-2019/1/9アイヴズ(補筆追加修正1/18)
アイヴズ:”家族、知人のコメント”,(CBS)
アイヴズ:3ページソナタ,チェルカスキー(p)(decca)ライヴ,,この気まぐれな曲がチェルカスキーの取り上げた唯一のアイヴズというのも解せないが、アムランもコンコードソナタ2回録音したわけだし、奏者にとって歯ごたえのある懐深い曲をアイヴズは書いたということなのだろう。これは孤独感が出ている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:4分音による三つの小品(1903-24),ヘンク(p)ほか(WERGO) 二人がかっちり組み合った姿は(アイヴズとしては)賛否あろうが、私はこの合理的で音楽的な演奏が好きだ。4番シンフォニーでもそうだが、アイヴズは極度に錯綜した手書き譜を遺しており、演奏者側が整理して解釈することによってやっと音楽として成り立つようなところがある(そのままカオスとして演奏する方がアイヴズの意図に近いのかもしれないが)。いや、むしろ演奏者側がまず考えて必要な音だけを選び出し演奏するいわば「創作者行為」を演奏者がやってくれることを期待して書かれたのだろう。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:アメリカ変奏曲,ビッグス (ORG) (CBS)
アイヴズ:アメリカ変奏曲(ウィリアム・シューマン管弦楽編),○フィードラー指揮ボストン・ポップス(LONDON,DECCA)1977/6・CD,,オルガン原曲はハッキリ言ってオルガンに似つかわしくない軽い曲でそのくせごちゃごちゃしていて(特に終盤は初期アイヴズらしい「音符詰め込みすぎ」)耳障り悪いのだが、管弦楽や吹奏楽にも編曲されているとおりアメリカ万歳の内容ということで人気の高いものになっている。ウィリアム・シューマンは曲を立体的に組み直しアイヴズ自身の管弦楽曲より洗練された書法でおのおのの魅力的な変奏を引き立てる(ま、大して変奏になってないのだが)。そして異なる調性の変奏同士が衝突するアイヴズらしい部分では、オルガン原曲ではわかりにくかった意匠をアイヴズ的に(つまりまんま鮮やかに二つ同時に演奏させる)解釈して表現させることに成功している。フィードラーは旋律処理はお手の物で愉悦的な音楽をリズミカルに引き立てる。終盤のごちゃごちゃはちょっと乱れるが仕方ないだろう。この時点でアイヴズが既に「逆変奏」を使っているのもよくわかる(この頃は伝統的な方法論も残り生硬ではあるが)、この曲はこの編曲が一番わかりやすいな。ちなみにこの主題はイギリス国歌として知られるが古き良きアメリカでは国歌として扱われることも多かった。アイヴズが古き良きアメリカを愛した(そして諧謔も愛した)ことが如実に出ていますね。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アイヴズ:インカンテイション ,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:ウィドマング(道がある),カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:ヴァイオリン、ピアノ、チェロのための三重奏曲,○パシフィック・アート・トリオ(DELOS)1987初出 アイヴズの三重奏はかつてこの盤しかなかったと記憶している。先ほどから譜面を探しているのだが、出てこないので資料なしで書かせて頂こう(すいません)。1911年というからアイヴズとしては創作の最盛期(過渡期とみる人もいるかもしれない)にあたる時期に書かれている。1楽章はいくぶん無調的な進行がつづくが、四重奏第二番に通じる感じもする。ピアノ・トリオという編成はアイヴズにとってあまり大きな意味の無いものであり、結果としてチャイコフスキーやラヴェルの描いたものとはまったく掛け離れたものが出来上がっているのが凄い。聴き所は2楽章プレストTSIAJ(”このスケルツォはジョークです”の略)だろう。変幻自在のピアノに括目。ラグタイムをはじめ様々な音楽を奏でるが、意外と真摯な音楽になっているのに注目。ヴァイオリンはソナタ2番2楽章を思わせるなかなか楽しげな演奏をくりひろげている。チェロは若干目立たないか(演奏のせいかも)。3楽章はちょっと皮肉っぽい。大袈裟な表情でチャイコフスキーなど従来のピアノ三重奏を茶化しているように聞こえる。この楽章は弾いていて案外楽しかった覚えがあるが、意外と旋律性があり、無調的な経過句の中に立ち昇る感傷的な雰囲気にも心打たれる。ただ、たぶんこの旋律性というものも、皮肉の一環であることは間違い無かろう。あまりにわざとらしいところなど、ヴァイオリンソナタ3番を思い出させる。いったん曲は無調的な主題に回帰し、気高い幻想を歌い上げる。そしてピアノの不可思議な走句にいざなわれ、再び例の感傷的な旋律が顕れる。そして若干哲学的な余韻をのこし唐突に曲は終わる。ちょっと聴き3つの楽器の結束は弱く、アンサンブルをとりづらいだろうな、と思うが、パシフィック・アート・トリオはじつにそつなくやっている。入門盤としては聞ける演奏だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:ヴァイオリン、ピアノ、チェロのための三重奏曲,ヨーヨー・マ(Vc)レフコヴィッツ(V)ギルバート・カリッシュ(P)(SONY)1977-78 ヴァイオリンの無調的旋律(断片的に讃美歌やフォスターの旋律片が織り込まれている)とそれを通奏低音のようにささえるチェロ、ピアノの不思議な伴奏リズム。1楽章はなかなかに哲学的である。ヨーヨー・マが出過ぎないのが良い。この点は2楽章も一緒。2楽章は「ジョーク」と作曲家が言い切った楽章だが、これは弦楽四重奏曲第2番2楽章の発想と同じと思われる。もはやアンサンブルの呈をていしていない箇所が散見されるが、これこそアイヴズ的クラスター表現、耳を鍛え直すにはかっこうの素材なので、ご興味のあるかたはぜひどうぞ。この盤では混乱をちゃんと混乱としてえがいているので、アイヴズ的なものを聴く上ではすばらしい。芸術音楽に触れようとして聴くには猛毒だが。2個所ほどピアニッシモがかかり、ピアノが不可思議で透明な感傷をぽつぽつと演奏するのが印象深い。3楽章冒頭はもうちょっとひびきの美しさに気を配ってほしかった。弦二本が不協和ながらも讃美歌旋律をともにうたいあげる場面はこの曲のききどころのひとつであるからだ。そのあとピアノとしばらく不協和なたわむれを行ったかと思うと、再び(いささか馬鹿にしたようではあるが)ロマンティックな旋律がヴァイオリンによってろうろうとうたわれる。ピアノ・ソロによる不可思議音形がしばしつづいたあと、またしばらく不協和なたわむれが続き、その中から再びロマン派音楽を馬鹿にしたような旋律がわきおこり、とってつけたように19世紀音楽的クライマックスの模倣がしばしつづく。それがばんと断ち切れて、不協和音により「それはうそっぱちだ」とでも言いたげな強奏(そして冒頭の再現)、ピアノの不可思議伴奏がわずかに続いて、またもやロマン派を馬鹿にしたような盛り上がりが、さらに歪んだ形で作られてはついえてを繰り返す。19世紀音楽的クライマックスの模倣の再現も行われるが最後まで弾き切らずについえてしまう。ピアノだけが、運命論的に不可思議な音形を続けている。ごく静かなピアノ伴奏にのせて、悲劇的な趣のある無調的旋律がヴァイオリンにあらわれ、次いでチェロがやはり無調的な音をそえる。曲はそのまま霧の中に消えていく。ボリュームのある、なかなか複雑な楽章、この演奏は決してうまくはないけれども、曲構造は捉え易い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:ヴァイオリン、ピアノ、チェロのための三重奏曲,○ニューイングランドトリオ(HNH)1977,,初録音盤。抒情的で大人しめの演奏。アイヴズ特有のふざけた方法(当時の世俗音楽であるラグタイムの執拗な引用など)、意図的に発生させられるカオスに際し、エッジの立ったやり取りを楽しみたい向きには受けないか。この曲はちょっと中途半端なところがある。ヴァイオリンソナタ第三番に似た生ぬるいロマン派的な進行が目立つが(むろん皮肉であろう)、そこに演奏困難とも思われるポリリズムや無調的な響きの横溢するパセージが唐突に織り交ざり、その温度差が激しすぎてどう聞いたらいいのかわからなくなる。この発想が大規模交響楽に投影されるとなると第四交響曲のように「うまく機能する」のだが、三本の楽器でやるとなると誤魔化しがきかず、演出的に難しいものがある。いいからピアノは冷えた情景を散発的に示し、残りは静かにコードをなぞれ、と言いたくなるほど喧しく感じる個所も多い。アイヴズの室内楽はアイヴズの作品中では一般的に決して推奨できないものがあり、ヴァイオリンソナタやピアノ曲に比べ一段下がる感も否めないが、そういう曲においてこのような穏やかな演奏は聴きやすく、悪くは無い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第1番,○ハーン(Vn)リシッツア(P)(DG)2010/6・CD,,この全集(断片や編曲除く)の中では一番に推せる演奏。もともと抽象的で隠喩的な作品がこの組み合わせの真面目なアプローチに適していたともいえよう。演奏表現も他の作品に比べて落ち着いているように思える。音色やアーティキュレーション付けに単調さは否定できないが、非人間的な無調音楽から懐かしい賛美歌旋律に昇華されてゆく全3楽章の流れを単一楽章のように大きくとらえ、様々に秘められた既存旋律の断片を滑らかにコラージュしてゆくのがじつに巧い。そうとうの準備を思わせる出来である。アイヴズ自身がおそらく最も自己に忠実に書いたヴァイオリンソナタであり、終楽章には1番弦楽四重奏曲の終楽章や4番交響曲の終楽章に通底するテーマ(多分に宗教的なものだろう)があらわれていて、2楽章あたりの新ウィーン楽派をまで思わせる抽象性との対比ないし「融合」も見事なものである。この盤を手にしたらまずこれから聴いていただきたい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第1番,◎フルカーソン(Vn)シャノン(P)(BRIDGE)CD,,アイヴズの作品名にはしばしば余り意味がないものや意図的に異化されたものがある。多くは商業的理由や演奏機会を増やすためのものであったらしいが、この曲、私自身は学生時分より譜面を取り寄せ好んでかなでていた中でも一番わけがわからず、錯綜した混沌しか読み取れない(アイヴズはやりようによっては混沌から純度の高い哲学(しばしば文学)的幻想を汲み取ることができる作品がほとんどである)生硬な作品として一番縁遠くかんじていたものだが、評者にはこの作品をアイヴズのヴァイオリン作品の中で最も高く評価する人もおり(アイヴズ自身も本気で取り組んだのはこれだけと言っていたというが)、田舎臭い賛美歌への奇怪な逆変奏をたどる終楽章(素材的に4番交響曲に転用されているし、この作品全体も4番交響曲と繋がるようなところがあるのだが)など陳腐で無骨でヘタなやり方に思えたものだからおかしなことだと思っていた。しかし半面2楽章の思索的な晦渋さにはアイヴズの最良の部分が(日寄ったほうでも過度な前衛でも)飾らず提示されているところには惹かれた。いずれヴァイオリン的には(番号なしのものや「5番」を除けば)技術的難度の低いものばかりの作品群の中では最も指とセンスを問われる作品として敬遠してもいた。,,だが、さきほどこのアイヴズの番号付ソナタ全集(プレファーストや「5番」を除く)としては最も「フランス的」で聴き易く、技巧もセンスもそうとうの高みにたっしている盤の、まったく筆をつけていなかったこの作品を聴きなおしたとき、耳から気まぐれに鱗が落ちた。,,これは他のソナタとは違う。これは、「ピアノを聴くべきなのだ」。アンサンブル曲であり、譜面の題名どおりのピアノ伴奏付「ヴァイオリン・ソナタ」ではない。,,そういう耳で聴くと、僅か2本でアイヴズが創り上げようとした世界の大きさ深さに驚かされる。構造的創意も幾分直観的であるとはいえあの非標題的傑作「ピアノ・ソナタ第1番」並みのものがつぎ込まれている、つぎ込もうとしている。1楽章冒頭の6音からなるとつとつとしたノンペダルのフレーズ(対旋律の断片的変容)が曲の諧謔的かつ哲学的世界の幕開けと幕引きを知らせるあたりはまさに、クラシカルな音楽の枠をこえてモダンな昇華をへた世俗のカッコイイ感覚を持ち込んでいる。3,4番交響曲の終楽章をはじめ数々の曲で、有機的に紡ぎあげられるアーチ構造の両端を、硬度の高い静寂として描いている、その方法論が既にこの簡素なアンサンブルの中で、しかも成功例として提示されている。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,1楽章のピアノがとにかくカッコイイ。アイヴズの楽譜は本人による決定稿がなく演奏家にバンバン変更されるものが多い。本人もわりと寛容(一部奨励)だったらしいが、この演奏においても日寄ったほうに改変されている可能性があるとはいえ(ピアノ譜をなくしたので確かめられないのですいません)、音楽的激変の10年であった1900年代に、シェーンベルクから生臭さを極端に抜いたような、たびたび比較されたストラヴィンスキーの鉄鋼製品のようなパッチワークに、アメリカ民謡をいじらず生のまま投入することで却って突き放したような醒めた感覚と純粋な旋律的叙情性を追加したような、そう、ストラヴィンスキーがやや距離をおきながらもアイヴズの作品を中心とした私的演奏会に行っていた、何故アマチュアイズムを嫌い無邪気な西海岸の前衛をけなしたストラヴィンスキーがアイヴズを聞いたのか、わかるような気がするのである。このドライな1楽章では、ウェットな楽器であるヴァイオリンはコンコード・ソナタのヴィオラくらいの役目しかない。,,アイヴズは理論において父親の実践的探求をベースにアカデミックなものを意図的に遠ざけ、独自の机上研究(わりと得意だったオルガンやアップライトピアノはあったにせよ)を深めていったが、もともと創作屋であり分析屋ではないため、その論理性において奇怪なゆがみと甘さがあることは死後使徒がまとめたメモ集をなめれば理解できるだろう。だが亡命者シェーンベルクがアイヴズを驚異の目で見たのは恐らく理論ではない。創作されたそのもののはなつ、直観的先駆性の凄みそのものだろう。2楽章の哲学性は冷静にきくとそれほど煩雑で込み入ったものではない。創作者が聞けばそこに整理されないものの不恰好さより追求されようとした世界の異様さに圧倒されるというものである。最後の(アイヴズ特有のマンネリズムでもあるが)ピアノのノイジーな乱打にはまだトーン・クラスター指示はなかったと思うが、2番では弦同士の共振を計算して一定長の板によるクラスター奏法を指示したアイヴズ(その意図どおりの音響をはなつ演奏・録音はほとんどないし、やはりこの時点では机上論的だったのだが)、たぶん1番でもそれをやりたかったのだと思う。諸事情でやめたのだろう。この演奏ではやや綺麗すぎるおさまり方をしているのが惜しい。,,3楽章はやはりどうしてもヴァイオリンに耳がいってしまい、交響曲第4番の器楽編曲という不恰好なものにきこえてしまうのだが、ピアノをやはりきくべきで、ヴァイオリンは「ユニヴァース・シンフォニー」で言えば「背景に連なる美しい峰峰」にすぎない。いや、アイヴズの作品はその「情景」を構成する視覚的諸要素をそれぞれ音にうつしかえて五線という印画紙に投射したものでありそもそも「旋律もしくは音列と構造の対比」という概念が(本人がどう意図したかによらず)薄いのである。
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第2番,○ドルイアン(Vn)シムス(P)(MERCURY) アイヴズの4つ(ないし5つ)のヴァイオリン・ソナタの中で、最も”イイ”ものといえば、この2番だろうか。1番は技法的にもアイヴズ自身の力の入れ具合からしても、最も(ダントツで)上位に置かれても良いものであり、じっさいアイヴズのヴァイオリン・ソナタの評でも(特にマニアの評では)トップとされていることもしばしばあるものだが、やや生硬で(「こなれていない」、という言葉が最適か)アイロニカルかつ気難しい面が前面に出てしまっており、終楽章の、無調的主題をメタモルフォーズして最後に調性的な旋律として提示するという意匠も、室内楽向きではない構成(じっさい、この楽章はシンフォニー4番でリニューアルされて提示される)であり、聴いていて違和感を覚えることしきりである。学者には興味深いだろうが、技術的にもダントツに難しいがゆえに、作曲家自身生の演奏に接し得なかったであろうことも考えると、「完成品」として評することはできまい。アイヴズの完成期「前」の作品であり、あのゴツゴツした「カントリー・バンドのための小品集」と同時期のものと言えば納得できよう。2楽章はそれでもなお、真の傑作としての輝きを保っているのだが。3番については、フランクの有名なソナタの色濃く、又、濃厚なロマンチシズムを「無理して演じている」(部分的に初期シェーンベルクを思わせる〜シンフォニー3番や名作”HYMN”の示す傾向に近い)ところが、良い意味でも悪い意味でも特徴的だ。佳作ではあるのだが、シンフォニー2番にも感じられるような「無理に調性に依っている」ような違和感があることは否めない。只「アメリカン・カントリーミュージック」という点でいえば、この2楽章が全ソナタ中最もよくできたものとなっており、ブヨブヨ肥大した曲中、唯一引き締まったピリリと辛いものがある。更に言えば、この3番は実に美しい旋律の宝庫だ。使われかたが良ければ、超有名曲となった可能性すら秘めている。アイヴズはこの曲を「ひよわな妹」と呼び、速筆で仕上げたのだが、同じ曲想がもしドビュッシーに浮かんでいたら、さぞ素晴らしいニンフに化けていたことだろう・・・。4番は別項にも書いているが、アイヴズが「無害な小品」と呼び、プロコフィエフがシンフォニー7番で見せたような、老人が子供の頃を回想するような感じに満ちたもので、他の野心的なソナタと同列には扱えまい。現存しないプレ・ファースト・ソナタより抽出された「ラルゴ」については、1番の2楽章に通じるところがあり、尖鋭な曲だ。ポピュラリティは持ち得ない。というわけで、2番である。1楽章ははっきり言って失敗作であるが、2、3楽章は、アイヴズがこの分野で行ったことの最もよく表された曲であり、「完成期」の作として安心して聞けるものだ。2楽章のカントリーミュージック風で無窮動的な壮大さは、やや冗長だが、3番の2楽章にアイヴズ自身の個性を強く打ちつけたような所があり、3番2楽章に比べて、「アイヴズを聴いている」という印象が強く残る。末尾で、ピアノの低音部を一定の長さの木片で打ちすえる「トーン・クラスター」を譜面に忠実に行っている演奏は少ないが、これがあるといっそう曲は引き立つ。さらに3楽章は、アイヴズの書いた最も美しい曲のひとつとも、アイヴズの書いた実験的譜面の典型とも言え、構成、内容、さらに聴き易さの面でも非常に高みにある曲だ。演奏者に繰り返し回数をゆだねた2小節、やはりトーン・クラスター効果を目したクライマックスのピアノ、個性的でかつ非常に効果的な前半の瞑想的フレーズの数々、リディア旋法によるアイヴズの書いた最も美しい旋律〜最後にはパラフレーズして、カントリー旋律になってしまう!(否、アメリカの讃美歌の在り方はむしろこうなのだ)〜、基調となる静かで寂しい空間に、パレードが通り過ぎるような全体構成、僅か1ページ半のヴァイオリン譜に凝縮されたものは、おそらく全ソナタの全楽章中最も多量だと思う。しかも見事に全てが調和しているのも、アイヴズの作品にしては非常に珍しい。尖鋭さでは1番、情緒面では4番にかなわないにしろ、最もアイヴズらしさが(違和感無しに)バランスを保って存在している曲と言うことができる。・・・余談だが、アイヴズのヴァイオリン・ソナタは全て同時期に並行的に作られたと言われるが、明らかに番号の順で洗練され要領を得てきている感がある。2番だけは、楽章毎にも明らかに時期差が感じられ、楽章順に作られたような感じもする。なにしろアイヴズは1つの作品を何十年にもわたって手を加え続けるような人で、特に完成期以降はかつての自己作品〜特に調性的なもの〜をムリヤリ現代曲に仕立てようと、トーン・クラスターを加えたり和音をそれらしく変えたりしたため、ブカッコウに「なってしまった」曲も多い。その再処理の行われた順が、ソナタ番号順(2番については楽章順)だったのかもしれない。・・・奏法の一致というか、曲との相性が非常にいいのがこのドルイアン/シムス組。2楽章の表現などいい。フルカーソン/シャノン組は美質だけをうまく取り出し、3楽章において感傷的な気分を存分に引き出すことに成功している。(1994記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第2番,○ハーン(Vn)リシッツア(P)(DG)2010/6・CD,,交響曲第3番等と関連性の感じられる曲で(アイヴズは自作の再編を頻繁にやっていたため時期的な同位性確認は難しい)おそらく最もアイヴズらしい・・・作曲家だけではなく聴衆として見ても・・・「ヴァイオリンソナタ」になっている。この演奏は比較的一本調子かつ音色的変化も少なく、猛烈な速度でひたすら技巧を見せ付けている点は他の曲と変わらないが、楽曲の、とくに2楽章スケルツォはそういう表現を求めている部分があるので、しっくりくる。物凄い速度で指が回っているのはわかるがもはや音が聴き取れない、という苦笑な場面もあるが、チャールストンをやるようなジグを踊るような楽想が多いのでそこは素直に面白い。だがアイヴズはロマンティックな作者でもあるので、中間部などちょっと陰影も欲しい。3楽章はおそらくアイヴズのソナタで最も美しく完成された曲だがこれはウィンダムヒルっぽい始まり方はいいものの思いいれのない抽象度の高い強い調子の演奏が展開されるとどうにも違和感がある。ピアノがもっと広がりのある表現をしてヴァイオリンも歌えばいいのに、技術的にそれができるにもかかわらずしていないのは一つの見識ではあるが、ならクライマックスで崩れてランチキなトーンクラスターにいたる過程もしっかり描いて欲しいものだ。1楽章もわりとうまく(曲的には序奏にすぎないようなところもある)2楽章と込みで○としておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第2番,○フルカーソン(Vn)シャノン(P)(BRIDGE)CD ドルイアン盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第3番,○ハーン(Vn)リシッツア(P)(DG)2010/6・CD,,アイヴズのヴァイオリンソナタに実演を通じて集中して取り組んできた成果として録音された全集の一部。基本ライヴ向きの即興性を備えたアイヴズの曲でありヒラリー・ハーンもいくつかの実演で異なるアプローチを試みたそうだが、ライナーを見る限り恐ろしく真面目にアナリーゼを行い、煙に巻かれながらも試行錯誤、実演のうえ出した結論がこの音源のようだ。そのため従来の録音とはかなり異なる印象を与えるところもある。ピアノに細心の注意が払われているのは特筆すべきで、アイヴズがともするとヴァイオリンのオブリガート付ピアノソナタのように曲を作り上げている逆転現象を、精密な和音進行の再現によって明るみにしている。ズーコフスキらいわゆる現代音楽演奏家とは異なる独自のやり方で、表面上フランクのロマン派ソナタを装ったこの曲からロマン性を取り去り譜面からだけアプローチする。むかし自分が試みていた甘さを恥じた。ちゃんとやろうとすると、こんなに難しいのか、アイヴズ。,,ただ、アイヴズは半分ジョークだとは思うが、自分が古臭いフランクのスタイルでも書けることを無理解な聞き手に訴えるべく形式的に書いた、と言っていたらしい。もちろん実態はきつい皮肉に満ちて原型を留めていないものの、そういった作曲意図に沿ったロマンティックな志向が入っているかどうかというと、無いと言わざるを得ない。,,すれっからしの勝手な思い込みアイヴズ好きの立場からすると、求道的姿勢がもたらした「引っ掛かりの無い整合性」、ヴァイオリンの音色変化の乏しさ、客観的解釈はズーコフスキのコンテンポラリーなアプローチよりましとはいえ、今まで親しんできたロマンチックな旋律表現に通底するノスタルジックな感傷性と、何も考えずがゆえ和音の破壊的衝突ぶりの面白さが感じられないのはつらい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第3番,◎フルカーソン(Vn)シャノン(P)(bridge)CD,,アイヴズの一見無秩序な書法の中に通底する叙情性に対し細心を払い、構造の整理とともにこの上なく感傷的に描くこのコンビの全集はアイヴズのソナタ最高の演奏と言うべきレベルに達している。この曲はアイヴズにしては長大だが全般が賛美歌や俗謡にもとづく旋律により貫かれ、とくにフランクなどのフランス・ロマン派ソナタを(皮肉たっぷりに)意識したヴァイオリンが平易な印象をあたえ聞きやすくしている。だがアイヴズの意匠はピアノにより明確に暗示されている。あからさまな東洋音律(当時世俗に人気のあった)等の底には常に現代的な不協和音や無調的パセージがまるでバルトークのように硬派に怜悧な輝きを放っている。ピアノだけを聴けばそこにピアノソナタの残響を聞き取ることができるだろう。アイヴズは書法的にけして下手なわけではないが弦楽器による音楽にそれほど重きを置いていなかった節がある。それはストラヴィンスキー同様弦楽器がアナログなロマンチシズムを体言する楽器であったがために何か別の意図がない限り「本気で書く」気がしなかったということなのだと思う。げんに大規模作品の部品として弦楽器が使われる例は多々あるのに弦楽四重奏曲以外に弦楽器だけに焦点をあてた楽曲は余り多くは無い。その弦楽四重奏曲も2番は「本気の作品」であったがそれほど完成度が高いわけではない。ヴァイオリンソナタは特例的な作品群で、アイヴズが「まっとうな作曲家であったら」旋律と創意の魅力溢れる作品群になった筈なのに、結果として1番2番は実験の寄せ集め、3番は「ひ弱な妹」、4番は「無害な小品」そしてそれ以外は未完成か編曲作品なのである。つまりは「本気ではない」。だからこそアイヴズ自身がのめりこみ演奏し自身で確かめながら譜面に落とすことができたピアノのほうにより本質的なものが篭められていても不思議はない。ヴァイオリンはピアノの二段の五線の上に書かれている旋律線を抜き出したものにすぎないと言ってもいい曲である。2楽章だけは少し特別で、プロテスタントの陽気な賛美歌(日本では俗謡だが)をジャジーな書法を駆使して編曲した見事なアレグロ楽章となっており、個人的には全ソナタの中で一番成功したもの、「アメリカ様式のアレグロ」としては史上最高の作品と思う。2番でカントリーふうの書法を実験したときにはまだ未整理の様相をていしていたものの、完成度の高い結晶と思う。このコンビで聞けば、この作品の独創性以上に素直な魅力に魅了されるだろう。最後の田舎風ギャロップまで天才の発想が溢れている。譜面も自由度が高く録音によって多少の差異はある。そういったところも含め「まったくクラシカルではない」と言いはなつことは可能だが、いかにもヴァイオリン曲そのものの記譜ぶりでもあり、これはやはりソナタの中間楽章なのである。いろいろ書いたが、この曲は速筆で仕上げられたものであり、だから3楽章など長すぎる感もある。ロマンティックな旋律の臭気にウンザリさせるのが目的な側面もあるとはいえ、時間がなければ2楽章だけを聴いてもいい。◎。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第4番,○ハーン(Vn)リシッツア(P)(DG)2010/6・CD,,二楽章は感傷的だけどコントラストが弱い。最初から運命が扉を叩く力が小さい。。物語性が薄い。。あの印象的な開放弦のピチカートがさらっと流されピアノのさらさらした旋律に引き継いでしまう。。考えすぎて原点を忘れた演奏。。激しさが足りない。即物的なものを好む人向き。アイヴズ特有のノスタルジーが無い。。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第4番,○ラレド(Vn)シェイン(P)(PEERLESS)LP,,10分前後の小曲にもかかわらずアメリカの近現代ヴァイオリン・ソナタとしては文句なしに最高傑作であり、本人のはすに構えた発言とは関係ない。性格も形式も違う(しかも剽窃主題しかない)三曲を、ただ抱き合わせてソナタと称したものではあるが、それはアイヴズの特徴的な「方法」だと個人的には思う。グラズノフのソナタ形式におけるスケルツォ楽章の扱い方に似ている・・・とにかく理知的にではなく「性格」を「極端に」変えた楽章を組み合わせればそれがソナタだみたいな。必ずしも出版事情とか演奏されるようにおもねったマーケティング結果とかいったものだけではないことは「交響曲第4番」「祝祭交響曲」を聴いてもわかる。あれらは纏め方の強引さも一流の鮮やかな方法に聞える。立派な交響曲だ。本人の他愛無い個人的なものという言とは裏腹にけっこう演奏されることが多い。前衛性を(3番のように)皮肉としてではなく子供が演奏しやすいように削ぎ落とし、サン・サーンスの動物の謝肉祭のようにはからずも生まれた速筆のシンプルな作品ではあるが、ここに漂う素直さ、幼いころキャンプで経験した昔への憧憬は、子供向けとして書かれた導入部としての1楽章(これはしかしコノ曲の中では前衛的書法も僅かに盛り込まれ一番完成度が高い)、メインである2楽章の、ラジオなどない自然の中に生音しか存在しない素朴な時代へのノスタルジーが静かに綴られ、よぎる「運命の主題」をも乗り越え極めて美しい散音的な一抹のフレーズから対位法的にからみあう二曲の静かな賛美歌・・・アーメン終止、更にここがアメリカ人らしい、さっぱり抜け出す3楽章は「たんたんたぬき」の楽しいジャジーな賛美歌で締める・・・「音楽の生まれいずる場所」を三部で描ききったことで極めて完成度の高いものに仕上がった。この演奏にはその感傷性を過剰に煽ることなく(フルカーソン・シャノン組はこの線で素晴らしい録音を生み出したけど)アイヴズ的な極端な起伏を余り際立たせずに聞きやすくやっており、たぶんそれほど巧い人たちではないとは思うが、たんたんたぬきにも違和感なく浸ることができた。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第4番(1915),○シゲティ(Vn)フォルデス(BIDDULPH)1941mono mercury盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第4番(1915),○シゲティ(Vn)ボーガス(P)(MERCURY)stereo シゲティのレパートリーであったこの曲は、同時代においてアイヴズの全作品中最も有名なプレイヤーに弾かれたもののひとつといえる。決して曲趣に向かない、剛健で厳しい演奏だが(指揮者でいえば壮年のクレンペラー、シェルヒェンといったところ)、特にボーガスとのステレオ盤は(多分CD化したと思う)、晩年のシゲッティのかすれるような枯れた味わいが、遠い過去の想い出を語りこの上無く哀しい。老いて尚ロマンティックな趣を残す音色が泣かせる。ただ、「無害な小曲」のミジンもない・・・シゲティはアイヴズの後継にして友人ヘンリー・カウエルのソナタも入れている。(おまけ)日本とも縁深いこの人。「・・・さてその日本女性が着るキモノの優美さは既に世界的に定評があり、十分私もそれを認めているが私がキモノについて最も興味を持っているのは男性が室内で着る丹前です。二十年前日本に来たとき私のマネージャーだったストローク氏が「一度日本のユカタを着たら外国のパジャマは着られぬ」といっていた言葉を今もよく覚えていますが、日本の旅先でゆっくりした全然窮屈さの感じられない丹前を着ていると、こんな気楽でいいキモノは世界にないと思います。私の訪日も三度目で日本の料理にも慣れましたが、私はお米はもちろんその他の料理も食べます。殊にスキヤキは好物のひとつです。それから日本の”セリ”も大変好きで演奏旅行の途中、旅館に無理を言っては取り寄せてもらい生のまま食べています。ただタクアンの匂いだけは好きになれませんが・・・日本料理は一言でいえば味が非常にデリケートです。・・・」〜”日本の旅”よもやま話「心を打つ聴衆の熱心さ」から重要じゃない部分だけ抜粋、1953/4/6-8のコンサートプログラム(毎日新聞社)より。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第4番(1915),○ドルイアン(Vn)シムス(P)(MERCURY)この情趣溢れるヴァイオリンは、まさしく前世紀の音だが、アメリカ的粋に溢れている。モノラルで古い音なのが残念だ。ピアノがやや粗いのもマイナス。解釈的にも少し問題があり。遅すぎるのだ。プレ・ファースト抜きの全集(全4曲)あり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第4番(1915),◎フルカーソン(Vn)シャノン(P)(BRIDGE)けして有名とはいえないこの取り合わせも、アメリカ的雄弁さや透明感が却って曲の特色を引き立たせ、涙腺を刺激する。シゲティのような求道者は怒るかもしれないが、ドビュッシー張りの優しい音が、特に2楽章、再び立ち現れる「運命の動機」を越えて「夢」が再現されるところの、ヴァイオリンのピツイカート+ピアノの幻想的(ほんとうに独特の煌く幻想!)な歌は、恐らくこの演奏でのみ聞ける極上のものだ。CDは2枚組の全集(プレ・ファースト・ソナタ等は除く)盤。 90年代初に出て最近まで良く見掛けたが・・・。美しく、適度に幻想的でもあり(旋律構造にドビュッシーの影響を指摘されるアイヴズの癖をよく現している)、鄙びた酒場の雰囲気もあれば、祭りの夜のさみしさもあるし、曲を愛する演奏家の表現として、繰り返すようだが本当に素晴らしい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第4番(1915),ズーコフスキ(Vn)カリッシュ(P)(NONESUCH)現代的演奏だ。アイヴズのオーソリティである二人によるこの録音は、流石に手慣れており、曲を良く研究している。独特の解釈表現は、アイヴズの「尖鋭な側面」にこの曲を近づけようとするもので、情趣が薄れる替わりに、強調された不思議な響が、本来のアイヴズの姿を映し出している。好みは分かれるかもしれない。この組み合わせは他のソナタの演奏では現代的解釈に過ぎ失敗しているところもある。ヴァイオリンが少しピアノに埋もれる傾向があるが、これはこれで不思議な和声バランスをたのしめるものではある。2楽章最後のさみしさは、白眉である。3楽章の超遅い表現も、意表を突いている。ジャズのミジンも感じさせず、ピアニストでいえばフランソワを思わせる特殊さがある。これも現代的解釈と言うべきだろう。潤いの足りない音色も含めて。プレ・ファースト・ソナタからラルゴを含めての全集。<他、アン・アキコ・マイヤース盤などがある。アメリカの演奏家は最近良く録音するようだ。 >,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第5番「ニューイングランドの祝日」,○クリサ(Vn)チェキーナ(P)(russiandisc)CD,,新発見の曲ではなく本人による「祝日交響曲」(本来的には組曲)からの(無茶な)抜粋編曲である。従って正当な意味で「第5番」ではない。事実上ヴァイオリン・ソナタという形式は4番で閉じた世界である。しかしこの極めて小編成へあの大曲を編曲し、かなり聴けるものに仕上げているというのはある意味アイヴズという才能を再確認するものとして価値が高い。内容的に1、2番で未完成なまま3、4番という(個性という意味では)退嬰をへて終わったアイヴズのヴァイオリンソナタである。オリジナリティがしっかりした「技法」に支えられ完成された作品として認められるものというのは他のジャンル・・・ピアノ独奏曲もしくは大管弦楽・・・においてはいくつかあるのであり、祝日交響曲もその一つであることからして、これを独奏曲に編曲することにより「完成期のアイヴズの実の入ったしっかりした作品」として非常に安定感のある、1,2番を凌駕する完成度を持っていると言ってもいい面白さがある。アイヴズ特有の心象的な表現は多彩な楽器の音色の混交によって実現できうるものであり、擦弦楽器一本にピアノという編成では表現に限界があるが、モザイク状に「拝借」された数々の旋律がヴァイオリン一本によって露骨に継ぎ接ぎされていくさまは他のヴァイオリンソナタに通じる好悪わかつ部分であるが、一部特殊奏法により原曲と違った色を出しているところもあり、本人も(アマチュアとして)得意であったピアノが入ることによってだいぶん多彩な部分を残したままシンプルな面白みを逆に提示することに成功している。削ぎ落とされた中身だけが聞こえてくるだけに、フォースオブジュライを除く三楽章だけでは短くてあっというまに終わってしまうあっけなさもあるが、反面「編曲モノの面白さ」を比較対照して聞けるものとしても価値はあるだろう。演奏はかなり巧い。作品自体1番ほども技巧を要求しないものではあるが、よく作品を吟味している。アイヴズマニアなら聴く価値はあり。但し繰り返しになるが、1〜4番の「番外編」にすぎないものであり、全く視点が異なることは留意しておくべし。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:ウィリアム・ブース将軍の天国入り,○ドレーク(B)グレッグ・スミス指揮コロンビア室内管弦楽団、グレッグ・スミス・シンガース(COLUMBIA)1966/5/4・LP,,前衛手法がかなり露骨に使われている人気曲である。昇天の皮肉な情景に見えなくも無いがちゃがちゃした内容だが、弦の驚異的なグリッサンドや微分音(だと思うんですけど譜面見てません)の繊細な「ざわざわ感」や叫び風の合唱など、交響曲第四番二楽章にも使われた素材のカオスはこれはベリオかと思わせるような感じだ。部分的にはストラヴィンスキーの初期作品の構造的なバーバリズムを想起させたりと、アメリカ住まいのストラヴィンスキーも私的演奏会に通ったという(しかし微妙な)精神的近似性もさもありなんと思わせるところだ。表出力に優れかっこいい演奏であり、まずはこれでも十分楽しめるだろう。室内楽的で、なかなか緊密だがしかし自由さもありよい。歌唱はろうろうときをてらわないものだ。(救世軍のブース将軍のこと),-----,,TITLE: ストラヴィンスキー:ペトルーシュカ、春の祭典 −ピエール・ブーレーズ−,URL: http://column.pointmile.com/?eid=423379,BLOG NAME: WM,DATE: 03/24/2006 22:30:48,,ストラヴィンスキー:ペトルーシュカ,ブーレーズ(ピエール), クリーヴランド管弦楽団, ストラヴィンスキー,,,
アイヴズ:ウィリアム・ブース将軍の天国入り,◎ネイサン・ガン(B)ギルバート指揮NYP他(放送)2004/5/20live,,4番シンフォニーとこれ、あとはベルクなどを演奏したようだが、アイヴズが取り上げられるときは決まって何かの付けあわせで、なおかつ譜面の悪さもあって手抜きも多いのが正直なところ、ここではメインにアイヴズを据えていること、アメリカの、NYPであること、そういうところからして全く手抜きはない。この曲は1919年に管弦楽伴奏に編曲されたもので、見事な効果をあげる。アイヴズのあまたある歌曲の中でも有名であり、救世軍設立者で初代大将で知られるウィリアム・ブースの死のことを歌っているわけだが(アイヴズはピューリタンの末裔を自認するほどのプロテスタント的な立場をとっていた)、そんな歌詞をよく汲みながら、ユーモアたっぷり、ライヴ感ばっちりな演奏に仕立てている。こんなに面白い演奏も他にない。◎。モノラルだが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:エマーソン変奏曲第1番,作曲家 (P) (CBS他)
アイヴズ:エマーソン変奏曲第3番,作曲家 (P) (CBS他)
アイヴズ:カノン(彼女のひとみの中だけでなく),カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:これ以上,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:サーカス・バンド,スミス コロンビア室内O
アイヴズ:サイド・ショウ,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:ダウン・イースト,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:アイヴズ たしかに庭がある,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:ただひとつの道,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:カルシウム・ライト・ナイト,○ボリショイ劇場管弦楽団ソロイストアンサンブル(A&E)1988/12live・CD,ずいぶんと懐かしいアルバムですな。僅かな期間であったソヴィエト末期ペレストロイカ期の幸福な東西交流の中で生まれた合作レーベルからの「アバンギャルド音楽祭」ライヴ抜粋記録である。このレーベルでは圧倒的にスヴェトラのマラ6が有名だがあちらはかなり演奏がやばかった。曲自体はアイヴズの比較的前期にあたる単曲(1898〜1907とされているがもちろん全部が作曲に使われた期間ではない、隙をみて日曜作曲したり、時流をみて改訂を重ねたりした結果納得いくにいたったのが9年後だったわけだ)、おそらくオーケストラルセットのどこかからの引用で4番交響曲第二楽章にも引用されている素材だと思うが、ピアノの印象が強い。アイヴズはピアノをよく使い、独奏曲がいちばんよく演奏されるし、最大規模の楽曲では三台の異なるピアノが導入されたりもするし、室内楽にもオスティナートを刻んだり楽曲を支える柱として導入されていることも多い。いずれピアノが象徴するごく自然な音楽の場としての「劇場」をにぎやかす各種音素材の混交が、カルシウムライトに照らされてまるで雑多なNYの人間たちが愉しみ騒ぐようなさまを端的に切り出して見せた、「音風景の録音」ともいうべきアイヴズお得意の音楽である。クレジットが明瞭ではないが多分指揮者がいないとまとまらない曲なので、総合指揮とされているロジェストが振っているのだろう。ロジェストはしかし、こんなのも平気で振るのだなあ。精度がすごいなあ・・・とその他の現代曲の数々の演奏を聴いても思う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:スケルツォ(ホールディング・ユア・オウン),○クロノス四重奏団(ELEKTRA NONESUCH)CD,,僅か1分23秒の曲だが(いかにもアイヴズ)紛れも無くスケルツォである。それ以外の何者とも形容しがたい「もの」である。「アイヴズにしか書けなかったスケルツォ」である。がちゃがちゃした、でもどこかに統一性のある断章。着想1903年、完成1914年というのもいかにもアイヴズらしい「校訂の重ね方」である。クロノスの出世作に併録され話題となったもの。クロノスはさすが現代音楽専門団体である。「ハロウィーン」を複雑化したようなこの曲に「現代音楽風の」整理をつけている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:トーン・ロード第1番,○バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(DG)1988/11/17-22定期live・CD はしご車のゴングと同じ1911年作品。アイヴズの理念がはっきり打ち出された代 表的な作品のひとつで、「音の道」というのは「我々の祖先たちが踏みしめたロッ キーの山道を呼び覚ます」ということである。だがここで聴かれるのはいかにもゲイ ジュツ的な音楽であり、土臭く自然主義もしくは民族主義的な主旨とは隔絶したもの がある。歩みをあらわす規則的なリズムにのって無調主題がいくつか対位法的に組み 合って出てくるわけだが、アイヴズにしては構築的なところが面白い(いや、アイヴ ズは構築的にも書ける人なのだが)。観念的でややわかりにくいという意味で私はあ まり好きではないが、この曲の演奏としては第一級だろう。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:ニューイングランドの三つの場所(原典版),○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(CBS)CD,,交響曲ほど拡散的な莫大演奏にはならず、いや曲がもともと構築性を無視した印象派的なものだから莫大であっても気にならないからわからないが、オケの細部にわたる技術の高さを音楽の難解さにチャレンジさせ、結果としてあっさり難しさをなくすという高度なことをやっている。この曲はアイヴズの代表作で、パレードの音響的衝突が前衛的な聞かせどころなのだが、衝突する音塊のカオスを生じさせずロマン派的処理でまとめてしまうのは本来的にはアイヴズ的ではない。でも後者の方法論は振りやすさとわかりやすさがあるため一般的でもあり、それも一つの見識として批判に値するものではないと思う。前者の方法論の演奏はなかなか音盤では聴くのが辛いものがある・・・実演できちんと音場を立体的にとらえられないと意図は通じない。半端にヘンな音盤として聴くよりは、わかりやすい「処理」の加えられたもので親しんでいたほうがいい。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アイヴズ:はしご車のゴング、もしくはメインストリートを ゆく消防士のパレード,○バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(DG)1988/11/17-22定期live・CD 発売時かなりの話題となった盤で2番シンフォニーばかりが持ち上げられたが、残りの 小曲群も選び抜かれたものばかりでどれも必聴である。作曲家生前にアイヴズを事実 上発掘した50年代リヴァイヴァルの立役者で、アイヴズを信望していたとはいえ、あ きらかにレパートリーに偏りのあったバンスタが、それでもここでわかりやすいとは いえない無調に近い作品群を振ってくれたことに感謝したい。ちなみに祝祭交響曲も 入れているが録音は古い。この曲はジョークとされているがアイヴズの小曲解説には そういうハニカミがかなり見られるので言葉どおりにとってはいけない。聴けばけっ こうマジメな秀作揃いだ。ただ、アイデアが湧いたとたん速筆したようなところがあ り、僅か2,3分が多い。この曲もそうである。1800年代後半・・・アイヴズのノス タルジーですね・・・の近所にあるボランティアの消防団の恒例のパレードのフィー リングを捉えようとしたもの、とある。ドラとバンドのリズムがずれていくのがポイ ントで、ようはアマチュア楽団のグダグダ演奏を暖かい目で描写したようなものなの だが、金属質の打音から始まる暴力的な音響に魅力を感じる者も多いだろう。リズム のズレにしてもそういう意匠と考えれば素晴らしい効果である。ただ、バンスタはあ まりにまともにやりすぎているのか、ズレが気にならなすぎる。本来の意図を考えれ ば多少崩してやってもよかったのではないかと思う。その意味でマジメすぎて面白く ないかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:ピアノ・ソナタ第1番,○ノエル・リー(P)(Nonesuch)LP,,かつてはそれなりに有名な録音だったし、このピアニストの人気からすればもっと取り上げられてもいいものだが、なぜか古いマニア以外には注目されない。第二番「コンコード・ソナタ」のほうが有名だから、とかそちらのほうが有名ピアニストがやるから、という程度の問題だろう。しかし曲としてはこちらのほうが抽象的で、文学的な側面や手法的な個性を主張するよりも純粋な創作欲をピアノ一本に籠めた作品であり、入りやすいと思う。少々長めだが現代作品のように頭を凝らす必要もなく、スクリアビンのような程よい前衛性に身をひたすことができるのである。この人の演奏はアメリカの「土俗的演奏家」とはまったく違うし、中欧の前衛派のヘンクのような厳しさもない。フランス的というわけでもないのだがそのへんの柔らかい表現がアイヴズの「男らしさ」に絹をまとわせ、かといって包蔵する哲学的な闇の世界を本質としてしっかりとらえ、必要最小限のところでははっきりした打鍵で不協和な風を吹かせてもいる。わりとわかりやすいほうに解釈した演奏と思う。アイヴズを聴いている感じがしない。改変うんぬんはめんどくさいのでよくわからないが、この時期には多少いじっている可能性はあるだろう。フルートやヴィオラの入る邪道な標題ソナタばかりがアイヴズだと思ったら大間違い。まずこの作品から入るべき。○。,,(参考)アイヴズの1番,,ヘンクの真面目な古典的名盤,"
Ives;Sonata for Piano No.1
Henck
Wergo

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",縁深いコープランドとの好カップリング,"
Ives: Piano Sonata No. 1

Mode

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",,(参考)ノエル・リー,,ソロ現役盤は殆どない。伴奏・アンサンブルものやアメリカ現代音楽は何枚か現役である。,,ミヨー集に参加(廉価なのでミヨー入門盤としてお勧め),"
Milhaud: Scaramouche; Le Bal Martiniquais; Paris

EMI

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アイヴズ:ピアノ・ソナタ第1番,○マッセロス(P)(CBS)初録音盤,,アイヴズの融和しない冷たい響きは冬には余り似合わないのだが、複雑な心理を抱いて生きている現代人にはいつでもどこかしらに訴えかけるものがある・・・と思う。ニューヨークを闊歩する都会のビジネスマンであったからかもしれない。とくにこの曲のあたり個性を無理に強く打ち出すよりも、素直に前衛音楽に対峙し精巧に作り上げており慣れれば聴きやすく、もっともこの作曲家特有の問題として整理されないままにされている汚い楽譜を奏者がそれぞれのやり方で変えまとめているのがほとんどだから、今抱いた印象が曲の評価なのか演奏者の解釈の評価なのか判別が非常に難しいのだが、ピアノをやる人でも有名な表題ソナタ2番よりこちらの抽象性を評価する人が多いようで、よそ者には理解しがたい原アメリカの宗教性や思想性を予備知識として持たなくても十分味わえる(しかもほどほどの長さ)という点でも、アイヴズ入門としてもオススメである。初演自体が半世紀をへて行われたわけで初録音といっても(一応)20世紀初頭の作曲時の空気を伝える要素は無いが、わりと金属質に強い調子で衝突するひびきやとつとつとした無調的なラインを明瞭に描き出す演奏がある中で、静かで地味で線が細く(弱々しくはない)、アイヴズがそのじつドビュッシーの音楽的哲理の影響を受けている”印象主義者”の範疇にいたサウンドスケープ作家であることを逆によくわからせる演奏になっている。若干構成感がなく、(冒頭の個性的な下降音形すら印象に残らないで)知らないうちに始まって知らないうちに終わる、起承転結ではなく承承承承みたいなところは否めないが、何かBGMとしても成立しそうな雰囲気音楽として”使える”。譜面を単純化している可能性があるが、奏者的に不足はない。○。哲学書をめくりながら聴けば心地よいうたた寝に浸れます。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:ピアノ・ソナタ第1番,○マッセロス(P)(sls)1969/12/19live,,アイヴズで、表題の無い曲は名品とみていい。これをコンコードソナタ(ピアノ・ソナタ第2番)より好む人もいて、私もその一人である。いつも通り世俗素材を利用はするが、割りと抽象度が高く全体の印象として格調がある(コンコードソナタの運命の引用ときたら!)。同一音形を執拗に繰り返しスクリアビン的な盛り上がりを作る一楽章、これは演奏の凄まじさもあるが四楽章の複雑で目覚ましい律動、ほかコンコードソナタにあらわれる要素を分類・凝縮して示したような楽章群(もっとも終楽章は複雑多様なのに一本調子。いつ終わったか聴衆もわからないほど冗長で構成感が無い)。20世紀に入ってピアノソナタといいつつソナタ形式なんてあってないようなものだが、これも各楽章の対比が明確なだけの「組曲」と言える。初演者によるライヴで、よく整理して聴かせている。アイヴズ特有のポリリズムなんて、左右でどうやって弾いてるんだか慣れなんだかわからん。CBSの初録音盤とくらべ精度に変わりはなく熱気のぶん勝っているが、残念なことにモノラルで、同レーベル特有の「ノイズ残し」が実に邪魔。イコライジング前提で楽しみましょう。聴衆反応は戸惑い、のち喝采という。,,アイヴズは実演経験がないからこういう演奏困難な曲を書くのだという意見がある。しかし私的演奏会もあれば自宅にピアノも持っていたしコンコードソナタの一部は録音もしている。小規模の曲にそれはあてはまらない推測だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
アイヴズ:ピアノ・ソナタ第2番「コンコード・ソナタ」,◎ジョン・カークパトリック(P)(COLUMBIA/iTunes)1945,,使徒カークパトリックによる同曲の初録音盤。譜面のとっ散らかり含め難解な「曲」を史上初、弾けて聴ける形に校訂しただけあり・・・協会が出来て決定版が出るまでは交響曲すら氏の手書きスコアのコピーが通用していたくらい「貢献」しているのだが、改変と言える部分も多く、この曲の(必須ではなかったと思うが)フルートやヴィオラを省いた主観的な校訂も批判の対象となった・・・密度の高い音楽の細部まで非常にこなれた演奏に仕上がっている。(後補)2016年現在itunes配信されているとのこと。,,ライヴ感に溢れ、アーティキュレーションが強く付けられており、テンポ・ルバートも自然ではあるがかなり派手目で印象的だ。ロマンティックな起伏ある流れや美しく感傷的な響きを強調することで非凡なるアイヴズの才能の唯一の欠点「人好きしない」ところを補うことに成功している。完全にミスタッチに聞こえる(しかも細かくたくさんある)重音が随所に聴こえるはずなのに、ラヴェルが狙った”寸止め”の範疇として受け止められる。衝突する響きとして気にならない。,,カークパトリックの技術力も高く表現も的確で、確かに同時代アメリカのルビンシュタイン的な押せ押せドライなピアニズムの影響もあるにせよ、思い入れの強さが心を揺さぶる音に現れている。とくにアイヴズの真骨頂と言える静かな音楽、懐かしくも逞しいメロディ、解体され織り込まれた運命のリズム、南北戦争後・世界大戦前のアメリカイズムを宗教的・哲学的側面から体言した、やはりもう「過去」となってしまった世界を音楽にうつしたものとしてセンチメンタリズムのもとに整理し、表現している。,,シェーンベルクと同い年だったか、ドヴォルザーク・インパクトが強かった頃のアメリカである、つまりは完全に前時代の空気の中で活動した人である。ロマンティックな香りや膨らんだスコアリングも無理も無い。この演奏は多分譜面がどうであれアイヴズの内面的本質を突いている。コンサートには行かなくなったけどマーラーの指揮するときだけは出かけたという、そういう時代の人である。ウェーベルン後の無駄の無い抽象音楽と比較して批判するのはおかしい。戦後派ではない、戦後に評価されただけである。,,ステレオの薄盤による新録(1968)が知られているが、旧録のほうが壮年なりの力感があり、揺れも小気味よく、アイヴズを前衛と捉えた、もしくは「真面目な音楽」と捉えた後発他盤には絶対に聴かれない世界観が私は好きだ。モノラル。,-----,,,-----,,
アイヴズ:ピアノ・ソナタ第2番「コンコード・ソナタ」,○アムラン(P)(NWR)CD,,抽象度が高過ぎてわかりにくすぎる。引用旋律や通奏主題である「運命の主題」を力強くそれなりに卑近に表現して各々同士のコントラストをはっきりし、雑多に混交する中からたちのぼるアイヴズらしい世界を構築するのが通常のやり方で、そのためには余計な音は整理したり恣意的にいじったりして、そうやって楽しめるような音楽に仕立てるのが必要なのだが、、、余りに大人しく、透明に、完璧に演奏してしまっている。平坦でどこを聴けばいいのかわからない。そのやり方では終楽章ソローが唯一感傷的印象派的に感じ入ることができた。新録音ではもう少しこなれている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:ピアノ・ソナタ第2番「コンコード・ソナタ」,◎ジョン・カークパトリック(P)(COLUMBIA/iTunes)1968STEREO,,クラシックなんか全く聴かなかった頃(弾きはしたけど)ふと耳をついて離れなくなった音楽、それがアイヴズの「答えのない質問」(但し冨田勲版)だった。宇宙的な不可思議な響きはニューエイジ系の響きによくあっていた。その後小澤のシンフォニー4番によってこのマーラーの同時代者にして孤高の前衛作曲家に開眼することになるのだが、アイヴズの特徴はカオスとか前衛手法とか細かくはいろいろ言われているけど、ほんとうのところ「静寂とノリのコントラスト」の凄みにあると思う。静寂については言うまでもあるまい、ドビュッシー(アイヴズはドビュッシーを相対的には評価していた)の旋律構造との近似性を指摘される極めて美しいメロディのかけらのさりげない感傷をも呑み込んだ、静かな不協和音の広がりの中に微細な変化をきたす音楽(じっさい印象派と言っても過言ではない抽象的な小品も多い)、特に金属的音響の静かな扱いにおいて極めてすぐれており、サウンドスケープ作家としてまずは素晴らしいものがある。ここはヘンクなどが得意とする世界なのだが、一方「ノリ」については余り言われない、というかどうしても「現代作品のように」分析的に演奏されることが多いので、ほんらいあるべきと思われる「全ての楽器が勝手に鳴ってごちゃごちゃになりながらも濁流のように突き進む力」をもった姿とかけ離れた「数学的側面」ばかりが強調され、違和感を覚えさせることも多い。時にはそういうアプローチがゆえに曲自体「構造的に」弱いと思わせてしまう。だがアイヴズの構造の概念は最初からポストモダン的というか、部分部分の構造は視野にないものだ。無造作な集積物に対する「大掛かりでざっぱくな構造」こそがアイヴズの「構造」であり、そのまとまりのなさを如何にまとまりないままに、しかしどこかへ向かって強引に突き進んでいるように「感じさせるか(分析させるかではない)」が肝なのだ。,,コンコード・ソナタは今ではかなり取り上げる人も多い。アイヴズの作品には極めてクリティカルな版問題がつきものだが、本人も繰り返し述べているように「好きなように弾けばいい」のであり、この演奏が出版2版と異なっているといっても、ここにはジョン・カークパトリックというアイヴズの使徒が、決して下手ではない素晴らしい勢いのある押せ押せの演奏ぶりで「自分なりの真実を抉り取っている」さまがある、それだけが重要なのである。「この小節はスウィングできるなら何度でも繰り返せ」・・・例えばこういった譜面指示にアイヴズの本質は端的に現れている。「ノリ」なのだ。「民衆それぞれが自分のためだけの交響楽を作曲し奏で生活に役立てることができる」世界を理想とし、作曲家はその素材提供をするにすぎない、いかにもアメリカ的な哲学のうえでこの作風が成り立っていることを理解しておかないと、変な誤解を与える退屈な演奏を紡ぎ出しかねない。民衆は時には静寂を求めるが、たいていはノリを求める。,,話がそれてしまったが、今は亡きジョン・カークパトリックは1940年代後半にもコロンビアにモノラル録音(全曲初録音)をしている(楽章抜粋を同時期の少し前にやはりコロンビアに録音している)。ステレオ録音LPのジャケット裏にかかれているとおりアイヴズと密に連絡をとり、意図と「意図しない」ところを常に認識しつつ、この独自の校訂版を作り上げた(有名なフルートやヴィオラも挿入されない)。そのため原典版と呼ばれる譜面に基づく録音が後発されることにもなった。演奏スタイルは繰り返しになるがかなり前進的なもので思索的雰囲気よりも「ノリ」を重視している。ペダルを余り使わず残響を抑えているのが好例だ。ラグなどの表現では特に場末のアップライトピアノでガンガン弾いているような面白さがあり、特に卑俗な旋律断片が奔流のように次々と流れるところはダントツに面白い。構造的に弾いてしまうとアイヴズ特有の「つじつまのあわない」クセが目立ってしまい、途中でめんどくさくなってしまうか飽きてしまうものなのだが(その点1番の緊密さは素晴らしい)、この演奏(版)はとにかく「飽きない」。面白い。,,アイヴズ協会が動き出したあとの現代、この譜面がどうなっているのかピアノを弾かない私はよく知らないが(奏者ごとに当然いじるのだろうが)、昔は交響曲でもジョン・カークパトリック(ラルフじゃない)の筆写編纂版が使われていたくらいで、アイヴズ自身もこの人の演奏を聞きアドバイスをしているくらいだから、もし違和感を感じた、あるいは譜面との相違点が気になったのなら、「こちらの演奏のほうが本来の姿」だと思うべきだろう。CD化は寡聞にして聞かないが、最近やや低調気味な人気の中、新録を沢山出すのも結構だけれども、この「アイヴズの権威」の演奏を復刻しない手はないと思うのだが。旧録然り。ノリという点でも内容の濃さ(変に旋律に拘泥せず全体の流れで曲を押し通している)という点でも、◎。この版、純粋に音楽的に、バランスいいなあ。「運命の主題」を軽く流しているのもいい。ここに重きを置くとキッチュになりすぎる。,,この曲はアイヴズ出版作品の通例としていくつかの原曲素材の「寄せ集め」で編纂されたものだ。その部分部分については自作自演もあり、これは一度CDになったようである。(後補)2016年現在、iTunes配信されている。,-----,,,-----,,
アイヴズ:ピアノ・ソナタ第2番「コンコード・ソナタ」,ジョン・カークパトリック(P)(配信)1939/1/20NYタウンホール初演live,,エール大学が保管しているアイヴズ等の未発表骨董音源より、一部一般公開(webサイトよりストリーミング)したものの一つ。前年に部分ないし全曲初演されたという人もいるが、従来的には全曲初演の、アンコール2曲(うち後半は四楽章「ソロー」の一部、前半は民族主義の他人の曲)を含む全楽章の復刻である。器械2台で録音したのか、盤面返しも欠落はほぼ無い。さすがに未発表モノだけあって経年劣化は無視できないレベルで、デッドで歪んだSPの響きも真実を歪めて伝えている可能性はあるが、エール大学が力を入れて復刻したもので素人の口を挟む余地は無かろう。ちなみに以下が公開された全てである(2018/9時点)。いずれもカークパトリックにより、公式録音もあわせるとカークパトリック自身のスタイルの変遷も追える。非公開のものはエール大学のネットワークに繋げれば聴けるらしい。,,1939/1/20(初演live(全))3/24(CBS放送用T、V)3/31(CBS放送用U、W)9/28(放送初演(全)),1959/10/19(T),1969/2/7(エール大学live(全)),,この曲はかつて人の少なかったアメリカ北東部の点景である。四楽章の表題になるエマーソン、ホーソーン、オルコッツ(複数形)、ソローの超越主義思想から直接音楽を展開したということはひとまず置いておいて、ここに横溢する美観はきわめて印象派的なあいまいなものに立脚している。カオスであっても響きはつねに青白く冷えたモノトーンで、その音の回転や蠢きにスクリアビンの痙攣、昇天のエコーを聴くことはできるが、生々しいロマン派音楽の素材を使っていても、そこには直接的な接触があるようには感じられず、硝子一枚隔てた影像として処理されている。ノスタルジーと抽象的思索の二重写しであること、この曲や、ひいてはアイヴズの試行錯誤の目指した先が単純なフォルテの世界でも全音符の世界でもないこと、それは謎のまま闇に消えたことを考えさせられる。アイヴズというと既存素材のパッチワークだが、メインとなる素材は多くはない。ここでは運命の主題が奇妙にさまざまに異化された形から、後半楽章ではっきり、しかし原曲とは異なった形で打ち出されるのが印象的だ。洗練された暴力。この演奏はテンポが速く焦燥感があるが、腕は一級、録音がひどいが指も頭もよく回る。バルトークなど民族主義が流行っていた演奏当時を考えるとそれだけの弾き手はいておかしくないが、二楽章ホーソーン、スケルツォにあたる楽章でラグタイムが冷徹から狂乱へ舞い上がる悪魔的表現はライヴならではの勢いもあり、聴かせる。この楽章以降は拍手が入る。印象派ぽいというと両端、よく単独演奏されるエマーソンとソローだが、デッドな響きでテンポが速いとあっけなく、食い足りなさがある。四楽章のアンコールではしっとり響きを聴かせている。,-----,,,-----,,,-----,
アイヴズ:ピアノ・ソナタ第2番「コンコード・ソナタ」抜粋,作曲家(P)(CBS他)
アイヴズ:フェルダインサムカイト,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:フランダースの野で,マンデル (P) スチュワート
アイヴズ:マジョリティ,ストコフスキ アメリカSO
アイヴズ:リソリューション,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:リンカーン,ストコフスキ アメリカSO
アイヴズ:レクイエム,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:黄葉,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:我らの祖先の愛したもの,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:海の挽歌,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:絵,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:賛美歌(ラールゴ・カンタービレ),○ストコフスキ指揮CBS放送管弦楽団(SCC:CD-R)1954/2/7放送LIVE,,バーンスタインの名演で知られるアイヴズの秀作小品である。現代の精緻な演奏様式よりいくぶんロマンチックな感情を込めた演奏に合う。だからストコフスキにも似合う。いくつかの楽想のほんの破片をポリフォニックに重ねていくコラール、無機質なアルペジオを背景に浮いては消える賛美歌旋律、生温いのに、とても透明感ある夢想。この作曲家が哲学に傾倒していたことをはっきり伺わせる思索性は三番交響曲の終楽章に近似しており、四番交響曲の終楽章の構成の基礎となる要素を示している・・・つまりは作曲家自分自身の評価も含めて最高傑作といわれる作品群の「要約」のような二分半だ。力強くやや硬質のコロムビアオケの音でバンスタほど過度の歌謡性は持ち込まず、調和を意識することなくアイヴズらしい乱暴なやり方をあるていど残している。ストコフスキはそのやりかたで交響曲第4番初演盤では半端な前衛性をだらだらと示してしまい聞きづらさもあったのだが、ここでは曲の短さと、元来のロマンチシズムがそれでも首尾一貫したように聞かせている。で、結局面白い。薄く精緻にやると粗さが目立つ、このくらいがいいのだ。ノイズがひどいが力強い録音。これ、学生時分に譜面に落としたなあ。いずれパートも見開きくらいしかないけど、単独パートでもわりと曲になっていた。なつかし。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:賛美歌(ラールゴ・カンタービレ),◎バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(DG)1988/11/17-22定期live・CD ワタシ大プッシュの曲。マーラー〜シェーンベルクに接近したぬるまゆい曲。シェー ンベルクやストラヴィンスキーが技法面を突き詰めていくことで近づいていった「世 界」に、頭の中で鳴っている複雑な音響世界そのものを描写することだけで近づいて いったアイヴズの、いわば現代音楽との「接点」を示すものである。短いし、この盤 以外の演奏ではイマイチ綺麗すぎて馴染めないのだが、とにかくこの盤で聴いてくだ さい。没入する気持ち、ぬくもりがないとこの美しさは表現できない。意匠は殆ど交 響曲第3番終楽章と一緒なのだが(つまり完全な現代曲ではないということ)、この シェーンベルク的な神秘の響きに傾聴すべし。学生時代パート譜を起こして1回だけ 試演してみたことがある。やはり独特の距離感をもった(=まとまりづらい)アイヴ ズの刻印のしっかり残る曲でありながら、低音楽器・・・とくにチェロのソロ・・・ の新ウィーン楽派的な美しさに胸打たれた。賛美歌というとおり、基本的には既存の 賛美歌の冒頭部分のみを使った幻想曲である。伴奏の無調的音階にとにかく萌えた。 最後の協和音はいらなかったかも・・・でも◎。「弦楽合奏のための三つの小品」と してまとめられたことがあるが出版用の抱き合わせにすぎない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:賛美歌(ラールゴ・カンタービレ)原典版,○ニューヨーク四重奏団、ブラーム(Cb)(COLUMBIA)1970/5/25NY・LP,,この曲はなかなかいいバランスの演奏がなくて困っている。思索的だがわかりにくくはなく、解体された賛美歌旋律がシェーンベルク張りの伴奏音形の上に元の姿へ組みあがっていくさまは密やかだが鮮やかで、短くすっきりしているところもアイヴズらしくないまでに完璧でいいのだが(3番交響曲の終楽章を短くもう少し現代的にしたような感じ)、全く透明で金属的に演奏してしまうと何か「物足りない」。アイヴズはドビュッシー同様「プラスアルファを要求する」。それが過度であってもならないということも含め。なかなかに難しい。バンスタ以外で納得いく演奏、しかも本来の弦楽五重奏型式で、となるとないのかなあ、と思っていたが、これは非常に注意深く、過度にロマンティックにも、過度に透明にもならずに最後までもっていっており、うまいとこだけ印象に遺すようにしている。かなり弱音で貫いているのでともすると聞き流しかねないものだが、「押し」ではなく「引き」で演じたところに成功の秘訣があるように感じた。○。最後は協和音で終わるのが通例だがこの演奏では不安な不協和音で終わらせている。非常に注意深く演奏されているので違和感がなく、却って曲の哲学性を深める良い出来になっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:ロバート・ブラウニング序曲,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(SONY)1966・CD 中規模の管弦楽曲としてアイヴズにしてはまとまっているので比較的人気がある。ちょっと長々とカオスが続きすぎる感もあるけれども、ブラスの歯切れ良さとリズムの面白さがこの演奏においてはとても際立っており、面白さが持続する。録音にやっぱり古い感があるけれども、カップリングの4番シンフォニーに比べずっと自由にぶっぱなしているのが心地いい。基本的に旋律に調性は希薄もしくは無いが、無調に馴れた向きはとてもすんなり、そして面白く聞けるだろう。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:ロバート・ブラウニング序曲,○マゼール指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1976live,,アメリカで常任を振る人は必ず通るアメリカ音楽の道、その(生前の大半はそう扱われていなかったのに)要にでんと座る雑然音楽の元祖アイヴズであるが、ちょっと前まではポストモダンな作曲家としてわざと雑然と「書かれたまま」やるのが常道とされたがゆえに一般の理解を遠ざけてしまったきらいがある。アイヴズの未整理の煩雑な音楽は思想的には確かに新しいものを目指していたが素材は素朴で非常にわかりやすい、多くは(プロテスタントの賛美歌の孕む程度の)ロマンチシズムを湛えたものなのであり、演奏側が整理して響きを整えれば前衛音楽の祖としてもアメリカ民族主義音楽の祖としても立派に通用する音楽たりえるものを作っていた。,,晩年俄かに巻き起こったリヴァイヴァルブームは後者の見地に立った演奏家主体のスタイルであり、本人は余り好まなかったようだが(かれの歪んでいるとはいえ異様に明晰な頭脳には(ストラヴィンスキーもそうであったように)この異様なスコアがありのまま全く簡素で当たり前のものとして見えていたのであるから、一部ならともかく全体の趣意すら曲げるような改変は好まなかった)、音盤や、世界のほとんどのコンサートホール(の座席)において彼の望んだような自在で立体的な響きの再現は土台不可能なのであり、後半生コンサートに行くことをやめ自宅のピアノでしか音楽を想像しなかったかれの机上論的な部分を何とか「まともに」修正しようというのであれば、アイヴズ協会考証版の正規スコアにかぎらず手書き譜や使徒の見解を入れて、もしくは「入れずに趣意を汲み取って」適度に拡散的・騒音主義的で適度にアカデミックかつロマンティックな一貫性も維持しつつバランスよくやるのが常道であろう。ドイツやロシアよりもフランス近代音楽の影響を受けているとは一時期よく指摘された。特に旋律構造へのドビュッシーからの影響は分析的に見出すことが容易と言われる(宗教性の裏付けのうえ主要素材に旋法的なものをもちいることを好んだだけの感もあるが)。,,極端にどちらかに振れない穏当な演奏はなかなかない。アイヴズは無秩序ではなく在る程度理論的な音響実験を投入しているが、それも実演主義的では全く無かったから、はなから無かったものと考えるのも妥当かもしれない。話がそれまくったが、まずアイヴズの座標を何となく示したところでその基点よりマゼール闘士時代の演奏がどこに位置するかというと、やや拡散的なところ、即ちとっちらかったスコアをとっちらかったままに、しかし一応時間軸は意識しておく・・・ただ、音量変化が滑らかではなくデジタルなニュアンス変化が、シェーンベルク程度には前時代の作曲家であるアイヴズをやるうえでは少し「騒音主義過ぎる」ように思った。奇矯な「びっくり」をやらかすのが目的ではない、音塊の密度が濃くなり薄くなりを繰り返すのがアイヴズ・・・アナログな波形を形作る無数の音素材の堆積を一個一個に拘泥せず全体として認識させる・・・というのはライヴのノイズだらけの非正規音材では無理だな。,,アイヴズは音盤を音盤芸術として作る「ポストモダン的クラシック音盤職人」がもうちょっと出てくると面白いリヴァイヴァルを呼ぶかも。ぜんぜん違う音楽だけどナンカロウみたいに、演奏家は最初のパンチ穴の打ち込みだけでいいのだ。その再現を如何にアイヴズの趣意に沿って整形するか・・・カラヤンに象徴される録音職人兼演奏家が、かつて演奏家兼作曲家がそうなったように、今や録音技術者と演奏家に完全分化しているだけに、ここは時代を気長に待ちたい。ってこの音盤についてぜんぜん語ってない・・・技術は素晴らしいです。,-----,,,-----,,,-----,
アイヴズ:ロバート・ブラウニング序曲,クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(LIVE SUPREME:CD-R)1960年代live 意表を突いた曲選だ。混沌の作曲家アイヴズに対して、クーベリックは何か一本線のとおったものを求めている。旋律線を明確にし、弱奏部では加えて無調的なハーモニーの冷たい美しさを美麗に表現している。強奏部の表現はかなり錯綜した曲の通りに錯綜しているが、アイヴズならではのカオス感を若干聴き易い形で提示しているともいえる。1908年に着想されたが、初演は1956年というアイヴズらしい遠回りをした曲である。比較的人気曲で録音もそれなりにあるが、曲想が渋めのため、アイヴズ慣れしていないと「なんじゃこりゃ」という感想を抱きかねない。クーベリック盤はその点入門編としてはいいかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:管弦楽組曲第2番,○ストコフスキ指揮ロンドン交響楽団(DA:CD-R,M&A他)1970/6/18イギリス初演live,,やや不安定なステレオだがライヴ盤にしては十分だろう。これがまたいいんです。アイヴズは時にとても感傷的な心象風景を描くが、この演奏はまさにその感傷性に焦点をあて印象派風に描ききった非常にわかりやすいものである。ストコははっきりアイヴズをロマンティックな語法で読み解いているが、ほんらいアイヴズの音楽は前衛を「狙った」わけではなく結果として「至った」音楽なのであり、作曲時期の問題、またアイヴズの組曲(セット)というのが「演奏されやすいために出版時にてきとうにまとめた」というものである側面もあり、これがそのままアイヴズであると言い切ってしまうと前衛大好き派にはそっぽを向かれそうだが(ミニマル好きとかサウンドスケープ的なものが好きな向きには物凄く推薦するが)、昔のアメリカの未開拓な原野の静かで荒んだ光景を想起させるような「まるで風のような音楽、風にのってやってくるさまざまな音をそのまま録音したかのような譜面」に瞠目せよ。もったいないくらいの演奏です。まあ、録音状態と正統かどうかというところで○にしておくが、個人的に入門盤としてはうってつけと思うわかりやすい心象音楽の描き方である。恐らくイタリア盤CDで出ていたものと同じ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アイヴズ:管弦楽組曲第2番,○ストコフスキ指揮ロンドン交響楽団(intaglio)1970イギリスlive・CD,,現在はmusic&artsでも出ている英国初演記録かどうかは不明だが、london正規録音に先立っての演奏会記録というデータを信じれば恐らく同一と思われる。この海賊盤の抜けがよく、より鮮明な録音であることは確かである。但し2箇所、冒頭も含めてかなり耳障りなノイズが入る。アイヴズの静寂、とでも呼ぶべき冷たい情景に劣化媒体のような雑音はかなり気になる。もっとも原盤からこうだったとは思えない・・・私は最初この盤の不良品(中身が全く違っていた)を掴まされ売主に逃げられた経験がある。箱入りの一枚ものにもかかわらずライナーもなくデータも不確か、やはり一枚もので箱入りだったalrrechino等イタリア盤でもライナーはきちんとしていたから、その前に流通していたこのてのものに文句を言っても仕方ないところはあるが。。肝心の演奏は非常にストコらしいアイヴズをロマンティックな前時代的な感傷のうちに押し込め、特に歌詞のあるなしにかかわらず歌唱の入る部分での処理の訴えかけるような(ややおしつけがましいがオケがLSOなのでそれほど濃くならない)表現は、この指揮者が合唱指揮をへていることも思い出させる。ロマンティック過ぎてちょっとアイヴズとしては甘ったるさが胃にもたれるけれども、元来の混沌としつつも冷たい衝突する響きが残り辛うじてバランスを保っているし、持ち味が薄い表現であるロンドンのオケというところも功を奏している。○。,,曲はアイヴズの常として個別に作曲された三曲の寄せ集めでいずれも特有の情景「活写」的なものだが、宗教性を背景としたアメリカニズム鼓舞に回顧的な内容を伴う表題性の強い作品で演奏機会も多いほう。表現によっては尖ったアイヴズが独創的な理知性(一曲め「我ら祖先へのエレジー」の最後で何故賛美歌詞を排したのか?等)のもとに一定の距離感をもってそれら感傷的要素に対峙していたことがわかるが、この演奏にはそこが無い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
アイヴズ:管弦楽組曲第2番,○ストコフスキ指揮ロンドン交響楽団、合唱団(LONDON)CD,,ライヴ記録もCD化されているが何種あるかは確認していない。ストコフスキのアイヴズは音響的な広がりはすばらしいがさほど恣意的な方向付けをしないので、アイヴズの拡散性が際立ち茫洋とする感がする。2、3曲目のほうは管楽器など横の長い音符が多いせいか鈍重で、合唱もそれに輪をかけて重くしてしまっている。反面「偉大な祖先たちの森」はアイヴズ得意の金属打楽器を多用した心象的な音楽で、これはストコの色彩的処理が素晴らしく反映された名演。何よりこのステレオ録音の状態が素晴らしい。アイヴズには南部特有の乾燥した部分と暑苦しい部分があって、前者においてはかなり「冷えた音響」が目立つ。冬には向かない。しかし、夏にはまるで風鈴の鳴る縁側にいるような感覚すらおぼえる印象的な表現があり、1曲目はまさにそういう曲、この演奏で涼んでください。2,3曲目は後者です。暑苦しい!,-----,,,,,,,,,,,,,
アイヴズ:劇場管弦楽のための組曲,○スターンバーグ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(OCEANIC)LP,,アイヴズ録音最初期の一枚。「セット(組曲)」と呼ばれる「幕の内弁当」をアイヴズはいくつも編んでいる(組み合わせを変えたり編曲して焼きなおしたりを繰り返している・・・主として版元の意向で)。内容的には交響曲第4番へ移行する最も脂の乗り切った時期の作品や先鋭な作品が含まれ、しかし肥大傾向の極めて強い「祝日」や4番に比べ、すっきり整理された原初的な形ということで、アイヴズの奇才より才能を直接感じ取りやすい。ぴしっと技術的にすぐれたアンサンブルをもって聴くと何をやりたくて何を聴かせたいかがはっきりする(その部分すら解体して一見わけのわからない大構造物に仕立てたからこの作曲家はとっつきづらい印象をあたえているのだ)。小規模編成の作品こそアイヴズ独特の微妙な軋みを味わうことが出来る、真骨頂と思う。曲はいずれも短いが他に流用されたりしてアイヴズ好きには耳馴染みあるものだ。凍りついた感傷のある風景を、点描的に描く「サウンドスケープ」。演奏的にも俊敏で生臭さがなく、この時代にしては技巧もすぐれている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:劇場管弦楽のための組曲〜V.夜に,○スロニムスキー指揮汎アメリカ室内管弦楽団(NewMusicQuarterlyRecordings)LP,,「ワシントンの誕生日」断片と共に録音された部分試演でレクチャー(?)も含まれている。ごく短いが、アイヴズがこの時「何かを掴みかけていた」ことがわかる。新ウィーン楽派の(理知的な部分よりも)感覚的な部分に通じるもの。演奏的には短いので何とも言えないが、残響を加え大規模編成的に演じられることの多いアイヴズを、室内編成的な楽曲として聞かせるという「本来の姿」を伝える同時代の演奏として価値はある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:弦楽四重奏曲第1番,○コンコード四重奏団(nonesuch)CD,,「信仰復興伝道会」なる副題がつくことがあるが宗教的なものは聴けば讃美歌まみれでわかるので書かない。バーナード・ハーマンの短いコメントがついているがそれを必要としないほど素晴らしい曲である。むかしアイヴズは「熱量で何とかしないと聴けたもんじゃない」作曲家という認識があり、ドラティの祝日交響曲などおすすめしていたのだが、それは旋律楽器をやっていたので旋律中心で聴く癖があっただけで、ノイズもふくめ本質的には「響きの作曲家」であるアイヴズを期待したうえで聴くのには、もっと引いた態度で整わない響きを整え整わないならそれ相応の理由を推測してそれに沿った形で盛り込んでいく、というやり方が向く。録音なら新しいにこしたことはない。それほど細かい部分は細かい(実演では聴こえないほどに)。この作品は旋律音楽で、ほかの作品に転用された要素を含む「わかりやすいコラージュ音楽」だが、ポリリズムやモザイク状の構成感などすでにアイヴズを構成する主要素が出ており、2番はそれをさらに突き詰めて非常にとっつきづらくなったが、1番ではおそらくドヴォルザーク後にアメリカに出現したカルテットで最良の作品といっていいほど美しく、出来が良い。改訂はあるようだが、交響曲なら習作である1番に相当するものの、2番までの個性は少なくとも含まれており、雰囲気では瞑想的な3番まで到達するものをふくめている。譜面は疎だがけっこう大きな曲で、のんべんだらりとやると飽きてしまうが、アイヴズのしのばせたワサビをこの楽団はクリアに浮き彫りにしていく。ここでそんな転調?とか、なんで唐突に楽想が変わる?といったところが、構成上はちゃんと意味がある「かのように」聴かせる。熱量が低いような書き方をしてしまったが、録音がクリアなステレオであり、その点で熱量が低いように聞こえるだけで、最後はしつこく盛り上がる。一度は聴いていい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:弦楽四重奏曲第1番「信仰復興伝道会」,○ジュリアード弦楽四重奏団(CBS),,これだけアメリカ民謡だけで固められた室内楽は史上無いだろう。習作的雰囲気はないこともないが交響曲で言えば2番くらいの感じであり伝統のないアメリカでこれほど先人の影響を感じさせずに、ドヴォルザークショックさえ皆無の「アメリカ国民楽派」とでも言うべきナショナリズムを声高にうたった曲は無い。孤高の曲だ。アイヴズの前衛的個性も弾けば一目瞭然、論理的展開を拒否してみたりまるで西部の田舎街に突然シェーンベルクが降り立ったかのような都会的な不協和音が颯爽と顕れたり意外なほど計算された明確なポリリズムが構築的なアンサンブルの中に組み込まれていたり、なかなか手強い一面もあるが素材的に共通点の多いヴァイオリン・ソナタより高い完成度が感じられる。引用旋律以外にも極めて美しい抒情旋律がきかれる。アイヴズには確かに「一般的な」才能もあった。書こうとしなかっただけで。ジュリアードはわかりやすく纏めている。現代曲演奏団体にありがちな平坦さが終楽章クライマックスあたりでは気になるが、アイヴズを人好きする顔に作り上げる手腕には脱帽だ。もっとロマンティックに力ずくでイレ込んだ演奏も聞いてみたいものだが。曲的には有名な2番より好き。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
アイヴズ:弦楽四重奏曲第2番,○ジュリアード弦楽四重奏団(COLUMBIA),,アイヴズの作品でもこのあたりになるとかなり洗練されてきており、とくに一、二楽章にかんしては最小限の編成でここまでできるという無調作品の極致(アイヴズに無調というレッテルは余りにざっくりしすぎだが)を示した緻密なもので、しかし意匠の類似から大規模作品をただ四人編成に落としたということではなく、「四人の男が繰り広げる一夜の情景をうつした」まさにカルテットでしかできないものを作り上げている。よくカルテットを大編成に書き換えて演奏する室内楽団がいるがこの作品ではそれはできない。作者の意図からも外れるし、これはそもそも五人以上では単純すぎる箇所が出てくるし三人以下では音楽を作れない。よく練られている、思い付きで雑然と音を積み上げたように聞こえるのはアイヴズに言わせれば「耳が脆弱」なのである。しょっちゅう聞ける曲ではないし、三楽章はいささか冗長で書法もオルガン的に和声(不協和だが)を割り振っただけの単純な部分が多く聞きごたえは前二楽章にくらべ落ちるが、無益な議論を止め自然の静かな呼び声に従い山に登る、その朝の偉大な情景に響く鐘の音に目を覚まされ超越的な感銘のうちに和解をみる(交響曲第4番の四楽章の構成に似ている)、といった意図であり無意味な書き方ではない。この曲はジョーク的に捉えられる二楽章「議論」が最も取り付きやすく、かつ引用に満ちた素晴らしいアイヴズのスケルツォになっているので、バルトーク好きなど、聞いてみてほしい。ジュリアードの整理された演奏できくと精緻な構造をも部品として組み込んでゆくポストモダンなアイヴズを理解できるだろう。アマチュアなんかではない。ジュリアードは上手いから譜面を正しく音で聞けるメリットはあるもののいささか手堅くまとめてしまうので二楽章で必要な勢いや噛み合わない議論を象徴する「四本のバラバラ感」がない、三楽章がのっぺりとして飽きてしまう点はマイナスか。○。分析マニアはアナライズしてみて下さい、スコアは見えやすい演奏。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
アイヴズ:弦楽四重奏曲第2番,コンコード四重奏団(nonesuch)CD,,この曲はスコアを見ていくと3楽章それぞれに奇妙な短い副題がついていてそれに沿った内容を緻密に反映していくさまが見て取れ、3楽章で議論につかれた四名が山に登るとご来光とともに「ビッグベン」の鐘が響き渡るといった趣向で、崇高にのぼりつめ白くなるスコアが期待させる。だが。一本一本はたしかにそれを期待させるのだが、四本で弾くと意図通りにならないのである。音が多すぎる。3楽章の鐘の音は本来は弦楽器に向かない。超越的な超高音で輝く陽光を描く・・・演奏にあたったことがない。弦楽器に向かないという意味ではアイヴズはほかにもありそうなところだが、ところでこの曲でもっとも面白いのはパロディだらけの2楽章「議論」だが、書法はともかくバルトーク的にひびくであろうこのエッジのきいた音楽が、パロディに邪魔されて諧謔的でしかない・・・アイヴズは3楽章を聴かせるための前提として卑俗な人間の議論がいかに意味がないかを描くべくあえてそうしているのだがそれだけではもったいない楽章だ・・・ゆえに他の「これはパロディです」という題名のピアノ三重奏曲中間楽章をはじめとする作品共通の「軽さ」で2番全体を支配する「コンコード・ソナタ」的な深刻さを損なっている。演奏は部分部分は美しかったり尖鋭だったり、曲通りのものになってはいるが、3楽章はやはり登り詰めなかった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:交響曲第1番,○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(RCA),,完全なる習作である。エール大学卒業制作であり、師匠ホレイシォ・パーカーを皮肉ったようにしつこくソナタ形式を守って冗長にしたり(卒業したかったんだろう)、父親から受け継いだ雑多な響きのミクスチュア・ミュージック的語法も顔を見せ、その間の齟齬が方々で軋みを生じているのは仕方の無い事だ。響きやコード進行の新鮮さは特に1楽章〜たぶんこの曲この演奏で一番うまくいっている秀逸な旋律(既存素材よりオリジナルが美しい)、楽想(終盤のコラール風音楽の陶酔!)に彩られた楽章〜の音線のいくつかに垣間見る事ができる。冒頭の憂愁の旋律はちょっと学生のものとは思えない、後年のプロコフィエフ旋律を聞いたときの印象に似たものを感じさせるほどに魅力的だ。ただそれは長続きせず凡庸なヨーロピアン・クラシカル風旋律と民謡旋律の断片が野暮な重いロマン性を持ち込み、それぞれ発展せずただ明滅交錯していく。といってもちゃんと構造におさまっており(その構造が邪魔であり冗長を呼んでいるとも言えるのだが)、師匠におもねったのか皮肉ったのかブラームス的な楽器法も露骨に挟まったりしている。後年まで多用するも結局あまり巧くなかった(そのへんがシェーンベルクとの違いだろう)対位法的書法も教科書的にしっかり組み込まれ、リズム的にはどうも危ういが基本的には合理性を重視しそれなりの出来になっている。やがてその中にも響きやリズムや楽想変化の新鮮さが(学生の筆誤りスレスレではあるが)出てきて、モザイク状に既存素材を積み上げ刺激的な響きを産み出す方法論の萌芽が聴いてとれるようになる。とにかく1楽章は長いがキレイな部分も多いので聴いてみて損無し。ちなみに1番1楽章でここまで惹かれたのはこの演奏が初めてである。弦楽器に無理を強いる(この曲でもスラーのついた細かい音符をえんえんと弾かせるところが目立ち、リズムが噛み合いづらい)アイヴズの書法、フィラ管の強力な弦楽器をもってやっと聴けるレベルになっているというべきか。2楽章はドヴォルザークとの関係を指摘されるも、アメリカの批評家の弁を借りればアイヴズの書いた最も美しい楽章ということになる。だがその主旋律も響きが薄くけっこう弾きづらいものになっており私は余り馴染めない。ここにきてメリハリのないだらだらした演奏という印象が強くなってくる。オーマンディのアイヴズはシンフォニーだと4番を除く4曲(祝日含む)、いずれもこののっぺりして「だらだらした」演奏ぶりがマイナス点として指摘できるのだが、逆にそれだけまとめづらい曲であり、テンポを落として小節線を固持して組み立てる必要がある、つまりはそこまでしてやらないと曲にならないのだろう。だが終盤に向かうにつれ音楽はソロ楽器により美しく収斂していく。あきらかに新世界を思わせる構造だが楽想はどちらかといえばアメリカン・ヨーロピアンといった感じだ。3楽章はスケルツォだがいきなりフーガで始まり欧風の随分と古風のなりをしている。ブラームス的でもあるが、楽想には明らかにアメリカ民謡(ラグ?)的要素も入っていてミスマッチの面白さがある。だらだらした長い音符が通奏低音ふうに響き続けるが、その上のリズミカルな主旋律表現はしっかりしている。異常に細かい音符が不規則に混ざるところでどうしてもごちゃっとなるが演奏家の責任ではあるまい。終楽章はこの曲のハイライトである。各楽章でアイヴズが投入してきた美しい創作旋律が(アイヴズはマトモに旋律作家になっていたらどんなにか美しい旋律を産み出していったことだろう!)次々と登場し最後は国民楽派的な盛り上がりから派手なブラスのぶっぱなしでフィナーレに雪崩れ込む曲。しかし・・・オーマンディ配下のフィラ管がここまで戸惑いやる気を失っている演奏というのも珍しい。思い切ってメータのような超カット再編成をしていればかなり盛り上げることもできただろうに、このころ(70年代半ば位)オーマンディは「完全版」というものにハマっていたとみえてここでもラフマニノフのように冗長な曲を辛抱強く演じ切ろうとしている。だいたい提示部の繰り返しをしたら気が遠くなるような長さなのに良くぞまあ・・・というところ。余りの実直ぶり、或る意味個性的な演奏であるが後半弦楽器のバラケかた(バラケるのが普通なのだが)にフィラ管らしくない匙の投げ方を感じる。原曲はこんなに散漫で山の作り方が下手だったのだなあ、といった感触を受けた私はメータ盤の愛聴者であるが、この曲に興味を持たれたかた、ぜひメータを最初に聞いてください。オーマンディやヤルヴィを最初に聞くとこの終楽章でフィラ管でなくても匙を投げたくなるだろう。メータ盤のようなコーダの激烈な盛り上がりも無く、音量だけは上がって散漫なままに終わる。ブラスのステレオ効果も収録できていない。うーむ。。不完全燃焼。1楽章の評価ということで○。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:交響曲第2番,◯バーンスタイン指揮バイエルン放送交響楽団(DG)DVD,,巧緻なオケが本気で取り組んでいる、このある種薄っぺらい曲に(およそ古き良き時代のアメリカ人の脳みそを覗いて片端から賛美歌や民謡や俗謡を取り出しては弾き吹くだけ)、それだけで観ておく価値はある。中間楽章など演奏によって助けられている、深みを得ている。比較的テンポをいじらないのも安定感につながっている。しかし聴くにつけ、終楽章を聴くための曲だなあ、というような出来の曲。アイヴズの現代性を浮かび上がらせるためにもう少し不協和な響きを強めに出して欲しい、というのはバーンスタインである以上無理な注文か。途中振るのをやめたりした挙句の最後の大不協和音、、きっちり短く切っている。ブラヴォが飛び交う。この曲はバーンスタインが復活初演しており、作曲家は自宅でラジオで聴いたようである。バーンスタインによるイントロダクションも収録されている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:交響曲第2番,○C.アドラー指揮VSO(SPA)1953/2初録音盤・LP,,マーラー最後の使徒チャールズ・アドラーによる「現代」音楽紹介レーベルSPA録音だが、同曲初録音であること以上に、クレンペラーやホーレンシュタインが録音していた当時、意気軒昂のウィーン交響楽団(表記上はVPO)を使って録音しているということに価値がある。アドラーの解釈は正直スコア(確定版がなかったせいもあるが少し手を入れ整理している模様)に忠実にやろうという方針が裏目に出た起伏のないもので、非常にあっけらかんとした「おらが村交響曲」、形式を意識する余りだらだらした部分も多いだけに、各主題を際立たせ音量やテンポにコントラストを付けて意思的な演奏を仕立てていかないやり方(つまりバンスタ的でないやり方)では飽きてしまう。かといって隠し扉の多いアイヴズの曲だけに、構造を明瞭に浮き立たせて解体分析的に聴かせていくティルソン・トーマスのようなアプローチをとることも可能なのだが、時代的に仕方ないとはいえ、軸をどっしり据えた求心的なロマンティックな音表現にも色気を出してしまっている。録音バランスが従来的なロマン派交響曲向きの整え方をされており、裏で特徴的なフレーズや楽曲構成上重要な断片をソロ楽器が奏でていても、殆ど聴こえないのも痛い。あまつさえアイヴズは机上論者なので音量バランスが悪い書き方をするのだ。,,ただそういった方法により、「まとまり」はバンスタNYPを始めこの曲に取り組んできたどの有名指揮者のものよりもあるように思った。中欧風の充実した響きと強い流れが、前半楽章、とくに1楽章では見違えるような重厚さと格調をかもしている。バンスタのような揺らしが無く安定した表現で、オケがばらけない。ローカルな響きを出さないVSOの節度がいい。さすがに無理のある異様に細かくとっぴな音符が頻出しだすと、危うくはなるが、これはちゃんとやっている録音のほうが少ないのだ。編成が小さいらしく音数が少ない感じがするが、そのぶん各楽器がんばって強くアンサンブルをとっているようで、書法上薄くなってしまっているのに目立たない。ここは評価すべきところだと思う。バンスタの解釈は扇情的で楽曲共感的だが、アイヴズ自身は改変、とくに2及び終楽章の終止音を異様に引き伸ばす「ミュンシュ方式」を非難していたという。アドラーはきっちりと音符の長さで切る。ぶちっと切れる。こういう演奏はわりと無いように思う。真意がしっかり伝わるという意味ではいい。ただ、アイヴズ自身が改訂した、最後の大不協和音は取り入れていない。ここはアドラーなりの見識だ。総じてこの指揮者は上手いのであり、ただ、録音と表現に異論がある、というべきだろう。アメリカの指揮者以外ほとんど取り組まない曲で、ゆえにアメリカ的というべき響きの軽さや生硬な構造を剥き出すやり方が目立ち、その中でこのような求心的で古典的とも言えるアプローチは面白い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
アイヴズ:交響曲第2番,○バーナード・ハーマン指揮ロンドン交響楽団(london)1972初出 ゆっくりと踏みしめるような演奏だが、そのぶん縦の線がぴっちりあった折り目正しい演奏になっており、聴き心地は悪くない。多くの旋律がポリフォニックに響き渡るような方法がほんらいは良いのだろうが、この映画音楽作曲家ハーマンはあくまでひとつの旋律線を浮き立たせ、それによって曲の芯をしっかりと通している。これはある意味バーンスタインのものよりわかりやすい。てんめんとした情緒はロンドンのオケを使っているせいかもしれないがウェットで心に染みる。終止歌心が胸を打つ。真摯で美しい演奏。ともすると下卑た二流音楽になってしまいがちなこの曲に、真摯な解釈をほどこし格調の高い音楽に組み上げた、佳演だ。最後に、フィナーレ末端の不協和音、この演奏でもバーンスタインの初演時と同じく短く切り上げている。やはり唐突な終わりかただが、スコアがそうなっているのだろうか(未確認)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:交響曲第2番,○バーナード・ハーマン指揮ロンドン交響楽団(PRSC)1956/4/25BBCスタジオ放送(英国初演),,後年の録音よりじつに雑で(アイヴズが下手なのだ)崩壊しまくりだが、勢いはライブ的な一発録りの気迫のうちにあり、慎ましやかだが充実したオケの力みのない上手さが、とくにブラームス的な部分を綺麗に表現している。中間楽章はアメリカふうのねっとりした音こそ期待できないが、ハーマンのロマンチシズムが必要なだけはっきり表現されている。しかしまあ、バンスタは殿堂としても、ここまでドンチャカやって、とくに二、五楽章を派手にとばしてここまで楽しげな演奏は、あまり無い。○。音はレストアされているが悪い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:交響曲第2番,◎バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(DG)1987/4/9-14liveアイヴズの「聴き易い曲」の中では最良の位置づけにあるのがこの2番シンフォニーといえるだろう。バーンスタインが50年の眠りについていた曲を掘り起こして初演してのち、アメリカの指揮者がぽつぽつと取り上げはじめ、今ではアメリカのクラシック音楽の中に独特の位置を占めるものとして一目置かれる存在となっている。アイヴズはコラージュ音楽を描いており、讃美歌や俗謡、伝統的なクラシック音楽からの様々な引用旋律の混交は、人によって好悪はっきり別れると思う。考えてもみよう。様々な演歌やCMソングの旋律が散りばめられた日本のクラシック音楽なんて、ちょっと嫌ではないか。アメリカの20世紀初頭という時代なだけで、やっていることはそういうこと。好悪わかれるといったのは、私自身体調によってとても聞けないことがあるからだ(笑)。この曲を知らない向きは覚悟して聞こう。ワグナーなんかを聞き取ってしまったら聞き流そう。全体構造は5楽章だが、内省的な1楽章とあっけらかんと明るい2楽章は続けて演奏される。2楽章はなかなか聞きごたえのある充実した楽章だ。かっこいい。3楽章はアダージョだが、「マンガのようなもの」と作曲家が述べていたわりには美しく印象的な楽章である。全体構造の中心に位置づけられるのに足る佳曲だ。4楽章は単に1楽章の再現で短く、すぐに5楽章のモルト・ヴィヴァーチェなアレグロに突入する。かなりごちゃごちゃとした楽章ではあるが、細かい引用部分に耳をとられることなくただ音楽の流れだけをとらえて楽しむべきフィナーレだ。最初のライヴ演奏は、多少のたどたどしさやライヴならではのズレやばらけもみられるが、バーンスタインの強引なごり押し攻撃によってテンポ感を失わずスマートな演奏に仕上がっている。スマートといえばこの曲最大のききどころ(後年改変されたものではあるが)、最後の破滅的な不協和音が伸ばされずにばし、と短く打ち切られ、そこで前のめりな拍手が入ってくる。1楽章アンダンテなどは仮面をかぶったアイヴズを本気で暗く演奏しており、思わぬ聴きどころとなっている。これはラジオ中継され、最晩年の作曲家も自宅で聞いたと伝えられている演奏の直近の録音で、ほぼ初演に近いものである。CBSの旧録はこのライヴ録音と比べればかなりこなれたものとなっている。それゆえにライヴ感がなく、お澄まし顔のつまらないアイヴズになってしまっているきらいもなくはないが、明るい色調で軽くとんとんと進む演奏はそれはそれで楽しいものである。バーンスタインはじつに鮮やかに、またひきしまった演奏を行っている。初演時にも似たあぶなっかしいところもないわけではないが(曲のせいだろうが)、まあまあいい演奏だ。比べてバーンスタイン晩年のライヴ(DG盤)はオケの充実ぶりが大きな成果として聞かれる演奏である。響きが薄くなってしまう箇所もしっかりアンサンブルすることによってそう思わせないように響かせている。1楽章など深みがあり聴いていてマーラーを想起してしまった。昔はテンポを揺らすこともままならなかったこの曲を、バーンスタインは晩年のこの時期になってはじめて情緒たっぷりに歌わせている。ほんらいのアイヴズを考えればどうなのかわからないが、かなりロマンティックな性向を持つ演奏だ。また、オケがかなり気合を入れているのがひしひしと伝わってくる。終楽章など、くっきり明瞭なリズムを刻ませており、かなり聴き易い。対位的な構造も明確に浮き彫りにされている。この楽章はじゅうぶんカタルシスを与えうるものとなっている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:交響曲第2番,○バーンスタイン指揮バイエルン放送交響楽団(EN LARMES:CD-R)1987/6LIVE バイエルンの深い音がアイヴズの奇妙な「軽さ」を排し、欧風の中仲よくできた交響曲に見せかけている。実直すぎてアイヴズのユーモアやアイロニーが出てこないが、これはこれで面白い演奏だと言えるだろう。モザイク状に無造作に配列される様々な主題をいちいちしっかり表現するオケは滑稽なほど実直だが、却ってミスマッチな魅力がある。それにしてもバイエルン放響はやはり底力のあるオケだ。破壊力もあるし、謡うところでは謡う謡う。総体的に見てニューヨーク・フィルより上かも。。最初はバーンスタインの解釈によってオケの前進性や力感が損なわれている気もするが、終楽章では爆発。この終楽章にはアイヴズが珍しく?構造的に書いたクライマックスがあり、ボントロを始めとするブラス陣の斉唱に弦楽器の対旋律が絡み胸のすくような感じをおぼえるが、やや客観的表現ではあるものの、重厚な響きにスピード感も併せ持った演奏となっており、最後の不協和音の炸裂までしっかり聞かせる。この最後の不協和音は後年付け加えられたものだが、聴衆の戸惑うさまが聴いて取れるのも面白い。溯って暗い1楽章はやや地味、2楽章は第二主題(緩徐主題)がとてもきれいだ。この曲はブリッジ構造であり、ABCABという配列の5楽章構成だが、2楽章は5楽章(終楽章)と対比され(ともにアレグロ)、楽天的な曲想でちょっとしたキキドコロを作っている。バンスタの他演と比べ「楽しさ」がなく、ちょっとだけ物足りなさを覚えた。3楽章は印象的なアダージオで、重々しく威厳のある演奏はドイツオケならでは。甘ったるい曲想を美しく昇華させている。4楽章は警句のように鳴らされるホルンの斉唱から始まる。1楽章に起因する仰々しい音楽は教会音楽ぽい。2楽章の主題が変容して出てくるがすぐ消える。ちなみに4楽章1分45秒あたりにちょっと断絶が入る(メーカー問い合わせ中→原盤に起因する欠落とのこと)。そして5楽章となるわけである。この曲、数え切れないほどの音楽の切片が散りばめられていて、ポリフォニックにフォスターが絡んだかと思えば脈絡無くワーグナーが現れたりなど、実に気まぐれな曲想の数々がひとつの大きな流れを作っているところに魅力があるが、それは「笑い」と表裏一体であり、いわばコメディである。それをこのバイエルン、よくぞマジメに弾いているものだ。。感心する。いずれにせよ、ニューヨーク・フィル以外のバンスタの演奏として価値は高い。○ひとつつけておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:交響曲第2番,バーンスタイン指揮NYP(WME:CD-R)1986live・CD,,録音状態がまずい。放送エアチェックでしかもモノラルである。この時期にはバンスタも芸風が変わっていたのだが、ちょっと聴きまるで50年代初演当時のような味気なさがする。ライヴならではというか引き締まっており、緩徐楽章以外はロマン性よりひたすら前進性を煽る。2楽章と5楽章の結部をまったく粘らず早々に打ち切るさまはほんとに50年代を彷彿とする。,,しかし折角アイヴズがセンセイに敬意をはらってワグナーやブラームスふうに構造的に書いている場所でも音が潰れて旋律もしくは低音部しか聞こえてこない。これは音盤としてだめだ。頭の中で補いつつ聴けばそれなりに面白く、感銘も受けるし、終演後のブラヴォも理解できるのだが、それにしても・・・これはいただけない。オケは気合十分だしバンスタの解釈も至れり尽くせりなのだが。,,それにしてもアメリカ人はこれを聞いてどう思うんだろう。日本に置き換えるならば演歌メドレーにはじまり御詠歌やら旧制高等学校寮歌やら仏教声明やらをぶちこんでブラームス風の交響曲に仕立て上げたようなもんだ(らんぼう)。この曲は巧みなリズム構造にも特徴があり、完全にポリリズムになってしまう直前で巧く聴きやすい形にまとめている。そこが対位法的構造とあいまって、打楽器が活躍する2,4楽章ではとても気分を高揚させるのだが、,,この録音じゃろくに聞こえてこない。無印。,-----,,,-----,,,-----,
アイヴズ:交響曲第2番,バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(CBS)1958 DG盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:交響曲第2番,バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1951/2/25live DG盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:交響曲第2番の主題による即興曲,作曲家 (P)(CBS他)
アイヴズ:交響曲第3番「キャンプ・ミーティング」,○ベイルズ指揮ワシントン・ナショナルギャラリー管弦楽団(WCFM)1950/8/6初録音盤?,,時代のわりに輪郭のはっきりした録音。音は野卑ているが力強いヴァイオリンを中心に太い演奏に仕立てている。先進的ともとれるハーモニーを雑然とクラスタ的な響きとして扱うスタイルだが、アイヴズはそれでいい。一楽章は起伏に乏しくいささかくどくどしく感じるが、生硬ながらもしっかりした足どりで進める二楽章からライヴ感ある聞き心地、やはり三楽章は感情的に盛り上がるようきちんと仕立てている。さすがに一流とは言えないが、十字軍として立派ではある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:交響曲第3番「キャンプ・ミーティング」,○オルフェウス室内管弦楽団(DG)1994初出 指揮者のいない楽団の演奏は珍しい。最初からかなり情緒的に揺れた演奏で面白く聞ける。激しいフレージングが峻厳なイメージを与える。1楽章は内在する不思議なハーモニーを効果的に浮き立たせた演奏になっており、アイヴズの音響感覚をよくつたえている。ところでアイヴズの作品は他者によりいろいろ手を入れられていることが多く、演奏者ごとに異なる箇所が聞かれるのは珍しくない。この盤もたとえばバーンスタイン盤などと比べるとかなり異なる箇所が聞かれる。アイヴズ自身はワーク・イン・プログレスのような感覚を持っていたようで、自身で初期作品に度重なる筆入れを行い、結果として作品の作曲年代が不明瞭になっている場合が多い。室内楽曲では「ここの表現は(たとえば繰り返し回数など)奏者にまかせる」という表記が見られるものもある。作品に完成はない、という感覚なのだろうか。アイヴズの作品にあふれる自由な気風はそんなところにも現われている。2楽章はちょっと粗いところもあるし若干客観的ではあるが、旋律ごとにかなり明瞭に性格を描き分け、情緒的な盛り上がりを作り、だれてしまうのを防いでいる。終端の余韻が美しい。3楽章も不思議なハーモニーをよく響かせて、わかりやすい旋律の流れに沿わせることにより曲に深みを与えている。ヴァイオリンがやや薄いのが気になるが、そこは気合の入った演奏ぶりでカバーしている。それにしてもよく練られた解釈であり演奏だ。バーンスタイン盤の超絶ぶりに肉薄している。ハーモニー重視のあまり、ちょっとうるさくなってしまっているところもあるが(たとえばチェロ・ソロが讃美歌旋律を歌い出すところなど)、最後の余韻は情緒たっぷりにリタルダンドして終わる。なかなか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:交響曲第3番「キャンプ・ミーティング」,◎バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(CBS)1965 バーンスタインは作曲家である。アイヴズのこの曲を再現するのにさいして、多少手を入れるのは仕方ないだろう。その手の入れ方が、この曲では見事にハマっているようだ。ニューヨークのややくすんだ音が曲の無邪気な明るさを損なっているようにも思えるが、この3楽章、これがあるだけでも十分にこの演奏の価値を認めざるをえないだろう。これはまったくマーラーの音楽であり、聴くにつけ、たとえば遠い鐘の音がひびくサウンドスケープにひたるにつけ、マーラーが自ずの交響曲に導入したたとえばカウベルのかもす何ともいえない感傷的な雰囲気と同じものを感じる。アイヴズはしばしば無調的な旋律を「逆変容」させて調性的な旋律に持っていく手法を使っているが、ここでも冒頭より奇妙に歪んだフレーズをいろいろと変容させて、やがてチェロの効果的なソロによりはじめて美しい讃美歌旋律に収束させてゆく。バーンスタインはこのあたりの持って行き方が実に巧い。盛り上がりの作り方、楽器の歌わせかた、とにかくうまいのだ。最後の鐘の音に落涙。名演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:交響曲第3番「キャンプ・ミーティング」,ハンソン指揮イーストマン・ロチェスター管弦楽団(mercury)1957/5 アイヴズの交響曲作品中もっとも小規模のもので、室内交響曲として扱うべきものだ。47年にピュリッツアー賞を受けたがそれは作曲後実に43年が経過したあとのことであった。20世紀初頭という時代背景を考えると、この曲に満ち溢れる「無調前夜」の響きには納得がいく。親しみやすい讃美歌等をはっきり引用している点2番と共通するが、ハーモニーの点で若干印象が違う。これが4番になるともう完全なゲンダイオンガクなのだが、3番にはマーラーも魅了されたといわれる(そしてスコアをヨーロッパに持ち帰り紛失したとされている)、一種「新ウィーン楽派」の面々が調性を放棄する直前の響きの感覚によく似たものを感じる。牧歌的で感傷的な側面をもつ親しみやすい曲なので、人によっては1、2番シンフォニーより取りつき易いと思う。3楽章制。さて、この作曲家にして教授ハンソンの盤なのだが、よく訓練された楽団を指揮し(但しあまり「うまくない」楽団だが)、なるべく分かり易い姿で提示しようという感覚にあふれている。ただ、この曲に必要な「感傷性」といった心情に訴える部分が欠けている。明るすぎるのだ。低音域がややおざなりになっているようでもあり、マイクに近くて音の大きいヴァイオリンにくらべるといささか心もとない音になってしまっている。3楽章のシェーンベルクを思わせる響きも(ブラームスの書法も想起するが)、やや強引な引っ張りかたにより損なわれている。これだけ美しい素材に対しテンポルバートしないのも気になる。チェロのソロが讃美歌主題を歌い出したあとのオケがうるさい。遠い鐘の音に導かれる最後の余韻にひたる間が無い。この3楽章は曲のフォルムを把握することよりも流れる音の刹那的な交通整理に終始してしまっているように感じる。構成感が希薄。総じて悪くはないが、よくも無い。そういう演奏だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:交響曲第3番「キャンプ・ミーティング」,マリナー指揮セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ(decca/argo)1976/10 さらりとした肌ざわりを持つ演奏である。客観的。1楽章の神秘の表現などはなかなか聞かせるが、2楽章のあっさり味、3楽章の速めのテンポで(クライマックスはかなり作為的にテンポアップする)流れるように進む音楽はひっかかりが余り無い。室内楽団による演奏はこの他にもあるが、マリナー楽団はやや美しくまとめすぎていて、アイヴズの作品の持つ良い意味での雑味や想像力に訴える不可思議な音響が常識の枠内に押し込まれてしまったような、非常に骨抜きな感じのする演奏である。この演奏は美しいが曲の持つ魅力はだいぶ薄められてしまっていると思う。曲を知らずに聞いたら、なんだこんな牧歌的な曲を書く人なんだ、ふーん、で終わってしまいかねないだろう。逆に曲を知っていると、こういう透明度の高いアイヴズもいいもんだなあ、と思うかもしれない。個人的には無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:交響曲第4番,◎ギルバート指揮NYP他(放送)2004/5/20live,,こんなやりたい放題のアイヴズは初めてだ。驚いた。2楽章の攻撃的なアタック、愉悦的な表現はもはやアイヴズの目した空間的カオスよりも突き進む音楽とその連環の生み出すグルーヴ感の演出、それだけを考えているのである。3楽章は弦楽四重奏からの編曲であり生硬なコラールだが、アラン・ギルバートはそういったよそよそしい「敬虔さ」を取り去り、マーラー的なオケをドライヴし生々しい旋律を煽っていく。ここまで聞きやすい3楽章は無い。4楽章はストコフスキふうの散漫さに戻ってしまい少し残念だが録音のせいもあって神秘性よりも生々しいただの音楽としての魅力が増している。1楽章はまあ、事実上全曲の提示部なので・・・◎にせざるをえまい。モノラルだったとしても・・・,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:交響曲第4番,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(SCC:CD-R)1970/11/17live,,14日リハ(DA,SCCで音源化)の本番記録のうち15日に続いてのものになるが、ボロボロではあるもののステレオであり、情報量が格段に違う。初演正規盤を除けばリハ含め4本ある記録のうちの、これが最も「聴ける盤」と思う。15日のものを客席録音としたが恐らく15,17共に放送ACであり、客席内の同位置にマイクがあると考えたほうがいいだろう(TVはなかったのか?)。15日のモノラル録音と解釈はまったく一緒だと思うが、空疎に抜けて聴こえなかった下支えの音やノイジーな断片の数々が比較的はっきり聴き取れる。1楽章こそ虫食い状態だが4楽章までいけば、初演記録よりもこなれ滑らかにクライマックスの形成された、ストコフスキ・レガートによる超絶的世界を堪能できる。合唱の歌詞がしっかり聴き取れるだけでも大成功だ。速いインテンポでさっさと進むわりに旋律とおぼしきものは漏らさず歌うことを要求した結果、むせ返るような法悦性が滲み出てまったくもってアイヴズ的ではないが、まったくもってアイヴズ世界である。この録音状態ではしょうがないので○に留めるが、4楽章は聴きもの。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
アイヴズ:交響曲第4番,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団?(DA:CD-R)1967/12/18live,,録音は悪い。ホワイトノイズが多くぼけたモノラルでバランスも崩れている(この曲は生で聴いていてもバランスよく聴こえることは無いので理想的な音響は「スタジオ録音でのみ」可能なのだが)。ねっとりしたストコ独自の表現が初演盤よりはっきりと聴き取れる。1楽章は重苦しく引きずるような印象を受ける。2楽章は物凄い迫力だけが聴き取れる。バス音域が強すぎる感もある。かなりゴテゴテ表現を加えている。アイヴズぽくはないが変に単純化するよりも多彩に聴け楽しめる。通常ピアノ(この曲には他に四分音ずらした調律のピアノとアップライトピアノが導入される)が案外よく聴こえ、それがソロピアノ曲に近似した書法で描かれていることがわかる。禁欲的な硬質の音楽だ。3楽章はクライマックス前の悲劇的パセージでパイプオルガンとベースのハウリングが激しすぎて聴こえない(そういう箇所はいくつか聞かれる)。それが生々しくもあるのだが耳には辛い。異様な雰囲気があり、かなり稀有壮大に誇張した表現がとられている。,,4楽章は打楽器オケ(パーカッション部)から始まるが、タムタムがいきなりえらく大きく出てくる。それまでにも増してねっとり壮大に異常世界が演出される。スクリアビンだこりゃ。旋律的な流れ(旋律そのものではない)を失わない方法はわかりやすく、かなり成功しているさまが悪い音の中に伺える。それにしてもこんな想像力の限界に挑む異常音楽にラグのイディオムとか素朴に組み込まれ抽象化されているさまはほんとにすさまじい。アイヴズのスコアは単純だが音にするとこんなにもなる、いや「なりうる」のだ、シェフによっては。,,正規盤初演ライヴよりもクライマックスへの盛り上がりが自然で迫力がある。細部の聴こえない録音が返す返すも残念、とくに高弦が聴こえない。最後の神秘の賛美歌が清澄で不可思議な空気をかもしながらねっとり恍惚として表現されるのはストコらしい。ベースが再びハウリングを起こしてその透明な美観を損ねているのは惜しい。最後ふたたびの打楽器オケの残響が綺麗だが、その上で余韻をかなでるコンマスの下降音形の分散和音(アイヴズがよくやる方法)がまったく消えているのは惜しい。,,終始ストコがいじっている感じだが、それすらも「アイヴズらしい」と思わせる。初演盤がけして成功しているとは思えない部分もあるし、寧ろモノラルであることによって下手なステレオよりまとまって聴こえるのはメリットかもしれない。○。,,"",-----,,,-----,,
アイヴズ:交響曲第4番,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団他(SSC:CD-R)1970/11/15live,,客席録音である模様。14日のリハーサル及び17日の演奏会もカップリングされており、いずれも同じようなかなり悪い録音状態である。とくに音像が不明瞭で打楽器系を除けばアイヴズの「無秩序なメカニック」がほんとによくわからないクラスタとしか受け取れずきつい。聴取環境を工夫するしかなかろう。それでも合唱がまったく埋没してしまうのはあきらめるしかない。ストコの解釈はテンポが生硬でしかもかなり「整合性」を指向した大人しいところがある。アクセントがきかず攻撃的な楽想もすべて有機的に融合した不思議な感覚を味わえる(2,4楽章)。ぱっとしないのは1楽章で合唱が浮き立たず、最も力が入っているのはやはり3楽章フーガである。この曲は後付けで各楽章に哲学的意味が与えられているがアイヴズにおうおうにしてある「後から考えた」「後から改造した」といったたぐいのもので、元々はバラバラに作曲され、2楽章など特に既存の曲から部分合成され作られたものである。もっとも若い作品である3楽章が調性的で宗教的啓示的な趣を持つのは当たり前だが、ストコはしばしば言われる「マーラー的な」翳りを伴う楽想を力強く演じさせている。2楽章のクラスター音楽がメリハリなくだらけた聴感があるのは厳しい。4楽章はこの曲の中核だが打楽器オケ部(この録音全般的に高音打楽器が強調されており聴きやすく救いとなっている)が強く出ており、そこに限って言えば比較的わかりやすい。だが音量変化を巧く捉えられない(客席録音なら平板になるのは当たり前である)のは痛い。ストコの解釈も比較的意志力がミニマムな部分におさまり全体設計的には平板なので、音盤としては、今ひとつの迫力だった。おまけで○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:交響曲第4番,ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(動画配信)1965,,ストコフスキにより世界初演が行われたアイヴズの交響曲第4番。その数日後のテレビ放送映像になります。イントロダクションと全曲。DVDにならないかな。,,"https://youtu.be/-xXv55ARtsM",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
アイヴズ:交響曲第4番,ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団、補助指揮:デヴィッド・カッツ,ホセ・セレブリエル、ニューヨーク・スコラ・カントゥルムのメンバー(SONY)1965初演live・CD アイヴズ畢生の大作であり代表作である。聞けばわかるが既存の素材の寄せ集めで、アイヴズらしいところだが(モザイク状に組み合い折り重なった楽想が民謡から教会音楽からポップスからブラスバンド音楽からクラシック等等自作を含む大量の素材の集積であることは言うに及ばず、マクロ的にも2楽章は自作の管弦楽曲の再編曲、3楽章は自作の弦楽四重奏曲第1番からの管弦楽編曲となっている)、これをそのまま全て鳴らしてカオス的な洪水を作り上げるのがいいのか(アイヴズマニアはこの方法を支持しがち)綺麗に整理して必要な音だけで音楽を再度構成し直すのがいいのか(4番でいえば小澤盤がコレ、私はとても好きだが余り評価されない・・)で大きく解釈がわかれるところだ。事実上の全曲初演にあたるこの盤ではどちらかといえば後者の態度が取られているが、さもありなんで、この時期まとまった総譜というのは確かカークパトリックの手書き校定譜しかなかったはずであり、もともと悪筆で譜面屋を困らせてばかりいたアイヴズの真意がどこにあるのか、まだしっかりとした見解すら提示されていなかったのである。元々イジリーなストコフスキが手を入れないわけがないだろう。だが、こうして聞くとなんとなくアレ?という気持ちが湧き起こる。わかりにくいのだ。むしろ前者の解釈に接近している・・・真意は後者にあることは明確なのに。手探り感、そして恐らく三人(合唱を含めると四人)指揮によるテンポの硬直化が音楽の自由度を奪っている。アイヴズはわりと奏者の自主性にまかせるような書き方をする。即物的に「ここは気分次第で弾け」みたいな書き込みをしている曲もあるくらいだ。2楽章のような様々な音楽がごちゃまぜに流れるカオスでは、綺麗な流れを造るのではなく、それぞれの楽群がしっかりそれぞれの音楽を主張し、弦楽四重奏曲第2番2楽章「議論」のように、互いに激しく相克し衝突しあうことこそが求められる。それがアイヴズの暴力的な音楽の醍醐味となっている。そういう自主性が、この演奏では、恐らく全ての奏者が余りに縦を意識するあまり(縦なんてほとんど意味をなさないのだが)殆ど出てこないのだ。この曲で最も有名で最もカオスな2楽章(まだ洗練されていない頃のアイヴズのハチャメチャ拡散傾向な作風が前面に出ている)について私の抱いた不満は全てここにある。打楽器とブラスが中心となってバシバシはじけるアイヴズにあって、弦を主体とするアンサンブルを得意とするストコはいささか分が悪いのかもしれない。静かな場面での感傷もストコらしからぬ雑さが感じられ、唯一終結部の引き伸ばされた音の余韻に独自の解釈の端緒は見えるものの、あまりに音の密度が変化せず単調で、余り面白くはなかった。せめてアメリカらしくもっとぶっぱなせばいいのにブラス。3楽章は初期のアカデミックな書法によってかかれた讃美歌編曲の上にブラスのマーラー的な響きがまるで黙示録的に響くあざとい楽章で、これはどうやってもうまく聞こえるので○とすべきか。もうちょっと密やかに忍ばせられた衝突する音響が引き立たされてもよかったが。さて、4番ではいつも2楽章ばかりが持ち上げられるが、この曲が交響曲に纏め上げられたとき、一番手がかけられたのが4楽章である。2楽章の序奏、そして4楽章とのアーチ構造のために挿入されたような1楽章はこのさい置いておくとして(素材は讃美歌、そこに深刻な響きと神秘的な歌唱を入れている)、4楽章はまったくアイヴズの最高傑作といってよい楽章だ。ドラムによる不規則なリズムが静かな会場に響きわたり、そこに1楽章のテーマが蘇ってくる。音の密度がどんどん濃くなってゆき、さまざまな楽器がかなでる音の断片の集積が、やがてひとつの壮大な「音楽」を形作って行くさまは壮絶で、奇跡的なほどよくできている。だが・・・ここでもストコフスキはイマイチだ。録音が篭っていて開放感がないのもマイナス点だが、小澤のようにクライマックスまでの道のりをしっかり作らず、なんとなく進んで、いつのまにか最高点をこえて、神秘の法悦をうたう(歌詞は違うけど)合唱の宇宙的幻想ではじめてゆわんゆわんゆらぐような世界を繰り広げてくる。だがここにきてはもう遅すぎる。このへんはアメリカの雑誌で最高点を獲得したこともある弟子セレブリエルのほうがよく作っている。ライヴだと座席によってイマイチ綺麗に聞こえてこないのだが、このCDで聞こえるものはさしずめその悪い席に座ったときのポカーン感に似ている。ようは録音が悪いということだ(通常のステレオ録音では捉え切れない音楽なのかもしれない)。オケの硬くて醒めた空疎な音は好き好きだろうか。総じて、何度も何度も聴いている盤で、CDのみならずLPでも聴いているけれども、やっぱり無印だ。アイヴズ・リヴァイヴァルの波の中で十字軍としての役割はよく果たした演奏であるから、歴史的価値は評価すべきだろうが。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:交響曲第4番〜V、W、Tリハーサル,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1970/11/14リンカーンセンター放送live,,リハではあるが最晩年の非常に緩慢なテンポの上に展開される拡散的な世界が垣間見られる演奏。3楽章の途中からリハは始まる。このリハでは3、4楽章通してストコフスキがいかに弦楽器の表現、とくに高弦のアーティキュレーションに細心を払っていたかがわかる。ストコの弦楽アンサンブルはとにかく、どんな曲でも美しい。3楽章は初期の弦楽四重奏曲を原型とした弦楽アンサンブルが主体ゆえ、旧来のロマン的な音楽を表現するように、基本的にはゆっくり美しく、アタックは強め、といった感じで普通のリハである。4楽章はアイヴズが得意とした、長大なクレッシェンドと収束のディミヌエンドだけで成り立っている音楽だが、初演盤に聴かれるのと同様、音量的な変化がそれほど聞き取れないものになっている。そのせいかストコは音量指示をかなり多く出しており、カオス的な音の奔流の中に変化をつけようとしているが、基本的にかなり慣れた様子もあり、リハゆえ大人しくなってしまっている可能性もあるが、基本解釈は初演から余り変わっていないのだなあと思わせるところもある。部分を除いて音は比較的良好なので、後半執拗に繰り返される結部でのヴァイオリンソロの下降音形(ソロではなく合奏?)がそれまでの流れの延長上で非常にゆっくりレガートで表現するように指示されていることがわかる。アイヴズの弦楽器の書法が、ここまできちんと美しく表現しようと努力されないと効果的に響かないようにできているのか、とも思った(盤や演奏によっては弦にまったくやる気のないものもままある、そうなるとどうも締まらない)。緩慢なインテンポで音量変化(音質変化)も結局それほど感じられないのが気になったが、実演では違うのかもしれない。最後に1楽章の合唱を少し齧って終わる。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アイヴズ:交響曲第4番,◎小澤指揮ボストン交響楽団、ジェローム・ローゼン指揮タングルウッド祝祭合唱団 (DG)1977初出・CD 同曲の古典的名盤。ティルソン・トーマス盤と並んで手に入れやすく、また初心者向 きのわかりやすい演奏だ。小澤の異様に巧緻なバトンテクの駆使された演奏である。 本来複数の指揮者を要するところ一人でさばいているのが凄い(実演でもそうだっ た)。この曲は求心力が弱くばらけがちゆえ、一人で引っ張っていってもらわないと なかなか巧く響かないところもあるので、まさにうってつけ。解釈は「旋律重視」。 基本的に旋律を横につないでいくやり方で曲を組み立てている。一人で振っているせ いか、かなり単純化しているぽいのだ。その点ミュンシュのやり方に非常に近いもの を感じる。カオスをカオスとせず、その中から特に魅力的で目立つ旋律だけを汲み上 げて、そこを中心に響きを整えていくやり方だ。その整え方もかなりずばっずばっと やっていて、結果的にアイヴズ特有の豊穣感が損なわれ、音楽が薄くなってしまって いるきらいもあるのも確かである(この点ティルソン・トーマス盤のほうが好きな人 が多い所以かもしれない)。しかしそこを更に録音マジックで補っているふうでもあ る(実演とのギャップも実にここに感じた)。細かく各楽器の強弱を電気的に操作し て、整理整頓をさらに進めると共に、薄くなりがちなところを強調すべく音響を操作 し、結果として絶対実演ではどの席に座っていても聞くことが不可能なほど好バラン スに纏め上げられた音楽を作りだしたのだ。ここまででネガティブな印象をもたれた 方もいるかもしれないが、寧ろこれこそ録音芸術の醍醐味として聞いていただきたい ものである。録音マジックのよさは細かい楽器の動きが聞き取れることにもある。た とえば3台ほどあるピアノの音が明瞭に聞こえ(四分音ピアノが美しい!)、アイヴ ズの魅力的な打楽器的用法がはっきり聞き取れるのがいい。打楽器的、といってもプ ロコフィエフ的な意味ではなく、むしろ鉄琴やトライアングルなどの高音打楽器の位 置付けにおいて魅力ある響き方をしている。アイヴズの大規模な管弦楽作品において のピアノはその意味ではほとんど打楽器である。3楽章のボストン交響楽団の弦楽合 奏は好きな人が多い。ちょっとあっさり早めであるが、力強く豊穣な響きと暖かさ (この演奏は終始肯定的で明るい、まさにアメリカン・カントリー的)が大いに魅力 的である。4楽章はカオスといっても2楽章ほどではなく、一貫したものが始めから 存在している。それは無調的に変容した賛美歌旋律の断片を次第に集積・復元してい って最後に完成したところでおおいにうたうというアイヴズの常套的な(でも個性的 でとても魅力的な)手法によっており、小澤はそのことをかなり意識した曲作りを行 っている。復元の過程がとてもわかりやすく、クライマックスへ向けてのダイナミク スの付け方も的確である。とにかくここに聞かれるのはアイヴズ得意の手法なだけ に、初心者は傾聴である。小澤以外のものは途中カオスに陥っていることが多い。ス ケール感を損ねず綺麗にいったのはドホナーニ盤くらいか。アイヴズはとにかく編成 からも手法からも内容的にもスケールがどでかいので、その感じと構成感を両立させ るのは結構難しい。小澤もスケール感をやや損なっているきらいもある(最後の「答 唱」にあたる合唱の神秘的な歌のあたりなど)。また、ややリアルすぎるというか、 例えば最後の最後に一人残るソロヴァイオリンが下降音形を繰り返すところなど、幻 想のうちに沈んでいくような「憂い」が欲しいところ、あまりに即物的にびしっとハ ッキリ切ってしまっている。これは録音操作だと思うが、ここまで強調させて聞かせ ることは無いところだ。でもまあ、そこまでの持っていき方、起伏のつけ方の巧さだ けでも驚きである。感情的な高ぶりを最も感じられた盤であり、今では若干食い足り 無さを感じるところもあるけど、十分◎だ。あと、この曲はとにかく弦楽器が詰まら ないのだが、ボストンは意地になっているのか、とても力を入れて大きな音で弾きま くってくれている。それが出色。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:交響曲第4番,島田俊行指揮イェール交響楽団(動画配信),,ドビュッシーは芋でも掘ってりゃあんな曲は書かない、と言い放ったアイヴズ。耳を甘やかすな、と既製品の甘ったるい曲を細切れにして山ほど混ぜ込んで詰め込んだ曲の、代表的なものがこれになります。アイヴズ縁のエールのオケ、比較的小規模でピアノ中心にまとめすぎ、カオスがカオスに聴こえない叙情的な感じに仕上がってる、同時代のスクリアビンのプロメテウスみたいな音楽になってるのが面白いよ。アイヴズ好きには物足りないかもね(オケがイミフと思ってやる気を失ったらこういう曲はダメだな、、、),,半世紀あとの新ロマン主義もこういう実験主義音楽も良い、アメリカ音楽やっぱ好きだ。,,これの原曲が書かれた時マーラーもドビュッシーも存命でした。」,,エール交響楽団からの公式配信,"https://youtu.be/Ttd6R2Xpz8Q","https://youtu.be/eibaIE7Dwso","https://youtu.be/BrNX-JzGJ_8","https://youtu.be/WnDohqSZmsg",-----,,,-----
アイヴズ:祝日交響曲,○ドラティ指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1978/11/25放送live,,ドラティはこの曲の初演者。恐らくかなり手を入れており余りに聴きやすすぎる。この曲は私はほんとに好きなので、長すぎる、散漫、テンション低い演奏が多いという点で不満があったところを覆してくれた素晴らしく聴きやすい演奏だから、◎にしたいが、主旋律をしっかり作り上げそこを中心軸にしてちゃんと演奏できるように整えてしまったところが「これがアイヴズだ」とは言い難い部分もあるので○にしておく。ドラティは自分的には好きな即物主義タイプにも関わらず余りに耳に残らない演奏が多く、職人的にこなしてしまうドライさというか、「どれでも同じさばき方」をするところが全く引っかかりが無い(凡庸といえば凡庸)ので、勢い任せで乗り切れる程度の長さの曲でないと聴かないのだが、これはその勢いがアイヴズの曲が内面で懇願している「勢い任せでやってください」というお願いとうまく噛み合っているからかもしれない。とくに構造的な手法の鮮やかさと本来の意図である祝祭的な盛り上がりの作りかたに重きを置いたところに成功の秘訣はあると思う。「聴きたいノイズ」がまるきり聞えてこなかったりカオス的音色も払拭されているが、一回こっきりCD化されただけということでもわかるとおりのバンスタの迷演を聴くよりはよほどこちらを聴いたほうがいい。まずトーマス、次ドラティ。演奏も完全に組曲として一楽章(一祝日)ごとに拍手やナレーションが入るが、各楽章本来の「4つの祝日風景を音に落とした」というアメリカ人的愛国心をしっかり描いたものとしては素直だろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:祝日交響曲,○バーンスタイン指揮NYP他(SONY)CD,,元来別々の曲をまとめて編まれた組曲であり、まあアイヴズの曲集はみなそうだけれどもこれは特に統一感のない作品として扱われた。ティルソン・トーマスが初めて統一感ある交響曲として演奏録音したようなかんじであり、この録音も時期がばらばらで、始めは異なる組み合わせで発売されていた。バンスタは発音を派手にアタックを強く付けて音楽を単純化する方法によりこの散漫な印象派風組曲を演じているが、統一感や構成感が感じられず、かえって平坦な印象を受ける。部分的には感興をそそられるものの至極刹那的であり、BGMとして流して聴くにはいいが、アイヴズの前衛作品として構えて聴くには物足りない、深堀りが足りない感じがする。弦全部によるグリッサンドや珍奇な特殊楽器などアイヴズらしい音響要素もしっかりしていなくて、迫力がなく、取って付けたようだ。それでもなおアイヴズのわかりやすい側面、たとえば世俗的な既存素材のパッチワークの面白さについてはしっかり届いてくるので、○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:祝日交響曲,○ヨハノス指揮ダラス交響楽団(VOX)1961 廉価盤でお徳なセット。コープランドの主要曲とラフマニノフ最後の傑作シンフォニック・ダンスが組みになっているので、いろいろと聴いてみたいひとはぜひ触れてみて欲しい。ヨハノスはLP時代から知られていたが、なかなかの手だれである。ちょっと客観主義かな?という面もあるが、響きの感覚がよく、「響き」を聴くためだけの曲「ホリデイ・シンフォニー」にはうってつけの指揮者だ。アイヴズの前衛性がエンターテインメントとしての音楽とうまくバランスをとってあらわれた佳曲であり、もともとは4曲の寄せ集めにすぎない交響曲ではあるものの、入門盤としては4番より先に触れるほうがアイヴズを理解しやすいだろう。冷たい響きの中から徐に立ち上がるジョーズ・ハープの「ビヨーンビヨーン」という音にいざなわれる楽天的な音楽(1楽章ワシントン誕生日)、やはり冷たい響きの中に幻想のようにたちのぼるアメリカの祝日風景をうつした2、3楽章、そして個人的に一番惹かれる4楽章感謝祭の日(1904年というもっとも早い時期にかかれた)の前半・強力な無調的律動(MTT盤ではここがまるでストラヴィンスキーのように強靭に響いて恰好がいいが、ヨハノス盤も好演している)から静かな讃美歌の響きへうつるが、やがて民謡主題が現れ、祭日の楽しさを告げる。それもときどき讃美歌等の静かな主題に打ち切られ(しかし遠くでは無調的な響きが木霊のように響いている)、やがて4番終楽章を思わせる無調的混沌があらわれその音を増してゆき、何か大きなものが近付いてきている事を告げる。このあたりヨハノスはクライマックスの作り方がやや甘いような気もする。とにかく集積してくる様々な音のモザイクがやがて大きな高みを創り出し、クレッシェンドの頂で大きく合唱が入り、盛大によろこびをうたう。そのあとは法悦的な平安が訪れ、静かに終結へと向かう。高音打楽器のきらめきが不思議な感傷をあたえる。アイヴズの中ではわりあいと人気曲のようだが、調性音楽と無調音楽の境界線上にある、そのぎりぎりの音楽ということで、双方から聞き手を魅了するところがあるのだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:祝日交響曲,ティルソン・トーマス指揮サン・フランシスコ交響楽団、合唱団(SFS)2007/11,12・CD/DVD(BD),,音だけでも聴けるがサンフランシスコ交響楽団自主制作映像シリーズ「KEEPING SCORE」の一巻として解説付きで作成された無観客演奏映像。MTTは既にCBSsonyの交響曲全集でアイヴズ再評価を問うているが、その中でも白眉の演奏だった同曲をしっかり解説しているところがまずは見どころ。「解説なしでは理解できない代物なのが理解できる」。演奏も鋭敏でかつてACOとやったものよりこちらを好む人もいると思う。,,(以下twitter2009/2分よりまとめ),,アメリカを呼び覚ましアメリカを予言した独立主義者アイヴズ、祝日交響曲はストコやバーンスタインではなくティルソン・トーマス。RCOの名演から幾年月、サンフランシスコSとのDVD/CD。真芯をとらえたレクチャーはアイヴズと合衆国文化を解すに絶好。ノイズで手を抜くな。池を飛び越えろ。,,U.デコレーション・デイはアイヴズが繰り返し描いてるサウンドスケープ、異国人には理解できない、レクイエムからの、ブラスバンド、天国に陽気に送り出す。ブラスバンドは元々ロシアのものだったと思うんだけど、アメリカの象徴だ。,,V.独立記念日。この曲はティルソン・トーマスにしかできないものがある。さすがの奏者も苦笑する激しい祭りのカオス。20世紀初頭にクラスター奏法まで。しかしリズムや旋律のパッチワーク法に何かしらの統一感がある所を、しっかり捉える。ストラヴィンスキーにきこえる。アイヴズが祝日交響曲の中でポリリズムを多用していたのを当時話題沸騰のハルサイの影響ですよねと指摘された時、自分は春祭を聴く前に作曲していたと答えたが、(巧いかどうかは別として)既にポリリズムを始めとする前衛要素を取り入れた作品を書いていたのは事実。,,オルガニスト作曲家ならではというか、オルガンで弾くとほとんどEL&P。前衛のモダンではないけど、明らかに時代を越えている。理念はドビュッシー的、表現はバルトーク的、しかしどちらとも違う誇大妄想の極致、それがアイヴズ。それがアメリカ。,-----,,
アイヴズ:祝日交響曲,ルーカス・フォス指揮ORTF(ina配信)1970/4/1live,,直球でアイヴズを演ってしまった!整理して演出すれば、まだ形になるこの曲を、わざとだろう、そのままやってタダの騒音音楽にしてしまった。もちろん時々片方に寄るくらい質のよくないステレオ実況放送録音ゆえ、アイヴズの想定した空間的な音響配置とか一切無視して、全部混淆し固まって聴こえてしまうせいとも言えなくもない(じっさいアイヴズでなくとも大コンサートホールの変な席で下手な現代音楽を聴くと、作曲家の理想としたであろう響きが全く聴こえなかったりする、マーラーですらそういうとこある)。有名なノコギリのビョーン音でさえあんまり目立って聞こえて来ない。とはいえ、チャレンジングな現代音楽シリーズの一環であれオケは手を抜いていないように聴こえる。ま、同時に演奏されるカオスな合奏部のどこかが手を抜いてくれると、逆に曲になるかもしれないのだが。案の定大ブーイング。ま、欧州オケの華である。ましてフランス。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:祝日交響曲(リハーサル),○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1971/12/11放送live,,じつに1時間近く聴け、殆ど全曲聴いたも同然だが(無い部分もある)、録音はまずまずなものの、やはり補助指揮者を使っているのか拡散的で、また遅くて構成が大きすぎるというか、「壮大すぎる」。4番正規録音(初演記録)もそうだったがために起伏がなくわかりづらかったが、実演を聞けばわかるとおりある程度これは作曲家意図である(小澤の4番は敢えてここを録音操作で整えて名演に仕上げている)。もちろんフルパワーの演奏ではないことは確かでアンバランスさや声部間の音の強弱など、録音も捉え切れていない部分は多いと思うが、テンポを遅くとり、アイヴズの主張に忠実に(せっかく「まとまった」演奏も可能な旋律的な流れのある曲集なのに)やろうとしているところは強く感じられる。4番のCBS(sony)から出ている初演ライヴ録音などもそうだったが、デジタル化などの「中間作業」がコノ曲にかんしては特に重要で、今はどうだか知らないがクリアさに欠け間延びしたような感じもしてわけがわからなかったCBSのCDに比べてこれを聴くと、ストコがただ遅くしてまとめようとするだけの手探りではなくかなり研究して何とか前衛作曲家と世俗聴衆の間を「情熱をもって」つなぎたいという意識を持っていたことが聞き取れる。それほど発言しない人なので瑣末な指示くらいしかわからないが、音作りはティルソン・トーマスの記念碑的な全集に納められた分析的な分解様式に近いかもしれない。ジョーズ・ハープまで明確に聞き取れるティルソン・トーマスの切れ味鋭い演奏が、余り好きではない他曲の演奏と比べなぜか私はかなり好きで、ストラヴィンスキーのポリリズムの先駆と言われる箇所も「ほんとにそうじゃん・・・」と絶句するくらい素晴らしくリズミカルで、巧く組み立てられていて元々の作曲意図でもある祝祭的な盛り上がりを煽られる。私はしかしドラティのように主情的に操作整理された演奏のほうがこの曲にかんしては好きだが(アイヴズは根からの前衛でなかったらショスタコに迫るくらいの名作曲家として表舞台に出た可能性もある、ほんとに何でも描ける秀才であったからこそ、全ての音楽をつぎこんだ完璧なカオスが描けたのだ)、その点はぶよぶよした失敗録音に聞えるバンスタよりも(バンスタに金属質な演奏が求められる前衛は無理がある)ティルソン・トーマス側の演奏として捉えられるか。曲について言うとあくまで時期も違う4曲を出版都合でまとめて交響曲としたアイヴズ特有の「交響曲の名を騙る組曲」なのだが、4番同様、いや4番よりも一貫して聞きやすいのは全体的に作風(アメリカの祝日という主題)の点でまとまっており作風変遷の点ではさほど離れていない位置のものをまとめたというところからきているのだろう。もちろん、組曲であるが、私は全曲通して聴くのが好きだ。だから、リハとして聴きとおすのはちょっとしんどかったけど、ストコとバンスタの違いがよくわかるし、ストコが如何に頭がよく、新作に慣れているか、バンスタが如何に曲を選ぶ人でロマン派向きであるかを感じさせる対極的なものとして聞けた。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:祝日交響曲〜T.ワシントンの誕生日,○ストコフスキ指揮CBS放送管弦楽団(SCC:CD-R)1954/2/21放送live,,放送コメントで「交響曲第五番ニューイングランドの祝日の一楽章」と入ってはいるが、バラバラの曲の寄せ集めであり、とくにこの曲はよく単体で演奏されていた。ストコフスキには全曲の本番演奏録音がなく(リハーサルは有り)、交響曲としてはどのような構成感でやるつもりだったのか定かではないが、ここでは余韻なくいきなり終わり、尻切れ感が否めない。おおまかに二部にわかれ、思索的な長い序奏と派手な祝祭的本編からなるが、ストコフスキは両者を完全に分断し、余り感傷を持ち込まず、生硬なテンポで不思議な楽器編成の面白みのみを注意深く聞かせている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:祝日交響曲〜U.デコレーション・デイ,○コープランド指揮BBC交響楽団(DA:CD-R)1975/9/16live,,オールアメリカプログラムでかなり盛り上がった日のようだ。とにかくBBCの鋭敏で現代曲向きの機能性がコープランドの硬質で高精度な音響演奏への指向と合致して、そこに一種逆ベクトルとも言える「熱気」が生まれている。コープランドはアイヴズを技法的には認めずとも私的には愛好していたらしい。ここではあくまでアメリカ前衛音楽のパノラマの一部として使われているけれども、叙情的でロマンティックな側面に重きを置き、極めて整理された音楽を聞かせている。ドラティのような元来ロマン派音楽の延長上にあるものとしてやるやり方ではなく、冷静にスコアを分析し、そのうえでコープランド自身の平易な作品を仕上げるように組みなおしたようだ。「歯応えあるハーモニー」がバランスを整えられ過ぎ減退して聴こえ、アイヴズ慣れしているとむしろなんだか物足りない。尻切れ音楽にされてしまっている感もあるが、強いて言えばティルソン・トーマスのもののような説得力ある「整理」が売りになっているとは言えそうだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:祝日交響曲〜U.デコレーション・デイ,○コープランド指揮ハンガリー国立管弦楽団(DA:CD-R)ブダペスト音楽祭1973/9/28日本での放送音源,,トンデモ作曲家・作品名といったらこの人が挙げられて然るべきなのになんで取り上げなかったんだろ某沢さん。はいいとしてステレオの良録音であるせいかリアルで硬質な音が幻想味をやや損なっている。もののコープランドの同曲の演奏としては意外と力が入っており、東欧オケの特性もあいまって特徴的な響きをもつ音楽世界を築いている。アイヴズをそのまま混沌として描けてしまっているのは「整理する指揮者」コープランドとしては不本意かもしれないが、こっちのがアイヴズらしいかも。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:祝日交響曲〜U.デコレーション・デイ,○コープランド指揮ミネソタ管弦楽団(DA:CD-R)1976live,,"縁深いミネアポリスオケとのこれもレクチャーコンサートで取り上げられたもので、アメリカ音楽特集の一曲。コープランドの説明は通り一遍のものだが(「祝日交響曲」の楽章(2)という説明をしているが元々は独立した作品)、アメリカ・アカデミズムの申し子がこの前衛祖派のアーティストを、何だかんだ言っても西欧音楽の伝統に楔を打ち込んだ”音楽史上のモニュメント”として尊敬し、クラシック音楽における真のアメリカニズムを(”アイヴシング”という言葉でアメリカ的ですらない孤高のような言い方も混ざるが)体言した作曲家としている。演奏でもそこに古きよきアメリカの風土伝統を見出そうとしているかのように優しい。
",,アイヴズが生地ダンベリーから大学でイェールに移り、更に長らくニューヨーカーとして実業との二重生活を送った、その流転ぶりを説明する中、保守的な風土の故郷ではほとんど評価されなかったのにひたすら故郷を描き続けた、という部分などなるほどそうだと思った。会社の副社長として辣腕を振るいながら、「個人的な意見では」世界で最もオリジナリティ溢れる作品を作り続けたことを、「想像できない」、としている。コープランドはアイヴズを表向きはアマチュアとして退けたが、それはプロの作曲家としての技術においてのみであり、音楽はけして理解していないわけではない、少なくとも一部の素朴な曲は愛好しピアノでかなでていたと言われる。ここでは愛しているように聞こえる。,,?1973年開催されるヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールに、コープランドは6分の短い曲を提供した。それは英語で「夜想」とだけ記された。コープランド最後の独奏曲集におさめられている同曲は老いの諦念を感じさせる静けさに満ち、硬質な響きを伴いながら、なぜか仄かに抒情が宿っている。正確に構成された課題曲であるものの、雰囲気には冷えた北部の空気が感じられ、ある作曲家の最も良質の作風を想起させられざるを得なかった。その副題は「アイヴズ賛」という。アイヴズを追悼した著名作曲家の曲を、私は他に知らない。2012年、同コンクールの記念コンサートにて、ソン・ヨルムにより再演された。?,,あくまでアカデミズム側からの解説解釈であり、演奏もアイヴズの立体的で完全に複層的な音楽を単線的な旋律と精妙な和声の音楽に整理し換骨奪胎している(だがアイヴズの演奏法としてこれは一般的である)。時間軸は精密に追っているが上に積み重なる音楽の層は構造的ではなくあくまで和声的なものとして処理している。,,ここで実感されるのはアイヴズが素材だけでも実に才気溢れる素晴らしいものを持っていたということで、既存素材の流用にしても選択と利用方法が的確。デコレーション・デイと聞いてかつてのニューイングランドの若者が誰でも思い浮かべる情景をうつした「音画」(コープランドはこの言葉でアイヴズの描こうとした世界を適切に説明している)、元来ごつごつした像のぶつかり絡み合う前衛抽象画であるものを見やすく印象派絵画に描きなおしたものとも言えるが、ただ、この曲は(デコレーション・デイの情景を知らない者にその祭日の時間軸に沿った音楽の変化自体の意味は伝わらないだろうが)それほどぐちゃぐちゃではなく、アイヴズも印象派的な感傷性をはっきり残しているので悪くは無い。だから逆説的にコープランドも振ったのだろう。録音は左右が揺れるモノラルというちょっと聞きづらいもの。○。,(参考),祝日交響曲としてはティルソン・トーマス/シカゴ盤をお勧めします。,"
New England Holidays: Music by Charles Ives

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","75年BBC交響楽団とのコンサート録音についてはこちら",,"ロックフェスタ帰りにしっくりくるアイヴズの音響的音楽 :デコレーション・デイについて説明しています。"
アイヴズ:祝日交響曲〜U.デコレーション・デイ,○メータ指揮アメリカ・ソヴィエト・ユース管弦楽団(COMIN)1988/8/5ワシントンlive・LP,,前進的で非常に力強く、バンスタよりドラティに似たライヴ感溢れる表現。やや前時代的な解釈ではあろうがアイヴズの「美質」をよく取り出しており、まだまだ壮年のメータの鮮やかなさばきぶりが聞かれる。オケがいい。昔のNYPのような激しさを感じるが乱れはない。いい演奏、○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アイヴズ:祝日交響曲〜断片(「ワシントンの誕生日」より),○スロニムスキー指揮汎アメリカ室内管弦楽団(NewMusicQuarterlyRecordings)LP,,「セット」と共に録音された部分試演でレクチャー(?)も含まれている。短いが序奏後の本編の派手な部分が再現されており、技術的には問題がないとは言えないが、縦のリズムを意識しそこをぶらさないまま、攻撃的なアタックでアンサンブル「的なもの」をこうじている。正直、よく振るなあ、というような「同時進行するいくつもの音線」の絡み合い、アイヴズってこういうものだ、と改めて認識させる。この曲の時点ではまったく融和しない音線を重ねていくやり方を堅持しており、頭がおかしくなりそうだ、という人に私は同意せざるをえないところもあるが、既存旋律の選択ぶり、引用部分の長さ、けしてめちゃくちゃにやっているわけではなく、一つの信念のもとに計算してやっているのだ、と思わせるところもある。ここからどうさばくかは指揮者の解釈の腕。これ自体は古記録としての価値は非常にある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:ユニヴァース・シンフォニー(ラリー・オースチンによる補筆完成版),○ミカエル・スターン総合指揮(他、編曲者を含む4名の補助指揮)ザールブリュッケン放送交響楽団(COL LEGNO)1998/5/24LIVE・CD アイヴズが1911年という作曲家として脂の乗りきった時期に手がけたが、途中で興味を失ったのだろう、放置したものが原形である。ばらばらの断片を繋ぎ合わせて管弦楽配置を完成させたという、ちょっと特殊な盤、しかも恐ろしいことにドイツ初演のライヴである(ライヴとは思えない素晴らしい完成度だが)。アイヴズの興味深い日記「メモ」には、この曲にかんするかなり誇大妄想的な構想が述べられている。この世のすべてを描写し大交響曲にしてしまおう、というその発想、近代音楽の枠組みを無視し外に向かって開放された「音響」を目指したアイヴズらしい魅力的なアイデアだ。文学的背景があることは言うまでもないが、1楽章は「過去・・・混沌から湖と山々の形成」2楽章は「現在・・・大地と天空、自然と人間性の進化」最後の3楽章は「未来・・・天国、すべてのスピリチュアルなものの昇るところ」という標題が付けられている。つまりは人間や自然の歴史と現在と未来を全て活写してしまおうという無謀だがアイヴズらしい構想だ。ユニヴァース・シンフォニーすなわち全宇宙交響曲、つくづく恐るべし作品になるはずだったのだ。アイヴズは「メモ」の中に楽器編成についても具体的にメモしている。そこには微分音オケなど4番交響曲を思わせる複雑な楽器群も含まれている。しかしこれらに囚われると多分補筆完成は無理。何群ものオケ、ブラスバンド、パーカッションを組み合わせ、それ以上の色付けはせずに補筆はなされたようである。オケはなぜ何群も必要なのか?それは各々に役割があるからだ。遠い山並みを示す音形を奏でる楽団、教会の鐘から街並を描写する楽団、といったいわば眼で見たものを見たままに音にうつすという。20世紀初頭の発想とは思えぬ発想である。環境音楽に近い感覚かもしれない。アイヴズは作品を録音器のかわりとみなしていたようなところがあり、とある街中で実際に響いている音を、なんとかそのまま活写しようとしている場合も多い。だがここではあくまで視覚を聴覚に換えるという奇妙な抽象化作業がなされようとしていたわけで、完成されていたらどうなっていたのか、つくづく惜しいところだ。そんな気持ちを持った人々がこの完成版(の演奏)を作り上げたのであるから、演奏に気合いが入っているのもうなづける。さて、ここでは3つの楽章はすべて連続して演奏されるので、とくに区分を設けずに記していく。最初は静寂の中に遠い山並を象徴するゆるやかな低音の上下が辛うじて聞き取れる。そこに打楽器が静かに加わっていく。だが打楽器は決してすぐに大きくはならない。暫く哲学的な打楽器のリズムパターンが続く。当初構想からしても本来であればここでもう既にもっと沢山の楽器が混沌のように渦巻く音楽になっていたであろうところだが、この盤は殆どメモしかない曲を最低限聞ける形に取りまとめたということで、これはこれで独立した芸術音楽と見るべきだろう。アイヴズは実現不可能なほど大規模なオケを設定しようとしていたようだが、ここでは殆ど打楽器しか聞こえない。何群もの打楽器がひたすら独自のリズムパターンを刻み続ける。18分位まではほとんどそれだけである。だが音の密度を微妙に操作することによって単調になりすぎることを避けている。非常にミニマルな印象で、これはこれで素晴らしく美しい。純粋な音楽だ。20分前後でやっとブラスや木管や弦楽器が入ってくる。リズムの動きは変化しないが増強された(というより挿入された)管弦楽団が横のパラメーターを加えてくるに至り、アイヴズらしい混沌が巨大な姿を見せはじめる。このあたりはいかにもアイヴズであり、だがアイヴズであれば多分もっと音を重ねたろうが、この編曲では4番交響曲2楽章ほどの荒唐無稽になる寸前で止めているのは、バランスを重視してのことだろう。音が段々減ってきたところで、ブラスアンサンブルがちょっとリゲティふうに響くのが面白い。素晴らしい効果だ。編曲家の腕が光る。この演奏はとても引き締まっている。緊張感が伝わってくる。殆ど刺身のツマのように使われる弦楽器にしてみても、みんなきちっと弾いている。28分前後では高音打楽器とコルネットなどブラスの高らかで長い響きが法悦的な気分を盛り上げるがこれで終わらない。太鼓群の凄まじい打音が連続、耳をつんざく。ボントロの挿句がマーラーのように響いている。30分を過ぎると美しい終焉に向けてサックスのソロが叙情的な余韻を示すと、高音打楽器・木管楽器が天国的なひびきを振り掛ける。このあたりからまたアイヴズ流の音楽から離れ、いかにも現代的な手法による前衛音楽が奏でられはじめる。これはこれで美しいのだけれども、アイヴズの美しさではないだろう。ジョリヴェ的だがもっと耳にやさしい。などと言っている間に、再び金属的な打音が耳をつんざく。打楽器群の圧倒的な歩み・・・巨人の歩みのようだ・・・にたなびく雲のように絡み付く管楽器群の単音の渦。アイヴズにしてはちょっと洗練されすぎているが興味深い響きだ。最後に鐘の音が残るのが印象的。やはりこれは情景描写音楽なのである。編曲版ということで最高評価は避けて○にしておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:幸運と仕事,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:行進曲第6番,作曲家(P)(CBS他)
アイヴズ:山々,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:習作第11番?,作曲家(P)(CBS他)
アイヴズ:習作第23番より,作曲家(P)(CBS他)
アイヴズ:習作第9番,作曲家(P)(CBS他)
アイヴズ:新しい川,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:聖なる国,スミス コロンビア室内O (CBS)
アイヴズ:西ロンドン,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:昔の生活,カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:選挙,ストコフスキ アメリカSO (CBS)
アイヴズ:即興曲第X番,作曲家(P)(CBS他)
アイヴズ:即興曲第Y番,作曲家(P)(CBS他)
アイヴズ:即興曲第Z番,作曲家(P)(CBS他)
アイヴズ:池 シューラー 室内O (CBS)
アイヴズ:遅い行進曲 カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:判事が歩く カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:彼らがそこに!,作曲家 (P)、歌(CBS他)
アイヴズ:彼らはそこに!,ストコフスキ指揮アメリカSO(CBS)
アイヴズ:眠りの海 カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:霧 カークパトリック (P) ボートライト (CBS)
アイヴズ:尖塔から山々から,○ティルソン・トーマス指揮サンフランシスコ交響楽団(rca)1999/9,10live この曲はひとつの大きなクレッシェンドである。静かに鳴り響く鐘の音、それがやがて遠い尖塔から山々のおりなす壮大な風景を象徴した交錯するブラスの饗宴にまで導かれ、頂上を極めたあとに、美しく高らかな鐘の音がやや感傷的に響いて、終止する。アイヴズが初期にしてすでに相当の卓見性を持っていた事を象徴する曲だが、この啓蒙的な一枚のライヴ盤の嚆矢を飾っており、それはかなりの美演に仕上がっている。他にもいくつか演奏録音のある佳作である。アイヴズが「ユニヴァース・シンフォニー」を構想したとき、何群ものオーケストラを配するつもりだったが、その中に遠い山並みを象徴する音を専門にかなでるオーケストラがあったと記憶している。きっとこの曲の「山々」を象徴する音形を鳴らすつもりだったのだろう。同曲、未完のスケッチのまま遺されたが、完成したらどんな曲に仕上がっていた事だろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:尖塔から山々から,ルーカス・フォス指揮バッファロー・フィル(CBS)
アイヴズ:組曲「三つの野外の情景」〜ハロウィーン,◎バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(DG)1988/11/17-22定期live・CD 「三つの野外の情景」の中でもいちばん著名な曲であるがどの演奏もゆっくりすぎ る。アレグレットからプレストですよ!ハロウィーンのジョークなんだから、もっと 速く、もっと荒れて弾いたほうがいい。原曲が小編成なのでゆっくりアンサンブルし てしまうのかもしれないが、ここでは普通の本数でやられているので速さも速くとり やすいのだろう、事実迫力が違う。主体は弦楽アンサンブルで、盛り上がっていくと ころでピアノの打楽器的な無調主題が散発、ドラムがそこに更に追い討ちをかけて頂 点を築く趣向。冒頭よりいちおうフーガの形で各パートがそれぞれひたすらスケール を繰り返していくが、完全なフーガになぞなろうはずがなく、どんどんずれていく。 しかし時々ぴったり合ったりして、でも響きは完全な不協和音。調性の組み合わせが むちゃくちゃだ。とにかく速いスケールのかもす律動を楽しむ曲である。弦楽の弓返 しがもたらすスリリングに不規則なリズムにはまるでジャズの如きゾクゾクするよう な暴力的な魅力が満ちている。破天荒な頂点のむこうには、なんと古典的な終始音形 が待っている。最後のピアノの「ズラし」が洒落ている。これはピアノドラム抜きで 学生時代試演してみたが、なかなか楽しいズレかただった。難しかったけど。現状こ れを◎にするしかないか。もっとアグレッシブな演奏の出現に期待。これはアイヴズ がハロウィンのパーティにさいし一晩で書き上げた2分弱の小品である。だが、傑作だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:組曲「三つの野外の情景」〜池,○シューラー指揮室内管弦楽団(COLUMBIA)1969/3/31BOSTON・LP,,サウンドスケープの表現に極めて優れた手腕を発揮するアイヴズの管弦楽作品集の中の一曲で、池ポチャの音楽といったら元も子もないが、水を打ったような静けさ、それだけの極めて美しい「音風景」である。金属打楽器が時折水の撥ねる音を「そのまま描写」するところが何とも言えない情緒をかもす。前衛の先駆として最近注目が深まっている父君へのオマージュだそうだが、叙情的な雰囲気はそこに起因しているのだろう。この演奏は現代音楽として現代も十分通用する内容を伴っている、と確信させるに足る静かな演奏だ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:組曲「三つの野外の情景」〜夕闇のセントラルパーク,○ドラティ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R)1976live,,新しい録音で一応ステレオだがホワイトノイズが激しく音量も安定しない。またよくあることだが音響の真ん中がすっぽり抜けており、中盤での盛り上がりどころのブラスの饗宴などまったく聞こえてこない。まるで遠い池の向こうの出来事だ。しかし録音の悪さを置いておけば、ドラティらしい聞きやすい整え方のなされた演奏であり、それは主として緩まないテンポに厳格な複リズムとして各声部をあてはめていくやり方に起因していて、面白かったろうなあ、と推定することはできる。ティルソン・トーマスのような分析的なやり方ではないためライヴ感溢れる音楽として聞ける。そもそもこのような抽象化作業のなされない「音響」を「音楽」と呼ぶべきなのか異論はあろうが、少なくともドラティで聴くと音楽に聞こえる。とくに弦楽器の瞑想的なコラールが美しい。とても心象的だが決して幻想に流されないきちっとした流れが保たれている。ブラスがいかにもアメリカンでアイヴズにはとても向いているが前記のとおり聞かせどころでまったく聞こえてこないのでここはメリットとはできないか。いずれスケールは落ちるもののアイヴズ入門としては面白いので、機会があれば。これの拡張版ともいえる4番交響曲をドラティで聴いてみたかった。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
アイヴズ:答えのない質問(1908),◎バーンスタイン指揮NYP(CBS SONY)1964 哲学です。最近も映画「シン・レッド・ライン」「ラン・ローラ・ラン」(弦楽のコラール部分だけ・・・)で「そのまんまやんけ」という使われ方をしていました。わっかりやすい曲ですが、 発想の斬新さにはヤラレタってかんじです。いろいろな演奏が在り本来ティルソン・トーマス盤でも推すべきなのでしょうが、有名な講義の題に使われた歴史的価値をとって、故バーンスタインの古い 録音を挙げます。現代曲とはまた違った不思議な世界をお楽しみ下さい。ちなみにシンセサイザーだとより感じが出る曲でもありますので機会があれば。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイヴズ:答えのない質問,◯バーンスタイン指揮NYP(DG)1976/6/4live・DVD,,ロイヤルアルバートホールでの実況。裏青のライヴとは録音日が近似しているが一応別とみなす。こういう曲は映像があるとよく理解できる、とは思うがやはりきっちりした解釈で舞台上の配置も特にいじることなく、視覚的効果は与えていない。親しみやすさの点では素晴らしいのでご興味があればどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:答えのない質問,◯バーンスタイン指揮NYP(eternities:CD-R)1976/6/1live,,正規録音も残っており、解釈は同じ。だがより整然とし、音楽として聴かせようという意図が垣間見える。この曲は3部のオケないしソロがそれぞれの役割を果たす。そのうち弦については環境音楽のようなコラールを終始静かに無個性に奏で続け、それとは別にペットが質問とされる1節をひたすら繰り返して投げかける。質問に回答しようとして結局投げ出してしまう知恵者たちの不協和な響。その対話は整然と行なわれ、起伏がないのが気になった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:答えのない質問,バーンスタイン指揮(解説)ボストン交響楽団のメンバー(DREAMLIFE)1973ハーバード大学レクチャー放送・DVD,,テレビシリーズとして放送された有名なハーバード講演「答えのない質問」より。かつて書籍やビデオで出ていた(価格的にも言語的にも)壮大な講演集がこじんまりとまとまって字幕入りで出ている事実に慄然とする。しかしそれでいいのだろう、稀少であることに意味は無く、内容にこそ意味がある。DVDでは三組目、ラヴェルで無邪気に幕をあけえんえんとシェーンベルクが語られる。混迷の20世紀前半音楽を非常にわかりやすくピアノや譜面で解説しており(歌は理解を妨げている)、なんでこれに奇妙な日本語感想文を付けられているのか、と慄然とするが、それはともかく、シェーンベルクのストイックさの余り陥った音楽の素晴らしさと危うさが結局のところ極めて狭く石ころのごろごろした耕地を耕すようなもの、結局どこかしら調性的なルールを維持することになり捨てきることはできない、折衷点をどこにもってくるかが新時代の個性、例えばベルクは・・・といった感じである(ああ文章で書くような内容じゃないな)。多様化する表現手段の1ルールとして組み込まれていくシェーンベルク主義、多様式主義といえばストラヴィンスキー、そして・・・あるアメリカの作曲家の音楽的予言。それがアイヴズの無邪気な小品「答えのない質問」、この講義の理念上の主題となる言葉を表題に付けた曲である。ああ長い。,,アイヴズのシンプルだがプロフェッショナルな音楽的理知性は上記のようなバーンスタインの主義を見事に裏付ける作品を様々に生み出したが、バーンスタインのメガネにかなった作品は実はシェーンベルクとほぼ同時期に書いていた過渡期的な作品であり、交響曲の2から3番あたりとなる。2番はアイヴズの名声をあげ初演に招いたバーンスタインに最早不要と断りながらもジグを踊って喜んでいたといわれる半世紀眠り続けた調性的作品で、無数の既存主題をパッチワークする方法を極める前段となったものである。3番はシェーンベルクの初期作品を思わせるものでマーラーを魅了した作品として有名な、でもやっぱり調性的作品。それではいつ調性を失ったのか?アイヴズは失う失わないという観点で作曲はしておらず、本人は独自研究による調性の拡大や新たなルール化に挑戦したとはいえ、至極粗雑であり、寧ろそういったものを「パーツ」としていくつもいくつも用意して、、、4番交響曲のようなまさに多様式主義もたいがいな前衛作品に行き着いた。,,ポストモダンという煤けた言葉を思わず使ってしまうのだが、そういう思想は「多層的な空間音楽」という個人的な肌感覚、「野外音楽の体験」に基づいており、けして前衛を狙っていたわけでもない。答えのない質問は3群のアンサンブルより成り立つ。コラールをひたすらかなでる「空間」役の弦楽、超越的な存在として、しかし無力な存在として描かれる「ドルイド僧」役の木管四重奏、そして素朴に実存について質問を投げかけ続けるトランペットソロ、その答えは太古のドルイドにも出すことが出来ない、しょせんは誰にも応えられない質問。この「情景」をそのまま音楽にしているわけだが、バーンスタインは象徴的に捉えてシェーンベルクに対する「予告」としてただ演奏をなしている。,,だが、多重録音をしているように聴こえる。画面も狭くて辛い。音楽的には失敗である。解説用の演奏といっていいだろう。まったく空間的要素が感じられない。無印。それだけかい。,-----,,,-----,,,-----,
アイヴズ:答えのない質問,△カラヤン指揮ロス・フィル(KAPELLMEISTER:CD-R/Pristine)1959/7/2ハリウッドボウル放送LIVE,,素朴な演奏ぶり。もちろんほとんどの悪印象は録音やオケのせいというところだが、正直カラヤン自身もこれをどう演じたらいいのか皆目見当がつかなかったのではないか。のちの犬猿バンスタがオハコとした因縁もさることながらこれは表現者が積極的に解釈して、自分の作品として表現することを求めるアイヴズ作品のたしかに特異な一面を体言した曲でもある。バンスタは「作曲家」として入り込み易かったということもあるだろう。文学的内容をきちんと理解して、最後まで問い掛けを続けるペットと、不毛な議論を繰り返し仕舞いにほうり出して消えてしまう木管たち、それら卑俗のものの背後の自然界を超越的に彩る弦のコラール、この三者を独立した三部の音群として並列させないと、下手に論理的にリズムから交通整理しようものならぶかっこうな珍曲と化してしまう。それでもわかりやすい構造だからバンスタのような単純化も可能であるのに、カラヤンは何かぶっきらぼうに即物的に音を出させているだけでやる気もなく、聞く人々の反応も悪い。ここまで理解されないまま演奏されたアイヴズは珍しい。Pristine(PRSC)で全プログラムをweb配信販売中。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,
アイヴズ:答えのない質問,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(SCC:CD-R)1969/5/4live,,びっくりするくらいロマンティック。不協和的な木管アンサンブルはヒステリックに叫ぶことなく遠い歎きのようにゆっくり、レガート。音量は落ちずに終幕。あきらかにいじっているため原曲の哲学性まで奪われた格好だが、しかし、聞きやすい。これはこれで抽象度の高い音楽だ。客席反応もよい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:答えのない質問,○ストコフスキ指揮現代音楽協会(SCC:CD-R)1953/2/22メトロポリタン美術館live,,日曜午後のコンテンポラリーミュージックシリーズとして企画されたものの記録で、非常にノイジーだが興味をひく演目が揃っている。当時としても珍しい曲が取り上げられた。嚆矢にあげられたのは今や馴染みの「答えのない質問」だが、ストコフスキはかなり高精度のアンサンブルを駆使し、不協和だが「整合」した演奏に仕立ててしまっている。ほんらい整合しないのがアイヴズの音楽だ。この曲は噛み合わない対話である。いわば壁紙の役割であるストリングスのコラールを(アイヴズの賛美歌調の音楽は一部の演奏家には非常に魅力的に感じられるらしいが)テヌート気味に情感込めて演奏させ、埋没するようにTpと木管の「応酬」を忍び込ませている。ほんらいは逆だ。朴訥としすぎるペットに元気のないドルイドたち。クライマックスではペットに木管が余りに食い気味に被さってきていて、それが元気で怒りを示すようであればまだしも、静かに注意深くハーモニーを重ねるようなのだ。終端部取り残されるペットと弦の静寂はよい。他録では乱暴だったりするが、ライブぽくない注意深さだ。勘違い演奏かもしれないが、一つの見識として○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:答えのない質問,ストコフスキ指揮日本フィル(M&A)1965/7/8武道館live・CD,,有名な割りに最近は演奏されない、冨田版が時々BGMに使われるきりの曲だけれども、映画の世界ではたとえば「世界」を象徴する弦のコラール部だけが引用されたり、問いかけと応唱の部分のクライマックスだけが編曲転用されたり(ロックやテクノの世界でこの曲を使ってる人はけっこういたりする)、実は割合と聴いているはずである。静謐な世界にただ不可思議な問答が繰り返され、誰も答えられないまま最後に質問だけが空しく残る。その間じゅう弦楽器はひたすら違うリズム構造の上でろうろうとコラールを形作る。シンプルだが計算されつくした空間的音楽だ。ストコフスキの編曲はいただけない。ちょっと「楽曲として」成り立たせ過ぎている。勘違い演奏というやつだ。アイヴズはそれを許容する人ではあるが、実存に対する無理な質問に無調的に答える楽器が最後には異様に分厚いブラスバンドになってしまい、楽曲のシンプルであるからこそ描き得た哲学的表現がまったく生かされていない。何一つ分かっていない演奏と思われても仕方なかろう。ストコフスキにはこの曲がまともな伝統的なクラシックに見えたのだろう。これははっきり前衛的なコンテンポラリー曲である。無印。オケもあけっぴろげすぎだが音響的に武道館だからそう聞こえるのか。スター指揮者であったことを伺わせる拍手ぶりである。そういえばビートルズのころか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイヴズ:答えのない質問,○バーンスタイン指揮NYP(CBS)CD,,まさにバンスタ自身の有名な講義の題名にもなったアイヴズの名作である。しかしバンスタは叙情的すぎる。律せられた無秩序ほど無残なものはない。これはペットソロが投げかける「質問」に対し木管群が無用な議論を繰り広げ、最後には投げ出してしまうというかなり具象的な意匠を持った作品である。「無用な議論」をシェーンベルク的に律してしまったがゆえに、「ちゃんとした無調作品」に聴こえてしまう。しかもバンスタなりの「無調」である、そこには確かに「旋律」も「ハーモニー」も聴こえてしまう。これでは宇宙的背景を永遠に描き続ける弦楽合奏のコラールとの対照がはっきりせず、そのコントラストこそがアイヴズの粗忽であるのに、渾然としてしまうのである。それでもある程度の魅力がある演奏ではあり、○にはしておくが、この曲を意匠通りに描いている演奏とは言えない。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アイヴズ:答えのない質問,○ルーカス・フォス指揮ジンブラー・シンフォニエッタ(TURNABOUT/UNICORN)LP,,フォスの大先輩の曲なわけだが、バンスタに近いデフォルメがなされていて特記できる。これを几帳面に神経質に整えようとすると曲が死んでしまう。なのにそういう演奏が多い。アイヴズの謎めいた書法の部分はきっちり譜面通り弾かせているし、木管には好きにやらせている(冒頭弦のコラールが異様に間延びしたテンポで不安を感じたが管楽器群が入ると適切になる)。なかなか独自性も感じたし、上手いとは言わないが聴かせる演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,