要ではなく、素直に聴いて、プロヴァンスの大地にひろがる広大な畑のビジョンを受け取り、ウッスラ感傷をおぼえる、それだけの曲なのである。それ以上もそれ以下も必要ない。プラッソンはゆったりとしたテンポで、繊細な音の綾を紡いでいく。ミュンシュとは対極の「印象派的な」表現である。晦渋な主題にも余り暗さが感じられない。終楽章もミヨー的なあっさりした断裂は無く自然に終焉するように盛り上げられる。オケは上手い。というか、曲をよくわかって、それにあう表現をとっている。解釈がやや茫洋としているため交響曲というより組曲であるという印象がとくに強くなってしまっていて、そこに違和感がなくはなかったので○にするが、本格的なミヨー入門としては相応しい出来だ。,-----,,,,,,,,,,,,,
ミヨー:交響曲第6番,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(WHRA)1955/10/8LIVE・CD,,ミュンシュはオネゲルばかり振っていたわけではなく、ルーセルとともにミヨーも好んで演っていたと言われる。ミヨーは構造的にオネゲルより緩く聞きづらさもあるように思われるかもしれないが、決してアマチュアリスティックだからではなく、先鋭な響きや複雑な運動性を大胆な持論で実現しようとしていたからこそ、座りの悪さや聞きづらさ、疎密の粗さを感じさせる部分が混ざるだけである。保守的な態度を示した交響曲など平易な趣旨の作品では、おおむねそつのなさが美しくあらわれ楽しく収束する。ミュンシュは意外と勢いだけでやっているわけではなく、フランスの作品ではスコアにあらわれる響きの繊細な交感をとらえ、演奏上適切に整理して提示する。ラヴェルくらいになると整理できない複雑さがあるため強引な処理がみられることがあるけれども、精密さにそこまで重きが置かれていないミヨーでは、無造作なポリトナリティを絶妙のバランスで調え、これはしっかりかかれているポリリズムはしっかりなおかつ弾むような明快さをもって表現し、ミヨーの「難点」に滑らかな解釈を加えている。この曲は田園ふうの雰囲気が支配的で聴きやすいので、ひときわ演奏効果があがっている。緩徐楽章にはくすんだミヨーらしい重い楽想が横溢しているが、さほど長くないことと、これは少し適性の問題かもしれないが、北の内陸のほうの曲をやるときのミュンシュのようながっちりした構築性が、ミヨーの意図を直接汲めているかように板についている。最後の壮麗な盛り上がりはミヨーの交響曲録音ではなかなか無い感情的な表現でききもの。ただ録音は悪い。せっかくプロヴァンス的な旋律から始まる一楽章も、無造作に始まりデリカシーなくきこえる(録音のせいだけでもないか)。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:交響曲第6番,メスター指揮ルイスヴィル管弦楽団(FIRST EDITION)1974/11/12・LP,,不思議な魅力をもった曲でいつものミヨー節(物凄い高音でトリッキーなリズムの旋律をきざむ弦と低く斉唱するブラスといったかんじ)ではなく中欧的であり、もろヒンデミットふうでもある。ミヨーはシェーンベルクに惹かれていた時期があり弦楽四重奏曲にはかなり影響を受けた硬質な作品も残されているが、その部分がとくにこのような「どっちつかずの団体」によって演奏されると浮き立ってくる。フランス人がやったらこんな演奏にはならないしドイツ人だったらまた違うだろう。非常に工夫の凝らされた曲なのだが、演奏、いかんせん下手だ。合奏がなってないし、流れも悪い。盤数をこなすように録音していた指揮者・団体のようで、これは同年の半年前くらいになくなったミヨーを偲んだものと思われるが、アマチュアっぽさは否めない。指揮者も同様である。印はつけられません。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:交響曲第7番,○プラッソン指揮トゥールーズ市立管弦楽団(DG)1992/10・CD,,掴みが完璧なミヨーの傑作。この並びの交響曲群は初期の不格好な前衛性や末期に表題的に交響曲名称を避けただけの才気が職人的技法に凌駕される頃と比べても、構成はややワンパターンだが聴きやすい。演奏も透明でミヨーを邪魔しない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:交響曲第7番,○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(cpo)CD,,ミヨーの人好きするほうの交響曲といえる。晦渋な部分は殆どなく、新古典にたった合奏協奏曲的な音楽は緻密で胸のすくような聞き応えがあり、自在な旋律が複雑なリズム構造をまじえ魅力をはなっている。ミヨーの旋律はときどき失敗するがこの曲の旋律は素晴らしい。形式に縛られたような構成感は好悪あるかもしれないが、普通の人には面白いだろう。オケは個性はちょっと弱いかもしれないが透明感ある響きと技巧レベルは十分。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:合唱交響曲「地には平和を」,ピータース(Ca)キリコ(B)作曲家指揮ORTF他(ina配信)1967/11/8live(11/30放送),,「交響曲」と銘打ってはいるが他の作曲家の作品同様、長大な合唱曲に過ぎない。ミヨーの個性はほとんど立ってこず、沈痛な雰囲気も中途半端で、第二次世界大戦の犠牲者に捧げるためにしつらえられた無難な音楽として聴ける。どうにもつかみどころがなく、盛り上がりも設計もなく、歌詞がわからないのでそれ以上の感想を述べることができない。ミヨーコレクター向き。一般には不要。拍手はしっかり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:四季のコンチェルティーノ(1934/1950-53),○作曲家指揮ラムルーO、ゴールドベルク他(PHILIPS)CD化 「春」だけはゴールドベルクの記念盤CDでミヨー指揮オランダ室内o伴奏の演奏がきけます(後註:全曲盤もCD化しました(2003年))。ゴールドベルクの硬質の音がミヨーの生暖かい音響をすっきりとまとめて、春の未だ霜のおりる朝の情景のように、ひんやりとしていても陽の温もりを感じることの出来る清浄な印象を与えます。ミヨーの紹介版として格好の曲です。ジャズ風のフレーズも明るくきれいに決まり、キラキラ流れて実に格好良い。他の季節も各々独奏楽器を立てたコンチェルティーノになっていますが、それらはやや時代が下りミヨーが複雑化していったころの作品であるため,耳ざわりのよさでは「春」と比べようがありません。このLPは当初モノラルで発売されましたが、国内ではステレオで出ました。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:四行詩の組曲,○マドレーヌ・ミヨー(語)作曲家指揮ランパル、モンタイユ他(Ades/everest),,これはアスペン・セレナーデと弦楽七重奏曲とともに録音されたもので、それらは別の組み合わせでACCORDよりCD化されている。ミヨー特有の、各声部の独立した音線(それぞれは美しいラテンふうの旋律を持つ)のおりなすポリトナリティが無調感を醸す曲だが、楽器数を絞っているのと典雅な木管楽器とハープを中心とした響きで統一しているため聞きづらい部分は少ないほうである。ミヨー夫人の語りはいつもの調子。何か比較対象がないので評しづらいし曲的にも小規模なので、○ということにしておく。奏者はいずれも一流どころではある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:秋op.115〜U.アルファマ,ロン(P)(columbia/cascavelle)1935/5/10・CD,,ミヨーは季節を題名とした作品を複数ジャンルに書いているが、春を扱うものが多くピアノ曲でも春だけで二集の曲集を書いている。言うまでもなくエクサンプロヴァンスのユダヤ人集落に生まれた出自から楽天的でこだわらない性格により、牧歌的作品を量産したわけで、しかしこの録音の三年前に作曲された時期はけして体調的にも思わしい状況にいたわけでもなく、牧歌風のフレーズも、らしくない沢山の音で飾られている。これは三曲からなる小品集の中間にあたり、さほど個性を発揮せず新しい工夫のないかわり、華々しい効果を与えるピースとなっている。ロンはタッチをヴィルトーゾ風に変え、もっともヴィルトーゾのやる曲ほどの音数は無いのだが、この曲はこうやるのだと言わんばかりに弾ききっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:秋のコンチェルティーノ,ゴールド&フィッツデール(P)アンサンブル(columbia/sony)1953/1・CD,,弦楽と木管のかもすくすんだ寂しげな秋の幕開けから、ピアノの意外と躍動的な音線が収穫祭の喧騒に聴くものを誘う。ピアノ協奏曲の中間楽章と終楽章を合わせたような曲で、末尾にまた寂しげな枯れ落ちるメロディがとつとつと世界を閉じていくところまで、量産家ミヨーの作曲の腕前に感服する。ラヴェルが嫉妬(?)するわけだ。ことなる4つの楽器のための四季、というまとまりではなく、寄せ集めなのであり、対比的に聴くと明らかに「春」が突出しているがこれも作曲時期が違うからで、このように一曲ずつ楽しむべきものだろう。フランスの楽団がやると、あるいはシェフがさばくとこの曲は木管にひなびた味わいがこと更に加えられフランスの田舎風の響きによって「いつものミヨー節ね」となってしまう。この演奏は木管が音色的に主張しないから本来のあるべき冷えた響きが浮き彫りにされ、サティふうに捻った旋律線の味わいがよく伝わる。けして正面からいかない、スタイルは違うがヒンデミットの作品のように二十世紀的な「崩し」を敢えて入れている。地味だが、個人的にはおすすめ。しかしこの曲に二人のソリストはいるのか問題(単に書法上の都合だろうけど)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:春,"",○ギドン・クレーメル(Vn)エレーナ・クレーメル(P)(PHILIPS)1980版・CD,,非常に美しい小品で「ミヨー臭さ」のない交響曲第1番第一楽章をもっと薄めたような感じ。確か何かの自作からの引用だと思うが忘れた。ミヨーには春と名のつく曲は他にもあり、有名なところではピアノ小品集の中の組曲「春」、一番有名と思われる「春のコンチェルティーノ」がある。ミヨーの南欧的な暑苦しさは多少硬質な音で薄めないと重すぎる。シゲティがこの曲を録音していたり、ゴールドベルグがコンチェルティーノを録音していたり、これは現代曲専門演奏家だからという以上の意味があると思う。プロヴァンス風の暖かく軽やかな曲想の魅力が複調性的な音の重なりによって損なわれている場合も多くあり、そこにユダヤ系作曲家としての個性が発露していると解釈することもできようが、「このメロディにそれはもったいない・・・」と思うところも多い。その点この数分程度の曲だけなら、余裕で楽しめると思う。クレーメルの音も適している。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ミヨー:春,◯マルツィ(Vn)アントニエッティ(P)(CD)1951/10/31・CD,,ミヨーに春という曲は数曲あり、この作曲家がいかに春を愛していたかわかる。マルツィのヴァイオリンがいやはや懐かしく、思い出の田園風景を描ききっている。短い曲だが機会があればどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:春,○フェヴリエ(P)(EMI)CD ファンタジーに溢れた美麗な演奏で、起伏が比較的明瞭につけられており場面によってはちょっと主張が強すぎる感もあるが、録音の綺麗さとあいまって曲の煌く光彩のような魅力を引き出しまくっている。ちょっとした指の細かい動きのセンスにさすがのものを感じる。ここを譜面通りのテンポで弾いてしまっても面白くない。地味で自作自演でも面白味の感じられなかった2楽章、ここではサティの舟歌ふうのテンポどりが巧く、ああ、そういう曲だったのか、と合点。3曲めは地味。4曲めはなかなか派手で煌びやか、これはフェヴリエよく解釈しきっている。この人こんなに指が廻ったっけ?5、6曲めは落ち着いていっておわり。自作自演では1、2、4曲めが選ばれているがやはりその楽章がいちばん聴き映えがする。フェヴリエの技がよく顕れたセンスある演奏で、ミヨーのピアノ曲の包蔵する叙情的な魅力をよく引き出しているといえよう。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:春 〜第一組曲 OP.25-1,作曲家(P)(SACEM他)1930/1/13・CD かなり古い音のため演奏を楽しむというより曲を楽しむので精一杯といった感じだが、純粋なピアノ曲としては最も有名な作品で、合計5分に満たない3曲からなる組曲だが、春の気配に満ちた可愛らしい作品である。牧歌的な表現を得意としていたミヨーの作品中でも無邪気なほどに牧歌的で花畑と蝶くらいしか想起できるイメージが無い。2楽章がやや暗いがあっというまに終わるので気にならない。小交響曲群と共通する世界なので、あの雰囲気が好きなかたには向くだろう。録音が悪いので無印にしておくが、ミヨーのピアノはイマジネイティブでかなりウマイので演奏面では万全であると付け加えておく。6曲中の1、2、4曲めのみ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:春のコンチェルティーノ,カウフマン(Vn)作曲家指揮ORTF(M&A)1949/10パリ・CD,,エクス・アン・プロヴァンスの作曲家の面目躍如。この曲の自作自演はカウフマンのほかにアストリュックとゴールドベルクのものがあり、やっぱりゴールドベルクのものが録音も演奏もばつぐんです。データ上2つあるようなかんじだけどオケ名表記が異なるだけで同じかと(PHILIPS音源)。春ということで。,,"https://youtu.be/PchDbybg5Os",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ミヨー:序奏とアレグロ(原曲クープラン),○ゴルシュマン指揮セント・ルイス交響楽団(cascavelle/RCA)1941・CD,,隠れたフランスもの指揮者として知られるセントルイス響の名シェフ、ゴルシュマンの依頼によりアメリカ到着間も無いミヨーが管弦楽に編じたクープランのサルタネスからの二つの抜粋。まったく古典的な書法で、アレグロに関してはやや分厚く、ブラスによりゴージャスな響きを加えているが、ミヨーらしい油っぽさや近代的美質は皆無といっていい。いずれにせよ後年は名教師としても知られたミヨーの名技のみが投入された作品といえるだろう。オークランドで二日で書き上げられた。演奏は嫌味が無くしっかりしたもの。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:序奏とアレグロ(原曲クープラン),○ミトロプーロス指揮ミネアポリス交響楽団(nickson)CD,,立派な演奏でびっくり。純粋に古典的な解釈ではないが、前近代的な揺れまくりの解釈ではなく、しっかり骨組みを組んだ演奏になっている。同曲の意外な名演。古いので雑音注意。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:序奏とアレグロ(原曲クープラン),○モントゥ指揮ORTF(M&A)1958/11/9live・CD,,原曲がそうなのだが表現が重い。まるで「青少年のための管弦楽入門」のような大仰さがあるが、少し戦争を思わせる物悲しさも感じられる。モントゥは立派に重々しく演奏している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:小交響曲第1、2、3、5番,○作曲家指揮ミュージカル・マスターピース室内楽団(MMS他),,ひさびさなのでまたエントリしてみた。頒布盤で出ていたモノラル録音でCDになったことがあったような気がする。楽団名は臨時のもの。わりとクリアな音で迫真味がある録音。楽団は緊密でみな力がある。いかにもフランスのアンサンブルの音を、牧歌的な曲想の発露のなかで愉快に楽しめる。曇った響きの曲も愉快。後年のステレオ録音全集よりミヨー自身の指揮もアグレッシブで前のめりなテンポだ。抜粋だが価値はある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:小交響曲第1〜5番,○ロジェストヴェンスキー指揮レニングラード・フィルのメンバー(MELODIYA/WESTMINSTER),,恐らくCD化されている。合唱入りの6番を除く五曲が収録。同曲の早い時期の録音であり古い人には馴染みのある盤だろう。一番いきなりのゆったりスローテンポでびっくり。しかしさすがオケが違う、指揮者の粗さや激しさが抑制され非常に繊細なアンサンブルが聴く者を引き付ける。極めて美しく、しかし空疎さがなく、暖かい。ミヨー特有の重層的な響きも美観を損ねないように精密に解釈されている。◎に近い○!,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:小交響曲第3番,○ゲール指揮プーネット、ピニ、ケル、ドレイパー&エスクデール(DIVINE ART他)1936・CD,,なぜこの中途半端な番号だけやったのかわからない。たまたまタイミングとSPへの収録の都合だったのだろう。わりとぱっとしない曲だが、演奏もぱっとしない。総じて地味だが、悪いというほどでもない。面子はいいのだけど。○。同盤は寄せ集めで、後半のwestminster録音(スウォボダ、バドゥラ・スコダ)は別CDにも収録されている。LPでは単独。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:小交響曲第4番,○ルーカス・フォス指揮ジンブラー・シンフォニエッタ(TURNABOUT/UNICORN)LP,,弦楽合奏によるミニアチュールだが、さすがジンブラー・シンフォニエッタ、冒頭から気合いと精度の尋常じゃないさまを聴かせる。ミヨーの曲ではこのレベルの演奏はなかなかないから一曲だけとはいえ貴重だ。昨今の精度だけ高い古楽合奏みたいな穴にも落ちず、前時代的といえばそうだが、堅苦しくなく楽しいレベルの精度で張り切った演奏をしてくれている。ポリトナルな場面ではいささかバランスの悪い響きで耳ざわりの悪いところもあるが難しいところか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:人生の喜び(ワトーを讃えて),○作曲家指揮ロスアンゼルス室内アンサンブル(DECCA他),,小交響曲のような古雅で牧歌的な曲。ただ優しい音楽というだけではなく小規模アンサンブル的な面白さがあり、ゆったりした流れの上で新鮮に楽しめる。平易な曲ではあるが技術に穴のない奏者陣によってしっかり明瞭に進められていく。ミヨーには珍しく前衛の影がなく、かといって無邪気なだけでもなく、しっかり新古典を意識した作りになっているからわりと飽きない曲。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:世界の創造,○ミュンシュ指揮?(DA:CD-R)1961LIVE,,ミュンシュは基本的に4拍子の人でリズム系の楽曲には向いていない。しかし楽曲を自分のほうに引き寄せ直線的にとりまとめて換骨奪胎するのが無茶うまいので、このシンフォニックジャズふうのバレエ曲もアメリカ楽団の表現力の助けを借りておおいに楽しませてくれる。メロディの多いガーシュイン、といったていでパリの異国趣味を露骨に示した曲、それを異国の側から見事にハスッパにやってのけた。楽しいです。ミヨーじゃないけど。,-----,,,,,,,,,,,,,
ミヨー:戦没者への頌歌(オード),作曲家指揮ORTF(ina配信)1966/9/15放送,,同曲の録音が別日で配信されているが別のものと思われる。印象はそちらと同じで、録音状態はやや籠もって良くはなく、指揮ぶりも地味で(曲の性格上あたりまえだが)、ただ晩期ミヨーに特徴的な、マンネリな構成要素が最後に向かってしっかり盛り上がるように用いられ、演奏も盛り上がりを作り上げ、客席反応も穏やかに普通のものとなっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:戦没者への頌歌(オード),作曲家指揮ORTF(ina配信)1967/11/8live(11/30放送),,ミヨーはオードと呼ばれる作品をいくつか書いているが、これは第二次世界大戦戦没者のための二作品のコンサートの後半に演奏されたもの。純器楽作品であり17分4秒という中編である。もちろん日寄った後の職人的な作風によるが、頌歌のわりに牧歌的な(懐古的な)フレーズも交え比較的起伏に富み、自身の交響曲を思わせる。ミヨーの指揮はまあまあうまくやっている。終わり方がまるでアイヴズ2番で、いきなり不協和音で断ち切れて客席も戸惑い気味の拍手だが、ブーイングは出ない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:組曲「パリ」,○イヴァルディ、ノエル・リー、ベロフ、コラール(P)(ANGEL他)CD,,確かBRILLIANTの廉価箱にも入っている音源で、FRENCH BROADCASTING PROGRAMの放送録音は恐らく同じ音源を用いていると思われる。若々しく溌剌とした表現が明るくもニュアンスに富んだ佳作の魅力をよく引き出している。音の数からいって二人でもいいのではないか?とも思わせるけれど、サティの流れをくむ隠れたピアノ作曲の名手ミヨーの作品として楽しめた。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:組曲「鐘」,マルコ指揮シカゴ交響楽団(sls)1946/4/26,,ロジェストヴェンスキーが交響曲第3番と共に初録音(「ブラジルの思い出」併録というデータがあったが誤り)したとされた曲の、それより前の恐らくライヴ。ポーの詩に依るが全くミヨー風の牧歌。ルーズなマルコが出てしまってこれが往年のロシア流か。録音難あり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:打楽器と小管弦楽団のための協奏曲,○グラビンゲル(perc)ストコフスキ指揮南西ドイツ放送交響楽団(SCC:CD-R/M&A)1955/5/15放送live・CD,,ミヨーは「音楽はメロディだ」と言い切ったことがあるそうだが、この曲など冒頭から南米旋律全開でビラロボのソッチ寄りのわかりやすい曲を想起する。スカラムーシュあたりが好きな向きにはいいが、男とその欲望あたりが好きな向きには歯ごたえがやわこい感じもしなくはないだろう。私は後者で、散文的な構成にも曲の短さにも何か安易に流れたように感じる。ストコフスキは攻撃的な前のめりのテンポですこぶるキレがよい音楽を提示している。録音状態は余りよくはない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:男とその欲望,○作曲家指揮BBC交響楽団他(BBC,IMP)1970'放送LIVE?・CD BBCの放送録音。非常にクリアで明晰な録音である。余りに音がいいためなんだか堅苦しい感じもあるが、かなり完成度が高い演奏と言っていいだろう。音はBBCだけあって冷たく硬質であり、曲構造が物凄くよく浮き立って聞こえる。レントゲンをあてたような演奏で、客観性が勝り熱気や本能的な舞踊を行うための音楽としてはいささか薄い。この曲を分析的に聞きたいかたにはとても向いている。改めてこれを聞くと、どういう曲なのかをよく理解できる。小交響曲の気分をもった序奏部から、リオのカーニバルのような笛やサイレンが鳴り2拍3連的なリズムの交錯ががしゃがしゃ五月蝿いシンバルに彩られる南米的な感興に包まれた主部にうつり、その気分のうちに華やかに終わるのが筋だが、この演奏では序奏があまりにクリアで美しくまた複調性が硝子の砕けるような響きそのままで耳を攻撃してくるのがちょっとうざい。その次に俄かに南米的音楽が盛り上がるが、音響的には完璧なのにどことなく空々しくイマイチ乗れない。綺麗すぎるのだ。BBCは現代曲に馴れすぎてミヨーの尖鋭さを叙情性以上に引き出してしまっているようにも感じる。ライヴでこの精度というのも凄いし、演奏レベルを鑑みると○より下は付けられないが、終わり方もなんだか謎を残すような感じで今一つ締まらない。これとデゾルミエール・アンサンブルの録音を足して二で割ると丁度いいのに。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:男とその欲望,○作曲家指揮ロジェ・デゾルミエール・アンサンブル(SACEM他)1948/6/21・CD 自作自演にはVOXの新しいものも有るのでこれがどの程度価値を持つものなのか評価は分かれよう。ただ、作曲時の息遣いを感じさせる一種の生生しさがあるのは事実。古い演奏家の艶めいた表現様式のせいもあるだろう。曲はミヨーの代表作の一つと言ってもいいとても演奏効果の高いもので、原始主義的な嬌声と打楽器主義的なオケ・アンサンブルのかもす雰囲気は、ジョリヴェより簡潔でストラヴィンスキーより人好きするものだ。この曲の裏に南米体験があるのは言わずもがなで、旋律性は失われない。旋律の重要性はミヨーが著書で力説していたものだが、ここには確かに旋律が有る。後半では第一室内交響曲の終楽章と同じ楽天的なメロディが使われていことも親しみやすさを増す元になっている。暑苦しくはなく、乾いた都会的な雰囲気もあり、ミヨーの欠点である音響の徒な肥大も殆ど無い。最初から最後まで太鼓の音にのせて気分良く聞いていられる楽曲です。近いといえばストラヴィンスキーの「結婚」が近いか。演奏は古く聞きづらいが十分楽しめる力がある。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ミヨー:地中海風序曲,○プラッソン指揮トゥールーズ市立管弦楽団(DG)1992/10・CD,,交響曲の1楽章みたいな曲で続きが無いのが腑に落ちない感じ。プラッソンはとても聴きやすい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:田園幻想曲,○アンダーセン夫人(P)スターンバーグ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(OCEANIC)LP・初演者初録音,,10分程度のプーランクふうの散文詩だが、ミヨーの職人的なピアノ協奏曲にみられる硬質の響きと機械的な律動が後半目立ってきて、興味深いところもある。美しい六人組的楽想がピアノのとつとつとしたソロに沿うように展開されていき、穏やかだが思索的で、演奏もミヨーらしさを殊更に強調するわけではなく、抽象的にすすめている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:二つのスケッチ,○デュフレーヌ(FL)ORTF木管五重奏団(EMI)1953・CD,,二曲ともミヨーの牧歌として典型的な作風を示している。構造的には簡素だが響きは六人組の仲間と共通する一種の「気分」を示した少し陰のあるものが織り交ざり(とくに後者)、ピアノ曲ではあるが「家庭のミューズ」を想起するものの、木管アンサンブルという点では小交響曲などのいくつかに近似していると言ったほうが適切だろう。典雅さや幻想味より素朴で無邪気な雰囲気を押し出した作品ではあり、サティの分裂的な作風に似たところもあるが、それは俊敏に入れ替わる変則的なリズムや少々オリエンタルでジョリヴェの日寄った室内楽作品を想起する旋律線によるかもしれない。それらが南米由来なのかプロヴァンス由来なのかどうなのかなどわからないくらいに、ここでは「ならされて」演奏されており、過度に激しくならず、落ち着いた美観が保たれている。録音が少々弱い。古びていて、ちょっと技術的にも色褪せているように感じるところもある。技巧的な断片を織り交ぜるミヨー節が活かされた演奏かというと、ちょっと足りない気もする。デュフレーヌはとくに強調されない。基本的にはアンサンブル曲でありソロ曲ではない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:二つの行進曲OP.260〜T.思い出に(パール・ハーバーの日の),○作曲家指揮コロンビア放送(CBS)交響楽団(CASCAVELLE/COLUMBIA)1947/1/8NY・CD,,なんだか派手なブラスの響きでヒンデミットの戦後作品を彷彿とさせる感じで始まる、行進曲というより挽歌。基本的に分厚いミヨーの響きだが、リズムは単純で踏みしめるように進む暗いながらもどこか楽天性も無くはない音楽だ。だいたい主題が主題なので(戦後すぐ、1945/9/23-30 の作品)ひとしきり重厚に歌ったあとは静かにレクイエム的終結を迎えるのだが、ここはとても美しい。全編通して戦後作品らしく前衛性の微塵もない曲で、戦前の牧歌性も無く、後期ミヨーの典型的作風の発露といえる。演奏は手慣れている感じだが短くてよくわからない。カスカヴェッレはラヴェルやミヨーなどの貴重な歴史的録音を2年位前から続々と出してきていたがいずれも非常に高価なうえ大部分は再発なので今一つヒットしていない(それでも15分くらいのために買う私みたいなのもいるわけで)。まったく歴史的録音を所持していなくて、これからフランスを中心に集めようという向きにはお勧めではある。ANDANTEも似たような位置づけにあるが、あちらのほうはちょっと信用できないところがあるので言及は避けておく。ちなみにラヴェルやストラヴィンスキー集は殆ど他のCDの再発。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー:漫遊者組曲,○作曲家指揮ロスアンゼルス室内アンサンブル(DECCA他),,五人組時代・南米時代の作風によるもので終始曇り無い暖かでわかりやすい曲想や楽天的なリズムにつらぬかれている。録音もクリアで、アメリカの管楽器のいい意味でニュートラルな音がさらなる聞き易さとなっている。一昔前のアメリカのテレビドラマ音楽によくきかれた音色でもあり、溌剌として空は春陽に晴れ渡る曲とマッチして懐かしさすら醸される。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ミヨー他:創世記組曲,○エドワード・アーノルド(ナレーション)ヤンッセン指揮ロスアンゼルス・ヤンッセン交響楽団、ウッドワース指揮ボストン交響楽団(ARTIST RECORDS/PASC)1945/12/11、ナレのみ1946/6・SP,,PRISTINE配信CD化可。大戦末期ヨーロッパよりアメリカ西海岸に避難または移住していた名だたる作曲家たちに恐らく委属され編まれる「プロジェクト」として知られる。往年のキャピトル録音やRCA録音、最近の発掘スコアによる考証版録音の他に、じつはこのような作曲直後の録音(ツギハギだが)があったというのはおどろきだ。作曲家たちは全く統一感なくそれぞれの作風で貫き通しており、旧約を読み上げるナレに惑わされず音楽を聴けば言い当てることは容易だ。ミヨーの作品が聴きやすい。タンスマンも入りやすい。後半テデスコからトッホ、ストラヴィンスキー、シェーンベルクと一気に前衛化しシルクレットなどホルスト的な映画音楽ライクな音楽を軌道修正している。録音は悪い。資料価値で○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ムソルグスキー(リムスキー・コルサコフ編):はげ山の一夜,○ゴーベール指揮パリ音楽院管弦楽団(COLUMBIA)1929・SP,,色彩的でリズムの明瞭ななかなか迫力のある演奏。純管弦楽的な表現で、描写音楽にしては抽象度が高い。ベートーヴェン的ですらありベルリオーズ的でもある。ロシア国民楽派のルーツとしてのリストを感じさせるのは編曲のせいか、現行版より西欧的なパセージが特徴的。聴く価値ある演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ムソルグスキー:はげ山の一夜(リムスキー・コルサコフ編),○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(GUILD他)1943-48live・CD,,既出盤と同じだろう。音源自体が一つしかないのかもしれない。重量感のあるガツンガツンという音、力強い推進力に魅力がある。レアリスティックで夜明け後のフルートなど非常に明瞭に美しく歌い上げている。歌謡的でもありリズミックでもあり、血がそうさせるのだろうな、と思わせる説得力のある熱演。録音が悪いので○にとどめておくが。こんな「はげ山」をびしっと決められる指揮者はそうそういない。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ムソルグスキー:はげ山の一夜(リムスキー・コルサコフ編),ユルゲン・ワルター指揮ハンブルグ・プロムジカ交響楽団(MUSIQUE POUR TOUS)LP,,正直物足りない。もっと激しさが欲しいのだ。リムスキーの音楽には派手さが必要であり、ムソルグスキーの音楽には邪が必要である。そのどちらもない。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ムソルグスキー:はげ山の一夜(原典版),○コリン・デイヴィス指揮王立歌劇場管弦楽団(DA:CD-R)1973/9/6live,,最もロシア国民楽派的にして最も急進的なオペラ作曲家ムソルグスキー。リムスキーの手による整理をへない姿は一長一短。ロシア臭を臆面もなく振りまく、全体設計のはっきりしないまるでオペラかバレエ音楽かといった長々しい常套的表現がグリエールあたりまでのロシアの伝統の中のものとしか捉えられない半面、随所に見出される非常に先鋭な音感覚、まさにラヴェルらフランス派に影響を与えたような和声的天才性が剥き出しになっており、現代の耳をもってしても驚くべき効果をあたえているように感じられる。麻薬かアルコールの力を借りたとしか思えない、無造作に配置されているのではなく必然性をもって劇的音楽の要所要所を締めている。デイヴィスの指揮は熱があり、オケも激しい。音はイギリスなりの透明感を持っているが、歌劇場オケであるからこその原曲の劇性が際立っているとも言えるか。なかなかの演奏。録音も明瞭なステレオ。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,"(参考)しょうじき安いです。
ムソルグスキー:展覧会の絵、はげ山の一夜 ボロディン:中央アジアの草原にて(CCCD)
オムニバス(クラシック)
エイベックス・クラシックス

このアイテムの詳細を見る
他にアバドのDG版など。",-----,,,-----,,,-----,
ムソルグスキー:歌劇「ホヴァンシチーナ」,ハイキン指揮キーロフ管弦楽団、合唱団他(AURA)1946 CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ムソルグスキー:歌劇「ホヴァンシチーナ」〜序曲,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MULTISONIC)1983,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ムソルグスキー:歌劇「ホヴァンシチーナ」序曲,ハラバラ指揮チェコ・フィル他(SUPRAPHONE)1953,,普通。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ムソルグスキー:交響詩「禿げ山の一夜」(リムスキー・コルサコフ編),○ヴォルフ指揮ラムルー管弦楽団(POLYDOR)SP,,威勢のよいヴォルフ、ラムルー管時代の数多い記録の一つ。細部はめろめろで雑味はあるが、力で強引に引っ張り、速めのテンポをデジタルに揺らしながらイマジネイティブな音風景を紡ぎ出し、ノリよいオケ共々SPなりに楽しめる。まるでリストやグリーグをやっているようだが、媒体柄厚みがないからテンポ設定以外は描写音楽として平坦にも感じ、純音楽的な面もあるがこれは仕方ない。大局的には直線の「ヴォルフ節」なのでアレグロ突進系演奏が苦手な向きには、明るくカラフルな管楽器の饗宴のみを聴けと言っておこう。○。立派。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ムソルグスキー:展覧会の絵(ラヴェル管弦楽編),○ゴロワノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(Arlecchino)1947・CD,,派手だが筋肉質の演奏で頭初こそ乱れはみられるもののこの録音状態では気にならない。やはり放送エアチェックものとちゃんとした録音は時代が旧くても安定感が違う・・・なんてことも思いつつだが、ラヴェル編曲といいつつ自分でどんどん手を入れる世代というのはあって、ゴロワノフなども(ストコのように全部ではないが)ブラス増強パーカス追加なんてバンバンやってしまう感じではあるのだが、ニュートラルに譜面も思い浮かべずに聞くと全く違和感はない。チャイコ寄り(最後などはプロコ晩年的でもあるが)にいじったというか、曲によってはラヴェルのリリシズムをはっきり表現しつつも、きほん「バレエ音楽」として、つまりチャイコのバレエ音楽を意識したような響きの輪郭の明瞭でリズムを強く打ち出すような作りをしており、この曲が拡散的で苦手な私でもその音楽にゴロワノフなりの求心力が注ぎ込まれていることにより最後まで飽きずに聞きとおすことができた(じっさい短いのでは?)。そういえば「クラシックの奥のほそ道」にはまり込む前はよく聞いてたものだが、そのときの遠いイメージを思い出すと、確かに同曲に聞きなれた人には違和感があるかもしれないなーとは思う。だって最後なんて序曲1812年だし。○。三回くらい録れているはずだが手元にはこれとあと有名な最晩年の録音がある。それはまたいずれ。,-----,,,,,,,,,,,,,
ムソルグスキー:展覧会の絵(ラヴェル管弦楽編),レイボヴィッツ指揮ロイヤル・フィル(QUINTESSENCE)〜私はこの曲が苦手。クーセヴィツキー、トスカニーニなどの盤を聞いてきてはいるのだが、のめりこめない。ましてやEL&Pをや。原曲のピアノソロのほうがしっくりくる。表題音楽が苦手ということもあるのだけれども、曲数が多くて一貫した感興を覚えにくいということがあるだろう。そんな私はレイボヴィッツの極度に色彩的な演奏で聴いてみた。で、、、やっぱダメ。更にレイボヴィッツの毒にあてられてしまった。。少しはロシア的な重苦しさが欲しいし、憂いのようなものを感じさせる演奏上の余裕が欲しい。あまり曲を知らないのに評価するのは気が引けるが、とりあえず無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ムソルグスキー:展覧会の絵〜ブイドロ と 卵の殻をつけたひな鳥のバレエ,プロコフィエフ(ピアノロール)(WARNER)1923/1初出〜ロール特有のよたりが気になるが、演奏としてはなかなか。巧い下手という問題ではなく、「解釈する演奏家」としての特質の存在を感じる。作曲家ピアニストはこれだから面白い。とくに後者が面白い。人によっては悲鳴をあげそうなテンポ感ずれまくり演奏ではあるが。ブレイクビートです。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ムソルグスキー:展覧会の絵〜プロムナードと古い城,プロコフィエフ(ピアノロール)(WARNER)1926初出〜いきなりの快速プロムナードに驚く。ダイナミックに揺れる演奏で、最後にはゆっくりになる。古い城はオールドスタイルのロマンティックに揺れる演奏。伴奏の音形がよたったり、旋律の歌わせかたが短いサイクルで変動したりとなんともオールドスタイルで苦笑させられるが、悪くはない。ピアノロールだから本当の所はわからないが、きわめて明瞭なタッチで揺れる音楽を演じており、プロコフィエフという個性がこんな短い中にはからずも顕れている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ムソルグスキー:禿げ山の一夜(リムスキー・コルサコフ編),アンゲルブレシュト指揮ORTF(STEF/ina配信)1965/2/11放送live・CD,,不安定なステレオでボロボロな感じ。そして、これがまたそれなりにやってはいるのだが細部が緩い。引き締めがいまいち、構成もいまいちで、いつもの一歩引いたテンポのスタイルも併せてぱっとしないのだ。木管の一部はフランス流儀の音色も含めそれなりに聴けるが総体としても迫力に欠け、それはオケの未熟さと聴かれかねない。これは正体不明の放送音源を廉価CD化したSTEFレーベルで出ていたもので、ina配信と同じものだろう。データもそちらに準拠した。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ムソルグスキー:禿山の一夜(リムスキー・コルサコフ編),○アンゲルブレシュト指揮ORTF(STEF)CD,,モノラルであるが50年代くらいのものと思われる。これがライヴか放送用録音かは不明だが、ノイズの程度から後者である可能性があると思う。ただ音像が安定せず最初はやや聴きづらい。オーソドックスな演奏で、拡散的ゆえに色彩的なリムスキーの書法(によるムソルグスキー作品編曲)の欠点をただ演奏の求心力で剛速球にするのではなく、ある程度拡散性を持たせたままにすることで派手さと立体的な書法の面白みを際立たせている。多少はラフであるが。わりと軽い、フランス伝統の禿山と言うべきかもしれない。フランス人に禿が多いと言っているわけではない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ムソルグスキー:禿山の一夜(リムスキー・コルサコフ編),○エリアスベルク指揮レニングラード管弦楽団(USSR)SP,,やや細い鄙びた音ながら若々しく進む。奇をてらうことなくインテンポで進んでいく。曲のせいでもあるのだが、やや飽きるか。夜明けの沈潜するような響きは印象的。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ムソルグスキー:禿山の一夜(リムスキー・コルサコフ編),○ロヴィツキ指揮ワルシャワ・フィル(LYS他)1960-67・CD,,民族的な荒々しさを感じさせるリアルな演奏だが技術的な弱さもなくしっかりした縦の揃った音楽となっている。この人のつねとしてここでは夜明けの弱奏部に憂いがなく魅力がないが、悪魔や魔女の乱舞する前半部は独壇場。なかなか凄絶。録音は左右の分離のきつい古いステレオだが不足はない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ムソルグスキー:禿山の一夜(リムスキー・コルサコフ編),アンゲルブレシュト指揮ORTF(Lanne:CD-R他)1950年代,,擬似ステレオで聴くような奇妙な歪みとぎくしゃく感がある。聴いたことのないたぐいの演奏だ。この指揮者特有の空疎な響きがフランス風の禿山といういささか想像に難い音楽を生んでおり、それは起伏もはっきりしない冷徹な平準を保ちながら、色彩的だが色彩変化に乏しい音を点点とつなぎ夜明け前にすでに明るい。これは変だ。LP板起こしとのこと。クリアな録音だが歪みがやや聞き辛い。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ムソルグスキー:禿山の一夜(リムスキー・コルサコフ編),デルヴォ指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI)CD,,デルヴォーに期待される派手さはない。揺れない。実直で、オケ、とくに木管の美質をさらっと引き出した演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ムソルグスキー:禿山の一夜(リムスキー・コルサコフ編),テンシュテット指揮LPO(EMI)1990/5/10・CD,,大人しくて詰まらない。ドイツ流、というか情を排した構築的な音作りはいいが、カロリーが低い。中庸のオケ云々いう以前に、引いた態度で全般に落ち着いている。テンシュテットはいわゆる原典版の録音も残しているが、相手がベルリン・フィルだったとしてもこの解釈で気を煽られたいなら「大音量で聴くこと」だけだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ムソルグスキー:禿山の一夜(リムスキー・コルサコフ編曲),○ハラバラ指揮チェコ・フィル他(SUPRAPHONE)1953,,原曲は尚更なのだがワルプルギスの夜が去り朝日が照りつけるまで、メリハリが無くロンドのように繰り返すだけの楽想を如何に魅力的に聴かせるか、結局スピードとテンションで乗り切るしかないとなるとあとは演奏精度か元々の演奏家たちの個性で聴かせるしかない。この演奏は同LP盤中ではちょっと普通かな、という気がした。もちろんこの指揮者なりの勢いがあるが、オケが割とニュートラル。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ムソルグスキー:禿山の一夜〜リムスキー=コルサコフ編,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団&放送合唱団(MELODIYA/CDK他)1974・CDなかなかあざとい演奏で子供だましスレスレのところをいっているが、これは好き好きだろう。私は凄く納得して聴けた。まさにリムスキーの煌びやかな響きになっている。描写音楽の系譜に明瞭な足跡をしるしたリムスキーならではの派手さが、スヴェトラーノフのやかましい音作りと非常によくマッチしている。まあ、そんなところにムソルグスキーは不在なわけだが、これはこれでいいと思う。夜明け後の異様に遅いテンポはかなり個性的だ。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ムソルグスキー:禿山の一夜〜リムスキー=コルサコフ編,ゴロワノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(Arlecchino)1947・CDこれは吹奏楽か。ブラスがとにかくやかましい。本数がどう考えても多すぎる。一方弦は録音が悪い事も有りかなりつぶれてしまっている。つぶれていてもブラスがやかましいからなんとかなっているが、どう聞いても力技以外の何物でもない。極端なテンポ変化や表情付けはこの演奏が他の誰でもないゴロワノフの演奏であることを伝える。夜明け後のヴァイオリンの旋律がまるでソリストのような歌い方なのが印象的だった。ロシアの指揮の根本に「歌」があることに今更ながら気付かされる。あと、たぶんゴロワノフの編曲も入っている。少なくとも流れに違和感がある。うーん、録音がよければ○をつけてもいいのだが・・・無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ムソルグスキー:禿山の一夜〜リムスキー=コルサコフ編,ロジンスキ指揮ロイヤル・フィル(WESTMINSTER,WHITEHALL)ちょっと曲がロジンスキ向きでなかったか。ロジンスキの守備範囲からすると割合と古い方(ベートーヴェンなんかは除く)の作品であり、簡潔に過ぎるというか、あまりにあからさまな演奏であり、お化け屋敷の楽屋裏まで丸見えな状態だ。オケは己の技を持て余してしまっている。鄙びた録音はいっそう曲の田舎臭さを引き出してしまっており、アマオケの演奏だったら超巧いと言ってもいいだろうが、プロのものとしてはちょっと音色が褪せすぎている。ワルプルギスの夜というより花やしきのお化け小屋だ。だから朝が来てもちっともコントラストが感じられない。トスカニーニ張りの弦楽器のテンションにはちょっと萌える←また使ってみた。長さのある音の表現が潔くていい。全般として無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ムソルグスキー:禿山の一夜〜レイボヴィッツ編,○レイボヴィッツ指揮ロイヤル・フィル(QUINTESSENCE)〜参考記録として○ひとつをつけておいた。こんなハチャメチャな禿山もないだろう。ムソルグスキーの原形がないのはリムスキー版で既にそうだから仕方有るまい。問題はそのリムスキー版の編曲をさらにレイボヴィッツ自身が行っているところである。指揮者としてはそのエキセントリックな解釈で知られるが、それ以上に新ウィーン楽派やラヴェルの研鑚を受けたフランスの作曲家として知られるところにある人だ。とりわけ表現主義的といおうか、強奏部にブラスや打楽器を追加したり意味もなく派手珍妙なダイナミクスをつけたりして、独特の緩急の激しいクラクラするような音世界を繰り広げる。最後に夜明けがきたと思ったらいきなりワルプルギスの夜のテーマが回想されて仰天。その夜明けも過剰と言うほどに長々と歌い継がれ、違和感しきり。とにかく面白いのでお勧めだが、マジメな方や初心者の方は避けるべきである。原曲が聞けなくなる。CDでたぶん何種類か出ている。比較的鮮やかなステレオ録音なのでその面での不安は無い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
メイトス:写実的組曲第二番〜ドニエプル川の水力発電所,ユリウス・エールリッヒ指揮パリ交響楽団(COLUMBIA)SP,,モソロフの鉄工場裏に入っているものでモソロフより数倍抽象化された静かな点景。鋭敏な耳で楽しめる、音数の少ない音楽で、どこが何の目的で作らせた曲だろうが何だろうが、この作曲家が水力発電所の描写として題した以上に適度に現代的な、アメリカの白孔雀などとは隔絶した鋭い曲である。楽器数すくないし演奏はこんなものかというところ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
メシアン:「鳥のカタログ」〜9.ヨーロッパウグイス,○ロリオ(P)(FRENCH BROADCASTING SYSTEM)LP,,古いモノラルでエラートのものと同一かどうか不明。感傷的な音を響かせる「フランス的な」ピアノ曲、といったふうの印象をあたえ、書法の確からしさと演奏の確実さを上回る何かを感じさせるが、なにぶんこの曲だけでは如何とも評しがたいところもある。「異国の鳥たち」との併録。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
メシアン:ヴァイオリンとピアノのための主題と変奏,○ボナルディ(Vn)ビリエ(P)(ARION,CBS),,誤解されているみたいだけれども、このブログは本体サイトの付随品であり、更に本体サイトの母体はネットが普及していなかったころ書き留めたりどこかに出したりしたものを抜粋しまとめたものである。ネットに出ているものだけにしても、すべてに目を通したと思えないことをときどきコメントされたりするが、またもうひとつ誤解があると思うのだけど、書いているものと聴いているものはまったく一致しない。完全に聴くほうがメインであり、たまたま書いていない、もしくは敢えて書かないものも多いのだ(なかなか安易に書くのが難しい古典や現代作品に多いです。だいたい他のジャンルの音楽を聴いていることがかなり多いです。一日で寝ている以外の時間はほとんど音楽聴いてますので)。エントリが多いからといって書くために聴くようなことは当然していない。むしろ誰からも強制されず、自分がそのとき聴きたいものを聴くことが第一である。たまたま左手があいていれば携帯で感想を打って置く。だから、聴きたいものを聴いて書くという流れで、必然的に量が多くなるということだ。だいたい、ずっと前、もしくは最近でも左手があいていなかったときに一度聴いているものを改めて聴いたときに衝動的にメモるようなことが多いので、これはたぶん5年前くらいのエントリに書いたと思うけど、一度流しただけで書いてしまうことはそうそう無い。文章上の面白みでそう書いていることもある。ネットは逐語的に解釈する向きが多い困ったメディアだが、きほん文字メディアは行間や裏を読まないと意味が無い。面倒を避けるため、びみょうな相手をくさすようなことは余り書かないが、注意深く読めばどこかに隠喩がみつかると思います。さて、この曲はあまり録音がないけれどもメシアンとしてはかなり聴き易いシンプルな曲である。硬質だが半音階的なゆらぎがなまめかしさを秘めた主題もいい。独自の語法が詰め込みすぎずに、弾くほうとしても弾き易く反映されているのでとても面白い。短い曲でオリエンタリズムを強烈に打ち出し熱情的な盛り上がりを構築するのにはやや丈が足りないのが難しいといえば難しい。この演奏も比較的地味に聴けてしまう。呪術的な旋律も浮き立ってこないし、あの極楽鳥のけたたましさや噎せ返る雰囲気が音の中からどうも余り感じ取れない。しかし余り録音がないだけに貴重ではある。○。さて、このエントリは三日前と昨日、計4回聞いてから、今日は聞かずその残った印象だけで書いてますな。いろんな書き方をしてますよ。ウェブ・ログですから。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
メシアン:トゥーランガリラ交響曲,◎イヴォンヌ・ロリオ(p)ジャンヌ・ロリオ(OM)ロザンタール指揮ORTF(ina)1959/1/20live,,ハデハデな演奏でバンスタの初演もここまではドガシャーンしなかったろうという具合。殆どロックコンサートのようなノリでオンドマルトノがシンセのようだ。気を煽る演奏を求めるなら是非!聴衆反応も良い。ロザンタールには他にもメシアンの放送録音がある(french bro)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
メシアン:トゥーランガリラ交響曲,○シャイー指揮RCO、ティボーテ(P)原田節(OM)(LONDON)1992/3/16-19・CD,,響きを抑制した緊密な演奏で、曲の華やかで外向的な面よりメカニカルで精密な構造を浮き彫りにしようとした演奏のように聞こえる。禁欲的なやり方はロスバウト同様興をそぐ面もあり、最初はアンサンブルの精緻さとそれを細部までしっかり聴かせる録音の素晴らしさに耳を奪われるが、曲の文学的な側面がちっとも入ってこないため、慣れれば単調な書法に飽きてくる。演奏陣に不足はなく渋い名演なのだが、どこか醒めた冷たい感じもした。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
メシアン:トゥーランガリラ交響曲,Y.ロリオ(P)G.マルトノ(OM)デゾルミエール指揮フランス国立放送管弦楽団(INA)1950/7/25エクス・アン・プロヴァンス音楽祭live(ヨーロッパ初演)・CD,,この曲は最低ステレオ録音じゃないと無理だ。理想はライヴでかつ音場のバランスのよい良席である。とても音盤におさまりきる音楽ではない。むしろおさまらないところが全てである。シンプルな骨子のみ掬い取ろうとするとお粗末なものに聞こえてしまう。そういう単純思考の音楽ではないのだ。前衛専科デゾのいつものとおりの「解釈しない」そっけない棒に諸所妙な力みが入り、ハルサイのリズムやミヨーの音響のように聞こえてしまうのが更によくない。もっと透明感ある繊細な音楽なのに、これではヒンデミット指向の古臭い音楽にきこえてしまう。ロリオのピアノなどこれぞ!と思わせる非常に力のある表現だが、オンド・マルトノの音色がまったく捉えきれてなかったり録音の問題が大きすぎて(後半にあきらかな断裂が聞かれるし撚れの酷い部分もある)この曲をよく知っている人でなければ愉しむまではいかないだろう。音量変化がまったく捉えられないのが非常に残念。演奏中喋り声が聞こえたり終演後ブーイングがさまざまに飛ぶのは別に珍しくも無いししょうがないとも思うし・・・これは歴史的記録ではあるが、デゾファンかメシアンファン以外には不要だと思う。無印。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",-----,,,,,,,,,,,
メシアン:トゥーランガリラ交響曲,ナガノ指揮BPO他(warner/erato他)CD,,誇大妄想的にならず緊密で、しかしロスバウトのように地味にもならずしっかり聴かせる演奏。ぶよぶよした演奏だとオンド・マルトノが縦横無尽にみよーんみよーんするのが南国的で気持ち悪い面もあるが、オケのせいもあってか抽象度の高さの中にその位置づけを明確に意識させており管楽の一部として機能している。さほど新しい録音ではなく、オケも派手派手にはならないため長尺ゆえ飽きる可能性もあるが、機能性という部分で一長あることは確か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
メシアン:トゥーランガリラ交響曲〜リハーサル,◯バーンスタイン指揮ボストン交響楽団(WHRA)1949/11/28live・CD,,6分余りの記録はボストン交響楽団記念盤で出たことがあるが、この嗄れたナレーションで始まる26分余りの長尺は初出かと思う。恐らく新しい放送音源(晩年の本人のナレーション)からのものだと思う。難しい曲であることが伺えるが叙情的でしつこくない官能性が美しく印象的。いっぽう打楽器やピアノのポリリズム的な絡みが特徴的なアクセントを加えている様子が一層強調されていて、対比が一種乖離的にも感じられ、アイヴズの曲のような重層性を感じさせる。注意深い指示も注目される。5楽章が入っていて驚くが余りに重くて尖さが無い。もっと鋭く軽やかさを感じさせるくらいの響きが欲しい楽章だが、初演者記録として貴重か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
メシアン:トゥーランガリラ交響曲〜リハーサル風景,バーンスタイン指揮ボストン交響楽団(BSO)1949/11/28LIVE うわー、ロマンティック!愛欲の表現に長けた若きバーンスタイン。繊細な表情はまるで印象派音楽のように優しい。だが、バンスタの指示は苛烈だ。要所要所指示を叫びながら、楽団を引っ張っていく力は凄い。かなり短いので楽曲を味わうことはできないが、初演者の演奏記録の断片としてそれなりに価値はあるだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
メシアン:トゥーランガリラ交響曲抜粋,○ケーゲル指揮ドレスデン・フィル(MORGAN'S:CD-R)1987/10/1live,,もうどの楽章のどことかちゃんと調べるのめんどくさいのでまたいつか。だって・・・これのために買ったのに5分35秒しか入ってないんですよ・・・しかもけっこう綺麗な水際立った音で、安定感はあるが鋭いエッジの立った表現はロスバウトに華やかさをあたえたような拡散的というか、風の通るすがすがしい音表現を実現している。この複雑怪奇なのにわかりやすいという困った曲にはこういったさばき方は正解。美しいです。○。ちなみにカップリングの第九4楽章、22分55秒です。なんだこりゃ。20年前のCDか。モーガンズはでも良心的とされている海賊盤レーベル(会員制頒布盤と書いたほうがいい?)なんだよなあ。有名音源でCD化されないものの板起こしとか重宝してる人もいるだろうし。ケーゲルのガーシュインとか。ケーゲルばっかりやないけ!ちなみに第九はちょっとまぬけな感・・・あと自粛。,-----,,,,,,,,,,,,,
メシアン:ハラウィ〜愛と死の歌,○ブンレ(SP)作曲家(P)(INA)1954/9/13LIVE この曲を聞きながら私はジョリヴェの「デルフィ」あたりの音楽を思い出していた。インカの伝説に基づくという、エキゾチシズムの横溢した、でもとてもメシアンらしい走句の散りばめられた曲である。そういう着想自体がジョリヴェを彷彿とさせた。歌曲としてはドビュッシーよりラヴェルに接近している。「マダガスカル島民の歌」の唐突な叫びがもたらした鮮烈な印象を思い起こす場面がいくつかある。プリミティブな歌唱が面白い。長い曲だけれども、飽きさせない仕掛けに満ちた楽曲だ。メシアンはとりたててピアノが巧いわけではないのだが、雰囲気の有る演奏をしていて印象深い。○ひとつ。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
メシアン:異国の鳥たち,○ロリオ(P)フロマン指揮ORTFのメンバー(FRENCH BROADCASTING SYSTEM)LP,,FBRO楽団と表記されているが経緯的にORTFであろう。ロリオ専売特許のようなメシアンのピアノ協奏曲である(この曲に限らないが)。ロリオにはいくつかの録音があり、音質的にもこの古い録音を取り上げる意味はそれほどないが、楽団の演奏精度は高く、その精度に囚われすぎない活き活きとしたアンサンブルを聴くことができるため特記しておく。ロリオも闊達なところをみせており、純フランス的演奏というか、音の色合いの美しさは南国のどぎつさを醸すことなく聴き易い。起承転結のややわかりにくい起伏の無い録音ではあるが楽しめはする。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
メシアン:異国の鳥たち,○ロリオ(P)ロスバウト指揮南西ドイツ放送交響楽団(SWF),,これはすさまじく色彩的な音楽であり、律せられた部分はただその形骸しか聞き取ることはできず、放埓な多色の散らばりをただ奔流として「右から左へ受け流す」のが正しい聞き方のような気がしてくる。トゥランガリラあたりと似た部分もあるので、ガムラン的な色合いを求める向きにはうってつけの曲だが、この演奏はじつに「メシアンの音楽をメシアンのように」表現しているという点でロスバウドのバトンテクの確かさに背筋が伸びるとともに、やはりロリオのピアニズムが管弦楽の色彩と不可分に混ざり合いリズムとも音色ともつかぬ「何らかの放埓なもの」を表現してやまないところが聴き物だ。メシアンの熱帯幻想を聴くとまるで税官吏ルソーの暗示的な夢を覗いたような背徳の気分になる。熱心なカトリック信者であったメシアンの音楽はその独創性において宗教的に批判もされたが、ここにきかれる鳥たちのザワメキは発情期のそれと解釈されても仕方のないものである・・・ロスバウト&バーデンバーデン放送響はたくみに匂い抜きをしているから、もっとどぎつい色を欲しがる向きもいるかもしれないが。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
メシアン:四つのリズムの練習曲,◯ロリオ(P)(erato)1968/1・CD,,三楽章までは抽象度が高く、たしかに練習曲としてかかれたものであり、メシアンらしさのようなものは余り楽しめない。四楽章でアレグロ部に入ってやっと楽しめる。アイヴズのような取っ付きづらさはあるが、瞑想的な雰囲気は好きな向きにはアピールするだろう。ロリオは原曲に表情付けをほどこし取っ付きやすくしてくれる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
メシアン:昇天(アセンション〜4つの交響的瞑想),○ストコフスキ指揮ニューヨーク・フィル(CALA)1949/2/21,3/21 ロンドン響のライヴを持っているのだが不良品で聞けなかった(泣)でもNYPのほうが断然いいというご意見があったので、ムリヤリにでもこっちを愛聴することにする。それにしてもメシアンは現代作家の中では親しみやすいものの、やはり現代的手法を駆使する人で、ひびきの独特の色彩、美しさ、豊穣さは西欧音楽史上でも比類無いほどの存在であることは認められるものの、わけがわからないところも多分に含んだ晦渋な面をもつ人だと思っていた。しかし、この演奏、非常に入り易いのである。寧ろ別の人、メシアン直前あたりの世代の人の作品に似通った雰囲気を持ち、部分的には思いっきり調性音楽(か無調)的であったりする。20代のころの古い作品だという単純な理由もあるのかもしれないが、それでも「メシアン」の萌芽はハーモニーにくっきり現われている。ちょっと控えめだが色彩感があり、思い切り派手に演奏しようと思ったらできそうな感じだ。このストコフスキ・ニューヨーク盤は録音に限界があるので豊穣な音塊をバーンとかますまでは行かないが、黒地に赤や黄や青の切り紙をちりばめたと言ったら良いのか、あるいはこのジャケットデザインの黒地に色とりどりの文字を並べた感じ、そんな印象をもった。メシアンの独特の宗教観の反映された、多分に世俗的な雰囲気を持つ楽曲、生ぬるい感じが嫌なかたは透明感の有る最近の録音を聴くべきだろうけれども、私はこれはこれで楽しめた。まあ、名曲とはおもわないが、佳作である。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
メシアン:昇天(アセンション〜4つの交響的瞑想),○ストコフスキ指揮ロンドン交響楽団、合唱団(M&A)ロイヤル・フェスティバル・ホール1970/6/18live,,冒頭より強いペットがやや外し気味なのが気になるが、まるでメシアンじゃないようにすら聞こえるロマンティックな演奏。限られた音からなる音線は確かにメシアンなのだが、取り出し方というか強調の仕方がどこかアメリカっぽい。というかコープランドのスカスカな音響に似ている。アイヴズの第二組曲(DA盤の評価として別項で既に記述;M&Aのほうが格段に音がいいステレオ)といっしょにやったようだが、内容的統一性に興味はないようである。従って宗教的意味もない。キリストの昇天というよりアメリカ・アカデミズムの手法によるメシアンの再構築だろう。白孔雀の音風景とか、なんとなくそのへんを思わせる清新さが、録音がいいから気持ちいいのだが、ちょっとメシアンというには違う気がする。2楽章の特徴的なタラリラリというフレーズはオネゲルの交響曲を思わせる響きがある。トゥーランガリラをこの人がやっていたら面白かったろうな。色彩的には独自の鮮やかなものを持っているから、素晴らしいものが生まれたろうにと3楽章なんかきくと思う。しかしどこがアサンションなんだ。神秘主義ではあるが、どっちかというとツェムリンスキーの抒情交響曲なんかの音世界だ。生々しくて強すぎる、音楽が。1楽章などオルガン的でさほど印象に残らないが、このへんになってくるとけたたましい弦と常套的な動きをみせる管楽器の絡み合いに独自の構造があらわれて面白い。神々の遊びといったかんじだが、メシアンてカトリックだよね。少なくともこんな重低音で派手に世俗的に交響曲(のスケルツォ)してしまってもいいのだろうか。オリエンタリズムは完全に横の音線にしかあらわれず、音楽自体はまったくアメリカ・アカデミズムぽく表現されている。ストコ、これでいいのか?で、レントの終楽章は美しく昇天してほしい・・・しかし重い響きだなあ・・・バランスがドイツ・ロマン派なんですけど・・・しかし、弦楽合奏の扱いはいつもながら感心する。巧い。きっぱり切り落とされた終結部の思索性に辛うじてメシアンの前衛性が残っている。力強く神の国に昇天してったんだね。まあ、○にしときます。神秘主義というならこのあとにやったアイヴズの「われら祖先へのエレジー」のほうが金属打楽器と怜悧芳醇な音響のかもす雰囲気がよほど神秘的なんですが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
メシアン:神の降臨のための三つの小典礼,○ヴァント指揮バイエルン放送交響楽団&合唱団、ヴィルツ(P)カヴァイユス(オンド・マルトノ)(Profil、Hanssler、BR)1966/1/21・CD,,旋法的な部分とオンド・マルトノを取り除けばユニゾンが多くリズムも結構単純で一時期のストラヴィンスキーやオルフに似た音楽になるメシアンの宗教曲だが、逆に言えば最初の二要素だけで十分メシアンたりうる個性をはなっている。ヴァントはメシアンの世俗性を昇華させるのにはうってつけだったのだなあと思った。ストラヴィンスキーにも適性を示す「ナイフを持った指揮者」なので宗教性や神秘性に逃げず音楽を中宇でしっかり描きあげている。感動的な終幕においては壮麗なロマンチシズムを歌い上げ、またマルトノの異様な電子音を吹奏楽器として音色処理しているのがしっくりくる。これはなかなか。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
メシアン:神の降臨のための三つの小典礼,デゾルミエール指揮パリ音楽院管弦楽団、イヴォンヌ・ロリオ(p)、ジヌ・マルトノ(o.m.)1945(動画配信),,デゾルミエールは戦中戦後のこの時期に盛んに同時代音楽を録音していた。復刻は少ないが。。メシアンがこの時期に録音されたのは非常に珍しいことである。デゾルミエールはミュンシュ同様、戦中芸術活動にてレジスタンス運動を先導したことでも知られている。,,lysレーヴェルにて1998年CD化(先述),, ・・・のはずだがこのYouTube音声、録音時間がかなり違う。カットの仕方か、余白の取り方か。レコードは回転数のブレがあるので、データ上はこの曲のこの組み合わせのこの年の録音は1つしかないはずで、同じ音源ではあるのだろう。おそらく原盤となる78回転盤(SP)が別の版ではなかろうか。,,"https://youtu.be/D2e5mPHnZ9o",音声のみ,-----,,,-----,,,-----
メシアン:神の降臨のための三つの小典礼,ロリオ、デゾルミエール指揮パリ音楽院管弦楽団(lys他)メシアンは大戦前後デゾルミエールの擁護した最も尖鋭な作曲家の一人だが、拡がりがなく立体感も透明感もない録音ではオンド・マルトノも隠れてしまい精妙な個性が失われてしまう。初録音だがあまり推せない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
メシアン:世の終わりのための四重奏曲,○作曲家(P)ジャン・パスキエ(Vn)エティエンヌ・パスキエ(Vc)ヴァセリエ(Cl)(club francais du disque/ACCORD・universal他)1956初出・CD,,自作自演盤は別格として扱われてきた。同じく収容所から生還した初演メンバー、パスキエ三重奏団の二人とともに演奏された歴史的な記録である。一部ステレオとの表記のものもあるがモノラルである。イエスの永遠性、イエスの不死性を表現した同一主題による二曲、チェロもしくはヴァイオリンとピアノという編成だけで歌われる二つの歌の哀しみと美しさは筆舌に尽くし難い。最後のヴァイオリンのどこまでも昇ってゆく旋律表現の、揺れ動く美しさは静かな慟哭をもって心を打つ。これは音楽としてではなく、文字通りの「生き証人」としての鎮魂と祈りの、掠れるような想いである。だから技術的にどうこうとかいう次元ではない、技術なんてどうでもよかった状況での楽曲なのだ(もちろんどこであろうが一流のプロなのだから其の時代での残された気力体力の範疇で最高の演奏をしたとは想うが)。絶望的な収容所生活でありあわせの楽器にあわせて作曲されたこの曲にはまったくその状況とは隔絶した、メシアン自身の宗教性が神秘主義と結びつき自然主義(鳥)を交えた独自の世界を最小限の編成で表現しきっている。この演奏には絶望より希望を感じる。己の主義への力強い信念と、生への祈りが感じられる演奏なのだ(前に書いた感傷的な同一主題による旋律的な二曲にかぎっていえばどうしても昇天を想像させられざるを得ないが)。作風は完全に完成しており、まさかナチ収容所で作曲初演されたとは思えない・・・もっとも楽器編成はそれぞれの楽章の標題にあわせて変化しており多少の無理は感じられるが・・・もので、恐らく戦後に改訂していると想うのだが、まだ10年と少ししかたたない時期に、多少前時代的なロマンティックでアバウトな部分も残しながらも何か使命感をもって録音されたこの盤は、永遠の人間の歴史の遺産として残していくべきものでしょう。技術面で◎にはしない、後年別の団体によるもっと「純粋にコンテンポラリー音楽の演奏として完成度の高い」ものはあるので、そういった団体に賛辞を贈ってもいた作曲家への敬意を表し敢えて○にとどめておく。CDで音は磨き上げられ格段に聴き易くなった。初出クラブ・フランセはほんとに凄い時代の演奏の宝庫である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
メシアン:世の終わりのための四重奏曲,ユゲット・フェルナンデス(Vn)ギイ・デュプル(Cl)ジャック・ネイルス(Vc)マリー=マドレーヌ・プティ(P)(erato/warner)CD,,大人しい。慎ましやかな祈りの音楽で、穏やかに包み上げられている。技巧的にもそつがなく、静か。物足りないと思うかこういう音楽だと思うかは人それぞれだと思う。今はワーナーのボックスにまとめられている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
メシアン:世の終わりのための四重奏曲〜X「イエスの永遠性への賛歌」,◎フランセ(P)ジャンドロン(Vc)(PHILIPS)LP 同曲中2曲あるデュオによる賛歌の最初のほうで終曲「不滅性への賛歌」(Vn)と対をなすが、そちらがオルガン曲の転用であるのに対してこちらは「水の祭典」からの転用曲でもある。独特の散発的な和音による伴奏、独特の旋法的な旋律、前者ピアノ後者チェロによってひたすら歌い上げられる。伴奏と旋律が完璧に別れてしまうところはフォーレと同じなのに何故か単調さを感じないのは伴奏旋律共にメシアンにしか書き得ない独特のものであるところから来ている。個人的にこのフランス・チェロ曲集の白眉。ドビュッシーでも感じたがこの人のハイポジは飛び抜けて巧く、低音から跳躍しても常にはっきりと完璧な音を出せる。しかもハイポジだけで弾いていても全く無理無駄がなく低音で弾いているときとほとんど変わらない歌をうたえる。音が裏返ったりかすれたりすることは全く無い(まあそれはそれで味になるのだが)。この曲も高いポジションのくだりがあるが、ヴァイオリンで言えばシゲティやメニューインのような苦しさがなく、それがかえって救われる。もう決して手の届かないものに、それでも精一杯手を伸ばす。そういった絶望的な憧れを感じさせる曲、演奏だ(そんな意味の曲かどうかはわからないが)。◎。「世の終わり〜」では真ん中にチェロ、最後にヴァイオリンがピアノ伴奏付きでひたすら平易な旋律を歌う楽章が配されていて、前衛的な楽章の中にあって非常に高い効果を挙げている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
メシアン:聖体秘蹟への賛歌,◯ストコフスキ指揮フランクフルト放送交響楽団(SCC:CD-R/M&A)1955/5/31・CD,,派手な曲でこの楽団がやるとブラス斉唱がマーラーのように聴こえてしまうが、ストコフスキーらしい表現でもあろう。メシアンの色彩はそれほど強調されずやや違和感がある。演奏的には速く、ダイナミック。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
メシアン:鳥たちの目覚め,○ロリオ(P)ロスバウト指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送交響楽団(col legno)1953/10/11ドナウエッシンゲン音楽祭初演LIVE・CDどこが鳥なんだか。というよりピアノの明瞭な音で繊細な鳥の声を模倣するのは無理がある。色彩的な管弦楽、とくに打楽器群にはメシアンならではの神秘が宿っており、ただトゥランガリラのような拡散傾向の大曲が削ぎ落とされ凝縮された結果発生したウェーベルン的な哲学の世界は好悪分かつものと思う。朝から昼までの鳥の声を描写したそうで、ロリオと鳥類学者に捧げられている。録音が古くやや不利か。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
メシアン:鳥の小スケッチ,○ロリオ(P)(erato)1987/10・CD,,適度な長さの作品として取り上げられることの多い曲だ。ロリオはメシアンそのものと言っていいのだろう、じつに「そつない」。凡百の作曲家はカッコウくらいでやめておく「鳥の声の採譜」というものを芸術としてやってのけたメシアンは、まるで百科事典のようなきらびやかな曲集を編み上げたものの、しばしば「小鳥というより怪鳥」と揶揄されたように抽象化されないそのまんまの鳥の声を、もともと強靭な楽器であるピアノに常に鋭くハッキリと発音させる。和声的ではなく、ほとんど旋律のていをなさない打楽器的フレーズを不規則に連ね、原譜に比して酷く単調に聴こえる。ロリオは有無を言わせない説得力をもって臨んでいるが、後を継ぐのは難しいだろう。ロマンティックにやろうと思えばやれる要素はある。スクリアビンのようにケレン味たっぷりに解釈すればよい。でも作曲意図からは外れる。。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
メレディス・ウィルソン:交響曲第2番「カリフォルニアの伝道」,コーツ指揮ロス・フィル(放送)初演live・web音源,,チャップリンの映画音楽で有名なウィルソンの表題交響曲。後期ロマン派交響曲の範疇にあり、霊感の薄い印象がある。とくに前半楽章が聴くにたえない。動機が単なる動機のままメロディを形成せず進行する1楽章など掴み感がゼロ、こけおどしのような大きな響きは半世紀前のロシア国民楽派の凡作のようだ。表題性を含め帝政ロシア時代のグリエール、イリヤ・ムーロメッツを彷彿とさせるが、より単純で洗練された響きと動きはラフマニノフ後期を思わせる。後半楽章になると突然民族性があらわになり、チャールストンのリズムなど唐突に聴かれる。オリンピック音楽のような楽しさで多彩な書法にやっと耳を惹かれるようになる。そのままフィナーレは盛り上がりをみせる。コーツは力強くはあるが決して強引さがない。こういう新作は多少の強引さをもって意思的に表現することが肝要なようにも思う。オケは上手い。なかなかバランスのとれた技術を持っている。だが特に弦楽器、譜面で戸惑うような箇所が散見されるのは残念。客席反応もやや控えめに感じた。作曲家を含むスピーチが前後に入る放送録音。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モーツァルト:アイネ・クライネ・ナハトムジーク(弦楽のためのセレナーデ第13番),○イワーノフ指揮モスクワ・フィル・ソロイスツ(selectmedia)1962・CD,,意外としっかりした盤でじつにそつがない。録音もクリア。ソヴィエトってモーツァルト好きな国だったけど、余りに明るくて毒気のないスタンダードさにいささか拍子抜けはした。ギチギチに締め上げるでもなく、中庸。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モーツァルト:セレナーデ第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」〜W,○フリード指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団(arbiter)1927・CD,,ロンドだけの録音で、フリートとは関係の深いベルリン歌劇場オケとのものである。フリートの古典指揮は速くて揺れない。古典は古典としてそういう客観的なやり方をしたのか、SPの録音時間を意識したのかわからないが、厳しい律しぶりが聴いて取れる。音は悪くても演奏は新しい様式なのでなかなか聴ける。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
モーツァルト:フリーメイソンのための葬送音楽,○クレンペラー指揮ハンガリー放送管弦楽団(archiphon:CD-R)1948/11/2ブダペストlive,,重くロマンティックなくぐもりの感じられる演奏ぶりでこの曲を幾度となく演奏してきたクレンペラーの他録と余り違いは感じられない。オケもしめやかに比較的押しは弱いがはっきりした表現で、指揮者に任せているのがわかる。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」序曲,○エネスコ指揮NYP(DA/Lanne:CD-R)1937/1/31live,,テープ録音で冒頭の撚れと異常にやかましい雑音が入るものの、30年代にこのクリアな音は驚異的である。雑音とバーターなのだ結局。エッジの立った音はNYというよりシカゴを思わせる。エネスコが時折煽る音の艶もこの曲では殆ど出てこない。ひたすら鋭いアンサンブルである。立派。○。,,"(参考)エネスコの指揮ものはさすがに通販では見つからなかった(ソヴィエト録音のチャイ4が店頭には廉価で出ている)。エネスコといえば、ということで有無を言わさずこれ。
バッハ:無伴奏ソナタとパルティータ
エネスコ(ジョルジュ)
インディーズ・メーカー

このアイテムの詳細を見る
",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
モーツァルト:交響曲第34番,バルビローリ指揮トリノ放送交響楽団(CETRA)LIVE・LP,,適度に溌剌とし締まった表現で模範的な感じすらする。バルビ独特の伸び縮みが無いのは勿論、ロマン派的な解釈は何一つ認められない。品がいいとすら言える。だがそれゆえか、そもそも曲ゆえか、私は全く惹かれなかった。まったく何も面白いと思わなかった。たぶん凡演。無印。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モーツァルト:交響曲第38番「プラハ」,○ゴルシュマン指揮セント・ルイス交響楽団(RCA)1945・LP,,ロシアの演奏と聴き惑うくらい威勢がいい演奏で表出意欲の強い、大編成オケの迫力がモーツァルトの書法の精妙さを損なう反面、とにかく正しいリズムや響きよりも旋律のうねり、という向きには向いている。今の耳からするとしょうじきモーツァルトとすら認識できないくらい重くロマンティックなのだが、オケの底力も感じられるし、私は楽しめた。録音は悪い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モーツァルト:交響曲第38番「プラハ」,○サモスード指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(KNIGA)LP,,多分知らない人に聞かせたらこれがまさか古いロシアの演奏とは思わないだろう。私も驚いた。サモスードのモーツァルトはこれだけではないが、これほど緊密なアンサンブルを組み立てて正統派の演奏をやってのけられる人とは思わなかった。メリク・パシャーエフを彷彿とする。音楽は実にリズミカルでハツラツとしていて力強さには威厳さえ感じられ、管楽器にしても厳しく律せられいささかもロシアのアバウトな香りがしない。立派に、正統的に吹いている(ロシア奏法はまったく影をひそめているのだ!)。いささかのブレもハメの外しもない。ロシアにありがちな(そしてサモスードにありがちな)弦楽器の音の不自然な強靭さも録音バランスがいいせいか全く耳につかず丁度良く、勢いがありアンサンブルは完璧に噛みあい、聞きやすいし何より胸がすく。モノラルで古いため◎にはできないし、考証派の人にはロマンティックすぎる(これでも!)と思われるかもしれないが「普通の人」は間違いなく名演と感じるだろう。私は後期ロマン派以降の楽曲を専門とし、このての古典派寄りの楽曲ではまずもって感動することはない。しかしこれは何度も何度も聞いた。アレグロ楽章のリズムの良さに何より感動する。素晴らしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モーツァルト:交響曲第39番,テンシュテット指揮ボストン交響楽団(WME:CD-R)1977/7/30live,,さすがに終楽章こそ盛り上がるものの、そこまでの間が余りに緩くスカスカにきこえる。これはテンシュテットの特徴でもある「ドイツ的な構築性」を重んじたフォルムへのこだわりが、オケの内在する前進力と巧く噛みあわないところからきていると思われる。莫大で人工的、かつ録音も悪い。無印。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
モーツァルト:交響曲第40番,○エネスコ指揮NYP(DA/Lanne:CD-R)1937/1/31LIVE,,弦おしなべて硬質な音でアタックがきつくいちいちアクセントでアンサンブルを合わせるような感じで、ひと時代前の弦楽合奏を聞くような感がある。かなり速いが乱れない。録音はじつに雑音まみれ。○にしておくが勧められない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モーツァルト:交響曲第40番,○サモスード指揮モスクワ国立放送交響楽団(MELODIYA)LP,,これ、CDになってた気もするが、この時代の録音を復刻するところはへっぽこレーベルが多いので、ロシア楽団の力感をかなりスポイルしたものが見られ(イエダンとか)、今回は値段が安かったこともあり手に入れた。中古屋で見かけないことはない盤なので御興味があれば探してもいいかもしれない。サモスードはけっこう古い曲もいれていたようで、歌曲を除いたとしても、たとえば私の手元には同じモーツァルトのヴァイコンの伴奏指揮をした盤なんかもある。サモスードはほとんど伴奏指揮ものしかCD市場に出回っていない。あっても何かの刺身のツマとしてしかない。でも、これなんかを聞くと非常に生き生きとした瑞々しく力強いアンサンブルが構築されており、勿論楽団、とくに弦楽のアンサンブル力の素晴らしさというのもあるのだが、モーツァルト晩年の様々な「仕掛け」をくっきりと描き出して楽しませてくれる。隙の無い緻密で重層的な書法がじつにボリューム感たっぷりな音をもって紡ぎ出される。感じ惜しむらくは録音の古さだが(私の盤面はかなり辛い)厚盤は音の深さが有るので安定感はあり、慣れていれば聴ける。なんと言っても有名な1楽章、とくに展開部あたりのくるくるめまぐるしく転調するあたりとか、旋律が解体され拍子が一瞬崩れるあたりとかの表現が実に鮮やか。気持ちがいい。胸がすくというか、モーツァルト晩年の尖鋭性がサモスードの現代音楽指揮者としての才覚とシンクロして、結果として目ウロコな感覚すらあたえてくれる。別に前提知識をもって聴かなくてもその作品の凄さが即わかる、これは巨匠の演奏ならでは。2楽章では途中ヴァイオリンが細く残るところで、シルキー・タッチとでも言うのか、背筋がぞっとするような絶妙な音が流れたりして、凄いオケだな、と改めて思わせる。無論サモスードの腕のせいもあろう。コンドラシンにこれができただろうか。3楽章は古典的な楽想をベートーヴェンふうに力強く表現する。私はこういうのは好きだ。第二主題の牧歌的な雰囲気もどこか男らしい。ヤワで繊細なモーツァルトを求める向きにはやや向かないか(それを言ったら全楽章そうか)。4楽章は1楽章同様完璧かつ攻撃的なアンサンブルを構ずるオケが、その「仕掛け」を鮮やかに解いていくのが面白い。とても構築的な楽章だが、このオケはまさに面目躍如といった感じで嬉々として演奏しまくっている。フーガなど「どうだ!」と言わんばかりの畳み掛ける感じがかっこいい。普通余り目立たないような低弦のゴリゴリ弾きまくる音がまた凄まじい迫力を与える。ちょっと凄いです。ここに至るまでロシア臭さが余り感じられないのは多分サモスードの解釈かこのオケ自体の特性によるものだと思うが、それだけに素直に聴き易くていい。変なロシアマニアはがっかりするかもしれないけど(失礼)。ただロシア盤のつねとして最後残響無くぶちっと切れて終了するのはいただけない。もったいない録音処理の仕方だ。全般、録音含め○。いいCD復刻をしたらきっと佳盤の仲間入りをするレベルの演奏。ところで私はモーツァルト嫌いである。この曲のバージョン違いについてはよくわかんないというか検証する気がないのですいません。だいたい初めてモーツァルト書くし。ここ20世紀音楽のページだし。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モーツァルト:交響曲第40番,○フリード指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(arbiter)1937・CD,,これはマーラーの大地の歌と共に新発見のものでやはりライブラリーから発掘された晩年の指揮記録である。音質はいいとは言い難いが時代を考えるとよくここまでしっかりした音の全楽章の記録が残されたものだと言うべきだろう。演奏はとにかく速い。揺れない。あっさりした(でも音は強靭な)新即物主義的な、いわゆるトスカニーニ的な表現をとっており、それがロシアオケにしては極めて厳しく統制され、真剣な精緻な演奏となっている。潤いというか、個人的に感傷的なものも含めて欲しい楽章はあるが、モーツァルトとしては立派にモーツァルトになっており、フリートの手だれぶりが発揮された佳演。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
モーツァルト:交響曲第40番,アンゲルブレシュト指揮ORTF(ina)1954/12/30live 1955/1/6放送,,ina.frからもamazonデジタルからも配信されている同日プログラムの最初に収録(メインはフォレレク)。いかにも50年代によく聴かれるスタイルの演奏で、力づくで押さえ込み攻撃的なアンサンブルを繰り広げていくさまはモーツァルトというよりベートーヴェン。凝縮力の強いフルヴェン的な演奏で、オケの雑味もまたこの時代のライヴ録音らしく楽しめる。ドビュッシーの使徒アンゲルブレシュトの演奏と思ってはいけない。フィデリオ全曲なんかも振っていたORTF創始・常任指揮者の演奏。このオケに後年聴かれるお高くとまったような?雰囲気は無く、モノラルの音の塊の生々しさから、この人がこのオケをローカル色から脱した万能オケにしたい意図が伝わってくる。ザッツが雑とかアマオケのダジャレみたいなことは言わないが、そういう雑さはこの演奏様式なら気にならない。セッション録音にはないライヴ感に気を煽られる演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モーラン:ヴァイオリン協奏曲,○カンポーリ(Vn)ボールト指揮BBC交響楽団(PRISTINE,DIVINE ART)1954LIVE・CD,,ディーリアスが作家性に固執しなければこういう美しく華々しい協奏曲を描いたであろうという曲で、折衷的なこの作者にしてもひときわわかりやすく聴きやすい佳作である。やや変則的な構成の中で技巧的な見せ場は後のほうに一気に来るが、かつての手兵を繰って組み付いてくるボールトもさることながらフランチェスカッティを彷彿とさせる美音でなお完璧に弾き熟してみせるカンポーリが素晴らしい。やや民族的な特殊なパセージにも揺らぎもせず音楽的構成感を損なわない。後年のフランチェスカッティのような浅いマンネリズムにはけして近づかず、曲の要求を150パーセント音にしている。凄い。モノラルだがPRISTINEのリマスターは素晴らしい。DIVINEはPRISTINEのCD化サービス(ネット配信と同額だと思う)レーベルとなったようだ。ジャケットはカラーコピーだが裏青ではなくちゃんとしたCD。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
モーラン:ヴァイオリン協奏曲,○サモンズ(Vn)ボールト指揮BBC交響楽団(PRISTINE)1946live,,ディーリアスの影響がものすごく大きい曲だが、屈折したところがなくストレートにロマンティックで、長々しいマンネリズムに飽きてしまうところも否めない。録音が悪いと苦行である。ソリストもオケも緊張感があり、ストレートにロマンティックなのだが「手「が」余る」作品だな、という感じだ。耳新しいのはスケルツォ楽章だろうか、半音階的にうねる分厚いハーモニーというディーリアス風の作風がもっと近代中欧的な趣をかもしワルツ主題など面白い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モーラン:シンフォニエッタ,○ビーチャム指揮RPO(somm)1947/4/26ロイヤルアルバートホールlive・CD,,録音が悪いのが非常にマイナス。曲の本質が見え易いのか難いのか、亜流シベリウスに聞こえて仕方ない。ビーチャムはシベリウス消費大国イギリスの先鋒だったし、実際スマートですばしこい演奏ぶりはロイヤルフィルの透明度とあいまってシベリウス向きだったが、これはモーランの個性をあまり感じ取ることができない。RVWで始まりウォルトンで終わる、それだけの合奏曲に聞こえてしまった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モーラン:シンフォニエッタ,○ボールト指揮LPO(LYRITA)CD,,旋律性を固持した折衷的作風だが、モダンでみずみずしいリズム表現はウォルトンやコープランドをも想起するモーラン。この曲もバックス的な現代性を表面上は貼付けながら、中身はディーリアス風和声を織り交ぜたRVWであったりシベリウスであったりもっと昔の旋律的な後期ロマン派音楽であったりと、シンフォニエッタという名称に期待される合奏協奏曲的な立体的な構造は三楽章にならないと聞こえて来ない。ボールトが立派にやり過ぎていて、大曲感が強く、もっと軽く透明にやると違ってきこえるかもしれない。もっとも、個人的にはバックスの曲なんかよりずっと魅力的に聞こえた。人好きする作曲家だ。人間的な末路を選んだ人らしい内容だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モーラン:バンク・ホリデー,◎マッケイブ(P)(DECCA),,モラン(モーラン)はイギリス近代の作曲家の中でも親しまれている一人だろう。非常に平易で、この曲も愉快快活な主題の中に少し影の有る主題を挟むだけという単純きわまる3部構成。でも、いずれもとても耳馴染みがよい。きっぱりしており、でもちょっと影もあったりして、余りに短い曲でありながらなかなか飽きない。私は昔から愛聴してきました。仄かな影がいかにもイギリスふうのどこか風の吹き抜けるような情感で堪らない。RVWやホルスト周辺の作家としてもっと聞かれてもいい人です。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モーラン:仮面劇のための序曲,○ボールト指揮LPO(LYRITA)CD,,ポーツマスポイント序曲に一工夫ふた工夫したような曲、と言って通じるだろうか。人好きする旋律をリズミカルに操りながら透明感ある音響で彩った佳曲。半音階的揺らぎ、転調がそこに独特の硬質の聴感をくわえ、シベリウスやフランス現代音楽に感化された同時代英国作曲家と一線を画した独自性を発揮している。シベリウスというよりホルストみたいな弦の刻みにもにやり。RVWを想起する木管の「酷使」具合にもにやりと。イギリス音楽の神髄は木管アンサンブルにあり、とでも言っておこうか。そういった内容にこの指揮者このオケは必要十分過ぎる。録音のよさもあるが、ボールトにしては明るくすかっとした演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モーラン:弦楽三重奏曲,○プーネット(Vn)リドル(Va)ピニ(Vc)(COLUMBIA)1941/5/16・SP,,RVWのSQ1みたいな曲を探しているならばこれを聴いてみてほしい。牧歌的、ながらもより躍動的で楽しい。中間楽章にはバックスのような、というかモランの個性と言うべき複雑な心象も反映され、各楽章の性格分けがはっきりしていてRVWより円熟し多彩な印象もあたえる。演奏がまたいい。当時の英国のトップを担うトリオで力量は素晴らしいがスリリングというより肩の力の適度に抜けた愉悦的なアンサンブルを楽しめる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モーラン:交響曲ト短調,○ボールト指揮ニュー・フィル(LYRITA)CD,,前時代的な趣を持ったロマンチックな弦楽合奏から始まる大曲。シベリウスに民謡旋律を載せたような音楽は多分に映画音楽的でもある。ティンパニはシベリウスというより音響増大器扱いだし、ブラスはシベリウスとは違いRVWの華麗なやり方に接近している。やや散漫な印象もあるが各楽章にそれぞれ聴かせどころがちりばめられ、ニュー・フィルの技術力が存分に発揮される。シベリウス後期交響曲ふう(ときおりソックリ)の書法を交えた爽快な四楽章でしまる。まるでウォルトンの1番のようなしつこい終止部はむしろベートーベンのエコーなのか(カップリングの仮面劇のための序曲も同様の終わり方をする)。ボールトはなんでこんなにうまいのか、高貴にして逞しく美しい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モーラン:交響曲第1番,○ヘイワード指揮ハレ管弦楽団(PRISTINE,DIVINE ART他)1942・CD,,様々な同時代音楽を吸収したまとまりない叙事詩的な大作で、とくにRVWの民謡編曲や交響曲作曲手法を基軸にし、オネゲルの立体的書法の影響、ウォルトンやアメリカ、さらにソ連の若手作家と同調したような刺々しい躍動に暗い調子が混沌としており、モランの苦心が伺える。イギリス楽壇の民族主義に従いノーフォークなどの民謡を利用して部分的には美しく楽しく、でも名作とは言えない。初演のヘイワードは立派にやってのけ、曇り無い表現がびしびし決まる。録音も復刻も古さを感じさせない。うーん。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
モーラン:交響曲第2番ホ短調のためのスケッチ(イエイツ補筆完成版),イエイツ指揮ロイヤルスコティッシュ国立管弦楽団(dutton)CD,,モランは親しみやすさと過剰な親しみやすさで人気はあるが、固定ファンはあまりいない気がする。ヴォーン・ウィリアムズや一部ウォルトンを思わせるのは、彼らに少なからずあるシベリウスの一際強い書法面での影響があるからだろう。編曲作品ではあるが正規交響曲と比べても聴き映えはするこの曲、奇数楽章の落ち着いた、しかし時折華やかすぎるほど華やかで、いささか常套的な垢抜けた響きは特徴的であり、イギリス的な慎ましやかさと内に秘めた思いの発露、好きな人はとても好きであろう。また四楽章もさすがに有名作曲家のものに比べまとまりや構成に難はあるが、それなりに楽しめる。だが二楽章は渋い。渋い曲が好みな人もたまにいるのでいいが、これはあまり楽しくない。バックスが好きなら楽しめるかもしれない。オケは美にこだわり音のキメの細やかさで多少の雑味も覆い隠す。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モソロフ:鉄工場,○クアドリ指揮ロイヤル・フィル(westminster)LP,,クアドリらしい派手な突進が聴ける。とはいえモノラルなこともあり、音響が拡散していくことはなく、オネゲルの231をやるように直線的な構成をとっている点ききやすい。若干唐突な終わり方が気にはなったが。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モソロフ:鉄工場,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(SCRIBENDUM/MELODIYA)1975/10/2LIVE この曲の演奏ならもっとハデハデにやってほしい。ちょっと漠大になっているきらいがある。破裂音が開放的で内部に凝縮されないから、どうも中途半端に聞こえる。サバータのように整理して純音楽的にやるか、アイヴズを演奏するようにクラスター状態に仕立てるか、そのどちらかにしてほしい。パワーだけはあるから、面白い部分もあるが、それもどうも最高レベルまではいっていない様子。おまけで○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
モソロフ:鉄工場,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(venezia)1981studio・CD,,どうやら新発見音源らしい。知る限り同曲ライヴがMELODIYAから出たのみでスタジオ録音があったとすれば、未発売か抱き合わせで一瞬出て廃盤になったものと思われる(この盤の前半に収録された同年録音がそれだろうか)。遠くやや弱く、けして凄く良い録音ではないがロシアの正規盤の水準ではあり、安定したノイズレスな音で、最盛期スヴェトラコンビの筋肉質の力強い演奏ぶりを楽しむことができる。ロシアアバンギャルドの象徴のように言われる騒音主義の影響を受けた短い曲だが、ノイジーな部分はクラスター状の合奏部に僅かに残るくらいで、リズムはまさに鉄工場で規則的に打ち下ろされる大鉄槌の、実に単純単調なものにすぎない。ストラヴィンスキーやプロコフィエフの前期にくらべれば遥かに耳なじみよく(オネゲルみたいな明快な旋律線を設けないのは同時代けして珍しくない)、短く骨太の描写音楽であり、工場労働者を賛美する社会主義国家がこれを否定するのはモソロフの真意を汲んでとかいったことではなく、単に趣味だろう。甲乙つけがたいが、聴きやすいのはライヴ盤よりこちらかもしれない。もっと拡散的でスヴェトラらしいアバウトな豪快さが聴きたいのならライヴ盤を。○。このモソロフ集は転向前後を比べることのできる好企画。いずれ才能ある惜しい作曲家だったことがわかる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モソロフ:鉄工場,サバータ指揮E.I.A.R.交響楽団(EDUCATIONAL MEDIA ASSOCIATES) オネゲルのパシフィック231を思い起こして欲しい。つまりはそういった発想の描写音楽なのだ。「未来派」音楽とされているが、不協和音を多用するモダニズムの一派ではあったけれど、決して未来の音楽を描いていたわけではない。特徴的とされる「金属板の音」は、この演奏ではあまり聞こえてこないし、それほど効果があるとも思えない。ホルンの奏する旋律はいかにもオネゲルふうだ。5分程度の曲。モソロフはロシア・モダニズムを代表する一人であったが、批判をへて転向し平易な作風をとるようになった。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
モソロフ:鉄工場,デルヴォ指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI他),,機械趣味というのはドヴォルザークの頃から作曲界では顕著にみられるが、20世紀に入ってほどほど経つと無邪気な工業賛美に時代の流行である野蛮主義やら騒音主義の作風を取り入れた作品が一時的に流行る。ロシアアバンギャルドの代表的なこの3分作品はプロコフィエフの鋼鉄の歩み以上に有名であり、ミニマルな律動がサティのパラードを思わせるダダイズムに見せかけ、じつは厚い管楽器と打楽器の組み合わせたちゃんとした作品であり、このコンビで聴くとほとんどオネゲルのパシフィック231である。オネゲルはバッハに倣ったいわゆる新古典主義にたっているからして本来的には対照的であるはずが、聴き流すぶんにはほぼ似通ったひびきと構成を持つように感じられるのが面白い。オネゲルは先行作品である。ちなみにラヴェルもダフニスにウインドマシーンを取り入れ音響要素としての機械に興味を持ち、航空機趣味、戦時中はトラックを運転していた、音楽家はけして部屋に閉じこもって書いている人種ではもはやなかったのであった。話ずれたが、本当の未来主義音楽にくらべればぜんぜんまともであり、国家が抑制して完全転向せざるをえなかったのはモソロフの不運。この作品でしか名を残せなかったのは悲劇である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モソロフ:鉄工場,ユリウス・エールリッヒ指揮パリ交響楽団(COLUMBIA)SP,,さすがフランスの楽団、いいふうにまとめてくる。サバータの演奏がこんな感じだったか。ハッキリと鉄工所の器械の動きを音楽にした、ということなのだが、でかいだけで使い物にならない製品ではなく、小粒ながら精度の高い品質を担保してくれそうだ。楽団の音に魅力はあるが指揮者は見えてこない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,