-2019/1/9(29修正)frantz schmidt
フランツ・シュミット:オラトリオ「七つの封印を持つ書」,ミトロプーロス指揮ウィーン・フィル、ギューデン、ヴンダーリヒ、デルモタ(SONY他)1959/8/23LIVE ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
フランツ・シュミット:クラリネット五重奏曲ハ長調,○ヤノスカ(Cl)ルソ(P)他(marcopolo)CD,,正式名称は「クラリネット、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための五重奏曲」であり、内容的には寧ろピアノ五重奏曲と言ったほうがいい。クラリネットは中音域で他の弦楽器同様平易なフレーズをユニゾンで吹き継いでいくなど余り目立たず、かたやピアノは最初から最後まで弾き通しである。2楽章間奏曲などピアノソロのみによるものでロマンティックで美しい。とにかくフランツはウィーンの作曲家としてブルックナーの影響以上にブラームスの影響を受けているようで、それほど構造性を擁せずいわばブラームス弦楽五重奏曲のようなあからさまな後期ロマン派的語法を引用しつつ、レーガーを薄めたようなかんじの和声の適度な新鮮味によって、腐臭がわくのを避けている。時間上はブルックナー的で全曲の演奏に1時間を要するものの、時間を感じさせない「薄さ」があり、環境音楽的に「邪魔しない音楽」という役割をよく果たしてくれる。フランツの室内楽はいくつかあり、クインテットは三曲あるがこの曲が旋律の魅力もアンサンブルのこなれ具合も丁度よく、またこの盤の演奏が室内楽としてとてもうまくできており、ソリストの妙な突出も技術上の弛緩もなく楽しめる。○。現在はamazonでもmp3配信されている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
フランツ・シュミット:ピアノ五重奏曲,バリリ四重奏団、デムス(P)(WESTMINSTER),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
フランツ・シュミット:歌劇「ノートルダム」〜間奏曲,ケーゲル指揮ドレスデン・フィル(HMV他)ミュンヘン・CD,,リヒャルト・シュトラウスもどきの響きに単純な旋律音楽、抜き出してやるアンコールピースとしては平易でいいものだからけっこうやられている。作曲家の弟子カラヤンも振ったという曲だが、ケーゲルはひときわ穏やかで、静けさはこれもいつものケーゲルといったところか。フランツの音楽を楽しめる曲ではない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
フランツ・シュミット:歌劇「ノートルダム」〜間奏曲,○カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)1959/1・CD,,むせ返るような音楽にカラヤンは合っている。オケもオケなので灰汁抜きされて、良い意味なのか悪い意味なのかわからないが耳にすっと入ってすっと出ていく。フランツ特有の重厚な響きの揺れがはっとさせるが、まあ、わかりやすいだけの曲か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
フランツ・シュミット:歌劇「ノートルダム」1幕への前奏曲、間奏曲、謝肉祭の音楽,○ハラツ指揮ブダペスト交響楽団(marcopolo)CD,,この組み合わせないし、ヌルい間奏曲のみ演奏されることが多い。楽曲は1910年代のウィーンの楽壇を彷彿とさせる実にぬるまゆい感触のもので、同時代の非前衛の作曲家たちとほぼ同じような、いわば末流ワグナー的な世界を旋律美とともに描き出している。メロディでいえば間奏曲第一部など印象的ではあるのだが、フランツの理知的な特質がはっきり出ているのは謝肉祭の音楽で、起伏にとんだ内容となっている。演奏はやはり弦が弱すぎる。前奏曲は聴くにたえないところがある。一方でブラスは安定しており、木管は棒吹きの感もあるもののまずまずである。謝肉祭の音楽がなかなかいいので○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
フランツ・シュミット:交響曲第1番,〇ヤルヴィ指揮デトロイト交響楽団(CHANDOS)CD,,タンホイザーか?というような出だしからもうワグナー臭ぷんぷん。第二主題はこれまたブラームス!1楽章は楽器法や転調に後年の独特の雰囲気の萌芽が見えなくもないがそれとてワグナーとブラームスの影響下に展開されたものにすぎない。二大作曲家のエッセンスが大部分を占めた曲だが、ヤルヴィだから生臭くならない。もっとウィーン寄りのプレイヤーだったら?四曲のシンフォニーの中では最も古風で、まるで周辺国のエピゴーネン作曲家の作品であるかのような表面的な保守性を感じる。シベリウスの初期作品など北欧のドイツ的作曲家のものを思い浮かべたがヤルヴィだからというわけではあるまい。2楽章の古典派的な暗さはフランツならではだし、ブラームス通り越してシューマンからベートーヴェンのアンサンブルを彷彿とさせる緊密なスケルツォ楽章の、展開部の目まぐるしい転調は新しく現代的でこの作品の聞き所だ。緩徐主題はウィーン情緒たっぷりでフランツらしい。マーラー1番の緩徐主題を彷彿とする。弦楽器の機能性を問われるフランツのシンフォニー、1番で既にかなりの統制を要求されているが、更に古風な4楽章はほんとに古典並の使われぶりで縦の刻みばっかり。疲れそう。ブラームス的な意味での新古典性が強く、しかし対位的なアンサンブルが殆ど無く、オーケストレーションはぐっと単純であるから、ハーモニーの新しさが無ければブルックナーの凡作と聞きまごうばかりのところもある。半音階的な音線にウィーン的な魅力が確かにあるので、もう少しウィーンふうの情緒的な音色があれば面白かったかも。フランツらしく凄く盛り上がるというわけでもなく縦の動きに横長のフレーズが重なってきてハーモニーが分厚くなって終わるわけだが、このあたりの「やっと来た!」的感動はブルックナーぽい。ヤルヴィはほんとに手綱さばきが上手くて、一本一本がむずいフランツのスコアも見事にアンサンブルに纏め上げてくれる。むろんオケの力あってのものでもあるわけだが。ヤルヴィに〇ひとつ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
フランツ・シュミット:交響曲第1番,ハラツ指揮ブダペスト交響楽団(marcopolo)CD,,ブルックナー初期交響曲を歌謡曲で煮染めたような曲だが、陰りのない音楽には魅力がある。だがここではややオケの力に難があり、弦楽器の薄さはカバーしきれるものではなかったようだ。各声部剥き出しで対位法的パズルを組み立てて行く、指揮の手腕はなかなかのものだが田舎オケの印象、またウィーンらしい表現の欠如は否定できない。平坦だ。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
フランツ・シュミット:交響曲第2番,○カール・クリッツ指揮シラキュース交響楽団(DA:CD-R)1969/12/11live,,珍しいライヴ。クリッツはこのブルックナーの流れを汲む末流ロマン派交響曲作家の代表格たる作曲家の弟子である(カラヤンも学んでいるが演奏記録は限られている)。シェーンベルクと同い年でありながら文学性を帯びた表現主義的前衛性を前面に出すことなしに、あくまで純粋な音楽としての技巧的先進性を追及した理論家でもあり、保守的とみなされるのは主にいかにもウィーンの古きよきロマン性をかもす主題、ワグナーからの流れをくむ自由でありつつ耳心地いい和声によるものであって、分厚いオルガン的音響と耳に捉えられないくらい細かな機構の、うねるように変化し続ける複雑な様相、既存のロマン派交響曲に囚われない有機的な楽曲構成への挑戦が新古典主義の堅固な構造と組み合っているさまはブラームスの流れをも汲んでいることを示している。,,死後、ナチス協力者の汚名が晴れてのち少しずつ認められていったが、この人には華々しい使徒がいなかったのが不幸であった。クリッツも華々しいとは言えない。少数の室内楽やオラトリオを除けば演奏機会は少なく、やっと10数年前ヤルヴィや大野氏が注目し演奏録音したものの、今も余り脚光を浴びてはいない。正直前衛が受けない時代に何故この絶妙な立ち位置の作曲家が取り上げられないのか理解に苦しむが、易い聞き心地に対して(ウィーンの作曲家らしいところだが)声部剥き出しだったりソリスティックでトリッキーな部分の多い比較的演奏が困難な楽曲であることは大きいだろう。チェロの腕は有名であり、職業演奏家としてマーラー時代を含む(マーラーを嫌ってはいたが受けた影響は指摘されている)ウィーン国立歌劇場オケの主席をつとめていたが、弦楽アンサンブルに対するけっこう厳しい要求がみられ、クリッツが生涯育て上げたこのオケにおいてもばらけて辛い場面が多い。同時代を知っている演奏家によるライヴ録音はミトロプーロスとクリッツのものだけだそうだが、分は悪いと言わざるを得ない。,,解釈が生硬に聞こえるのもオケが厳しいせいかもしれないが、ともすると旋律追いになって完全にブルックナーの和声と旋律だけで出来上がった単純な交響的大蛇に聞こえてしまう曲を、構造面をかなりクリアに浮き彫りにしようとしていて、立体的なつくりがよく聞こえる。2楽章の中間部、ハイライトたるべき魅力的なワルツ主題もそれだけが浮き立つのではなくそこを盛り立てるための内声部の明快な組み立て、魅力的な和声変化の鮮やかな表現にクリッツの意図は汲み取れる。けして指揮者としての腕があるようには聞こえず学究肌に聞こえる、これは結局シュミットが使徒に恵まれなかったということに繋がることだが、それでも、数少ない演奏の一つであり、晩年のクリッツの境地を知る資料ではある。録音がかなり辛い。○にはしておくが。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,"フランツ・シュミット","本サイトのフランツ・シュミットの項",-----,,
フランツ・シュミット:交響曲第2番,○ラインスドルフ指揮ウィーン・フィル(ANDANTE)1983/10/29LIVEラインスドルフ晩年のライヴである。ウィーン生まれの指揮者にウィーン生っ粋のオケ、これ以上はない組み合わせだろう。ウィーンっ子作曲家フランツ・シュミットの2番にはミトロプーロスがやはりウィーン・フィルを振ったライヴ録音が残っているが、はっきりいって粗雑な出来だった。この盤は状態のいいステレオ録音だからミトロプーロス盤よりはいくぶん恵まれている。半音階的で複雑な一楽章序奏〜第一主題(お決まりだが終楽章末尾で再現する)は木管、弦の音線が錯綜し非常にまとめにくいところだが、これは録音の勝利というべきか、まずまず聴き易い。ラインスドルフは職人的で個性を押し出してくるタイプではない。また曲の特性を理解してその曲にあった解釈を付けるといった小技を持たず、一種即物的な感覚で流すところがある。これらは私ははっきり言って苦手なのだが、フランツ・シュミットのような濃厚な音楽に施されると「臭み」が抜けてすごく聴き易くなるのだなあ、と感心した。ただ、フランツ・シュミット特有の艶やかな旋律、とくに2楽章の舞曲表現があまり浮き立ってこずちょっと不満。しかしウィーン・フィルの音色は美しく終始魅了する。リヒャルト(ワグナー、シュトラウス)あたりからの影響を窺わせる半音階的な音線、洒落た転調がしっかり表現されており、フランツ・シュミット特有の魅力を引き出すのに成功している。それにしてもウィーン・フィルでよかった。これがシカゴあたりだったらちっとも面白くなかったかも。ラインスドルフと私は相性が悪いが、この珍しい演奏はある程度認めざるを得ない。○,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
フランツ・シュミット:交響曲第2番,ビシュコフ指揮VPO(DIRIGENT)2015/09/20ウィーンlive,,きわめてウィーン的と言えるフランツ・シュミットに近年よく取り組んでいるビシュコフだが、そのウィーンの頂点のオケとの記録としてどうなのか。ビシュコフはかつてのイメージを覆しマーラーなど円熟した演奏ぶりを聴かせている。ただ、これは最近の同オケの変質というより恐らく録音の問題なのだろうが、肝心の弦が俊敏な一方で金属質で固い音を出し、生温いのが魅力のフランツの音楽を冷やして固めてしまっている(薄いノイズも耳に悪い)。テンポ取りなど聴くと確かにウィーン情緒を醸そうとしているのだが東欧や北欧オケのようで、ビシュコフ自身もそれほど旋律の魅力や楽想の変化を煽る表現をとらないので、頭からドライな印象があり、足をすくわれる。フランツはブルックナーの構築性、厚い響きとシューベルトの歌謡性、ブラームスの理知性を融合発展させたような作曲家だが(そのため結局マーラーみたいな管弦楽が出来上がる)、この曲の一楽章はほぼリヒャルト・シュトラウスである。この演奏はそれからすると寧ろ的確というか、リヒャルト・シュトラウスの指揮ぶりをも想起させ、純粋にやや複雑な音、楽器の交錯を捌き分けていくことで、一見旋律命のようなフランツのマニアックに造り込む側面、すなわち曲の本質的な魅力に気付かされる。新しい録音なので派手さも伝わる。変奏曲はそれぞれの描き分けが明確だ。ロシア国民楽派のような安直な音楽、教会音楽を思わせるブルックナー的な音楽、ワグナーを模した英雄的表現、それらの中での旋律の変容ぶり、通奏的なものを含む複数の主題の絡みを含め、フィナーレに向けての有機的な構成はフランツのなかなか技師なところに気づかせて、それをしっかりわかる形で伝えているビシュコフにも高度な技師ぶりを感じることができる。一方で即物的で耽溺できない部分もあり、ネックとなる。この曲など長大な変奏曲を聴き通させるためのプラスアルファが必要なところで、とくに最後の方になると意思的にコントロールして変化をつけなければただの交響的大蛇となる。いつ終わるんだ?これで終わったのか?と思わせてしまった、終演後の戸惑い気味の拍手はまさに、フィナーレの持っていきかたを失敗したのだ。ずっと同じような動きを大声で吹かせ弾かせ続けるだけで何分ももたせるのは辛い。これは表層的な感が残るのは仕方ない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
フランツ・シュミット:交響曲第2番,ミトロプーロス指揮ウィーン・フィル(M&A)1958/9/28LIVE 音が悪い。それに演奏面のばらつき具合を加えて、いっそかなり穴の多いCDといわざるをえない。同曲の真価は現代の、技術的に”おしなべて”水準を保ったオーケストラにより味わうべきだ。リヒャルト・シュトラウスの贋作をアマチュアオケが演奏したといった趣。とくにソロ楽器がはちゃめちゃ。・・・やる気が無いのか?練習不足には違いない。弦楽器も鄙び過ぎ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
フランツ・シュミット:交響曲第2番,〇ヤルヴィ指揮CSO(CHANDOS)CD
フランツ・シュミット:交響曲第3番(1928),○ファビオ・ルイージ指揮MDR交響楽団(VKJK)CD,,ライプツィヒの渋くガチガチの音が曲にはあわない気がする。非常に美しく研ぎ澄まされた音響を駆使した演奏で、ルイージの指揮も非常に精緻であり、陶酔的なテンポでじっくり聞かせようとするのだが、これはもう曲自体の弱さというしかないか、3楽章まで聴くといくらなんでも緩慢すぎて飽きてしまう。フランツの曲は決して創意が無いわけではなくマーラーやブラームス好きにはとても受ける要素があると思うが、形式感を重視し(古典的な意味での形式ではない・・・この曲は古典を意識したものではあるが)決して大きくは踏み外さないハーモニーを使うため、そこにオケ側からのプラスアルファ(艶と言い切ってしまおう)がないと、確かによく書けてはいるがつまらない、という印象を強く受けてしまうのである。ただ、終楽章にかんしては艶は足りないにしても弦に特に気合いが入っていて、シャキシャキしたアンサンブルがとても気持ちよく耳を刺激する。ガガガガと縦に叩き付けるような刻みと美しいウィーンふうの横に流れる旋律が交互に現れるさまを楽しむ娯楽的によくできた楽章だが、前者の点において優れている。物凄く巧いオケ、さすがライプツィヒだが、曲にはあわなかったかもしれない。でもこの4楽章を買って○。1楽章は陶酔的でも曲想がそういう感じだから許せるが、それでも飽きる、ましてや2楽章の晦渋さとなると・・・スケルツォの3楽章ですら緩慢と感じてしまった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
フランツ・シュミット:交響曲第3番(1928),○ペシェク指揮スロヴェニア・フィル なかなか熱い演奏だ。技術的には厳しいところもあるが、指揮者演奏者共々共感を持ってこの曲を演奏している。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
フランツ・シュミット:交響曲第3番(1928),○ヤルヴィ指揮シカゴ交響楽団(CHANDOS)1991/1/30-2/3LIVE フランツ・シュミットはシェーンベルクと同い年である。しかしオーストリアで活躍した作曲家としては前衛の闘士シェーンベルクとまるで対照的な位置づけにある。即ちワグナー、ブルックナー、マーラーを継承した後期ロマン派の最後を飾る保守的作曲家であった、ということである。ブルックナーの弟子であったことはよく知られ、そのスコアはブルックナー的な分厚いオルガン音響を頻発させる。また作曲家以前に演奏家であり、ウィーン国立歌劇場でチェロのトップを張ったりなどしていた(そのときマーラーの薫陶を受けたと思われる・・・但し当人はマーラー嫌いを公言していたが)。第3番はフランツ・シュミットの交響曲としては一番規模が小さく、古典的なアンサンブル(とくに弦楽合奏)に主眼を置いた、とくに保守的な作品である。また、終始親しみやすい旋律が鳴り続ける歌謡性が特徴的で、シューベルトの影響を指摘されるところだが、それもそのはず、アメリカのコロンビア社が主催したシューベルト記念賞にエントリーしたもので、作曲家自ら「シューベルトの精神により書いた」と語っている。そのときの賞はスウェーデンのアッテルベリ(!)が獲得したが、オーストリアのエントリー曲の中では傑出したものとして認められた。慎ましやかではあるがモダンな響きがし、とても構造的だがスマートで格好いい響きを産み出すこの作品は、長く聴き続けていかれるべきものである。あまりに自然に使われておりちょっと聴きわからないが、旋律にはジプシー音楽なども取り入れられている。スケルツォから終楽章への流れは洗練されたブラームス。フランツ・シュミットの作ったもっとも解かり易くもっとも優れたフィナーレだろう。ヤルヴィはここがとても巧い!フルートの牧歌的な旋律から始まる陶酔的な1楽章はかつてベルリン・フィル定期で演奏されたのと殆ど変わらず、とてもやわらかく暖かい雰囲気をかもし出色だ。2楽章アダージオはこの曲の中では一番晦渋なものであるがさすがヤルヴィ、聞かせ所のツボを押さえた要領のいい演奏だ。3、4楽章は最後まで緊張感がもたない感じもした(ベルリン・フィルのときは強力な推進力が最後まで維持され希に見る名演になっていた)が、目下現役盤の中ではもっとも優れた録音といえる。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
フランツ・シュミット:交響曲第3番(1928),◎ヤルヴィ指揮ベルリン・フィル(放送音源)1990LIVE シカゴ交響楽団盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
フランツ・シュミット:交響曲第4番,○ウェルザー・メスト指揮ウィーン・フィル(aulide:CD-R)1998live,,なぜメジャーにならないのか不思議なフランツ・シュミットのシンフォニーだが(ブルックナーを凝縮しブラームスのような理知性とマーラーのような歌謡性を持ち込んだウィーン風味たっぷりの作風、といったらいいのか)、楽天的でのどかな雰囲気が持ち味でありそういったところが「世紀末」を越えた現代人には余り響かないのかもしれない・・・この4番を除いては。なき妹に向けた嘆きは両端部のトランペットソロにより表現され、ワグナーふうの濃厚な響きを半音階的にうねらせながら息の長く暗さを帯びた旋律を接いでいく。だが決して晦渋ではなく、印象的な美しい旋律ばかりである。スケルツォはまさにブルックナー=マーラーの影響を感じさせるがレントラーのような鈍重なものではなく俊敏できびきびと動く。同年のシェーンベルクにくらべ追求は甘いがこういった小技がとても緻密にこめられている。だから難しさもあろう。メストのVPOデビューは4年前この曲でありLPOと正規録音を行ったのもその頃である。この演奏はしかし円熟などしておらず、咳き込むようなテンポと機械的なまでの精緻さをもったドライヴぶり、ラトルを熱くしたような、小ぶりでしっとりした情趣がないながらも駆け抜ける足取りの軽やかさと確かさが印象的だ。そこにかつての姿を思い出させるウィーン・フィルの赤銅色のひびき伸びやかなフレージングに感動をおぼえる。両者の相性だろう。解釈的にはライヴ的な崩れがありながらもそこがいいという見方もできる。物凄くお勧めではないが一度聴いていい演奏。録音は悪い。マイク一本でステレオ的な拡がりが皆無の放送エアチェックもの。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
フランツ・シュミット:交響曲第4番,○ファビオ・ルイージ指揮MDR交響楽団(VKJK)CD,,この重厚な曲はさすがにライプツィヒにもあっている。旋律の半音階的な晦渋さもどっしりした響きの上でいささかの不安定さも感じさせず聞きやすい。夢見るような旋律は決して夢見るようには演じられないが古典的なたたずまいの中でしっかり自己主張をしている。新しい録音であること、オケがとても素晴らしい技術と響きを持っていること、それだけで十分だ。物凄くスムーズに聞ける演奏で、それは両刃であり、曲を知らない人には未知のものに対する抵抗感を感じることなく素直に曲の本質だけが入ってくる素晴らしいものになりうるし、既知の人には娯楽的に情緒的にちょっと食い足りない感じも受けるかもしれないが、そもそもウィーンの響きしか考えられていないフランツの曲をやるのは結構難しいことで、ウィーンの響きに慣れてしまった人ならそう思うかもしれないが曲の深刻な本質ではない。確かにこの演奏を聞き終わり後に録音していたモラルト盤冒頭のトランペットの響きを聞いた瞬間、全然違う悲痛な感情の世界に引きずり込まれてしまい、印象が一気に薄まってしまったのだが、それでも、この演奏は「曲を知らない人にも曲のよさがきっちり伝わる汎用性の高い演奏」として価値があるように思う。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
フランツ・シュミット:交響曲第4番,○メスト指揮LPO(EMI)CD,,若々しい演奏ぶりで楽しめる。暗い背景をもった曲だがいささか意識的な構成をとりすぎていて、その計算が情緒的な内容と相容れないように感じる。ウィーンのオケを想定して書かれているだけにその音色や表現に頼った部分もあって、マーラー的ないしブラームス的な美観は他のニュートラルなオケでは地味で引き立たないものに収束してしまうが、ここでは突き放したようにはつらつとして進むのがかえって、曲の出自を意識させずにただ音の流れを楽しませることに集中させてよい。オケの上手さにも指揮者の適性にもよるだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
フランツ・シュミット:交響曲第4番(1933),◎メータ指揮ウィーン・フィル(DECCA)モラルト盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
フランツ・シュミット:交響曲第4番(1933),○モラルト指揮ウィーン交響楽団(PHILIPS)シェーンベルクと同い年のウィーンの作曲家兼チェリスト。ブルックナー譲りの構成力とブラームス譲りの楽器法といったらいいんでしょうか、この二人共に公的私的に師事していたという変り種です。ウィーン国立歌劇場で長く主席奏者を勤め、マーラーの下で苦しんだせいか「マーラー嫌い」を自認していたそうですが、明らかにマーラーを髣髴とさせるところがあります。リヒャルト・シュトラウスの影響も旋律なんかにかなり色濃いですが、もっとすっきりしていて聞きやすい。中でも幸福感に溢れた第3交響曲、大推薦です。2番など構成に実験的な要素の有る曲なのですが、3はあくまで弦楽合奏メインで、木管楽器のソロがからむ程度。金管その他は殆ど目立ちません。半音階的で晦渋な2楽章を除けば、ひたすら美しい旋律がぶあついハーモニーで奏でられてゆく。時折低弦の刻むリズムはブルックナーのエコーでしょうか。この人の交響曲は細かく分析すると結構実験的なハーモニーを使ったり構成を工夫したりしているらしいのですが、平易で前時代的で、3番は中でも最も平易。録音が少ないのですがヤルヴィの全集が、多分国内盤でも出ています。本当はベルリンフィルを振ったライブが超名演で、弦楽アンサンブルの見せ場と木管ソロのふんだんに盛りこまれた同曲にうってつけだったのですが、ラジオ放送だけでCD化しなかったので残念です。そして4番。それまでの交響曲とはかなり異なっています。殺伐とした気分の中に浮き沈みする美しき幻想。想い出。冒頭の印象的なトランペットソロから、只事ではない深い思索に引きずり込まれていきます。これはメータ指揮ウィーン・フィルという熱演盤があるので、ヤルヴィは次点と考えてます。古いところではモラルト(リヒャルト・シュトラウスの義理のおい)指揮ウィーン交響楽団の演奏がフィリップスにありますが、泣けます。シュミットは直前に一人娘を亡くしました。終盤でメロディが破壊され、冒頭のペットの鎮魂歌に戻るところなんて、まさに慟哭といった感じです。マーラーに比べればいくぶん即物的な素直な感情の表出といったところでしょうが、感覚的にはマーラーの10番あたりに近い感があります。フランツ・シュミットには名旋律がいくつもありますが、4番のペットで提示される陰うつな通奏旋律と、中間楽章で突然始まる夢見るようなワルツ(マーラー的!)のロマンティックな旋律は忘れ得ない強い印象をあたえます。モラルト盤はワルツが素晴らしい。ブルックナー同様オルガン用にも宗教色豊かな作品をいくつも残したフランツ・シュミットらしく、とくにこの4番は分厚いハーモニーが目立ち、聞きごたえの有る音楽に仕上がっています。ウィーン世紀末の音楽好きなら、これは世紀末から四半世紀過ぎたあとの作品だけれども、絶対外せない曲です。この機会にぜひ。但し、やはりウィーンのオケでないとこの曲の良さはなかなか出ません。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,