-2019/1/9(1/18修正)glazunov
グラズノフ:2つの小品,○ヤブロンスキー指揮ロシア・フィル(NAXOS)2006/10/10-15・CD,,OP10番台の作品で、国民楽派の跡目を継ぐ天才期のものだということがよくわかる。1曲目牧歌からして後期と変わらない手腕と、あとは天から降ってきたような美しい響きに纏われている。2曲目東洋の夢、といっても既にボロディンやリムスキーとは異なるスマートさを身につけており、小品であっても印象に残る。演奏は精度が高く同時にロシアの音を楽しめる好演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:アルト・サキソフォーン協奏曲,○ミハイロフ(AS)コルネイエフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)CD,,グラズノフがパリにうつってからの作品は多くは無いが、少なくも無い。近代の作曲家の多くがそうであったように晩年は単純な才能の衰えを技巧技法で補おうとしており、その結果の机上で考えすぎのような作品や、アイヴズふうに言えば「池を飛び越える勇気がなかった」がため、保守的な書法を「新しい楽器の導入」によってカバーしようという作品がみられる。フランスでもうこの時代には一般的になりつつあったサックスのクラシカルな音楽への導入が、グラズノフという結果として帝政ロシア時代の最後の遺物のような作曲家によって行われたことは、一見奇異にも見えるが、妥当でもある。依然メロディメイカーとしての才能は(衰えなかったとは言えないが)あり、この曲もひたすら単純なメロディを変奏していくやり方、グラズノフの多くの協奏曲同様単一楽章の中でそれを行っているにすぎないが、サックスという楽器をきちんと「理解」したうえでのちょっとジャズ風に聴こえなくも無い楽想や、ワグナーの末裔の使用した前衛的な響きに近いものが聴こえるところもあり、完成期以後グラズノフに見られなくなった「冒険」があるところに、この作品の魅力の多くがある。演奏はクラシカルで大人しい。美しさを重視してライヴ感が少ないようなところがある。同曲がロシア民謡ふうの主題を使用しているところでちょっと手を出しかねている向きにはむしろ向くのかもしれない。洗練されている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,○ガブリエル(Vn)G.L.ヨッフム指揮RIAS交響楽団(remington)LP,,折り目正しい演奏振りだが前半部で異様に盛り上がり、異様なスピードの中で超絶技巧や胸のすく表現が聴かれる。さすがに速すぎて超高音域で音程が上ずったりするところもあるが、気にとまらないくらいの勢いと雄弁さに圧倒されてしまい、この曲は二度と弾くまい、と思わせるくらいなのだ。,,が、ファンファーレ後の明るい曲想になると息切れがしてくる。精彩を欠くようになる。重いロマンティックな中欧の楽曲を得意とするソリストなのかもしれない。民族性を露骨に発揮するべき浅はかな後半部で、前半部と同じ人とは思えない左手の曖昧さや右手の生硬さが残念だ。かわってバックオケはここぞとばかりにドイツ的な表現で堅牢さを見せている。○にしておく。モノラルだが明瞭なレミントンらしい音。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,○ギンペル(Vn)アイシュヴァルト指揮シュツットガルト・プロ・ムジカ管弦楽団(HECTOR:CD-R他)1950s,,確かにギラギラした演奏をするヴァイオリニストだ。デリカシーの欠片も無い前半部においては、バックオケのアンサンブル能力と表現力の豊かさに感心しつつ、ソリストはただバリ弾きしているだけ、のような印象を持つ。音色はこのようなロマン派音楽に向く赤黒い色で決して悪くは無いのだが。後半部になると一転してソリストにもニュアンス表現の豊かさが感じられるようになる。しかし技術的にダメダメ。前半部でもちょっといじってる個所が聞こえたが、後半部では装飾音をごまかしたり音程を取り損ねたりライヴ演奏のような粗暴さが気になる。とはいえまあ、この曲はでろでろやりすぎると聴いていられない甘ったるい匂いをはっするので、一面即物的なこのソリストのやり方はあっている。バックオケが構造をよく理解してアンサンブルしているのもよい。そんなところか。録音は悪い。板起こし。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,○コリリアーノ(Vn)バーンスタイン指揮NYP(RICHTHOFEN:CD-R)1958/4/13カーネギーホールLIVE,,乾いたケレン味がかつてないグラコンを聴かせている、グラズノフの記録をまったく残していないバーンスタインのしかも壮年期そのものの演奏のように思える。もちろんバックオケに過ぎないのに、これは強く開放的で、かつ職人的な処理のなされた演奏。ソリストがまた激烈なスタイルで、とくに前半部は見事なヴィルトーゾスタイルで張り詰めるようなソロを聴かせている。だが少し血が上り過ぎたようで細かい音符が怪しく感じられ始めそのまま、ロシアのようなあけすけなペットソロとのかけあい、やや落ち着きテンポが落ちるが、どんどん血が上っていって遂にメロメロな音程に。動きはあっているのだが。。それでも堂々としたフィナーレに堂々としたフラブラで終わる。個人的にはけっこう手近に置いておきたい特有の匂いのするものだが、ライヴとしては失敗かもしれない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,○シュタドレル(Vn)ポンキン指揮レニングラード・フィル(MELODIYA)CD,,グラズノフ協奏曲集より、この盤所収の演奏はどれも精度が高くロマンが重すぎず聴きやすい。このソリストもじつに余裕でそつなく、変な半音階的重音書法で意味不明な難度のあるカデンツァ近辺も綺麗にあざやかに当てていっており危なげなく作曲家意図を浮き彫りにしている。曇り無い演奏ぶりはオケにも当てはまり、しかし客観的に整えたかんじのない適度なロマンチシズムの醸された状態であるのがよい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,○スタンスケ(Vn)シューリヒト指揮ベルリン・フィル(ARCHIPEL)1951/10/14live・CD,,驚異的な音源の廉価復刻を続けるアルヒペルは一時休止の様相をていしていたが再び面白い音源を発掘しては1000円そこそこで販売している。例によって編集や音質は乱暴で、これも冒頭の序奏が切れ気味に始まり終演後拍手前にぶち切れるが、多分史上最速の演奏ではないか。若々しく飛ばしまくるソリストに前半はまるでナンカロウの自動ピアノを聞いているようなめまぐるしさに違和感より爽快感をおぼえるが(こんな速さで弾きこなすだけでもそうとうな腕である)後半はさすがに速さに指がつんのめる場面もあるにせよ完全に余裕でこの曲を弾きこなし突っ走っている。華麗な技巧のすべては速さの前にその華麗さを気づかせることができず、唖然と聞かせるにとどまっているが、却って「詰め込みすぎのグラズノフ」がすっきり旋律音楽として聴ける側面もある。音色は力づくのドイツ式で正直ギリギリと弓圧がきつい感じがするし、綾もへったくれもないが、ベルリン・フィルのグラズノフという希少性もあいまってこの悪録音でもかなり興味をひきまた満足させるものとなっている。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,○ハイフェッツ(Vn)バルビローリ指揮ロンドン・フィル(naxos)1934/3/28〜グラズノフ会心の傑作協奏曲、イザイの示唆を受けて作曲された、斬新な名技性(他では聞けないような面白い奏法が羅列されていくさまは圧巻)と濃厚なロマン性(それゆえ笑ってしまうようなところもあるが)を兼ね備えた作品である。ハイフェッツは比較的即物的なヴァイオリニストだが、ここでは懐かしいハリウッド映画音楽のような甘く輝かしい音色を天才的なテクニックの上にのせ、軽やかに提示している。この曲は憂うつな前半と楽天的な後半というふたつの部分のコントラストを聞かせる曲だが、ハイフェッツは前半も決して重くならず明るく、そして後半はまさに破竹の勢いで演奏してのける。「ロシアの憂愁」が苦手なクチでもこれなら聴けるだろう。この時代は伴奏指揮者として知られたバルビローリの鮮やかな棒さばきも独奏者とうまくマッチしている。重音トリルを多用する民族的な色彩の色濃い楽想の表現にはまったくごまかしがなく(やや荒いと感じる所もないとはいえないが)、かといって泥臭くもならず洗練された音楽たりえているのはさすがだ。古い録音がゆえの音の「広がり」の無さにはやや問題があるが、作曲家と同時代の息吹をつたえる演奏として、聞いておく価値は大きい。佳演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,○ポリヤキン(Vn)オルロフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)1941,録音は極めて悪い。ポリヤキンの表現も若く、ひたすら突っ走り技巧をひけらかすのだが、高音をうまくマイクが捉えきれず、音量が落ち音粒がはっきりせず、ごまかしているように聞こえてしまうのは惜しい(じっさいは全体を聴けば一聴瞭然、一音たりとも落とさず完璧に弾けて余裕すらあるはずなのだが)。まーよく弾けるヴァイオリニストですねえ、というしかない。ハイフェッツに近いか、もっとロマンティックではあるかもしれない。とはいえこの曲ではあっさりめの突っ走り方のほうが目立つか。全般には非常に巧いがスタンダードな感触の強い模範的演奏といったところ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,○マジェスケ(Vn)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1967/10/6live,,国民楽派の楽曲演奏には定評あるセルに対し超絶スタイルで猛烈な演奏を仕掛けるソリストがたまらない。グラズノフのここまで熱い演奏は録音ではなかなか聴けない。それはライヴなりの演奏精度ではあるものの、楽曲の読み込みがしっかりしていて表面的にならない。よくあるつまらない演奏にはけしてならないスタイルなのだ。若手にありがちな技巧だけで突っ走るタイプともまた違う、ロシアロシアしたヴィルトーゾスタイルとも違う、ニュートラルでありながら熱い演奏。セルのバックが丁々発止で第二部への突入がかっこいい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,○ミルシテイン(Vn)スタインバーグ指揮RCAビクター交響楽団(NAXOS/RCA)1949/2/19これはすんなり聞けた。録音が若干遠いせいかもしれない。ミルシテインは安定しているし、オケもそれなりに巧い。ちなみにRCAビクター交響楽団の実体はコロンビア響らしい(契約の関係で名称を変えていた)。グラズノフの民族性を排し、少し速いインテンポですんなりと弾きとおしているから、ロシア国民楽派(チャイコフスキー含む)の匂いが嫌いな人でも聞けるだろう。特有のくぐもりも(リマスタリングのおかげかもしれないが)見通し良く響いている。あまりに速くてあっけないところもあるが、少なくとも前半の暗い音楽は聴き易くなっている。ファンファーレで明るくなってからはあっという間に走り抜けるのでお聴きのがしのないように。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,○モリーニ(Vn)フリッチャイ指揮ベルリン放送交響楽団(DG)CD,,曲が特殊な技巧の散りばめられた目の詰まったものであるだけにフリッチャイの見通しのいい縦に区切られたような構造的なバックとモリーニの確かな技巧がしっかり聞こえてきて面白く聞ける。演奏自体に強く惹き付けるものはないがマイナス要因もない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,D.オイストラフ(Vn)コンドラシン指揮ソヴィエト国立交響楽団(VANGUARD)?〜もう最初の一音からオイストラフ特有の深い音色が聞こえてきて安心するのだが、聴き進めるうち、アレ?と思った。盤面のせいかもしれないが、音程が悪く感じるのだ。細かい動きをする場面の多い曲だが、その細部の表現がアバウトで、ときに音程が気持ち悪くズレる。いや、オケもおかしく聞こえるところがあるから、百歩譲って盤面のせいとしておこう。ちなみにCDでどうなっているかわからないので聞いたかたは感想をぜひ(泣)。骨太で大掴みの演奏ぶりはオイストラフならではのものだが、恐らくまだ若いころの演奏なのだろう、やや即物的で味が無い。イマイチ、グラズノフの魅力を引き出せていないのだ。派手な技巧を見せ付けるところではもっと華やかさがほしいし(じっさいオイストラフの演奏はとても素っ気無い)謡い込む所では音色の繊細な変化も聞かせて欲しい(終始変わらずオイストラフ・トーンなのである)。この曲は個人的に思い入れがあるので辛口になりがちだけれども、同じ即物的演奏ならハイフェッツのほうがしなやかで魅力的だ。コンドラシンの即物性のせいもあるのかもしれないが、土俗的な雰囲気は感じるものの、面白くはなかった。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,オドノポソフ(Vn)ゲール指揮パリ・コンサート交響楽団(forgotten records:CD-R/DORON)1957/6/5〜へそ曲がりな私はオイストラフではなくオドノポソフを追い続けてきたわけだが、はっきり言って十中八九は凡演。というかむしろ下手。今まで一番聞けたのはブルッフのコンチェルトだ。このグラズノフも、あまり巧くはない。ただ、フレージングに特徴的なところがあり、ボウイングも独自のものをつかっていて、はっとさせる場面がちらほら。中盤ファンファーレ以降の音楽はやたらと高速なのだが、むらっけはあるものの超絶的なテクを見せており、意外にも楽しめた。それにしてもファンファーレがやたら小さかったりオケに難点があると思った。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,カンデラ(Vn)デゾルミエール指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(columbia)SP,,どんより暗いロマン性が横溢し、半音階的で息の長い主題をうねらせ続ける前半部から、カデンツを挟んで突如あけっぴろげに明るい民族音楽と化す後半部という構成の、グラズノフで最も著名な作品。民族主義的トリルの異常な多用っぷりは、カデンツでの重音トリルで特に奇怪な晦渋さを示す。トランペットが高らかに宣言し対話を始める後半部への切り替えは突拍子もないが、形式云々はともかくとにかく楽章間の雰囲気の対比を強く印象づけるというグラズノフ特有の思想にこれも依っている。後半部のさまざまな民族音楽的な奏法の陳列はまさにグラズノフといった感じで壮観。さて、このような「変化」を鮮やかに聴かせるために、最初はデロデロに重く、ファンファーレ後は華麗に技巧をひけらかすのが常套手段で、譜面をそのまんまやるだけでもそうなってしまうくらいなのだが、これがまたデゾルミエールである、冒頭からサラサラと爽やかに、まったく引っかかりなくサッサと流していく。明るい色調の即物的な表現は、ミゲル・カンデラのカラカラと笑うような無邪気に浅い音楽と融合し、「全く違う」グラズノフを聴かせていく。オールドスタイルの左手指使いは懐かしげな音も生んでいるが、それにはコッテリ甘ったるい重さが無く、あくまで軽やかな運指のうちにある。軽やか過ぎてメロメロになったり、音を外す箇所が頻繁に現れるのはいただけないものの、それも含めて特徴的だ。(カデンツ直前盤面返しのため音を短く切る乱暴な作りはさすがにいただけないが)部分部分にこだわることの全くないまま後半部に進んでいく。フランスオケの管楽器の音がまたプンプン漂う民族臭を灰汁抜きし、アバウトさも芸のうちと言わんばかりのカンデラのスピード感を失わないメトロノームテンポ的な解釈ともども気持ち良く聴ける。全般、デゾルミエールらしさの現れた、著名な「四季」録音の解釈に近似した颯爽としたアッサリ演奏として聴け、そこにカンデラならではの音色が加わったようなところに、一部マニアに受ける要素を感じ取った。個人的にはロシア音楽が嫌いな人ほど向く演奏だと思う。一方ペレアスなどの無解釈っぷりが嫌いな人には向かない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,ギンペル(Vn)ハンス・ミュラー=クレイ指揮南ドイツ放送交響楽団(meloclassic)1956/10/2シュツットガルト放送スタジオ録音・CD,,ギンペルらしく危なげない安定した技巧にスピード、明るく力強いスタイルが怠惰な一楽章を引き締める。基本まっすぐ突き進むがもちろん表現の綾はこのクラスのソリストには当たり前のようについている。グラズノフの西欧主義的側面を国民楽派の靄の中からきちんと取り出して曲の大きな分節ごとに少し異なる色をつけしっかり構成している。長いカデンツァでスピードが速すぎてとちるのは珍しいことだが(後半部も所々ライヴのような指の転びが入るものの)トランペットとの対話から始まる民族表現を尽くす祝祭的音楽への移行も速度、音色と技巧の安定感から唐突感がなく、近代ヴィルトゥオーゾ的表現もしっかり兼ね備えた立派な演奏となっている。オケが音色だけでなく反応も鈍重さを感じさせる部分がなくはないが、オケを聴く曲でもなしきちんとアンサンブルになっているのでマイナスにはならない。録音はこんなものか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,クーレンカンプ(Vn)マン指揮スウェーデン放送交響楽団(BLUEBELL)1948/3/30うーん。案外へただなあ。クーレンカンプというとシベリウスの猛烈な演奏のイメージがあるのだが、これはバックオケが役不足というところもあるのだろうけれども、音色は単調だし指が回らないのかテンポがやたらと落ちるし、音楽の刹那的な伸縮や微少ポルタメントの連続はなかなか他にない聞き物となってはいるのだが、腕と力で押し切る「あの」ロシア流儀を知ってしまっている耳からすると、どうも物足りない。左手ピツィカートくらいちゃんとやってくれよー。ま、私には弾けませんがね。没。音程も不安定(但し全体のピッチが不安定なのでそれにあわせて高めに音をとっているみたい)。たぶんライヴ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,セーケイ(Vn)オッテルロー指揮ハーグ管弦楽団(decca/M&A)1947・CD,,面白くない。グラコンを前時代的なロマン派協奏曲として扱い、それなりに普通にこなしたという感じで余りに引っかかりがなさすぎる。民族性も煽られず音色も変化に乏しく、しかしこれすべてノイズ塗れの悪録音のせいかもしれないから、これ以上は言わないが、個人的にこのソリストは好みではない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,ハイフェッツ(Vn)ヘンドル指揮RCAビクター交響楽団(rca)1963/6/3,4〜即物主義的な演奏家の晩年は悲惨だ。指揮はともかく、即物主義ヴァイオリニストのような「技術を売る」商売はその技術が年齢に伴う物理的傷害によって損なわれてしまったとき、唯一の売り物を失いからっぽで下手くそな元演奏家に成り下がってしまう。ハイフェッツが下手になったとはいわない。ただ、30年代にバルビローリと録音した演奏に比べて、余りに表現の色艶が失われ、指も回らなくなってきており、それでもなお即物的に演奏しようという老大家の「あがき」がなんとも座りの悪い録音を産み出してしまった。バックオケが「ゆるすぎる」のもこの演奏の価値を貶めている。ハイフェッツはやはりハイフェッツであるべきだ。ハーモニクスが決まらずピチカートがはじけていないような演奏家はもはやハイフェッツではない。解釈の面白さで聞かせる演奏家であったなら多少の技術の下落も我慢できるが、ハイフェッツは直線的な解釈しか施していないから難しい。グラズノフを知らない向きは無理して30年代の録音に触れずこのステレオ盤に触れればそれなりに面白さは聞き取れるだろうが、グラズノフを多少でも知っているなら、断然旧盤に触れるべきだ。そういう演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,マルコヴィッチ(Vn)ストコフスキ指揮ロンドン交響楽団(inta glio他)1972/6/14ロイヤル・フェスティバル・ホール(ストコフスキロンドンデビュー60周年記念live・一回目?)・CD,,このコンビでlondonにスタジオ録音を残しているそうで、それに先立っての機会だとされているがそちらは未聴。,,何故ってソリストが技術的に未熟過ぎるのだ。協奏曲では遅いテンポと生硬なリズムを形作るストコフスキではあるが、これは完全にソリストが「若すぎる(指揮者の70歳年下と紙面にセンセーショナルに書かれた)」。確かな堅牢な音がごくたまに、おっと思わせる部分もあるものの、このルーマニアのヴァイオリニストが、このストコフスキにとってもロンドンにとっても稀有の機会にふさわしい人材だったものか、もちろん興行的なものやストコの好みもあっての「起用」だったのだとは思うが、比較的短い単一楽章のグラズノフで手こずるようであれば大曲は難しい。,,といっても(帝政ロシア時代末期にしては)多彩な演奏方法を要求される特異な曲で、決してヴァイオリンに精通していたわけではないことが伺える無駄に重い重音進行の連続やトリルの多用(これらはグラズノフの癖でもあるが献呈者ともなったアウアーの助言で何とかなったという気がしなくも無い)、自由度の少ない短いカデンツァ(D.オイストラフ版を使っていると思われる、というかそれしかないと思う)、第二部では音量的に不可思議なペットとの掛け合いから始まる、確かに国民楽派としては素晴らしい民族音楽の換骨奪胎ではあるけれども、いささか不自然さを感じさせる変奏曲・・・,,それらを巧く繋いで全体的なまとまりを出すまでに到底至っていないソリスト、更にそれ以前の問題としてヴァイオリニストとしてどうかという上がりっぷりというか、音程の不確かさや指の廻らなさ、適切なスピードの維持できないスリリングな演奏ぶりに、「若さ」を強く感じさせられてしまう。ストコにとってもブラ1の一世一代、そして指揮人生の最後の輝きを象徴する演奏と比べ、拍手も半端になってしまうのは曲だけの問題ではあるまい。intaglio盤ののちに他でも復刻されたようであるが詳しくは知らない。同日同演目で二回公演をしているので、一回目とすれば単にソリストは上がっていたのかもしれない。音程が崩れるのは前半部であり、後半部のバラライカ模倣などは大ヴァイオリニストらがやっていたようにスピードで押し切るのではなくゆっくり響きを出していく特有の民族情趣が感じられてまあまあいける(偶発的なものの可能性が高いが)。,-----,,,-----,,,-----,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,ミルシテイン(Vn)スタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団(SERAPHIM)1957/4/16〜ステレオ初期ゆえ音場が狭く多少粗い録音ではある。ミルシテインのグラズノフはかねてより評判だったもので、期待して聴いてみる。で、思った。・・・フツーの演奏では?グラズノフの書いた音符を余す所無く弾き尽くしており、凡百の演奏家が躊躇してテンポを落とすようなところもほとんどスピードをゆるめることなく弾き切る。物凄い技巧を見せ付けて非常に勉強になる演奏である事は認めるが、強く弓圧をかけることで発音をコントロールするやり方が私はあまり好きでない。デリカシーの無い単調な音色に陥りがちだからだ。職人的ヴァイオリニストだな、という印象。あまりにあっさりと聴きとおしてしまい、何も残らなかった。これならハイフェッツの即物のほうがいい。いや、この盤こそ即物主義の権化かも。うーん。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,モリーニ(Vn)不明(ウォレンスタイン?)指揮不明(ロス・フィル?)(RICHTHOFEN:CD-R他)1950年代LIVE,,計算し尽くされたソリストの表現力もさることながらバックオケの「こんな音があったのか、さすがグラズノフ!」という発見まで促す性能の高さ、双方丁々発止のスリリングなやり取りは実にレベルが高い。ドイツ的な構築性があるにもかかわらず野暮ったさが皆無で、軽快にさえ感じるその理由は演奏精度の高さにあるのだ。前半は客観性が見えテンションは低くはないが飽きる。しかし後半は清々しく楽しい。最後のフラジオがこんなに輝かしく捉えられた録音を私は知らない。で、なんで無印?瑕疵がないなら音が悪かろうが○にしたろう。R盤(版元によればアセテート原盤からそうらしいが)、拍手をフェードアウト・カットするさい、最終音まで切り落としてしまっているのだ。注記はどこにもない。拍手がカットされているとだけ書いている。これを意図的なものではなく、聞き逃したと好意的に解釈したとしても、販元の見識を疑う。同盤を扱っている店舗がいずれもグラズノフの協奏曲程度ですら「知らない」という事実に、クラシック音源業界の落日をはっきり感じた。,,悔しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,ユリアン・シトコヴェツキー(Vn)コンドラシン指揮モスクワ交響楽団(SYD RECORDS)1952〜夭折のヴァイオリニスト、シトコヴェツキーのまだ20代の演奏記録だ。ハッキリ言ってまだ青い、といった感じ。「解釈している」ところがあまりなく、ただ「弾いている」だけといったところか。コンドラシンは完全にサポートにまわっており、個性を押し出しては来ないから尚更、このソリストの本質が浮き彫りになってしまう。よくありがちなことだが、速いパッセージになると俄然奮起して物すごい技巧を披露する(第二部)が、ゆっくり歌ったりするところは即物的になりがちで味もそっけもない(第一部)。ロシアの技巧派ヴァイオリニストの錚々たる面々を思い起こすと、このソリストはまだまだ、といったところだ。33歳での夭折が惜しい。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,ラビン(Vn)ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(CON MOTO)1954/5/2LIVE・CD,,手堅い演奏。ミトプーがグラズノフをどうテンション高く表現するか期待したが、はっきし言って肩透かし。バックにてっし主張のかけらもない。実に無難にこなしているという感じで、決して手抜きではないのだが職人的な態度に終始しているように思えた。従って解釈はラビンにかかってくるわけだが、これがまた非常に安定した技術を駆使しながらも今一つ音色に映えがなく教科書的な演奏。この曲はアウアーだかの示唆を受けているだけあって難所もチャイコほどの無理は無くよくできているのだが、かといってただ正しい音を出すだけでは曲にならない面もある。そこを情緒で埋めないと、曲が緊密にできているから聞けないことはないのだが、どこが面白い曲なのかわからなくなる。たとえば第二部のファンファーレとの掛け合いは思いっきり派手にぶっぱなさないとその前の実にグラズノフらしい半音階的なくぐもりとのコントラストがつかない。暗く重いロシア的情緒の延長上でカデンツァ的に奏でられる重音トリルの独特の技巧に目を惹かれ、その後のいきなり明るい祝祭的雰囲気に気持ちがついていかず、「なんだこのあほみたいなファンファーレ!」という印象を抱いたかたは多いと思うが、それはきっといい演奏ではなかったのだ。もっとあほみたいに強引にぶっぱなしさえすれば、そのあとの怒涛の変奏の渦に有無を言わさず押し込まれ、民族的技巧と感情的高揚にいつのまにか大団円を迎える、といった感動に至ることができるはずなのだ。この演奏は余りにファンファーレが引いていて突出しない(録音バランスは悪くない)。ラビンの追奏と音量的にはつりあっているのだが、あれあれいつのまにか進んでる、といった引っかかりの無さがある。その後もラビンもバックもそつがないという言葉がとても似合う演奏ぶりで無難にこなしており、奏者の融合具合からしても完成度は多分そうとうに高いと思うのだが、それが芸術的感興を呼んでいるかというと否と言うしかない。拍手はふつう。無印、二度聴きたいと思わない。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲,ラビン(Vn)ミトロプーロス指揮NYP1954/5/2nickson,同上,ロシア国民楽派の後継者による独特の民族音楽奏法を取り入れた協奏曲。代表作。ラビンはまあまあという感じで特に凄いところはない。全体としてもまとまっている、くらい。録音悪い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
グラズノフ:ギリシャの主題による序曲op.3-1,ミトロプーロス指揮ミネアポリス管弦楽団(NICKSON他)CD,,ロシア国民楽派の音楽を切り貼りしていっちょ上がりみたいな感じで、最初の陰欝さからして入り込み辛い常套性があるし、オリエンタリズム溢れる主題の扱いはまるでボロディンとリムスキーのアマルガムである。西欧の特にリストあたりの先鋭な劇性を断片的に挿入している部分は寧ろ聞けるが、中後期を予感させるマンネリズムな展開のクセが横溢しているさまは(初期からして既に技法的に完成されていたグラズノフという才能の驚異的な早熟さを知らしめるものではあるが)好き嫌い大きく別れると思う。チャイコのスラヴ行進曲が嫌いな向きには絶対奨められない。手堅く纏めた感のある演奏でまとまってはいるが没入がないので白けてしまう。録音が古いので致し方ない部分もあるが、曲のよさが見えないまま終わる。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:コンサート・ワルツ第1番,○スヴェトラーノフ指揮ボリショイ国立歌劇場管弦楽団(brilliant/melodiya)1961/5/27live・CD,,グラズノフは結局バレエ音楽で本領を発揮した作曲家ではある。だから舞曲は巧く、書法の緊密さはチャイコフスキーの系譜を継いでいるし、旋律やオリエンタリズムといった「客引き要素」はクーチカの系譜を継いでいる。1,2番のどちらが名曲かといって、2番のほうがソリストの見せ場も合奏の見事さも表現しやすいものの、冒頭からのメロディだけで1番を勧める人がいるのはせんないことである。私も勧める。スヴェトラの演奏ぶりはまだ個性をがっと押し出してくるものではなく同時代では寧ろ現代的とも言えるものだったと思われる。しかし後年露骨にあらわれる煽るようなテンポ操作と微細なアゴーギグの操作法は既に会得されているようだ。オケの弱さや雑味もホール特有の残響(と更に音盤にて加えられた残響)によってよくわからなくなっている。巧く再生された録音であり、私はちょっとこのホールの生ぬるい残響は好きではないのだが(MELODIYAのステレオ録音でおなじみの向きも多かろう)、brilliantの硬質な整形音には向いているかもしれない。,,"スヴェトラーノフ・エディション(10枚組)",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
グラズノフ:コンサート・ワルツ第1番,○ヘルツ指揮サンフランシスコ交響楽団(victor/PRSC)1928/2/28,,ヘルツ録音末期のものだが、言われるほど全然悪くない。ワルツになってない(揺れない)、というのは他の(とくにアメリカの)演奏ではいくらでもあるし、この前進力とこの時代にしては高い技術、緊張感、そして華やかに開放的な響きはpristineのレストアのせいもあるかもしれないが決して悪くない。前進力ありながらリズムが強く刻まれるのが心地いい。ロシア臭さのようなローカリズムから解放された音楽を楽しめた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:コンサート・ワルツ第1番,◎サモスード指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(VISTA VERA)1953/2/11live・CD,,ロシアにはワルツの伝統がある。これ以上書くとボロが出るのでこのへんでやめておくが、これは珍しいサモスードが53年2月11日にユニオンのホールで開いた「ワルツ・コンサート」をそのままおさめたものである。サモスードは芸風的に旧いタイプのロシアの指揮者ではあるが(音の作り方やテンポの若干の流れ感など)、西欧的な曲も案外そつなくこなしたという意味ではしっかり構築的な演奏ができた人である。このライヴにも収録されているヨハン・シュトラウス二世のワルツなどスタジオ録音もおこなっているし、モーツァルトなどけっこう有名である。しかしやっぱり、ロシアものは血が騒ぐのだろう、音が違ってくるしザッツも乱れてくる。指揮者の問題と言うより演奏家の問題か、ソヴィエトの問題か。この曲のようなスタジオ録音が残されているグラズノフあたりでは、西欧折衷派と呼ばれた理論派の「プロフェッショナルな書法」があるためにグズグズ崩れようがなく、録音のクリアさとあいまって、多分スタジオ録音より引き締まってよくできている。ムラヴィンあたりがやるとこうなるかもしれないなあ。ワルツの愉悦感を構造がきっちり枠内に収めてくれているところもあり、それでいて窮屈な感じもしないから非常に清清しく聴きやすい。コンサート序盤であるせいか爆発的な羽目の外し方はしないが、そのぶん、最大評価に値する精度の高い演奏が聴ける。これは素晴らしい。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
グラズノフ:コンサート・ワルツ第1番、第2番,○サモスード指揮オールユニオン放送交響楽団(monarck)LP,,非常に品のいい端正な演奏で意外である。ワルツを得意としたグラズノフの、ワルツにおける最高傑作の2作品なわけだが、終始気持ちよく聴きとおせた・・・弦楽器の押しの強い表現を除けば。弦の威圧的な表現はロシアだからしょうがない。これがなければ中欧的な魅力すらもった一般にも勧められるものになったかもしれないのに。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:コンサート・ワルツ第1番、第2番,◎ゴロワノフ指揮ボリショイ劇場管弦楽団(BRUNO RECORDS)〜グラズノフを紹介するとき、いきなり交響曲から入っても引かれてしまうだろうし、かといってピアノ曲や歌曲を紹介するには余りに数が少ない。そこで数多い管弦楽曲から何を拾おうか、というときは、この「コンサート・ワルツ」をオススメする。懐かしき舞踏会の風景、ほのかに国民楽派の臭いを漂わせながらももっと汎世界的で古典的で、チャイコフスキーら西欧折衷派に接近したクセの無い曲、魅力的だ。チャイコフスキーはバレエ音楽の大家であるが、グラズノフはそこから大きな影響を受けており、チャイコほど露骨ではないにせよ、純管弦楽曲の中に舞踏的要素を織り込んだ曲作りを行っていることが多い。和声のうつろいの美しさ、音色のきらめき、様々な表情を見せる旋律、グラズノフのいいところを凝縮した「演奏会用ワルツ」、他の曲と抱き合わせで出ている事が多いが、機会があれば触れてみていただきたい。ゴロワノフはむせかえるような芳香を漂わせ、音色感を強調し、決して粘らずワルツのテンポを維持する。劇場指揮者としての経験が「踊れる音楽」の再現におおいに生かされているといった感じだ。ゴロワノフというと曲のフォルムを大きく崩した怪演指揮者と思われがちだが、それは曲による、と言っておこう。この盤はマトモだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:コンサート・ワルツ第1番、第2番,○ストック指揮シカゴ交響楽団(LYS,DANTE他)CD流れの良い気品のある演奏。グラズノフの野暮ったさが払拭され、王宮の華麗な舞踏会の様子がひたすら活写。完璧なアンサンブルにも傾聴。2番はやや落ちるか。いかにもボロディン的な楽想はやや散漫。曲が個人技に頼り過ぎな感じもする。達者なオケだから全く支障はないが。力感があり引き締まったオケの響きはとても素晴らしい。隠れたワルツの名手グラズノフの幸せな音楽を聞いてください。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:コンサート・ワルツ第2番,◎スヴェトラーノフ指揮ボリショイ国立歌劇場管弦楽団(brilliant/melodiya)1961/5/27live・CD,,1,2番どちらかを◎にすべきと思ったのだが、目覚しい個人技から強靭な合奏力を発揮して効果的な演奏に仕立てているこちらを◎とした。共にモノラルではあるもののbrilliantでは残響付加によりほぼ擬似ステレオ的に聴こえるので、楽しむのに不足は無い。同時期このオケが実質どこだったのかわからないが管楽器群が非常に強いことを伺わせる。弦楽器には雑味があり、残響でわかりづらくはなっているものの「ライヴなり」の出来であったことは想像に難くない。しかし力感はありプロとしての最低水準は当然大きく上回っている。もう既にスヴェトラのグラズノフになっており、分厚い響きはソビ響末期に比べ充実した聴感を与える。グラズノフの曲は一言で言えばマンネリズム、系譜的には19世紀帝政ロシア末期の二大流派を統一しただけの(さほど巧くは無いかもしれないが)教科書的作風で、特にハーモニーの感覚が鈍重でチャイコよりも古く魅力に欠けるが、補って余りあるメロディの魅力があり、それが最も発揮されるのはこういった小品である。◎。,"スヴェトラーノフ・エディション(10枚組)",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
グラズノフ:交響詩「ステンカ・ラージン」,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(ARIOSO/MELODIYA)1977・CDえいこーらーの第一主題で知られる非常に効果的な一曲。たんにボロディンの延長上の作曲家とみなす人こそこれを聴いてみてもらいたい。ここにはボロディンとはおよそ無縁な後期ロマン派の重厚な音楽がある。チャイコフスキー流儀の劇的表現に加え音響的に緻密で安定感があり、既出の第一主題と第二主題が交互に絡み合うように顕れるオペラ的なクライマックスはとても盛り上がる。この構成は後期交響曲まで引き継がれるグラズノフ定番のものだ。グラズノフはメロディメイカーとしての才能「以外」の部分では過去の(一部同時代の)音楽に関する膨大な記憶を素材として、ピックアップしたものを細かくアマルガム的に組み合わせていくという、結果としてあまり新しい発想の無い職人的な作曲技術を追求していった作曲家であった。しかしその組み合わせ、配合具合そのものにグラズノフの真価がある。変な言い方だが20世紀のポストモダン的感覚をもった作曲家だったとも言えるかもしれない(アイヴズが既製品の音楽を切り刻みひたすら貼り合わせコラージュしていく事で極めて個性的な音楽を創り出していったように)。スヴェトラーノフの演奏はとても円熟したものでこの人の演奏にしばしば聞かれる危うさは無い。ブラス全般の調子がよく、たとえばペットだけが奇妙に突出したりするということなしに全体のひびきを更に盛り上げるように巧く組み込まれている。ブラス総体の底力の印象が強いが弦や木管なども負けてはいず、総合的にバランスのいい、しかもかなり熱い演奏で評価できる。楽曲がよくできているがゆえうまくいったということもあるかもしれないが。◎に近い○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響詩「ステンカ・ラージン」,○デュフォー指揮ブリュッセル王立音楽院管弦楽団(COLUMBIA)SP,,デュフォーは後年アメリカ大陸に渡りモントリオール響のシェフとしてLP録音も行っているそうだが、余り情報が無い。ベルギー国外では特に目立った活動はしなかったようで、知名度もそれに比例しているのだろう。ベルギーオケ自体伝統はあるものの、欧州では余り目立たない存在であるから、聴く以前に総じて既に地味な印象を与えてしまう。この録音は状態からほぼモノラルLP期と重なる、SPでも末期になされたものと思われ、音の厚みも拡がりもLPにひけをとらない。十分だ。,,それだけに実体がしっかり聴き取れてしまう。この曲の録音がロシアの録音ばかり(実演もそうといえばそうだが)という点で不利なところもあるが、弱体のオケに無難な指揮、という感が否めないのである。骨董時代にはありがちな、ほぼ一発録りならではの仕方ない部分はあるとしても、演奏がフランスのロシア曲演奏ふうで押しが弱く、かつ音量の強弱がSPとしても余り演出されていないから、エイコーラーの主題がひたすら繰り返されるだけでクライマックスの構築すらよくわからないのんべんだらりとした印象が否めない。うーん。逆に普通な演奏ならではのロシア臭のなさが売りでもあるのだが、よく構じられたアンサンブルが指揮技術の安定ぶりは示すものの学生の範疇を出ないと言ったら言い過ぎか。○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
グラズノフ:交響詩「ステンカ・ラージン」,C.ランバート指揮リバプール・フィル(COLUMBIA)1942/12/22,43/1/12・SP,,演奏は颯爽としてオケは美しく整っている。しかし録音が悪い。篭り気味で、せっかく精度の高い演奏が捉えられているにもかかわらず耳障りが悪い。起伏が感じられないのも録音のせいだろう。楽曲の立体構造を作曲家らしい手腕で浮き彫りにしており、同曲の古い録音にありがちな、音のばらつきによる「アマチュアっぽさ」のない緊張感、熱も感じられノイズがなければ結構聴けたと思う。CD化不明。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
グラズノフ:交響詩「ステンカ・ラージン」,ボルヒャルト指揮BPO(伝フルトヴェングラー指揮VPO)(melodiya/tahra)1945/6/17(2/2?)live・CD,,〜(フルトヴェングラー名義で発売されたときの感想です)まあまずまっさきに偽演のやり玉にあがった演奏である。聞けばフルトヴェングラーらしさはなくオケの響きにも「ひょっとするとロシア・オケ?」と感じさせるような場面がある(たとえば妙なポルタメントの頻出など)。10年近く前か、ロシアで大量にフルトヴェングラーの戦時中未発表音源が見つかったということで、メロディヤより立て続けに発売された中の一枚である。録音状態は意外といいのだが、ちょっと擬似ステレオがかっていてききづらい。グラズノフの出世作のひとつステンカ・ラージンは、有名な「えいこーらー」の旋律が英雄の闘争の象徴となり最後の大団円にいたるまでいろいろと変容してあらわれる。初めて聴いた人はちょっと笑ってしまうかもしれない。叙事詩的な作風のなかにボロディンの色濃い影響も聞き取れる。グラズノフ未だ円熟せずの時期の作品とあって個性は薄いが、いろいろな作家の影響を昇華したアマルガムとして面白く聞くことができる。演奏も下手ではないので、演奏家が誰であれ、聴いておいても損はないと思う。(一説にはムラヴィンスキーだという)。,,,後注)ロシア出身の短命だったBorchardの指揮で確定とのこと。tahra(師匠シェルヒェン系レーベルですな)で再発したらしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
グラズノフ:交響詩「ステンカ・ラージン」,○ジャルディーノ指揮パリ音楽院管弦楽団(pathe)SP,,要領がよくリズム感のよい指揮者だが、どこか垢抜けない。フランスよりはやはりロシア的。そういう曲だからそれでいいのだが、加えて現代的な無難さがある。色彩味はさすがこのオケといったところ。エイコーラーが美しい。録音年代は比較的新しいか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:パ・ド・カラクテール,○ヤブロンスキー指揮ロシア・フィル(NAXOS)2006/10/10-15・CD,,この曲集は作曲時期にばらつきがありながらも作風の軸がいっこうにずれないため一くくりにして「グラズノフ」として聴けるのが面白い。「ロマンティックな間奏曲」と同時期の作品で、オリエンタルな主題を持ちながらも初期作品のような軽やかさがあって、間奏曲の手垢のついた感じ(裏返して個性)が無い。演奏は丁寧で勢いもある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:「バレエ組曲」よりワルツ,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(CCCP)SP,,小盤一枚の単品ものでじつは曲がわかりません(汗)「バレエの情景」とかそのへんでしょう(いいかげん)オケがすこぶる調子がよく、木管など目の醒めるようなソロを吹ききっている。弦楽器は往年のロシアオケそのもののねっとりした音色でロマンを謳うがガウクはそこに雄渾なテンポの起伏や厳しいアンサンブルを要求し、しっかり引き締めている。弦楽器のワルツ主題の持っていきかたはいかにもガウクのロマンチシズムで、ゴロワノフの異様まではいかないがガウクらしいテンポ・ルバートがはっきりした構造の上に描き上げられ清清しくも感傷的なグラズノフの夢を見ることができる。西欧とロシアの響きの統合された上に描き上げられる夢幻的なワルツはこの作曲家の独壇場といっていいものだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:バレエの情景,○モントゥ指揮サンフランシスコ交響楽団(M&A)1943/12/12live・CD,,こういうバレエを素材とした曲での水を得た魚のような、リズム感と流れるような音楽づくり、決して弛緩しないスピードはモントゥの持つ素晴らしい魅力といっていいだろう。弦の音にグラズノフの要求するボリュームと甘さがないのが曲によっては少し興をそぐが、力感とアンサンブル技巧だけでは物足りなくなるのがグラズノフの「限界」でもある。個々のパート技術はそうとうに高いので、明るく単調な音色はその犠牲となった部分といえようか。録音のせいかもしれない。終曲に力強さがないような・・・。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:バレエの情景〜V.マズルカ,○エリアスベルク指揮レニングラード管弦楽団(USSR)SP,,いかにも最盛期グラズノフのボロディン風味の曲で、エリヤスベルクは若々しくもりたてる。ただ録音のせいもあって貧弱な感も否めない。ロジェストなどを聴くとスケールの大きな楽曲にきこえるが、ここではやや小さい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:バレエの情景〜操り人形,◯オルロフ指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(musiconline他)CD,,チャイコ風のバレエ小品といった趣だがフランス的な洒落た響きも楽しく、ここではオルロフもきらびやかにやってのけている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:バレエ音楽「お嬢さん女中」抜粋,オルロフ指揮ボリショイ劇場管弦楽団(musiconline他)CD,,伝説的指揮者オルロフによるグラズノフの代表作から6曲抜粋だが、古い録音ゆえの脇の甘さや素朴さが耳につく。下手ではないが今の耳からすると褒められたものではない箇所も多い。おしなべて木管はよくできているが弦が雑然としている。ソリストすらとちる。曲の古臭さがひときわ際立つような解釈の無個性さも気になる。無印。つまんなかった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:バレエ音楽「お嬢さん女中」抜粋,マルコ指揮フィルハーモニア管弦楽団(SLS他)1950/12/9・CD,,グラズノフのバレエ音楽というと四季となるだろうが、グラズノフ自身の作風がはっきり現れかつ一定のボリュームを持つ、完成度も訴える力も強いのは「お嬢さん女中」ということになるだろう。ロシア五人組ならびにチャイコフスキーの後継として総括、さらに復古的な佇まいを持たせ、その確固たる地盤のうえにグラズノフ自身の癖が悪い方に出ず構成されている。このSP片面の短い抜粋だけとっても四季には無かった古典回帰志向とグラズノフの個性の刻印が見て取れる。マルコも当代一流録音オケの力でグラズノフの真価を問う。勢いのある演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:バレエ音楽「ライモンダ」〜グランド・ワルツ,マルコ指揮フィルハーモニア管弦楽団(SLS他)1950/3/25・CD,,グラズノフの代表作と扱われるライモンダのワルツ抜粋。まさにワルツ、それ以上のものではない。ライモンダは一般的に、ゲンダイでも通用する佳作ではあるが、少々飽きる。マルコはうまくワルツも振れている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:バレエ音楽「ライモンダ」抜粋,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ORGANUM他)1962/2/10ブダペストlive,,バルトーク、ブラームスのアンコールとして演奏された模様。ごくごく短い抜粋だがスマートに、ほのかな懐かしみを感じさせる演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:バレエ音楽「ライモンダ」〜間奏曲抜粋,◯エリアスベルク指揮レニングラード交響楽団(ペテルブルグ放送)1963?,,いきなり思い入れたっぷりのフォルテから入り、この指揮者もやはりロシアの古い指揮者だったんだと実感させる。まるでワグナーの楽劇のような曲、演奏ぶりに、明らかにロシアの音でありながら西欧的な劇性も面白い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:バレエ音楽「ライモンダ」〜間奏曲抜粋,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(放送)1970年代/4/6ブダペストlive,,じつはこのベト7をメインとする演奏会で一番耳を惹いたのはこの曲で、リズムよしキレよしで楽曲は凡庸であるもののじつに爽快に聞けた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:バレエ音楽「四季」,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MELODIYA/russian disc他)1969live・CD,,けっきょくみんな終曲だけが目当てでこの曲を聴くんだろう!・・・とかグラヲタは言うだろう(そんな奴いるのか?)。グラズノフで最も有名で録音も多い、なのに何故かグラズノフ好きはそれほど入れ込まない曲。一般受けしそうな無難な管弦楽に曲想、というかチャイコを更に西欧化したようなかんじで、魅力的な旋律をソロ楽器にばかり重く課すというやり方が腕に覚えのあるソリストを木管なんかに抱えたオケにはうってつけ、聴き映えする。しかし昨今アマチュアでもこれをやってしまうんだよな。すごいな。この録音はロシア的なオケをびしっと引き締めるムラヴィンの優れた統率力が伺えるが、弦楽器を中心として多少鄙びた音色の感じがするのはおそらく録音が旧いせいであろう。スピードの手綱を緩めず、しかし決して急いた感じも醸さずによく表現している。表現が一本調子になりがちでバレエ指揮としてどうなんだろう、という部分はあるが、交響曲を聴くつもりで聴けばかなりぐっとくる。○。,,(後補)2016/12ムラヴィンスキー録音のSACD化を進めるPRAGAが復刻したが、データは1969/9/28録音となっており、抜粋。russian discは1969/4/20となっていて、記録上前者の日の演奏は確認できないことから、同一音源と推定されている。PRAGA版のムラヴィンスキー盤のデータの不正確さはかつて問題となったことがある。音質は未確認。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
グラズノフ:バレエ音楽「四季」,アルベール・ヴォルフ指揮パリ国立音楽院管弦楽団(london)CD,,近代バレエ音楽を確立したのがチャイコフスキーで、現代バレエ音楽を確立したのがストラヴィンスキーとして、その間に位置するロシアの作曲家が何もしていなかったかというとそうではない。チャイコフスキーの跡目を継いだタネーエフからラフマニノフといった作曲家はいずれもピアノという楽器から離れることがなく、作品も舞台音楽についてはほとんど冒険的なものは手掛けていない。対して本来別の流れ(リムスキー・コルサコフらペテルブルクの「クーチカ」)にあったグラズノフは、モスクワのチャイコフスキーとも親しく接し、その音楽に魅了されていた。天才少年だった頃からリストらに同行して世界の音楽に触れていたこともあり特定の流派に固執することなく、節操なく良いものを消化しては作品に反映した。殆どの楽器を演奏することができ、ピアノに頼ることもなかった。チャイコフスキーの作風も躊躇なく消化し、交響曲のスケルツォにはチャイコフスキーのバレエ音楽風の舞曲を導入している。さらにここにある「四季」はグラズノフがチャイコフスキーの延長上からさらに分かり易いローカル色を排し、「特定の物語に依拠しない」初の「抽象的なバレエ音楽」として仕上げたものなのである。この作品には筋がない。四季に沿って四つの場面(楽章)があるだけである。雰囲気と流れ、ブロック状の楽想の組み立て、それだけで成り立っている。意図は舞踏を際立たせるためのバックグラウンドミュージックなのであり、「音楽だけでは成立しない」危険性も孕んではいるのだが、スッキリとまとまった四曲に、癖のない旋律〜冬から始まるが楽章間の楽想の変化はさほど強く付けられず明るく進み、とくに終楽章「秋」の晴れやかな名旋律はご存知の方もいるかもしれない〜を散りばめ、管弦楽に無理を強いることも、ダンサーに不可能を強いることもないよう配慮の行き届いた簡潔な書法で仕上げられている。,,それにしても擬似ステレオと思われるヴォルフの録音は明るくきれいなだけで、原曲が簡潔なだけに引っかかりがなさすぎるので、平板で飽きる方もいるかもしれないが、これはおそらく舞踏を載せると巧くいく演奏なのだ。難しく見せかけてわりとすんなり出来てしまうグラズノフの木管ソロへの要求も、フランスオケのそれほど機能的でないところを目立たせず、むしろこれはロシアでコテコテやるのではなくフランスでやる曲なんじゃないかとも思わせる、じつに品の良い雰囲気である。じっさい古い録音にフランスのものも複数ある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
グラズノフ:バレエ音楽「四季」〜冬、夏、秋より抜粋,マルコ指揮フィルハーモニア管弦楽団(SLS他)1950/3/23・CD,,セッション録音。聞き所だけの抜粋で統一感はない。SP起こしの音はノイジーで辛いが戦前を思わせる賑やかで雑然とした後期ロマン派音楽の良さが肌で感じ取れる。しかしまあ、マニア向けだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:ピアノ・ソナタ第1番,○バシュキーロフ(P)(MELODIYA),,ロシア系ピアニストの旧録は一時期大量に出回ったのでこれもCD復刻されているかもしれない。バリ弾きピアニストの、残響の無いソヴィエトらしい環境下でひたすら名技性を「スピードと指の回転だけで」示している音源。というわけで最初は唖然としてそのパキパキした粒だった音符表現に「こりゃ自動ピアノみたいだー」と素直に喜ぶのだが、次第にケレン味の一切取り去られたグラズノフというのは単なる旧態依然とした偽リストにすぎない、という感情にとらわれ始め、最後にはすっかり飽きてしまう。でもこういうグラズノフらしくないグラズノフは聴いたことないし、職人的作曲技法を職人的に展開したということでロシア系ピアニストには受けた作品でもあるから、ピアノ好きは楽しめるかも。一瞬凄腕と感じさせるが録音のせいかもしれないが部分的には細かい音符が聞き取れないところも。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:ピアノ・ソナタ第2番(1901),エミル・ギレリス(P) (melodiya他)1950・CD 軽みのあるタッチでそつなく弾き流している風である。擬似ステレオという録音条件も、音色を無機質にしてしまっている感がある。悪くはないが、生硬な感じがしないではない。ちなみに手元にあるLPはかなり盤面が悪いので、そのせいでマイナスに感じるのかもしれない(メトネルop22とのカップリング、33CM 04331-32(a))。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:ピアノ協奏曲第1番,○オグドン(P)ベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団(EMI) ,,いい意味で薄い演奏。曲にまとわりつくロマンティックな重さを払拭し、軽やかで明るい演奏を作り上げている。バックオケからしてまずそんな感じで、グラズノフと言われなければ気づかず聞き流してしまうくらいだ(流してしまうくらい、という部分に着目)。オグドンはまるで午後二時のソープオペラの劇伴のように、洗練されたニュアンスが艶めいて聞こえるが、そこは深夜二時の、ではなくやはり午後二時の、なのだ。「寸止め」であり、デロデロにしかなりようのない楽想を、昼間っから聞かせられるように上手く昇華させている。もう古い言葉で言えば「冬ソナ」的。 ,,この曲はグラズノフ円熟期特有の、脱皮を繰り返すような転調が繰り返されて耳を惹くが、やがて明確な変奏曲の形態をとり、チャイコフスキーのやり方を模倣している。だが曲感は寧ろリストとか、もっと古いものに近い。楽想の数少なさを補う作曲技法「変奏」、という既にそういった才気枯渇状態に近くなっていたのかもしれない。短い曲だから余り気にはならないが、職人的な高い技量を発揮しつつ、それでもマンネリズムの存在は否めず、そうとくればもう速いテンポで押せ押せでがっと突き通して仕舞うのが演奏設計上得策。それにしては、この演奏はよくやっている。バックオケにちょっと弱みもあり、西欧風の音に違和感を感じるのはこの曲が殆どロシアでしか演奏録音されてこなかったせいだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
グラズノフ:ピアノ協奏曲第1番(1910-11),エレーナ・グラズノワ(p)メリヒアル指揮ハンブルグ・フィル(TELEFUNKEN他)CD化〜グラズノフの義理の娘(グラズノフはバレリーナとの悲恋をへて結局子供をもうけなかった)による演奏だが、はっきり言って名前倒れ。。。下手です。キッパリ。2番も入れている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:ピアノ協奏曲第2番,○アレクセイエフ(P)ニコラエフスキー指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)CD,,ラフマニノフの上をいくロマン極まれるピアノ協奏曲、難度はそれほどでもないがひたすらしつこい旋律の繰り返しを飽きずにどこまで聴かせられるか(単一楽章なので短いけど)が鍵となる。巨匠系だとくどくなるのだ。このソリストの音は透明繊細でホロヴィッツを少し思わせる。くどい曲想を灰汁抜きして美しく演じているのが非常にはまっており、名作だなあ、と曲自体の魅力に改めて気付かされる演奏だ。ただ技術的に不安がないわけではなく最後のほうの強奏部で指が折れたように和音が曇ったところは惜しい。○は余裕でつけられる。,-----,,,,,,,,,,,,,
グラズノフ:ピアノ協奏曲第2番(1917),エレーナ・グラズノワ(p)メリヒアル指揮ハンブルグ・フィル(TELEFUNKEN他)CD化,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:マズルカ・オペレック,D.オイストラフ(Vn)ユアイン(ユーディン?)指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA)オイストラフはかっこいいがオケやや鈍重、尚且つ曲が平凡。カルテット3番の単楽章をうすーく引き延ばしたような楽曲で、どこにも耳新しさがない。曲想はフレッシュだけど左耳から右耳に抜けていくような実に他愛のない音楽だ。バイコンの機知など微塵もない。カルテット3番だって冗長でも起伏に富んでおり比較にならない。無印。こういうところが嫌われたんだろーなプロコたちに。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:ロシアの主題による行進曲,ゴロワノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(CCCP),,これはひょっとするとどこぞのマニア評論家がCD−Rか付録海賊盤で出している可能性もあるので媒体明記はしないでおくが、とにかく私のEPは音が悪すぎるのである。これではファンファーレから始まりどこかで聞いたような旋律がさらっと流れる、そこを支えるグラズノフの安定した構造の迫力が出ない。ぐむむ。恐らくいろいろ使いまわされている旋律なんだろうなあ、たぶんチャイコとかそのへんが使ってたのを聞いたんだろうなあ。それにしても個性的なものはあるような気もするが短いし弱弱しく平坦な音に雑然とした弦なのでどう考えても無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:ロマンティックな間奏曲,○ヤブロンスキー指揮ロシア・フィル(NAXOS)2006/10/10-15・CD,,1900年に作曲されたということでグラズノフの作曲的ピークの時期に生まれた小品。あきらかに6番交響曲の緩徐楽章などと似通った内容をもち、それらを好む向きには薦められるが、飽き易いすれっからしには睡魔を催すだろう。演奏は原作主題にいちゃもんがつき初演が大幅に遅れた大曲、仮面舞踏会の余白埋めではあるが、意外とちゃんとしている。音色にロシア風味を残しながらもスヴェトラの乱暴な一発録りとは違った丁寧な仕上がりとなっている。自作中に比しては平凡ながらも変奏や移調に巧みな手腕が発揮されていることがよくわかる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
グラズノフ:闇から光へ,○ラフリン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP,,ちょっと特殊でかなり陰鬱な曲想から始まる。グラズノフで短調というのはたいてい序奏部か緩徐楽章の雰囲気作りに意図的に挿入されるのみで基本的に楽天的なのが持ち味なのに、この曲はショスタコが8番の2楽章を評した以上に暗く、また西欧的な雰囲気を持っている。グラズノフとは思えないくらいで、ロマン性がなく、かといって前衛的でもない、とても魅力が無い。だが、「闇から光へ」の展開はさすが、やっぱり計算であったのだ。最後はいつものグラズノフの盛り上がりで終わる。15分程度の小曲だがラフリンはやりすぎもせずかといって保守的ではけしてない、ロシアっぽい演奏を繰り広げている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:劇音楽「仮面舞踏会」,○ヤブロンスキー指揮ロシア・フィル(NAXOS)2006/10/10-15・CD,,グラズノフでも1910年代の作品でもう後期といってもいい作品だろう。厚ぼったい特有のオーケストレーションが削ぎ落とされ、個性は薄まったがスマートで優雅な作品に仕上がっている。もうちょっと内容的には過激なものになるべきだろうが、グラズノフという時代にはこれですら批判の声に晒されたようだ。初演まで4年かかり、その後30年忘れられた。普通に擬古典的な部分を含め聴ける音楽で(ハチャトゥリアンらとは時代が違うのでそこはちゃんと意識が必要)、演奏も程よいので、機会があれば。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:幻想曲「海」,セレブリエル指揮ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団(warner)2008/6/4-6・CD,,グラズノフの交響詩は他の分野の作品に比べそれぞれが個性的で聴き応えがある。これは冒頭から明らかにワグナーの指輪を下地にしており(グラズノフは圧倒的な音楽体験の記憶を自らの作風に上手に取り込んでいったが、大抵はそれとわからないくらいこなれているので、このような露骨な書法の引用は珍しい)、そこに徐々に自らの旋律要素や構造への見識を取り込んでいくが、ラストに近づくまで余りその香りをさせない。それがスクリアビン的ですらあるというか、西欧的な印象を与える。これと比べれば西欧折衷派と呼ばれるモスクワ楽派すら臭すぎると思えるほどである。描写的表現、その方法と効果は前時代的な単純さを示すが、グラズノフの全盛期は19世紀である、その時代において〜1890年代前後〜これは必ずしも古臭くはない。ついで言えばこれはゴリゴリの民族音楽(スラヴ・カルテット)をも書いていた時期の作品なのである、この人の柔軟で多彩な才能がわかる。ここでセレブリエルの演奏、イギリスオケの中性的で透明感のある音、安定した技術のうえでこの曲はさらに灰汁抜きをされ、早いテンポをとることによりまるで喜びの島とかあのへんの次世代のフランス音楽家(グラズノフはのちにフランスで客死する、ロシア語以外ではフランス語のみ使った、ラヴェルと同じ新作発表会に曲を出していたくらいであった)のきらびやかな音詩のかもすものにきわめて近いイマジネーションを、ロシアの泥に足を取られること一切なく掻き立てられる。なかなかの名演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:幻想曲「海」,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA/VENEZIA)LIVE・CD,,もっさり厚ぼったく重いかんじもあるが壮年のスヴェトラらしいスケールとダイナミズムのあらわれた演奏。曲は完全にワグナーだが書法は後年までつづくグラズノフらしいメカニカルなものがはっきり示されており、理知性が内容の浅さを透かし彫りにしてしまっている、そのチープさには好き嫌いあるだろう。ストラヴィンスキー初期にはグラズノフの影響がみられるものがあるが、花火などこの曲の一部によく似たものがきかれ、リムスキーを通じての接近ぶりは想像にかたくない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:幻想曲「森」,◯オルロフ指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(musiconline他)CD,,ワンパターンなロシア節が横溢するがグラズノフには珍しい鳥の鳴き声の模倣や印象派のような絵画的表現が終盤を盛り立てる。オルロフはこのオケの方が合っているらしい。ワグナーやリムスキーのような壮大さは無いもののグラズノフそのものの魅力のみを上手く引き出している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:5つのノヴェレッテ,ハリウッド四重奏団(testament他)CD
グラズノフ:5つのノヴェレッテ,○サンクトペテルブルク四重奏団(delos)CD,,ここまでやり切ったノヴェレッテも無いだろう。強いて言えば余りに壮大激烈にやっているがゆえ別の曲に聞こえてしまうのが難点か。サンクトペテルブルクの弦楽の伝統的なフレージング、ヴィヴラートのかけ方、レガート気味にともするとスピッカートもベタ弾きしかねない、そういうところがもはや当然の前提として敢えてそのスタイルから外れ、抽象度を増しているところもあると思う。各曲の最後のダイナミックな収め方は民族音楽を通して保守的な弦楽四重奏曲という形式を壊すようなグラズノフのまだ意気軒昂としたところをよく押さえて出色だ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:5つのノヴェレッテ,サンクトペテルブルク四重奏団(DELOS)CD,同上,伝統的なロシアのやり方で、現代の精度をもって演奏したスタンダードたる演奏。発音はショスタコーヴィチ四重奏団などを思わせる縮緬ヴィヴラートや情趣を湛えた音色で、しかし四本がしっかり同等に主張し、グラズノフの作曲手腕を活かしアンサンブルとしてとてもまとまった、統一された演奏になっている。曲ごとのムードの違いも(グラズノフ自身が書けた範囲で)明確で、やはりワルツの甘やかさにとても惹かれた。長さを感じさせない優秀録音。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:5つのノヴェレッテ,シシュロス四重奏団(melodiya)LP,,ステレオ初期の日本輸入ボックス収録だが、表記ミスでファーストがシシュロフのショスタコーヴィチ四重奏団の演奏の可能性がある。ショスタコーヴィチ四重奏団は民族的な音、表現と均整感、整えたようなテンポでグラズノフを臭くも冷淡にもならずちょうどいいバランスでまとめ上げており、おそらく一番グラズノフの室内楽を録音した楽団だが、音程のアバウトさを含む民族主義的な音が(スラヴにかぎらないオリエンタルなものを含めて)かなり似ている。もっと表出意欲が強く感じるのは終楽章だが反面、全般にはそれほど押しの強さのない、少し耳が離れてしまうようなそつのないところもある。録音も古びている。そんなところか。25分を上回る民謡組曲なんてむしろ普通飽きるもので、グラズノフの各楽想にあわせた巧みな書法とじつは結構常套的な部分をどうミックスして聴きやすくするかというところはある。抜粋なら簡単。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:5つのノヴェレッテ〜T.スペイン風,○グラズノフ四重奏団(MUStrust)1930年代?・SP,,どこがスペイン風なんじゃと百年以上にわたって言われてきたであろう曲だが、低弦のピチカートにのせてリズミカルな旋律を奏でればなんとなくスペイン風、でいいのだ。グラズノフはそんなノリで中世風とか色々おかしな題名を付けている。これはグラズノフの室内楽でも著名な組曲の一曲目で、若書きということを置いておけば至極凡庸な民族音楽である。伝説的なグラズノフ四重奏団の私のSPはロシアで輸出用に作られたもののようでレーベル名も不確かだ。回転数がやや遅めに設定されているようで、78だと非常に速くびっくりしてしまう。だがそこを考慮しても勢いがあることには変わりはない。オールドスタイルの奏法は目立たず、それより精度と覇気、この2点に目を見張る。現代でも通用するだろう。短いのに聴き応えがあった。録音も良い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:5つのノヴェレッテ〜T.スペイン風,グラズノフ四重奏団(Mus)1930,同上,名前に恥じない演奏。グラズノフの特徴が詰まった曲を音程狂いも厭わぬくらいてんめんと。しかしテンポは揺らさないで突き進む。中間部少しダレるのは曲のせい。同曲集は軽いサロン音楽として、部分抜粋がしやすくアンコールピースとしても重宝される。長さ的に一面5分が限界のSPに向くせいか同時代録音が多く、シェフチク=ルホツキー弦楽四重奏団やポルトロニエリ四重奏団(四曲(T.スペイン風、U.東洋風、V.古風な間奏曲、X.ハンガリー風)録音している模様、うち2曲はイタリアの図書館書誌サイトで各30秒だけ聴ける)、ローマ四重奏団など録音がある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:5つのノヴェレッテ〜W.ワルツ,グラズノフ四重奏団(CCCP)SP,,グラズノフの代表作の中でも著名な作品で、冒頭からの跳ねるようなワルツ主題はチャイコフスキーの次を見せるような美しくも儚い名旋律だ。幾つかの旋律をわたり再びこれに戻っていくが、やはりこの主題をどう聴かせるか、とくに単品で出てこられると(おそらく全曲あると思うが)期待してしまう。グラズノフ四重奏団はその名に恥じず、懐かしい音とフレージングでこれこそ聴きたかったものだ、というものを与えてくれる。といってもほとんどファースト次第でもあるが四本とも表現が揃っている。裏面の暗い主題あたりは原曲がつまらないからまあこうなるなというかんじだが、盛り上がって勢いを取り戻す腕は円熟している。なかなか。,-----,,,,,,,,,,,,,
グラズノフ:5つのノヴェレッテ〜T.スペイン風、U.東洋風,○タネーエフ四重奏団(melodiya)LP,,タネーエフ弦楽四重奏団が、この他弦楽四重奏曲第4,5番を録音しているところまでは確認している。「スペイン風」と「オリエンタレ」の二曲のみで後者はまさに民族音楽を西欧楽器によって「再現」すべく構成された、グラズノフの民族主義的側面の真骨頂をみせる舞踏音楽。ゆえに3番「スラヴ」同様西欧的な見地からのアンサンブルの楽しみは少ない。ドヴォルザークの作品群をこのての弦楽四重奏曲の頂点とすれば、余りに単純化され民謡側に寄り過ぎたものとなっている。,,演奏者に要求されるものは特殊で、3番「スラヴ」にも言えることなのだが、旋律楽器はあくまでこれが、農村の祭りにて広場で催される踊りの伴奏として演奏される楽曲である、という前提から外れてはならない。リズムや和声においては、特殊ではあるが国民楽派特有のマンネリズムの同じ範疇にいるものの、純音楽として室内で演奏されるべく緻密に作られたチャイコフスキーのような音楽ではなく、野外で、残響の無い世界に響かせるために、旋律は鋭く痙攣するような音でダンサーにグルーヴを提供し、開放弦を含む重音による旋律など特に構造的な世界から解き放たれた単なる民族音楽を演じていく。伴奏はあくまで伴奏に徹することを強いられるが、舞踏音楽としての弾けるようなリズム表現を要求され、テンポ維持含めその役割は重要で、スコアの再現としての「単なる音形(パターン)の繰り返し」にはならない。,,そういうところからこの演奏を見ると、一曲目においてすらそうなのだが、ファーストが甘い。タネーエフQの他の盤、例えばドビュッシーもそうだが、だらしなく拡散的な表現、にもかかわらずボロディンQを模倣したようなやや冷たい音色で変に生硬に縦を揃えようとするきらいがあり(他三本は揃っているのに)、自由ではないのに自由になってしまうといった、浅い感じが否めない。一般にタネーエフQは民族的な表現に優れているように認識されているのかもしれないが、クラシック楽器で民族的表現を完璧にこなすには技術的な部分というのは重要だ。バルトークとまでは言わないまでも特殊な弾き方があり、特殊なヴィブラートがあり、微妙なボウイングがあり、それらは先ずは正統な表現をなしてから加えていく要素であり、この楽団の場合、伴奏楽器のリズムは完璧なのに、旋律楽器が土臭さを演じているのではなく、計らずも出てしまうのが気になる。基本洗練を目としているけれど垢抜けない、そういうところが見えてしまう。うーむ。半端だ。ショスタコーヴィチ四重奏団、シシュロフのほうに一長があるように思う。あ、こんな短い曲だけでこう判断することはできないけど。単品で言えば佳演。,,今は日本語では「ノヴェレット」と表記していることが多い。,-----,,,-----,,,-----,
グラズノフ:5つのノヴェレッテ〜T.スペイン風、U.東洋風,ポルトロニエリ四重奏団(columbia)SP,,しっとり聴かせる一曲目、イタリアの楽団らしい溌剌としたところをみせる二曲目、どちらも古い演奏にありがちなメロメロにはならず、音色はともかく、きちんとした現代的な演奏で、悪く言えばあまり個性的ではないが、良く言えば技術的に安心して聴けるものである。ボロディン風の二曲目にかんしていえば緩徐主題がいきなり南欧風の情緒をかもし世界を瞬間移動するような変な感覚が味わえた。ポルトロニエリは全曲録音していると思われるが、バラで四曲までしか確認できていない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:5つのノヴェレッテ〜U.東洋風,○プロ・アルテ四重奏団(ANDANTE/HMV)1933/12/11 民族音楽的な曲(弦楽四重奏曲第3番「スラヴ」の世界)であり、4本はしっかり自分が民族楽器を奏でているのだと自覚して挑むべき曲である。独特の旋律の美しさにはボロディンのような華やかさは無いがブラームスやチャイコの憂愁が感じられる。いい曲。演奏は熱い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:5つのノヴェレッテ〜U.東洋風、V.ワルツ,◯アンドルフィ四重奏団(disque a aiguille)SP,,録音年代は古い模様だが、オリエンタレからは技巧派で、軽やかなアンサンブルをこうじる演奏スタイルがききとれる。現代的というか、フランス風というか、ロシアの演奏ではないことはたしかだ。間奏曲ではポルタメントも出てきてさすがに古臭さは否めないが、これがまた何とも言えない音色で、派手さはないが印象に残る。どこのパートが突出するでもなく、アンサンブルとしてよくできた団体だと思う。ボロディンふうの音響なのにドビュッシーふうに聴こえるのがいい。◯。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:5つのノヴェレッテ〜V.ワルツ,○ヴィルトゥオーゾ四重奏団(HMV)SP,,サロン的な小品でこれだけ単独でアンコールピースとされることもある(この小品集自体「余り埋め」で抜粋されることが多い)。グラズノフ独特のハーモニーや旋律線の癖、ボロディン的マンネリズムが割と薄い曲ではあるのだが、ロシア人の「ウィーンへの憧れ」を上手に取り出し、仄かな感傷性を浮き彫りにした、英国人らしい上品な客観性のある演奏となっている。やはり上手いのかなあ。SPは高音の伸びがどうしても聴こえづらいので、高音を多用するボロディン的な曲ではマイナスなのだが、簡潔な曲なのでそこは想像力で十分。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:5つのノヴェレッテ〜V.ワルツ,フロンザリー四重奏団(victor)SP,,地味な楽章ゆえに大人しい演奏になっている。美質は聴き取れる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:弦楽四重奏曲第2番,ユトレヒト四重奏団(Mdg)CD,,全集+の一曲で雄弁で隙がなく構成的にも素晴らしい(音色がニュートラルで硬いのが玉に傷)壮麗なフィナーレが聞きものの演奏。ショスタコーヴィチ四重奏団の録音が唯一であった同曲を再評価するのに十分で、ローカルな魅力、情緒的表現を音色にまで徹底させた後者のそのまま裏返しの弱点が(音程狂いをそのまま録音したりしている)完全に払しょくされているが、情緒的要素には決して欠けていない。この曲はボロディンの2番と見事な相似形をなし、あれに民族色をさらに融合させ緻密に、それでも簡潔に構築している名曲だ。メロディも美しく、少し暗さのある、重みある響きは中欧ふうでもある(この盤はドイツ製だ)。後年より素直に才能が発揮されていて変な民族主義やアカデミズムが顔を出さない、ただちょっと長いと感じる人もいるかもしれないが、チャイコフスキーほどくどくはない。ボロディン2番を意識したようにソロ楽器にろうろうとメロディを演奏させほかの楽器が沈み、それがかけあったり数珠つなぎされていく点で「アンサンブルの魅力」でいうと躊躇する団体が多いのか演奏機会もほとんどなく(むかしyoutubeにあったが今は断片しかない)でもやってみてボロディンの2番より数十倍アンサンブル曲であるから単なるイメージだろう。ヴィオラソロを導入部に長々と挿入する後半楽章はとても聞きごたえがあり旋律にも連続性があっておすすめだが、前半楽章、1楽章は「スラヴ」を思わせる恥ずかしい演歌だけど、2楽章はボロディンとチャイコフスキーのスケルツォを掛け合わせたようなトリッキーかつ熱情ほとばしる曲でよい。この演奏はちょっと前半おとなしい。,,いずれにせよweb配信販売もされているので、定額制とかやられているならぜひ!聞いてください。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
グラズノフ:弦楽四重奏曲第2番(1883-84),○ショスタコーヴィチ四重奏団(Melodiya)ボロディンに飽きたとお嘆きの貴兄に。少々冗長なところもありますが、3楽章から4楽章への流れはボロディン的な響きの美しさを維持しながらも、構築的なドイツ音楽を取り入れた面白い聞き応えの曲になっております。また4楽章には少々モダンな響きも出現して、クーチカやチャイコフスキーの次の世代を予感させるところもあります。3楽章第2主題の儚げな夢幻の世界は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番2楽章を予感させる素晴らしいものです。”グラズノフ”は名前で損していますが元来「美しい」作曲家なのです!ビオラ・ソロも聞き物。あと、3〜5番もそれぞれ個性的で、お勧めです。>,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:弦楽四重奏曲第4番,○タネーエフ四重奏団(melodiya)LP,,俗っぽい悲恋話を背景にしているとの伝説のある、グラズノフにしては珍しい一貫して晦渋な作品で、構造的な書法が目立つこともその印象を強くしている。交響曲第8番2楽章あたりの近代ロシア的な陰鬱さに通じる。グラズノフは形式音楽におけるスケルツォ楽章を、他の楽章との対比的なものとして完全に独立した異なる楽想により描くべきである、ということをどこかで公言していた記憶があるが(直接聞いたわけじゃない)、この曲においては3楽章がそうで、ボロディンふうの軽やかな楽想がチャイコフスキーふうの構造に昇華された妙に明るい民族的楽章となっているが、これを別とすれば他楽章はいずれも重厚な雰囲気を持ち、関連する動機や(頻繁に揺らぐけれども)ハーモニーを用いており、バッハやベートーヴェンの模倣といった古典回帰の傾向を強く打ち出している(ベートーヴェン指向は5番でより強くなる)。,,グラズノフを強く印象付ける要素としてのポリフォニックな書法がここにきて全面に立ってくるのは特筆すべき点と言える。4本が重音でユニゾン主題を奏でる部分でのオルガン的な音響など余りグラズノフでは見かけないものも聴かれ(視覚から聴覚にシフトしてみた)、そういった作り込みがアンサンブル好きや演奏者サイドにとっては他の単純な室内楽に比べて魅力的になっているとも言えよう(「いえよう」と書かないところが、さるお方との違いを示しているのだ。・・・こういう「いちいち」な書き口、やっぱり読みづらい、やめたほうがいいです<誰に向かって?)。,,かといって2、3番から離れて複雑になったわけでもない。終楽章など3番同様ファーストが弾きまくるだけの部分もある。寧ろその点更に円熟した技巧の投入された多彩且つ壮麗な5番が別の場所に頂点を築くわけだが、3番のように民族楽器表現の模倣に終始したり1、2番のようにボロディン的な世界を追求した、より単純で軽やかな作品とは一線を画していることは確か。タネーエフQがこの4,5番を録音演目に選んだ理由はなんとなくわかる。,,で、演奏なのだが、やっぱりプロの室内楽士としては技術的な限界も感じる。裏板に響かない金属質で細い(でも柔らかい)音のファーストがどうにも私は好きではない。他のパートとの音響バランスが悪いのだ。予め設計上手を入れすぎているのではないかというところが気になるのは、この曲の録音が殆どショスタコーヴィチ四重奏団のものしかなかったからそれとの対比で、ということでもあるのだが、全般とにかく遅いし、1楽章で特に気になったのはやたらと音を切ってニュアンスを変え主題を際立たせようとしているところ。グラズノフはきちんと書いているのに、却ってわかりにくくしている。事前設計上冒頭のテンポを極端に落としコーダまでに徐々にアッチェルしていく、というやり方が両端楽章で聴かれるが、板についた表現になっていないので生硬さだけが印象として残り、ただでさえ上記のような余りよくない印象があるのに、更に下手な楽団であるかのような錯覚を覚えさせてしまう。,,面白い。シシュロフもこんな4番はやらなかった。だが、3楽章においてもあまりの遅さに辟易としてしまった(ショスタコーヴィチ四重奏団が速過ぎるということなのだが冒頭に書いたグラズノフの主張からすれば緩徐楽章に挟まれたスケルツォの対比的な表現として正しいテンポだと思う)。,,ファースト批判ばかりしているわけではなく、他の楽器も人工的な変化を人工的とわかるように入れており、同じようなものではある。痙攣ヴィブラートでちょっと民族的な音を出している場面もありこれはボロディンQとは異なるタネーエフQの個性だろう。ただショスタコーヴィチ四重奏団はもっと露骨に印象的にやっている。ミスの有る無しという子供みたいな観点からはショスタコーヴィチ四重奏団は最高音の音程を外すなどやらかしているところがあるがこれは左手を柔らかく使う奏法からくるものでもあろう。それに比べてタネーエフ弦楽四重奏団はミスが録音されていない。これは人によっては重要な点かもしれない。,-----,,,-----
グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番,◎サンクトペテルブルク四重奏団(delos)CD,,ここまで解釈を尽くした演奏もあるまい。一楽章はいくらなんでもやり過ぎの感が否めないが三楽章はここまでやらなければ伝わらないのだ、という真理を聞かせてくれる。ファーストだけが異常に雄弁で音はやや硬くけして無茶苦茶上手い団体ではないのだが、これは交響曲として書かれたものであると喝破したかのような、まるで往年の巨匠系指揮者のやっていたようにダイナミック、細かく大きな起伏の付けられた表現をしている。偶数楽章はもっと直線的演奏の方が合っているかもしれない、異論があってもいいが、スタイルを固持し一貫している。もう一つ文句をつけるならワルツ主題がワルツになっていない、でもこれは抽象音楽の表現としては正しい。とにかく同曲の録音史上最もやり過ぎた演奏であり、やり込んだ演奏であり、これ以上曲を理解した演奏もなかろう。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番,○シシュロス四重奏団(melodiya),,この曲はLP初期にレニングラード・フィル協会弦楽四重奏団(タネーエフ四重奏団)が録音しており、そのせいか番号付きの作品の中では古くから知られていたようである。同モノラル録音を私は聞いたことが無いが、このステレオ盤は恐らくそこからは相当にかけ離れたものであると思う。即ちすこぶる現代的であり、そつがなく、「いかにも新世代の演奏ぶり」なのだ。先入観を植えつけられず聞くことができるし、奏者の奏法解釈から殊更に民族性が煽られないぶん最初に入るのには適しているとも思える。実にそつがないのだ。綺麗だし、完璧。ただ・・・終わってみて、すれっからしは「何か足りない」と思ってしまう。少なくともショスタコーヴィチ四重奏団に比べて音のバリエーションや魅力が(民族性という観点において)足りない。グラ5から民族性を抜いたら単なるベートーヴェンである、というのは言いすぎかもしれないが、やや物足りなさを感じさせるのは事実だ。○にするのに躊躇はないが、ライヴで聞きたいかというとそんな気も起きない感じではある。いや、譜面は完璧に再現されてますよ。テンポ的にも遅くならず、完璧に。巧い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番,○シシュロス四重奏団(melodiya)LP,同上,レニフィル四重奏団(タネーエフ四重奏団)に続く録音で選集ボックスの一部になる。ショスタコーヴィチ四重奏団の録音に似ていて(音もよく似ている・・・シシュロ「ス」なのか??)、やや1stが弱いけれども、オーソドックスに聴ける印象。前半楽章はやや平凡か。三楽章が速くダイナミックで面白い。四楽章はよく揃っていて、これはほんとにショスタコ四重奏団にそっくりだ。技術的限界からか装飾音をごまかすような表現があるレニフィル四重奏団にくらべ、このグラズノフ屈指の名楽章の構造的魅力をよく引き出している(むこうはむこうで独特の解釈があり楽しめるが)。立派。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番,○モスクワ放送弦楽四重奏団(MELODIYA),,これこそスタンダードと呼びたい。スタイルは現代的で音もプロとしては普通(力強く金属質で私は苦手な音だが)、あっさり流れるように速い(とてつもなく速い)インテンポでパウゼもどんどんすっとばし、フレージングにも過度な思い入れがなくポルタメント皆無の教科書的な表現だ。しかし、非常に高度なテクニック(今まで聞いたどの演奏より抜きん出て上手い、ミスは1楽章末尾が速過ぎて聞こえなくなるところくらいだ)に裏付けされたこの異常な集中力、(繰り返しになるが)終始ものすごく速いテンポはグラズノフ円熟期のワンパターンで厚ぼったい書法のもたらす変な重量感を軽やかに取り去って、敷居を低くしている。逆に旋律の美しさが際立ってきて耳優しい。西欧古典を聞くような感じがするが、ベートーヴェンを意識したがっしりした曲調については、それほど意識的に強調してはいないふうである(アタックの付け方も普通だ)。そうとう手慣れたアンサンブルぶりでこのロシアの団体の経験値の高さに驚かされるが、解釈というより録音バランスの問題だろう、2楽章第二主題の展開でファーストが巧みに裏に入りセカンドと絶妙な高音ハーモニーを聞かせる(若い頃からグラズノフの得意とする方法で真骨頂だ)非常に美しいセンテンスにおいて、なぜかセカンドが引っ込みファーストが雄弁に「対旋律」を歌ってしまっている。意図だろうが違和感があった。まあ、このスピードの4楽章が聞けるだけでも価値は多大にある。このくらいまで速くないとダレますよ長丁場。総じて○。,,<後記>何度も聞いていたらだんだんそんなに言うほど巧くない気がしてきた。4楽章後半とかテンポグダグダになりかけてるし、ロシア録音、とくにモスクワ放響やモスクワ・フィルの弦楽器にありがちな中音域の薄いばらけた音響(多分に録音のせいもあると思うが)に近いちょっと・・・なところもある。それも鑑みてやっぱり、○は妥当かな。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番,○リムスキー・コルサコフ四重奏団(ARS)CD,,さらさら流れるような演奏で引っ掛かりは少ないが、内声部がよく聴こえる。この団体の中低弦の充実ぶりが伺え、グラズノフの書法の緻密さをじっくり味わえる。旋律主体の伸び縮みする演奏とは違う「アンサンブルの面白さ」が楽しめる演奏として特筆すべきだろう。2楽章のワルツなんかはグラズノフ四重奏団と同じような舞曲っぷりが何とも言えない香気を放ち、部分部分では特筆すべき解釈はある。終楽章はやや落ち着いているし恣意的過ぎる部分もあるものの、無難である。三楽章は余り印象に残らない。翻って長大な一楽章はとにかく速い。技術的に高いわけではないが技術的にバランスのとれた四人によって編み出された佳演と言えるだろう。ショスタコーヴィチ四重奏団よりもスタンダードと言っていいかも。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番,○レニングラード・フィル四重奏団(タネーエフ四重奏団)(MELODIYA)LP,,グラズノフの室内楽録音は長らくこれ一枚しかなかったが、それほど枚数がはかれなかったために、余り知られないまま今に至っているようである。同楽団はのちにタネーエフ四重奏団となった。技術的に確かに不安定なところがあり、意気軒昂とやってのけるショスタコーヴィチ四重奏団に比べれば聴き劣りするところもあるのだが、高めのピッチにスッキリしたテンポは現代的な印象も与える。細かいルバートはあるし縮緬ヴィブラートも特有のロマンチシズムを演出するのだが、あっさりしすぎと感じるのはとくに最初の二つの楽章だろう。内声部の仕組みがいまいち浮き立ってこずグラズノフの技巧的長所が聞き取りづらいのも難点だ。ただ、4番以降ベートーヴェンらの影響下に晦渋な構造性をしっかり盛り込むようになったグラズノフの、最もボリュームのある緻密なカルテットなだけに、いちいち細かく弾いていては重重になり胃がもたれてしまう。やや粗雑な演奏振りに反して聴き易さは感じた。白眉の三楽章ちょっと遅い四楽章と、ショスタコーヴィチ四重奏団より変わった感じで流れよく聴き終えられる。それにしても何故この曲がマイナーなのか理解できない。スマートな旋律の宝庫。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番,グラズノフ四重奏団(noginsk)1937,,細部まで解釈が施された特筆すべき演奏。楽章毎に出来にバラつきがある。一楽章はスピード感溢れる名演。二楽章は前記の単品録音の方が速度感がありいいかも。三楽章はしっとり聴かせる。四楽章はテンポが前に流れたり技術的な問題が目立ち、いきなりカットで終わるのは収録時間の問題とはいえ残念。1stヴァイオリンの美音◎。グラズノフの誇るポリフォニックな書法が楽しめる名曲で、暇があったら4楽章はぜひどうぞ。古典から国民楽派音楽までの音楽史を消化し、4本の楽器に集約した素晴らしい楽章。グラズノフ四重奏団のグラズノフはノヴェレッテ抜粋やこの曲の楽章抜粋のほか、SPの面埋めにベリャーエフの名による四重奏曲の三楽章(但し共作でこの曲はボロディンによる)が録音されている。1950年とされるが時期的にメインの方(別の団体によるメンデルスゾーン)の録音年のように思う。高額で手が出なかった。。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番〜U.スケルツォ,グラズノフ四重奏団(Mus)1930,,びっくりしたと言ったら失礼か、上手い。水際立った表現、力のある演奏。グラズノフ四重奏団は戦前ソヴィエトの代表的弦楽四重奏団で、Ilya Lukashevsky、Alexsandr Pechnikov、Alexsandr Ryvkin、David Mogilevskyというメンバーからなる。ファーストがずば抜けているオールドスタイルの楽団ではあるが、今は聴けない縮緬ヴィブラート、即興的アンサンブルを楽しむことができる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番〜U.スケルツォ,○グラズノフ四重奏団(MUStrust)1930年代?・SP,同上?,速い。かつこの演奏精度は素晴らしい。テンポが前のめりだがそれがグラズノフの畳み掛けるような書法とピタリとあっていて正統な演奏であると感じさせる。ワルツ主題はそれにも増して速くびっくりするが、音の切り方、アーティキュレーションの付け方が巧緻でなかなかに聴かせる。ワルツ主題が優雅に展開する場面で初めてオールドスタイルの甘い音が耳を安らがせる。ここは理想的な歌い方だった。ショスタコーヴィチ四重奏団も歌いまくるがそれとは違う、優雅で西欧的な洗練すら感じさせる。その後テンポが激しくコントラストを付けて変わり、慌ただしくもあるが、冒頭主題が戻るとかなり落ち着く。その後はうまくまとめている。これほど達者で洗練された団体だとはあのボロディン2番からは想像できなかった。○。新グラズノフ四重奏団とは違う団体です。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番(1998),◎ショスタコーヴィチ四重奏団(melodiya), ○リリック四重奏団(meridian),ダーティントン四重奏団(pearl),シシュロス四重奏団(melodiya他),<最近ショスタコーヴィチを聞き直している。久しく聞いていなかった「レニングラード」などに改めて感服したりなぞしている。緩徐楽章にブルックナーやマーラーのエコーが聴こえるたびに、ああ前の世代を否定する事により成り立っていた「モダニズム」の、「次の」世代なんだな、と思う。音楽院時代の師匠にして個人的恩人でもあるアレキサンダー・グラズノフは、ロシア五人組、とくにボロディン・リムスキー=コルサコフの継承者として約束された道を歩んだ。外来の音楽家や、チャイコフスキーらモスクワ音楽院の折衷派とも活発に交流したが、踏み外す事を許されぬ道はそのままペトログラド音楽院長へと続き、表向き闘争する側に回ることも許されなかった。結局作曲家としては殆ど忘れられることとなり(寧ろ指揮者だった)、困窮の亡命者という末路は「破滅」だったと言ってよいかと思う。,,グラズノフの才能はどのみち限界に当たったのかもしれないが、最盛期までの流麗な佳曲の数々に触れるたび、時代の波に翻弄された帝政ロシアの「最後の波(byブラームス)」に同情する気を抑えられない。音楽的系統樹を切り倒す暴風〜ゲンダイオンガク〜への防波堤となったグラズノフは、ストラヴィンスキーやプロコフィエフという異能と対立する事もあったが、あくまで個人的趣味の上に留め、その才能についてははっきり認めていた。寧ろ自分の耳がロートルなのかもしれないという発言は、マーラーがシェーンベルクに語ったこととよく似ている。それゆえ「潰す方向」に動く事は決してなかった。ソヴィエト時代の権力的音楽家が真の才能を持った音楽家を押さえつける構図とは全く異なる。ショスタコーヴィチの才能はこの暖かな温床の上にすくすくと芽を伸ばした。程なく大輪の花が開く。そして半世紀以上にわたり花が付き続けた。世界中に種を撒いた。あの鉄の壁の向こうから、壁など無いかのように力強く響く音。音楽史の流れからいえばそれはとても先端のオンガクではなかった。だが現在20世紀が終わるにあたって、この世紀において最も才能に満ち溢れ、しかも真摯であった作曲家が誰かと考えてみると、DSCHの4文字が浮かんでくる(多様さを否定する無闇な順位付けなど意味の無いことだが)。オネゲルではないが伝統の「幹」がなかったなら「枝葉」など生える事は無い(これは新古典主義のことだったか、ショスタコーヴィチも新古典の流れ上にいる作曲家だ)。かといって枝葉を張らない幹は枯れ果てるだけなのだけれども。・・・,,収集がつかなくなってしまいました。この曲はグラズノフの室内楽では最も良く書けているといわれる。交響曲のところでも書いたが、中央ヨーロッパ的な後期ロマン派音楽の枠組を総括したうえで、旋律と和声という「音楽の重要なファクター」についてだけロシア音楽を取り入れている。配合具合が独特のため個性的に聞こえるが、耳ざわりが悪くなる事は決してない。フーガに始まる1楽章は強い力を持ち、4番四重奏曲で試みられた古典音楽回帰の傾向が、より消化された形で魅力的な旋律群を飾っている。2楽章は典型的なロシア国民楽派のスケルツオであるが、テンポの遅い演奏で聞いてみるとブルックナーやマーラーの舞踊楽章を思わせる深刻な色をにおわせる。さらに8番交響曲の暗い幻想に繋がるような儚い3楽章は死に行く白鳥を思わせる味わいを持ち、祝祭的な終楽章は緊密な対位構造や複雑なポリフォニーによって、その長さを感じさせない程ヴァリエーションに富んだ内容を聞かせる。ブラームスからベートーヴェン果てはバッハまでも取り入れて、この秀逸な流れは昇華洗練されてショスタコーヴィチに確実に受け継がれている。ストラヴィンスキーですら初期にはグラズノフ的な曲を書いた。アマルガム作曲家であっても影響力は強い。手法の探求され尽くした時代の芸術のありようが、ここにも先駆的に示されている。(またいつかしっかり書きます。すいません中途半端でした)>2000記,これらを聞き比べると余りの印象の違いに改めて「懐の深い曲」なのだなと思う。無論オーソリティのショスタコーヴィチQにかなうものはないと思うが、民族音楽的趣が少し苦手の場合は後者の演奏に触れるとよいと思う。ショスタコーヴィチQのヴァイオリンは独特のロシアスタイルで、折衷派グラズノフをおもいきり五人組の世界に引き戻すようだ。あやふやな音程感も左手の柔らかい演奏スタイル(コブシのきいた細かく沢山のヴィブラートをかけることにより、素朴だが艶やかな音色を出せる)上、仕方ない。単純な技術でいえばダーティントンのほうが上に聞こえるかもしれないが、この解釈は軽すぎる感もある。また生硬だ。リリックの終楽章は面白かった。シシュロスは奏法はショスタコーヴィチQに似るがファーストの音が金属質で細く、堅牢な楽曲自体の魅力は十分伝わるが、情趣の面で劣る気もする。名前の近似でショスタコーヴィチ四重奏団との混同を疑ったが、異なる演奏でファーストはシシュロフではなくシシュロスという別人だと思われる。他、グラズノフ四重奏団のカット版SP録音(断片別録もあり)、従来は初録音と思われたレニングラード音楽院四重奏団(後年のタネーエフ四重奏団)のものなど古い演奏でも結構な数がある。新しい録音も比較的多い。,,※2004年以前の記事に2017年加筆したものです
グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番(1998),◎ショスタコーヴィチ四重奏団(melodiya)ダーティントン盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番(1998),○リリック四重奏団(meridian)ダーティントン盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番(1998),ダーティントン四重奏団(pearl)〜これらを聞き比べると余りの印象の違いに改めて「懐の深い曲」なのだなと思う。無論オーソリティのショスタコーヴィチQにかなうものはないと思うが、民族音楽的趣が少し苦手の場合は後者の演奏に触れるとよいと思う。ショスタコーヴィチQのヴァイオリンは独特のロシアスタイルで、折衷派グラズノフをおもいきり五人組の世界に引き戻すようだ。あやふやな音程感も左手の柔らかい演奏スタイル(コブシのきいた細かく沢山のヴィブラートをかけることにより、素朴だが艶やかな音色を出せる)上、仕方ない。単純な技術でいえばダーティントンのほうが上に聞こえるかもしれないが、この解釈は軽すぎる感もある。また生硬だ。リリックの終楽章は面白かった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:弦楽四重奏曲第6番(1921、op106),ショスタコーヴィチ四重奏団(Melodiya)1975 近年再評価著しいマイナー作曲家のひとり、グラズノフの、これはもう末期に近い頃の作品である。室内楽ではこの後に第7番が作曲されているが、カルテット曲の中で良く評価されるのは 5番までで、この6、次いで7は殆ど対象にされない。それはこの100番台の作品群が、83番の交響曲第8番を頂点とした彼の作曲生活の蛇足とみなされているからかもしれない。事実、一時は湯水のように湧き出ていた彼の作品が、1905年にペテルブルク音楽院長に推されて以降、教職に専念する一方で極端に少なくなっていったことは否定できない。しかし、本当に膨大な楽識と技術に裏付けされた彼の叙情性は、これらの作品においてもなおその輝きを失っていない。サキソフォーン協奏曲のような新しい可能性を探る彼なりの「前衛性」は、失敗してはいるが、7番の終楽章にも(主に奇妙な終止部などにおいて)見うけられる。グラズノフに関しては、とてもここだけでは書き切れないものがある。ショスタコーヴィチの作品にも、おぼろげながら影響の痕跡が見える時があるが、この6番を聞いてもショスタコーヴィチを思わせるところが僅かある。異常に高度な作曲技術、美しい旋律とひびき、しつこさも苦にならない変奏部の巧みさ、これがこの曲から感じられることだ。終楽章の最後など、それまでの彼の室内楽には無いハッとするような感覚を受けるが、ここのみならず、初期のお定まりの技法からは想像もつかない広大な世界が展開されてゆき、聞く者を飽きさせない。楽想の「うねり」も凝縮されしかもスムーズにわれわれの感覚にうったえてくるものがある。とても「尽きた」作曲家のものとは思えないすばらしい作品である。ショスタコーヴィチ四重奏団も懸命に頑張っている。「グラズノフ世界」がこれほど濃密に展開された曲はあまりないだろう。(1992/9記)>,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第1番「スラブ風」,○アクロフ指揮モスクワ放送交響楽団(MELODYA)LP,,残響が多いこととオケの技術が素晴らしいせいもあるのだが、なかなか立派な演奏になっている。初期グラズノフの民族の香のする独特の転調や和音や変奏・楽想変化が無理なく聞けるよう巧みに表現されており、曲の冗長さも、書法の教科書的な巧さを高度な演奏技術とさばき方で余すところなく引き出すことでそう気付かせないように注力している(但しそれでもワタシは飽きたが)。チャイコの影響もみられる改訂版であるが、イワーノフのような凝縮力のある指揮者でないと、二度三度楽しむのは難しい曲だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第1番「スラブ風」,○イワーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(PEARL)LP若々しく溌剌としたグラズノフの出世作。グラズノフの最高傑作とする人もいるほど隙がなくプロフェッショナルな技巧の存在を確かに伺わせる作品だ。16歳の作品と言われるが後年手が加えられている。1楽章の意外なほど西欧的な古風な作風はこれがロシア国民楽派の本流に現れた作品とは思えないほどだ。リムスキーの書法的な影響はまま見られるが、はっきり言ってリムスキーのシンフォニーを凌駕している。ボロディンの影響も少ない。民族的な2楽章でさえ独自の創意のほうが光る(1番カルテットの4楽章を思い出す)。3楽章はボロディンの2番3楽章の気分より始まるが、ブラームス張りの堅牢な音楽に変わっていく。ベートーウ゛ェンやブラームス好きには受けるだろう。しかしその中にも晴れ渡った空の哀感、といった気分は新鮮だ。清々しさはこの曲の通奏低音である。4楽章も後年の西欧折衷派ぶりを伺わせる古風だがしなやかな音楽である。民族的要素がしっかり構造の中に組み込まれているのも唖然とするほど鮮やかな手腕。確かにボロディンやチャイコの次の世代を思わせる才気に満ちた作品です。古い録音で技術的に問題の多い演奏だが曲を自家薬籠中のものとした指揮者の確信に満ちた曲作りが光る。なかなかの集中力だ。前進性もある。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第1番「スラブ風」,○フェドセーエフ指揮モスクワ放送管弦楽団(VICTOR/MELODIYA)CD,,非常に綺麗にまとまりよく演奏されており、ロシアオケの音も程よく楽しめる。この全集の中ではかなり精度の高い録音といえるだろう。ただ、古典的にしっかりまとめすぎていて、元々グラズノフの曲にしてはいささかパンチに欠ける若書きであるがゆえに(目まぐるしい転調など初期特有の野心的な響きは随所に織り交ぜられているが)「あく抜き芸」ともいえるフェドの芸風にかかると更にパンチに欠けた平坦なものになってしまう。リズミカルな処理など申し分ないのだがテンポやデュナーミク(アゴーギグ?)が単調だ。美にこだわるあまり流れが大河のように緩やかになり勢いまかせの初期グラズノフの解釈としてはそぐわなく、つまらない曲のように聞こえてしまう。美しさと精度の長所をとって○としておくが、最初に聞く演奏ではない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第1番「スラブ風」,セレブリエル指揮王立スコティッシュ・ナショナル管弦楽団(warner)2009/6/2-5・CD,,あーー、長い!こういう冗漫な曲は細かい仕掛けや響きの面白さなんて無視して一気呵成に突き通さなければ、いくら旋律美ガーなんて言ってもそれを無限に単線的に繰り返されるだけでは耳が死ぬ。セレブリエルは正面からまともにやりすぎである。イワーノフなら聴けるがこれはダメ。曲のダメなところがクリアに聴こえる。最初こそ古典を意識した均整感をみせるがそれは単に学生的なクラシック音楽のセオリーに従っただけで、そこに民族主義的主題をぶちこむのは良いが、楽器法が後年とは比べ物にならないほど単純で、ただヴァイオリンがひたすらメロディを担い動き回るだけ、というカリンニコフもびっくりのやり方。それでも四楽章通してちゃんとしてるし、若いなりの冒険的な部分〜あんなわけのわからない終わり方はいいのか?〜を何とかその中に収めているのは恐らく後年の改訂によるところが大きいだろう。いやしかし、しっかりグラズノフではあるのでグラズノフ好きにはアピールするだろうが、普通の人はこの頃のロシア国民楽派、バラキレフやリムスキーなどのたまに書いた「つまらない純音楽志向」の曲と同じものを感じ取り、時代は逆だが劣化カリンニコフとして却下するだろう。うーん。それにしてもくどい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第2番,○ハイキン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP,,終始明るく暖かな雰囲気に包まれた、ゴリゴリのロシア国民楽派の交響曲とは対極にあるとも言えるもの。ボロディン直系と言われる人だがチャイコに受け継がれた西欧折衷派に接近していて、更に語法はこなれている感がある。ロシア・後期ロマン派楽曲としては非常に聴き易い曲。旋律の魅力は失われていないがやや特徴的なものには欠けると「ロシアマニア」には思われるかもしれない。ハイキンの「何と」ステレオ録音で、ロシアオケの迫力がデジタル風に伝わるちょっと面白い録音具合である。モノラル期の悪いプレスに印象付けられたいわゆる古きよきロシア流儀がその霧を取り払った場合こうも「現代ロシアの様式と変わっていない」ものなのかと思わせるが、スヴェトラの拡散性はなく、豪放磊落にただごり押しする感じのない名匠の演奏といった感じだ。いい曲に演奏だが、全般BGM的に聴くのに向くような。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第3番,○セレブリエル指揮ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団(warner)2009/6/2・CD,,全集の一部。惜しい盤だ。非ロシア演奏家によってグラズノフの西欧派的側面を印象付ける名演であり、アマチュア主義で通してきたクーチカの弟子格というイメージから外れたプロフェッショナリズムを、明晰な音で伝えてローカルな作曲家という印象を一変させる力を持っていながら、、、残響が多すぎるのである。残響が多い録音というとフェドかスヴェトラ。つまりはメロディヤ録音である。構造的によく鳴るオケが持ち味のグラズノフの、初期のボロディン風から脱してチャイコフスキー風からすら一歩踏み出したところがよく示され、ちょっと詰めすぎてしまった4番や民族回帰がみられる5番よりもヨーロッパ・クラシックの伝統を継いだものとして、セレブリエルもまたよくさばいているし、レベルの上がったこのオケも力強く北欧オケのような精度を示しているのに録音場所のせいなのか残響によって「よく鳴る場所で演奏されているだけ」に聴こえてしまう。うーん。惜しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第3番(1890),◎ハイキン指揮モスクワ放送交響楽団(EMI/MELODIYA)LP極めて叙情的で美しい曲。早くも円熟の兆しをみせる洗練された作曲手法、その妙に中欧的なドラマチシズムのルーツは被献呈者チャイコフスキーにあるものの、チャイコフスキーには無いがっしりした構築性と重厚に鳴り響く管弦楽が堂々たる大交響曲を産み出した。グラズノフとしては初めて独自の作風を確立した作品として注目されるもの。全楽章の構成は4〜7番の円熟期の作品群と極めて似通っており、各楽章の雰囲気も非常に似ている。即ちグラズノフはこの1890年の世紀末作品において既に後期作品の方向性を決定づけてしまっていたのである。ドヴォルザーク同様、グラズノフをよく聴きますという人にかぎって4〜6番しか聞いてなかったりするのだが、はっきりいって4番より旋律の魅力は強いし、対位法の用法やポリフォニックな音の重ねかた、フーガ的構造の頻繁な挿入など、技術的な特徴においては逆に素直であるがためにとても自然で聴き易く巧く聞こえ、その点では6番も抜いている。とくに1楽章はこの人の書いた最も美しい音楽といえるだろう。ハイキンはいつもの雑味を殆ど寄せ付けずに、シャープな指揮で引き締まった音楽を描いている。音色、響きの美しさや、最強音の強烈な力感(それでもミスは殆ど認められない)は1楽章の内包するドラマツルギーをドカンと引き出し圧倒的である。中欧の前期ロマン派音楽を意識したような冒頭から、しかしいきなりの第一主題は途中で調が曖昧になるという面白いもの。こういう実験性は他にはカルテット2番の終楽章くらいにしか見られないが、その後のめまぐるしくも効果的な転調の渦は後年まで引き継がれる。長く壮大な展開部の途中で物凄く美しい旋律と美しい転調、絶妙の楽器法が駆使されているところがあり、それは後年の作品では見られない清らかでメランコリックなロマンチシズムをたたえ必聴だ。ハイキン盤ではヴァイオリンの憧れに満ちた表現が素晴らしい。2楽章のスケルツォはいつものバレエ音楽的スケルツォだが、4〜7番のスケルツォと同傾向の楽しい楽章である。3楽章もいい。憂いをたたえた音楽にはしかし後年の暗さはさほど無く、切々と訴えるような極めてロマンティックで感動的な音楽が紡がれる。チャイコフスキー的だがチャイコフスキーはこういう普遍的な旋律は書かなかった(だから凄いのだが)。形式的にも曖昧で、ワグナーの影響(1楽章からあるにはあるのだが)を指摘する人も多い。終楽章は「ライン」の5楽章冒頭のような出だしにちょっと驚く。ロシアの宮廷音楽のように品のあるグラズノフの音楽は、4番以降よりも個性の点で薄くはある。結局民謡主題のドンチャン騒ぎにはなるのだが、クライマックスの盛り上がりもどこか照れがあるような感じもする。演奏によるかもしれない。総じて◎。この盤を聴くまでじつは私はこれを駄曲だと思っていました!,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第3番(1890),フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA,VICTOR)1979/8・CD粗くて素朴、という印象だがなにぶんロシアのこと、一発録りに近かったのではないか。全集盤からの1曲。不思議な転調を繰り返し独自の光彩をはなつ1楽章が聞き物だがこの演奏はやっぱり粗く薄く作為的なテンポ変化が入るわりに全般中庸というなんとも評しがたい様相を呈している。ただかなりオケに近いマイクが拾う音は迫真味があり、木管つまんなそうだな、とか弦楽器大変だな、とか(グラズノフの弦は悉く酷使される)ブラス気持ち良さそうに吹いてるなとか、その楽曲の内側を垣間見れるのは面白い(打楽器ごめん)。なぜかこのあたりの曲を聞くとエルガーの2番などを思い出してしまうのだが書法的な類似点はやはりチャイコフスキーに多く求めることができる。また前期ロマン派の香りが強いのも特徴的で、終楽章冒頭の品のよさはロシアらしくないところだ。グラズノフの楽曲は別項にも書いたがどこかで聞いた曲の断片が散りばめられていることが多い。それは様々なきれぎれのフレーズがパッチワーク的に縫い合わせられていくという様相であり、アカデミズムの権化に見られることが多いグラズノフの持ち合わせていた新しい感覚を示している。この曲はひときわその側面が強く出ているように思う。なかなかマニア心をくすぐる曲です。演奏は無印だが木管ソロが巧い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第4番,○セレブリエル指揮スコティッシュ・ナショナル管弦楽団(warner)2006/2/28-3/2・CD,,なかなか聴き応えある。冒頭から異様にテンポルバートして思い入れたっぷりに旋律を歌わせるが、グラズノフの魅力なんて8割がメロディなのでこれは正しいのだ。旋律によって表現方法を変えておりメリハリがあるが、グラズノフが独自性は薄いながらもプロフェッショナルな技巧を篭めた、そのシンフォニックな構築性も楽しめる壮大な一楽章は名演だ。和声の動きも的確に聴き取れグラズノフの技を実感できる。スケルツォの中間楽章は前期グラズノフのボロディン的側面をそのまま打ち出しているが、これは無難か。三楽章はブラスが圧巻。ファンファーレから弦を圧倒する。弦もがんばるが音色が単調で起伏がはっきりせずアタックも揃わないところがみられる。ブラスも最初から炸裂しすぎて、そのせいかグラズノフはおろかロシア国民楽派共通の問題点である冗長さがどうしても感じられて仕方ない。これを押し切る演奏も多く、そうなると今度はコンパクト過ぎてしまうので、曲のバランスが悪いのかもしれないが。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第4番,○ポリャンスキ指揮ロシア国立交響楽団(brilliant/chandos)1997・CD,,ロシア式演奏の感じのしない聴きやすい演奏。ホール特有の残響が演奏の本体をわからなくしている側面もあるが(スヴェトラ録音でよくあった感じ)、スマートで技術的な揺れの無い安定した演奏振りを楽しめる。曲自体短いものの陰鬱な楽章など聴きづらく感じる向きもあると思う。しかしここでは極力その鬱屈した雰囲気を抑えて、活発なパセージを勢いよく、若々しく表現している。押しの強さはないが、初心者向きのグラズノフ。○。ブリリアントで超廉価盤全集の一部として再発売された。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
グラズノフ:交響曲第4番,○ラフミロビッチ指揮ローマ聖チェチリア音楽院管弦楽団(capitol)LP,,モノラルのせいかもしれないが非常に緊密で、心なしかイリヤ・ムーロメッツより集中力もやる気も高い。これは名演と言っていいだろう。イリヤ・ムーロメッツよりエッジが立って明確な音であることもポイント高い。元々駄々長いグラズノフのシンフォニーでは一番短く、定型的な緩徐楽章である3楽章を4楽章の序奏部へ吸収させ、ジトジトした雰囲気を残さずにいきなりカッコイイファンファーレから本編に雪崩れ込む、構成上からも非常に巧くまとめられた作品なだけに、ロシアロシアした極端で莫大な演奏よりも、西欧的解釈にのっとったあるていどスマートなやり方のほうがあっている。だからといってこの演奏は日本人の抱くイメージとしてのスマートさとはまた違うものを持っている。スマートといえばムラヴィンスキーのいぶし銀の演奏はちと型にはまりすぎ窮屈、一方このイタリアのからっとした空を思わせる本編高らかなファンファーレの清清しい響きから胸のすく疾走は、ロシアのどんどこどんどこ地響きする野暮な重さは全くないけれども、ロシアの魂を確かに感じさせる力強い流れが筋を通し、オケが強力な指揮の元に自ら疾駆し歌いまくり力を尽くすさまは感動的ですらある。全楽章素晴らしいのだが、ロシアのドン暗さを程よく中和するチェチリアのメランコリックな響きが仄かな感傷を与える1楽章や身についた軽やかさではロシアの演奏に一歩譲るがすんなり聴きとおせるスケルツォ楽章、それらよりも、暗くとも希望の感じられる序奏部から祝祭的な本編へ、スヴェトラみたいなケとハレの土俗的なお祭り突入ではなく、西欧音楽の語法の上にある交響曲形式の構成を踏まえたあくまで抽象的な音楽として、実によく表現されている。何度も何度も聴いて飽きない演奏というのはロシア産交響曲ではそうそうないが、これは何度聴いても飽きないのだ。最初に聞いたのがロジェストで、か細く綺麗なだけの演奏がこじんまりとした地味な曲というイメージを与え、またファンファーレ以下あざとさが耳について一番敬遠していた曲なだけに、こんなに自然に入り込めて、没入できたものというのは初めてだった。世界初録音盤。録音が古いのでマイナス、○としておくが個人的に大好きである。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第4番,○ラフリン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)LP,晩年のラフリンらしい明るく軽く壮大で穏やかな演奏。薄盤のステレオ録音であるせいもあって眩いばかりに明るい。終始オケはまるでロシアオケらしくない。軽くケレン味がないが、壮麗といってもいいゆったりとした起伏のつけられる場面も多く、歌うところはかなり歌っている。しかしその歌に重さが少しもなく、軽く聞き流せてしまう。技術的に「あぶなげない遅さ」であることも手伝って、何か余り印象には残らないが、この短い曲を大交響曲に聞かせるような、余生の指揮者の遠い目を感じさせて少し逆に、印象的であった。まあ、ムラヴィンレニフィルとは1楽章からしてまるきり違う伸縮のしかたをしながらも、ムラヴィンソビ響のような揺れ方はまったくしない、やはりラフリンは時代によって表現がやや異なる。ファンファーレ後の美しさは構造的な書法をきかせる俊敏さよりしっかり構造を組み立てたその上に流れる旋律の明るさをひたすら追求したかのようである。ちょっと独特の明るさであり(何度明るいと書くんだ)、ジツの入っていない、ほんとに達観したかのような演奏。○にしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第4番(1893),○シュウィーガー指揮カンザスシティ・フィル(urania)1959〜面白いのだ。バリバリのロシア曲なのに、アメリカの垢抜けたオケがやると、こうもすがすがしく、綺麗に響くものか、と感心した。とくに3楽章(終楽章)の序奏部後のファンファーレのアメリカ的なこと!スケルツォと終楽章のアレグロ部にかんしては清新で溌剌とした律動が気持ち良く体を揺らす。この指揮者、知らないが、歴史的録音として価値を持つものだろう。佳演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第4番(1893),○フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA,VICTOR)1979/8・CDフェドの全集はどれも粗いがこの曲は比較的まとも。1楽章第一主題などの緩徐主題の陶酔的なおっとりテンポは(木管ソロで紡がれる)惹かれるものがある。但し、1楽章にかんしては遅すぎ。はっきり言って冗長感は否めない。この冗長という点はグラズノフの欠点でもあるが、微妙に変奏したり転調したりしていくのを的確にとらえ大袈裟に表現させればそれなりに聴き映えがするし十分聴きとおせる。4番はグラズノフの曲ではとてもコンパクトにまとまったほうなのでそれでも冗長を感じさせるとは、フェドは侮れない(ごめんなさい)。風のような2楽章はグラズノフらしいバレエ音楽的軽妙さをはなつ音楽だがフェドは手堅くやっている。3(終)楽章の序奏部は通常の緩徐楽章の役割をはたしているが割とあっさりやっていて、そのあとアレグロ部の派手なファンファーレからのブラスの饗宴はなかなか聞かせる。変容していく主題(それは他楽章のものを含む)はなぜかいちようにテンポが速く不思議だが飽きないで済むから正解なのだろう。テンポ変化はけっこう激しいが作為的で感情の迸りは感じない(そのへんがフェドの限界かも)。客観性を感じるところもある。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第4番(1893),◎ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MULTISONIC/praga/melodiya)1948/3/2・CD〜全体にやや音が悪く、鄙びている。それは瞑想的な曲想よりすれば必ずしもマイナスではない。冒頭の表情はかなり硬めだ。陰うつな導入部を経て夢見るように軽やかな主部に入ると懐かしい音色がひろがり、オーボエ以上の木管楽器のきらめきが穏やかな春の野へといざなう。グラズノフの確立した世界は作曲技法に一定の枠があり構造的に単調で冗長に思えるが、独特の旋律美と素晴らしくポリフォニックなハーモニーに何者にも代え難い魅力がある。この曲の白眉は二楽章で、牧歌的な風景の中に爽快な走句が駆け抜けて、未だボロディン=スケルツオ的ではあるが、よりローカル色が薄まり、アルカイックなオーケストレーションによって実に優美な世界が演出されてゆく。ゆるやかな中間部の幻想は、馬を止め野で休むと頬を風が撫でて少し冷たいといった風。この部分を含めムラヴィンスキーはドビュッシーで見せた繊細で夢幻的な音世界を透徹した響きの中に演出している。巧い。終楽章(3楽章)前奏部は思いのほか明るく、この曲のききどころのひとつである、主部の壮麗なファンファーレとの対比は今一つはっきりとしないが、曲の流れはスムーズだ。主部はやたらと速く、僅かに弦の悲鳴が聞こえるが良いテンポだ。表情付けが細かく行われているさまも聞き取れる。第2主題の名旋律が抑えた形で出現するところも全曲構造からみれば入念な配慮といえよう。ホルンの副旋律と弦楽器の叩きつける様な対位句のコントラストは熱気に溢れ鮮やかだ。1楽章の回想がブラームス的憂愁を呼ぶが、再びファンファーレを迎え結部へ向かうまでの途中、さまざまに声部をうつろう旋律とポリフォニックに絡み合う回想句が紡ぎ出す雄大で記念碑的な世界に至っては、もうグラズノフの独壇場で、ムラヴィンスキーの乱れの無い棒とレニングラードの機能美が存分に発揮されている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第4番(1893),○ムラヴィンスキー指揮ソヴィエト国立交響楽団(DREAMLIFE)1949/2/6LIVE・CD,,DREAMLIFEはいつのまに映像以外に手を出すようになったのか。マニア狙いのマニアによる音源提供、に的を絞ったこのシリーズもいつまでつづくかわからない。ALTUSの失敗を横目にしたせいか安いけど。,,例によって平林印で三枚リリースされたムラヴィンものだが、RUSSIAN DISCやSCORAやスクリベンダムなどマニアにはレアとも言い難い既出盤と重複したものが多く、リマスターに自信ありといっても録音モノの音はしょせん好みなので音源が良好な新発見マスターじゃない限りはコレクションとしても買う価値があるかは疑問。わけのわからない「既出ステレオトラックのモノラル版」といった穴埋めは寧ろアルバム自体の価値を落しめる。この売り方はまさにフルヴェンの柳下を狙うやり方で、ライナーの記述は自らそれを告白しているようなもので微笑ましいけど、どうなんだろう。買いは完全初出の記載のある盤のみですので。,,グラズノフは平林氏らの検証のもとに新発掘された目玉である。売れ方もこれだけ違うようだ。グラズノフに詳しい人がライナー作家にいなかったようだが、私は寧ろどれを聞いても解釈が一緒でコレクションしがいのないムラヴィンより、希少なグラズノフ音源に一つ由緒あるものが付け加わるというほうに興味があったのであった。,,で、演奏のほうだがやはり古びた音である。そこに手を加えたために雑音といっしょに何かが飛んでしまったようないつもの感じ、はいいとしていきなりの情緒てんめん節にびっくりしたのである。このオケらしいバラケとソリスティックなフレージングの渾然雑然とした中に描かれるうねりはムラヴィンの後をついだ頭初のラフリンの芸風を彷彿とさせられざるをえない(ちなみに5番のイワーノフ・チェコフィル(スプラフォン)を買ったのは世界のどいつだー(泣))。レニフィル盤はこんなに弛緩してはいない。ムラヴィンもこのころはいくぶんまだロマン性を発揮していたということか。それにしてもオペラティックな起伏が細かいテンポ操作にあらわれ過ぎている気もするが。。雑音はレンジの拡がりとともに残してほしかったなあ、こういう旋律表現してるんなら。スケルツォもキレがなくしまらない。バランスいじりが仇となったか。ブラスの抑制や音の切り方、木管への細部にいたるまでの厳しい統制ぶりはムラヴィンといえばそうか。オケとあわないのかもしれない。音響バランス的に重量感がありすぎるのは元からかムラヴィンの真実はこうだという確信ゆえのリマスターなのか。にしてもリズムに乗れない。,,しかし序奏後の強引な終楽章はいいですね。オケもこのくらいの速さのほうが半端な速さよりやりやすいってもんで。オケ側の技術的ほつれは別にしてムラヴィンらしさはこの楽章のトスカニーニッシュな煽り方(この速さなのに細かい松葉をしっかりつけてるのが泣かせる)にいちばんあらわれている。音響的配慮の行き届いたグラズノフの管弦楽曲のよさをちゃんと引き出して、勢いやパート毎のムラに囚われない安定感ある響きを維持できている。が、反面ライヴならではの迫力というか、このころグラズノフの持っていた神がかり的な旋律美と構成美のもたらしうるカタルシスは、これだけ煽っても十二分に引き出せているとは感じなかった。しょうじき冗長。オケの責が大きいとは思うが。,,四番にしては大したボリュームの大演奏だが、のりきれなかった。レニフィル盤を推す。このオケのばらつきぶりはムラヴィン本人もさぞ不満だったろうね。,-----,,,
グラズノフ:交響曲第4番(1893)〜U,○ムラヴィンスキー指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA,BMG)1950/2/8・CDグラズノフのスケルツォは颯爽と実に心地いい風を吹かせる。この録音は古く雑音も目立つが、グラズノフに理解のあったと言われる(グラズノフは指揮者には受けがいい)ムラヴィンスキーの、全曲盤に優るとも劣らない音楽を楽しめる。ごく短い曲なので細かい比較は無意味だ。高音の伸びの悪さを指摘する人もいるが、これはヒストリカル録音としてはまずまずの部類でしょう。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第4番(1893),スヴェトラーノフ指揮USSRSO(melodiya)CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第4番(1893),ヤルヴィ指揮BR(orfeo)CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第4番(1893),ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立文化省管弦楽団(melodiya)CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第5番,○イワーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA,EMI),,速いテンポで細かくは揺れず、まったく直線的な演奏はイワーノフらしいがこのデロデロで分裂症な曲には少し特異なかんじもする。そんなわけで力強いわりにわりと印象は薄い感じで、余りに生硬なテンポの4楽章の前半にいたっては客観性すら感じた。だが、クライマックスに至ってイワーノフは突然とち狂う。物凄いアッチェルをかけ、異常な高速で派手にぶちまけ始めるのだ。ムラの多いオケも雑多ながら地力を出してすさまじいアンサンブルを繰り広げる。仰天の凄い大団円を演出するのだ。いや、この楽章再現部後だけでも○です。録音もステレオでまずまず。イワーノフには古いチェコ録音もある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
グラズノフ:交響曲第5番,○イワーノフ指揮チェコ・フィル(supraphone)1950・LP,,チェコ・フィルとのセッションを何度か構えたようで、知る限りグラズノフは二枚出ている。スプラフォンはソヴィエト音源をそのまま出していることがままあるが、音からするとチェコ・フィルで間違いないようだ。オケが違うと洗練される。しかも同時期のチェコ・フィル、線は細いが正確で独特の金属質の肌触りがあり、オケ全体としてのまとまりは巨熊のようなロシアオケより余程上である。この曲もこの遅いテンポだと、ロシアオケならグズグズになり駄目演奏になりかねない(同指揮者は同曲ソヴィエト録音もあるがよく覚えていない)。だがぴしっと揃っているので、聞く側がハラハラするだけで問題なく、イワーノフの作為的解釈が生のまま届く。イワーノフ解釈で驚かされるのはその巨視的なテンポ設定で、4楽章の冒頭やはり遅速から、再現部以降のアッチェランド、そして祝祭的展開の鮮やかさは感服させられた・・・やはりベートーヴェン指揮者なのである。歓喜へ至るためには敢えて落とすのだ。1楽章のポリフォニーに満ち溢れたグラズノフ的展開、その中で窮屈ながらも無限転調を繰り出していくグラズノフらしい部分があるのだが、この転調がごちゃっとする演奏もある中、非常に鮮やかに聴こえ、その現代性に驚かされる。譜面を見たり室内楽をやればこういったグラズノフの時代なりの和声的挑戦は時折見かけることができるのだが、音できちんと、しかも大管弦楽で正しく聴けることはあまり無い。くらべ中間楽章はぱっとしない。3はともかく2、スケルツォは疾走感が薄く、この指揮者のリズム感のなさがわかる。総じて◎にしたかったくらい、見事な部分が混ざるのだが、オケを整えるかのような不自然なテンポの遅さを引いて○。webで聴ける。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第5番,セレブリエル指揮ロイヤル・スコティッシュ・フィル(warner)2004/1/6-8・CD,,臭みの無い音、ダイナミックな起伏の付け方、スケールの大きい演奏と優秀録音に拍手。繰り言を繰り出すように同じ主題を捏ね繰り回すグラズノフ、対位法を駆使し様々な方向から立体的な音楽を展開して、私は変奏曲が好きじゃないが、グラズノフについてはロシア国民楽派系作曲家の中で一番聴いていてストレスは無い、それでもフェドセーエフですら「臭み」が気になるのは楽団の性格と共にやはり楽曲の民族性に主眼を置いて楽想のままに演奏させてしまっているからで、セレブリエルはグラズノフがどこの国の作曲家なのか明らかにすらせず、ワグナーの管弦楽の流れを継いだ抽象的な交響曲としてやっているように聴こえる。同曲をいったん分解してモダンに再構築する、というよりグラズノフ自身がそれを望んでいたとも思うのだが、クーチカのムードに流されたようなローカリズムから脱し、ロシア音楽に通底する音要素が使い方によって汎世界的にも通用するものになるという意思を尊重し、響きの安定感を主張せず自然な拡がりを作り、極端ともとれるテンポ変化も含む解釈を施したところ、さらにイギリスの透明感ある楽団から技術的なメリットを引き出し、終楽章は激烈な前のめりのテンポで煽り、けして歌心に拘泥させることなくライヴ感のまま大団円させている様子にははっとさせられた。この曲の演奏様式はムラヴィンスキーやスヴェトラーノフからとうの昔に離れているのである。そう感じさせられた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第5番,フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団(melodiya/victor)1976/12・CD,,フェドはグラズノフ全集を恐らく世界で最初に完成させた指揮者であり、それだけに十字軍的な立場でいなければならなかったことの難しさも感じさせる。グラズノフはテンションを必要とする作曲家だ。テンションがもたなければ一様に長丁場をもたせられない。たとえば疾走する音楽である終楽章は今聞くと余りに遅い。特に再現部からクライマックスに入ったところで異常なまでにテンポを落としている、これは構成的で綺麗な解釈を持ち味とするフェドらしいバランス感に基づく解釈だとは思うが、はっきり興をそぐ、ここは一気に剛進してぶち抜けるのが筋だろう。こんな感想もロジェストやヤルヴィの現れる前には抱けなかっただろうことを思うと、グラズノフが今ひとつメジャーになれなかったのに十字軍の演奏スタイルという問題があったことは残念ながら事実と感じる。単発の演奏としては既にゴロワノフの余りに雑で一般人は聴くに耐えない盤や余り盤数の出なかったムラヴィンスキーのライヴ盤があったわけだが、それらソヴィエト以外で殆ど流通しなかった古い演奏と比べても、この全般的なゆったりした流れ、音に拘りテンションに拘らないスタイル、客観性は寧ろ特異である。綺麗さは認める。でも現代の演奏でこういうものはいくらでも聞ける。そして、ロシアオケならではの「雑味」が無いとは言い切れないから、綺麗にまとめたいフェドの意図も徹底されず半端である。最初に聞くならこれでもいいかもしれない。けれども本当はこれはロシアの国民楽派の交響曲がどんなものなのかよくわかったうえで、頭の中で逆変換しながら聴くべきものである。拒否反応や欠伸が出た人は、すぐ聞くのをやめてヤルヴィをあたろう。ム印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第5番,児玉宏指揮大阪シンフォニカー交響楽団(rohm,KING)2010/3/17live・CD,,ロシアの演奏と比べればそれはパワー不足は否めないが、一楽章の流れ良さやその最後の方のブラスの「だからこその切迫性」というようなものはあるし、二楽章はエンジンがかかってきて、このオケのバレエ音楽適性(グラズノフのシンフォニーのスケルツォはたいていバレエ音楽である)、木管楽器をはじめとする美しい響きと雰囲気の典雅さは一聴に値する。カリンニコフ一番の二楽章のようだ。リズム取りの上手さなど、この曲に慣れきった人ほど聴くべき、ロシアのローカル作曲家ではなく、プロフェッショナルな教師兼作曲家としての腕をしっかり浮き彫りにする名演だ。三楽章はロシア調ではないものの、旋律の起伏に重きが置かれ過ぎている気もするがライヴ感はあり、ラフマニノフを想起させる弦楽器の表情の豊かさ(響きは薄いのが残念)は「ここで本気出したか」というくらいそれまでの楽章と差がある。リズム取りはワルツ風というか、前の楽章もそうだがこのコンビは舞曲が上手いらしい。これもロシア色が出ないのは良い、透明感あるセレブリエルとは違って、熱いものの安易に気を煽る解釈に走ってはいず独自性を魅せる。ここで異様なスケールの盛り上がりを作って一気に四楽章の疾走。なかなか派手に打楽器を鳴らし、現代的な演奏レベルは保ちつつ、グラズノフ屈指のメロディを抱く民族的フィナーレを時には力強く時には軽快に、弦楽器に後半疲れがみられるがグラズノフはそんなことで瓦解するスコアは作らない、ブラスや打楽器によって音楽は弛緩することなく、実際テンポにタメを作らず最後まで真っ直ぐ走りきる。ブラヴォが出てもいいくらいだが。今は日本でも普通に演奏されるそうである。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
グラズノフ:交響曲第5番(1895),◎ゴロワノフ指揮ソヴィエト放送交響楽団(VENEZIA/CONCERT HALL SOCIETY)CD,,〜ゴロワノフは色々なレーベルで漸次CD化が進んでおり喜ばしい限りですが、必ずしも良い演奏ばかりが出ているとは限りません。先日bohemeより出たカリンニコフの1番なども散漫な印象でがっかりしました。思うにこの指揮者には相性があり、歌が入らない限り、勢い重視の曲よりも構築的な曲の方があうのではないかと思います(オハコのスクリアビンは例外)。「ロシアのブラームス」グラズノフの交響曲は、初期においてはボロディンの影響を受け、リストやチャイコフスキーの薫陶を経、やがて古今東西の音楽的知識の上に独自の表現を加え再構築することにより、個性を確立するというこの作曲家の彷徨を良くあらわしています。天才少年は教授となってしまい、保守的な立場に在りながらも技術面で後の巨大な作曲家たちへの橋渡しをすることになります。ボロディンの四重奏2番とグラズノフの四重奏第2番を演奏してみると、聞いているぶんには美しいがあくまで旋律重視で、しかも構造が合理にすぎるがゆえ、アンサンブルとしてはそれほど楽しめない前者に比べ、筆の遊びや考えすぎの個所が乱見されるものの、アンサンブルの曲として「演奏しやすく」且カタルシスを得やすい、グラズノフの特質が見えてきます。前置きが長くなりましたが、世紀末から革命への危うい時代を体言する山脈の中で、ひときわ高くどっしり構えているのは、この5番でしょう。終楽章は「音楽で楽しむ」ことのできる誰しもが興奮を禁じ得ないと思います。ボロディンの勇士交響曲の終楽章を、魅力溢れる曲組みと旋律によってさらに雄大高潔なものに仕立てたかのようです。ムラヴィンスキー盤では、緻密なアンサンブルと音の迫力により、芸術として素晴らしい演奏が行われています。一方ゴロワノフ盤は、芸術という枠を凌駕したものを感じます。“民族楽派的アプローチ”であり、弾けるようなライブ感覚に溢れています。しかも曲がしっかりしているため、ラフマニノフやボロディン2番での座りの悪さも感じません。作曲家が打ち建てた巨大な劇場で、聴衆と一体となった宴が繰り広げられる。劇場は堅固で崩れることがない。いずれCD化されると思いますが、一聴をお勧めします。2000記,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
グラズノフ:交響曲第5番(1895),◎ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC/praga)1968/9/28live・CD〜1楽章、単調な曲のせいでもあるが、ややそつのない表現が続くように思える。終盤実に大きな呼吸で情趣深く表現される穏徐部から、強く明快な音によりそう快に響く結部へと至るところは出色だ。2楽章、スケルツオ。旋律美と定型的構成、グラズノフ=スタイルというものが確立している。ゆえにボロディン的なハーモニーの新鮮さは薄まっているが、各声部こうしっかりキッチリ表現されると音色幅が出て面白く聞こえてくる。3楽章。ひたすら旋律を強調させる事で成り立ってきた曲が、ここでやや趣を変える。冒頭より展開される憂愁のハーモニーに心打たれ、主題のはかなさにまた沈潜するような思いの深さを感じる。悲劇的に展開されてゆく曲の中にも慰めに似た暖かさが織り交ぜられる。これもまたグラズノフ=スタイルだが、8番2楽章の「地獄の底の一花の美」を予感させる萌芽が見える。チャイコフスキーの影響かワルツを用いる事も多いグラズノフだが、ここでは悲しみや喜びに身をやつすというよりも、ドヴォルザークのようにもっと遠く広く響いてくるものがある。この楽章はグラズノフのシンフォニズムでも最も深いものだ。一本気で個性的なものは薄いながらも、多様な感情表現の錯綜という点ではまさにマーラー的だ。グラズノフにマーラーを聴くという形で入った私ではあるが、判官びいきの分を割り引いて尚そう断言できる。終楽章。打って変わって祭りだ。あざとい構成だがしかしこれもグラズノフのフィナーレとしては絶品といえよう。六人組の子としての民族的スタイルがはっきり打ち出される。しかし最早ボロディンの色ではない。ローカルな部品を使いながら、ローカルではない。チャイコフスキーの「小ロシア」終楽章を彷彿とさせる部分もある。旋律も冗長おざなりとならずきっぱりしていて良い。弦楽器の力任せの疾走が旋律を吹くブラスらと緊密なほど対位的にからんでいくさまは見事としか言いようの無い劇的効果をもたらしている。ムラヴィンスキーも熱い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第5番(1895),ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ALTUS)1979/6/8日本LIVE〜ムラヴィンスキーとグラズノフが親交があったとは驚きだが(ライナー参照)グラズノフに対する評価が高かったというのも意外である。それならば脂の乗りきった6、7番シンフォニーの録音をぜひ遺しておいてほしかったが、ソヴィエト時代のこと、何か事情があったのだろう。帝政ロシア末期の作曲家グラズノフは後期ロマン派のロシア国民楽派の流れをくむ最後の作曲家のひとりであり、あらゆる分野に作品を残したが、バレエ音楽とシンフォニーにとくにその類希な作曲技術とメロディメーカーとしての資質を発揮した。幸福感に満ちた4、5番シンフォニーは国民楽派的な部分とドイツ・ロマン派的な部分をうまく融合させた作品として、広く親しまれている。さて、この盤はムラヴィンスキー訪日ライヴの秘蔵録音シリーズの最後のものである。このシリーズには所謂膝録モノも含まれており、モラル的な部分と音質的な部分で賛否両論を呼んだ。この盤はといえば、ライナーにはとくに記述はないが、おそらく正規の録音として残されたものではないように思う。はっきり言ってあまりいいとはいえない音質(キンキンする薄っぺらな録音で、細部が聞き取りづらく、かつ遠い感じがする)であり、同じNHKホールでちゃんと録音された別盤とはあきらかに異なる音質だ。だがまあ、ヤルヴィ、フェドセーエフ、ロジェストヴェンスキーくらいしか録音がなかった同曲を、ライヴという形で日本に紹介したムラヴィンスキーの貴重な記録として、十分に意義はあるものといえよう。演奏自体は個人的には別録音のもののほうが集中力が高く音質もいいように感じる。前半楽章はバレエ音楽ふうの楽想が目立ち、少々ヘキエキするところもある。3楽章アンダンテはこの曲の中ではもっとも深刻な楽章で、夢見る調子のなかに不安感の雲がゆらぐ。ムラヴィンスキーはこの楽章をとても慈しむように演奏し、終わって間髪を入れずにいきなりアタッカで4楽章へと突入してコントラストを強調している。4楽章は壮麗なアレグロで、集中力の高い演奏を行っている。虚飾無いムラヴィンスキーの演奏はけっして派手さはないが、密度の濃い凝縮されたものであり、グラズノフのように弛緩傾向のある作品をシェイプアップして新鮮なものに聞かせる力がある。そういえばグラズノフの4番や5番はグラズノフにしては確かにもっとも簡潔でまとまったものであり、ムラヴィンスキーはそれゆえ自分のレパートリーにこれだけを取り入れたのかもしれない、とも思った。録音マイナスで無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第5番(1895),○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(vibrato:CD-R)1979/5live,,録音状態だけを言えば○はつかない。いわゆる膝録でバランスが極端に悪く(無理にステレオで録音しないほうが音響がまとまったろう)それがデジタル化にさいしキンキンした音にされてしまって、非常に聞きづらい。演奏自体は他録にくらべ熱気がすくないように思う。終楽章など落ち着いている。落ち着き過ぎている。バランスの悪い録音のせいで緻密にポリフォニックに組み込まれたソロ楽器の走句が、通常は聴こえないような断片的なものが聴こえてくるのは面白いが、「こんな聴こえない部分に半音階的なわけのわからない難しい技巧をつぎこんでるのか」とグラズノフのマニアックぶりに首を傾げてしまうところもある。いずれ、これもマニア向け。コレクター向けの観賞に値しない盤である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第5番(1895),ロジェストヴェンスキー 指揮ソヴィエト文化省管弦楽団,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第5番〜2,3,○ボーアス指揮ハーグ管弦楽団?(私家盤)LP,,地味な演奏で技術もそれなりといったところか。若い指揮者で誠実さは感じられ、アンダンテ楽章には心象的な情緒がたたえられており、ロシアの演奏にはない「引きの芸」がいい雰囲気を醸している。しかしながら、これはどうもアマチュアの演奏臭い。オケ名は正確にはわからない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第6番,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya/venezia)1989・CD,,スヴェトラが人生を賭けた壮大なロシア音楽アンソロジーの一部として、ソヴィエト末期にほぼ一発録りで録音されていったグラズノフ交響曲全集の一枚。これが出た当初は期待に反してスカスカなオケの音に当時高額だったCD代返せ状態だったわけだが今聴くとまったくそういうことは感じない。田舎臭いロシアオケを使って現代オケの響きに近い透明感を獲得しようとしたのだと言えば良すぎる言い方だが(スヴェトラの後年の活動を見ると嘘とも言えないと思う)、弦楽器の本数が(理由は何にせよ)減りブラスのソリスト級奏者が抜けているが依然、ロシアオケの馬力と特有の響き(ホール残響や録音含む)は健在で耳障りが悪いわけではない。演奏精度も当時感じたほどに悪いことは全然無い。8番など旧録のあるものは比較してしまうので(旧録も一長一短だ)そういうことを言いだしたくなるものだが、現在のロシアオケの状態を思うと、多少雑味混じりでもそれを跳ね除けるような楽団員ひとりひとりの意気・技術というのが感じ取れてまったく素晴らしい。,,さてこの曲はブラームス風チャイコ、と言うべき曲でグラズノフでも保守的なほうに入るかと思う。だからグラズノフ慣れしてしまうと退屈さは否めなく、古風なまでに形式的で霊感を抑え込んでいるように感じる。逆にグラズノフを知らないと、旋律の美しさ、和声の自然さにすんなり入れようし、個性とも言える半音階的な進行が多声的な構造を持ちながらも響きの透明感を保ったままかっちりハマって進んでいく技術の確かさに感服するだろうし、この大編成を無駄なく隅々まで使い切る手腕にもロシアには殆どいなかったタイプのプロフェッショナルな作曲家という印象を感じることができるだろう。これはいつものことでもあるが、楽想の展開にはちょっと無理のある部分もあって、3楽章の再現部の唐突さや4楽章のマエストーソ的に表れる最終変奏の大仰さなど笑ってしまうところもあるが、私自身もこの曲で初めてグラズノフを認識したので、一度聴いてみてはいかがでしょうか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
グラズノフ:交響曲第6番,○セレブリエル指揮ロイヤルスコティッシュ国立管弦楽団(warner)2008/6/4-6・CD,,グラズノフのロシア臭を抜き、それでもなおこの音楽が力強くも繊細に響く名作であることを知らしめる名演。「笑ってしまう」局面もこの美しいオーケストラをもってすれば当然の如く感動的に伝わる。グラズノフを知らない人にも向くが、グラズノフを知っている方にこそおすすめ。悪いイメージがなくなる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第6番,○ポリャンスキ指揮ロシア国立交響楽団(brilliant、chandos)2002・CD,,"
Glazunov: Symphonies (Complete); Cantatas; Famous Ballet Music; Violin Concerto [Box Set]

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",闘争から勝利へ、その過程で田園に、という曲で、勝利のあとの驚くべき(?)マエストーソで大笑いか納得するかがグラズノフ適性の有無の指標となる(もちろん大笑いすべきである)。この演奏は正直粗いが、オケのせいだろう。弦の薄さはスヴェトラ当時に既に目立ってきていたものだし、ロシア臭の消滅とともに迫力も消失してしまったというのもこの演奏にかぎったことではないだろう。素朴で率直な演奏ぶりだし、録音が何より明るく透明で明瞭なため聞きやすさはあるが、冒頭でのべたマエストーソが余りに張子の虎、こけおどしに聴こえるのが象徴的な、今ふうの軽い演奏になってしまっている。聞きやすさと印象的かどうかは相反するもので、これは印象に残りづらい。初心者向き。○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
グラズノフ:交響曲第6番(1896),△ゴロワノフ指揮モスクワ放送交響楽団(ARLECCHINO他)1948〜ボロディンやラフマニノフの交響曲で見せた「解釈しすぎ」がここでも噴出。恣意的すぎて引いてしまう。2楽章の抒情はワグナー指揮者としての特質も垣間見える奥深いものになっているが、録音も貧弱で、オケもやや弱く、5、7番ほどの冴えは無い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第6番(1896),△フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団〜印象薄い・・・,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第6番(1896),○イワーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(SUPRAPHON)LPかなり意図的なデフォルメも見られるロシアらしい演奏だが、基本的に速い。だから音楽がダレず緊張感を保ち続ける事が出来る。1、4楽章の怒涛の速さはとても印象的だ。演奏技術的にやや問題があるというか、スヴェトラーノフ時代に引き継がれる個々の楽器の「個性的」な演奏スタイルの混交が音楽に軋みを与えている。録音も悪く(モノラル)響きが一様に軽薄な感じがある。でも、たとえば3楽章の軽妙な面白さは他の指揮者の演奏と比べて決してひけをとるものではないし、聞かせる力は認めなければなるまい。まあ巧いかと言えば嘘になるので最上級には置けないが、一部マニアック指揮者にしか振られていないグラズノフ円熟期の傑作交響曲を今改めて正等な伝統にのっとった指揮者の棒で聞ける事を素直に喜びたい。ソヴィエトに居並ぶ数々の個性的な指揮者の間で埋没してしまいがちな人ではあるが、技術的なことはともかく面白い解釈を打ち出してくる人である、イエダンあたりにその少なくない録音の復刻を期待したい。○。supraphonにはチェコ・フィルとの5番もあるが未聴。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第6番(1896),◎ヤルヴィ指揮バイエルン放送交響楽団(ORFEO)〜劇的で練り上げられた演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第6番(1896),○ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト文化省管弦楽団(MELODIYA)〜ヤルヴィと並ぶが、独特の透明感ある音が曲の勇壮さを損ねているか?,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第7番「田園」,◯エリアスベルク指揮レニングラード交響楽団(?)1965/11/11live・LP,,二軍オケが全般的に弱すぎてどうにもこうにもこの難曲を乗り切ってない(フィナーレ最後ブラスの印象的なフレーズがごっそり落ちてるのにはがっくり)。ただエリアスベルクの速めで余り揺れないテンポはそれはそれで面白く聴けるところがある。仕掛けの多い曲は変に揺らさないほうがいいのだ。まあ、そうじゃないと弾けないオケなのかもしれないが。集中力もあり、アーティキュレーション付けの面白い部分も3楽章など散見され、指揮者の個性も垣間見える。ライヴだからしょうがないか、という点も勘案して○はつけられるだろう。この指揮者はリズム感が良い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第7番「田園」(1902),◎ゴロワノフ指揮モスクワ放送交響楽団(PEARL/ARLECCHINO他)1950〜かねてより名盤で知られた?録音。物凄く悪い音の中からなんとも言えないリリシズムをたたえた音楽が流れ出す。個性的な解釈(改ざん)がこの曲にかぎってはよく板についていて、とくに3楽章スケルツォの見事さには舌を巻いた。テンポ設定が絶妙。名演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第7番「田園」,◎ゴロワノフ指揮VRK交響楽団(melodiya)LP,同上,VRK(キリル文字でBPK)はしばしば見られる略称だがモスクワ放送交響楽団のことである。ブリュッセルにVRK(VLAAMS RADIO KOOR)という合唱団があるが別物。何の略称なのか調べたがわからなかった。ムソルグスキーなどの歌曲伴奏でこの表記がなされたものがいくつか(映像含め)残されているがきわめて少ない。THE GRAND SYMPHONY ORCHESTRA OF THE VRKやVRK ORCHESTRAなどと英語圏では表記されているようである。したがってこれは既出CDと同一演奏である。演奏時間並びにわずかなミスや繋ぎ、音色が同じであった。,,但し音はきわめてクリアである。私が初めてこれを聞いたのは非常に状態の悪いPearlの復刻CDで、多分そののち復刻されたものもイタリア盤でなくとも五十歩百歩である。だがこの演奏に私は打ちのめされ、それまで聞いてきたグラ7の何と貧弱なことか、何とこなれていないことか、何と解釈されていないことか、何と思いの伝わらないものかということに気がついた。ここには自在なテンポと踊るようにしなやかにうねるように操作され波打つオケ、完璧な演奏があった。遅ればせながらゴロワノフ(当時はゴロヴァノフと呼んでいた。ゴロワーノフとも呼んだかと思う。古いマニアでも知らない類の指揮者であったため入手し聴くのは至難であった)という傑物(怪物ではない!)の、特に歌劇的な表現の優れた手腕は、大規模編成の曲にその特質を示すということを知った。カリンニコフやチャイコフスキーやグラズノフでも比較的穏健な6番といったところでは空回りを感じる。しかしワグナーやスクリアビンとなると話は別だ。違和感を覚えさせるほどに主として解釈と発声法に極端な抑揚をつける、それを受け容れる豊穣なスケール感のある音楽、あるいは構造的にしっかりした音楽(中期スクリアビンの管弦楽は特異ではあるが素直なため崩れようがない)には威力を発揮する。まさにこの曲など「形式主義者」グラズノフの力強くもしっかりした重量感のある音楽となっており、逆に単純に音にするだけでも曲にはなるのだが、そうすると理に落ちた感じになってしまい「ナンダベートーヴェンのまがいものだよ」という不当な評価につながってしまう。しかしこの曲ほどグラズノフの「アマルガム作曲家」としての特質が反映されたものはない。それは対極にあると思われがちなラヴェルを思わせるほどである。ここにはたとえばワグナーの半音階がある(2楽章第一主題の展開など)、チャイコフスキーの慟哭がある(同じく2楽章第二主題前後)。古今東西のさまざまな作曲家のエッセンスが見事にパッチワーク状に繋ぎ合わされ、まるで見事にしなやかなグラズノフという織物に作り上げられている。これは亜流音楽ではない。単純ではない。そしてその魅力を体言できるのは、グラズノフの要求する非常に高度なテクニックと体力(!)を各個が備えた大オーケストラ、更に解釈によってパッチワーク音楽の弱みである「繋ぎあわせ感」を一つの巨大な潮流に併合し表現させてゆくか、それをわかっている指揮者のみである。私はそういった指揮者を一人しか知らない。,,それが、ゴロワノフである。,,これは(継ぎ接ぎとはいえ)ゴロワノフにとっても最高傑作の一枚であり、この人のこの曲の演奏としては信じられないほどの精度とアンサンブルを見せ付けるものとなっている。ゴロワノフが荒いだけの笑ってしまうアーティストと捉えている人は不幸である。まずは本領である劇音楽、それに近似した位置にいるグラズノフやスクリアビンといった作曲家の作品に触れてから喋るがよい。,,これは7番の史上最高の、恐らく今後も現れない名演である。最後の一音まで、この力強さと驚嘆すべきソリストの技に忘我することうけあいである。長い終楽章をここまで聞かせる演奏は無い。そしてグラズノフ最高のスケルツォ、3楽章の蹴り埃舞う軍馬たちの疾走に、憧れと郷愁と、熱狂を感じない者はいまい。,,尤も、Pearlの雑音を取り除いた痩せた音では難しいかもしれないが。私はよほどのことがなければ媒体音質に言及しない方針なのだが、これは、十数年以上も聴き続け残念に思ってきた音質の「穴」を見事に埋めてくれるLPであったため書き記しておく。復刻もやりようによっては「普通の人」に誤解を与えるものになりかねない見本のようなものだ。メロディヤではないレーベル名がかかれているがメロディヤ録音と聞いたのでそう書いておく。,-----,,,-----
グラズノフ:交響曲第7番「田園」,○セレブリエル指揮スコティッシュ・ナショナル管弦楽団(warner)2006/2/28-3/2・CD,,かつてはロシアとドイツのオケによる録音しか無かったところへ近年イギリスオケのものが出てきていい意味でも悪い意味でもグラズノフのシンフォニーへの認知が高まったのは喜ぶべきことか。分厚いブラスの重低音に込み入った立体的書法、中欧指向の強まったグラズノフ中期以降の作品ではイギリスオケというのは決して釣り合った相手ではない。しかしセレブリエルのように垢抜けたあけっぴろげの表現が似合わないかというとそうではなく、終楽章の壮麗な音楽はとても聴きごたえがある。反面、このオケの弱いところが出たのは本作品のオケの腕の見せ所といったスケルツォ、もともと楽章間の対比を内容的にも強調すべきだと主張していたグラズノフがそれまでの牧歌的表情から豹変して祝祭的で前進的な音楽を描いた、そこを押さえていないと更に終楽章での「まとめ」との対比がうまくいかないのだが、弦や木管への技術的に苛烈な要求がこの楽章で極まっていることもありしょうじき聴いていて辛く思う個所もある。浅薄な響きもこの楽章の存在を軽くしている。浅薄な響きと言えば2楽章、世にも美しい第二主題がまったくそれまでの音色と同じ、まさにイギリスオケのあの明るく穏やかな音のまま流れて行ってしまうのもどうかと思った。出てくる音楽に思い入れのようなものが感じられ無いと成り立たないのだ。冷めているし理解していない。これはセレブリエルが1楽章と同じ調子で音楽を進めてしまったせいもあろう。ここでは暗い響きを強調してやはり、楽章間対比をハッキリしておかないとならないのだ。全般なかなかよいのだが、やはりロシアオケじゃないとこの長大な終楽章はもたないなあとか、スケルツォはオケの地力が無いとだめだなあとか、そんなことばかり気になった。3楽章が面白くないとこの演奏を聴いて言っている人はちょっと残念だよね。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第7番「田園」,○ハイキン指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)LP,,小盤に何故収まるんだと思ったら物凄い速い!完全なるトスカニーニ様式によるグラズノフ、演奏もソヴィエト国立とは思えぬ精度(木管外したりしてるけどモノラルなので目立たない)、盤の状態がひどいので詳細不明ということで○にしておくがちゃんとした音で聴いたら◎にしていたかも。人気ではボロディン的な4番5番やチャイコフスキー的な6番に劣るが、全体の完成度と楽想の豊かさ清新さでは群を抜いているのがこの7番である。ベートーヴェンを模倣したとさえ言われる1楽章から聴く気をなくす向きはこれを聞いてみるとよい。このくらい高速で力強くやられると紛れも無くボロディンの末裔グラズノフ以外の何者でもないことがわかる。スコアを見れば弦楽器のトリッキーな動きなどとてもベトとは程遠い異様な難しさを露呈している。しかしきちんと訓練を積んだプロならヒンデミットの交響曲類のようなすこぶる立体的な演奏効果を与えられるだろう。後半楽章のテンポはやや落ち着くが、演奏自体はそれほどダレた感じはしない。この曲の古い録音にはゴロワノフの名盤があるが、もっと正攻法でもっと西欧的な精度を保ち制御の利いた、それでいて攻撃的な音楽を存分楽しめるだろう。まさにトスカニーニを彷彿とさせる。トスカニーニのロシアものはダレたものばかりだけれど。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
グラズノフ:交響曲第7番「田園」,○尾高指揮BBCウェールズ管弦楽団(BIS/brilliant)CD,,"
Glazunov: Symphonies (Complete); Cantatas; Famous Ballet Music; Violin Concerto [Box Set]

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",丁寧。ロシア系演奏に慣れていると簡素で即物的に聞こえる。グラズノフの均整美が透明感のある音と良い録音で示されていて、ロジェストより聴き易いかもしれない。二楽章第二主題の天国的な幻想をここまで美しく歌い上げた演奏は無い。グラズノフはマーラーと同様スコアを音にすればそれでいい。そういう現場主義的な即物性を持ち合わせている。楽想の移ろいに忠実に、慎重に描き上げていく真面目さが奏功している。ただ三楽章はその美学が裏目に出て民族的感興を喚起しない。二楽章のぽっとした明るさ(二楽章はほんらい暗いのだが)のまま聴けてしまう。遅いしレガート気味である。ソロ楽器に難度の高い楽章なのでミスなく丁寧に完璧に仕上げようという意図なのだろう。最後の弦の三連符リズムのスピッカートをここまできっちり揃えている演奏は特異で初めて聴いた。,,ボロディン前後からロシア国民楽派のアカデミズムは4楽章制交響曲の中間楽章を極めて対照的な雰囲気を持つ独立したピースとして配置するよう意味を拡大もしくは単純化しており、その究極の実践者としてのグラズノフをやるのであれば西欧的な形式概念を外し、二楽章はどん底の無言歌謡、三楽章は祝典用舞踏音楽として異常なコントラストを付けて欲しいとは思う。カリンニコフの1番がわかりやすいと思うが、この場合四楽章は確実にバラバラなそれまでの楽章から主題を全部抽出し並置もしくは複置することで統一感を持たせる、歌劇における終曲の役割を果たす。統一主題があればそこに更に重層的な処理が加わる。盛りだくさんだからえてして冗長感があったりもするが、この曲もまさにそれである。この演奏様式だとどうなのだろう、と思うが、指揮者の構造重視の姿勢がグラズノフのベト的に緊密な書法の裏まで浮き彫りにしていて面白いのである。そう、勢いで曲作りをしないからこその分析的アプローチで冗長感を避けている。ただ各声部間のバランスがやや崩れてきているか。音響的にバラケ感がある。コーダでは見事に最強奏で団円させ、全体設計の巧みさを改めて意識させられる。なかなかの演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
グラズノフ:交響曲第7番「田園」(1902),○ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト文化省管弦楽団(MELODIYA)〜適度に客観的で入り易い演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第7番「田園」(1902),フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第7番「田園」(1902),ヤルヴィ指揮バイエルン放送交響楽団(ORFEO)〜この曲にかんしてはあまり成功していないか?小粒な演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第8番,○フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団(VICTOR/MELODIYA)CD,,西欧の手法にのっとった完全に形式主義的な作品であり、その緻密な構造性ゆえにフェドの丁寧な構築の仕方がとてもしっくりくる。充実した対位的手法に対する理解が特にその内声部の計算し尽くされた運動性からくる魅力をしっかり引き出している。案外難曲であるがゆえにこのオケの弦の状態では厳しい局面も多々あるが、テンポ的にゆっくりじっくりといった感じなので目立った綻びというようには感じない程度に収まっている。情気の迸りといったアチャチャ感の無い、フェドの客観的ではあるがフレーズ一つ一つを大事にした細心の配慮が功を奏している。曲があっているということだろう。,,晦渋な動機で統一された四つの楽章は、ブラームス的な古典回帰という意味では完全に時代に逆らったものであるが、元々ボロディン後期の革新的民族交響曲の伝承者として当時としては比較的奔放な自作の民謡主題を駆使したシンフォニーを才のままに作っていた人である。形式に対する感覚は本質的な師であるボロディン同じくしっかり持ち合わせ、リムスキーの表題交響曲のような破格な外し方は決してしなかったが、それでも聞けば瞭然に西欧とは異質のものとして存在感をはなつ作品を作る人だった。その頃のものはしかし旋律があまりに重要視されすぎ(もしくはあまりに魅力的な旋律ばかり使用したために)チャイコ的にオケの勢いまかせの所が大きく感じられ、ワグナーやボロディン並の新しさはあるが世紀末的な新しさは全く無いハーモニー(そして実際の響きの薄さ)という欠点があった。,,そういったものは後期、特にこの8番に至っては完全に払拭され、重みある分厚いハーモニーが全編を支配する。フェドのようなやり方でしっかり整えられると、その響きこそが西欧的でありながらそうではない部分もある、何気に独自のとても魅力的な流れを作り出す、その礎となっているものであることがわかる。スヴェトラの全般に浅薄に感じる演奏に比してこの演奏の、特にショスタコが唯一称賛した2楽章という暗い楽章が、とても映えて聞こえるのは、まさに「相性」というものであろう。丁寧にやれば暗い幻想と浮き上がる夢の断片がこれだけしっかり聞こえてくるものなのだ。奇妙でおどけたスケルツォである3楽章がこれほどスケールのある音楽になりえるとも思わなかった。木管が裏で投げかける統一動機の小さな旋風もしっかり聞こえてくる。録音もいいのかもしれない。但しこれが「正しい」のかはわからない。アカデミストであるグラズノフの「形式」観では、スケルツォは独立した軽く快活なものであるべきであり、その前後の楽章とのコントラストこそが重要とされる。動機で統一されているとはいえこの8番においても聴感は違和感スレスレのとっぴな印象を与えるものになるのが普通である。が、これはフェドの個性としておくべきか。4楽章はフェド的な偉大なもの。ロシア交響曲伝統のフーガ的構造もグラズノフ特有の中声部以下の魅力的な動きと共に、より明確にそれとわかる形で聞こえてくる。グラズノフのメロディメーカーとしての最後の息吹も、丁寧にロマンティックにフレージングされ美しい。オケに難点はあるが(練習量の問題?)最後の最後に「民族的処理」が顔を出し(全曲通してこれまで一切民族的要素は出てこないのだ)勢いよく終わるさまを明確に原典どおり示したところ、逆にひどくスケールアップするより効果的に思えた。勿論物足りなさを感じる向きもあろうが、これもアリと思った。トータルで○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
グラズノフ:交響曲第8番,○朝比奈隆指揮新星日響(tobu他)1992/1/18live・CD,,演奏当時自主制作盤として販売されていたものを東武トレーディングが発掘再発したものでうれしい値段である。朝比奈氏はアマチュアだらけのロシア国民楽派の中ではグラズノフを「ましなもの」程度と評価していたといい、中でもこの最後の8番に興味を持っていたようだ。それはマーラーの千人を演奏したころなどと一致し、世紀末音楽の流行という世間の雰囲気も後押ししてのものだったのかもしれない。2楽章の深層まで切り込みあまやかに歌う印象的な表現はショスタコーヴィチが唯一評価した曲だという伝説と一致する。1楽章冒頭からはしょうじき重くてダレた雰囲気が「国内オケだなあ・・・」という感じなのだが、2楽章が俄然、3楽章の軽妙なスケルツォは朝比奈式にはやや重いが、4楽章のはからずもグラズノフの最後の(正式な)交響曲楽章となった偉大な変奏曲において、重々しく格調高い表現を演じており秀逸だ。これは朝比奈世界だろう。この作曲家にはきちんとしたドイツ式の演奏記録というものが少なく、中でもここまで西欧的に振れた作品にもかかわらず演奏自体されないというのは残念であり、朝比奈氏が一回であってもやったというのは記録として価値がある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第8番,セレブリエル指揮ロイヤル・スコティッシュ国立管弦楽団(warner)2005/1/9・CD,,オケの性向なのだが旋律への思い入れのなさが気になる。発音が型どおりでヴィヴラートやらニュアンスの付加がない。シンフォニックな演奏で総体としてはよく響き、グラズノフの円熟した技法を変な歪みなく聴けるのは良いといえば良いが、かえってマンネリズムをも浮き彫りにしてしまう。解釈抜きに旋律そのものの魅力だけで聴かせることも十分可能な作曲家だが、完成されたシンフォニーとしては最後にあたるこの曲にはそれまでみられなかった暗さや単純さ、古典的な構造性への傾倒が完全に西欧的な楽曲への脱皮をみせる箇所が随所にみられ、そのあたりの「変化」をチクルスの中で表現するに、もちろん無解釈ではなく細かなルバートなど独特のものはなくはないとはいえ、それまでのシンフォニーと同じトーンでやるのではなく、漆黒の二楽章も、これはこれで非常にわかりやすいが、なぜ漆黒でなければならなかったのか、物語性を求めたくもなってしまう。奇妙な半音階の浮き沈みしダイナミックな表現を示す特徴的なスケルツォは、弦に鋭さ、明確さが欲しくなる。中間部のテンポの落とし方は一本調子を避けて良いものだが、いずれ楽章間対比はグラズノフが重要視していたといつものだ。四楽章は全曲バランスを考えて雄大にやっている。全般、美しくニュートラルな演奏なので、苦手な向きは聴きやすいかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:交響曲第8番(1905〜1906),○スヴェトラーノフ指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA)1963・LP〜かつてスヴェトラーノフについてはソヴィエト国立以外の演奏のほうがエキセントリックで好きだった。今思えばオケの問題というより録音年代の問題だったのかもしれない。この国内盤も1965年名匠コンスタン・イワノフのあとを継ぎソヴィエト国立の首席に就任する二年前の古い録音である。 グラズノフの円熟した作曲技法が味わえるなかなかの名品だが、スヴェトラーノフはそれに輪をかけて音楽のデフォルメを施している。曲ががっちりと組みあがっているために少々崩されてもさほど違和感は無い。集中力があり機能的なモスクワ放響を使っているために、のちのソヴィエト国立響ほどのバラケやスカスカ感も少なく充実した聴感がある。録音のせいで軽薄な音に仕上がっているのがちょっと痛いが。それにしても内声部がしっかり表現されているためパズルのように断片的なフレーズの組み立てや細かいモチーフ変容のさまがはっきり聞き取れる。一方で楽器法の巧さは実によく鳴るブラスにも現われている。グラズノフは3管編成というこの国の作曲家にしては大きな管楽器編成をとるが、これはリムスキーから伝授されたものなのかもしれない。やりようによってはクライマックスで派手にぶっ放す事が出来ると思うが、この演奏では何故か余り爆発しない。不満といえば不満である。非常に目の詰まった楽譜をえんえんと弾き続けなければならない弦楽器のアンサンブルは、やや音が浅いものの比較的しっかり聞こえてくる。音響的に言えば分厚いハーモニーの妙味、めまぐるしいが自然な転調のさまも明確に聴き取る事が出来る。グラズノフはとにかく耳がよかった、というリムスキーらの証言もうなづける、入り組んで複雑だが計算されたように明快にひびく独特の書法は特筆もの。とてもプロフェッショナルな技が味わえる逸品。晦渋な2楽章も夢のように美しく寂しい第二主題に重みをつけており飽きさせない。終楽章はもっと影が欲しい気もするがこのくらい娯楽的にやらないと飽きてしまうか。総じて○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第8番(1905〜1906),スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団 1989年録音。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第8番(1905〜1906),◎ヤルヴィ指揮バイエルン放送交響楽団   ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第8番(1905〜1906),ハイキン指揮レニングラード・フィル(MELODIYA)LP雑音まみれでどうしようもないLPから流れ出てきた西欧折衷派音楽はゆったりとしたテンポで構築的なもの。あまりにゆったりしすぎて劇的な楽曲の醍醐味が損なわれているが、楽章が進むにつれ引き込まれる世界がある。もっと録音が立体的であったら!これでは雑音の奥にどんな世界が待ち受けているのかわからない・・・。でも頑張って聞くと、そこに遊び心は無いがいくぶん情緒的なものは秘めている。1楽章はテンポがゆったりでやや弛緩気味。ちなみに編集痕があきらかに聞こえる場所がある(展開部で一瞬でブラスの音量が変化する箇所が有る)。ショスタコが唯一評価したというドン暗い2楽章の、世にも美しいフルートによる第二主題提示、このあたりの寂しげな情感は心を打つ。木管巧い。3楽章もまずまず。トリッキーな半音階的パッセージの掛け合い(グラズノフお得意の方法)、ロシアオケには厳しいアンサンブルだと思うがこの盤は不自然さはなくさすがうまい。4楽章はグラズノフ自身のフィナーレ(もっとも9番も1楽章だけは仕上げられてはいるが)、軽く流すのでは台無し(そういう演奏も有る)。この音楽の言い表わしている何物か、恐らく懐かしく輝かしい自らの人生の残照が暖かな感慨をあたえて秀逸だ。書法的に極めて円熟しておりロシアでは対位法の教材として使われたほどの曲だが、表面的な緻密さだけに目をやってしまうとロマンティックな本質を損なう事になりかねないだろう。個人的にはパッセージとパッセージの「継ぎ目」の処理に違和感を感じる所が無いわけではない。多分5番あたりのほうが自然でうまくできている(書法は単純だが)。この終楽章はやや長ったらしいが私はハイキン盤は飽きずに聴きとおせる。ようは演奏次第なのだ。故朝比奈隆氏もチャイコフスキーを含めロシア国民楽派はみんなアマチュアだが、グラズノフはプロフェッショナルだ、と語ったという。この8番の実演を聴きたかったが物理的に無理だった。今となってはどうしようもないことであるが。雑音マイナスで無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第8番(1905〜1906),フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団   ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:交響曲第9番〜T断章,ユーディン指揮ボリショイ歌劇場交響楽団(MELODIYA)随分と雑というか乱暴な感じがする演奏。これはグラズノフが途中放棄した1楽章だけの断章で、それも余命十分残してのことだから9番のジンクスとは無縁である。確かにメロディも素晴らしいし8番を更にスマートに西欧風に仕立てたような佳作だが(但し編曲者の手が入っている)、霊感尽きかけたようなところがあることも確かで、カルテットでいえば6番以降のような、局所的に極めて美しいところがあるが大部分ガラクタ、な曲である。だからこそ演奏には巧緻な設計と余裕ある表現が求められると思うのだが、どうにもグズグズというかアマオケのライウ゛のような空回りの感じられる凡演になってしまった。最初に聴くべき演奏ではないです。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:婚礼の行列,○ガウク指揮モスクワ放送交響楽団(EMI/MELODIYA)LPガウクにしては珍しいステレオ録音。鮮やかな色調と大仰な演出がガウクの豪放さをよく表わしている。民謡旋律のローカル色がキライな向きには勧められないが(ガウクに限らずこの曲自体イヤかも)、田舎の教会で賑やかに行われる婚礼の様子をうつしたような素朴かつ騒々しい音楽。構造がしっかりしているので安心して聞いていられる曲です。ハイキンの四季他とのカップリング。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:謝肉祭序曲,○ギンズブルグ指揮モスクワ放送交響楽団、シェルマン(ORG)(MELODIYA)LP,,派手な祝典序曲の真ん中に静かな教会のオルガンが鳴り響く、効果的な楽曲でメカニカルな対位的書法が駆使されたさまは腕に覚えのある楽団は挑んでみたく思うだろう。グラズノフらしい楽想のマンネリズムもじつに気を煽る律動的な流れの中ではさほど重要ではない。難曲もこのオケはほぼ手中におさめ、指揮者はマニアックに作り込まれたスコアを鮮やかに切り分け、また取り纏めて集中度の高い表現に昇華させている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:謝肉祭序曲(冒頭欠落),○チェリビダッケ指揮ベルリン放送交響楽団(audite)1945・CD,,ボックス収録で恐らく初出。テンポが前に行かないものの愉悦感溢れるリズムとスピードで聴かせるチェリビダッケらしい国民楽派だ。緩徐旋律など透明感があり、ロシアの曲であることを忘れさせる。ドイツっぽくありながらそれにとどまらない表現が聞かれる。細かい動きがなかなか難しいグラズノフだが、オケは余程鍛えられたのか何とかやりきっている。フルヴェンぽい力感あるクライマックスあたりもいい。ただ、録音は悪い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:前奏曲とフーガ 作品101ー1 ,ソフロニツキー (P)
グラズノフ:前奏曲 作品49ー1 ,ソフロニツキー (P)
グラズノフ:主題と変奏,○エレーナ・グラズノーワ(P)(COLOSSEUM)LP,,かなり怪しい演奏ぶりだが華やかで中期グラズノフらしさの発揮された(気紛れにめまぐるしく移り変わる曲想や西欧化された中に仄かに残るロシア国民楽派的書法といった)隠れた名曲をスケール大きく、垢抜けたあっけらかんとした表現で懸命に演じている。義理の父への思いが無いと言ったら嘘になるだろう。○。残響がデッドなのもあるかな。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:祝典序曲,◯エリアスベルク指揮レニングラード交響楽団(?)1965/11/11live・LP,,音外しやテンポがもたつくところもあるが、リズム感はよく、歌いどころは過度にならない程度に歌い込み、オケの力不足か感情を揺り動かす音にはなっていないが、ちょっと鄙びた風情のグラズノフを聴くのも一興かと思う。グラズノフの作曲の腕が光る曲である一方難度もあるのでテンポが前に向かわないのか。悪くはないが。。◯。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:組曲「中世より」,○ゴロワノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)1952/3・LP,,冒頭から強引な発音のゴロワノフ節全開で拒否反応もやむなし。「これゴロワノフじゃない?」とレーベル面を見なくても言える人が世界中に19人はいると思う(ゴロワノフを知ってる人は20人くらいだろうが)。前期作品でもとくに有名な「海」冒頭を思わせる序奏からもう大荒れ三角波状態で、物凄いぶっぱなしかたにまるきり中世の雰囲気は無い(ショスタコに言わせるまでもなく)。そもそも中世ロシアに祖先のしるべを見出した民族主義的態度を煽る音楽を想定しているわけで西欧なんか意識してはいないが、壮大な叙事詩が4楽章構成で明確に性格別けされ展開されるさまはまるでしっかりした交響曲。曲感は前期交響詩群の極めて完成度の高い西欧のエッセンスを取り入れた一種印象派的な音楽で、ロシア国民楽派の行き着く先が結局折衷派とたいしてかわらないという印象もあたえる曲でもある。終始リムスキーなど(一部その弟子のレスピーギすら思わせる)聴き易いものなので、曲的にもおすすめ。おすすめな曲をゴロワノフにいじられるとくどい。○。面白い転調が繰り返される場面など完成期前のグラズノフならではの変幻自在ぶりだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:組曲「中世より」〜TROUBADAR'S SERENADE、スケルツォ,○サバータ指揮E.I.A.R.交響楽団(EDUCATIONAL MEDIA ASSOCIATES)ヴォルコフの「証言」でショスタコーヴィチは「中世より、っていうのにまったく中世ふうでない」ウンヌンのことを言っていた。なるほどそのとおりだ。旋法的な節回しもないし、とくにスケルツォなんて中世じゃなくて中央アジアだ。セレナーデは美しくも陰うつな旋律が印象的。ただ、あまり記憶に残る感じではない(グラズノフの個性もあらわれていない)。スケルツォはボロディンの子グラズノフの面目躍如、この演奏では刻みのテンポがとてもシャープに刻まれておりかっこいい。ラフマニノフがよくやる終楽章を思い起こさせる。「幻想交響曲」の終楽章のサバトの音楽に似た旋律が出て来て面白い。やや気まぐれな曲想(旋律)がひたすら羅列されていくのだが、サバータの棒のせいかあまり民族臭がなく、グラズノフ作品としてはいささか軽いが、こういう演奏のほうがグラズノフへの偏見がなくなりいいのかもしれない。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:特徴的な組曲,スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(ARIOSO/MELODIYA)1990,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:牧歌,○エレーナ・グラズノーワ(P)(COLOSSEUM)LP,,作曲家の義理の娘で下手で知られているが、ソロであることと曲がきわめて平易なだけにしっとりした情趣を醸し聴ける演奏になっている。リストというよりショパン系の幻想味が意外な曲でもあり、個性は無いが、この作曲家の優しい面を味わうことができる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:夢,○ジャン・デヴェミー(HRN)アルベール・ヴォルフ指揮ラムルー管弦楽団(POLYDOR)SP,,何とも懐かしい音である。ホルンは木管楽器なのだなあ。。演奏は爽やかで色彩味がある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
グラズノフ:抒情的な詩,スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(ARIOSO/MELODIYA)1982,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
グラズノフ:瞑想曲,○コーガン(Vn)スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)LP オイストラフの録音で知られる名曲であるが、コーガンも単調な音色でいながらスケール感と力強い表現で聞かせてくれる。繊細さはないがデリカシーはあり、グラズノフのロシア情緒を垢抜けさせ、万人に受け容れられそうな音楽に仕上げている。個人的にこの曲は思い入れがある。ガクセイの頃、これを弾くと非常に調子が良くなるので、練習前には必ず弾いていた。まったく無理が無い簡明な曲で、適度に各弦を鳴らし、まるでスケールをさらうように安定するのである。当時まだ音源を持っていなかったので、初めて聴いたときには音を誤っていたり冷や汗もんだった(ただ今でもその誤った音の方が収まりがいい感じがする。グラズノフはセオリーに忠実すぎてそのまま弾くと凡庸になりすぎるからだろう)。グラズノフ屈指の名旋律をゆっくり聴いてください。○。オケパートも見事で、もっと弾かれてもいい曲だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,