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エリオット・カーター:オーボエ協奏曲,○ハインツ・ホリガー(O)ギーレン指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送交響楽団(col legno)1988/10/16ドナウエッシンゲン音楽祭LIVE・CD伝統的な前衛音楽といった趣だが、ちょっと聞きコンチェルトに似つかわしくない錯綜した楽想が面白い。現代の木管協奏曲の一つの在り方を提示している。演奏は比較の仕様が無いがウマイことは確か。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カーペンター:交響詩「海流」(1944改訂版),ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(ASdisc)1944/10/8改訂版初演ライヴ アメリカ異色の印象派作曲家の作品。エルガーに学んだこともある日曜作曲家である。「海流」というとディーリアスの曲を想起するが、同じホイットマンのテキストを用い、同じく印象派の影響を受けながらも、より鈍重でドイツ的な趣をもつ作品になっている。中声部以下の音に偏重しているが、たまに海鳥の声のようなフルートが入ったり、ハープが効果的なアルペジオを鳴らしたり、ちょっと耳を惹く場面もある。ディーリアスやバックスのようないくぶん晦渋さもあるけれども、深い心象表現を含む、アメリカ的な能天気な音楽とは一線を画したものとなっている。ただ、音詩としてはいささか散漫である点も否定できまい。ロジンスキは適度に熱情的に、そつなくやっている。拍手はほどほど。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カーペンター:交響組曲「七つの時代」,ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(ASdisc)1945/12/2放送初演ライヴ カーペンターの白鳥の歌だが、そうは思えないほど瑞々しい曲想に満ちている。打楽器表現がコープランドなどを想起するものの、はっきりとアメリカ音楽やジャズの影響を示している部分は少ない。無邪気なよろこびではなく、何か奥底に深いものを持っているかのようだ。諸所非常に美しいがこれはロジンスキの腕によるところも大きいだろう。行進曲などはどちらかというと欧風であり、エルガーやウォルトンを思い起こすが、より焦燥感があり、ハーモニーも特殊な印象を残す。特徴的なリズム音形が織り交ざるが、このあたりがカーペンターの個性なのだろう。ジャズ的な楽想にはあきらかにコープランドやグローフェふうの音楽が導入されている。やや気まぐれに進行する音楽をロジンスキは引き締まったオケによってぐっと凝縮して聞かせてくれる。いくぶん前時代的な神秘をもって曲は終わる。拍手はまあまあ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カーペンター:組曲「乳母車の冒険」,オーマンディ指揮ミネアポリス交響楽団(victor他)1934/1,,印象派(最盛期ドビュッシー)の影響を強くうけながらもアメリカ的主題・あっけらかんとした響きを伴う旋律を併せ持つ、20世紀前半の米国作曲界にて先駆的役割を果たしたと言われているカーペンター。日曜作曲家ゆえ数は多くないその代表作がこの25分あまりの管弦楽組曲になる。同SPは野村胡堂(あらえびす)氏が紹介されていたが、氏の啓蒙的趣旨において取り上げられた同作に、当時これくらいしか録音が無かったというのが実状であり、とりたてて名演だからというわけではないのは他の同時代音楽の録音についても同様である(ストコフスキーを夥しく紹介されているのもここに理由があろう)。聴くに作品の律動性は聴き取れるが(リズムのキレが素晴らしい)、抒情性を味わうには、音が弱過ぎる。ドビュッシーの夜想曲的な側面からの影響を楽しみたいのに、イベリアですらない無邪気なリズム音楽のみ耳に残る。オーマンディのすぐれた技術はききとれるが、ミネアポリスのオケの古い録音の多くがそうであるように、オケの力量ははかりかねる。そういった演奏である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カウエル:The Trumpet of Augus Og(1918〜24),バーン(P)(ACTA)CD祝祭的なこの曲の構造は、分かりやすさと裏腹に複雑な計算に基づいているように聞こえる。だがやはりシャブリエ的だ。「左手」のラヴェルの如き低音の響きを 持つクラスター*は、ここではきくことができない。カウエル独奏曲の 最高峰はごく若いころ(15歳)の「マノノーンの潮流」(1912)と思うが、 「エオリアン・ハープ」(1923)のアルカイックな風音、「バンシー」(1925)の胸を掻き毟るような叫び声に代表される、内部奏法(蓋の下のピアノ線をつまんだり 擦ったりして ハープや音鋸のような特殊な音響を放つ)の妙もまた出色で、これは自作自演盤がある(CDになっている)。「富士山の雪」という日本的な題材による曲も有る。いずれ前衛性は形に すぎず、時折心を打つものがある。*拳や腕、板などで一定幅に並ぶ鍵盤を全て押さえる事により、 「音の塊(トーン・クラスター)」をぶつけるような野蛮だが奥深い音響を放つ ことのできる特殊奏法。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カウエル:オンガク,○ホイットニー指揮ルイスヴィル管弦楽団(FE)1958/4/20・CD,,カウエルは意欲的に他国の音楽にも取材し多彩な楽曲を書いた。日本に取材したものもいくつかある。これはガガクとサンキョクからなる組曲だが、「まんま」である。三曲のほうはいくぶん西欧的なオーケストレイションにより20世紀前半にイギリスあたりによく聞かれた民謡編曲音楽(ま似てますからね)に現代の映画音楽風味をふんだんに盛り込んだかんじで、雅楽風の笛による繊細でのっぺりしたハーモニーに、アメリカらしいペットソロが乗ったりするところはなかなか凡百作曲家にできない絶妙さをもってくる。日本の作曲家に多かった感じもあるが、とにかく西欧置換が上手いので、下品にならない。気持ちがいい。雅楽のほうこそまさに「まんま」だが、三曲はRVWの哲学性にも通じる。かなり日寄った作品とも言えるが縁深いオケの、多少粗くもよく掴んだ演奏ぶりがいい方向に働き秀逸。カウエルはアメリカ前衛主義の創始者としてかなり左寄りに置かれているが、アイヴズより余程感傷的なロマンチシズムと音楽的合理性を持ち合わせたプロフェッショナルである。日本人が聞いても○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
カウエル:ダイナミック・モーション,○バーン(P)(ACTA)CD,,これは明瞭にカウエルらしい抽象的前衛作品で、ブレークビートな断裂する音線に、クラスターも装飾的に添えられるのではなくはっきり部品としての機能を果たしている。ピアニストもスタンスをはっきりさせやすいからかのっている。ただ、少し詰めが甘いか、曲も演奏も。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カウエル:ペルシア組曲,○ストコフスキ指揮現代音楽協会(scc:CD-R)1958/12/3live,,正規録音も残っているがノイズを除けばこちらの方がクリアか。オケの特性なのか、正規録音よりも民族性が減退し抽象性が高い。あくまで西欧楽器によるペルシア音楽の演奏という印象が強い反面、退屈な部分もあり、演奏にもやや弱さを感じる。ギターがなければ普通にコンサートの演目として成り立ってしまうなあ。リズム感の良さが光る。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カウエル:ペルシア組曲,ストコフスキ指揮彼のオーケストラ(CRI/RCA他)1957/4・CD,,ストコフスキーは曲に即した演奏を提示して過不足無い。問題はその曲のほうである。カウエル晩年のアジア行脚からのペルシア傾倒が如実に現れており、一応西欧楽器を使ってはいるがほぼバンド編成でギターが前面に立ちまるでそのまんまペルシアの音楽なのである。異化も昇華もなされず、ただその方法でペルシア音楽を作っただけなのだ。4曲目で合いの手の掛け声が入るところなどウンザリするほど模倣している。西欧楽器ということで半世紀以上前のボロディンふうに聴こえる旋律も無茶苦茶古臭い。ギターはスパニッシュギターのようにラテンな感じもするが、いずれそういう世俗性を臆面もなく出している音楽なのだ。録音も悪くモノラル。擬似ステレオ盤もあるのでそちらが聴けるならそちらをどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カウエル:マノノーンの潮流,"",○バーン(P)(ACTA)CD,,やや起伏がデジタルで、雰囲気のうつろいやクライマックスの作りかたが生硬すぎるか。若書きゆえスコアが単純生硬というのもあるが、ゴーン、ゴーンと渦巻く運命の潮流を低音のクラスターが演出し、右手は感傷をもはらむ力強い民謡ふう旋律をきざむという極めて理に落ちた構造を、全体としてどういった流れの中に起伏を作っていくか、「視覚的効果のない音盤という世界で勝負するなら」周到に考え、録音操作も加えること辞さずに造り込んで欲しかった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
カウエル:マノノーンの潮流,○作曲家(P)(smithsonian folkways)1963初発売・CD,,トーンクラスターはバルトークが用語としての使用許諾を求めたことで有名なカウエルの代表的な概念だが、先行事例がないわけではなくカウエルと一時期親しかったアイヴズが一定の長さの木片で鍵盤を押さえる方法を使っていて、また管弦楽においてはトーンクラスターと呼ばざるを得ないような混沌とした音響を提示している。ともあれ「理性的に」この方法を取り込んだのはカウエルが最初であろうし、この曲がその代表的な作品であることには異論はない。若書きの作品でもあり、右手の旋律と後半部で左手に現れる対旋律のとつとつとした組み合わせだけを取り出してみればケルト民謡に基づく、いわばヴォーン・ウィリアムズのような感傷的な旋律音楽でしかなく、陳腐とすら言える。肘を使って低音部で奏される「運命の大波」こそがこの曲の肝であり、演奏者の柔軟性なり経験なりが試される部分だと言えよう。なかなか聴きごたえのある実演を聴いたことがあるが、それにくらべてこの自作自演がどうかというと、下手。旋律の動きにリズムが乱され、クラスターとのバランスもややぎごちなく(リズム的には旋律とクラスターはまったく同期がとられている)、これはこの自作自演アルバム全体に言えることだと思うが、専門ピアニストではない、ということを否応無く印象付けられる。そういう観点から、骨董価値を見いだしてのみ聴く演奏だ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カウエル:感謝祭詩篇,ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団他(DA:CD-R)1966/12/19LIVE,,カウエルが後年よく書いたわりと凡庸な民族的音楽の範疇にある合唱曲で短いから評するのも難しい。録音もあまりよくない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カウエル:弦楽四重奏曲第2番(弦楽四重奏のための楽章),○ドリアン四重奏団(COLUMBIA)1939/9/27・SP,,小品ゆえ何とも言えないが、暗いロマン派音楽。カウエルは手法こそ多彩ではあるが根はシンプルであり、初期も後期も変わらない。○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カウエル:虎,バーン(P)(ACTA)CD,,見た目そのまま描写というアイヴズのやり方に似せながらも、思わず抽象化してしまいわかりやすい音楽のほうへ寄せてしまうがゆえに、どこか暴力にも甘さが感じられる。東洋旋法やハーモニーもこの西欧的で生硬な演奏スタイルだと今一つよくわからない。結果としてクラスター的音響もスクリアビン後期のやり方のシミュライゼーションに聞こえてしまう。カウエルはかなり先人の作風を取り入れてくる作家ゆえ恐らく間違った指摘ではなかろうが。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カウエル:交響曲第5番,○ジーン・ディクソン指揮アメリカンレコーディング協会管弦楽団(ARS)LP,,アメリカ実験音楽の祖とも言われるが案外と穏健な作風を持ち、ロマンティックな旋律とわりと保守的な管弦楽法を駆使する作曲家の印象もある。むしろ実験性はピアノ曲におけるものなのだ。この作品は1楽章が聞き物で、多彩なパーカッションと他パートのやり取りが丁々発止、しかしコープランド後期を思わせるところがあり、複リズム的なフレーズもおり混ざり清新だが、全般にはとても聞きやすい。だが、2楽章以降が凡庸である。新ロマン派の作品と言われれば聞ける内容だが、カウエルの特徴としてこの時代にしては簡素なオーケストレーションが気になり、それで前時代的な交響曲のなりをしていると、1楽章の勢いはどうしたんだろうと思ってしまう。盛り上がるは盛り上がるし、独自性も感じられるのだが。ディクソンは浮き立つようなリズム表現がうまい。オケはうまいがそれほど力強くはなく、それをここまで引き締めて表現させたのは特筆に値する。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カウエル:賛美歌とフーガ風の調べ第2番,○ストコフスキ指揮CBS放送室内管弦楽団(SCC:CD-R)1953/10/25,,放送ライブ。20世紀音楽(アメリカの)紹介番組の中の一曲であるらしい。2番が取り上げられるのは珍しいが、いずれ南北戦争時代の賛美歌などを基にした回顧的な作品であり、ヴォーン・ウィリアムズ的で、ロマン派音楽ないし擬古典派に聴こえるのは仕方ない。ストコフスキーはいきなりポルタメントを聴かせ、泣かせ節を展開する。コテコテだ。しかし分厚く緊密な響きは音楽的な楽しさを感じさせる。短いが題名通り2部に別れ、現代的な部分もあるのだろうが、きほん賛美歌とフーガ。それだけである。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カウエル:組曲「消防署の土曜の夜」,○アドラー指揮ウィーン・フィル(SPA)LP思わずアイヴズの描写音楽を彷彿とさせる曲名だが、アメリカ前衛音楽の雄が書いた楽曲にしてはかなり平易。独特の不協和音が絡むところもあるが、おおむねガーシュインの雰囲気で統一されていて聴き易い。ジャズというよりガーシュインのリズムやハーモニーからの影響が顕著で、それが何度も聴いていると飽きにもつながるのだが、どことなく独自性が感じられるのは旋律のせいか。息の長い旋律を微妙に変容させてつなげていくやり方は面白い。非常に印象的な場面がいくつかある。この透明な美感はカウエル独自のものだ。コープランド的な垢抜けた響きはアメリカの作曲家と言うことを改めて認識させるものだが、そのむこうにミヨーという巨人を思い出させるところでもある。トーン・クラスターやリトミコンをアクセントとして使ってもらいたかった気もするが、カウエルは元来ロマンティックな性向を持つ作曲家であり、とくに旋律にはしっかりとしたメロディを使用することが多い。言ってしまえばアイヴズも本質的にはドビュッシズム影響下の(旋律構造に影響が指摘される)浪慢主義的作曲家だったわけであり、この二面性はアメリカならではのものと考えるのがよかろう。カウエルは夥しい作品を残しているが、もっと発掘されていい人である。シゲティもアイヴズとカウエルを取り上げていたことをふと思い出した。ウィーン・フィルは手堅い演奏を繰り広げる。たしかにうまい。これ以上の演奏はヨーロッパのオケとしては望むべくも無い。ただ、ミュートをつけたペットがちょっとリズムに乗り切れないところにウィーンとアメリカの距離を感じた。一回は聞く価値ありとして○一つをつけておく。アドラーはマーラーよりこういう曲のほうがあっているように思うのは私だけ?(チャールズ・アドラーは別項に書いたとおりマーラーの下で振っていたことがある人。ヨーロッパにアメリカ音楽を広めた功績があるそうですが今はほとんど知られていません・・・),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カウエル:富士山の雪,○バーン(P)(ACTA)CD,,どうも日本というより東洋趣味といった風情で、冒頭からひたすら繰り返される旋律も、こういう衝突するハーモニー(あきらかにドビュッシーの「金魚」などに似せている)をひたすら重ねられると、日本ふうの単純さより中国ふうの豪華さをもって聞こえる。少し浅い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カウエル:妖精の答,○バーン(P)(ACTA)CD,,サティ的に単純化したドビュッシーの前奏曲ふうの断章に内部奏法による掻痒なハープ式装飾が美しく色を添える。この時代にありがちな極めてフランス的な夜のアルカイズムがそのままシミュライズされており「これ、何だっけ?・・・」と頭を悩まされることうけあいだが、単純な美感はなかなか独特の粋を感じさせてよい。短いことが効を奏している。演奏はややぎごちなく、パセージ途中の間髪なき内部奏法導入の難しさを感じさせる。二人でやればスムースかもしれない。曲は単純に綺麗で内部奏法にも山っ気がなく素晴らしい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カゼッラ:イタリア,○パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1960/2/25LIVE,,この曲は初めファリャやトゥーリナやレスピーギを思わせるが、半音階的で重厚な語り口はもっと中欧寄りのロマンティックなものに近く、ディーリアスのやり方を彷彿とさせるほどに折衷的である。だがいきなりフニクリ・フニクラがでてくるとカゼッラらしい民族性があきらかになって、完全な旋律音楽になる。パレーはじつにめざましい。テンション高く厳しく突き進むが、透明感と広がりのある音響はやはりフランス派指揮者であることを知らしめる。明瞭さと鋭利な美観で楽しませる。素晴らしいアンサンブル。録音が悪いのが惜しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カゼッラ:ヴァイオリン、ピアノとチェロと管弦楽のための協奏曲〜T、U,○作曲家(P)クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ASdisc)1936/2/22LIVE・CDカゼッラはイタリアの作曲家だがパリに学び印象派〜新古典の影響を受け、また自ら率先してラヴェルらと共に次の世代の音楽を模索した作曲家である。その作品は多くのイタリア近代作曲家同様擬古典というべきものも数多いが(やたら協奏曲を書いているのも関係あろう)重厚でわかりづらい中欧的作風の中にもフランス式の軽やかなスタイルを採り入れて独自の折衷的作風を確立している。ちょっとバルトークを思わせる壮大な冒頭からちょっと擬古典的なヴァイオリン、チェロのソロのパッセージが絡み合っていく。半音階的で重々しい音楽がつづくが不思議と洒落ている。さすがラヴェル、エネスコ、コルトーと同じ釜の飯を食った作曲家、なかなかに個性的な音楽だ。民謡旋法的なフレーズと垢抜けた硬質なひびきが交錯し、アレグロ部に突入していく。カゼッラのピアノはさすが自作というべきか鋭く俊敏であり、これまたなかなか巧いヴァイオリンソロとの掛け合いがかっこいい。クーセヴィツキーのオケがそれに拍車を掛けるように鋭く絡んでいく。凄い集中力である。やがて、やはりというべきか、六人組ふうの楽天的な旋律も顕れるが、結局は怒涛のような細かい音符が極めて高い密度で集積された旋律同志の喧嘩のような掛け合いになっていく。恐らく古典的な合奏協奏曲を真似ているのだろうが、音が異常に多いぶん聞きごたえがあり、またもはや古典の模倣とは言い難い個性が雄叫びをあげている。これはオネゲルより凄い。腕利きのソリストと楽団がいたら演奏してみたらいい。これは超難曲、でも理知的に組み立てられていて十分に練習すれば曲になるであろう佳作です。奇妙な明るさがあるのも面白い(1楽章の最後のフランセ的な終止など)。私はミヨーがもっと前に生まれていたら書きそうな作品だな、と思った。2楽章ラールゴの憂愁は多分に感傷的で、カゼッラは非常に強い打鍵で弾いているためやや男らしすぎる感もあるが(この冒頭のピアノソロでピーという恐らく放送雑音が入って耳障り)、チェロとヴァイオリンの艶めいたヴィブラートにのせた感傷的な旋律の絡み合いはとても美しい。ひびきは複雑だが、音を間引いて聞くと、六人組の書いたピアノ協奏曲の緩徐楽章と言っても間違えそうな曲想ではある。ミヨーほど思索的ではないし、プーランクほど軽量級でもなく、ブラスのミュートされた挿句は新ウィーン楽派を思わせる奇矯さをかもし、独特の混合音楽が展開されていく。旋律はピアノによってかなりわけがわからない変貌を遂げていく。深刻だがどこか面白い。そののちふたたび冒頭の感傷的なソロの絡みが再現される。これだけ分厚い不協和音を使っているのに清澄なのは音を注意深く選んで作曲している(演奏している?)せいか。けっこう書き込んだ曲であり、聞けば聴くほど理解は深まるだろう。でもこの盤・・・三楽章が欠落しているのでした。ガクリ。きわめてレベルの高い演奏であり、クーセヴィツキーもカゼッラも凄い。そのあたり得意なかたは聴いてみてもいいかも。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カゼッラ:シチリアーナとブルレスカ,○作曲家(P)ポルトロニエリ(Vn)ボヌッチ(Vc)(columbia)1931・SP,,これはCDになっていたのではないか?達者な三名、とくにピアニストとしても活躍したカゼッラの洒脱な表現ににやりとさせられる。ちょっとジャズっぽいというかモダンさも前衛まではいかない聴き易さのあるシチリアーナがおすすめ。いい曲、いい演奏。webで聴ける。カゼッラは二つほど協奏曲も一部録音している。そちらでもイタリア往年の名手ポルトロニエリの華麗な音も聴けるのが嬉しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カゼッラ:パガニーニアーナ,コンドラシン指揮ACO(PHILIPS)1979/11/17LIVE 平凡な曲。。。カゼッラがいまひとつ無名なのはひとえにその想像力の無さだろう。コンドラシンは律動だけ、といった感じで無機質に振っている。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カゼッラ:パガニーニアーナ(管弦楽のためのディヴェルティメント),マデルナ指揮トリノRAI交響楽団(SLS)1961/11/4live,,3楽章で録音断裂あり、室内楽的アンサンブルを聴かせる場面だけに残念。これは新古典主義といっていいのか、しかしかなりストラヴィンスキー的というかウォルトン的というか、聴きやすい旋律音楽やスリリングな室内アンサンブルの中にシニカルな響きやパセージを織り交ぜて個性を出していくところが上手い。ロマンティックな腐臭もバルトーク的な晦渋さも無くすんなり聴きやすく、パガニーニがどうのというところは無く、あくまで素材で、そこはストラヴィンスキーの擬古典的表現とは違う。演奏はマデルナにしては意外なほど集中度が高く、オケと作曲家と指揮者すべてのラテン的な要素がそこに明るい色彩を与えて楽しい。聴衆反応も盛大だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カゼッラ:交響組曲「甕」,○プレヴィターリ指揮聖チェチリア音楽院管弦楽団、ルージ(T)(DECCA)LP 美音で聞かせるプレヴィターリの芸風が威力を発揮。非常にフランス曲的なこの曲をとても品良く綺麗に纏め上げている。カゼッラはマリピエロなどと一緒に活動したイタリア20世紀音楽の名匠だが、作風にやや幅があり、濁ったロマンティックな音楽も書く一方、ラヴェル同窓として当時最先端のパリ音楽院に学んだ者として当たりまえのように印象派音楽の非常に強い影響も受けている。この曲などはその線がとくに濃いように思う。これはもともとは一幕のバレエ音楽。シチリアを舞台とした小説にもとづく喜劇で、バレエ付随音楽としては最も成功した作品となった。ここでは7曲からなる組曲に纏め上げられている。この人にしては耳馴染みがとても良いことは特筆すべきだろう。民族性はそれほど目立たないが強いリズムが顕れるところではあきらかにストラヴィンスキーの影響を受けている(その単純さはむしろルーセル的と言うべきかもしれないが、ルーセルがリズム要素に重点を置くようになったのは「春の祭典」にインスパイアされた1920年ごろであり、更に単純で和声的な重いリズムに着地したのは24年のこの作品の出来た時期と大して違わない)、この時代のフランスを中心とする音楽界に溢れていた雰囲気をとてもよく伝えるものとなっている。ミヨーやオネゲルあたりをよく聴いている人はカゼッラがひと世代下のこのいわゆるフランス六人組の世界に非常に接近していたことを実感するだろう。私はミヨーっぽいなー、と思いながらもけっこうわかりやすいので楽しめた。テノール・ソロが入る。じつに心地よいプレヴィターリの音世界に○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カバレフスキー:コラ・ブルニョン序曲,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1943/4/11live,,比較的落ち着いたテンポで楽しげにこの一種諧謔的な楽曲をリズムよく表現している。屈託なく躊躇もなく、慣れた調子といえばそうだ。今も名前がのこる楽曲というのは例えどんなにキッチュで後ろ向きであっても何かしら他とは違う魅力をはなっているもので、この率直な解釈では余り面白くない演奏にもできてしまうところ曲想と管弦楽の響きの面白さだけでどんな演奏でも聴かせる力は元々あるのであり、トスカニーニだからどうこうということはないかもしれない。しっかりした演奏ではある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カバレフスキー:コラ・ブルニョン序曲,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DELL ARTE)1943/4/11LIVE・CDプロコフィエフを灰汁抜きしてショスタコーヴィチの通俗曲とかけあわせたような作風、というのが私のカバレフスキー感だが、そうはいってもそうとうの数の作品を長い人生の中で書き綴ってきた作曲家であり、いろいろな作風の作品があることも事実である。単純ではない、ソヴィエトの作家は。プロコフィエフの影響は否定できないけれども、プロコフィエフの遺作のオーケストレーションを行ったりして恩返しをしている。歌劇コラ・ブルニョンは若きカバレフスキーの代表作であり、台本がロマン・ロランであり、フランス民謡を用いていることからしてロシア大衆のための作品としてかかれたとは思えないものだが、無心で聴く限り非常に平易で洒脱、まさにプロコフィエフの毒を抜いて食しやすくしたような曲で、結果として大衆受けしたことは想像に難くない。外国でも受けて、トスカニーニも序曲を振る気になったのだろう。ジャズふうの妙なリズムもカバレフスキーらしいものだが、そういった世俗的で下卑た癖を、トスカニーニは颯爽とした棒によりうまく取り去っている。歴史的録音として○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カバレフスキー:コラ・ブルニョン序曲,○ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(NICKSON)1955/8/5LIVE・CDきわめてクリアな音質で驚く。耳にキンキン響いて却って耳障り。派手で盛り上がる曲だが、派手すぎて少々疲れる。勢いは買おう。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カバレフスキー:コラ・ブルニョン序曲,ミトロプーロス指揮NYP(SLS)1955/5/8シアトルlive,,この時期にしては貧弱だがミトプーのものとしてはまずまずのモノラル録音。カバレフスキーの代表的な小品でここでもコンサートのラストに置かれブラヴォを呼んでいる。そういう、盛り上がる曲であり、チープな雰囲気はとくに緩徐部のテーマに顕著だが、これはカバレフスキー作品全般に言えることで、両端部のショスタコーヴィチそっくりの骨ばった攻め方にこそ本領があらわれている。トスカニーニはこれをアメリカのオケを使って「チープにならないように」ドライに聴かせてそれはそれで良かったが、この演奏は素直に楽しい。ジャズ風のリズム処理も違和感なくすべてカバレフスキーのものとして融和させ、それを楽しげな「アメリカ音楽」として描いている。僅かな雑味など気にさせないほど集中力が高い。音楽自体の出来の良さもあってウォルトンの「ポーツマスポイント序曲」を思わせるフレーズも、同曲がもつ一種居心地の悪さというか、まとまりの悪さとは隔絶して聴きやすい。反面個性の面で同時代音楽ひいてはソヴィエト音楽のイメージに沿いすぎて、突出した感はないが、この曲が代表作となったのは「絶妙なチープさ」にあろう、それこそ大衆に受ける重要素である。ミトプーはわきまえて、トスカニーニとは異なる大衆受けするドライヴをかけて、成功している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カバレフスキー:コラ・ブルニョン序曲,作曲家指揮ボリショイ劇場管弦楽団(COLOSSEUM)LPいささか弱い。音量が少ないせいもあるが、溌剌とリズミカルに演じるべきこの曲を、妙にぎくしゃくだらだら振ってしまっている。折角の名曲にもったいない。ジャズふうのフレーズにも遊びが欲しい。無印。モノラル。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カバレフスキー:チェロ協奏曲第1番,○ジャンドロン(Vc)ドラティ指揮スイス・イタリア語放送管弦楽団(KARNA:CD-R)live,,指が軽く冒頭から装飾音が音になっていなかったり音程が危うかったりちょっと安定しないが、2楽章カデンツァあたりから低音が力強く響くようになり安定してくる。3楽章は元がロシアのデロデロ節なだけに、ジャンドロンらしい柔らかくニュートラルな音で程よくドライヴされると聴き易くてよい。ドラティはさすがの攻撃的なサポートで前半ジャンドロンの不調(衰え?)を補っている。この曲のロシアロシアした面が鼻につくという人にはとても向いているが、録音特性やソリストの適性もあり決して最大の推薦はつけられないか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カバレフスキー:チェロ協奏曲第1番,メイヤーズ(Vc)作曲家指揮ボストン交響楽団(SLS)1959/11/14live,,キビキビした指揮に応える優れたオケ、ロストロポーヴィチ張りの安定感と音色でひたすら旋律的な曲を雄渾に表現するソリスト、アンコールで二楽章が繰り返されるのも納得の聴き応えのある演奏。客席反応も凄い。青少年のために作られる曲というのはソヴィエト特有のもの(?)だが、わざわざ教育的に整えられた三部作の一つ一つ単独でも、プロがやっても聴き映えがする。部分的にプロコフィエフを思わせるがニ、三楽章など民謡旋律を美しく調えた音楽で、プロコフィエフのような変な創意がなく、すっきり構成されとにかく耳に心地よい。胸のすくような技巧的な箇所は常套的でも楽しい。モノラルだがそれゆえノイズは気にならず、分厚い弦楽器がよくとらえられ良好な録音。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カバレフスキー:チェロ協奏曲第1番OP.49,◎シャフラン(VC)作曲家指揮ソヴィエト国立管弦楽団(VANGUARD)名曲。かなりプロコフィエフっぽいが、プロコフィエフのように晦渋で偏屈なところがなく、素直に楽しめる曲だ。ウォルトンのチェロ協奏曲を思わせる冒頭からぐいっと引き込まれる旋律の力は強力。チェリストがひたすら旋律を歌いまくり、カバレフスキーだからかなりせわしない動きがあるのだけれども、シャフランは唖然とするほど弾きこなし、大家らしさを見せている。ロストロといいシャフランといいこの国のチェリストはどうなっているんだろう。圧倒的な1楽章、カバレフスキーの抒情が臭くならない程度にほどよく出た緩徐楽章、これまたせわしない曲想だが非常に効果的な終楽章、とにかくわかりやすさが魅力の第一ではあるが円熟したカバレフスキーの隙の無い書法に感銘を受けた。オケはソヴィエト国立だがレニフィルのように緊密でまとまりがよく、カバレフスキーのそつない棒によくつけている。いい曲だなしかし。。ぜひ聴いてみてください。この組み合わせは最高だが、他の演奏家でもきっとうまく響くはず。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カバレフスキー:チェロ協奏曲第2番OP.77,シャフラン(VC)作曲家指揮レニングラード・フィル(CELLO CLASSICS)CDショスタコの晦渋な曲パターンのまじめでつまらない曲。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カバレフスキー:ピアノ協奏曲第2番,○ペトロフ(P)キタエンコ指揮モスクワ・フィル(venezia)1984live・CD,,プロコフィエフをロシアで染め直して灰汁抜きした平易な曲で、初心者受けすると思うがこれといった鮮烈な印象は残さない。シンプルさという点ではカバレフスキーの手腕が発揮されているし、同時代の群小作曲家のピアノ協奏曲に比べれば図抜けてはいようが、私は露骨なロシア臭が気になった。キタエンコのうまさが意外と光る。ペトロフは難なくこなし集中力がすごいとか技術がすごいとかそういった感じはしないのだが、オケが突出も引っ込みもせず融合して綺麗に音楽的にまとまったものを提示している。これは特筆すべきか。この指揮者はどうも一時期の荒れた芸風でイマイチ評価が定まらない感があるが、割とこの時期までは一定の評価を受けていたと思う。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カバレフスキー:ピアノ協奏曲第3番,○ギレリス(p)作曲家指揮モスクワ放送交響楽団(olympia)1954恥ずかしさ炸裂の社会主義リアリズム節。当初より青少年向けに企画された曲だけに、ラフマニノフその他のわかりやすいロマン派ピアノ協奏曲を諸所で彷彿とさせる。旋律は全て明白、ロシア民謡的。終楽章最後で1楽章の主題が回想されるところなど穴があったら入りたいくらいだ。カバレフスキーは決して先祖回帰的な作曲家ではなく、モダニズムや新古典の空気をめいっぱい吸った作曲家でもある(2番を聞けばよくわかる)のだが、ここでは古臭い雰囲気を終始漂わせている。ギレリスはそつなくやっている。放送響も巧くこなしている。カバレフスキーの指揮は明快。そんな感じ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カバレフスキー:ピアノ協奏曲第4番,◎ポポフ(p)作曲家指揮モスクワ・フィル(olympia)1981なかなか面白い曲。三楽章制だがこの演奏でわずか13分、簡潔だ。懐かしきモダニズムの時代を思わせる鮮烈な出だしから、プロコフィエフ的な新古典的展開。響きは清新な空気を振り撒き、部分的に非常に美しい。民謡ふうの旋律はまったく無く、新しい時代の曲であることをアピールする。終楽章はスネアドラムの焦燥感に満ちた音が面白いスパイスとなっていて、ジャズふうの曲想とからみ、耳を惹く。その響きはアメリカ的ですらある。ポポフが巧い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カバレフスキー:歌劇コラ・ブルニョン組曲,○シュヒター指揮LPO(MGM)LP,,ロシア曲になぜかよく取り組んだ人だがイギリスオケのせいか俊敏な反応が心地よくドイツでの無機質武骨無個性が嘘のような流れるような、メリハリのある表現でしっかりした演奏を楽しめる。組曲もめずらしい。低い重心の音響もこのオケではいい方向に流れている。○。(プロコフィエフとの記載は誤り),-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カバレフスキー:弦楽四重奏曲第2番,ナウマン四重奏団(URANIA)やわらかい音は好みだが戦闘的なソビエト音楽にはヤワすぎるか。全般迫力に欠け技術が足りないようにも感じる。とくにファーストのハイポジの音程が低いのは気になった。明快な和音もきれいに響かないのだ。団体としては一流とは言えない。曲については、わかりやすい。多分に漏れず通俗的で明せきな音楽である。かなりテンション高いタカタカした動きが目立つが、いかにもソビエト時代の大衆向け音楽の感じがする。ハーモニーも曲想もいたって古風だが、ショスタコっぽい旋律が多く楽しめる(この曲、全般にプロコの新古典的書法やショスタコの清明だが皮肉っぽい音楽を彷彿とするところが多い)。緩徐部、緩徐楽章はわかりやすい民謡ふう主題にちょっとクセのある転調をかましたりするところは師匠ミャスコフスキーを(僅かだが)思わせる。3楽章はどこどこどこ低い音域を駆け回るが、畳み掛けるような最後などやっぱりショスタコ。4楽章はアイロニカルな主題はちょっと面白くプロコふうだが(とくに暗い緩徐部の最後でちょっとずつ主題が戻るとこはあざといまでに効果的)、曲の流れはまるでショスタコのわかりやすいところを取り出して組み合わせたようで楽しめる。緩徐部の暗さはあくまで旋律性の上に成り立っておりやっぱりプロコ的。ちょこちょこした動きがダイナミックに交錯する後半〜クライマックスはファーストが辛そう。このカルテットには厳しすぎるかも。曲の良さがうまく消化しきれていない感じがするが、曲はけっこう面白い。1945年作品(終戦の年だ)でカバレフスキーとしては比較的新しいほうの作品だ。プロコは2作のカルテットを既に作曲し終えているが、ショスタコは2番を前年に仕上げたところ(従ってカバレフスキーが逆にショスタコを予告した作品とも言える)。ソヴィエト国家賞を受けた3番(翌年作)が有名。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カバレフスキー:交響曲第2番,

○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1946/3/9live

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快演で、この若干脇の甘い曲を引き締まったオケによりきびきびと演じている。トスカニーニが比較的よくやった曲だが、なにせオケが違う。ボストンは寄せ集めNBCオケなどと違う。合奏のボリューム、大きなデュナーミク、響きの底深さ、2楽章など曲が緩いのでどうしても弛緩して聴こえてしまうものの、両端楽章の迫力は十分に買える。身の詰まった演奏。冒頭テープヒスが痛ましいなど悪録音だが、○。

,,"<カバレフスキーについて>",,ソヴィエト社会主義レアリズムの象徴。体制迎合的な作曲家の中でも最も才能に恵まれ、作風は必ずしも伝統的民族主義には留まらないモダニズムの後波も残しているものの、極めて平易な管弦楽曲の数々で世界中の子供の運動会に貢献した。大規模な歌劇や歌曲でも名声を博し「レクイエム」の自作自演録音は有名。ミャスコフスキーの弟子であることは知られているがゴリデンヴァイゼルの弟子でもあり、ピアノ協奏曲は技巧的バランスにすぐれ今も演奏される。,,"カバレフスキーといえば運動会の定番、道化師のギャロップ。コンドラシンの名盤で。
道化師~ロシア管弦楽名演集
コンドラシン(キリル)
BMG JAPAN

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","コラ・ブルニョン序曲。敢えてトスカニーニ盤。
Arturo Toscanini Collection"," Volume 51: Overtures

RCA

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",トスカニーニのカバ2>,"1942/11/18LIVE","協会盤(1942LIVE)","1945/3/25LIVE",,その他指揮者のカバ2>,"ラフミロビッチ"
カバレフスキー:交響曲第2番,○ラフミロビッチ指揮ローマ聖チェチリア管弦楽団(EMI)CD,,早世が惜しまれる名手だが、このミャスコフスキーをあく抜きしてプロコの手口を付けたしたような余り受けそうにない曲目のリズムと旋律の魅力を引き出し、技術的に完璧ではないものの俊敏で洗練されたスタイルを持つオケの表現意志を上手く煽って聞き応えのあるものに仕立てている。二楽章はそれでもキツイが、速い両端楽章はとにかく引き締まってかつ前進力にあふれ、力強くも透明な色彩感を保った音がロシア臭をなくしとても入りやすい。即物的だがトスカニーニのように空疎ではない、古い演奏では推薦できるものだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カバレフスキー:交響曲第2番,トスカニーニ指揮NBC交響楽団(?)1942/11/8LIVE,,音が悪すぎてよくわからない。曲はちょっとショスタコの1番を思わせる簡素な構造を持っているが、ボロディンやカリンニコフを削ぎ落とし骨にしたようなじつに古色蒼然。新しさと古さの自然な同居ぶりがカバレフスキーの特長なんだろう。ただこれは、音が悪すぎてよくわからない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カバレフスキー:交響曲第2番,トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CDーR)1945/3/25LIVE,,録音が非力すぎる。かなり乗って演奏しているみたいだが想像で補完しないとこのわかりやすさの極致のような曲でも解析がつらい。トスカニーニがなぜにこの恥ずかしい曲を何度もやっているのかわからないが、ロシア国民楽派嫌いに陥っている私でも引き込まれる瞬間はあった。アンサンブルと集中力。おそらく協会盤LPと同じ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カバレフスキー:交響曲第2番,トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1942/11/18(8?)LIVE,,録音が籠もりまくりで非常に聞き辛い。この音は聞き覚えがあるので既出盤かもしれない(後注:11月8日のものとされる音源がweb配信されている)。没入しない引いたスタンスの音とテンポをとっているが、退屈な緩徐楽章のあとフィナーレがやけに速く、その中にひそむイマジネイティブな瑞々しい曲想を鮮やかに浮き彫りにして、まるでジョン・ウィリアムズの映画音楽のように爽やかな主題が暗い一楽章の主題再現を押し退け、すっぱり抜け出たまま綺麗に締める。ドラマはないが客席反応もいい(一楽章最後に拍手があっても)。録音がよければじつにカラフルな南欧的な明るさを味わえたかもしれない。トスカニーニの適性がどこにあるのかはっきりわかる演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カバレフスキー:交響曲第2番,トスカニーニ指揮NBC交響楽団?(協会盤)1942,,非常に音の悪い協会盤であるがリマスターした復刻があればぜひそちらを聞いてほしい。冒頭の和音だけでもう聞くのがイヤになる野暮ったいロシアン晦渋だが(これがなければ国家(某女史)が許さなかったのだろうが)、まあ前半楽章はなんとか我慢するとして(よく1楽章最後で拍手が出たもんだ、逆に感動する)、後半楽章で軽やかで楽しいカバちゃん風味が出てくるので、コラ・ブルニョン的感興はそこまで待ちましょう。トスカニーニ自体は凄いですよ。こんなのトスカニーニじゃなければまともに弾きたくないでしょう、お国ものでもあるまいにアメリカ人。最後まで雄弁にしなやかに突き進む。音響が小さくまとまるのはこの時期のライヴ録音では仕方の無いもので、決してトスカニーニ自体が小さくまとめる指揮者ではないとは思うが、まあ、スケール感は期待できない。純粋に運動だ。好意的に聞いて○、しかしあんまりにも音が悪いので無印。いっしょに入っている43年録音コラ・ブルニョン序曲なるものは英国のCD化音源と同じと思われるが非常に音は悪い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カバレフスキー:交響曲第4番,○ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(NICKSON)1957/3/11LIVE・CDミトロプーロスの勢いに圧倒される。このプロコフィエフとショスタコーヴィチを足して4で割ったような作品に対して、つねに旋律を意識しそれに絡む音を巧く制御しながら流れ良い音楽を生み出している。1楽章などかなり面白いのだが、2楽章あたりでちょっと飽きてくる。それでもさすがミトプー、曲の弱さは勢いでカバー。結果として3楽章以下面白さを巻き返し、大団円につなげている。ほんと聴いているとプロコフィエフ、それも晩年の穏健なプロコフィエフを思わせる旋律、コード進行、楽器法のオンパレードで、それはそれで面白いけど、借り物のように座りの悪いところがある。全般にこの作曲家にしては少し暗さを感じさせる所があるが、そこはショスタコーヴィチの11、12番シンフォニーの雰囲気と物凄く良く似ている(民謡旋律のとってつけたような使い方も似)。但しこちらは56年作品、ショスタコの11番が57年作品。まあ同時代の空気に同じように反応したということなのだろう。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カバレフスキー:交響曲第4番,○作曲家指揮レニングラード・フィル(MELODIYA)まあ新古典主義の影響を受けたマイナー交響曲という感じで、いささか冗長感のある曲である。終楽章などけっこうかっこいいが、旋律の魅力はそれほど強くないし、響きの面白さもソヴィエト楽界の最大公約数的なところに留まっている。メロディヤ録音の常で響きがスカスカに聞こえるのも痛い。悪くはない。アメリカあたりのアカデミックな交響曲に比べれば段違いにスマートでわかりやすい。でも聴きおわって終楽章以外の印象が残っていないことに愕然とした。おまけで○ひとつ。CDで出ていたが現在入手可否不明。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ガブリエリ:アリア・デラ・バタグリア,チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送響GH-0017 greenhill,,管楽器のための凡庸な曲。欠伸が出た。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カプレ:赤死病の仮面,カンブルラン(hrp)プレートル指揮モンテカルロフィル(EMI)CD,,通常室内楽編成で演奏されるがこの弦楽合奏版が原型で、前者はConte Fantatastique(幻想的な物語)と副題される。ドビュッシー風の音楽に強いアクセントを加えて(多分にハープの低めの弾音に依るが弦楽合奏版だといっそう押しが強くなる)、ストラヴィンスキー風の異化はされず巧く品を保ったまま、舞踏会の典雅な光景に毒を混ぜてゆき、シニカルに爆ぜるさまを描写している。正直音楽としては室内楽版のほうが楽想に対しバランスが良く耳に優しいが、ポー劇としてはこのくらい押し付けがましい方がいいのかもしれない。これは比較対象がすくないので評しづらいが、ハープの野太い音と合奏の力強さが印象的な演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
キャプレ:幻想曲「赤死病の仮面」,"",◎ラスキーヌ(HRP)ヴィア・ノヴァ弦楽四重奏団(ERATO)CD,,アカデミックでロマンティックな場所からドビュッシーの薫陶をへて、更にルーセルにも似た神秘主義的作風にいたった頃の名作である。生徒でも友人でもあった評論家カルヴォコレシがその化け具合、ドビュッシイズムからも離れた孤高の境地に強く惹かれた、一連のハープと弦楽器のための作品群の頂点ともいえる。ドビュッシーとメシアンのミッシングリンクというライナーのくだりは日本盤CDで訳されているだろうか。指揮者としても国内外で評価を勝ち得ていたキャプレは、シェーンベルクの管弦楽のための五つの小品をフランス初演したことからも伺えるように(フランスは早くからシェーンベルク受容の進んだ国であったが)常に前衛的な新しい音に興味をいだいていたことは間違いない。ドビュッシーの影響は残るが、活動的には早いうちに離れたことからも、先進的なキャプレの移り身の速さ目先の鋭さを伺うことができる。最終仕上げを手伝った聖セバスティアンにも神秘の要素はあるが、シェーンベルクからの影響を受け更に「月に憑かれたピエロ」に先んじた技法に至る(別項の七重奏はドビュッシーの無歌詞歌唱の器楽的用法からシェーンベルクの確立した朗誦法までの間に生まれた作品として注目される。キャプレが長生きしていたら室内作品でも大成したことだろう、その手法は一見単純素朴だがそのじつ精緻で無駄のないかつ個性的なものだ)、当時としての極北を進もうとしたこの作曲家が、志半ばで頓死したことは返す返すも残念である。,,これはポオの本にもとづく。亜麻色の髪に蒼い顔のキャプレらしい不健康さがある(指揮をよくしたことからも人間的には快活だったようだが)。ゴシック・ホラーな場面から始まり(独特、だが美しさの範疇からは決して出ない)、カルヴォの言葉を借りればまさに「きびきびしなやかに」自然な場面転換から、非常にドビュッシー的なハープのリリシズムに、生来のロマンティックな弦楽器の音線(旋律の形にはならない)を絡め、時折ゴシックホラーなハーモニーやモダンなパセージが絡まるものの、おおむね精密に選ばれた音の動きや単純なアンサンブルにより、徒に難しくすることなく、バレエ音楽的なイマジネーションを掻き立てる耳馴染みのよい作品になっている。カルヴォはディーアギレフのためにバレエ改作を勧め断られているが成る程バレエになりそうだ、しかもそれまでにない怪奇な。楽器を叩く音や、末尾の神秘も極まるハープの繊細かつ不可思議な動き(ローマ賞で打ち負かしたラヴェルの操る器械的な響きに寧ろ接近している)など、劇伴的ではあるが、この超名盤の取り合わせ、とくにラスキーヌの有無を言わせぬ美質を備えた完璧な表現力をもってすれば他に何もいらないと思えてくる。私はこのLPではじめてヴィア・ノヴァを知ったのだがこれこそ「フランス的」なるものかと膝を打った記憶がある。他にも長いキャリアでいろいろやっていて来日もしているが正直、この盤の印象を凌駕するほどの完成度を感じたことが一度として無い。これはハープがとどのつまり主役なのであり弦楽器は賑やかしなのだ。,,何が言いたいかというと、◎以外に思い付かないということである。下手な演奏聞くならこれだけ先に聞いておいたほうがいい。曲のイメージがここまでクリアに描き出された演奏はないから。録音も透明感があって柔らかなステレオで素晴らしい。,-----,,TITLE: 招話in1999からの暑中お見舞い納涼大会,URL: http://drenkaizan.exblog.jp/4064587,BLOG NAME: 六国峠@ドクター円海山の音楽診療室-シカゴ響でブルックナーを聞き比べるコアさの件について,DATE: 08/06/2006 14:21:43,遅ればせながら暑中お見舞いを・皆様へ,,大好評の「ゲオルクさん」のお詫びにクラオの後輩「ゆりかもめ」嬢をメインに・・・・
キャプレ:赤死病の仮面〜E.A.ポーの幻想的テキストによる,◎F.スラットキン指揮コンサート・アーツ管弦楽団、M.ストックトン(hrp)(capitol),,テスタメントのシリーズでCD化されているかもしれない。とにかく迫力の演奏である。分厚い弦楽合奏の筋肉質な働きによるところが大きいが、多少幻想的な意図のあるハープの挿入も冒頭以外ではかなりギタリスティックな効果と化けているところがあり、まあ、原作の雰囲気がこんなにアグレッシブで前向きに明るいものではないにせよ、合奏曲としての純粋な音楽的興味は惹かれる。テキスト設定は個性的だが内容的には決して個性的でもない、同時代のハープを利用したフランス楽曲の一つと言ってしまえばそれまでだが、しかし、ここにはほんとに赤くなり死んでしまうアグレッシブな病がこれでもかと猛威を振っている。しかも邪悪じゃない、ビリーのように明るくアグレッシブだ。アメリカだ。でも、はっきりいってアンサンブル曲としてこういうリアルな描き方、面白いです。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
キャプレ:無歌詞女声と弦楽による七重奏曲,○ルイ・オーベール指揮カルヴェ弦楽四重奏団他(LYS)CD,,非常に魅力的な印象派ふうのフレーズから始まる透明な美感に溢れた曲だが、曲の中心がSQによるがゆえに曖昧なままの音楽にはされず、序奏の激しい刻みに象徴される剥き出しの音楽には明確なフォルムがあって、寧ろ前期RVWを思わせる。ドビュッシーよりはラヴェルに近いのかもしれない。コード進行からはドビュッシーのうつろいを感じるものの、音楽はよりリアルで技巧的だ。カルヴェQの非常に美しい音色がかなりプラスに働いており清々しいロマンチシズムがそこはかとなく漂う。欠点のない素晴らしい曲だが逆説的にひっかかりがないとも言えよう。しかしこのフランス近代好きをのけぞらせるような憎い編成といい、看過したら損します。歌声も懐かしい。カルヴォコレシによれば1909年に創作されたこの作品はまだ戦争に行く前の一連の美しい室内作品の一角をなすもので、年上の弟子で友であったこともあった彼は、女声の器楽的用法などの独創性と可能性を高く評価していたが、その方向には本人は余り興味がなかったようだ。この作品も生前には出版しなかったようである。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カラーエフ:3楽章のヴァイオリン協奏曲,コーガン(Vn)スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(ARLECCHINO/MELODIYA)1968/4/28LIVE・CDゲンダイ曲。併録のバルスコフよりもゲンダイ的でベルクぽい。速い楽章は圧巻で、よくこんなのさらう気になったな、という旋律性の無いただひたすらムツカシイパッセージの表現は凄まじく、コーガンの豪快な音楽を堪能できる。3楽章はちょっとウォルトンのチェロコンを思わせるところがあって、硬質なひびきの中にもいくぶんセンチメンタルな感触が無いことはない。でもまあ、曲としてはさほど魅力的とは言えないし、コーガンもテクニックばかり前面に立って音楽家性が薄い気もなきにしもあらず。無印。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カラーエフ:交響曲第3番,○バルシャイ指揮モスクワ室内管弦楽団(MELODIYA/ETERNA)LPこれなんてオリンピアでCD化してそうだがどうなのだろう。バルシャイの水際立った指揮が鋼鉄のように厳しいアンサンブルを組み立ててていくさまはとてもスリリングだ。とにかくこの人、同楽団と一時代築いただけあって凄い音を引き出す。弦のしょっちゅう軋む恐ろしく気合の入った音、とにかく高いテンションは溌剌とした1楽章からバリバリに発揮されている。不協和音を多用したゲンダイ曲だが(いわゆる「現代曲」ではない)明確な旋律が確認できる曲で、すこぶる構造的なところは寧ろ遅れてきた新古典主義といった様相を呈している。清新なひびきが特徴的で決して臭くならないのはロシアの作曲家としては珍しい。あきらかにヒンデミット的な晦渋さも秘めた1楽章のあと、2楽章はがらっと変わって実に美しい音から始まる。ハープシコードの響きがじつに美しく、穏やかな田園の風景が思い浮かぶ。これはカラーエフ出色の出来で必聴。ピアノも導入されていて、時々暴力的な響きが織り交ざったり同じところをグルグル回るようなリズム構造からしてもストラヴィンスキーの影響は明らかだ。それもかなり隔世遺伝である。ちょっとミヨーかもしれない。バルシャイはとても明快だ。3楽章は不協和音が支配する楽章だが、それでも尚どこか感傷的で美しい。この作曲家独自の美意識が伝わってくる。清潔な情感が心地いい。4楽章はふたたびヒンデミットである。冒頭のフーガからしてそのものである。だが、カラーエフの音楽にはヒンデミットやミヨーの肉汁の垂れるような音楽とは全く異なる「白さ」がある。バルシャイの指揮もそれを明らかにする。最後は謎の静寂で終わる。なかなかの力作だがロシア国民楽派を期待して聞くと完全に裏切られるのでご注意を。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カラーエフ:交響的素描「ドン・キホーテ」(1960、原曲57),○ガウク指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA/ETERNA)LPアゼルバイジャンの民族的作曲家カラーエフ。モスクワ音楽院出のショスタコ門下だそうだ。その音楽にはあまりショスタコふうのものは出てこないが、たとえばこの曲のような完全に「わかりやすい路線」にある作品にはショスタコが確信犯的に書いた映画音楽に通じる感覚が無くは無い。ちなみにこれも映画音楽からの編曲であるが、ショスタコを遥かに越え完全に旋律的で極限まで平易にてっしている。非常に垢抜けて綺麗な音楽である。その開放的な響きはアメリカ臭くさえある。また、冒頭などハーモニーにヴォーン・ウィリアムズを思わせる仄かな感傷性が込められていて印象的だ。プロコフィエフの轍を踏んでいることは確かだが、プロコフィエフのような「灰汁」が無い。それを美しさと捉えるか詰まらなさと捉えるかは好みによるだろう。私は非常に楽しめた。最後はコラール的な高弦の折り重なりかたがカラーエフらしい。それは微妙に不協和なひびきを産み出し、アイヴズの情景音楽を彷彿とさせる瞑想的な雰囲気を持つものである。ガウクのこれも珍しいステレオ録音だが、適度に豪放で楽しい演奏である。カラーエフは残念ながらソヴィエト崩壊を待たずして82年64歳で亡くなった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カリンニコフ:交響曲第1番,"",◎ラフリン指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA他)CD,,最近はもっぱらHDプレイヤーに落として聞いているのだが、機種によって操作方法が違うので混乱する(何台も使い分けているのです)。2番も落としたはずなのに楽章が欠けていた。うう。わいいとしてラフリンである。余り上手くない指揮者としてロシア好きにも評価されてこなかった人だが、録音は夥しく遺されており、イワーノフ同様演目によって出来にだいぶ差がある。これは「すぐれていいほう」だ。遅いめのテンポでひたすら情緒てんめんに歌いあげてゆく。音のキレがよく発音も男らしくはっきりしているので全然ダレない。テンポが全く流されない。こんなに感動的な旋律だったのか、情感たっぷりなうえに四楽章では派手な祝祭音楽とのコントラストが見事に決まっており、最後は感涙すら禁じ得ない素晴らしいフィナーレを迎える。豪放にぶっ放すブラス、一体化し繁雑な装飾音も乱さぬ集中力で力を尽くす弦楽器、とっぴさはないが上手い木管、もちろんロシアオケならではの乱暴さやバラケもあるがそれがまったく気にならないのは解釈の芯がしっかりしているからだ。所々国民楽派やグラズノフを彷彿とする場面では確かにこの作曲家がロシアの連綿とつらなる山脈の一角に聳える秀峰であり単独峰ではないのだということを実感させる。どうして最近はこういう感情的に揺り動かされる演奏が無いんだろう?こういうふうに引き締めればカッコ悪くなんかないのに。あ、こんな馬力のオケ、ロシアにももうないのか。アナログならではの、瑕疵を埋没させるふくよかな音響がCDのリマスタリングじゃ失われてしまうため受けないと思われているのだろうか。カリ1録音史上に残る特徴的な演奏だと思った。◎。国内マニア向けマイナーレーベルでCD(R?)化。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,
カリンニコフ:交響曲第1番,○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(KARNA/WME:CD-R)1982LIVE,,荒いがなかなか高揚する演奏で、音色的にも適性的にもこのロシアロシアした演歌にはあわない気もするのだが、細部に拘らなければ面白く聞ける。テンポも速く(二楽章は逆に遅い)、スポーツ的感興が得られるという点ではスタジオ盤より面白いといえるだろう。細部のことを書いたが確かに1楽章からして弦のアンサンブルが乱れたり音色が冷たく単調になってたりするのだが、茫洋と聞くと面白いのだ何故か。だからうるさいこと言わずにライヴのこの曲を楽しみましょう、なるべくヘッドフォンよりスピーカーのほうが、細部の荒さが目立たないからお勧め。ブラヴォ凄いね。スヴェトラ全盛期はこのころまでなのかな。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カリンニコフ:交響曲第1番,○セヴィツキー指揮インディアナポリス交響楽団(RCA)1943・SP,,同曲最古の録音として知られるが、カリマニアにはほとんど看過されている代物。でもどう聴いても相対的に悪い演奏には思えない。とくに1楽章はトスカニーニをしのぐ迫力のある高速演奏で特筆できる。トスカニーニは大した録音を残していないから同じような芸風として楽しめる。プロオケの正規録音にしては走り過ぎ流れすぎだけれど昭和初期の演奏なんてそんなものだ。中間楽章はちゃんとしてはいるが平凡。4楽章が序奏後テンポを遅く整えてしまう演奏はよくあるが、この演奏もそのとおりでクライマックスまでいかないとフォルムの崩れた攻撃性は現れてこない。でも悪くはない。繰り返すが、無視するほど悪い演奏ではない。webに音源が出回っているがノイズリダクトされたなるべくいい音でどうぞ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カリンニコフ:交響曲第1番,○ラフリン指揮ボリショイ歌劇場管弦楽団(vista vera)1949・CD,,国内プライベートCDでも復刻されていたスタジオ既出盤とは別録音とのことだが、きほん解釈は同じ。旋律の起伏にしたがって伸び縮みする典型的なロシア演奏様式は、しつこくて違和感しきりだが、一回はまると他が聴けなくなるもの。後半楽章が重くがっしりしすぎていて、さすがに終楽章はテンポが立ち止まりがちで遅く、何度もクライマックスを築くから早く転調して終われよ、と思うところもあるのだが、オーケストレーションからハーモニーからチャイコフスキーの影響がとても強く現れていることをしっかり確認することはできる(小ロシアくらいのシンプルなものに留まるが)。重心の低い、沢山のトロンボーンに支えられたフィナーレの盛大ぶりには、この曲がほんらいこういった野卑た雄大さを示す、けして洗練された西欧折衷派作品として扱うのは正しくない、と思わせるに十分なものがある。しょうじき木管以外はボロボロで、ブラスがペットを除いては詰まらなそうとか、弦楽器がばらんばらんで録音バランスも悪いとか、でもこれはラフリンにおいては普通である。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カリンニコフ:交響曲第1番,○ラフリン指揮モスクワ放送交響楽団(SERENADE:CD-R他),,MELODIYA原盤、そちらは別項にあげた。セレナーデは単純板起こしのはずが強調処理やノイズリダクトの感じがして、いかにもロシアなアナログの巨大なぶよぶよした音響を、少し乾燥させ主観的にわかりやすく彫刻しなおしたような違和感をおぼえた。元が悪い録音とはいえスケールが落ち、デジタル圧縮音源の復号化した音みたいにも感じ、単純勉強用にデュナーミクやテンポの変化だけを拾うには向くがとくに弦楽器のニュアンスや厚みの変化を読み取るには不足をおぼえる。まあ、細部を無視し大局的な解釈だけ正確に聞き取れるゆえ、あー、ラフリンも大局的にはたいした解釈を提示してないんだな、ということを認識できたぶん価値があった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カリンニコフ:交響曲第1番,ヤルヴィ指揮スコティッシュ・ナショナル管弦楽団(chandos)1987・CD,,だいぶ昔に録音してなかっただろうか?あるいは今出ているこれが再発なのか。交響詩との組み合わせだった記憶があるのだが。さて何でも振るがゆえに一律性急でそつなく感じるものもある父ヤルヴィのイギリスオケものである。イギリスオケらしくやや冷たく精度と引き換えに熱量が下がり、人工的な振幅の大きい解釈に対してどことなくよそよそしさを感じさせるが、普通の耳からすれば凡百の録音よりよほど感動的なロシア交響曲を楽しむことができるだろう。音のトーンが変わらないのでニ楽章の冬の日のしんしんとした雪を感じさせる音楽はあまり際立たないし、四楽章冒頭も音量が小さめの感はある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カリンニコフ:交響曲第1番(1894-95),×ゴロワノフ指揮ボリショイ劇場管弦楽団(SEVEN SEAS/BOHEME他)1945録音悪すぎ。バランス変。ゴロワノフ好き向けの演奏だろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カリンニコフ:交響曲第1番(1894-95),○アーベントロート指揮ライプツイヒ放送管弦楽団(TAHRA他)1949/11/16ドイツ的カリンニコフの希な例。個人的には重厚なカリンニコフという新鮮な姿に惹かれた(3、4楽章)。総じて神経の行き届いた演奏になっている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カリンニコフ:交響曲第1番(1894-95),○コンドラシン指揮モスクワ・フィル交響楽団(MELODIYA他)CD〜言わずもがなのロシア国民楽派孤高の作曲家。夭折したがロシア民謡のロマンスと瑞々しいオーケストレーションでマニアの注目を浴び続けている交響曲2曲でのみ知られている。ここにあげた1番は特に人気の逸品だ。戦前よりコンサート・ピースとしてしばしば演奏されてきており、最近はアマチュアも無謀にも挑戦するほどだ。さて、演奏である。コンドラシンの水準からすると、ややオケの統率力が弱い気もしなくはないが、奇をてらわず正攻法で行ったところはいかにもコンドラシンらしい。オケ、とくにヴァイオリンがマイクに近いせいか至近の奏者の生音だけが出てしまって、薄くてスカスカな音響になってしまっているところがあるが、これは録音のせいであり、演奏自体の欠陥ではないだろう。1、3、4楽章は客観性を保ちながらもきっちりと縦線のあったアンサンブルでタテノリのリズムが心地よい。イケイケで感情の赴くまま演奏するとすぐバラバラになる危険性をはらんだ曲だから、ある程度客観的になるのは仕方ない。あのスヴェトラーノフでさえ終楽章の怒涛の盛り上がりもそれほどテンポを上げずあえて客観的に演奏している。1楽章は第二主題のボリュームのある表現が雄渾でいてしかも憂愁に溢れ特筆すべきところだ。ただ、祝祭的に盛り上がり全オーケストラが鳴り響く場面では、元来この曲の持つ構造上の欠陥ともいうべきものが、演奏の勢いでカバーしきれずに、各声部がバラバラにばらけて聞こえる部分がなきにしもあらず(粗雑で分離が良すぎるステレオ録音のせいかもしれない。同様の状態はスヴェトラーノフのショスタコーヴィチ5番旧録でも聞かれた)。でも同曲の数々の演奏録音の中では高い位置に置けるとは思う。大抵の録音は、古いロマンティックな時代のものであっても、テンポ維持とアンサンブルの整合性を意識するあまりしゃっちょこばったぎごちない演奏になってしまっている。この演奏はよくできているほうだ。一方2楽章のような情緒的で繊細な音楽はいまひとつ感情が盛り上がらない(感情のもともと希薄な演奏がコンドラシンの売りでもあるのだが)。このあたりなどを聞いても、名盤で知られるスヴェトラーノフには水をあける。この曲は至極古風な国民楽派の交響曲である。同時代の現代曲が得意だったコンドラシンにはやや本領発揮しかねるところがあるようだ。この演奏でいちばん印象が薄いのが2楽章だった。全般的には、○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カリンニコフ:交響曲第1番(1894-95),○スヴェトラーノフ指揮NHK交響楽団(NHK)1993/2/3LIVE肝心の弦楽器に弱みを感じるが、名盤であるソヴィエト国立との録音に見られる美質が諸所に感じられ比較的穏かであるものの十分に楽しめる演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カリンニコフ:交響曲第1番(1894-95),◎スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)1975幾度となく複数のレーベルから組み合わせを変えて再発されてきた同曲の決定盤。集中力が高くそれでいて雄大な表現はこの指揮者の最良の形を伝えるものだ。終楽章の力感・熱気は並々ならず、リムスキー的な対位構造を一糸の乱れも無い強固なアンサンブルで鮮やかに演出し、カタルシスの連続で最後まで離さない。一方2楽章のような静寂の演出も、しんしんと降り積もる雪景色の中で暖かな夕べを迎えるといった夢想を抱かせる。とにかくこの演奏を聞いてからはどんな演奏も生ぬるく間延びして聞こえるだろう。・・・もっとも、終楽章などスヴェトラの粗雑な面も顕れているのだが。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カリンニコフ:交響曲第1番(1894-95),○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(SEVEN SEAS他)万全の演奏ではない。スヴェトラーノフを別格として序列を付けるとトータルで次点につくということ。トスカニーニの表現様式に対して録音の悪さは大きなマイナスだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カリンニコフ:交響曲第1番(1894-95),○ネーメ・ヤルヴィ指揮ロイヤル・スコティッシュ国立管弦楽団(CHANDOS)1987/4/14-17・CD スヴェトラーノフ盤と双璧をなす名演だ。うーん、ヤルヴィのこの巧さはなんなんだろう。オケから力強い表現を引き出し、一つの方向に纏め上げる力は今現役の指揮者の中でもずば抜けている。このオケは結構出来不出来があって、雑味も多いのだが、この演奏では非常に纏まりがよく、全ての楽器が絶妙のバランスで組み合っている。ドラマティックな表現も十分だが、踏み外すことがないから一定の品格を感じさせる。カリ1は構造的に単純なだけにけっこう粗が目立ち易いのだが、ヤルヴィの演奏はどこにも隙が無い。1楽章はロシアの演奏に馴れた人は食い足りないかもしれないが、音色的にはかなりロシアだ。弦楽器の迫力有る音はこのオケらしからぬ凄みを持っている。ヤルヴィはどんな曲でもそつなくこなすが、ここでは「そつがない」以上のものが感じられる。とにかく一種確信をもって表現しているため、どことなくロシア性が足りないと思いつつも、文句の付けようが無い。2楽章の寂しさはどうだろう。遅めのテンポで軽い諦念を感じさせる陰影有る表現を行っていて秀逸である。音響に対する優れたバランス感覚は3楽章のスケルツォで明瞭に発揮されている。ボロディン的な舞曲のリズムは中間部の憂愁の旋律で寧ろ明確になる。リズミカルなテンポ廻しはこれがたんなるエキゾチックな旋律ではなく、民族舞踊の音楽なのだ、ということを認識させてくれる。意外なほどにロシアの香りが強く感じられる楽章で、オケに少し弱みも感じるし、やや客観が優る解釈ではあるものの、有無を言わせない完成度の高さがある。終楽章はスヴェトラーノフ盤以上に盛り上がる。どぎつさが無いぶん物足りないと感じる向きもあるだろうが、結構田舎っぽい音色が(意図的なのか無意図なのかどうかわからないが)やはりロシア的な匂いを感じさせ、これはこれで十分にカリンニコフしていると思う。ヤルヴィはいくぶんテンポを引き締めて音楽がダレないようにしているが、とくに終盤でスヴェトラーノフ盤が落ちついてしまうのに対し、テンポを引き締め敢えて速めに持っていって緊張感を煽っており、圧倒的なクライマックスを演出している。最後の最後でマエストーソという感じでテンポを落とすところが心憎い。まったく、設計の巧さは天下一品だ。ブラスがやや及び腰ではあるが全体のバランスの中では巧くはまっており許容範囲だろう。デロデロの抒情を歌う感動的な熱演ではないが、カリンニコフの鮮やかな管弦楽法と斬新なコード進行がよく描き出されており、より深くこの曲を知ろうとする向きには勧められる。ロシア臭が嫌いな向きにも、もちろん。◎にしてもいいのですが、個人的な感覚で○としておきます。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カリンニコフ:交響曲第1番(1894-95),シェルヒェン指揮チェコ・フィル 1951/6/5(TAHRA)オケのせいもあって“らしさ”は希薄だが、良く聴けば悪い音の中から表現意志の片鱗が伺える。終楽章はやや面白い。録音やや悪し。ちなみに映像もあるが(グレート・コンダクターのシリーズ、チェコ・フィルの百年他に収録)、ごく短い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カリンニコフ:交響曲第1番(1894-95),ドゥダロワ指揮ロシア交響楽団(OLYMPIA/KNIGA)1992 左右がかなり分離してるわ・・・って崩壊してんじゃん、なにこれ?シロートだったら許されるだろうけど、仮にもロシアの名を頂いたオケが・・・とくに弦・・・こんなばらけた緩い演奏してしまったらしょうがないな。。1楽章で既にこうなのだから、集中力の強い爆演は最後まで望むべくもない。単調なテンポ廻しを含め、いろいろと文句が言い易い演奏だ。こういうオケが2楽章をやったら案外上手だったりするのだが、ドゥダロワはじつにさらっと演奏させており、それに木管ソロの音が良く載る。薄いヴァイオリンも薄いなりに高音の音色に拘っているようだ。対位法的なパッセージもドゥダロワの交通整理によって良く噛み合っている。冒頭と最後はやっぱり雪の夜のきらきらした雰囲気をかもし期待を裏切らない。幻想味がよく引き出されて秀逸である。3楽章もヴァイオリン方面にやや綻びが見られるが、まずまずのテンポ感。そして大団円の4楽章とくるわけであるが、これがなんとも遅い!異常な遅さで、これはこのオケがきちんとしたアンサンブルを保てる限界の速度なのか、と思わせる。あながち外れてはいまい。もっともスヴェトラーノフの有名な盤でもバラケ感が出てしまっているような楽章なので、仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。最後まであまりに遅いので笑みがこぼれてしまう。これは、奇演だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カリンニコフ:交響曲第2番,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(russian disc/melodiya他)1953,,録音が古びて遠い。細部が聞こえてこないのは辛い。また、比較的ムラヴィンスキーの若い時期を彷彿とさせる、未だロシア様式といってもいいような派手めの演奏で、オケもレニフィルにしては拡散傾向をとくにブラスあたりに感じるから少し異色だ。円熟ムラヴィンファンにはそれほどアピールしないのではないか。曲がやや構成的に弱いところもあってどこを焦点にきいたらいいのか、3楽章で終わっておけばよかったんじゃないかとか考えさせられるが、この演奏もやはり3楽章をまるでスヴェトラのチャイ5のように盛り上げている。交響組曲ふうの内容はバレエ的ではあるがムラヴィンはそこまでロシア式におもねってもいず、小粒な印象もあるが精度はこの曲のディスコグラフィの中ではなかなか上のほうだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
カリンニコフ:交響曲第2番,○ラフリン指揮VRK交響楽団(DGGSY)LP,,キリル文字ではB.P.K.で瞭然であるがモスクワ放送交響楽団の略称である。この録音をきくにつけロシア録音は収録ホールやマイクセッティングなど録音状態を加味せずに安易に巧い下手などと言ってはならないなと思う。これは余りにマイクがヴァイオリンに近いのだ。舞台上前方でファーストのフォアシュピーラーに接近しておかれているのだろう。こういう録音はメロディヤでは多い。よく無邪気なロシアファンが「自嘲的に」言う音色のバラバラ感や一部奏者の突出というのは、必ずしも外れてはいないがこんな演奏外の部分で誇張されてしまっている節もある。バラバラということは薄く聞こえるということである・・・ハーモニーの整わないオケの音量が弱く感じるのと同様。アナログ盤では音響全体が何かしらの微音で詰まっているので余り気にならないが、デジタル化されるとまるでロジェスト/文化省管のグラズノフのCDのようにスカスカに聞こえるものだ。そういった状況がメリットに響く場合もあり、絶対きっちりとは揃わないたぐいのソリスティックで技巧的なフレーズや装飾音を合奏部分に多用する「困った」作曲家のときは、「一部奏者の音だけが細かく聞こえることによって」救われる。ただ、この曲は決して技巧的ではない。1番同様ヴァイオリンに細かい音符の刻みが多いが、ラフリンのやや弛緩したテンポの中では皆十分に雄渾に弾けており、だからこそ残念なのは最初に述べた様な録音「瑕疵」なのである。この演奏は音楽のロマンチシズムを引き出せるだけ引き出そうとしている。そのためにテンポの沈潜も辞さないし、これでもかと言わんばかりに歌う。1楽章はまったく名演であり、ここまで雄渾でドラマティックな2番の演奏を初めて聞いた。オケのやる気も十分である。しかしここで思うのはカリンニコフの才気の衰えである。2楽章でいきなり魅力は薄まり、3楽章も第二主題あたりには明らかにボロディンやリムスキー的な民族の雰囲気があるもののどうも精細に欠ける。,,4楽章はまるでエルガーの2番かグラズノフの8番だ。とくに後者の状況とよく似たものを感じる(スケルツォと終楽章に近似性を感じるのだが)。才気は衰えてしかも体力が最終楽章までもたない、しかし技巧的には高まり演奏者は演奏しやすい、もしくは演奏したくなる。1番は各楽章のコントラストが極めて明確で旋律もこれ以上ないくらい才能に満ち溢れたものである。しかし単純だ。演奏者はただ面倒なばかりで魅力的な旋律も飽きてきてしまう。2番は構造的により作りこまれてはいるし、グラズノフ同様以前の作品では才気のまま書き進めそのまま出したような、一方で「お定まりの型式の中で出来ることを精一杯やった」といった清清しい風情を持っていたのが、才気を型式の中に抑えこみ独創性は主として思考の産物として盛り込もうという方向に行ってしまい、技術的にはある種アカデミックな指向をもった「山っ気」がでてきたがために、却って中途半端な出来になってしまっている感がある。スヴェトラの有名な録音があるが、あれで聞くと録音が遠いだけに尚更薄ーいぼやけた印象が否めない。ここではリアルな肉感的な音で楽しめるので、1楽章とスケルツォの一部だけは楽しめるが、終楽章は1番みたいにオペラティックな大団円で終わらせればいいものを・・・とか思ってしまう。演奏的にははっきり言って今まで聞いたどの2番より面白かったが、1楽章以外をもう一度聞くかというと・・・。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,
カリンニコフ:交響曲第2番(1895-97),△ドゥダロワ指揮ロシア交響楽団(OLYMPIA/KNIGA)1992この曲にみられる構造的な部分をよく聞かせるために敢えて揺れがなく遅い、しゃっちょこばった演奏にしているのだ、と好意的に言うこともできるし、ヴァイオリンを中心としてどうしようもなく薄くてダメな弦楽セクション、これではカリンニコフは歌えない、と批判的に言うこともできる。個人的には前者の可能性はないと思う。唯一面白いと思ったのが1楽章でのあきらかに古典音楽を意識した表現である。カリンニコフが意図的に採り入れたいわゆる新古典主義(といってもプロコフィエフのそれではなくブラームスのそれ)的な書法は、かえって瑞々しいカリンニコフの感性が損なわれてしまっているきらいもあるが、しっかりした構成感の中に民族的要素を散りばめた、地味ではあれどとても充実した作品に仕上がっている。・・・は楽曲の話。演奏はお粗末。解釈もしてるのかしてないのかできないのかわからないが、無いも同然、一本調子。1楽章の序盤からもうだめです。△ ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カリンニコフ:交響曲第2番(1895-97),スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団 (MELODIYA)1967,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カリンニコフ:交響曲第2番(1895-97),ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC)1953,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
カリンニコフ:交響的絵画「杉と棕櫚」,◯ラフリン指揮レニングラード・フィル(放送)1969live,,交響曲に比べれば民族色はかなり薄い。書法の充実と比例して個性や面白みの減退がみられるように思う。ラフリンはズガシャーンというようなぶっ放し方でロシア臭をより強くアピールしている。オケは実態はレニングラード響か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
キャドマン:マルディ・グラの暗い踊り,○作曲家(P)バルビローリ指揮NYP(BS)1937/12/5live・CD,,アメリカ国民楽派の作曲家。同時代要素や民族的要素を取り入れたロマン主義的作品を書いたキャドマンはむしろ室内楽の世界で知られているだろう。このピアノ協奏曲風の作品はまさにアメリカ国民楽派と呼べる内容で、不自然さのない手慣れた楽曲の中に織り交ざるラグタイムなど楽しい。但し録音は悪く楽しんで聞くレベルには達していない。それに、決して名作ではない。のちのモートン・グールドなどに通じるものがある。ハーマンの白鯨初演とのカップリング。いちおう○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
キュイ:タランテラ,○アルベール・ヴォルフ指揮ラムルー管弦楽団(POLYDOR)SP,,キュイでは有名な曲だ。やや古風であるがゆえに安心して聴ける国民楽派。ウォルフは颯爽とさばき、弛緩なく演じ切る。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グーエ:ヴァイオリン・ソナタ,○A.レーヴェングート(Vn)ドロー(P)(AZUR)1956シャンゼリゼ劇場・CD,,ケクランの弟子で従軍後比較的若くして亡くなっている。収容所生活の後で作曲された晦渋な晩年作品の一つ、隙の無い硬質さを持つが形式を重視した理知性が裏目に出てマンネリズムを強く感じさせる。「世紀末的」で「ディーリアスがメシアンの方を向いたような」、よくあるといえばよくある、懐かしい感じの「前衛保守的作風」といったらいいのか。悲痛さの表現においてこの時代であればもっと効果的な方法はあった筈だが、この作曲家は自らに真摯に対峙した結果これを生み出したのだから素直に聴くべきだろう。2楽章のレクイエムはこの曲の中では独特の個性的な動きの印象を与えるものとなっている(それでも長く感じられるが)。同時代作曲家と密接な関係を持っていたレーヴェングート四重奏団の長がソロを演じているが、非常に微妙な音程の変化が重要となってくるこのような曲にあって、歌い込みが過ぎて「ヴィブラート酔い」を起こしているところが多々みられる。アマチュアがなんとなくそれっぽい演奏をするときのようなもので、しかしフランス派のいいところではあるのだが、この厳格な曲にはそぐわない。半音階的な動きが微分音的な動きに聴こえるところもある。艶かしいのはいいが、曲にあわない。ゴールドベルクのような演奏家に向く曲ではあると思う。SQ3番とのカップリング。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グーセンス:ドビュッシーの墓銘碑,○ウルマー(P)(CONCERT HALL)LP 同時期のドビュッシー追悼曲の中ではわかりやすい方である。とくに終止形は溜飲の下がるような解決の仕方でほっとする。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グーセンス:弦楽四重奏のための二つのスケッチ,○ミュージック・ソサエティ四重奏団(NGS,PARLOPHONE)1925/5・SP,,弟のオーボエ奏者レオンのほうが著名なのだろうか、それにしては後年シンシナティで活躍した指揮者ユージンのほうが”節度のありすぎる”解釈ぶりにもかかわらず盤数もずっと多い。作曲家としては前半生にその活動の殆どを終わらせている。某共有サイトによればこれは1916年作品というので先ずオケのヴァイオリン奏者として活躍した直後の時期のものであろう。ヴァイオリン弾きというのは頗る好色家にて身を滅ぼす場合多きこと、しかし作曲面でその楽器よりくる性格はしばしば良い方向に向かう。「湖のほとりで」は個性的ではないがディーリアス張りのハーモニーに色気があり、ミヨーの上出来の作品のような無駄の無い(単純な)書法で聴き易い。「鬼火」のほうは現代的な作品であり、しゅっと締まったものである。バックスの下手な作品より巧みかもしれない。,,グーセンスの作品はNAXOSでもよく売れていたと思う。スタンフォードの弟子にしては、という作風で、つまりヴォーン・ウィリアムズなどと同様少し前のフランス音楽の影響を強く受けている(指揮者としても色彩的な音作りが売りでドビュッシーのスペシャリストとみなされていた時期もあるようだが、音盤では正直伝わりづらい)。,,そしてこの団体だが、バルビローリがチェリストとして参加しておりSP時代に集中して録音を残している(のちメンバーを半分入れ替えインターナショナル弦楽四重奏団として活動)。活動時期が短くそのいずれもが正直B面扱いだが、私が未だに聴けていないプーネットとのRVW「幻想五重奏曲」については全曲である。パーセルやギボンスなど自国の古典派への志向も感じられ、一方でこのような同時代の自国の最新楽曲を取り上げるというのは、要するにレコード会社の意向で隙間産業的な扱いを強いられたということなのだろうか。バルビローリの意向がそこに入っていたかどうかは不明だがパーセルあたりに愛着を持っていたのは後年の活動からも明らかである。,,技術的にはクリア、という感じ。プラスが無い。押しの弱さを感じる。バルビも含めSP時代の録音にありがちな状態というか、例えば音程のアバウトさなどあり、技巧的に完璧とは言い難い。フレージングも滑らかとは言えず、若さゆえの生硬さというか、小粒感がある。バルビのボウイングが曲の情趣に反し意外と堅いのが興味深かった。,,但し、この曲や古典曲(とCD化されているいくつか)だけでは何とも言えない。バルビローリ協会の活動は遅遅としていて、LP時代後期に自主制作した4枚(全部で何枚かは協会のトップサイトを見てくだされ)の復刻すらままなっておらず、そこに含まれていた幻想五重奏曲や無伴奏抜粋など、バルビローリのチェリストとしての真価を問えるようなものの復刻を、そして一方では恐らく2枚あれば十分収まるであろうこの四重奏団の全記録の復刻を期待したい。ってわりと同じようなことを書いている人が古今東西けっこういるんだよな。,-----,,,-----,
M.グールド:管弦楽のためのスピリチュアルズ,ロジンスキ指揮NYP(SLS)1946/4/7カーネギーホールlive,,アメリカで活動していたわりに多くない、アメリカの現代作曲家作品の記録になる。ついこないだまでご健在だったモートン・グールドはアメリカの作曲家としてジャズからコープランドからそれらしい要素は全部取り込んで、でも、同時代作品同様わかりにくさを混ぜているから、たくさん書いてはいるけれども演奏機会は今や多くない。筋肉の塊をして鋭くキリキリ締め上げるロジンスキスタイルは、ここでは楽天的な旋律やリズムのもつ娯楽性が削ぎ落とされてしまい、モノトーンの律動としてただ激しさのみ伝わる。曲も職人的で名作とは言い難いが、録音が悪すぎて、そのせいでピンとこない可能性もある。最後は珍しくロジンスキの力み声がきこえ、盛大な拍手が湧き起こるから、やはり録音のせいか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モートン・グールド:アメリカ協奏曲(インタープレイ),作曲家(P、指揮)フィラデルフィア・ロビンフッド・デル交響楽団(columbia)LP,,新古典期のストラヴィンスキーにガーシュインを注ぎ込んだような一楽章からして胡散臭さ満点の曲なのだが、ブルーノートを部品として取り込んだだけかと思いきや、三楽章はモートン・グールドらしい機知を感じさせるピアニズムを物憂げなオケに対峙させなかなか聴かせる。四楽章は依然協奏的なやり取りにストラヴィンスキーを感じさせながらも特殊なリズムに鞭など新鮮な打楽器のひびきを重ね、コープランドよりも世俗的で親しみやすい世界を展開する。オケもぱっとしなかったのがここにきてその力量を出し切っている。あっさりした短い曲でけして個性的ではないが、力のある作曲家の工芸品。オケはフィラデルフィア管弦楽団。一楽章マイナスで無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
モートン・グールド:リンカーンの肖像,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(GUILD)1942/11/1LIVE・CDトスカニーニのアメリカ音楽ライヴ集より。アイヴズ的な楽曲で、草競馬などフォスターや讃美歌といったアメリカ伝統音楽がモチーフとして引用・コラージュされている。「おんまが走る ぱっぱか走る」のフレーズは執拗に反復され変容させられており、大仰な表情を見せるなどちょっと笑える。けっこう聞かせる曲になっているのはグールドの職人的・セミクラシック的作風のおかげか。代表作と言っていいかもしれない、この曲の世界初演の記録だ。1996年までご健在だったこの指揮者、作曲家としてももっと注目されてもいい。確かにごつごつして自然さが不足しているような気もするけど、書法には目を惹く要素が有る。比較的長いが聴きとおせる力あり。○。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グノー:マリオネットの葬送行進曲,○ヴォルフ指揮ラムルー管弦楽団(POLYDOR)SP,,時期的なものもあるが音がいい。ディズニーな音楽を楽しく盛り立てるコンセール・ラムルー管の色彩的な表現。ヴォルフの引き締めも心地よい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
クライスラー:ロンドン・デリーの歌,○クリモフ(Vn)スヴェトラーノフ(P)(LANNE:CD-R/MELODIYA)1982/4/13音楽院live,,板起こし。アンコール曲の定番だが、徒に技巧的な編曲を施さず、素直に表現している。音響的な浅さはあるが(録音のせいかもしれない)悪くない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
クライスラー:愛の悲しみ,◯ジェラール・プーレ(Vn)リグット(P) (SAPHIR)live,・CD,,柔らかく軽やかな音のジェラール・プーレの独壇場と言える。ピアノがよく雰囲気を出そうと揺らす割に普通の聴感だが、アンコールピースというとこんなものだろうか。しりすぼみのような終わり方は次のアンコールへの?がり上仕方なかろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
グラナドス:ゴエスカス〜間奏曲,◯ガストン・プーレ指揮LSO(ODEON)LP,,だらけたような出だしからちょっとどうかと思ったが、これはこれでのんびりした演奏で、悪くはないか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラナドス:ゴエスカス~間奏曲,○アルボス指揮マドリード交響楽団(dutton,cedar)1928/4・CD,,歌劇からの有名な抜粋で冒頭がパクられたりすることもあるが、短く、他愛のない小品。アルボスらしいというか、国民臭をふんぷんに漂わせることもなく、素直に楽しませてくれる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
グラナドス:スペイン舞曲第6番,○アルボス指揮マドリード交響楽団(dutton,cedar)1928/4/18・CD,,他愛のない小品だがアルボスらしいというか、国民臭をふんぷんに漂わせることもなく、素直に楽しませてくれる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
グラナドス:トナディッラ,フルニエ(Vc)ホレチェク(P)(meloclassic)1957/3/9live南ドイツ放送・CD,,アンコールピースとしては単純に旋律的でチェロらしい陰影をもった曲だが、ピチカートなどあんまり上手くなく、原曲がそうなのかもしれないが、グラナドスらしさが全く感じられない。まあ、メロディをちょっと聴かせるのがアンコールピースというものなので、これでいいのか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリーグ:ノルウェー舞曲第2番,ヴィルヘルム・シュヒター指揮NHK交響楽団(NHK)1961/4/1放送LIVE N響60周年記念LPボックスより。非常に素直でアンコール向きな曲だが、ロマン派の作品と比べるとかなり新鮮な印象をあたえる。シベリウス2番との組み合わせはセンスあり。演奏には特に特徴的なものはないので無印。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリーグ:ピアノ協奏曲,○ミケランジェリ(P)ロッシ指揮RAIローマ交響楽団(NUOVA ERA)1963/6/27個人的にはベスト。ミケランジェリの異常に高度な技巧をさりげなく提示するところがたまらない。巧い。かなりラテン系の演奏であり、同曲好きのかたからすれば異端もいいところかもしれないが、没入するのではなくBGMとして流しておくには非常にうってつけな盤だ。変なひっかかりがないぶんゆっくり静かに迫ってくるものがある。完全に客観が優る即物的演奏ゆえ、没入型の演奏をお好みのかたには絶対薦められないが、個人的シュミを込めて○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリーグ:ピアノ協奏曲,ギーゼキング(P)ヘーガー指揮ベルリン・フィル(いろいろ)1944グリーグのコンチェルトはこのページの対象としてはいささか古すぎる曲だが、グリーグ自身は20世紀初頭まで活躍したし、曲の清新さもかんがみてここに挙げる。この即物的演奏は戦火のドイツで行われたもので、戦後ナチス協力者に問われたギーゼキングによるものとしても興味をそそる。ギーゼキングはいつもの率直な演奏を繰り広げており、まったく危なげない。私はこの曲はロマンティックに粘った演奏よりも颯爽と弾き抜けるような演奏が好きなので、美音をぱらぱらと振り撒きながら垢抜けた演奏を行うギーゼキングは好きだ。といっても結構揺れたりもするし、とくにバックのオケが強力であるもののやや粘着的で、推薦するには躊躇するところもある。暗くうねるような情感を払拭できていない(べつに払拭しなくてもいいのだけれども、個人的に)。ギーゼキングのおしゃれなピアニズムは最後まで楽しめるので、興味があれば。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリーグ:ピアノ協奏曲,クライバーン(P)コンドラシン指揮モスクワ・フィル(放送)1972/6/9モスクワ音楽院大ホールlive,,webで聴ける。新しい時代の演奏スタイルというものを実感させる外連味のない演奏で、技巧と迫力はとんでもなくすごいが揺れまくったり歌いまくったりは一切せず、解釈的には端正、表現は楽曲のロマンティックな曇りを取り去った分グリーグ特有の和声(2後半から3楽章ですね)がくっきりと出てペール・ギュントの清新さを思い起させ、この曲に興味を持ってしまったではないか。臭みの無さは一番の良さ、北欧の作曲家はこうあるべきというものに寄せた演奏に聴こえる。良い聴きものだった。既出盤にあるかどうかは知らぬ。何とモノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリーグ:ピアノ協奏曲,グレインジャー(P)ストコフスキ指揮ハリウッド・ボウル交響楽団(BIDDULPH)1945/7/15LIVE晩年のグリーグの称賛を受けたイギリスのピアニストにして作曲家(同性愛者)、パーシー・グレインジャーの演奏である。オケもピアノも明るく、軽やかなロマンチシズムが魅力的だ。グレインジャーは力強いタッチが確信に満ちており、ストコフスキはハリウッド映画ふうのムード・ミュージックを奏でるかのように艶やかな音を添えている。オケがやや弱い気もなきにしもあらずだが、バリバリ弾きまくるソリストがそんなことを忘れさせてくれる。終楽章中間部のいかにも北欧的な旋律にかんしては意外に繊細な音楽をかなでていて、オケの好演とあわせて本盤の聴き所となっている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリーグ:ペール・ギュント第一組曲、第二組曲,ケンペン指揮ドレスデン・フィル(Grammophone,PASC)1939/5,Apr-40,,pristineによるSP起こしを試聴。これはしかし、冒頭の「朝のムード」を除けば印象に残らない。グリーグならではの和声(というほどでもないがマーラーやドビュッシーくらいの視点からすると)や繊細で柔らかな調子が、ベートーヴェンのオマージュのようなフレーズや時代柄ワグナー的なドラマチックな管楽器処理にかくれ、後者だけとすると非常につまらない無個性な曲にきこえるのだ。グリーグはドイツ的な指揮者よりイギリスなど辺縁国に向くのだろう。フランスのグリーグは合うと思うのだが、ピエルネからアンゲルブレシュトといった同時代人のあくまで録音用レパートリーと言うもの以外は知らない。まさかドレフュスのことでドビュッシーが怒った事件など尾を引くまでもない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
グリーグ:ペール・ギュント第一組曲〜V、W,ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(ODEON)SP,,恐らく第一組曲全曲録れているだろう、ひょっとしてモイーズが吹いたかもしれない「朝」が無いのは如何にも惜しい。四曲とも極めて有名で、世俗感と清潔感の同居する、国民楽派と次世代の間に位置する「辺縁音楽」である。アニトラの踊りはいかにもピエルネにふさわしい。グリーグの古い中にも特徴的な和声進行を鮮やかに浮き彫りにする。すこし弦楽の縦線が合っていないような感がするのは気のせいか、これは次の、山の魔王の宮殿にて、でも感じられる。高弦が低音のピチカートより前に、つんのめるようなテンポ感。でも弾けるような瑞々しさは民族主義の臭みを取り除く。魔王の宮殿はムソルグスキー的な超有名な低音旋律を聴かせる。78回転盤ではなかなか捉えづらい重心の低い音をよく捕まえていると思う。回転するような同じ旋律の繰り返しが大円舞に至るのはラ・ヴァルス的でもあるな、と思った。まあ、あっさりした演奏でもある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリーグ:弦楽四重奏曲〜U.ロマンツェ,グラズノフ四重奏団(Parlophone他)SP,,日本盤には「ロマンス」とある。単独で発売されたものだろう。この曲はアタッカで四楽章繋げて弾くものだが、まあそこはよい。グラズノフ四重奏団のまろやかで無茶苦茶オールドスタイルな演奏ぶりを、時代からすれば古風な国民楽派の曲によって楽しむ、それだけのもので、曲が楽団に合っていて、普通に安心して楽しめた。技巧的にもヴィルトーソ的で安心して聴ける。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリエール:コロラトゥーラ・ソプラノと管弦楽のための協奏曲,ベルガー(SP)チェリビダッケ指揮ベルリン・フィル(AUDIOPHILE)1946/6/7 グリエールはグラズノフの正統の後継者といえようか。帝政ロシア末期にその作曲家人生の半分、ソヴィエト政権時代にもう半分を生きた、まさに過渡期作曲家。どちらかといえば前者の作風のほうが有名だろう。爛熟した末期ロマン派音楽のいいとこどりをしたような「イリヤ・ムーロメッツ」が代表作。ソヴィエト時代には作風を一変してやや旧弊なわかりやすい曲を作り続けた。その時期の作品では「赤いけし」が何といっても有名だが、協奏曲の分野で言うと、圧倒的にこのソプラノ協奏曲が有名だ。無歌詞ソプラノのコロラトゥーラ唱法をふんだんに使ったちょっと耳新しい組み合わせの曲だが、曲想自体はいたって旧弊。ロシア国民楽派のマイナー曲程度の才能を感じる。ソプラノ協奏曲?というと笑ってしまう人もいるかもしれない。そりゃオーケストラ伴奏の歌曲だろう。いやしかし、この曲ではソリストを「歌手」というよりひとつの楽器として扱っている。まあ結果的には歌曲になってしまうのかもしれないが、面白い試みであったことは確かだ。この演奏はひとことで言って地味。12分程度の短い曲だが、あっというまに終わってしまう、といった感じ。録音もあまりよくない。まあベルリン・フィルがこんな曲をやっていたのか、というところで興味を持ったら聴いてみるのもいいだろう。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリエール:シャー・セネム,○作曲家/ストリアロフ指揮モスクワ放送管弦楽団、オルフェノフ、ラヒエフスカヤ(MELODIYA)1947/52・LP,,リムスキーとハチャトゥリアンを足して二で割ったような音楽。スターリン様如何でしょう、という感じの完全にロシア国民楽派を範とした社会主義レアリズムの原点のような音楽。それでもリムスキー好きにはアピールするものはあると思う。適度に興奮もする。理論的に言えばこの民族音楽の源泉はどこぞのローカルでマニアックな民謡に当たるのだと思うが、フツーの耳で聞けばこれは紛れも無くシェヘラザードでありロシアの謝肉祭である。いくぶんマンネリズムを感じるが、とくに後半で+αを感じさせるようなちょっと面白い響きやリズムがあり、ハチャトゥリアン的感興が加わってくる。演奏自体はリッパ。オケが引き締まって素晴らしい舞踏音楽を演じきっている。思わずバレエの情景が浮かんできそう。作曲家とストリアロフのどちらがどこをやっているという解釈的な差異は殆どないから特に意識する必要はないと思う。録音が貧弱なのは仕方ない。○。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリエール:ハープ協奏曲,○ツォフ(hrp)ケンペ指揮ライプツィヒ・フィル管弦楽団(URANIA)1950・CD,,じつに国民楽派的な協奏曲でドヴォルザークが書きそうな調子になんとも鈍重なハープが太い旋律をきざむ。しかしグラズノフほど個性というマンネリズムに籠囲されておらず、ハープの魅力を引き出すかどうかは別として、聴いていてストレスのない娯楽作品である。この演奏はひときわドヴォルザークを思わせる。オケの音色のせいか、ソリストの奏法のせいか。民族の生臭さがなく、だが、ロマンチシズムを濃厚に漂わせる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリエール:ハープ協奏曲,ドゥロワ(HRP)ガウク指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(HERIOD)LP ハープである必然性が理解できない。音色の新奇さを狙ったにしてはあまりにロシア国民楽派の古臭い手法に拘り過ぎており、コロラトゥーラ・ソプラノ協奏曲と同様、座りの悪さが気に懸かる。ハープの典雅さを期待したら裏切られよう。そういうものはここには聴くことができない。ハープでない別の楽器、もっと野太くて音符の少ない楽器に向いている。うーむ。グリエールの協奏曲群の中では古いほう(30年代)の作品。ガウクは国民楽派の楽曲を奏でるように振っている。ソリストはそつなくやっている。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリエール:バレエ音楽「赤いけし」組曲,◎シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(WESTMINSTER)LP いいかげんこのグリエール集CD化しろっちゅーの。「イリヤ・ムーロメッツ」のダイナミズムをここまで克明に描き上げた指揮者は他にいないぞ。赤いけしもグリエールの代表作だ。あきらかにハチャトゥリアンに通じる(たとえば剣の舞のような)戦闘的な舞踏音楽から、あきらかにスクリアビンを意識した官能的な緩徐楽章までバリエーションにも富んでいる。前者はハチャよりも色彩に富み、演奏のせいもあるが厳しく敏捷な音楽になっている。そのひびき、コード進行には、まだ世紀末節の残滓が感じられるが、それがまた個性的で良い。個性が前面に出過ぎるハチャに対してこちらはいくぶん西欧風の洗練が加えられ聴き易さでは凌駕していると思う。官能的な楽章はイリヤ・ムーロメッツほどではないものの半音階的で、帝政ロシア期の作品に通じるものがあるが、より透明感がありすっきりしている。グラズノフを思わせる常套的な走句も聞かれるが気にはならない。チャイコフスキーの影響も感じられるが、広く国民楽派全体からの影響としたほうが適当か。同曲旋律の魅力にかけてはグリエール瑞逸で、大衆的な人気を受けた理由がわかる。常套的でいながらどこかバタ臭くかっこいい。これはシェルヒェンの演奏による印象かもしれないが、なにぶん強烈なアゴーギグと異常な集中力が支配するこの演奏はウィーン国立歌劇場との幾多の録音の中でもとりわけ凄いもので、モノラルであまり良くない(クリアではあるが)録音を割り引いても◎をつける価値はある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリエール:弦楽四重奏曲第4番,○ベートーヴェン四重奏団(WESTMINSTER/MELODIYA)1950年代・LP,,ロシア盤は実際に出版されたか不明。ベートーベンQがミャスコフスキーとのカップリングで出したもの。演奏は緊密だが過度な緊張はなく暖かく楽しめる。初期グリエールはグラズノフの影響が強く、この曲の前半楽章においては和声や拍節構造にまるまるグラズノフ初期のカルテットと同じものが聞かれる。そしてグラズノフが初期にたまに新鮮な和音を投入してはっとさせた、それもそのまま、グリエールは倍量くらい新鮮な音を投入している。半音階的な音線にはもっと西欧寄りの洗練された感じがあり、後半チャイコフスキー的なバリエーションが綴られていくあたりでは西欧志向が随所にあらわれる。佳作ではあるがグラズノフをさらに拡大したアマルガム作曲家という性格がまだまだ強い作品。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」,○ゴロフチン指揮ロシア国立交響楽団(russian disc)1993/10・CD ロシア盤の供給量は昨今不足してきていると言われてきた。特に顕著なのは中古LP盤の世界で、値付けが勝手にできる手前、現在では本国業者へ買い付けに行くと日本の業者と見られた瞬間(こんな買い付けをするのは日本人しかありえないわけだが)足元を見られ法外な値段を要求されるものだから、余程高値がつく目論見のものでない限り手が出せず、一品一品選んでいく余裕のある個人副業者でもない限り、とても大量箱買いして輸入するわけにはいかなくなっている。国内の出物頼りしかなくなったのが現状だ。しかしLPマニアは「愛情をもって」音盤を抱え込むので、結果的に大した盤は流出しないから難しい。亡くなったマニアの遺族による処分頼りと言ってもいいかもしれない。LPと並行してCDにも品不足の波が来た。これは旧ソ連体制崩壊によりメロディヤとその独占販売代理店(輸入代理店)という供給ルートもいきなり崩壊、国策頼りの経営が立ち行かなくなった供給元からの新譜が数年でガクンと減り、一方ロシア音楽家の海外活動が完全に自由になったから、特に亡命してくる音楽家を受容した欧米諸国では音盤に頼らずともロシア流儀のナマの演奏に簡単に触れられるようになったこと、更に世界的なクラシック音盤市場の衰亡がとどめをさしたのだった。それでも室内鑑賞が主流であるマニアック金満大国日本での異常な(遅い)ロシア音楽ブームがしばらく持続していたため、それをあてこんで、混乱するロシア(+海賊盤大国)の群小俄かレーベルがメロディヤや放送局音源を安く手に入れ復刻して大量に送り込んできた時期が更に続いた。しかしわけのわからない演奏家や作曲家のものや古くて音の悪いもの・・・でもマニアには堪らない往年の名演奏家のものだったりもしたのだが・・・ばかり出てくるようになって結局、インフレ状態に陥り返品地獄、ほとんどの会社が企画も半ばで雲散霧消してしまった。中には計画的にいきなりばっと売って消える会社もあったが、とにかく10年弱前、そういったロシア音源の大量供給にいきなりドスンと緞帳が下げられてしまった。その状態が産んだのがロシア盤CDの極端な高騰化である。それまでは余程のレアものでない限りCDにプレミアがつくなんて有り得なかった。複製の簡単な、元手のほとんどかからない安っぽいCDなんてバカげてる、どうせいつかまた誰かに簡単に復刻されるだろうというのが、そもそも元手もかかるLP(とその音質)に「愛情を持っている」古いマニアの見方だったのである。だがそれ以前にバブル崩壊後の焼け野原にいきなり参入してきた大手海外チェーン店の仕掛けた大々的な輸入盤ブームがあり、そこで掴まれた新しい若いファンというのがいた。話が前後するが彼らが寧ろロシア盤CD需要の中心にいたと言ってもいい。彼らは生にせよ音盤にせよいきなり聞いて掴まれたロシア音楽ロシア演奏家に狂喜し、その音盤大量流入の渦で所謂「ムック本評論家」の言うがままに踊り狂い、その踊りに更に沢山の追随者が巻き込まれ、盛大なレイヴパーティが繰り広げられるようになったところにいきなり「ハイおしまい」と言われたものだから堪らない。この種類の人間は世代的にCDにプレミアがつく、ということに対しても余り抵抗感がない。僅か5年前、しかも大手チェーン店頭で発売されたCDであっても、その当時まだ「踊り」に巻き込まれていなかった遅れて来たマニアは、今現在まったく手に入らないという状況に戦慄し中古CD屋に走った。マニアはそもそも自らの力量を省みない無謀な行動に出るもの、信じられないような高値にも手を出す輩が沢山出てきた。私も新しいマニアではないが「踊り」の時期にまったくクラシック音楽から遠ざかっていたためこの中に入ってしまったのであるが・・・。そこに決定打として現れたのは「ネットオークション」というシステムである。元手が1000円の盤に4万以上の高値がつく(大手レーベルのものであってもだ)こともざらなこの世界、金に糸目をつけない無謀なマニアは、売れなくて店頭から引き揚げられた類いのマイナー作曲家のマイナー曲でも、ただネームの大きい演奏家のものであれば食いつくほどに飢えていた。群小レーベルと言うには余りに大々的な活動を繰り広げていたロシアン・ディスクの端盤が1万円以上の高値で落札される時代になったのである。メロディヤ再発(CD化)レーベルであるレベレーションなど元々売れなくて企画自体が存続できなかったためレア度が高く、最低落札価格1万円でのっけてくるネットオークション業者まで出てくる始末だった。だが。やはりCDというのは水ものである。そんなマニアの存在を知り二匹目の泥鰌を狙う個人再販(再々販=転売)業者と、とりあえずあの時期に買っておいたが一回聞いてほっておいた類いの個人によって、逆に供給過剰の状態が来るのもそう遅くもなかった。でもそれでも、群小レーベルの時期にしか「CDでは」出ていなかったものにはそれなりの需要があった。もっとも、LPマニアの話でも触れたとおり、マニアが本当に欲しい真のレアものは全くといっていいほど出なかった。抱え込まれたままだったのだろう。そこに遅ればせながら目をつけたのが大手業者である。ネット配信時代になってCD市場はもう全体的に衰亡、下手すると存続の危機にすら陥っている。クラシックのような元々衰亡の過程にある分野なら尚更だ。特に実店舗を構える小売店は切実で、CD-Rによる海賊盤的な再発モノの輸入開始に始まり、ロシアを含むほうぼうの国へ在庫買い付けの手を必死に伸ばした。その結果、掘り出し物が出てきた。今年初め、ロシアからある意味朗報、ある意味ガッカリするニュースが飛び込んできた。ロシア盤の大量在庫が見つかったというのである。しかも価値ゼロとみなされているから殆ど言い値で買える。日本の業者(海外チェーン店含む)はこれに飛びついた。買いあさった。そして店頭やカタログを飾るタイトル、それはロシアン・ディスクとレベレーションだった。・・・販価は最低で700円、元々最初に売り出されたときには(当時一般的な輸入盤価格だが)2500円前後だったものだ。これは当時買わなかった人も買いである。それどころか、オークションで1万円もしたものすら、700円。尤も前記した「真のレアもの」はその在庫の中になく、また業者によって買えたタイトルが微妙に違うので、販価にもばらつきはあるのだが、それにしてもこれは、価格破壊というか、あの高騰期は何だったんだ、というところである。更に最近はヴェネツィア等の超廉価盤レーベルが破格の値段でロシア音源の復刻を続けており、今のところはオリンピア経由で出たような割合一般的なメロディヤ盤CDの復刻モノだけであるが、群小が出した類いのレア音源やマイナー作曲家にいたるのも時間の問題、というか、既にグローブのような個人レーベルに近いものが出したライヴ音源も含まれていたりする。個人ネットオークション業者が店じまいするのもさもありなん、更に、一時は騙り業者まで出たオリンピアやメロディア本体の活動再開、ロシアン・ディスクもぼつぼつ新録音だけではあるが販売を再開しつつある(名前だけ借りたアメリカ在の別業者という話もある)。しかも価格は1000円前後というナクソス価格だ。確実な販売を重視した結果の値ごろ感なのだろう。私も自戒することしきりだが、変な流れに巻き込まれ吹聴に踊らされ、自分が本当に聴きたくて、「自分にとって」本当にいい音楽とは何なのか、マニアは冷静になって常に考えながら収集鑑賞をゆっくり楽しむ余裕を持つべきだな、とつくづく思う。前フリが長くなったが、なぜこんな話をしたかというと今回取りあげるのはそのまさにロシアン・ディスクの再発盤だからである。1000円以下。指揮者はネームだけは轟いているゴロフチンだ。ナクソスの無闇な録音群のせいで、ヘタクソで愛情のないやる気ゼロの無能指揮者と誹謗マニアからのサンザンな評価を受けている指揮者だが、なんなんだろう、ロシア人はこういうものだ、と決め付けて、その狭い枠に納まらない解釈を得意とする指揮者を徹底的におとしめる、なんだかいかにもクラシックマニアの偏狭さを象徴するような言説でゲンナリである。元々叙事詩的な壮大さが必要な楽曲だ。短絡的な起伏ある演奏であれば勿論面白いことは面白いのだが、そもそも一つ一つの細かい曲想が魅力に溢れているものだから、マーラーの作品でそれが当然のように受け容れられているように、客観的に響きの美しさと丁寧な造型を追求した演奏も許容する素質が十分にある曲である。それでもここで今まで触れてきた演奏の中にもあったと思うが、ほんとに客観的すぎてぼんやりとしただけののっぺらな演奏もあり、ここをいかに巧妙に繊細に聞かせるかが解釈とバトンテクニックの見せ所といったところだ。オケの力量もかなり要求される大規模な曲ではあるが、余りオケにがならせてしまうスタンスだと静かで長い楽章などは激しい楽章とのコントラストで飽きてしまう。ここの手綱さばきも単純には語れない。個人的には抑制も必要だと思う。そしてゴロフチンだが、かなり落ち着いている。でもぼんやりとものっぺらとも感じない。美しいし、そこには威厳がある。叙事詩としてのまさに壁画的な壮大さと重心の低い響きのかもす迫力もある。このテンポで欠伸が出る、という向きは単に「解釈に向いていない」だけだろう。曲に向いてないのかもしれない。ゴロフチンも一応長々しい完全版を使っている。シェルヒェンの完全版による演奏の1楽章で欠伸が出た私は、ゴロフチンの1楽章ではちっとも欠伸が出なかった。どういうことなのか。造りの妙なのである。物語であり劇音楽であり、楽劇的な楽曲構成をとってはいるもののこの音楽には印象派的な「雰囲気を楽しむ」という聞き方が要求される側面があり、主として意外と新しいハーモニーの揺らぎにかかっているわけだが、ゴロフチンはそれをよく捉えているのだ。シェルヒェンは即物的に盛り込んだドラマが却って単調さを感じさせる結果になっている。そうだな、ゴロフチンを貶める人にクレンペラー最晩年のどんな曲でもいい、ライヴ盤を聞いた感想を問うてみたい。クレンペラーにこの妙技ができただろうか。単純にテンポの遅さと単調さという面でも、演奏の不具合という面でも、ゴロフチンより更に分が悪くなったであろうことは自明だ。でもクレンペラーのほうが素晴らしかったはずだ、そういうふうに言う人がもしいたとしたら私はもうその人の言うことは信用できない(個人的に、と断っておく)。 音楽はマクロで捉えるべき部分とミクロで捉えるべき部分がある、私は意図的に最終的なマクロでしか語らないがそれはあくまで「聞く側にてっする」という前提でやっているからである。音楽作りは基本的にミクロの積み上げで行っていくものだ。それが結果、瞬発力だらけのガラクタの山になるのは単なるシロートである。どんな無名指揮者でもアマチュア指揮者でも、ミクロの積み上げを「マクロの解釈」の上に緻密に緻密に行っていく作業をオケに対して施す。オケの技量によりそのミクロのある段階までは既に出来上がっていることも多かろうし、これは回数が必要とか細かい指示が必要とかそういう杓子定規なものではない。 その「マクロの解釈」を構成するのがまた「ミクロの分析」である。交響曲は単なる一つの富士山ではない。解釈は山一つこさえればおしまい、じゃないのだ。音楽は一連の雄大に連なる山脈であり、そこには無数のキレットやピークがある。鎖場もあればザイルに頼る場所もあり、一歩一歩歩かなければ決して先へは進めない。地図読みを誤れば稜線を踏破することは不可能だ。その一つ一つの細かい機微を如何に鮮やかに自然に描き出していくか、これは非常に重要なのである。クライマックスはその山脈の盟主と呼ばれる一ピークにすぎない。富士山型で考えるのは聞くだけ主義のオキラクマニアだけである。ここでいう地図読みこそがスコア読みである。 体力と気力さえあれば地図なんて見ないでもおてんとさまと地形で乗り越えていけるわ、なんて言って事実やってしまえる者も中にはいると言われるかもしれないが、世に巨匠天才と呼ばれる人間でも殆どの人は寝る間も惜しんでスコアとにらめっこだ。聴く人間はもちろん、演奏する人間一人一人に或る程度の納得を与えなければならないし、かといって自分自身の理想もあり、そういった様々な観念的なことを、「至極合理的な論理に従って出来上がっているスコア」という設計図の上に具現化させていかねばならない。それはゲイジュツだとか何だとかいう前に非常に困難な「作業」である。クレンペラーに対する中傷的愛情を書いておいたが、そのクレンペラーでさえ全裸でマタイのスコアに没頭し来客にいきなりその話をもちかける、そういう人だった。指揮者マーラーが音楽のことを考え出すと他の何もわからなくなり奇行を繰り返す、その表象だけをもって精神的な問題を指摘するヤカラが100年たってもまだ多いが、本来音楽、しかも大規模管弦楽曲とはそこまで追い込まれるほどに、数学的にも美学的にも突き詰めて分析して構築していかなければとうてい造り上げることのできない大変に膨大な情報をはらむものなのである。テクニックと人心掌握術だけで切り抜けているように見える人だっているが、彼等の裏の努力を見抜く目のない人はまあ幸せである。唯いきなり指揮台に上がり腕を上下させて思うが侭に音楽を操ることができるのが指揮者、なんて幻想だ。もしくは想像を絶する長くて厳しい経験を積んだ老練な指揮者の「結果」だけを見て誤解しているにすぎない。ステージ上の全員が暗譜で指揮者も団員も歌手も裏方も皆知り尽くしている、そういった小曲や単純な曲でもなければ、増してや交響曲なんてどえらいものを音楽に纏め上げるのは無理である。 実際に音を出す演奏家にいたってはその五指をそれぞれ適切な角度で適切な圧力で絶妙なタイミングで鍵盤や弦の上に載せる、そういった一つ一つのミクロな作業を積み重ねないと音楽は作れないわけで(あたりまえだ)、しかも指だけではない、唇も喉も胸も腹も両腕も脚も体全体も同時に一つ一つ動かし全てを複合的に積み上げていくことが必要とされるのだ。個人個人パートパートセクションセクションソリストソリスト、全てのミクロをコンマスらの力を借りてまとめあげるのが指揮者の役目、晩年のクレンペラーにはミクロに配る気力体力が最早なく団員の記憶に基づく理解に支えられて演奏を進めなければならなかった。だが若い指揮者には気力も体力もある。ミクロなくしてマクロはなし、マクロなくしてミクロはなし、そういったことを考えたときに、ゴロフチンにその片方がない、ともすると両方共がないというような言説を投げかける人に、この演奏を聴いたうえではとくに、私は強く異議を唱えたいのである。 久々の更新なのでちと書きすぎました(w)この演奏にはオケのロシア的な雑味に関しても極力抑えようという意図が聞き取れる。音色やアンサンブルの「乱れ」に聞こえるものはロシアの演奏家の、特に古いタイプのものを聴いてきた人間であれば、彼等特有の「クセ」であり、この程度はむしろ全然許容範囲と思われるだろう。ゴロフチンのカロリーの低いのは認めるが、この曲にはあっていると思う。世紀末爛熟音楽に更にバターを乗っけてケチャップをかけるのは舌(耳)がバカな証拠、じじつこの曲に限って言えば、そこまでコテコテの演奏というのは無い。時間がなくなってきたので補記したくなったらまた補記するが、結果として、○である。聞き易い演奏、と付け加えておく。,,,,,,,,,,,,,,,,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」,〇ラフミロビッチ指揮ローマ聖チェチリア音楽院交響楽団(EMI)1949/3ローマ・CD,,初録音盤とあるがアメリカ初演者ストックもストコも部分又は短縮版ではあるが戦前に既に録音を遺している。この指揮者は比較的若くして亡くなってしまったので余り知られていないが、アメリカ20世紀前半における俊英の一人としてそれなりに名のある存在である。ロシア出身であり極めて少ない録音記録のほとんどがロシアものである。キャピトルに遺されたのは何れも聖チェチリア音楽院管との録音で、結局イタリアからの帰途の船上で亡くなったためジブラルタルをのぞむ場所に葬られることになったのだが、このオケには珍しいレパートリーは演奏史上独特の位置を占めるものといえる。,,演奏スタイルは剛速球型でガウク的な突っ走りかたが楽しいが、復刻によってはその力感が伝わりにくい。何せ元が戦中戦後の古いものであるから復刻のさいの雑音除去によって生々しさが大きく害われかねない。このCDはまさにそのたぐいのものであり、できれば音量を最大にして短距離走的な烈しく揺れないスピードや2楽章のむせ返るような弦の音色の饗宴に耳を傾けていただきたい(イタリアのスクリアビンってこうなるんだ!)。颯爽としたテンポは感傷がなくスマートで清潔、だが力強く推進する音楽は、トスカニーニとも違うロシアの荒々しさを(人によってはだらしないと言うかもしれない縦の甘さ含め)内に秘めており、「人ごとではない」思い入れも意外と感じさせるところがあり、なかなか聞かせるのだ。歌心は輝かしさを放ちイタリアオペラでも演歌でもない美しい命を感じさせる。線の細い音が曲の迫力を減衰させている面は否めないが、非常に構造的に演奏しているため薄さは感じない。対位的な動きを鮮やかに浮き彫りにしてみせた3楽章後半は聞きものだ。短縮版を使用しているため物足りなさを感じるところもあるがこれも演奏の余りの充実ぶりの裏返し、もっと聞きたかった、である。響きの凝縮ぶりはモノラルだからというだけではない。曲への理解の深さと高度なテクニック、コントロールの上手さ、アメリカの指揮者と言って馬鹿にしたら損をする。この指揮者がタダモノではなかった、ということ、もっと円熟した演奏を(いささか一本調子で飽きる箇所もある)、いい音で聞きたかった。〇。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)〜V,ストック指揮シカゴ交響楽団(LYS,DANTE他)CD かなりいじっているようで、ハープはでかいわテンポはたどたどしいわでハラハラする。抜粋なので評しづらいところもあるが、全般にやや重く、テンポが前に向かわないから、この爽快なスケルツオ楽章が引き立ってこない。どうやらそれはあるていど解釈のようで、場所によってはスピード感があり、決して全てがだらけた演奏ではないのだが、散漫なところ目立ち無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)〜完全版,◎シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場O(WESTMINSTER)LP シェルヒェンに恰好の曲である。表現主義者としての突き刺すような強烈な音が、曲の本質を明瞭に劇的に浮かび上がらせている。多少民族音楽的な色合いに乏しいが、しかしきらびやかで派手ではある。録音が少ない曲だが、この演奏でも十分満足行くだろう。カップリングは「赤いけし」組曲で、確かCDも出ていたと思う。シェルヒェンのロシア・ソヴィエトものはフランスものと並んで隠れた名盤である。チャイコフスキーを除けば…余談だが通奏主題はディーリアスのピアノ協奏曲冒頭に良く似ている。本当に20世紀初頭の世界音楽がモザイクのようにちりばめられた曲だ。*当初カット版だと思ったが測ってみたら83分ありました。一応完全版のようですので掲載箇所を訂正します。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)〜完全版,ファーバーマン指揮ロイヤル・フィル(UNICORN-KANCHANA)1978/12/14,15,17 〜なっがーーーーーーーーーーーーーーーい!!45分目処の曲だと思ったら大間違い、ほんとの全曲版は93分かかるのだ。短縮版と同じく4楽章制で各楽章の表題も同じ。全楽章がだいたい半分くらいに縮められているのがわかる。長い英雄譚の筋書きに基づいて書かれている表題音楽だが、ワーグナーの楽劇が必ずしも話の筋を知らなくとも楽しめるように、「イリヤ・ムーロメッツ」という人物がどんな波乱に満ちた人生を送ろうとも、それから解き放たれて自由に想像を膨らませることができる。大編成のオーケストラでこれだけの長さをもった誇大妄想的な交響曲を書いたロシア人はグリエールぐらいだろう。この作品をもってグリエールは世紀末的な爛熟したロマン性を包蔵した音楽を書くことを止めてしまう。革命後、まるで社会主義体制に寄り添っていくが如く、簡潔で平易な作風に転じる。社会主義リアリズムの思想に賛同し、積極的に体制側につく。いくつかのバレエ音楽で知られるがいずれもこの作品のようにドロドロした暗いロマン性は微塵も持たない作品となっている。まあ、そうはいうもののイリヤ・ムーロメッツは西欧の世紀末音楽に比べればずいぶんと簡単でわかりやすいものであり、「わかりやすい」ことこそがグリエールの本質なのかもしれない。旋律の魅力はグラズノフほどではないにせよその後継者たるべき素質は十分にあったわけである。だが、短縮版で目立ったメリハリある表現、魅力的な旋律は、この完全版で聞くとのべつまくなし、やたらと繰り返されていいかげんイヤになるほどである。比較的ゆっくりとした部分の多い楽曲の中で唯一グラズノフ的な祝祭的雰囲気を持つ、スケルツォに相当する3楽章は、7分(短縮版で5分弱)かけて気分を浮き立たせるが、他の楽章が27、8分という異様な長さのため、それらの中であまりに目立たない。2楽章など私は好きなのだが、まるでスクリャービンの後期交響曲の法悦的場面がえんえんと続くような生暖かい楽章となっている。いや、スクリャービンを通して見たワグナーの影響と言った方が妥当か。最初は好きだから楽しんで聞いているのだが、そのうち「おいっ!!」とツッコミを入れたくなるほど長々と続く法悦に嫌気が差してこなくも無い。終楽章なども長い。寝てしまう。ムーロメッツは石となって死んでしまい、ほかのすべてのロシアの勇士も死んでしまうという悲愴な楽章だが(いかにも帝政ロシア末期的発想だ)まあ楽想は面白いものの、ここまで長々とやる必要があるのか?と思ってしまう。まあ、1楽章もそうなのだが。ファーバーマンは定評ある指揮者だが、若干綺麗すぎる。ロイヤル・フィルのチャーミングな音色も曲のロシア色を薄めている。だがしかし、もしロシアの演奏家による全曲版を聴いたとしたら、あまりの脂身の多さにヘキエキすることは間違いなく、やはりこのような穏やかで美にてっした演奏こそが正しいやり方なのだろうとも思う。録音が弱い。もっとメリハリのある音がほしい。・・・とりあえずは参考記録として無印にしておく。この他に完全版の録音を知らないから相対評価できません。NAXOS盤は全曲版と称しているがどう考えても70分台に抑えられるとは思えないので、あやしい。(未検証ですが。),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)〜完全版,ヨハノス指揮チェコスロヴァキア放送交響楽団(NAXOS)1991/2 透明で客観的な演奏。たとえばスクリャービンの影響はなはだしい2楽章にしても、生々しい肉感的な表現はまったくとらず、響きの美しさだけを追求したような演奏ぶりで、イマイチのりきれない。これは国民楽派の楽曲である。グリエールは確かに面白い和声を使う事が有るが、この時期においてはまったくリムスキーやグラズノフの追従者であり、客観的に演奏してもそのよさは伝わらない。熱気がなければこのような75分の楽曲(カットなしとジャケットにはあるが、繰り返し省略程度の事はしているようだ)はのりきれないだろう。ヨハノスは達者な指揮者だが、ヴォックスに入れていたアイヴズやコープランドを聞いてもわかるとおり、整然とした表現を好み熱気を持ち込まない傾向があるようにおもう。1楽章の時点であれば美しくかつあっさりとした解釈が新鮮で私は凄く惹かれたけれども、15分を越えるあたりからあくびが出てきた。4楽章、勇者が滅びる前の武勇を誇る場面で、短調から長調へ絶妙な転調を伴う非常にかっこいい効果的な場面があるのだが、この演奏ではあっさり・・・むしろ弱弱しく・・・表現されていて、かなりの不満をおぼえた。ここで盛り上がっておかないと最後に勇者が石になって滅亡する場面とのコントラストがうまく表現できないだろうに。まあ、演奏は立派ではある。コストパフォーマンスでいえばお釣りが来るくらいに巧い。でも、イリヤ・ムーロメッツはこんなに土の匂いのしない勇者ではない。無印。以下、参考:1楽章、さまよえる巡礼者、イリヤ・ムーロメッツとスヴャトゴール、2楽章、山賊ゾロヴェイ、3楽章、ウラディミール公の「美しき太陽」宮殿、4楽章、イリヤ・ムーロメッツの武勇と石化。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)〜短縮版,◎オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(COLUMBIA)1950'やはりモノラル末期の録音はいい!響きが中心に凝縮されストレートなパンチを浴びせてくる。この音の生生しさはなんだろう。下手なステレオより数倍リアルだ(下手なステレオ録音は音が分離しすぎて前衛音楽みたい)。チェロの音が明瞭にぐわっと力感をもって迫ってくるのにぐっと来た。ステレオ録音のときの弱さが微塵も感じられない。かなり周到な録音のようで、これといった弱点が見付からない。しいていえば全曲版でないということぐらいか。2楽章の鳥の声の応酬など、技術的にもステレオ盤より完成度が高い。妖しげな桃源郷の雰囲気も明瞭な音の集積の上にクリアに描き出されていて秀逸だ。ダイナミックで飽きない演奏。文句無し◎です。作曲家の死直後の録音。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)〜短縮版,○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(RCA)1971/10/6この曲の一番の魅力は妖しさにある。その点オーマンディの棒はいささか明るく即物リアルすぎて物足りない。また、音色が安定しすぎて変化に乏しい(あっけらかんとしているのはアメリカの楽団ならどこでもそうだろうが)。3楽章の美しい第二主題でバイオリンのポルタメントが僅かに聞こえるのは寧ろ奇跡だ。解釈もわりと一直線なので、たとえば1楽章など冗長に感じてしまう(じっさい冗長な楽章ではあるが)。キレの良さは2楽章の冒頭などに感じられるが、献呈者グラズノフの影響色濃い3楽章ではもっと鋭い刻みが欲しいところだ。力感がありすぎて鈍重なひびきになってしまっている。もっともこの盤ステレオ正規盤にしては録音が悪いので(国内盤のくせに音がよれたりしていてびっくり)その不明瞭さゆえそう聞こえるのかもしれないが。グラズノフをひきあいに出したが、グリエールはグラズノフより響きが開放的で聞き易い。4楽章の陰うつさは物語の酷い結末をあらわしているが、それまでの楽章の断片を巧く織り混ぜドラマティックな音楽に仕上げている。モダニズムふうの焦操感にまみれた闘争のすえ、長調に転じペットが高らかに凱歌をうたう場面は前半のクライマックスで全曲中もっとも効果的な場面だが、オーマンディはあまりに引っかかりなく過ぎてしまう。しかしそのあと3楽章などの断片がからみあって民族的雰囲気を高めたあと、再び弦が凱歌をうたう場面は比較的効果的にできている。オーマンディはやはり弦楽奏者だな、とヴァイオリンのポルタメントを聞きながら思った。そういえばこの曲は構造的で対位法的な組み立てを楽しめる場面も多いのだが、高弦と低弦がかけあうところで、高弦の音に低弦が負けているように感じるところがある。中低音域が今一つぐわんと響いてこない、と感じる人も多いのではないか(たとえばシェルヒェンのウィーン国立歌劇場管弦楽団の充実したひびきを思い出して欲しい)。オーマンディがヴァイオリニストだったということと関係があるのだろうか。録音のせいというのもありうるけれども。場面転じて1楽章の運命の動機のような警句が鳴り響き、チャイコフスキー的な劇的効果が煽られる。長短調性固定されないゆらぎの音楽は各楽章から抽出されたほの暗いフレーズの断片によって紡がれてゆく。終楽章に全楽章の断片をモザイク的に配してゆくこの手法はグラズノフのものだろう。暗さが薄まり2楽章の断片があらわれるあたりは特にグラズノフのシンフォニーのフィナーレを思い出させるが、グリエールはこれら断片を有機的に繋ぐのがとてもうまく、グラズノフの影響が大きいにしても、その技法の完成度は優っていると思う。最後に3楽章の無邪気なフレーズがうたかたの夢のように浮かんでは消えついには暗黒のうちに沈む。オーマンディは民謡ふうのフレーズより現代的なひびきを浮き立たせるように演奏しており、体臭が無く、サウンドとしてはとても聞きごたえがある。このいささか単純ではあるが構造的に出来ている楽曲を立体的に響かせる手腕は冴え渡っており、楽曲理解のためのソースとしても使える演奏だ。カット部分も比較的少ない。が、快楽派リスナーとしては熱狂的に盛り上がるような中心点がなく、ちょっと客観的すぎる感じがする。3時間で終えられたというレコーディング条件もさもありなんと思われる録音状態でもあるし、中間をとって○ひとつとしておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)〜短縮版,○ストコフスキ指揮ヒューストン交響楽団(CAPITOL/SERAPHIM)帝政ロシア末期のロシア産交響曲の中でとりわけ強烈な光をはなっているのがこのイリヤ・ムーロメッツだ。華麗で派手な音響と親しみやすい民謡旋律が、時折半音階的な陰りを見せながらもとてもストレートに心に伝わってくる。こういう曲だからストコフスキがやるとぴたりとハマる。ただ、ストコフスキはデロデロ系指揮者ではない。手兵ヒューストン響も明るくはっきりした発音を行い、音色で謡い込むのに長けたオケではないし、ストコフスキは音響こそ派手指向だがテンポに関してはわりあいとストレートに突き進むようなところがある。ロシアの憂愁などを求めるのはお門違い。たとえばとても美しいグラズノフふうのスケルツォ、3楽章のとりわけ親しみやすい第二主題についても、鮮やかな色彩に染め抜かれた響きの中で明るく朗々と謡われる。細かいニュアンス表現には欠けているが、骨太の演奏は魅力的だ。ストコフスキの近現代モノはとてもよい。スコアに新奇さが加えられていればいるほど、ストコフスキの(編曲)手腕が発揮され、原曲の求める以上に人好きのする派手な曲に脱皮させられる。そのような演奏はいい面悪い面があるが、少なくともこのようなマイナー曲を紹介するのには最適な一枚だ。手元にあるLPが二枚共盤面状態が悪く演奏の内面に潜り込み仔細まで味わい尽くすことができないので、ほんとうは◎かもしれないが、とりあえず○ひとつとしておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)〜短縮版,○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(ANDANTE)1940/3/27 ストコフスキ/フィラデルフィアの録音は戦前戦中の時代にしては驚異的な良い音で残されている。この録音も古さは感じるものの聴くのにとりたてて支障はない。また、短縮版とはいえ46分を要しており、十分な聞きごたえだ。3楽章がちょっと短い感じはするが、長い曲が苦手な人にはオススメではある。この曲を駄作と断じる人もいるようだが、帝政ロシア末期という爛熟した時代の産んだ最大の記念碑的作品であり、グラズノフのつたえた伝統をしっかり受け継いだ作品としても重要である。そんなにしゃっちょこばらなくても、多彩で美しい旋律だけを追っていても十分に楽しめよう。晦渋さは無いとは言わないが殆ど気にならない。旋律の流れは分厚い音響に埋もれることなくきちんと自己主張している。この演奏はそのあたりの配慮が行き届いているので、「ロシア物?チャイコフスキーくらいしか知らないよ」という面々にも理解しやすく出来ていると思う。ストコフスキの面目躍如、颯爽と、さわやかに、ロシアの昔話を語ってみせたかれの非凡さに打たれた。なんだかんだ言っても録音が古いので、○ひとつとしておく。それにしてもああ、何て面白い曲なんだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)〜短縮版,○フリッチャイ指揮ベルリンRIAS交響楽団(DG)1955/9(LP評)ドイツ・グラモフォンの戦後モノラル録音はどうも余り音がよくない。篭っているし、なんだか弱々しい。この演奏はフリッチャイの水際立った指揮が曲のうねるようなドラマ性をどう引きずり出しているかに興味があって手にしたものだが、録音のあまりの貧弱ぶりに、どうも終始「集中力の欠けた凡演」に聞こえてしようがなかった。グリエールの革命前の代表作であり、世紀末的な雰囲気を横溢させた壮大な絵巻物だが、ここでは中間楽章の精妙な音作りにフリッチャイの奮闘ぶりが聞こえはするものの、退嬰的な題材(イリヤ・ムーロメッツは最後は化石となって斃し、同時にルーシのすべての勇士が死んでしまう・・・どうでしょう、帝政ロシア末期にふさわしい題材!・・・)のそのものに、暗く陰うつな雰囲気に沈殿していくような終わりかたであり、そして「始まりかた」でもある。物すごく暗い。ベルリンの音だからなおさらクライのか。ボロディン=グラズノフのあからさまな影響がみられ、その点ではいくぶん楽天的な箇所もなきにしもあらず、フリッチャイ盤もそういう箇所ではそれなりに明るさを「演じようと」してはいるのだが・・・うーん。高いおカネを出して手にする価値はありません、きっと。(CD評)DGの特典盤としてプロコフィエフの「古典」1954/11録音(同じDGに同年1/4録音とされるものもある(フリッチャイ・ボックスに収録)が異なる演奏かどうか不明)と共にCD化。はっきり言ってLPとは音質が段違い。暗く何を言っているのかわからない録音だったのが、明晰で緊張感溢れる演奏に聞こえるようになっている。上記のイメージとは全く違います。引き締まった男っぽい渋さのある演奏。○ひとつ。あとで補筆します。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(全曲版),○ラフリン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(RUSSIAN DISC)1974・CD,,ラフリンはウクライナ出身のユダヤ系で、キエフを中心に活躍したソヴィエト時代を代表する指揮者の一人。ショスタコーヴィチの初演で知られる雄渾系指揮者だ。1933年ムラヴィンスキーに次ぎ第1回全ソ指揮者コンクール2位に輝いて後全国的な活動を始め、第二次大戦中はムラヴィンスキー後のソヴィエト国立交響楽団を率いた。1966年カザンにタタール国立管弦楽団を組織、1979年に没するまで音楽監督として指導にあたっていた。この演奏は前半が聞き物。1楽章から大変磨き上げられ引き締まった演奏ぶりでびっくり。ブラスの響きなどロシアそのものだが、例えば色気ムンムンであるはずの2楽章などこれがグリエールか、というくらい立派で清潔な音楽になっている。でも雄弁でダイナミズムは失われていない。民族性や爛熟ぶりを過度に煽ることがなく、非常に真摯な曲作りは胸を打つ。ワグナーからの影響を強調するかのようなドイツ指向なところもロシア臭さが感じられない要因であろう。3楽章はテンポが遅く客観的で美に徹しているかのよう。この最もロシア的なスケルツォをこうやってしまうのもラフリンの個性か。いずれにせよこんな3楽章初めて聞く。再現部になるとだいぶ盛り上がりが戻ってくるのだが。終楽章はロシアオケの響き全開でやってくる。だが肝心の所で音外しがあったり、うねるような曲想の起伏が今一つパッとしないなど、ちょっと落ちる感がある。締まった表現はいいのだが、全編のフィナーレとしてはいささか一本調子ではないかとも思う。回想シーンなどの聞かせ所が浮き立ってこない。長いからそれだと飽きる。それでも雄渾さと緊張感は最後まで持続し、人によってはしっくりくるとは思う。あとは色彩かなあ。ちと単彩。総じて○。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版),○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R)1971live,,エアチェックなりの録音状態。演奏精度の余りの高さと環境雑音の無さに同年の正規スタジオ録音の放送ではないかと疑ったりしたが、終演後には拍手とナレーションが入っているので(3楽章後にも拍手が入ったのをカットしたように聴こえる)いちおうライヴなのだろう。とにかく楽団が反則である。技術的にも、編成の厚さ的にも贅沢極まりない。オーマンディは1楽章においてはブラームスを思わせるリズムの引き締まった充実した響きをみせ、2楽章では初期リヒャルト・シュトラウス張りのトリッキーなソロヴァイオリンをまじえた法悦的な音楽を力強く感情的に表現する。演歌には決してならず、つねに立体構造を意識したまとめ方には西欧的なセンスを感じる。ソロ、実に巧い(超高音の音程くらいは目をつぶれ)。,,3楽章からはテンポがかなり前のめりで速く、細部にはほつれらしきものも聞かれるが、録音状態がやや悪くなるのでほんとにほつれたのかどうかよくわからない。ステレオではあるが低音域が伸びず浅薄な録音になってしまっているのも惜しい。ダイナミックな終楽章はもっと鮮やかな音で楽しみたい・・・演奏がじつに鮮やかで煌びやかなのは感じ取れるのだから。近視眼的にならず全体設計をしっかり立てた上での「流されない解釈ぶり」はやや不恰好なこの終楽章をきちんと自然に盛り上がるように構成し、魅せるものになっている。ロシア音楽というよりハリウッド映画音楽のような感じがするが、むしろ聞きやすさへの配慮と前向きに捉えましょう。ひどく退嬰的な終幕もまた西欧的で泥臭さの無い洗練ぶりが聴いてとれる。オーマンディのフィラ管は野暮な崩しや下手なブヨブヨ感がなく、かっこよかった。ブラヴォが飛ぶ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版),◎ストコフスキ指揮NYP(DA:CD-R)1949/10/23live,,やや録音が辛いがNYPならではの覇気とボリュームのある音で前進的な演奏が展開される。この曲はこのくらいの長さが聞きやすい。ストコは常にわかりやすく、かつ劇的に音楽をドライヴしてゆく。それはマーラーを演奏するかのような態度だ。攻撃性という面がストコの演奏様式の中に確かにあるが、それは金管の追加とか打楽器の追加とかいった部分だけにとどまらず、弦楽器の演奏方法についてもかなり厳しく律しているようなところがみられる。フィラ管の艶やかな弦はストコが創り出したというのは有名な伝説だろう。イリヤ・ムーロメッツをNYPという一流どころで聞けるだけでも嬉しいではないか。チャイコを聴く感覚で聞ける作曲家公認短縮版。相対的に◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版),○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1964live,,モノラルなのに物凄くステレオ的な演奏で「あああ」と歯がゆさを感じる点の多い煌びやかな演奏。後年のものと余り変わらないが、やはりこのオケの音は拡散的で、末流ロマン派の肥大化した音楽をやるときに必要な構築的な身の詰まった演奏様式というのがないがゆえに、ちゃんと短縮版としてまとまっているのに、どこか散漫な印象をあたえてしまう。もちろんストコはフィラデルフィアでもこういう音を求めていたのだし、表層的で派手なのは(曲も曲だし)仕方ないのだが、まあ、NYPのほうが正直しっくりきた。まずまず。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版),○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(SCC:CD-R)1967/11/19LIVE,,録音はややノイジー。だがストコフスキの力強さと粘り腰が活きるのはやはりロシアものなど後期ロマン派の大曲だと思わせるボリューム感と勢いをかんじる演奏で、フランス系でまとめた前中プロとくらべて説得力は強い。オーマンディのようにゴージャスながら厳しく(オーマンディはセルのようなところがあると思う)整えるよりも、拡散的な自発性を促し上手くドライブしていくため、録音としてはだらしなさや雑さを感じさせるが、ライブ感においては凌駕して強く訴えるようなものを持っている。短縮版委属者としてのストコの自信あふれる板についた表現が更にプラスされる。リヒャルトの影響の強い緩徐楽章の木管アンサンブルからコンマスソロのあたり、このオケとは思えない精度で法悦的な豊饒を示すとともに、けしてだらだら流されないテンポ、アタックの強さに鋭さが感じられる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版),○ストコフスキ指揮クリーヴランド管弦楽団(vibrato/DA/CRQeditions:CD-R)(1971/5(6?)/19)1971/5/13live,,NYPはともかく他の比較的軽量級の音を出す職人オケになるとストコはいささか表面的でやかましい音作りだけをする人になってしまう。アメリカ交響楽団のモノなどまさにその面で賛否あると思うのだが、この演奏録音はステレオという点で比べて1長はある。しかしどうも放送ホワイトノイズが常に入り続け、放送ならではの左右の不安定さもあって、明晰なのに印象が悪い。聴感が軽くて、イリヤ・ムーロメッツの末流ロマン派的なドロドロがひたすらドラマティックで煌びやかな音楽に昇華されてしまい、帝政ロシア時代交響曲好きとしてもマーラー好きとしてもどうも腑に落ちない。また今更の指摘だが4楽章の大カットで「一番の見せ場」となるドラマティックな弦・ブラス転調の一節(スコアがないので明示できませんが、指摘箇所がどこかはてきとうに想像してください)が上り詰める直前でカットされ陰鬱な終盤にワープするという非常に「うわああああああ」というところがあり、これってストコ、前からそうだったっけ?とか思いつつも、これじゃちょっと4楽章聴かせどころ半減だよ、と結局○ひとつに抑えておくのである。気分的には無印。,,5月との表記のあるvibrato(CD-R)盤はDAと同じ音源を使用する場合が多く、これは収録内容がほぼ一致することから同一と思われる。記載データ確度はどっちもどっちなので、別プライヴェート盤(最近はCRQ)で出ているライヴが5/13とあることから、公演日程的に5月が正しいと推定される。これら同じ音源と思われる(14,15日にも公演はあった)。一部Youtubeにある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版),○ストコフスキ指揮ヒューストン交響楽団(EMI、ANGEL)1957/3・CD,,ステレオ初期ならではの録音の不安定さがみられ、音場が左右に完全分離したり位置が混沌としたり、左から低弦が聞こえ出し次第に右に移ってくる1楽章にはのけぞった。ストコならやりかねないが単純な録音操作の綾だろう。スタジオ録音ならではの客観性、一種素っ気無さがあり、音はあっけらかんと明るく開放的な半面、憂いが無く思い入れも感じられない。直線的で山っ気がなく、爆発的な迫力もうねるような楽想の波も感じられずライヴに比べてはテンションが低く感じる。特に気になったのは緩徐楽章のスクリアビン的な妖しさが一切排されていることである。音色にもフレージングにも一切ワグネリズムの影響が出てこない。あっけらかんとしすぎて感動を得られないのは短縮版であるせいだけではあるまい。初心者には聞きやすいだろうが、民族性を求める向きには余り薦められない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版),ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(victor/andante他)1940/3/27・CD,,ストコフスキーは作曲家本人了承済の短縮版を使用していたが大曲志向のストコフスキー、せめて構成的に偉大な盛り上がりを作る終楽章くらい切らないで原典でやってほしかった。表題交響曲ではあるが世紀末爛熟交響曲としてはスクリアビンの跡を継ぐ(二楽章が露骨な)作風であり、しつこいくらい繰り返されるモチーフのカッコよさ、噎せ返るような総合的な響きはせっかくフィラデルフィア管弦楽団なことだし、とくに妖しい色彩をはらむ二楽章は新しい音で聞きたいもので、想像力をもって補わなければならない戦前戦中録音だと辛いところもある。それでも同曲をこのんで録音したストコフスキーのSPの中でも新しい方で、グラズノフ流の三楽章の素直な力強さはこのオケの弦楽器の骨頂をみせているのが(まあまあ)聴き取れる。ノイジーだが音そのものはクリアはクリアなのだ。音に少しキレがなくなってきているのは、トスカニーニにも似たイケイケスタイルだったのが独自のぼわっとしたボリュームに特化した音表現に変わりつつあることを示している。テンポ的にはまだ押せ押せではあり、迫力はある。四楽章はもういきなり暗闇から焦燥感が飛び出し、切り詰められたドラマが音色変化の鮮やかさやリズム処理の常套的だが効果的なさまを次々ハイハイと提示してくる。長々しく楽しめる版ではないので、耳を峙てできるだけノイズ除去しリバーブをかけてしっかり聴いてほしいところである。モチーフをくっきり浮き立たせ、回想的フレーズを織り交ぜつつ壮麗な響きを背景にチャイコフスキーふうの構造を盛り込んだドラマをこれでもかと積み上げてから、各楽章にあらわれる主題の明確な回想を走馬灯のように流しつつ退嬰的に終わる。後半はいいのだが前半端折ってしまうのが、どうにもこの版のいただけないところだが、グラズノフ&チャイコフスキーという終わり方は好きな人はとても好きだと思うし、そのように切り詰めた版として全曲版より好む人もいるだろう。,,(後補)CD化していた。音質もかなり良いとのこと。以下過去記事(2004年以前、andante盤評)より改めて転載します。,,ストコフスキ/フィラデルフィアの録音は戦前戦中の時代にしては驚異的な良い音で残されている。この録音も古さは感じるものの聴くのにとりたてて支障はない。また、短縮版とはいえ46分を要しており、十分な聞きごたえだ。3楽章がちょっと短い感じはするが、長い曲が苦手な人にはオススメではある。この曲を駄作と断じる人もいるようだが、帝政ロシア末期という爛熟した時代の産んだ最大の記念碑的作品であり、グラズノフのつたえた伝統をしっかり受け継いだ作品としても重要である。そんなにしゃっちょこばらなくても、多彩で美しい旋律だけを追っていても十分に楽しめよう。晦渋さは無いとは言わないが殆ど気にならない。旋律の流れは分厚い音響に埋もれることなくきちんと自己主張している。この演奏はそのあたりの配慮が行き届いているので、「ロシア物?チャイコフスキーくらいしか知らないよ」という面々にも理解しやすく出来ていると思う。ストコフスキの面目躍如、颯爽と、さわやかに、ロシアの昔話を語ってみせたかれの非凡さに打たれた。なんだかんだ言っても録音が古いので、○ひとつとしておく。それにしてもああ、何て面白い曲なんだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」短縮版,○ストコフスキ指揮シカゴ交響楽団(PASD)1958/1/9シカゴデビューコンサートLIVE,,PRISTINEのWEB配信。録音は悪い。作品は十八番である。短縮版はストコフスキの依頼で編まれた作曲家自身によるもの。二楽章にシカゴの弦の鋭さが感じられる。ライナー時代のロマンチックな美しさと厳しさがそのままストコフスキに受け継がれ、とくにチェロが素晴らしい赤銅色の音を出している。フィラデルフィアなどと違った中欧的な響の厚みがとても安定した聴感を与える。木管も非常にうまく、抽象化された表現が逆に作品のワグネリアン的な部分をはっきり浮き彫りにしている。スケルツォなどややばらけてしまった。やはり中欧的な鈍重さがある。いい面もあるが。しっかり立体的だ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリエール:交響詩「サイレン」,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP ,,サイレンというと今の人はゲームを思い浮かべるのか。厄介だな。「海の精」という訳されかたもするが、船乗りを妖しい声で誘惑し死に至らしめる海妖セイレーンのことだ。「イリヤ・ムーロメッツ」二楽章に非常に近似した内容の比較的前期作品であり、たまに現れる師匠グラズノフの影響が主として曲想にあらわれている。即ち交響詩「海」の世界を更に西欧的に複雑化しようとした感じなのだ。若きラヴェルらが惹かれたあのイマジネイティブな描写音楽は、リムスキーの弁を借りれば「過渡期作品」であったわけだが、今聴くとのちの作品よりも広い魅力を持っているように聞こえる。やや生臭さがあるのがグリエールの特徴だが、そっくりそのまま個性といってもよく、ガウクらしさの発揮できる爆発音楽ではないが、この作品をお国の同時代人が表現した記録として貴重ではあろう。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
グリエール:交響的絵画「ザポロージュのコサック」,○ラフリン指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya)LP,,思いっきりロシアロシアした重厚な出だしから「シェヘラザードかよ!」というような旋律とハーモニー展開。リムスキー節を抜けるとロシア民謡のバレエ音楽的数珠繋ぎ。ラフリンは引き締まったアンサンブルを展開するがロシア劇音楽的な感情をいかにもロシア流儀のアゴーギグで表現している。一くさりカリンニコフかチャイコフスキーか晩年プロコかという民謡表現がすぎるといったんリムスキー主題が戻るが、このあたりのコード進行にグリエール独自の新しい表現が聞き取れる。グリエールはソヴィエト下で作風を穏健な方向に変化させてしまったとはいえ、リスト・ワグナーの衣鉢を借りて完成したロシア国民楽派の管弦楽の方向性を積極的に維持したという意味ではグラズノフ以上に右寄りな立場にあった。この作品も「穏健」というよりグリエールの世紀末的作風の昇華と聞き取れる。憂愁の民謡・・・チャイコだ・・・からふたたび冒頭主題に回帰して終わる。ラフリンはつかみ所の無い指揮者ではあるが聞いているうちになんとなくその立ち位置がわかります。いかにもロシアな人。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリエール:序曲,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)LP,,これはとにかく派手!!ガウクの録音状態はかなりいいものが多いので、安心して愉しめる。曲がまたファンファーレから始まるクーチカの伝統、グラズノフの弟子たるグリエールの人好きする曲感、意外とまっとうにとりまとめてみせるガウクの手腕、なかなか面白いです。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリエール:序曲「フェルガナの休日」,○コンドラシン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP,,まるでアメリカ音楽のようなけっこう清新な出だしからおっと思うが、すぐに伝統のロシア節に行く。コンドラシンらしい響きの派手さは冒頭でしか生きていないようにも思うが、ブラス陣のロシア吹きやヴァイオリンのロシア式フレージングがかなり明瞭に発揮される。一種コンドラシン・モスクワ放SOとは思えない、スヴェトラのような趣さえある磊落な演奏ぶりは、バラケ具合含め少し不思議だが面白い。それにしても私は多少飽きたが、曲想が豊かな展開を得て面白く聞ける曲ではあり、ロシア好きなら堪らない曲だろう。もんのすごくわかりやすい旋律がアメリカ的な明るい展開をしていく場面にはリムスキーの中央アジア節が根底にありながらも新しい世代の意地がまだ残っている点興味深い後期作品。最後のたたみかけはコンドラシンらしい。このあたりの妖しいコード進行も前期から途絶えずのグリエールの個性だなあ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリフィス(グリフェス):「4つのローマのスケッチ」OP.7〜白孔雀,○ストコフスキ指揮NYP?(DA:CD-R)1947/11/2LIVE,,既出盤と同じ可能性あり。濃厚なワグネリズムをディーリアスのような黄昏のロマンチシズムとして描きあげた、ややスクリアビン的な臭気漂うもののむせ返るようなオケの響きと確かな描線でなかなかに聞かせる。録音が悪いがいい演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリフィス(グリフェス):「4つのローマのスケッチ」OP.7〜白孔雀,○ストコフスキ指揮ニューヨーク・フィル(CALA)1947/11/17はじめて聞きます。20世紀前半を代表するアメリカ印象派の旗手だそうです。中でもこの作品は賞賛の声が高い作品です。さて、聴いてみました。耳障りがよかった。フランス的ですが、ドビュッシーのイマジネーションの凄さやラヴェルの創意工夫の念の入れようとははっきり言って程遠いように感じます。何か通俗作曲家が映画音楽を印象派ふうに仕立て上げたような、お手軽で入り易い曲だけれども、飽きてくるたぐい。演奏は立派だと思います。しかし作品は贔屓目に見てもディーリアス程度でしょう(ディーリアンのみなさん、すいませんっ)。それにしてもどこが孔雀なんだ。聞き易かったので○ひとつはつけときます。初演者の演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリフィス(グリフェス):「4つのローマのスケッチ」OP.7〜白孔雀,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(放送)1943/2/7LIVE,,オールアメリカプログラムをしばしばやっていたトスカニーニだが、これもグランド・キャニオン組曲の前に組んでいたプログラム。曲は生ぬるいオリエンタリズムを盛り込んだ印象派的といえば印象派的な小品で、トスカニーニは決して手を抜かずそつなく仕上げている。余り聴き映えはしない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリフィス(グリフェス):「4つのローマのスケッチ」OP.7〜白孔雀,○ハンソン指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1946/1/20放送LIVEレスピーギのような、ヴォーン・ウィリアムズのような、清澄で茫洋とした音楽です。ハンソン、けっこう感情入っている。この明瞭な演奏ではドビュッシズムの影響はあまり強く感じられない。むしろ「ドビュッシズムを吸収し己が物とした」20世紀作曲家たちからの間接的影響が感じられる、と言ったほうがいいだろう。さしたる曲想の変化も無く、われわれはただ通り過ぎるフレーズのようなものを次から次へと受け流していくしかない。美しいし、意外と個性もある。ドビュッシーらとは違う光景が瞼の裏に見える。ただ・・・白い孔雀は浮かんできませんでした。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリフィス(グリフェス):「4つのローマのスケッチ」OP.7〜白孔雀,チャールズ・ゲルハルト指揮ナショナル・フィル(RCA)LPドビュッシーらしさといえばあきらかに「牧神の午後への前奏曲」の雰囲気をうつした生ぬるい響きに尽きる。だが、音線の半音階的な動きはむしろスクリアビンを思わせる。官能的だ。この演奏ではかなり明瞭に音の描き分けがなされており、音像がリアルすぎる気もしないでもない。確かに曲の後半は比較的派手な音楽なのだが、それでもやはりちょっとデリカシーがない。弦楽器が一所懸命艶めかしさを出そうとしているが結局醒めたアメリカオケの音になってしまっているのも弱点か。総じて無印。録音良し。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリフィス(グリフェス):交響詩「フビライ汗の快楽殿」,○チャールズ・ゲルハルト指揮ナショナル・フィル(RCA)LPグリフィス(グリフェス)はドビュッシズムの体現者として有名だが、36才で亡くなってしまったため、曲が広く知られることなくイメージだけが先行してしまっている感がある。こういう「白孔雀」以外の曲がもっと知られてもいいと思う。この曲はあまり印象派的なところがなく旋律的で聴き易い。なかなか面白く変化に富んでいる。あきらかにディーリアスと近似した旋律的で牧歌的な一節も聞かれるが、個性的なのは寧ろ盛り上がりどころでハデハデしく放たれるエキゾチシズムだろう。ドビュッシーの「管弦楽のための映像」あたりの音響感覚や、ロシア国民楽派の影響、とくにリムスキーの音楽の影響が強いが、どこか垢抜けているというか、あくまでエトランゼとして客観的に民族音楽をうつしたようなところがある。明るく突き抜けていて聴感は割合と清新だ。ピアノなど打楽器的な音響感覚は個性的と言っていいだろう。おおまかにはドビュッシーの範疇にいながらもいろいろな同時代様式を取り入れてアメリカナイズしたような、優秀なパスティシュ。けっこうイケます。明るく垢抜けた演奏ぶりは曲にあっている。この指揮者、なかなか面白い。オケが無個性なのが気になるが、イタリアなどヨーロッパのオケでやったら、と思ってしまう。ナショナル・フィルの原形を立ちあげたのがゲルハルトだそうで、1964年のこと。27年生まれの生っ粋のアメリカ人。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリフィス:二つのスケッチ(インディアンの主題に基づく),○クーリッジ四重奏団(VICTOR)SP,,一曲目はディーリアス、二曲目はドヴォルザーク(言わずと知れたアメリカの終楽章ね)。言ってしまえばそれまでなのだが、共に(特に)後半、俄かに先鋭な響きがおりまざり、個性というか、これが「アメリカの音楽」なのだ、と思う。一曲目では冒頭からフラジオが印象的。後半、伴奏に金属質な高音を爆ぜさせるアルペジオが現れ印象的だ。二曲目ははっきりドヴォルザークスタイルではないガチャガチャとした都会的な音楽に切り替わる瞬間がある。いずれもコープランドらを予感させる紛れも無い「アメリカの音楽」。主題となるネイティヴのメロディやハーモニーはその根を張る土壌なのだ。クーリッジ四重奏団は縮緬ヴィヴラートを駆使するオールドスタイルだが同時代性を感じさせて懐かしい。○。チャドウィックの4番2楽章が面埋めに入っている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリフィス:白孔雀,ストコフスキ指揮ハリウッドボウル交響楽団(scc:CD-R)1946/7/21live,,録音が悪いと印象派音楽は分が悪い。リリカルではあるもののややあけっぴろげなオケの音も曲に変なリアリティをあたえて、幻想味を損ねている気もするが、そこまで考えて聴く音楽でもないか。ストコフスキーらしいあけすけな表現ではある。中音域が地味で、明るくきらびやかなのは特筆すべきか。まあ、複数の記録とどこが違うか言うのも難しい。録画マイナスで無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
クリュズナー:交響曲第2番,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(russian disc)1964/3/3(12?)live・CD 1909年生まれだがこの曲は61年の作品であり、だいぶ自由になってからの作品ということを念頭に聴くべきだろう。生っ粋のレニングラード出身の作曲家でユダヤ系というが、この作品はそういうイメージとは隔絶したかなり西欧風もしくはアメリカ風の作品である。無調的な下地の上に調性的な主題をかぶせてくるやり方などアメリカ20世紀の作曲家はけっこう良く使う手だし、終楽章の唐突なペットの独唱から始まるフーガなどヒンデミットそのものである(幸い「あの」独特のスケールは模倣されないが)。基本的に無調であり、ソヴィエトの作曲家としては極めて異例の作曲家だったといえよう。1楽章などちょっとアイヴズ風にひびく箇所もあったりして、そういう観点からすれば新鮮味があり結構楽しめる。この精妙な音世界を最高級の演奏で仕上げてくれたムラヴィンスキーに敬意を表し○にしときます。終楽章はけっこう高揚感あり。3日録音とあるが初演は12日なので疑問有り。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリンカ:ルスランとリュドミラ序曲,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(BSO他)1944/4/1NYハンターカレッジlive・CD,,クーセヴィツキーはこの曲をわりと落ち着いたテンポで四角四面にやるが、その中でもこの演奏は弛緩なくわりとスムーズに通っているほうだと思う。こういう演奏を聴くとクーセヴィツキーが余り棒が得意でなくメトロノームにあわせて一生懸命練習したという伝説も納得する部分はある(そんな訓練はごく初期のことだと思うが)。クーセヴィツキーがノると演奏が飛びぬけてリズミカルに楽しく進み、マジメにやろうとすると演奏は実直にドイツ的な固さをもった演奏になる。この差異は曲目でかなりはっきりわかれる。出来不出来とはリンクしないが、後者はけして面白い演奏にはならない。しかし共通して見通しいいスコアのあるていど透けて見えるような整理された音楽になるという点はある。色彩的・立体的というのはそのへんに起因する。この演奏も見通しはいい。まあ、○にしておく。アンコールだし多少の弛緩も仕方ない。,-----,,,,,,,,,,,,,
グリンカ:ルスランとリュドミラ序曲,○コーツ指揮交響楽団(HMV/PASC)1922/5/5・SP,,さすがにこの曲ではしくじらない。仮にもプロオケだ。集中力が途切れることなく、コーツ(あ、エリック・コーツという作曲家兼指揮者とは別人です。あちらはエルガーに心酔してましたが、アルバート・コーツはエルガーをないがしろにした話が有名)らしい雄渾な表現ですがすがしく終わる。まあ、どうも速すぎて耳に残らないが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリンカ:ルスランとリュドミラ序曲,○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(BIS)1979/1/28LIVE・LPなにげに始まるがとにかく速い。オケの驚くほどの演奏能力の高さを堪能できる。乱暴さの微塵もないのにハイテンション!きついアゴーギグがまたよくハマっている。やや録音が遠く迫力が減退してしまっているのは惜しい。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グリンカ:ルスランとリュドミラ序曲,◎スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(放送)1970年代/4/6ブダペストlive,,呆れる程のスピード。表出意欲のかたまり。今更この曲で◎をつけても他にいくらでも名演があるというものではあるが、直感的に◎をつけた。丁々発止のアンサンブルに瞠目。第二主題を提示するチェロの音色に刮目。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリンカ:ルスランとリュドミラ序曲,○テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(MEMORIES)1982/11/12,13live・CD,,未だ覇気の感じられる確信に満ちたドイツ流解釈でただでさえ開放的で騒々しいオケを厳しく切り詰め律して、しっかりした演奏を組み立てている。やや客観性が感じられるのはテンシュテの場合どれも一緒なので問題ではあるまい。録音良好。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,
グリンカ:ルスランとリュドミラ序曲,○テンシュテット指揮ミネアポリス管弦楽団(MO)1981/1/16LIVE・CD,,緊張感の漲るしっかりした演奏で、いささか現代ふうの前に流れない客観性が気にはなるが、おおむねスタンダードに聴ける無難な演奏に仕上がっている。ミネアポリス管弦楽団の自主制作ボックスより。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリンカ:ルスランとリュドミラ序曲,○ハラバラ指揮チェコ・フィル他(SUPRAPHONE)1953,,ロシアっぽいバラけた勢いが魅力的で、はっちゃけている。むろんロシアにはいくらでもこういう演奏録音はあり、迫力はあるものの統制された美しさという面からするとムラヴィンスキー前の有象無象、といった印象をもつ人がいても不思議は無い。ただ、私は◎直前の○、という評価。オケがいいのか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリンカ:ルスランとリュドミラ序曲,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(DREAMLIFE)1965/2/28live・CD,,ルスラン聴くならムラヴィンは後回しにしろ、とは古い言い伝えだが(ウソ)ここまで物凄い速さで一糸乱れぬ演奏をなしえたのはこのコンビをおいて他にはないだろう。異常なテンションで駆け抜けるわざはオケとは思えないほどだ。この演奏はムラヴィンの記録の中でもかなり素晴らしいほうだと思うがいかんせん録音が茫洋と古い。○。同日のアンコール曲。,-----,,,,,,,,,,,,,
グリンカ:ルスランとリュドミラ序曲,ケーゲル指揮ドレスデン・フィル(HMV他)ミュンヘン?・CD,,華やかで明るいルスラン。鋭さについてはケーゲルらしくもなく普通だが、この曲を内声まで構造的にしっかり組み立てた演奏は珍しいのでは(終盤)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリンカ:ルスランとリュドミラ序曲,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ORGANUM他)1962/2/10ブダペストlive,,ルスランと言ったらこのコンビしかない。弦楽の最強軍団に一糸乱れぬアンサンブル、このスピードでムラなく実現できるのは古今東西この時期のこのコンビしかいなかったろう。物凄い聴きごたえで、毎度毎度ブラヴォなのも納得の威容をほこる。世界トップの短距離ランナーという印象。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グリンカ:ルスランとリュドミラ序曲,ロストロポーヴィチ指揮パリ管弦楽団(EMI)1976/11・CD,,うーん、流され易い性格になったな俺。ちっともクラシックを聴く感じじゃなかったのに、テレビで「のだめ」をやってたらききたくなった。スラヴァ追悼の意をどっかに示したくてこの小曲をプレイヤーに落としてはいたのだが。つかさっき右手のアップのために楽譜を片端からあさってて其の中でこれも初見してみたから書くわけだが。グラズノフは三分の二はじつに弾き易く書いてあってさすがアウアー監修だなあ。冷静になってみると、あほみたいになるファンファーレ以降は純粋に練習で乗り切れるものだ。三分の一、前半のほぼカデンツァ的重音トリルウニョウニョパセージの羅列はしろーとはとても演奏しこなすのが不可能。プロはカンタンに弾けるはず。でも、頭で理解不能なヘンなゆがみのある音線なので、技術的にはできても体が拒否ることもあるだろうなあ。,,左手はやはり長く弾くのをやめていたせいかかなりよくなったみたいで、師匠を離れ大学入学以来一番調子がよくなっているかんじすらするが、右手が決定的にダメで、これはもう基礎練地獄しかなかろう。。でも意志弱いから一人じゃやらないんだよなあ。ブランクは(しろうとレベルでは)筋力を除けば左手には大して影響しない。弾いていなくても耳と脳で音楽を捉え続けていれば、結局脳がおぼえていて冷静でいれば指は譜面どおり動くので、いい演奏を広く深く聴かないで、ただだらっとオナニ弾き続けただけよりもぜんぜん訓練になるものなんだと実感。しかし耳コピ能力とか(譜面に落とすんじゃなくて再現弾きね)は純粋に弾き慣れてないとダメなので、格段に落ちる。うろおぼえモーツァルトとかうろおぼえカントリーとかうろおぼえジャズとか前はよくやってたのを弾いてみたら、脳は忘れてるわ指は自動再生しないわでぜんぜんあかんかった。読譜力はすぐ回復するけど(反応速度回復は若干時間がいる)譜面のないものは難しい。,,右手は一日たりとも怠ってはダメなもので、とくにいくつか奏法を学んだあとだと、ブランク明けは型がどっちつかずで決まらなくなりやすい。独習まで入ってたら無茶苦茶だ。とにかく「型」が崩れたらおしまい。練習譜の登場である。うううう。だいたい部屋にカーテンをたくさん吊ったら弓がいろんなとこにぶち当たり、ただでさえ長期借用中のド高い弓先がもっと割れてますます返却できなくなってしま・・・むにょむにょ。体と楽器を歪んだ空間の隙に入れて弾いてても意味ないなあ。。広いとこで禁じ手?の右腕の肘を入れて人差し指深く斜め差してロシア弾き、とにかくリハビリなので、のびのび弾き易い奏法に決めてしっかり弾きたいなあ。譜面台も奪われて床上の譜面を遠く見くだしながら弾く哀しさ。いいのさどうせ遊びだ。,,この演奏解釈自体は余技の範疇を出ず、鈍重で大仰大雑把。いわゆる天才的ソリスト出身の指揮者が初期にやるような解釈だが、メロディだけを追ってロストロ先生のソロを聴く気持ちでいれば楽しみは見出せよう。スヴェトラに似てなくもないがスヴェトラはもっとプロフェッショナル。素朴とも言えるかもしれない。ロストロ先生が大変だったころの指揮記録。75歳記念CDセットより。,,コノ曲、ボロディンに受け継がれるロシア音楽のメカニカルな面を象徴するようなじつに単純明快しっかり掛け合うアンサンブル曲になっている。ルスランは序曲だけが知られるがけっこう他の部分も録音されている。しかしやはり、国民楽派の先駆として序曲に最もいいものが簡潔に提示されている。,-----,,,-----,,
" クルシェネック:""I WONDER AS I WANDER""に基づく交響的断章","ノース・カロライナ民謡""I WONDER AS I WANDER""に基づく管弦楽のための変奏曲形態による交響的断章OP.94",,ミトロプーロス指揮ボストン交響楽団(CON MOTO)1954/5/2LIVE・CD,,冒頭ペットの独奏からして力強い。録音は一瞬悪いかと思わせるが抜けがよく、雑音も最小限度に抑えられている。リマスタリングの都合上かブツ切りでつなげたような微妙な断層が細かく聞かれるが音のあるところと無いところでの雑音低減操作の違いによるものだろう。暗い挽歌はティンパニの轟きでメランコリックな雰囲気に深刻さを加えている。民謡とはえてして暗いものだが、アメリカの民謡がこんなに重厚で暗いのか?主題提示にしてはいささか深刻すぎるし、ブロッホや遠くマーラーまで思わせる豊穣さと怖さがある。変奏はかなり変奏していて異様な起伏と楽想変化に彩られ奇妙だが、この時代の調的音楽にありがちなパターンといえばパターン。ベルクくらいまでの現代要素を都合よく配合するさまは旧世代現代音楽家の典型かもしれない。力強い推進力はミトプーならではの隙の無さ、緊密さに基づいているが、曲自体のはらむ力感を巧く引き出したものといえる。複雑なスコアをシャープに読み解き再構成してみせるミトプーの恐ろしい能力がここでも発揮されている。そこに情が乗るのがまたミトプーのよさだ。オネゲルのように激しく抽象的な部分も持ち合わせた音楽であるがゆえに情が加わらないと焦燥感でイヤになってしまう。発音が常にシャープで厳しいのはオケの特性でもあると思うが、これが中途半端なオケだったらもう10分くらいで投げ出しているところだろうなあ、とも感じた。正直名作ではない。だが現代的な響きをきちんと響かせられる鋭いオケであるがゆえに、雑音の中からも静謐な場面では妖しくも透明で美しい音響がきちんと響き渡るから、深い感情も呼び起こす事ができている。まあ派手なところは騒々しいなあ、とかやっぱりマーラー関係者だなあ、とか考えて聴くのがいいだろう。雑多な要素の混合作曲家の代表格、クルシェネックの一面をたっぷり楽しみましょう。冒頭の挽歌が戻り終わり。盛大な拍手。クーセヴィツキー存命中のボストンという意味でもこれは面白い価値を持つ演奏だろう。カップリング(プログラム)は魔笛序曲とシューベルトの2番。トータルではやっぱりやや退屈なので、曲込みで無印。私はこれをなぜか2枚持っている・・・。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
クルシェネック:ブラス・オーケストラのための三つの楽しい行進曲,◎エーリッヒ・シュミット指揮バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団(COL LEGNO)1977/6/13LIVEドナウエッシンゲン音楽祭75周年ボックスより。確かに楽しいです。といっても単純なマーチ集ではない。不安定な旋律線はよっぱらいのマーチのようでシニカルな雰囲気がある。転調も頻繁で、平易な曲想でありながら「歌えない」。でもそこがいいのだ。これに比べればずっと古風だけれどもクレンペラーのメリー・ワルツをなんとなく思い出した。録音もいいし、作風変遷著しかったクルシェネックのわかりやすい面を浮き彫りにした作品、機会があればぜひ聴いてみてください。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
クルシェネック:交響曲第1番,シェルヒェン指揮ORCHESTRE,LIEU ET DATE D'ENREGISTREMENT INCONNUS(TAHRA)?LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
クルシェネック:交響曲第4番,△シェルヒェン指揮ダルムシュタット歌劇場管弦楽団(NICKSON)1950LIVE・CDミトロプーロスのものよりぐんといい音になっているが、演奏的にはあまり成功していないように思える。シェルヒェンの悪い所というか、あまりに純音楽を指向するあまり、聴衆に音楽を分からせるという目的が果たせなくなっているということだ。晦渋は晦渋なまま、アゴーギグだけは多少きつめに入れて、音楽ではなく「音」を鳴らしている、そんな感じがした。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
クルシェネック:交響曲第4番,ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル交響楽団(NICKSON)1947/11/30放送初演(初演三度目)LIVE*一部欠落あり・CD 一部欠損あり、シェルヒェンの演奏で補っている。計1分強程度なので気にはならない。というか、非常に、ひじょーに録音が悪い。20世紀になったばかりのころの録音のような調子で、もう鑑賞するどうのこうのというレベルを遥かに下回っている。初演者ミトロプーロスはこの如何にも戦前ウィーンの前衛音楽然とした晦渋な交響曲(30分にも達する立派な交響曲)に一筋骨太の筋を通しわかりやすい演奏に仕立てている。併録のシェルヒェンのものと比べるとそのわかりやすさは歴然とする。ミトロプーロスはベルクを得意としたが、これはまさに擬ベルクと言うべき内容の作品であるから合わないはずがなく、初演時に作曲家の賞賛を浴びたのも当然かと思う。特に1楽章はルル交響曲のような雰囲気があり、ミトロプーロスは更に溯ってシェーンベルクの室内交響曲に近いわかりやすさを引きずり出している。また、これだけ悪い録音でも静寂の場面には冷たくぴんと張り詰めた雰囲気が伝わってくる。もっとも取りつきづらいと思われる2楽章も、まま聞けるようになっている。長い3楽章は現代アメリカの擬ウィーン前衛音楽の流れに沿ったような折衷性が感じられる。これは正直あまりいい音楽とは思えないので発言を控えます。ただひとつ言えることは、終演後に終演とわからず客席からの拍手が当惑気味にぱらぱらと鳴っている、その意味するものは何かということだ・・。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グルック/ブラームス:ガヴォット(ワイナー編曲),○レナー四重奏団(COLUMBIA)SP,,綺麗な旋律をただ楽しむことのできる演奏。レナーの表現のしなやかさが活きている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
パーシー・グレインジャー:岸辺のモリー,○フロンザリー四重奏団(COLUMBIA)SP,,弦楽四重奏が原曲。国民楽派の流儀に従った愉悦的な小品で、しかしロシアやチェコのような体臭もしつこさもなく、音色は前時代的だがテキパキとしたフロンザリーQの演奏振りが更に聴きやすいものにしている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
クレストン:1942年の聖歌,○ストコフスキ指揮NBC交響楽団(scc:CD-R)1943/12/26live,,クレストンはユダヤ人だったと思う。この曲はあまり口辺にのぼらないが如何にもな旋律はそっちの方向のものなのだろう。いくぶんバーンスタイン的でありブロッホ的であり、映画音楽的な効果の高い音楽である。ピアノが独特の呪術的な雰囲気を暗く盛り上げる。ストコフスキーは最高のオケを前にやりたい放題の運命をやったあとこれを演奏しているわけだが、結果として運命とは逆ベクトルの曲のランチキ性が際立ってきて、またこれが何とも言えないカッコよさとなり、結局、ショスタコフィナーレで終わる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
クレストン:サックス協奏曲,○アバト(Sa)ストコフスキ指揮ハリウッドボウル交響楽団(scc:CD-R)1945/8/26live,,リズムはクレストンらしさに溢れたアメリカアカデミズムに則ったものだが、かなり技巧的なサックスを聴いていると、何故かグラズノフ晩年のアルトサックス協奏曲を思い出す。何か古臭い。録音が鄙びていて、サックスの音も同じように鄙びて聞こえるせいか。一楽章は意外なほどサックスである必然性を感じなかった(テクニカルな面は除く)。二楽章はガーシュイン風味の空疎な不協和音の上をサックスの憂愁の旋律が流れアメリカだなあという雰囲気。録音が悪い。しかしここではサックスソロが活躍し、安定した技巧を聴かせるのはよい。音色変化を録音が捉え切れないのが痛いが、サックスは音色変化がそれほどハッキリ聴き取れる楽器でもないか。細かいヴィヴラートは美しいが、サックスというより木管楽器のような音に録れている。ストコフスキーは意外と新作に関しては弄る指揮者ではないので、ここでもあまり主張して来ない。バランスよく安心して聴ける。しかし楽章ごとに拍手が入るのはもうこのオケの聴衆では仕方ないのか。三楽章はいきなり引っ掛け気味の細かく攻撃的なサックスソロから始まり、トリッキーなリズムの交錯こそクレストンらしさだろう。オケとの丁々発止のやり取りが楽しい。サックスの特性かどうしてもアクセントが軟らかくなって鋭い音の表現にやや物足りなさを感じるところもあるが、緩徐部では美しい歌を聴かせる。しかしまあ、完璧に古典楽器としてサックスを扱っており、やや世俗的な旋律においてもキッチリキッチリした楽譜が外れた表現を許さないから、サックスにちょっとジャズを期待する向きには薦められない。曲としてはあくまでサックス演奏技術を確かめる類のものだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
クレストン:トッカータ,○ストコフスキ指揮ヒズ・シンフォニー・オーケストラ(CALA)1958/9/25カーネギーホールlive,,さすがにアメリカ(イタリア移民だけど)を代表する20世紀作曲家の一人、個性のきらめきはこんな短い曲にも明瞭に現れている。単なる能天気な舞曲ではない響きの交錯に耳を奪われる。リズムも単純ではない。場面展開が速くストコフスキの面目躍如なめくるめく万華鏡の気分が味わえる。ラテンな雰囲気を感じさせながらも決して旋律の美しさや特有の色調だけに逃げることはなく、やたらがちゃがちゃ混乱した場面があると思えば信じられないほど美しくそこはかとない情趣を込めた楽想も現れる。音線の処理がアメリカにありがちな当たり前の定石どおりではなく、音程やリズムを微妙にたくみにズラしたりして飽きを防いでいる。高度の、だからこそ面白いアンサンブルが要求されているが、ストコフスキのパワーオーケストラはまさにうってつけだ。ヴァイオリンがちょっと辛い場面もあるけど引き締まった指揮でなんとかなっている。総じて映画音楽的と揶揄したくなる人もいようが、その想像しているところの映画音楽自体この人たちが作ってきたものなので本末転倒です。ジョン・ウィリアムズに至る流れはいろいろあるんです。雑音注意。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
クレストン:フルート、ヴァイオリンと弦楽オーケストラのためのパルティータ〜T、U、V,○ベイカー(fl)ウィルク(Vn)ストコフスキ指揮CBS放送管弦楽団(SCC:CD-R)1954/2/21放送live,,新古典主義にたった作品だが冒頭の音線がずれているほかは擬古典様式で、当たり障りのない透明感あふれる作品。ストコフスキはとくに難しさもなくすんなりやっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
クレストン:弦楽四重奏曲,○ハリウッド四重奏団(testament他)1953・CD,,不協和音塗れのガチャガチャした都会的な楽章を2つ看過すると美しい旋律をひたすら祈るように歌う3楽章に至るので我慢我慢。この楽章は立体的にきっちりアンサンブルしているのでただ旋律音楽というわけでもなく楽しめる。教会音楽ふうの終結をするところも何か意味を感じさせる。フーガから始まる擬古典的な四楽章もなかなか。ハリウッド四重奏団は無難か。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
クレストン:交響曲第2番,○モントゥ指揮オケ名不詳(NYP?)(DA:CD-R)1956/2/24放送live,,クレストンは案外人気のあるアメリカ穏健派の作曲家で舞踏要素はコープランドに似ながらももっとアメリカ・アカデミズムに忠実な聴き易さと映画音楽的描写性を持ち合わせており、ハンソンやウォルトンを彷彿とするロマンティックな側面も垣間見せるまさに「アメリカ穏健派」の健全な交響曲を、しかしマンネリズムに陥ることなくけっこう複雑に聞かせることのできる人である。振る人によって曲評価が分かれるであろうことは明確だが、モントゥなどもうまさにうってつけであり、前半楽章の暗い中にも透明感のあるロマンティックなパッセージにはもたれることの決してないドライヴがきいており、舞踏楽章など猛烈にリズムを煽りモントゥらしさ全開のほんとに「クレストンが恐縮するくらい素晴らしい」演奏を繰り広げている。最後は少し失速してしかしきちっと締める曲ではあるが、モントゥはそこも的確にまとめて交響曲らしいまとまりを見せている。バンスタあたりがやったらどうなっただろう?恐らくのるかそるか、ロマンティックな側面をあおりすぎて一部信望者しかついていけないものになったか、リズムがグダグダになり曲自体台無しになったか。強引にミュンシュ的に突き進んだとしても、舞踏が主要素となるクレストンの交響曲においては舞踏伴奏のプロに任せるのが正解だろう。録音はいくぶん新しいが一般的水準からいえば悪い。オケ激ウマ。アンサンブルがここまできちっとかみ合って水際立った丁々発止を聞かせられないと曲の魅力が出ないのはウォルトンなんかもいっしょだが、ウォルトンの難点はスピードを出せないほどにパートを別けすぎているところなんだよなあ。サンフランシスコあたりの新鮮な音にきこえなくもないが恐らくNYPの調子のいいときの音だろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
クレストン:交響曲第2番,ハワード・ミッチェル指揮ナショナル交響楽団(ワシントンDC)(WESTMINSTER)1954初出 うーん。アメリカン。アメリカの20世紀作曲家の典型だ。その道には既にコープランドらが轍をつけているわけで、若干重厚で目が詰まった音楽ではあるが、とっぴなところは何一つ無い。旋律の魅力と単純なリズムの楽しさ、それだけでも十分か。録音が古いので今一つ和声の妙味が味わえないのが残念。ピアノの導入が面白い効果をあげている。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
クレストン:交響曲第2番,モントゥ指揮NYP(DA:CD-R)1955/11/20放送live,,ややオケのデップリ感が出てしまったか。NYPらしい暗く重いロマンティックな芸風がこの曲の半音階的で暗い側面を引き出してしまっている。ストラヴィンスキーのバーバリズムの影響が強い楽曲でもあり、整理して綺麗に響かせればモントゥだからうまくきかせられるはずなのだが、シェフが同じでもタイミングによってはこうも印象が変わるものかと思った。終楽章の激烈な舞踏音楽は確かにNYPの威力が発揮されているがどこか揃わない感もある。何より音がくもって悪い。相対的に無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
クレストン:交響曲第2番,モントゥ指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1956/1/22放送LIVE モントゥの鮮やかな棒さばきが楽しめるが、曲がなんとも言いようのないもので・・・結局わけがわからない。もっとリズム性を前面に出せば面白かったろうに、この作曲家、大部分を繰り言のような緩徐部で覆ってしまった。名曲とは言い難い。モントゥの奮闘も空しい。演奏の評なのか曲の評なのかよくわからない書き方になってしまったが、いずれにせよ無印。アメリカっぽい曲ではあるけど。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
クレストン:交響曲第3番,○ハワード・ミッチェル指揮ナショナル交響楽団(ワシントンDC)(WESTMINSTER)1954初出 1楽章が面白い。静謐で精妙な序奏部からぐっと耳を引き付けられる。やがて主部では派手な音楽のはじまりはじまり。弦が刻んでブラスが叫ぶ。近代対位法の教科書通りと言うこともできるが、そのあからさまさが却って魅力を感じさせる。旋律もすばらしい。ハンソンに匹敵するわかりやすさだ。でもあれより余程構造的に書かれていて、変化に富んでいる。緩徐楽章はあまり記憶に残らないが、終楽章の盛り上がりも、終わり方も何度も何度も念を押すような粘着気質、無論音楽自体は新古典以降のものだから決して半音階的で濁ったロマン派音楽とは違う。聴いていて、私はふとウォルトンのシンフォニーを思いだしていた。あの書法に似ている。相互関係があったかどうかわからないが。。ハワード・ミッチェルは作曲家と親密な関係にあったそうで、この録音を聴いて謝辞の手紙を寄せたそうである。ミッチェルはアメリカ国内の活動を主とし、デビュー後ずっとポップスオーケストラを振っていたとのこと。前へ前へ行くテンポ(ときに勝手にオケを走らせてしまうような)はそのへんが関係しているのかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
クレストン:合唱曲風舞曲第1番、第2番,○ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(Capitol)LP,,この作曲家は保守的でメタ音楽的な作風をもち、この曲も正直昔のアメリカ産ソープドラマのような匂いがきつい。といっても悪いのは節操の無い「引用」に人工的で「モザイク的」な継ぎ接ぎ方法であり、陳腐ではあるが充実した書法は手管として持っている。明らかにラヴェルのダフニスや高雅で感傷的なワルツの響きと動き、ストラヴィンスキー野蛮主義時代の作品の僅かな部分、それに新ウィーン楽派ふうの響きなど同時代というよりは前時代的なものの「良質な部分」を持ってきて、それをドビュッシーの「選ばれし乙女」ふうにまとめている・・・といったら褒めすぎか。でも、こういう曲を聴きたくなることはある。○にはしておく。ゴルシュマンの曇った響きはこの曲の重さをひときわ重く感じさせる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
クレストン:二つのコーリック・ダンス,カンテルリ指揮NBC交響楽団(ASdisc)1952/11/29・CD NYP盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
クレストン:二つのコーリック・ダンス,カンテルリ指揮NYP(ASdisc)1952/11/29LIVE・CD 曲が兎に角地味なので、なんとも言えないのだが、カンテルリをもってしても暗中模索的な感じで終わってしまった感がある。クレストンのオルガン的発声は至る所で顔を出しているが、曲想と微妙にズレており違和感を感じる。踊るには重過ぎる。晦渋・・・。無印。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
クレストン:二つのコーリック・ダンス〜第2番,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(GUILD)1942/11/1LIVE・CDトスカニーニのアメリカ音楽ライヴ集より。クレストンの曲はリズミカルでコープランドのアンファン・テリブル系。この曲は短いせいもあって、比較的素直な書法によっておりとくに後半とても楽しめる。世紀初前衛系の硬質な響きが特徴的な作曲家だがここでは晦渋さは前半のハーモニーに感じられる程度。ピアノを舞曲の下地に置くことによりリズミカルな音響を際立たせる方法はストラヴィンスキー後の流儀。コープランドも得意にしていたものだ。今はむしろショスタコが有名か。いずれにせよアメリカ20世紀前半様式の典型を示すものとして評価されよう。これがトスカニーニでなかったなら、好印象はなかったかもしれない。引き締まったリズムときっちり整えられたハーモニーが耳馴染みを良くしているのは確かだ。トスカニーニ向きの曲と言えるかも。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
クレストン:舞踏序曲,◎カンテルリ指揮NYP(ASdisc)1956/3/18LIVEクレストンは生前から、そして今も人気の有るアメリカの作曲家だ。聞く人が聞けばその作風はショスタコーヴィチを予言したとさえ言い切れるらしい(年齢はいっしょ)。私には清々しいがせわしない「アメリカ音形」の上に美しい中欧的な旋律(もしくは映画音楽的な旋律)を載せたもののように聞こえる。和声的には重厚であるもののそう感じさせない楽器法のたくみさと言おうか、シャープで構造に無駄が無く、薄すぎず厚すぎず絶妙だ。もとはイタリア系だそうで、楽天的な曲想はそこからくるのだろう。この曲ではオルガニストだったとは思えない管弦楽法の巧みさを感じる。優等生的管弦楽法と揶揄することもできなくはなかろうが、曲想の美しさはアメリカの心を表現するに十分であり、コープランドですら生臭く感じるほど洗練されている。この曲は題名のとおりリズムの饗宴。最後のまさにコープランド描く西部の田舎踊りのような軽打楽器にのってちょっとジャズ風にリズミカルに演じられるクライマックスではとにかく理屈抜きに肩を揺らさせられる。盛大な拍手。カンテルリの水も切れるような鋭い指揮にも括目。曲がいいし、演奏もいいのだから、◎にしておくべきだろう。録音?こんなもんでしょ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グレチャニノフ:ミサ・エキュメニカ,
クレンコ(sp)ヘイズ(t)他、クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(アーサー・フィードラー合唱指揮)(SLS)1944/2/26アメリカ放送初演live
キリスト教統一運動という主題のせいか、素材はロシアのものをはじめとしていろいろ取り入れながらも個性の臭気を放つことなく平易で、同時代のイギリスの作曲家のオラトリオをすら彷彿とさせる。1860年代生まれの帝政ロシア出身、モスクワとペテルブルク両派の流れを汲んだ作曲家でありながら、国を脱出し流転のここにきてはロシア国民楽派のどんより重いロマンチシズムも変な主張も感じられない。規模は大きいが前期グリエールやラフマニノフのように凝ったような、気張ったところがない。長さもほどほどで、聴きやすく爽快ですらある力作だ。
ただ録音は悪い。戦中の録音で、手を余り加えていない発掘音源ということで、珍しくはないが、同曲の美質も演奏陣のメリットも正直、あまり伝わってこない。アメリカに居を落ち着け、長生した作曲家は新古典主義やモダニズムの影響も受けているのだが、クーセヴィツキーも同じようにロシアからアメリカにわたり当時の前衛作品に取り組んできた人であるものの、そういった共感性よりは職人的な捌きというか、正直下振りがしっかり作った音楽を振ったような感じというか、他の珍曲指揮記録同様のそつない感じが強かった。まあ、この音ではそのくらいしか語れない。え、これで終わり?と肩透かしを喰らったのはミサ曲という形式的な音楽にシンフォニー的な盛り上がりを求めた私が悪い。聴衆反応はごく普通。
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クレンペラー:メリー・ワルツ,○ストコフスキ指揮ニュー・フィル(DA:CD-R)1974/5/14LIVE,,クレンペラーの曲ってけっこう出来がいいんですよね。というか、軽音楽に適した「深み」を知って織り込んでいる。楽しいのに目の詰まった作品。重い曲も明るく色彩的に描ける名シェフ・ストコフスキが(このオケで)やったというのも面白い。老齢の最後まで衰えを知らなかった指揮者である、これも生き生きしている。BBC正規音源からCDで出ていたものと同じかもしれないがデータ照合していないのでとりあえず別扱いしておく。ハデハデさへの指向もこの楽しい曲ならプラスに働く。国民楽派あたりまでの後期ロマン派ではスレスレかアウトかという演奏もするストコが、末期ロマン派以降の構造もしくは内容が複雑な作品に対して適切かつ最大限に魅力を引き出した演奏を行うことができたというのは何なんだろう、やる気の問題なんだろうか。録音状態はいわゆる古いテープ撚れしたステレオというこの放送エアチェックレーベルの典型的なものだが、聴けるレベルではある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
クレンペラー:メリー・ワルツ,○作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)1961/10厚ぼったい音楽だ。クレンペラーはけっして舞曲のうまい指揮者ではないが、さすが自作、楽しげな雰囲気もそれなりにあって、聞かせることは聞かせる。音もクリア。ワルツのパロディ、といった趣もあるこの曲はストコフスキも演奏した割合とよくできた作品だが、なめらかな旋律に乗っけられた分厚いひびきが時折衝突する音響をかもし不協和音の時代を生きたクレンペラーの諧謔を知らしめる。いくつかの旋律が輪換するが、一貫してその強い「クセ」が鼻に付く。これをユダヤ的と思う人もいるかもしれない。ブロッホのしつこい音楽を想起した。短いがとても重さを感じる曲、機会があれば。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
クレンペラー:メリー・ワルツ,ストコフスキ指揮ニュー・フィル(imp,carlton,BBC他)1974/5/4クレンペラー追悼live・CD,,最近のものはともかく、昔の録音は自作自演とこれくらいしか知られていないと思うのだが、クレンペラーはウィーンが好きだったんだなあと思わせる楽想で、同時にマーラー時代のシュトラウス演奏を知っている世代なのだなあとも思わせる雰囲気をもつ。しかし何せストコだ。演奏は拡散的で、ぐずぐずとまでは言わないが締まりはなく、ワルツに聞こえない。鋭いリズムの打ち出しにくいブラスを中心としてリズムが構成されている楽曲自体の問題もあるにせよ、ストコはオケのブラスを必要以上にブカブカ吹かせるので、曲の悪い部分が更に浮き立ってしまう。仄暗い雰囲気や旋律の魅力をちゃんと引き出しているとは言えない。無印。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,"",-----,,,-----,
グローフェ:グランド・キャニオン組曲,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(RCA)1945/9/10・CD,,ガーシュインの影武者として名をはせたグローフェの代表作で、西部の雰囲気をコープランドほど硬質じゃなく程よくライト・ミュージックふうにまとめてみせた、といった感じの描写音楽だ。この演奏では輪をかけて聴き易く、初曲「夜明け」よりアメリカ印象派の延長上にある作品といった感を強くする。いかにもドビュッシーを好んで振ったトスカニーニの選曲らしい。クセが無く安定した作曲技法を駆使した感じで、ちょっとグリフィスを思い浮かべたが、三曲めON THE TRAILのあたりからいかにもグランドキャニオンの谷へと降りる細い崖道を驢馬がてくてく歩く感じが描写されていて、ライト・ミュージックの香りたっぷりになってくる。トスカニーニがやるからクラシックとして鑑賞できるんだな、とも思った。昔聞いたときは余りの表層性に嫌気がさしたもんだ。こういう曲でもしっかり、情緒たっぷり、しかも響きはあくまで美しく演じ上げている。浅い曲というより爽やかな曲という印象が残った。フランス音楽、たとえばオネゲル「夏の牧歌」あたりの雰囲気が依然織り交ざるけれども、カポカポてくてく歩きはグローフェの発明だ。西部劇に繋がっていくのだ。録音のせいかクライマックスの盛り上げが今一つはじけない感もあるが、5曲め(終曲)最初の高弦の微妙な響きなどレスピーギの「松」3楽章を彷彿とさせるものがあり、やはりトスカニーニだなあ、と思う。嵐の場面は凝縮された激しさで決して派手になりすぎない程度に表現されている。ダイナミックではあるがそれほど派手ではない。このあたりの即物性はトスカニーニらしさだろう。根底にどこか楽天性があるから、最後の映画音楽的な盛り上がり(あれだけ弦に旋律歌わせといて最後はブラスが派手に〆る(弦はワグナー的なやたら大変な伴奏音形の繰り返し)というアメリカ的常套性は賛否あるだろう)はきっぱり終わる。とにかくこの演奏は時代の懐かしさ以上に清々しく美しいトスカニーニのラテン気質があらわれており、このような曲にも決して手を抜かず(いや、トスカニーニは振る以上決して手を抜かないが)己が個性を反映させ、共感をもって演奏しきったのだなあ、と思った。この曲はとてもアメリカ的で常に何かを歌っており、またやたら高い音が耳につく(高弦だけによる空疎な和音が目立つ)と感じていたが、こんなに情緒を込めることも可能なんだなあ、というところでした。○。思いのほか静かな優しい演奏であることも付け加えておく。こんなところにもハリウッドの源流(本流か)。戦争終わってこんな曲。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ケクラン:シャンパーニュの古い歌OP.124〜V、]U,○作曲家(P)(MFB,INA)1947/12/29・CD,,ずいぶんと確かな打鍵で、もちろん非常に音の少ない曲であるせいもあるのだけれども、ちょっと重過ぎるな、と感じる所も有る。これは語り(明瞭なフランス語)と一緒に収録された1分半程度の2曲のみの演奏だが、録音は1947年にしては悪すぎる。まるでドビュッシーの自作自演伴奏のレベルに毛が生えた程度だ(40年以上の差があるのに!)。盤が全編ドイツ語で(現代音楽レーベルであることからもケクランの「ほんとうの位置づけ」がわかる)しかもこのトラックは大曲のボーナストラックゆえジャケ文でも全く言及されておらず、結果曲のことを含め詳細まったくわからないのだが、題名のとおりの歌曲的旋律に後期ミヨー風のやさしい和声、実に単純で最低限の伴奏(サティ的と言いたいところだがもっと常套的でやさしい)をゆったりつけた詩的な佳品である。とても平易で、フランス的だ。個性のかけらもない素直さだが、そのゆったりしたテンポと旋律の哀しさが(この旋律の哀しさもミヨーの真摯なピアノ曲に通底するものを感じる)静かに心に染み入ってくる。だが・・・これはケクランの本領ではない。ケクランはたとえば三省堂の作品名辞典なんかを見てもドビュッシーなどの影響下にある平均値的作風とか酷い書かれかたをして、作品なども殆ど挙げられていない。三省堂版には「燃ゆる茂み」すら載っていない!作品数は3桁を数えかなりの多産家でありながら何故こういう評価なのか。結局和声学の教科書執筆者としての名前だけで覚えている人たち・・学者さんと学者崩れさんの感覚でいくとそういう評価になってしまうのだろう。オンド・マルトゥノの可能性を広げた作家として重要だと思うし、無調に早くから取り組みそれと調性原理との均衡を図り、大規模ながら非常によく書き込まれた晩年の作品の数々に触れるにつけ、この作曲家を、ただ凡人と一蹴する人々の気がしれない。きっとこのピアノ曲を書く程度の作曲家くらいの認識なのだろうな、と思いつつ、この曲の愛おしさにもまた心惹かれるところもあるのだが。おまけで○。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ケクラン:ピアノと管弦楽のためのバラード,ブルーノ・リグット(P)アレクサンドル・ミラ指揮モンテカルロ・フィル(EMI)1982/6/15-23・CD,,印象派とは繊細な和声のうつろいの醸す雰囲気を大事にしながらも、横の流れが重視される音楽と理解している。その意味でケックランは本質的に印象派の作曲家であり、バッハの研究や新しい音響への探求も怠らなかったとはいえ、1860年代生まれという時代性を感じさせずにおれない。この作品は題名に象徴される通りいくぶんにフォーレの影響下にはあり、冒頭からピアノに旋律的な要素が強いが、次第に雰囲気音楽に呑まれ、静謐な世界に溶け込んでいくように終わる。なかなかの耳触りのよさはあるが、後代のアメリカアカデミズムの作曲家たち・・・フランスの教師陣に教えを受けた者を含む・・・に似た「無個性さ」も否定できない。派手さがないのでまずもって演目にあがることはなく、ケクランが(自作において)いかに自分の世界に忠実で、自分のやりたいようにやっていたかがわかる曲となっている。教師として著名なリグットがソリストを受け持っているが、指揮者ともどもまだ若年期にあったせいか、少し深みが足りないようにも思う。ドビュッシーの「アッシャー家」断片など秘曲を紹介した「フランス音楽のエスプリ」シリーズの古いCDで、そういう意図からか時間をかけてゆっくり作った感じがしない。録音状態が決して良くはなく、とりわけ静謐な作品においては今なら環境雑音は極力除去されたことだろう。併録は「7人のスター交響曲」。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ケクラン:フルート・ソナタ(1913),F.スミス(FL)M.アムリン(P)(hyperion) 象牙の塔に独り篭って自分の為に作曲する事を望んだフランスの静かな作曲家。 あくまで優しく、決して派手ではないが、緻密で清々とした響きに溢れた曲を 200以上も書いている。1867年生まれの白髭のセンセイであったし(和声法の教科書でお馴染み)、 平均値的作風といえばそうかもしれない。しかし、ケクランの作品に 垣間見える個性というのは、紛れも無く20世紀の作曲家としての耳を持ち、新しい音響への挑戦を行った、しかし時代遅れの作曲家のものである。 映画スターのための曲(「7人のスター交響曲」等)や、無邪気な”交響詩” (「バンダー・ログ」等)のイメージがあるが、只耳優しい曲を描く類の作曲家ではない。もう少し深いところに棲むようだ。結局フォーレやドビュッ シーを想起させる場合が多いにせよ、オンド・マルトゥノなどの音素材、複雑で 止めども無い旋律線、空間音楽的発想、無調的フレーズが、さりげなく、しかし注意深く配置されていることに、はっとさせられる(「燃ゆる茂み」等)。 同時代の巨人たちと比べてしまうと、発想にやや貧困さを感じる向きもあろうが、 完成度は高く、若い世代〜メシアンやその門下のブーレーズ等〜への受けが良かったというのも、さもありなん、である。(1995記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ケクラン:交響詩「バンダー・ログ」〜ジャングルブックより,○ヴァント指揮ケルン放送交響楽団(Profil、Hanssler、WDR)CD,,ケクランではわりと演奏される曲だが文字面の意味内容よりも音楽そのものの前衛性に着目したようなヴァントの慧眼には瞠目させられる。いったいこのブーレーズのような音響は何だ??オネゲルの気ぜわしい構造物やジョリヴェの騒々しい野蛮主義の側面がカリカチュアライズされ大きな枠組みの中に取り込まれている。通常は「気ぜわしく騒々しい音楽」として描かれるべき「描写音楽」であるのだろうが、書法の緻密さ隙のなさと老齢においても音楽への挑戦的な態度を堅持し続けた静かなるケクランの「爆発する音楽」が、ヴァントによって律せられここまで磨かれてくるさまを見るにつけ、この人はまったくメシアンの隣人と言っても過言ではない存在であったのだと改めて感服させられる次第である。落下眼鱗の演奏。人によってはもっとボリュームやスケールが欲しいという人もいるかも。録音は素晴らしくよい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ケクラン:交響組曲「7人のスター交響曲」,アレクサンドル・ミラ指揮モンテカルロ・フィル、フランシス・ペリエ(OM)(EMI)1982/6/15-23・CD,,opus.130台の後期作品にあたる。四楽章にオンド・マルトゥノ表記があるが三楽章の誤り。映画スターの名前を各楽章の題としそれぞれに副題が付けられているものの、映画との関連性は皆無で、あくまでケックランの受けた印象を抽象化した曲の集合体となっている。散文的で楽章間の対比は明確ではなく一貫して個性を主張せずに職人的作風を保ち、同時代音楽の雰囲気を漂わせ、デュティユすら超えるような現代の印象派的音詩が連ねられており、三楽章「グレタ・ガルボ」のオンド・マルトノ(融和的で木管楽器のように自然に旋律楽器として取り入れられている)に至るまでは音響的な音楽が続き、鉄琴やハープ、ピアノなど高音打楽器系の楽器が空間的な拡がりを感じさせる。四楽章でやっと派手な音楽が登場するが、その後は後退したような晦渋な楽章も登場する。いずれ題名となっている俳優のイメージを知らないと、まとまりのなさに退屈してしまうかもしれない。アメリカアカデミズムの同時代曲も彷彿とさせる。長くても6分程度の曲の中で終曲のチャーリー・チャップリンは16分を越える深刻な音楽であり、ベルクを思わせるフレーズを含めその感じが強い。後輩オネゲルからメシアンに至る音楽をも飲み込んだケクランの世界の広さとともに、広過ぎるがゆえに構成感を失い散漫で掴み所のない作風を露呈している。大半が静謐なため環境雑音の気になるところがあり、調和の取れた音ではあるが強い押しが無く(フランス的ではある)、紹介者的な範疇を出ない演奏となっている。合わせれば結構な大曲、併録はフォーレに倣ったようなメロディアスなピアノと管弦楽のためのバラード(ブルーノ・リグット(P))のみ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ケクラン:燃ゆる茂み,○デゾルミエール指揮フランス国立放送交響楽団(ACCORD/THE CLASSICAL COLLECTOR)1951/11/19シャンゼリゼ劇場初演LIVE・CD,,響きはヒンデミットのように輝かしく、オネゲルのように緻密で、ミヨーのように華麗で、メシアンのように色彩的だ。しかしこれは紛れも無くケクランの曲であり、この美しさに魅了されない者はいまい。あくまで清らかな曲趣、「象牙の塔に篭り自らの為に作曲する」と言ったケクランの静寂の時が、この神秘的で感動的な交響詩を産み出したのだ。二部構成で一部は45年11月、二部は38年完成。ほぼケクランの管弦楽作品の絶筆に当たる。ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」終章に材を得たものだが、哲学的で神秘主義的な傾向が強く、その意味ではメシアンの世界に近いかもしれない。サティより僅か1才下、ラヴェルより9才年上のケクランは、その長命故に実にメシアンの時代まで意欲的な作曲・著述活動を続けていた。オンド・マルトゥノを使用した1860年代生まれの作曲家などケクラン位だろう。一種映画音楽的な面もあるがそれだけに無調的な部分が目立つことなく聴き易くなっている。代表作のひとつであることから名前だけは有名なものの、恐らく、現在に至っても殆ど両手で数える程しか演奏されていない(93年のこの盤には初演を含めてたった3回しか演奏されていないとある)曲ではあるが、作曲家自身すら実演を聴くことが叶わなかったことを思いながら、無類の映画好きで知られたケクランの自伝映画を夢に見よう。没後1年のこの初演ライヴ録音はマニア好みの指揮者デゾの鮮やかな表現が悪い音の中から香気を放っている。古い録音に慣れた向きなら十分楽しめると思う。○。(1994記)TCC盤(いずれもデゾルミエール指揮)には他にクラリネットと管弦楽のためのソナタ、静かな海、生きている水(37年万博のための)が集成されている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
民謡:エイメのジャンヌ(仏ケルシー地方)ケクラン和声・編曲,デゾルミエール指揮管弦楽団他(le chant de monde)1938/10・SP,,テノールならびにメゾソプラノ独唱と合唱団を伴うかなりの編曲を施されたものだが、意図は明らかに賛美歌。ミサで聴かれる類の単純なメロディが組み合わせを替え清澄な響きに乗って繰り返される。録音も比較的良好で、歌唱に癖はない。興味深い編曲でもあり、クリスマスに似合いそうな、そして少し物悲しさもある演奏だ。デゾルミエールは他にもケクラン編曲を含む夥しい数の民謡録音をSPに遺しており、またケクラン自体の曲の録音もいくつも残しているがLP、CDになったものは僅か1,2枚。lysの編曲ものは未聴だがThe classical collector盤は今でも容易に手に入る(ACCORDのLP音源は全てこのケックラン集に含まれる)。11.084,-----,,,,,,,,,,,,
ゲディーニ:ヴァイオリンとヴィオラと管弦楽のための小協奏曲,カンテルリ指揮イタリア・ローマ放送交響楽団(FONIT CETRA)1954/11/19LIVE・LP 凡庸な曲。モダニズムを演じても新古典主義を演じてみてもどこか古臭い。また、ソロヴァイオリンの高音の音程が不安定で、一個所特にひどいところがある。いずれにせよ、カンテルリマニアなら、というだけの一枚。無印。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ゲディーニ:ヴィオラと管弦楽のためのムジカ・ダ・コンチェルト,○リドル(Va)ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(DA:CD-R)1959/11/8LIVE,,フレデリック・リドルときたか!モダンな響きの曲だがきほん新古典の範疇にありソリストにも新奇な奏法や高度な技巧は要求されない。起伏は少ないがモダニズムを感じさせない、ペルト的なところのあるセイヒツな曲である。オケは弦楽のみ。十二音曲を思わせるピチカートなどモダンだが、うまく英国聴衆の保守性との折り合いをつけたややロマンティックでわかりやすい形に整えられている。リドルは首席奏者であり英国音楽のソリストとしても長く活躍したが、余り巧い人ではなく音も普通。ビーチャムがこういう曲をも巧みに振れたという証明になる好演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ケルビーニ:メデア序曲,○ヒンデミット指揮NYP(DA:CD-R/urania)1960/2/27LIVE・CD,,ヒンデミットは晩年をむしろ職人的指揮者として過ごし、古典からロマン派前期の曲を好んで振っていた。構築的できびきびした即物的な表現を駆使し、ロスバウト的な演奏をものしていたのにもかかわらず不遇であったことは、アメリカでも欧州でも決まったオケを持てず代振りや客演ばかりだったことからも伺える。この演奏も迫力の引き締まった演奏で聴衆反応も悪くないのだが、いずれ他人の作品の正規録音が殆どなくライブも極端に悪い音のものが多いから、再評価に繋がらないのだろう。自身も優れた弦楽奏者で、作品は多種多様な楽器を組み合わせていずれも高い水準を保ち、指揮者として悪かろうはずもない見識の持ち主だったのだが、クレンペラーのような個性に押しやられてしまうカリスマ的な弱さがあったのかもしれない。,,再発CDレーベルURANIAの盤ははっきり言って音質改善などしておらず、DAに比べてすら悪い。むろんエアチェック音源だが電波的に不安定でノイズも酷ければ音質や音量の悪さも度を越している。,,メインのブル7含め販売店では1960年ライブ以外のデータはわからないことになっているが、内ジャケにはっきり2/27NYと書いてある。つまりはDAと同じ。気をつけたし。LPや、その板起こしであったvibrato他の有名盤は28日ライブで確かこの曲は収録されていなかった(プログラムは一緒だろうからあってもおかしくはない)。ただ両者ブル7は同じ可能性もなくはない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
コープランド:「ホウダウン」作曲家による編曲版(1942/43),◎ルイス・カウフマン(Vn)アンネ・カウフマン(P)(CONCERT HALL/VOX)コンサートホール(VOX)原盤によるMasters Of the BOWシリーズLPの一枚に収録。コープランドをはじめさまざまなアメリカ現代作曲家の曲を演奏しているが、さしあたってポピュラリティある「ロディオ」終盤からの魅力的なピースを挙げておく。同曲の依属者カウフマンの精力溢れるボウイングは、管弦楽のヤワな響きを一本で退ける。同曲の決定盤はEL&Pのものだと思うが(あのくらい速いテンポの原典演奏ないのかなあ)、クラシック流儀ならコレ!作曲家の手短なコメントが付いている。ちなみにこのカウフマン・レガシーのVol2、コープランドだとほかにヴァイオリン・ソナタ(作曲家のピアノ伴奏)、2つの小品が入っている。ヴァイオリン・ソナタは響きにアイヴズのソナタを彷彿とさせる郷愁が篭り、フランク風の節回しもある。しかし頭の中で管弦楽に置き換えて聴いてみると、この不規則なリズム、この中音部空虚なアメリカン響き、嗚呼明らかにコープランド。 CDになっているような気もするが、確認していないので不明。MB1032。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コープランド:「ロデオ」よりホウダウン,作曲家指揮ロス・フィル(naxos)1976ドロシーチャンドラーパビリオンlive・BD,,ホウダウンは庶民のためのファンファーレとともにコープランドを代表する小品であり一般にも広く受容され編曲もなされてきた。ゆえに大編成オケによる原曲は小回りがきかず遅くてしゃっちょこばった印象を与えるのも仕方なく、これもコープランドの他の自作自演とまったく印象の同じ、前に向かわない演奏となっている。ただ音は明晰である。お定まりのようなブラヴォもこの曲終わりでは出なかったが、次の曲にすぐ入るせいかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:アパラチアの春,○バーンスタイン指揮ロス・フィル(DG)1982/7・CD,,コープランドに期待される明るく軽いだけの音楽では必ずしもなく、重心の低い響きで心象的な風景を描き出すところもあり、バーンスタインならではの深みがあらわれている。音楽自体が余り意味深いものではないだけにそれが正しいのかどうかはわからないが、田舎の風景を素直にゆったり楽しむだけではなく、、、まあそれでいいのだけども。ロスフィルは雑味なく楽しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:アパラチアの春(ピアノ版),○作曲家、スミット(P)(SLS:CD-R)1944/7,,酷いノイズだが仕方ない。元は透明感に満ちた静謐な演奏のようであるだけに一層惜しい。コープランドは作曲家演奏家に多い、かなりよたるところのある演奏を繰り広げているが、リズム感は良く、良し悪しである。○にはしておく。私はよくわからなかったが全曲ではないとのこと。ロジンスキの同曲とのカップリングで、そちら演奏はNYPのボックス収録のものと同じ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:インスケープ,作曲家指揮クリーヴランド交響楽団(SLS) 1970/8/1クリーヴランド ブロッサム音楽祭live,,この曲は流石に自分のものだけあって、いつもの冷たく組み立てるスタイルで楽曲そのものの持つ思索性へ誘っている。破壊的は破壊的でも現代音楽的な破壊で、耳をつんざく不協和音が意図した通りの不協和音として響くように整えられているのである。なかなかに取っ付きづらい作品でもあり、スコアを見るか、ソロ楽器など一部に主眼を置いて構造を確かめながら聴けば楽しめるだろうが、私は結構。雑なステレオ録音はこういう曲・演奏だとほんと聴くのが辛い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ,カウフマン(Vn)作曲家(P)(MASTERS OF THE BOW)最初のフレーズから「フランクみたいなんじゃないかな」と思ったらそのとおり。和声的にはこの作曲家の影響が強いように感じた。連綿と続くいつ果てるとも知らない旋律は、基本的にヴァイオリンによって綴られる。あまり魅力的ではないが、不協和なひびきがほとんどないので聴いていて不快ではない。ちょっとトリッキーな動きにはコープランドらしさを感じる。しかしどうも地味だ。カウフマンはなぜか線が細いように感じた。コープランドは達者である。興味があれば一聴を。無印。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コープランド:エル・サロン・メヒコ,○トスカニーニ指揮バルチモア交響楽団(DA:CD-R)1942/3/14,,音はやや悪いか。メヒコにしてはまっすぐで、しかしいかにも一流ではないアメリカオケの演奏といった感じ(ソロ楽器がめろめろだったり合奏部のリズムの乱れが珍しく聴かれたりする)が逆にトスカニーニ的にどうなのか、という点を改めて考えさせられる。コープランドのブーランジェ譲りの合理的な書法のせいもあろうが、至極音楽が「グローバル」なのだ。非常に率直であるがゆえに踊りの要素が薄いかもしれない。純音楽的といえばそうなのだろう。面白みは余りなかった。異盤と同じかもしれない。録音がびみょうだが、一つの見識とみて○。既出盤との違いは不明(ライヴそのままではない模様)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:エル・サロン・メヒコ,カンテルリ指揮NYP(NYP/youtube)1955/3/13live,,トランプ大統領になったらこの曲も壁の向こうに放り棄てられるのかなあ(なわけない)。リズムのキレ、響きの派手さ、引き締まったアンサンブル、ニューヨークフィルという油断すると弛緩するオケをここまで「しっかり」ドライヴして、夢見るように、浮き立つように演じることのできたカンテルリ、伊達に世界床屋選手権みたいな髪型していたわけじゃない。録音が悪くても、良い演奏はちゃんと伝わるのだ。いたずらに「アメリカを煽る」わけでもなく「技術を見せつける」わけでもなく、これが「ライヴ」である。,,"https://youtu.be/zMINnAhO10I",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
コープランド:エル・サロン・メヒコ,作曲家指揮ロス・フィル(naxos)1976ドロシーチャンドラーパビリオンlive・BD,,ロス・フィルらしさを発揮できるごきげんな曲。ただやはりコープランドの棒は固い。達者なのだが抽象音楽志向が強く楽想の奔放さと格差を感じる。執拗な変則リズムがメインのダンスミュージックだが、ここでは踊るのではなく聴くように演奏されている。オケの技術的弱みが出ているところがあるが、ライヴだからこんなものか。映像があるからといってさほど、必要とも思えず、音だけを楽しんだ。特殊楽器くらいか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:エル・サロン・メヒコ(1936),○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PEARL/HMV)1938/12/1・CD溌剌として聞ける演奏だが、ちょっとマジメ過ぎるか。もっと軽やかに踊って欲しい。ストラウ゛ィンスキーの影響バリバリな曲ではあるものの、趣旨は酒場の踊りなんだから遊びが欲しい。そんな実直なテンポとアバウトなオケがこれまたアンマッチ。力感はあるし余裕も感じられるのに、打点から微妙にズレたり音程もやや甘い。音が鄙びているのは録音のせいだろうがスタジオ録音とは思えない所が少なからずある。全般に下手ではないがクーセウ゛ィツキーだと思って聞くと拍子抜けするかも。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コープランド:エル・サロン・メヒコ(1936),カンテルリ指揮ニューヨーク・フィル(NYP/ASdisc)1955/3/13放送LIVE・CD〜この曲一回弾いたことがあるが・・・思い出せない。録音は若干マシ。何でも振っていたカンテルリの特殊なレパートリーだが、曲の魅力をよく引き出せていないように感じる。踊りのテイスト、楽天的な感覚が不足している。実直に譜面に忠実にやったせいなのか、カンテルリがこの曲を嫌いだったのか、理由は不明だが、最後まで曲の流れが読めなかった。ただ右から左に流れていった感じ。バレエとして踊るのは楽だろう。しかし演奏会の演目としては、この演奏では何か今ひとつである。いや、最後の旋律でやっと思い出したくらいなので、私がそもそもコープランドの曲に適性がないせいかもしれない。でも言い切ってしまおう。無印。最後は盛り上がりブラヴォーが飛ぶ。〜どこかで聴いたことがあると思ったら弾いたことがあることに最後で気が付いた。コープランドの代表作でけっこうわかりやすい曲の印象があったのだが、こうして完全に聴衆として聞くと、冒頭からしばらくなんだかとりとめのない感じがした。リズムに特徴的なものが現れ出すと徐々に音楽が流れ出す。メキシコの酒場の印象をメキシコ民謡をまじえて描写した作品というが、カンテルリがやるとけっこう冷たい肌触りがするのが意外。ラテンな感覚の発露は感じたが録音が悪いせいかそれほどキレがあるとは言えない。それより民謡旋律の歌謡的な歌いかたが印象的だった。オケのせいもあるのだろう、カラッと晴れた空に乾いた大地というこの曲の描写する風景が、若干北のほうへ移動しているような感じもした。それでもクライマックスに向けてしっかり盛り上がるし、響きは美しい。こういうのもアリなのだろう。管の発音がやや締まらないところもあり、ノリが悪いようにも感じた。娯楽性が後退している、但しこれは好き好きだろう。最後は空疎な太鼓の一打で終わるが、やや尻すぼみ気味で拍子抜けする。しかし客席からはブラヴォーがとぶ。録音と実演の違いということか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コープランド:クラリネット協奏曲,フランソワ・エティエンヌ(cl)作曲家指揮ORTF(ina配信他)1955/5/28コープランドフェスティバルlive(29放送),,いきなり耳馴染み良い旋律から始まり、直前の「ステートメンツ」との対比が激しいが、ピアノや打楽器、特殊奏法を絡めた変則リズムの楽章が現れると一筋縄ではいかない。じきに新古典主義、特にストラヴィンスキーの骨張った協奏曲からの書法的な影響を感じさせるところも出てきて、ジャズのそれを含むリズム込の脳天気な旋律との組み合わせがかなり複雑となる。こういう曲になるとさすがにオケにも綻びがみられ、なかなかピッタリ揃わない(新古典主義だから揃わないと話にならない)箇所も散見される。ソリストはわりと一本調子。そのかわりミスはほとんど無いし音色は綺麗。amazon配信とina配信は同じ音源。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:クラリネット協奏曲,ベニー・グッドマン(Cl)作曲家指揮ロス・フィル(naxos)1976ドロシーチャンドラーパビリオンlive・BD,,ロマンティックな始まり方こそすれ、基本的に委嘱・初演者ベニー・グッドマンの技巧を見せつけるためにオケを付けたような硬質の音楽に帰結する。戦後作でありけしてコープランドの代表作とも言えないと思うのだがジャケには傑作と書いてあるので傑作。四角四面の構築性にこのささくれだった透明感ではオケもなかなか乗りづらそうで、ベニー・グッドマンも上手いのだがそつなく吹きこなす(万全ではない)、そこにジャズ風の面白みはない。でも、この曲の自作自演は他にもあったと思うが映像があるぶん耐えられるから、価値はあると思う。コープランドはまだまだ元気である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:バレエ音楽「アパラチアの春」,○ロジンスキ指揮NYP(DA/SLS:CD-R)1945/10/7放送live(演奏会形式初演),,エロイカを前プロに新作初演という文字通り「楽聖をも恐れない」プログラム。作曲家臨席であります。まー清清しい、コープランドここにありという有名曲ではあります。ちょっと複雑なリズムと旋律だけの単純な構造。しかしそれは試行錯誤の結果としての合理性であり個性である。ロジンスキの表現は静寂と躍動のコントラストが素晴らしく、静寂の部分の美しさは、らしくないほどにイマジネイティブでシンプルな書法を逆手にとったプレーリーの拡がりを彷彿とさせるような美感(アパラチア山地だけど)をもっていて印象的。打楽器系の響きと木管のかもす、フランス印象派とも違う、しかしやはり印象派的なイマジネーションを硬質の響きで表現するさまはさすがアメリカ・アカデミズムの最も成功した人。そういえばゲイ説ってあったけど、ふと「なんとかマウンテン」て本(映画)思い出した。男臭いかというと、この情緒描写は寧ろ女性的で柔らかくしなやかである。ロジンスキの表現が繊細なのだ。躍動部分はロジンスキでなくてもこういうものが得意なバレエ指揮者はたくさんいるのかもしれない。ロジンスキはむしろもさい感じすらした。ロマンティックな重さがあるのだ。もっと軽くカウボーイやカウガールがスキップするように田舎踊りしないと「らしく」ない(アパラチア山地だけど)。リズムがどうもたどたどしい・・・けどよく考えたら初演か。コープランドで苦しむのはこの変則リズムにノるまでなんですよね。ノれたら楽しいし聴く側もしっくりくる。この演奏はちょっと浪漫性に重点を置きすぎ、弾けるような表現がやや弱いかもしれない。でも弦楽器の俊敏さは目を見張るものがあるし、絶対失敗をしないという気合いのみなぎるNYPの感じにはロジンスキの苛烈な締め付けがよくあらわれている。単線音楽に近いものの、極めて簡素化された構造はけっこう明るくすっきりした音響をもたらすという意味で軽視できないものがあり、特に舞踏部分に横溢するポリリズム的要素をしっかり噛み合わせジャズ的なリズム処理の面白さで音楽を描くという方法はコープランドの心臓といってもいい部分だが、ここではやや崩壊しかかったりもする。初演だからね。しかしやっぱり美しく艶のある弦楽器の音色が聴かれる、春の描写、即ち山の牧歌的な風景描写のほうが魅力的と言えるだろう。しかしほんとに単純な音構成で世俗的な個性を発揮できるというのはこのかつては評論家にアンファン・テリブルとよばれたモダニズム出身の男の円熟の結果というところだろうか。厳選された楽器の単純な組み合わせによる薄い響きと、アメリカ特有の旋律と、頻繁に変化するリズム(源泉がストラヴィンスキーにあるということは言うまでもない)すなわち躁鬱的な楽想の変化がこの人の作風として確かにある。いわばメドレーによって成り立つバレエ音楽が根っこのところにあるのだ(これもバレエ音楽が元)。ロジンスキはこの曲に流れるべきは結局ゆったりした時間だと割り切ったかのように、なかなか大曲を最後までイマジネイティブに〆ている。長ったらしいけど、まあ、演奏的にはすぐれて技巧が発揮されているから○。SLS盤は自作自演の「連弾版」との組み合わせ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:バレエ音楽「ビリー・ザ・キッド」組曲〜プレーリーの夜(プロローグ)と祝祭の踊り,○ストコフスキ指揮ニューヨーク・フィル(WING)1947/11/3&17LIVE「ビリー・ザ・キッド」はコープランドの代表作のひとつだ。「プレーリーの夜」などかれらしいひんやり乾いた抒情がいかにもアメリカ西部の荒野を思わせる。セレブレイション・ダンスはまさにコープランドらしい田舎ダンス。モダンな感性と意図的な野暮ったさが、いささか通俗的だが面白い効果をあげている。ストコフスキの指揮はじつにそつがない。「踊り」ではとても生き生きとしたリズムが伝わってくる。録音は悪いが、ストコフスキを「デフォルメ指揮者」と聞く前から決め付ける向きには、一度聞いてみて欲しい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コープランド:バレエ音楽「ビリー・ザ・キッド」抜粋,バーンスタイン指揮NYP(unitel)1958/2/1放送 ヤング・ピープルズ・コンサートlive・BD,,静かな場面の切り取りだがコープランドはここで演奏されるどのアメリカの作曲家より抜き出てきこえる。恐らく単純な要素を売りにした、たとえばジャズであったり、たとえば疑似ストラヴィンスキーであったり、そういう一点突破ではない個性をこの単純な佇まいのなかにうち持っていたからだろう。とても美しい響き。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:バレエ音楽「ロデオ」抜粋,○作曲家指揮トロント交響楽団(DA:CD-R)1976/11live,,派手な広がりのあるステレオ・エアチェックでこの時代にしてはいいとおもう。部分的にかなり撚れるがそのくらいは貴重な音源価値の前に見逃しておこう。迫力ある音楽はこのオケの力量を象徴的に示している。精度も並ではない。コープランドの堅い指揮は少し縦がしっかりしすぎていて、作曲家指揮の悪いところがやや出ている。ホウダウンは聴衆はとても盛り上がるが余りに遅すぎて乗れなかった。老年のコープランドらしい解釈振りでもあるが。ただ、前半は迫力ある音響とパレーのように凝縮力のあるぶっ放し方(曲的にはドラティか)で圧倒されることは確かで、ライヴでコープランドがこういう腕を発揮できる人だったんだ、という点だけでも○は十分。生々しい録音ゆえに、イマジネーションは沸きづらい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:バレエ組曲「ロデオ」,○作曲家指揮BBC交響楽団(DA:CD-R)1975/9/16live,,録音は極めて優秀なステレオ。BBCオケは反応が速く正確な表現で現代音楽演奏団らしさが感じられるいっぽう、やはりイギリスオケだなあという部分が諸所感じられる。弦や木管は柔らかく特有の情趣があり、アメリカ楽団のスカっと突き抜けた音とはまた違い、ロデオといえども冷え冷えとした西部の荒野ではなく広大な薊の野原を思わせるところがある。ピアノや打楽器がスコアになければRVW的だったろうとすら感じる。アメリカ楽団と比べブラスの弱さも感じるが、パワーなのか奏法なのか楽器なのかよくわからない。ソロを派手にとちったりもしている。最後のホウダウンなどリズムが硬くコープランドらしい折り目正しい整え方がやや興をそぐものの、おおむねコープランドがスタジオでは見せない感情のより直接的な表現が聴き取れるところも数多く、終演後の異様な大ブラヴォーはこの曲と作曲家の人気を裏付けるものだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:バレエ組曲「ロデオ」4つのダンス・エピソード〜T、U、W,作曲家指揮クリーヴランド交響楽団(SLS) 1970/8/1クリーヴランド ブロッサム音楽祭live,,これはもう代表作の良いとこ取りの組曲、自作自演にありがちな硬直したところもなく、情熱すら感じる熟れた演奏で聴き応えがある。簡潔なコープランド節に対してオケ(ないしいずれのソロ楽器も)が開けっぴろげでハデハデな表現をなし、またこれがとても巧く、録音は直前のラヴェルよりノイジーで悪いが恐らく音量がやたら大きいせいもあろう、野外音楽祭の記録のような開放的なライヴ感が良い。1.カウボーイの休日から思いっきりアメリカンダンス、楽曲のアピールポイントをしっかりアピールする。ここで掴まれて(いきなり拍手が入ってしまう)2.畜舎の夜想曲でしっとり(あざとい曲だなあとは思うが)聴き入ってからの飛んでW.ホウダウン。管弦楽版ではソロ楽器を織り交ぜての大規模なオーケストレーションのせいで、器械的に組み立て取りまとめる必要性からスピード感やリズムの魅力が損なわれることが多いが、響きの派手さ(耳をつんざくノイジーな破裂音!)がすべてを攻撃的にして、スピードこそ二年後に編曲されるelp版に劣るもののノリはすこぶる良い。コープランドもこの頃のライヴでは(オケの外交的な性向と作風が合っていることもあろうが)随分気を煽る演奏をなしたものである。ノイズが無ければ普通の生硬な自作自演に聴こえる可能性もあるが、客席のいくぶん盛大な反応から、悪くはなかったことは伺える。二枚組の最後を飾る憎い選曲だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:ピアノ協奏曲,ノエル・リー(P)作曲家指揮ORTF(ina配信)1971/6/30live,,硬派なほうのコープランドではあるが、途中からピアノの不規則なリズムの下で管弦楽によりガーシュイン風の旋律が「しめやかに」流れ始めサブリミナル的に雰囲気が変わってゆき、そのあとはピアノがソロでジャズ風のフレーズを途切れ途切れで演奏したあとは、一気に耳なじみ良いいつもの世界で大団円、というふうの作品となっている。連続して演奏される。ノエル・リーはクラシカルな透明感を失わずノリを演出して巧い。聴衆はやや戸惑い気味か。ステレオの比較的良好な録音。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:ビリー・ザ・キッドより,ストコフスキ指揮ニューヨーク・フィル(CALA/COLUMBIA,SONY)1947/11/3・CD,,WING盤と同じ物と思われる。但しクレジットではこちらは3日のみとなっている。録音印象がかなり違っていて、やはりむこうのほうが雑音が多いぶん聴き易い(逆説的だが)。つまり原音が痩せていないから瑞々しい音楽がそのままで伝わってくるのだ。こちらは音はいいがいささか堅く入り込めない。悪くはないけど、この曲の魅力を伝えきる録音状態とはいえない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
コープランド:リンカーンの肖像,グレヴィッチ(語り)コステラネッツ指揮イスラエル・フィル(IPO)1976/6・CD,,コープランドの人気作である。国威発揚のため第二次大戦にさいし作曲された中の代表格だ。コステラネッツは委属者でニューヨーク・フィルとも録音を行っている。拍手はないが環境ノイズより実況かもしれない。ややノイズが入るものの、概ね良好な録音。壮大さを演出する管楽群の高音域の響きがまさにアメリカ・アカデミズムそのものの印象を提示する。フォスターの草競馬の変奏を織り交ぜた複雑なリズムによる快活な音楽はティンパニなどパーカッション群のこけおどしで祝祭ムードをたかめる。弦楽器は控えめな用法。管楽器は垢抜けたズバリの響きをしているのに剥き身になると今ひとつ雑味があり気になる箇所がある。風呂敷を拡げたところで語りが始まる。リンカーンのいくつかの演説のいいとこ取りで、人民の人民による〜が最後に持ってこられる「民主主義賛歌」なのだが、何とユダヤ語なのでサッパリわからない(IPO設立80周年記念ボックス所収)。ここでは背景で冒頭の眩い荒野の風景が吹かれつづけ、断続的に弦楽器などの強奏が入る。きほん親しみやすいのは作品の性向、作曲の動機からもきているのだろう。まあ、なんというか、ユダヤ語でやる意味は何なのか、アメリカとの関係深さからきているのか。音楽とあってない。。ブロッホなら上手くやっただろうが、コープランドほどの世俗性、アメリカ的なる作風を持ち合わせていなかったのだろう。バーンスタインの作風にも似てなくもなくて、バーンスタインは映像を残している。コステラネッツは日本とも関係深いが、軽音楽指揮者のイメージが付き、じっさい世俗的なわかりやすい、メリハリのはっきりした指揮をする。さて、語りは素人にやらせろ、ともコープランドは言ったらしいが、まずもって素人のものは聞いたことが無いし、ここでは無難なナレーションとなっている。芝居がかってないから意図に忠実とも言える。まんま、ドガシャーンで終わる。15分前後の作品とは思えない風呂敷の拡げ方である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:リンカーンの肖像,マリアン・アンダーソン(ナレーション)作曲家指揮フィラデルフィア管弦楽団(SLS)1976/8/5live,,SLS「にしては」音が良い。ステレオ。アメリカ人じゃないので語りはピンとこないが、音楽はコープランド炸裂、ジ・アメリカ。オケが芳醇な響きを誇るフィラ管であるところがまた良い。コープランドの無駄のない書法はしばしば骨ばったカスカスな演奏をもたらすが、このオケはそんなことはしない。骨の間に肉が詰まっている。技術的な心配もないし、次の入札地より録音もいいから、この曲が好きならおすすめする。コープランドの指揮に欠けているものを持ったオケだ。一昔前のハリウッド映画はこんな音楽だった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:ロデオよりホウダウン,◯バーンスタイン指揮NYP(eternities:CD-R)1976/6/1live,,わりと整然とした印象があった。色々と編曲されている小品であり、勢いやリズムの強さについては小編成のもののほうが有利ではあるか。デン・ハーグでのライブ。拍手喝采が凄い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:歌劇「入札地」組曲,作曲家指揮フィラデルフィア管弦楽団、ポツダム合唱団(SLS)1976/8/5live,,編成に合唱さえ入らなければ代表作に名を連ねられたかもしれない名作で、3曲を効果的な配置で並べ少し陰のある中間楽章を挟んでからのラストは輝かしく、ヴォーン・ウィリアムズのように終わる。コープランドなので創意ある終わり方はするが、もう、円熟した腕はRVWのそれを凌駕すると言っていいかもしれない。この曲は自作自演が比較的多く映像も既に書いているのでこれ以上かかないが、オケがフィラデルフィア管弦楽団という分厚いところを使っているのが大きな違いであり、技術面も含め迫力は勝る。合唱団も素晴らしい。盛大な拍手で終わる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:歌劇「入札地」組曲,作曲家指揮ロス・フィル他(naxos)1976ドロシーチャンドラーパビリオンlive・BD,,同映像の最後に演奏された三曲だが、こちらは戦後作でも平易な、コープランドというと想起する美麗で突き抜けた聞きやすい曲で、映画音楽的ゆえそういうものに慣れているオケものっている。「導入部と愛の音楽」ではヴァイオリンの高音、トランペットなど高音管楽器の響きにぬくもりがある。ジョン・ウィリアムズのようなチェロのフレージングも美しい。やりやすそうだ。硬質で四角四面の芸風を持つコープランドもなぜか感情的に見える。繊細な響きの綾はバンスタや新ロマン主義のハンソンやバーバーに似た領域の音楽でありながらも違う、やはりフランス的な垢抜けたものを感じさせる。このBDの白眉だろう。翳りある終結部からダンサブルな「パーティの情景」に入り、現代的な響きが入るも半世紀前のハルサイやミヨーの作品から少し前に出たくらい。特殊な技巧的なリズム、フレーズが超高音で入ったりするのでここでは停滞しがちなテンポもやむまい。合唱が導入されるので前に向かわないのもやむないか。合唱が意志的な表現であおるので、そこまでくると聞きやすい。巧みなリズム構成でオケと合唱が絡むところではコープランドの嬉しそうな顔が印象的。アタッカで終曲「生活の約束」に入り、大平原を思わせるヴァイオリンの全音符をバックにしめやかな合唱が入る。トーンは三曲ほとんど変わらないというか、そこも聞きやすさとなっている。RVWの天路歴程のように穏やかに戻っていく。RVWは宗教的な作曲家ではないが宗教的な崇高さを示してしまう。これもまったく目的は違うのに宗教的な上り詰める感じが効果的だ。演奏はすばらしくよい。合唱すばらしい。コープランドも満足げであり、即ブラヴォこそないがそれなりに盛大におわる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:管弦楽のためのstatements,作曲家指揮ORTF(ina配信他)1955/5/28コープランドフェスティバルlive(29放送),,三楽章にならないと脳天気なコープランド節が出てこないしそれもイメージ通りとはいかない、そのあとも退嬰的に謎めいて終わる、これがコープランドの「硬派なほう」の作風である。晦渋なブラスの挽歌から始まり、基本的に木管はほとんど出てこない。ブラスと弦楽器が前面に立つ。確かにコープランドの好む和声は使われるが、リズムは複雑とわかるように複雑で、旋律は無調に近い。各楽器はわりと剥き出し、新古典主義的なからみをするところもみられるが、ユニゾンでメロディを推し進める箇所もあり、全般はとつとつとした音楽の感がある。同時代音楽と歩調を合わせた抽象的な五楽章制の組曲である。演奏はこなれており、軋みやミスもなく、よくまとまっている。録音瑕疵が気になる部分がある。amazon配信とina配信は同じ音源。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:劇場のための音楽,作曲家指揮小管弦楽協会(SLS)1958/12/15live,,コープランドの作品では比較的よく演奏される組曲で、バーンスタインも二度録音している。時期によらずコープランドの作風は晦渋で先鋭なものと平易で一般受けしそうなものに二分されるが、これはどちらかといえば後者だろう。恐ろしい若者と評された20代の作品であるにもかかわらず後年の著名作品にみられるようなダンスチックな楽しく複雑なリズム、厚いブラス(冒頭ファンファーレはコープランドが得意とするところか)、木管の込み入ったやりとり、ジャズの昇華(途中唐突にクラリネットがラプソディインブルー張りに入ってくるがこれは台本的なものに基づくのだろう)、明るくフランス六人組風の響き(一楽章などに前期特有の尖鋭晦渋なものは残るが)、いずれも聴衆受けしたであろうことは想像に難くない。クーセヴィツキーの庇護した作曲家の中でもこの人は同時代アメリカ作曲家がただ高尚な音楽を志向するあまり似たような晦渋な響きを前面に出してしまう中、それを残しつつ大衆性もその個性において獲得した点で才能のレベル差を感じる。ライヒテントリットもまだクーセヴィツキーが現役の時代の著作にてコープランドについてはかなりの紙数を割いている。コープランド自演についてはストラヴィンスキー自演のようなもの、と書けばその様子はわかるだろう。きびしく杓子定規のリズム指示に楽団がバラけるところなど、ああ、、、と思ってしまう。でもモノラルでそれほど良くない録音なのに伝わってくる響きの透明感からは、コープランドが(この作品では繊細かつ多少複雑ではあるが)新鮮で明瞭な和声を自身の作風の中核をなすものとしてこだわっていたことが伺える。SLSにしてはノイズレスで情報量が多く良好な状態。まあ、演奏的には好きな人は聴けばいい程度のかんじ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:劇場のための音楽抜粋,バーンスタイン指揮NYP(unitel)1958/2/1放送 ヤング・ピープルズ・コンサートlive・BD,,比較的モダンな曲だがジャズの紹介として演奏される。クラリネットなどソロ楽器がしっかりしてれば変則的なリズムだけ押さえておけばなんとかなる、とおもうが一部ソロに乱れが。まあライヴということだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:戸外のための序曲,作曲家指揮ORTF(ina配信他)1955/5/28コープランドフェスティバルlive(29放送),,掴みにはもってこいの聴きやすい曲。尖鋭なところもロデオなところも抑え気味で(リズムとか内部構造はともかく)、面白かったのはラフマニノフの3番終楽章から取ったようなフレーズがとてもわかりやすく柔らかく音楽を鞣し、ウォルトンをほうふつとさせる「一般に受けそうな音楽」になっているところだ。庶民のためにファンファーレをぶっ放しビリー・ザ・キッドのように複雑に踊りまくるコープランドっぽい音楽に飽きた向きに、むしろ勧めたい。といっても結局は思いっきりブラスと打楽器が活躍する。ストラヴィンスキーみたいに硬い指揮をする人のイメージがあるが、ここでは生き生きとしていて、オケの個性もきちんと作品の中に収まっており安心して楽しめる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:交響曲第1番,○作曲家指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1960LIVE,,硬派な大曲ほど熱気が必要だと思うのは私だけだろうか。初期に先鋭な作風の完成をみてのち古風な作風に立ち戻った作曲家は二十世紀に数多いが、コープランドもまた(後年でも硬派な作風を使い分けてはいたが)その一人だった。この作品は三番のような人好きする顔はしていない。しかし、短く引き締まった構成、高度に抽象化された独自の「アメリカンモダニズム」の隙のなさにはなかなかに耳をひかれるものがあり、プロフェッショナルなわざが光る。なるほどアイヴズをアマチュアとヤユするほどのものがある(コープランドは実のところ異能アイヴズを嫌いはせず指揮記録も残しており、晩年にアイヴズによせたような小品も書いている)。もちろん一般的に勧められるものは少ないが、ここには熱気があるからかなり救われている。たぶん実演であれば現代ものに慣れない向きも違和感なく入りこめたろう。舞踏リズムの高揚感はわかりやすい旋律をともなわないものの後年のバレエ作品を予告するような煌びやかさをはなち、このライヴにおいては腕ききのBSO相手に思うがままのドライヴをきかせて一種娯楽的な印象すらあたえる。静謐な音響表現は後年ほど単純化されないがゆえ魅力的だが、ボストンの冷たく正確な表現がはまっている。ともすると客観分析的にすぎる指揮を行いがちなコープランドだが、オケがそのぶん補っているようにも思える。ブラヴォが一声とぶ。音劣悪。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:交響曲第1番,作曲家指揮ORTF(ina配信)1971/6/30live,,ショスタコーヴィチを思わせる骨皮な響きとリズムから始まるが、楽器の使い方と主題の能天気さが違う。二楽章ではよりコープランドらしいリズミカルで明るい音楽が展開するが、同じ音形の執拗な繰り返しが飽きをきたさせる。もっとも良く鳴るオケに確信を持った棒は曲はともかく聴かせる。三楽章はわかりにくく晦渋で焦燥感のある、コープランドの特に前期に聴かれたような、同時代アメリカ交響曲にありがちな雰囲気がある。織り交ざるソロヴァイオリンや高音木管楽器の軽妙な走句が面白い。執拗な反復、ピアノの用法などあきらかにストラヴィンスキーではあるが、独自の新鮮な(後年マンネリ化する)表現が後半楽しく聴ける。最後やや尻切れでも聴衆反応は暖かい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:交響曲第3番,◯バーンスタイン指揮NYP(eternities:CD-R)1976/6/1live,,ややザラザラした音だが録音状態はまずまず。正規録音にくらべミスが目立つ、というのは当たり前として、バーンスタインらしいアバウトさも孕む迫力といったものが両端楽章では感じられるし、愉悦的なリズムをきざむ2楽章、怜悧な静謐さを示す3楽章とも楽しめる。正規録音があれば別に要らない盤だと思うが、興味があればどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:交響曲第3番,○セル指揮NYP(SLS:CD-R他)1947/12/21live,,ノイズがかなり耳障りだが仕方ない※。即物的でぶっきらぼうな感すらある出だしからセルらしさを感じるが、音楽の盛り上がりとともに畳み掛けるような表現はまるでショスタコを聴いているようで迫力ある。二楽章では新古典的な構造がこれまたプロコを思わせる迫力だ。四楽章は庶民のためのファンファーレがややせせこましく弱いものの、それなりにまとまっている。けしてセルのトップクラスの演奏ではないし、この曲の透明感ある感興を引き出した解釈でもないが、それなりに聴ける。,,※ノイズリダクション版ダウンロード音源が発売された。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
コープランド:交響曲第3番,○バーンスタイン指揮NYP(DG)1985/12/2,5-10LIVE・CD,,言われるほど旧録にくらべ落ち着いているかんじはしない。自然でスムーズ、リズムは歯切れよく、NYPの調子もいい。バンスタにしてはクリア、そこが地味かもしれないが、かなり録音操作されているかもしれない。ライブのつぎはぎで詳細不明。5日のみ全曲が別途海賊盤で出ている。コープランドと同世代を生きその使徒となったバンスタの最晩年の記録。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
コープランド:交響曲第3番,◎バーンスタイン指揮NYP(harvestclassics/von-z:CD-R)1985/12/5live,,これは文句なしでしょう。何度も聴きたい演奏、そしてじっさい何度も聴いてしまう演奏なんて殆ど出会わないのに、私コレ最初2回聴きました。円熟期にもかかわらずアグレッシブに「成長した」かつての手兵をドライヴし続け、音楽のもともと持っている力を、印象派的な方向ではなくベートーヴェン的な方向に先導し大団円後のブラヴォーにもっていく。アメリカ人じゃなくても、ただでさえアメリカの交響曲としてはハンソンのロマンティックと並ぶ殆ど唯二の有名曲なだけに旋律だけで十分楽しめるわけで、自作自演のような突き放した響き(ただでさえ空疎な音)の美麗さにいくことなく、構造を透明に見やすくして「ほれ巧いだろ」と見せるような野暮もせず、耳圧・力感第一という方法がまったくヨーロッパ的で却って世界中に受け容れられるものになっているのじゃないのか。録音がいい具合にデジタルでも悪録音でもないため臨場感がある。止揚する演奏が好きな向きは食い足りないかもしれないが、これはこの方向があっている気がした。最終楽章冒頭に挿入された名作「庶民のためのファンファーレ」も殊更ファンファーレとして突出することなく全体設計の中にはまっている。これだけが突出して聞こえる演奏も多い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:交響曲第3番,○バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(CBS/sony)1966・CD,,この盤CDで欲しいなー!自作自演もいいけど、こういうふうに料理してくれるとゴージャスだ。透明感のある硬質なハーモニーでアメリカ賛歌を高らかにうたう大曲だけれども、バンスタがやると肉が付き血の通ったロマンティックな歌になる。音楽が不透明になるのは決して悪いことではない。この曲はこうやるとまったく前時代の後期ロマン派交響曲のようにひびくが、それこそが本質ではないかと思わせる説得力がある。中間楽章、とくに緩徐楽章の暖かい抒情がとても心にひびく。終楽章へ向けてのいささか冗長なアンサンブルも弾むようなリズム感で煽ってくれる。もっとも極めて有名な「庶民のためのファンファーレ」から始まる大団円終楽章の冗長さは残念ながらフォローしきれていない。ここでもっと畳み掛けるような音楽作りをしてほしかった、との思いをこめて、○ひとつ。コープランドというと西部の荒野の朝の、ぴんと張り詰めた空気を思い浮かべるけれども、これはやわらかい朝の光に照らされた開拓民たちの横顔を思わせる。アメリカが誇る個としての人間という本質に立ち返った佳演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
コープランド:交響曲第3番,○作曲家指揮トロント交響楽団(DA:CD-R)1976/11live,,ロデオとともに演奏されたもの。録音瑕疵はあるがステレオ。ライヴの生々しさが売りの演奏だが、CBS正規録音のものに近い客観的なテンポ感が若干興をそぐところもある。トロント交響楽団はアメリカオケの典型ともまた違ったもう少し深みのある音を聞かせて美しい。マトリックス上はイギリスオケに近いところに示せるのだろうが、それよりはアメリカやフランスに近いか。まあ、でもオケは素晴らしく腕がある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:交響曲第3番,◎作曲家指揮ロンドン交響楽団(PHILIPS)1958・CD,,everest録音と同じものか。CD-Rでコピー盤が頒布されていたりもする。私はいくつかある自作自演の中でこれが一番好きだ。この人がCBSに録れた新しい自作自演選集はいずれも音符と音符の間に隙間風が入るような物凄く疎な演奏ばかりで、庶民的な意味での演奏効果の高いこの曲も、現在sonyでCD化されている音源は余りに莫大で薄くて客観的に整えられすぎている。50年代のまだ曲がいくぶん生々しいころの録音であることもあってか、この演奏は(専門指揮者のものに比べれば終楽章など生硬さが感じられるとはいえ)スピードも速く疎な感じがしない。ひたすらのアメリカンな舞踏的リズムとプロフェッショナルな手腕の発揮された無駄の無い構造、軽く明るい空疎な和声だけが浮き立つ、「コープランドらしさ」の感じられる大曲であり、やり方によっては全く中身のからっぽなアメリカ賛歌になりかねないものだが、より緻密な構造への配慮がみられる演奏で、少し前時代的な重さを引きずるようなところがあり、それが骨と骨の間を肉で埋めるように働いているようだ。コープランドのマンネリズムというものがじつはこういう「無駄な整理を徹底させない」演奏で聞くとそれほど単純ではないということ、結構マニアックに造りこまれているのだとはっきりわかる。一種感興はそういう「余白に散り埋まった音の数々」によって生まれるものであり、全曲の聴き所である「庶民のためのファンファーレ」の流用からの終楽章の喜びにいたる前に、既に心を奪われてしまったのだ。,,整理されすぎると譜面上物凄い変拍子や無茶なパッセージが絡み合っていてもそれとわからないことがある、これは聞く側にとって聴きやすくしてくれているというメリットはあるが、一方作曲家の意図としてはその「難しさ」がちゃんと「難しく」聞こえないことには、はなから単純に書けばいいことであって、意味がなくなりかねない。私はコレクション初期において自作自演を大変重視していたが、作曲家自身の演奏であっても作曲後30年も半世紀もたってしまうと「作曲当時の意図」を履き違えたような変な整理やカロリーの低さを求めていくことが多いように思われた。ひいてはウォルトンみたいに(演奏家側の要請にあわせてのことでもあるのだが)スコア自体に手を入れて管弦楽を軽くして、却って時代精神を失い深みを欠く単なるライトクラシックにしてしまう人までいる。これは作曲したのが同じ人でも「演奏」においては別の人と捉えたほうがいい場合が多いということとも関連している。,,ステレオ録音で50年代にしては自然で良好。昔からの愛聴盤です。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
コープランド:交響曲第3番,作曲家指揮ORTF(ina配信他)コープランドフェスティバル1955/5/28live(29放送),,Amazon配信のものは同じ音源。ひたすら自演、長いコンサートで、直前のクラリネット協奏曲はストラヴィンスキー的な骨張った構造、簡潔な管弦楽に「アメリカンジャズ」のコープランド流「崩し」のリズム要素を取り入れ、六人組風の明快な和声をもってまとめた、作曲家の非常に出自のわかりやすい作品で面白いが(エボニーコンチェルトを意図的に真似ているのは明白)、このメインプロ、動画サイトにイギリスのユースオケによるプロムスライヴがあがっているので一見してほしいが、とにかくどでかく、分厚く、それなのにラヴェル的な意味で煩雑ではなく、剥き出しの声部同士が「込み入って」いるから、これだけやったあとに最後に演るのは無理がある。各楽器への要求レベルの高さ、とくにリズムについて、ORTFはとても苦労している。ブラスなど、とくにトランペットなど、アメリカオケを想定した凄まじく技巧的で力強さを要求する書き方に太刀打ちできない場面が多発、地獄のようである。分厚いのに細かなアンサンブルを要求される弦もなかなか地獄である。フランスオケの明るくカラフルで開放的なひびきはそもそもブーランジェの教えを受けたコープランドの和声にはあっていて、アメリカオケの力は強いが整いすぎた音色のひびきよりも耳を惹く。むしろそれだけがこの事故だらけの演奏で魅力となっている。コープランドの指揮は時期的にまだ若いせいもあってか、揺れは無いものの無機質ではなくそれなりに音楽的な流れを作れている。最後をあまり引き伸ばさずさらりと流すテンポ設定はこれはこれでかっこいい。ゴツゴツしていないのは木管の少し低めの響きが音を丸めているせいもあるか。いいとこなしのオケにあって、木管の魅力が唯一、さすが定評あるところをみせている。庶民のためのファンファーレを拡大した終楽章は他の楽章にもまして冗長感があるものだが、なぜか楽しく聞き通せた。クラシックを聴いているというより、プログレッシブロックを聴いている錯覚に陥った。しっかり盛り上がりを作ることもなく構成感も大してないのに、これは作曲家指揮の魔力か。とにかく、動画サイトにてとてつもないブラスの編成を見てから、ORTFが用意できた楽器の数を想像しつつ、同情を持って聴いてほしい。さすがに録音は古くこもって、良いとは言えない。当然時期的にモノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:交響曲第3番〜W抜粋,作曲家指揮NYP(unitel)1958/2/1放送 ヤング・ピープルズ・コンサートlive・BD,,旺盛に振っていたころの映像記録で、代表作のひとつの、しかも最も有名なアメリカの曲のひとつ「庶民のためのファンファーレ」(太平洋戦争勃発時に愛国心鼓舞のため委嘱作曲されたとされる)を取り込んだ四楽章ほぼ全曲を演っている。オケがかなり乱れがちだがコープランドはいつもの冷静さを欠き、展開部では異常なスピードで煽る。笑みを浮かべながら時に歌いながら、きびきび振るコープランド、これはなかなかめずらしい(いつもの四角四面の作曲家指揮者振りじゃない!)。弦の必死さが伝わるが、このオケだからなんだかんだいってやりきる。ブラスはもう少し弾けてもいいと思うが録音のせいかもしれない。ラスト近くでやっとテンポを緩め盛大に終わる。エンドロールの向こうで勢いよく指揮台を降りるのが清々しい。拍手が最終音に被ってもいいでしょう。まだ三十年活動を続けるコープランド。ちなみにバーンスタインもまたほぼ同時期に燃え尽きている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:庶民のためのファンファーレ,○リットン指揮ロイヤル・フィル(放送)2011/8/16プロムスlive,,開始を告げる短いファンファーレで特筆すべきものはないが、わりと第三交響曲の一部として聴いてきた曲なので、新鮮な感じがした。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:庶民のためのファンファーレ,作曲家指揮ハンガリー国立管弦楽団(DA:CD-R)ブダペスト音楽祭1973/9/28日本での放送音源,,萎縮したように生硬で心もとない吹奏だがアメリカオケと比べるほうが悪いか。アメリカ音楽特集の端緒として取り上げられた代表作。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:庶民のためのファンファーレ,作曲家指揮ロス・フィル(naxos)1976ドロシーチャンドラーパビリオンlive・BD,,「コープランド・コンダクツ・コープランド」の冒頭。ステレオ。ベニー・グッドマンによるクラリネット協奏曲がメインとなる自作自演映像だが、ロス・フィルがじつにコープランドの作風に合っていて、明るく軽くやや緩いところが猥雑な雰囲気を持ち込み、四角四面の棒を鞣して聴きやすくしてくれる。そう、映像だといっそうわかりやすいがコープランドの棒は余りに教科書的で明晰であり、力感の強弱はつけるが全く揺れない。ここでは序盤ということもあり押しが弱い感もある。ファンファーレらしくないが、聞きやすさはある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:静かな都会,○ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(Capitol)LP,,コープランドの有名な小品だが、このコンピレーショナルバムではダイアモンドの楽しい曲からの流れで小気味良く聴こえる。コープランドは硬質でクリアな響きが特長であり、そこからするとちょっと埃をかぶったような無駄な充実ぶりがあるとも言えるが、このコンビらしい楽しさと落ち着きのバランスよい聴き心地が楽しめる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:静かな都会,バーンスタイン指揮NYP(DG)1985live・CD,,3番シンフォニーと組み合わされているが何れも穏健な作風に依っており、こちらはしんとした空気感を持つ劇音楽からの編曲で、コーラングレのための、とも書くがコーラングレとトランペットの対話のような、ソロを中心とした音詩。高音をひたすら分厚くし低音域(ここでは弦楽のみ)は1パートしか受け持っていない、そういう空疎な響きがアメリカ的なるものを、カラッと晴れた西部の荒野に吹きすさぶ風のようなものを感じさせる(これは「市」だけど)。バーンスタインにしてはすこし冷たく感じるのは曲のせいか、このころのニューヨーク・フィルの持ち味か。特筆すべき派手さはなく、旋律もぱっとしないが、劇音楽として意味を考えて聴けば面白みもあるかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:静かな都会,メージャー(trp)スペイヤー(コーラングレ)作曲家指揮ボストン交響楽団(SLS)1945?/3/10live,,「静かな街(静かな市)」とも表記されるが日本語だと若干意味合いが違ってくる。大都会NYの夜の片隅でユダヤ人の少年と浮浪者の織り成す人間模様を描いた劇音楽の付随音楽として構想され、本来ピアノと管楽三本による室内楽編成であったものを、コーラングレを含む弦楽合奏+2本(二人の登場人物を示す)の編成として書き換えられた小品である。冷え冷えとした情景を示す弦楽器の全音符による和音、その上(もしくは下)で管楽器がやり取りするのが基調となり、基本はトランペット(少年)がわかったようなわからないような旋律を吹き通し、中盤で弦楽器が動き出しコーラングレ(浮浪者)と絡んでいく場面がさしはさまる。純粋に音楽として聴くとコープランドがわかりやすい方の作風によって西部の大平原を描写するさいに、弦楽器のピアニッシモで高い音域の協和音を伴奏する下でトランペット等管楽器に主題を吹かせるといった手法に近く(これこそ「アメリカ的表現」でありかつてアイヴズの得意とした方法である、原点は「中央アジアの平原にて」かもしれない)、作曲意図を知らないと都会ではなく田舎の印象を持つだろうと思うのは、この演奏だと中盤のコーラングレと弦楽合奏のやり取りが実に「ヴォーン・ウィリアムズ的」であり(簡潔な立体的書法で和声的に耳なじみ良すぎるからでもある)、木管ソロと弦楽器という暖かな音の重なり合いが感傷的に聴こえ、まるで優しいからだ。もっと劇的には変化に富んだものであり、これは「巧すぎる」がゆえの印象変化だろう。もっとも、冒頭からほぼひたすら最後まで剥き出しで吹き通しのトランペットソロの譜面の超絶さの前に、ソリストが少しとちったり息切れしたりするところも聴いて取れ、それは静かな情景の雑味にはなっている。自作自演なのでこれでいいのだが、個人的に悪い録音(40年代なので推して知るべし)であってもこの音楽的にまとまりある演奏のほうが整えられたがゆえ硬質の新録音より好きだけれども、もともとの劇音楽としてのテーマは薄くなっているかもしれない。録音年はクエスチョンマーク付きだそうである。正しいとすると昭和20年3月10日。東京下町が最大の劫火に焼かれた日。太平洋戦争勃発が報じられるとシンシナティのグーセンスはいち早くコープランドに兵士を鼓舞する音楽を依頼する。しかしコープランドは兵士のためではなく、コモン・マンのための吹奏楽を返した。それが作曲家のみならずアメリカ合衆国の20世紀前半に生み出した代表作「庶民のためのファンファーレ」である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コープランド:短い交響曲(交響曲第2番),○バーンスタイン指揮NYP(whra)1957/1/27live・CD,,コープランドの曲はこういう感じのものも多く、響きやリズムはコープランドそのものなのだが、メロディが形をなさず、晦渋さすら孕んでしまう。交響曲でいえば2番と3番の間には大きな溝がある。とはいえ、この曲は15分程度の小品ではあり単純比較はできないが。ストコフスキーの録音があったようにおもうが、三楽章フィナーレのバンスタはアメリカの伝統を感じさせる熱狂を時々持ち込んでいる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ゴーベール:夜想曲,○モイーズ(Fl)パレー指揮デンマーク放送交響楽団(danacord)1934/1/4,,けだるいドビュッシイズムに包まれた佳曲だが、フルートのつむぐ旋律線はいたって平易なロマンチシズム溢れるものだ。ロシアのバレエ音楽かとききまごう後半部はフルートの常套的な名技性をアピールするものでフルーティスト・ゴーベールらしい手練が篭められている。結句ワグネリストかディーリアンかというエピゴーネン的印象を遺すが悪くはない。前半及び回想の結部にきかれる音楽は夜より午後の雰囲気を感じさせる。同時代のフォーレ門下生や六人組やイベールの得意としたサロンふうの世界で好きな人は好きだろう。モイーズの確かで太い音はこの貧弱な録音からは伺い知れないが、まるでヴァイオリンのように難しいパセージも易々と軽く吹きこなしている。20世紀は各楽器に不世出の名手があらわれ、合理的な現代奏法を確立し楽器の可能性が極限まで引き出された時代だった。中でも際だって存在感を示した名手はチェロのロストロ先生と、フルートの神モイーズである。長命に恵まれるも早いうちに演奏活動をやめているがゆえ、古い録音でも短くても重要な資料である。これもその一つ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,
コダーイ:7つの小品op.11(1917〜18),◎フォルデス(p)(jecklin)(JP6001-2)1982放送音源(スイス)、1998年12月21日フォルデス生誕85周年記念盤CD 1913年ブダペスト生まれのアンドール・フォルデスは世界中を渡り歩いたピアニストだが、良く知られているようにバルトークと深い交流を持ち、モノラル時代にはその紹介者として数々の独奏曲を録音しスペシャリストとしての揺るぎ無い位置を占めていた。コダーイとも後年非常に近しかったといわれる。 8歳のときモーツアルトの協奏曲でデビュー、20歳フランツ・リスト国際コンペティションでドホナーニ(父)の生徒としては最高の賞を得、これを機に国際的な活躍が始まり、39年にはアメリカへわたる。各地で演奏活動を続け、そのまま47年には市民権を獲得、アメリカ国民となった。背景に本国の国情があったことは言うまでもない。戦後再びヨーロッパ各地を演奏してまわり、ヨーロッパで行ったことのない都市は一つもなかったといわれる。さらには南アメリカ、インド、オーストラリア、ニュージーランドそして日本にまで幾度にもわたり演奏旅行を行う。日本への6度目の演奏旅行のさい天皇が皇居に招待して私的演奏会を開いたこともある。殊更評価されていたドイツでは、長年の音楽的功績、ならびにボンにベートーヴェン・ホールを再建するさい、甚大な助力を行ったことにたいして騎士十字章が贈られている。賞といえばフランスでもいくつか受賞した。著書はオックスフォード出版から初版されてのち十四か国語に訳されている。とにかく凄いキャリアなのだ。1961年以降はチューリヒ近くに居を置き、92年2月9日に静かに息をひきとっている。20代より死にいたるまで居を据えることのなかった故郷ブダペストには、今も生家が保存され記念銘が記されている。アカデミーにはフォルデス記念館が建てられた。(以上ジャケットより抄訳)演奏面に移る。リストやラフマニノフの協奏曲なども録音しているがいずれも生真面目な解釈で、難しいパッセジをさらりと弾いてのける技術の確かさは聞き取れるものの、基本的に地味で慎ましやかなタッチは際立った印象をあたえない。バルトークも録音があるが、リヒテルなどを聞いてしまうとあまりに無個性に聞こえる。このひとは矢張り独奏曲だ。複雑な和音でも響かせかたが実に正確かつ明瞭で、打鍵は強すぎも弱すぎもせず、曲の流れにいささかの揺るぎもみせない。プロコフィエフとは異なりドゥビュッシー並みの響きの感覚が重視されるバルトークの独奏曲にあってこの人の占める位置というのは、いわばラヴェル演奏におけるペルルミュテール氏のようなところだ、といえば大体感じを掴んでいただけるだろうか(シャンドール氏はカサドゥシュの位置)。前置きが長くなったが、op11は人気がある曲だ。バルトークも2、4、6を録音している(HUNGAROTON)。コダーイの長いキャリアの中では初期の作品にあたり、ドゥビュッシーの甚大な影響を指摘されるが、内容的にはエリック・サティの単純性や後期スクリアビンの不協和音に似通った性質を持っている。いくつか民謡主題を用いており、フェデリコ”歌と踊り” モンポウやカロル”マズルカ”シマノフスキに非常に近い聴感だが(それらよりは幾分単純だけれども)こちらが先駆だろう。割れた硝子のように複雑な和音を、ごく単純な旋律線の上に、ぽつ、ぽつと並べたような曲構成。一曲めレントは後期スクリアビンふうの瞑想的前奏曲となっている。 2曲め「セーケイ族の民謡第1番」は同曲集のききどころで、素直な民謡主題を比較的モダンな響きで彩っている。ふとアイヴズ風の哀感を感じさせるところがある。3曲め巷に雨が降るごとく、4曲め墓銘碑はこの曲集の中心。中間部の緩やかな部分はサティ風だ。織り交ざる不可思議な響きを含めモンポウの作風に良く似ている。5曲めトランクイロ、6曲め「セーケイ族の民謡第2番」。終曲ルバートは悲劇的な響きを持ち、後半が凄い。フォルデスの演奏はサティを聴くように哀しい。もしくは夜中にモンポウを聴くが如く透明な感傷をのこす。明瞭な打鍵とペダリングのあとに残る澄んだ残響が、果てしなく哀しく、懐かしい。旋律の流れに固執するような重さが、全くもって排されているせいだろう。夜中にひとりきいて涙を流せるピアノ曲は少なくないが、これは曲想が素直なだけにいっそう傷ついた心に染み込みやすい性質を持つ。曲も傑作だし、演奏も完璧だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コダーイ:ガランタ組曲,○スワロフスキ指揮LAフィル(VIBRATO:CD-R)1967/1/26live,,終演後のブーイングともブラヴォともつかない反応が気になるが、スワロフスキにしては熱した演奏で東欧音楽や東欧オケに精通していたことも思い出させる演奏。もちろんフォルムは崩れないがリズム処理がロスバウト以上に巧くオケもよくドライヴさせられている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コダーイ:ガランタ舞曲,ストコフスキ指揮ハリウッドボウル交響楽団(scc:CD-R)1946/7/21live,,67年前の録音を前に何を言ってるんだかとふと思うが、録音が悪い。この曲は旋律的ではなくリズムとスピードなので、ストコフスキーの良さを出すには似つかわしくない部分もあろうし、そもそも私はこの曲の良さがわからない。オケはやる気あるし上手いし、ライブなりの迫力もあるが、雑味も味になってるが、、無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コダーイ:テ・デウム(ブダ城の),作曲家指揮ブダペスト合唱団他(PHILIPS他)CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コダーイ:ハーリ・ヤーノシュ組曲,○ガルデッリ指揮ハンガリー国立管弦楽団(eternities:CD-R)1988/5/20live,,三曲目、ツィンバロンさえ入らなければレスピーギになるところだった。色彩的で開放的、一曲目などつまらない曲ではつまらないのだが、有名な音楽時計は良く出来ているし、ややだらしなさもなくもないがオケの覇気で面白く聞かせる四曲目など場面場面が想像できて楽しい。バルトーク的な間奏曲はガルデッリ風味は後退してわりと純音楽的な感がある。終曲は変わって劇的要素が前に出て面白い。ブラスの音が輝かしい。色彩変化も鮮やかで、ガルデッリで聞いて良かったと思う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コダーイ:ハーリ・ヤーノシュ組曲,○テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(memories他)1982/11/12、13live・CD,,ツィンバロンのような新しい音響要素(民族的には古いものなのだが)が加わってはいるものの、ヤナーチェクあたりと大して変わらない世界でむしろ旋律性をはじめとするわかりやすさからいうとかなり古風なものを備えている。音楽的にはテンシュテットらしいしっかりした作りで力強くフォルムを崩さない骨太の演奏に仕上げている。ブラスが完璧なオケならお手の物だろう。ライヴなりの感興はあるがプラスアルファはない。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
コダーイ:ハーリ・ヤーノシュ組曲,テンシュテット指揮LPO(EMI)1983/9・CD,,響きはきれいに揃っていて(録音はそんなに良くもない)東欧の冷えた熱情あふれる音楽に向いている。ただ莫大な印象になってしまいがちな整えた演奏だが、コダーイの代表作たるいくつかの名旋律や、後半はツィンバロンの引き締め、民族リズムの正確な刻みによって迫力が出ている。ロシア国民楽派より向いている気がするのはコダーイがロマン派を脱した現代の民族楽派だから、バルトークほどではないが複雑な部分を指揮者のテクニックで整えることで、じゅうぶん演奏のメリットを出せるからだろうか。ただ、強奏部以外カロリーは低めだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コダーイ:ハーリ・ヤーノシュ組曲,フェレンチーク指揮ブダペスト・フィル,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コダーイ:ハンガリー詩篇,ショルティ指揮シカゴ交響楽団他(CSO)LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コダーイ:ハンガリー詩篇,作曲家指揮ブダペスト合唱団他(PHILIPS他)CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コダーイ:ハンガリー民謡「孔雀は飛んだ」による変奏曲(第12変奏を除く),作曲家指揮フィラデルフィア管弦楽団(PO)1946/11/23live放送・CD,,コダーイは長生し自作自演をいくつか残しており、こなれた指揮をするから安心して聴ける。ここでは録音が弱いせいもあるが、民族的な音楽であるもののそつない表現ですんなり通している(第12変奏についてはカットされている。放送上のことである可能性もあるが恐らく演奏自体していないと思われる)。バルトークの抽象的に昇華された民族主義とは異なり前世紀国民楽派の範疇にあるような親しみやすい作風を固持したが、今やハーリ・ヤーノシュ以外あまり聴かれず、一方で短命のバルトークは頻繁に取り上げられるというのは対極的に過ぎる状況だ。第二次大戦勃発時の作品で、自由を訴える反ファシズム作品として敢えて親しみやすい音楽を書いたとも言えそうだが、そこまで露骨な民族的表現の表出というのは(テーマの民謡そのものの情熱的な内容はさしおいて)無く、変奏曲は新ロマン主義的なさまざまな角度から円熟した技法を陳列している。もっとも、「こりゃディーリアスだろ」というような変奏曲もいくつか見られ、他にも影響というか、おそらく確信犯的に同時代ないし前時代のロマン派傾向をもった作品に近いものもある。そういったジェネラルな親しみやすさもコダーイの個性であり、ハーリ・ヤーノシュより印象的に古く、わずかにフランス的な和声の影響がある程度なのはそういうものなのである。前衛だけが抵抗ではない。大衆性も抵抗である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コダーイ:ハンガリー民謡に基づく変奏曲,フェレンチーク指揮BRNO国立フィル,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コダーイ:ミサ・ブレヴィス,作曲家指揮ハンガリー国立交響楽団(PHILIPS他)CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コダーイ:夏の夕べ,作曲家指揮ブダペスト・フィル(DG),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コダーイ:歌劇「ハーリ・ヤーノシュ」組曲,○ストコフスキ指揮ブダペスト放送交響楽団(DA:CD-R)1967/2/3,,こういう冷えた金属質の音は東欧の音だよなあ、と思いつつ、ストコの拡散性と色彩味が巧緻なオケにより整えられ、明るく派手な響きだけれども踏み外した感じのしない、肉汁滴る自己顕示欲のアメリカぽくもない(ストコはイギリス人だけど)、かといって有名な主題を持ち上げてわかりやすさを強調することもなく民族性もそれほどそそられない、聴きやすいものに仕上がっている。長々しい組曲だが長さを感じさせない設計の巧さが光る。コダーイはバルトークと共通の民族主義を掲げ、実際にこの曲でもバルトークにみられるものと同じ舞踏リズムや音響表現を用いているけれども、きほん前衛性は後期プロコに似た領域に留まるため新古典的な古趣を感じることがある。ロマンティックにやろうとすればできる部分もあるし、19世紀国民楽派音楽のように民族的表現を誇示し民族楽器を派手に打ち鳴らすこともできるのだが、ストコは何故かそこまではやらない。外様オケということもあるだろう。比較的明晰な録音(DAお得意の断裂や撚れ揺れはある)。ライヴではなく放送音源かスタジオか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コダーイ:弦楽四重奏曲第1番,○ルース弦楽四重奏団(URANIA)LP 清々しい曲だ。ロシア室内楽の影響下の民族楽派の楽曲である事は確かだが、あきらかにラヴェル後の和声感に依っており、常に新鮮な感じがして耳馴染みがいい。ハンガリー音楽の旋律が縦横に使われているため、バルトークとの近似性を感じなくはないが、この分野の楽曲としては両者は遠く隔たっている。躍動する部分にとくに瑞々しい楽曲の魅力を感じさせるが、旧来の室内楽の延長上にありながらも技術的に結構高いものが求められている。ルース四重奏団は各楽器がかなりの自発性をもって表現しておりこの曲にふさわしい強い音楽を創り出している。良く聞くとハーモニーが結構決まり辛いというか複雑であったりする。動き的にはユニゾンでも晦渋な不協和音を奏でる場面が経過句的に多々見られる。ルース四重奏団の発音が悪いせいかとも思ったが(「俺が俺が演奏」なので和声的なまとまりが二の次になっている?)聴きとおしてみるとその限りでもない感じだ。いい曲だし、新しい演奏で聞き直してみたい気もする。冒頭ソロよりチェロが大活躍する曲でもあるが、ここでは圧倒的な存在感のある野太い表現が聞かれる。じつはルース四重奏団のチェリストはシュタルケルだったりする。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コダーイ:弦楽四重奏曲第2番,メロス四重奏団(DG)CD,,短い曲だが面白い。素材はバルトーク同様のものを使っていても親しみやすさはまるでイギリス近代の民族楽派。響きの源流にフランスがあるのは言うまでもないが、終盤に民族を全面に出してくるまでは、野趣がバルトークのような独自路線でではなく上品で西欧化された世界に昇華される。それはネガティブな意味ではなく、着想は民族なのに、民族楽器をカルテットの構成楽器に落とし込んでいさえするのに、違和感なくカッコ良い。メロス四重奏団も適度に荒さを投入しており、野蛮さが漂白されて無くなっているわけでもないことがわかる。フィナーレ(二楽章だが)末尾の回転するような民族舞踏にきて初めてバルトークとの共通点を見出させる。最初甘くてピリリと辛い、短く楽しみたいならこの曲は良い。名曲ではないが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コルンゴルド:ヴァイオリン協奏曲,◎ハイフェッツ(Vn)ウォレンシュタイン指揮ロス・フィル(RCA)1953/1/10・CD ハイフェッツの美音が抜群に冴え渡っている!!即物主義的な演奏も行うハイフェッツの、これは非常に共感の篭ったロマンティックな演奏である。この音の艶、音色の多彩さ、ボウイングの巧さ、すべてにおいて完璧である。コルンゴルドは19世紀末のウィーンに生まれ、11歳で早くも作曲を開始、シェーンベルクの師匠で知られるツェムリンスキー他に学び、早熟の天才として名をあげたものの後年ナチの台頭でヨーロッパをはなれアメリカに移住。ハリウッドに居をかまえ多くの映画音楽を手がけた。この作品は1947年に初演されたアメリカ時代のもので、世紀末ウィーンの情緒(マーラーやリヒャルトの世界)を基軸とはしながらも、アメリカ的な軽いモダニズムを盛り込んだ、さながらウォルトンのコンチェルトを彷彿とさせるシャープな透明感も持ち合わせるようになってきている。冒頭の生ぬるい(でもカッコイイ)旋律ひとつをとってみても映画音楽的(いや、リヒャルト的)であることは歴然。その点バーバーのコンチェルトに似た感じも受ける。それでも個性的であり、コルンゴルドにしか描けない「色」がある。独特の技巧を盛り込んだソロはけっこう難度が高い。近年とみにヴァイオリニストの注目を受けている。この人の旋律は同じ音の間を半音階的に行ったり来たりするような、ちょっと聞き耳に残りづらいところがあるが、慣れればハマることうけあい。今、旬の作曲家!?,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コルンゴルド:ヴァイオリン協奏曲,○ハイフェッツ(Vn)クルツ指揮ニューヨーク・フィル(MUSIC&ARTS)1947/3/30LIVE・CD 楽章間にいちいち拍手が入るのが不思議だが昔のライウ゛なので仕方ないか。雑音が酷いが音は聞こえ易い。3楽章など自分の曲のように極めて早く極めて完璧に弾き切っている。物凄い技巧、表現力だ。曲のせいもあり1、2楽章は印象が薄いが、こういうロマンティックなものを弾かせても、決して粘らずにデュナーミクとフレージングの変化だけで音楽の起伏を作るから嫌味がない。○。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
コルンゴルド:ビオランタ組曲,○ホーレンシュタイン指揮BBC北ロイヤル・フィル(DA:CD-R)1965/6/2,,コルンゴルドというと「ウィーン世紀末」「映画音楽」という大きく二つの時期を象徴するタームだけで知られ、実際どういう音楽を書いていたのか案外知らない人が多いことに驚かされる。リヒャルトとディーリアスをかけあわせたような、充実した書法の音楽から始まるこの曲も、諸所では往年のアメリカのドラマBGMを思わせる薄い書法が混ざり、個性という面では今ひとつパンチに欠ける感はある。だが音楽家としてのルーツは同じホーレンシュタインはいつもどおり雑味は多いもののよく往年のウィーン風の情趣を醸し、スケール感いっぱいに演奏しきっている。録音はこの時期にしてはまあまあのエアチェックもの。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コルンゴルド:交響曲嬰へ長調,○プレヴィン指揮LSO(DG)1996/6・CD,,唯一の交響曲、大曲だが早熟なこの人にしては最晩年作であり、もともとあった「ウィーン世紀末的なもの」に多要素がくっついてもはやバーバーの作品と言ってもわからないような無個性さを示してしまっている。構造も構成もオーソドックス、作りがしっかりしすぎている。むろんバーバーの管弦楽作品そのものは素晴らしく重厚で尖鋭性もあり、それを凌駕するような旋律の美しさ、忍ばせられた懐かしく妖しい移調・・・マーラーを通して見たワグナー(決して悲劇的ではない)もしくはツェムリンスキーやスクリアビンといった様子のアダージオ・・・がこの曲を際立たせており、こういう曲に慣れたプレヴィンと腕利きのロンドン交響楽団によって万人に聴き映えのする感じに仕上げられている。しかしまあ、プレヴィンの出自が中欧にあるにせよ中欧的な音のしない演奏で、律動的でかっこいい急峻楽章ではもうマーラーの匂いはゼロである。いや、マーラーの匂いなんてはなからしない。往年のウィーンの指揮者がウィーンのオケを振ったらまったく違っていたかもしれないが、それでもこの曲は既にウィーンの神童ではない、豪華な音の好まれたアメリカの映画音楽社会と融合しすぎて(ハリウッドがこの人から得た音楽的贈り物の大きさは言うに及ばないだろう、影響はラフマニノフにも匹敵する)、いろいろと取り込んでしまった職人的な大人の作品なのだ。若いころの作品とカップリングされており、そのツェムリンスキー風作品の浅薄さを聴くにつけ、いや、これはこれで時代の音、その時代においては興味深い作品であり、名作なのだろうが、、、考えさせられる作品ではある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コルンゴルド:組曲「から騒ぎ」,◯プレヴィン指揮LSO(DG)1996/6・CD,,第二曲から第五曲までからなる。多彩で巧みなコルンゴルトの腕が過不足なく発揮されている。リヒャルト・シュトラウスを彷彿とさせたと思ったら新古典的なフレーズが連なり、ホルンなどソロ楽器が見せ場を作り楽しげな雰囲気を醸す。演者は素晴らしい。あまりウィーン風過ぎてもコルンゴルトの現代的な部分がギクシャクしてくるのでこの位でいいのだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
コンスタン・イワーノフ:宇宙交響曲〜ガガーリンの思い出に,作曲家指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA)LP,,ソヴィエトを代表する「体制側指揮者」イワーノフが権勢にモノを言わせて?録音した自作自演で、正直こんなアマチュアリスティックな「作品」をこのレベルのオケが真剣に国家的に録音したことは、今となってはどうでもいいことだが、真摯な専門作曲家にとってはやりきれない思いであったことだろう。確かに響きに対する感覚はソヴィエトの「レアリズム」に沿った範疇での現代性が新鮮に捉えられる、しかしオーケストレーションは殆ど単線的な、古臭い合唱曲のような簡素なものしか聴かれない。苦笑を禁じえない。もちろん珍曲を面白がる、という意味では価値はあるし、演奏自体は立派。理想主義に燃える「60年代的宇宙」・・・2001年宇宙の旅が公開される前の、アポロが月に行く前の、手塚治虫が「火の鳥」で描いたような、スター・トレックのテレビシリーズが示したような宇宙・・・を描写的に落とした「音楽」として、この三楽章制の表題交響曲を、一度聴いたら十分。冒頭のフラジオが、地球との交信電波を示すということからしてゲッソリ。ちょうどアメリカとソ連の宇宙船がドッキングに成功した(懐かしい)70年代後半に出た当盤、ライナーには放送初演が「熱狂的に受け容れられた」とあるが、党員には表面上、という前提をつけるべきかもしれない。,,ちょっと謎めいた晦渋な部分もあるが、ショスタコの爪の垢程度、ということはつまり単なる時代性。イワーノフはプロフェッショナルな作曲法は学んでおらず、歌曲については実際に評価を得ていたようだが、この裏面に入っているコントラバスのための曲の評価などは殆ど「強制された歓喜」であったと思われる。曲マイナスで無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,