-2019/1/9(1/23修正)dvorak
ドヴォルザーク:8つのワルツ〜1、4(弦楽四重奏編曲),○シェフチク・ルホツキー四重奏団(CHR)1929・CD,,チェコの伝説的な四重奏団によるSP録音だが、1番はいきなりポルタメントを極度にかけたメロメロのメロディで度肝を抜く。しかし元々それほど耽溺する団体でもなく、この主題以外では普通にやっている。4番は曲が余りアピールしない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:スケルツォ・カプリチオーソ,カイルベルト指揮プラハ・ドイツ・フィル(meloclassic)1945/1/8放送セッション録音(プラハ)・CD,,派手な中プロ向きの中編だが録音がモノラルでそれほどよくないせいもあって、音楽的に抽象化されたしっかりした音楽に聴こえる。カイルベルトの芸風もあるのだろう。意外と組み合わせやすく耳なじみも聴き映えもするだけあって新しい録音も多いのだが、それにくらべ地味ではあるもののモーツァルトと同時に録音されているせいもあってか古典音楽のようで、印象は真面目だ。スケルツォ風でも狂詩曲的でもないが、私はしっかり聴けた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:スラヴ舞曲第1番,チェリビダッケ指揮フランス国立放送管弦楽団(VIBRATO:CD-R)1974/10/25シャンゼリゼlive,,ちょっとボロが出るか。曲自体のせいもあるのだがややアンコール的な雑さが目立つ。録音状態もかなり悪い箇所がある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:スラヴ舞曲第3番,コンドラシン指揮NHK交響楽団(NHK CD,KING)1980/1/30live・CD,,コンドラシンのドヴォルザークというと新世界のイメージがあるがぱっとしなかった。これは曲がそうなのかもしれないがもっさりした感じでイマイチ聞き映えがしない。N響もイマイチ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:スラブ舞曲第3番,◎セル指揮クリーブランド管弦楽団(ArtNova)1965/5/19レニングラードlive・CD,,アンコールに十八番のドヴォルザークをもってきたセルだが、この曲がまた面白い。比較的穏やかで歌謡的な曲だ。土臭さが無くかといってボヘミアの感興はしっかり持ち合わせた愉悦的リズムが支配し、最後はロシア人とてブラヴォを叫ぶ。◎。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ドヴォルザーク:スラヴ舞曲第8番,○コンドラシン指揮NHK交響楽団(NHK CD,KING)1980/1/30live・CD,,やっぱりスラヴ舞曲は派手に舞わないと。イマイチ重い音だけれども十分ドライヴ感は出ている。○にしておく。,-----,,TITLE: 第42回 ヴァーツラフ=ノイマン&チェコフィル 「交響曲第7,8,9番」 by matta,URL: http://blog.livedoor.jp/sergiu2000jp/archives/17867242.html,BLOG NAME: ぶらーぼぉ。,DATE: 04/03/2005 00:38:21,,,,,,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,マイナルディ(Vc)レーマン指揮ベルリン・フィル(DG),,いわゆる「名チェリスト晩年様式」である。無骨で音量操作がうまくいっていないが、長い音符の音色にのみかつての甘く美麗な特質があらわれている、ということだ。かなり危うい。またソリスト以外もぎくしゃくして山がなく、奇妙に聞こえる箇所も散見されるが、これはたんにソリストとバランスを保つためのやり方だろうか。ドボルザークでもブラームスでもない音楽。聞き方によってはてんめんとしたホウエツ的演奏・・・と言えるか?ステレオ。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),シフ(VC)チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(AUDIOR)1996初出、LIVEぜんっぜんノれない。この演奏でききどころは2楽章のシフの真情の篭ったフレージングと、終楽章最後俄かに壮大になるところくらいで、1楽章など聴いていてかなり飽きてくる。シフは音の最後を短く詰めて表現する事が多い。それは確かにオケとしっかりアンサンブルをとるうえできっちりハメるための操作なのかもしれないが、オケに振り回されるソリストというのはそもそもいかがなものか。私は想像した、この演奏をカサルスが聞いている姿を。あまりにそっけなく思い入れのない表現をするシフに対して真っ赤な顔で怒っている姿を。まあ、これもひとつのやり方なのかもしれないが、ロマン派の曲なんだからロマンティックに表現してほしいのが正直なところである。チェリのせい?たしかにそれも大きいだろうが、デュ・プレとチェリの演奏はこんなに味気ないものではなかった。私はどうもガラはでかいけどスカスカな演奏としか思えなかった。チェリ・ファンのかたごめんなさい。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),トゥルトゥリエ(伝ジャンドロン)(VC)メンゲルベルク指揮パリ放送管弦楽団(MALIBRAN他)1944/1/16LIVE,,かつてカザルスがピエルネのコンサートで辱めを受けたエピソードで有名な、そのフランスでのフランス人によるコンサート記録。メンゲルベルクも絡んでいるというのがさらにいわくを感じさせる。戦火激しい時期といえばさらに感慨もひとしお…のはずだが、演奏はいたって平然。ジャンドロン(後年トゥルトゥリエと訂正)を始めフランスの音は軽く鮮やかな音色を重視し、音程面ではややあやふやな感じがしないでもない。ミスタッチも多い。録音も悪い。だがそれらを越えて個性的なドヴォルザーク像が描きだされている。透明な美しさによって浮き彫りにされるドヴォルザークの北方性。メンゲルベルクは裏方に徹している。いたってまじめな演奏だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,トゥルトゥリエ(Vc)バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(BS)1963/1/29マンチェスターlive・CD,,新発掘の放送用音源でモノラルライヴなりの音。正直良いとは言えない録音でこもっている。バルビローリ協会盤だからバルビローリの指揮に力点が置かれているし、演奏もバルビローリのドヴォルザークというイメージに薄い演目(交響曲の7〜9番は録音し協会もCDにまとめているが)ということでソリストは二の次に聴いてしまう。バルビローリ自身がチェリスト出身で、トゥルトゥリエクラスではないとはいえ知り尽くした楽器、かなり融和度は高く、とくに自然な流れの作りかたがうまい。バルビらしい歌いかたも特異な解釈もソリストの表現を超えるものはなく、ただ音色の美しさが際立つ。木管ソロなどイギリスの上質の音を提供して穏やかな気分になる。さて、ソリストは線が細くヴァイオリン的な軽い指回しがいい意味でも悪い意味でも目立っている。後者の例というとたまに音程が悪い。不思議と不安定感はないが線の細いからこそ音程はシビアにきかれてしまう(太ければその幅のどこかが正確な音程にあたるのだ)。1楽章で、こんなところでなぜ、という半音ずつの下降音形の乱れがきかれ、ライヴだから手を抜いたのか、とすら思った。ただ音色はニュートラルなのでバックオケとの相性はいい。下手ではない、指も弓もよく回るのでミスを指摘して捨てる気にはならない。だが面白くはない。バルビマニア向けだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),○フルニエ(VC)クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(RITARDANDO:CD-R)1965/2/25LIVE(ミュンヒェンではありません。修正2005/10/19)フルニエの熱演が光る。音が思いのほか鳴らないようで、一段と力を入れてゴリゴリ弾いているように聞こえる。対してミュンヒェン・フィルの無機質さには閉口する。クーベリックのあっさりとしたテンポにのって客観主義ここにありというようなオケの音はまるでチェリが振っているような透明感があるが、寧ろ単に下手なのではないか、と思わせるようなミスが見られ、アンサンブルも精彩を欠く。弦の音色にはまったく魅力がなく、弱い。フルニエの奮闘ぶりはこの人らしからぬミスも辞さないほど。右手のフレージングの巧さにほれぼれとする。弓使いの巧さは絶品だ。対して音色はいい意味でも悪い意味でも安定している。左手はやや力が入りすぎてろれつが回らないところもあるが、おおむね素晴らしい技術を見せている。フルニエのみの評価として○ひとつ、オケは無印。クーベリックの解釈も凡庸か。そんなところ。METEOR盤と同じ可能性アリ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),○フルニエ(VC)セバスティアン指揮チェコ・フィル(MELODRAM)1949live in Pragaほっとした。フルニエはうまいし(冒頭ちょっとアレッ、という所があるが)チェコ・フィルはまさにチェコ!という音でなつかしい雰囲気を漂わせているし(私はこの曲についてはまったく「お国モノ」を聴いていなかったので、とても新鮮だった)、曲自体はもう言わずもがな、有名曲は有名になるのにそれなりの理由がある。フルニエらしくすがすがしい演奏で、うずまく情念とか熱情とは無縁だが、チェロがチェロに聞こえないほどよく回る指、的確なボウイングは感動ものだ。もっともフルニエを聴くなら他にも録音があるが、バックが一種不思議な透明感のあるチェコ・フィルであるところに本盤の価値がある。こんなに合うものか、と驚嘆した。それにしてもほんと、「新世界」を聴いているのかと錯覚するほどにチェコだ(あ、両方ともアメリカ産ですか)。ドヴォルザーク自身の作風も節度があり一種透明感を持っているから、うってつけの三つ巴。ここまで誉めてなんだが、この盤には重大なポカがある。おそらくラジオ受信機からの録音なのだろう、ピーザーという薄い雑音がかぶさっており、とくに、演奏自体はモノラルなのだが、ステレオ化するところで何を間違ったのか、左側の音がひんぱんに欠落するのだ。欠落箇所にはピーザーという雑音が残されるという寸法。はじめプレーヤーの故障かと思ったがそうではなかった。これは看過し難い。ということで○ひとつとしておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,フルニエ(c)ケルテス指揮スイス祝祭管弦楽団(audite)1967/8/16,,ライブ(?)なりに僅かに揺らしが(ミスも)あるが基本はもう、そつない。垢抜けて聴きやすいいつものオーソドックス。棒は少し重いがソリストとは相性よい。オケ音色綺麗、cl好き。コンマス線細い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,フルニエ(Vc)コリン・デイヴィス指揮BBC交響楽団(BBC)1973/3/14live,,BBCレジェンズの比較的新しい盤。面白くない。物凄くステレオタイプで(強引だな)物凄く控えめな演奏。臭い演奏が嫌いな向きは無臭ニンニクのようなこの演奏に惹かれるだろうし、それでもなお魅力を放つメロディに心打たれる人もいるだろう。しかし、私はとても、面白くなかった。何も残らなかった。美麗で、技術的に完璧な演奏であるにもかかわらず。この時期にしては録音がかなり篭もり悪いのも原因かもしれないが、音が悪くても強烈な演奏というものは訴えかけてくるわけで、その強烈さをこの曲に求める私には全くあわなかったというわけだ。全楽章。無印。終演後の拍手は物凄い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,フルニエ(Vc)チェリビダッケ指揮ORTF(ina配信)1974/10/28live,,かつては映像があったようなのだが現在音源のみしか配信されていない模様。音質はまずまず。さらっとやわらかく、スピーディに始まるところで「あれ?これチェリだよね」と思わせる。この印象は音楽の起伏に従い多少は覆されるのだが、それにしてもがっちりしているとか丁々発止とかいう個性はなく、柔和にバックにつけている。完璧なバックだが、あくまで調和重視の姿勢だ。演奏精度の高さからチェリだとは思うのだが。フルニエはここではふるっていて、演奏はよくこなれフランス風の軽さをある程度感じさせはするが「音楽」を聴かせてくれる。オーソドックスに落ちることなく、地味でもなく、激しい場面で指がごちゃっとなるのもこのライヴでは目立っては一か所くらいしかなく(かといってフルニエが下手なわけではない、「普通に譜面を音にする」だけなら弾ける、「音楽にする」ための犠牲なのだ)全般におすすめできる雰囲気のある演奏なのだ。民族色のない演奏としては一流といってもいい。ただ、聴衆反応は慎ましやかである。ブラヴォもささやかなもの。それがこの曲の難しさでもあるのだろう、結局ロストロ先生のような演奏には敵わないのだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,○フルニエ(Vc)シュミット・イッセルシュテット指揮北西ドイツ放送交響楽団(tarha)1956/5/14・CD

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Schumann/Dvorak: Cello Concs
Fournier","Rosbaud
Tahra

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いったいいくつ出てくるんだというのがフルニエ、そしてロストロのドヴォコン(後者はそれこそ演奏会の数だけ出てきそうなものだが)。フルニエは音の美しさとそつのない演奏ぶりでむしろ多彩なバックをつとめる指揮者・オケ陣に聴き所のある場合が多い。熱血でスピードも飛ばしがちなクーベリックあたりとのものが面白いが、節度と厳しさを併せ持ったイッセルシュテットのような指揮者に機能性が持ち味のNWDRSOという常任の組み合わせも興味を惹かれるものはある。

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確かに明らかに個性やパッションが聞き取れるたぐいの演奏ではなく、どちらかといえば「模範的演奏」の気の強いものではあるが、率直なテンポでヴァイオリンのような演奏振りと言ったらいいのか、スピーディでタッチも軽く、しかしやはりチェロだからその共に打ち出すのは難しいわけで、指がややスピード負けしてつんのめったり音量的にはっきりした変化がつきづらくなっていたりするところもある(それほど目立たないし録音が篭っているせいもあるが)。一部ヴァイオリニスト同様、音色の安定の余り一種飽きをきたすところもあるが、これは聴く側の贅沢だろう。オケ単体になるとイッセルシュテットの表現がぱっと出て纏綿な弦楽アンサンブルを聞かせたりなど面白いところもある。バックオケとしても立体的で構造の明瞭な彫刻がチェロの音線としっかり組み合っていく気持ちよさはこの指揮者のメリットだろう。響きのバランスよさ安定感はドイツっぽく、スラブぶった匂いを取り去っている。

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音表現の美しさは2楽章でとても生きている。この盤の白眉だろう。古典的な雰囲気すら持つ水際立った精度のバックもさることながら、フルニエの高貴な旋律表現は筆舌に尽くしがたい。大きな流れの中に技巧的フレーズが有機的に、悪徒に主張せず組み込まれ、音楽の緩急が呼吸するように調和的に紡がれていく。バックが節度を持ちすぎて音が鄙びる感もあるが、この表現でフルニエの音量が余り出ないせいかもしれない。ソロ管楽器とソリストとのアンサンブルもなかなか丁丁発止だ。

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3楽章は厳しく始まるがソロが入るとちょっと柔らかくなる。ちょっと録音が悪くなっているせいかもしれない。音量変化が聞き取りづらいのが骨董録音の実にデメリットで、tahraはよく音質調整はしているが音量操作までは余りしないから音域がカットされている音源の場合部分的にパワー不足を感じる場合がよくある。武骨なオケとなめらかなソロという組み合わせで意外とスケールが広がらないが、録音の限界のほかに、フルニエのそもそもの芸風とも言える。技巧的には本当に素晴らしいが音量は控えめ。調和のとれたあくまで「制御された柔らかさ」を目しているのだ。チェロらしい音域に降りた第二主題のほうがやはり素晴らしく力がある表現になっている。余りにしゃっちょこばったコンマスソロ(というかあくまでオケの声部として敢えて堅く表現させているのだろう)が対照的で、可哀想になるほど美しい音色表現で圧倒的な存在感をみせる。制御的なオケの引いた構築性がソロを自由にさせている。といっても自由にするようなソリストではないので、あくまで節度ある貴族的な雰囲気のうちに、壮麗なオケが出しゃばって幕は下りる。○。

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ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,○フルニエ(Vc)セル指揮ケルン放送交響楽団(medici,WDR)1962/11/16・CD,,放送用録音か。演奏精度的にはライヴに聞こえるが客席反応は無い(拍手もなし)。フルニエ・セルのコンビはDGのものが有名だ。これはほとんど同時期のもので、モノラルだが綺麗にリマスタリングしてあるので細部が不明瞭なことを除けば一応楽しめる。フルニエはウンザリするほど盤があるということは既に何度も書いているが、演奏はいずれも精度と気力と録音に差がある程度で解釈にてらいもなく上品で押しが弱い。音の美麗さは2楽章あたりと3楽章の後半で非常に際立ってくる。この演奏では3楽章後半が起伏があって感動的な盛り上げがあっていい。細部にやや技術的問題が感じられるが録音上分離が明白にきこえないので本当のところはどの程度乱れたのかわからない。流れがいいので聞き流せる程度である。1楽章では重音が濁る箇所がありフルニエらしくないところもある。バックオケはセルらしく特にドイツオケだけあって縦が明確なのはいい。硬質で磨かれた音を出し音程感が厳しく非常に統制がなっている反面、ケルンはちょっと技術的に一流オケには劣るようにも感じる。弦が薄く声部間に音色的なバラケ感がある。フルニエの音量にあわせて編成を薄くしたのかもしれない。とくにこれといって押す要素はないが、フルニエファンかセルファンなら。セルが後半生もヨーロッパで活躍していたらロスバウトみたいな芸風で知られるようになっていたのかなあとふと思った。カラヤンからレガートを取ったような。○。,"
Fournier plays Elgar", Dvorak," Beethoven

Medici Masters

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",,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,(DGのスタジオ録音),"
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調
フルニエ(ピエール)
ユニバーサル ミュージック クラシック

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ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),○フルニエ(VC)セル指揮ベルリン・フィル(DG)1962やはりフルニエは安心して聞ける。史上もっとも安定したドヴォコン弾きだろう。ライヴでもスタジオとほとんど変わらぬ演奏をしたし、つねに完璧な技巧を示していた。大演奏家ぶりを誇示することなく品よく響くその音楽は派手さはないが深奥に訴えてくるものがある。セル盤はむかしから名盤で知られたものだが、セルの神経質なまでのオケコントロールに土俗性をそえた独特のドヴォルザーク像に対して、フルニエは「チェコってどこ」てなものでいつもどおりの完璧な演奏を行ってみせている。セルのオケは音に独特の「軽さ」があるが、ここではベルリンのオケを使ったせいか逆に少し重い感じがする。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),フルニエ(VC)アツモン指揮NDR交響楽団(SOUNDS SUPREME:CD-R)1972LIVEフルニエはいつになくいきり立っている。そのせいか1楽章後半の音程がかなり怪しい。フルニエらしくないがこれもライヴならではのことか。最初が良かっただけに惜しい。録音はかなりいいが、やや浅い。音が上滑りするような感じだ。2楽章はドイツ音楽のように堅牢な演奏で手堅いところを見せている。3楽章は明るすぎる気もするが、このソリストにはあっている。ここでも少し怪しいところがある。往年のスマートな演奏からはちょっと落ちた感もあり、カサルスの最晩年の録音を聞いたときと同じ感じを受けた。総じてはまとまりがいいが、無印。拍手はカットされている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),フルニエ(VC)クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(METEOR)LIVE?フルニエにしてはやや振るわないか。テンポが後ろ向きのようなところも聞かれる。録音のせいである可能性もあるが。クーベリックのサポートは平凡。終楽章のコンマスソロも何か機械的な感じがする。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),フルニエ(VC)シェルヒェン指揮RTSI管弦楽団 1962/4/25完璧な演奏。砂を食むように力強く土俗的な色を好むので、こういう高雅で現代的な演奏は好かないが、聞く人によっては一位に推されてもおかしくはない。シェルヒェンらしさは前奏の奇妙なルバートくらいか。ガチガチな棒はスタジオのシェルヒェンを思わせる手堅さだ。それにしてもフルニエは超うま。数える程しかあいまいな部分が無い。客観主義の鏡。うますぎて味わいが・・・と書いた直後にN響アワーで来日公演をやっていてびっくり。でもほとんどかわらない・・・オケの機能性以外は・・・(2000記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),フルニエ(VC)チェリビダッケ指揮ロンドン・フィル(The Great Performers)1945なんじゃこりゃ。チェリのドヴォルザーク初心者なもので、すいません。ここまで客観・構築的でかつ透明感があると、曲が限りなく無色に近くなって、見えなくなってしまう。フルニエはある意味うってつけかもしれない。無味無臭のドヴォルザーク・・・なんだこりゃ。。。私の理解力不足によるものなので、すいません。でも、ドヴォコンのかもす体臭にヘキエキしたころに聞くと、すっきりしていいかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,◯ネルソヴァ(Vc)クリップス指揮LSO(decca)CD,,けしてバリバリの技巧派ではないのだが、ヴァイオリン協奏曲を聴いているような一種明るさや軽やかさを感じて聞き心地は悪くない。オケははっきり言ってこれといった特徴はないのだが技術的には問題ない。◯。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,◯マイナルディ(Vc)ローター指揮ベルリン放送交響楽団(meloclassic)1949/10/11放送用スタジオ録音・CD,,これはもうローターが素晴らしいのだな、先ず。チェロに寄り添うだけのオケではない、交響曲をやるようにそれだけで実に音楽的で、しっかりした、オケも実力の上限まで出し切っている。マイナルディの、技術的には大チェリストには負けるかもしれないが、ロストロポーヴィチより線は細いかもしれないが、解釈を尽くした表現には目を見張る。一、二楽章はそれに尽きる。三楽章はテンポを落としドイツ的な構築性が目立ってくるが、あの旋律が現れる場面では背筋がゾッとするくらい、この音楽にはこれしかないと、そう考えを直させるほどの衝撃を与えられた。巨視的設計も素晴らしいのである。オケとの絡み合いも、オケ側がよく理解して、いや、オケとソリストが双方から融合し、このブラームスのように甘美で厚みのある音楽を、高潔な響きを抱いて推し進めていく。土俗の香りはまるでしないが、音域的なものを除けばドイツ臭さもなく(マイナルディのヴィオラ的な音色によるところも大きい)、近視眼的なものも含め、この曲としてはロマンティック極まるもので、フィナーレの壮麗さといったらない。突き進んで勢い良く弓を挙げるだけが協奏曲のフィナーレではない。同曲はオケが〆る。これは紛れもなく協奏曲だが、同時に、交響曲である。拍手を送りたい。技巧や安定感が全てと思っている向きはロストロポーヴィチを取ってください。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,○グリーンハウス(Vc)スワロフスキ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(CHS)LP,,ろうろうと歌いスカっと終わる曲なだけに「さてもう一回終楽章だけ聴くかな」という気分にさせる演奏は多いのだが、これはちょっと違う。「もう・・・いいわ」と思う。しかし名演なのだ。これは1楽章から3楽章まで、ゆっくりと確固としたテンポで(しかし重くは無く軽く明るく)一貫した独特の詩的雰囲気に満ちている。ソリストは確かな技術はある、だがこのテンポでは上手いのかどうか、音色も艶を出す類の自在な解釈ではないので、よく聴けば通好みのニュアンス、ボウイングの憂い、美しさはわかるが正直技巧的にどうこうというのはわからない。ソリスト部だけでは語れない曲だから、やはりスワロフスキという独特の指揮者の意思が入っているには違いない。スワロフスキがウィーンの楽団により冷徹ともとれる客観解釈を音楽的な横の音楽に昇華させている。,,とにかく二文字で表せば「纏綿」。このような感動のこみ上げる2楽章を私は知らない。1,3楽章も速い部分のスポーツ的な快感よりメカニカルな構造を作為的なまでに(一部いじっているように聞こえたが)抉り出したうえで、旋律を非常に感傷的に歌わせている。VSOOらしい雑味はあるがこれも音が輝かしく美しく、同調するソリストとともにこの遅いテンポをもって初めて出来ると思われる、落ち着いた壮大な音詩を紡ぎ出す。,,重くは無い、しかし何か残る録音。チェリストが挑戦して乗り越える対象としての曲ではないという主張を、ソリストもスワロフスキもなしているかのようである。ひょっとしたら、このほうが正統なのかもしれない。よく見る盤なので機会があれば。モノラルでコンサートホール録音なりのやや音像のはっきりしない、でも自然な音。○。,,bernard greenhouse(Vc) etc. ;,ravel album,"",-----,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,○シャフラン(Vc)ヤルヴィ指揮エストニア交響楽団(VENEZIA)1979・CD,,シャフランは荒っぽいが非常に強靭な感情の揺れを表現しきっており、これでバックオケの技量がもう少しあれば大推薦だったのにとほぞを噛む次第である。旋律がすべて完全に有機的につながっていて、それをドライヴしていく歌いまわしが極めて扇情的で上手い。管楽器にはない歌い方、弦楽器ならではの息の長さである。音符の伸び縮みも全体の前進性に影響なく(ヤルヴィは大変だっただろうが)、名演と言うにふさわしいものではある。音の切りかたボウイングの荒さも曲の魅力を引き立てるほうに聞こえるようになっている。とにかく、オケがやや弱体なのと、ヤルヴィが少し客観的にまとめに入ってしまっているのが気になるだけで、シャフランは素晴らしい個性的な熱演である。◎に限りなく近い○。コンマスソロも素晴らしかった。開放感があった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,○タウアー(Vc)マーツァル指揮チェコ・フィル(DG/universal,tower records)1968/3/28-29ハンブルク・CD,,とにかく非力である。この心もとない音線。それは間違いなく意図解釈ではなくこの時点での力量の限界に聞こえる。弱弱しい指は非常に正確ではあり廻っている、まるでヴァイオリン向きで、たどたどしい(幼ささえ感じさせる)解釈しない解釈と単調な音色の連環による音楽っぷりには、しかしずっと聴いていると何か引き込まれる、訴えるものがあるのが不思議だ。論理ではなく、ジツが出ているからか。旋律的と書くと素朴で単純な旋律屋(ロマン派時代の演奏家もしくは現代世俗音楽系ソリスト)のように読まれてしまうから書きたくないが、「これは旋律的な演奏である」。旋律の美しさ、そして優しさが素直に引き出されているから魅力的なのだろう。頭初デュ・プレがチェリとやった盤を想起させたが、デュ・プレは豪快な「正統的ドヴォコン奏者」指向であるのに対しタウアーはまるで逆行する室内楽のような演奏を指向している。録音もだいぶ苦労したのではなかろうか。故杉浦日向子氏の作品に「YASUJI東京」という漫画がある。珍しく現代に場を借りた幕末明治初頭における末流浮世絵師の数少ない群像を断片的にえがいた佳作だ。私はタウアーのドヴォコンを聴いて(バックはいい意味でも悪い意味でもチェコであり現代の演奏解釈であるからこの文中はまったく無視して書く)ここに示された井上安治の姿を思い浮かべたのだ。「自我の覚醒をみ」る前の安治。写真画ではない、写真がうつしとれないものをうつしとった「写真的風景画」の安治。タウアーのドヴォコンは安治が「解釈しないまま景色をうつしとる」ことで写真よりも迫真的な・・・しかし限りなく静かな風景を描くことが出来たのと同様、「解釈しないまま音楽をうつしとる」ことで却って迫真的な・・・しかし限りなく静かな音楽を描くことが出来たのだろう。,,朴訥とした演奏で、たぶん演奏家はおろかドヴォコンマニアにすら余り受けないのではないかと思う。しかし、それでもこの穴の多く感じられる録音からは何かが伝わるのだ。それは彼女の頬を伝わる涙なのかもしれない。杉浦氏が若くして亡くなったのは病によってであった。タウアーも若くして死んだ。安治は更に若く。,,マイナルディとナヴァッラに習ったというのはよくわからない。そちらの芸風からの影響は余り感じられないが、どことなくフランス的なもののほうが向いている感じはある。私はタウアーのフランセとの共演盤を求めてこのCDを買ったのだが・・・LPがえらく高値に吊りあがるのは一回しか出なかったからだったのか・・・まだそちらは聴いていない。室内楽と管弦楽は脳におさまる場所が違う。,-----,,,-----,,,-----,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,○チェルニャフスキー(Vc)ビーチャム指揮シアトル交響楽団(PASC)1943/10/18Evening concert,Music Hall Theatre, Seattle ,,ビーチャム・シアトル発掘音源シリーズ第二弾、しかもドボコンのやっとリリースだが、一楽章最後の欠落が目立つのは残念。しかしそうとう苦労してレストアしたようでなんとか楽しめる。ドイツ的な折り目正しい、四角四面の演奏だが軽やかさと愉悦感はさすが。人工的なテンポ・ルバートはソリストのせいなのか極端で面白い。音量変化やバランスが録音のためまったく正確に捉えられず、レストア時に音量はいじったようだがかえって人工的ではある。オケはきっちり仕上げようとして奔放さがない。ソリストは時々音程がずれて聞こえる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),◎カサルス(VC)セル指揮チェコ・フィル(PEARL他)1937/4言わずと知れたドヴォルザークの大家同士の取り合わせ。古い録音なのが本当に悔やまれる名盤中の名盤。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),カサルス(VC)シュナイダー指揮カサルス・フェスティヴァル管弦楽団(CD-R他)1960カサルスの怒りを買ったプライヴェート録音のCD-R復刻。カザルスはさすがに衰えを隠せない。だが年齢を考えると全く驚異的だ。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),○クルツ(VC)トスカニーニ指揮NBC交響楽団(naxos)1945/1/28放送liveトスカニーニの流麗な曲作りに惹かれる。ソリストもフォイヤマン並に巧く、適度にドライヴ感のある好演になった。音がやや小さいか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),○デュ・プレ(VC)チェリビダッケ指揮スウェーデン放送交響楽団(teldec/DG)1967/11/26デュ・プレ盤は若々しさが魅力だ。フルニエの洗練もロストロの個性もないが、「オトナになりきっていない」音楽家の魅力を感じる。無為の為とでもいおうか、解釈などではない、体のオクソコから自然にわきあがってくる衝動を音にしたような音楽、そういう音楽の魅力なのだ。前者、デュ・プレの豪快ぶりにびっくり、バレンボイムの弱腰ぶりにびっくり。圧倒的にソリストを聴く盤なのだが、シカゴの音はなかなか清涼で、そのハーモニーが個人的には気持ち良かった。解釈はてらいのないものだが、生命力に溢れるフレージング、荒々しいまでのボウイングはそれだけで聞かせる力をもつ。印象的なのはむしろ後者かもしれない。チェリの壮大で巧緻な音楽はデュ・プレのとくに弱音の表現力を引き出しており、そういう場面では一味違うものを聞かせてくれる(録音年代はむしろ古いのだが)。細部で粗さも目立つが、チェリのオケのもつ絶対的な安定感(弛緩と表裏一体)がずいぶん助けになっているようだ。二楽章などデュ・プレにあるまじき(失礼)深い音楽になっている。音色にもうすこし「重い」ものがあるといいなとは思ったが、それはソリストのみならずチェリのオケの音色にもあてはまるものだ。三楽章は出色の出来といえよう。チェリの安定した温床の上で自在にうたうデュ・プレが美しい。「間のとりかた」が独特で、それはたぶんチェリの芸風にもあっている。ゆったりした雰囲気も独特だ。ドヴォルザークの「ド」のかけらもない演奏ではある。迸る汗、漲る闘志とは無縁、曲も終盤にさしかかってこの涅槃のような音楽もないだろうとは思うが、デュ・プレとチェリが「良い」と言っているのだからいいのだろう。きっと。土俗性は求むべくもないから、そういう演奏を求めるならお門違い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,◎デュ・プレ(Vc)メータ指揮ベルリン・フィル(Lanne:CD-R)1968/8/4ザルツブルグlive,,これはデュ・プレの遺したドヴォコン極上の名演だと思う。とにかく旋律表現が素晴らしいし、技術的にも(録音起因で聴こえづらい低音域はわからないが)全く瑕疵の余地がない安定感がある。指揮オケ共にサポートも万全で、デュ・プレの歌いに歌い詠嘆を頻繁に交えた絶唱・・・特に緩徐主題の有機的に紡がれるロマンといったらない・・・ときちんと組み合って全く齟齬を生じさせない。線の細いデュ・プレの音はしかし自在に色を操り非常な伸縮を自然に織り込んで、特にまるで挟肩楽器の協奏曲を聴くような高音域での歌いこみには余人を寄せ付けない。一種神がかったものを感じる。ロストロ先生のものは日常的な超名人芸だが、これは殆ど一期一会の奇跡のように思う。ただ、録音がやや悪い。でも、◎。多分正規化されるだろう。,"",-----,,,,,,,,,,,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,デュ・プレ(Vc)バレンボイム指揮ロンドン交響楽団(SLS)1968/9/2ロイヤルアルバートホールlive,,驚いた、これは良い買い物だった。バレンボイムとのエルガー、ドヴォルザークの組み合わせで、SLSなので音は悪い。だがとにかくこの二人の相性が当たり前だがピッタリで、オケとソリストの融合具合がまず素晴らしいし、現代的な「格調高い」客観性に、悠々としたテンポをとっているが、それはデュプレに朗々と歌わせるためであり、美しいボウイングや細かなヴィヴラートからは威厳に加え色気が醸し出される。これは例えばロストロ先生のような完璧主義からは出てこない音だ。じっさい一楽章終盤細かな音符がごちゃっと壊れたり三楽章前半高音が取れず音程が狂ったり、完成度を犠牲にしている部分もあるが、完成度などはそれ専門の人の演奏を聴けば良い。この人にしか出せない音、弾けない旋律、実直なようで自在な揺らぎ、それらはデュ・プレをデュ・プレたらしめる、唯一無二のものである。くれぐれも録音は悪いが、盛大な拍手からもこの二人と素晴らしい機能性を発揮したオケがかなりの感動をもたらしたことは想像にかたくない。SLSはなかなか当たりが無いが、これは買いだった。既出だったらすいません。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),デュ・プレ(VC)バレンボイム指揮シカゴ交響楽団(EMI)1970/11 チェリDG盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,○ナヴァラ(Vc)ストゥプカ指揮チェコ・フィル(arlecchino)1959Live・CD,,ナヴァッラの往古のヴァイオリニストの出したような甘い音色が強く印象に残る。とにかく美音である。アーティキュレーション付けの自在さ、滑らかで自然な音のうねりが恍惚とすら感じさせる。ただ、伴奏が凡庸というか、全般にどうも余りぱっとしないことも否めない。それはこの板起こし板の音の悪さに起因するものでもあろう。でも○にはできると思う。ナヴァラを聴く板。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,○ナヴァラ(Vc)ストゥプカ指揮プラハ放送交響楽団(multisonic)live・CD,,ナヴァラの長所は何と言っても滑らかなヴィブラートで紡ぐ憂愁の表現であり、この演奏でも憂いのある詠嘆の表現に深く心打たれる。線の細いヴァイオリン的な音で、フレージングが極めて巧く特に高音の旋律表現においてこれほど深層に訴えるものもあるまい。力感と言う点ではロストロ先生などには及ばず、終楽章ではさすがに技術的な綻びもみえるが、旋律を高貴に歌うのがとにかく巧い。演奏スタイルとしてバックオケ含め起伏があり激しいがゆえに終楽章はもっと爆発して欲しかったが、1,2楽章だけでいえば非常に素晴らしい出来と言っていい。録音が極めて悪いのが惜しまれる名演。オケ、とくに弦はやや力不足か。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,○ナヴァラ(Vc)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1962/2/16live,,わりと素直なソリスト(ロストロ先生に似ているけど地味かな・・・)に、ちょっとだらしないオケ、感情的に突っ走る癖のある指揮者、という感じでこの曲の演奏ではわりとありがち、という安心感がある。BSOがこんなに素朴な音を出すのか?!という驚きもある。ミュンシュ的なものはそういう方向で発揮されてしまっているので、やはりまあ、これはナヴァッラを聴くだけの音源だろう。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,◎マキュラ(Vc)ローター指揮ベルリン交響楽団(opera/richthofen)1958,,名演。冒頭から掴まれた。このソリストの全てにおける安定感、オケの高潔で見事な出来栄え、すべてが調和し、確信に満ちた奇跡的なステレオ録音だ。ドイツ臭さもロシア臭さもない、万人に勧められる。良好な状態の原盤であろうが板起こしでパチパチが入るのはいかにも惜しい。解釈は三楽章前半までサラサラあっさりめだが、表情付けはけして譜面をなぞるだけではなく、音量、音色の変化によってテンポ変化に頼らない表現をなしている(テンポ感自体は素晴らしく良くリズムが切れている)。音が太いだけで押し切るのもいいが、細い音は細い音なりの繊細な魅力がある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),○マキュラ(Vc)モラルト指揮ウィーン交響楽団(EPIC)これはソリストよりモラルトとウィーン響が素晴らしい。ウィーン響の悪い持ち味となっている雑味がまったく噴出せず、まるでベルリンのオケのように集中力の高い演奏を繰り広げている。無論一人一人の奏者には限界がある。たとえば終楽章のコンマスソロは余りいいところを見せられないで地味に終わる。それでも他の演奏では聞き得ない、シェフ・モラルトの腕をもってしか為し得ることのできないウィーン交響楽団の最高のアンサンブル、凝縮された音表現が聞き取れるものだ。リヒャルト・シュトラウスの娘婿であり、後期ロマン派音楽に優れた棒さばきを見せてきたモラルトの最高傑作のひとつと言っていいだろう。だがこのようなオケの好演に対してソリストはいささか物足りない。音が浅く、音色に幅が無い。ロストロのようなケレン味もなければフルニエの洗練もない。言い過ぎかもしれないが、プロのソリストというよりセミプロ級のアマチュアといったところか。指はやたら回るし弓はよく動くけれども、味が無い。。録音のせいかもしれないが、全般明るくややケレン味に欠けるが、「交響曲」を聴くつもりで聴いてみては如何。楽しめる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,ジャンドロン(Vc)スクロヴァチェフスキ指揮ORTF(ina配信)1969/2/12live,,二楽章でジャンドロンの美しいフレージングを堪能できる。詠嘆の表現、柔らかい弓の返し、繊細な松葉の付け方、とにかく音が美しく、歌い回しにも清潔な艶がある。少し高めに音程を取っているのが意外とハマっていて、「ピアノ的な音程感」に慣れている向きは聴きやすいのではないか。ヴィヴラートもここぞというところでの縮緬っぷりに震える。ただ、技術的な問題も否めない。左手指の不安定さは、早めのテンポで情緒的に展開されていく解釈には時折馴染まない。はっきり言えば三楽章がコケまくりなのだ。ブラヴォが飛ぶも、ブーイングも聞こえるのは仕方ないだろう。しかしこういった生演奏の記録ではこの程度の雑味は些細なこととして、全体としてみればロストロポーヴィチの音を細くして女性的な優美さを加え、またカザルスのように意志的な演奏として評価はできると思う。オケは同曲に適した表現をとっている。あけっぴろげなブラスの発音ぶりなど、破音寸前の感じ、東欧の香りがする。もっとも、フランス国立はそれに応える単純なパワーは無いので、あくまでバックオケという位置からははみ出してこない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,ジャンドロン(Vc)マルティノン指揮ORTF(ina配信)1969/10/5放送,,ジャンドロンの美音を聴かせる演奏。ジャンドロンの艶やかな音を念頭に遅いテンポで設計されているためその魅力を十分に味わうことが出来るが、解釈に関してはこれがまったくマルティノンが支配していて、客観的に整えられた感が否めない。普通のドヴォコンである。普通と言っても普通に盛り上げていくロマン派のドヴォコンではなく、普通に譜面を音にしただけの、ちっとも起伏の無い、平常時のマルティノンらしい演奏である(3楽章ではわずかに盛り上げようという意識が音量に現れる)。客観主義という言葉を久々に使わせてもらう。ほとんど同時期にスクロヴァチェフスキーとやったORTFライヴと比べると余りの違いに驚く。スピードの差もそうだが、スクロヴァは「ロマン派的に」起伏を作り、ジャンドロンも普通にドヴォコンできるのが楽しいのか、のっている。もっとも、スクロヴァだとジャンドロンの音色の魅力は伝わってこないのだ。個性が立ってこない。技巧的な演奏は(ジャンドロンは共にやや危なっかしいところもあるが指が柔らかいのだろう)その「動き」のために「響き」を犠牲にする。音色を楽しむだけの音響志向というか音色にこだわるのがマルティノンなのだろう。一般的には薦められない、ドヴォコンらしくない、スワロフスキー伴奏のような演奏である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,カサド(Vc)ヴェス指揮オーストリア交響楽団(REMINGTON)LP,,ソリスト、オケ共にぱっとしない。というか素朴すぎる。渋いという誉め方すらできない何かぎくしゃくしたものが感じられ、いかにも二流なオケとしゃっちょこばった指揮、そしてソリストの若いというより技術が完成されていない演奏振りに、これがけっこう中古市場に余っている理由がわかった。無印。,"",-----,,,,,,,,,,,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,○ロストロポーヴィチ(Vc)クーベリック指揮NYP(MELUSINA:CD-R)1976live,,解釈自体セルとの実演と似ているのだが、ソリストはより自由に動き、オケはやや緩い感がある。にもかかわらずセル盤以上の巨大ブラボーでびっくり、おそらく客席録音であり、音をとらえきれていないのだろう。とにかく、ロストロ先生の神懸かりのボウイング、ヴィブラートに浸るしかない、たとえ「ワンパターン」と感じようとも。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,○ロストロポーヴィチ(Vc)バーメルト指揮(クーベリック指揮?)クリーヴランド管弦楽団(DA/RITARDANDO:CD-R)1976/2/16live,,いよいよもってソロは円熟味を増し無理も強引さもなくなめらかに大きな音楽のうねりを作っていく。ロストロ先生絶頂期の記録といっていいだろう。だがバックがジュリーニ並に大きくさほどうねらないのが意外だ。クーベリックがアメリカのオケを振ると時々こういうライヴになる。無個性的ですらある。ほんと老年ジュリーニに似ている気がする。演奏総体としても、ジュリーニや小澤あたりのバックとつけた正規盤に近い感じがし、しかし膝録ゆえ音がヘンな遠近感で聞こえるゆえ、評価はし難い部分もあるが、とにかくロストロ先生の音がインホール録音にもかかわらず「マイクなんか使わずに」ダントツでオケを抑え雄弁に、がっちりと語りかけてくる。ゆえ、真ん中の○としておく。最後の爆発的なブラヴォーに、臨席できなかった無念を思う。絶頂期ロストロ先生のドヴォコンを聞けなかった無念を。まさに低弦の王はカサルスではなく、この人であった。※リタルダンド盤で指揮者はクーベリックではなくバーメルトと訂正された。,-----,,,,,,,,,,,,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,○ロストロポーヴィチ(Vc)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1969/5/24live,,最初はセルの余りにドイツ的なしゃっちょこばった表現と遅さにウンザリしたのだが、ロストロは見事にその枠にあわせてきちっとした演奏を、しかも個性を消すことなくあわせてきており、アーティキュレーションの限りを尽くして「音」で勝負している(むろんミスは殆どない)。1でもみられたのだが2、3楽章では極限のピアニッシモにて何とも言えない詠嘆の、悲壮感すら漂う素晴らしい歌を聴かせ、オケもその伸縮自在さにきちっとつけており、いや、セルとそうとうリハをしてこう決めたんだろう、という感じがする。ダイナミクス変化が極端だがデジタルにはならず途切れのないボウイングの巧さがこのスコアに散りばめられた微妙な表情変化を見逃さずとらえている。大ブラヴォーで終わり、セルもロストロも上機嫌だったようだ。つまりは音さえよければ◎にしてもおかしくない完璧なロストロ・セルの記録でした。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,ロストロポーヴィチ(Vc)セル指揮NYP(WME)1965/11/20live,,事故もあるし、録音は分離悪めのモノラルだが(ロストロ先生の音が細く聴こえるという状態!)、三楽章のやや緩いテンポにおける陶酔的な歌い回し、細かな動きをしっかり表現しながらもきわめて弱音で歌い継ぐところにこの演奏の特色はある。望郷の念がこめられているという同曲の本質をここでしっかりなぞっている。コンマスソロに象徴されるオケのデリカシーのなさはいただけないが、セルのドヴォルザークは特別で、ソリストもまたこの曲の代表的演奏者であるからこそ、全体の調和、細部の安定においてはなかなか、まずまずである。ロストロ先生のドヴォコンなので無数に記録のある中では表現も音色も基本一緒、飽きる人は二楽章までで聴くのをやめるかもしれないが、事故も含めて、ラストの大ブラヴォふくめて、価値はあると思う。(セルとニューヨーク・フィルという個性はほとんどメリットに影響していない、それを求めるなら買う必要はない),-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,ロストロポーヴィチ(Vc)ジュリーニ指揮フィルハーモニア管弦楽団(ICA)1962エジンバラ音楽祭live・CD,,ICAはあまり新譜を出さないが時折、完全初出のライヴや希少音源を発掘してくるので侮れない。メロウでねっとりしたジュリーニ、穏健なテンポ設定にロストロポーヴィチも合わせたように丁寧に弾いていく。技巧的には何の不安もないが、この盤はデュ・プレがメインとはいえ、「おまけ」扱いの音源である理由は録音の悪さだ。モノラルは言うに及ばずその中心点が左にずれ、環境雑音があり籠もっておりかつ一楽章に非常に耳障りな小さなパチパチノイズが入り続ける。パチパチというより圧縮失敗したデジタル音源のような嫌な音だ。ダイナミックで激しい演奏なら気にならないが緩やかテンポのカンタービレの指揮者のスタイルに沿った、一歩引いた演奏となるとそこに耳が行かざるを得ない。ボウイングの妙を「じっくり」聴かせるニ楽章はジュリーニとのセッションならではで、憂愁の音楽の演出はうまくいっている。ジュリーニのオケ繰りの上手さも光るが、陶酔的なテンポ設定に反してイタリアというよりドイツ風の堅牢な響きも特徴的。ドヴォルザークだからという面もあろう。録音ノイズも少ない。三楽章はノイズ復活するが、音楽が激しくなるとノイズが大きくなるのは圧縮音源にありがちなのでこれも元は圧縮音源なのだろうか。ただ一楽章ほどではない。ロストロポーヴィチの技巧を「じっくり」堪能できるテンポで、こういう解釈はスタジオでは詰まらなくなるのだが、ライヴだから一回性の緊張感がそうさせない。チェロが大きく捉えられているので細かく聴きたい向きでも他の録音瑕疵を押して聴く価値はある。オケも張り切った音が清々しい。このテンポだがライヴなので一、三楽章で各一箇所音を曖昧にとってしまったりニ楽章で一箇所とちったりはしているが、気づいたのはこのたった三箇所である。前者はマイクの問題かもしれない。三楽章はひたすらメロディを堪能すべし。コンマスとの絡みでのオケの量感が絶妙でここは絶品。フィルハーモニア管弦楽団の力量を知らしめ、他の指揮者がいかに無頓着に「二人のソロの絡み」にしてしまっているかがわかる。陶酔からしっかりテンポアップしてブラヴォのうちに終わる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,ロストロポーヴィチ(Vc)ハイキン指揮ソビエト国立交響楽団(russian disc)1963/10/5モスクワ音楽院大ホールlive・CD,,これは録音が明晰なだけに荒さが前面に出てきてしまいいただけない。武骨なオケはドイツの田舎オケのようだがそもそもソビ響なのだから仕方あるまい、問題は感情を抑えられず無茶苦茶になるソリストで、特に一楽章前半においてはあのびろうどのような安定した音がまるで別人のように雑で粗く汚い。思うがままに揺らすはいいが何か技術的についていかず、難しいパセージは悉く指がもつれ誤魔化しが目立ちすぎる。ごまかしというのはこのくらいのレベルのソリストにとっては割りと技術的限界とかいうよりコンサート全体の体力配分的なものとか練習時間がとれなかったがゆえの当座のものとかコンディションやホールの環境によるものとか「音楽外の理由による精神的なものとか」そういったところに起因すると考えるのが妥当だろう。ぎりぎりと締上げられるような状況での若きロストロ先生の苦悩が表れている。とにかく速いところは走るわもつれるわアクセントで誤魔化すわ投げやりなので、2楽章を中心とする緩徐部の表現に傾聴。まあ録音が無駄に明晰すぎる。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),◎ロストロポーヴィチ(Vc)ハイキン指揮モスクワ放送交響楽団(YEDANG他)1957/7/10録音について言うとオケはかなり引き気味で、ソリストが前面に立ち大きく聞こえる。そのせいかソリストのかなり細かな動きまで聞き取る事ができる。モノラルだが割合と聴き易い。かつて別レーベルで出ていたが今はイエダンが復刻したもので聞ける。さて、演奏面だが、ハイキンのバックはあまりいい出来とはいえない。音は引き締まっているけれども、アンサンブルがかなりアバウトに聞こえる(録音のせいかもしれない)。1楽章第二主題のホルンソロのヴィブラートなど、ロシア味溢れる演奏ぶりは特筆すべきだろうが、ソリストの個性が余りに強いため、霞んで聞こえてしまう。終楽章のコンマスソロなどあまり誉められた出来ではない。・・・さて、ロストロである。盤評本にこの演奏のロストロが最も素晴らしいという記述を見たことがある。私も同感だ。全体の出来としてはスヴェトラーノフとのライヴを挙げたいが、個人技をたっぷり楽しめるという点ではこの演奏がもっともよいと思う。ちょっと聞くだけでもロストロが単なるヴィルツオーソ的技巧派ではなかったことがうかがえる。とくに弱音部のニュアンス深さは格別で、強奏部とのコントラストを強くつけることにより、何気ないひとつのパッセージまでも実に意味深く表現する。ロストロは即興的と感じるほどに、全ての音に意味付けをしており、一つの音として無駄には扱わない。全ては「解釈され尽くして」おり、ドヴォルザークであると共にそれはロストロの音楽でもあるのだ。こんな演奏がしてみたい、と思う弦楽器奏者は多いのではないか。この演奏ではロストロは爆発的な強靭さは見せていない。そうであるがゆえにまたこの演奏は特異であり貴重である。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,ロストロポーヴィチ(Vc)ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団(SLS)1965/10/23live,,モノラル。URCより70年代ライヴというものが出ていたが同一か不明。熱演とか凄演とかいった類のものではない。ただ、ロストロポーヴィチのドヴォコンを色々聴いてきて、ソリストとオケの融和的で、最もバランスの取れた格調高い演奏だと思う。ラインスドルフは知られる通りきわめて職人的である一方、奇妙な改変や解釈によってついていけない指揮者というイメージもあるが、それは作曲家指揮者の特徴でもあろう、曲によってやり方を明確に変えており、しかし一度決めた以上は徹底してそれに沿いオケを整えるのが流儀だ(これが逆に詰まらない結果も産むがライヴだと幾分緩んで却って良い)。ここでは変な解釈は入れていない。中低音域の安定感からくるスケールの大きさ、各声部の凝縮されたさまときっちりしたアンサンブル、それはソリストを迎えた協奏曲においてはとても良い方向に働くように思う。あのロストロポーヴィチですら指揮者に制御されているんじゃないか、という局面もあるが、ドヴォルザークが昔ながらのヴィルトゥオーゾ向け協奏曲というより、ここに来てもブラームスのお鉢を継いだ交響音楽として作り上げた作品だったんじゃないか、というくらいボリューミーで聴き応えがあり、ロンドンでのスヴェトラとの凄絶なライヴと対極の音楽で興味深い。私はどうしても弦楽器中心で聴いてしまうのだが、ここでは管楽器が印象的だった。オーケストラの中での声量バランス、ニュアンスへの配慮が行き届き、例えばバルビローリの管楽器指示がヘタクソ、というのがよくわかる(バルビにドヴォコンは無いが協奏曲伴奏指揮者として名を挙げた人である)。録音は放送エアチェックで、ノイズが酷過ぎるが、SLSではマシな方。キッパリとした終わりに爆発的なフラブラで終わるから、やはり佳演なのだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,ロストロポーヴィチ(Vc)ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団(URC)1970年代live,同上?,恐らく既出盤と同じだがエアチェックもので音が悪く逆に確証がとれない。ロストロポーヴィチも粗いような感じがするが、全般にはオーソドックスに盛り上がり、すんなり聴き通せる。この人のドヴォコンに悪いものはない。だがライヴを含めると無数に存在し、解釈表現の即興性は無いのでオケ次第録音次第というところで、録音面で落第。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),○ロストロポーヴィチ(Vc)カラヤン指揮ベルリン・フィル(DG)1968/9小澤盤とカラヤン盤はけっこう印象が似ているのだが、無個性なまでにオーソドックスな演奏をみせる小澤にたいして、カラヤンはソリストをも飲み込むような巨大な独特の世界を作り上げている。テヌートの多用が気持ち悪いとか、ベルリン・フィルが思う存分歌う事が出来ず窮屈そうとか、カラヤン・ベルリンのコンビに見られる負の要素がここでも感じられるのだが、大きな視点から見ればそれは交響曲的な発想にもとづいているといえよう。そこが魅力である。また、音表現の柔らかさもこの人独特のものだ。ロストロポーヴィチはまったく危なげない演奏で答えている。それは小澤盤も同じで、細部のアバウトさには一言ある人もいようが、私はこれでも十分楽しめると思った。もっとも双方ロストロの個性はそれほど表立ってこないから、そこで評価はわかれよう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),◎ロストロポーヴィチ(Vc)スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(BBC)1968/8/21royal albert hall live録音が悪かろうが(モノラルで、拍手がシャカシャカ音に聞こえるほど悪い)、終楽章が疲弊してようが(ロストロが余りの熱に指がついていかなくなってる)、野蛮な響きだろうが(すげえ、なんだこのオケは、といってジャケ見たらスヴェトラ御大)、これはドヴォコン演奏史上に残る名演だ。妙なヤジ(ソ連のプラハ侵攻当日の演奏だというから無理も無いが)とシャカシャカ拍手から若干だらけた雰囲気で始まるのだが、しょっぱなからもう異様に強力な音楽、それを一人で押し返す勢いのロストロの音!この演奏は1楽章がもっともすばらしいと思うが、2楽章の繊細な味わいも捨て難い。何か哀しげな想いを秘めたようで意味深く響いている。ロストロは豪傑的演奏も行うが弱音の情緒的表現にも長けている。そしてロストロは「解釈する演奏家」である。その腕っぷしもさることながら、譜面の読みが深く、一ソリストの解釈の範疇にとどまらない表現をする。そこに細かい伸び縮みをともなう感動的な「うた」が生まれるのだが、その解釈を大いに受け容れたスヴェトラーノフの棒が馬力あるオケをフルに動かす。大づかみでドラマティックな音楽を指向するふたりの芸術家の作り上げた偉大な芸術的産物に、終演後の凄まじい拍手とブラヴォーの渦もうなづける。それにしても、ロストロはその時々でスタイルを変えて演奏するのだな、と思った。ボールト盤とはえらい違いだ。逆に、それほどにこの記録は特異である。(但し音色表現に幅がなく、つねにヴァイオリンぽい明るい音を出す・・・それがこのソリストの弱点なのかな、とも思った。),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),ロストロポーヴィチ(Vc)ターリッヒ指揮チェコ・フィル(supraphon他)1952/6/16-18古い記録だが何度も再発され、ひいては擬似ステレオでリマスタリングされたりまでしている。このスプラフォン盤は元どおりの貧弱な音で、ターリッヒの意外にダイナミックな曲作りとかなり恣意的な表現の目立つロストロさんが「微妙な」バランスをとった特筆すべき記録である。録音のせいだろうか、ロストロの手元が危なっかしく聞こえ、バリバリひいているという感じではない。でもそれを押して尚強烈な個性をはなつ演奏となっている。ターリッヒが意外に面白い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲〜T.リハーサル断片,○ロストロポーヴィチ(Vc)ターリッヒ指揮チェコ・フィル(supraphon)1952/6/16-18live・CD,,冒頭からものすごいアタックの煽り方。かなり細かく指示がなされるが一旦走り出すとじつに俊敏に反応するオケをひたすらアドヴァイザリ的に言葉を重ねながらドライヴしてゆく。同時期のチェコ・フィルの素晴らしく力強く、更にニュアンスに富んだ表現は全てターリッヒによって作られていたことがわかる。ターリッヒの中の同曲像がかなりベートーヴェン的であることも伺い知れる。遂に命果ててしまった故ロストロ先生はやはりリハなりの力の抜き方で余り表現しないが、アンサンブルに必要な音は全て出している。若々しくうぶい音にまだ若きロシアの闘士の生硬さを垣間見ることもできよう。まだ20台である。主主題に入ると演奏に徐に熱が篭りだすが、おそらく録音が、いったん途切れる。1楽章結部でロストロ先生が一切音を外さずに技巧的なフレーズを弾ききるとオケはそれを暖かく包み込むように、偉大な響きでこたえる。この時点でロストロ先生よりオケにメリットがあるようにすら思える、チェコ・フィル黄金期の凄さをけっこういい音で聞けるのがいい。結部はすぐ終わる。そのあとに短いターリッヒの言葉が、「ターリッヒ・エディション」のエピローグとして付け加えられている。17巻の目玉・・・だがチェロコンは僅か10分弱です。オケがとにかく素晴らしい。○。,"",-----,,,,,,,,,,,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),ロストロポーヴィチ(Vc)ボールト指揮ロイヤル・フィル(testament)1957/4/23,24うーん、薄い。ボールトは彼のブラームスのように品良く響かせているしロストロポーヴィチも強く自己主張することなしにむしろ安穏に弾きこなしている。印象は・・・薄い。でも、完成度はきっと、高いのだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),ロストロポーヴィチ(Vc)小澤指揮ボストン交響楽団(elatus) DGカラヤン盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),ピアティゴルスキー(VC)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA)1960ピアティゴルスキーの「チェロと私」は抱腹絶倒の超本。ホラ噺満載で読むものを惹きつけて離しません。チェロをかついで極寒の渡河?ウソつけえ!!でもロシア人らしい豪放磊落の話しぶりとは裏腹に、演奏はいたって堅実で良い意味も悪い意味もプロフェッショナルな技巧家といった風です。其の実力はカザルスの本でも触れられていますし、ロシアを離れて貧しい生活を送っていたところフルトヴェングラーにいきなりトップ奏者に抜擢されるなど、当時としてはかなり評価されるものを持っていたというべきでしょう。指に悪いから常に手袋をするとか野外では演奏しないとか健康法に気を使うとか、神経質で繊細な類の群小奏者でなかったのは確かで、あんな過酷な環境下で生き抜いてきたというのはまずは身体的に恵まれていたんでしょうね、結局。何だかロストロ先生とだぶってきましたが、そちらのヴィルトゥオーソ系ともちょっと違った「純音楽」的演奏を、たまには楽しんでみてください。健康といいましたが結構短命でした。知名度の薄さはそのへんにも起因しているのでしょう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),○ピアティゴルスキー(VC)オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(arlecchino)1947ライヴではない。そのため恐らくhistoryでCD化された盤(1946/1/17録音)と同じ音源と思われるが、微妙に(各楽章5秒程度)収録時間が違う。まあここでは深く追わない。録音はこの時期にしては良い。聴き易い柔らかな音質だ。雑音も少なく情報量が多い録音なのでモノラルでもそれほど気にならない。ピアティゴルスキーは解釈的には堅実だが確かな表現力で曲を盛り上げていく。言われるほど技巧派という感じでもなく、細かい所ではいくぶんもたつくような感じがする箇所もなきにしもあらず。余り神経質に演奏精度を求めなければ、ロストロとは別種のストレートに豪気な演奏として楽しめるだろう。私は正直もっと「解釈する演奏」のほうが好きだが、どんなに思い切って発音しても雑味の出ない艶やかな音色は確かに魅力的だ。バックオケがいい。オーマンディの協奏曲伴奏は定評あるものだが、フィラ管の分厚い響きは戦後僅かな時期の録音とは思えないくらい綺麗に録れている。ソリストが不要に突出することなくオケと絶妙のバランスを保っており、その丁々発止のやりとりが楽しめる。オケが前面に立つ終楽章はかなりのカタルシスを感じることができるだろう。個人的好みの都合で○としておきます。ヒストリー盤のほうはまだ聞いてないのでそのうち聞き比べてみます。たぶん一緒でしょうけど。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95)〜T.,○ピアティゴルスキー(VC)マルコ指揮デンマーク放送管弦楽団(DANACORD)1932/10/13LIVE重々しく揺れ動くマルコの伴奏はいかにもロシアっぽくて濃ゆい味つけだ。そしてピアティゴルスキはいかにも巨匠タイプ、重々しく雄大な出だしからもう、このソリストの非凡さが現れている。天才ははじめから天才だというが、まだ30台の若武者のダイナミックな解釈はじつに自然で有機的。テクニックもすぐれており、音質もよい。巧い。それだけでなく旨い。1楽章だけというのが残念。○ひとつ。CD化。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),○フォイヤマン(VC)タウベ指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団(naxos)1928/4/30,1929/9/27,1928/1/27,4/30 PHILIPS盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),フォイヤマン(VC)バージン指揮ナショナル・オーケストラル・アソシエーション(philips)1940/1/27liveフォイヤマンというと随分昔の人のようなイメージがあるが、20世紀生まれの人である。41歳という志半ばで亡くなったので、そういうイメージが生じたのだろう。戦前戦中に活躍したということで録音にもそれほど恵まれず、その芸術は限られた記録のみで推測するしかない。この盤できかれるフォイヤマンは適度な美音をそつなく使いこなしたテクニシャンといった風情である。ヴァイオリンのような音でチェロをひきこなしている。後者ライヴではいくぶん瑕疵も認められ、オケの不調?やアセテート原盤ゆえのパチパチ雑音がかなり聴きづらくしているから、前者(1、2楽章一部の別テイクも収録)廉価盤で楽しんでいただくとよいとおもう(演奏上の瑕疵がまったくないわけではないが・終楽章)。音は古いがベルリンのオケは大健闘、録音の都合上かヴァイオリンがかなり薄く感じるが、音響バランスがよく、この時代の録音で避けて通れない雑音もさーといった穏やかなものである。個性的な演奏はオケも含め望めないが、土俗性のない洗練されたオトナのドヴォコンをどうぞ!,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),ヘルシャー(VC)アーベントロート指揮ライプツィヒ放送交響楽団(deutsche scallplatten)1956/3/28これはドヴォルザークじゃない、ブラームスだ、いや、ベートーヴェンだ!構築的で角張ったオケ、乱暴なほどに骨太なソロ!アーベントロートの指揮ぶりだけを聴くならば、これは紛れもなく”交響曲”だ。実に個性的なドイツ的ドヴォルザーク、悪くはない。しかし、私はどうもソリストが気に入らない。高音の音程が悪いのが聞こえすぎる。録音が近いのもこの粗雑なソリストには不利だった。ソリストに対して立派すぎるオケ(指揮者)というのも考え物だな、と思った。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),マイスキー(Vn)バーンスタイン指揮イスラエル・フィル(DG)1988/6LIVEマイスキーのチェロは線が細く、美音ではあるが骨太な表現を要する場面ではちょっと物足りない感じもする。バーンスタインの指揮は緩いテンポの晩年様式ではあるが、ソリストに配慮しているせいかそれほど無茶苦茶には崩していない。とはいえ他演に比べればとんでもなく伸び縮みする演奏といえるかもしれないが。マイスキーも歌いまくっていて、それに従いさらにテンポがゆっくりしがちになるが、気にはならない。イスラエル・フィルは巧い。ヴァイオリンにひとりとんでもなく巧い奏者がいる(特徴的な音が混ざらず生で抜けてくる)。どうでもいいことだが。終楽章第二主題の悠々たるチェロは耳を惹くが、コンマスソロで再現されるところまで終始明るい調子でつなげるものだから、やや冗長な感をあたえる。現代の演奏としては特筆できよう、しかし過去の演奏に対して拮抗しうるほどのものであるかは疑問だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(1894-95),ヤニグロ(Vc)E.クライバー指揮ケルン放送交響楽団(IGI)1955/3/28放送LIVEちょっと生硬な冒頭から「大丈夫かな」と思わせるところがある。ヤニグロは一時期よく聞いたが余り音色に魅力がなく解釈もそれほど際立ったものがない。後年室内楽団の指揮者として活躍したがそつのない解釈で特長の少ない演奏ぶりだけが記憶に残っている。ここではテンポの揺らしかたが力づくなところが面白く、クライバーがしっかりそれにつけてくるから、総体としてはなかなかスリリングな演奏たりえている。だがクライバーはドボ慣れしていないようだ。イマイチ表現が板についていないように感じる。1、3楽章はオケの不調含め良い出来とは言い難い。部分的にかっこいいところもあるが(3楽章の最初など)退屈。2楽章はヤニグロの彫りの深い表現が印象的である。かなり感情の起伏のある演奏で、オケもその深い情緒に共感したような美しい演奏をくりひろげる。野暮にならないところがクライバーらしさ。但しヤニグロの音色は単調なままだ。総じて無印。CD化。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲,ヤニグロ(Vc)ディクソン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(westminster)1953/54・LP,,正直、つまらない。ここまでつまらない解釈に仰天である。でもストレスがない。貶める要素が技術的にも当時の演奏精度的にも無く、オケもこの時代のVPO系、スタジオ録音であればブレもない。録音は古びているしかといって超現代的な分析的演奏でもなく、半端であることは確かなのだが。。オケの音にまったく憂いが無いのも不可思議だ。無印にするにやぶさかではないが、まるで演奏家の顔の見えない平坦さ単調さが、無難な音色、でも確かなボリュームで表現されると、下手な「解釈者」のものよりずっと聞きやすくなる、というところはある。WEB上でも探せば聴けるので気軽にどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番,○ブダペスト四重奏団(RCA/victor)1940/2/2・SP,,驚くほど現代的な演奏だが40年代ともくれば当たり前か。現代の精度尺度からすれば驚くに値しない(とくに旋律表現の中でちょっとフォルムを崩すあたり即興的レベルに聴こえる)けれど、模範とすべき引き締まったアンサンブル、先導していくファーストの程よい雄弁さ、なかなかのものである。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」,"",○レニングラード・フィル協会弦楽四重奏団(MELODIYA)LP,,タネーエフ弦楽四重奏団の旧称。しかしこれは巧い!曲が冗長なので正攻法では正直飽きる部分もあるのだが、テクニック的にもまとまり的にも、ロシア流儀ではあるが音色的にも国民楽派の器楽曲として素晴らしいものを見せている。奇をてらったところのない表現はしかし最近の演奏にみられるような妙に透明感のある無味乾燥あるいは常套的な穴には堕ちていない。これはやはり隙の無い音色表現に尽きるといってもいい。細かいヴィブラートがえもいわれぬ味をはなっている。個人的に◎でもいいとは思うのだが、理由は余りはっきりとはしないのだが少なからず飽きてしまう部分があったので○にしておく。奇をてらわないのが仇?,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」,◯シェフチク・ルホツキー四重奏団(RCD)1929・CD,,チェコの伝説的団体だが、おしなべて速く緊密である、というところはともかく、冒頭よりノンヴィヴ、その後スルポンティチェルロやポルタメントや特殊奏法が目立ち、これがそもそもの東欧のやり方か!と思った。とくにノンヴィヴは至る所で使われ、ヘタに聞こえてしまうところもある。CDは補正がかかりすぎて音色までわからないが、前時代的な艶っぽいものなのかもしれない。◯。この団体は細かい曲をも録音していて一部はこのCDに入っているが全部聴いてみたい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」,◎スメタナ四重奏団(DENON)1980/9/30神戸LIVE,,スメタナ弦楽四重奏団絶頂期の有名なPCM録音で極めてクリアな録音にもかかわらず一切の瑕疵やハーモニーバランスの崩れもないばかりか民族的な音色表現も存分に発揮され非常に高度な演奏スタイルがここに確立されていることがわかる。当時本人たちも会心の出来と自賛したことがうなづける、硬質ないかにも東欧派的演奏でありながら土臭いローカリズムが横溢する、ちょっと「アメリカ」という題名がそぐわないくらいの国民楽派的演奏として特筆されよう。私は後期交響曲とチェロコン以外のドヴォルザークのメカニカルなマンネリズムを好まないが、この演奏にはメカニカルな面の再現を追及したに留まらないオーソリティならではの深い理解も聞いてとれた。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」,○パスカル四重奏団(CLASSICS CLUB他)LP,,楽しく情緒たっぷりのオールドスタイルがなつかしい。こういうフレージング、こういう倍音の無闇に詰め込まれた音、豊潤な演奏というのがあまり聴かれないのはどういった訳だろう?かんじんの東欧が比較的乾いた精緻な演奏スタイルでお国ものにのぞんで成功したものだから、それを範とした後進がみな情趣の押し売りよりメカニズムの浮き彫りだといった結果、骨をかちゃかちゃいわせる民族舞踊がカルテットの定番になってしまったのか、これも社会のデジタル化の弊害か。いま一度この素直な感情の表現に戻って、たのしく歌いさわぐ感覚をアメリカに取り戻すといい。パスカルのよろこびはカルテット業界の陥っている精緻化の狭い穴の存在に気付かせる。つまりはおもしろいってことです。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」,○ブダペスト四重奏団(RCAvictor)1940/2/2・SP,,現代的な技巧と往年の柔らかな表現が融合したような演奏。この時代にこの精度なら申し分ない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」,○ブラフ四重奏団(EMI)CD,,歪んだ擬似ステ録音に難があるが、線が細いぶん感情をダイレクトに示しやすい演奏スタイルには素直に入り込める余地があり、高精度系の団体には無い魅力がある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」,○レナー四重奏団(COLUMBIA他)1932・SP,,CDになったことがあるが付録のようなものだったと思う。美しいボウイングで纏綿としたところもあるけれども基本は溌剌と、過度の思い入れのような表現はなく直線的につづられる。技巧にかんしては申し分なし、さらにこの曲はファースト偏重で旋律音楽になりがちなところしっかり各パートが噛み合ってアンサンブル能力の高さを示しているところも特記すべきか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」,○レントゲン四重奏団(ES)SP,,折り目正しい演奏だが、テンポ感がよく弾むように楽しい。ヴァイオリンの音色が前時代的な不安定さを孕み美しい。キッチリした演奏ゆえ、現代の耳にも十分耐えうる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」,〇ハンガリー弦楽四重奏団(MUSIC&ARTS/CONCERT HALL)1952/9・CD,,最初あまりのぎごちなさにびっくりしたが、すぐにこなれてくる。但しあくまできっちりアンサンブルすることを心がけているようで、構造をよく捉らえたプレイヤーには興味深いものであるとは思うが一般には普通で特徴の少ない演奏に聞こえてしょうがないかもしれない。旋律ばかり目立ち、ムダの無い練熟した書法には余り目がいかない曲だが、同時期のボロディンが国民楽派の行き着く先を中央アジアに見出だして華を咲かせたのと同様、アメリカ赴任による音楽的変化・・・それはボロディン同様ベートーヴェンの呪縛からのがれ単純化の末に全体のリズムと響きと旋律の新鮮さによってのみ語られるようになった(がゆえにプレイヤーにとってはアンサンブル的に面白みが減る)・・・が作曲家にもたらした影響と変化もなんだかんだいって甚大で、新世界の唯一無比の完成度はこの人が真の大作曲家になれたことの証だ。望郷のリズムすらもうそれはチェコのローカルなものではなく、逆にこのあたりがアメリカ楽界にあたえた影響も甚大である。そういった開花のしるしが時期的にかこの曲には他にも増してあからさまに顕れたように見える。旋律以外のつまらなさは一種の進化の結果であり、演奏の仕方によってはこの演奏のようにアンサンブルのさりげない巧妙さを浮き彫りにして厚みのあるものに仕立てるのも可能なのだ。聞きものは後のほうだろう。終楽章はプロフェッショナル性の強く感じられる見事な計算とその表現力が発揮された演奏である。アマチュアのよくやる曲だが簡単に「簡単だよ」と言い放つ人間はばかにされます。これは単純ゆえ難しい。流れる音楽にするには相当の練習が必要だ。げんにこの名ヴァイオリニスト、セーケイをいただいたカルテットですら、1楽章難儀しているのだから。〇。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」,ブダペスト四重奏団(victorola/HMV/グッディーズ)1926/2/2,,さすがにキツイ音だが原音を増強し聴かせられるレベルに持っていくにはノイズもそのまま大きくしてしまうしかなくて、これはSPに慣れてる人向けの復刻だ(CD-R)。板を返す繋ぎ目(空白)もなるべく削らずに少し残して、元のままの音をなるべく届けようというのは骨董録音好きなら好感を持つだろう。まあ聴きづらいが機械仕掛けのようにピンピン跳ねるファーストや計算されたようなスピードの維持、あまり甘やかなところを出さず新即物主義的傾向を示すのはのちの同名団体の傾向に繋がってゆく感じではある。しかしそれよりはよほど「音楽」志向で、力強くカンタービレを感じさせる緩徐楽章など耳に嬉しい。アメリカはドヴォルザークの室内楽でもむしろ特異な、簡潔で異国的な作品ではあるが、きほん旋律音楽、リズム音楽であり、その二点だけをキビキビやっていけばこのような溌剌とした音楽が出来上がる、というものでもあるか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」,ロート四重奏団(COLUMBIA)SP,,第三期メンバー(ロート、アンタール、モルナール、ショルツ)。フーガの技法など古典イメージがあったがこういうのもあるとは。調べるとフランクのピアノアンサンブルもこのメンバーだし今聴けるほとんどがこのメンバーなのではないか。まじめで落ち着いた演奏ぶりで、新世代の演奏スタイルを感じさせる。テンポが遅く揺れないが高潔に楽譜を護持するスタイルもこの時代(私の日本プレスは戦中くらいだろう)は、即物主義とも違って新鮮に受け取られたことだろう。ロートは出はオーストリアだと思ったが(ベルリンのち渡米した)フランス的なスタイル、音に聴こえるくらい軽く透明感がある。ファーストが突出する曲だけれどバランス的にあくまでアンサンブルとして整えられている。四楽章冒頭だけで盤返しという荒業と最後の方がやや音撚れする(盤面が凸凹してるのもある)のは残念。まあ、面白がって聴く演奏ではない。スタイル的に同じような団体は新しくいくらでもいる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」〜U、V,○ニューヨーク四重奏団(BRUNSWICK)SP,,カルテットはご家庭で気軽に交響音楽を楽しむための編成だったのであり、録音技術が普及する前はホールで楽しむ代替手段としてピアノ編曲譜と共に親しまれた(貴族の時代は別)。従って盛んだった時期はせいぜいSP期までであり、放送局付け団体があった頃を最後に、一つのプロフェッショナルな演奏ジャンルに押し込められてしまったようだ。素人が楽しむものから、技術的インフレを起こし天井についてしまった、単純がゆえに・・・スメタナQなどを聴くとそういう感を強くする。,,とにかく技術を見せ付ける、そこから何を表現するか。,,録音機器は最初は大編成の音響を捉えきれない代物で声やピアノ、せいぜいカルテットが鑑賞に堪えうる限界の編成だったものだから、逆に言うと、そうとうに巧い団体を録音だけのために編成することで市場を独占しようという動きが烈しかった。特別編成しなくても、興行的に簡易で手っ取り早い稼ぎ方だったことから東欧あたりにはたくさん存在していて、英国などでの一種登竜門でもあった。そういう背景で興行的に馴染み易い曲に需要はあり、馴染み易さという意味で民謡に立脚したチェコ国民楽派のドヴォルザークは大量の作品を生み出すことができた。音楽的後進国ゆえお雇い外国人を大量に移入させていたアメリカにわたって、音律に黒人音楽を混ぜた極めて簡潔な作品を生み出し、それはドヴォルザーク自身の作品としてはおろか歴史上全てのカルテット作品の中でも最も有名な作品の一つとなった。それがこの「アメリカ」と呼ばれる作品だが、全楽章性格別けされた民謡リズムと音律に彩られ、ブラームス的なかっちりした構造のうえに理知的に配置されている。,,でも、中間楽章だけとなると・・・うーむ。そして、まとまりない文章をここでまとめようと思うのだが、ようするにこの団体、上手い。現代のアメリカの弦楽演奏様式にも通じる合理性が感じられ、ポルタメントに艶があるがおおむねテンポも揺れず表現に余裕すらある。だが、それだけである。上手いのに、地味に感じる。これは曲の底浅さという言い方にもできるが、カルテットという編成の難しさという言い方もできる。上手いを極めることはプロならできる。だが巧い、旨いものにはなかなかできないのだ。ましてやこの簡潔な書法では個々人の資質にしか求められるアドバンテージは無い。平均・・・録音も極めて悪く、○にする。ヴィルツオーソ四重奏団に似ているかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」(旧6番),○カーティス四重奏団(WESTMINSTER),,意外と普通な出来である。むしろ穏健でこの楽団がしばしばみせるデーモンがない。タッチは現代よくあるような金属質で軽いものではなく割と深い音で「跳ばし」も派手にバチバチ飛ばすこともせず音楽的である。ちょっと技術的瑕疵がみられるが、おおらかな時代だったのだろうそのまま収録されている。印象的ではないが、悪くはない。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:交響曲第3番,○ケルテス指揮ロンドン交響楽団(LONDON)1966 1887年作品でしたっけ。けっこう新しいのです。この演奏はすばらしいです。いい意味でそつがない。他の何でもないドヴォルザークを表現している、それを強く意識して作り上げられた音楽。この曲はわざとやっているかのようにワグナー的なものが顔を出すが、それに拘らず、音楽の雄渾な流れを作り上げている。ベートーベン=ブラームスの影響色濃いのは誰しも感じるであろうところだが、ドボらしい新鮮な音響感はそのいずれともつかない汚れのないもので、ケルテスがやるとそこに威厳すら感じさせる(それこそワグナー=ブルックナーふうだが、むしろシベリウスに近いかも)。擬古典的な1楽章がおすすめ。これは指揮者によってけっこう表現の幅のある音楽だが、ここでは骨太で太筆描きのなかなか力感漲る演奏が聴ける。弦にパワーがないとドボはだめです。後年の作品に通じる民族的な要素は終楽章で爆発する・・・がやはり西欧ふうの音楽から脱却しきれていない。そこがまたいいのであるが。終楽章では特に弦の音が艶めいていて綺麗。この演奏を、まずもって定番と言わせてもらおう。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第3番,スワボダ指揮ウィーン交響楽団(WESTMINSTER)LP 音楽の重心を低くとっているためか非常にワグナー的に聞こえる。ウィーンの響きは曲を一層西欧的な領域に引き寄せている。雑然としたオケのだらしなさが気になるといえば気になるが、ホルンやヴァイオリンの音色が何ともいえずいい。ザッツくらいあわせろよ、と思いつつも聞いてしまう。1楽章などヴァイオリンがてんでバラバラだが個人技の寄集めみたいな感じでそれはそれで楽しめる。また、コード進行が明瞭に聞き取れるように音響操作をしているのか、かなり理解しやすいように感じる。私はこれを聴いて初めて3番に目覚めた。こんにちの技術レヴェルで言えばダメダメな演奏ではあるが、人間的でもあり、3楽章など無邪気さすら感じるし、個人的には好き。でも無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第5番,ビーチャム指揮ロンドン・フィル(SYMPOSIUM)1936/10/15クイーンズ・ホールlive・CD,,生命力に溢れ、音楽の歓びをリズミカルに表現していくビーチャム。そのくったくのなさと、曲のしっかりした構成感を損なわない適切な解釈に感心させられる。だが・・・いかんせんこの曲、余りにドイツ的すぎる。ブラームスを透過してベートーヴェンの痕跡を明確に残した作品には古臭さが漂い、演奏もそれを払拭しようとしない。1楽章こそ8番を予感させる垢抜けた響きに気を浮き立たせられるものの、続く緩徐楽章以降の暗いこと!ビーチャムがまたベートーヴェンを意識したような「ちゃんとした」演奏をしてしまっているのがきついのだ。独特の爽快なドライヴ感は維持されるものの、音楽の総体が余りに古典的な表現を指向しすぎている。またシンポジウムらしいところだが雑音が物凄くライヴであることを割り引いても聴きづらい。無印。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,◎クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(FIRST CLASSICS)?クーベリックはじつにニュアンス深くこの重厚な交響曲を演じ上げている。その場その場の表情付けがじつに感傷的にひびき、悲劇的な曲想を盛り上げる。この交響曲、ブラ3などにそっくりと言われるが、私にはどこがそっくりなのかわからない。ブラームスの描く純音楽的世界とドヴォルザークの描く劇的世界は(些末な技術面はともかく)根本が違っている。私はじつは前からバイエルンの演奏しか聴いておらず、こんかい廉価のベルリン盤を入手して聴いてみたのだが、もちろん共通するものはあるにせよ、それぞれの魅力というものがあり、それぞれに楽しめる。重々しく引きずるように始まるベルリン盤は弦楽器がばらける寸前までおおいに歌っており、毒々しいほどにポルタメントしており、クーベリック独特の自在なルバートにぎりぎりつけていっている。その危なっかしさが逆にライヴ的な魅力となっている。対してバイエルン盤は(いつもそうだが)クーベリックの内面により肉薄しているというか、ベルリン盤にやや感じられる作為が表現にきちんと昇華され、すべての解釈を呑み込んで極めて情熱的に歌い上げられており、演奏的には上に置けるかもしれない。だがまあ、ベルリンの音の艶も捨て難い。この、ひょっとするとドヴォルザークが唯一書いた真摯な交響曲、とくに2楽章のさみしさ、あたたかさにはどんな演奏でも心打たれるものだが、クーベリックほどそれを理解し、普遍的な美感をもつ演奏を行った指揮者はいないかもしれない。2楽章から3楽章への流れも見事で、とおく消え去るような曲想のあとにひそやかに始められるリズミカルな音形は自然だ。クーベリックはかなり露骨に力強くこの暗い舞曲を繰り広げてゆく。次々と曲想が変わる場面では繊細な音響操作を行い手を抜かない。暗いフィナーレは私はバイエルンのほうが好みだ。ベルリンは総体の響きで聞かせるが、単線的に聞かせるバイエルンのほうが聴き易くてしっくりくるのだ。でも解釈に差はなく、録音状態も違うのでうかつに上下の判断はできないが、このブラームス譲りの古典的構築性をもった楽章、どちらの録音においても構築感を損なうほどにこまかなテンポ操作が行われていて面白い。もっとこの曲の対位的な構造をあきらかにしてほしいという意見もあろうが、これはこういう演奏なのだから仕方ない。壮麗というより豪勢に曲は終端する。。。ドヴォルザークの「かくれ名曲」、まずはドラマティックなクーベリックで如何。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,○クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(LIVE SUPREME:CD-R)1969/11/14LIVE前掲のファースト・クラシックスの盤とは恐らく違う演奏。音はやや悪く、客席の雑音も聞こえるが、演奏の方は白熱している。ちょっと音がばらけるように聞こえるところもあるが、2楽章の深い情趣、3楽章の舞踏、終楽章のダイナミズム、どこをとってもまさに熱血クーベリックの演奏、その即興的で伸縮する音楽は多分に歌謡的であり耳馴染み易い。7番っていいなあ、としみじみ思ってしまった。この2楽章は師匠格のブラームスを越えている気すらする。まだ聴いた事のない方には、こういういい演奏で入っていただきたい。録音マイナスで○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,◎クーベリック指揮ベルリン・フィル(DG)初出1971 FIRSTCLASSICS盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,○クーベリック指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(RCO)1950/2/2放送LIVE音悪い。雑音まみれ。解釈はひたすらドラマチック。音もフレージングも情緒的だ。クーベリックも歌うし妖しいポルタメントも入る。まるで前時代のロマンティックな演奏スタイル。攻撃的で前へ前へ向かう音楽作りはこの人らしいところ。驚く程荒れ狂う1楽章は聞きもの。2楽章は雑味が気になる。録音の歪みも勿論だがストバイを始めとする弦楽器、感情的な音の魅力はともかくその薄さが気になった。マイクが拾いきれてないせいだとは思うが、実際何プルトあったんだろう。木管はいずれも素晴らしい音色で楽しませてくれる。古きよきコンセルトヘボウの片鱗だ。3楽章は野蛮で民族的なスタイルというかリズムに力を入れた(入れすぎだが)引き締まった演奏だ。逆にありがちといえばありがちな演奏とも言える。弦楽器の剥き出しになるところではやはりバラケている所が目立つ。音色、フレージングなんていいセンいっているのだが。4楽章4楽章は野蛮でブラームスのブの字もない民族的演奏。信じられないところで異様なルバートをかけたりしてある意味凄い。恣意的解釈は基本的に前向きの方向に施されているのでデロデロ後ろ向き大甘演奏にはならない。相変わらず雑味があるが面白い。この盤は荒れ狂う若きクーベリックを存分に楽しめます。しかし録音状態に重きを置くかたは避けておいた方がいいかも。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,○シュミット・イッセルシュテット指揮ベルリン・フィル(disclosure:CD-R)1971/10/11LIVE,,解釈はあっさりだが音に迫力がありEMIのNDRライウ゛とは違う。オケの威力に差があるのは言わずもがな、厳しく男っぽい演奏ぶりが前面に出ており、比べてまろやかなN DR盤はやはり修復、つまりいじっているのかな、と思った。もとより精度の高い演奏をする人だがBPOはとくに瑕疵が見当たらないばかりかむせ返るような弦の音や味のある響きを醸すソロ管楽器など精魂篭めた表現が絶え間無く続き、2楽章など感動モノ。リズム表現は四角四面だがドイツぽい力強さと流れよさはある。惜しむらくは録音で、基本的にいいのだが最強音で掠れがある。これは痛い。まあ、4楽章のド迫力は聞きものなので(珍しくテンポ揺れるし)特に後半ご注意しつつお聞き下さい。1、4は出色の凶悪さ。○。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,シュミット・イッセルシュテット指揮NDR交響楽団(EMI)1970/6/8LIVE・CD,,詰まらない。スマートで端正なドボ7など面白くない。ドヴォルザークが最もドイツに接近した力作、フルトヴェングラー張りの覇気が欲しいし、偉大な構築性が欲しい。どうも甘いのだ。ドボ7はブラ3からの影響を散々言われながらも旋律性やリズム性にはあきらかに国民楽派としてのドヴォルザークそのものが輝きをはなっており、それをドイツ的な部分とどの程度バランスとっていくかが難しいのだが、イッセルシュテットはバランスがいいというよりどっちつかずで、民族性は皆無、でも構築性もイマイチ、といった感じである。やや危ういオケを前にライヴでここまでしっかり組み上げたのは職人的な技の確かさを感じさせるが、この上無く美しい、個人的にはドヴォルザークの書いた最も美しい音楽と思う2楽章が、余りに引っかかりなくさらっと過ぎてしまうのは頂けない。全曲通しての印象も、充実していたと思う、でも、何も残らない、といった感じなのだ。あっさり風味が好みの人もいるだろうし、季節や体調でこれが一番聴き易い場合もあるかもしれない。でも私にはとても推薦する気にはなれない。無印。この人いつも「押し」が弱いんだよなあ。。録音のせいかとも疑う。。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,○ジュリーニ指揮ACO(aulide:CD-R他)1990年代?LIVE,,SONYの録音(93年2月10日〜12日のライヴ)と同時期のものと思われる。重苦しいテンポ、暑苦しいメロディー、一楽章など聴くのが嫌になるが、リズムよりメロディラインを取った粘り腰の二楽章は白眉。さらに四楽章にきてリズム感もしっかりしてきて重厚な、中欧的な響きの上にブラームスの使徒ドヴォルザークのメカニカルなスコアがしっかり再現され、遅さを除けば聴ける演奏となっている。音が篭り正規盤とはくらぶるべくもないが、聴く機会があれば。過去にイタリア盤CDで出回っていたものと同じではないかと思われる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,ジュリーニ指揮シカゴ交響楽団(fkm)1970年代live,,既出と同じか。流れ良さとドラマでグイグイ聴かせてゆく。ドヴォルザークの最もブラームス的な交響曲として民族性をことさら煽ることはなく抽象度は高い。新世界のような曲に臭みを感じる向きは(3楽章の舞曲を除けば)聴きやすく感じる曲で、それに加え熱気も孕んだ演奏として実演の聴衆同様大喝采を浴びせたくなるだろう。ただ、弦楽器は決して統制が行き届いているわけではなく、難度の問題もあるがバラけたりライヴなりの精度になってしまっているところもある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,○セル指揮NYP(WME)1965/11/20live,,モノラルだが迫力の演奏に圧倒される。セルのドヴォルザークは凄いのである。しかもニューヨーク・フィルは(ミスもするが)分厚く、ヨーロッパ的な重心の低い演奏も上手い。1楽章からして引き込まれる。フォルテの表現は…ひたすらフォルテの表現はこの曲の劇的要素をただただ強調し、鼓膜に叩きつけ続ける。2楽章ですら何か「聴かせよう」という意志の強さで、末尾の弱音部も綺麗なのだけれど、全般には緩徐楽章ぽくない。3楽章も舞踏らしくリズムが切れている。緩やかな主題の歌謡的なフレージングと激しい三拍子の動きがメドレーのようにつながっていく。楽団の厚さがやや悪い録音でも関係なく音楽の楽しさをダイレクトに伝えてくる。メカニカルゆえスリリングなアンサンブルも楽しみの一つであるこの曲の、そのスリリングなところをセルは非常な求心力をもって聞かせにかかる。誰も臆することなく気が絶えない。四楽章も緩やかに始まったかと思ったら駆け上がる主題でいきなりテンポアップ。結構テンポ変化があるが、瞬間沸騰的なものはすくなく、聞かせどころでしばらく少しテンポダウンする、といった、おおむねスコアの書き込みどおりということで、それの再現度がたぶん、凄まじい。弦楽器主体の楽曲にNYPの「やる気になった」弦楽セクションはうってつけだ。ブラームスをわかりやすくしたような作品を、さらにわかりやすく歌で繋いでいく。悲劇的で渋い色調の楽曲もこういう力づくスタイルの前には、ダイナミックでアポロ的な印象を与える。矢鱈の弦楽パートの掛け合いなど、セルだから曖昧にはならずに構造的な楽しみもあるのでメカニカルに聴きたい向きにもあっている。以前出ていた気がするが、この音質でもお勧めしたい。生だとどんな凄い演奏だったろう、ブラヴォの嵐。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1967/10/6live,,正規化されたかは知らない。このウラ青だとノイジーでかすれもあり聴きづらい。セルはドヴォルザークとなると異様な熱気を発する。血のなせるわざか、クリーヴランドの弦が速さについてけなくなるギリギリまで直線的な流れを作り音楽を盛り上げる。曲がかっちりと、かつ簡潔にかかれているのでけっこう全パート手の抜けない感じなのだが、その意味ではさすがクリーヴランドと言える。全編聞き所といっていいが個人的には1楽章と3楽章、トスカニーニの再来かと思わせる統制ぶりが心地よかった(もっとリズミカルだが)。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA)1967/10/6live,,ノイズを除けばまったく素晴らしい記録だ。セルの十八番であるドヴォルザーク。録音が古くても新しくても必ず耳を惹き付けることができる完成度を持っている。厳しく筋肉質に仕上げられたオケをドライヴして、ドヴォルザークについてはセルのイメージと異なる情熱的な解釈を施し、この曲の白眉である二楽章には実際にはブラームスから離れたドヴォルザーク特有の旋律とひびきの簡潔さに対して的確な肉付けをし、表情付をし、そこにはセルには似つかわしくない、心に残るものがある。激しい楽章はお手の物、ニューヨークフィルかと思うような分厚さと音の重量感に天性のリズム感が宿っている。四楽章ラストでテンポに大ルバートがかかるなど、主情的なところがライヴ感を煽り大喝采につながっている。正規盤化されているのではないか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,○ボンガルツ指揮ドレスデン・フィル(deutsche schallplatten)1964粘らず揺れずさっさと進む演奏だが、下手に歌いまくる「ありがちな」演奏とは一線を画し威厳あるところを見せている。そんなストイックなところが素直にかっこいいです。堅牢なこの曲の性向によくマッチした解釈。音のキレがよく、3楽章より4楽章のほうが寧ろ舞曲的な歓興をあたえるのも面白い。それにしても心地よいテンポだ。意外とスマートです。録音もいい。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,シルヴェストリ指揮ウィーン・フィル(EMI)1960いつもながら雑味の多い演奏。ウィーン・フィルの美質を己の感情の昂ぶりのままに損なわせ、結果としてまとまりのないアンサンブルという印象をのこす。解釈には特徴的なものがあり、即興的な気分の浮き沈みはそうとうのものがある。言ってみればスヴェトラーノフの調子の悪いときの演奏といった感じであり、ヒステリックな叫びやなんとなくスカスカ感のある音響にも共通点を見出せる。ウィーンの特徴的な音がほとんど生きておらず、とくにヴァイオリンの薄さはがっかり。他の演奏にはない面白さというのはたしかにあるが、アマチュアの演奏に聞かれるようなたぐいの面白さ、と言ったら言い過ぎだろうか。この指揮者としてはおとなしめかもしれないが。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(rare moth:CD-R)1987/10/14BERLIN LIVE音の柔らかさとゆるいテンポがどうにも空疎な聴感をあたえる。慣れてしまえば心地良くなるとはいえ、期待されるドイツ的な構築性と峻厳さは1楽章では殆ど感じられない。悪い録音のせいとも考えられるが、明らかに横に拡がった音楽は全く弛緩していないと言えば嘘になる。又一貫して音色が明るく、深刻な楽想においては違和感を拭えない。2楽章ではその解釈がハマって、ゆったりとしたブルックナーのような独特の世界を楽しむことができる。ドウ゛ォルザークの孕む密やかなワグナー性までもが引き出され、非常にスケールの大きい音楽になっている。最後の詠嘆に傾聴。これはチェリならではだ(正統とは言い難いが)。3楽章はちっとも踊れない縦の揃いすぎた遅い演奏だが、普段耳に止まらない隠れた魅力を見つけられるかも。ドイツ風で案外聞けるが拒絶反応を起こす人もいるだろう。枝葉末節に拘るチェリの悪い癖を見出だす人もいるはず。チェリ晩年のブルックナーを嫌う人には猛毒です。空疎な詠嘆の響きに諦念を見出だし萌える人もいるでしょう。4楽章も遅いし弦楽器がイマイチ締まらなくなってくるが、ドイツ的といえばそうだ。ブラームスやベートーウ゛ェンの世界を念頭に置いた構築的な演奏である。だが、飽きる。同じような調子がえんえんと続くのだ。音の組み物を延々と見せられているようなもので、スコア片手に萌える人はいるだろうが普通の鑑賞に向いているとは言い難い。最後の最後にかかる異常なまでに引き伸ばされたリタルダンドは空々しくさえ思える。総じてこの曲のマニアかチェリのマニア以外には不要の盤。他に二つほど海賊ライヴ盤があるようだが未聴。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,バルビローリ指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ(testament)1969/1/22liveオケがハレでないために期待したが、やや縦線がバラケ気味のところも聞かれ(1楽章)スケルツォ楽章(3楽章)ではヴィヴァーチェの表記があるのにずいぶんとユックリしている(無論計算しての事だとは思う)。だが、情緒的な揺れの表現はさすがバルビで、2楽章の瞑想的雰囲気や3楽章中間部の美しい音表現は特筆できる。コンセルトヘボウはわりあいと無個性で、バルビの音楽を節度あるいぶし銀の音で再現している。3楽章終盤は叩き付けるような音表現で激しさをあらわしている。そのまま4楽章のうねるような主題が始まるが、そうとうに速い。この曲でこの速さはマーラー並の演奏能力が必要となる。弦パートが少しおとなしめになってしまうのはこの速さのせいもあるだろう。細かいテンポ・ルバートが入ってきてちょっと耳を惹く。チェロが基軸になって主題が展開する場面ではハレでは聞けないチェロの重々しくも潤いのある表現が心地よい。ヴァイオリンも「らしく」艶のある音で答えてくるようになる。ただ、バルビは仔細な指示を隅々まで行っているようだが、ひょっとすると表現しきれていないところもあるのかな、とも思う。このダイナミックな楽章、もっと構築的に演奏したほうがドヴォルザークの堅固なオーケストレーションが映えてくるような気もするが、バルビなりの表現なのだろう。それにしても対位的表現がイマイチ明瞭でない。行進曲風の場面は勢いがあり魅力的だ。ジャーン、ジャーン、ジャーンで終わると最初は控えめでも次第に盛大な拍手が入る。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(emi),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第7番,ペンデレツキ指揮シンフォニア・ヴァルソヴィア(warner)2017/1/9-10・CD,,1楽章は棒が固くて、オケもどうしようかというような非力さを示していたが、作曲家指揮者らしい瞬間的なテンポルバートの挿入といった愉しさの萌芽は見えており、3楽章以降はオケがこなれ熱量があがり、人工的な表情付けと雄大なスケールが印象的なフィナーレはそれなりに盛り上がる。木管はよいが弦は薄く、このブラームス的な曲でははっきり言って重さが足りずマイナス要素が多いが、「独特さ」を価値基準に置くなら聴いてもいい、程度か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,○クーベリック指揮チェコ・フィル(ANDROMEDIA)1946/5/19プラハlive・CD,,力強くスピードのある演奏だが同時期流行ったトスカニーニ様式のドライなものではなく、適度にロマンティックな音表現を兼ね備えているところにクーベリックの魅力がある。マーラーが得意だったのがわかる雰囲気だ。若々しさと壮年特有の独尊性のはざまでそれほど強烈なアピールをするまでもないところがあるが、チェコ・フィルがそれほど独特の表現をひらめかせることなく非常に聞きやすい音楽をかなでるようまとめられているのがいい。あっさり聞きとおせてしまう引っかかりのない演奏でもあり、録音も悪いが、心地いい。廉価盤に収録。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",-----,,,,,,,,,,,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,○クーベリック指揮チェコ・フィル(ANDROMEDIA)1946/5/19プラハlive・CD,同上,なるほどフルヴェン先生に似ている。終始アグレッシブで集中力が高く、二楽章ではアグレッシブすぎてテンポが前に流れてしまうところ含めこれは、チェコ・フィル往年の素晴らしい技量含めてかなり楽しめる・・・録音状態の悪さを我慢すれば。終楽章の絶妙なリズム表現は必聴。この精度でこんな感覚的な、しかし非常に強いリズム取りは今は絶対聴けないだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,○クーベリック指揮チェコ・フィル(supraphon)1944/11/30live・CD,,最近出たクーベリック・チェコフィル組盤の中の一曲だが既出であるという。意外と実直でドイツっぽい演奏になっている。クーベリックが特にライヴで爆発させたテンションがここにはない。フォルムのがっしりした楽曲に沿うようにテンポも余り動かず音量変化もゆるやかで、しゃっちょこばった印象は否めない。とても舞曲とは思えない三楽章にそれは顕著である。どうしたんだろう、という感じ。オケは強力だし時代のわりに音が聴きやすいので○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,クーベリック指揮シカゴ交響楽団(CSO)1966/12/8LIVEこの曲は分かり易い旋律にあふれ派手なぶん、飽きるのも早い。3楽章の有名な旋律や4楽章のファンファーレなど、2度も聞けばヘキエキする。私はじつは8番は苦手。噛めば噛むほど味が出る7番や突然変異の異色曲9番にはさまれて、ノーテンキな憂愁(矛盾)をうたう8番はどうも馴染めない。しかしクーベリックはうまくやっている。ベルリン・フィルは息をのむような素晴らしいアンサンブルを聞かせてくれる。艶めいた音色も綺麗。とても表現意欲が強く気合が入っており、聴いていて心地よい。終楽章は体が揺れた。対してシカゴ・ライヴはライヴと思えないほど精度は高いものの、落ち着きすぎている。ブラスが弛緩しているところも聞かれる。弦の音色にも魅力が無い。終演後はブラヴォーが叫ばれるが、ベルリン盤に比べ落ちる感は否めない。この演奏ははっきりいって飽きた。。。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,○クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(METEOR)LIVE?いい仕事をしている。3楽章のポルタメントたっぷりで自在に歌われる舞曲主題には魅了される。終楽章の堂々とした演奏ぶりにも感心した。ドヴォルザークの後期交響曲三曲はいずれも独自の輝きをはなっているが、もっともドヴォルザークらしい曲は8番ではないか。国民楽派でありながらつねに新しい音楽をとらえ楽曲構造の中に組み込んでいったドヴォルザーク。7番など3楽章の舞曲を除けばすこぶる西欧的(ブラームス的)であるし、9番はアメリカの土着民謡を主要素として組み込んだ特殊な曲だ。8番は終楽章のコガネムシの主題をはじめとしてチェコ民族音楽のエッセンスを注入しながらも独自の緊密だが簡素な楽曲を組み立てていった、というような感じだ。クーベリックはいろいろな楽団とこの曲を演奏しているが、やはりバイエルンの演奏は板についているというか、丁々発止なところが感じられる。幸いにも超絶技巧を要求する曲ではないので、綻びがなかっただけなのかもしれないが。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,○クーベリック指揮ベルリン・フィル(DG)1966/6読みの深い演奏だ。ドヴォルザーク演奏にありがちな単純な「旋律廻し」の演奏ではない。アンサンブルの整え方が素晴らしい。ドヴォルザークが案外構築的である事をさりげなくつたえるような演奏だ。ベルリン・フィルという楽器も、指揮者に完璧にツケている。とくにヴァイオリンの強靭かつ艶やかな音に感動する。3楽章の緩徐主題の表現にはまったく脱帽。ポルタメントたっぷりの歌いかたには前世紀の匂いがして懐かしく心をゆるがせられる。8番は終始明るい音楽だが、クーベリックはいたずらに祝祭的雰囲気を盛り上げたりすることなく、あくまで格調高く、しかし音楽的興奮を適度に盛り込んで、集中力の高い演奏を盛り上げている。コガネムシの主題も下卑た雰囲気を辛うじて避けており、明快なアンサンブルを組み上げたすえにファンファーレの再来まで颯爽とした音楽を作り上げている。もっと作為的な盛り上げがあってもいいと思うが、スタジオ録音だし、この程度が節度があって万人受けするのかもしれない。ややあっさりしているかもしれないが、私は惹かれた。○ひとつつけておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,○シュヒター指揮NHK交響楽団(king,nhk)1959/10/4放送・CD,,これは佳演。シュヒターのリズム感のよさが両端楽章に顕著に現れており、キレのいい表現が続く。4楽章の緩徐部のボリュームのある表現はロマンティックで感動的である。ドイツ風とはよく言われる言葉だが、オケがオケということもあるが、完全にローカライズされたドイツ式ドヴォルザークとは感じない。そのあたりがまたよい。意外だったのが2楽章の大人しさで、3楽章などスラヴ舞曲にもかかわらずあれほどリズムのいい指揮をした指揮者がここは真面目か!という感もなきにしもあらずだが、統制の行き届いた大人の演奏を繰り出していることは確かだ。これは意外な名演であり、「イギリス」好きにも受けると思う。録音は当時の放送録音並みで音場が狭くイマイチ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:交響曲第8番,○ジュリーニ指揮ACO(放送)1990/12/15(14?)live,,謎の音源で、データがsony盤とかぶっており、おそらくsony盤が13日のセッションに14日の音源を加えて編集しているものと思われる。音楽はストップウォッチで計測できるものではなくアゴーギグ次第でいかようにも時間を伸縮できるものだが、sony盤で指摘される遅さというのは少なくともこの前半楽章ではまったく気になら無い。3楽章の舞曲も他に遅い演奏というのはあるので、比べて舞踏性をそこなうくらいの遅さという感じは無い。ただ中間部にてゆるやかに歌うところでは、静謐な空気の中からすべらかな盛り上がりをまさにジュリーニ・カンタービレで歌いきる魅力が発揮され、確かに遅いことは遅い。終楽章は、遅い。しかしとても歌が上手な、私が言うまでも無いが、ムーティなんかよりよっぽど、バルビローリとは違う意味だが同類として、感動的な歌を歌う人だ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,◎ストゥプカ指揮チェコ・フィル(arllechino)1951live・CD,,録音は悪いし客席反応も普通だがちょっと驚くくらい集中度の高い、特に中低弦のじつに充実した演奏で、激しい楽想においてはターリッヒの統率力を感じさせるが冒頭より一貫して緩徐部の表現が重厚かつ情緒纏綿、ゴリゴリくるベースに男らしくも美しいチェロの合奏が素晴らしい。諸所録音に問題はあるものの、ストゥプカのライヴとは思えない精度の高さはターリッヒのムラヴィン的マンネリズムとはまた違った、ドイツ式構築性とロシア式情緒表現の見事なコントラストの妙がきかれる。とくに惹かれたのは2楽章の雄渾な表現だが、雄渾といってもただダダダダと機械的に畳み掛けるのではなくフレージングとアンサンブルで美しい「音楽」を造り上げる。とりあえず何かこの演奏には他に無いものがあり、欠けているものもない。録音を問題としないならば、◎以外につけようがない。ドヴォルザークというのは完璧な作曲家だったのだなあ、と改めて賞賛したくなる、完璧な演奏だ。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:交響曲第8番,○テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(MEMORIES)1982/11/12,13LIVE・CD,,テンションの高い演奏。ただ放送エアチェック盤のようで広がりが無く音質も悪い。そのため聴衆の熱狂が今ひとつ伝わりづらく、楽器の発音が強く捉えられすぎてやたらとやかましい感じもしなくもない。弦楽器の噎せ返るような表現の深さに感銘を受ける。ただしっとりした弱音の美しさがない(録音のせいかもしれない)。クーベリックを一瞬だが思い浮かべた。ただ楽しく騒げる演奏なので、何も考えないでサウンドとして楽しもう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:交響曲第8番,○テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(MEMORIES)1982/11/12LIVE・CD,同上,しっかりした演奏ぶりでオケの士気を引き出し毅然としてかつ前進的な音楽を引き出している。弛緩やギスギスしたところもなく、録音もライヴ海賊盤にしてはよい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,○テンシュテット指揮ロンドン・フィル(BBC,IMG)1991/4/2LIVE既に神格化されていたテンシュテットのオール・チェコ・プログラムの中の一曲。やはりドイツ的な構築性が感じられ、しかもチェリのように禁欲的ではなく、なんというか、思い入れの強い余りもう突き抜けてしまったかのような諦念が音楽を支配してしまっており、雄大なところは一緒なのだが、情緒的な部分でまったく異なっている。テンシュテットのドヴォルザークは裏青でかなり出ているようだが、手を出しあぐねていた。このCDを買ったのはハズミだが(爆)1楽章冒頭のなんともいえない感無量といったような音に思わず身を乗り出してしまった。進むにつれ強奏部分がやや凡庸であったり(2楽章の中間部は余りに立派なワグナー的構築物となっているが)音楽のウラが見えてきてしまったのがちょっと残念。でも、この人の静寂はほんとに恐ろしいくらいに死を感じさせる。復活(でも結局死亡)したテンシュテットが自分の臨死体験を投影している、かどうかはわからないが、1楽章にかぎらず2楽章の木管楽器のやりとりや(ブラスはいかにもドイツ流儀の強奏で却って邪魔)、4楽章の第一主題が緩やかに収まっていくあたり、異様な空気がぴりついて、これはもう生きている人間の音楽ではないな、死ぬ人間の悔恨の想いが込められた言葉にならない音楽だな、と思った。こんな音楽を奏でられる指揮者はもはやいない。ロンドン・フィルのヴァイオリンもカメレオンのような特質を生かして、3楽章等では異様に感情的で色っぽい音を出している。ボールト時代の録音でもしばしば聞かれたものだがやはりライヴならではのものだろう。録音はこの手のライヴにしてもやや悪いか(ホールのせいもあるだろう)。諸条件を含め総合で○。お定まりのように最後ブラヴォーが飛ぶ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,◎ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(DA:CDーR)1960/12LIVE,,これが大変な名演で、録音の瞬断がひんぱんにあらわれるにもかかわらず◎をつけたゆえんである。颯爽ととばしていく中にも分厚い均整のとれた響きが輝かしくニュアンスをつけていく、その古典的均整感と力強い表現がじつに美しく、内面からの覇気が精度を更に高めている。明るくやや単調な音色も木管の素晴らしい技術とブラスの強烈な力感の前にどうでもよくなる。ビーチャム最良のものを聴くことができる。凄まじいブラヴォも聞き物。さすが作曲家自身による英国初演をになったオケだ。,-----,,,,,,,,,,,,,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,◎ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(EMI/BBC,IMG)1959/10/25ロイヤル・フェスティバルホールLIVE・CD,,文句無しの凄演・・・これを補う言葉を私は知らない。野暮なブラームスでも民族的なドヴォルザークでもない、それらの生臭さをまったく昇華して、物凄くも高貴さに満ちたとても高みの音楽に仕上げた、としか言えない。オケも素晴らしく冴えていて、ここまで最初から最後まで惹きつけられる演奏は聞いたことが無い。とにかく決然とした発音と明瞭なテンポ感、異常なテンションが2楽章ですら物凄くドラマティックな音楽に仕立ててしまう。更に淀み無いスピード感が加わってビーチャム芸術の真骨頂とでも言うべきものであろうし、この曲のファンなら、モノラルで録音が悪いとはいえ、瞠目することうけあいの、しかしまったくの正攻法のドボ8、是非機会があれば聞いてみていただきたい。3楽章が変に民族舞踊にならず、しかも面白いというのだからびっくりだ。4楽章にはもっとびっくりな轟音が待っているのだけれども。ブラヴォーの凄まじさといったらない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:交響曲第8番,○ペンデレツキ指揮シンフォニア・ヴァルソヴィア(DIRIGENT:CD-R)2008/8/26live,,存外素晴らしい演奏で驚いた。基本的に縦ノリのガツンガツンくるドイツ的なドヴォルザークなのだが、音響と構造の整え方は中欧伝統の鈍重で非理知的なやり方とは異なって非常にしっくりくる。ここまで揃えばメカ大好きドヴォルザークが簡潔な書法の裏に忍ばせたもの、独創的な楽器の重ね方、音響的配慮の繊細さ、天才的な対位法、リズムの見事なパズリング、そのへんまで聴こえてきて、ただノリや旋律で押し切る方法が既に過去のものであることを今更考えさせられる。ここにはそういった主知的な観点だけがあるのであはない、この作曲家の民族的作品を思わせる、バルトークのような激しい打音にいざなわれ、決して前には流れないが後ろに引きずられることはそれ以上にありえ無い、3楽章などワルツを強調することはないがワルツとて舞踏音楽なのだから明快なリズムが重要であるし、ドヴォルザーク特有の楽想の躁鬱的転回をものともせず構成する指揮者には曲への信望以上の思い入れを感じさせるパワーの発露が伴っている。オケ含め素晴らしい演奏。ドイツ的なドヴォルザークが好きなら。ブラヴォのような言葉が叫ばれる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,コシュラー指揮プラハ交響楽団(OCCD)1967/2/13live・CD,,左右の分離の激しいステレオ録音で荒いが、厳しく斬り込むような重い発音で正攻法で叩きつけてくる8番(もう「イギリス」とは呼ばれないのだろうか、どこから聞いてもチェコしかない)、少しドイツ的野暮ったさは感じるし緩徐部にロマンティックな「しなやかさ」が足りないものの、お国ものとしてライヴであれば満足できるコンサートだったろう。ドヴォルザーク後期は曇り無い国民楽派の明るさで、何ら怪訝な気持ちを感じさせず、ひたすら楽しみの中に浸らせる。この曲はとりわけ明るいが、空疎さを感じさせないためにはこういった「強気の音楽」に仕立てるしかない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,シルヴェストリ指揮LPO(EMI)1957/6,7・CD,,"歌い回しは天下一品だ。歌謡性に富む曲なだけに、平板な表現でもそれなりに力感を籠めて臨めば耳に残る。しかしシルヴェストリは歌いに歌わせる。やかましいほどの発声を交えながら抑揚を強調し、テンポはときに止揚するが、セッション録音なだけあって乱れはなく、3楽章など明確なリズムに胸がすく。""新世界のドヴォルザーク""に求められるものをはっきり打ち出した「わかりやすい」演奏といえ、かつチェコのお国演奏に聴かれる、ヒステリックなまでの弦の叫びをロンドン・フィルを使ってやってのけているのも快い。時折テンポを恣意的に捻じ曲げる、瞬間ルバートは違和感を禁じ得ないが他には聴けない、今は絶対やられない類のものだ。自然さのなさが魅力と言っておこう。気は煽られる。ターリッヒと真逆の面白さ。シルヴェストリのドヴォルザークは面白い。",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:交響曲第8番,セル指揮クリーヴランド管弦楽団?(DA:CD-R)1966/2/16live,,音が軽く表面だけを美しく整えたような演奏で正直まったくそそられなかった。終演後の大ブラヴォは録音が演奏の凄さを捉え切れていないことを示しているが、それでも抜けのいいステレオでテープ撚れが僅かに混ざるほかはかなりいい状態といっていい。演奏がとにかく客観的すぎて、オケの自発的な表現意思も感じられず酷く薄味なのだ。唯一3楽章だけが感情の揺れをテンポルバートとフレージングの綾でどんどんつけていくやり方で、ひょっとしたらこの人は(得意の演目とされていたとはいえ)3楽章以外には余り思い入れがなかったのでは、と思わせる。技術だけを聞く演奏。無印。,-----,,,,,,,,,,,,,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,ターリッヒ指揮チェコ・フィル(supraphon)1951・CD,,これが黄金期チェコフィルを率いたターリッヒでも最良の録音の一つというのが何とも寂しい。モノラルで中音域が弱く、ドヴォルザークといえばターリッヒ、とムラヴィンスキーも躊躇した名匠の真実を伝えるにはこれでも不足と思うし、私自身も何しろ聴く対象が限られているものだから、真実はどうだったのか、実はそんなでもなかったのでは、と言われて返す言葉は無い(あけっぴろげにぶっ放すブラス、味は余り無いが堅実に技巧を発揮する木管、高潔で引き締まった分厚い弦楽器、それらを一手に厳しく操るといったオケとその着実なコントロールぶりくらいは伝えられる)。正直ドヴォルザークのシンフォニーを、ステレオで一枚でも残せていたら忘れられることは無かったであろう。チェコのローカル指揮者というマニア向けの扱いにもならなかったはずである。録音嫌いと言いながら膨大な放送録音や映像を残す結果になったチェリビダッケは、活動中ですらレコードマニアに盛大に持ち上げられていたが、時代が違うし立場も活躍範囲も違うが、後代の人は録音しか聴けないのだから、こういう指揮者の演奏は誰かが隠れてでも残しておかないとならないし、わずかながら「大地の歌」断片など出てはいるので、スプラフォン頑張れ。この記録は楽章毎の性格が明確に描き分けられ、ムラヴィンスキー的なイメージとは違いおおむね客観的に整えられている。とくに四楽章は案外前へ向いていかないが、そのぶんドイツ的な形式感を重んじた質の良さも出てくる(オケはドイツよりロシアに近い響きなので聞き心地は違う)。三楽章の舞曲表現もローカルな色を感じさせないが、絶妙なリズム感で浮き立つようなワルツを十分に堪能させてくれる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA)細部が粗雑になるのはこの人の特徴だけれども、それを押してなお前進的であればいざ知らず、テンポもよく流れていかないし、力の入れ方も前向きではなく地団太を踏むような感じだ。この人のレスピーギの録音を思い出してしまった。オケもはっきりいっていい出来とはいえない。むしろ指揮者との齟齬を感じる。木管など美しいことは美しいのだが、全体としてまずは隙がありすぎる。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第8番,○ホーレンシュタイン指揮ハレ管弦楽団(放送)1972/1/19ロックポートタウンホール,,モノラルで細部の不明瞭なエアチェック音源。オケもハレとあって特筆すべきものは無いが、ホーレンシュタインらしい重厚な轟きと柔軟な物腰は健在。一楽章の序奏ではいきなり伸縮するロマンチックな表現をとりびっくりするが本編からは手堅さのほうが先に立つ。二楽章はなかなか難しい楽章だと思うが、中盤中欧的な分厚い響きが圧倒する。型にはまったような表現とはいえならではの魅力だ。スラブ舞曲はやけに寸詰まりの音符の切り方に違和感。舞踊的な自在さはない。終楽章はやや遅い。最後は峻厳。拍手を含む環境雑音のなさから、公開公演ではないかもしれない。○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○カイルベルト指揮聖チェチリア音楽院管弦楽団(ARCHIPEL)1952/4/27,,音はあまりよくない。1楽章、実直で安定した演奏ぶりである。細かい揺れは皆無でやや詰まらないと感じる向きもあるだろう。ブラームス臭もしないから不思議なものだ。2楽章は案外ニュアンスの篭った演奏だがそれはソロに限ったことで、全体的には寧ろサラサラした淀み無い解釈と言える。後半になるとさすが弦の国といった震えるような弦楽アンサンブルから喧嘩をへて陶酔的なまでのテンポ取りと、感情表現が表立ってくる。ここにきてはじめて面白いと感じ始めた。しかし音の悪さは3楽章でもいかんともしがたいものがある。廉価盤にしてはかなり良質なリマスタリングで改善してくれるレーベルなのだが、元が悪すぎるのだろう。原音が痩せてハスキーになりがちなのは諦めるしかない。峻厳で、斬り付けるような激しいアタックや非常に粒だった発音は、リマスターのせいもあるがかなり強烈な印象をのこす。やはり弦楽器、とくにヴァイオリンの強靭さが目立つ。激しさを繋いだ4楽章にもそのまま受け継がれる。このイタリア最高峰のオケにしても弦楽器の凄絶さにかんしては特別だ。これがこの指揮者なのだろう。音作りなどドイツ式なのだろうが、そういう流派とか関係無い特別なものを感じる。4楽章の弦は興奮するし、泣ける。下手くそにやるのが難しい名曲だが、少なくともこの楽章は最後のプレストにいたるまで完璧に演じ上げられている。素晴らしい。恐らく放送音源。「恐らく未出」の文字があるがどうだろうか?,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,カイルベルト指揮ケルン放送交響楽団(weitblick)1966/4/15・CD,,モノラルなら誤魔化されたのかもしれないがステレオだとバレる。オケ弱すぎる。一楽章からバラケて音荒れて腰砕けにされるが、特にブラスがきつい。ホルンの変な音程から始まり(音程を低めにとることについてはオケの特性だろうが不安定で、二楽章の弦楽カルテットもゾッとする)、とちる、縦をズラすなど事故が多い。カイルベルトもステレオで聴いてみるとコンヴィチュニーに比べ中低音域を余り強調しないような気がする。ガッシリしたフォルムが(硬直したテンポ設定やリズム処理には確かにそういう志向は感じられるのだが)音の軽さのせいで中途半端な感がある。これもオケのせいかな、とは三楽章を聴いて思うことだが。救いは低弦の分厚い表現で、重なる場面では正直アマチュア並のヴァイオリンをきっちり支えている(この音色のバラケ具合は往年のケルン放送soならではなんだろうが、今まで正規盤で出なかった理由がわかる)。あと木管は安定しているか。踊らない実直な三楽章から格調ある四楽章。カイルベルト、掛け声発してる?か細いヴァイオリンパートも何とか食いついている。ワグナーを思わせる雄大な表現、テンポルバートなど、もっとボリュームは欲しいが、とりあえずカイルベルトがたまに見せる粘着質のフレージングが聴かれ楽しいところがある。ボリューム不足について触れたが、これは録音のせいだろう、音量変化に乏しいのは難点。少し録音操作してもよかろう気もする。ちょっと独特の音の切り方をしつつ、フィナーレ急に突っ走って終わる。環境雑音が無いので放送録音か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○チェリビダッケ指揮トリノ・イタリア放送交響楽団(ARKADIA)1962/1/5live・CD,,ドイツ的な新世界である。つまり重くてテンポ取りがタテノリ。しかしオケがオケだけに少し甘めの浪漫性ものこる。このころチェリの芸風として未だあったスピード、それに後年にはもっとひどくなる音の厳しい磨き方が、ライヴにもかかわらず何度でも聴くに耐えうる録音に仕上げている。終盤のテンポ・ルバートが独特で面白い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○フロマン指揮ルクセンブルグ放送管弦楽団(ODEON),,なんとなくアンチェルを思い浮かべた。直裁な表現でけっこう早めのインテンポで力強く進んでいくが、正直3楽章までは余り印象に残らなかった。スタンダード、という表現にとどめておくが。ただ、4楽章はかっこいい!力強い。表現意思の強さはクーベリックぽい感じもする。「あの路線」である。またオケも集中力があり、フィナーレへ向けて直線的に突き進む。もっともちゃんとリタルダンドするところはリタルダンドするが。オケ、けっこううまいです。音色が中欧的なのでアンチェルらチェコ陣とは一線をかくすが、傾向はそっち系です。4楽章の満足感で○。モノラルで音はあまりよくない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○ラフリン指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA)LP,,わりとアグレッシブだったモノラル期の録音だが今ひとつぱっとしない。表現主義的な変化をつけようという意図とオケ側の強い表現意思は変わらないのだが噛み合っていない為に比較的地味で大味な演奏にきこえてしまう。解釈しようとしてはいるのだが表現になっていない、そんな消化不良的な感じが否めないのだ。もちろんパワーはあるし、部分的に面白いが、ラフリンがたまにやる莫大なたぐいの解釈に近いところもある。普通に聴けるが、演奏的な面白さはロジェストに軍配か。ラフリン的解釈を聴きとりたいファンならどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○リグノルド指揮LPO(stereo fidelity)LP,,バルビやサージェントと同世代くらいの人。安定し手馴れた手腕で、率直にこの曲を表現している。オケのソロ楽器も取り立てて個性は発揮しないが、全体としてLPOらしく非常にバランスが取れており、聞きやすい。ただ、私の盤は異常に状態が悪い・・・。ステレオ初期ゆえ左右のチャンネルが完全に分離してしまう箇所もある。,,全般速めのインテンポだが3楽章は割合遅い。ヴァイオリンを中心に部分的に非常に美しいフレージングを聞かせるところがあるが、この人は弦楽器をやっていたのだろうか?イタリア系指揮者を彷彿とする(カンタービレというのとはまた違うのだが、主として一弓内の音量変化指示が徹底していて格好がいい・・・3楽章中間部前の展開、4楽章の特に第三主題あたりのリフレインは特に美しい)。強い個性を打ち出すスタイルではなく、また壮大なクライマックスを形作ることもないが、いい演奏だと思う。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,デルヴォー指揮コロンヌ管弦楽団(DUCRET THOMSON)1961ケルンLIVE,,最後まで「引っ掛かり」が無い。,,つまりはデルヴォーの個性が、最終楽章のデジタルで恣意的なテンポ設定(これとてごく一部)以外に発揮されていないということである。デルヴォーの個性はやはり本領であるフランスものでしか発揮しえないのだろう。オケの音色も明るく軽すぎる。ライヴゆえの乱れはあるがとても集中力は高くアンサンブルは完璧に近いけれど逆にケレン味のひとかけらもなく颯爽とひたすら軽やかに、全く揺れずこだわらず、リズミカルな処理はさすがにうまいがこれもライヴゆえのものと考えられなくも無く、特にデルヴォーファンであっても聞く必要はないだろう。憂愁ドヴォ好きはまず退けて結構。一連のケルンライヴの貴重録音ではあるが、気分次第では(ちょっとおフランスな気分なときとか)コテコテの演歌を聞きたくないけど国民楽派を聞きたい、なんてレアな気分のときにはいいかもしれない。迷ったが個人的思い入れを切り離して○はつけないでおく。録音は極めて明晰。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,マリス・ヤンソンス指揮RCO(RCO)2003/6/6live・CD,,かなり編集が入っており、音場が遠く広めに聞こえる。拍手も消されている。,,1楽章、録音が柔らかいせいか薄味。案外冷静で美にてっしている。音のキレはいいし部分的に独特のテヌート表現など入れてくるが、基本的に「現代の新世界」というかんじだ。マリスのイメージにある意味沿っている。オケが案外弱いことにも気づかされる。個性が薄い。,,2楽章になるととたんに感情的になる。といっても沈潜するほうの感情だ。1楽章に比べいきなりヴァイオリンのパートソロが大きく聞こえたりするところなど、録音の音量操作を疑わざるをえない。いずれヴァイオリンが薄い感じは否めない。,,3楽章はテンポ的に落ち着いてはいるがアゴーギグがやや強め。もとより分析的な棒だが、ここでは分裂症的なドヴォルザークを抉ったごとくマーラーっぽさがある。相対的にはロマンティックか。,,4楽章は良く言えば威厳がある。悪く言えば落ち着き過ぎ。整えた演奏、という感じ。スケールが大きく感じるのはレンジが広いだけで解釈のためではないかも。遅い方にルバートしがちなのは、この人の癖なのだろう。そこらへん遅速弱音への拘りは晩年のスヴェトラぽい。それにしても音色がニュートラル過ぎだなあ・・・,,フィナーレ前のテンポ設定はかっこいい。マエストーソって言いたくなる。マーラー並の雄大さだ。ただ、最後はもっとアッチェルしてもいいと思うのだが。譜面に忠実に音を伸ばしておしまい。無印。,-----,,,-----
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(VENEZIA)1973・CD,,何の工夫もない、やりっ放しの演奏で、かつてはソビエトというとこんな乱暴な演奏をするイメージがあったなあと述回する次第である。スヴェトラやキタエンコのかつての録音を彷彿とする。中音域の抜けた左右バラバラの2チャンネルステレオ録音でまずはこのメカニカルな楽曲の構造的意味性が剥奪され、気持ちの悪い残響とぶっきらぼうでやたらメリハリのある発声が次第にこちらの音感を麻痺させてゆく。音のキレも反応も悪く、雑然とした中でたんなる旋律音楽として聴けるようになってくれば独特の即物的解釈に奇異を見る楽しさをおぼえるだろう。基本まったく揺れないかと思えば、即興的とも気紛れともとれる近視眼的な表情付けが入り如何にも若い。スヴェトラに似たキッチュさを感じさせる。首尾一貫しない感覚は好悪完全に分かつだろう。醒めた演奏であるが客観視もできていない、うーん。録音含め無印。耳痛い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」〜W.リハーサル断片,○ターリッヒ指揮チェコ・フィル(supraphon)1954/9/28-30live・CD,,ターリッヒ・エディション17巻所収。やはり並ならぬ思い入れがあることがいきなりわかる冒頭。第三主題への盛り上げ方をひたすら歌い、オケにつたえようとする。落ち着いたテンポで縦のリズムが強調され決して主情的ではないのだが、ターリッヒの思い入れの強さがやたらと歌を交えた指示にも現れている。うんざりするほどやった曲のはずなのに・・・ムラヴィンスキーをしてドヴォルザークは振らない、ターリッヒがいるからと言わしめ実際にそうだった、というのもうなづける拘りぶりと表現のさまが聴いてとれる。とにかくここだけをひたすら、というのはオケのリハではよくあることなのだが、舞踊的リズムへの細かい変化指示も聞き逃せない。といっても言葉はほとんどわかんないが。。ヴァイオリンのパート弾きがメロメロになって終わるのはご愛嬌。まあ、ほんとにけっこう難しいんです、剥き出しですから。でも本番は、何故か合うのが国民楽派のいいところ。というかチェコ・フィルとはいえリハはこんなもの。交わされる会話も聞き逃せない。このあと、おそらく別日だと思うがかれの名を称える日のための記念の祝祭音楽(曲しらない)と笑い声、短いスピーチが入る。暖かい雰囲気が伝わる。リハ部は以前にも出ている。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○コンヴィチュニー指揮バンベルク交響楽団(DENON/ETERNA)1961・CD,,じつに実直、真面目な演奏で、堅牢至極この上ない。終楽章の壮大なクライマックスにいたってはブラームスと言うよりブルックナーを聴くような感慨をおぼえるが、オケがばらつきがちで、細かい音符が揃わないため軋み音が目立ち、しまらない。ドヴォルザークはブラームス同様込み入ったパズルのようなスコアを仕立てるデジタルさが持味なので、アナログなオケ、とくに機能的でない弦には厳しい。1楽章提示部の繰り返しをやっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○コンヴィチュニー指揮バンベルク交響楽団(eterna),同上,一回CD化したがそれきり再版されていないそうである。これがなかなか渋い魅力のある演奏で、細かく聞けばかなり面白い解釈の痕跡が聞き出せる。スピードはやや遅い。しかし遅さを響きの強靭さによってカバーし、聴くものの興味を持続させる。かなり短い松葉(クレッシェンド、ディミヌエンド)が挿入されている箇所があり面白い聴感だ。また、3楽章の冒頭、刻みを強調して「タカターン、タカターン、」というように聞こえるのも面白い解釈だと思った。演奏の全体構造は非常にくっきりしており、堅固な形式をかためたうえで、細かい解釈の揺れを配置している、といったかんじだ。ちなみに、この演奏、1楽章提示部の繰り返しを行っている。古典的な構造の堅持というところコンヴィチュニーらしい配慮といえよう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○コンヴィチュニー指揮ドレスデン・シュタッツカペッレ管弦楽団(DREAMLIFE)1959/4/7live・CD,,「どの交響曲にも似ていない」この曲は旋律にもまして響きと構造の特有の持ち味をいかに純音楽的に引き立てるかで違ってくる。この指揮者はその意味で期待できるのだが、どうにもオケの反応が遅く、引きずられるように指揮も四角四面になりがちだ。四楽章の偉大なる盛り上がりは評価すべきだし、緩徐楽章一部の畳み掛けるような弦楽器のボリュームある表現はすぐれているが、所々ほつれが目立ち、テンポが滞り、高弦のアンサンブルの弱さも気になる。○。録音は中音域がほとんど聞こえない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,コンドラシン指揮モスクワ・フィル(eternities)1967/5/12",,拍手無し環境雑音無しゆえ以前書いた音源と同じ放送音源かもしれない。四楽章にホルンの派手な事故が聴かれるので正規のセッション録音ではないだろう。冒頭よりぶっきらぼうな発音でロシアっぽいなあと思ったら弦がビシッと揃いリズムキレキレでガシッとしたアンサンブルが繰り広げられる。中欧ふうの重心の低い響きも安定感があり、じつに板についた演奏ぶりである。後年外へ出て活動したコンドラシンが、やっぱりこのモスクワ・フィルとのコンビにおいてこそ真価を発揮できていたんじゃないか、とすら思える息のあったところが楽しめる。あっという間に聴き終えてしまう一楽章がおすすめだが、三楽章のアンサンブルもコンドラシン向きのガシガシいく音楽で楽しい。録音は良くはない。少し残響を加えたモノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(放送)1974live,,どうにも荒い演奏なのだが、両端楽章次いで3楽章の猪突猛進ぶりはまったくコンドラシンそのもの。凶悪なテンポに荒れ狂うリズム(乱れてるわけではなく雰囲気的な話)、合奏の迫力があればソロ楽器がちっとも吹けてなくても気にしないのだ。緩急をはっきりつけた演奏ぶりは、ちょっと似ているスタイルのミュンシュともまた違ったもので、後年の演奏よりも個性がはっきり表れている。私は好きです。○。モノラルで篭もり気味。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),コンドラシン指揮ウィーン・フィル(decca)1980初出 コンドラシンにしては音に力が無く、解釈もおとなしい。ウィーン・フィルもあまり自在に泳いでいる雰囲気もないし、コンドラシンとの相性はあまりよくなかったのだろうか?客観主義に近い非常に「ふつー」の演奏である。だからコンドラシン・ファンにとってはあまり魅力的ではない録音といえそうだ。指揮者の強引な音楽作りこそがコンドラシンの魅力だったのに、ここでは弱腰に感じた。いや、駄演とはいわないが。1楽章提示部の繰り返しを行っている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○シュヒター指揮NHK交響楽団(KING)1959/3/21live・CD,,実直な演奏だが、シュヒターの敷いた「恐怖政治」ぶりも感じ取れる緊張感溢れる演奏。窮屈に感じるほど統制をきかせていて、まあ、この時期の同オケのレベルからして技術的問題が解決しきれていないところも多いのだが、それでも聴いて楽しめるレベルにはなっている。1楽章中盤より音に伸びも出てきて音楽的な呼吸も始まる(がそれほど自由さはないまま最後まで進む)。ドイツ的と言うほど音響や解釈に個性は無いが、シュヒター好きならどうぞ。個人的には惹かれなかった。録音状態は余りよくない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,シルヴェストリ指揮ORTF(EMI/warner)1957/7/9,12(もしくは12/9-11)・CD,,シルヴェストリの旧録だがモノラルにも関わらず豪華重量盤LPで新発売されるなど人気がある。ライヴを含め知る限り3つある録音のうち、これだけ古い版を使っているそうで、ホルンの本数など違っているとはいうが、旧版がとりわけ良かったわけではなかろうし、これだけ評価されるのは不思議ではある。,,シルヴェストリらしい軋みや灰汁のある演奏で、オケも技術にバラつきがあり木管は巧緻な表現と鄙びた音色の差が極端、ブラスやパーカスはあけっぴろげで強烈だが弦はわりと非力。そういった緩い地盤にアクセントの強くついた発音により力強くがっしりした構造を打ち立てることにより、若干引いて整えた感もあるが、聴かせる演奏に仕上げている。前へ流れたりその場の情で揺れ動く事はないが、二楽章の感傷的な音楽は他の楽章と対照的で心に染みる。四楽章はとくに設計が見事で、松葉のうねりをドラマティックに提示し、ドヴォルザークはこうやるのだ、という意思をオケに叩きつけている。確かに奇矯なところもあるものの、全般としてはこのオケ相手によく「国民楽派っぽさ」を引き出せたものだ、と思う。全てではないがリズム処理が巧いと感じさせるところもある。ムリヤリな崩しを入れたワルツはどうかと思うが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,シルヴェストリ指揮ORTF(ina他)1959/3/12live・CD,,最初からオケのコントロールがユルユルで(特に管楽器の)ミスやとちりを挙げだしたらきりがなく、また「恣意的解釈」我田引水っぷりが耳に余るというのは久々の感覚。後半楽章はどんどんテンポが前に流れていって、四楽章ただ弦楽器のテンションだけで突っ走っていくさまはミュンシュなどの速くても一定のテンポが保たれた演奏とはまた違い、ほんとに走っているだけ。独特の空疎な響きを伴い、奇妙なバランスだ。こういったところでライヴ感には溢れまくりで、ライヴ盤の楽しみとはこういうところにあったんだ、そういえば、と思い出した。オケが別の、東欧あたりの中音域が充実したところであれば完成度は上がっていたであろう。こんな演奏なのに客席はまあまあの反応、ステレオだが少し傷のある録音。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○シルヴェストリ指揮NHK交響楽団(KING)1964/4/5live・CD,,エキセントリックな指揮者の解釈を見事に再現した名演。緩急の差が凄いテンポ(概して早い)、リズム感はそれなりだがとにかく激しい発音、このあたりを押さえてよくぞまあ当時のN響が、という精度でやっている。2楽章みたいに楽器の音色勝負のところが出てくると弱いが、4楽章では迫力の「世俗的解釈」をぶつけてくる。1楽章序奏部のねっとりした遅さにも驚いた。まあ、モノラルでなければこれは◎にしてもおかしくはない、面白い演奏。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○シルヴェストリ指揮フランス国立放送管弦楽団(emi)1959/10奇妙なひずみを持った演奏だ。ソロがつねにロマンティックなフレージングを行う一方、オケはほとんどインテンポで通している。スラヴ的熱狂とでもいおうか、荒々しい(じっさい粗い)音楽の彫刻の仕方は好悪別れよう。そしてその「表現」の場所が独特というか、他の演奏では聞けないような意外なところでルバートしたりしている。そんな面白味を兼ね備えた演奏である。この指揮者は「歌わせる」指揮者だ。旋律をうたうものはみな、思い切りロマンティックに歌いきる。終楽章のチェロパートのフレージングを見よ。ポルタメントをかけている人間が居る(笑)。スケルツォが長い。アダージョはなかなかのもの。だが一番良いのはやはり熱のこもった終楽章だろう。あくまで速めのインテンポで突き進むところが恰好いい。しまいには「焔のように」の指定どおり物凄く速いテンポで燃え上がり、燃え尽きる。ステレオ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),ジュリーニ指揮フィルハーモニア管弦楽団(emi)1962初出 ときおりハっとするような美しい瞬間がある。たとえば終楽章結部の自在なルバート、その板についた表現。各楽章の緩徐部でときおり示す独特の歌謡性に富んだ歌い口。年の功とはよく言ったものだ、このコンセルトヘボウ盤、なかなかのもの。ジュリーニは「横型」の指揮者である。縦をあわせてがちがち責めるタイプではなく、曲の流れをおさえて旋律をいかに美しく歌わせるかに重点を置いている。但し決してグズグズにならないところがうまい。三回録音しているそうだが、こんかいそのうち二回を聞き比べて、圧倒的に三回目、即ちコンセルトヘボウの演奏の方が独自性に富み面白いことがわかった。フィルハーモニア管はどうも心もとないところもあるし、決然とした表現が目立つ反面ジュリーニの個性が少し薄まっている感じがする。ジュリーニはやはり「歌」だ。コンセルトヘボウの「歌」に酔おう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○ジュリーニ指揮ACO(sony)1992/5/7,8 EMI盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(SCRIBENDUM/MELODIYA)1981/3/17LIVE以前書いた覚えがあるのだが・・まあいいや。1、2楽章は典型的なスヴェトラーノフ。作為的で粗雑で空虚な、でも何かしらインパクトがある表現だ。表層的な解釈といえばそうだが、それを補って余りあるのが管弦楽の充実。かなりいぢって補正しているようだが、結果としてたとえば薄い弦の機能的限界とかがさほど気にならず、ただパワーだけを感じる事が出来る。そういった点で3楽章が素晴らしくなるのは当然のこと。鋭く刺すようなリズム、お祭り状態のコンサートホール!音楽の内容どうこう言う前にこの楽章は舞曲なので、ただ身体的に快楽を感じられればいいのだ。この楽章だけで◎をあげたくなってしまう。モルト・ヴィバーチェをここまでしっかり表現した演奏もあるまい。コーダからの雪崩れ込みも凄すぎる。終楽章もいい。すっきりした出だし、ちょっとミスもあるが異様に大きく捉えられたペット(まあいぢってるんでしょうけど)が吠える。ヴァイオリンもなぜか3楽章あたりから身の詰まった演奏というか非常に充実した聴感をあたえる。表現力豊かな高弦に負けずに煽るチェロのぐりんぐりんいわしてるとこも圧巻。木管アンサンブルも珍しく調和して美しい。ホルンも吠える。ドヴォルザークの機械的な構造が浮き彫りにされ、じつに効果的にひびく。3楽章もマニアックなアンサンブルが楽しめる音楽だが、4楽章もパズルをきっちり組み立てるような面白さがあり、スヴェトラーノフはきっちりどころかびちびちに張り裂けんばかりのパズルをむりやり組み立てている。それぞれのピースがとても感情的でコクのある音色を持っていてこれまたよい。後半とくによい。これも3楽章以降のことだが作為的な解釈というものが影をひそめだいぶんに自然になっている。音楽的に作為的なものを寄せ付けない完成度があると感じたからか。最後の豊穣なフォルテッシモは思い切りタメを作っているけれども(でも圧巻!)。最後の最強音ジャーンで終わるところが物議をかもしたわけだが(譜面上は一部の音が残って余韻を表現するはずなんですね)、スヴェトラだからいいか。イマイチ国民楽派とみなすのかブラームス系列とみなすのかスタンスがはっきりしない演奏ではあるけれども、これは余裕で○でしょう。面白い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(weitblick)1983/1/14live・CD,,イケイケ具合が特に後半楽しめる演奏。前半はわりとまともで直線的ですらあるが、3楽章での熱狂から4楽章での乱れるすれすれで頑張る感じがいい。もちろん終楽章末尾は全楽器でジャーンで終わる改変あり(ほんとは低管だけが残り余韻を残す)。ただ、スヴェトラらしさというのは余り感じない。それはオケのせいでも時期のせいでもあるだろうか。もっと希有壮大でブカブカ鳴らす音楽を予想していた向きにはすかされる可能性もなくはない。私はロシア盤より聴きやすかったが、印象には正直残りづらかった。終楽章末尾も断ち切れるようにあっさり終わり、客席反応は普通。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○ハーティ指揮ハレ管弦楽団(columbia)1923/4/10、10/23、24・SP,,これは快演。時代と小編成なりのおかしな部分(たとえば弦楽器ベタ弾き・ポルタメント導入によるドヴォ特有の機械的構造のぶれ)はあるがそれもほんの一部で、3楽章などトスカニーニ張りのスピードとトスカニーニにはありえない軽やかさで存外の出来だった。ハミルトン・ハーティ時代のハレ管弦楽団は高名だった。それもさもありなんな、録音もクリアな感じ。提示部繰り返しなしだがカットは無い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○バーンスタイン指揮ニューヨーク・スタジアム交響楽団(DG)1953,,何かマーラーぽい新世界である。重量感のある響きで、オケの技術的にもまずまず、バーンスタインの歌い回しは独特の感傷を煽る。早い楽章はスピードとテンションを保ちフォルムが崩れることはない。50年代のイケイケのバンスタといったところか。但し、四楽章の恣意的な操作は是非あるところだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1960/1/14live,,かなり独特な印象を残すハイスピードかつドライな演奏。しかし楽団は食いついてきてそこが最後の喝采につながっているのだろう。2楽章はさすがにちょっとしっとりしているが、1、3楽章の粘り気の無さと言ったらなく、テンポを揺らすことが罪であるかのようにひたすら直線コースを突っ走る・・・軽快に。4楽章だけはちょっと違い、少し粘り気のある緩徐主題の表現、重みのある響きが(あくまで相対的には)認識可能であるが、まずこんなヘンな突っ走った新世界は今は聞けないだろうし、これほどオケが食いついて(余りのスピードにソロミスはあるが)びしっとアンサンブルを揃えてくるのも信頼関係のたまものだろう。ドヴォルザークはもともとメカニカルな楽曲なのでこういう演奏は許容されて然るべきなのだが、違和感を感じる向きは多いとは思う。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○パレー指揮デトロイト交響楽団(mercury/tower records)1959/1・CD,,まず初心者にはお勧めしない。正直何じゃこりゃ、という新世界だ。2楽章「家路」に感傷的な夕景を想定していたら「デトロイトへの凱旋行進」になっていた、そんな雄渾な音楽にのけぞりっぱなしであろう。音量的にもでかすぎである(録音のせいもあると思うが)。1楽章はもう軽いノリで始まりインテンポでこりゃパレーだな、という感じだが、第二主題の再現あたりから中低音域が張ってきてしっかりした響きを持つようになる。リズムははっきり切れており、これは素晴らしい。2楽章はとにかく男らしさの表現に尽きている。木管が意外といけていることに気づかされる。3楽章パレーの真骨頂、パレーに鍛えられたデトロイト交響楽団の技巧やアンサンブルの真骨頂だろう。4楽章はちょっと主題提示からの弦の刻みが甘く、テンポが異常に速いことから意図的に妥協したのかもしれないがスタッカートになっていない。その後ファーストヴァイオリンの技巧的な細かい音符はしっかり揃っており、他を聴いても弦が弱いということはこのオケに限って無いと思うのだが・・・とにかく最初から最後までここまで揺れ無い高速インテンポをとった演奏は史上これ限りであろう。少々そのテンポで損なわれる部分があっても仕方あるまい。もう一度書こう。ファーストチョイスには絶対に向かない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,◎ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(WHRA)1954/10/8live・CD,,これは久々にガツンときた。やりすぎである。でもこれがバンスタらのルーツなのだ。しかもオケに緊張感が漲り、最後まで分厚さを失わない音が一糸乱れずただミュンシュの「風車」のままに動く。これが冷徹さではなく迫力に昇華されている。機械的な楽曲がグズグズ感を許さないせいかもしれないし、一部改変ともとれる合理的処理(3楽章提示部の弦楽器中声部・・・「モルダウの主題」が刻みになってる!!!セカンド泣)を導入しアンサンブルの乱れを事前に防止したのが功を奏しているようにも思う。両端楽章がとにかく歌舞伎。このテンポ・ルバートの嵐はロシアの指揮者のような即興的なものではなくメンゲルベルクのような予定調和のうえでの激しさの表現である。だから不自然さはそれほどない。「ドヴォルザーク終止」の余韻の異様な引き伸ばしの後、次第に盛り上がっていく客席。◎ですね。録音もよくレストアされている。,-----,,,,,,,,,,,,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○クーベリック指揮シカゴ交響楽団(mercury)1951/11クーベリックにはムラがある。たとえばウィーン・フィルとの演奏は粗雑で薄っぺらく余り薦められたものではない。しかしそれより5年前のシカゴとの演奏は若々しい躍動にあふれ非常に充実した聴感をあたえる(ただしモノラル)。バイエルンとの演奏はこの中でもっとも薦められるもので、終始速いテンポで小気味よく進む音楽はライヴならではの迫真性をもって迫ってくる。そのドラマティックな音楽は何度でも聴いて楽しみたくなるほどの耳馴染みの良い音楽であり、クーベリックの「新世界」の白眉といっていい。一方ベルリン・フィルとのスタジオ録音はややおとなしくなったというか、中途半端な感じに仕上がってしまった。それでも一定の水準は満たしているのだが。チェコ・フィル盤は祖国に凱旋したあとのものだが、丁寧な音作りは認められるもののさらにおとなしくなった感も否めない。オケにやや難がある気もする。音にあまり個性が無く、熱せず低温なのだ。終楽章の緩徐部など感動的な場面もいくつかあるが、これをクーベリックの真骨頂と呼ぶにはいささか躊躇をおぼえる。拍手もブラヴォーも割合冷静。さてクーベリックはこれだけ多くの記録を残しているわけだが、どれもそれぞれの特色がある。一本筋の通った演奏史とはいえない状況を呈しているわけだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),◎クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団 (en larmes:cd-r)1971/5-6ポルトガル・リスボンliveこの三つのライヴ録音の中で、一番魅力ある演奏は圧倒的にポルトガルライヴの盤だ。良く引き締まった演奏である。比較的インテンポで快調に飛ばす一楽章、二楽章は最高の出来。三楽章はややだらしない出だしだが次第にまとまってくる。四楽章は快速で、弦楽器の気合の入りかたが尋常じゃない。ペットソロに思い入れが無かったり細かい瑕疵もあるが、そんなに気にはならない。ヴァイオリンパートが両翼展開しているのも驚きである。最後はブラヴォーの渦だが、さもありなん。さて、この演奏とそんなに時期が違わないのにかなり違った感じがするのが70年(代?)ライヴの盤である。演奏時間がまずぜんぜん違う。一楽章は速い。二楽章は遅い。三楽章も長いが、それはフレーズ毎のうたいこみが長いせいだろう。四楽章は速く、なかなかのダイナミズムである。音はややくぐもりがちであるし、そのせいかおとなしく聞こえるが、ブラスが圧巻で、一糸乱れぬ咆哮は気を沸き立たせる。また中間楽章の木管セクションはナイス。最後のブラヴォーはポルトガルのときよりは小さいがまずまずの出来だろう。何故かこの演奏と似た印象を与えたのが、一番新しいはずの80年のライヴである。録音時間的にも70年のものと非常に近い。が、表現はかなり円熟しており良くも悪くも大人の演奏といったふうだ。なめらかであり、よりおとなしいが、叙情性は増しており、とくに四楽章緩徐部のなつかしい響きは印象的である。最後のブラヴォーはまあまあ。サルダナの録音は後述のMETEORと同じ可能性あり、ORFEO(1980/6/19,20)とは同じ模様。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(altus)1965/4/24日本live mercuryシカゴ盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(MA:DVD)1977/12LIVEいきなり始まって終わってぶつ切れるなんとも余韻も何も無い編集だけれども、音も映像も良好。同時期のライヴCDも多いので、ひょっとするとどれかと同一演奏かもしれないが、観たところちょっと事故的なものがあったりする(終楽章で弦がなぜかズレそうになる)のが特徴的なのでおそらく別だろうと思い別項にあげた。クーベリックは直情型だがここぞというところで大きく揺らしてくるのがかっこいい。なんといっても終楽章なのだが、ペットがタメを作って警句を鳴らしたり、弦が思い切りテンポを落として緩徐主題を歌い上げたりと面白さに事欠かない。おおざっぱに言えば確かにあまり個性的とはいえない正攻法の演奏ではあるが、ライヴのクーベリックが見せる気迫の一端に触れる事が出来るので、ファンならずとも一回試してみてください。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(METEOR)LIVE METEOR等の怪しげアメリカレーベルは一時期巷に溢れかえっていた。未発売のライヴ音源を、はっきり言えば海賊盤の形で世に送り出し続けたレーヴェルである。ライナーなぞ当然ない。この盤のように録音年代すら書かれていないのも多いのだ。しかしながら、価格帯が低かったのと、当時健在だったチェリビダッケの未認可盤を沢山有していたことから、比較的長期間にわたって売られ続けていた(ASdiscなんかも同じように売られていた。これもアメリカ盤)。しかし現在入手できるのは限られた盤にすぎない。チェリ死後に公式に発売となった晩年ライヴに対してその価値を失った同じ曲の盤(ブルックナーなど)くらいだろう。ブラームスやドヴォルザークなどは滅多に出てこない。チェリ晩年の「新世界」など聴いてみたい盤のひとつだが、気長に待つしかないだろう、と思っている。某評論本で某著名評論家がやたらとMETEORのチェリのライヴを持ち上げていて、ヘキエキしたものだが(だいたい未認可盤をこんな本に載せていいものかどうか!)、それだけ持ち上げられる理由があるのかどうか、いつか確かめていきたい。話しが外れたが、クーベリック盤である。かなり完成度の高い演奏で、それゆえにケチのひとつもつけてみたくなる。以前ここで挙げたクーベリックのライヴ盤と同じ物なのか違う物なのか、聴いただけでは判別がつかない(たぶん違う)。それらから離れた演奏ではないことは確かで、まあ、コレクターやアニアが喜ぶくらいのもの、としておこう。1、2楽章はそれなりに胸打たれた。3、4楽章の気合にはびびる。このコンビのライヴは表現意欲が強く、ちょっと油っぽい感じもあるが、よく引き締まった音は聴いていて気持ちがいい。もっとゆったり聴きたいよ派には薦められないが、たとえば新世界初心者にはよい導入盤となることだろう。あふれる情熱、途切れない集中力に傾聴。終楽章緩徐部の濃厚な表現は独特。この楽章、音楽の表情付けが凄い。あれ、テンポが、という箇所あり。盛大なブラヴォーと拍手で終了。(2003春 記)CD-R盤のどれかと同じ演奏である可能性あり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(VIBRATO)1961/11/23live,,モノラルだが同曲に期待されるパッションを十二分に味合わせてくれる。十八番も十八番の指揮者に心得たオケ、音色のちぐはぐ感や堅苦しいテンポなどといったものは微塵もなく、故郷と故郷の凄まじい民族性をメカニカルなスコアの中からデフォルメに過ぎることなく引き出して、そのうえで音楽的に楽しませる。クーベリックにはしばしば一本調子のものがあるが、これはオケが素晴らしく手練なところをみせていて、指揮に依らず美しい。この盤は前に出たことがあるかもしれない。モノラルが大丈夫なかたならぜひどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),クーベリック指揮ウィーン・フィル(decca)1956/10 mercuryシカゴ盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),クーベリック指揮チェコ・フィル(denon)1991/10/11live mercuryシカゴ盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団 (re!discover enterprise他:cd-r)1970年代live リスボンlive盤評参照 どれかの再発,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団 (sardana records:cd-r/ORFEO)1980/6live リスボンlive盤評参照 サルダナの録音は後述のMETEORと同じ可能性あり、ORFEO(1980/6/19,20)とは同じ模様。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),クーベリック指揮ベルリン・フィル(dg)1973 mercuryシカゴ盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」〜U.抜粋,ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(victor)1920/5/21・SP,,ポピュラーミュージックとしてSP向けに編曲され録音されたものだろう。それだけのもので、とくに突出したものはなく、かといってこの時代の録音としては、きちんと技術を持った演奏家によるものだということはわかる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(HMV)1934/10/22,,三度目の全曲録音か(この時代では考えられない)。SPに慣れた向きは十分楽しめるし情報量もある音。迫力あるキレキレの音で、ストコらしい細かい操作もあるが基本的に新世界のサウンドとしての面白さをそのままストレートに伝えてくれる(4楽章冒頭のリタルダンドは何度聴いても慣れないが)。フィラデルフィア管弦楽団黄金期の、とくに弦楽セクションの分厚さ。どういう録音方法をとったんだというようなボリュームのある捉え方をしている。録音状態的に音色は楽しめないが管楽器もノーマルに力強くしっかりしている。やはり2楽章のようなしっとりした楽章より3楽章のようにリズム、律動だけの音楽の方がパワーオケの特質をよく示しており楽しい。4楽章の遅さ、しゃっちょこばった表現はストコの解釈なので仕方ない。おかしなバランス、作為的なルバートも全部ストコをストコたらしめているものだ。メンゲルベルク同様、必然性などあまり考えないほうが良い。この時期にこの録音なら満点だろう。ラストまで普通ではない。音楽として楽しめるかどうかは趣味次第。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(victor)1925/5/15・SP,,ストコフスキーの新世界78回転盤はwebで三種ほど聴くことができる。これは最初期のもの。意外と固い演奏に聴こえる。部分的に時代がかったテンポルバートがかかるがストコフスキーにしては少なく(それでも四楽章になると極端な表情付けの面白みが出て来る)、そもそも当時の演奏様式的にはおかしくはない気もする。この固さ、おそらく録音を意識していることは間違いない。当時の採録技術にあわせた計算ずくのものであり、ここまでくっきり曲が「露わに」聴こえるというのは、そういう演奏解釈である前に、記録として残す目的で残したい音を強調し、残したいアーティキュレーションを強調し、弦など人数を絞っているのに他の楽器にひけをとらなく聴こえるのはまさに、電気録音最初期(ほんの数ヶ月前導入!)のマイク前の配置方法や楽器など工夫の結果だろう。生々しく奏者が目の前に密集しているような、むしろ機械式録音のような音になっている(ただ「圧」は全く違う、また二年後の録音は通常のオケで録音したようで却って音が遠く拡散してしまいノイジーに聴こえる)。もちろん演奏技術的なメリットもあり、記録されやすい音を出す奏者や奏法を選んでいるだろう。ストコフスキーは「録音芸術」の先駆者の一人だ。固い固いとはいえ聴衆に対する「効果」を第一に考えているからこそ、この時代の録音では「整える」意識が強くならざるをえなかったのだ。アメリカということで同曲は好んで演奏されてきたわけで、今の耳からすると大袈裟にすぎる「操作」は人工的であってもどことなくこなれてしっくりくるところもある。ドヴォルザーク自身が機械的なスコアリングをするので、デジタルな操作がしやすくできていることもあるか。四楽章を除けば、のちのちのストコフスキ録音よりまともに聴ける人もいるのではないか。もっとも、ニュアンスや音色などまったく聴き取れないので、そこが無い状態でよくここまで聴かせる音楽にした、と思うところもあり、それらの要素が録音可能となった結果、耳障りな演奏に聴こえるようになっただけで、演奏の本質は変わっていない。と誰かが言っていそうだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(Victor)1927/10/5・SP,,webで聴ける(パブリックドメイン)。初期電気録音とくらべこちらはほぼフルオケの一応通常配置で収録したと思われ、レンジも比較的広く、空間を感じさせる。艷やかな音、その綾、フィラデルフィア管弦楽団の本領がやっと掴めた感じである(なぜか木管には棒吹きでデッドな音を出す人もいる)。しかし当時の録音技術の限界だろう全体の響きが茫洋としてしまい細かなノイズがのってしまう点、ヘッドホンで聴くと却って聴きづらくなってしまった感もあるが、そこはヘッドホンを使わなければよい。細かいアーティキュレーションがデジタルではなくアナログな自然な流れのうえでスムースに聴き取れる。横の流れが大事にされて、前回のストコフスキの、シェルヒェンのような人工的な、ブロックを積み上げるようなところが鞣されて、通常ではこちらを本当のストコフスキーの解釈表現として受け止めるべきだろう。トスカニーニ的な力強い解釈は時代性か、それでも細かな表情付け、さらにはその中にストコフスキーらしい(奇妙な改変も含め)個性が耳を惹く。やはり四楽章に恣意性が強いが前回録音ほど極端なところはほとんどなく、違和感がない。なかなか、これでやっと「普遍性をもった新世界」になった、という録音だ。オケの迫力は言わずもがな。当時としては新しいデロデロしたところの少ないモダンで技術の洗練された感じである。瑕疵もない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○ストコフスキ指揮ヒズ・シンフォニー・オーケストラ(CALA他)1947/12/10・CD,,1楽章は素っ気ないインテンポでさっさと終わってしまう。少々の不思議なテンポルバートも殆ど効果を発揮せず、味気ない。だが2楽章は陰影があり、非常な思い入れが感じられる。全般、低弦と木管ソロの音色が美しいが、やはりコール・アングレに拍手だろう。音楽は常に流れを無視したかのように止揚するものの、それほど違和感がないのは、この演奏が全体として即物傾向を維持しているせいだろうか。終楽章はやや作為的にテンポを落として始まり、フィナーレとしてのバランスをとっているようだ。ちょっとバラケが感じられる部分もあるものの、作為的な解釈においてもそれほど乱れは意識されず、ドヴォルザーク特有の弦の刻みのキレがよいのが清清しい。ゆったりした感傷的なフレーズではやはり思いっきり「作為を篭めて」歌心を示し、録音としては好悪はあるだろうが、一回性のライヴとして聴いていたらきっと感動できたであろう。終盤、少し違和感のある「重ね」が聴かれるがご愛嬌。何故か即物的なアッチェルのままにあっさり終わり。ちょっとアメリカオケとは思えない、ヨーロッパオケ的な奏者表現や音響バランスを感じるが時代柄だろうか。ストコらしさという意味ではちょっとニュートラルに振った部分はあると思う。録音は放送ライヴ並みの悪さだが40年代なので仕方ないか。○。久々の復刻では。,,"","Dvorak: Symphony No.9 ""New World""; Schubert: Rosamunde", Tyrolean Dances / Leopold Stokowski and His Symphony Orchestra,"","",-----,,,-----,,,-----,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),ストコフスキ指揮ニュー・フィル(RCA)1973/7/2,4ストコフスキー晩年の録音だが、自然な抑揚にしたがい歌う所はたっぷりうたわせる前半楽章は感慨深い。以前の録音にくらべなだらかになっているぶん聴き易い。2楽章の感傷的な雰囲気に心動かされた。4楽章は以前の録音よろしく独特の伸び縮みするテンポに従い多分に恣意的ではあるが面白いストコフスキ・ワールドが展開されていく。この楽章にかんしては何十年も前の演奏とあまりかわらない表現となっている。オケが巧くつけており秀逸。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),ストコフスキ指揮フィラデルフィア管(私家版)1934/10/22ストコフスキがフィラデルフィア管弦楽団を振った録音のうち最後のもの。音質はこの時代にしては格段に良い。ストコフスキは颯爽とした指揮ぶりで、ごく一部の超恣意的解釈を除けば案外聞ける。この盤では2楽章がなかなかよかった(しかし中低音域の分離が全く悪いのでその点割り引かなければならないが)。終楽章冒頭の大ルバートには唖然。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,ターリッヒ指揮チェコ・フィル(supraphon)1954・CD,,だいぶ音質の良いほうである。解像度もあり、ターリッヒの勢い良くも丁寧な彫刻ぶりが味わえる。二楽章の注意深い音楽はターリッヒを特徴づけるものとして聴いておいて損はない。どちらかといえばロシアオケに近い不格好さ(ブラス全般が強すぎてホルンの音程が安定しない部分がある、木管も楽器によって表現の巧拙が如実に出てしまっているなど)と強い合奏力を兼ね備えたチェコフィルの特性を活かすとともに、中欧に比肩しうる技術の充実をはかり、演奏には客観的な視点も持ち込んでフォルムの明確さ、解釈浸透の確度を上げるとともに、ミュンシュ的な色気というか、適度な華々しさも感じられる。四楽章はスピード面で冒険は無いが確かな合奏力に裏付けされたディジタルな変化、チェコフィルならではの民族的な香りのするリズム感、派手なブラスや弦楽器のひびきの反面、メカニカルな楽曲構造も良くわかる磨かれた演奏で、録音状態が比較的良いのは救いだ。緩徐部でのテヌート表現の味わい、繊細さは、周到な二楽章とともにこの指揮者が勢い任せの人ではないことを証明している。そこからのコントラストでラストのスケール感と派手さが際立っている。新世界を世俗音楽のイメージから一歩引かせた良演。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○ターリッヒ指揮チェコ・フィル (biddulph)1941 supraphon盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),ターリッヒ指揮チェコ・フィル(archipel records)1949-50このあやしい廉価盤、ロストロのチェロコンも収録されているが、そちらは欠落があるという大失態。擬似ステレオでムリヤリ音をよくしたせいか、この「新世界」は案外聞ける。たぶん原盤は49年盤だと思うが、いちおう49から50年という表記をしてあるのでここでは別掲した。ターリッヒの音楽を誤解する可能性もあるが、くりかえしになるが、「聴ける」演奏である。引き締まったまとまりのある演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),ターリッヒ指揮チェコ・フィル(supraphon)1949ターリッヒの棒は驚くほど現代的で、そつのないものだ。ともすると鄙びた雰囲気をかもしかねないチェコ・フィルをよく統率し、都会的な洗練をあたえている。チェコ・フィル中興の祖としてもっと聞かれても良い指揮者だが、レパートリーが自国のものに限られているため(少なくとも録音はそう)、一般的な知名度は低い。のこされた録音の古さも影響しているであろう。ステレオ初期まで生きていれば、評価は違ったかもしれない。ムラヴィンスキーがドヴォルザークに手を出さなかったのは、このニキシュ譲りの指揮者ターリッヒがいたから、という話がつたわっている。決して腕の無い指揮者ではなかったのだ。さて、ターリッヒの「新世界」だが、娯楽的要素はすくない。3楽章などのリズム要素に魅力的なスパイスが加えられているのを除けば、テンポはあまり揺れないし、音も(ときたま田舎っぽい匂いをさせることもあるが)とくに魅力的なわけではない。録音も古いし、正直お勧め盤にはできないものだ。だが、この「新世界」がまるでごてごて飾り付けられたデコレーションケーキのように演奏されていたときに、このような禁欲的演奏がなされていたことは注目に値する。歌詞までつけられたりした2楽章ラールゴは、ここでは明るく清澄な空気の中で静かに語られる遠い日の物語のように響いている。それは望郷の念というよりは諦念に近いものなのかもしれない。それは解釈のせいというよりはチェコ・フィルの出す音のせいかもしれないが、良く聞けば、そういったところに独自の色を感じ取る事の出来る録音である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),ターリッヒ指揮チェコ・フィル(supraphon)1954/9,同前掲,1949年の演奏を前に挙げたが、41年と54年の2盤はその前後に録音されたもので、とくに後者は音がとてもいい(モノラルではあるが)。しかし、ここで比較してみると、渋い後者より、いくぶん情緒的な表現のおりまざる前者のほうが魅力的に感じる。ビダルフ盤の録音はサイアクだが、ムラヴィンスキーのごく若い頃の演奏のように、意気軒昂なところがいたるところに聞き取れて面白い。逆に50年代の2盤はムラヴィンスキーの後年の演奏のように、とても巧緻で完成度が高く、玄人好みなところはあるが、”大人”すぎるのだ。隙がなさすぎる。ムラヴィンスキーはともかく、ターリッヒの無名性は「渋すぎる」というところに起因している気がする。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル(mphil,BRllassik)1985/6/16live(24日とは別か)・CD,一楽章の遅さ、もたつきにイライラ。ミュンヒェン・フィルも慣れていない感がある。もやっとしてしまう響きがある。この曲についてはチェリはもはや最晩年様式といっていいかもしれない。プロコフィエフのような精妙な和声、複雑な構造を聴かせるならこのじっくりとやるやり方は良いと思う(どっちみちリズミカルな部分は駄目)が、二楽章も最初と最後と中間部こそチェリらしい凄まじい美しさだが、どことは言わないがここでそんな遅速でやるか?というところがあり、そこで音楽に大きな起伏がつくのに、起伏がつかず、最初から最後までただののんべんだらりとした美のみだった。三楽章、四楽章は良い録音のおかげで迫力があり、コンヴィチュニーらの世界に近づいている。四楽章は粘り腰の表現などチェリが解釈的に感情的だったころの香りが残る。フィナーレの巨大見得を切るあとは沈黙、ブラヴォ。これはホールで聴いた者の特権だろう。そこまでの凄さは伝わらない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),◎チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(GREAT ARTISTS:CD-R)1978/10/17LIVEじつはチェリの新世界がやたら聴きたかった。というか、ドイツ系の演奏を聞きたかったのだ。しかし、ひところの海賊盤氾濫時代に手に入れ損ねてしまい、今、泣く泣く4曲詰め合わせの4枚組みCDーRを買ったわけである(但しセール中でちょっと安かった)。・・・そして聞いた。おー、最高!無茶苦茶面白い。とくに音量操作が凄まじく、蚊のすすり泣くような音から天地に轟く轟音まで、あまりに広いレンジ幅に、音量ボタンの操作が難しい。録音はじつによくとらえられておりとても良い。1楽章冒頭はほとんど聞こえないほどの小さな音で、低弦が前奏を奏でる。そこで突然、ホルンの咆哮で目覚め、次第に轟音の世界へと近づいてゆく。弦が強奏で下降音形を弾くパッセージから、構成感のしっかりした曲構成が見えてくる。ドイツ風の堅牢な型式感を保っているさまはコンヴィチュニーを思い出させる。しっかり計画された構築的演奏、やはりチェリだ。1楽章はとにかく音楽の流れに身を任せよう。テンポはやや遅い程度でそれほど極端に変化があるわけではない。ときどき物凄い急激なダイナミクスをつけたり、極めて短いパッセージにテンポ・ルバートをかけたりするところが面白い。これは2楽章の木管ソロでも聞かれる。しっかり表情付けをされた音楽はチェリにあるまじき情緒的な雰囲気さえ醸し出している。弦合奏でもやはりいくぶん人工的な強い表情付けを施している。この楽章で面白いのは中間部の最後で木管合奏により朝のように明るい曲想が立ちあらわれる場面。異常に遅い。雄大と好意的に解釈できなくもないが。コンヴィチュニーはどうだったかな??三楽章は、とにかく、気合だ!!吠えるチェリ!!緩徐部も引き締まっている。四楽章はチェリにしては速め。一般的速度だ。主題が展開していくところで弦に異様なダイナミクスが付けられているところがある。第二主題でも、弦にナゾのディミヌエンドが。。管楽器はおしなべてハッキリした発音を行い快い。クライマックスではかなり作為的なテンポ操作がいくつか入る。最後にチェリの怒号!!コーダは快速で、締め!!拍手はカットされている。じつに個性的な新世界、小さくまとまる演奏の多い中、やはりチェリは凄い。私はとても満足しました。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○チェリビダッケ指揮交響楽団(ROCOCO/audior?)?LIVEオケが巧く非常にまとまった完成度の高い演奏だ。ライヴであるにもかかわらずオケのミスはまったく認められず、指揮者のティー!というかけ声の他に鑑賞を妨げるものはない。オケの音からしてシュツットガルト放響か?既出の盤とは違うとの触れ込みで聴いてみたが、スタイルは同じだが、演奏はやはり違うもののようだ。まったくルバートしない率直なテンポにしっかりとした音響を載せていき、はじめのうちはもうちょっと歌えばいいのにと思うが、次第にこれでなければと思わせる説得力は大したもの。没入方演奏を好む方は敬遠すべきだが、ストレートで奇をてらわないやり方は余りこの曲が好きではない人にもアピールすることうけあい(ただ、モノラル)。4楽章の威厳を保ちながらも勢いのある音楽は必聴。録音マイナスで○ひとつ。他盤と同一の可能性あり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(CULT OF CLASSICAL MUSIC/RE!DISCOVER ENTERPRISE:CD-R他)1985/6/24liveチェリ・ミュンヒェンの「新世界」はやたらと遅くて独特の深い読みが凄絶、という評を前に読んだ事があるが、そう取り立てて言うほどの個性は感じない。チェリ晩年のシベリウスやチャイコフスキーなどと同じやり方が施されているだけだ、この曲に限ったことではない。遅いテンポ、でも2楽章の中間部で木管が華やかなアンサンブルを繰り広げる場面が際立って遅いと感じた以外、それほど遅速が目立つ場面はないように感じた。まあ、50分はかかっているのだから実測上は遅いといえるのかもしれないけれども、音楽的に遅いとは感じない。客観解釈の演奏としてはフツウな感すらある。構築的な解釈はホーレンシュタイン盤を思い起こさせるが、あっちのほうが個性的だ。こちらはもっと素朴に、各素材を素材のまま並置して、全体的に大きくとりまとめていく感じだ。だから分裂症的に聞こえるだろうし、その「大きさ」ゆえに圧倒的、という感想も呼ぶのだろう。まあライヴなのでそれ以上の深みを求めるのはお門違いかもしれないが、ハッキリ言って、前評判だけの見かけ倒し、といったところか。ブラームスとの類似性があるからといって、ブラームスが得意な指揮者が巧いとは限りません。素直にクーベリックを聴きなさい(笑),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,プレートル指揮ORTF(ina)1960/11/22live,,覇気に満ちたメリハリしっかりの演奏で、壮年期プレートルの力強さを実感できる。荒っぽくすらある。ロマンティックな起伏をスムーズに付けるタイプではなく、デジタルに強弱をつけテンポはそれほど揺らさない(アンゲルブレシュトというかシェルヘンのセッション録音のような醒めた解釈)、四楽章冒頭などまったく粘らず前の楽章とギャップがすごい。響きはオケ元来のものもあって明るく拡散的であり、フランス流儀の国民楽派交響曲の演奏の範疇にもある。ただその意気にオケがついていけているかといえば、三楽章は「失敗」であり、崩壊ぶりがドヴォルザークの厳しいリズム表現に慣れない感もあたえる(これはinaがAmazonデジタルミュージックで配信している音源で聴いているが、ラインナップの中にはシルヴェストリの新世界(EMI(warner)旧録1957/7/9,12(or12/9-11)新録1959/10/20,23(過去記事参照)ina他1959/3/12liveの三種)があり、演らなかったわけではない)。フランセ自作自演のピアノ協奏曲などのメインプログラムとして演奏され録音された。終始ナレーションが入り、一回性の放送用と思われ、クリアなステレオだがホワイトノイズが乗り音質はあまり良くない。耳が痛くなるような雑さがある。,,"EMIが権利を持っていたパリ管との1970年セッション録音は2008年にタワレコが独自企画で1000円CD化した(カップリングはこれも中古レコードで珍重されたワイエンベルクとのラプソディーインブルー(1965年音楽院管表記)…わたしもEP持ってる)。2016年9月現在もタワレコ自体には新品在庫がある模様。一部で人気だったプレートルの国民楽派の演奏を楽しめる。オケの性向からブラスの活躍が目立つ。
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,プレートル指揮シュツットガルト放送交響楽団(WEITBLICK)1996/10/14-28live・CD,,弦楽器を中心とした迫力はこのオケ本来のものだが、トゥッティのちょっとしまらないボワッとした響きはホール残響など録音環境面の問題も大きいだろう。どう切り貼りした記録かわからないが、演奏精度的に単に楽章単位にやっていると思われるのでそこの問題は無い。演奏解釈的にはエキセントリックな部分含めやはりドイツ系ではなく、シルヴェストリなどのそれを思わせる。木管楽器の響きが良い。二楽章も良いが三楽章中間部のノリはなかなか愉しい。環境ノイズ含めいささか雑味はあるがライヴだから、アタッカで四楽章に突入するときの勢い、前のめりで高速インテンポ即物主義的で特徴的だ。流れてしまっているだけかもしれないが第二主題で落ち着く。そこからのヴァイオリンの熱情は冒頭の乱暴な勢いを何とか明確なテンポにはめてグズグズにならず済んでいる。細かい装飾音や内声の動きが明晰に聴こえるのはプレートルの芸風以上に録音の良さによるか。弦楽器ばかり前面に立つのではなく弦楽器を包み込むような管楽器のスケールの大きな表現がこの演奏全体のスケールをも大きなものにさせている。途中低弦から提示される主題は感情を煽る憧れに満ちたボウイングが素晴らしく、そこからのホルンは危ういものの破壊的な主題回想からマーラー的な静謐、そして破天荒なクライマックスに至る。肯定的な解決をみる和声、キレの良いリズムで完結。これはもうライヴだからこその振幅で、いまどきの同曲の演奏には珍しいようにも感じた。保守的な聴衆なのか、拍手は普通。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,プレートル指揮パリ管弦楽団(ERATO/EMI/warner,icon)CD,,後年よりかなり慎ましやかではあるが主として内声に独特の解釈が施され、音符の長さが長めに取られたり、響きが妙に雑(これはオケの力量の問題か)、さらさらしているかと思えば急激なリタルダンドをかけたり(四楽章ではポリリズム化寸前のテンポ感の極端にずれた場面がある)、表面上音色が変わらないのでわかりにくいがしっかりアゴーギグをつけている等、シルヴェストリには敵わないものの個性は感じ取れる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,プレートル指揮パリ管弦楽団(SLS)1970/4/16live,,両端楽章が良い。一楽章終盤の瞬間湯沸器的な激情、四楽章の意外と言っては何だがフランス的でないまっとうさ(ライヴなので感情で前に流れるようなスピードはあり、終盤アッチェルして瞬間ルバートを交える部分は面白い)、プレートルのエキセントリックな面はここのみであるが、LP期にマニアが親しんだプレートル流国民楽派の演奏であり、解釈に変化はないものの、記録としての価値はあるか。音はステレオでSLSにしては良いが、ほかのRレーベルと比べると普通というか、撚れてる方。オケがバラバラ感強めなので録音感自体はそこに吸収されてしまう。フランスを代表するオケとして設立されたにしては…である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,マルコ指揮デンマーク国営放送管弦楽団(danacord他)CD,,古いSP録音だがデンマークでの記録としては著名なものである。マルコはショスタコーヴィチの1番初演でもわかる通りロシアの指揮者としては古い世代に属し、教師としての名のほうが著名だったせいか演奏のほうも「教師的」でオーソドックスなきらいはあるものの、この演奏のように「必要十分な迫力」をしっかり描き出した佳演もある。3楽章中間部の舞踏リズムなど、客観性の勝りがちなニコライ・マルコにしてはよく煽っている。海外活動ではデンマークとイギリスでのセッション録音のみよく知られ、その多く(はない)がLP以前のノイジーなものなので、灰汁の強くないスタイルなだけに「大人な」本質の伝わりづらいところからだろう、この盤も発売直後より中古CD二枚組で500円レベルを維持しているし、Amazonデジタル配信では最安値ランク、300円ほどである。ただ、ロシア指揮者の伝統といっていいだろう細部の統制のアバウトさを除けば、あとノイズを除けばけして悪い演奏ではなく、個人的には楽しめた。ライヴに突然凄い演奏のある(稀)指揮者なだけに、侮れないところである。4楽章も変な改変なく満足して聴き終われる。悪くはないのだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,〇マルコ指揮フィルハーモニア管弦楽団(DECCA他)1956/2/16、17・CD,,古い録音(ステレオ初期)のせいかぼんやりして安っぽい。でも落ち着いた重心の低い演奏ぶりはマルコらしい実直なもので、オケコントロールはしっかりしており、滅多に揺れないのはドイツぽい(ロシアだが)。とにかく木管が素晴らしい。フレージングが人工的なところは多分指揮者の指示によるのだろうが時折独特で面白い。ほんらい奏者任せで歌わせるところを歌い方まで譜面に書かせてそのとおり吹かせているかのよう。全般にオケの音色の美しさが際立っており、はっきり言えば詰まらない解釈をオケの力で随分押し上げている。細部まで手を抜かない真面目なスタンスを彩るのはイギリスらしいパステルカラーだが、このくらいのコントロールされた響きを実演で聞いたら余りの心地よさで眠りこけてしまうだろう(私はきっと唖然としたままである)この「録音オケ」の最盛期ならでは、真骨頂。二楽章の人生すら考えさせるような音世界の静謐さは激しい演奏ばかり聞いてきた者には結構印象深い。全般にも静謐な表現の際立った演奏だ。三楽章は弦などパワー不足は否めないがアンサンブル能力やノリは素晴らしい。速い。流れるようなテンポ廻しの妙は中間部(副主題、緩叙部)で味わえる。四楽章も落ち着きはらったものだがオケのアンサンブルは完璧だ。スコア片手だと愉しめるか。ヴァイオリンのフレージングの揃いが甘いが(本数が少ないのか?)録音位置の関係でそう聞こえるだけだろう。最後はけっこうドイツふうに盛り上がる。ホルンが心根深い音で大団円前の回想を演出する。全般あまりにマジメ過ぎるが印象深い演奏だった。〇。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,ロナルド指揮ロイヤル・アルバートホール管弦楽団(HMV)1919/11/1・1921/9/8,11/29・SP,,世界最古の新世界として知られるが同人何度か部分録音しなおしているようで、これはその中でも一番古いものをまとめたものと思われる(未確認なので確証なし、データによると「21/4(TU)、22/1、21/11/29」というのがある。2楽章冒頭は22/12/6に録音しなおしているとのこと。最後にアンコール的に変な編集曲があるがこれがそうなのか不明)。ラッパ吹き込みのために編成を極度に絞り(弦楽器はまるでアンサンブルだ)収録可能時間にあわせて無茶なカットを多用(3楽章のみカットなし)、演奏スタイルもまるで機械のようにしゃっちょこばり、恐らくこれも収録時間の都合上、無理にテンポを速めのインテンポに揃えている。聴くべきところはヴァイオリンの甘いポルタメントや案外まともな管楽器陣といった細部個別になるだろうし、まったく感情のない2楽章など緩徐主題の聴こえ方の酷さはもちろん指揮者の本意ではないだろうが、苦笑を禁じえない。統率の甘さというより編成を無理に絞ったために雑味が出たと思われる節もある。ノイズの酷さもあってとても勧められるものではないが、骨董品としては価値はある。この音源はWEB上で研究用として流通している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」〜U.抜粋,ストランスキー指揮NYP(columbia/sony)1917/1/22・CD,,SP(市販初出)をNYP175周年記念ボックスでCD化したもので最古の記録の一つになる(同ボックスは残念ながらほとんどがLP,CDの復刻であるが最古期のものに数トラック程度聴きものがある(トスカニーニの運命ライヴと近年のコステラネッツの秘曲のみが市販レコード化されていない完全初出、メンゲルベルク最古のさまよえるオランダ人は訂正が入り市販SP化していたことが判明))。今までのディスコグラフィ上では同年10月の録音をNYP最初のものとしているが本復刻は2017/3であり、データ不備の可能性もあるが、こちらのほうが古いとみなせる(この時代の録音日は正確な記録がない場合もあるのでNYPの全面協力のもと復刻した今回版元の最新データを信用すべきだろう)。世界初演オケとして最古の記録というのもいかに同曲がアメリカに歓迎されていたかがわかる。NYS合併前のNYPとして後年のオケとは同等とはみなせず、今のイメージと違い凡庸な面もある。休符を詰め、テンポ感がやや性急で前に行くのはアコースティック録音の制約だろう。それにしてはよく音が拾えている。音色はよくわからない。ノイズは一か所でかいのが入る。マーラーの直接後任の貴重な録音として好きものは聞いてもよいか。転調前に終わる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○ヴァーレク指揮プラハ放送交響楽団(canyon)1997/1/17-20終始明るい響きの中に様々に明滅する旋律の連環をゆったりと楽しもう。円熟期をむかえたヴァーレクと手兵プラハ放響(これがまた透明感にあふれる明るい音で美麗のきわみ)のおりなす繊細な音世界はラールゴにおいてとくに如実にあらわれている。最後の弦楽四重奏のこんなに甘く美しい演奏を私は知らない。ここで聞かれるのはアメリカ音楽ではなく、かといって国民楽派のそれでもない。あるのはただただ美しく響き合う音の群れだ。聞き込めば聞き込むほど味の出てくる演奏である。スケルツォの決然とした演奏とのコントラストが素晴らしい。そのスケルツォもただ速いだけではなく、細かな表情付けがなされているのがわかる。音の透明度が高いため、主題と主題の継ぎ目で木管が不思議な音符の交換をしているところがわかり、ちょっと現代的な響きに聞こえたりしていて面白い。この楽章、けっこう飽きるものだが、この演奏はよくまとまっており秀逸だ。終楽章は弦の序奏のあとのブラスの咆哮がいきなり巨大にとられており独特。この録音、やや弦が遠いかもしれない。率直な解釈は決して踏み出さず節度があり、きっちりしている。オケが演奏しやすそうだ。最後の壮麗なフィナーレはただただ大きく、美しい。たしかに個性的なところは薄いが、現代の名演として記憶しておくべきものかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○クリップス指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団(CONCERTO HALL SOCIETY)クリップスらしいスマートで粋な演奏だ。スピードが全般にかなり速く、爽快な疾走感がある。ドヴォルザークの野暮ったさや民族的色彩は皆無。それを良いととるか悪いととるかは趣味によるだろう。私はとても聴き易かった。恣意的な表情をまったく出さないため、ほんのちょっと表現が揺れただけでも凄く印象が強く感じる。ふと短調の旋律が主として木管から提示されるときに、注意深く少しスピードを落とすところなど、恣意的指揮者が思いっきりデロデロに粘着するよりもよほど効果的だ。またこの木管ソロがほのかに感傷性をかもすとても繊細な色を帯びてひびくところなど、クリップスの巧さが光る。ジャケットのセピア色がまさにこの音色に通じるものがあり感慨深い。1楽章第二主題やとくに2楽章など(短調ではないけれど)、心動かされるものがある。強烈さはないが佳演といえよう。オケは個性に欠けるがよく表現できている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(WEITBLICK)1967/11/14LIVE・CDモノラルであるのが惜しい名演だ。迫力ある演奏。突き刺すような音の厳しさ、速いインテンポで綴られるアグレッシブな表現の連続は聞く者を否応なく引き込むものがある。起伏がないハイテンションなだけの演奏かといえばそうでもなく、表現上の繊細で微妙な揺らぎによりドラマティックな音楽を作り出している。2楽章のマーラー的なまでのダイナミズムには慟哭と諦念の入り交じった感情の発露がごく自然な流れの中に聞いてとれる。歌心ある表現も意外とケーゲルの得意とするものだ。舞台上の緊張感が客席にも伝わっている。4楽章はテンポ変化も大きくとられ大見栄を切るような表現もありエンターテイメント性すら感じる面白い演奏。ブラスがやや非力に感じたが弦楽器はつねにハイテンションだ。技術的にも巧い。全般に聴くものを飽きさせない創意に満ちた演奏で、録音マイナスがなければ◎のところだった。ちなみに私はこれを2枚買ってしまった。それほどいい演奏でした。(じつは間違えただけ)安いよ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○ケルテス指揮ウィーン・フィル(london)1960 じつはこの演奏について、最初は「あれ?」という聴後感だった。某U氏の高評やその他前評判の高さに期待していただけに、肩透かしをくらった気分だった。そう、紛れも無いウィーン・フィル盤の話なのであるが、オケの凝縮力が弱く(テンポも遅め)、どちらかというと外へ向けて開放されたような表現が、どうもアンサンブルや音色の粗さを呼ぶものになってしまっているような気がした。無論ウィーン好きの方にとってはその美質がいたるところに顕れた非常に興味深い演奏に感じるだろうが、それにしてもばらついた感じが残って仕方なかった。たとえば終楽章、ヴァイオリンの三連符の旋律が通常「とばし」でやるところ「ベタ弾き」されていたり、なんとなくだらしなさが感じられた。一方、ロンドン響の演奏を聞いてみて、また「あれ?」という聴後感をおぼえた。こちらのほうがどうもしっくりくるのである。いわばオケがケルテスという色にすっかり染まり、自然に、かつ緊密に演奏を行っている。一楽章の提示部が繰り返されているのにも驚いたが、きちんと整えられた演奏は少々冗長でも聴き続ける事が出来る。これは良い、と思った。さて、両方聞いた感想は、はっきりいってあまり特徴的ではない、平凡だという感想だった。しかしこれではあんまりだ、皆さんが推薦するだけのものがきっとあるに違いない。そして私はさらに各3回、聴くことにした。・・・長かった。だが、ひとつわかったことは、このふたつの盤はまったく異なる視座から演奏されたものであり、違うものとして扱うべきだということ。そして、ふたつめには、余りに自然に溶け込んでいるために耳に止まらなかった、様々な解釈の「仕掛け」が存在していること、恣意性がまったく感じられないほどに板に付いた演奏の凄味。数々のソロ楽器が、じつに表現的なニュアンスをもって歌われており、その集積物としての「アクの強さ」のようなものが、ウィーン盤の「粗さ」という聴後感に影響していたのだということ。ロンドンの音は無個性的であり、その点で指揮者の解釈をダイレクトにうつしやすかったのかもしれないし、聴き易かったのもそのせいであろう。・・・というわけで、どうしようかと思ったのだが、とりあえず両盤に○ひとつずつあげることにした。個人の好みという点ではロンドン盤に◎をあげたいところだが、現状保留としておく。また書き換えるかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○ケルテス指揮ロンドン交響楽団(emi)1966 london盤(ウィーン・フィル)評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○スメターチェク指揮プラハ放送交響楽団(PRAGA)1974じつに民族色溢れる演奏だ。集中力のすこぶる高い演奏ぶりはスメターチェクの確かなコントロールを感じさせる。この演奏は各楽器の強調された表現を聴く楽しみがある。ブラスの開放的な咆哮、弦の気合の入った音色、繊細な木管楽器の表現、打楽器の痛烈な打撃。終楽章などかなりテンポが揺れるが、全般解釈的には奇をてらわずスタンダードであり、これほど独特の音表現をしていながら新世界の代表的名盤とされていることも納得できる。ロシア人がロシアもののオーソリティであるのと同様、スメターチェク・プラハ放響はチェコもののオーソリティと言ってもいいだろう。チェコ民族楽派系演奏として記憶しておくべき佳演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),セル指揮クリーヴランド管弦楽団(CBS)1960初出 抑制の効いた演奏ぶりで、録音は良いものの個性的なものは薄い。しかし表現は確固たるもので、模範的な演奏ともいえる。セルならではの「洗練された土俗的雰囲気」が伝わる3楽章、表現にはじめて幅が出て情趣たっぷりにうたわれる4楽章の後半楽章がききものだ。セルはドヴォルザークのスペシャリストとして知られるが、その魅力は聴き進むうちにじわじわと伝わってくるたぐいのものである。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○テンシュテット指揮ミネソタ管弦楽団(SIBERIAN TIGER:CD-R)1981/1LIVEとてもしっかりした演奏でびっくり。終楽章くらいしかデフォルメはないが、いい意味でアメリカオケの特質〜明るく固くブラス鳴り捲り〜を引き出して自ずの堅固なドイツ風解釈を増強し、結果としてとてもテンションの高い迫力ある演奏を導き出すことに成功している。このオケとは思えないほど締まってカッコよく、奇をてらうことはないが、独自の硬派な世界は面白く聞くことができる。解釈的に地味でも演奏は気合が入っているから面白いのだ。とくに地味な2楽章も涅槃的な面白味があり、3、4楽章は感情を煽るのには十分な表現ができている。オープンリールステレオテープ録音、とあるが確かに堅く冷たい感じのする録音ではある。でも極めてクリアで分離もいいから、耳が疲れるかもしれないが、鑑賞に支障はない。テンシュテットのドヴォルザークでは一番いい演奏だと思う。でも○。だってやっぱり普通は普通・・・。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(GOP)1953/1/31 NY LIVE 不意に出た晩年のライヴ集から。「イタリア」と「ドン・ファン」(1954/2/28LIVE)ウェーバーの序曲ふたつにこの新世界、最後に展覧会の絵(1953/1/24LIVE)という豪華な組み合わせの二枚組みである。やはり今まで出ていた盤とは音質に差があるが、あまり補正していないライヴならではの迫真味はある。この新世界も十全な録音ではないが興味深く聞ける。1楽章はとにかく速い、そして軽い!冒頭からいきなり駆け出してまったく緩まず高速一直線なさまには「ヲイヲイ」とツッコミを入れたくなるが、穏やかな序奏部を断ち切る低弦の動機を強烈な力感でドン、とやるあたりから、おお、という感じで引き戻される。さすがトスカニーニ、異様な気合い、異様なテンションは健在だ。2楽章はあまり印象に残らなかった。3楽章は作為的な擬似ステレオ効果が加えられている箇所が有り、ちょっとうざい。最終音の残響がぶちっと断ち切られているのも興を削ぐ。演奏的には決して悪くないのだが。4楽章はかなり聞ける。三つめの長い緩徐主題から四つ目の力強い主題へ盛り上がっていくところ(わかりにくくてごめんなさい(泣))、旋律を歌い続けるヴァイオリンがトスカニーニらしからぬポルタメントを思いっきりかけて歌っている。この演奏全部を通じてそんな情熱的な歌いかたをしているのはここだけである。感動。もっともあまりに長く旋律を歌い続けるために後半息切れしているのはご愛敬。比して木管ソロは悉くデリカシーの無い棒のような発音をしている、これはトスカニーニの指示か??でもアンサンブルはしっかりしているからいいのだろう。総じて録音は悪いし雑味はあるがかなり聞ける演奏として○をつけておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),◎トスカニーニ指揮NBC交響楽団(rca)1953/2/2名演!音も許容範囲。ドヴォルザークの雄弁な音楽がそのままに響いてくる。感動してしまった。2楽章はやや潤いに欠けている気もしなくもないが、3、4楽章など聞き入ってしまう。ぜひ一聴を!,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R他)1939(38?)/11/5(1939/11/5?)LIVE,,冒頭途切れあり。超ドライなインテンポ高速演奏だが音密度が高く、重くて力強い流れは次第に快感になってくる。極めて即物的で1楽章提示部の繰り返しをやっているところからも古典的形式感を強く意識していることがうかがえる。音のアタックがつねに烈しく、殴り合いのようなアンサンブルはしかし完璧で、音色は艶を失わず魂が感じられる。最後には歌いながら指揮するトスカニーニもかなり納得いっていたのではないか。既出盤の可能性大。DAでは当初39年としていたがのちに品番を変え収録曲の組み合わせも変えて38年とした。2007年ネットで出回っていた音源は1939/11/5とされていたが演目の組み合わせ(バーバー初演など)から同じ音源の可能性が高い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○バーンスタイン指揮イスラエル・フィル(DG)1986/9こんなヘンな演奏、イマ現役の指揮者でできる人はいるだろうか。ワルターら古い時代の呼吸を今に伝える情緒的演奏の権化、晩年のバーンスタインはいい意味でも悪い意味でも唯一無二の存在だった。緩徐主題はデロデロに速度の限界まで歌い尽くす。モールト・ヴィヴァーチェでは狂ったように突き進む。イスラエル・フィルはやや雑味があり、とくに金管の気の抜けたような音にはがくりとくるが、全体的にはまあまあ。ユダヤ系指揮者がユダヤ系オケをなぜかパリで振ったわけだが、ユダヤ的云々の論議は的を外しているように思う。これは前世紀的解釈の末裔であり、バーンスタインという個人の解釈である。晩年のレニーのスタイルを非常に象徴する演奏であり、奇盤好きにはたまらない。新世界のおかしな演奏を聞きたいなら、ストコフスキよりもまずバンスタだ。聴き所は2楽章ラールゴの、異様に横長に引き伸ばされた時間が奇妙な伸び縮みをくりかえしている異次元世界だ。それに深く心打たれるか、なんじゃこりゃと耳をふさぐかは、聞き手の好みによるだろう。私は、この「悲劇的」な趣は悪くないと思った。バンスタというとマーラーと言ってしまうのは単細胞的だけれども、ここでは敢えてマーラー的という言葉を使いたい。その音楽はほとんど死を前にしたものの嘆きであり、諦めである。物すごく深い呼吸でうたわれる「家路」、その先に家はもう無いのだろうな。こんな馬鹿演奏(すいません)、イマできる指揮者(オケ)はいるのか?3楽章の猛突進とのコントラストがまた凄い。1楽章提示部の反復を行っている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),◎フリッチャイ指揮RIAS交響楽団(DG)1953/9 ベルリン・フィル盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○フリッチャイ指揮ベルリン・フィル(DG)1959/10 RIAS盤の圧倒的な力感には唖然とさせられる。トスカニーニを思わせるが、より深く、より強い。弦楽器の突き刺すようなフレージング、丁々発止の管楽器、そしてこの演奏をとりまくなんともいえない異様な熱気。モノラルにもかかわらず、いや、モノラルだからこそ、強く凝縮された音楽が生きて伝わってくる。緩徐部の木管ソロの繰り出す寂寥感も素晴らしい。2楽章の美しい歌は、決して感傷に溺れることなく、そこはかとない哀しみを秘めて歌われる。きわめて緻密な音楽作りがなされており、そのさりげなさもあいまって秀逸だ。スケルツォ楽章はややささくれだったところもあるが、速さにもかかわらずびしりと決まるアンサンブルが恰好良い。ティンパニの打音がばしばし決まるのが印象的。1楽章や終楽章アレグロでは直線的に突き進むようでいながらダイナミックなテンポ変化も織り込まれなかなか聞かせてくれる。その勢いは若干の瑕疵・・・管弦のアンサンブルの乱れ等・・・などまったく気にならないほど強い。また、ドイツの重厚な音が、この演奏により深みを与えていることも特記しておくべきだろう。それはベルリン・フィルとのステレオ録音にもいえることだが、こちらはずいぶんと丁寧で抒情的な演奏で、RIAS盤に溢れる焦燥感のようなものが払拭されている。よりスケールが大きくなったと言えそうだが、演奏に余裕のようなものが感じられ、そこが好悪別れるところかもしれない。個性の面ではRIAS盤に水をあける。だが、耽美的な表現にあふれたきわめて美しい音楽が聴くことができ、その点では優劣つけがたい。初期ステレオの弱点・・・各声部がばらばらに響いてくるような音響的不統一感・・・はここでも聞かれるが、これは気にしてもしようがない。あと、2楽章のテーマを提示するコールアングレのフレージングがとても美しく、印象にのこる。さて、このふたつの盤、解釈のおおまかなところは余り変わっていないのだが、その演奏スタイルがまったく変わってしまった感がある。それぞれの長所があるし、それぞれの短所もあるので、いっそ両方聞いてみていただきたい。素晴らしい記録だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),◎ベーム指揮ウィーン・フィル(DG)1978/5高潔たる名演。非常に目の詰まった緊張感の高い演奏である。テンポはゆっくりめだが、「あの」ウィーン・フィルが少しの弛緩も無く見事に演奏しきっている。とくに内声部の充実ぶりに目を見張った。チェロが非常に大きく響いており、(これは解釈のせいというよりは録音のせいかもしれないが)ドヴォルザークのオーケストレーションにおけるなかなかの手腕を浮き彫りにしており興味深い。純音楽的解釈とでもいおうか、何かを想起させるとか、ひたりきることができるとか、そういう部分は小さいが、この「通俗曲」を、まるでベートーヴェンでも扱うかのように真摯に解釈し演奏している。ベームにしては珍しいレパートリーだが、さすが「狭き門」をくぐってレパートリーに取り入れられたものである、終楽章の表現など、憧れに満ちたフレージング、男らしい強靭な響き、などなど良い点特徴的な点をあげつらえばきりがないくらいだ。最後のフィナーレの壮麗さには心打たれた。これが廉価盤なのだから嬉しい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○ホーレンシュタイン指揮ウィーン交響楽団(vox)1952じつに独特の演奏だ。客観的、そして峻厳といおうか、骨太で無骨な解釈・演奏ぶりでクレンペラーの芸風を彷彿とさせるところがある。これがホーレンシュタインなのだ、と改めて思わせる、個性のあらわれた演奏。ライヴのような緊張感が感じられ、いつ事故るかわからないどきどきするような所もある。テンポは遅めで揺れず、発音は荒々しい。リズムパートの音は思い切り短く切り上げて、タテノリなテンポをがっちり維持させる。歌はあくまでその上に乗せるものと割り切っているようだ。解釈は大づかみだが独特であり、いってみればスラヴ的な部分を排しドイツ・オーストリアふうの西欧的な側面だけを強調しているかのようだ。ふと彼のブルックナーを思い出した。ラールゴが美しい。モノラル。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○メンゲルベルク指揮ACO(TELDEC)1941/4ぎっしり詰まった小さな重箱。郷愁を感じさせる古い音、 しかし其の向こうに垣間見える芯の太さと暖かさに感動。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),○ワルター指揮コロンビア交響楽団(SONY)1959/2ロス・フィルとの演奏にくらべて客観が優る演奏だが、まろやかな味わいがある。オケも(弦が若干薄い感じもあるが)巧く、ワルターの棒にしっかりつけている。コロンビアとのセッション独特の遅めのテンポで、あくまで美しく音を整えた演奏を行っている。とにかく気合が入っているのにもかかわらず自然で、それこそワルター独自の耽美世界といえよう。終楽章などちょっと遅すぎると感じるところもあるが、これは佳演と言っていい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),ワルター指揮ロス・フィル(SEVEN SEAS)1942/7/16LIVE激情の演奏。まったくクラシックを聴いていなかった時期、唯一聞きたくなったのがこの「新世界」だが、渇望する音のイメージに合致する演奏はこのデロデロのロマン節以外にありえなかった。ロス・フィルは下手だが補うだけのききごたえ。但し音が悪いのは愛嬌。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),アノーソフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(VICTOR,MELODIYA)1976初出(1967)・CD,, 1楽章提示部の繰り返しをやっていてびっくり。全楽章終始つんのめり気味の速いテンポは常に焦燥感をあおりオケの雑さもあって独特の奇妙な印象をあたえる。はっきり言ってあまりいい演奏ではないが個性的であることは認めざるを得ない。とくに4楽章は特筆すべき独特の表現に満ちている。序奏部から第一主題へ入るところでの異様なタメ、最後に様々な楽器がリズミカルなフレーズを繋いでいく下降音形の、テヌート気味な独特の弾き(吹き)方。あげつらったらキリがないほど独特の異臭をはなつ終楽章である。録音のせいだと思うが音量的に平板で軽い響きがこれまた奇妙な聴感を与える。これはとても普通の演奏とは言えない。トンデモ盤好きは一聴の価値ありか。普通の人は怒るでしょう。ソヴィエトのドヴォルザーク演奏自体が非常に珍しいわけでもあるが。奇盤。無印。,,2012年CD化したが、抑制的な演奏とのことで万一には別録音かもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),ヴァーレク指揮プラハ放送交響楽団(radioservis)2002/10引き締まった演奏である。音符一つ一つのキレの良さが心地よい。終楽章での大きな盛り上がりの造形はなかなか耳を惹くものがある。また、中間楽章でのソロ管楽器の巧さは特筆すべきだろう。弦楽器もよくまとまっているし、このオケなかなかのものである。全般に明るい色に包まれており、暗く瞑想的な雰囲気はないが、ひとつの「新世界」像であるし、十分にカタルシスを与えてくれる演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),エーリッヒ・クライバー指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団(DG)1929原典主義者のような印象のある指揮者だが、この演奏は独特だ。若きクライバーはロマンティックかつ明るく清新。1楽章、ユックリ目のテンポでいくぶん弛緩の含まれる演奏ぶりは、その中にひときわ特異な表現を際立たせる。対位的に書き込まれたリズム音形の足踏みするような強調など、なかなか面白い聴感をあたえる。テンポは情緒的でかなり揺れる。オケは余り巧くなく、棒にちゃんとつけられていないところもあるように感じる(気のせいかもしれないが)。2楽章の瞑想的な雰囲気はかなりイケている。木管楽器の哀しげなひびきが郷愁をさそう。最後の情緒纏綿なヴァイオリンなど素晴らしい。3楽章、少々腑抜けたような始まりではあるが、音楽はすぐに緊張感を取り戻す。弦が薄いのは録音のせいか。テンポは大半ゆっくりめだが、踏みしめるような発音は面白い効果をあげている。4楽章、やはりやや遅めの演奏で、音を踏みしめるような表現がここでも感じられる。アンサンブルが崩壊寸前になるような箇所もあるが辛うじてまぬがれている。テンポは情緒的にかなり短く揺れ動く。肝心の盛り上がりで録音の悪さが足をひっぱるような箇所もあるが、なるべく想像力を逞しくして聞こう(笑)。緩徐部での深みのある表現は感動的だ。低弦に懐かしきポルタメントが聞こえたりする。全編の最後はやや盛り上がりが小さく少々不完全燃焼気味ではある。全般20年代の記録ゆえ録音はサイアクだが、各楽器の音は比較的明瞭に聞き分けられる。弦楽器の音にもう少し張りがあればより味わって聴けるのだが。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)1963/10,11冷血客観主義のクレンペラーの棒はしかしけっこう主観的というか、独特の音響感覚を持っている。内声部の奇妙な突出(というか音響の調和を無視してすべての声部にあまねく主張させているかのようなやり方)は結果的におもしろいものをみせてくれることがある。これは63年の録音なので未だ最晩年様式には至っておらず、テンポもそれほど遅くはなっていない。そのためいびつな音響の冷血演奏のわりには比較的聴き易い。冷血、と書いたが一種のカタルシスは与えてくれるし、それはとても大きく威厳に満ちたものだ。ブラームスほど板についた表現には至っていないが、19世紀末作品という比較的新しい音楽にもかかわらず、それより100年も前の古典音楽が演奏されているかのような錯覚に陥るところがある。一方、音楽がロマンティックな熱を求めている終楽章でははじめてテンポの意図的な操作(僅かではあるが)が聞かれる。それが満を持してといった感じで恰好がいい。いずれにせよ、これは独特の世界であり、ひとつの見識である。蛇足だが、この演奏は通常省略される一楽章提示部の反復を行っている。クレンペラーの悪い所(意固地なほど客観的)とフィルハーモニアの悪い所(無個性でヤワすぎる音)があわさって、どうにも不思議な新世界ができあがってしまった。ドイツのオケだったらまったく違った骨太の演奏になっていた可能性もあるが。。1楽章の提示部反復を行っていることからもクレンペラーがいつものとおりよくスコアを検討してこの演奏に臨んでいる事が伺えるが、結果非常に愚直でときどき内声部の妙な突出や人工的なテンポ変化が聞かれるだけの珍盤に仕上がった。録音もあまりよくないように思える(バランスが?)。レッグ失敗か?あまり薦められない。ただ、人によっては(情緒的演奏にヘキエキした人とか)目からウロコの演奏になるかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」抜粋,○クレンペラー指揮ロス・フィル(archiphon:CD-R)1945/2/11ハリウッドボウルlive,,全般ピッチが高く録音状態は悪い。放送エアチェックLPからの板起こしと思われ、冒頭を欠いた1楽章、一箇所ダビングミスのノイズが入るほかは完全な2楽章、ナレーションをはさんで冒頭僅かに欠ける4楽章からなる抜粋。重みのある響き・堅い構築性と反して非常に前進力を感じる仕上がりとなっており、いくぶんテンポ・ルバートもかかり格調高さよりむしろロマン性を感じる。フィナーレの盛り上げなどは後年のクレンペラーには聞かれない感情的なものでブラヴォもうなづけるライヴならではの出来である。音の一つ一つの発音の強さはやはりクレンペラーで、これがまさに表現主義の時代の指揮者というものだろう。面白い。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),ケンペ指揮ベルリン・フィル(EMI)1957/9/BBC交響楽団(BBC)1975/8/29LIVEうーん・・・中庸だ。なにか特徴的なものをとらえてここで書くべきなのだろうが・・・ビーチャムとの親密な関係を思うと、あ、なるほどと思う点もある。ビーチャムも個性を強く押し出すのではなく、あくまで颯爽と流れるような指揮をしたひとである。私はあまりビーチャムが得意ではないが、ケンペの指揮はそれよりはいくぶん熱のこもったものであるようには感じた。ただ、非常に現代の凡百指揮者に似ている。どこか客観的な立場を固持するようなところがあり、あくまでスコアとリハで予め施した解釈を、そのまま再現させようとしているかのようだ。テンポはやや遅めでほとんど揺れない。やや遅めのイン・テンポを守っている。決して粘らない。ストレートだ。チャイ5同様、はじめて曲に触れる人にはいたずらに歪んだ印象を与えることなく曲の魅力だけを伝える事の出来る演奏なのでとてもよいと思う。ライヴですらスタジオ並みの精緻な演奏になっているのが凄い。BBC盤ではペットなどのブラスが開放的な音で時折奇異に聞こえるが、これはオケの問題か。ティンパニの重厚な響きが耳を惹く(BBC1楽章、3楽章)。両盤とも終楽章はなかなかの集中力で、打楽器の急いた破裂音に後押しされたオケ(弦)が珍しく熱をこめて演奏している。じつに分厚い響きが演奏の充実ぶりを示している。BBC盤は終演後の熱狂的なブラヴォーが印象的だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),デ・サバータ指揮ニューヨーク・フィル(NUOVA ERA/CEDER)1950/3/26LIVE非常に模範的な演奏である。正攻法だ。ライヴならではのゆらぎはなきにしもあらずだが、曲感を変えるほどではない。オケは若干弛緩がみられるところもある。録音は物すごく悪い。とくに二楽章の瞑想的な雰囲気がぶちこわしになっているのはいただけない。終演後のブラヴォーは物すごいものだが、残念ながらこの貧弱な録音ではその真意はよく伝わってこない。力感のあるいい演奏だとは思うが、それ以上でもそれ以下でもない、そういった感想である。サバータなのかサーバタなのかわからなくなってしまった。ま、ここではサバータにしておきます。この盤、とにかく音が悪いため、これがオケの技術不足によるものなのかどうか判別つかないような茫洋とした場面が少なからずある。オケ、とくに弦が鈍感に感じるのだ。それを押して聞こうとすると、これがけっこうフツーの演奏で、サバータらしいキレの良さが余り聞こえてこない。まあ、3楽章の水際立ったリズムと速度、ダイナミズムは聴く価値ありだし、表現意欲の強い2楽章も面白いし、聴きどころもなきにしもあらずなのだが、私は全体的にはフツーに感じられた。終演後のブラヴォーは凄いから、これはやはり録音のせいとしておくべきか。推薦はしない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),テンシュテット指揮ベルリン・フィル(EMI)1983(84?)某盤評本で84年録音とあったが盤には(若干怪しげだが)83年とあったので一応そう書いておく。立派でよく鳴る音楽だな、と思った。反面ややアンサンブルが雑なところも(とくに細かい音符の箇所について)あり、だらしなさを感じなくはない。テンシュテットならではのアマチュアっぽい妙な熱っぽさがこのスタジオ録音にも通底しており、それが所謂ドイツ的な構築性をもった演奏の中に良い意味でのひずみをもたらしてテンシュテットらしい姿に結実している、といった感じだ。この曲は世紀末の93年の作品である。もう様々な前衛音楽の萌芽が見えてきたころの作品であり、ボロディンやブラームスと比べる位置には本来無いはずの作品だ(チャイコフスキーはまさにピッタリ同時代といえるが、あれも結構前衛的である)。ひびきの新しさ、機械的なアンサンブルの尖鋭性、楽しむべき点は民族主義を踏みこえたところにある。このテンシュテットの演奏はそういう意味では新しい世代の演奏であり、ベルリン・フィルもローカリズムから脱した、いい意味でロンドンのオケのような明るく薄い音色を使ってきていて特徴的だ(もちろん必要時は重低音も使っているが)。まあ、イマイチ印象の強い演奏ではないので無印としておくが、悪くはない。テンシュテットのマーラーがお気に入りなら、聞けるだろう。2楽章など静かな風景の中にソロ管楽器がかもす空疎な響きに、マーラー流の諦念を聞き取れなくはない。この盤、あまり評価されてないせいか店頭から姿を消してしまっている。手に入りやすいのはむしろCD−Rのライヴ盤かもしれない。演奏的にもあっちのほうが上に感じる。テンシュテットは生がいい。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),テンシュテット指揮ベルリン・フィル(RE!DISCOVER:CD-R)1984/3/13LIVE  RE!DISCOVERは廃盤・海賊盤を専門に復刻しているアメリカのレーベルだ。この盤も昔METEORか何かで出ていたものの復刻である。同時期にEMIに同じ組み合わせで入れているが、私は未入手(註:後日入手)。ただ、この演奏を聞いていて思ったのは、「フツーだなー」ということだった。ベルリン・フィルである必然性も感じない(集中力にムラがある・・・録音のせいかもしれないが)。細かいフレージングやテンポ・ルバートなどに主に個性が聞き取れるが、その場その場の即興で、あまり効果的には働いていないようだ。病んだ演奏、という言説があったが、そこまでそしるほどではない。2楽章が聞き物とされていたが、じつはワタクシ、この2楽章がいちばん聞きづらかった。ヘンなのだ。いつものラールゴじゃない。クーベリックなどがやっている哀しくも美しいラールゴじゃない、ましてや感傷的でもない。超客観的だ。死んだ目で見た家路だ。・・これは死にかけている!と感じたのは最後の弦楽四重奏。たしかにこれは個性的だろう。この2楽章を聴くためだけに、存在する盤といってもいいだろうか。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(emi)1959/4/(sirio)1969初出いちおう二つの録音があるかのように表記したが、聴いたところまったく同じステレオ初期の録音である。後者をまるで別録音かのように表記している店があるが、留意いただきたい。後者モノラルと表記している店があったが、ステレオである。ステレオといってもかなり茫洋としており、録音条件は余り良くはない。バルビローリのドヴォルザークは8番のように成功しているものもあるが、この9番のように指揮者の個性が姿をひそめ、ただデリケートな音作りの残滓のみが聞こえてくるものもある。悪い聴き心地ではないのだが、パンチに欠けている。ハレにしてはまとまったいい演奏であり、適度の緊張感もあるが、聞いてあまり残るものが無い。同時期の他曲の演奏、とくにライヴにはとてもダイナミックで恣意的な演奏が多々あるが、この盤は余りインパクトが無い。悪くはないが、良くもない。そういった感想である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),ベーム指揮ウィーン・フィル(METEOR)1970年代live録音やや難あり。音場が狭くオケが遠くてバランスも悪い。そのためかどうか、スタジオ録音盤と比べてちょっと落ちる気がする。もっと威厳をもった演奏であって欲しいと思う。1楽章などはかなり客観的でつまらない。二、三と余り印象に残らず、四楽章はいくぶん白熱するがそれでもスタジオ盤のほうが優っているように思う。拍手は比較的熱狂的。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),ロジンスキ指揮ロイヤル・フィル(westminster/MCA)1954/10/5,7,8,9ここまで音がクリアだと耳心地悪い。気味の悪いくらいクリアな録音だ。ふくよかな音場が損なわれ、ディジタルな狭い音場にて繰り広げられるギチギチ軋みのしそうな演奏。ロジンスキは細かくはいろいろと解釈してはいるのだが(まるでロシア指揮者のようにブラスを鳴らしてみたり)、大きく見れば意外と素っ気無くフツーの解釈に終始しているように感じる。ロイヤル・フィルは巧い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1893),伝フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル(PHILIPS他)1941/11/30LIVE?この悪い録音の演奏はかつてフルトヴェングラーの新発見として巷間を騒がせたものである。今では敗戦を前に自殺したカバスタのものだということになっている。フルトヴェングラーの「新世界」がこれ以外に無いため、またカバスタの記録も極めて少ないため、絶対の判定は不可能である。私の耳には1楽章冒頭からの異様な集中力(後半はやや落ち着く)や終楽章後半の前のめりのテンポ感(これらは録音のせいかややピッチが不安定で全般高めに感じるから、ほんらいのスピードではない可能性もある)にフルトヴェングラーを感じなくも無い。逆に2楽章は凡庸だし3楽章前半も冷静にすぎる。ウィーンのメンゲルベルクと呼ばれたカバスタ、もしそういう解釈をするのであれば2楽章あたりもっと粘着するだろうと思うが、もうこうなると推測しかない。どうも分離が悪く聞きづらいので無印、但し1楽章など面白いので機会があれば聴いてみてください。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,