-2019/1/9(1/23修正)delius
ディーリアス:人生のミサ(1904-5),○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル、ロンドン・フィルハーモニック合唱団他(CBS)1952/12モノラル無宗教を貫き終生リアリストであったディーリアスの、それでも魂を揺り動かすようなこの合唱曲は、平和な時代を生きるわれわれにも深い感動をあたえてくれる。ニーチェの「ツアラトゥストラはかく語りき」の抜粋を用いた、2部構成全11曲の大曲だ。ドイツの指揮者カッシラーに献呈され、抜粋もカッシラーによって選ばれている。通常英語版を使用するが、元はドイツ語版である(ディーリアスは何故かドイツで人気があった)。ソプラノ、アルト、テノール、バリトン全ての独唱者を必要とするが、決して独唱主導にはならず合唱と管弦楽と巧みに絡み合って、ディーリアスの鮮やかな手腕が冴える。支援者であり紹介者であり、それ以上に「ファン」であったビーチャムは、その機敏な棒と鋭くも暖かい音色によって輪郭の明瞭なディーリアス像を描き出す。その恣意性に対して好みはあろうが、優れた解釈者であることは間違い無い。このような合唱曲でも、歌劇を意識した如きドイツ風構築性を感じるところにビーチャム・ディーリアスの特徴が伺え、至極自然に楽しむことが出来る。しかし・・・ディーリアスの、繊細な音の綴れ織りは、先ずもって古いマイクでは拾いきれない。ビーチャムのモノラル旧録は、それゆえ推薦するには躊躇をおぼえる。流麗な曲作り、雑音の奥に聞こえる美の豊潤さは、意識して聴けばそれなりに楽しめるものではあるけれども。ビーチャムのモノラル録音は作曲家存命期からかなりの量が存在しているが、最近相次いで復刻され店頭を賑わしている(NAXOS)。でももしビーチャムのディーリアス未聴なら、先ずEMIのステレオ(ビーチャムの寿命はステレオ時代にギリギリ間に合ったのだ)盤から攻めてほしいとおもう。不用意なマニア盤への接近は悲劇的な結末を呼ぶ。と書いておいてなんだが、この大曲はモノラル録音しか残っていない・・・。ごめんなさい。壮麗で感動的な冒頭。1曲めは非常に印象的。ダイナミックな音楽で、マーラーの「千人の交響曲」を思わせるが、ディーリアスだけに野暮に感情を露にすることはない。特有のマニアックな音形が前面に立たないのでこれまた聴きやすい。ビーチャムは速めのテンポで音塊の俊敏な流れを作り、同時に威厳に満ちた美しい音響を紡ぎ出してゆく。集中力の高い好演だ。歌手陣も負けてはいない。管弦楽をバックにした合唱の扱いも老猾だ。録音の問題で音像がぼやけ気味なのが気になるが、進むにつれ安心して聴けるようになる。豊潤な楽想、隅々の創意が四方から畳み掛けてくるさまは「千人」以上に圧倒的で、兎に角この一曲め、全曲のききどころと言ってもいいだろう。3曲め、茫洋とし捕らえどころの無い霧の中で、微妙な不協和音が妖しい夢幻味を醸し出す。不思議な聴感だ。ディーリアス的個性は少し薄く、 ”子供の合唱”(にきこえる)が入るところなど、矢張り「千人」の第二部後半を思わせるが、その雰囲気は天国的というより異界的といったほうがいいかもしれない。さらに進むにつれ、楽想が沈潜しやや印象が薄まってゆく。反じて後半曲のほうがよりディーリアスらしい静謐な音風景を描きだしているとも言える。浸りきる音楽。その方がしっくりくると感じる向きもあるだろう。第二部の嚆矢では再び壮大なオラトリオが戻るがそれも長くは続かずに、やがてビーチャムもさりげなく流れを止め、大曲は終わる。同曲、無宗教による「レクイエム」とともに合唱曲における代表作となっており、グローヴス(EMI)やデル・マーなど新しい録音で一聴されたい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ディーリアス:人生のミサ(1904-5)〜第二部への前奏曲「山の上に」,○デニス・ブレイン、ビアズ、ホワイト(Hr)ビーチャム指揮RPO(EMI)1948/5/8・CD,,10年以上前の東芝EMI「デニス・ブレインの芸術」に収録されたSP起こしで、針音がそのまま入っているのがむしろ懐かしい復刻状況。それゆえ高音の伸びはよく、ノイズを我慢しさえすれば透徹したホルンソロの響きとディーリアスらしい和声のうつろいを楽しむことができる。ブレインである必要はないが、ブレインらしい「素っ気ない」表現は曲の意味をも考えさせる。まあ、録音は悪いです。何故これら新復刻から漏れているのかよくわからない。ビーチャム全曲録音のさいも参加している模様。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:人生のミサ(1904-5)〜第二部への前奏曲第3番,○ビーチャム指揮LPO(somm/columbia)1938/2/11・CD,,SP起こしだがかなり高音域を削ってしまい音が篭ってしまっている。これはホルンが活躍する「山の上に」とは違うが、同じ主題を使用しており、内容的にはよりディーリアスらしいオーケストレーションを楽しめる、短いながら変化あるもの。ただ、、、これだけじゃよくわからん。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:人生のミサ(1904-5),○ノーマン・デル・マー指揮BBC合唱団等・交響楽団、テ・カナワ(sp)ダウド(t)ほか(bbc,intaglio)1971/5/3ライヴ 演奏の集中力の面ではビーチャムに水をあけるものの佳演である。録音はそれほど良くはない(歌詞がやや聞きづらいところがある)がステレオで明晰。グローヴス盤は1曲め”invocation”がビーチャムのように威張り胸を張る演奏よりも音の豊穣なひろがりを的確に押さえた優しい演奏で、ビーチャムをワグナー風解釈とすればさしずめヴォーン・ウィリアムズ風解釈といえるかもしれない。 3曲め「人生の歌」の響きには崇高さすら漂いテノール、ソプラノの恍惚の表情にしばし沈黙する。合唱が主張しすぎる感もあるが。同曲「楽園への道」と共通の素材が使用されている部分があり、のちのち雰囲気的にも似たアトモスフェールが支配する。マッケラスなど現代の素晴らしいディーリアス指揮者は、ビーチャムのような十字軍の時代に必要とされた、わかりやすくするための恣意性を排することで、よりディーリアスの意図した世界を近づけて呉れる。但し、ここに錯綜が生まれることもある。ディーリアンには堪らないが一般的には「わけがわからん・・・」それでも聴きたいなら、英語版で必死にヒアリングするか、ライナーや底本を読んで基礎知識を付けてから聴くべし。べし?,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:人生のミサ(1904-5),グローヴス指揮ロイヤル・リヴァプール・フィル、リヴァプール・フィル合唱団、ジャネット・ベイカー(Ms)他1968,EMI ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ディーリアス:アパラチア,○ビーチャム指揮ロンドン・フィル他(centurion)CD,,いちばん「びみょうな」時期のディーリアスの大曲で、たとえば「伝説」などグリーグをアマチュアが書き直したような浅薄で生硬な書法が前半支配的であるが、そこにアメリカの農園での経験に基づく黒人民謡ふうの素材が加わり、独特の雰囲気がやや機械的に付加されてくる。そして、やっと「ひたすら教科書的な三和音による安定した音楽」が「ディーリアス独自の響きを伴う音響」へと変化していくと、男声合唱がひそやかに加わり、さっぱりとした感じで颯爽と、音楽は流れていき、終わる。トラック分けが細かいなあとも思った。つまりは、余りにあっさりしている演奏様式なのに曲自体の冗長退屈な部分がちっとも改善されない、という何か凡庸な作品を聴いた印象だけが残ったという話。演奏のせい?何のせいだろう?,,スリムで聴きやすい。この曲に透明感は逆効果の恐れもあるためロンドン・フィルの程度のいい音は耳なじみする。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ディーリアス:アパラチア(リハーサル付),○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団他(EMI)CD,,リハーサルはモノラル。冗談交じりの暖かい雰囲気は、この指揮者最後の録音の一つとなった盤を一そう感慨深いものとしている。しかし指示はしっかりしている。曲はディーリアス生涯全般の作品群内では異色のブラックミュージックもので(と書くとイメージ違うでしょ?)放蕩者だった若きディーリアスがアメリカの農園に送られたとき聴いた「昔の農奴の歌(副題)」を主題として、都会の陰鬱で不健康な生活から離脱して経験したからっとした緑溢れる明るい風土の印象をもとに、同名のコープランドの作品をもちょっと思わせる、力感溢れるも浅薄単純な(RVWの民謡編曲的な)感じもするはっきりした表現を使用したもので、比較的若い生硬な作風を残したものとなっている。だからドイツ後期ロマン派ふうの重厚で非個性的な音楽も織り交ざり、バルビのドイツ音楽をやるときの芸風を寧ろ思わせる覇気を引き出されてもいる。演奏のせいというより曲のせいで合唱歌唱も至極明るく、バリエーション的に綴られる管弦楽曲の中にそれほど強烈な印象を与えることなく埋め込まれているのみだ。演奏的に起承転結が余りはっきりしないようにも感じるが、バルビが緩やかに衰えたのではなくほんとに突然死したのだなとわかる生気に満ちた表現が目立ち、いっそ印象的である。曲も演奏もそれほど記憶に残らないたぐいのものではあるが、○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:アパラチア抜粋,○バルビローリ指揮NYP他(BS)1938/4/17カーネギーホールLIVE・CD,,今は二枚組で出ているバルビローリ協会のディーリアス集だが一枚めは再発、二枚めはライヴ集だが一部再発で他も裏青を含めればほとんど既出である。このトラックは唯一CD初復刻のSP音源と思われる。生気に満ちた演奏でディーリアスとしては素朴な初期作品に含まれるこのアメリカ時代の産物を、アメリカの楽団、歌い手を使って明るくあっけらかんとやっているところに価値をかんじる。ノイズが最悪だがハーモニーで進行する詠嘆の表現はバルビローリらしさが僅かに垣間見える。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:アリアとダンス,○ボイド・ニール弦楽合奏団(HMV)1948-49・SP,,ディーリアスはドビュッシーを先駆けた等々言われることもあるが思いっきりロマン派の人であり新しい領域に踏み出したというのはあくまでその「個性」という範疇を出ないもの。ディーリアス民謡とでも言うべき儚い旋律と重いハーモニーの連続がここでも物憂げな雰囲気をかもし出しており、ダンスでいきなりテンポが変わったとしても結局ディーリアスでしかない音楽。演奏もディーリアスとしかいえない音楽を提示している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ(ロ調),ストーン(Vn)スレルフォール(P)(PEARL)私が最初に触れたディーリアスの譜面は、なぜかこの習作(といっても作曲家30歳の作品)ソナタだった。第一印象は全体的にはフランクのソナタ、旋律線はドイツ・オーストリア系のリヒャルトとかそのあたりのもの、そして、かなり冗長(3楽章制)といったところ。音源などなく、自分でかなでてみて、いかにも習作的で合理的でない曲、今思うとドビュッシーの初期作品に非常に近いと思うのだが、とにかく後年のディーリアスの隙の無い楽曲に比べ、スカスカな感じがした。だが、何度かかなでてみて、旋律の半音階的なゆらぎ、五音音階の奇妙な軋み、これらが同時期の「レジェンド」のいかにもあざとい前時代的な旋律に比べて、ずっと新しいものを示していて、しかもかなりすがすがしく気持ちがよく思えてきた。今無心でレコードを聞く。じつに雄弁なヴァイオリン、印象派的な音色のうつろい、習作は習作なのだが、捨てておくには忍びない美しい楽曲。これは技巧的にはそれほど難しくないので、もし触れる機会があったら演奏してみてほしい。きっとディーリアスの秘められた宝石を発見した気分になるだろう。この盤はヴァイオリンが心もとない。この曲は雄弁に太筆描きで弾いて欲しい。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第1番,○カウフマン(Vn)ザイデンベルク(P)(forgotten records:CD-R/concert hall society)LP,,最初こそ無愛想で素朴だが、やはりルイス・カウフマン、只者ではない。安定感のある表現を駆使してぐいぐいと曲を引き立てていく。ドイツ・オーストリアや東欧のヴァイオリニストのような鋭く金属質で耳に付く感じが無く、この曲には太くてざらざらしたこういう音が似合う。連続して演奏される3楽章にいたって技巧派たる部分も見せ、ディーリアス特有の名技性を浮き彫りにする。これは最初で投げ出したら駄目。メイ・ハリスンとは対極的な設計。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第1番,サモンズ(Vn)ハワード・ジョーンズ(P)(DUTTON)1929/11/1・CD,,年代からして驚異的な音質ではあるし、SPの硬質で明瞭な音を再現しようとした意図は認められるが、音色感が損なわれ人工的に操作された感が否めない。ここできかれるサモンズの太くて揺れの無い音はまったく色あいに変化がないため、とりとめのないディーリアスの音楽にあっては退屈至極、この両者の相性の悪さゆえか、録音操作の失敗のせいか。とにかくディーリアスはもっと綾のある作曲家で、目の詰まった音であるからこそ弱音部が要になってくるから、弱音なりの音質をきちんと出してこないとわけがわからなくなる。つまり、無印。DUTTONが初出らしい。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第1番,メイ・ハリスン(Vn)バックス(P)(SYMPOSIUM)1929・CD,,SP復刻で音が悪いせいもあるが、冒頭こそオールドスタイルの音色で引き込まれるものの、運指のアバウトさが目立ってきて、旋律線を見失うほどにわけがわからなくなる。曲のせいでもある。ディーリアスの室内楽や協奏曲は独特である。旋律が途中で半音ずれていくような進行、瞬間的で無闇な転調の連続、不規則な入り組んだ構造が気まぐれ感をかもし、非常にわかりにくい(しかし何か秩序だってはいるのである)。ある意味とても前衛的で、習作期の素直さが微塵も残らない番号付きヴァイオリン・ソナタや協奏曲は、作曲時期的には頂点にいたはずなのに、弾いている当人ですら根音がわからなくなるほどマニアックだ。そういう曲にはこういうソリストやメニューヒンのような柔らかいスタイルはあだとなる。鋼鉄線のように鋭く正確な音程を機械的に放っていかないと本来の意図は再現できまい(弦楽器向きではないという批判はあるにしても)。こういった晦渋さはRVWよりはホルストに受け継がれた。しかし、牧歌的なひびきの中に一種哲学的な抽象性が浮かび上がるような演奏では、疲れたものへの慰めになるものではある。その意味でもやや適任ではないと思うが、作曲家ゆかりのヴァイオリニストであり、むしろヴァイオリンより力強く個性的なコントラストをつけて秀逸なピアノは同僚バックス、資料的価値はある。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第2番,○サモンズ(Vn)ハワード・ジョーンズ(P)(DUTTON)1924/12・CD,,縮緬のようなビブラートに甘く旧びた太い音、しかし非常にしっかりしたフィンガリング、ボウイングが現代的な精度を保証しているので安心して聴ける。かなり個性の強い美音が嫌いな向きには勧められないが、ディーリアス最盛期の雄弁な作品にサモンズ最盛期の技術が重なって、同時代最高峰の演奏となっているさまは一聴に値する。あっという間。旧いので○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第2番,○マックス・ロスタル(Vn)ホースレイ(P)(westminster)LP,,M.ロスタルが大人の音で落ち着いた雰囲気を醸す。技巧的にも余裕がありなお、ただ演奏するのではなく含みを持たせたような、ディーリアスの中に一歩踏み込んだような解釈をみせる。ディーリアスのヴァイオリン・ソナタは1,2番がほぼ同じスタイルの、気まぐれな半音階進行を駆使し旋律性を失わせる煩雑な曲となっており、最晩年の3番だけは使徒フェンビーが調整したせいもあり旋律があやういところではあるが原型を保っている。ロスタルで1番を聴いてみたかった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第2番(ターティス編),○ターティス(Va)リーヴス(P)(pearl他)1929/10/7・CD,,うーん、これはどうなんだろう。ピアノはパラパラと硝子の粉を撒くように美しく、曲は最初からディーリアス節全開で(ディーリアスの室内楽は決してディーリアスの本領とは言えないが)、ターティスがオクターブ下げて弾く音楽は、どうにもディーリアスに聴こえない。ディーリアスは案外と高音が重要である。オクターブ以外にもいじっているかもしれないが(最後も唐突に聴こえたが)、増してターティス自身もヴィオラの音色を活かしきれず中途半端なヴァイオリン的奏法で通しているかのようだ。歴史的価値とピアニストに○。ミスもある?,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第3番,メイ・ハリスン(Vn)バックス?(P)(SYMPOSIUM)1937・CD
先に譜面からやつれて枯れ落ちる曲のイメージを持ってしまったため、どの録音を聴いても快活で生命力に溢れ過ぎて聴こえてしまう。この一楽章も若々しくて、健全で、世紀末作曲家の代表格で、計算ではなく感覚的に歪んだメロディ、半音階的なゆらぎ、奇妙に重い響きを特徴とするディーリアスには似つかわしくない感じがするのは先入観だろうか。ムンクとパリのモルグに死体を見に行ったような人で、放蕩の末に梅毒に罹患し遂には半身不随にいたるも、それでも激しい性格は抑えられなかったと言われる。この作品は白鳥の歌とされるが、晩年は(その存在には賛否あるが)イエルカ夫人のみならず若きフェンビーの手を借り、極端に単純で素直な作風で、素直に涙を誘う作品を「口述筆記」した、そのうちでもとくに民謡の引用が際立ち、郷愁とともに諦念を感じさせる作品である。おそらく間違いないと言われているバックスのピアノも明晰でタッチが強めに感じられ、作曲家と交流深かったソリストの活き活きとした動き、しかしオールドスタイルのメロメロな音程感(ディーリアスで音程が悪いとわけがわからなくなる!)が非常にアマチュアっぽい印象を与えて入り込めない。録音はノイズはあるが音像はよくとらえられていて、とくに二楽章の「老人のダンス」みたいな激しくもハラハラ枯れゆく趣は出ている。特有の浮遊感ある進行に沿いひたすら旋律を歌うだけの三楽章ではさすがにその域を理解したような調子になるが(ピアノの音数も極端に少なくなる)、感傷は煽られない。この録音については、歴史的記録としての価値のみのものであろう。
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ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第3番,○サモンズ(Vn)ロング(P)(DUTTON)1944/1/20・CD,,さすがにやや演奏精度が落ちているサモンズだが、この退嬰的な曲に即物的な感情を籠めて意気ある演奏を繰り広げている。音色が美しいとはいえやや生臭くもあり、曲想にあうかどうかは別れるところかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第3番,○メニューイン(Vn)フェンビー(P)(EMI)CD,,枯葉の季節に格好の曲。LP時代以来久々の復刻とあって初回出荷はあっというまに売り切れたようだ。押し出しの強い、余裕綽々の演奏(この単純な曲でまで何故技術的余裕を見せつける必要があるのか?)に辟易としはなから数少ない盤を全て受け付けなかった私は、なぜかこのメニューヒンの衰えの目立つ演奏には惹かれた。多分にその(ディーリアスの)白鳥の歌にふさわしき老齢ぶりと今は亡き晩年の使徒フェンビーの伴奏であるという文学的理由によるところは大きいだろう。ただ伴奏のピアノにしても、曲の内実をわかっている(自分の筆で書いたものなのだから当たり前なのだが)フェンビーの解釈しない「引きの芸風」がそっと寄り添うさまなど、20年前にレコ芸かなにかで評論家の苦言を呈していた「技巧的問題」ウンヌンはあくまで傍出的状況にすぎずこの曲はそもそも技巧などひけらかしてはダメなのである。民謡風旋律の線的な繋ぎ合せによってのみ構成されている単純なさまは何も口述筆記によるからとかディーリアスの体調に由来するとかいったわけではない、体調もあくまで作曲家にとっては「状況」にすぎない。「これ」が書きたかったからこそ「こう」書かせたのだ。極めて単純化されたディーリアス独特の転調が諦念の篭った緩やかな旋律を風揺らせてゆくさまは、恐らく本作を4作(以上?)あるヴァイオリン・ソナタ中で最も聴きやすいものにしているし、ディーリアスという作曲家がどういう作曲家だったのかを簡潔に知らしめるのに適したものにしている。この曲にディーリアスの全てがあり、結論があると言ってもいい。演奏する側にしてみると、単純であるがゆえの難しさというのはまずある。冒頭に書いたように単に普通のピースとしてこれを弾いている若い演奏家には、まずもって枯れ果てた哀しみの荒野にそれでも憧れのロマンほのかに香る「この境地」を表現するのは至難だろう。メニューヒンですら音が甘すぎるように思うが、技巧に走らず(他の番号のものを聴けば別にこの曲レベルでは「走れず」ではなかったと思う、感情を抑えられないという意味での衰え・・・それを衰えとっていいものかどうかわからないが・・・がきかれるというのであれば同意する)白い五線の上にぽつぽつと配置された音符の一つ一つを明確にしむやみにロマン派的なルバートをかけないやり方をしている人を殆ど聴いたことがない私は、これに相対的に最高評価をつけざるを得ないのである。元よりリヒャルトとドビュッシーを掛け合わせたような非論理性すれすれの「ディーリアスの転調」が非常に単純化されたがゆえに危ういバランスを保っているからこそ難しいところもある。1楽章クライマックスあたりの極めて短い間に展開される激しい転調がイマイチ内面的に把握できないダメな私でもあるんだけど、メニューヒンはそれすら殆ど「解釈していない」。ロマン派的に読み取ってルバートなどしない。だがこれは解釈する必要はあるのか?これは「諦念」なのだから・・・晩年のシゲティがやったらどうなっただろう。フェンビーのじつにそくっとした遠い音、余りプレイヤー向きとはいえない無個性な演奏振りも意図なのだろう。ディーリアスはプロフェッショナルな作曲家であったがゆえにこの曲もしっかり決め事を守ったソナタに出来あがっていはいるしむやみに「哲学的要素」を読み取るべきではない、たんなる思い出のロマン派回帰の曲だと片付けてもいいけど(それまでの難解さすらあるソロヴァイオリン作品と比べればそう読めるから)、しかしこのニ楽章で軽やかに民族舞曲を盛り上げるのは違う、もちろんディーリアスは中間楽章としてきっちりそう構想したんだろうけど、無意識的にはぜったい、スケルツォ的な舞曲と考えてはいない。これは「舞曲への思い出」なのだ。そしてメニューヒンとフェンビーだけである、「こんなに暗い二楽章」を表現しているのは。それだけでも私は十分「受け取ることができた」。アイヴズふうに言うならば白い譜面を埋めるのは演奏する「貴方」である。楽器が弾けると口に出せるくらいの腕のアマチュアなら「簡単」におつりがくるくらいの譜面だろうが、「貴方の解釈を白い部分に埋め込むことで完成する」たぐいの作品なのだと理解して臨んだほうがいい。解釈に共感できるかどうかで単純な曲の演奏の印象は決まる。それはネガティブでもポジティブでもいいのである。誰かに共感させることすら必要ないかもしれない。晩年のディーリアスの心情は少なくとも、他人の感想などどうでもいい荒んだものだったのだから。,,これをききながら私は二番目の師匠のことを思い出していた。老齢の震え掠れる不確かな音は確かに鑑賞に耐えうるものではない。しかし、そこには何か心を打つものがあった。表面上の下手は確かである、だがその根こそが重要である。心を打つのは表面にあらわれないきっと、非常に些細なポイントの積み重ねなのだ。些細なポイントを全部押さえているというのはようするに、それまでの人生の中でどれほど高みの演奏を行ってきたかというところに尽きる。「行うことができていた」かは、「聴こうという意志と耳さえあれば」聴き取ることができる。その指導を受けながら私は自分の想像力と感性を磨かれたように思う。技術的側面よりも知識よりも、それが最も価値があり、残るものとなった。,,今は自分で磨くしかない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第3番,ウィウコミルスカ(Vn)ガーヴェイ(P)(CONNOISEUR SOCIETY)この曲も盤がまったく手に入らなくて、民音でコピーしてきた譜面をもとにつらつらと弾いていた。ディーリアスの白鳥の歌(のひとつ)で、全面的に使徒フェンビーの手に頼っており、たしかに1、2番の脂ののりきった充実した書法の作品にくらべ、音符の少ない平易な旋律と最小限の伴奏という、非常に単純な構造の作品になっている(但し短いながらも三楽章制にはなっている)。だが、これはディーリアスの最後の境地がどのようなものだったか、知らしめてくれるものだ。枯れに枯れきって、目もみえず手足も動かず、しかしそれでも最後の「うた」を、命を振り絞って吐露する、これはまさに「瀕死の白鳥」の、かなしい歌なのだ。この曲を弾くとき、私の頭の中には、シゲッティ晩年のかすれた音があった。ぼろぼろのフィドルで、毛のいっぱい抜けたぼろ弓を使って弾いてみたい。1楽章からもう退嬰的な、夕日のようなかなしくも美しい旋律が流れだす。やさしい、とても優しい旋律。2楽章は若干民謡ふうのラプソディックな曲想になっている(でも譜面づらは平易だ)。そしてふたたび緩徐楽章の3楽章、なつかしい民謡のしらべ、それこそ「最後の作品」にふさわしい、そこはかとなく懐かしくかなしい音楽がはじまる。「もっと生きたい!」という叫びのようなクライマックスも、やがてついえて、音楽はとおい追憶となって、消える。言ってしまえばピアノはいらない。無伴奏で描くのがもっともふさわしい表現の仕方ではないか?私は今でもそう思う。私はウィウコミルスカ盤を評価しない。ウィウコミルスカはこういう意味の曲であることを理解しているとは思えないほど「雄弁」だ。線の太い、乱れの無い音は生命力に満ち溢れ、無遠慮になりひびくピアノ伴奏ともども、「おしゃべりすぎ」だ。もっとデリケートな盤の出現を、期待したい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ディーリアス:ヴァイオリン協奏曲,○ゲルレ(Vn)ツェラー指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(westminster)1963/6・LP,,ディーリアスらしい曲に、ディーリアスらしい演奏。やや単調で技術的に不安なソリストではあるが、だからこそ見えてくる曲の不可思議さが何とも言えない。調性の不安定さが山場の無い不思議な協奏曲に更なる不思議を加え、ただ時の過ぎゆくままに浸りこむ事のみディーリアスを理解できると思わせる。起承転結付けず、響きと動きで聞かせていくのがこの曲にはあっているのだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ヴァイオリン協奏曲,○プーネット(Vn)ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(EMI)CD,,即物的でちょっと聴き単調ではあるが非常に充実した演奏ぶりで、技術的にも解釈的にも完璧なのではないかとソリスト・オケ共に思わせる(両者が絡みあい不可分になっている曲だ)、では◎にしないのはなぜかといえば録音の悪さだ。正規録音とは思えない音質の箇所がいくつもあり、ディーリアスの要ともいえる微細な音調や装飾音、オクターブ重音といったものが聞き取れない。演奏振りからしてちゃんと弾いているとわかるがゆえに更にもどかしく、この一見とりとめのない狂詩曲ふう協奏曲・・・しかしディーリアスの真骨頂ともいえる様々な独創的表現の万華鏡ぶりが楽しめる・・・の構造すら見えにくくし、晦渋でわけがわからない雰囲気音楽という、ディーリアス本人にとって恐らく不本意な印象をあたえかねないものになってしまっている。,,これはソロ譜をさらってみるとよくわかるが決して構造的に気まぐれな曲ではなく、巧みにオケとソロパートが組み合って初めてそれとわかるような旋律構造や音響的配慮が縦横に張り巡らされており(とくに前半)、退嬰的な後半部においてはディーリアスに期待される黄昏の情景が和声的なオケとラプソディックなソロという単純化された対比の中に効果的に描き出されたりし、聞き込むとけっこうにいろんな音が聞こえてくる。「ディーリアス」=民族音楽的、「ディーリアス」=リヒャルト・シュトラウス的、「ディーリアス」=ドビュッシー的、「ディーリアス」=スクリアビン的といったさまざまな局面での特徴が全て兼ね備えられているといってもいい。色彩的で煌びやかで決して重くならないスマートなビーチャムに弓圧をかけひたすら骨太に紡いでゆくプーネットという組み合わせはその多要素混在状態を綺麗に交通整理してあっさり聞かせてくれる。だがこの音質では「あっさり」「骨太」の二つの強い要素だけが印象付けられてしまう、それだけだと冗長でわけがわからない曲になってしまう。,,リマスター版が出ているかどうか知らないが、それが施されるにふさわしい録音であり、また、楽曲自体が非常に繊細で細密であるがゆえにモノラルで聴くことにそもそも向いていないということから、たとえ何か欠けていたり過剰であったりしても新しい録音をとるべきかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
ディーリアス:ヴァイオリン協奏曲,ホルムス(Vn)ハンドレー指揮ロイヤル・フィル(unicorn)1985版・CD,,世紀末音楽を代表する作曲家としていっとき流行ったディーリアス。しかし昔からディーリアンという黄昏時に浸り込むマニアを集めてきた人であり、半音階の多用と風変わりな和音進行の目立つ取っつきづらい掴みどころの無い作品が、突然何物にも替えがたい世俗と隔絶した傑作に聴こえることがある、そういった特色を持つ。この作品など特にそうで、この演奏は比較的大作りで丁寧だが尚一層、そういうやり方をされると何を聴かされているのか最初はわからないだろう。同じような音が、同じような和音を載せてうねうね上下する旋律線に寄り添い、その幅はけして広くない。マンネリズムを感じさせる(これに浸れるかどうかがディーリアンになれるかどうかの境目)。オケはこれまた真骨頂的に美しいだけでなく、変な音で絡んできたりして奇妙な後味を残す。新世紀の扉を開けたドビュッシーが評したようにただ美しい三和音だけの作曲家、民謡音楽を用いて心象的な表題付音詩を紡ぎ上げるだけでなく、複雑な要素を注ぎ込み協奏作品など抽象音楽にも取り組んだ意欲的な時期のディーリアスの作品であるからして、ファーストチョイスには向かないけれど、慣れてきたら割と細かく聴いていくと独特の書法が面白く、それが有機的に繋がり連なっていくところで初めて浸り込む要素を見出すことができよう。とくにヴァイオリン協奏曲は協奏曲の中で一番良く書けているので、取り組んでみるのも一興かもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ヴァイオリン協奏曲抜粋,メイ・ハリスン(Vn)オースティン指揮ボーンマス・マニシパル管弦楽団(SYMPOSIUM)1937/5/13live・CD,,シンポジウムの「状態の悪いSP並音質」はいつものこととしても、とにかく演奏が恍惚としすぎてウンザリしてくる。いや、さすがディーリアスと親交深かった人だけあるにはあるのだが、ちょっと法悦的すぎる。長いのだ。かつ、四箇所に分断されたSP録音なだけに聞きづらい。雑音まみれの物凄いロマン臭をはなつ曲だなあというかんじ。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:カーニバルに(ポルカ),パーキン(P)(unicorn)1983版・CD,,1885年のピアノ小品で無邪気なポルカそのもの。それ以上でもそれ以下でもない、軽い作品。演奏評不可。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:シナラ,ジョン・シャーリー=カーク(Br)グローヴス指揮王立リヴァプール・フィル管弦楽団(EMI)1969版・CD,,10分の短い歌曲なので埋め合わせに使われることが多く、これともう一つトマス・ハンプソンがフェンビーと組んだものが唯の2つの録音として長らく、いろいろな曲と詰め合わせられてきた。現役だと思うが今はWarnerが超廉価盤に押し込んでいるだろうか。フェンビーのディーリアスは網羅していた筈だがunicornのディーリアスシリーズが手元に何故か揃わず、どこかへいってしまったので聴き比べができない。ディーリアス最盛期の作品ではあるが、ただ「日没の歌」から外され放置されていたものを最晩年になってフェンビーらの発見・助力により完成させられた。内容はダウスンの頽廃的で官能の香り漂う詩文に依り、これは専門のサイトでも見て読んでいただけると良い。ディーリアスは退嬰的な作曲家ではない。世紀末を体現する「官能的な」作曲家であり、「頽廃的な」作曲家であり、リヒャルト・シュトラウスらと同じ空気を吸い、グリーグからアメリカ南部の農場歌からドビュッシーの造る様々な色彩を貪欲に吸収して絵画的文学的背景に投影し結実させていった。歌詞を取り入れた作品と純器楽作品で印象が異なるのは音楽そのものというより、具体的な内容の影響がある。この作品を彩る音はもうディーリアス好きならどこかで聴いたことのあるような代物に過ぎない。遠目に見ればほとんど同じようなものである。最初と最後の静かなムードは、前者は同時期の、後者は晩年の作品に全く同じものを見いだせよう。中間部にかんしていえばドラマティックで、これは最盛期の歌劇作品にみられるものに近い。よく書き込まれてはいるが、やはり聴いたことがある。では、これは取るに足らないものなのか。,,歌詞がある。シナラは遊女であり、これは若き者の恋慕の詩である。デカダンの臭い濃厚な、自分勝手な情熱の、生命力を生のママ抉り取ってみせたような印象が個人的にはある。ディーリアスは同時代者として、おそらく同じようなものを見て、同じような放蕩に溺れ、それを思い出してはこれを書く気になったのだろう。その内容があって初めて楽曲は他の器楽作品とは違う個性を確立できた。カークはうまく感情の起伏を過度にならずに歌い、歌詞の示すものを鞣すのでも過激化するのでもなく、グローヴス卿の冷静なオケに載って表現している。これこそディーリアスなのだというものを僅かな時間で実体験できる作品である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ディーリアス:ダンス・ラプソディ,○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(DA:CD-R)1951live ,しわがれた声による軽妙なトーク付きだが演奏はいたって締まった爽やかなもの。録音は極めて悪いが、それでも心地よく、まだ初期の香りの残る曲の旋律性を楽しめる。1,2番どっちかわかんない。たぶん2番。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ディーリアス:ダンス・ラプソディ第一番(ビーチャム編曲),デル・マー指揮ロイヤル・フィル(unicorn)1991版・CD,,これはちょっとディーリアスだと言われても、、、ディーリアスの魅力は管弦楽の扱いが不可思議なところで、ここまで「一般的」で、こなれた編曲されてしまうと、主題だけ持ってきて、和声からリズムから編成から楽曲構成からまるきり別人がやったのか、よっぽど初期作品なのか、忘れ去られたたぐいのオリエンタリズム狙った劇の断章なのか、というところ多々で、ディーリアスとして15分も聴くのはちょっと辛い(すべてがすべてディーリアスらしくないわけではないが)。同じアルバムに入っているフェンビー指揮のディーリアスに比べまるきりプロフェッショナルな仕上げ方をしてしまっている、というのもおかしな言い方だが、二番とされるものより、ラプソディックな各要素が露骨であり、後半に「和声的な音楽」と化していくところでやっと違和感が薄まった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ダンス・ラプソディ第二番,フェンビー指揮ロイヤル・フィル(unicorn)1987版・CD,,妙な味のする曲で、ディーリアスっぽさが薄まり、前期の軽い雰囲気、ドビュッシーにおける「春」のような明るく典雅な中にも、気まぐれに創意の散りばめられた飽きさせない構成が面白い。劇的な不安、オリエンタリズムが織り交ぜられたり、まさに狂詩曲だ。散文的で、ワルツ主題がそれほど引き立ってこない管弦楽曲。演奏が重いがオケの音色のためにどんよりとはしない。音楽に印象派があるとしたらこういうのこそ印象派と呼ぶべき。田舎臭い民謡、木管の挿句がまた都会的なものと入り混じって不可思議だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ダンス・ラプソディ第二番,オーマンディ フィラデルフィアO
ディーリアス:チェロ・ソナタ,○ベアトリス・ハリスン(Vc)クラクストン(p)(symposium他)1926/2,3・CD,,ディーリアスの円熟期後の作品は旋律の半音階性を増し内省的になり(つまりそういう面では「才気が変容」し)、完成期ドビュッシーの影響下それ以上に「印象主義」的な楽想のうつろい、気まぐれ、だが一種限られた箱庭世界から出られないようなハーモニーの微妙な動き、個性的だが余りに曖昧冗長で、楽しんで聴くにはそれなりの気持ちと環境が無いと難しい。あくまで自己の音楽に忠実で技術的な難しさは無く(弦楽の書法は私は巧いと思う)、超絶技巧を楽しむことができない器楽曲というのは普通の聴衆には受けないわけで、演奏会に取り上げられないのも頷ける。チェロ・ソナタは特にそういった面が顕著に思われる。曖昧模糊とした美しさ、自然主義的というか環境音楽的な耳優しさがあるが、表現が単調だと飽きてしまうし、甘すぎると胃がもたれてくる。短い単一楽章制なので何とか聴き通すことはできるのだが。。当代一の女流チェリスト、B.ハリスンの音は前時代的な纏綿とした、ヴァイオリン的なもので、びろうどのように滑らかに震えるようなヴィブラートと有機的なフレージングでディーリアス世界に入っていく。だがそういう芸風なだけに、こういった旋律が半音階的でわかりにくく、全般平坦な風情の作品では正直、飽き無いとは言い切れない。なんとなく一回聞き流すなら美しい、でも何度も聴いたり、あるいは真剣に聞き込むという態度には向かない。何より録音が悪いのは仕方ない。この時代では確かに第一級の安定感であり、作曲家も満足したであろう確かさに優しさがあるが、曲自体の価値含め○以上にはならない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:チェロと管弦楽のためのカプリスとエレジー,○フェリックス・スラットキン指揮コンサート・アーツ管弦楽団、エレノア・アレア(Vc)(CAPITOL/PRISTINE)1952/9/8,11,,やはりバックオケの分厚さが気になる。バランスが悪い。小編成で繊細に描くべき曲を多く書いたディーリアス、この指揮者が何故こういう録音をしたのか・・・比較的珍しい曲だが聴きやすいので、その点紹介盤にはなる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:チェロ協奏曲,デュ・プレ(Vc)サージェント指揮RPO(EMI他)1965/1/12,14・CD,,とりとめもなく比較的高い音域で途切れもせず歌い続けるチェロと和声的に絡み合いまた途切れ途切れに支えていくオケ、24分半あまりをこの調子で単一楽章で通すというのは弾く方ももちろんだが聴く側は睡魔を禁じ得ない。美しいしきちんと構成され有機的に絡み合った要素の集合体なのに、ぜんぶ同じに聴こえる。ゆえに演奏機会は少ないのだろう(ヴァイオリンとて同じようなものだが)。平易さが特徴的なのでデュ・プレもじっくり取り組んでおり表情をつけようと頑張っている。デュ・プレにしては太くしっかりした音だ。オケは職人的にうまくつけてくる。半音単位で重なってゆく分厚い響きを綺麗に整えあげてディーリアスの音楽を損なわないようにしている。半音で揺れる旋律の気まぐれな連なりの中にはモダンな雰囲気を持つ調性の不明瞭なものもあり、取り出してみると部分部分は面白いのだが、まあ、普通はそんなこと考えず「浸るため」だけに聴くBGMかもしれない。こんな綺麗な曲書いておきながら渡仏後はピカソたゴーギャンだムンクだミュシャだと並み居る20世紀の立役者たちと社交的に付き合い、羽目を外すことも…それが死へつながる病を得てしまう原因…多かった。画家イェルカと出会ってからはその行動はストイックになったようだが、逆に「ディーリアン」しか相手にしないこのような曖昧模糊とした耳触りの良いだけの黄昏をえんえんと書いてしまっても文句を言われなくなったのだろう。長いだけに聴きやすい部分、前衛的な部分も盛り込まれ、ラストでは一時期親しくしていたヴォーン・ウィリアムズを思わせる田園の中に消えてゆく。佳作に佳演、これ以外あっても同じになるだけか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:ピアノ協奏曲,フォーク(P)デル・マー指揮RPO(UNICORN)1991版・CD,,いかにも古臭い曲で両端部で少し妖しい和声が世紀末ディーリアス感をかもすほかはほとんど前時代の遺物、すなわち同時代に世にあふれていたであろう二流作曲家のロマン派協奏曲ふうである。どこかで聞いたことのあるような代物で、これの原総譜が返却されないことに怒っている代筆書簡を持っているが、なんでこんな曲にすでに個性的作風を確立していたディーリアスがこだわったのか理解不能なところもある。新しい録音でも、これが単一楽章のまとまった曲でなければ聴いてられない・・・と私は思う、そういう曲である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ピアノ協奏曲,モイセイヴィチ(P)C.ランバート指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI,HMV/testament)1946/8/24studio・CD,,華麗なピアニストに腕利きのオケ、きびきびした指揮者による演奏・・・なのだが曲が余りに不恰好だ。単一楽章だが一応三部にわかれ、有機的に繋がっているというより古風なロマン派協奏曲が接合されていると言ったほうがいいような形式。何より余りに気まぐれな転調の連続と楽想展開に聴いている側が気持ちが悪くなる。これがピアノだけ、もしくはオケだけ(できれば弦楽だけ)であればそれぞれの楽器の持ち味を活かした「ディーリアスの夕凪」を描き出せたものだろう。ピアノには明瞭過ぎる音線が任される一方、オケには芳醇な響きと微細な動きを与え、それはグリーグの協奏曲がいびつに進化したようなもので、むず痒くも入り込めない。また録音が悪いのも悪評価のゆえんの一つ。ライヴ音源も辛い評価を与えたけれども、それよりは精度は高いものの、曲含め無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:ピアノ協奏曲,モイセイヴィチ(P)サージェント指揮BBC交響楽団(Guild)1955/9/13プロムスlive・CD,,僅かに旋律や和声に工夫を加えた偽グリーグと言ってもいい三流ロマン派ピアノ協奏曲。ディーリアスを聴くには物足りなさこの上無い古臭い脂肪のついた重い楽曲だ。短い単一楽章であることが救いか、いや物足りなさに拍車をかけるか。モイセイヴィチの演奏は無難。なんか書くことが思いつかない。録音悪。無印。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,"",-----,,,-----,,,-----
ディーリアス:ブリッグの定期市,○A.コリンズ指揮LSO(decca/PRSC他)1953・CD,,グレインジャー譲りの夏祭りの民謡に依拠した限りなく透明度の高い曲でマッケラスあたりで聴くと美麗な反面中身も薄く聴こえてしまうが、アンソニー・コリンズはディーリアス集においては勢力のある態度を一貫してとっており、透明感とは程遠いロマンティックな重さと力強さを与えている。ディーリアス慣れしていない向きはわかりやすくこの世界への導入口を見つけることができるだろう。和声的な面白みもさることながらやはり旋律の盛り上げ方が絶妙でぐっとくる。私はバリエーションを好まないのだがディーリアスの変奏曲はブラームス的な臭さが無く、非常に注意深く独自の方法で構じられているので好きだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ブリッグの定期市,○グーセンス指揮ロイヤル・アルバート・ホール管弦楽団(HMV)1923/12/31・SP,,トーイェ盤よりずいぶん短いがこちらのほうが耳なじみのある版。録音もより明らかではっきりしている。だが演奏はいまいち。編成をしぼっているせいでバラけ味がどうにも気になる。折々は楽しげだがまとまりは感じられない解釈もどうかというところ。○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ブリッグの定期市,○トーイェ指揮LSO(HMV)1928/2/19・SP,,古い録音のわりに繊細な表現をしている。ちょっと版が違うのか後半はロマンチック過ぎる音楽になって古臭さが強いが、この指揮者の個性的ではないが技術的に確かな部分は感じ取ることができる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ブリッグの定期市,○ビーチャム指揮RPO(BBC)1956/10/22live・CD,,ビーチャムにしては耽溺した演奏。ここまで伸び縮みするビーチャムというのも珍しい気がする。この曲はマッケラスのように客観的で透明感あふれる演奏が多いだけに感情的な記録として貴重だろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ブリッグの定期市,ビーチャム指揮交響楽団(columbia/somm)1928/12/11、1929/7/10・CD,,フルートの序奏からさっさと始まりオリエンタルなフレーズ(五音音階は田舎のイギリス人にとってはオリエンタルでもなんでもないだろうが)を強調することなくいきなり進む。しかし、やはりこれは50年代の録音同様に冒頭だけで、短い民謡旋律に注意深い変奏を加えていく中身は旋律に耽溺しまくる。この曲はディーリアスが初期に簡素なオーケストレーションでただ民謡を洗い直すだけだったり、全盛期に常套的な濁った和声を駆使し半音階で煙に巻いたりしたものとは異なる過渡的な時期のもので、元となった民謡を歌曲翻案したグレインジャーの直接的影響も大きいだろうが、薄く明るい響きを保ちながらハープなどフランス風の綺麗な装飾を加え木管中心で進めつつも、フランスのそれとはまったく異なる優しい民謡は旋法的な特性を上手く引き出されて、まったくの旋律音楽として編曲され、部分的にはのちの半音階的な曇りを持ち込まれているとしても世俗性を感じさせない。それだけに、ここまで煽ってもあまり臭みはなく、ただただ感傷的な風景を想像させるのみである。田舎の市場の音楽だが、それは都会の想像する理想の田舎でもあり、ビーチャムは生粋の都会人だから単純な愛の歌をこう抽象化してなお感情を煽れたのだろう。良い音。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:ブリッグの定期市(イギリス狂詩曲),○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD,,オケが天晴れ、ハレOにしては素晴らしく繊細で完成度が高い。バルビ最晩年の録音(スタジオ録音としては最後)であり、ロマンティックな重さ甘さがなくなって透明な情感がソロ楽器の「感傷的過ぎない研ぎ澄まされた表現」に象徴的にあらわれている。マッケラスを思わせる冒頭からの柔らかくも冷たい響きは、しかしマッケラスにみられる、ディーリアスにしてはシンプルな書法がはっきり出てしまったがゆえの一種世俗音楽的な軽さは出てこない。バルビ特有の震えるような匂いたつ音がここにはない、しかしやはり柔軟で有機的な音の紡ぎ方はバルビである。バルビの室内管弦楽団ものに時折聴かれるステレオ録音の妙な操作がここにもなくはないが、おおむねそういった「耳障りな要素」は無い。あきらかに「春の海」あたり和楽の影響のみられるフルート独奏からドビュッシー室内楽の影響色濃い木管アンサンブルの繊細さ、接いで弦楽合奏による響きは重厚だが単純な旋律についてはバルビがよく陥るロマンティックな臭気が抑えられやはり耳障りなところはなく、フォルテ表現でペットなどがのってきても、古楽的な純粋さは無いものの、それまでの穏やかな流れが邪魔されることはない。バルビのディーリアスを私はそれほど好まないが、これは最晩年らしいどこまでも横長で透明で、涅槃的な演奏として、録音状態のよさ含め薦められる。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:ブリッグの定期市(イギリス狂詩曲),オーマンディ フィラデルフィアO
ディーリアス:マルシェ・カプリス,○ボールト指揮ニュー・フィル(LYRITA)1973/8/15・CD,,ボールトのディーリアスはきわめて珍しいが、ディーリアスの特にしっかり描かれた最盛期までの作品はドイツふうの重量感のある和声と明確な旋律性を帯びており、リズムは明確に打ち出されるもののそれほどリズミカルになる必要もないからボールトには寧ろ向いていると思う。この演奏もかなり上位に置ける素晴らしく立派な演奏になっており、晩年のボールトがまだまだ指揮において衰えをみせていない、しっかりした足取りにディーリアスのまだ初期の香りをとどめた民謡風旋律にも格好悪さを感じさせない響きの重量感で演奏を非常に上手くまとめている。短いのでこれだけで評価というのは難しいがボールトらしさというのが渋くて鈍重というイメージでは語れない部分というのを感じさせる演奏。RVWが演奏できてディーリアスが演奏できないわけはないのだ。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:交響詩「夏の歌」(1930),○フェンビー指揮ロイヤル・フィル(unicorn)1987版・CD,,作曲家晩年の右腕以上の存在であった、エリック・フェンビー。四肢は萎え視覚を奪われた作曲家の口述する素材に基づき、ほぼ編曲するように仕上げた作品の、当人による録音である。さすがに感情的なものが感じられ、極度に純化された単純な旋律と和声、構造のうえに展開されるドラマチックにあけすけな気分を、音色においてはさほど配慮していないが、明るく透明なロイヤル・フィルの弦楽を素直に煽って「ディーリアスの夢想」に迫ってゆく。バルビローリがその歌心を存分に発揮した名演があるので、それに比べれば無機質な響きが気になるかもしれないが、これはフェンビーの作品としても最高傑作と言えるわけで、その人がこうやっているのだからこちらのほうが、扇情的過ぎない方がディーリアスの性格的にも正しいのだろう。良い演奏である。フェンビーは他にも録音があるのではないか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:交響詩「夏の歌」(1930),◎バルビローリ指揮ロンドン交響楽団(EMI)グレ・シュール・ロアンの美しき夏。低弦の薄明の轟きからフルートの上昇音形とホルンの4音の遥かな対話にはじまり、長い序奏の中で明確な旋律を紡ぎだすことなく展開されてゆく朝の情景。絶妙の配合と起伏によって管弦楽が描くひろがりは、鳥達の囁きや草原のさざめき、農夫の欠伸、断片的なフレーズがいつのまにか一種の旋律構造を形成し、これが変奏の形をなしていることがわかる頃、別の民謡主題が加わってゆく。・・・農夫の口ずさむ歌。ディーリアスの開かない瞼の下に、耳から入った農村風景はどんなに美しく描きだされているのだろう。朝露の煌きに彩られて広がる音詩は、もはやそれ以上の何ら言葉を必要としない。バルビローリの感傷はわれわれの感傷として、クライマックスの哀しくも輝かしい慟哭をも、どうしようもなく込み上げる暖かい感動の中に、深く沈み込ませてゆく。ディーリアスにしては単純な曲かもしれない。フェンビーの口述筆記によるということは、他人の手が入っているということだ。しかし、これはディーリアスの傑作である。そしてこの盤は、バルビローリの傑作である。(是非参考にしていただきたい本:「レコードのある部屋」三浦淳史著、1979湯川書房より第1章「夏の歌」),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ディーリアス:交響詩「夏の歌」(1930),◎バルビローリ指揮ロンドン交響楽団(EMI)CD,同上,単純でワグナー的な晩年作、演奏にも粗があるが、それでもバンスタにとってのマーラーのようにこれは、バルビにとって不可分の音楽になりきっており、もうそれほど長くはないこの指揮者が、死を目前とした〜その目は既に開かなかったのだが〜作曲家の、フェンビーの筆を使って描いた最後の想像の世界に自己を投入し、けして退嬰的ではなく、前向きとすら言える映画的な明るさのある音楽を、内部から再構築したものである。夏というはかない季節にたくした生命の賛歌であり、瞬の永遠性に対する「希望」。この作曲家の、それでも貪欲な生への希望が、この指揮者の、音楽をかなでることこそが生であり希望であるという信念と、まばゆいところで合致した。技術的にはいくらでも越えるものが現われようとも、未だ印象を拭うものがあらわれない名演。
ディーリアス:交響詩「夏の歌」(1930),○バルビローリ指揮新交響楽団(DUTTON、BS/HMV)1950/2/4・CD,,旧録。モノラルであるものの力強く、またバルビらしい陶酔的な世界が展開される。新録よりも生命力があり、詠嘆の表現はそこまでは目立たない。単純化されたワグナー的な世界からも遠ざかった「最盛期のディーリアス」的世界が描かれているのは特筆すべきか。素直な聴きやすさがある。心底揺り動かされる演奏ではないが、いい音楽になっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:交響詩「夏の歌」(1930),○A.コリンズ指揮LSO(decca/PRSC他)1953・CD,,最晩年のディーリアスがフェンビーの手を借りて書いたとされるものだがほとんどフェンビーが書いているのだろう。最盛期にくらべ極端に単純化されたスコアである。ディーリアスは自筆でものを書かなかったともいわれる(歌劇を書いていたころから既に訳者でもあったイエルカの手を煩わせていた)が、ここではもう「書けなかった」。四肢が麻痺し視覚も失われていた。でも70代まで長生きはしたんだけど・・・もう見られない美しき英国の夏の光景、その憧れがこのワグナーふうの黄昏を響きに籠めた名作を生み出した、と思われるが、表現によっては他の壮年期の管弦楽曲と変わらぬものになるのだなあ、と思ったのがアンソニー・コリンズの演奏で、書法の脆弱さや個性の退嬰がまったく感じられない。曲集の最後に収録されているからかもしれないがひときわディーリアス的な、とてもディーリアス的な曲として心に響いた。モノラルなのでおすすめはしないが。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:夏の庭にて,○トーイェ指揮LSO(HMV)1928/2/19・SP,,トーイェはディーリアスに向いている。録音こそ茫洋としているがオケは繊細で響きは今でも通用するような配慮を感じさせ、音楽的にとてもバランスがいい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:夏の庭にて,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD,,バルビローリのディーリアスは軟らかい。やさしくてまとわりつく。ディーリアスが重厚なラインを骨太に響かせ構造に意味づけようとした部分でも、高音に力点をシフトしたまま妙なる色彩変化を繊細に穏やかに表現する。独特のやり方がしかし結果として最もディーリアスらしい世界を紡ぎ出しているところにバルビの才があるのだろう。反面とめどもなさに拍車をかけてしまうところもあるが、これは牧歌であり、叙事詩ではないのだ、これでいい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:夏の庭にて,○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(somm)1956/8/24エジンバラ音楽祭live・CD,,特に新譜ではないのだが平置きしてあったので買ってしまった。やや録音に難のある部分もあるがおおむね良好なモノラル。一応商業出版では初モノとの協会盤だが、果たして商業でなければ出ていたものなのか定かではない。冒頭よりやけに性急で即物的な点が気になる。曲の流れに従いテンポも表情も落ち着いてくるが、良きにつけ悪しきにつけビーチャム的なデリアスである。マニアックなスコアの細部まで明瞭で明るいロイヤル・フィルの音とあいまって清潔な高揚感をもたらす。躁鬱の激しさも名人芸の中に昇華される。デリアスの代表作のひとつであり、陽炎たつ庭をぼーっと眺める夏の情景、好きモノにはたまりませんでしょう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:夏の庭にて,アンソニー・コリンズ LSO
ディーリアス:夏の庭にて,オーマンディ フィラデルフィアO
ディーリアス:夏の夜川の上で,○フェリックス・スラットキン指揮コンサート・アーツ管弦楽団、ポール・シュア(Vn)(CAPITOL/PRISTINE)1952/9/8,11,,この曲のほうがしっくりくる。地味なので、表現的に派手な楽団の個性が巧く抑えられているのだろう。薄明の音楽としてはやはり、不適当と言わざるを得ないお日さまのような演奏ではある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:歌劇「イルメリン」〜前奏曲,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(EMI)1956/10/28・CD,,グリーグふうのロマンティックな小品だが僅かにフランスふうの先鋭な響きが交ざる。セルの厳しい統制はディーリアスの微細な動きや響きの揺れを的確にとらえ、効果的に刳り出している。モノラルで弱い録音が惜しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「イルメリン」〜前奏曲,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団?(DA:CD-R)1967/10/6live,,録音も弱いのだが、客観的に整えた演奏という印象。こじんまりとして何の感傷もなく、すんなり過ぎてしまう。○にはしておくが取り柄のない演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「イルメリン」〜前奏曲,○バルビローリ指揮ロンドン交響楽団(EMI)CD,,鄙びたような揃わない音が田舎ふうの卑近なディーリアス像を提示し印象的なハレ管ものに比べ、演奏的には安定しコンサートホールの音楽として安心して聞けるLSOとのものだが、録音も贔屓されている節がありとても聞きやすい。この感傷的な曲においても過度に感傷を煽らず少し客観性を持たせているようで、バランスよく聞ける。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「イルメリン」〜前奏曲,バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(pye/Dutton他)1956/6/21・CD,,LP時代の名盤で永らくPYEレーベルの事情によりお蔵だったが今では各レーベルが盤にしている。ステレオ初期で良い音とも言えない音源だが、ダットンなど少しデジタルな加工が音を硬くしている感もある。LPとは少し違うイメージだ。バルビローリの慈しむような弦楽器の扱い(弦楽器だけ注力してあとは木管がソロをきれいにやれば、法悦的なディーリアスはできあがってしまう)が音色にまで及んでいることを、きちんと聴くには復刻状態も重要な要素だ。この曲は前時代的なロマン派で和声的な特徴も少なく、メロディ一本槍。そこがバルビローリ向きだ。メロディだけでもディーリアスであるところがまた、おもしろいところではある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「イルメリン」〜前奏曲,○ビーア指揮国立交響楽団(DUTTON)1944/6/8・CD,,SP期にはよくわからない指揮者の名前が比較的多く見られ、楽団名も定かではない場合が多い。イギリスは音楽消費国として今も一大市場を保っているが、録音に関してもエルガー自作自演を頂点として様々な、多くの録音を作ってきた(もちろん今もそうであるが中欧の有名オケに名を売る踏み台になってしまっている感も強い)。この演奏は古い録音ならではの感傷性があり、ビーチャムの速度感に近いものもあるのだが、気持ちの良い演奏となっている。録音の悪さはもうし方なく、DUTTONなのでこれ以上を望んでもしょうがない。最初ビーチャムかと思ったくらいだが、まあ、そのあたりは。○。この曲、私も記憶が曖昧なので申し訳ないのだが、ほんとにイルメリン前奏曲だったかなあ・・・,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「イルメリン」〜前奏曲,○フェリックス・スラットキン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(CAPITOL/PRISTINE)1952/9/8,11,,特徴に乏しい解釈ではあるがディーリアスのスコアをしっかり表現した演奏としては特徴的ではある。ディーリアスのスコアはひょっとして下手なのかな。みんな手を入れてるのかな。室内楽もビーチャムとか手を入れているし。だが、ヴァイオリン曲はけっこういいのに。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:歌劇「イルメリン」〜前奏曲,○フェンビー指揮ロイヤル・フィル(unicorn)1987版・CD,,唸るほど美しいヴァイオリンの音色。まだ単純な、それだけに純粋にメロディの爽やかな感傷と細やかなハーモニーにやられてしまう。フェンビーはほんとにこの音楽を愛している、もっと言うならディーリアスのメロディを愛している。バルビローリというメロディの異才がディーリアスにおいて独特の高みを示す一方、フェンビーは使徒としての十二分の役割を果たしている。とにかく、弦楽合奏の響きも黄金に眩く輝き、絶品。木管やハープも音色を損ねない。強いて言えばホルンに少し違和感があるが曲のせいだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「イルメリン」〜前奏曲,ライナー指揮シカゴ交響楽団(SLS)1954/2/10シカゴWGN-TVスタジオ,,放送用録音の放送起こしか。録音は籠もり鄙びた音がするからライヴかと思った。その鄙びたところが冒頭からラストまでひたすら繰り返される動機を担う数々の楽器をもって懐かしくもハッキリと、これがディーリアスの曲であることを示している。ディーリアス好きからすると響きが薄いので満足できない曲かもしれないが、手軽な五分半という長さであればディーリアンならずともその世界の良さを味わうに程よく、これで音が良ければ、ライナーの曖昧さのない捌きがむしろディーリアスの考え抜かれた懐深さを浮き彫りにして良いと思う。ほんと、ボロディンふうの世界からここまで達するのに苦心があったろうというか、リヒャルト・シュトラウス等の楽器法と和声の巧みなところを取り込んで、民謡風のメロディを自然に軽やかに引き立てることに成功した(ゆえマンネリズムを持ち味にしてからは好悪別つと思われる)ディーリアスのロマンスに触れるには良い小品。前衛的な晦渋さに凝りだしてからの作風が好きな向きは物足りないか。ライナーのディーリアスは知る限りこれが2つ目だが、データ不整合なものの同一かどうかは確かめない。面倒なので。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「イルメリン」〜2幕と三つの情景,○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル、ステュワート(T)ラウンド(MSP)(WSA/DA:CD-R)1954/9/16LIVE,,DAの放送盤はビーチャムによる舞台解説から始まるが、最初の管弦楽だけによる前奏はつまらない。初期ディーリアスのワグナー/リヒャルト的な、もしくは国民楽派的な生硬な部分が出てしまっている。しかし所々にあらわれる非ドイツ的な情景、ゆっくりたゆたう響きにビーチャムは絶妙なバランスと音色操作をほどこし、芯は残るものの美しくまとまっている。聴きどころはやはり歌が入ってからで、歌劇から名を売ったディーリアスの面目躍如たる、楽園への道にきかれるような明るく濃厚な表現が、アパラチアのアメリカ的音階や前時代的な通り一遍な作法を押し退けてきこえてきてよい。状態からいって歌が入って以降はスタジオ録音の放送の可能性もある。WSA(LP)は協会盤に近い頒布盤のようだが、2幕より3つの情景となっている。未検証。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「コアンガ」よりラ・カリンダ,◎ビーチャム指揮?(DA:CD-R)1943/7/6ArmedForcesConcert・放送live,,「コンサートホールオーケストラ」の客演記録。こういう曲でのビーチャムはすこぶる巧い!爽やかな一陣の風のように浮き立つようなリズムと憧れに満ちたフレージングで曲の若々しき魅力を存分に味わわせてくれる。オペラのアリアをコロラトゥーラ・ソプラノの名手リリー・ポンスとつづったコンサートで間奏曲的に挿入された演目。録音は劣悪であるもののノイズが抑えられ原音が失われていない。◎にさせてください。晩年ではないスタジオでもないビーチャムの「本来の魅力」を垣間見させる一片の名演。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:歌劇「コアンガ」よりラ・カリンダ,ランバート指揮ハレO
ディーリアス:歌劇「コアンガ」よりラ・カリンダ,バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD,,雄大でロマンティックなバルビ・スタジオ録音のいいところも悪いところも典型的に出た演奏。ただ、この劇中音楽には軽やかで颯爽とした表現が欲しい。まずリズム感が皆無で横広がりの旋律音楽になっており(これも典型的なバルビ節だ)、ボロディンを意識したと思われる駿馬が草原を走るような情景は微塵もない。ロマンティックな歌曲を聴いているようだ。ハレ管はいつになく巧い(この曲は縦横に配置された短い音符を全部揃える必要があるという点では結構面倒なのだ)がイギリスオケの特徴である軽い音が発揮できない。いや、発揮させていないのだろう、バルビが。木管ソロも(非常に難しいんだけど)通り一遍の表現で美しい旋律を最大限に生かすまでにはいっていない。違和感ギリギリまで歌うべきなのだ。旋律美はこの短い曲の大きな魅力の一つであり、遅いテンポが表現の邪魔をした可能性もあるかとは思う。総じて雄大過ぎ。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「コアンガ」よりラ・カリンダ(フェンビー編),○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD,同上,ほんらいボロディン的な疾走する音楽のところ、しっとり落ち着いた壮大な音楽にしてしまっているところが独特の軟らかい演奏。管の音色はすばらしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「ハッサン」のセレナーデ(チェロ編曲),ベアトリス・ハリスン(Vc)マーガレット・ハリスン(p)(symposium他)1929/10・CD,,ハリスン三姉妹の私的な記録なのだろうか、いかにも甘い初期作品の旋律をチェロ音域でロマンティックに描いており、ちょっと録音が悪いので楽しむまではいかないが、時代の雰囲気と、比較的若いころのディーリアスの思い描いた音楽のイメージが感じ取れるものである。個人的にはもっと自然に旋律の美しさをそのまま描くほうが入り易い。ちょっと胃にもたれる。ボロディンの中央アジア世界からくるオリエンタリズムの直の影響を受けていたころの歌劇作品からの編曲。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「ハッサン」のセレナーデ(チェロ編曲),◎ベアトリス・ハリスン(Vc)マーガレット・ハリスン(P)(SYMPOSIUM)1929/10・CD,同上,初期作品の編曲だがやはりボロディンの影響を受けていた頃のディーリアスは旋律が瑞々しくわかりやすい。ハリスン姉妹の中でベアトリスは際立って巧い。ヴァイオリンのような音色でまさに歌そのものを素直に聞かせる。アンコールピースに適した曲だが、見本のような演奏なので◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「ハッサン」〜間奏曲とセレナーデ,○フェリックス・スラットキン指揮コンサート・アーツ管弦楽団、ポール・シュア(Vn)エレノア・アレア(Vc)(CAPITOL/PRISTINE)1952/9/8,11,,バックオケが強すぎるな、編成が大きいのか奏法を揃え音量を出させ過ぎているのか、でも、旋律がはっきりしている曲においては、このコンビでも違和感は薄い。どうもPRISTINEの原盤が状態がそれほどよくないようで、靄のかかったような音がちょっと気になる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:歌劇「ハッサン」〜間奏曲とセレナーデ(ビーチャム編),○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団、ティアー(T)(EMI)1968/8/6-8・CD ,,連続して演奏される抜粋編曲で小夜曲では無歌詞によるテノール独唱と低弦アンサンブルが接いで旋律を受け持つ。バルビのディーリアスはビーチャムやマッケラスなどとまるでちがっていて、RVWの音楽のようなウェットなロマンチシズムを持ち込んでいる。有機的なフレージングとボリュームのある音質・音量が目立ち、音響的にはそれほど重心の低い安定感はないものの、フランス音楽よりはドイツ音楽、それもロマン派のそれに近いものを感じさせる。短い曲ではあるが、ビーチャムの同曲演奏が好きな向きにはとても受け付けない「臭気」がするだろうと思う。もちろん知らなければ素直に愉しめばいい。私は今は余りこういう演奏は受け付けない。録音最上。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:歌劇「ハッサン」〜間奏曲とセレナーデ(ビーチャム編),○ビーチャム指揮シアトル交響楽団(DA:CD-R)1960/2/18live,,インホール録音か。音がうぶなステレオで明晰過ぎるくらい明晰(雑音も無論ある)。弦楽ソロを多用したシンプルなものゆえに一音一音を明晰に響かせるビーチャムのアンサンブルはとても美しく、少ない音の中、ハープがドビュッシーのように響いたりとはっとさせられる。ビーチャムのイメージとも、アンコールピースというもののイメージとも離れた詠嘆の表現とも言うべき、しかしとても乾燥した美麗さをたもった演奏ぶりだ。客演でもここまで冷え冷えと硬質に磨かれた演奏ができたのである、ビーチャムという人は。○。続けて演奏されるセレナーデは本来歌曲。無歌詞テノール独唱への編曲も行っている(バルビローリがこの編曲を使用している)。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:歌劇「フェニモアとジェルダ」〜間奏曲,○バルビローリ指揮NYP(DA:CD-R)1962?LIVE,,ミヨーのフィルハーモニック序曲のあとになぜかクレジットなしで収録されていたもの。雑音が多く状態がかなり悪いため、別日と思われる。バルビのディーリアスはこれでもかというくらい陶酔しきったものと若干引き気味なものに別れるように思う。これは後者である。仄かな雰囲気を楽しむ程度におさまっており、違和感をかもすことはない。バルビなので感傷的ではある。曲はまさにディーリアス。メタリヒャルトでもメタフランクでもメタドビュッシーでもない、また晦渋で哲学的な領域に至ることもなく長ったらしくなることもない、いちばんいい形のディーリアス。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「フェニモアとジェルダ」〜間奏曲,○バルビローリ指揮NYP(DA:CD-R)1962/11/30live,同上?,まさにディーリアスといった様子のいい意味でも悪い意味でも「外れることがない」作品である。「楽園への道」をさらにわかりやすくしたような、更に微温的にしたようなやさしい作品であり、バルビの真骨頂ともいえる。ちょっと主張が強すぎると感じられる向きもあるかもしれないがオケのせいだろう。だがこのオケがよくハマっている。NYPというとどうしても余りバルビを受け入れなかった(オケか聴衆か今となっては定かではないが)イメージがあるが、どうしてマーラーに代表される50年代以降の演奏にはぴたりとはまった名演が多い。バルビはアメリカのオケの人工的な音にはあわない感もあるがNYPは別である。録音はモノラルで悪い放送録音だが、ここでは安定感があり聴きやすいほうに働いている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「フェニモアとジェルダ」〜間奏曲(フェンビー編),○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD,,ディーリアスらしい、というとかならず含まれる曲のひとつで、ロマンティックな田園牧歌、そのものである。バルビもここではただ密やかに、軟らかな表現を提示するしかない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:1幕による歌劇「赤い鸚鵡(マルゴ=ラ=ルージュ)」(1902),デル・マー指揮BBC合唱団・管弦楽団(arabesque)世界初録音1981・CD,,冒頭から「ディーリアスのサウンド・スケープ」が広がる。既に作風が確立していたことがわかり安堵する。以後もゆったり安心して聞ける。これはフロリダなどの垢抜けた能天気から一歩踏み出した佳品であり、未出版であったのが不思議なくらいディーリアス風景を効果的に描き出す。冒頭からもう期待通りの音、ディーリアスは器楽曲などではあからさまな旋律的楽曲、大規模な歌劇ではワグナーふうの少し複雑で大仰な景色を見せ、後年ではヴァイオリン協奏曲など可成晦渋な内面世界を描き、総じて賛否分かれる作曲家だ。だがこれは完成度が高く、満足できるでしょう。蛇足で恐縮だが歌も美しい。ラヴェルがヴォーカル・スコアを起こしたのは有名な話し(極めて珍しいことだろう。ラヴェルのディスコグラフィにもちゃんと載っている)。多分この盤しか無いが、ヴォーン・ウィリアムズの弟子デル・マーの棒はマッケラス張りのしっかりした、しかも繊細な配慮のあるものだから、安心して聞ける。「魔法の泉」も収録。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:1幕による歌劇「赤い鸚鵡(マルゴ=ラ=ルージュ)」(1902)〜前奏曲,メレディス・デイヴィス指揮ロイヤル・フィル(EMI)1968版・CD,,ラヴェルが編曲したので有名な歌劇からの3分半の抜粋で、なんてことはない小品である。歌劇全体も録音が出ているが、なかなかの出来栄えで、その全体をこの小品から窺い知ることは不可能である。演奏もぱっとしない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」(1901),ビーチャム指揮ロイヤル・フィル、マーガレット・リッチー(sp)ほか(EMI)1948 ビーチャムはイギリス初演のあとに作曲家に終幕への間奏曲を書く事を薦めた。そこで「楽園への道」が書き上げられたのは1915年ごろといわれており、ディーリアスの最高傑作とされるとおり完成度の非常に高いものとなっている。他の部分yろい密度が高く感じる方もいるだろうがそういうことなのだ。ビーチャムは3管編成を2管編成に改めたが、現行版はほとんどそれによっている。ここには全曲版録音をあげたが音がモノラルで余り良くない。だが典雅で決して耽溺しないビーチャムの作り上げたお墨付きの世界を味わいたい方は是非一聴を。以下、間奏曲「楽園への道」について少々。”「楽園への道」と田舎村の事件”(1993記)いちばん重要な最後のシーンへのつなぎとなった曲で、使徒ビーチャムのたっての願いで上演版に付け加えられた、でも今や手ごろなディーリアス入門曲として単独で奏されるのが殆の作品である。スイスの荒涼とした田園風景。閉鎖的なsquaresville(註)での農夫生活が、時代の流れによって理不尽にも失われ、神に約束された男女が、手に手をとりあい村を抜け出すところから展開する悲劇的な話し。幼なじみはかつて争いの無い平和な田園にて美しくはかない若さのうちにうつし出される俊やかな風景の中、緩やかに愛をはぐくんでいた。ふたりには共通の「秘密の花園」があった。それはパブの庭で、店には「楽園」という名がついていた。美しい草花に満ち溢れた夢のような光り溢れる場所であった。逢瀬はいつも花のベッドの中。雲雀のからかいが時折耳元に滴り落ちる。若い二人には聞こえない。穏やかな生活、貧しいけれども密やかな花々に彩られた人生の小道を二人でゆっくりと歩み、静かに終わる贅沢。約束された土地は彼らの目の前にあったはずだった。それを変えたのがさすらいのヴァイオリニスト(フィドラー)だった。たまたま森できいたエキサイティングな狂詩曲、そしてその言葉が、かれらの両親の耕している耕地の権利問題を明らかにしてしまった。両親は境界線や所有権を争いだし、二人は引き裂かれる。ところが長年の争いは所詮ちいさな農家の僅か数人の間の話し、じっさいに争っていたのは二人の父親のみで、皮肉なことに何の解決も無いまま、消えてしまう。再会に喜ぶ二人はもう立派な大人だが知っていることは自然のことと畠のことだけであった。都会へ出てしまうが、それは未知の汚い世界であった。彼等の頭に、引き裂かれる前の記憶が美しく儚く蘇る。「楽園」。ふたりの足取りは堅い石から柔らかな土のうえに優しく音をたて、想い出がノスタルジックな音の交響となってふたつの頭を覆い隠す。二人の世界がある・・・「楽園」に。さてこういう知識をもって曲を聞き直してください(そんなの知っている、というかたでも是非・・・)。そして、「楽園」がどうなったかは・・・想像してください。唯一の手がかりは、想い出は余りに美しすぎる、ということです。・・・註(城壁にかこまれた小さな中世の村落を、限られた正方形の中に教会の尖塔を中心とした周囲に広場と集落が分布するという中世からの伝統的な村の在り方にたいする揶揄的な言い回し。スタカンと双璧をなした、早すぎた天才(ブルーアイド)ソウルシンガー、ブロウ・モンキーズのDr.ロバートの名曲・名歌詞が大好きだった。そこに閉鎖的社会の象徴として挙げられた簡潔なことば、音の未だ新鮮さを失わない曲、独特の歌詞とあいまって、同時期クラシックの見方を大きく変える威力を放つチャールズ・アイヴズの強烈な理念とともに、私の人生を大きく狂わせて呉れた),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」(1901),マッケラス指揮オーストリア放送交響楽団シェーンベルク合唱団、黒髪のヴァイオリン弾き(汚い男)役:トマス・ハンプソンほか (argo)1989 ディーリアスの歌劇における代表作。4作めで手慣れた物だがまだ若い分少し2大リヒアルトの香りが残っている。放蕩息子ディーリアスの、名声が確立したあと画家イエルカとの出会い、そして半ば共同作業のようにして仕上げた作品の一つ。ふたりは決して中むつまじかったわけではなく愛人問題などもあったらしいが、この結婚前においては或る程度素直な共感の中にこの純粋な、純粋にすぎる愛の物語も紡がれたわけである。名指揮者ビーチャムたっての願いにより付け加えられた、後半クライマックス前の間奏曲「楽園への道」は、ディーリアス全作品のうちでも疑いの無い代表作だ。聴くうちに限りなく哀切のひろがる曲、もうそこにはない幼き頃の夢の花園にむかって、肩を寄せ合い歩き向かう情景を描いている。街の喧騒につかれ故郷を目指す二人の姿に自ずを映し出す向きもいらっしゃるのではないだろうか。純粋に曲としても恍惚の絶品だ。単独で演奏されることが圧倒的に多いが、筋の流れで聴くのが最も効果的であり、全曲盤で触れることには絶対意味がある。ビーチャム盤表記では2場による作品となっているが、実際は 6場(2幕)の比較的長い作品である。前半はディーリアスらしい自然の美しさをうたう情景描写と織り交ざるゆるやかなドラマに満ち、かなり単調な起伏の繰り返し〜英国の広大な大地のうねりを想起してほしい〜であるもののディーリアンには堪らない果てしない流れが続く。この作品の白眉は圧倒的な後半、主人公の男女が生地を追われ街に出るところから始まり、たまたまの祭りのダイナミックな音響(マッケラス盤にはサーカスの観衆拍手迄入る)と圧倒される印象的な旋律の交錯に、初端より傑作であることの証しを見せ付けられる。疲れのままに「楽園」への逃避行を描く間奏曲は前記のとおり、そして既に楽園ではなくなった荒れたガーデンで絶望感に呉れるふたりを誘うジプシーのヴァイオリン弾き(ジプシーヴァイオリンと意味の無い奇矯な発声、兵士の物語をふと思い出すがこちらがずっと先)の存在感が前半で顕れたときにもまして、しっかりと印象付けられる。音楽映画ディーリアス(一時期NHKでさかんに放映されていた)のなかの「楽園への道」は花を積んだ一艘のボートがながれゆく様で耐え難い余韻をのこすが、そのとおりの結末である。最後男女の嘆きの交換が幾分雄弁であるものの、沈める舟のまさに退嬰の幕切れを、遠い船頭の呼び声が、耐え難く演出する。・・・この底本は同時代スイスの詩人ゴットフリート・ケラーによってかかれた短編小説。「村のロメオとユリア」名で1989年岩波文庫化されているが、現在は重版待ちの状態につき図書館を当たって欲しい。以上の書き口では伝わらないかもしれないが(泣)、発表当時内容的に物議をかもしたという、単純ではない筋書きだ。もっと詳しくは底本ならびに是非マッケラス盤に付いた故三浦淳史氏渾身の分厚いライナーを読んでいただきたいのだが(見方に偏りもあるにせよ、これは力の篭った名文であり、他に得られぬ情報もあり、英文対訳も付いているので是非一見の機会をお勧めする)、何等罪の無い素朴な農夫たちが、近代社会の業・・・「金」により不幸に陥れられ、かれらの子供として、幼なじみのまま恋人になり夫婦になり子孫を育てることが約束されているはずの男女は、屍肉にたかるハイエナのような畠の領分争いの末、有無をいわさず引き裂かれてしまう・・・ロメオとジュリエットの剽窃というわけではない。あくまでその状況を、言わばジャーナリスティックな観点から「なぞらえた」ものとして描写される。溯ってしまうが、幼い二人の無邪気な戯れは冒頭よりかなりの長さが費やされている。しかし争いの時は長くつづき(このあたりがかなり省かれているが) 6年ののちにふたりの両親は、退嬰のままともに舞台から消え去ってしまう。解き放たれると同時に行き場を失った二人。再会のよろこびも束の間美しき自然と田畑を追われ、街に出る。騒がしい喧騒、生まれて初めての人人人の群れ、しかも祭りの最中で「天井桟敷の人々」になりかねぬ・・・優しきふたりの田舎びとは、”近代社会”の混乱に馴染めず、次いで森で、幼き頃以来に再会したヴァイオリン片手のヒッピーふうの男・・・この台本においてはすっかり狂言廻しであるが重要な役所で、じつは相続権を失ったかつての地主の私生児で、酒手に徘徊しながら仲間とホームレス生活を送る。そもそもふたりの両親はこの地主の所有権の無い土地を争ったのであり、原作ではもっと肝要な位置にいるのだが、ここでの飄々とした吟遊詩人風の位置づけは、とくに冒頭においてはまるで小泉八雲最晩年の詩的随筆「向日葵」そのもの。森の中のジプシー風大男というのは、英国人にとって特別の感傷的素材なのだろう・・・の誘いにも乗ることが出来ず、どこにも居場所を失った挙げ句、遂に、心中する。彼等は妥協もできたし、様々な誘いも得た。すべてを退けてまでなぜ死ななければならなかったのか・・・自らを時代に合わせて変容させることもできないほど、純粋な愛をおもんじる素朴な男女すぎたのか。かつての時代であれば、日々に悩み無く余計な夢すら抱かずに、朝は日の出より畠に出て、夜は家族で楽しいひとときをすごす。先祖代代そうやって生きてきた連環が、、、、時代、金と多くの人の争いに満ちた俗世、によって断ち切られた。自然主義者ディーリアス、若き頃の放浪生活の気分、そして保守的な英国において異邦人として生まれ育ち(両親はドイツ人でドイツ語のほうが堪能だった)マーラーのように「故郷を持たない」人生であったこと(この作品の直前に、のちの妻イエルカの財力により生涯の住居をパリ郊外グレ(シェーンベルクの「グレ」)に定めた・・・イギリスではなく、フランスにであった。尤も英国への愛着はあり、死後はイギリス近代音楽の第一人者とまで祭り上げられ、分骨すらされたのであるが。)、それら個人的な気分が内容への共感となってあらわれている。生き残る手段はいくらでもあったのに、生まれ育った自然に永遠に消え入ることを選んだふたりの姿は、野暮のかけらもない重奏音楽の絶妙により、水上の美しい死をもって永遠にわれわれの心の中に生き続ける。・・・ふたりは狂詩曲をかなでるあの男を尻目に、藁を積んだ小舟に乗り身をよこたえると、流れの中で栓を抜き、森のやわらかな霞のなかに姿を消す・・・非常に世紀末的なペシミズムに彩られているが、ディーリアス自身若き頃フロリダの農園をはじめ放浪してまわり、異邦人として生まれ故境外で生涯をおえているのも重ね重ね思い出す・・・あ、結局全部を語ってしまった!できれば事前情報なしに英語版を聞いて(観て)ほしいものだが。シェークスピアの素材を殆ど題名とシチュエイションのみ借りて描かれた現代的な複雑な作品である(架空の近代国家セルトヴィラの住人に起こった出来事の一つとして書かれたもので、現代風刺の気がある)。けっこう日本的な心中物で、筋は近松のそれに近いような気すらする。その情景は殆ど広大な田畠や森、川の中に描かれており、前半は物語の性格上とくに著しくきかれる。柔らかな鳥のこえ、ひろがる朝霧の田畑、森のさざめき、遠い角笛の交歓・・・。私じしんかつて恋に敗れたとき、ひどく心を打たれた覚えがある。結末もそうだが、寧ろその始まりの美しさに涙を得た。イギリス人はこのドイツ系の血を引く作曲家をことのほか愛し、70年代にはさかんにイメージ映像化がなされている。同作品も映像化されており(レーザーディスクと聞いた)、私は未見だが機会があれば見てみたい(マッケラスの音源らしい)。映像もしくは上演形式で観たい。切におもう。理由のひとつに、この作品の抱える根本的な問題点が挙げられる。これはディーリアスとイエルカの手により抄訳されているのだが、抜粋が過ぎるために、全編噎せ返るような音楽の雰囲気が、本質的な黒いテーマを隠してしまい、(豆知識:これはドイツ語と英語台本両方自ら(夫婦)の手で作られている。それはこの歌劇に限らずで、ディーリアス自身ドイツ語で育ったことが理由。イエルカはフランス語にも長じた万能だったがそれ以上の天才ディーリアスの為に生涯を尽くした。)最近手ごろなペーパーバックで復刻された「私の知っているディーリアス」(晩年作曲家の手足となった故フェンビー氏著、ドーヴァー)にはディーリアスの晩年を映像に描いた有名なケン・ラッセルについても触れられていて興味深い。ラッセルの作曲家シリーズはチャイコフスキーなどをみればわかるとおり(「惑星」は傑作だが)かなり恣意的なシニックが感じられるゆえ、優しいディーリアンはショックを受ける可能性があるが。つらつらと書いてしまっている。しかしそれだけの曲なのだ。マッケラスについては言うまでもなくかつてはヤナーチェクの権威、そして疑いなく現代ディーリアスの最高の指揮者である。argoに集中して録音しており、ブリッグの定期市など美しすぎ透明すぎて却ってすんなり聴けすぎてしまうところもあるが、明瞭な音作りにはビーチャム(初演者)のはっきりした香りも残り、聴き易い。オーストリアのオケの音がこれほど透明にも表現可能ということを初めて知った盤だった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」〜間奏曲「楽園への道」,○A.コリンズ指揮LSO(decca/PRSC他)1953・CD,,このコリンズのディーリアス集の中では小粒でぱっとしない。すんなり聴けてしまう。楽曲はおそらくディーリアスの代表作で、かつ、ビーチャムの依頼で後から付け加えられた(時期的に既に病魔が表だって体を蝕んでいた時期だと思われる)事実上歌劇とは別の曲なのだが、それもさりなんという感じだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」〜間奏曲「楽園への道」,○グーセンス指揮シンシナティ交響楽団(RCA)LP,,重厚でがっしりした「楽園への道」だがワグナーふうのぬるま湯い表現が無くオケの音もニュートラルなので、ドイツ的という感じは無い。ちょっと面白い、寸止めの感傷性が良いが、この曲には多少しっとりした、多少フワフワした部分も欲しいわけで、録音もそれほどよくない点含め、機会があればどうぞ、というところか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」〜間奏曲「楽園への道」,○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(aura,HMV/ermitage)1957/10/20アスコーナlive・CD,,スイスの作家ケラー「村のロメオとユリア」(岩波文庫)に基づく歌劇「村のロミオとジュリエット」からビーチャムのたっての要望で管弦楽曲として編み直された間奏曲。ドイツ・ロマン派的な耽美性と民謡旋律の鄙びた情感が妖しく絡み合うディーリアスの代表作。ビーチャムの指揮はいつ聴いてもそうなのだがディーリアスの退嬰的な音楽を表現するには生命力がいささかありすぎる感がある。このHMVの超お得盤セットに収録されたライヴ録音はきわめて明瞭な擬似ステレオだが、それだけにいっそう冒頭からビーチャムの力強く前進的な表現が耳につく。途中弱音部にはディーリアスの淡い色彩が柔らかく描き出されるが、その間の起伏にドラマがありすぎる。間奏曲にしては余りに自己主張する曲でもありしょうがない面もあるし、原作はディーリアス夫妻による脚本に比べ結構ドラマティックな内容になっており、廃墟の「楽園」へ向かう場面も実はかなり騒々しいように読めるので、この表現でいいのかもしれない。ただやはり颯爽とした速いスピード感が最後まで気にはなった。あと観客の雑音・・・よくこの陶酔的な音楽の中で不躾に咳できるものだ。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」〜間奏曲「楽園への道」,○ビーチャム指揮ABCネットワーク交響楽団(DA:CD-R)1945/4/7LIVE,,パレーの後に聴いたのだがやっぱりオーソリティは違う!パレーはただただ美しかったが、ビーチャムはドラマがある。最初の余りに繊細で小さな動き・響きからクライマックスの即物的なほど強く速い(ビーチャムらしいケレン味の無い縦のしっかりした颯爽としたものだ)表現までのコントラストが凄まじい。ただ、いつもだけど、叫んだり数えたりはやめてほしい。。プロオケなんだから。。オケ名はおそらく正確にはNYの有名オケのどこかだろう。もっともこの団体名はオーストラリアにも実在する。雑音は最悪。放送音源自体がLPで状態が悪いものと思われる。しかし静かな場面は引くでも押すでもない絶妙な情趣をかもすのに、なんでフォルテになると棒みたいなテンポで強くもあっさりやってしまうんだろうなあビーチャム。古典のやりすぎか?ディーリアスの歌劇でもそうなんですよね。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」〜間奏曲「楽園への道」,○トーイェ指揮新交響楽団(HMV)1929/9/13・SP,,いきなり即物的で情感の無い軽い表現にがくりとさせられる。弱音部は美しいがフォルテがあからさますぎる。まるでワグナーだ。音も明るく陰がない。うーん。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」〜間奏曲「楽園への道」,トーイェ指揮ロンドン交響楽団(DUTTON)CD,同上?,これは古い録音だけれども、即物的というか古い録音にしばしばある、全く感傷的な音を出さずに機械的に構じられたものの印象が強い。ビーチャムを更にあっさりしたような速度に、悉く「棒吹き」の管楽器、無難に「イギリス的」な範疇を出ない弦楽器、いずれもバルビとは対極の表現である。それでもアーティキュレーションはしっかりつけられておりオケ自体も非常にいいわけで、聴けてはしまうのだけれども、いささか職人的に過ぎる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」〜間奏曲「楽園への道」,○バルビローリ指揮ウィーン・フィル(DUTTON)1947/8/20ザルツブルグlive・CD,,補正と擬似ステレオ化が過ぎており原音の音色や響き具合が全くわからない。元がウィーン・フィルかどうかですらわからないような悪い音であった可能性もあるが、とにかくウィーンの音の特質は響いてこないし、技術的にすぐれているオケというくらいしか読み取れない。恍惚的な解釈をするバルビではあるがここではいくぶん抑え気味のようにも感じる。バルビ特有のフレージングの柔らかさやすべらかなデュナーミク変化も殆ど伝わらないが、じっさいに中欧的に多少感情を抑えてスマートなふうをしているのかもしれない。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」〜間奏曲「楽園への道」,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(DUTTON/PYE)1956/6/21・CD,,あまりにも有名なPYE録音のひとつ。私もLPで親しんだ。ただバルビローリの同曲、今は無数にでておりこれが中でも際立っているところはない。録音ですらこの時期なのでそれほどクリアではない。スタイルも耽溺せずスタンダードですらある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」〜間奏曲「楽園への道」,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(HMV)1945/2/16・SP,,録音に難があるが重厚にうねるようなバルビ節はしっかり聞こえてくる。ややロマンチシズム過多かもしれないが物語の筋書きをなぞるように狂おしく切ない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」〜間奏曲「楽園への道」,○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(BS)1959/1/31live・CD,,協会盤。同曲含めDAで29、30日ライブというのが既出だが、このCDは30、31日のライブとなっており、アナウンスからして同じものと思われる。則ちこれはDAで30日とされていたものだろう。演奏はややねっとりしているが、ぎごちなさも感じるのはこのての曲に慣れていないからだろうか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」〜間奏曲「楽園への道」,○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R他)1959/1/30live,同上?,録音状態に問題がある。聞き覚えのある音ゆえ恐らくM&Aなどで出ていたものと同じだろう。ステレオだが音場がじつに安定せず傷も多く、管楽器の音色もやや古びて聞こえ、全体の造形が人工的に感じられ違和感をおぼえさせる。解釈は他の盤とほぼ一緒の非常に感情的なフレージングが多用されたものゆえ、冷徹なオケと意思的なバルビが噛みあっていないだけともとれる。相対的に無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」〜間奏曲「楽園への道」,○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(VAI:DVD/DA:CD-R他)1959/1/29live(映像),同上?,荘重にたゆたうような音楽はやや遠く、いつもの感情的なバルビとは少し異質な感じもするが単純に録音の悪さゆえだろう。とにかくホワイトノイズがきつく、音場も安定しないステレオでヴァイオリンが右から聞こえてきたりといろいろ問題は大きい。表現の起伏のなさはそれでも特記できるかもしれないが、バルビらしくない。そのぶんボストン響の表現力・・・とくに木管ソロの美しさ・・・が際立って聞こえてくるのは相対的なものかもしれない。○。vaiの映像は30日か2/3のものかもしれないが未確認。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」〜間奏曲「楽園への道」,○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1964/11/7live,,ステレオで聴きやすい音。バルビのディーリアス適性をもっともよくあらわすことのできる感傷的な曲である。伸縮自在のルバートが曲の流れを邪魔することなくスムーズに聴かせ、これを聴くと他が素っ気無くて聴けなくなるという、バルビがごく一部の曲にみせた異常な適性を聞き取ることができる。基本的な解釈はどの盤も変わらないが、ここではフィルハーモニア管を操るようになめらかに板についた表現をみせており秀逸。まあ、放送エアチェックなりの録音なので○にとどめておくが。50年代のものにくらべテンポはかなり速くなっている(2分弱)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」〜間奏曲「楽園への道」,○パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1960/4/7LIVE,,録音がやや辛いのとあけすけな演奏ぶりに違和感を感じなくもなかったので無印にしてもよかったのだが、こういう明るくボリューム感ある音色のディーリアスも珍しいので○。しっかりしたディーリアスの曲はこういう即物様式にもしっかり映える(テイストは無いが)。整え研かれた立体的な音楽には構造への配慮が不要なくらいになされ、モノラルでも滑稽なほど雄弁に語られるさまが聴いてとれる。オケの技術の高さというか、オシゴトとしてソロをこなす管に余裕すら感じられるのは少し気になる。メンデルスゾーンやウォルトンなどと一緒に行なわれたオールイギリスプログラムの中の一曲。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:河の上の夏の夜,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD,,モダンなディーリアスがあらわれている、少し大人の点描的音楽だが、バルビはリヒャルトやシェーンベルクを取り上げたとき同様、音響やドラマを堅く組み上げるより、細かい近視眼的なニュアンス変化をつらねることにより官能性を薄く軟らかくたくさん重ねていくようなやり方で前衛的な不可思議さを感傷に逃がしている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:海流,○アレクサンダー(B)シューリヒト指揮バイエルン放送交響楽団、合唱団(archipel)1963/3/8・CD,,この時期にしては録音はあまりよくない(おそらくモノラル原盤)。シューリヒトの意外な演目だがこの人はイギリスでも人気があったしディーリアスの同時期の曲がドイツ語で書かれているものが多くイギリスよりドイツで先に認められたという経緯もあり(この演奏はドイツ語歌唱によるものである)、また、聴けばわかるのだが晩年シューリヒトのさらさらとした演奏ぶりが透徹したような曲の性質にあっており、これを選んだ理由がなんとなくわかる。シューリヒトというとブルックナーだが晩年のブルックナーの芸風を更に薄めたような、海流というより渓流のような軽々とした透明感にちょっとびっくりした。バリトンはしっかり主張しており、バックオケ・合唱とのコントラストが明瞭である。ビーチャムあたりと比べると面白いかもしれない。客観的に引いたようなディーリアスというのもなかなかだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:幻想的舞曲,フェンビー指揮ロイヤル・フィル(unicorn)1987版・CD,,こういう歪んだワルツ好き。何かの編曲か抜粋だと思うが、いつものディーリアスの半音階、常に厚い響きの動き方は定形化しているし、旋律の展開もいつものディーリアスのやり方、最後は前期っぽいチープな明るさも出るが、ラヴェルやプロコフィエフも玩んだウィンナーワルツのこれもまた奇怪なパスティシュなのか。とにかく主題がディーリアスのワンパターンにはない魅力的なものなので、短いですが、できればもっとこなれたワルツの歌い手の振ったものにてどうぞ。音色や録音は良いんですけどね。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:弦楽四重奏曲,○フィデリオ四重奏団(PYE),,熟達した安定感のある演奏解釈ぶりである。この「鄙びているのに厚ぼったい」独特の情感をもった曲のとくに硬質な響きを「整えすぎることなく、しかし旋律偏重のロマンでごまかすのでもなく」強く打ち出し、民謡旋律の生々しさとのバランスをとることにより、ディーリアスの特質と一種弱点(RVWは「ここ」を克服しているのである)をとらえた演奏に仕上げている。若い団体が取り組むことの多い曲のように思うが、比較的練達した演奏家によるものとして安心してきくことができる。ファーストの音に魅力があるかどうかでファースト偏重の楽曲というのは決まってしまうところがあるが、この団体も(全員が非常に太い音を出すが)圧倒的にファーストの個性が強く、いかにもイギリスのソリストといった・・・メニューヒンをどうしても思い浮かべてしまう・・・太い音であるものの不安定になりかねない音程どりで憂いあるヴィブラートをかけてくる。時々旋律が和声に隠れてしまうがファーストが強いのでおおむね成功している。ディーリアスはまあ、ワグナー系の分厚い音を使うのに、表現内容は淡いパステルカラーの田園世界というアンビバレンツな曲を書くため、楽器の本数が少ない曲ではその世界観を崩さずに全ての音を出していくのは(重くなりすぎるため)けっこう難しいものだ。現代ふうに響きを整え精緻さを求めていくと、ロマン性が失われてしまう。其の点ではバランスがとれていていいのではないか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:弦楽四重奏曲(1916),◎ブロドスキー四重奏団 3楽章は取り出して弦楽合奏で演奏されることが多い。「遅いつばめ」である。 退嬰の極みの音楽だが、バルビローリなど寧ろ恍惚を感じさせる危うき美を 演じている。だが、原曲の4本になると、かなり鄙びた感じがする。他楽章に並んで、農村牧歌的な趣を強くする。全曲で非常にまとまった作品に仕上がっていて、 一部曲を抽出(フェンビー編)した弦楽合奏とは別物として聞いた方が良いだろう。 1楽章は伸び縮みする不思議な民謡主題に始まるが、半音階でたゆたったり、俄かに駆け上る 妖しさは非常に個性的である。2楽章はファースト偏重傾向の強い同曲中でも一番偏重 していて、下3本は和音の部品を刻むだけの部分が多い。でも旋律そのものに魅力があり、 中間部ではドビュッシー的な入り組んだ構造も(個性的ではないが)特徴的に響く。 4楽章はボロディン的というべきか、やや長い。途中息切れするような部分もあるし、 後半収集がつかず断絶して終わるような感もある。影響関係を指摘されるヴォーン・ ウィリアムズの四重奏1番を彷彿とさせるところもあるが、よりラプソディックに自由に 歌われる牧歌といえよう。全編を通して比較的音符の数が少ない曲にもかかわらず、 良く響く独特の和音に彩られていて、ここに聞けるのは個性的なディーリアス世界 そのものである。協奏曲のような掴み所の無さは皆無。イギリスの数少ない 近現代室内楽の佳作としても貴重であり、一聴して損は無い。 フィッツウィリアム等他にも演奏がCD化されているが、先ずはブロドスキーの感傷的な音で たっぷり楽しんでみたい。またフェンビーによる弦楽合奏版についても耳にする 機会があれば、是非。ちなみにこの曲はオックスフォード版の楽譜ではビーチャムの手が入っていることになっている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ディーリアス:弦楽合奏のためのソナタ(フェンビー編)(原曲弦楽四重奏曲),フェンビー指揮ボーンマス・シンフォニエッタ(EMI)1979版・CD,,通常大編成版としては【去りゆくつばめ】のみ演奏されるものだが、これは編曲者が弦楽四重奏曲を全曲、四楽章すべて弦楽合奏用に編曲したものだ。単純に肥大化させたわけではなくソロの導入や奏法の工夫などしっかり創意も入れた編曲になっている。私は原曲から先に入ったので【去りゆくつばめ】即ち三楽章の【大仰さ】に辟易したのだが、鄙びた素朴な味わい、これはディーリアスが室内楽についてはあまり手を付けなかった理由、耳で聴くぶんにはボロディン2番めいた楽しさがあるものの、弾くと結構なんだかなーという偏ったアンサンブルの感じがあり、私の譜面にはビーチャムの手が入っている旨書いてあるが、やはり編成の大きく分厚い響きを動かしてこそのディーリアスであるのだろう(ピアノは別)。その点、フェンビーは純粋な【ディーリアス節】を取り出し、軽やかな味付けを施すから、いわばディーリアス晩年のフェンビーが口述に基づき書いた作品にとても近い聞き心地がする。【夏の歌】が好きなら比較的楽しめるだろう。四楽章構成で聴くと案外いけるなあ、と思ったのは、編曲者自らの指揮であるせいもあろうか。オケもリリカルで、専門室内楽団に要求されるようなキリキリするほどのアンサンブルの力は無いが、それが鄙びた民謡風味にもあっているか。【去りゆくつばめ】はただ、原曲をお勧めはする。あの哀しみ、ディーリアスの愛したつばめが今年は遅く飛び立っていった、心象的な、微細な音符の動きは大編成には不向きだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:遅いつばめ(フェンビー弦楽合奏編、弦楽四重奏曲第三楽章),バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)1969版・CD,,なんとも難しい曲で、はっきり言えば原曲を聴くべきである。原曲である弦楽四重奏曲もビーチャム監修の譜面が使われるが、これは四本以上の弦楽器を使って大袈裟にやる曲ではなく密やかに燕の旅立ちを見送る心象的な音楽で、こうも肥大化させてしまっては旋律の力が分厚いハーモニーの流れに負けてしまい、逆に和声のみ聴く音楽として割り切らないと、聴いてられない「恥ずかしい曲」になってしまう。繊細な和声そのものはディーリアスの真骨頂で半音階的に揺れるさまがワグナーとも一線を画した爽やかかつ諦観に満ちた独特のもので聴き応えがある。ディーリアス晩年の助手(以上の存在であることは何もディーリアスに限らず米英の大家ではたびたびあることだった)フェンビーの行為については賛否あるようだが、個別の三曲を弦楽合奏用に編曲して作った組曲に編入された(また弦楽四重奏曲全楽章を編曲し「弦楽合奏のためのソナタ」として自身で録音している)。バルビローリの録音についてはEMIではかなり編集したようなものがあり、実演記録とかけ離れた様式で神経質に整えられなめされたスタジオ録音(マーラー6番など)には違和感をおぼえる。お国ものであるRVWやディーリアスでも、弦楽器において「のみ」透明感、異様な調和を求めた感のする録音がある(自身がチェリストであるため弦楽器への要求が奏法の細部に至るまで、しかも楽曲によってそれぞれ異なったものまであったと伝えられる)。バルビ節と言われる特徴的な歌謡表現もむしろ抑え気味になってしまう。非常に残念な「タリスの主題による幻想曲」の録音の「継ぎ目」など、今はキレイにされているかもしれないが、カラヤンと同時代の人だったんだなあ、というところである。グリーンスリーブスも余り評価しない人がいる。とにかく響きの調和に神経質でかつボリュームがあり、現代的な意味で研ぎ澄ますことなく、ひたすら稀有壮大になってしまう。つまりこの曲もあんまりにも稀有壮大なのである。そんなにつばめが去るのが悲しいのか。原曲を知らないならこちらから聴いたらいい。原曲を知っているなら、あの悲哀を大声で叫びあげるような編曲に演奏なので、おすすめしない。いくらパセージによってソロやカルテット編成を混ぜ込んでも視覚的効果程度のものしか出ない。,,そんな演奏なのに、なぜか末尾で綻びが出る。うーん。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ディーリアス:遅いつばめ(フェンビー弦楽合奏編、弦楽四重奏曲第三楽章),○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD,同上,レイト・スワローズをどう訳すかで諸説あるが単純に遅いつばめとしてみた。原曲はかなり鄙びた調子のしかしわかりやすいボロディン二番的な作品で、ビーチャムが手を入れたようだがディーリアス完成期後に特異な位置を占めている弦楽四重奏曲の、中でも特に妖しい響きの揺れる、えんえんと続くアルペジオに彩られた沈潜する楽章だ。フェンビーはこれも含めいくつかの編曲を組曲としてまとめているが、原曲とはやはり違うものとなっていて、余りに繊細すぎて合奏でやるには難しさもあり、弦使いバルビならではの巧さのみが可能とする部分があることは否定できまい。カルテット編曲ものはたいてい、スカスカになるものだがこれは軟らかくも詰まっている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:高い丘の歌,○ロジェストヴェンスキー指揮BBC交響楽団、合唱団、BBCシンガーズ(IMP/BBC)1980/12/10ロイヤル・フェスティヴァル・ホールlive・CD,,生気ある演奏で、かつ重厚な構造的表現はロシア国民楽派の「ましな」交響曲の解釈を髣髴とさせる。ミャスコフスキーの交響曲を思わせる音感があるが、しかし弱音部の静謐な表現はロシアものではありえない精妙な音響で唸らせる。ロジェストのイギリスものはほとんどみかけないがライヴではもちろんやっており、ややロシア臭が強くて演奏精度にも問題がある無骨なものもあるが、これは美しい。ディーリアスが作曲家として「プロフェッショナル」なのだということも考慮におくべきだろうが。しっかりした曲構造を持っている。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:高い丘の歌,フェンビー指揮RPO、アンブロシアン・シンガーズ(unicorn)1984版・CD,,ディーリアスの作品は単純→複雑→単純という流れがあると理解している。最後の「単純」は身の自由が利かずフェンビーらの手を借りたせいだ。「複雑」期においても右腕としてのイエルカ(ジェルカ)夫人のテクストや解釈者以上の存在だったビーチャムらの助力なくして成り立たなかったと思っている。この作品は最初の単純から複雑への過渡期で、単純期にみられた前時代音楽や異国の音楽からの影響、ロマン派的な「つまらなさ」は払しょくされ、旋律の抒情性を維持しつつ、半音階を織り交ぜた(しかしまだ濫用はしない)ドビュッシーとはまったく隔絶した「雰囲気音楽」に移行したものだ。和声的影響もほぼ無い、もしくはほんの要素としてしか取り入れられないからそれはむしろドビュッシーとは言えない(ドビュッシーはディーリアス評を一言だけ詩的にのべてはいるが和声的な面での「落ち着き」を皮肉ったようにも取れる)。複雑な時期の思索的雰囲気はまだなく、素直な曲想が多いものの、連綿とつづく風景に、これが凄いのだがまったく飽きを感じさせずに大規模交響詩として、ほの明るい表現に終始する。ちっぽけな「人間」を象徴する無歌詞合唱はフェンビーにおいてはかなりそくっと、控えめに入っていて、後年的な自然そのものを描いたようには聴こえない抽象音楽の起伏に寄り添う。フェンビーは手慣れたもので初演をになったオケも、この輝かしい音を前提に演奏されてきた曲なのだなといった風。きらめくひびきにレスピーギの「ローマの噴水」終曲の影響を感じる方もいると思うが作曲年は先んじている。音の少ない心象的表現が高音のピチカートや打楽器など剥き出しでとつとつと現れるところ、レスピーギとともにホルストを思わせる、これは親交あったヴォーン・ウィリアムズの「理念」にも通じる表現で、ディーリアスなんてドイツで名を挙げてグレ・シュール・ロアンで一生を終えた外国系の人じゃないか、と言う人はもっと聴いた方がいい。これはイギリス的な音楽への「布石」である(言うまでもなく「惑星」より前の作品)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:三つの前奏曲(1923),パーキン(P)(UNICORN-KANCHANA)(CD2071)1983,泣いてしまいます。エリック・パーキン大菩薩の真骨頂。春にピッタリの曲。ディーリアス特有二大リヒャルトの生温い残響も、ここでは透明な抒情の中に溶けてゆきます。もうこの美しい水彩画に溶けてゆきましょう、みんな。,,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:三つの前奏曲(1923),アブラモヴィック(P)(動画配信),,春という名はついてませんが、春らしい雰囲気の曲。ドビュッシーも意識していた、わりと古い人です。ピアノはけして得意な分野ではないけど、一部の和声を除き個性的ではないけど、情緒はある。メロディもある。,,"https://youtu.be/0z0DtLlEqKk",音声のみ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
ディーリアス:春一番のかっこうを聴きながら,○A.コリンズ指揮LSO(decca/PRSC他)1953・CD,,コリンズは強い調子でいささかディーリアスの薄明の世界を損なうところがある。響きが分厚いのでどうしてもそうなってしまいがちなのは認めるが・・・これはカッコウがとても即物的だ。実際のカッコウはけっこう(爆)こういうぶっきらぼうな鳴き方もするのであながち間違いとも言えず、見識として敢えて描写的な表現を避けているのかもしれないがちょっと違和感があった。演奏は手馴れている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:春一番のかっこうを聴きながら,○ビーチャム指揮LPO(DA:CD-R)1936/11/19,,録音が非常に遠く弱いため(安定はしている)、いつもの独特の「スマートな押しの強さ」はないが、そのぶん曲の静謐さや繊細な動きに耳を集中することができこれはこれでよい。磁気テープの実験的初録音とあるが本当かどうかわからない。雑音があることは確かだ。あっというまに「あれ?」というように風の如く吹き抜ける細部に拘泥されない演奏。肝心のかっこうすら全体の田園風景の一部になっている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:春一番のかっこうを聞きながら,ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(columbia/somm) 1927/12/19・CD,,作曲家存命中の演奏であり、20年代はまだホールに臨席していた記録があるから聴いていた可能性がある。しかし時代が時代。もともと旋律的ではあるのだが明瞭に描きすぎて、林に残るかっこうの声とのコントラストが際立たない。耳優しくもはっきりとした鳥の歌を、厚い和音で埋め尽くすディーリアス全盛期の作品、ビーチャムの芸風は一貫して速くしっかり、だが情緒の必要な部分は慈しむようなフレージングで作曲家以上に曲を知り尽くした様、だが録音がこうなので参考に、というくらいか。オケはさすがのロイヤル・フィルではあるが音色の明るく輝かしいところは聴き取れず他のオケと技術面以外のメリットは無いように聴こえる。そっとやってくる春を味わうには晩年の優秀な録音を取るべきだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:春一番のかっこうを聞きながら,○ビーチャム指揮シアトル交響楽団(PASC)1943/9/26live,,ごく一部に欠損があるようだが気にならない。ビーチャムらしいディーリアスでまったく粘り気がなく、しかしながら構造を実に的確に把握し立体的な音響を聴かせるようつとめている。ディーリアスのような比較的ドイツふうで機械的な書法を駆使する作曲家にはこのような表現は向いている。さらさら流れるように進む中によく聴くと郭公の声が聴こえる、この絶妙さである・・・殊更に強調したりはしない。だが、私はケレン味が欲しいほうで、いつものことだが、ビーチャムのディーリアスは印象に残らない。綺麗さをとって○。録音は悪い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:春一番のかっこうを聞きながら,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD,,余りに感傷的な音過ぎて、描写的なフレーズがそのとおりに聞こえてこないほどの演奏。密やかで甘やかな、前時代的なロマンをしっとりうたう弦はハレ管にとっても絶後の表現を行なっていると言ってよいだろう。ディーリアスでは単純な弦楽合奏プラスの歌謡的音楽、こういうのを印象的に表現することこそが難しい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:春一番のかっこうを聞きながら,バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(pye/Dutton他)1956/6/21・CD," ",「牧歌」を中心に5曲PYEレーベルへ一日で録音された中の一曲だがこれが最もバルビローリの美質を表した、また個性を発揮したトラックと言ってよいだろう。別項にも挙げた新しい音源ではなおさらそうだが、もはやディーリアスかどうかよりバルビローリの弦楽器に対する偏愛〜チェリストであった(バッハの無伴奏抜粋はCDにならないのだろうか)〜がいかに曲と同化して感傷の極みを聴かせられるか、といったものであり、しょうじきマーラーなど金管が表面に立つ曲では裏目に出ることもあるのに対して、けして典型的イギリス人として生きたわけではないディーリアスが、自らイギリス民謡への偏愛をはじめとしたその情景への憧憬を抱えていたことは音楽が語っており、フランスに生きた(同時にドイツは血の故郷であり出世までの重要な支持国であった)ことが作品の機械的構造に影響したことは否定できないが、「北国のムード」でさえグリーグの北国ではなくスコットランド国境っぽい、バルビローリもまたイタリア歌劇に並みならぬ適性を示しそのルーツもはっきりイタリアなのに、RVWやディーリアス(ホルストはほとんどやらなかったがボールトがいたせいか・・・ディーリアスもビーチャム存命中はほとんど記録を残していない)には「そこまでやらなくても」という「イギリス演歌」というような「イギリスこぶし回し」がきいていて、いや、変なイメージは植えつけるまい、これを聴いてその世界から抜け出せなくなる人が出たこともうなづける「ディーリアンの理想とするディーリアス」を体現した演奏になっている。没入具合もさることながら木管、カッコウの声の模倣ですら具象性を失い音楽に耽溺してしまう。ほめすぎたが、さすがにこれをながら聴きできるほどイギリス嫌いではない、私も。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:春一番のかっこうを聞きながら(短縮版),○グーセンス指揮ロイヤル・アルバートホール管弦楽団(HMV)1924/1/15・SP,,カット版ということもあるが起伏がなくこじんまりとしている。音は立っているのだがひっかかりがない。ディーリアスらしい柔らかさは演出できている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:春一番のかっこうを聞きながら,○フェリックス・スラットキン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(CAPITOL/PRISTINE)1952/9/8,11,,父スラトキンらしい強い表現で、室内楽団らしい輪郭のはっきりした(し過ぎた)アンサンブル重視の演奏。しょうじき、淡いディーリアス世界にこの即物性は違和感がある。そしてディーリアスのこのての作品はこうもあからさまに白日のもとに晒されると、よくわからない変な作品になってしまうのだ、という感慨も受ける。そう、演奏家を選ぶ。それに「室内楽団様式」では辛い。録音のせいもある。CAPITOLの太い音がLP特有のアナログな曖昧さと混ざって若干雑味を呼び込んでしまっており、それなのに芸風が上記のようだから、聴感がしっくりこないのだ。だからといって演奏技術は時代なりにではあるが研ぎ澄まされているし、情景描写的にはきついが、純音楽的に愉しむこともある程度は可能。室内楽団にしては大規模編成された楽団の上手さは他の演奏でも証明されている。○にはしておく。郭公の声がリアル。,-----,,,,,,,,,,,,
ディーリアス:春一番のかっこうを聞きながら,オーマンディ フィラデルフィアO
ディーリアス:小管弦楽のための二つの小品,○エルダー指揮ハレ合唱団(ho)2005/11/3・CD,,エルダーはディーリアス向き!厚い和音を適切にひびかせその移ろいを適切に聴かせる。繊細な音線を密やかに絡ませ、ハレ管の好演もあってこれはじつに心に染みる演奏。二つの小品といっても一曲目が春初めてのかっこうを聞きながら、二曲目が川の上の夏の夜というそれぞれ独立して演奏されるしっかりした演目で、前者はかっこうの直接的描写にあざとさがありながらもディーリアスらしい濃厚なロマンチシズムを漂わせた、印象派とはまた違った明るい雰囲気音楽、後者は木管ソロと弦ソロの線的な絡みでほとんどが構成されるという、少ない楽器が室内楽的に絡んで進む曲だからこそ、特殊な響きの目立つ、ディーリアスとしてはかなり前衛的な難曲。新ウィーン楽派の活躍した時代の曲というところまで思いはせる。エルダーの軟らかい音でいながら速めのさっさとしたテンポも曲をだれさせないでいいが、これはやはりハレ管が天晴。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:川の上の夏の夜,○バルビローリ指揮NGS室内管弦楽団(NGS)1927/1・SP,,厚くもモダンで洗練された響きの移ろいを、纏綿とした旋律線で繋ぐやり方はまさに前時代の演奏様式ではあるものの、既に指揮者としての非凡な才能が開花していることを垣間見させる演奏。同時代のいろいろな管弦楽曲のアコースティック録音群の平均からすれば抜きん出ている。フランス音楽でもドイツ音楽でもないディーリアス独自の薄明の世界と同化したようなバルビと演奏陣の確かさに納得。録音は悪いが。正規ネット配信中。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:川の上の夏の夜,アンソニー・コリンズ LSO
ディーリアス:遅いひばり,ロルフェ・ジョンソン、フェンビー指揮ロイヤル・フィル(unicorn)1981/3/31-4/2・CD,,恍惚とした穏やかさの上にしめやかに歌い上げられる。フェンビーの作曲家への愛情が感じられる。ディーリアスにしては単純で、ただ和音をゆっくり揺らすだけの管弦楽は、このいかにもディーリアス好みの主題を静かに盛り上げる装置に過ぎない。歌唱は驚くほど幅のある声色を上手に使い分けてフェンビーに同意する。ディーリアスらしい小品。「遅いひばり(去りゆく雲雀)」と「遅いつばめ(去りゆく燕)」は別の曲。後者は原曲弦楽カルテットなので根本的に抽象度が違う。これは直接的である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:二つの水彩画,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(HMV)1948/5/1・SP,,時代のわりに音は悪いか。簡素なオーケストレーションの施された二曲を円熟期のバルビローリらしい慣れた手腕でさばいている。短いしバルビローリの特徴をよくあらわしているとはいえないが、流れよさはさすが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:二つの水彩画,○バルビローリ指揮新交響楽団(HMV/dutton)1948/4/1・CD,,二曲からなる弦楽合奏のための編曲版だが、ディーリアスはこのくらい薄い編成の方が雰囲気があっていい。バルビの濃過ぎる表現もこの小品においては変に発露せず、すんなりと、かなりバルビにしてはてんめんとせずに通している。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:二つの水彩画(フェンビー編),○バルビローリ指揮ロサンゼルス室内管弦楽団(DA,VIBRATO:CD-R)1969/11/17LIVE,,ウォルトンなどと一緒に演奏・放送されたもの。この曲は非常に簡素なオーケストレーションの施された弦楽合奏曲で、合唱曲「水の上の夏の夜に歌わる」から編纂されたものだが、動きのない和声的な一曲目と、民族舞踊ではあるが「早くはなく」との指示があるいかにもディーリアス的な二曲目からなり、演奏技術よりも、いかにアーティキュレーションを効果的につけるか、表現の振幅をこの揺れの無い微温的な楽曲のうえに描き出すかが鍵になっている。バルビは好んでこの曲を演奏したが、ディーリアスの他の「簡素なほうの」曲で示した独自の耽美世界をここにも描き出そうとしている。しかし曲自体それほど長くも激情的でもないだけに、バルビ的というほどの個性はきかれず、フレージングの節々でみられる微細なポルタメントなどバルビ特有のものはあるものの、爽やかに聞き流せてしまう。いや、この曲ではそれで十分か。○。録音の位相がおかしい。元からの可能性もあるが、左右逆かもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:舞曲(フェンビー編),デュラン(fl)フェンビー指揮ボーンマス・シンフォニエッタ(EMI)1979版・CD,,編曲元を寡聞にして知らない。舞曲と呼ばれる曲はラ・カリンダからのアリアと舞曲のフェンビーによる編曲(これはこのトラックのあとに収録されているので別物)、ハープシコードのための舞曲(これがディーリアスとは思えないような生ぬるい後期ロマン派で憂いのある同曲とは長さも違う)、チェロのための曲(不明)が確認できるが、何かの抜粋かピアノ曲かもしれない。三分弱のディーリアスらしい【踊れない舞曲】で、ほの暗いメロディに沿ってリズムを刻むさまはヴァイオリン・ソナタの中間楽章などでも聴かれる調子だ。鬱曲と言えよう。ただ、ディーリアス特有のオーケストラの重さが無いのは編曲作品だからか。演奏は良い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:別れの歌,サージェント指揮ロイヤル・フィル、王立合唱ソサエティ(EMI)1965版・CD,,何度も何度も復刻されている名盤、ディーリアス晩年の大規模な合唱曲である。米国詩人ホイットマンの草の葉から「告別の歌」5曲、原文を読まずとも内容はそのものズバリ、大地と自然すべてのものへの惜別であるから、ググれば一部訳文も出ては来るが、曲だけ聴いてもよくわかるし、正直歌詞が聞き取れなくても気持ちがわかるくらいに詠嘆しっぱなしで、むしろ詩は曲に合わせて作られたのではないかとすら思うかもしれない。特定の人間との生々しい別離ではなく自然の中に自ずとあらわれた別れのことばを描写したホイットマン、これは船出の姿でディーリアス自身も海を好んだと言われるが、英語で書けばマーラーの大地の歌「告別」とおんなじになってしまうものの、自己憐憫だの陶酔だのとは隔絶している。唯一諦念を感じさせるピアニッシモは共通するかもしれないが、ディーリアスの半音階は決して諦めを示してはいない。その人生の中に現れて消えたドビュッシーの語法をすら取り込むスケールの大きな世界の中で、ひたすらに眼前にあふれる美と、それとの別れを惜しむのみだ。眼前に見えている「はず」の美。当然作曲はフェンビーが手伝っていると思われるが、他の晩年作と比べて幾分まだ壮年期の力が残っているというか、ただただ旋律、ただただ和声のずれ落ちていくだけ、というわけではない。一時期おなじく晩年作の「夏の歌」にハマった私だが、あれはかなり単純化された音楽で規模も小さく演奏次第というところもある。こちらは原詩の存在によりディーリアス自身に残る強い「あこがれ」の意志が具体性を帯びてフェンビーに伝わり、ダイレクトに音となっているのだ。そうして、誰が聴いても感傷を負うことを余儀なくされる、そういったものではないか。サージェントは手際の良さというよりも合唱団やオケの持つ輝かしい響きが既に曲の性向に合っているとしてそのまま丁寧にまとめ上げている。今や古びた音かもしれないが初演者であるという感情もそこはかとなく感じられる演奏である(サージェントにそのての感傷は似合わないが)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:北国のスケッチ,○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(M&A)1959/11/4BBC放送live・CD,,2011年末新譜ビーチャムイントロントというカナダ客演集の付録盤に収録されているが、そうとう前に出た同レーベルの別盤に収録されていた記憶がある。音は悪いが圧はある。むせ返るようなというか、生命力の強すぎるビーチャム流儀のディーリアスで、民謡音楽の側面の強い楽曲をコントラスト強く表現していくさまは確かにディーリアスのある側面をよくえぐり出しているのだが、グリーグへの思いを漂わせながらも、さらに水彩画的なほのかな色彩の変化を楽しませたいところ、リヒャルト的な大仰さをロイヤル・フィルという強力で色のないオケに託したようなダイナミズムに違和感はなくはなかった。しかしこの統率力、ビーチャムは侮れない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:牧歌,○フィッシャー(Sp)ウォルタース(B)バルビローリ指揮BBC交響楽団(DA:CD-R)1952放送,,イディルを牧歌と訳すとパストラレと差がなくなり意味合いが多少ずれてしまう感もある。しかしパストラレという言葉のほうが似合うような、終始変わらぬ恍惚とした演奏ぶりで何とも言えない生暖かい雰囲気がある。歌唱はいずれも明瞭で沈殿する感じはないが、ディーリアスはこれだ、というバルビの確信が勝り曲の内容まで変えてしまったかのようなところがある。もっともオケが比較的冷静であるため生臭さがなく聴き易い。ハレのものより大人の演奏のように聞こえた。しかし、録音はかなり悪いモノラル。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:牧歌,◎フィッシャー(Sp)ウォルターズ(B)バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(PYE/dutton,BS)1956/12/11・CD,,言わずと知れたPYE録音の目玉で、LPではそれほど鮮烈な印象を受けなかったのだが、ちゃんと復刻された音源で聴くとこの単純な交響詩にさいし意外と繊細でディーリアスらしい淡彩のバックオケにのせてなかなかの歌唱を聴かせるソリスト、同曲はこれだけあればいいんじゃないか、と思った。少なくともこれを聴いたあとに聴いたどの音源よりも印象に残っていたのはたしかで、廉価で協会盤として復刻されたのは嬉しい限りである。ライヴはBBCとのものが同じ歌唱陣で放送されDAが復刻していた(別項参照)。それをディーリアス生誕150周年というマニアックな年にあたり協会が改めて復刻している。音質は言うまでもあるまい。ホイットマンはこの時代の英国音楽家たちに好まれていたが、若きロマンチシズムが晩年ディーリアスの懐古的心情にシンクロして、若きフェンビーに憑依した、というような作品である。どういう作品だ。このブログは音盤情報ブログなので、そのての音楽情報が欲しいかたは他のサイトを読んでね。wiki読めばわかるようなことは一切書きませんので。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ディーリアス:夜想曲「パリ」〜大都会の詩,○シルヴェストリ指揮ボーンマス交響楽団(bbc,medici)1967/3/2live・CD,,情緒深く表現されるディーリアスの世界。ワグネリアンそのものであるディーリアスのうねるような情緒がドビュッシー的なパセージや和声を絡め大都会パリの陰影を思い出をこめてうたわれる。求心力の弱い演奏であってもそれなりに聴けてしまう職人的なわざの篭められた大管弦楽曲として、しかもシルヴェストリだからかなり力強い情感が迫り、ディーリアスというよりもっとドイツ的な重厚さはあるにせよ動かされる部分はある。長くて飽きてしまう、みたいなことはありません、わかりやすい。○。,"",-----,,,,,,,,,,,
ディーリアス:夜想曲「パリ」〜大都会の詩,アンソニー・コリンズ LSO
ディーリアス:夜明け前の歌,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD,,ディーリアスにとって夜は酒と官能のおりなすモダンな都会、朝は草いきれと靄がやわらかな日差しに照らされた田園である。前者は新ウィーン楽派ふうの洒落た硬質の響きで構成され、後者はマンネリズムも辞さないコード変化をつけられた民謡音楽となる。この曲はその変化を有機的に結合させたうえに描いたもので、バルビのようにさらに有機的に解釈されるとほんとうにとりとめもない起伏のないやおい音楽になるが、印象派的に聞けば悪くはない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:夜明け前の歌,○バルビローリ指揮新交響楽団(HMV)1929/6/7・SP,,才気かん発で若々しいバルビローリを聴くことができる。曲の薄味な雰囲気を活かしつつもロマンチックな味を濃いめに付けてさすがのバルビローリ感がある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:夜明け前の歌,○バルビローリ指揮新交響楽団(HMV/DUTTON)1929/6/7・CD,同上,見事な復刻で20年代とは思えない。冒頭からバルビローリの柔軟な弦楽使いの様子が聞き取れ、まさにバルビローリを聴く演奏だろう。ビーチャムとは違う、技術に裏付けられたロマンティシズムの極致。オケはまったく問題なし。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ディーリアス:夜明け前の歌,サージェント指揮ロイヤル・フィル(EMI)1965版・CD,,サージェントらしく仕上げている。薄明の音楽、黄昏の音楽と評されるディーリアスの管弦楽曲は音を減らすのではなく音を詰めた状態で和声的に動かしていく、そこが同時代のフランス前衛音楽的な新しさにもつながり、一方でしっかり書き込まれた内声部は中欧世紀末音楽的とも言われる。変に感情的にもならずスマートな捌き方をしてこそ本質がバランス良く現れる。サージェントは、イギリス瑞逸のオケに相当メリットがあるのも確かだが、同曲に要求されるものを全てきちっと盛り込んでまとめてきており、輝かしいくらいの音色によってビーチャムの時代の新即物主義的な表現から一歩離れた美しい結果を残している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,