-2019/1/9(修正)ア行 vaughan williams,ivesは別掲
アーノルド:8つのイギリスの踊りop.27、33,○ボールト指揮LPO(DECCA他)1954/11/1-2,,安心のボールトである。少し前の映画音楽のように華やかで暗さのない音楽を、楽しげに聴かせている。ボールトモノラル末期の最も脂の乗り切った時期のものだけに、ドイツ臭さも抜けアメリカやイギリス近代特有の垢抜けた音楽がよくあっている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アーノルド:ハーモニカ協奏曲,○アドラー(hrm)M.グールド指揮RPO,,わかりやすいものの、ややモダンな曲だが独奏は技巧的な部分含め常套的。締まった曲とは言えない。アドラーも衰えがみえ、音のキレが悪く、曲の魅力がつたわらない。RVW的な部分は壮麗。 RCA,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アーン:ヴァイオリン・ソナタ,ソリアーノ(Vn)マリー・ダルレ(P)(meloclassic)1959/2/28パリ フランス放送スタジオ録音・CD,,1926年、フォーレ没後2年の作品である。レイナルド・アーンといえばまずもって歌曲の作曲家であり、唯一著名なピアノ協奏曲も「人間の」歌謡性に貫かれた時代に取り残されたような作品。だがこの作品は演奏次第で変わるような脆弱な作品ではない。「人間の」歌謡性を感じさせる表現は終楽章など少し現れるが、はっきり感じられるのはフォーレの特に晩年の旋律や和声のエコーである。フォーレはアンサンブルにおいて独特のユニゾン表現など単純化を進めていったが、この曲に支配的な横の旋律や和声(とても慎ましやかではあるが)はそれに近い。フォーレは全盛期の技巧においてはアルペジオを多用するなど装飾的な表現を個性としていて、アーンはそれとは違うむしろ伝統的なヴァイオリン・ソナタの模範的表現を(ピアノ伴奏においても)とってはいる。対位法を駆使する場面など円熟した技法に目を見張る。自動車のエンジンを主題とする(このあたりの世俗性がアーンらしい)2楽章のスケルツォは特殊な聴感を与える時代なりの清新さをもった聴きどころで、ここははっきりと違う。けれども3楽章に落ち着くと、そこにはやはりフォーレの影の感じられる美しい旋律が立ち上り、最後に循環主題に戻って終わるさまも世俗性は感じられず、なかなかの佳品ぶりである。ソリアーノは表現が強靭で影が無い。またゆるやかな情緒も篭めないから、アーンのメロディの世俗性が隠れているところはあるかもしれない。でも技巧的にすぐれたソリストであるからこそ作曲家の鮮やかな手腕が浮き彫りになる。初期で終わってしまったイメージをもたれるかもしれないが、アーンはアカデミックな教育を受けたれっきとした純音楽の作曲家でもある。メロディ頼りの部分は飽きてしまう可能性もあるけれど、そのメロディに力があることは認めねばならない。録音はモノラルで良くも悪くもないがしっかり聴こえる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイアランド:4つの前奏曲〜T.小声,作曲家(P)(dutton)1946/11/7・CD,,内省的な音楽だが音は綺麗で旋律は甘く、とつとつとした味わいのあるもの。ピアノの名手でもあった作曲家としてはその技量を発揮する箇所は無く、二分半しかないが、中間部ではアイアランドらしい華美な書法もみられる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイアランド:4月(1924-25),○作曲家(P)(EMI)1950・CD,,素朴で世俗的な雰囲気がある。独特の抒情世界はアイアランドの詩人的気質を物語る。特に晩年のノスタルジックなピアノ独奏曲は、慰めに満ちた心優しい響きに溢れている。作曲家自らのピアノによる「4月」の録音からは、ディーリアスよりも純粋で、ヴォーン・ウィリアムズよりも身近な、人間らしい暖かさが滲み出ている。自然をうたうアイアランドの世界は、広大な空虚の中にある小さな命を見詰める優しい視線を感じさせる。泣けます。アイアランドのピアノ曲は良いです。エリック・パーキン大先生の録音が容易に手に入ります(ゆったりとした演奏です)。お勧め曲はあと「サルニア」です。アイアランドは20世紀のイギリスの穏健作曲家です。アイアランド自身は2回録音しています。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アイアランド:アンバーレイ・ワイルド・ブルックス,作曲家(P)(dutton)1948/5/28・CD,,アンバーレイ・ワイルドブルックスはイングランド南辺の地。アイアランドはサルニアのような大曲でも自然を描いているがこれは三分半の小品で、感傷的な揺れを伴う演奏が、若干の複雑で呪術的な色をのこしつつも心象的な音詩として響いてくる。どちらかといえばサルニア寄りの華美な表現も含む曲であり、そちらを好む人にはオススメ。データが詳しくは記載されていないが当然モノラルの古い音でSP起しだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイアランド:ヴァイオリン・ソナタ第1番,グリンケ(Vn)作曲家(P)(DUTTON)1945/11/22,23,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイアランド:ヴァイオリン・ソナタ第2番,サモンス(Vn)作曲家(P)(DUTTON)1930/10/17,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
アイアランド:サルニア,パーキン(P)(CHANDOS)CD,,この曲を知ったのは自費出版の音楽本。ただひたすら偏愛を語る類いのものだった。アイアランド晩年作品、ただただロマンティックな音楽。心地良い。春ということで。作曲家に師事したパーキンさんにはモノラル録音もある。,,"https://youtu.be/GvLG9T8qOiw",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
アイアランド:サルニア(1940-41),○エリック・パーキン(P)新/旧録あり(後者LP)(CHANDOS)〜アイアランドの作品には昔から興味があった。保守的なイギリス二十世紀音楽界にあって、フランス的な洗練された新鮮な精神の煌きが、音符の間から零れ落ちるような室内楽曲に触れた事があったからだ。しかしアイアランドのレコードはすこぶる少ない。現役盤としては恐らくパーキンの独奏曲全集が殆ど唯一のものだろう(シャンドス)。だが耳にした瞬間に自分がこの曲を切無い程に好きだと悟るような威力を持つ「サルニア」に遂に触れる事が出来た今、この作曲家がバタワース、ホルスト、ヴォーン・ウィリアムズの系譜に並ぶ、優しい、自然、太陽の柔らかな陽射しと限りない草原のおりなす大地のうねり、それそのものの音を織り上げることのできる、本当に数少ないクラシック作曲家であると確信できた。今までもそうだったし、これからも恐らく再評価されレコードが増える類の作曲家ではあるまい。しかし、フェデリコ・モンポウのように、本当に一部のファンが限りなく愛で続けるであろう、珠玉の響を持つ独奏曲群、これがあるだけで、それがあることを私は知っている、それだけで良いように思えてしまうのだ。(1995記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイアランド:サルニア〜島の情景(イエイツ管弦楽編),イエイツ指揮王立スコティッシュナショナル管弦楽団(dutton)CD,,原曲を知っていたら?然、知らなかったらイギリス近代管弦楽の佳作と思うだろう。ここまでのものとは。。ピアノの詩人アイアランドはソロピアノ曲において最もその繊細でイマジネイティブな詩情を発揮しているが、中でも大規模で華麗なこの曲を、ラヴェル張りに大規模で管弦楽の華麗な組曲にしあげている。ル・カティオロックは特にダフニス二組を思わせるやり方で、とても上手いのだが、オケがついていってない。この曲はリズムが重要となる局面が多いが、いずれもまったくリズミカルではなく、手探り感の強い生硬な出来である。サルニアの聞かせどころ、細やかなタッチは表現的に省略され、音は派手なのに、かえって感情を揺り動かされない。いや、上手いオーケストレーションだと思うし、オケがもう少しのって演奏していたらと思うのだが、精度高く音にするだけで手一杯のようだ。久しぶりに奇盤を聞いた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイアランド:チェロ・ソナタ,○サラ(Vc)作曲家(P)(columbia)1928/10/25・SP,,古い録音だが、英国ではこのころ同時代音楽が沢山録音されており、その中で取り立てて音が悪いわけではない。しかし、バックスのように多様な表現手法をつぎ込んだりディーリアスのように独特のロマンチシズムを作為的にしつらえていくようなところのないアイアランドの曲は、録音群中いまひとつ記憶に残りにくいものがある。偏愛する旋法的表現や和声によってのみ個性を主張するため、保守的で幅が狭い印象をあたえる。ただ、逆にアイアランドに、たとえばピアノのための「サルニア」だけを求めるような偏愛組にとって、アンサンブル以上の規模の楽曲の中では親しみやすい内容だと思う。チェロの音域はこの音質ではやや聴きづらいが、特に特殊なことはやらせていないし、オーソドックスな楽曲構成ゆえわかりにくいことはない。晦渋に聴こえるのはとりとめのない音線の問題もある。女性チェリストを輩出した英国においてこのソリストの位置づけはわからないが柔らかくも纏綿とし過ぎずちゃんと弾いている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイアランド:チェロ・ソナタ,○サラ(Vc)作曲家(P)(columbia)1928/10/25・SP,,だいぶ後にdeccaに録音しduttonが復刻したヴァイオリンソナタ1、2番と、この録音が自作自演のソナタとして残っているもののすべてだそうである。曲はピアノの秘教的な雰囲気と名技的な書法にくらべ、ソリストはどこかで聴いたようなフレーズをならべ、3楽章の最後などほとんどドビュッシーのチェロソナタである。この楽章に関してはシャープなピアノとコントロールのよいチェロが瑞々しい音楽を紡いで秀逸だが、そこまでの陰鬱だったりロマンティックだったりする音楽はちょっとだれる。冒頭からしてソリストがふるわず、ろうろうと歌うのが得意なソリストではなかったのだと思う。ぎくしゃくしている。アイアランドは特殊なリズムも小気味よく跳ね上がるように、実に適切に処理していく(自作だから当たり前か)。ピアニストとしてとても腕のある人だったことが伺える。総じて○。時代なりの音。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイアランド:ピアノ協奏曲,○アイリーン・ジョイス(P)ボールト指揮LPO(LPO/naxos)1949/9/10ロイヤルアルバートホ−ルlive・CD,,作曲家70歳記念演奏会の記録で、一貫してボールト・LPOがその役をになっている。ソリストは「逢引き」の劇伴でも知られるスターピアニストのジョイス。しかし演奏はしっかりしていてロマンティックに揺れることは無い。穏健と見られがちなアイアランドの、同時代イギリスの作曲家に対して先鋭ではあっても後衛では決してなかった「渋さ」を明快に描き豪快に弾き切っている。素晴らしいものだ。,,"
アイアランド:ロンドン序曲/ピアノ協奏曲 変ホ長調/前奏曲「忘れられた儀礼」/これらはそうあるべき
(2009/09/01)
アイリーン・ジョイス、レッドヴァース・ルウェリン 他

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アイアランド:ロンドン序曲,ボールト指揮LPO(LPO他)アイアランド生誕70周年記念1949/9/10ロイヤル・アルバートホールlive・CD,,40年代の録音と50年代の録音は大きく音質が変わる、これは非常に音が悪く、実況録音という点もマイナスに働いている。曲は無害な演奏会用序曲でウォルトンほどのインパクトは無いが適度に派手で保守的ながらも聴かせどころはあり、アイアランドの中では演奏されるほうだろうが、正直、ボールトをもってしてもこの録音の悪さをおしても聴かねばならないほどの説得力は伝わらず、曲の魅力も伝わらない。もともとブラスの曲であり、素直にブラスとパーカスの原曲でやっていればまだ違ったのかもしれないが。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイアランド:ロンドン小品集〜U.ラガマフィン、V.ソーホーの午前中,作曲家(P)(dutton)1949/2/25・CD,,前者は、猫ではない。アイアランドが教鞭をとるためロンドンに居を構えたとき身近な路地や居住区にインスパイアされて書かれた小品集のひとつで、これも至極平易でこのCD収録の自作自演四曲では最もキッチュで無邪気な二分あまり。着想からも本気で書いたような呪術的でわかりにくい作品とは真逆となっている。ドビュッシーの気配すらする。演奏は細かい箇所がすこし縒れているか。後者は、forenoonsと複数形になっている。同じようにキッチュなリズムでやや諧謔的な音楽となっている。ここに収録された四曲の中では都会的な気配が強い。タッチの様子は録音が悪くあまりはっきりしないが、打鍵は強いようだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイアランド:丘,○バートン指揮ハレ合唱団(ho)2005/11/3・CD,,アイアランドも保守的な作曲家だが同時収録されたエルガーよりは曲的に面白い。だがやっぱり短いし演奏どうこう言うことはできない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイアランド:幻想三重奏曲,グリンケ(Vn)フットン(Vc)タイラー(P)(DUTTON)1938/11/17,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイアランド:祝典序曲(ニュートン2011年版編曲),イエイツ指揮王立スコティッシュナショナル管弦楽団(dutton)CD,,サルニアのびっくり編曲のあとにこの短い曲の管弦楽版が入っているが、誰の管弦楽法に似るというのではなく、いかにも近現代の英国管弦楽という聴き心地で楽しい。オケもこのシリーズにしては比較的張り切って聴こえる。ウォルトンのようにリズムが複雑で移調がモダン、新古典主義の枠内で明るく派手なドガシャーン、この音楽はしかしアイアランドではないな。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイアランド:祝福された少年,フットン(Vc)プラット(P)(DUTTON)1938/11/17,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイアランド:前奏曲「忘れられた儀式」,ボールト指揮LPO(LPO)1970年代live・CD,,アイアランド初期の人気作。例によって古代の島嶼部の風景を写した音詩になるが、かなり素直で、ドビュッシーの影響を穏健に受け、しんとした情景での管楽ソロやメロディアスなところの和音の重厚な揺らぎにディーリアスの影響が聞いて取れるが、僅かな部分にはヴォーン・ウィリアムズに近いものも存在する。つまりこの二人の得意とする心象的な表現を狙っている。そこにハープなど少し特殊な音を織り交ぜ独自性としている(それすらホルスト的ではある)。1912年当時としては作風が古かったと思われるが、アイアランドはこのような穏健な作風と呪術的な複雑さのある作風を後年使い分けたようである。題名は祭礼(RITE)としているものの、後者の作風はまだ全く無い。おしなべてロマンティックで壮大な、なだらかな丘のような構成の、とても清々しく美しいワグナー風の厚い響きをも持つ作品だ。ボールトには1965/12のlyrita録音が知られるがこれはそれより後のライヴで、状態は残念ながら悪い。この繊細な世界を味わうには不利である。何人かの指揮者が録音しているので新しいもので静寂の中、聴けば楽しめるとおもう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイアランド:組曲「感謝祭」〜アイランド・スペル(1912),○エリック・パーキン(P)(CHANDOS),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アイアランド:二つの小品〜T.4月,○作曲家(P)(columbia)1929/2/18・SP,,自作自演の旧録。50年代の新しいものよりも快活で明るく、速さもあって若々しい印象。クリアな音ではあるが、どうしてもSPなりのノイズが気になるところもある。いい曲。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイネム:カプリッチョop.2,○オーマンディ指揮バイエルン放送交響楽団(orfeo)1959・CD,,手兵フィラ管ではなく自らのルーツである欧州オケを振ると異常に激しい音楽が紡ぎだされる、オーマンディの貴重な客演記録のひとつで、このヒンデミット的な構造物をその技量の試し所と凄まじく明快にさばききっている。音の一つ一つに並みならぬ力感が感じられ、このムラのあるオケにしては異常に揃った演奏ぶりである。オーマンディの特徴として分厚い弦の高精度なアンサンブルへの拘り、更にブラスとパーカスの厳しく統制された、しかし明るく開放感ある響き、それらがパズルのようにきっちり組み合って隙の無いさまが挙げられる。独逸オケになるとひときわその解釈の構築性のメリットが発揮されるのだろう。なかなかにいい演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイネム:管弦楽のためのバラードop.23,セル指揮ACO(orfeo)1958/8/8ザルツブルグ音楽祭live(モーツァルテウム)ヨーロッパ初演・CD,,耳障り良さとトリッキーな装飾的フレーズの多用、ストラヴィンスキー新古典主義時代の作風からの影響といったところで、やはりオケも軋みっぱなしのところがある。バルトークなど民族主義ふうの激しい舞曲や、ウィンナーワルツふうだが香気の感じられない奇妙な舞曲(オケの音色が合わないのだろうが)、同時代要素が万華鏡のように散りばめられている。オケの各パートに見せ場を作り、オスティナートふうのリズムの刻みに乗って断続的な音要素が盛り上がりを作り、断ち切れて終わる。ウィーンのオケなら違う印象になったろうか。ウォルトンと共に演奏されているが、ウォルトンの芸風に引っ張られて皮肉と真摯のバランスがうまく取れなかった感もある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイネム:交響的情景,○ミュンシュ指揮BSO(DA)1957/10/12初演live,,新古典期のストラヴィンスキーの影響、ジャズのリズム、また極めてオーストリー風に保守的で、ゲッソリしそうなものだがそこに強力なメロディが存在すると話は違う。唸りながら力で押す指揮者は現代モノには弱いがそのての作品には強い。3楽章からなる抽象的な組曲。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイハイム:組曲「東洋の印象」〜日本の夜想曲,ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団victor1929/4/30,,愛奏曲のようで、晩年のライヴ録音二種は以前取り上げた。擬ドビュッシーの印象主義にたつ美麗なアメリカ一派を象徴するが、拍子木や変則リズムのフレーズに和が現れる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイハイム:日本の夜想曲,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1971/4/18LIVE,,若々しいなあ。戦前ごろまでの日本の印象を民謡旋律をいくつかまじえて描いた印象派ふう音詩だが、きわめて短い中にも透明な空気感、非常に清澄かつ豊かな色彩の煌めきを聴かせ、ストコらしさを示している。ややよれるがステレオ録音状態もままよい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アイハイム:日本の夜想曲,○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R)1962/5/21LIVE,,わりと抽象度の高い短いアメリカ印象主義音楽で、日本要素も特定の楽曲にしぼれるであろう部分はあっても僅か。静かな楽曲中に放たれるピアノの硬質な響きがアメリカ印象派特有の冷たい叙情をかもし秀逸だ。ストラヴィンスキー前よりアイヴズが使っていた高音打楽器的用法は好き嫌いはあるだろうがワタシは好きです。静謐さの中にも官能性をかもすストコの表現が光る。何度か演奏していたようだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アッテルベリ:交響曲第4番,○ヘーガー指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団(PADA他)1930年代・SP,,ヘーガーがいい。さすがこの時代のドイツオケであり、はっきりロシア国民楽派の影響下に自国の主題等を加えたチャイコフスキー風折衷性の強い楽曲を、野太い響きと正確なリズムによって引き締め、新しい音楽としての民族主義音楽を聴き取れるレベルにまで昇華させている。現在web配信されている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アッテルベリ:交響曲第6番,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DELL ARTE)1943/11/21LIVE・CDスウェーデンの現代ロマン派作曲家アッテルベリによる、20世紀における国民楽派シンフォニーの典型。最初に言っておくと、この曲は面白い。ソヴィエトの作曲家がそうであったように、旋律には国民楽派的な主題を使いながらも(なかなかに魅力的な旋律だ)、ハーモニーや移調に独特のやり方を施し、巧みに20世紀的要素(とくに西欧の近代音楽)も汲み入れている。ハリウッド映画音楽のようにいくぶん陳腐ではあるが(映画音楽的、とくに3楽章(終楽章)はディズニーアニメの音楽みたいだ)、他では聞けない「独特の」工夫が随所に施されているのが面白い。終楽章の冒頭のまるでボロディンのスケルツォのような独特の音形や、木管ソロのかけあいから始まる独特のフーガには参った。ただ、まるで若書きの作品のように生硬なところも多分に見受けられる(作曲家40台の作品)。上記のような試みもとってつけたように人工的だったりするところもあり、たとえばウォルトンのような作品と比べると見劣りせざるを得ない。だが、新鮮な音楽であり、名曲と言うにはいささか躊躇があるが、佳作とはいえるだろう。1楽章は国民楽派的だ。ボロディン、シベリウス、ディーリアス(国民楽派ではないが)はもとより、金管の使い方などにマーラーの影を感じるところもあるし、それらを総括して、ミャスコフスキーとの強い近似性を感じる。中期までのミャスコフスキーが苦悩の中で編み出した旋律の半音階的な処理の仕方、けっこうクセのあるやり方と共通するものを強く感じる。2楽章はやや地味。でもやっぱりどことなく独特だ。3楽章ヴィヴァーチェは一番人好きすると思う。ボロディンの影も感じるが、それよりアメリカ音楽のスカっとした感じに近いものも覚える。トスカニーニの演奏は即物的で曲の色香をあまり引き出していないが、このくらいドライにやったほうが独特の体臭が抜けてかえっていいのかもしれない。アッテルベリはこの作品でシューベルト没後100年記念コロムビア・レコード懸賞に入選、アーベントロートが初演し、のちに自分でベルリン・フィルを指揮して録音を遺している(私は未聴)。ちなみに一般には1〜3番のシンフォニーのみが評価されており、本作のあたりは交響曲としては余り価値的に見られていないとのこと。でも私は面白かった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アッテルベリ:交響曲第6番,○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(INA,DUTTON)1928/8/12・CDアッテルベリは20年くらい前まで長生きしたので若く感じるかたもいるかもしれないが、そんなに若くはない(1880年代生まれ)。その音楽の通俗性や手慣れたプロフェッショナルな作曲手法はアメリカのハンソンのような作曲家に近いものを感じさせる。あきらかにシベリウス的なところがあり、名前を伏せて何処の作曲家かと問えば10人中9人共が北欧と答えるだろう。だがシベリウスほど哲学的で思索的な音楽には走らず、むしろ後の方の作品に近づくにつれ過去のロマン派世界に回帰していったような感じさえ受ける。ビーチャムだからかもしれないが非常に清潔でしなやかであり、俊敏な音楽は終楽章において非常にスリリングな聴体験を感じさせる。溌剌としており、録音状態も(おそらく試行錯誤の末)とても昭和初期の演奏とは思えない音質を実現させていてよい。ただ、残響が多いのは気になるといえば気になる(それによって音楽のフォルムがぼけるのだ)。フランツ・シュミットの3番よりこの曲の方が高く評価されたというのは個人的にはいささか納得行かないところもあるが、曲想の自然さ、メロディやリズムの魅力においては凌駕したものもあるのかな、とも思う。とにかくビーチャムの清潔で颯爽とした解釈とアッテルベリの新ロマン派的な美しい感性のとてもマッチした佳演といえよう。もし選ぶならトスカニーニよりこちらの演奏のほうを推します。作曲家を理解し共感した指揮者のベストな解釈が聴けます。○。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アディンセル:ワルソー・コンチェルト,シュトランカ指揮ベルリン放送管弦楽団(AMIGA,ETERNA)映画音楽と割り切って聞きましょう。そうでないと陳腐さに死んでしまいそうになる。昼メロにぴったり。演,奏もこんなもんでしょう、といった感じ。無印。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アディンセル:ワルソー・コンチェルト,ワル・ベルク指揮ハンブルグ・フィル(TELEFUNKEN)LP正真正銘のライト・クラシック。ワル・ベルクも作曲家で同じ盤の裏面に自作自演が収録されている。アディンセルはハリウッドの映画音楽作曲家で、「不思議の国のアリス」の音楽で有名となった。出身は英国。代表作はこの曲一曲であり、それも映画「危険な月光」の中の一曲。ハッキリ言えばラフマニノフのハリウッド流アレンジ、といったところ。この時代(フィフティーズですね)流行ったんだろうなあ、という感じ。ガーシュインなんかのほうがよほど新しく楽しい感じがする。協奏曲という名がついているがまるきり管弦楽曲である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アファナシエフ:弦楽四重奏曲第1番「ボルガ」,○モスクワ放送弦楽四重奏団(melodiya)LP,,演奏は鋭く立派なのだが、,,もんのすごーくロシア。,,って感じの曲。それもそのはず、ニコライ・アファナシエフは(ピアニストじゃないですよ)1821年生まれの古い世代の人で、この作品にかんしては「ロシア民族楽派初の弦楽四重奏曲」と呼ばれるほどなのだ。これは「追随者」のものではなく「先駆者」のものに近いんですね。ロシア音楽協会コンペの第1回優勝作品だそうで。民謡旋律に貫き通された楽曲はボロディン2番に通じる簡明さとチャイコに通じる鮮やかな手腕が感じ取れ、「追随者じゃなくて先駆者ですよ」と言われれば「えっあのまだまだ中欧的なチャイコ以前の作曲家が活躍していた同時期にこんな作品が??」と驚き賞賛する気持ちもわかる。グラズノフみたいな変な臭気もないしマニアックな作為もない、垢抜けた民謡音楽です。個人的には聞き飽きたたぐいだがロシアマニアにはたまらないでしょう。○。1898年に亡くなっているのでチャイコとほぼ同世代といっていいのかな。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
アルヴェーン:スウェーデン狂詩曲より第一曲「夏の徹夜祭」(1904),作曲家指揮ストックホルム王立歌劇場管弦楽団(SWEDISH SOCIETY)1954/10/7 (ステレオ初期)至極古風な音楽、こういう曲もたまには聞きたくなる。「運動会用組曲」より、1年生競技と 2年生競技の間奏曲、といった冗談も口を突く冒頭旋律は、耳にされたことのある方は多いだろう。木管ソロの連環のあとにヴァイオリンで強奏されるところなど、どこかで聴いたことのある展開だ。しかし聴きすすめるにつれ、ワグナー風の豊穣な”くぐもり”が顔を出しはじめる。不明瞭な転調の連続や唐突な劇的展開、民謡の連環にリヒャルト味を加えた雰囲気は、一時期のグラズノフなどを思わせる。このひとの音楽は常に、民族音楽のベースにワグナー以後シュトラウス迄のオーケストレーションを施したふうであり、初めて聴く向きには無個性ととられかねないが、高音(ソロ)の扱い方に独特の妖しさが漂い、旋律と旋律の継ぎ目や弱音部で高音打楽器のかなでる微妙な音響には、独特の幻想がかいまみえる。”生臭さ”が皆無なところはシマノフスキにも通じるところだ。崩壊寸前の美というところまでは行かず、曲想はすぐにきれいに収束していく。そのあとの緩徐部、途中の舞曲にはチャイコフスキーのバレエを思わせるところがある。ハープの旋律的アルペジオにのって低音管楽器が次々ソロ旋律を吹き継ぐところなど似た雰囲気だが、そのあとの明るく壮麗な展開は独特の透明感に彩られ、「白いエネスコ」のような印象。ちょっと前期マーラー風。往年のハリウッド風展開から終結へ向けて明るさを増し、豊穣な音響はふたたび楽しく単純な民謡の世界に立ち戻る。これら旋律の素直さはこの人の特徴で、なんといってもすんなり耳に入るのが良い。結局モダンな響きはグリーグ程度に抑えられ、シベリウスよりもずっと過去スタイルで、個性を探そうと思えば探せるけれども、この曲ではやや薄いか。終盤近くの力強いダンスは、ちょっとスペインふうの熱気も伴い、いくつかの要素のごった煮的な味わいが独特ではある。肩肘張らずたまに聴くと面白い「NH○名曲アルバム」向けの音楽(けなしことばではないです!)。アルヴェーンはスウェーデン国民主義を代表する作曲家で指揮もよくし、90近くまで活躍と長生きであったから自作自演録音も多い。PHONOSUECIAで網羅的にCD集成されている。この演奏ではやや硬くぎこちない棒になっているが、音は良い(録音もまずまず)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
アルベニス:「イベリア」〜U.セビリアの聖体祭(アルボス管弦楽編),ロジンスキ指揮NYP(SLS)1945/11/18カーネギーホールlive,,ロジンスキには非常に珍しい演目になる。ピストンのシンフォニーのあとで派手に派手を重ねる感があるが、むせ返るような響きの華々しさと見事な編曲の引き締まった再現がロジンスキらしくも、ロジンスキらしくなくもあり、とても良い。末尾のイマジネイティブな光彩の表現をきくとこの人がなぜレスピーギを振らなかったのか疑問におもうほど綺麗だ。ロジンスキの腕をたしかに感じさせる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アルベニス:イベリア(アルボス管弦楽編),○セバスティアン指揮コロンヌ管弦楽団(URANIA/NIXA)1953・LP,,この曲で演奏の違いを説明するのは難しいのだが、カラッとした演奏で色彩も豊か、特長の強い演奏ではないが楽しめる。コロンヌ管の音だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アルベニス:イベリア〜第1集、第3集(アンゲルブレシュト管弦楽編曲),アンゲルブレシュト指揮ORTF(ina)1960/5/24live,,放送ライヴで、同曲の第一集(エボカシオン、港、セビリアの聖体祭)のあと、ファリャのスペインの庭の夜をやり、続いて第三集(エル・アルバイシン、エル・ポロ、ラバピエス)、最後に得意のドビュッシー「イベリア」で終演となる。この曲にアンゲルブレシュト?という感じもするがやはり「客観的な」演奏。リズム感や前進力は足りないが、透明感を保ったカラフルな響きとかっちりしたアンサンブルで特有の雰囲気はかもしている。ドビュッシーの演奏でおなじみのスタイルである。ステレオの良録音がかえって災いしたというか、アンゲルブレシュト(作曲も行っていた)の編曲はどうも単調で、高音の弦楽器がひたすら旋律をかなでるような、曲そのものの響きの個性はそのまま伝わるが、入り込めないというか、迫力が無い。アルベニスという作曲家には体臭のようなものも必要なのだな、ドビュッシーとは違う、と思った。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アルベニス:ナヴァーラ(アルボス管弦楽編),○アルボス指揮マドリード交響楽団(columbia/verso/dutton)1928・CD,,CDは残響過多で実体が見えにくいが、ぐいぐい引っ張っていくというより徐々に大きく盛り上がりを作っていく編曲者アルボスの指揮者としての力量が垣間見える演奏となっている。オケもローカリズムに陥ることなく、あくまで民族音楽ではなくクラシカルな音楽としてきっちりやっているように聴こえる。巧い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アルベニス:ナヴァーラ(アルボス管弦楽編),○ロジンスキ指揮ロイヤル・フィル(discover)CD,,元はwestminster録音か。ロジンスキらしい力感が最初から音楽を強く引っ張り、ステレオの良好な録音とあいまって楽しく、またアルベニス・アルボス両者の作曲・編曲技術の巧みさに目を見張る。◎にしてもいいくらい。ガストン・プーレのイベリアとのカップリングだがこれもよい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アルベニス:組曲イベリアより四つの印象(アルボス管弦楽編),○アルボス指揮マドリード交響楽団(columbia,verso)1928・CD,,CDは終曲のみ復刻状態が違い不可解。極端にノイズリダクションをかけたのか、そもそも音源がSPではないのか???ノイズが無い分ちんまりしている。また全曲ではなく3曲のみ復刻した音源がduttonより出ており、録音時期がバラバラである可能性もある。さて、編曲者による演奏は曲にもよるがリズム、歌い方に独特の癖があり、スペイン情緒を盛り上げる。CDは残響過多でかつ高音のノイズを除去しているせいか細部の聞き取りづらい音だが、そこを通して聴こえてくるのは民族的かつ「レトロな」音楽。解釈としてはそういう細部にこだわらなければ落ち着いたもので、スタイルとしても音楽の前進性に引きずられ前に流れていくこともなく、しかしそれなりに力強い。いかんせん音がイマイチなので細かくはよくわからないというのが正直なところだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アルベニス:組曲イベリアより四つの印象(アルボス管弦楽編),◎ガストン・プーレ指揮LSO(discover/MGM)CD,,父プーレの代表的指揮記録で、CDは残響過多ではあるがそのぶんほぼステレオに近い高精細の音響を楽しめる。いやこれは勢いがあって素晴らしい。アルボスの編曲は極めてファリャ的であり、垢抜けしたカラフルなものでとても聴きごたえがある。めくるめく転調の連続などワグナーの跡を継いだような巧緻な譜面を見事に管弦楽に移し替えている。その編曲の巧みさ、原曲の斬新さ・・・スペイン国民楽派からドビュッシーらの旗揚げする近代音楽側へ踏み出した姿・・・を存分に楽しめる。プーレの勢い任せのような部分は無く、ストレートで、ラヴェルを聴いているような錯覚に陥るほど美しい。これはCDで聴くほうがよい。○。Amazon.jpでダウンロードも可能。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アルボス:アラビアの夜,○作曲家指揮マドリード交響楽団(columbia,verso)1928・CD,,ほぼスペイン。オリエンタルな走句が唐突に挿入されるだけで、スペイン国民楽派そのものというような曲。ファリャやアルベニスとは比べるべくもないが、セミクラシック的な聴き方はできるか。アルボスの指揮はけしてセミクラシック的ではなく真面目だが。前時代的な表現ぶりも楽しめる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アルボス:ボレロ,○サモンス(Vn)スクアイア(Vc)マードック(P)(COLUMBIA),,どんな時代でも名前の残った演奏家の録音からは一歩抜きん出るものが感じ取れるわけで、室内楽団で知られたサモンズの雄弁さと色艶は圧倒的(技巧は重音など少し怪しい)。曲はファリャ的なセミクラシカルな楽しい曲だが夏の夕べにピッタリの南欧の楽天性がこのイギリスの都会人の指から紡ぎ出されているわけである。うーん、アナログ盤ならではの味もあり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アルボス:不在,○作曲家指揮マドリード交響楽団(columbia,verso)1928・CD,,スペインそのもの。民謡音楽の編曲と言ってもいいかもしれない。管弦楽法を楽しむには単調過ぎるが、国民楽派というものはこういうものなんだ、と納得ずくで聴けば楽しめよう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アレンスキー:24の小品 op.36〜V、X、]U、]X,○作曲家(P)(marston)1894/11/25、12/20モスクワ他録音・CD,,言葉をまじえた一連の独奏曲録音の一つ。このあたりの曲になると一部面白みが見えてくる。正確には「24の性格的な小品」、やはりショパンやリストなど伝統のピアノ詩曲の影響は強い。演奏的には不安的なところもある。これは演奏様式の問題でメロディにかかる過剰に細かいテンポ・ルバートは19世紀の時代がら仕方ないだろう。腕は正直専門ピアニストのレベルではない。タネーエフと比べると顕著である。録音は3(夜想曲),12(間奏曲ヘ短調)が11月モスクワ、5(慰め)が録音年月場所不明、15(森の中のロシアの踊り)が結構面白い曲で12月モスクワ録音である。,"The Dawn of Recording - The Julius Block Cylinders / Various Artists",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アレンスキー:ピアノ三重奏曲第1番〜T、U、V断片,作曲家(P)フルジマリ(Vn)ブランデュコフ(Vc)(marston)1894/12/10ロシア録音・CD,,比較的有名なシリンダ録音で、チャイコフスキーの肉声らしきもので知られるプーシュキン・ハウス・コレクションのユリウス・ブロック録音の一つである。ソヴィエトによる接収後、その崩壊あと特に秘匿されていたわけではないがこのようなCD集に復刻されることは無かった。チャイコフスキーの肉声に関してはあくまで推定でありこのための日本のドキュメンタリー番組も10年ほど前に民放で放送されているが、時代なりの劣化はあるもののかなり状態のよい現物がみられ、ソヴィエト時代という暗黒史がこの貴重なコレクションについては(恐らく多くをスターリン趣味と合致するロシア民族主義の作曲家や名演奏家のものが占めていたために)プラスに働いていたのかもしれない、西欧にあったなら戦後の混乱や商業利用の結果散逸していた可能性もある。,"The Dawn of Recording - The Julius Block Cylinders / Various Artists",アレンスキーのピアノ演奏はこれ以外にも多く収録されている。ほかタネーエフの演奏もあるが自作自演はなく、手堅いアレンスキーの作風が彼ら世代の保守派ピアニストに受けていたことも伺える(単にブロックの人脈的な理由かもしれないが)。アレンスキーにせよタネーエフにせよ比較的短命でこの時期は既に病を得てやっと回復したくらいだ。シリンダー録音の難点は膨らみが無く高音が消えていたり中音域が抜けたり、低音は強調操作可能な程度のようであるが、輪郭だけの音楽に聴こえてしまうところ。病のせいもあるだろうが腕にやや問題があるように思われるアレンスキーの、それでも細かい音符と薄い響きによる繊細なフレーズ(折衷的作曲家として標題含め同時代フランスの影響が感じられる曲も書いている)においては耳を澄ませば極めて密やかで美麗な表現をとっている様子が聞き取れる。ピアノトリオとしてはヴァイオリンの音が殆ど消えている箇所が多くどうにも聴きづらい。ヴィオラ音域ではしっかりアンサンブルしている様子がうかがえ、西欧折衷派としてのチャイコフスキーの影響の強い古風な音楽が欠損はあるが説得力をもって響いてくる。もっとも「偉大な芸術家」の影響は無く無難なプロフェッショナリズムのうちにある曲である。2楽章の丁々発止が聴きものか。この時代のロシアの弦楽奏者のレベルが既に極めて高かったことも知ることのできる貴重な録音。仕方が無いのだが音の悪さで無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
アレンスキー:泉にてop.46-1(原曲:カンタータ「バフチサライの泉」),○作曲家(P)(marston)1899/4/12ロシア録音・CD,,言葉をまじえた一連の独奏曲録音の一つ。原曲はアレンスキーの代表作の一つといってもいいのか。ただ私は良く知らない。前奏曲あたりからの編曲だろうか。opus番号も作曲年順ではない場合も特にロシアには多いが、なかなかに面白い、といってももっと現代的な曲も書けた人だと思うのだけれども。演奏はアレンスキーなりのもの。,,"The Dawn of Recording - The Julius Block Cylinders / Various Artists",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
アレンスキー:即興曲イ長調,作曲家(P)(marston)1893/11/24ロシア録音・CD,,言葉をまじえた一連の独奏曲録音の一つ。保守的な曲。演奏的にも突飛なものはない。,"The Dawn of Recording - The Julius Block Cylinders / Various Artists",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アレンスキー:即興曲変ホ長調,作曲家(P)(marston)1892/11/24ロシア録音・CD,,言葉をまじえた一連の独奏曲録音の一つ。かなり保守的で即興曲にしてはゆったり安定感のある曲。演奏的にも突飛なものはない。1893年録音の可能性あり。,"The Dawn of Recording - The Julius Block Cylinders / Various Artists",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アレンスキー:二台のピアノのための組曲〜T、V、W,○タネーエフ、パプスト(P)(marston)1892/12/14モスクワ録音・CD,,作曲家の同僚タネーエフはタッチが重く響きに安定感があり、演奏家としてはドイツ的だったことが伺える。この時代のピアニストなりのテンポの不安定感はあり、アンサンブルの「あるある」として重奏部で歩みを取り戻すようなところはご愛嬌。曲はアレンスキーの保守面の出た前時代的なショパンやリストのようなもの。,"The Dawn of Recording - The Julius Block Cylinders / Various Artists",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
アレンスキー:不明作品,作曲家(P)(marston)1899/4/12ロシア録音・CD,,言葉をまじえた一連の独奏曲録音の一つ。「泉にて」と一緒に録音されたものらしい。作風は極めて古風であり余り惹かれない。民謡ともつかないもの。,,"The Dawn of Recording - The Julius Block Cylinders / Various Artists",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
アレンスキー:忘れられたリズムによる試みop.28〜V、X,○作曲家(P)(marston)1894/12/20モスクワ他録音・CD,,言葉をまじえた一連の独奏曲録音の一つ。オリエンタリズムの延長上で古代ギリシャ風幻想を描いたものとしてはショパンを通り越して近代フランス派に接近しており、アレンスキーの過去の呪縛にとらわれない折衷性のより強い発露ならびに繊細な感性の現れたものとして注目できる。気まぐれで指の軽い演奏ぶりもこちらのほうが向いている。西欧ロマン派風の作品と一線を画した作品ということはフランス語の標題にもあらわれ、スクリアビンと同時代の作曲家であったことも認識させる。3曲目がイオニキ、5曲目がストロフ・アルセエンヌという題名である。これら一連の自作自演は一部欠損があるが恐らくシリンダに収まりきれなかったのだろう。作曲後間もない演奏としても貴重。,,"The Dawn of Recording - The Julius Block Cylinders / Various Artists",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
アンダーソン:そりすべり,○フィードラー指揮ボストン・ポップス(SINETONE AMR他)CD,,本盤はこの古典的録音の最新復刻になるだろうか。廉価EPの扱いになっているが、正直、廉価なりの品質。外縁のノイズだけ増幅されてしまい肝心の音場のスケールは変わらず、といった雑な擬似ステ処理が演奏自体の価値を低めている。ボストン・ポップスは機能性は高いが冷たい響きはBSOと同様、フィードラーのドライブも意外とあっさりしていて、原曲に篭められた仕掛けはちゃんと描き出して機知溢れる音楽を作り上げてはいるのだが、プラスしているものは余り無い。○にはしておく。同盤、余りいい演奏が無い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アンタイル:ヴァイオリン・ソナタ第1番〜W.,べッス(Vn)デ・レーウ(P)(TELEFUNKEN),,デ・レーウのアンタイル管弦楽曲ライヴの埋め合わせに2番ソナタとともに収録されていたレコードで、CDでは管弦楽曲だけしか確認できていない。ライヴではない。プレスト楽章だけだが、冒頭から強靭で単調なリズムにのって単純なモチーフが継々と並べられていくだけで、いかにもアンタイルらしい機械的な動きの上、アメリカの世俗的な、わかりやすいフレーズから、バルトークのような知的な暴力性を帯びた(しかしやはり技巧的なだけで構造は単純な)音楽、終いには実験主義を思わせる抽象的な前衛に至り終わる。ひたすらの旋回はほぼストラヴィンスキーをなぞったに過ぎないが(ハルサイの素材を忍ばせてすらいる)、いつ終わるのかわからない、ただ主題と手法が変化していくだけのデジタルなところはアンタイルのいわゆる騒音主義を前提とした作風の原点を示している。編成が極小だから拡大のしようがない。デ・レーウが上手い。ソリストは特殊な奏法もよく弾きこなす(どうやったらあんな離れた重音を取れるんだろう(むろん不協和音))。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アンタイル:ジャズ・シンフォニー,デ・レーウ指揮オランダ金管アンサンブル他(TELEFUNKEN他/london)1976オランダ音楽祭live・CD,,londonよりデ・レーウ75歳記念ボックスでCD化されたが、ヴァイオリン・ソナタを欠いているのと得意としているサティが収録されず完全に前衛音楽集となっているゆえ、その中では古典的な(昭和元年前後)ジャズ風作品であるこれ目当てに購入するのはおすすめできない。6分強の作品で交響曲というよりアーチ構造を持つメタクラシックの小品に近く、当時最先端の騒音主義に立って打楽器を中心とした無造作で派手な音響を志向しながらも、リズムもメロディもしっかりラテン音楽、古典ジャズを一見アイヴズ風に組み入れて、クラシカルな音楽としてしっかり作られており、ガーシュウィンと比較されたのはさもありなん、シンフォニック・ジャズとしてミヨーらヨーロッパの作曲家による異化されたものとは比べ物にならない出来栄えで、無邪気なドン・ギリスというより総体的にヒナステラの先駆と言って差し支えないかもしれない。もっとも素直に楽天的に楽しめるものではある。この演奏は当時放送され評判となりレコード化された。比較的透明感を持って、勢いに隠されがちな曲の構造の巧みさを示してなお熱意が篭り喝采を呼んでいる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アンタイル:マッコンキーのフェリー序曲,○アドラー指揮ウィーン・フィル(SPA他)CD化,,「アメリカの生活」と銘打った盤で、カウエルなどの比較的平易でアカデミックな作品が併録されている。アドラーは器用な指揮者ではないが手堅いので、こういうマイナー曲でもしっかり表現してくれる。この曲はちょっと聞きバーバー「悪口学校序曲」に似ている。最後がいきなりブツっと切れるような構成も似ている。また、この盤の曲全体に言えることかもしれないが、構造的なところはヒンデミットを、響きには後期ヴォーン・ウィリアムズを、垢抜けたリズム感にはウォルトンやコープランドを想起する。ジャズふうのパッセージの導入もみられるが、アメリカニズムは希薄で(無論ヨーロピアンな演奏のせいもある)、充実した書法の反面個性には乏しいと言わざるをえない。でも、面白いのだ、それで十分。アンタイルはアバンギャルドな未来派音楽で知られる作曲家だが、決して実験的作品だけではなく、こういうしっかりしたロマンティックな曲も書けたのだ、ということを改めて知らしめる。意外ですらあったが、考えてみればケージでさえ初期はマトモな曲を書いていたわけで、アメリカの作曲家侮るなかれ、といったところだ。ちなみに題名はうまく訳せませんでした、すいません。佳演としておきます。,,,"二枚組CD""antheil plays antheil""に収録された。",-----,,,-----,,,-----,,,-----,
アンタイル:交響曲第5番「歓喜」,○ヘフナー指揮VPO(Other Minds)CD,,50年代のモノラル録音。原盤はSPAか。代理指揮者や同時代音楽指揮者としても録音活動をしていた中欧のヘフナーとVPO(実体はVSOか)による演奏というちょっと珍しさも感じさせるもの。自作自演集CDに併録、今はamazonのmp3ダウンロードでも手に入る。曲は平易で、普通の意味でメカニカルな楽しさが追求されている。ショスタコ風だがショスタコが決して書かないような甘い旋律を誇る中間楽章をはさんで、あからさまにプロコ後期からのヒョウセツをちりばめたオネゲル的な素朴でけたたましいオーケストラの饗宴を聞かせている。私はこの演奏は悪くないと思う。充実した響きと適度な精度で、弛緩も感じさせない。暴力的な魅力は少ないが、むしろそういう音楽なのだからあたりまえだろう。切り落としたような終幕などうまくないが、これも曲がそうなのだ。アンタイルは晩年映画の世界で活躍した。それもうなづけるメタ的作品ではあるものの、部分的に現代的な不協和音が取り入れられ、才気かん発なところは感じられる。○。アンタイルの5番は二曲あるが一般にはこちらを言う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
アンドリーセン:交響的習作,コンドラシン指揮ACO(ACO)1979/11/24,,かなり硬派なゲンダイオンガクから入る曲だが、冷ややかに幻想的な雰囲気はコンドラシンの音作りの硬派なところによくマッチしている。急峻部に入って音楽はいきなりわかりやすくなるが、調性の不安定さは残る。迫力のある演奏だし悪くはないが、曲が弱いか。無印。放送録音か?ACO100周年ボックスに収録。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
イシャ・クレイチー:管弦楽のためのセレナータ,アンチェル指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送管弦楽団(SWRclassic)1967・CD,,アスラエルとのカップリングだが、アスラエルとは対照的に能天気。新古典主義にのっとったというより、民族主義みたいな古い印象を与える。アンチェルだからテンション高く、しかし即物的に煽っていくが、直前のアスラエルとの落差があまりに大きく、楽しめなかった。逆に収録したらよかったのに。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
イッポリトフ・イワーノフ:コーカサスの風景,○シュヒター指揮LPO(MGM他)LP,,日本盤でも出ていたもの。さすがオケが違う、ドイツのなんとも渋く重い音と違い爽やかな透明感と繊細なオケ操作のわざが聴いてとれる。リムスキーの影響色濃くも表現内容はボロディン、しかしもっとローカル色の薄められた描写音楽で、同じ表題組曲であってもリムスキーのシェヘラザードのような体臭は無い。これはさらにシュヒターにより薄められて聴きやすくなっているのだろう。終楽章の舞曲旋律などあきらかにオリエンタルな民族音楽だがシュヒターはきわめて精緻で重心低く、しかしスピードと勢いを損なわずにまるで中欧ロマン派の古風な作品のようにしっかり描いている。全体設計がまずかなりきっちりなされていて、おしなべてのっぺりした作品中に時折織り込まれる舞曲のリズム処理のうまさ、効果的な切り替えはすばらしい。あまり押しの強い曲ではないがそれでもロシア国民楽派の典型であるだけに、このように慎重に純管弦楽的に繊細に取り組んだ演奏のほうが一般には入りやすいだろう。いつもの手堅さは余り感じず、勢いと美しさが加わっていつもと違う魅力を発揮したものとして○にしておく。,-----,,,,,,,,,,,,,
イベール:アルト・サキソフォーンと11の楽器のための協奏曲,○ロザンタール指揮パリ・フィル、マルセル・ミュール(S)(EMI)CD 仏EMIはとんでもない復刻を乱発している。CD時代の人々は大喜びだろうがレコード時代の人々は内心がっくりだろう。これだけまとまって集成されて1000円強とは。この曲のミュールの録音があることは知っていたが、たぶん持っていなかったと思う。ので改めて全楽章聴いてみた。1楽章はイベールらしい響きの臭みのある無窮動的な音楽。プーランクやフランセなど同様、たんに軽音楽ではない、何かしらひっかかる不協和音や独特の転調を交えたりして、音楽の「質」を保っている。私は結構このては苦手なのだが、イベールはとにかく旋律がいいので、許す。とくに2楽章の仄かに感傷的な旋律はイベールならでは。息の長い歌が時の経つのを忘れさせる。但し、個人的にここでバックがひたすら奏でる不協和で晦渋なハーモニーはどうも好きになれない。旋律だけならスバラシイのに・・・私だけ?アタッカで3楽章のふたたび激しい音楽。これもイベールの常道で、あまり冒険の無いいつもの作風が展開されているという点ではいささか職人的シゴトに過ぎる感もあるが、モノラル期のロザンタールの水際立ったリズムが巧く音楽を救っている。3楽章の途中に一個所原盤起因の雑音あり(メーカー調べ)。○。ミュールの音は甘いなあ。。。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
イベール:サックス小協奏曲,ロンデュー(sax)ウーブラドゥ指揮パリ室内コンサート協会(forgottenrecords他)1959/11/8live放送,,LP起こしとあるが放送音源であり初出かもしれない。尖鋭なとっつきづらい始まり方をするが終いにはフランセのように軽妙になる(フランセがイベールの息子と呼ばれたのだから逆)。有名な曲で同時代から録音が結構多いが、これはライヴ的な瑕疵がなくしっかりした伴奏、ソリストによるもので、録音状態的にパワーは求められないが、この時代の曲をこの時代の録音で聴いているという前提で聴けば楽しめる、そういう演奏といえば察せられるか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
イベール:ディヴェルティメント,○デゾルミエール指揮パリ音楽院管弦楽団(TESTAMENT/DECCA)CD デゾの録音はぞくぞくとCD化されている(最近だとテスタメントですね)。チェコ録音はまだ復刻されないようだが時間の問題だろう。この曲も確認してないが確かCDになっていたと思う。デゾはスマートで浮き立った表現の巧い指揮者。このフランス六人組の+αの作曲家は、こういう喜遊的な曲はお手のもの。しかもイベールはプーランクやミヨー以上にそういう「実用的な音楽」作りが巧いときた。この第二曲にあらわれる「結婚行進曲」のパロディは噴飯もの。デゾの棒も冴えきっている。楽しいタノシイ組曲、ミヨーのフランス組曲あたりに通じるものもあるが、より親しみやすいので、ぜひ聴いてみて下さい。タノシイ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
イベール:フルート協奏曲,グラフ(f)デサルゼンス指揮ウィンテルトゥール交響楽団(EDITION LIMITEE) うーん。。イベールのこういうところがキライだ。いきなり内省的で晦渋な世界に入ってしまったり、やたらと構造的な複雑な音楽を紡いでみたり。いい旋律がないときほどそういう手練手管を使ってくるところがイマイチ好きになれない。まあ、ここは曲批判の場ではないんだけれども、この曲にかんしていえば、あまり人好きしない長い曲、と言うしかない。この演奏はフルートが全然浮き立ってこない。ずっと吹きっぱなしにもかかわらず、録音バランスが悪いのか、フルートコンチェルトということを忘れてしまう。この盤、盤面悪いし、無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
イベール:寄港地,○ワルター・ストララム指揮コンセール・ストララム管弦楽団(VAI)1928-30・CDこのオケの艶っぽい音色といったらない。古い録音でも充分に伝わってくる。しっかりした演奏でこの時代の録音にありがちなアバウトさは無い。何かニセモノ感があるというか、チープな魅力のある曲だけれども、たとえばファリャを模倣したような楽想にしても、パリジャンとしての品を失わず、あくまで陸の上から港の風景を描いているかのよう。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
イベール:弦楽とオーボエのための協奏交響曲,デ・ランシー(ob)プレヴィン指揮LSO(RCA/sony)1966・CD,,イベールはカメレオンのようにさまざまな作風を提示して一定水準の満足感を与えてくれる。この曲の焦燥感と内省的なさまはいかにもオネゲル的だが、構造は比較的単純な新古典主義だ。中間楽章でオーボエを中心とする中低音域のやりとりが、ユニゾンを基調に暗く行われるところに、ソリヴァイオリンが高音で投げかける叙情はマルティヌーを思わせ、冷え冷えとした中にもオネゲルとは別種の暖かみを感じさせる。オネゲルほど緊密ではないので過度な期待は禁物だけれども、この演奏のように中庸の美観を保ったものは、地味ではあるが聴きやすい。デ・ランシーは個性を打ち出すタイプではなく音色も表現も手堅い。だからイベールならではの憧れに満ちたフレーズではもう少し何か欲しい気もするが、融和的ではある。アンサンブルは少し緩いか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
イベール:弦楽四重奏曲,○レーヴェングート四重奏団(EMI)1946/9・CD ,,グラモフォンに録れたドビュッシーのばらけた演奏ぶりが信じられない出来である。個性という点ではどうかわからないが、統一された美しい音色〜アマティの銘器で統一された〜による極めて緊密なアンサンブルには括目させられる。とにかくこの速さは尋常ではないし、溌剌とした運動性もこの曲にはふさわしい。フランスの団体の草分けのひとつとしてメンバーチェンジを重ねながらも70年代までじつに40年以上活躍した団体であり、録音も数多いものの復刻が進んでおらず比較的新しいLPでもしばしば高値がつけられている。カペーやカルヴェ、クレットリと並び称されるほどの古の有名団体でありながらメンバーはじつに若く、主宰のファーストヴァイオリンなどは大正元年生まれという異例の若さである(10代で組織したのだ)。まずは明瞭で技巧的なアンサンブルの妙味、そして赤銅色の美音(この曲では一番地味な2楽章でとくに味わえる)。それらを楽しむにはふさわしい演奏だ。1、3楽章は「うわーこんなの弾けない」と思わせるようなエスプリと煌きを放っており、さすがだと感銘を受けさせる。2楽章は元々の曲がややわかりにくい構成のため今ひとつ魅力が浮き立ってこないが、2回繰り返される長大な名旋律は控えめながらも味わい深く響いている。3楽章はピチカートだけの楽章ながらもさすがアマティ、音色に艶があり、たんなるチャイ4の3楽章に落ちないカルテットでなければ表現できないような輝きを瞬発的に放っている。鋭さはないが速さの中に和声的なバランスが巧くとられておりこの比較的古い録音でも十分にイベールのサロン風ハーモニーの妙を楽しめる。敢えて速く奏することで4楽章の序奏としての役割を果たさせることにも成功している。4楽章はベートーヴェンを得意としたこの団体らしいかっちりしたところを見せる。アンサンブル力のみせどころだ。総じてまとまりすぎて小粒にも感じられるが、イベールの演奏としては一位に置けるくらいのものになっていて素晴らしい。個性に拘る私は○ひとつに留めておくが、◎になってもおかしくない内容だと思う。グラモフォンのフランスものの録音と比べてのこの違いはなんだろう。数年のうちにファーストが狂ったとしか言いようがないが、狂ったと言っても個性的とみなす私はグラモフォンの芸風のほうが好きだと付け加えておく。戦後の録音であるせいか古くてもしっかり楽しめる録音レベルには達している。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
イベール:弦楽四重奏曲,パレナン四重奏団(vega)曲としての出来はどうだろうか。二楽章の息の長い旋律には部分的にとても美しいものがあるし、三楽章のピツィカートによるエスプリにもほほえましいものを感じる。フランス六人組に数えられてもおかしくはなかったといわれるイベール、その音楽は、やはりミヨーなどに良く似たものがある。もちろんイベール節とでもいうようなものを持っているし、凡庸ではないのだが、弦楽器だけのアンサンブルというものに対して、ルーセルもそうであったが、変に晦渋なものを求めているようにもきこえる。いや、逆に弦楽器だけのアンサンブルというものは音色が混ざり易く晦渋に聞こえがちで、その点を押さえて書法に巧く反映させるべきところ、うまくできていないのだろう。パレナン四重奏団はフランス的なものをとても持っている一方で、バルトーク全集に挑むほどのテクの持ち主でもある。だがこの曲については結局スコアを前に聞きでもしないかぎり、なかなか「見えてこない」演奏になってしまっている。モノラルなせいもあるだろうが、曲の悪い部分を抑え良い部分を浮き立たせるまでには至っていない。残念だ。出だしは魅力的なのだが・・・終始せわしないリズム、オリエンタルな音線に思わず「ルーセル?」と思ってしまう1楽章(2楽章の半音階的晦渋さもそう感じる)。だが、全般ぶ厚く凝りすぎた感のあるアンサンブルの中から、旋律だけを取り出してみると、イベール的な明るくサロン的な魅力が浮き出して来る。円熟後のルーセルにはどうしようもない暗さもつきまとうから、この楽天性は本質的に異質なものである。イベールらしい息の長い旋律はトリオに比べいずれもいくぶん魅力に乏しいが、ところどころ耳に残る部分がある。 1楽章はミヨー的複雑新鮮な音響を楽しめる方にはお勧め。音と音のきらめく衝突はミヨーのもちいる和声に追従したかのようだ。フラジオレットのさりげない挿入など耳を楽しませてくれる仕掛けも多い。時代からすれば遅れたやり方なのかもしれないけれども。このあとの楽章にも見られるが、フレーズの終止形が時折(それまでの展開を無視したかのように)「前時代の定番的表現」をとるのは、多分意識的な”遊び”で、逆のコントラストが却って面白い耳心地だ。2楽章はいきなりの不協和音で取り付きづらいが、良く聞きすすめるといくつか魅力の発見できる曲。重いが、暗くはならない。暖かい(ぬるい)明るみに彩られた瞑想的な雰囲気。中盤ファーストヴァイオリンのうたう悲痛な、だが希望をそこはかとなく感じさせる歌は胸を打つ。終盤の(定番でもあるが)チェロ・ソロによる息の長い旋律再現にも、何か失われゆくものへの遠い思いを感じさせるところがある。バッハにならったようなフレーズもありオネゲルを彷彿とするが、数倍聴きやすいのはひとえに旋律と暖かい和声のおかげで、これがわけのわからない旋律に不協和音だけだったら駄曲。3楽章はピチカートだけの楽章で、同曲の一番特徴的な楽章。簡潔で、ラヴェルの2楽章よりはひらめきの点で劣るものの、2楽章との鮮烈なコントラストが嬉しいイスパーニャな逸品。有名なチャイコフスキーの4番交響曲とはかなり感じが異なるけれども、典雅さは遠からじ。終楽章は3楽章の雰囲気を受け継ぎながら律動的なアンサンブルの交錯を聞かせる。ここでも一寸聴きルーセルを思い出すだろう。ルーセルは独特の禁欲的な旋律を持っているから違いも歴然なのだが、そんなことはマニアの世界。私にはここでもミヨーを薄くしたような匂いが感じられる。パレナンは巧いけれども縦のアンサンブルが聞こえすぎてしまい、旋律の横の流れが浮き立ってこないので、更に曲をわかりにくくしてしまっているかもしれない。それほど人気の無い曲でもないはずだが、メジャー化しづらい要素は沢山。そういった曲。弦楽四重奏曲というと普段平易な作風の作家でも、どうしても構造に凝ったものになりがちだ。イベールがこういう構え方をしてしまうのもわからないではない。最後に打たれる和音は如何にも定番ではあるが、きっぱりしていて、すっきりする。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
イベール:三つの小品,フィラデルフィア木管五重奏団(boston records)1960/9/21・CD 同アルバムに収録されている他のフランス音楽に比べると随分と古風な感じもする(1930年作品なので僅かだが古いわけだ)これもわりあいと有名な曲。旋律楽器を中心に動く至極わかりやすい曲構造で、いかにも世俗的でサロン風の作風に留まったイベールぽい楽曲だ。楽団はまったく余裕といったかんじ。フルートの高音が震えるように美しく心に響いてくるのが印象的。それ以外はふつう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
イベール:三重奏曲(1944),○ジャメ(H)サンチェス(Vn)デジェンヌ(Vc)(ERATO)1963/1 マリ・クレール・ジャメ五重奏団名義の演奏。この類希な音楽の宝石に対して、ジャメのハープの繊細な響きとこのアンサンブルのノーブルな雰囲気がやさしく溶け合い、そっと輝きを加えている。ヴァイオリンの音がやや率直(リアル)すぎるきらいが有り、ラスキーヌ盤のヴィア・ノヴァのセンシブルな演奏にくらべいくぶん落ちるように感じられる。3楽章の無窮動的な律動はやや速めで、そこにジャメのきらめくような美音が降りかかってくる。中間部で印象的な重音のグリッサンドが全部バラで演奏されている(ヴァイオリンもチェロも)のに少しびっくり。けっこうあっさり味である。モノラル。最後に、ヴァイオリン手抜いてるところあるぞ・・。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
イベール:三重奏曲(1944),◎ラスキーヌ(Hrp)ヴィア・ノヴァ四重奏団のメンバー(Vn,Vc)(ERATO)この演奏はこれ以外にはいらないという気にさせてくれる。ラスキーヌのフランス近代音楽の表現は、技巧的にも情緒的にも万全だ。ヴィア・ノヴァも実にフランス的な音色が美しく、同曲に満ち溢れた類希なる名旋律の数々を高雅に、時には情熱的に謡いあげている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
イベール:祝典序曲,山田耕筰指揮紀元2600年泰祝交響楽団(columbia/rohm/altus)1940/12/18,19・CD,,皇紀二千六百年祝典序曲、同じ意図で様々な国の作曲家に依頼された作品中では、シンフォニア・ダ・レクイエム(ブリテン)を別格・別枠とすれば最もすぐれた作品であるように聴こえる。新古典主義に立った明快な作風、弦・木管に施されている合奏協奏曲ふうの洗練された書法、ブラスの強奏を駆使したアメリカ的ですらある祝祭的表現、手抜かりのない和声の馴染み良さ、そこにはイベールなりの個性も忍ばせられているが、求められる物を求められた以上に提示するプロフェッショナルぶりがイベールという作曲家の職人性を見せつけるものとなっている。管弦楽の用法の巧みさは同時代のアメリカでフランスから影響された新古典主義的作曲家の作品と比べても明らかに上である(個性を犠牲にしているからとも言える)。日本人としてベルリン・フィルの指揮台に立ち録音を残したことでも唯一世界に知られた指揮者であったであろう山田耕筰の、恐らく新響(現N響)の鍛えぶりも相当なものだったことも伺え、作品自体が単純に鍛錬を成果として示しやすく出来ているからとも思えるが、SP時代の日本人オケとは思えぬ少しドイツ的なまとまりをもった意志的な演奏として今でも楽しめるレベルだ(但し録音状態の悪さはいかんともし難い)。とはいえ、ブラスは弱い。これだけ木管が吹けているのに、ヘナヘナして聴こえるのは録音のせいだけではあるまい。効果的な曲なので背景無視して、ショスタコの祝典序曲同様に今でも楽しむべき価値ある曲である。一連の委託作品を初演者山田か録音した中の一組。ネットでも聴ける。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
イベール:祝典序曲〜部分,山田耕筰指揮紀元2600年泰祝交響楽団(NHKSO)1940/12/7,8,14,15歌舞伎座、紀元2600年泰祝楽曲発表会LIVE? ・LP,,皇紀2600年記念録音盤。言うまでもなく戦前各国の著名作曲家に依属した祝典用楽曲のこれはひとつである。イベールの曲はこのドイツ的な演奏によってもはっきりそれとわかる個性を発揮している。イベールのルーセル的な重さが逆に威厳をあたえ、皇紀2600年祝典にふさわしい重厚な盛り上がりを作っている。とはいえイベール馴れしている耳にはむしろすぐ飽きがくる。録音は決してよくないから、資料的価値以上のものはないと言い切ってしまおう。でもたぶん皇紀2600年泰祝楽曲中ではいちばん人好きする曲と思う。評価不能、無印。オケはN響の前身新響を母体として新たに組織されたもの。,,,別途放送用録音されたものの抜粋の可能性がある(columbia、CDではローム、altus)。,-----,,,-----,,,-----,
イベール:組曲「寄港地」,パレー指揮デトロイト交響楽団(mercury等)CD,,ステレオ。音楽の浅薄さが露骨に伝わる音場の狭い古い録音で、まあ、何も残らない。イマジネーションにプラスアルファの欲しい曲ではある。演奏精度はこの時代にしては高いだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴァージル・トムソン:弦楽のためのカンタービレ(ニコラス・デ・カタラインの肖像画),○ストコフスキ指揮CBS放送室内管弦楽団(SCC:CD-R)1953/10/25,,放送ライブ。アメリカ現代音楽の紹介番組の中で演奏された一曲。保守的な作曲家だけあってこれも古典を下地にロマンティックな音楽を組み立てている。ストコフスキーはこのバーバーのアダージォのような曲をバーバーのアダージォのように演奏している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴァイル:「三文オペラ」〜「メッキ・メッサのモリタート」,◎ロッテ・レーニア&マッケベンとルイス・ルース・バンド1930/12/11ブレヒト盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヴァイル:「三文オペラ」〜「メッキ・メッサのモリタート」,ブレヒト&テオ・マッケベンと彼のジャズ・バンド1929/5(pearl,CBSsony等)これはクラシックとして挙げるべきではないのかもしれないが、コープランドの弁を借りるなら古臭い「オペラ」をジャズ要素によってよみがえらせ、成功した作品ということになる。 ”マック・ザ・ナイフ(英文訳)”のモリタートは三文オペラの中でもダントツに有名な歌で、ジャズ・ナンバーとしてもスタンダードになっている。夢見るように儚く哀しい空元気の唄だ。ここには古典として、作曲家の妻君でもあるレーニアのうたう手に入りやすい新旧盤を挙げた。俳優としては性格俳優的な位置にいたレーニアの歌もまた独特の癖があり、うまくいえないが「シニカルばあさん」といった趣。新しいものほどその傾向が強く、それは当然歌唱力の幅のひろがりに伴っていったものであった。サッチモとのセッションはむしろ、併録されたテイクのやりとりにおいて興味深く聞ける。サッチモの要求に対して変幻自在の声を操るレーニアは下品な声の謡うたいではなく繊細な技巧を駆使する歌唱家だ(そんな大それた言い方も可笑しいけれども)。セルフプロデュース能力に極めて長けた、また底抜けに明るい調子の唄うたい。個人的な好みで言えば、ひときわ高いトーンが無邪気さを醸し出し寧ろ愛らしいといった様子の30年オリジナル録音のほうが好きなのだが、音が悪いし、一般向きではないだろう。pearl盤についでに入っていたブレヒトの歌!も参考として挙げておく。下卑た声が堪らない。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴァイル:「三文オペラ」〜「メッキ・メッサのモリタート」,レーニア&ルイ・アームストロングとオールスターズ1955/9/28ブレヒト盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヴァレーズ:アルカナ,マルティノン指揮シカゴ交響楽団(RCA他)1966/3/21・CD,,新奇な音要素を騒音主義的に加え、前衛に必要な理知性より、結局勢いを重視した楽曲に聴こえてしまう。明晰な表現を持ち味とするマルティノンでさえこうなってしまうのだから(トランペットの駆使や複雑なリズムなどアイヴズのようにうるさく、打楽器に頼るような表現は強引で、全体の構成感も希薄)これはあとは好みだろう。この楽団がやっているのだから、これ以上の技術も求められない。ピアニッシモの響きの美しさはヴァレーズ独自のもので、マルティノンらしい精緻さが有利に働いている。ジョリヴェが好きなら聴ける音楽です。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴァレーズ:イオニザシオン,スロニムスキー指揮汎アメリカ室内管弦楽団(columbia/SYMPOSIUM/NMQR他)1933/3/6・CD,,"超長生きした初演者による初録音盤で初演直後のものとされている(録音日記載が初演日)。SYMPOSIUM盤は話題となった幕の内弁当で長いことワゴンで叩き売りされていたが、個人的に入手していた気もするのだが出てこない。バーチャルレーベルとしてNMQが復刻したものが手元にあり、そこにはアイヴズの初録音もの(スロニムスキーはアイヴズ初演を手がけている)と同時に初演者と作曲家のざっくばらんな対談抜粋も10分程度収録されている。演奏は素朴の一言。作曲家が叩きつける様に口ずさんだリズムの交錯もわりとぼやっとして、それは録音だけのせいではあるまい。いわゆる未来派的な、肉の無い骨だけの音楽を楽しめるかどうかはともかく、歴史的価値はあるのだろう。6分弱の演奏時間だが、よくわからないのだが、20分以上の演奏をしている盤もあるらしい。スロニムスキー対談は初演40周年の1973年のもの。全編はこちらでストリーム配信されている模様(M&A)。無印。",,録音月を誤記しているものもある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ヴァレーズ:インテグラル,バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1966/10/8LIVE・CD,,どこがインテグラルなんだか。騒々しい打楽器主義・バーバリズムで知られるヴァレーズの代表作のひとつである。ストラヴィンスキーがアメリカの作曲家のもので唯一認めて好きだったと言われるヴァレーズの音楽(ヴァレーズはアメリカ出身じゃないが)、リズムの複雑さ、音響の派手だが硬質なところ、あるていど計算ずくのプロ受けする書法、余計な楽器を入れない理知的で斬新な感性、そしてジャズ風味がストラヴィンスキーの興味を惹かないわけがない。凄い作家というのではなく、ストラヴィンスキーと相性があったというだけだ。そして、インテグラルでもハルサイを彷彿とさせる呪術的主題がちらりと顔を出したりして、この作家の逆に受けた影響も指摘できる。この曲のごちゃまぜスタイルはエシュパイなどに引き継がれるわけだが、エシュパイが娯楽性と洗練性をもって大衆受けする形に磨き上げたのに対して、こちらヴァレーズは剥き出しの暴力性を決して減衰させることなくこれでもかと打ち付けてくる。疲れる。正直バンスタの演奏でも厳しかった。耳痛い。面白くない。むしろ昔聴いたクラフトの演奏のほうが透明感があり見通しがよかった気がする。無印。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴァレーズ:砂漠,シェルヒェン指揮フランス国立放送管弦楽団(TAHRA,harmonia mundi/INA)1954/12/2初演live(放送録音)・CD,,音盤史上に残る大喧嘩の記録として聴くことができる。演奏自体は素晴らしい。この上ない奏者が揃って、フランスを去ったアメリカの騒音主義者の楽曲をシェルヘンで、しかもこの時代のパリで・・・もめないわけがない。アメリカでケージに対して投げかけられた嘲笑や怒号の元祖をここに聴くことができる。ヴァレーズにしては音数が少なく厳選され繊細で、楽曲の哲学的な側面をバス音域を中心に心象的に描いた佳作だと思うし、クラシックというよりドラムが前面に出たジャズのようにもきこえ、ORTFのメンバーも非常に敏感で敏捷で忠実であるのに、とくに静かな場面、電子楽器などを使った純粋な響きの面白さを聞かせるところで、文字通り「面白く聞けてしまったヤカラ」が大騒ぎを繰り返す、それがえんえんと続くのである。ブーイングやらアジテーションやら嘲笑やら意図的と思われる途中拍手やらが場内を満たし、終演後の長々しい批判のブーイングはこの大騒ぎの何やら意図的な悪意を象徴しているようで正直聴くのが辛かった。シェルヒェンは漢である。慣れてるってことでしょうけど、こんな中でよくもまあ全曲をこのクオリティでやり遂げたもんだ。録音は悪い。残念ながら無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ヴィエルヌ:歌曲集「嘆きと絶望」抜粋,○バーセレミー(s)ツィピーヌ指揮ORTF(INEDITS)LP,,3曲抜粋。殆どワグナーの楽劇といった感じだが、朗誦部分はフランス歌曲ふうで品のよさがある。世俗音楽的な要素もあり、あくまで聞きやすさがこの人の持ち味であることを感じさせる。歌唱もオケもそれほど見せ場はないが、お国ものとしてそつなくやっている。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ヴィエルヌ:交響曲イ短調,○ツィピーヌ指揮ORTF(INEDITS)LP,,フランク派に位置づけられる盲目の作曲家。メロディメイカーとして一長を持っている。この曲もコードだけ取り出して並べればフランクだがそれをつなぐ音線は一般にとてもアピールする旋律を形成している。明快な書法、明るい作風はフランクの曇った重い音楽よりサンサンの軽い職人的交響曲を思わせるところもあり、このフランス後期ロマン派交響曲の二雄を足して二で割ったような作品と言えばいちばんしっくりくるかもしれない。細かいメカニカルな動きが多いがツィピーヌはオケをよく訓練し弦楽セクションがフランスオケとは思えないびしっと揃ったアンサンブルをみせて出色。そこに明確な色彩性が生まれ華やかさを獲得している。なかなかの名演に仕上がっている。ロシア・ロマン派期のスクリアビンの大規模作品みたいなところもある作品で、しかし構造性はより緻密なドイツ・ロマン派のブラームスに寄ったようにも聴こえる。中間楽章がやや冗長だが、フランス産のロマン派交響曲の佳作としてもっと聴かれてもいい作品だと思う。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ヴィラ・ロボス:アマゾナス,フレイタス・ブランコ指揮トゥールーズ・コンサート協会管弦楽団(forgotten records)1952/3/6live放送,,ファリャのようにカラッとした始まりから混沌としたアイヴズのような世界が明確に春の祭典の影響下にケバケバしく展開されてゆく。この現代的な色彩にあふれるラテン音楽はブランコの独断場とも言える。交響詩というか音詩に近い印象派音楽で、メロディやリズムに特徴的な民族性が表れるのはかなり後の方。断続的なリズム、ノイジーな細かい音の堆積の方に耳がいってしまうが、これはそういう音楽なのだろう。このあとにドビュッシーが演奏されるのも道理。この前はファリャのスペインの庭の夜(タリアフェロ)だから一貫していると言えなくもない。やがてオネゲルの突進する汽車のような直線的な音楽に収斂していくが、簡潔に磨かれるオネゲルとは違い拡散的でノイジーな音響は、南方的で拡散的なミヨーよりもさらに現代的。どうもブランコのせいか、ピッコロやスネアがアイヴズのクラスター音楽のそれにとても似て聴こえる。破天荒さは娯楽的には正しいが、精度を大事にするとまた変わると思う。何か描写的な意味を持って落ちて終わる。拍手は普通。録音は悪い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴィラ・ロボス:アマゾンの花,ゲラシモワ(SP)スヴェトラーノフ指揮ロシア国立管弦楽団(russian disc)1992・CD 珍曲出現。けっこう冒頭から引き込まれる演奏で、したしみやすいヴィラ・ロボスの世界にマッチしたダイナミックな演奏ぶりが恰好いい。曲的にはストラヴィンスキーやミヨーを思わせる。ただ、あまりに「あざとい」曲である。土俗的な雰囲気を盛り上げるために嬌声をあげる合唱、なぜか最後非常に清冽な音楽になって出現するソプラノの美しい歌声、ねらっている。南米らしい民族的音楽はヴィラ・ロボスの独壇場、ミヨーを思わせるがもっと血肉に染まっている。なんで振ったんだろ、こんな曲・・・(笑),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヴィラ・ロボス:ウイラプル,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1967/12/18LIVE,,ハルサイとトゥーランガリラを足してミヨーをふりかけた映画音楽といった趣向だがストコの煌びやかな表現には向いている。ポリリズムや特殊楽器にかんしてもそれほど派手には使われないので聴きやすい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴィラ・ロボス:ウイラプル,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団?(DA:CD-R)1967/12/18live,,アイヴズの4番の前プロだった模様。前衛的といっても、古いマニアには懐かしい、古いアンチは眉をひそめる、しかし現代の一般マニアには前時代的なくぐもりを含む前衛の響きやリズム構造よりも、更に時代を遡ったフランス系の香り、とくにミヨーの野心を灰汁抜きした、ストラヴィンスキーを換骨奪胎した、オネゲルをリスペクトした、ラテンの旋律(ぽいもの)、複リズム、新古典的な対位法が多用される、直感的に楽しい音楽と捉えられるものだろう。理知性で感情的なものを抑えようとしない、というのが中南米の作曲家特有の面白さである。何せ神話上の、象徴主義的な鳥を題としているのだから、具象的なものはあらわれないけれども、抽象性ばかりを強調することもできないのである。ビラロボは晦渋な作品も多く、これもそれが無いとは言えず演奏が娯楽的かつ色彩的に煽っている面も否定できないが、楽しい。精度もなかなかのものだが録音はDAにしてはまあまあという程度でホワイトノイズはちょっと耳障り。正規音盤としてはマーキュリーにドラティか何かのものがあったと思う。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴィラ・ロボス:ギター協奏曲,○ディアズ(G)ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1968/11/17live,,ギター協奏曲の世界では有名曲だそうだが冒頭の轟きを除いてこの人にしてはおとなしい曲感がする。綺麗な旋律に無難というか爽やかな合いの手が入り、わりと平坦なまま終わる。静かな曲と言ったほうがいいか。ストコは手だれのギタリストを前に、音の綾を程よく抉り出している。○。,,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ヴィラ・ロボス:ショーロス第1番、第2番,○作曲家指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1945/2/24LIVE,,やや長すぎるが、えんえんと続く楽しげなリズムと豊かな音響、色彩の様々に変幻する厚い構造、その円熟を感じさせる巧みさが、次第にボストンオケを攻撃的に煽り始め、ミュンシュを思わせるテンションが持続するようになる。テンポルバートもものともせずオケのアンサンブルは乱れない。ソリストも悉くジャムセッションのようなノリだが決して外さない。硬質正確、でも熱気のある、ファリャがより抽象複雑化したようなまさにビラロボ、という音楽にマッチした楽団だ。曲がやりやすかったのかもしれないが。録音は明らかで迫力はあるが悪い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴィラ・ロボス:ショーロス第2番,シェーンフェルド・デュオ(EVEREST)モダンで晦渋な曲だが太鼓を模したチェロのピチカートなど響きの面白さはある。この曲がちゃんと弾けてなぜラヴェルはうまくいかなかったんだろう。。。(ヴァイオリンとチェロ),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヴィラ・ロボス:ショーロス第6番,◎作曲家指揮RIAS交響楽団(VOX,TURNABOUT)これは名曲です。わかりやすいです。ひたすら明るく楽しい旋律・リズムと煌くように美しいひびきの音詩です。スコアがないのでどこ、という指摘ができないのですが、真ん中あたりで・・・この盤で16分後から・・・高弦のリズミカルなピチカートにのってサックス+コーラングレあたりから奏でられ出す静かな旋律があるが、これなどまったくムード音楽、いや今のポップスに持ってきても十分通用する清新で感傷的な音楽だ。弦がリフレインするところなど、RIASのメンバーはポルタメントかけて思い切り歌っていて、ちょっと雑味があるが感動的。この旋律だけ聴くためにこの盤を買ってもいい、とさえ思った。前よく聴いていたスウィング・アウト・シスターの曲を思い出した。通俗的だなあ。でもそれがいい。また映画音楽ふうでもあるが、もちろんそのほうが後で確立した音楽ジャンルなわけで、当然今のポップス音楽など存在しない時代に作曲されたわけだから、手法的に革新的とか前衛的とか言うものはないにしても、十分に独創的で素晴らしい作品だ。ちなみに昭和2年の作曲です。逆に言えばポップス音楽なんて3/4世紀にわたってぜんぜん進化してないのだな、クラシック音楽のことを古臭いと言って批判できないだろう、とも思った。ここではRIASメンバーの音色がじつにいい。ぽっかり明るくノリノリだ。作曲家の指揮はシャープで明確。達者である。この作曲家はけっこう複雑な思考の持ち主のようで、甘く感傷的な音楽にもぴりりと辛い音響を添えたりするところがあり面白い。ミヨーのように学究肌・芸術肌ではなく、ファリャのように民俗臭ふんぷんというわけでもない。もっとも多分にこの二者に近い作風ではあるけれども、寧ろガーシュインのカリブ海音楽やレスピーギの大規模作品に近い心象をあたえる。色彩的で、娯楽的だ。とにかくひたすらたくさんの旋律が繋がり延々と流れ続ける音楽で、中にはあまり魅力的でない旋律もある。だがある種の雰囲気に統一された音楽であり、たとえばBGMふうに部屋に流して海のビデオなんか見ていると心地よーくなります。そういえば年末ジャマイカに行かないかと誘われたなあ。ポカポカ鳴り響く木魚?のリズムにのってラテンの踊りを踊り出す私。ああ、ブラジルだなあ・・・とりとめもないのでおわり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴィラ・ロボス:ショーロス第7番,○作曲家指揮シンフォニー・オブ・ジ・エアー(ETCETERA)鳥の声の模倣からはじまり、ちょっとメシアンふう。だが音楽は次第にストラヴィンスキー色を帯びてくる。リズムはハルサイ、楽想はペトルーシュカ。だが楽天的な雰囲気はビラロボ独特の個性だろう。場所によってリズムやメロディにラテンなものが混ざり娯楽的雰囲気を煽る。だが土俗的な混沌がそれをとらえてしまいあまり長続きせず、終わる。録音難あり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヴィラ・ロボス:チェロ・オーケストラのための幻想的協奏曲,○作曲家指揮チェロ・ソサエティ(EVEREST)マジメな曲である。チェロだけのアンサンブルは重厚な響きで構築的な曲をくるみ聞きごたえがある。フーガもがっつり決まっている。初期ステレオ(擬似ステレオ?)がちょっと半端にも思えた。チェロだけだから、ステレオ効果も何もあったもんじゃない。3楽章のフラジオレットの交錯が面白い。コープランドみたいに響く。高音の音程が悪く響きがそろわないのは痛い。ムリヤリヴァイオリン音域を出している。これは全部の楽章に言えることだ。全編ミヨーというよりオネゲルといった趣だが主題はわかりやすくすっきりまとまっている。○。ウラ面のバッハのほうがきちんと音程のそろったアンサンブルで聴き易い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヴィラ・ロボス:ハープ五重奏曲,○リノス・ハープ五重奏団(X5 Music Group)2009・CD,,ミヨーふうの軽い曲でチェロを中心に響きを作るところなどヴィラロボらしい書き方だなあと思った。とても耳心地がよく、演奏も典雅でやさしい。ヴィラロボの尖鋭な部分が無いので万人にすすめられる小品。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴィラ・ロボス:ブラジル風バッハ第1番,○ロストロポーヴィチ(Vc)チェロ・アンサンブル(RUSSIAN DISC)liveロシアン・ディスクなので詳細情報がちっとも書いてない。ロストロの雄渾な音は確かに聞こえてくるのでロストロが弾いている事は間違い無いのだが、指揮者がいたかどうか・・・いたとすればコンドラシンだが・・・定かではない。曲はバッハの書法にならいつつも楽天的なラテンの香りを感じさせる佳作で、ビラロボ苦手の私でも1、2楽章に関してはかなり楽しめた。3楽章はバッハ模倣が著しくちょっと苦手な感じだった。そもそも相容れないバッハとラテンという2要素を混在させたところにビラロボの凄さがあり、悪い所もあったわけだ。1楽章アニマートの楽しげな踊りはこのじつに力感に満ちたアンサンブルで聞くと楽しい。2楽章アンダンテではその精妙な美しさをそのままに提示する。雑音や拍手の調子からライヴであることは間違い無いと思うのだが、かなりレベルの高い(技術的にどうかはわからないが、音楽的に)演奏であり、音色が浅薄に感じる所もあるが、おおむねすばらしいアンサンブルになっている。ただ、8本のチェロだけのアンサンブルということで音域が低いところに集中し、録音がその音を捉え切れていないと感じるところがある。だいたいチェロだけでアンサンブルをやるというときに、高音域のフレーズをあまり織り込まないというビラロボの書法は耳に不親切だが(笑)ロストロのちょっとレベルの違う深い音色が聞こえてくるだけでももういいでしょう。○。ロストロのアンサンブルには2楽章だけのものと5番アリア(ヴィシネフスカヤ)だけの録音が別個MELODIYAにある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヴィラ・ロボス:ブラジル風バッハ第1番〜前奏曲,○ロストロポーヴィチ(Vc)チェリスト・アンサンブル(MELODIYA)別掲の演奏と内容的にはほとんど変わらない。あいかわらずロストロの音はしなやかでボリューム感がある。同じ演奏なのではないか?と疑うほど似ているが、どうなのだろうか。まあ、ここでは別掲しておく。曲自体は擬古典的緩徐楽章といった感じで、ロストロの古風で憂うつなメロディを聞け、といった感じ。冒頭などチャイコフスキーの「フィレンツェの思い出」を思い出させるハーモニーが出てきたりしてイタリア風な感じもなきにしもあらず。ビラロボらしいラテン気質はあまり表立ってこない地味な曲だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヴィラ・ロボス:ブラジル風バッハ第2番〜「カイピラの小さな汽車」,○グーセンス指揮LSO(EVEREST)1960/1・CD,,アメリカ音楽集の一つ。この職人的指揮者のモノトーンな音作りは余り好きではないのだが、この演奏も今ひとつ楽しく無い。硬質で純音楽的な作り方は分析的な聴き方を好む方には向くだろうが、ビラロボっぽくない。不規則なリズムに工場の機械音のような不協和音がただ連続するだけのように感じる。うーん。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴィラ・ロボス:ブラジル風バッハ第2番〜「カイピラの小さな汽車」,○ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(ASdisc)1944/10/22LIVE楽しく滑稽な雰囲気の堪らない曲。低弦がガッシュガッシュと車輪の動きを描写する上に、いかにもラテンな楽天的な旋律が高音楽器によって歌いまわされ、ボントロなどがときどき不協和に差し挟む挿句は蒸気の音か汽笛の音か。最後停車するとファリャ張りの美しい夜の雰囲気が漂う。そして一発ティンパニが車輪の最後の停止を示して終わり。いちおう描写的ではあるのだが、終始楽天的な旋律が流れ、ちょっと違うかもしれないがガーシュインの「キューバ序曲」を思い出した。この作曲家は物凄く晦渋なときと至極わかりやすいときがあるが、これは後者。短いので指揮者の個性があらわれるまでもないが、ロジンスキらしい引き締まった演奏ではある。○。フライング拍手が残念。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヴィラ・ロボス:ブラジル風バッハ第2番より「カイピラの小さな汽車」,グーセンス指揮ロンドン交響楽団(EVEREST),,響きはそれなりに派手だが印象に残らない演奏。楽しさがイマイチ伝わってこない。ステレオ。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴィラ・ロボス:ブラジル風バッハ第4番,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(DUTTON)1955/1/12,13CDあまりのありきたりさに3楽章までは欠伸しながら聴いてしまうが、4楽章の舞曲はとても面白い。朗々とうたう民謡旋律の下で弦の刻みが果てしなく続き、感傷的な響きが醸される。雰囲気的にはマイケル・ナイマンの映画音楽に近い。この楽章だけはかなりの名曲。メタ・クラシック的な楽曲ではあるがこの作曲家の非凡さを裏付けるものとなっている。バルビはあいかわらず感情的な起伏の激しい演奏を繰り広げているが、ハレ管の必死に難所を乗り越えていく力強さにも感動。○。LPではけっこう高値で売買されている盤。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴィラ・ロボス:ブラジル風バッハ第5番,○作曲家指揮チェロ・アンサンブル、サヤーオ(SP)(COLUMBIA)LPどうもこの曲、チェロの歌い出しのところからヨーヨー・マのピアソラを聴いているような感じが凄くするのだが、同じラテンの旋律・リズム感覚があるということなのだろう(ピアソラの師テデスコとビラロボには交流は無かったろうけど)。サヤーオ(でいいんでしょうか)の歌唱は(録音のせいかもしれないが)高音がやや低めにとられているように聞こえる。チェロと絡む場面で和声的にヤバくなっている箇所さえある。基本的に重心の低い声で、高音は細身だが音色的にはちょっと優しくて独特の味。人によっては下手と言うかもしれません。この短い組曲の根底にはもちろんバッハの形式感があるのだが、無歌詞歌唱の世俗的な感じがいかにも現代的(ポピュラー音楽的と言うべきか)で、言われないと「ピアソラの曲かなーきっと」などと誤解してしまいそうなところがある。基本は初曲アリアで、2曲めも最後にはアリアを回想して終わる。アリアの主題があまりに親しみやすい悲歌なので2楽章のテーマが印象に残らない。2楽章制。自作自演ではロス・アンヘレスとのEMI録音もCD化されている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヴィラ・ロボス:ブラジル風バッハ第5番〜アリア,ヴィシネフスカヤ(S)ロストロポーヴィチ(Vc)チェリスト・アンサンブル(MELODIYA)ヴィシネフスカヤの強烈な大声にびっくりするけれども曲自体は秘めやかな雰囲気を終始保つ。美しい、声を除けば(爆)。短い曲。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヴィラ・ロボス:ブラジル風バッハ第7番,○作曲家指揮RIAS交響楽団(VOX,TURNABOUT)音は良好。オケは割と機能的でしっかり演奏している。ヴィラ・ロボスというとブラジル風バッハ、なんだかチェロが沢山集まって演奏するイメージ。私はどうもあまりいい曲にめぐりあっていないのか、イマイチ苦手感がある。この曲も正直違和感を感じた。ストコフスキのバッハ・トランスクリプションとまではいかないが、どうも腰が落着かない。また旋律が明瞭すぎるせいか長く聴いていると飽きが早い。オーケストレーションは時々打楽器的になったりしてこの作曲家のオリジナルな感性が発露している。でもまあ、好き好きでしょうね。。演奏としての完成度は高いと思うので○にしておく。でも、長いな・・。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴィラ・ロボス:ブラジル風バッハ第7番,○作曲家指揮フランス国立放送交響楽団(EMI)1957/5/14,21 RIASのものより前進性があるように感じた。響きが明るく透明感があり、擬古典風の曲調に沿ったものとなっている。(註)RIASとRAIを私混同して書いておりました、すいませんっ!修正しました。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴィラ・ロボス:ブラジル風バッハ第7番,○作曲家指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1945/2/24live,,いかにも楽天的な楽想から巧みに構造的な書法を駆使していつしか古典派音楽の流儀に収束させていくような組曲だが、そのかんじんの冒頭で(揃い難い装飾音符的表現の嵐だから専門指揮者でないと整理しきれずしょうがないかもしれないけど)アンサンブルが乱れ、そのあとも重さを引きずった生硬さが際立ってしまっている。雑味はむしろバンスタ時代のNYPを思わせるがヘンな重厚さはボストンならでは、この楽団の即意当妙さ臨機応変さのなさが垣間見える、と言ったら言い過ぎか。バッハ模倣が露骨になると前時代的な分厚さ以外は気にならない。この人の自作自演ではありがちだが録音悪い。○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴィラ・ロボス:花の組曲,◎ヘラー(P)(ETCETERA)都会的な洗練とラテンのリズム。ミヨーの一見明るいピアノ曲のはらむ暗くも美しい幻想をここにも感じる。1楽章「夏の牧歌(ハンモックの上の牧歌)」はあたたかくなつかしい雰囲気が胸をしめつける。単純だが、美しい。比較的若い頃の作品だけえあって素直で、民謡ふうの旋律も単純な音響で最低限飾り付けられている。2楽章「歌う村娘」は変化に富んでいる。冒頭からのセンチメンタルな歌は次第にレスピーギの「松」終曲のように響きを強め、アイヴズのような不協和音の連打による喧騒を呼ぶ。この頂点のあたりはヨーロッパ的で現代的、垢抜けている。3楽章「野菜農場のよろこび」はちょっとアメリカ的な、ガーシュイン的な響きを撒き散らして始まる。やや不協和的だが、全般的には平易な旋律が中心にあるので聴き易い。いくぶん祝祭的な終曲をもってこの10分に満たない曲集は終わる。ヴィラ・ロボスは非常に速い走句を装飾的に織り交ぜることがあるが、ヘラーのピアノはやや怪しい(必要な音は鳴ってはいるけれども)。呼吸の深い、非常にニュアンス深い演奏をするのだが、ちょっと指先が回らない感じのすることもある。でも、その洒落た雰囲気と懐かしい世界に◎をつけておきます。「クラシック音楽作品名辞典」にも載っている佳曲です。49年改訂。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヴィラ・ロボス:弦楽四重奏曲第1番,ベスラー四重奏団(EMI,ODEON他)複数団体による全集盤がCD化している。ヴィラ・ロボスは歌心に長けてはいるのだがいささか短気である。この曲も6楽章にもわたって組曲ふうの短い楽章が綴られている。だから散漫さは否めない。また、書法的にも特徴が無く、まさにモチーフを思い付いたら伴奏パートをひっつけてハイ出来上がりみたいな感じ。ほとんどの楽章が旋律と伴奏の二声部でしか成り立っていないと言ってもいい。伴奏の常套的なこと、旋律のフランス的なこと、まさにミヨーを一晩水に浸けて切り刻んで並べたような感じだ。ミヨーの音楽は創意に溢れているがこの曲は僅かな創意を思い切り水増ししただけというか、オーダーメイドな味しかしない。聴き易いことは聴き易いのでフランス風の室内楽が欲しいときには代用品になるとは思うが・・・演奏込みで無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴィラ・ロボス:弦楽四重奏曲第6番,○ハリウッド四重奏団(testament他)1949・CD,,旋律性が強く、2楽章などリズムにブラジルのラテンなものが明確に現れ、しかし和声的にはとてもドビュッシーである。新民族主義作曲家が必ず通る民族主義的ドビュッシーとでも言うべき音楽なのだが、ヴォーン・ウィリアムズの一部作品のように相反するその2つの要素が足を引っ張り合って珍妙な聞き辛いものになることはなく、むしろミヨーの影響を感じさせるフランス寄りの作風になっているのは成功だ。円熟した書法はベートーヴェン風のがっちりした四楽章で発露しており、ブラジル音楽をクラシカルな表現の中に抽象化し昇華させている。なかなか美しく、独自性も感じられ、一般にもアピールする作品。個人的にはスケルツォが楽しくて好き。ハリウッド四重奏団の雄弁な表現によるところも大きいかもしれない。お国演奏家がやるともう少し体臭が出るのかも。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴィラ・ロボス:序曲「熱帯雨林の夜明け」,作曲家指揮ORTF(ina)1954/6/5「ヴィラ・ロボスを讃えて」live(8/30放送),,Amazonデジタルとina.frは同じ音源と思われる。ブラジルの朝はずいぶん鈍重なものなのだなあ、と思わせる。この人に印象派的なものを期待するのは間違いで、構造をよく聴けばバッハが透けて見えるが、そのバッハ自体がいわゆる新古典主義の旗印とされた簡潔明快さというより、数学的な計算のもとに複雑な、緻密なものであるところを、ヴィラ・ロボスはさらにロマンティックな音楽観に沿って飾っているように感じる。正直この人に現代的な感覚におけるアマゾン感は無いが、フランスではそれでも異国情緒に聞き取れたのだろう。指揮はきわめてこなれている。,-----,,,,,,,,,,,,,
ヴィラ・ロボス:少年の凧,○作曲家指揮シンフォニー・オブ・ジ・エアー(ETCETERA)LIVE ハルサイ・ペトルーシュカ色が露骨に出ている曲だ。とくに前半、メロディやハーモニー、一部音形に顕著である。弦のフラジオをまじえるなど、レスピーギのようにきわめて色彩的でまばゆい光に溢れており、リズムには時折ラテンの踊りの雰囲気が漂う(長続きしないが)。録音バランスが定まらずつぶれているところもあるなど難あり。ちょっと手探り感がしなくもない。しかしこのオケでなければたぶん演奏不能だったろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウィリアム・シューマン:アメリカ祝典序曲,○バーンスタイン指揮ロス・フィル(DG)1982/7・CD,,正直祝典序曲と言われてもちょっと・・・と思う曲だが、かっこいいところが無いわけでもなく、物凄い息の長い管楽器に合奏協奏曲ふうに突っ走る弦、といった取り合わせは個性的といったところか。ロスフィルはがんばっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウィリアム・シューマン:アメリカ祝典序曲抜粋,バーンスタイン指揮NYP(unitel)1958/2/1放送 ヤング・ピープルズ・コンサートlive・BD,,ごく短い抜粋だが魅力的な「アメリカ」を打ち出したもの。カッコよさを追求しそれゆえ空疎になった虚仮威し、という感じもしなくもない。コープランドに近い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウィリアム・シューマン:交響曲第3番,クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(SLS)1941/10/17初演live,,師ハリスの「アメリカアカデミズムの一派を象徴する重厚な作風」に似るが、出自がバンドを組みポップス畑からキャリアを始めたということからもわかるとおりハリスより派手で、届きやすい効果を狙ったところが受ける要因になっていたかと思う。この作品はバロック様式を念頭にしたといい、マニアックに構造的に書かれわかりづらいところもあるがそれはあくまでスコアを見るからそう思うのであって、アメリカ同時代交響曲の中では踏み外さないうちに新味も取り込んだ響きと比較的明瞭なメロディがあり、後半楽章では生硬ながらアイヴズ的な野心の感覚に裏打ちされた(この作曲家との関わりはアメリカ変奏曲の編曲で有名)ヒンデミットふうの盛り上げ方を持ち込んでおり、さらに中音域の抜けた響きが澄んで明瞭な印象を加えて、けして悪くはない。のちにショウマンシップを発揮しテレビタレントとして活躍したイメージが、知らないはずの私にさえあるが、この時点ではトップクラスではないだろうがロイ・ハリスの脇にいて先を狙う力強い楽才を発揮しかけていたのがわかる。スネアの伴奏の上でジャズのリズムの無調風フレーズを吹かせていき、そこから逡巡しつついわゆる「ボレロ的展開」に入ると、いやボレロほど単純ではないが、目まぐるしく映画音楽的に盛り上がる。クーセヴィツキーは前半楽章(第一部)において素晴らしく色彩的で、美麗な響きを繰り出し、こんな緻密なハーモニー整えられる人だったんだ、と驚嘆させる。ティンパニ打撃も派手。鼻歌も聞こえるので乗っているのは確かだ。元のハーモニー自体の単純さはさておき、楽曲的に後半は響きより構成と動き主体なので、少し時間はかかるが、フィナーレの胆汁気質なハデハデな終わり方はクーセヴィツキーらしい剛直なフォルテッシモな感じである。聴衆は少し戸惑い気味だが、クーセヴィツキーは満足したものと思われる。楽団に瑕疵がない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウィレン:シンフォニエッタop.7,アルベール・ヴォルフ指揮スウェーデン放送交響楽団(BIS)1960/1/27放送LIVE・LP ドイツロマン派にルーセル投入したような渋い曲であまり聞き映えがしない。後半はシベリウスふうの響きが目立つが突然太鼓を入れたりどこか野暮。演奏も面白みに欠ける。ウィレンは現代音楽を嫌い20世紀の現代においてもロマン派的作風を固持し続けたスウェーデンの国民的作曲家。1905年生まれで86年まで長生きした。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウェーベルン:5つの楽章op.5,マデルナ指揮ハーグ・レジデンティ管弦楽団(SLS)1967/10/11live,,元気溌剌のウェーベルン、というのも違う気がするが音がステレオですこぶる良いので覇気が漲ってきこえるだけだろう。緩徐楽章ではマデルナらしい現代音楽への見識を響きできける。このての音楽は「とにかく新しいものが聞きたい!」という需要にこたえるためにあり、この作品も演奏もその点で、現代の耳からすると半端なところはある。マーラーなのか、コンテンポラリーなのか。後者寄りの鋭敏で繊細な響きの演奏でないと、これだけ明晰でももやもやした印象しか残らないか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウェーベルン:6つの小品,◯ブーレーズ指揮モスクワ音楽院交響楽団(melodiya)1990/3/5・CD,,オケのせいか感情的な感もある。力強い。マーラーを必要最小限に削り落としたような曲。放送用録音とのこと。ペトルーシュカと海とのカップリング。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウェーベルン:チェロとピアノのための3つの小品,○ピアティゴルスキー(Vc)ローゼン(P)(CBS)ピアティゴルスキーはいつもの荒々しいタッチを変えて、きちんとした正確な音がひびくように注意深く演奏している。ピアノとチェロが絡み合っているようで絡み合っていない、その独特の「間」が重要な極めてマニアックな作品だけれども、その点非常に精密に計算されていてきちっとハマっている。ピアティゴルスキーの無機的な音色がここでは長所になっている。この演奏、ブーレーズのウェーベルン全集に収録されてます。今はウェーベルンの振ったドイツ舞曲も復刻収録されたCDボックスが出回ってますのでご興味があれば。私はLPしか持ってない・・・。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウェーベルン:パッサカリア,○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SCC:CD-R)1962/3/16live,,ウェーベルンの作品番号1、シェーンベルクから内実ともに独立した記念碑的作品でいくぶんロマン性をもちあわせているがゆえ普通のコンサートにかかりやすい演目として、事実上ウェーベルンで最も演奏される曲となっている。既に理知性に重きを置くあまり計算された緻密な構成によるも15分もの(ウェーベルンにしては異例の)長さの中でうまく変化が伝わらず、起伏が細密なレベルに留まったまま終わってしまう難しさもある(ゆえ一般的にもここでも10分余りで早足で演奏されている)。後年のウェーベルンを予告する響きをはらむ印象的なピチカートによる音列表現から、編成は大きいものの簡素なオーケストレーションが最小限の規模のオケによる表現を志向している。にもかかわらず印象的にはマーラー的な厚みをともなう変奏主題が長々しい流れを作っていく曲のように感じるため、とくにストコフスキのように大規模オケを使っている場合ばらけたような、やや生硬な書法と受け取れる。ストコフスキはあきらかにスクリアビン中期のような官能的な音楽としてこれを扱っているが、感情的なフレージングが前面に出てオーケストレーションの創意が沈んでいるのはある程度仕方ない楽曲の本質に係る部分である。フィラデルフィア管の明るく突き抜けた音がはからずも解釈の曇りを取り去り、透徹したウェーベルンらしい響きを出せているのは面白い。意外とクールな聴感なのだ。確かに前時代のふやけた演奏かもしれないが、案外いい案配に収まっていると言えよう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウェーベルン:パッサカリア,○テンシュテット指揮ボストン交響楽団(000CLASSICS:CD-R)1977/1/8LIVE新ウィーン楽派の音楽というと精緻に組み立てた透明な解釈を施される事が多いように思う。しかし少なくともその師匠格のところにマーラーがいたわけであり、ロマンティックな濃厚な演奏というやり方も間違ってはいまい。ベルクの楽曲はとくにそのような要素が入った方が成功する。シェーンベルクも2曲の室内交響曲などは精緻にやってしまったら詰まらない。一方ウェーベルンの場合はどうであろうか。後期の作品はロマンティックな要素は少ない。しかし、初期作品・・・「夏風の中で」や「管弦楽のための六つの小品」「ラングザマー・ザッツ」など、そしてここにあげた「パッサカリア」(作品番号1)・・・には、いくぶん清冽ではあるが、あきらかにマーラーやシェーンベルクのロマン性を引き継いだ濃厚な部分が少なからずある。だがウェーベルンをロマンティックにやった演奏というものは余り見かけない。だからその魅力が十全に探求されているとはいえない状況があるわけである。そこでひょっこり出てきたのが、テンシュテットのライヴであった。たとえばシェルヒェンですらわかりにくいと感じた私も、この演奏はかなりのめりこんで聴くことができた。何故だろう、といえばやはり重心の低い音響がドイツロマン的な雰囲気をかもしているし、中声部を抑えペット等の高音をぽーっと響かせることで、諦念すら感じさせる空虚な情感を盛り上げる所などまさにマーラー的解釈である。ヴァイオリン・ソロの艶めかしいスクリアビンのような旋律線はシェーンベルク初期の粘着質な音楽を引き継いでいるが、ハープや弦のピチカートがテンポ感を保ち、前進性をもった音楽を盛り上げていく。テンシュテットはドラマティックな演出が巧く、オケが決して一流どころの演奏を行っているわけでもないのに、全体として凄く迫ってくるものが有る。思ったよりスクリアビン的な感じがして面白かった(テンシュテットがスクリアビン後期を振ったらどうなっていたろう)。重い太鼓やブラスの運命論的斉唱が響くところではまた再びマーラー的な世界に引き戻される。ブラスの暗い響きで終わる音楽はあきらかにマーラー。いや、テンシュテットだからそう聞こえるだけか。面白い。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウェーベルン:パッサカリア,○ベーム指揮バイエルン放送交響楽団(BRSO)1969/10/4LIVE ベームにこのオケ、この曲というのがイカしている。実はこの曲のいい音の演奏を余り聞いた事が無かったのでちょっと新鮮だった。こういう明瞭な音で聞くと、ベームのすっきりとした棒のせいもあるだろうが、とてもモダンに聞こえる。初期シェーンベルクの影響色濃い作品という印象は見事に覆された。ベームがマーラーを振っていたらきっとこういう見通しのいい、それでいて重厚壮大な演奏を繰り出していただろうな、と思った。10分余りの小曲だが振る人が振ればこんなに広がりの有る音楽になるものなのだな。途中ウェーベルンの印象派風の音響感覚がはっきり表現されている箇所があり、同時代音楽との繋がりを示唆するものとして改めて意識させてくれた。ホントウは◎にしたいところだが、ちょっと独自性に欠けるきらいもなきにしもあらずなので○ひとつとしておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウェーベルン:パッサカリア,◎ベーム指揮バイエルン放送交響楽団(RED他:CD-R)1969/10/2,3LIVE 数日違いのライヴ録音もあるがどちらも甲乙つけがたい名演。この演奏は録音のせいかもしれないが非常にマーラー臭がする。10番あたりと似た響きも聞かれ、けっして楽想的には近くないにもかかわらずそうきこえるのだ。ダイナミックでロマン派的な歌謡性もあり、とにかく聴き易い。ベームがマーラーを振っていたら、と思うと残念でならない(まあ振らなかっただろうが)。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウェーベルン:パッサカリア,シェルヒェン指揮ORCHESTRA E CORO DI RADIO COLONIA(stradivarius)1958/6/26作品番号1。無調に接近しているが未だ辛じてロマン派の香りを残している作品。少しシェーンベルクの初期作品に通じるところがあるが、すっきりとした透明感があり、曲想が凝縮されている感じがする。このCDは録音状態が悪く、肝心のピチカートがよく聞こえない場所がある。強奏部分の表現は確固たるものがありシェルヒェンの力量を知らしめる激烈な音楽を奏でている。あと、存外オケが巧い。音が悪いだけにとても推薦できないが、機会があれば聞いてみるのも一興かと。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウェーベルン:パッサカリア,ブーレーズ指揮ウィーン・フィル(EN LARMES:CD-R)2003/8/24ザルツブルグLIVEフレージングの綾はあきらかにウィーン伝統のものだが、音のひびきは怜悧で透明、現代ウィーン・フィルの高機能性が発揮された演奏だ。が、私ははっきり言ってあまり感興をおぼえなかった。これはあきらかに現代の立場から見た新ウィーン楽派の演奏である。響きの尖鋭性が殊更に強調され、音楽としてのまとまりとか、曲自体のはらむロマン性はとことん排斥されている。つまりは十二音のウェーベルンをさばく方法でこの初期作品をさばいているわけで、楽曲を分解し論理的に再構成したような音楽は、とことん退屈だった。同日の5つのスケッチなどフランス的な香りをかもす特筆すべき名演のため残念だけれども、指揮者は同じ作曲家であっても曲によってやり方を変えることも時には必要なのではないか、と思った。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウェーベルン:夏風の中で,ノリントン指揮スイス・ロマンド管弦楽団(eternities)live,,リヒャルト・シュトラウスを灰汁抜きしたような曲で周到に管弦楽配置され隙はないが反面中身のなさというか、どこが夏風というようなドイツドイツの交響詩である。リヒャルト・シュトラウス初期に近いくらいの10分半ほどの長さがあり、シェーンベルク初期のようなブラームス的な癖こそないものの、中欧では相対的に穏やかな曲、という感じであることを念頭に聴かないとノリントンですらずしっと重く感じてしまう。フランス的にもっともっと軽くやるほうがいいんだろうが、ブラスの充実した書法だとなかなか難しいだろうか。オケがかつてはフランス的であったことのメリットは比較的残ってはいる。技術的な問題はない。問題とすれば、ノリントンが普通すぎ。ノリントンで聞く意味はあるのか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウェーベルン:管弦楽のための5つの小品,◎ブーレーズ指揮ウィーン・フィル(EN LARMES:CD-R)2003/8/24ザルツブルグLIVEうーん、名曲。響きの美しさが極限まで突き詰められたブーレーズ盤、絶品。究極の「夜の音楽」だ。あきらかにフランス印象派的な感性に裏打ちされているのだが、剥き出しにされた各ソロ楽器のぽつぽつと語る物語は心の奥底に突き刺さる。個人的にこのあたりのウェーベルンがいちばん好きだ。高音打楽器が幻灯機のように幻想的な雰囲気をかもすのだが、ここまで純度の高い響きはそうそう求めるべくもない。エンドレスで聴いていたい。そう思わせる純粋なひびきの音楽。ふとカトリックのミサの鐘の音を思い出した。4楽章絶品。◎。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウェーベルン:管弦楽のための6つの小品,○バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1958/1/19LIVEなんとなく艶めかしいんですよね、バーンスタインが振ると。ベルクみたい。ウェーベルンが無調で書いた比較的若いころの作品であり(パッサカリアの翌年1909年)、ここでは例えばマーラーを煮詰めてとことん削ぎ落としたような音楽に聞こえる。ひびきの尖鋭さより、物語性が浮き彫りになる演奏だ。ウェーベルン嫌いにも受けるかもしれない。鐘の音がアイヴズの「尖塔から山々まで」に聞こえてしょうがないが、寧ろアイヴズを理知的に突き詰めるとこういう音楽になるのかもしれない。要するに音響の美学なのだ。音楽とはまた違う。でも面白い曲だし演奏だから○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウェーベルン:管弦楽のための6つの小品,ブーレーズ指揮ウィーン・フィル(EN LARMES:CD-R)2003/8/24ザルツブルグLIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウェーベルン:弦楽四重奏のための5つの小品(管弦楽編),○シェルヒェン指揮スウェーデン放送交響楽団(BIS)1953/2/8LIVE・LPたいへんに鋭く、規模が大きいわりに原曲のように緊密にまとまった演奏となっている。ただ、やはりこのての曲は録音がよくないといかんともしがたい。シェルヒェンは最晩年の破天荒さばかりが取りざたされがちだが、新ウィーン楽派の紹介者としては非常に優秀だった、そんな側面だけは垣間見えるものと言える。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウェーベルン:交響曲(1929),バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1965/12/4LIVEウェーベルンの「交響曲」はちっとも交響曲じゃない。古典的な型式感からすれば論外、近代的な「概念としてのシンフォニー(共に響きあうもの)」からしても何だか物足りない。2楽章制というのはまだいい。この録音で計8分47秒という長さはなんだろう。最近は「交響曲」の訳名をあてない場合も多いが、さもありなんである。まあそれもいいとしても、何でこうも演奏者によって印象が変わるのか。ウェーベルンはブーレーズのような鋭敏な演奏家にやらせると非常に格好がいい。精緻で極度に凝縮された書法は演奏家に凄い緊張感を要求するものだが、ブーレーズはそのあたりの手綱さばきが巧いのだ。ちょっと狂うと響かない繊細な音もブーレーズは逃さない。ここでのバーンスタインにはそういう繊細さに対する配慮は皆無と言っていい。録音の悪さも影響しているが、ちぐはぐで雑味が多く、聞きにくい。張り詰めた夜の空気の中で虫たちが織りなす純粋な音響の交感は、ほとんど聴き取ることができなかった。なんだか非論理的なアイヴズの習作でも聴いているようだ。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ヴェルディ:レクイエム,○メリク・パシャーエフ指揮ボリショイ歌劇場管弦楽団(ソヴィエト・アカデミー交響楽団?)、モスクワ国立放送合唱団、ヴィシネフスカヤ他(MELODIYA)1960/3/3live・LP,,集中力の高い秀演でロシア式の破裂せんばかりの音を極めてしっかり整理して西欧的な演奏を指向している。合唱も力強い。ただライヴの古い録音ゆえ(録音状態自体はきわめて良好)全般にやや抑え目の表現に終始した渋い演奏という印象も受ける。メリク・パシャーエフはとてもプロフェッショナルな指揮者ゆえアマチュアリスティックな魅力を「爆演」という二文字であらわされるたぐいのロシア指揮者とは一線をかくしており、でも音楽をちゃんと聴くという態度のかたには「届く演奏」だと思う。むしろドイツ的な感じすらある。演奏陣は皆とても巧いが、オケ表記がちょっと不思議なため(同時期にこのような曲であればボリショイしかありえないはずなのに違う名前でかいてある)、演奏の中身のしっかりした表現から違うオケの可能性もある。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
ヴェルディ:弦楽四重奏曲,"",○レニングラード・フィル協会弦楽四重奏団(MELODIYA)LP,,これが古風ではあるがなかなか面白い曲なのである。1873年の作品でアイーダの後くらいか。冒頭主題からして、ちょっと歌謡曲チックではあるもののリズムの刻み方や理知的な構造の面白さでおっと思わせ、すぐにフーガなどが巧みに織り込まれた見事な構造的アンサンブルが繰り広げられる。のちのタネーエフ弦楽四重奏団はこれまた見事に歌謡曲にせずに純音楽的な演奏を繰り広げており、高潔さすら漂う。技術的部分以外でローカリズムの発露が無いからイタリアオペラの大家の趣すら無いのが逆に面白い。時代的にいえばかなり挑戦的な作風でもあり、個人的にロマン派バリバリの曲は余り好きではないのだが、それでもその一種前衛的な部分に惹かれて全曲聴きとおしてしまった。曲全体としては確かに中期ロマン派のベートーヴェン影響下にあると言えるもので名作と断言することには躊躇があるし、演奏者も特異な表現をとっているわけではないので最大評価にはしないが、好きな人はすきだろうなあ。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,
ヴェルディ:弦楽四重奏曲,○パレナン四重奏団(VEGA)LP,,ロマン派バリバリの曲をロマン派バリバリの押せ押せスタイルでやっている、パレナンなのに!オペラティックとはいえけっこうちゃんとした型式感のある楽曲であり、なかなかしっかりした演奏ぶりで聴きとおせる。音色の爽やかさがそうさせているのかもしれないが。ただ、後期ロマン派共通の問題として、長い!!,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴェルディ:弦楽四重奏曲〜V,○アマール四重奏団(特典盤)1928・CD,,ディスクユニオンの2008年初春特典盤で復刻。同時期きっての技巧派で知られた鋼鉄の指40本のアマールQによる演奏で、懐かしき音色を跳ね返るようなスケルツォ主題にのせて完璧に演奏してみせるアマールには舌を巻く。伴奏だけのヒンデミットらも現代でいう「ノリ」をリズムに激しく表現している。この曲はわりと同時代(ヴェルディはギリギリ20世紀まで生きた)の演奏家によってやられていたようである。イタリアというより王道ロマン派弦楽四重奏曲。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォーロック:眠り、pretty ring time,○フェリアー(msp)ストーン(P)(decca)1952/6・CD,,短い曲2曲。ウォーロックらしい暗さがあるのは眠りのほうだ。フェリアの声にはどことなく陰がある。やや押し付けがましい倍音たっぷりな声ではあるが、ここでははまっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトマン:夜の競技場,ミトロプーロス指揮NYP(SLS)1940/12/22live,,ウォルトマンはハンソンの同窓であるという。アメリカ往年のロマンティックなドラマないし映画音楽を思わせるが、時代はwwU戦中でおそらく同時期の作曲だろう。なかなか心のこもった音楽で現代的な棘もなく、かといって古臭さもない。録音もこの時代にしては良いし、家庭交響曲の前プロとしては十分だろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:「スピットファイア」前奏曲,○ストコフスキ指揮ニューヨーク・フィル(WING)1948LIVE冒頭序奏部分に大きなタメを作って壮大に始まる演奏。映画音楽の作曲家による編曲だが、ウォルトンらしい行進曲は楽曲だけでも魅力十分。かれの戴冠式行進曲が好きな人はぜひ聞いてみましょう。じつに爽快な楽曲をストコフスキは主部ではさほど揺れずに颯爽と振り抜けている。もっといい録音で聴きたかった。通常「フーガ」と組みで演奏される。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:「ハムレット」より葬送音楽,○ボールト指揮ロンドン・フィル(LYRITA)1973/11/13・CD,,映画音楽のしかも典型的な葬送音楽で特に言うことは何もないオーダメイド臭ふんぷんの曲で、あきらかにラヴェルやプロコから剽窃してきたような楽想・和声の巧く組み合わされた感じに僅かにウォルトンらしい妙な装飾音を織り交ぜた強い旋律によって突き通された悲劇的な曲だが(綺麗は綺麗である)、ボールトはそれほどウォルトンを得意としていないせいかどうも透明感がなく、いやこれはこれで完全にハムレットの悲劇的シーンを描ききった名演と言えるが、ウォルトンを聴いている感じがしないのである。とにかくコノ曲では評価のしようがないが、ボールトにそもそもウォルトンの根幹に流れるシニシズムを表現する気もないわけで、まあ、これは小曲を表現できる範囲で表現した、といった感じか。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ウォルトン:「ファサード」〜抜粋,作曲家指揮BBC交響楽団(bbc)1968/8/20live・CD,,四曲抜粋のごく短い演奏記録。結局これが一番の名曲じゃないか、と言う人もいるウォルトンの出世作だが、ストラヴィンスキーやサティやジャズ(コンスタン卜・ランバートとともにイギリスのシンフォニックジャズの一派ではあろう)の劇音楽もろもろの流れのうちにある洒脱な小品。ウォルトンの個性はまだ無いが、初期の前衛志向も抜け、アマチュア的とはとても言えない流麗で無駄のない書法もまた楽しめる。大規模管弦楽をもって迫力ある演奏になっており作曲家指揮とは思えぬもので、プロムスならではの間髪入れぬ派手なブラヴォで幕を閉じる。録音も素晴らしいステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ヴァイオリン・ソナタ,○メニューイン(Vn)ケントナー(P)(EMI/HMV) ヴォーン・ウィリアムズなどと一緒にCD化したそうだが入手し損ねて古いLPで聞いてます。このメニューインの浄瑠璃を唸るような(?)生々しく不安定な音はCDでも巧く入っているだろうか。メニューイン夫人とケントナー夫人に献呈された曲、もうコテコテの内輪録音です。ウォルトンの地味なほうの作品だがとてもウォルトンらしいフレーズや響きが散りばめられている。2年前の弦楽四重奏曲にも近いといえば近いが、寧ろ初期のピアノ五重奏曲を思い出した。この作曲家のピアノはけっこう面白い。硬質で冷たい抒情があるというか、ウォルトン固有の繊細で精妙な響きを最も理想的な形で表現できる楽器として特別な位置にあったと言えよう。地味で通好みの楽想は10年前の華美なヴァイオリン協奏曲よりも7年後のチェロ協奏曲に通じるものがある。宇宙空間のような暗い幻想だ。しかしけっして旋律の才が枯れているわけではなく、単純ではないが耳を惹くものがある。ウォルトン・マニアにはとても面白く感じられるだろう。逆に初心者はもっと派手な曲で入った方がいいでしょう。演奏は音程に疑問があるが美しいことは美しい。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:ヴァイオリン・ソナタ,○ロスタル(Vn)ホースレイ(P)(TESTAMENT/DECCA)1954秋・CD,,カール・フレッシュの弟子マックス・ロスタル。ナチ渦を避けて師匠同様イギリスに身を寄せたヴァイオリニストだが、そのイギリスに残したイギリス近代録音がテスタメントで集成されている。ディーリアスの2番とエルガー、そしてこのまだ新しかったと思われるウォルトンだ。ウォルトンのソナタは初期の前衛的だった頃を彷彿とさせる内省的な作品である。アレグロとアンダンテ(変奏曲)の二楽章制というのもウォルトンにしては異例だろうか。バリエーションが決してアレグロ楽章より大幅に長いわけではなく、バランス的にも異例に見える。音楽は技巧的ではあるが時代からするとけして超絶とはいえまい。独自性も余り感じられない。それより旋律や和音の響かせ方に重点がおかれているように思える。ロスタルはいかにも弦に弓毛を押し付け左手指をみしみし押さえた太い音を出すが、それがゆえにモダンな曲に不可欠となる音程の精密さにやや欠けてしまうようにも感じた。音が太いところにヴィヴラートをかけまくると音程がぶれがちなのは道理。しかし曲が把握しづらいからこそ細部が気になってしまうだけかもしれない。万全ではないが、これはこれでいいか。ロスタルの音が好きな向きにはどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲,◯ケレメン(Vn)マリナー指揮ダヌビア・ユース交響楽団(放送)2003/3/21live,,少々荒い演奏だが、ソリストはやり切った感はある。オケが細かい仕掛けを強調して反面盛り上がりどころでは弱く、バランスが悪く感じるのは指揮者の特徴なのか。やや単調な音色は曲のせいでもあろう。テンポ操作は自作自演より大きく、その面での楽しさはある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲,◯ケレメン(Vn)マリナー指揮ダヌビア・ユース交響楽団(放送)2003/3/21live,,技術的にはおおむね良く出来ているのに入り込めない。熱や興奮に駆り立てられないのは音色が単調なせいか。3楽章には少し疲れが感じられるのも惜しい。オケは上手い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲,○ジースリン(Vn)フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団(melodiya)live,,ライヴならではの瑕疵が独奏者・オケともども相当にあるものの、しかしそれを力技で押し切ったような演奏。技量に沿わない高速で、「良く言えば」若々しさを前面に出し切ったような力感、結果指が回らなかったりとちったり何弾いてるんだかわからない部分が散見されたりと、コンクール的視点からだと「悪い意味で」やばい。だが何かしら、英国やその他「綺麗に弾こうとする」国々の演奏家と違った、「これでいいのだ」の魅力がある。フェドもフェドで褒められたバックアップではないが、独奏者とマッチしてはいる。技巧的にめろめろと言ってもいい演奏だが、ウォルトンのバイコンと言われて真っ先に思い浮かぶのは、この演奏だったりするのだ。○。前は細部まで聴くスタンスじゃなかったのでベタ褒めしてしまっていましたねえ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲,○フランチェスカッティ(Vn)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1968/1/25live,,正規盤で出ていたものの無編集盤になるがこれが面白いのだ。やはり協奏曲はライヴ、一期一会の一回!二楽章でメロメロになりながらも気迫で弾き切り、美音がただの音程不安定に陥りあるいはノイズだけになってもなお、この三楽章は名演といっていいだろう。最後クリーヴランドが前につんのめっていく、こんなセルは初めてだ。本人不本意かもしれないがこのスピードがウォルトンには必要なのだ。むろん◎にはならないが、好き。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲,○フランチェスカッティ(Vn)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(TCO)1968/1/25-27live・CD,,これはセルと浅からぬ縁のウォルトンの作品である。パルティータなど愛奏していたが恐らく書法上の冒険よりも演奏上の効果を重視したプロフェッショナリズムに、演奏側の人間として共感したのだろう。セルはピアニストでもあるがピアノ的な機械的なスコアもやりやすさとしてあったのかもしれない。ただこの曲はわかりやすすぎて長さがネックになるため、それを凝縮させていこうとしても割と体力のないこのオケでは、特に後半部盛り上がるところにもかかわらず薄い書法に思わず無理矢理整えているようなぎくしゃくぶりが出てしまっている部分も否定できない。まあ自作自演でもいちいちリズムを整えないとまとまらなかった曲だし、寧ろ同曲の録音ではいいほうで、オーマンディによるスタジオ録音よりも、特にソリストの流麗な表現、あと[セルのリズム]が個性を放ち面白いといえば面白い。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲,ケレメン(Vn)マリナー指揮ダヌビア・ユース交響楽団(放送)2003/3/21live,,プロコフィエフを換骨奪胎してしつこく長く仕上げたような技巧的な曲で、このソリストはギリギリ弓を弦に押し付ける加減で音をつくっていくので、デジタルな表現はしやすいというか、スピードを除けば技術的にはライヴとしてはかなり素晴らしいと思うが、三楽章の後半まで旋律表現等全く憂いが感じられず耳が辛くなる。オケもやや鈍重か、マリナーの解釈が入っているかもしれないが。スポーツな曲でもあるのでスピードさえあればもっと聴けただろう。破音がしそうな弓圧にも耐えうる楽器本体の力が演奏を成立させているとも邪推。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲(1939),○ジースリン(Vn)フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団(melodiya)独奏者が巧い。なかなかの演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲(1939),○チョン・キョンファ(Vn)プレヴィン指揮ロンドン交響楽団 敢えてその理由を書くまでもないだろう。巧い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲(1939),○ハイフェッツ(Vn)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(RCA Victor)1950/7ハイフェッツにはアメリカで録音した初演に近い録音(グーセンス指揮シンシナティ交響楽団、 BIDDULPH)もある。また作曲家指揮としてはEMIからメニューヒン盤も出ているが独奏者の衰えが感じられ余り薦められない。ハイフェッツはまさに彼自身のためにある超難曲、数々の技巧的パッセイジを見事に弾き切っている。どこにも瑕疵のないいつもの調子がこの曲においても存分に発揮され却って物足りない程だ。即物的ゆえウォルトンの曲の持つ抒情的で哀切なロマン性を生かした演奏とは言い難い。固く太い音色がいくつもの優美な旋律を殺している。古い演奏の為録音も良いとはいえず、バックのフィルハーモニア管もこの異常な天才についていけていない部分が目立つ。ウォルトン自身の指揮はこの録音のために長期にわたる指揮の実践を行っただけあって、作曲家指揮の録音に良くあるような指揮の不備は余り感じられず、寧ろよくこのオケを引っ張れているものだと感心させられる。いずれにしろウォルトンの個性はハイフェッツの強烈さの影に隠れはっきりとは見えない、が、協奏曲指揮とはこうであるべきなのであろう。初演は1939年の7月、ロジンスキー指揮クリーヴランド交響楽団で、当然ハイフェッツにより行われた。(1991/9記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲(1939),イダ・ヘンデル(Vn)ベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団(EMI)透明感がある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲(1939),セノフスキー(Vn)作曲家指揮ニュージーランド交響楽団(BRIDGE)1964ソリストがいい意味でも悪い意味でも個性的。粗々しく音になっていない部分が多々聞かれるのは致命的だが、情熱的で、響きに独特のざらざらした肌触りがあって何か惹きつけるものがある。乱暴な重音の多用される曲なので、ふつうのソリストはいくぶん客観的にきっちり響かせる方に専念するものだが(ハイフェッツは別格)、この人は非常に歌い廻しに凝っていて(特徴的なボウイングはたしかに参考になる)、響きは何となくだけ聞こえればいいというような(それで語弊があるなら必要な音だけ響けばあとはどうでもいいというような)、ある意味誤魔化し的な演奏を突き通している。ライヴでこの速さは非常に巧いと評するべきだとは思うが、現代のテクニカルな水準からすると決して上には置けないだろう。個人的には倍音だけ響いてくるような独特の弾き方には惹かれるものはある。ウォルトン自身ソリストが勝手につけるルバートに付き従っているような場面が見られる。こういう演奏もアリだと思っていたのかな、と思った。もちろん終楽章が聞き物だが、2楽章も弾けていないわりに特徴的な歌いかたで聞かせる演奏なので聴いてみてください。終楽章ではバックオケにこの曲の構造的で畳み掛けるような管弦楽効果がすこぶる明快に響いてきて耳を惹く。ウォルトンの作曲の腕の良さもよく伝わる優秀な演奏。でも無印。この前に「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」が演奏されている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲(1939),チョン・キョンファ(Vn)プレヴィン指揮フィルハーモニア管弦楽団(000CLASSICS:CD-R)1982/3/29LIVE「表現が曲の内容を超えた!!!ウォルトンの協奏曲をここまで崇高に仕上げた演奏は他にない!緻密な音楽づくりで知られるアンドレ・プレヴィンとチョン・キョン・ファという組み合わせの最高傑作。プレヴィンとフィルハーモニア管というのも珍しい。」・・・そうか?重音は荒くてうまく響いていないし、ソリストとオケのバランスも悪い(ソリストが小さい!)。チョン・キョンファは正規盤があるのでそちらで堪能すべきだ。この演奏はハイフェッツを凌駕しているとはとても思えない。叙情性ではいくぶん長があるかもしれないが。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲(1939),ハイフェッツ(Vn)グーセンス指揮シンシナティ交響楽団(biddulph)1941/2/18(世界初録音)作曲家自作自演前に録音されたオリジナル版による演奏。グーセンスの棒は重ったるく、ロマンティックですらあるがオケは余り巧く表現できていない。オリジナル版であるからということもある。ハイフェッツはそれに反して異常なほど即物的であり、速さを誇示するかのような終楽章など少し違和感すら覚える。自作自演版での演奏にもまして感情の無い演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲(1939),フランチェスカッティ(Vn)オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(CBS)音色を売るヴァイオリニストの系譜に確かにその足跡を残したフランチェスカッティ、大振り高速で滑らかなヴィブラートと、ある程度音程を犠牲にした太さの一定しない艶めく音は、個性的であるがゆえ慣れてくると単調でもあり、聴くうちに飽きてくる。またさすがにこれほど技巧的な曲になると、音程を外したり弓を外したり(特にウォルトン独特の高音域表現)と結構怪しい箇所がある。美しい演奏だが・・・,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:ヴィオラ協奏曲,○Matthias Maurer(Va)L.ヘーガー指揮ACO(放送)1986/2/6LIVE,,ビニル盤音源をレストアしたものがweb配信された。改訂版だが重厚さを失わず、ライブ的な勢いのあるバランスいい演奏。協奏曲というより交響的な迫力を示し、ソリストは上手いがテンポはけして激することなく、中間楽章はやや遅い。この曲のしっかりした記録としては特徴的で面白かった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ヴィオラ協奏曲,◎バシュメット(Va)プレヴィン指揮ロンドン交響楽団(rca)1994/2/14・CD,,バシュメットの、時には撫でるように優しく時にはしっかり雄弁に(けして骨太ではないが)、丁寧に一音一音に情感を込めて一縷の隙もなく連綿と解釈し続ける演奏ぶりに惚れ惚れとする。2楽章などやや遅めだがそのスタイルにより飽きさせない。またプレヴィンのサポートも実に堂に入って美しくスケール感があり、厚みの有る演奏ぶりだ。この曲に時折感じる「薄さ」や退嬰的なところがそのような演奏によってしっかり内容あるものに仕立て上げられており、とくに終楽章の後半の音楽の大きさは、普通の演奏には聞かれない大きな設計に基づくもので特筆できる。しっかりした終わり方に納得。全編納得した演奏には初めて触れた。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ヴィオラ協奏曲,○プリムローズ(Va)サージェント指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)(DA:CD-R)1945/3/11live,,録音が壊滅的に悪くオケが潰れてウォルトン特有のオーケストレーションが形骸化して聞こえてしまうなど音盤としては難が多い。ソリストの音程すら明確に捉えられず甚だ心もとない。終楽章では音飛びすらある。だが、ライヴでプリムローズのこの曲の演奏を聴けるだけでも幸せと言うべきだろう。スタジオ録音も残している職人的指揮者サージェントとのコンビで、かつ手だれのNBC響が相手である。演奏的には実際かなりスタジオよりも烈しいものとなっている。プリムローズはとにかくよく歌うし、2楽章ではエッジの立った音で突っ走る。まことヴィオラにおけるハイフェッツだと思うのはそれでも殆ど技術的瑕疵が無いことである。音程が多少ブレて聞こえるのは恐らく録音のせいだろうと考えるとこの技術は驚異的である。もちろんライヴならではのオケとの乖離はあるように聞こえるし、サージェントもさばききれない箇所があるようにも思うが(すべて録音が悪いため推定である)補って余りある彫りの深い表現にヴィブラートの美しさ、起伏の大きなダイナミックで迫力のある演奏ぶりには感嘆させられる。ライヴのプリムローズはこんなにも激しかったのである。○。前プロがアイアランドのロンドン序曲、メインがホルストのパーフェクト・フール組曲となっている。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,,,,,,,
ウォルトン:ヴィオラ協奏曲,◎プリムローズ(Va)サージェント指揮ロイヤル・フィル(DECCA),,比較的明晰な録音でプリムローズのヴァイオリン的な響きを堪能できる。近代ヴィオラ協奏曲の嚆矢に挙げられる傑作だがサージェントのリズムよさが特に三楽章中間部で発揮され輝かしく気分を高揚させる。ウォルトンはこの符点音符のリズムをいかにカッコよく切るかで決まってしまう。やや映画音楽ぽい俗っぽさも醸してしまう指揮だがロイヤル・フィルの美しい弦がバランサーとなっている。自作自演盤より音がいいだけに見逃せない録音。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ヴィオラ協奏曲,○プリムローズ(Va)サージェント指揮ロイヤル・フィル(DECCA)LPウォルトンを語るに、この曲を避けて通る事はできまい。ごく若い頃のウォルトンの深い思索性(当人がそれに見合う思索を行ったかは別)の残響と完成期の要領良い娯楽性が見事に絡み合い、ヒンデミットをして初演者たらしめたのも肯ける。ターティスも惜しいことをしたものだ。ドイツ的と言って良い重く厚みのあるひびき(後年自身の手で軽い響きに変更されたのだが)のオーケストラが、彼の交響曲よりも重厚壮大な世界を展開する中で、中性的な存在であるヴィオラが縦横に駆けめぐり、時にはオケの一角に沈潜し、時には(ヴァイオリン協奏曲のソロヴァイオリンのように)激しく技巧を見せつける。だが決して派手ではなく、色彩的ではなくそれがかえって「わかりやすいがゆえに中身がカラッポ」との評価を受けがちなウォルトンの作品群中にあって、唯一名曲の評価を受けている要因でもあろう。思索的な二曲の弦楽四重奏曲とこのヴィオラ協奏曲は、ベートーヴェンが好きな堅物にもまあまあの印象を与えることだろう。プリムローズは異常なまでの技巧でヴィオラという楽器の可能性を大きく広げたソリストだが、この曲でもその技巧は冴え渡っている。このサージェントのバックで弾いた演奏にしても、あいかわらず技巧は冴えているし、またサージェントも持ち前の要領良さが極めて美しく反映されている。音もプリムローズの録音にしては良い。オケも「まだ」上手い頃のロイヤル・フィルだ。なかなか。この盤のカップリングはヒンデミットの白鳥を焼く男。なかなか要領を得た選曲である。(1994記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:ヴィオラ協奏曲,◎プリムローズ(Va)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)CD メニューイン盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:ヴィオラ協奏曲,○リドル(Va)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(DUTTON)CDリドルはオケの首席奏者として長い現役生活を送り、30年代から数々のイギリス作曲家作品を演奏してきた。このごく古い演奏は良い意味でも悪い意味でも、リドルの無個性的表現が出ている。プリムローズがオクターブ上げて弾いた2楽章を原曲通り弾いているのだが、それでもなおかつ技巧的にプリムローズの表現に劣っていると言わざるを得まい。ただ、バックオケの演奏表現は自作自演の3盤中いちばんしっくりきた。作品が生まれた頃の生々しい雰囲気が感じられるせいだろう。重厚さとしなやかさの同居がいい感じ。(1994記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:ヴィオラ協奏曲,バシュメット(Va)ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ音楽院管弦楽団(YEDANG)1988/5/5バシュメットが崩壊間近なソヴィエトで録音したものである。プレヴィンとの新録は未聴。管楽器のひびきがいかにもロシアな音をしているが、ときどきペットソロを諧謔的な響きとして使うウォルトンの意図はうまく表現されている。ただ、とちりもいくつか聞こえ、技巧の問題もちょっと感じさせるオケだ。1楽章の暗い幻想はよく表現されている。2楽章はずいぶんと荒いタッチで、しかもかなりゆっくりとしたテンポにちょっとびっくりする。思いっきり速弾きでヴィルツオーソ性を打ち出すことのできる唯一の楽章なのに、古楽器ふうの不思議な響きを響き渡らせることに専念しているようだ。この楽章はちょっと拍子抜けである。バシュメットにテクがないようにまで聞こえてしまう。プリムローズと比べるのがおかしいのかもしれないが、プリムローズの異常なまでの炎の音楽とは隔絶したものである。3楽章はどこまで深い音楽を聴かせられるかがポイントだが、バシュメットのロシア離れした洗練された音、黒髪が光るような深く透明な音がもっともその特質を発揮している。旋律を謡い込むためにかなりテンポを落とすことがあるが、特異な解釈である。ロシアオケの音色が時にバシュメットの音楽を邪魔するが、合奏部分の壮大さはなかなかいい。中声部がやや弱いか。テンポが遅いがゆえにとても丁寧に表現されていくから、ウォルトンの洗練されたハーモニーをゆっくり楽しむことができる。反面演奏が近視眼的になりがちで全体としては尻すぼみになってしまっているのはマイナス。ウォルトンの協奏曲でロシアで録音されたものとしてはフェドセーエフの振った(ソリスト失念)ヴァイオリン協奏曲があったが、あちらはかなりウォルトンの音楽を忠実に再現している。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:ヴィオラ協奏曲,メニューイン(Va)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)CD自作自演の2枚。同じオケで同じレーベルへの録音、メニューインはヴァイオリン協奏曲とのカップリングでステレオ録音である。比べてプリムローズ盤のほうが音が悪いが秀演。プリムローズ自身の出来はサージェントのものより上か?メニューインは音に問題あり。ウォルトンの指揮も晩年のせいかやや鈍重。聴き易い音なのに、正直余り良い出来とは言えない。(1994記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:エリザベス二世戴冠式のためのテ・デウム,作曲家指揮LPO他(bbc)1966/1/02live・CD,,戴冠式音楽は専売特許みたいなもので、祝典音楽はお手の物、ウォルトン得意の皮肉な調子は影を潜め、壮麗な音楽に仕上がっている。それだけの作品。ウォルトンの指揮歴は長いが自作のみで、後年になるにつれ(改訂の影響もあろうが)巨大な骨と皮、響きだけにひたすらこだわるような、あまりに透明志向すぎる録音も多い。これはその志向と曲がマッチしているので板についたような演奏になっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:オラトリオ「ベルシャザールの饗宴」,○ミトロプーロス指揮スコラ・カントゥルムc、NYP、トッシb、1957/5/12live(nickson)派手でスペクタクルで若きウォルトンの代表作。委属元関係なく宗教性無視し劇性を押し出し盛大にぶちかます。録音が悪いが、力感が物凄い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,,
ウォルトン:オラトリオ「ベルシャザールの饗宴」,○ロジェ・ワーグナー指揮ロイヤル・フィル、合唱団、ジョン・キャメロン(B)(CAPITOL、ANGEL/PACO)1960/9/19-22,,スピーディで明るく魅力的なベルシャザールだ。シャープで攻撃的な声楽のコントロールぶりはさすが合唱指揮で名をはせたロジェー・ワーグナーといったところである。オケコントロールもたいしたもので透明感あふれる響きから迫力ある表現を引き出している。ミスもあるがそれくらい熱した演奏になっている。ダイナミックで速い。曲の内容などどうでもよい。他演が単線的な旋律表現を追いがちなのにたいしこれはただ立体的に重層的に迫ってくる。何も考えず楽しもう。SP初出。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:オラトリオ「ベルシャザールの饗宴」(1929-31),◎ボールト指揮フィルハーモニック・プロムナード管(ロンドン・フィル)&cho.ほか 名演だ。安定感のある響きをささえとして、表出意欲の高い合唱が嵐のように勇壮にひびきわたる。この音響、構成感はあきらかに西欧の伝統的表現にもとづいている。オラトリオらしいオラトリオになっており、また管弦楽も負けじと歌いまくっているように聞こえる。ウオルトンらしさ(めくるめくリズムの表現やシニカルな不協和の響きなどの表現)は稀薄で、音の透明感も皆無といってよいが、総じてじつにダイナミックな演奏で、曲を未知のまま聞くうえでは最良の紹介盤たりえよう。通常きかせどころとなる場面が逆に埋没しがちで、最後もあっさり収束するのは意外だったが、「意外」といえば全編ウオルトンらしくないロマンティックな構成感に支えられているのだから、ウオルトン好きには違和感があるかもしれない。だが面白いことだけは確かだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:オラトリオ「ベルシャザールの饗宴」(1929-31),◎ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル、スコラ・カントゥルム合唱団、トッツィ(B)(NICKSON)1957/5/12LIVE名演!後半の怒涛のような推進力は圧巻。合唱にオケに独唱にと大編成のオケに対して歌劇指揮者としても名高かったミトプーの、密度が濃く隙の無い音響の取りまとめかたに感服させられる。ウォルトンは不規則なリズムに細かい休符を混ぜ込むため、熱い楽曲にところどころ冷たい隙間風が入ってしまったような感じがすることがある。とくに新しい録音では演奏精度が上がるがゆえに余計にその感を強くする。だがこのくらいの悪いモノラル音で聞くとそのあたりがカバーされ丁度いい。いや、べつに録音マジックだけというわけではなくて、ライヴならではの気合が舞台の隅々にまで満ち満ちており、リズムは飛び跳ねるようにイキがよく休符が気にならない強さを持っている。フィナーレの非常に速いテンポに音楽の攻めの良さはまったく聞いたことのない「ベルシャザール」の演奏、びっくりした。どこにも弛緩がない。面白い!最後は盛大な拍手。音は悪いけどいいです、これ。但し・・・強いて言えば前半が地味かも。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:オラトリオ「ベルシャザールの饗宴」(1929-31),◎作曲家指揮BBC交響楽団&合唱団他・Mclntyre(B)(bbc)1965live「ベルシャザールの饗宴」はウォルトンでも人気曲のひとつだ。独唱バリトンに二重の合唱団、管弦楽に二組の吹奏楽という巨大編成でおおいに歌い上げられる、聖書の一節。ベルシャザール(バビロン王子)が宴を催しているところに神の手があらわれ壁に文字を描くという場面、ルネサンス絵画の画題にもなっている有名な話し(筆者は旧約聖書をあまり知らないので間違っていたらすいません)。但し曲に宗教色は薄い。ウォルトン独特の垢抜けた響きにリズミカルな旋律が跳ね回るところが何といっても特徴的であり、魅力的。ウォルトン二十代の最後に書き上げられた、若々しさに溢れる清新な曲といえよう。さて、この演奏はウォルトン自作自演としてはかなり成功しているものだ。EMIの自演盤よりも音が鮮明で、合唱もよく響いている。ウォルトンの棒は演奏者たちをよく統率し、完全にコントロールできており、ライブとしては演奏上の瑕疵がほとんどないのが凄い。奇跡的な演奏だ。終演を待たずしてフライング気味に入る拍手喝采もこの演奏の成功を伝えている。聞いて損は無い盤。カップリングは交響曲第一番のライヴ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:カプリッチョ・ブルレスコ,○コステラネッツ指揮NYP(NYP)1978/11/6・CD,,ウォルトンがいつもの芸風で書いた特に言うことのない小品だが、ウォルトン特有の明るい色彩をきらびやかに引き出した佳演となっている。ニューヨーク・フィルは色彩感にあまり長けたオケではないが、こんなキラキラした音が出るんだ、と思った。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:スカピーノ序曲,○コシュラー指揮プラハ交響楽団(OCCD)1967/2/8live・CD,,コシュラーらしい勢いが楽しい。ウォルトンにおける「ティル」なわけだが楽曲自体は勇ましい軍国調からハリウッド的抒情旋律と現代的展開をなす清々しいもので、中盤では色々と工夫がなされ、倍のテンポの抒情旋律が構造的なアンサンブルの上に流れていくところが私は大好きなのだが、この演奏、というか録音では旋律がやや弱く立体感がイマイチ、せっかくの対位構造が引き立ってこない。ウォルトンのこのあたりの作品は構造をバランスよく浮き彫りにしてくれないと魅力半減。勢いと力強さは認めるが、そのあたりはややマイナス。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:チェロ協奏曲,○トゥルトゥリエ(Vc)ベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団(EMI/warner)CD,,ウォルトンのチェロコンというとおもむろの闇、憂愁の旋律に思索的な響きを交えながら複雑な運動を続けるソリストといったヴィオラ協奏曲よりも暗くわかりにくい曲で、高度な技巧に裏付けされた力強さと意志的な解釈表現が必要とされると思っていると、こういう調和のとれた緻密な演奏が出てきてびっくりしたものだ。トゥルトゥリエというソリストは私にとっては未知の領域であまり印象にも残らなかったが、ここではピアティゴルスキのような長所と短所の入り混じった様相は示さない。ベルグルンドがシベリウスの影響いイギリス音楽をもう少し記録に残しておいてほしかったと思うほどに、和声と構造によく理解を示し意外とテクニシャンな楽団を相手にソリストとの融合をはかり、音色的な統一感や大きなスケールにおける緩やかな流れはウォルトンが本来書いていた楽曲の本質(自作自演では指揮の硬さからオケのやりにくさが伝わる)、その聞き方というものもわからしめる良演となっている。これを聴くとウォルトンの一応4つある協奏曲でヴィオラは別格として、長ったらしく同時代音楽を剽窃し技巧に走ったヴァイオリンや、それらとは毛色の違う生硬なピアノよりすぐれた作品として認識できる。悠々自適というかもう代表作は作ったし依頼されれば報酬と気分次第で地中海から派手な曲を送るみたいな作曲的晩年の気配はない。最初に聞くのに向いている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:チェロ協奏曲,○ピアティゴルスキー(Vc)サージェント指揮BBC交響楽団(EMI,BBC)1957/2/13live・DVD,,作曲家にmagnificentと評されたイギリス初演時のライヴ映像である。まあ誰しも巨漢ピアティゴルスキーの左手、とくに2楽章の唖然とする超絶技巧に釘付けになるだろう。音だけ聴いていたら余り魅力をかんじないかもしれない、個性的ではない音の人だが、映像の力はこのオーダーメイド作品(もちろんピアティゴルスキーの委属)が決して皮肉屋ウォルトンのドル獲得の道具であったわけではないことを直感させるに十分である。,,耳で聴くならせめてスコアと首っぴきで聞かないとわからない込み入ったところのある(ウォルトン自身は事故で入院中であったためラジオで聴いたようだ)、ウォルトンの長い滑空的晩年の入口際に咲く最後の花のような作品であるだけに、映像で見るとこのチェロに要求するには首を傾げざるを得ない跳躍の多さ音線のわかりにくさ、音響の複雑さとリズムのせわしなさ、そして変則的な重音の多用、確かに映画音楽のように煌びやかな叙情をたたえているはずの、旋律的な「はず」の楽曲をどうまとめるかがじつに難しげで、そこの巧妙な描き出しかた、やはりフルヴェンのオケで長年鍛えられた現代作品に対する確かな耳と腕が「ウォルトンなんてわかりやすい、簡単カンタン」と言わんばかりの余裕をもって楽曲をまとめてみせる。,,"",,そう、チェロのハイフェッツと言われてもおかしくはなかった(ハイフェッツのガルネリもそうだが楽器がかなり小さいのもヴァイオリン的なカンタービレをあわせもつ超絶技巧的な演奏を可能とした一つのゆえんだと思われるが)ピアティゴルスキーの腕はやはり音盤オンリーではわかりにくい。録音よりライヴを重視したためか録音媒体には渋さと技巧ばかり目だったものが多い。これは確かにライヴだし、何より弦では最も有用音域が広く難しく筋力もいるチェロだから、ウォルトンのような弦楽器に無為に苛烈な要求をする人の作品においては、音が決まらなかったり指が滑ったりするのは仕方がなく、いやコンチェルトでは敢えて要る音要らない音の強弱を強調するためになめらかに音を飛ばしたりひっかけたりして味にすることもあるのだが、ピアティゴルスキーは超スピードの間断ない流れを重視しているがゆえ、音符を全てしっかり音にできているかといえばそうではない。,,でも、この白黒映像でもうかがえる伊達男、いやテクニシャンのサージェントとピアティのコンビにおいてそんな瑣末さは大した問題ではない。新曲をまとまった大きな絵画として描き出すためには細部へのこだわりは寧ろ仇となる。,,BBCはそつない。しかしその冷たい音とじつに規律正しい・・・ドイツ楽団の「締め上げられた規律」とは明らかに違う・・・キビキビ正確に決まるアンサンブルはウォルトンの冷え冷えしたランドスケープに非常によくあっている。イギリスの楽団はじつにいいなあ、と思いつつ、その冷静さに若干の物足りなさを感じることもあるが、だがこの2楽章、「ウォルトンの2楽章」のピアティの超絶さには、結部でさっと弓を引く顔色変えないピアティに対し、会場から「舞台上からも」ざわめきが起こり一部拍手まできこえる。背後でささやきあう楽団員の姿を見ても・・・BBC交響楽団ではそうそうないことだ・・・恐ろしい技巧を目の当たりにした人々の「恐怖」すらかんじとれるだろう。ピアティは心をこめて演奏している、でも、まったく体は揺らがないし、表情を歪めたり陶酔したりすることもない。ラフマニノフを思わせる顔つき髪型で、性格的なふてぶてしさを表に出すこともなく、ルビンシュタインやハイフェッツにやはり似ている天才的技巧家特有の肩の力の抜き具合と演奏のすさまじさのギャップがすごい。,,ハイフェッツの演奏を見て何人のヴァイオリニスト志願者が弓を置いたろうか。ピアティについてもそれはあてはまることだったろう、そういったことを思う。近現代チェリストにとっての神様カサルス〜ピアティにとってもその存在は神であった〜、あらゆる意味で20世紀最高のチェリスト故ロストロ先生(嘆きの声は次第に盛り上がっている、カサルスがなくなったときもそういえば楽器違いの演奏家からも悲痛な声があがっていたなあ・・・)のような天上の存在は別格として、しかし、あの大きなかいなをまるで機械のように正確にフィルムのコマよりも速くうごかし、工業機械のように力強く目にも止まらぬ速さで指を連打しつづける姿を見てしまうと、今現在目にすることのできるチェリストの何と弱弱しく、音の小さいことか、と思ってしまう。,
ウォルトン:チェロ協奏曲,○ピアティゴルスキー(Vc)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(hervest classics:CD-R)1957/1/28live,,恐らく既出海賊盤の再発だと思う(EMIの映像とは未照合)。ピアティゴルスキーの音はやや力がなく、しかしこのウォルトンにしては深みのある曲には程よくマッチしている。ウォルトンの作曲人生の後半は全て蛇足だったとして、そこを除いた最も最後のあたりの作品と思われる(いーかげんな書き方)この曲、私はけっこう苦手だったのだが、なぜか今日は染みた。ウォルトンはもともとからっと明るくわかりやすい。そういうイメージをちょっと逸脱した大人の音楽ということなのか。不可思議な響きとシニカルな表現の中にも叙情的な旋律が流れ、速い楽章も技巧を見せびらかすものにはならず終始一貫した実を感じさせる。この組合せには有名な正規録音があるので別にこれを聞かなくてもいいとは思うが、微温的というか、朝には丁度いいかんじの聴感でした。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:チェロ協奏曲,○フルニエ(Vc)作曲家指揮ロイヤル・フィル(Arlecchino)1959/8/12live・CD,,堂々たるもので輝かしい音で磐石のフルニエにすべらかにつけていく作曲家の棒、ノーブルで美しいオケの響きもろとも、小粒ではあるが完成度の高い演奏になっている。ライヴならではのスピードが胸のすく思い、丁々発止のやり取りが作曲家指揮モノにしては結構うまくいっており、録音が悪いのが惜しまれるが、○はゆうにいく。こういうものを聴くとヴィルトーゾの演奏が凡百のソリストのそれとはまったく違う次元にいることがわかる。またピアティゴルスキーのような「冷たい」演奏家ではこうはいかなかったろうことも思わせる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:チェロ協奏曲,ピアティゴルスキー(Vc)ミトロプーロス指揮NYP(forgottenrecords)1957/5/5live,,やはりピアティゴルスキーの高音の音程が気になる。細かい音で指の撚れがあるというか、一、ニ楽章ではあまり正確におさえられていない箇所が多い。ウォルトンでこれはきつい(ピアティゴルスキーを権威とすれば仕方ないが)。三楽章になるとやっと火がついたのか細部の音程も明確になるが、最後の回想では伸びやかさがなくろうろうと歌うことはできていない。この人はクセのある人だったようで、本気じゃなかったのかとも邪推する(拍手は盛大)。反面ミトロプーロスは現代物に明るい特性と暗譜指揮の即興的な強みを出して、ウォルトンをほとんどやっていないこのオケに素晴らしく俊敏で明確な演奏を促している。このウォルトンができれば交響曲などもっとやってもよさそうなものだが、恐らくこのコンビの録音ではスカピーノくらいしか無かったか。ノイズがひどいが音自体は情報量があり明快に捉えられているので、悪い記録ではない。ミトロプーロスに得る物があった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:チェロ協奏曲,ピアティゴルスキー(Vc)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA)1957/1/28,30・CD,,ロシア出身でBPのフルトヴェングラーにトップ奏者として迎えられ以後、豪胆な表現と「色艶に逃げない」音でソリストとして活躍したピアティだが、オールドスタイルっぽさがあるというか、音程がメロメロで、現代作品となるとなかなか厳しいところもある。特にウォルトンには常に細部まで正確で明瞭な発音が求められそれは時に過酷ですらあり、その意味で言うとピアティのみならずミュンシュですらどうなのかという気もしてしまう(ボストン交響楽団は機能的で良い)。ミュンシュはほとんど英国物をやっていないしウォルトンもこれ一曲しか残していない。ただ、立体感、色彩感はしっかりとある。いわば「ボールト的な突き通し方」によって聴かせる。響きを神経質に整えるとかいったやり方にくらべて音楽のメリハリがわかりやすくつき、ウォルトンの作品でも晦渋な印象のある同曲に一定の評価をあたえることに成功したのは、ピアティよりむしろミュンシュの腕によるところがあったのではないかと思わせる。ピアティは早くより衰えをみせた奏者で、実際早くに亡くなっている。運指のさまはしばしば後年のメニューインを思わせる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ウォルトン:チェロ協奏曲,フルニエ(Vc)作曲家指揮ロイヤル・フィル(bbc)1959/8/23live・CD,,ソリストの非力さと技巧面の不安感はともかく、ウォルトンの自演ものにしては流れよく(美しい響きにこだわりすぎることもなく)、オケの実力が補完している面もあると思うが、同曲の演奏としては上位に置ける。曲はウォルトンの協奏曲ジャンルの中では最後に位置づけられ、ヴィオラ協奏曲の渋い部分だけを取り出して円熟した技法とマンネリ化した個性でまとめ上げたようなものだが(派手で冗長なヴァイオリン協奏曲とは対照的)、渋い味わいはオシゴト的な後期作品群の中で図抜けている。最初と最後の冷たく不可思議な雰囲気も個性的で、イギリス近代によくある聴きやすさ重視のようなところは旋律のみに留められ、格が感じられる。録音も良いステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:バレエ組曲「賢い乙女たち」(バッハ原曲),○児玉宏指揮大阪シンフォニカー交響楽団(rohm,king)2010/3/17live・CD,,ウォルトンを期待しないで聴くべし。依属趣旨に従いコンスタン卜・ランバート選によるバッハの色々な曲の抜粋を単純に管弦楽編曲し最初はバレエ全曲にまとめたもので(現存は組曲のみ)それ以上でもそれ以下でもない。これは擬古典でも新古典でもなく、バッハの方法論を徹底的に模倣したうえでの編曲なのである。ごくわずかではあるが多少派手な響きのする個所にはバッハの時代にないものが感じられるし、大管弦楽作品なのだからバッハの方法論を踏襲したといってもちょっと違うのかもしれないが、ワルターのマタイを聴くようなものであり、いわば編成の規模だけの問題である。オケは上手い。この曲はオケの腕の差が出にくいだろうが、手堅く聴ける。聴衆反応は普通。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ウォルトン:ピアノ四重奏曲,○マッケイブ(P)イギリス四重奏団(Meridian)CD,,イギリス音楽のスペシャリストと言うべき組み合わせだろうか。明瞭な音符の表現(音符自体の少ない曲だけれども)が生硬なテンポにつながってしまうクセもあるが、若書きのロマンティックな部分が目立つ曲で、ウォルトンにありがちな焦燥感に満ちた曲でもないので、割と落ち着いた音楽となって安心して聞ける。若書きといってもシニカルで硬質な響きへの志向ははっきりあらわれており、英国貴族の気取った風ではなく、いかにも現代人の気取ったふうである。その点でも変に揺らしたり音色を工夫したりしていないのでそのまま素直に聞ける。いい演奏とまではいかないが、聞いてそつのない演奏か。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ピアノ四重奏曲(1918),シリト、ミルンほか(CHANDOS),/ロバート・マスターズ四重奏団(WESTMINSTER),,シャンドス盤、今でも版を重ねていると思うが、例のウオルトン・シリーズの1枚だ。他ものすごく古い盤を持っているけれども(下)、シャンドスのシリーズはどれも大変高水準にあり、これは其の中でもトップ・クラスのアンサンブルだ。この1枚でとりあえず事は足りる(何の?)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ウォルトン:ヒンデミットの主題による変奏曲,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1970/1/15live,,クリーヴランド定期最後のシーズンとなったライヴの記録の一つ。曲はウィーン・フィルとの映像も正規化されているセルのレパートリーで、他愛のない、ウォルトン節陳列棚のような曲だがオケの威力を見せ付けるには適した苛酷な書き口、ここでも冷たく熱したオーケストラのハタラキを聞き取ることができる。円熟も未熟もなく、しかしこの曲はこれでいいのだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ヒンデミットの主題による変奏曲,セル指揮クリーヴランド管弦楽団(CBS/sony)1964・CD,,明らかな音で完璧にスコアを再現されると、主題こそヒンデミットらしいもので耳を惹くものの、ファサードの時代とは隔絶した「円熟した」ウォルトン後期の書法のいずれもリズムを定型的に変化させただけ、変奏曲部分のマンネリズムが浮き彫りになり、ウォルトンファン以外に受けるのかどうかわからないつまらなさが出てくる。30分近くは長い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ヒンデミットの主題による変奏曲,作曲家指揮RPO(bbc)1963/5/8live・CD,,あの長大な「世界の調和」(交響曲でいえば三楽章)を数分に凝縮したうえで、得意の不規則にキレたリズムからはじまりウォルトン化していく、ウォルトン自身の旋律や響きを生み出す力が衰えていった時期だからこそ、外から持ってきた楽想をイジり倒した作品は飛び抜けて聴き映えがする。ゆえこの作品はわりと演奏録音されている気がする。ヒンデミットをカリカチュアライズしたような木管のトリルとか弦の動きとか、これはヒンデミットが日和ったのを皮肉っているわけではなく親友だからこそできた技だろう。演奏は素晴らしい。やや残響過多だがステレオで美麗な響きをよくとらえている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ファサード全曲,イディス・シットウェル、ピーター・ピアース(朗読)アンソニー・コリンズ指揮イングリッシュ・オペラ・グループ・アンサンブル(alto他)1954・CD,,全曲は珍しい。抜粋の朗読なしだとウォルトンの出世作という知識と短いパロディ音楽の寄せ集めという面から、完成期のウォルトンとは異質の作品と捉えられてしまいがちだが、全曲だと諸所の異国的な音律に既にウォルトン特有の書法が現れているのがわかる。素直な旋律を現代音楽(後半ではジャズ)風に歪める諧謔性はウォルトンそのものだ。ほぼ室内楽編成で簡素なところくらいが違いと認識されるものだろう(改訂は確かなされている)。朗読にもさまざまな形があるが詩の作者を含むこの演奏ではいきなりラップで始まる。音楽のスピードにあわせて完璧に噛み合った韻律を楽しむ趣向なのである。とくにピアースはさすが口が回り歯切れ良い。その音楽は朗読と切り離せないがジャズふうのSomething Lies Beyond The Sceneなど確かに単品として聴けるもので、ハリウッドのミュージカル映画を思い起こさせる雰囲気がある。1分しかないけど。そのあとのアルトサックスやミュートされたペットもジャズふうというより現代的なカッコ良さを演出するジャズそのものを志向している。この演奏はモノラル末期の良好な音質で、作曲当時の雰囲気を残し、コリンズならではの自然さを纏った精度、力感ある演奏ぶりも耳に自然に入ってくる。変なクラシカルな処理、その逆の処理もなされず、どこが聞き所なのかわかりやすく聴きやすい。ノイズもなく、お勧め。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ファサード組曲よりポルカ、タンゴ・パソドブル、タランテラ・セビリアーナ,○モントゥ指揮サンフランシスコ交響楽団(M&A)1950/2/26live・CD,,ウォルトンの諧謔性は鋭い金属質の肌触りのする響きと機械的な混み入ったアンサンブルに裏付けられているものの、バルトークのオケコンの「中断された間奏曲」のような、あるいはストラヴィンスキー渡米後のオーダーメイド作品のような皮肉を確かに提示しながら、穏やかな空気の中から穏健に提示される。そこが限界でもあり魅力でもある。間違えるとほんとに穏健な音楽になってしまうので注意だ。モントゥの前進性はここでも目立ち、音楽が決して弛緩しないから穏健さは煽られない。組み立ても決して旋律の組み合わせの人工性を露わにせずじつに板についたもののように聞かせている。オケにどうも艶がなく機能性ばかりが目立つのが気になるが、ファサードはもっとソリストに多彩な表現を自由にとらせてもいいのではと思う。速いです。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ブリテンの即興曲による即興,○クリップス指揮ACO(RO)1972/1/27live,,なるほど単純な即興である。構造的な部分の殆ど無い、旋律を厚ぼったく味付けしただけの単線であり、一部、ハープと木管ソロの断片化したフレーズの連環だけによる表現などウォルトンらしくない室内楽的な単純さが却ってブリテン的な冷えた印象派世界を思わせ秀逸だが、全般として筆のすさび感は否めない。ブリテンふう音楽をウォルトン語法でやってみました、というような感じだ。クリップスはさすが流れよくリズミカルな表現が光る部分はあるがおおむねオケの鈍重さに引きずられているように感じた。聴衆もやや戸惑い気味である。録音も正規ものとしてはそれほどよくない。曲はともかく演奏的にまあまあなので○にしておくが、マニア以外は無理して聴くこともあるまい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ベルシャザールの饗宴,○クーベリック指揮シカゴ交響楽団(CSO)1952/3/30LIVE・CD,,前半のゆるい場面では録音の悪さもあいまって余り感情移入できないのだが、ウォルトンらしいリズミカルな場面に転換していくとテンションの高いクーベリック・ライヴを堪能できる。音さえよければ◎モノだったのに!ウォルトンの悪い癖である変なパウゼの頻発が主として速いテンポと明確な発音によるテンションの持続性によってまったくカバーされ気にならない。生で聞いたら凄かったろうな、というシカゴの機能性の高さにも瞠目。弦楽器の一糸乱れぬアンサンブルは明るくこだわりがない音であるぶん清清しい響きのこの曲にはあっている(内容どうのこうのは別)。とにかくこの時代の指揮者にこういうスタイルは多いのだが(まるでトスカニーニの後継者を争うが如く)その中でもずば抜けてテクニックとテンションを持っていた怒れるクーベリックの技に拍手。何も残らないけど、残らない曲ですからね。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ベルシャザールの饗宴,○ノーブル(B)作曲家指揮リヴァプール・フィル他(EMI)1943,,初演独唱者+初演指揮者が録音したオケ・合唱団による演奏というややこしい組み合わせによる旧録。SPとあって中音域以上は豊かで開放的で聴きやすいが時代柄オケの精度には問題がある。ペットで許しがたい事故がそのまま収録されているがあれはこのオケの弱みがブラスにあるという証左か。木管の鄙びた味わいや弦やパーカスとのスリリングなやり取りはウォルトンらしく引き締められたアンサンブルの上で生きている。シンフォニックな演奏ぶりで始めからハデハデしく覇気に満ちた全盛期ウォルトンの指揮であるものの、サージェントと比べるとやはり生硬なところはある。響きは素晴らしく整えられ誤魔化しがないが、リズム処理や合唱とオケの調和においてはサージェントに一長があるか。でも、サージェントとは全く違う芸風で、緩急の急が偏重されているのは人によっては好むところだろう。ノイズ耐性があるなら聴く価値あり。自作自演でもやっぱり、バビロンの饗宴の場面と、ユダヤの勝利の場面に音楽的に顕著な差は無く、その歌詞によってのみ内容の違いを窺い知れる。だからこそ、テクストをもとに聴く必要はあるし、この曲においてウォルトンはテクストを才能の発揮のための素材としか考えていないとみることもできよう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ベルシャザールの饗宴,○ミリガン(B)サージェント指揮リヴァプール・フィル、フッダースフィールド合唱協会(EMI)1958・CD,,海外のAMAZONなら手に入る。モノラルであり古い復刻であるせいかノイズもやや聴かれる。板起こしなのだろう、細部が不明瞭で分離が悪い。ウォルトンの立体的な書法の内側で、こみ入ったアンサンブルを機械的に組み上げる場面、だいたい大規模な曲では弦楽器が担うのだが、サージェントのアバウトな部分が出ているように聴こえるのはその録音のぼやけたせいなのか。しかし、表面に出る音楽は切っ先鋭く、リズム感が非常によくて、後半部ではウォルトンならではの行進曲ふうのフレーズのノーブルさ、付点音符付リズムのキレ、まことに聴きごたえがある。また、合唱指揮にはこの人の特長がよく出る。録音操作もあるのだろうが出過ぎも引っ込みすぎもせず非常にバランスよく、合唱と管弦楽の絡みが歪みなく聴き易い。これは完全全曲録音だが、楽曲の全容が全曲でないと伝わらないものであると言うこともわかる。話の筋や流れをちゃんと把握して聴いた方がいい。壮大な終端部もなかなかの威容。サージェントは同曲の初演者である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ヘンリー5世より二曲,○バルビローリ指揮ロサンゼルス室内管弦楽団(DA,VIBRATO:CD-R)1969/11/17LIVE,,録音は荒いが一応ステレオ。映画音楽からのごく短いパヴァーヌふうの弦楽アンサンブル曲二曲でスタンダードなショートピースとしてお馴染みである。バルビならでは、という強いインパクトはないがLAにしてはかなりニュートラルな美感をはっし、このいかにもイギリス的感傷をあおる楽曲〜なんの「新しさ」もないが美しい〜を爽やかに重くならず、しかし中低音域の充実した響きで描ききっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ウォルトン:ポーツマス・ポイント序曲,○アンソニー・バーナード指揮ニュー・イングリッシュ交響楽団(decca)SP,,後半妙にもたついてくる。ウォルトンでも単純な曲ではあるがリズム取りはウォルトンならではの難しさがあり、そこをなんとかやりきってはいるが、テンポの弛緩に無理が現れてしまったか。楽譜は初稿ではない模様。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ポーツマス・ポイント序曲,○ボールト指揮BBC交響楽団(VAI)1937/4/16・CD,,速い速い。このくらいの速さじゃないと締まらない。意外と、かなり意外と面白く聞ける演奏で、この曲に名演がないなあ、と思っていたらこんなところに名演が、といった感じだ。演奏流儀が所謂ドイツ風なので、しかも多分初版にのっとった重いオーケストレーションをとっているため、今のこの曲のアメリカ的なリズミカルな明るさというのがちっとも出ていないが、音楽的にはとても充実しているし、こういう曲として聞けばこれしかない、と思うだろう。私は持っている演奏の中ではこれが一番好きかもしれない。コープランドのように流麗ではなく、敢えてリズムを断ち切る休符が頻繁に挿入されるがゆえに、しっかりアンサンブルしようと組み立てにかかると音楽が途切れ途切れになってイマイチ莫大になってしまう。現代の演奏(晩年の自作自演含む)はいずれもこの穴に落ちている。まずは推進力なのだ、こういう喜遊的な曲は。録音の悪さを差し引いて○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ポーツマス・ポイント序曲,○ボールト指揮LPO(EMI)1967/7/27・CD,,リズムのキレは悪いが歯ごたえのある演奏で、当たりの厳しさ重厚さはならではの魅力。スピード感もそれほど悪くはなく、諸所でマニアックな構造がきちんと整理されないごちゃっとした響きがきかれるものの、これは作曲家・指揮者の相性の問題で、ボールトがそれほどウォルトンに執心でなかったのもわかる気がする。同曲でアメリカンな面を強調したウォルトンに対しボールトはドイツ派であることにこだわったということだろう。ステレオの好録音。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ポーツマス・ポイント序曲,○ボールト指揮ロンドン・フィル(EMI)1967/7/27アビーロードスタジオ・CD,,ステレオで、時代なりではあるが明快な録音状態。それだけにボールトのリズム感が気になる。前に向かわずブラームスのような縦型の取り方なのだ。自作自演でもステレオのものは似たような感じになっているのでそもそも曲がまとまりにくいせい(改訂のせい?)かもしれないが、自作自演よりはいいものの、ちょっと気になる。音響感覚もやや鈍重だが、ボールト的にはまだいいほうかもしれない。確か初演もボールトで古い録音は改訂前のものだったと思うが、古いほうが寧ろ若気の至り的な曲の若々しさを引き出していたようにも思う。オーケストレーションは明らかに中欧ふうの重いものだったんだけど。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ポーツマス・ポイント序曲,ボールト指揮LPO(EMI/warner)1967・CD,,ウォルトンのあけすけな嬉遊曲、アメリカ的なカラッとした響きに、特有の変則リズムで踊らせる。ボールトは数十年の間を空けて録音しており、いずれも今はwarnerの超廉価大全集に収録されているが、こちらのほうが新しいぶん、やはり遅い。もともと実直に確実なリズムを刻み、けして踊らせない、ボールトらしい重い演奏ではあるのだが、実直なだけに、あまりに明る過ぎる響きに対し中欧的な低い重心を(解釈などではなく自分流に)あたえることで、軽薄さを隠し空っぽな感じを避けることにはからずも成功している。もっとも、このての曲には前進力は必要で、旧録のスピードが限界だろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ポーツマス・ポイント序曲,ボールト指揮LPO(EMI/warner他)1936,,リズムのキレやソロ楽器の表情の細かさ、強弱の付け方が後年の円熟した録音より際立って良い。ボールト的な「純音楽性」はウォルトンには向かないが、それでもここでは胸のすくような音楽が出来上がっている。時代なりの演奏精度、録音状態であるものの、これはイギリス音楽演奏史上特記すべき記録である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:ポーツマス・ポイント序曲,ミトロプーロス指揮ミネアポリス管弦楽団?(NICKSON/COLUMBIA)1946/3/10・CD,,きちんと折り目正しい演奏で意外。オケがメロメロなので縦を揃えないとどうしようもないと考えたのかもしれない。ただ、硬直化した遅めのテンポはドイツ的で、最初は違和感を拭えなかった。でもそういうスタイルのために内部崩壊が抑えられ、最後は込み入ったウォルトンの書法を楽しむことができた。ウォルトンのジャズの影響を受けたリズムパターンは変則的でちょっとノりづらく、演奏に弾き辛さが出てしまっていることが結構多い。それを考えるとこの演奏は健闘しているほうだと思う。この曲はアホのようにからっと明るい演奏が多いが、録音が古いせいもあってここではちょっとくすんでいる。演奏技術と録音状態(それでもニクソンの復刻は篭りを抑え良くできている)の問題から○はつけられないが、ミトプーの意外なレパートリーとして、マニアは聞いといていいかもしれない。これはミトプー専門個人?レーベル(最近はミトプー以外も出しているようだが)ニクソン初期のSP復刻CD盤で、小品集の中の一曲。この10年後にドキュメントレーベルの超廉価ボックスが主要な収録音源であったプロコ「古典」ミヨー「屋根の上〜」ラヴェル「クープラン」を一気に復刻してしまったので価値が下がったが、デュカスやグリエールといった入っていないものもあるので、マニアなら探してもいいかもしれない。安いし。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:歌劇「トロイラスとクレシダ」(初稿),サージェント指揮コヴェントガーデン歌劇場管弦楽団&合唱団、リチャード・ルイス(トロイラス)マグダ・ラズロ(クレシダ)ピアース(パンダラス)他(PASC)1954/12/21live放送,,初演ではない模様。モノラルの放送録音で音質はノイジーなモノラル、音場が狭いがほどほどにレストアされている。3幕からなる長大なオペラでウォルトンでは知られた作品だろう。平易な音楽に美しい歌、ペレアス以降のフランス近代音楽(あるいはサンサンやラヴェルの明晰な音楽)、マーラー以降中欧音楽の影響は感じられ、部分的には意図的に模倣しているのではないかと思わせるものもある。ウォルトン特有の書法の癖(自作有名曲すべてからいいところどりしたような、というか詰め込みすぎて息の詰まる作風をとても聴きやすいレベルに引き伸ばしならしたような)、同時代イギリス音楽の上品で透明な音楽との共時性は横溢しているものの、第1幕は比較的ウォルトン以外を思わせる個性の薄まりがあるように思う。第2幕でもマーラー「大地の歌」告別冒頭を思わせる重苦しいパセージやシェーンベルクの浄夜か室内交響曲かというような下降音形はそれぞれ醸し出す雰囲気を引用したかったのか。3幕は2幕ほどの清新さはないが、筋書きに沿っているので構成上意図したものかもしれない。何より、これはベルシャザールの祭典ほど過剰なゴージャスさを煽ることはなく、歌の一つ一つが丁寧に書かれており、伴奏との組み合わせも必要最低限の絡みでしっかり聴かせるように組みあがっているし、映画音楽のようにキャッチーすぎることはなく、さすがに何時間も聴くには単調すぎてこたえるが、すくなくとも1,2幕は引き込まれて聴ける。描写的表現がじつに上手く、それも過去の自作をふくむ音楽を換骨奪胎したようなニヤリとさせる部分も多く、音楽好きなほど聴けると思う。キャッチーでないかのように書いてしまったが、ウォルトンでもわかりやすさはピカ一である。歌唱はライヴとしては皆とてもきれいで引っ掛かりはない。言語の問題もあるかもしれないが。オケは歌劇場オケらしく少しハスッパで開放的なところもあるけれど、ウォルトンをここまでちゃんと弾きこなすのは腕がある証拠だ。サージェントの鋭い指揮によるところも大きいと思う。弛緩なく緊張した演奏でもある。pristineによる復刻(PASC138)。幕間に拍手と放送ナレーションが入る。拍手は普通。終わり方があっけないのもあるかも。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:管弦楽のためのパルティータ,○シルヴェストリ指揮ボーンマス交響楽団(BBC,MEDICI)1965/5/7・CD,,ロヴィツキを思わせるひびきの雑然としたさまがみられるシルヴェストリだがウォルトンで多用されるブラスの破壊的な響きが今ひとつメロウであるのも、鋭く揃った表現を余りとらないこの人らしいところか。弦楽器はよく鍛えられているが今ひとつ強く訴えてこない。ウォルトンらしくない表現であり、何かヤナーチェクとかそのあたりを演奏しているような曇りを感じた。○にはしておく。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ウォルトン:管弦楽のためのパルティータ,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1967/9/28live,,ウォルトンの人気作にしてセルのレパートリーでもある。これは録音に難あり。ノイジーなエアチェックものでステレオではあるものの昔よくあった左右の分離の激しいアレに近い。オケの響きも浅く薄く聴こえ、それでもやはり底力のあるオケだから瑕疵はそれほど目立たないのだが(セルにしては普通の出来か)、軽快な曲であるからこそ重みある響きを求めたい部分もある。セルはとにかくウォルトンの込み入った書法をさばくのが無茶苦茶上手い。客席反応もいい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:管弦楽のためのパルティータ,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1968/2/7ボストンlive,,筆のすさび系の曲だがスカピーノやヨハネスブルグ祝典序曲系のわかりやすい組曲で旋律美からも一部で人気がある。セルはオケの機能性を活かした迫力のサウンドを繰り出し、旅演ということもあってか緊張感も漲り、内容空疎な面もあるが、楽しめる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:管弦楽のためのパルティータ,◎セル指揮クリーヴランド管弦楽団(sony)1959/1/21・CD,,この精度・スピード・テンションで、この高音質で録音されたということで、◎にせざるを得まい。乾いた感傷がセルの芸風に合う。パルティータと言いながら芸風はまるきり近現代の作曲家ウォルトンそのもので、折衷的な部分はあるが、極めて難度の高いアンサンブル、とくに符点音符同士の絡み合いであるとかそういったものが高速で現れる、そこを若干ヒステリックではありながらも立派にやりきっているオケには感動と同情を禁じ得ない。セルの苛烈な要求に応えたものであろう。二楽章が意外と聴きもので、ソロ楽器の妖しい絡み合いに胸ときめかせ、むせ返るような色彩の爆発に仰け反る。このスケール感は録音のせいだけではないだろう。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:管弦楽のためのパルティータ,○バルビローリ指揮バヴァリア放送管弦楽団(DA:CD-R)1970/4/10,,フランス語放送のエアチェックのようだが元は正規録音か。同時代音楽の要素を貪欲に己が作風に取り入れていったウォルトンであるが、この曲は冒頭トッカータからはっきりルーセルの舞踏要素が取り込まれていることがわかる。新古典的な題名からして似通った作風になるのは必然かもしれない。ルーセルのようなアクの強さがなく、50年代の作品らしい円熟味をみせており、チェロ協奏曲と共通する構造もみられる。2楽章パストラーレ・シシリアーナはヴァイオリン協奏曲などより過去の自分の作風に近い世界に回帰している。同曲内では晦渋な楽章だが円熟期後のウォルトンにしては聞きやすい。マーラーなどかつてのウィーンの作曲家の世界を仄かに思わせるところがベルクらとも交流のあったこの人の才気煥発な頃を思い起こさせる。プロコを想起する向きもあるかもしれないが、ウォルトンはプロコから甚大な影響を受けていてアメリカで直接的交流もあり、その関係性は一言では言えない。ブラスとハープによる空疎でも独特の冷え冷えした感傷を秘めたひびきがこの人の鋭敏な耳を証明している。3楽章ジーガ・ブルレスカはウォルトンの作品らしい〜ほぼ同時期のヨハネスブルグ祝典序曲を思わせる〜喜びに満ちた、しかしどこか暗くシニカルな調子も含む楽曲で、調性にルーセルを思わせる雰囲気もある。この後やや才気に陰りをみせ60年代以降には代表作と呼べる作品がなくなるのだが、パルティータは現代でもよく演奏される洒脱な大規模管弦楽作品としてウォルトン評価に欠くことのできないものである。,,バルビは同曲初演直後より取り組み演奏記録も数多い。この録音はバイエルンとの最晩年のもののわりにスピードがあり弛緩傾向がない。オケが鈍重でウォルトンの洒落たリズムを壊しているところも2楽章などに見られるが、おおむねバルビのドライヴィングの巧さが光る。3楽章ももっと飛び跳ねるような感じが欲しいがある程度は書法のせいでもあろう。リズムと楽想の洒脱なわりに音響が重い。そのへんもルーセル的ではあるのだが、バルビだから尚更気になるといえば気になる(もともとリズム系の指揮は巧いとは言えない人だ)。ゴージャスな響きはそれでも旋律とともに気を煽るに十分であり、胆汁気質の長々しい楽章を気品と下品の行き来する表現の切り替えの巧さで壮大に仕上げている。前半楽章のほうが締まっていていい感じもする。演奏自体は恐らくスタジオ録音なりの過不足ない出来である。ステレオで少し篭る感じもするがおおむね聞きやすい。一箇所放送撚れが残念。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ウォルトン:管弦楽のためのパルティータ,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(bbc)1969/8/8live・CD,,一楽章はややテンポがもたつく感があったが三楽章はそれを覆すテンポ感の良さ。バルビはしっとり感傷的で、乾いたウォルトンに向かないと思いきや、三楽章は軽快に、かつ完璧に演じきってブラボーの嵐を呼んでいる。録音がもう少しクリアならよかった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:管弦楽のためのパルティータ,○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(BS)1959/1/31live・CD,,協会盤。同曲含めDAで29、30日ライブというのが既出だが、このCDは30、31日のライブとなっており、アナウンスからして同じものと思われる。則ちこれはDAで30日とされていたものだろう。派手にブラスがぶっ放すタイプの曲にボストンは向いている。心なしか木管にせよ弦にせよ乗っている。この組み合わせでシンフォニー聞いてみたかったな。記録としてはこの客演期間にはヴァイオリン協奏曲も演奏したらしい。伴奏にも定評あったバルビローリ、どこか発掘してくれないだろうか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:管弦楽のためのパルティータ,○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1959/1/29live,,初演後まもない演奏でDAはエアチェックの音のみ。一部情報ではVAIの映像が同じものとされるが(ブラ2など30日のライヴとのカップリングという説)VAI盤には2月3日の表記と同日プログラム写真を含む詳細が記載されているので別としておく。ステレオでソリッドで高音域も比較的よく捉えられているがボストンライヴ記録の常、輪郭がちょっとボロけている。演奏はちょっとバルビのコントロールでは無理なくらい早くかなりのバラケ味が感じられる1楽章からあれ、と思わせる感じがある。ごちゃっとしてしまうのがウォルトンの複雑な書法だが、太鼓などのリズム要素強調とアーティキュレーションの強さで力づくで押し切る方法で乗り切っているのはいかにもバルビの50年代といったふうで好きな人は好きだろう。セルを意識しているのかもしれない。アメリカ的ともいえ、比較的軽く明るい感じがある。2楽章はシニカルで末流ロマン派の香りたっぷり。軽妙で妖しい調子はラフマニノフ晩年に似ていなくも無いが、バルビは引き締まった音響表現で魅せている。晩年とはまた違った若いドライヴ感が維持されている。この楽章ではソリストの表現の深さや独特さ含め、合奏協奏曲的な楽曲構成を繊細に、しかし芯の通った表現でまとめて秀逸である。旋律性がよく浮き彫りにされている。3楽章は一段と速く、そのスピードによってリズムを生み出そうとしているような感じがあるが、オケコントロールはさすが巧い。フレージング指示に弛緩がなく、スピードだけにならずリズムだけの舞踏音楽にもせず、アメリカ的な破天荒なペット以下ブラスの咆哮のおかしみ、また中低音域でうねる余りにシニカルな半音階的楽想がバルビの旋律的な音楽美学とあいまって重層的な深みをかもし、単なる表層的な喜遊曲ではないところを魅せて面白い。乱れなのか意図なのかというところもあり、この演奏ではなかなかに聞かせる楽章となっている。やや浅さもあるものの○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:管弦楽のためのパルティータ,○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1959/1/30live,,録音は極めて明瞭で抜けがよく迫力のあるものでダントツなのだが、媒体撚れや放送撚れもかなり目立ち、1楽章前半と3楽章の一部にみられる左右の位相バランスの崩れ、更に2楽章のホワイトノイズは(情報量が増えるぶんホワイトノイズが増えるのは仕方ないのだが)相当に聞きづらい。演奏自体も落ち着いてきており精緻と言えるレベルまでたっしているのでとても勿体無い。バルビの演奏は乱れがちなわけではなく昔のステレオ録音では捉えきれない細部への拘りが縦横に敷き詰められているために乱れて聞こえがちなのだ、という話もうなづける部分がある演奏ぶりで、ボストンの管楽ソリストや弦楽セクションの演奏レベルの高さのほうに耳がいってしまい全体がぼやけて聞こえてしまうほどである。3楽章はそのためにバイエルンとの晩年の録音に近い、テンポを煽るよりゴージャスに落ち着いて響かせるほうに神経がいっているのがよくわかる。そこが長々しくて飽きるゆえんでもあるのだが・・・これは作曲家のせいだろう。○。ボストン初演というナレーションが入るがこなれ具合からして30日のほうの録音であっていると思う。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:管弦楽のためのパルティータ,セル指揮ACO(orfeo)1958/8/8ザルツブルグ音楽祭live(モーツァルテウム)・CD,,この日の演目は当時の現代音楽、ウォルトンにアイネムに、プロコフィエフ五番というオケには高負荷の、しかしとりわけ中欧的なコンセルトヘボウ管との演奏として、モノラルではあるが精緻な音での貴重な記録となっている。ウォルトンの苛烈なスコアリングを前にさすがに軋みを生じる箇所もあるが(アメリカのオケのように軽快にサッサと飛ばしていくわけにもいかない楽器の性向もあるだろう)、セルらしくテンポやリズムの乱れは許さず、木管や弦楽ソロの、英国やアメリカでは得られないような燻し銀の響きが娯楽的楽曲になかなか内容的重厚さを加えて、3楽章では総力戦で迫力のウォルトン節をぶちかましてくる。ブラス陣のソロもこのあたりでは聞かせどころをわきまえ素晴らしい技巧と音色を見せつけ、絡む弦楽も非常にノリ良くなり力強く協奏的な音楽の楽しさを伝えてゆく。ウォルトンは即物的演奏に限ると思わせるスピード感も良い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:管弦楽のためのパルティータ,作曲家指揮ニュージーランド交響楽団(BRIDGE)1964作曲家の筆のすさびの典型のような曲で、ウォルトン好きはこのマニアックで効果的な管弦楽法にめくるめく快感をおぼえるかもしれないが、個人的にはあまり好きな方ではない。とても内声部がすっきり聞こえる演奏で(この曲にかぎらないが)スコアを観ながらだと楽しめるかも。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:喜劇序曲「スカピーノ」(1940/50),◎ストック指揮シカゴ交響楽団(HISTORY)1932?/4/14パリうわ、無茶かっこいいな。速いしシャープだし、こういう演奏じゃないと作曲家の諧謔性は浮き立ってこない。シカゴ交響楽団の技量に驚嘆。中間部で各声部が有機的に絡み合う場面など完璧に表現してなお艶めかしてポルタメントまで交えたりなんかしちゃったりして。弦楽器の水も切れるような鋭い演奏ぶりは胸がすく思いで、それらを牽引する非常に前進的なテンポもいい。また、リズム感のいい演奏家じゃないとウォルトンの演奏は勤まらない(晩年のウォルトン自身も自作自演がつとまらなかった)。その点シュトックは立派にお勤めしている。即物主義的に凝縮されつつも娯楽的な光彩を放ちつつ突き進む姿は同曲演奏の理想形だ。古い録音だが、そもそもウォルトンの演奏は同時代の古い演奏のほうが時代の空気を共有しているせいか強い意志とそれを煽る焦燥感があり曲にマッチしているように思う。晩年オーケストレーションを合理化して軽く響かせるように編曲したウォルトンであるが、私は鈍重でも激しく動こうとする葛藤が見られる古いオーケストレーションのほうが好きです。これ、おすすめです。20世紀の指揮者ボックスまだまだ異常に安いですし。演奏日がおかしい。作曲前に演奏?,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:喜劇序曲「スカピーノ」(1940/50),作曲家指揮LSO(LYRITA)1971ヒンデミットとウォルトンは作風に一定の共通点を感じる。無論前者全盛期の尖鋭なスタイルは後者円熟期のロマンティックなスタイルとは全く異なる視座にあったわけだが、ウォルトンのヴィオラ協奏曲初演以来、終生の友情を持った背景には、何か「時代」に対する皮肉めいた調子、音楽ゲイジュツに対する揶揄の感があるように思う。作曲技巧の点でひとつの高みに達していたこの二者が、一般庶民向けの作品を送り出すことに一つの意味を見出していたのは、同時代の流れとだけでは捉え切れない本質的な類似性を感じる。まあ難しいことを考えずに聞いてもなんとなく共通点を感じることもあるだろう。ミヨーもヒンデミットと似た音響感覚を持っていたように思うが、後者の凝縮・吟味された曲構造は前者の多分に感覚的なものとは掛け離れている。「キレの良い構築性」とでもいおうか、ウォルトンとヒンデミットは少し似ている。覚めている。「時代」に対して、さめている。ヒンデミットの主題による変奏曲など、ウォルトン以外の誰が思い付くだろうか?書こうと思うだけ凄い。しかもこれが後年のウォルトンには珍しいキレの良い大曲だったりする。ヒンデミットの晦渋な作品への揶揄ともとれるほど、明快だ。後年のウォルトンはさっさと南の暖かい島に隠居?して、「作曲技巧の披露」とそれに対するそれなりの「対価」を得るという”売音商売”に割り切った感もあるが、その楽天的ともいえる態度にはヒンデミットの密度が濃く深刻な作風とは異なる、肩の力の抜けた、すっきりした美質を備える作風が宿った。かつての作品のぶあつい管弦楽を、薄くアクを抜くように改訂していったことにもその心境の変化が伺える。二曲の戴冠式行進曲、ヨハネスバーグ祝典序曲という吹奏楽でもお馴染みの超名曲(威風堂々のパクリだあ?曲をちゃんと聞き給え!)はそのエッセンスが詰まった曲だ。そこに加えてここで挙げるのは「ティル・オイレンシュピーゲル」を彷彿とさせる下敷に基づく「スカピーノ」(改訂版)である。ひとことで言って”新しいリヒャルト”、といった雰囲気の曲。冷鋭なウォルトンのイメージより少し離れた、ややドイツ的な体温の高い抒情がある。さらに、最初にヒンデミットとの共通点を挙げたのは、同曲が戦時下でフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルにより演奏された*、ということを書きたかったからである。勿論録音は残っていないが、有名なヒンデミット事件も想起する現代(しかも敵国の)曲の採用にフルトヴェングラーの音楽にたいする公平な態度も伺える。もちろん「マチス」とは比較にならない「純娯楽的作品」であり、ここに凝縮されたじつに美しい響きや憧れに満ちた旋律の数々、簡潔で目覚ましいオーケストレイション、アメリカ的な突き抜けたリズム感覚は全く最高のストレス解消剤だ。それどころかこの凝縮された小曲、ウォルトンの代表作といっても過言ではないだろう。映画音楽以上に映画音楽的(スカピーノという劇は作られていない。序曲だけ)。EMIの自演盤には実に優美な歌が溢れ(やはりフィルハーモニアの弦楽器の音におおいに魅了される)、ウォルトンの水際立った指揮ぶりにも胸がすく思いだ。スピード感に満ち駆け抜けるこの演奏に対して後年のロンドン交響楽団との演奏は精彩に欠け只ソロ楽器の音の透明さに惹かれるのみ。モノラルだろうが何であろうが、EMI盤のドライヴ感には是非接してみて頂きたい。いや新しい演奏もあるので、スラットキンあたりで聞いて頂いてもよい。ウォルトンを知っていてこれを聞かないのは、どう考えても損だ。*(後記)この曲がフルトヴェングラーに初演されたというのは疑わしい。シカゴ交響楽団50周年委属作ですし。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:喜劇序曲「スカピーノ」(1940/50),作曲家指揮フィルハーモニア管(EMI)1952 LYRITA盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:弦楽四重奏曲,◯ハリウッド四重奏団(capitol)1949/11/2、3・SP,,一般に聴かれる録音はウォルトンの指示で採り直されたものとはよく知られている。これはウォルトンを怒らせた初録音という。最近ネットで公開されているものである。さらさら流れるように達者な演奏が進むさまはTESTAMENT復刻盤と大した違いは感じないのだが、スケルツォの繰り返しをしつこいとみなして奏者が勝手に削ったのが逆鱗に触れたらしい。だが、再録音により地球の裏のウォルトンはえらく気に入り、この曲はハリウッド四重奏団にしかやらせないようなことを言っていたそうだから気まぐれだが、まあ、いずれここまで、集中して取り組んだ演奏もなかろうし、奏者のレベルからしてもこれ以上ない。音のキレの凄さと言ったらない。二度目よりもスピードが早くテンションも高く感じるのは印象に過ぎないか。◎にしたい◯。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:弦楽四重奏曲,○イギリス四重奏団(Meridian)CD,,録音は最近ありがちな「丸く磨かれすぎた音」にホール残響的なものが加わっているもので好き嫌いあると思う(私は生音を余り残響なしで聴きたい派)。演奏はやや大人しめである。といっても技術的な限界が見えるとかいったことはなく、3楽章までは他盤と大差ないカタルシスが得られるのだが、4楽章がいけない。余りに落ち着いているのである。ウォルトン本人が好んだハリウッド四重奏団の録音のような、エッジの立った鋭い音で躁状態で突っ走る爽快感がなく、3楽章までと同じような調子で「4楽章」として終わらせている。ハリウッド四重奏団もやり過ぎだと思うが、もうちょっと本気、見せてほしかった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:弦楽四重奏曲,○ハリウッド四重奏団(CAPITOL/TESTAMENT)1949/11/2,3,1950/8/22・CD作曲家お墨付きの録音として知られるものだ。ライナーによると演奏家たちは文通でウォルトンのアドバイスを受け、49、50年に録音を行った。なぜ二年にわたったかというと、49年(作曲から僅か二年後)のテープを作曲家が蹴ったからだ。「ウォルトンのプレスト」、激烈な速度の2楽章の「繰り返し」を彼等が勝手にカットしたからで、さすが胆汁気質のウォルトンは、これにはそれだけの長さが必要だと言い張って、再録音を強いたらしい(カット版もSP発売されておりネットで聴ける、別項参照)。但し1年後再録音が届いたときウォルトンはとても満足していたそうである。私などが聴くにつけ、もう少し柔らかいニュアンスや音色への繊細な配慮、そして落ち着いたスピードが、とくに緩徐楽章(これは極めて透明で美しい、名作である)に必要な気がしなくもないのだが、作曲家が満足したのだからそれでいいのだろう。そういえば自作自演の交響曲第1番(弦楽四重奏曲と構成上も楽想上も近似している)もさっさと進む解釈で、かなり即物的だった。この四重奏曲では1楽章がそうだが、ウォルトンの曲は時折繰り言を言うように粘りに粘って長くなるところがある。なるほどスピードを早めれば演奏時間も短縮されるわけで、これはそもそもそういうふうに猛スピードで演奏すべく作られていると言っていいのかもしれない。内省的な1楽章、せわしなく焦燥感に満ちているが旋律性も失われていないウォルトンらしいプレスト2楽章、透明な抒情の中に「ボレロ」などのエコーを散りばめた(リズムが不規則で聴くよりけっこう難しい)諦念すら感じさせる3楽章、そして異常な緊張感のある終楽章。ウォルトンは「飛ばし」の刻みをよく使うが、2、4楽章、とくに4楽章の異常な飛ばし刻みの応酬は若干世俗的で楽天的な旋律(メランコリックでイイ旋律がいくつも投入されてます。コード進行もじつに洒落てるし、かっこいい!)をモザイク状に組み立てていくさまが壮絶だ。もっとももっとマトモな演奏(失礼)で聞けば壮絶とまではいかないのだが、この演奏の異常な速さと信じられない曲芸的なアンサンブルにはただただ唖然とさせられる。自分で弾こうとはとても思わなくなるだろう。激烈なフィナーレ、傾聴!さて、ウォルトンはこの団体を気に入ったわけだが、とくにヴィオリストには自分のヴィオラ協奏曲を弾いて欲しいと間接的に伝えるほどだったそうである(結局実現しなかったのだが)。1953年9月にレセプションのハイライトとして、作曲家臨席の場でハリウッド四重奏団によるこの曲の実演があった。作曲家はその後日スラトキン家に招かれたとき、「もう二度と他の誰も私のカルテットを録音しないでくれることを願う。君たちは私が何を望んでいるか、いかに的確につかんでいたことか。私たちはそのころまだ6000マイルも離れていたというのに」と語ったそうである。皮肉屋のウォルトンにここまでストレートに賞賛されるとは、なかなかすばらしいではないか。さて、ハリウッド四重奏団は指揮者スラトキンの両親、フェリックス・スラトキン夫婦を核としたアメリカの弦楽四重奏団で、並ならぬ集中力と緊密で凝縮された火の出るようなアンサンブルで知られている。張った弓を思い切り弦に押し付けるような奏法のせいだろう、力強いものの音色が単調で若干押し付けがましく、窮屈に感じなくもないが(復刻録音の音場が狭いせいもある)、即物主義的なストレートな演奏はトスカニーニなどが活躍した時代の空気を伝えるものとして貴重である。とくに現代曲においてはその類希に高度な技術を駆使して演奏不能すら演奏可能としてしまう力がある。残念ながらメンバーの活躍期間は決して長いものではなく(まあカルテットはえてして短命なものだが)、50年代にヴィオリストは演奏活動をやめ、フェリックスはライナーのもとで指揮活動に専念するようになったが(このころのレコードが残っている)、50になる前に亡くなってしまった。ちなみにウォルトンの弦楽四重奏曲というと普通この曲をさすが、ごく若い頃に無調的な弦楽四重奏曲を書いており(CHANDOSに録音あり)、そのため第2番と呼ばれることがある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ウォルトン:弦楽四重奏曲イ短調,○ガブリエリ四重奏団(chandos)CD,,ハリウッド四重奏団が作曲家の理想とすればいささかゆったりし過ぎて残響も多く締まらないように聴こえるかもしれない。しかしもともと尖鋭な作曲家であったウォルトンの硬質な響が随所に挿入されたこの曲は、丁寧にしっかりそれをわかるように聴かせる必要がある(これはラヴェルと同じ)。残響の多さはそれを強調するものとなっている。ウォルトンは「響きの作曲家」でもあり、平易な流れを彩るそれらこそがウォルトンを人気作家たらしめた個性なのだ。この楽団は技術的な不足はないもののパワー不足を感じるが、中庸なスタイルである以上に、この曲を丁寧に再現するほうに注力したのだろう。良いステレオであり、同曲の入門にむしろふさわしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:交響曲第1番,○カラヤン指揮ローマRAI交響楽団(EMI)1953/12/5live・CD,,特に一楽章に顕著なカットが聴かれ、他にも改変らしきものがあらわれておりカラヤンには珍しい作曲家気質が発露している。確かフランツ・シュミットに作曲を学んでいたはずで、ウォルトンの複雑なのに各声部が貧弱な独特の書法に納得がいかなかったのか(ベルシャザールは絶賛したがあれはリヒャルト的側面があるからわかる)、レッグの手引きで行われたらしいこの演奏会以降作曲家との関係が悪化したようである。録音がかなり悪くオケの技巧うんぬん以前の問題もあるし、万人に奨められるものではない。ただ力強い表現、感情的なうねりは錬度は後年より劣るがゆえに迫真味があって、このオケにしては分厚い響きに圧倒される。中間楽章が改変もなく充実しているが、四楽章の力の入りかたが個人的にはとても好き。技術面の瑕疵が多過ぎてカラヤンの黒歴史と言える記録ではあるが、なかなかカッコイイ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:交響曲第1番,○コリン・デイヴィス指揮LSO(LSO)CD,,この曲はスコアリングに問題があるといわれ、細かい仕掛けをきっちり組み立てていこうとすると妙にがっしりしすぎてしまったり・・・曲自体はシベリウスよりも軽いくらいなのに・・・リズムが重くなってしまったり、だいたい過去の録音はそのようなものが多い。新しい自作自演ライブや、たとえばスラットキンの有名な録音などは逆に明るい色調が浅はかな曲であるかのような印象を与えてしまっている、これは恐らくスコアを綺麗に整理しようとする意思が過剰になってしまったのか、単にオケのせいなのか・・・コリン・デイヴィスの演奏はそれらに比べ非常にバランスがよい。決して重過ぎず、明るすぎもしない。一つにはオケの力量があると思う。ヴァイオリンの細かいポルタメントがその気合を裏付けているとおり、演奏に一切の弛緩がなく、技術も十分であるからそれが音になって現れている、更にプラスして音響に適度の重さが加えられ整えられている。ファーストチョイスには素晴らしく向いているし、逆にこれだけでいいという向きもあっていいだろう。3楽章のような冷えた響きの緩徐楽章に旋律のぬくもりを加えて独特の感傷をかもすところ、これはコリン・デイヴィスの得意とする世界だろうか。かなりの満足度。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:交響曲第1番,○ノリントン指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(dirigent:CD-R)2007/10/26live,,細かい揺らしのない四角四面のテンポでありながら精密な響きとアタックの強さでそうと感じさせない盛り上がりを作っている。原曲の魅力をしっかり引き出せている、と言ったほうがいいか。諸所不満足な部分はあるし例のノンヴィヴの導入などそこでそれは必要なのか、というような「改変」はあるが、まるでシェルヒェンのような独特の域を示すものとして楽しむことは可能。唯一、最終音を切らず引き延ばしたのはいかがなものか。拍手も戸惑うというものだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:交響曲第1番,○ハーティ指揮LSO(decca他)1935/12/9-10・SP,,DUTTON復刻盤と同一だが、web配信されている(ノイジーだが)音源についているデータが微妙に異なるので、別に挙げておく。リンクは書かないが明るく抜けのいい復刻音源なので探して、初演者ハーティの真価を見てください。くぐもった骨董音源のイメージがあったのだが、トスカニーニ的な即物性が勢いを生み、リズム感がとにかくいい。もちろん現代のレベルとは違うのだが、何かしら生々しく、胆汁気質の楽曲がまんまダイレクトに耳をつき、とくに初演に間に合わず後日改めてハーティが全曲振り直したという終楽章のけたたましさ、最後の息切れするような和音と同時にこちらも息切れ。いやノイズキャンセルしない(高音域を切らない)というのは鼓膜負担が激しいので、実際疲れるは疲れるのだが、改訂を重ねられる前の凄まじさというか、管弦楽の迫力が感じられる点は嬉しい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:交響曲第1番,○ビシュコフ指揮ケルン放送交響楽団(動画配信)17th October 2009,,ビシュコフのウォルトン交響曲第1番を観ながら通勤した。なんちゅう統率力!といってもほとんどメロディしかないトゥッティな曲なのですか、聞き取れないような装飾的な動きが多い。それが全部クリアされている。ブラヴォも飛びますよ。不評とされてたのがわからん。サインもらった現役唯一の指揮者。,,"https://youtu.be/0kVgNCZEARU",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ウォルトン:交響曲第1番,◎プレヴィン指揮LSO(RCA)1966/8/26,27ロンドン、キングスウェイホール・CD,,作曲家墨付きの凄演だ。力ずくで捻じ伏せるように、腕利きのLSOをぎりぎりと締め上げて爆発的な推進力をもって聴かせていく。部分においてはサージェント盤はすぐれているが全体においてはこちらが好きだ、と作曲家が評しているのもわかる、部分部分よりも大づかみにぐいっと流れを作り進めて行くさまが清清しい。とくに叩きつけるような怒りを速いスピードにのせた1楽章が素晴らしい。しかし部分よりも全体、というそのままであろう、これだけあればいいというたぐいの盤ではないが、これだけは揃えておきたい盤である。クラシックの音楽家としてはまだ駆け出しだったはずのプレヴィンが一切の妥協なく集中力を注いだ結果がこのまとまり。まとまらない曲で有名なこの曲がここまでまとまっている。ベストセラーさもありなん、この非凡さはまだその名を知らなかった作曲家の心をとらえのちに交流を深めたようである。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ウォルトン:交響曲第1番,○プレヴィン指揮ロイヤル・フィル(TELARC)CD,,イギリス20世紀産交響曲で1,2を争う名作とされるが、プロコフィエフ的に分断され続けるシニカルな旋律にシベリウス的なキャッチーな響き、壮麗で拡散的なオーケストレーション(弦のパートが物凄く細かく別れたりアンサンブル向きではない華麗だが細かい技巧的フレーズが多用されたり)が、粘着気質のしつこく打ち寄せる波頭に煌くさまはちょっとあざとく感じるし、最終音のしつこい繰り返しも含め、長々しくもある。改訂で単純化というか響きを軽く聴きやすくされたりしているようだが、演奏スタイルも両極端で、ひたすら虚勢を張るような音楽を壮大にしつこく描き続け(て飽きさせる)パターンと、凝縮的かつスマートにまとめて聞きやすくさっと流す(ので印象に残らない)パターンがある。,,そもそもライヴ感があるかどうかで印象が大きく違う。ロシアの大交響曲のように、ライヴでは力感と緊張感でしつこさを感じさせない曲なのである。ただ言えるのはよほど腕におぼえのあるオケに技術を持った指揮者でないと聴いてられない曲になってしまう恐れが高いことである。,,プレヴィンの新録は日本では長らく手に入る唯一の音盤として知られてきた。RVWの全集など英国近代交響曲録音にやっきになっていたころの延長上で、RVWのそれ同様無難というか「整えた感じ」が「素の曲」の魅力の有無を浮き彫りにし、結果名曲とは言いがたいが演奏によっては素晴らしく化けるたぐいの曲では、図らずも「化けない」方向にまとまってしまう。旧録のLSOに比べロイヤル・フィルというあらゆる意味で透明なオケを使ったせいもあろうが、凝縮というより萎縮してしまったかのように表現に意思が感じられず、プレヴィンの技のままにスピーディかつコンパクトにまとめられてしまっている(この稀有壮大な曲でそれができるプレヴィンも凄いとは思うが)。ライヴ感が皆無なのだ。ステレオ録音の音場も心なしか狭いため、50年代押せ押せスタイルならまだしも、客観的スタイルでは入り込めない。,,4楽章コーダの叩き付けるように偉大な楽曲表現にいたってやっと圧倒される思いだが、1楽章冒頭から長い序奏(構造的には提示部?)の間の次第に高揚し、主題再現で大暴れするさまがもっと演出されないと、両端のアーチ構造的な「爆発」が「蛇頭龍尾」という形に歪められてしまう。スケルツォと緩徐楽章はこのさいどうでもいいのだ。形式主義の産物にすぎない。いずれ後期プロコフィエフの影響は否定できないこの曲で、絶対的に違う点としての「無駄の多さ」が逆に魅力でもあるわけで、無駄があるからこそ生きてくるのが壮大なクライマックス。無駄を落としすぎているのかもしれない。,,かなり前、これしか聴けなかった頃はよく聴いたものだが、録音のよさはあるとはいえ、もっと気合の入った、もっと演奏者が懸命に弾きまくる演奏でないと、複雑なスコアの行間に篭められた(はずの)真価が出てこないように思う。入門版としては適切かもしれないので○にはしておく。カップリングの有名な戴冠式行進曲2曲のほうは非常におすすめである。ひょっとして録音が引きになりすぎているのかな。プレヴィンはモーツァルト向きの指揮者になってしまったのだなあ、と思わせる演奏でもある。だからこそ、1966年8月録音のLSO旧盤のほうが再発売され続けるのだろう。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング"
ウォルトン:交響曲第1番,○マッケラス指揮LPO(EMI)CD,,フォルムのしっかりした演奏でよくスコアを分析してやっていることが伺える。フォルムがしっかりしたといってもホーレンシュタインのような太筆書きの演奏ということではなく細かく統制された演奏という意味で、オケもよく訓練されている。ただ、今一つはっきり訴えてくるものがない。迫力という意味で1楽章は物足りなかった。2楽章は聞き物。丁々発止のやり取りを楽しむというよりはシンフォニーのスケルツォ楽章としてやりたいことが伝わってくる演奏。4楽章は迫力があり、やや莫大な部分もあったそれまでの演奏のマイナス面を補うくらい力強い。録音の良さも手伝って、スラットキンよりも重量感があるがスラットキン的な細部まで透明で明瞭な彫刻がこの曲の本来の姿を浮き彫りにする。それゆえに曲の「弱さ」みたいなところも現れるのだがそれはそれで本質なので問題ないだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:交響曲第1番(1932-35),○サージェント指揮ニュー・フィル(EMI)作曲家臨席のうえで録音された盤である。作曲家はサージェントに賛辞の手紙を送っている。だがこれは自作自演と比べてまったく異なる演奏である。弦など異様に細かく分けられた各パートすべて、細部までテンポ通りきちんと揃えて聞かせるやり方はちょっと新鮮だが(ここまで内声部まで揃ってちゃんと弾いている演奏も他にないのではないか)、音をひとつひとつ確かめるように進んでいくがためにスピード感がなくなり、結果かなりゆっくりしたテンポになってしまっている。ひょっとするとウォルトンが晩年に指揮していたらこういう演奏になったのかもしれない、と、リリタの自作自演アルバムを思い起こしながら思った。構造的な部分に興味のある方には非常に貴重な資料であろうが、長い曲だから飽きてくる。一音一音の発音は太くハッキリしていて男らしい足取りをもった演奏になっており、伊達男サージェントのスマートなイメージをちょっと覆すようなところもあって面白いが、3楽章あたりの情緒はもう少し柔らかく表現してほしくなる。目先を変えるという意味では興味深い演奏である、○ひとつつけておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:交響曲第1番(1932-35),○スラットキン指揮セントルイス交響楽団(RCA)オケがややばらけるところもあるが、熱演であり、尚且つすっきりとした透明感に彩られている佳演。明瞭な色彩もこの曲の美質を良くとらえている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:交響曲第1番(1932-35),○ハミルトン・ハーティ指揮LSO(DUTTON/DECCA)1935/12/10-11恐らく初録音だろう。中仲の秀演だが音が悪い。オケのノリがすこぶる良い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:交響曲第1番(1932-35),◎ボールト指揮フィルハーモニック・プロムナード管(ロンドン・フィル)(NIXA/PYEほか)モノラルBBCのクリアさも良いが、愛着あるのは古いスタジオ盤だ。LPでもレーベルによって音が違い、CDでも多分そうなのだろうけど(LPしか持ってません)、フルートを始めとする木管ソロ楽器の巧さ、音色の懐かしさ、ボールトの直截でも熱く鋭くはっきりと迫る音作り(1楽章、終楽章など複雑な管弦楽構造をビシッと仕切って、全ての音をはっきり聞かせてしまうのには脱帽・・・ここまで各細分パートしっかり弾かせて、堅固なリズムの上に整え、中低音からバランス良く(良すぎてあまりに”ドイツ的”に)響かせている演奏はそう無い)はどの盤でも聞き取れる。揺れないテンポや感情の起伏を見せない(無感情ではない。全て「怒っている」!)オケに、野暮も感じられるものの、表現主義的なまでの強烈なリズム表現は曲にマッチしている。50年代ボールトの金属質な棒と、曲の性向がしっかり噛み合った良い演奏。もっとも、ウォルトンの曲に重厚な音響、淡い色彩感というのは、違和感がなくはない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:交響曲第1番(1932-35),○ホーレンシュタイン指揮ロイヤル・フィル(INTA GLIO)1971LIVE・CDこの曲の演奏を語るときには必ず口辺にのぼる録音である。またホーレンシュタインのぎくしゃくした音楽か、と思うなかれ。この人の演奏としては稀に見る名演である。ぴりぴりと張り詰めるような演奏ぶりは意外なほど外していない。テンションはこの決して短くはない曲の最初から最後まで持続する。とくに弦楽器の凄まじい気合に感動する。すべての音符にアクセントが付き、しょっちゅう弦が軋む音がする。音の整えかたは重低音のドイツ風でホーレンシュタインらしい重厚なものだ。テンポは速くないが決してそれを感じさせない空気がある。ライヴでこの完成度はホーレンシュタインにしては珍しいと言っていいだろう。聴きどころは2楽章以外、と言っておこうか。2楽章は個人的には俊敏で飛び跳ねるようにやって欲しいところ。でもこれで良しとする人も少なくないだろう。苛烈なティンパニ、大きく吹き放つようなブラスのひびき、これはニールセンともシベリウスとも違うドラマティックな音楽だ。この曲の演奏史に独特の位置を占める名演と言っておこう。残念ながら録音がよくない。古いテープ録音のようでときどき音像が不安定になる。そのため○にとどめておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:交響曲第1番(1932-35),◎作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)CDこの自演集が手に入らなければプレヴィンでもスラットキンでもいいので聞いてください。シベリウスの子、ネオ・ロマンティック交響曲の双璧(もう一壁はハンソンの「ロマンティック」)・・・←勝手に決めてますが。同時代の音ということで、ここでは古い演奏を推します。でっかい波が延々と寄せては返すような1楽章の盛り上がり、氷のように透明な諦感と葛藤する気持ちが蒼く燃える3楽章。ささくれ立った中にも希望の光に溢れた終楽章。最後の空虚な連打音。うーんイイッス。但し・・・ウォルトンの有名曲はみんなこんな感じだったりする・・・音さえ良ければ抜群の名演として推せるのだが。このテの曲はモノラルで音が悪いと評価が半減する(といいつつここではボールト旧盤も推薦してしまっているが)。ウォルトンは自演指揮者としても一流だ。ダイナミックな起伏に浸りきる。オケの響きも凝縮されしかも激しく素晴らしい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:交響曲第1番(1932-35),ギブソン指揮スコティッシュ・ナショナル管(CHANDOS)1983オケが弱く、ギブソンの発音もややアクが強すぎる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:交響曲第1番(1932-35),グーセンス指揮,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:交響曲第1番(1932-35),ブライデン・トムソン指揮LPO(CHANDOS)やや莫大にやりすぎているか。ウォルトンの胆汁質が間延びしてしまったように聞こえた。この人の演奏の特徴は、大掛かりだが透明で感情をあらわにしないところだろうか。この曲では違和感を感じた。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:交響曲第1番(1932-35),プレヴィン指揮,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:交響曲第1番(1932-35),ボールト指揮BBC交響楽団(BBC)1975/12/3LIVEボールトならLPO盤を薦める。決して悪い演奏ではないが、BBCsoの音は如何にも硬い。客観が勝りボールトの即物的な面が引きずり出されているようで、風の通るようなオケの音が適度にロマンティックな解釈とつりあっていないようにも思う。ライヴならではの堅さ、というのもあるかもしれない。ノりきれなかったライヴというのはえてして崩壊した奇演になるか、解釈のぎくしゃくとした機械的再現に終わる。後者のパターンだろう。とはいえ、ステレオの比較的良い音で、技巧も決してまずくはなく(うまくもない)、初めて聞いたときはそれなりに楽しめた覚えはある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:交響曲第1番(1932-35),作曲家指揮ニュージーランド交響楽団(BRIDGE)1964LIVE・CDこのレーベル未だあったんだ・・・。驚かされたニュージーランド・ライヴ集二枚組。ニュージーランドはイギリス連邦の国だからこれはお国モノと言うべきなのか、ゴッド・セイヴ・ザ・クィーンから始まるこの録音。オケはあまりふるわないように聞こえる。これは管弦の録音バランスが悪いことに加え残響が煩わしい擬似ステレオで、音楽の座りが悪く、技術的には決して悪くないとは思うのだが、アンサンブル下手に聞こえてしまうのだ。ウォルトンの指揮ぶりは比較的ゆるやかなテンポを維持する即物的スタイルと言うべきもので、完成度は他演に譲るが、内声部の主としてリズムパートが明確に磨き上げられているところなど作曲家のこの曲への見解を示していて面白い(録音のせいかもしれないが)。弦が弱いのでブラスばかりが吠えまくるハッタリ演奏に聞こえなくもないけれども、凄く悪いというわけでもないので、機会があれば聴いてみてもいいかもしれない。他ヴァイオリン協奏曲等。無印。(2004/3記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:交響曲第1番(1932-35),作曲家指揮ロイヤル・フィル(BBC)1959LIVE・CDウォルトンの交響曲第1番は難曲である。管楽器はすべからく酷使されるし、弦楽パートは何部にも別れて演奏する場面もあり辛い。アンサンブルを保つのが大変だ。付点音符のついた独特の音型が充溢しているが、これなども難しいところがあると思う。ロイヤル・フィルは決して弦楽の弱いオケではないと思うが、一楽章アレグロなどを聞くと、ファーストヴァイオリンがコンマスが突出した薄い響きになってしまっていたり(音色は非常に綺麗なのだが)、低音弦楽器が何をやっているのか、蠢きしかつたわってこなかったりしている。無論録音のせいもある。但し作曲家の指揮にしては非常に巧いと思う。二楽章プレストなど音楽の描き分けがはっきりとしていてすばらしい。余りルバートせずインテンポで突き進むところなども翻って格好良かったりする。EMI盤のほうが良くできているが、この盤も聞いて損は無いだろう。併録の「ベルシャザールの祭典」はかなりの名演で、拍手も熱狂的だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:交響曲第2番,◯マッケラス指揮LSO(EMI)CD,,冷徹に感じた。感情なくオーケストラという楽器をフル回転させてただ壮麗に響かせている。録音が良すぎるのかもしれない。曲に問題があるのかもしれない。しかしほんとに、惹かれなかった。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:交響曲第2番,○クリップス指揮NYP(vibrato/DA:CD-R)1964/10live,,例によって録音拠れが激しくクリアなステレオなのに不安定なところが多々、とくに1楽章の瞬断頻発などちょっと鑑賞のレベルを超えているが、2楽章以降は普通に聞けるし、俊敏でリズミカルな演奏ぶりはこの両者の能力をよく示しているといえるので○。あ、曲ですか、曲についてはウォルトン晩年の技術を示したもので内容はありません。刹那のアンサンブルの饗宴を楽しむ曲で、旋律もへったくれもない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:交響曲第2番(1959),○セル指揮クリーヴランド管(sony)1961〜全編焦燥感に満ち唖然とするほど精妙な管弦楽法に彩られているが、過去のスカピーノのような曲で使われていた「つなぎ」の部分を寄せ集め、交響曲第一番かチェロ協奏曲ふうの暗い雰囲気の中にがちっと組み合わせて作ったような感じで、正直楽想の貧困さは否定できない。ヒンデミットのようなアクの強さがあれば律動だけでも曲は作れるが、両端楽章は彼自身の祝典音楽を彷彿とさせながらも旋律自体に魅力が薄く、「映画音楽」としては万全な伴奏となりうるだろうが、純管弦楽としては今一つだ。中間の緩徐楽章が数十年前にはやったようなロマンティックな音なのも意外だし気になる。3楽章制。余りに流麗な筆致を持て余して作ったような・・・これほど複雑精巧なスコアはセル・クリーヴランドくらいの技術がないと再現無理である。逆に、こういう演奏で入らないとこの曲には馴染めまい。音響構造物の複雑な響きにただ溺れよう。演奏的にも非常に集中力が高い。録音もまあまあである。長らく店頭より消えていたが国内盤で復刻嬉しい限りである。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:十二使徒-W.H.オーデンの詩によるアンセム,作曲家指揮LPO、ドーダール他(bbc)1966/1/2live・CD,,合唱曲も定評あるウォルトンだが、このような「珍曲」はさすがにどこが聴きどころだとか言いづらい。もっと言えば録音も実演も無いので比較対象がないから、ウォルトンの職人的な書法が駆使され、一方でマンネリ化した響きやフレーズの癖はそれほど目立たず、その点では面白く聴ける、演奏は無難、という定型文で許してください。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:戴冠式行進曲「王冠」,○プレヴィン指揮ロイヤル・フィル(TELARC)CD,,エルガーの跡を継ぐ名行進曲としてブラスバンドでも頻繁に取り上げられる、非常に演奏効果の高い曲だが、ここでもカップリングの交響曲第1番と比べて比較にならない迫力ある表現がとられており(「ロイヤル・フィル」ですからね)感情的効果の高いものになっている。弛緩もせっかちさもなく、これでしかありえない、という気高くも浮き立つ気分が素晴らしい。かといって他にもこのくらいの演奏はあるので最高評価にはしないが、引いたような交響曲の演奏スタイルとのギャップがあった。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,
ウォルトン:戴冠式行進曲「王冠」,◎ボールト指揮BBC交響楽団、メイソン(ORG)(VAI)1937/4/16・CD,,初演者による覇気溢れる演奏。現代のウォルトンの清新なイメージとは違い、行進曲の伝統・・・特にエルガーの流儀・・・をしっかり踏んだ非常に格調高い演奏だ。ニキシュを彷彿とさせる(といっても私には伝ニキシュ指揮のロシアの行進曲「ドゥビーヌシュカ」のイメージしかないが、そのスタイルはかなり似ている)前進力に胸がすく。重量感ある響きがドイツ後期ロマン派的な音楽を形づくっているが、ウォルトンの明るい作品にきかれるからっとアメリカ的に透明感ある響きを好む人には薦められないかというと、けしてそんなことはない。ジョージ六世戴冠式のために作曲されたこの曲は、一度聴けばはっきりわかるが「威風堂々第1番」を踏まえてそれにのっとったような作品であり、このような流儀も十分受け容れる素養はあるのだ。聴けばそのちょっと聴きの古さに躊躇するかもしれないが、技術を超えた表現の力が、そしてボールトの確かな棒の紡ぎ出す国王戴冠式のための勇壮な音楽が、現在でも愛好される素晴らしい旋律をそのまま旋律の魅力で聴かせるのではなく、総体として充実した響きをもって、圧倒的な迫力で向かってくる。いや、向かってくるというのは適切な表現ではないかもしれない。喜びに満ちた大団円の行進といった感じだ。大団円とはいえ莫大にはけしてならない。ボールトはそういう指揮者ではなかった、最後まで。締まった解釈はオケの技術を越えてしっかりしたフォルムの音楽を作り出す。それが個性的か個性的でないかは関係ない。大体個性とはどんなものなのか、一つの尺度だけで測り出せるものではあるまい。ボールト晩年の不遇?の原因はスター性がなくなったことだけだ、私はそう思っている。なぜって、この録音のなされた時代には少なくとも確実に、スターだったのだ。同時代の作曲家の作品をこのニキシュの弟子は初演しまくっている。感情的な録音記録もなくはない。ボールトのキャリアは早すぎて、長かった。しかし長かったけれども手抜きは一つとてない。これぞプロフェッショナル、である。ちなみにこのスコアは現行版とはかなり違っている。第一主題の展開部に比較的長いフレーズの挿入(もしくは現代は削られている原形部分)が聴かれる。オーケストレーションも重心が低めに聞こえるので詳細検討はしていないが違っている可能性は高い。上記「ドイツ的」という感想はそのせいもあるだろう。いずれにせよこの演奏は現行版の威風堂々的なあっさりした構成の作品としてではなく、一つの交響曲の終楽章を聴いているかのように充実したものとして聴ける。録音の悪さなどどうでもいい。自身も優れた指揮者であったエルガーが認めた指揮者なだけに、ちょっと前のエルガー指揮の録音に聴かれるスタイルにも似た力強い演奏。◎しかありえない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:戴冠式行進曲「王冠」,バルビローリ指揮王立軍楽学校のトランペッター&バンド(BBC/IMG)1969/11/19LIVEバルビにウォルトンの録音があるとは!と驚かされた盤だ。演奏はといえば正直溜めすぎ揺らしすぎ(とくに緩徐的な第二主題)。行進曲なんだからケレン味を持ち込むのはよくない。大変に開放的で派手な演奏となっており、最晩年のバルビにしては生命力に溢れているが(まあライヴということもあるのだが)持ち込み方が間違っている。曲が悪いか。威風堂々第1番のパクリ的楽曲でありながらも決してエルガー的ではないこの曲、バルビも威風堂々では素晴らしいがここではやや落ちるか。まあ、一期一会の演奏をどうこう言うのも無粋だろう。最後ブラヴォーが叫ばれる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ウォルトン:戴冠式行進曲「王冠」,ボールト指揮LPO(EMI/warner)1977・CD,,晩年の録音で(ボールトは晩年でも余り変わらなかったが)、またこの時代のイギリスのセッション録音にもよく聞かれた、落ち着き整えられた記録ではあるが、しっかり繰り返しをやったり現行版と異なる、より多彩な印象を与える版をもちいており耳を惹くし、クライマックスではテンポルバートもする。弱音は新しい録音ならではの精緻な響きで、過去の録音と大きく違うメリットとなっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:戴冠式行進曲「王冠」,ボールト指揮LPO(EMI/warner他)1937・CD,,威厳があるばかりかきらびやかで壮麗で、覇気溢れるボールト壮年期の名演と言っていいだろう。スピードがあり中間部の行進ですら前のめりではあるが、きっぱりとしたリズムのキレも、感情的な表現も特筆すべき点で、これが本当のボールトだったのだ、と思い返させる。録音時代のトスカニーニは全盛期の魅力の半分も伝えきれていないという説があるが、ボールトにおいてもそれはおそらく、その通りだったのだろう。ハリウッド映画音楽みたいな曲、いやむしろ逆にこれがハリウッド映画音楽の源流のひとつに違いないのだけれど、まさにそのハリウッド映画音楽的な娯楽性をもかんじさせる。吹奏楽ではおなじみ、オリンピックでも必ず演奏される。もっとも細部は甘く縦も緩い。それを若々しさと捉えるか、まだまだと捉えるか。私には魅力的な録音だった。初稿による演奏で、すっきりした現行版よりも私は楽しめる。ビダルフで復刻されていたがwarnerがEMI音源を一気にまとめてボックス化した中に収録。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:戴冠式行進曲「宝玉と杖」,○サージェント指揮ロンドン交響楽団(alto他)1954・CD,,威風堂々と並び余りにも有名なウォルトンの二曲の行進曲の後のほう。サージェントは程よく雄渾で響きも絶妙に艶めいて出色だが(シベリウスが得意だっただけある)、それゆえ世俗的な雰囲気が出過ぎているように聴こえる。軽めで、リズム取りがやや「格好をつけている」ような感を受ける。弾むようなフレーズの切り方に若干遅めのテンポが、娯楽性を煽り過ぎて戴冠式行進曲というよりジョン・ウィリアムズ全盛期の映画音楽のようになっている(もちろん曲はJWが真似たのであるが)。録音が一部撚れたり古くなってしまっている部分もある。展開部の緩徐主題は雰囲気があって懐かしい感じがしていい。◎にする人もいると思う。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ウォルトン:戴冠式行進曲「宝玉と杖」,◎プレヴィン指揮ロイヤル・フィル(TELARC)CD,,「王冠」よりはマイナーだが同じく色々な式典で使われる名行進曲である。比較してややメロウで感傷的であるかもしれない。現エリザベス2世の戴冠式用行進曲。この演奏は併録「王冠」よりも更に迫力があり、なまじ二番煎じ(威風堂々を一番茶とすれば三番?)の曲なだけにこれだけ威力を発揮する輝かしい演奏は◎にしなければならないと思わせるものがあった。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,
ウォルトン:戴冠式行進曲「宝玉と杖」,ボールト指揮LPO(EMI/warner)CD,,旧録は無い。弦を主体に威厳ある演奏を行うと思いきや、打楽器や金管を派手に鳴らして弦が引っ込むくらいのバランス無視のところが逆にボールトらしい。壮年期の覇気が響きにはまだ残っている。もうちょっとエルガーっぽくやってもよさそうなものだが(エルガーではないのだが)、アバウトなところもボールトの良さなのだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ヴォルフ:イタリアのセレナーデ,○ストラディヴァリ・レコーズ弦楽四重奏団(stradivari records)LP,,この団体はメンバーが明かされていることから覆面ではないらしいのだが、非常に巧い。モノラルということで緊密さ手堅さにおいてはブダペストQを彷彿とし、個人技的にもハリウッドQを彷彿とする舌を巻く巧さだ。この曲は割合と現代的な側面があり、装飾音も巧くこなさないと物凄く野暮になる。ストラディヴァリ・レコーズQはこの時代にしては恐ろしい正確さでそつなくこなし(といっても全体非常に緊張感はある)、本質を見失わない。ただ、ちょっと構造的にしすぎるというか、私は面白かったのだが素直に旋律を聞くたぐいのかたがたにはわかりにくい感じもあるかもしれない。す弦楽四重奏という形態において理想的な演奏を行っていることは確かで、ケレン味のない現代的な演奏方法は今の耳にも十分耐え得るものをもっている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エゴン・ヴェレス:弦楽オーケストラのための音楽op.91,アンドレ・ジラール指揮ORTF(ina配信)1971/3/4放送,,中欧前衛志向の凡作。重苦しい主題から激しい不協和音を刻む部分を経て終わるさまは、アメリカ保守派の戦後作品と相似形だ。後者のほうが聴きやすい。戦後オーストリアにはもっと素晴らしい「妥協点」を見出した作曲家がいる。演奏は精度が半端な感じもするが仕方ない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エシュパイ:ヴァイオリン協奏曲第2番,○グラッチ(Vn)スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)1979シマノフスキ的無調印象派からラプソディックな激しい曲想を交え進んでいく音楽はやや捉え所がない。しかしどこか甘いところがあり(ゲンダイオンガク好きには受けないだろうが)ボーダー好きには堪らないだろう。弱奏部に聞かれる弦楽器の静寂の全音符やハープ、鉄琴の美麗な響きが印象的。強奏部の独特の符割りも楽しい。クライマックスに分かりやすい旋律が出て思いっきり感傷的になる構造はあざといが感動もの。ソリストは力みすぎ。音色に幅が無くなっている。全般にはよく流れている。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エシュパイ:ヴィオラ協奏曲,○バシュメット(Va)グルシュチェンコ指揮ソヴィエト国立交響楽団(RUSSIAN DISC)1988/5/28・CDバシュメットの音色に魅了される。穏やかな旋律の場面では弓圧を余りかけずに柔らかく響かせており、その何ともいえず繊細な音はたとえばジュリアードあたり出身のヴィオリストには出せない類のもの(私はこういう音は大好きです)。バシュメットの凄さは様々な音を弾き分けられるところにあり、その多彩さはアメリカやドイツの奏者とは比べるべくも無い。この演奏でもガシガシいう刻みは鋭く硬い音で弾き込んでいるし、思い入れの強い場面では弓圧をかけて重厚に奏でている。曲は20世紀前半的な音楽で結構耳馴染みがいい。豊穣なオケパートはしばしばベルクを思わせるし、ヴィオラが疾走する場面ではあきらかにヒンデミットの室内音楽の模倣的なものが聞かれる。無調やセリー的な硬質の主題が使われる一方でウォルトン的な親しみやすい主題もあらわれ、個性的ではないが変化に富んでいて面白い。ちょっとソヴィエト時代の作曲家とは思えない西欧風の作風であり、新ウィーン楽派的な場面の目立つ曲である。私は非常に惹かれました。エシュパイは古典ジャズのロシア式翻案と言うべき作品やヴィラ・ロボスふうの楽天的な楽想を持つ作品も生み出しており、国民楽派の延長上に位置づけられながらも非常に多彩な作風である。この世代では(前衛としては古風だが)瑞逸のロシア系作曲家だと思う。ハチャトゥリアンの弟子で、民族楽派に前衛音楽やポピュラー音楽などの要素を採り入れた作品を数多く作曲している。年齢的にはブーレーズと同じ。マリ出身。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エシュパイ:ハンガリーのメロディ,○グラッチ(Vn)ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ・フィル交響楽団(MELODIYA)LP 非常に民族的な音楽で、バルトークのラプソディを思い出す。じっさいあのへんのハンガリー民族主義に意図的に倣った感じである。バックオケの響きを聞くとツィンバロンふうのハープや鉄琴の硬質な煌き、全音符による静謐な和音だけの伴奏などエシュパイらしさは聞きとれるが、基本的にコダーイ、バルトーク(の民族的音楽)+エネスコのようなあからさまな民謡音楽である。演奏は実に力強く押し付けがましいが潔い演奏ぶりがまた民族的雰囲気を倍加させている。現代混合作曲家エシュパイを求めるとちょっと拍子抜けするかもしれない。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エシュパイ:ピアノ協奏曲第2番,作曲家(P)スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(ALBANY)1972初演LIVE・CD ペットとティンパニだけでもうこの人とわかってしまう。洗練されたバーバリズムとでも言おうか。ピアノはかなり無調ぽいパセージを奏で続けるが、リズムがジャズふうで悪くはない。弦楽、というよりヴァイオリンの絡め方がいつも扇情的で面白い。機械的な使い方なので弾いて楽しいかは別。曲ははっきり言って新味無くつまらないが他に類例の無い作風ではあり、エシュパイらしさは堪能できる。2楽章の旋律が美しい。エシュパイだからただでは終わらないのだが。エシュパイのピアノはショスタコくらいには上手、と言っておこう。録音はあまりよくない。歪んだモノラル録音。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エシュパイ:交響曲第5番,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)1986/1/1live 呪術的な雰囲気が支配的。半音階的な旋律線はちょっとジョリウ゛ェを思わせるが、ハーモニーは案外マトモで耳に優しい。ミャスコフスキーぽい処理も混ざるがごく部分的。雑多な要素の絡み合う雰囲気音楽であり、弱奏に遠く鐘の音が響くあたりなどはマーラーをも思わせる。強奏部の微量ジャズなど世俗的な味付けが加えられるのはエシュパイらしい所で、私はとても好きだ。やや陳腐ではあるが。演奏は決して無茶に弾けず一定のテンションをキープしている。響きの浅さは録音のせいだろう。引き締まったアンサンブルはライブとは思えない程だ。ゲンダイオンガクぽいカオスもしっかり切り抜けている。ジョリウ゛ェ的密林から楽天的終始部に抜けるところがやや垢抜けないが、概ね成功していると言えよう。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エシュパイ:交響曲第7番,スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(ALBANY)1992初演LIVE・CD 比較的調性的な主題に強烈な不協和音を重ねていくやり方はアイウ゛ズを思わせる。調性的な進行の末を強烈に外させる癖は独特だ。いかにもモダンな印象を与える。夜の音楽というか、シランクスあたりのドビュッシーを思わせる所もあり、決して新しくはないのだが、リズムに独特のカッコよさがあり、耳を引く。展開にとりとめのない所があり長く聞いていると疲れてくるが、時折物凄くイマジネイティブで美しいところがあるので辛うじて駄作の謗りを免れている、といった感じだ。静かな場面のエキゾチックな響きは魅力的。この人にしては繊細な味わいがある。最後退嬰的にしぼむ。謎めいている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エシュパイ:合奏協奏曲,◎スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(RUSSIAN DISC/ALBANY)1974・CD この曲はエシュパイの作品の中でも白眉たるものです。10回聞いたら飽きましたが、それまではとても楽しめました。ジョリヴェかメシアンか、という色彩感・オーケストレーションにジャズのイディオムを加え、快楽派聴衆としてはサイコーに面白い楽曲に仕上がりました。まず掴みがいい。冒頭ジャズふうのパッセージがピアノ・ソロからテンション高く提示されると、これはもう楽曲と演奏が一体化しているものとして書かしていただきますが、じつに派手で下品で最高のオケが大音響でジャズ的走句をぶっ放す、この流れは否応無く楽曲に聴衆を引き込ませる。迫力有る表現はさすがスヴェトラーノフ、ガーシュインでは珍妙なメタ・ジャズを披露していたが、ここでは(ワタシはジャズはよくわからないが)立派なモダン・ジャズの「ような」ビリビリくる緊張感溢れる演奏を繰り広げている。しばらくただ丁々発止の音の奔流に身をまかせていると、現代風の冷たいハーモニーに先導されるように、緩やかな中間部に入る。ここでペット(?)やダブルベースのソロ奏者が長い長い憂うつな旋律を奏で続けるのだが、音響的にあきらかにジャズを意識しているものの、どちらかといえばヴィラ・ロボスの緩徐楽章のようなセンチメンタルな感覚を呼び覚ますものとなっていて、響きは硬質であるが、たとえば夜空の星を見上げているような思索的な雰囲気を呼び覚ます。比較的長めな中間部は再び顕れるけたたましい走句に引導を渡され、あっというまに尻切れのように終結。この終わりかたもきっぱりしてかっこいい。それにしてもこの人はロシアの作曲家なんだよなあ・・・しかも演奏しているのはスヴェトラーノフなんだよなあ・・・ちょっとカッコ良すぎるきらいもあるが、まずは最初の「掴み」の部分でがっちり掴まれてしまってください。文句無し◎。名曲、名演奏。ALBANY盤はやや茫洋とし歯ごたえがイマイチ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エシュパイ:合奏協奏曲,指揮者無し、南西ドイツ放送交響楽団他(MELODIYA,ETERNA他)ちょっと縦を気にし過ぎか。もっと前向きに突き進むテンションが欲しい。現代作品としての価値に照明を当てたような感じで、ジャズ風の崩しも入れることなく、だがそれがかえって興をそぐ。あれ、こんな陳腐な曲だったか?と首を傾げてしまうところもあり、奏者の機知に委ねられる所の大きい曲だったことに気づかされる。情感の欲しい中間緩徐部のダブルベースのソロも何故か全く情緒の無い、無骨で先鋭な響きに覆われていて不思議な位だ。先鋭な響きにこだわる余り盛り上げが全く足りない。全体設計の問題かもしれない。軋みの聞こえる雑味ある演奏。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エネスコ:ヴァイオリン・ソナタ第2番,"",○作曲家(Vn)リパッティ(P)(erectrecord/melodiya/monitor/PHILIPS/venezia他)1941/8・CD,,作曲家還暦記念の放送録音で3番とともにさまざまに再発されてきた。メロディヤではラデュレスコの伴奏ピアノを弾いた「ヴァイオリンとピアノのための演奏会用小品」の録音も加えられていたようだが私は(確か)未聴である(ヴェネツィアの復刻からも漏れている)。どうも録音は悪い。様々に手が加えられ工夫されてきてはいるのだが、現在容易に手に入るヴェネツィアの廉価集成ではほぼ擬似ステレオといっていいようなリマスターが加えられているものの、ヘッドフォンできくとエッジが立った音が逆に元々のノイズをきつくして聞きづらい。エネスコは録音嫌いで残っている数少ないものの中心も指揮やピアノ演奏(これがまた巧かったりする)だったりする。,,生き生きとしたエネスコのヴァイオリンは後のものより技術的完成度という点ではすぐれていると言えるだろう。リパッティも詩情溢れる静かで繊細な表現を安定した技術にのせて展開している。レミントン盤とくらべやっぱり少しリパッティは控えめすぎるところもあり、それが持ち味だとはいえ平たく綺麗すぎて、まだまだ盛年エネスコの表現とあわさると逆に少し重い感じもする。とはいえ、3番みたいな民族色が殆ど入らず、ロマン派ソナタの王道をいくような音楽には硬質な詩情をたたえた清新な表現がマッチしているようにも思う。難度も低くエネスコをきくのに役不足な曲とかんじる人もいるかもしれないが(自作自演なんだから変な言い方だけど)、聞きやすさでは勝っていよう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
エネスコ:ヴァイオリン・ソナタ第2番,"",○作曲家(Vn)リシェ(P)(REMINGTON)LP,,内省的でフォーレ流のロマン派ソナタの系譜を受け継いだ佳作である。エネスコの前時代的な艶のある音が、終楽章以外に横溢する静かな情緒を損ねているけれども(終楽章は派手に動く、音色のことを言ったがエネスコ老いてなお上手いことは確かだ、この憂いある音は若い連中には出せない、誰だ下手だ衰えだなんて言うやつは、音楽の多様な楽しみかたを知らなすぎるぞ)、よく言われることだが奥さんの丁々発止の機敏な演奏ぶりが出色で、寧ろはっきりしたアンサンブル向きの規律正しい演奏ぶりはリパッティよりいいかもしれない。何故か復刻から漏れているプレミア盤。ジャケデザが原色黄色でいい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
エネスコ:ヴァイオリン・ソナタ第3番,"",◎作曲家(Vn)リパッティ(P)(erectrecord/melodiya/monitor/PHILIPS/venezia他)1941/8・CD,,組曲風の完全に民族音楽である。昔から言われていることだがルーマニア民族音楽への体感的理解がこのコンビの強みで、逆に言うとなかなか後年これを演奏しようという人が現れなかったのはここに現れる民族主義、民謡音楽のあからさまななりに体臭を載せることが難しかったからともいえるかもしれない。バルトークほどではないが(全く無いが)現代ふうの洗練を加えられた音楽は硬質な晦渋さは否めずとっつきづらい面もあるし、「これは民俗音楽なんだ、オスティナートを刻んだり奇怪にユニゾンだったりするピアノは太鼓とかツィンバロンのようなものを示していて、ヴァイオリンはやっぱりフィドル相等のものを想定している」というような理解を加えていかないとわかりにくい。ただ、民謡音楽は所詮やっぱりその「ノリ」というか「方法」を理解してしまえばいい話で、よそ者には謎めいているようにおもえる書法も根本に土俗的な洗練されない音楽のセオリーがあるだけで「そういうものなんだ」と受け容れ体を揺らせば自然と入ってくる。アーティキュレーションの綾は体でわかるものだ。同時代の専門作曲家の亜流のような曲が今は余り好まれないだろうけど、このような物凄い古いものにいつまでも牙城を築かせたままにしておく必要もなかろうほどに、聞いているぶんにはわかりにくいものでもなく、ヴァイオリンにしてもピアノにしても技巧も面白い。この曲はとても民族的である点で前のものとは質を異にしている。演奏家共にソリスト的な独立した表現も求められているがゆえ、リパッティはうってつけの演奏家といえるだろう。物凄く泥臭い音楽なのにリパッティは泥の輝きをまるで宝石のような煌きにかえている。エネスコはもう、バリバリ弾くのみである。エネスコの数少ない演奏録音のなかでこの盤はその類稀な技巧と表現を余すところ無く伝える特別なものといっていいだろう。曲がよかった。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
エネスコ:ヴァイオリン・ソナタ第3番,◎作曲家(Vn)リシェ(P)(東芝EMI)1949・CD,,名演!録音リマスタリングもクリアでいい。エネスコの表現はほんと標本にして飾りたいくらいのもので(おいおい)民族的な表現の模範といっていいだろう。今の技術の観点からして決して巧いとは言えない細かいところはあるものの、それも瑣末と思えるほどに全体の流れと表現の機微が完璧である。自作自演でしかなしえない部分というのもあるだろう。◎。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
エネスコ:ルーマニア狂詩曲第1番,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(BRILLIANT)1956/10/4LIVE・CD,,エネスコが完全に前時代的な国民楽派の作風に立って書いた佳作だが、わりと垢抜けた表現もできた人であるガウクはロシアの方法で田舎ダンスとして描くよりも音響のすっきりした洒脱な現代作品に昇華された音楽的表現を目しているようで、少々スピードを煽り過ぎて装飾的パセージによる微妙なリズムが明確に聞こえないところもあるが(こういうのはほんと他国の楽団には難しい)、とくにブラスの異様な技巧的表現とハープの幻想的な分散和音が盛り上げるあたりはかっこいい。起伏に欠けるきらいもあるし弦にはもっと迫力がほしかったが、悪くはない。ゴステレラジオ音源。残響付加の過大なモノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エネスコ:ルーマニア狂詩曲第1番,○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SCC:CD-R)1965/6/21live,,古風な楽想に民族舞踊を加えた小品だがフィラデルフィア管弦楽団の技巧的側面をよく浮き彫りにしている。俊敏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エネスコ:ルーマニア狂詩曲第1番,○作曲家指揮コロンヌ管弦楽団(REMINGTON)LP,,これはCD化していたかどうか記憶が定かではない。作曲家エネスコ一番の「当たり」作品で現在も頻繁に演奏される。前座プロとして丁度いい長さと客受けする民族舞踊的要素を兼ね備え、前衛性は2番に比べて皆無と言っていいか。コロンヌでピエルネが初演したのではなかったか、だからこれは初演団体による自作自演ということになる。エネスコは民族色全開で荒っぽい音を出させ、ラフになるのも厭わず、しかし娯楽性を煽る方向にも行かず真面目な態度で感興を引き出そうとしているかのよう。このLPは何度か組み合わせを変えて再発され(1,2番ばらばらでもあり)、他レーベルにても再発されている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エネスコ:ルーマニア狂詩曲第1番,ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(testament)1963/1/19ガラコンサートlive放送・CD,,直前収録のリヒャルト・シュトラウスにくらべると鋭さが落ちる。派手さや圧力はすごいが民族的な迫力とは違う気がする。悪くはないが、そそられない。だが、大ブラヴォ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エネスコ:ルーマニア狂詩曲第1番〜抜粋,○ストコフスキ指揮BBC交響楽団(SCC)1954/5/7・DVD,,三箇所の抜粋演奏で、大体曲のわかるような抜粋の仕方をしているから楽しい。最初は大人しいが、最後の方は民族色を煽りオケの技能を存分に引き出した素晴らしい集中力ある演奏でストコフスキー自身も満足の笑みが出る。バイオリン上手いなー。一糸の乱れもない。レクチャーコンサートの形式をとった白黒テレビ番組「指揮者は語る」の録画。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エネスコ:ルーマニア狂詩曲第2番,○作曲家指揮コロンヌ管弦楽団(REMINGTON)LP,,「1番2番の法則」というのがある。2曲組という管弦楽曲は多いが(交響曲でもエルガーやカリンニコフという例がある)、おうおうにして1番が出世作もしくは結果として当たった作品、2番が作曲家本人にとっての意欲作もしくは1番人気に乗じての作品となるため、客受けはあざとさのつぎこまれた(時には受けるために本来やりたくない方法まで使った)1番のほうが圧倒的な場合が多い。くらべ2番は技巧に走っているとか1番ほどの強い霊感が働いてないとかいうことになり、その法則はエネスコのこの作品でも働いている。,,ルーマニア狂詩曲は1番が大受けしたからこそ2番が作られた。1番ほど「掴み」が重視されておらず(1番2番の法則における1番の特徴として「冒頭から速攻で鷲掴みにする(メロディや派手な音響・リズムで)」点が挙げられる)、しかし簡潔巧緻な書法でラヴェルの同窓生だったことを少しだけ思い出させる現代的な部分があり、楽想的にも1番にひけをとらない。ただ構成的に「落ち着いている」だけである。演奏は1番より心なしか大人しいが、しかししっかり民族性を打ち出したもので、エネスコが他者の作品で見せる生硬な指揮ぶりは解消されている。○。,-----,,,,,,,,,,,
エネスコ:演奏会用序曲,◎ケーゲル指揮ドレスデン・フィル(morgan's:CD-R)1981/9live,,曲も演奏もすこぶるよい。録音も安定し明快で、少々くぐもる感じはあるもののおおむね一般向け商品としても立派に流通可能なレベルの音である。作曲家エネスコは古い録音ばかり聞いていると取り残されたロマンティストといった側面に目がいってしまうが、音響的な書法を駆使し、きほん現代的な音楽を志向する人であり、バルトークと似た方向性の知的なものを感じさせるし、ラヴェルと同窓であったのも確かに、といった大胆ながらもきっちり組みあがったものを作り上げる。コダーイよりはずっとバルトークだ。楽しいだけの曲ではないということをケーゲルは気づかせる。うにょうにょとクラスター状にうねる弦楽器の奇怪な情景や心象的な哲学をはらむ高音打楽器、「演奏会序曲」という国民楽派が多用したロマン派楽曲型式を一歩進ませて、純音楽的に研ぎ澄ますことで(ライヴだし研ぎ澄ますまでには至っていないが)作曲家エネスコの先鋭な部分を含めなめらかに聞かせている。これは名演だ。モーガンズには珍しい当たり。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エネスコ:交響曲第1番,ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA)変な曲〜!!1楽章は民族楽派的でいながら清新でいかにもパリに学んだ作者の音楽といった感じだ。あきらかにロシアではないし、かといってルーマニアルーマニアしているわけでもない。ハーモニーがとにかく新鮮で、ちょっと違うがオネゲルを思い出した。立派な交響曲であることは確か、と思わせる1楽章、しかし2楽章は退屈。 3楽章制の3楽章はそれほど盛り上がらないが1楽章の路線ではある。結局頭でっかちなバランスの、よくあるマイナー現代交響曲の範疇に留まった作品になってしまっているのが惜しい。ロジェストは巧くバランスをとっているが、私のLPはなぜか左右のバランスが頻繁に変わり非常に聞きにくい。オケがコンドラシンの盤のように激しいアタックで弾きまくってくれているだけに残念だ。1楽章だけで○付けてもいい気もするが、録音マイナスで無印。ジョルジェスク盤があったはずだが未聴。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エネスコ:八重奏曲(1900),作曲家指揮アンサンブル(ジェンドレほか)CD化。早熟のエネスコ19歳の作品。ラヴェル同窓だが作風はかなり異なり、どちらかといえばドヴォルザークやバルトークなどに近い。息の長い旋律が繰り返し重奏されるさまは曲が進むにつれいささか辟易してくるものの、魅力的ではある。傑作とはいえないが演奏すればそれなりに楽しめる曲かもしれない。ここでは演奏の見事さということでエネスコ自身の指揮による演奏を挙げた。何といってもヴァイオリンの艶やかな響きが美しい。いささかの乱れも見せず全パート緊張感を持続し、アンサンブル的にも素晴らしい。それだけではなく当然時代がらも反映されており、弦楽器の音とはかつてこうであったのだ、という懐古趣味的感慨も覚える。無論エネスコの指導力は絶大と思う。これはエネスコの音だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エネスコ:木管十重奏曲,作曲家指揮フランス国立管弦楽団(REMINGTON)CD化。清澄でサロンふうの曲想は意外だが、エネスコはラヴェルの同窓でもあったわけで、そのへんの作曲家に通じるものがあっても不思議ではない。プーランクあたりを想起するが、もっと古い作曲家の名を挙げるべきだろう。木管アンサンブルはあまり馴染みが無いのだが、自然に聴けて楽しかった。エネスコはわかりやすい。盤面が悪く終楽章はあまりよく観賞できなかったが、興味があれば、聴いてもいい佳曲。そんなところ。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エリザルデ:ヴァイオリン協奏曲,○フェラス(Vn)ガストン・プーレ指揮LSO(testament)CD,,なかなか変化に富んだ曲で、楽天的なロマン派協奏曲の範囲からは外れていないのだが、ディーリアス風であったりレスピーギ風であったり、最後は明るくしめて終わる。フェラスは地味さもあるが技巧的には万全。プーレの指揮というのはだいたい古い、これもノイズが多くやや聞き辛いところはある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:エニグマ変奏曲,○C.デイヴィス指揮バイエルン放送交響楽団(BR)CD,,永遠の中堅のようなイメージがあったが亡くなってしまうと一つの時代の終わりをまたも感じてしまう。勢いはあるがアバウトさもあるオケ、しかしエルガーの要求する苛烈なアンサンブルにさいししっかり引き締めて、実りあるものに仕立てている。英国風というものをどう説明したらいいのかわからないが、これはドイツ的でもアメリカ的でもなく、英国風としか言えない中庸さがある。録音良し。バラ売りされ今はダウンロードでも聴ける。CD持ってるのにダウンロードでまた買ってしまった。鎮魂。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:エニグマ変奏曲,○ビーチャム指揮シアトル交響楽団(PASC)1943/10/11LIVE,,素晴らしい腕をもった指揮者だったことがわかる。少しブカブカ吹かす癖のあるアメリカ楽団を、きゅっと取り纏め、高度の機能性を聴かせている。管弦楽の極められた同曲の立体的書法を知り尽くしたうえで、響きの派手さや曲毎のコントラストのドラマを煽らずに、一つの流れを明瞭に作り出し、あくまでその中で起伏を聴かせていく。物足りない向きもいるかもしれないが、スピーディでインテンポしかも節度が軽さを産んでエルガー特有の野暮ったさを払拭しているさまは新鮮だ。土の臭いのしないノーブルさ。後半ノイズがひどいが、○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:エニグマ変奏曲,○ロスバウト指揮ケルン放送交響楽団(en larmes:CD-R)1953・CD,,スタジオ録音か。それにしては音がぱっとしない(ロスバウト録音はいずれもモノラルでぱっとせず、損をしている)。イギリスにしては中欧的な作曲家エルガーの重量感ある響きをドイツ臭く再現するのではなく、ボールト的なバランス感覚のある演奏に仕立てている。音も重すぎず曲の包蔵する柔らかさを損なっていない。壮大でも壮麗でもないが、きちっとした演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:オラフ王のサガからの情景〜1.夏の激流のように,○バートン指揮ハレ合唱団(ho)2005/11/3・CD,,著名な曲で、いたって普通の合唱曲。短いし、長所も短所も指摘できない。とりあえず○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:ピアノ五重奏曲,○ハリエット・コーエン(P)ストラットン弦楽四重奏団(IMPRIMATUR)1933/10/1・LP,,1楽章はかなり中欧風。フランツ・シュミットみたい。2楽章にきてやっとノーブルなエルガー節をたっぷり堪能できる。演奏もこなれていていい。ここから3楽章(の主部)はモダンな雰囲気がディーリアスを始めとする英国系作家との同時代性を強く感じさせる。力強い5音音階など初期ディーリアスやウォルトンそのものだ。ウィーン臭い1 楽章からは想像つかない面白さで、長々しいけれどかなり盛り上がる。ピアノがやたら雄弁なへっぽこアンサンブルとは違ってかっちり全ての楽器の組み合った緊密な曲に、これまた緊密さが魅力の楽団とよくわきまえたピアニスト、十分鑑賞できるいい演奏です。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:愛の挨拶(管弦楽編),○作曲家指揮交響楽団(pearl/HMV)1914/6/26・CD,,エルガー自作自演はほぼ自身による改変が施されているが、てんめんとしたフィンガリングが生で剥き出しになる聴き心地は余りいいものではない。ラッパ吹き込みは起伏がないのでアマチュアのように抑揚のない下手な演奏に聞こえる。珍盤として○。変な編曲。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:威風堂々第1番,○作曲家指揮交響楽団(pearl/HMV)1914/6/26・CD,,作曲家自身による改変のこと多い作品に加え、ラッパ吹き込みの短い録音用に三部構成の前後の勇壮な行進曲が極端にカット、事実上イギリス国歌たる緩徐部の歌謡的表現にたっぷり時間をかけ、ちょっと気持ち悪いポルタメントも辞さない表現は特筆すべき。時代からすれば編成を絞り工夫したとはいえこのバランスは素晴らしい。管弦楽法の職人だ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:威風堂々第1番,ガンツ指揮セント・ルイス交響楽団(victor)1924/11/1・SP,,web上で配信されている音源。まあ鄙びた演奏で、精度の低さもさることながら殆ど吹奏楽編曲(かつ短縮版)である。もちろんラッパ吹き込みの限界はあろうけど、弦楽器が第一主題しか聞こえない。あの第二主題がまったく吹奏楽なのである。なんだか損な役回りをした室内楽のときを思い出した。メイン主題を金管に奪われたときを。ハープってこの曲あったっけ??無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:威風堂々第1番,ケーゲル指揮ドレスデン・フィル(HMV他)ボン・CD,,私はこの「音楽の花束」曲集の中で一番楽しめた。毅然とした態度とアグレッシブな表現が共存し、少し響きが軽いかな、と思いつつも引き込まれてしまう。けっこう揺れるテンポもかっこうがよい。ケーゲルに合っているのだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:威風堂々第1番 中間部主題(希望と栄光の国)自作自演動画,作曲家指揮LSO(動画配信)HMVスタジオ・1930年代??,作曲家唯一の貴重な動画記録。,,"https://youtu.be/UrzApHZUUF0",,イギリスPATHEからの提供動画はこちら,"https://youtu.be/kgBjUv_50kY",内容につき詳述されているのでご参照ください。,-----,,,-----,,,-----,,
エルガー:威風堂々第4番,○作曲家指揮交響楽団(pearl/HMV)1914/6/26・CD,,行進曲としてぱっとしない曲だし時代なりのばらけた演奏に悪い録音だが、速めのテンポがしっかり保たれ弦楽器のポルタメントに流されない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:弦楽セレナード,○ボイド・ニール指揮ボイド・ニール弦楽合奏団(PASC/decca),,pristineのSP復刻音源。3楽章制の小品だがそれなりの演奏精度を求められるエルガーらしい作品。しょうじきブラームス的な重みと前時代的な旋律は私の苦手とするところでもあり、曲も個人的には印象に残りづらく感じる。演奏はボイドニールらしく、昭和初期という時代にあってここまでしっかりしたアンサンブルをこうじているのは注目に値する。もっと旋律が浮き立っていいと思うが録音のせいか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:弦楽四重奏曲,ストラットン弦楽四重奏団(IMPRIMATUR/HMV)1933/12/20世界初録音盤 いかにもエルガー的な跳躍や旋律や半音階的な動きが聞かれる。2つの交響曲など主要作を殆ど書き尽くし隠居はしたものの未だ円熟の途にあるときの作品であるから当然期待させるものがあるが、さすがにシンフォニーにみられるまでのわかりやすい構造とか旋律とかは求められない。流して聴いているとときどき「エルガーだ!」という箇所はあるものの、いかにもブラームス的なぐちゃぐちゃも目立ち、何かもごもごして言いよどんでいる英国紳士を見る思いだ。ハーモニーは驚くほどディーリアスやヴォーン・ウィリアムズに通じるものが聞かれ、やはりイギリス楽派というものはあるのだなあ、と思った。何度も聞くと味が染み出てくる作品なので、この地味な作品を味わい尽くしたいならぜひそうしていただきたい。私にはあまりに構造的で、ドイツ風に感じられ、正直それほど惹かれなかったのだが、音楽之友社「クァルテットの名曲名演奏」渡辺和著には「傑作室内楽曲」の一曲とされておりびっくり。そうですね、エルガー好きを自認しているとか、「ゲロンティアスの夢」を何度も聴いているとか、そういった人にはいかにもエルガーらしさに満ちた傑作と思えるのだろう。アンダンテの二楽章の素晴らしさについては同意するが。・・・ちなみにこの本、よくもまあ、というほどにマニアックだ(ヲタ必見)。ストラットンは昔懐かしい艶やかな音色、しかしかなり狭い音場で内声部が聞こえづらいのが難点。でも巧い団体だと思う。姉妹作品ピアノ五重奏曲もハリエット・コーエンを迎えたストラットン四重奏団により初録音が行われている。そのうち書きます。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:弦楽四重奏曲(短縮版),○ロンドン四重奏団(M&A他)1921・CD,,同曲はサモンズらが初演しているがこの時期には既にロンドン四重奏団を抜けている。演奏はしかし達者なもので大正時代とは思えない覇気と精度を併せ持ったわりと現代的な演奏。発音はオールドスタイルで甘いがリズムはきっちりしている。三楽章すべてからの抜粋でほぼ全曲を聴いたような気になるからこれでもよい。曲はエルガー風の旋律美が中欧ロマン派の重厚さに載って、そのてのものが好きならおすすめできる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:交響曲第1番,○コリン・デイヴィス指揮ドレスデン・シュターツカペレ(profil)1998,,エルガーなんてゲロンティアスなんて聴いてないで愛の挨拶と威風堂々第一番と、この曲だけ聴いてればいい、と思うこともあるのだが、それだけ演奏効果の高い大曲だけに、もっと強靭なオケ、もっと大編成、そしてもっともっと演奏効果を高めるような解釈を欲しくなる。これはそういう欲求に十二分に応えてくれる。ドイツ有数の伝統的オケの持つ底力をぐいぐい引き出すサー・コリン・デイヴィス。緩徐楽章の素晴らしさを称える評も多いがやはり、フィナーレの持っていきかた、憧れに満ちた主題の歌い方、慈しむようでしかし確かに雄渾なフレージング、それを支える分厚い響きと合奏力。遂に通奏主題が回帰するときの高揚感は凄まじいものがある。細部まで解釈が行き届いている割に人工的な感じも全くしない板についた、ライヴ感あふれる名演である。YouTubeでお試しできます。どうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:交響曲第1番,○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(the barbirolli society)1958/1/30ハレ管弦楽団100周年live・CD,,大変人気となった話題盤だがいかんせん録音がエアチェックレベルの悪さ。やたらと打楽器が強調され、ただでさえダイナミックな同時期のバルビの芸風に過剰な演出を加えてしまい、中間楽章で疲れてしまう。たぶんバルビのエルガー(しかも1番)としては白眉の記録で、特別な場ということもあってハレ管もヨレが少なく緊張感があり、相当にレベルが高く、テンションも持続する。ただイケイケ過ぎて2楽章の異様なスリルから3楽章にうつるくらいで、既にぐったりしてしまう。3楽章もマーラー的で休むことを許さない音楽になっており、アタッカで4楽章に入って管弦楽に立体感が戻った辺りで(もう後はわかったくらいで)やっとほっとする。騒々しいまま通奏主題になだれ込んでしまうのは録音のせいということにしておこうか、ここも緩急のブラームス的演出が無いと勿体ない。しかしながら、バルビ特有のドライヴ感が保たれたまま、エルガーのかっちりした構造が見事に適切に捌かれ音楽に昇華されているのは、バルビの指揮の腕というほかなく、けしてバランスの悪い指揮者ではなかった(この時点では)、リヒャルトが得意だったのもさもありなんな腕の持ち主だということを再確認させる。聴衆反応は穏やか、熱狂はしていない。録音がひどいゆえ○以上にはいかないが、貴重。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:交響曲第1番,○ボールト指揮LPO(lyrita)1968初出・CD,,やや時期的にオケがばらけがちに聴こえるところもあるが(録音バランスの可能性もはらむため「聴こえる」としておく)重量感と俊敏さのバランスがよく、両端楽章のブラームス的な盛り上がりはボールトならではの堂に入ったもので、また中間楽章にスコアの読みの深さが現れている。2楽章はやや重いものの明快な捌きでスケルツォ的なところをよく出しており、それ以上に3楽章の壮大な叙情は胸を打つものがある。録音以外に他録と比べてどうこういう部分もないが、旧い音ではあるがちゃんとしたステレオで壮年期の覇気も残っているから楽しめると思う。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
エルガー:交響曲第1番,C.デイヴィス指揮ドレスデン・シュターツカペッレ1998live,,すばらしい。オケがイギリスじゃないのでノーブル(譜面でエルガーが指示している)なところは無いが、純粋に音楽としてすぐれて構成されていることがわかる。力のあるオケに、威厳のある解釈だ。,"",https://youtu.be/2OXU-TTDhHU,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
エルガー:交響曲第1番(1907-8),△メニューイン指揮ロイヤル・フィル〜同じオケでありながら、プレヴィン盤にくらべ格段に落ちる。メニューヒンの弦楽器の音色へのこだわりが裏目に出て、浅薄で不格好な演奏になってしまった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:交響曲第1番(1907-8),◎バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(BBC,INTA GLIO)1970ライヴ EMI盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:交響曲第1番(1907-8),◎バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(いろいろ)1950年代 EMI盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:交響曲第1番(1907-8),◎バルビローリ指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)〜個人的には、ハレ管の独特な響きがすばらしく、又時代的にバルビローリが最もトスカニーニの残響を残していたと思われる、50年代の録音をプレヴィン盤と併置したい(最近良い音で再復刻された)。死の数日前のライヴ録音(バルビローリの正真正銘の白鳥の歌)は、「最晩年クレンペラー」的雄大さが裏目に出て(拍節感も殆どカイム…)、薦められない。フィルハーモニアのものは音も良いしスタンダードな魅力がある。だが、ハレ管との旧録にみられる力強さには負けている。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,,
エルガー:交響曲第1番(1907-8),◎プレヴィン指揮ロイヤル・フィル〜この演奏は要領第一のプレヴィンらしく、盛り上がりの持っていきかたも手慣れたもので、今のところ一位に位置づけられる演奏だ。終楽章などはラフマニノフの2番と並びプレヴィンの最も成功した表現といえる。プレヴィンはこの演奏に際し自演盤の解釈を参照したそうだが(ショルティもそうしたという話しもあるが…)自演盤よりも上位に置けそうである。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:交響曲第1番(1907-8),◎ボールト指揮BBC交響楽団(BBC,IMPmasters)(DMCD98)プロムス・ライヴ,1976ロンドン盤と余り表現差が無いが、ライヴということもあって終楽章の盛り上がりはプレヴィン・ロイヤル盤に並ぶ感動的なものとなっている。比べロンドン・フィル盤はクライマックス前に相当盛り上がってしまい、山登りでいえば尾根歩きのような中で、一番の聞かせどころである通奏旋律が再現されているように思えた(無論それも悪くはない)。BBC響の響きはやや個性に欠けるものの、弦など見事にロンドン・フィルの如き暖かいボールト・サウンドになっており、また管楽器群はppのソロからffの合奏迄素晴らしい響きを聞かせている。 勇壮でドイツ的な骨太さが個性的。EMIの新録なら容易に手に入る。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:交響曲第1番(1907-8),○ボールト指揮ロンドン・フィル(EMI)(CDC 747 2042)1976 1楽章が劇性に溢れ格好が良い!!テヌート表現が多いが、高弦がしっかり謡いながら中低音や金管に支えられ安心して聞ける。1Vnと2Vnヴァイオリンが両翼散開して掛け合うさまはこの曲の構造的な面白さを堪能できる。2番と同様面白い効果があがっている。コンマスソロの音程が少し怪しいがLPOはそういうオケだから許容しよう。解釈の幅という点では、静かな部分での繊細な音響の演出にも優れている。バルビローリ的ともいえる抒情性が漂う。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:交響曲第1番(1907-8),○作曲家指揮ロンドン交響楽団(EMI)1930/11/20-22〜音は十分聞ける。当時最高の技術をして残されたものだ。楽器の本数をマイクにあわせて減らしていると思われるが、そうは感じさせない強烈な造形力が感じられる。1楽章より強い意志に否応無くひきこまれる。オケも並々ならぬ緊張感に満ちており、弦楽器は時代がらフォルタメントを多用し、難しいパッセージではバラつくものの、録音音色の単彩を超えた音楽そのものがきこえてくる。だらしなくならないところは流石作曲家といったところか。指揮ぶりはメンゲルベルクに似ているかもしれない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:交響曲第1番(1907-8),ハイティンク指揮 表現が雑で失敗演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:交響曲第2番,○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R他)1964/11(/7?)live,,既出盤と同一かどうかは不明。DAはクレジットが不明瞭なので注意。BELSONAの7日付海賊盤とは同一と思われる。SLSもバークシャー音楽祭の記録として同じ7日と記したものを出した。ステレオだがエアチェック状態が悪くかなり聞きにくい。演奏自体は激情型でどうしても弦主体の音色表現に重点を置きがちだが、ポルタメントやヴィブラートを駆使したそれも気になるのは1楽章止まりで2楽章あたりでは全体としてバルビのマーラーもしくはブルックナーを聞いているかのような豊潤な感傷に身をゆだねることができる。しかしそこにはマーラーの絶望や諦念はなく幸福感しかない。3楽章あたりでは別にザッツが揃っていないとは言わないが、なんとなくのバラケ味(恐らくコンマ数秒のズレなのだろう)が全体のアンサンブルにグダグダ感をあたえている感じがいつものバルビだ。4楽章はするっと聞ける。2楽章同様マーラーを思い起こさざるをえないが内容的には幸福で、そのぶんブルックナーに近いかもしれない。最後の表現は過度にならずかといって遠く追憶するだけの蛇足にもならず音量的にも表現的にもとてもいい。拍手も盛大だ。録音状態からは決して○はつけられないと思うが、演奏自体は成功していると思うので○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:交響曲第2番,◎ボールト指揮LPO(LYRITA)1968・CD,,精度面で緩さがあることは否定しないが、この古きよき王侯貴族ふうの重厚なる気高さを持味とした指揮者が、エドワード朝の理想と黄昏に生きた気高き作曲家の粋を表現するに不足があるわけがない。ニキシュ派英国人指揮者がドイツ・オーストリア派英国人作曲家の作品を録音する、というのは珍しいというか唯一の例ではないか。オケが指揮者に全幅の信頼をおき音色の美のかぎり力を出し切っている。指揮者はそういったオケをきちんと制御し必要な音それほど必要でない音を見極めて、スコアの再現ではなく音楽の再構築を目し、成功をおさめている。かなり感情的に激したアーティキュレーション付けがきかれ、全般には即物派のような性急なインテンポに強いアタックが特徴となっているが、けして客観主義ではなく感情を煽るための設計が行き届き、またボールトには珍しくリズムも溌剌として退嬰や透徹に逃げず最後まで色のついたドラマを維持している。それがエルガーのような「古い作曲家」にはぴたりとあっているのだ。フィナーレ最後の1楽章主題再現における表現はこの演奏を聴いてしまうと他が聴けなくなる。明るく遠く懐かしい響きは今もって他を寄せ付けない。それまでの流れから終止部まで絶妙の設計となっている。ボールトLPOの素晴らしさをつたえる一級の録音。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:交響曲第2番,○作曲家指揮ロイヤル・アルバートホール管弦楽団(HMV/PEARL)1925/4/16・CD,,自作自演の旧録。録音指揮に情熱を傾けたエルガーは結果として同時代のオーケストラ録音の代表者のような存在となり、ストコにも似た編成の録音用改変からマイク配置の試行錯誤などさまざまなことによって自分の理想に近い(といってもやはりこの時代のテクノロジーだから妥協はあるだろうけれども)形を残している、かなり信用のおけるものとして、ショルティやプレヴィンなど、新旧両方の解釈表現を分析し自己の演奏に取り入れたことで有名である。旧録(更にはpearlの板起こし)ならではの雑音の多さや音像の不明瞭さが気になることは気になるが、エルガーが極端に編成を小さくし、特にヴァイオリンなど2プルトくらいしかいないんじゃないかというくらいで貧弱な録音に収まる程度の音響バランスを保とうとしている様子がよくわかり、時代なりのロマンティックな奏法を肯定しながらも非常に速いテンポを維持し、フレージングや音色で纏綿さを出していく(録音の都合もあるだろうが)割とトスカニーニ的な表現手法に近いものを持っていたことがよくわかる。旋律に重点を置き、書法上目立たない楽器に対旋律を受け持たせている場合でも他の楽器を極端に落としてしっかり対旋律として認識させるように歌わせる、単なるメロディ追いではない自作ならではの知り尽くした表現が聴かれるのもいい。オケは正直弱くバラバラになる箇所もあり、それはエルガーがソリスティックな細かい音符を織り込んだメロディや効果音的挿句を多用することからくる無理が追い討ちをかけているのだろうが、編成が小さいだけあって弦楽器では「個人技で」カバーして聴けるものとなっている(これが大編成では十六分音符まで纏めることは不可能に近いだろう)。,,"いずれこれが再度復刻されないのは不可解ではある。pearl自体が創業者の死去により自然消滅し版元pavillionにも在庫がない状態。ボックスで高価だったゆえ、長らく渋谷HMV(現パチンコ屋の場所)の店頭で埃を被っていて、いつか買おうと思っていたらいつの間にか消えていた。やっと手にすることができたわけだけど、これにしか復刻されていないアコースティック〜電気録音が入っており、奇妙なSP復刻を繰り返すNAXOSあたり不意に出して復権させて欲しいものだけれども。○。",,EMIが繰り返しCD化している新録を含むボックスはこちら。,,"エルガー・ボックス/エドワード・エルガー、ロンドン交響楽団、他",,しかし記念ボックスを買うほどではないかたが大半だと思うので、,,"Elgar Conducts Elgar - Symphony No.2 Op.63", Cello Concerto Op.85 / Edward Elgar, LSO," etc",
エルガー:交響曲第2番,バルビローリ指揮ボストン交響楽団(SLS/BELSONA他)1964/11/7バークシャー音楽祭live,,SLSは冒頭の録音のボロボロっぷり、ノイジーで軽い音響、シャカシャカキンキンに既出盤かつ同一音源であることを確信(BELSONAというレーベルのものは同一の演奏日が記載されている。ほかDA,JOYなど多くのCD-Rレーベルから出ているものはデータ不詳だが、音質的におそらく同じものか、多くても2回くらいの記録しかないと思われる)。唯一無二のニュアンスの指揮者バルビローリに対してパワーのボストンがまるでミュンシュのごとく取り組んで、ブラスは始終大音を鳴らし弦はしっかりした合奏力のあまり細かいニュアンスが「確固たる表現」と化しているのは良い面悪い面あるか。とにかく終始フォルテである。エルガーの書法自体リヒャルト・シュトラウス系の派手さを持つので、弱音でも教科書的なので繊細さが今ひとつ、しかしバルビローリ流儀のメリハリついたものにはなっていて(2楽章は諦念すら感じさせる弱音を散りばめテンポ変化も激しい(無論予定調和だがそう感じさせるヘマはしない)劇性はバルビでなければ出せなかったろう)、バルビがライヴでみせたマーラーのような中欧曲向けの配慮の行き届いたものにはなっている(トーンがマーラーほど変化せずそこを微細に再現していくバルビローリの真骨頂はエルガーでは原曲の性向から聴けないのかもしれない)。一本調子のチャイコフスキー的感興を求める1番より心象的で演奏家の構成力を求める2番は細部にこだわる拡散傾向のバルビローリ向きじゃないと思いきや、そこは逆。拡散傾向はあくまでスタジオ録音でのことで、情緒即物どっちにも振れずバランスが取れている。しかしまあ、中低音の弱い録音が痛い。バランス的な部分だけでもなくこの録音は高音もボロに聴こえる。3楽章はいきなりのアンサンブルで機能性を求められる書法だが僅か乱れるもののすぐボストン響のアクセントの強くついた音の交錯で楽曲の求めるものを満たしに来る。ハーモニー変化によって自然と場面転換は来るのでそこはポルタメントすら交えつつ切り替えて流れは損なわれない。バルビローリにしては印象が醒めているのはオケ本来の音起因なので仕方ない。弦はヴィヴラートとフレージングで指揮者の意をついでいる(細かくテンポを揺らさないのでたまに揺れるのに従い美しくやられると感銘は受ける)。ブラスと打楽器の派手なシーンはボストンお手の物。拍手がパラパラ入ってしまう。トーンがそのまま明るく、はじめフィナーレ感の薄いブラームスぽい四楽章は古典的な組み立てが売りのような堅牢さを「ノーブル」として打ち出す特徴的なフィナーレだが、バルビローリはフォルムは崩さないながらマーラー的な旋律音楽の側面を重くし、他の古典などの録音同様すこしどっちつかずな感もある。エルガー得意の無茶な弦への要求(えらく細かく早い装飾的フレーズ)はさすがのボストンの弦もつらいが経過句として流しブラスやティンパニにゆだねている。悲劇的な短調の進行では打楽器がややじゃま。録音のせいもあるだろうが全般派手志向なのはバルビローリがエルガーを紹介するために威風堂々的なところを印象付けようとしたのではないかとすら思わせる。譜面にない僅かなパウゼから主題回帰し大いに盛り立て、そこから緩やかに落ち着いていき、さすがに継ぎ目感の否めない一楽章への美しい回帰(親しかった国王の死により継いだレクイエムと言われる)、繊細さは出ているが、ボールトのように盛大にそのままやった方が自然のようにも思う。一声ブラヴォが聴こえるがシャカシャカ拍手はすぐ断ち切れる。SLSはインタビューも収録しているがこれも既出ではないか。ちなみに10年以上前にDA盤の感想としてアップした記事と異なった印象になっているが、読み返すと昔のほうが一般的な感想だったかもしれないと思いました。。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
エルガー:交響曲第2番,ボールト指揮BBC交響楽団(ica)1977/7/24live・CD,,茫洋とした録音ではっきり言って悪い。舞台の遠いステレオ感の無い様は痛い(モノラル音源に擬似ステレオふうの強い残響を加えたような、昔よくあったラジオ中継放送のような音)。そのせいで冒頭からだらしない感がして、ボールトらしくない覇気のない印象を受ける。肝心の分厚い弦が前に立ってこず、ブラスとティンパニだけが轟く。おそらく解釈的には他のオケとのセッションと変わらないのだろうが、BBC交響楽団という古巣オケを振っているにも関わらずピンとこない。弦楽器の音がとくにイマイチハッキリしないのだが、二楽章では、ああ、やっぱり録音のせいか、という「雄渾さ」が感じ取れなくもない。ボールトらしからぬ暗さもあり、木管と絡み息の長い旋律をうなる場面では、ラフマニノフすら想起するような、エルガーのノーブルを通り越した、心象的な風景を見せる。希望的な上行音形はグラズノフの8番を思わせるある種の「終わり」を感じさせ、その後は打楽器の力を借りてボールトらしい男性的表現に至る。足を引きずるような挽歌にも諦念はもはや感じられず、ボールトらしいしっかりしたブラームス的な劇的な音楽にまとまる。ヴァイオリンに心なしかポルタメントが聴こえたような気がするほど、実演は昂ぶったものだったのだろう。ピアニッシモに感情的なアクセントが聴こえる。三楽章もブラームス的な雄渾な副主題が印象に残る。この楽章はスケルツォ的な風変わりな主題よりも、激しい感情表現がしっかり伝わる迫力ある録音となっている。木管など決して巧いわけではないがアンサンブルはまとまっている。派手なドラマはそれまでの演奏の印象を変える出来だ。四楽章はボールトらしくなく情に流されたような僅かなフォルムの崩れ、ブラス陣の矢鱈と下卑た響きに弦の分厚いうねりがロシアの曲を演奏するようで、ボールトの記憶の彼方のニキッシュが再来したかのような錯覚にさえ陥る(ニキシュはチャイコフスキーも得意とし、同時にエルガーの交響曲も手がけた。ちなみにBBC交響楽団はエルガーの指揮のもと演奏したこともある)。その同時期のイギリス人にしては和声的な冒険を孕む起伏の末に追憶の主題が再現され、詠嘆ではなく明確にフィナーレを印象付ける。ブラヴォが叫ばれる、後半楽章は名演と言っていいだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:交響曲第2番(1910-11),△バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(新盤EMI.1964/4)サー・ジョンは自国の音楽を振ると「慈しみすぎる」キライがあり、そこが好悪わかれるところだと思いますが、エルガー2番終楽章の只ならぬノスタルジックな雰囲気には、思い切っ て浸りきるのもひとつの鑑賞法だと思うとき、このレコードを取り出してしまうのです。知る限り2つの録音がありますが、私は旧(モノ)協会盤のほうを愛聴してしまっています。エルガー自身も2度録音しています (パールとEMIでCD化)が・・・(バルビローリ:EMI(ステレオ)盤について補足)冒頭の余りに緩慢で作為的なシンコペーション表現にガクリ。情に流れすぎた漠大な演奏。 2楽章クライマックスあたりからバルビらしい造形力が炸裂するが、全般に拍節感が薄くノリの わるさが否めない。いいところを挙げると、やっぱり弦楽合奏の表現だろう。2楽章や4楽章の最後あたり、夕映えに輝くしんとした景色が秀逸。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:交響曲第2番(1910-11),○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(旧盤1954/6) EMI新盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:交響曲第2番(1910-11),○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(m&a/JOY:CD-R(JOYCD-9029/30)/m&a)1964/7/7(10/3?10/30?)LIVE・CD(m&a盤は1964/9と記載、演目等より同一の可能性大),,客演記録。録音日については諸説あり、全て同じ演奏である可能性もある。joy盤の7/7は誤っている可能性あり。10/30というデータが確度が高い模様。,,音の良さではJOYはやや落ちるが(終楽章などは寧ろ別盤の方がまとまった音になっている)、共にスタジオより早めのテンポでダイナミックな緩急を付けた凄演。カット上僅かしか収録されていないが終演後のブラヴォも素晴らしい演奏を裏付けている(この2枚ブラヴォの入りかたが似ているが、演奏の感じだと別のようだ)。ボストンの金管がハレには無い密度の高い響きを提供し秀逸だが、結構露悪的に響くところもある。総じて後者は少し荒いようだが、終楽章は寧ろ後者の方が美しく、結部など中音部が詰まって音響的に良く纏まっている。この表現はバルビローリにしかできないものだ…この世のものとは思えぬほど感動的。その感傷性はエロティックですらある。対して前者は全般にピッチが低く、音程が悪い(楽器間でズレがある)ように聞こえるし、録音の瞬断もある。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
エルガー:交響曲第2番(1910-11),○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(MUSIC&ARTS(プリントはデンオンだったりする)/inta glio)1964/9LIVE JOY盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:交響曲第2番(1910-11),◎ボールト指揮BBC交響楽団(EMI(CDH 7 63134 2))1944或る意味超絶的な名演である。覇気に満ちた演奏で、他録音の円熟したボールトとは異質のもの。特に前半楽章が優れている。1楽章冒頭から強い意志を感じさせる。造形の起伏が激しく、個々のダイナミクスも相当にデフォルメされ、しかも細部まで指示が行き届いているのであろう、「型」が崩れない。BBC交響楽団も近年とは異なり音に「色」があり、技術的にも満点をあげたい。…凄く面白い!緩徐部の噎せ返るような艶は、ワグナーやリヒャルトSよりも、マーラーを思い起こす。その後の再現部へ至る雪崩のような轟音とのコントラストも凄い。しかし一貫して弦楽器にポルタメントはかけられない。そこに古典主義者ボールトを感じる。最後は意外に小さくまとまるが、曲の流れ上、納得できる解釈だ。2楽章も強烈な表現性が発揮される。荘厳さにおいては少し若いが、明るく古典的な響きを持ち、別の曲を聞いているような錯覚(これは1楽章にもある)に陥る瞬間がある。後半に向かっての壮大な造形は、後年のアプローチの萌芽を感じるが、より露骨だ。クライマックスでは音が割れる!3楽章は、後年の良い音の演奏が余りに完璧であるため、起伏の激しさはあっても、比して刹那的解釈という印象を受けてしまう。一歩譲るかもしれない。4楽章、低弦による第2主題の提示は気合に満ち、頂点までの勇壮な行進をしっかりとした足取りで支えていく。其の先の副主題はまさにエルガーの行進曲だ。しかしすぐにはらはらとおさまってゆく音楽。物語性すら感じる強大な演奏。展開部に入ると再び気合の応酬が始まり、終結まで突き進んでいく。やや表現が若い気もするが、聞ける演奏。最後の1楽章主題の再現は思い切りロマンティックに盛り上がる。無論ボールトであるから威厳は失わないが、後年の演奏には聴けないものだ。ほめまくっているが、録音はかなり悪い。当然モノラルである。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:交響曲第2番(1910-11),◎ボールト指揮ロンドン・フィル(EMI(CDM 7 64014 2))1975-76新録は旧盤のインテンポ・アプローチを踏襲しつつ、より叙情的な表現を深めている。1楽章緩徐部(再現部前)の寂りょう感、2楽章後半の高潔な響きは感動的だ。3楽章は旧録同様他に代え難い超名演である。特筆すべきはホルンを始めとする金管群の充実ぶりだ。ペットなど開放的になりすぎず、緊密性を良く保っている。対して録音バランスの悪さを差し引いても、ファーストVnの薄さが目立つ。これも旧盤と同じだが、較べて中声部以下のふくよかな、しっかりとした音響は、きいていてじつに気持ちが良い。これはブラームスなどに見られるボールトの大きな特質であるが、この曲はメロディ楽器偏重に陥りかねない曲だから、尚更ボールトの造形力の確かさをより強調するバランスに仕上がったともいえよう。終楽章のあっさりした末尾は賛否あろうが、盛り上げすぎて全体構造を歪ませることがなく、却ってノスタルジックな気分を深くさせるように思う。録音は決して良くはないが、旧盤に比べればずっと聞き易い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:交響曲第2番(1910-11),○ボールト指揮ロンドン・フィル(nixa(Precision)NIXCD6011(PVCD8382))1956/8ボールトのエルガーは私情抜きには語れない。RVWやホルスト同様スタンダードという言葉では語り尽くせないほどに曲と同化しきった名演中の名演だ。とくに2番終楽章の崇高な輝きと余韻は比類なく、比べて1番という曲の何と浅薄なことかと嘆きたくなるほどの出来だ。エルガー自身の録音すら凌ぐと言ってよい。イギリス人でもないのにこんなことを言うのは甚だ可笑しなことではあるが、黄昏のなかであくまで高貴さを失わない誇り高き英国紳士の横顔を想じると、涙を禁じ得ない。3楽章の瑞々しさの中にも威厳有る素晴らしい躍動は他に代え難いものがある。この緊張感溢れるロンドの演奏は恐らく今もって比肩しうる録音は無いと思う。其の生涯に5回ほどの録音を残しているが、私はこの盤によりエルガー2番という曲の素晴らしさに気付かされたという個人的理由より、この演奏を最初に挙げることにする。手塩にかけたロンドン・フィルとは1968、1975-6(前者Lyrita(LP)後者EMI)にもセッションを行っている。但し録音が貧弱で音の分離が余り良くないこと(ステレオ初期は仕方ないが)、解釈が即物性を帯びかなり率直であること、高弦の響きが薄いという点、好き嫌いが分かれるとは思う。初録音は前半生の伴侶BBC交響楽団との1944年のセッションだ(EMI、下記)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:交響曲第2番(1910-11),スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(SCRIBENDUM/MELODIYA)1977/4/11LIVE 12月に出るはずだったのに、びっくり。渋谷のHMVにだけひっそり出ていた(何の煽り文句も書かれずに)。聴いてみたかった音源なだけに狂喜して早速入手。聴きとおしてみたが、うーん、ソヴィエト国立のこのころの録音の多分に漏れず雑味が多い。ただ、こんかい冷静に聴いてみると、録音バランスが極端に悪いせいではないか、と思えてくる。ヴァイオリンが薄くて音色バラバラなところ、各セクションがぎくしゃくとしてうまく一つの焦点にまとまらないところ、ペットだけが異常に突出して独特のロシア吹きを吹き散らかしてうざいところ、よくよく考えるとたんにマイク位置やミックスが悪いだけかも。それを押しても名演と言えるのが2楽章の荘重な音楽だった。中低音域に主題が位置するためヒステリックな高音の突出が抑えられ、ふくよかな響きがソヴィエト国立ほんらいの力感を引き出している。情感の表出が絶妙で、この、盛り上がりどころでもほとんど揺れずインテンポを突き通した特徴的な解釈の中にあって異彩を放っている。ペットのヴィブラートかけまくりの強奏がややうるさいが不満はそのくらいだ。大英帝国黄昏の音楽をほのかな感傷の中にしっかり表現しており出色だ。エルガー音楽の神髄に肉薄している。他の楽章はややふるわないというか、インテンポで突き進むのがどうにも気になる。勿論エルガーの音楽は基本的にオスティナートなリズムがえんえんと刻まれる中に旋律や対旋律がからみあうという構造になっており、旋律に注力してしまうとグダグダになってしまうから(そこが難しい)この解釈は合理的といえよう。ただやはりちょっとはルバートのほしい箇所も少なからずある。とくに終楽章がどうも中途半端だった。最後の夕映えの音楽の繊細な響きはちょっといいが、それまでの音楽はやたらと雄弁なだけでバラバラなアンサンブルに聞こえるところがあり(エルガーのライヴとしてはここまでまとまったら大成功というところかもしれないが)、最後まで興味が継続しない。3楽章の不思議なロンドもいまひとつその不思議さが描き切れていない。これはヴァイオリンが薄いところにも要因が有るかもしれない。1楽章はそうとうに前進的なテンポで押せ押せで進む主題が格好良い。しかしここもやや雑味がある。総じて、ライヴとしてはいい、というくらいか。スヴェトラーノフには寧ろ覇気に満ちた1番をやっておいてほしかったが今となっては仕方ない。海の絵とのカップリング。昔ゲロンティアスの夢があったように思うが未確認。(2003/11/8記),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:交響曲第2番(1910-11),ボールト指揮スコティッシュ・ナショナル管弦楽団(EMIほか(1963,CFP172))1963録音バランスはステレオ録音中一番良い。楽器配置が透けて見えるし、高弦もしっかり聞き取れる。アプローチはロンドンと殆ど変わらない。というより寧ろ、さらに単刀直入な解釈だ。オケのせいであろうが、木管やペットなど、いささか開放的すぎて、情が薄く、冷たいように感じる。弦にしても、後半楽章で余りに明るく客観にすぎるきらいもある。殊更に取り上げて聴くべき演奏ではないかもしれないが、損はしまい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
エルガー:交響曲第2番(1910-11)(3楽章のリハーサル等付き(2回分)),○作曲家指揮ロンドン交響楽団(EMI)1927/7/15・CDトスカニーニ並の強力な推進力で突き進む直線的な演奏で、ロマンティックな柔らかさが全く無いのが意外だが、グダグダに歌ってしまう演奏多いが中、これこそがエルガー、何事にも揺るぎ無い英国男子の粋だ、と感じた。自然で淀み無く流れる4楽章、最後の感傷的な1楽章の再現がいささかもテンポを落とさずあっさり入って静かに終わる。粋だ!ボールトですらロマンティック過ぎると感じさせるテンポはひょっとすると当時の録音時間の制約のために設定されたんじゃないかとも思ったが、3楽章の二つのリハを聞く限り本番並のすこぶる速いテンポがとられているので、そうではないだろう。ちなみに3楽章はドラマチック&ダイナミックで聞く価値大。ハープの煌めきが実に美しく捉らえられていてびっくり。この録音品質凄すぎる(昭和二年ですよ)。勿論残響は加えられているが。2楽章のサラっと美しい中にも深い心象が滲み出ているところも聞き逃せない。1回聞いただけでは余りに即物的で良さがわからないかもしれないが、何度かじっくり聞いてみよう。この曲の本質が分かってくるだろう。それにしても効果的なオーケストレーションだなあ。マーラー並。こういうふうに緊密にやればカッコいいんだ。唯一気になったのは弦のポルタメント多用だけど、時代柄寧ろこの程度で済んだのが奇跡。○。オマケ録音は正確には正式録音のファーストテイク116小節迄、及びセカンドテイクに向けてのエルガーの指示付きリハ風景の二つ。エルガーは苛烈にバシバシやっていると思いきや笑いを交えながらの穏やかさだ。エルガーは交響曲全集をもうひとつ残しているがそちらは90年代前半にpearlで集成CD復刻が一度なされただけで未聴。ちなみにプレヴィン盤はこの二度の録音を両方参考にした解釈に基づいているという。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:交響曲第3番(パイン補筆完成版),コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団(lso)2001/12liveロンドン響自主制作盤のコリン・デイヴィス・エルガー交響曲全集からの一枚。これははっきりいって、駄作。エルガーはこの曲を完成しなくて寧ろ幸せだったのだ。ここには第一番のような漲る覇気もなければ、第二番のようなたそがれに映える情景もない。じつにわけのわからない旋律、いたずらにエルガー式オーケストレーションを加えられた、ただの音のカタマリ。唯一終楽章だけはなんとなく第二番の終楽章を思わせるところがあるが、心情の伝わり易さでは比較にならないほど伝わってこない。もう二度と聴くこともないだろう。こんな盤、久し振りだ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:行進曲「威風堂々」第1番,◎ケーゲル指揮ドレスデン・フィル(delta)CD,,ケーゲルの好戦的な一面が非常に出た演奏。冷徹客観的な演奏も数多いが、ここではまるで表現主義的である。エキセントリックな変化をつけた演奏ぶり、鉈で次々と切り裂いていくような音表現はまさにケーゲルの魅力そのものである。極端に速いテンポでつんのめり気味に始まる序奏部はまるで機関銃で撃たれるようだ(再現部でも同様)。いきなりテンポダウンしての主部、まるで旧東側の行進そのものを見るような、ノリとかそういうものよりもびしっと揃ってみせるのが行進曲だ、とでも言いたげな、ノーブルさとはかけ離れた表現である。ディジタルなテンポ変化は主旋律の中でも極端につけられている。歌謡的な第二主題もドラムが強くブラスの開放的な旋律表現は憂愁とかそういったものは全く感じさせずひたすら偉容だけを見せ付ける。まあ、ケーゲルの魅力はこの短い曲で全てわかるし、これが極致でもあるので、この範囲内で面白みを見出せそうにないならケーゲルは聴かないほうがいい。コーダの急激なアッチェランドもケーゲルならではの無理を押し通したような表現で、うーん、やっぱりおかしいけど、面白い。◎。,"",-----,,,,,,,,,,,,
エルガー:行進曲「威風堂々」第1番,◎作曲家指揮ロイヤル・アルバート・ホール管弦楽団(EMI)1926/4/27イギリスの作曲家というとヘンデルかエルガーか、というくらいで、エルガーの知名度はそれなりに高い。しかしそのエルガーの代表作というと、普通の人は答えに窮するだろう。クラシックにそれなりに親しみのある人でも、上がってくるのはただ2作の小品だけ(名前だけなら「エニグマ」変奏曲を挙げる人もいるかもしれないが)。一曲目はサロン風の雰囲気で親しまれる「愛の挨拶」、もうひとつがこのオーケストラのための行進曲「威風堂々」の第1番だ。奥さんに結婚の記念として捧げた前者は無害な小品といった趣で他愛も無い作品だが(名旋律作家エルガーの面目躍如足るものではあるけれど)、後者は大規模な作品で名をなしたあとの円熟期のエルガーの類希なオーケストレーションの手腕が発揮された名品である。「行進曲」というとこの楽曲のふたつの旋律が頭に浮かぶのは何もクラオタだけではないだろう。中間部の悠々たる旋律は第二の国歌と呼ばれるほどのものであり、作曲当初からかなりの人気を博した。プロムスなどでは歌詞付きで歌われるし(エルガー自身も国王の勧めに従い歌曲編曲をしている)、”女王陛下のイギリス”を象徴する旋律としてテレビや映画でさまざまに使われている。GOD SAVE THE QUEENより有名なのではないか。一方勇壮な冒頭旋律は短い前奏のあと弦・木管のきざむきびきびとしたしかし重厚なリズムにブラスの絶妙な「あいの手」、エルガーは「ゲロンティアスの夢」でリヒャルト・シュトラウスの賞賛を受けたそのオーケストレーションの技術をこの旋律表現に凝縮・結晶させている。ブラス編曲でもよく使われる曲ではあるが、この曲はまずは管弦楽で聞いて欲しい。ヴァイオリンを先導するトランペットの「たかたったかたったかたったかたったー」という軍楽隊ふうのフレーズが私はとても好きである。「威風堂々」はシェークスピアの「オセロ」の台詞からとられた名前であり、全部で5曲作曲されている。しかし有名なのはその嚆矢であるこの1番だけだ。エルガー会心の作品を、ここではエルガー自身の指揮で聴いてみた。この曲は「行進曲」であり、旋律に流されずリズムを保持するのが肝要であるが、エルガー自身は急くように前のめりのリズムをきざみ、行進曲としての前進性をよくあらわしている。テンポは速めで、それは中間部旋律でも変わらない。しかし面白いのは計算ずくであらわれる恣意的なテンポ変化で、おっ、と思わせる。オールドスタイルといったらいいのだろうか、曲を磨き上げるよりもかっこよく響かせるために施されたような「解釈」(自分の作品なのだから少しおかしい表現だが)、印象的だ。ひびきは荒々しさも伴うが、それがまたよい。エルガーはシンフォニーも含めおびただしい量の指揮記録を遺しているが(それは自身の作品にとどまらない)、すべてに共通するのはドラマティックで気合いの入った演奏ぶりである。当時最高の録音技術で収録されたものであり、20年代の録音としては破格の音質で聴くことができるのは嬉しい。機会があれば、エルガーの自作自演にぜひとも接していただきたい。名演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:行進曲「威風堂々」第1番,◎作曲家指揮ロイヤル・アルバートホール管弦楽団(HMV,EMI/NAXOS他)1926/4/27クイーンズホール・CD,,旧録のカットぶり・改変ぶりと比べ「ほぼ」原典どおりの演奏で一部楽器の増強や調整はあるにせよ、この時代の録音にしては完璧。リマスターも復刻盤それぞれできちんと行われており、この名曲中の名曲を作曲家の手によって聴く贅沢を、諸所問題のある旧録よりもずっと楽しく味わうことができる。テンポは非常に速くインテンポ気味、多少つんのめるくらい。旧録では大幅にカットされたA部のマーチも旧録で異常に遅く演奏されたB部の歌謡的フレーズもさほどテンポに差を感じず、B部再現部の盛大な盛り上がりから一気にA部の変奏によるコーダに雪崩れ込むこの曲ならではの潔さの醍醐味を味わえる。書法の巧緻さそのまま曲のまとまりがより強く出ており、変なケレン味のない純音楽的な感興に身を揺らせる。それは古い演奏だからオケの前時代的な演奏法やバラケ味はあるにはあるが、使いたくない言葉ではあるが「ノーブルな」雰囲気を保ったまま威勢よくやりきった、この曲の範すべき演奏記録。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
エルガー:行進曲「威風堂々」第1番,ブリス指揮ロンドン交響楽団(DECCA)カラー・シンフォニーなどで知られる英国紳士作曲家の指揮だが、どうも性急であっさりしすぎている。この感情的な曲にはいくぶんかケレン味があってほしい。あまりにさっさとインテンポで進みすぎる。それに録音のせいもあろうが音が浅い。あまりに軽く、迫力がない。ブラスにもっと鳴って欲しいし、弦はもっと歌って欲しい。これはどう転んでも無印だ。サー・アーサー・ブリスの芸風に疑問。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
エルガー:序曲「コケイン」抜粋(偶発的ステレオによるサイド3),○作曲家指揮BBC交響楽団(HMV,EMI/NAXOS)1933/4/11・CD,,面白い企画であると共に信じられないノイズレスな擬似ステレオで自作自演を愉しめるもの。NAXOSのボーナストラックで一部違うマイクで拾っていた音を最終版録音(全曲録音)の同部分と合成して作成されたもので通常の擬似ステレオとは違いかなり「正しいステレオ録音」に肉薄している。それは楽器位置はめちゃくちゃだがモノラルを擬似化したような残響付加ではなく、不思議なのはノイズすら無くなっていて、5分弱ではあるがその長さがまたエニグマの1変奏を聴いているような丁度いい長さである。個人的にエルガーの曲は選り好みするほうだが、代表作といっていいコケインはその範疇外にもかかわらず、余りの音のよさに愉しんでしまった。タイムマシンに乗っているようだ。そして、BBCは上手かったのだ。エルガーの老齢にも関わらず厳しくしっかりした指示にきっちりつけているようで、同時代の他指揮者の録音にありがちな緩い気に比べ前進力と構成力の感じられる立派な演奏になっている。この時代のステレオ実験録音というとストコが行っていたらしいが未聴。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
エルガー:帝国行進曲,"",○ボールト指揮BBC交響楽団(VAI/78classics他)CD,,imperial marchと書かないと大日本帝國の曲みたいな感じがして変だな。。まあ大英帝国万歳委属曲の一つなんだけど。エルガーらしい非常に手馴れた行進曲。エルガーとしてはかなり常套的である。ボールトBBCシェフ時代の割と数少ない記録だが、即物的な処理が強い気もする(ボールトはかなり「意識的」な指揮者で古くはトスカニーニふうの乾燥した表現も目立った)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
オーリック:バレエ「水兵たち」組曲,○E.クルツ指揮ヒューストン交響楽団(columbia)LP ,,サティ(パラード)でぶっ壊れた頭を優しく治してくれるB面曲、ディズニー漫画のような曲。エフレム・クルツは巧緻なオケを繰って、50年代的なロマンティックな表現で過不足なき音楽を提供している。飽きないうちに終わる組曲。まあ、オーリックは上手いです。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オーリック:バレエ音楽「水夫」五つのタブロー,デゾルミエール指揮ORTF(ina)1949/3/7,,タイユフェールなどの作品と共に放送されたもの(日付は録音日、恐らく聴衆なしの放送用ライヴ)。作品は他愛の無い世俗バレエ音楽といったもので古風な感すらある。思いっきり六人組時代の古い作品なのでそこは仕方ないだろう。にしてもサティの後にこれか、、、小器用でこなれているがどこにも冒険は無く、職人的。録音もノイズがあり古く、余り楽しめるものではないが、勢い良く舞踏性を打ち出すデゾの覇気にびっくりする。オケはけして上手くはないがデゾの要求には応えている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オーリック:映画音楽「オルフェ」〜主題,○メトアン指揮交響楽団(cherry)1949・CD,,映画用の録音で恐らく映画本体からのカットオフである。派手でロマンティックな映画音楽だがこの作曲家の手慣れた手腕が発揮されている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オーリック:映画音楽「双頭の鷲」〜主題,○ツィピーヌ指揮パリ音楽院室内合奏団(cherry)1947・CD,,映画用の録音で恐らく映画本体からのカットオフである。六人組時代を彷彿とさせるリリカルな表現も混ざり、派手派手な曲ではあるが起伏あるいい曲である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オーリック:映画音楽「美女と野獣」〜主題,○デゾルミエール指揮交響楽団(cherry)1947・CD,,映画用の録音で恐らく映画本体からのカットオフである。古臭さを感じるものの映画音楽家としての作曲家の手腕が発揮された世俗作。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オッフェンバック:バレエ音楽「パリの喜び」(ロザンタール編),◎ロザンタール指揮RIAS交響楽団(REMINGTON),,ロザンタールはモンテカルロバレエ団のために上演用としてこの編曲をなし、この演奏も初演に忠実になされたと表記がある。もっともロザンタールにはモンテ・カルロのオケによる新しい録音(NAXOSに入っている)があるので、レミントンマニアでないかぎりこれを聴く意味は無い・・・と思ってびっくり。,,いやーオッフェンバックってケルンの近くで生まれたんですよね、ドイツだ。この演奏、余りにオケが中欧色濃すぎて面白いのだ。重い響きや動きがロザンタールの拡散的で明るい音楽と程よく調合され、実に充実した聴感の深みある演奏に仕上がっているのである。RIASがこういうノリ方をするのも面白いし、木管を始めブラスに弦楽合奏、全てがまるでワグナーを聴くよう。フレンチカンカンの後にはいきなりマーラーになってしまう。,,だがロザンタールの本領たる・・・録音では今一つ客観的に整え過ぎに聴こえるきらいもあるが・・・「舞踏性」「前進性」が活きている。とにかく積極的に引っ張って、この結局ドイツ的なオケに突進する勢いを持たせ派手な表現を可能とさせている。,,曲自体非常に人気があるもので、ロザンタールの編曲も聴き映えする。だいたいオッフェンバック自体軽音楽的な見られ方をしがちだが、オケ本来の特色並びにロザンタールの手腕により、全く下品になっていない。寧ろ同時代の中欧ロマン派音楽からしっかり学んだよく出来た曲なのだなと思わせる。ちょっと吹くくらい真面目な演奏表現もあるが、抽象音楽として愉しむにはうってつけの演奏。,,"Offenbach", Rosenthal: Gaite Parisienne/ Offenbachiana/ Rosenthal," Monte-Carlo PO",,"Offenbach arr Rosenthal: Offenbachiana",-----,
オテスコ:歌劇「デ・ラ・マタイ・シタイア」序曲,○エネスコ指揮NYP(DA/Lanne:CD-R)1937/1/31live,,エネスコの指揮は非常に俊敏で一時的にフォルムか崩れる(ここでは縦線がずれる)のも厭わず強引に推し進めることで全体の流れを巧く作る特徴がある。弦楽器の音色への拘りは自身の演奏で聞けるようななんとも前時代の芳香漂うものとしてここでも提示されている。それはやわで繊細なものではなくむしろ積極的にグラマラスなことをアピールしてくるようなものだ。曲は詳細不明である。二曲が抜粋されているが、同時代の比較的わかりやすい音楽からの影響を受けたリズミカルなもので、端緒や背景に前衛的な響きやポリリズム的な進行を配置してはいるものの、旋律性が強く否応なく愉しませる。ヘブライ風の音律は作曲家の背景を示しているのだろうか。そのせいか2曲目がプロコのヘブライの主題による序曲をもろに髣髴とさせるものとなっており特徴的である。管弦楽にピアノを入れるのはプロコもストラヴィンスキーもショスタコもやっているがちょっとあざとくずるい感じもする。一曲めに戻るとそこにはドビュッシーの影響の強い、印象派風の音響ともっとロマンティックな時代の旋律音楽の残響が聞かれる。色彩的な音はなかなかに面白い。録音はきわめて悪質。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
「フランス音楽の名品たち」,奏者不明ORTF?(FRENCH BROADCASTING PROGRAM,NATIONAL RECORDING STUDIOS N.Y.)LP,,FRENCH BRO PROGRAM 273番と名づけられた解説付きのおそらく名曲全集か放送録音の一枚。ステレオであるが演奏家表記は無い。ゴルシュマンあたりか。曲はいずれも抜粋で、サティのジムノペディ第2番(ドビュッシー管弦楽編曲版?)、パラード、プーランクのラプソディ第1番、ミヨーの屋根の上の牛、そしてオネゲルの夏の牧歌という曲目である。爽やかで毒の比較的少ない演奏効果の高い曲目が選ばれており、プーランクなどけっこう楽しめる。演奏的にもやや落ち着いたテンポではあるが色彩的で丁寧。評価不能。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
オネゲル:ヴァイオリンとチェロのためのソナチネ,○シェーンフェルド・デュオ(EVEREST) これがけっこう聞けるからムカツく(ラヴェル参照)。といっても曲自体を楽しむレベルにいっているというだけなのだが。オネゲルの室内楽というと非常に晦渋な印象を持たれるかもしれないが、この曲はスイスというよりむしろ南欧、ミヨーの世界である。旋律第一で聴き易い。最初ほんとうにミヨーかと思った。楽天的で明るい曲想は、歌謡性に富み楽しい。2本がそれぞれのびのび歌っている(窮屈なラヴェルの演奏とはえらい違いだ)。短い曲だけれども面白かった。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:ヴァイオリンとチェロのためのソナチネ,○ジェンドレ(Vn)ベックス(Vc)(BAM/forgottenrecords:CD-R)1960,,ラヴェルのソナタとは違って尖鋭さは少なくオネゲルらしい新古典主義に立った作品である。一楽章は特に保守的で他のオネゲル作品にも似ており不協和音にもオネゲルらしさが感じられる。二楽章は「オネゲルは旋律が良いとホントに映えるな」と思わせる牧歌的な風情で六人組らしさとバッハに倣った構築性のバランスが良い。特筆すべきは終楽章の技巧性で、古典的な手法に立ちながらも構成に独自性が発揮され、ヴァイオリンのソリスティックなフレーズにはこれがとてもソナチネとは思えないところがある。ベックスはやや地味だがジェンドレは素晴らしく爽快に弾ききっている。モノラルで篭るのは惜しい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:オペレッタ「ポソル王の冒険」序曲とバレエ,作曲家指揮「オデオン」大交響楽団(MUSIC&ARTS)1930,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:オラトリオ「ダビデ王」,○ジットン指揮セント・ソリ管弦楽団、ガイヤール他(MUSIDISC)作曲家監修,,作曲家監修といいながら自作自演とはかなり違う。ちょっとスケールダウンするかわりに精妙なまとまりが魅力で、最後の最後のアレルヤ斉唱も正直カタルシスを味わえないほどに調和を重視した解釈と言えるが、美演として記憶にのこる演奏に歌唱だろう。セント・ソリの実体はいろいろ言われるが、これは録音状態によるものか、余りフランス的なアバウトさとか特有の硬質の響きといったものは殆ど気にならない。完成度、という観点からはかなり上、だから作曲家も監修の名をつけたのだろう。アレルヤを盛大に歌いながら涙を流したい人には向かない。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,-----,,,-----,,,-----
オネゲル:オラトリオ「ダビデ王」,J.ジットン指揮セント・ソリ管弦楽団、パリ大合唱団、ガイヤール(CA)(musidisc)作曲家監修,,終始軽い!明るくてこじんまりとした演奏。ドロドロや爆発的な開放感とは無縁で、起伏に欠ける。自作自演とは全く違う印象(オケの差、スタジオ録音ということもあるだろうが)。流れはいいが、聞き流すには長すぎるし、それでも耐えて有名なアレルヤ大合唱のカタルシスを得ようと思ったら大したパワーもなく終了・・・監修はオネゲルのことだからしっかりやっているとは思うけど、一つには編成が小さいこと、もう一つには「スタジオで理想どおりに音を整えるとこうなってしまう」ということか。綺麗だが無印。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
オネゲル:オラトリオ「ダビデ王」(1921-24),◎作曲家指揮ORTFほか、ミショー、デュフレーヌetc.(DEUCRETE THOMSON/PATHE他)CD オネゲルもミヨーもオーリックもプーランクもプレーヤーとして多数の録音を残しています。ミヨーは指揮もピアノも素晴らしく他のメンツとは一線を画しています。プーランクはヴィニェス門下としてメイエルらと席を共にしたピアニストでしたが、残された音を聞く限り晩年かなり衰えてしまったようです。ショスタコーヴィチ同様テンポが後ろ向きで微妙にずれてしまう。さて棒についてはオネゲルがいます。ニガモンの抜粋や一連の交響的運動の古い録音を聞く限り、オケや録音自体の薄さが棒の弱さに聞えてしまいいただけません。だが、この最晩年の録音だけは別格。ゴージャス、ゴージャス。とても田舎芝居には聞えない。全ての音に透明感があり美しい。ダビデの死におけるアレルヤ合唱は涙なしには聞けません。その涙も地に落ちるような悲しみではなく、崇高な光を伴い天に昇るような感動です。最近よく出ているので手にいれてみるのもいいでしょう。古典的名盤です。さいきん中古LPがよく出ている。(2003記)*CD化した模様(2004/5),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:オラトリオ「ダビデ王」(原典版),○エダ・ピエール(Sp)コラール(Alt)デュトワ指揮スタジオ・アンサンブル、カイヤール合唱団他(erato/warner)1971/5・CD,,原典版(但し語り付き)と銘打ちながら通常の交響詩篇と較べいささかの遜色なく聴けるのは豪華な布陣によるもの、以前に楽団と指揮者の力だと思う。元より素直に美しく仕上げられた(実際これだけの大曲にもかかわらず作曲期間は短い)オネゲルの出世作で、広く知られた一大叙事詩の各部は全て独立した音楽として効果的に成立し聴きやすく、死にさいしてのアレルヤコーラス(自伝によるとこのメロディを田舎の農夫が口ずさんでいるのを聴き成功を確認したそうである)のアピールする力はただでさえ凄いが、デュトワが素晴らしく曲の魅力を汲んでいわゆるフランス的な響きを決して崩さずに迫力あるドラマを組み立てていくさまは、未だ同曲の決定盤として伝えられるのも頷けるところである。ソリストや歌唱陣の充実がかつての定番であるボド、さらにオネゲル自身といった作曲家の監修の入った盤を上回る出来をもたらしているとも言える。拡散することなく全てはデュトワのもとにまとまっている。これを聴いて感銘を受けないならオネゲルの大曲は無理だと思う。そもそも、たぶん、交響的運動を除いてこれのみが、一般受けする作品だと思うのである。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」,オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:オラトリオ「死の踊り」,ミュンシュ指揮パリ音楽院管弦楽団他、バロー(語)(Pathe/DANTE/cascavelle/sls)1944/3/1・CD,,古い録音で音源によりノイズが厳しい。死の舞踏のイメージにもとづくクレーデルの台本による。絶望と空騒ぎ、アビニョンの橋など世俗から怒りの日に移り変わり、朗読から独唱から合唱、そしてオケには異様な緊張感が漲る。オネゲルらしい耳障りの良いキャッチーなメロディや響きも現れ、いかにもオネゲルのオペラジャンルの曲(もと劇付随音楽?)らしい常套性はかんじるものの、この演奏に戦争の影が無いと言えば嘘になる。ミュンシュは統制の取れた怒りを提示する。オケはORTFのようなよそよそしさはなく、管弦に特有の甘やかな、前時代的な色がつき、透明感はないが、それこそミュンシュのオネゲルにふさわしい音なのだ。皮肉っぽくずれた調性のまま途切れる終わり方は録音の問題でやや唐突感はある。ストラヴィンスキーの影響というより、暴力的な方法を敢えて模倣したのだろう。空疎で即物的な死ととらえる向きもおられるようで。クレーデルは第二次大戦への不安というよりその先の希望を示し、革命歌の利用はその意味があるらしいが詳しくはゴニョゴニョ。,-----,,,,,,,,,,,,,
オネゲル:オラトリオ「世界の叫び」,ツィピーヌ指揮フランス国立放送管弦楽団&合唱団他(EMI他)CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:クリスマス・カンタータ,ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団(COLUMBIA他)CD 合唱音楽にもよく取り組んでいたオネゲルの作品。それほどカイジュウではないが前半けっこう暗い。管弦楽の奏でる暗さや焦操感の表現の中に美しく敬虔な祈りの合唱が織り混ぜられ、モダンで都会的な宗教的カンタータを組立てている。この演奏では初めてテノール独唱があらわれるところでめい想的にひびくパイプオルガンがいささか心もとない。よほど小さいオルガンなのか?このあたりから曲調は「ダビデ」の終盤のように平易で古典風、アルカイックな明るい音楽になってゆく。このあたりの透明感はいい録音で聴くべきだが、この古盤もちょっと世俗の薫りがしていい。やわらかな高揚感の中、曲は終結。録音悪い。無印。(2003/12/24記) ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:コンセール・ダ・カメラ,○ブール指揮南西ドイツ放送交響楽団他(Ducretet-Thomson)LP,,最初は「あ、”夏の牧歌”のオネゲルだ」と喜んだのだが、結局新古典的な手法を頑なに守った曲で、(オケがではなく聴きごたえが)けっこう大規模な交響曲に近いものだと認識した。つまりは構造に走り音楽的には渋いところにおさまってしまったのである。ザッヒャーが喜びそうな曲だ。そういう感じ。○にはしておくが、演奏的に特筆するところはありません。客観的に整えられ、冷徹にさばかれている一方で、オケには比較的体温をかんじました。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:テンペスト前奏曲,マリウス・コンスタン指揮モンテカルロ・フィル(erato/warner)CD,,作曲家自身が確か交響的運動とともに録音を残している、そのとおりで作風的には主題を持たない交響的運動作品、響きはジョリヴェを洗練させたように野蛮主義的だが計算された立体的な代物で超音波のように超高音を響かせたり弦には半音階的な機械的フレーズを繰り返させ、ドガシャーンをやる、楽しいというか、騒音主義を律したようなもので、むしろマリウスでよかった、といういくぶん和らいだ演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:テンペスト前奏曲,作曲家指揮大交響楽団(MUSIC&ARTS)1929,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:ニガモンの歌,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1962/4/27live,,派手にぶちかますミュンシュ的なかっこいい演奏ではあるが、若干尻すぼみにも感じた。曲の元々の構成とはいえ盛り上がりが前に来てしまい、客席反応も戸惑い気味である。オケは上手い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:ニガモンの歌,ルネ・バトン指揮パドルー管弦楽団(m&a他)1929・CD,,オネゲルらしくない半音階を駆使した前時代的な、ロシア国民楽派的な音楽で、しかし録音がアレなので響きや組み立ての斬新さが聴き取れずバトンの作り出す前時代的交響詩のドラマで押し切られただけかもしれない。時代からするとよく迫力のとらえられた録音ではある。自作自演集に入っているが自作自演ではない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:ニガモンの歌,ルネ・バトン指揮パドルー管弦楽団(MUSIC&ARTS)1929,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:パシフィック231,○ツィピーヌ指揮フランス国営放送管弦楽団(EMI)CD,,轟音響く演奏ぶりでとにかくオケの気合いが物凄い。ツィピーヌは目前の障害物をズバズバと切り裂きながら強力に進んでいく汽車を演じあげている。といっても粗い演奏ではなく、音響的にはきちんと組みあがっている(一部テンポ的に停滞を感じさせなくも無いが)。どこか暗さがあり、暗雲たちこめるオネゲルのもう一面を予感させるところもあるが、これもまたツィピーヌの深い読みといっていいかもしれない。単純に古い録音のせいかもしれないが。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:パシフィック231,○フルネ指揮オランダ放送フィル(REGIS)CD,,一連のオネゲル交響詩群録音の中では一番聴き応えがある。緩やかな曲想ではのんべんだらりとしたテンポでいかにも整えたふうの客観的な演奏をこうじる、確かに立体的で色彩感はあるが過度には色をつけないようにし、いかにもフランス的な指揮者ではあるのだが、実演の評判に反し地味めの印象が残る。しかしながら烈しく刻む律動的な曲想になるとおもむろに音楽が立ち上がる。構造への配慮、構成力が活きてくる。気を煽る指揮者に変貌するのだ。やや残響過多の録音だが、煙りの匂いはしないが、純粋に音楽の組み上がり跳ね回るさまを楽しめる佳演。楽団は透明で無個性。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:パシフィック231,○マルティノン指揮ORTF(EMI,TOWER RECORDS//warner,icon)1971・CD,,私はマルティノンの一連のオネゲル録音の中でこの録音は、マルティノンらしさがやや悪い意味で出ているようにおもう。骨太で落ち着いたテンポを保ち構造を客観的に整えていく、これはこの曲においてはちょっともう少し外燃機関の発火するさまを描くほうに気をやってほしい。すなわち最後までスケールが拡散したまま凝縮していかないような設計で、オケもごつごつしたままというか、ぴしっとまとまった感じが私はしなかった。機械的なとりまとめは上手く、それをきちんと機械的な音楽である、と認識させたまま聴かせられるところがオネゲル適性のある指揮者たるゆえんで、悪くはないが、録音の多い曲でもあり、相対的な感想を素直に書かせていただく。○。,-----,,,,,,,,,,,
オネゲル:パシフィック231,コッポラ指揮グラモフォン交響楽団(GRAMOPHONE/lys)1927/11/15パリ・CD,,冒頭からブラスソロが危なっかしい。奇怪なリズムをかなり技巧的に表現しなければならないので、とくにこの時代の貧弱な録音方法では、オケ総体としての音量と整合させつつしっかりソロパセージを聞かせるのは難しいのかもしれない。ソロとオケ別録ならまだしも。弦がマスで加わるとテンポが安定して、流れで聞けるようになる。しかしやはりこの曲はこの時代の録音技術およびフランスオケではなかなか難しく、手だれのコッポラをしても聞かせどころである音量の巨大な起伏すら作れずちぐはぐで粗雑にならざるをえなかったようだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:バレエ音楽「アンフィオン」〜前奏曲、フーガと後奏曲,マリウス・コンスタン指揮モンテカルロ・フィル(erato/warner)CD,,これは曲はオネゲルにありがちな曇った構造的な作品で、演奏はパッとしない。すっきり、厳しくアンサンブルを整えて透明感を出すようにしないと、交響的運動と呼ばれた作品群や初期を除く大半のオネゲル作品はこんな残らない演奏になってしまう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:バレエ組曲「アンフィオン」,作曲家指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送管弦楽団(forgottenrecords)1949/5/29放送live,,作曲家がロスバウトのオケを振った大変珍しい二枚組で、オネゲルの自作自演というとたしか戦前の交響曲一曲協奏曲二曲を含むSP録音群、晩年の「ダビデ王」および歌曲伴奏くらいしか無かった。まだ40年代の放送録音なので状態の悪さは仕方ないが、残響を加え拡がりをだしている(ゆえにノイズも拡がりが加わり耳心地は良くない)。音場が左右にぶれたりするので素直にモノラルで聴きたい気もするが、この曲は冒頭からやたらと豊潤な和音が変化しながら続く趣向で、情報量やクリアさがないと美質が伝わりづらく、モノラルの狭い音よりは原音に近いかもしれない。オネゲルの棒がそうやってるだけかもしれないけれど旋律が細く、むしろ和音の連なりによって色調変化をあらわし、さらにバッハ風の機械的構造をもって曲を作り上げていく。ヒンデミットのわかりやすいほうの作品を思い起こすところもあった。バーデン・バーデンのオケはロスバウトのとき同様渋い音で、けして色彩感はないが透明感はあり、この輝きと透明感がひたすら売りの作品には向いている。組曲というが切れ目はない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:ピアノとチェロのためのソナチネ,○ベックス(Vc)ノエル・リー(P)(BAM/forgottenrecords:CD-R)1960,,枯葉の舞い散るような1,2楽章は余りに簡単でオネゲルらしくない表現。チェロの旋律もチェロという楽器のソロに要求されるような暗さをはらんだままである。3楽章が特筆すべきで特徴的な音型で煽るピアノにのってチェロが弾むようにサロン的な音楽を奏でる。だが小品の定め、すぐに終わる。演奏評はどうにも言い難い。比べるものが無いし、比べるほどの差も出にくいだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:ピアノのための小協奏曲,○クリーン(P)ホルライザー指揮ウィーン・プロ・ムジカ管弦楽団(VOX)CD,,廉価盤でCDになっていた。ホルライザーらしい実直なテンポが曲構造の緩みがちなところをひたすら引き締めて、最初はぎごちなく感じるが(曲のせい)、3部くらいになると安定した聴きごこちをかもし程よく感じられてくる。実直なためにいびつな構造の曲をそのまま描いてしまい、いささか尻切れトンボの感もあるが、まずまず。リズム感とアンサンブル能力以外に特にピアニストの腕が問われる曲でもないので、ソリスト評はできない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:ピアノのための小協奏曲,○レヴァント(Pn)ライナー指揮コロンビア交響楽団(SONY/WHRA)1949/7/6・CD,,3部構成だが伝統的な協奏曲の風合いはなく、1部はミヨーの協奏曲を髣髴とさせる田園風景から(はぜるような和音から、カモメの水兵さん、みたいな経過句とか)突然プロコのようなリズムと音の力感が漲ったと思うと、ブラスと弦楽器がまさにオネゲルといった掛け合いを始め、プーランクのような数珠繋ぎが暗くモダンな景色の中あくまで計算の上で続けられていく。この録音はスタジオ録音である。一聴ミヨー風だがなかなか機知に富んだ(難しい)この作品を、しかし軽快に弾き飛ばしていく。多分ミヨー以上にまとまらない曲で、とくに終盤尻すぼみになりがちなところ、盛り込まれた書法の変化を鮮やかに聞き取ることができ、その面で飽きない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:ピアノ小協奏曲,○イオケレス(P)ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト放送交響楽団(MELODIYA)LP,,6人組のミヨーやプーランクあたりを思わせるうららかな曲想からはじまり、最後にはあのバッハ的なメカニカルな構造があらわれるがそれほど緊密ではない。小品を手だれの奏者がそつなくやった、といったかんじか。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:ピアノ小協奏曲,○ジャッキノー(P)フィストゥラーリ指揮フィルハーモニア管弦楽団(naxos他)1953,,現在はweb配信もされている音源。しっかりした足どりだがあくまで柔らかい表現で牧歌的な前半部から悪魔的な後半部までブレなく演じている。オケも控えめで若干客観性が勝っている気がしなくもない。この分裂気質の曲をわかりやすく入りやすくしてくれているという意味で、入門盤として○にしておく。録音はやや悪い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:ピアノ小協奏曲,○ベラール(P)ツィピーヌ指揮ORTF(fr:cd-r/columbia)1957/2/14,,まるでプーランクかフランセ風に軽く始まるが最後は構築的にシニカルな楽想で終わる小品。聴かせやすい、そしておそらく弾きやすい曲なのでもっと演目にあがってもよかろう。演奏の始まりは落ち着いたもので、やや気を削がれるが一旦そのテンポに慣れると小気味よく聞き流せる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:ピアノ小協奏曲,チッコリーニ(P)クリュイタンス指揮NYP(forgottenrecords)1957/11/17live放送,,六人組!というミニアチュールで、単一楽章で十分に満たない。ミヨーを思わせる世俗性から低音ブラスを使った重層的な晦渋さを混ぜていき、だが前進性を失わず、まさにオネゲルの映画音楽的なモダンさが支配的になる。ピアノがトリッキーではあるが面白みを維持し曲をきっちり進行させていく。後半の凝り方が前半とのギャップをみせ、オネゲルの立ち位置をはっきりさせる。退えい的な終わり方も個性的だ。この頃のチッコリーニはパキパキに指が回りテンポが滞ることもなく牽引していく。録音さえ良ければ!,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:モノパルティータ,○クーベリック指揮イリノイ大学管弦楽団(不詳)1952/3/29ウルバナ現代音楽祭live,,単一楽章にまとめられたパルティータといういかにも晩年オネゲルらしい数学的な題名だが、組曲的な側面は浮き立ってこず比較的有機的に組み合ってすすみ終了する。クーベリックの芸風は終始ハイな状態で起伏の伏がない。このような渋い曲だとそこが耳障りに感じられるようになっていく。この演奏は私はなじめなかった。といって、まあ、ほぼ録音記録としても最初のものなので、しょうがない面もあろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:モノパルティータ,○ザッヒャー指揮ORTF(PATHE)LP,,案外構造的でない、オルガンみたいな重厚な和音の旋律に従った変化で曲を進行させるたぐいのものが多い気がするがこの曲もそれ。しかし円熟期後の焦燥感があざやかな律動に昇華されたプロフェッショナルな書法はオネゲルファンを十分マンゾクさせることだろう。ザッヒャーはもうさすがと言うか、室内楽団でならした腕をその厳しさのままにオケに押しつけるわけでもなく同時代に人気をはくした中欧指揮者のそれに近いドラマを力強く示している。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
オネゲル:モノパルティータ,マリウス・コンスタン指揮モンテカルロ・フィル(erato/warner)CD,,比較的演奏される、交響曲群を思わせる抽象的なアンサンブル曲。50年代に「現代音楽として」ロスバウトに初演された。ここでは「室内アンサンブル的な緊密さ」は聴かれず、派手で少し柔らかく、一般的な交響曲的表現がとられており、そこがオネゲルの「頭でっかちな魅力(バッハに倣え系新古典主義というやつですか)」を損なっていると感じるか、単純に聴きやすい(緩徐主題はいくぶん夢見るような叙情性を醸すし、ドラマは有機的に繋がりあまり構造に拘泥させた聴き方を要求しない)と感じるかは人それぞれか。かつてはこれくらいしか曲を知り得る録音は無かった。今はもっと昔のオネゲルの同僚クラスの演奏から最新の厳しい演奏まで選ぶことができる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:ラグビー,◎ツィピーヌ指揮フランス国営放送管弦楽団(EMI)CD,,モノラルなのが本当に惜しい。でもCD化によってかなりクリアになり、水も切れるような素晴らしい響きが再現されるようになったのは嬉しいことだ。オネゲルの創り上げた音楽的構造物をぎっちり組み上げ、バシバシ切れ味鋭く響かせていく。能天気な明るさはないが、適度に爽やかな雰囲気があり、必ずしもスリリングでどきどきするだけの演奏ではない。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:ラグビー,○フルネ指揮オランダ放送フィル(REGIS)CD,,随分と広大なラグビー場だ。純粋に音楽として聴いていれば美しく繊細な、それでいて内には強い構造性を保った演奏に聞こえるが、ラグビーの音楽とは違う。。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:ラグビー,○マルティノン指揮ORTF(EMI,TOWER RECORDS/warner,icon)1971・CD,,華やかな曲でこそ活きる指揮者なのか、オケなのか、パシフィック231の録音と比べて、楽しく気を煽られる演奏になっており、スケール感がスカスカ感につながるようなこともない。ラグビーそのものの描写的な部分よりも純音楽的な響きの面白さやヒンデミット的な構造と運動性のえぐり出しに専念しており、客観主義すれすれのところでそちらに落ちないところが魅力である。交響的運動そのもの、録音のよさが色彩的なこの人やオケの特長を余すところ無く伝えてくれていると言ってもいいかもしれない。◎に近い○。,-----,,TITLE: コッポラ ワイン,URL: http://mattariwain.seesaa.net/article/133005808.html,BLOG NAME: まったりWINE♪,DATE: 11/15/2009 18:38:40,,,,フランスワインやイタリアワインも大好きですが、最近ニューワールド系のワインにもすごく感動させられます。南アフリカなんかもすごく美味しいですよね♪フルーティーなモノが多く、価格も買いやすいのがお気...,-----,
オネゲル:ラグビー,コッポラ指揮グラモフォン交響楽団(GRAMOPHONE/lys)1929/3/4・CD,,パシフィック231と対をなす爽快な運動的小品で、ここではコッポラはオケの捌きの腕を存分に発揮し立体的な書法により巧みに錯綜する音楽を不断のリズムとテンポにのせてしっかり突き通していく。オケは時代なりの精度ではあるが、コッポラらしい、時代を超越した現代的な演奏にもなっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:映画音楽「ナポレオン」〜Z.影,マリウス・コンスタン指揮モンテカルロ・フィル(erato/warner)CD,,和声的にゆったり動く弦の上でトランペットソロが軍隊ふうであれど孤独で、断片的な旋律を吹く、その繰り返しで、どこかで聴いたような、アイヴズのような、しかし映画音楽には贅沢なピアニッシモの断片。単純で、さすがにマリウスも外さない。ニガモンの歌とは関係ない。,-----,,,,,,,,,,,,,
オネゲル:夏の牧歌,○フルネ指揮オランダ放送フィル(REGIS)CD,,中間部の律動性が素晴らしい。無骨なまでにスコアにこだわった演奏ぶりは両端部では変に間延びしたうえにごつごつして聞こえるが、激しいリズムに動きが集束するとみずみずしくキレよい音楽がたちあらわれる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:夏の牧歌,○マルティノン指揮ORTF(EMI,TOWER RECORDS/warner,icon)1971・CD,,マルティノンは磨き上げたオネゲルを提示する。フランスオケ特有のソリスト級個人技や特徴的な音色に依存した柔らかい表現より、きちんと律せられ硬質とすら感じられる音を正確に緻密に組み合わせ、じつにオネゲル的な立体構造物を作り上げる。夏の牧歌が他の交響的運動作品と地続きの曲であると気づかされるのである。作曲家指揮者ならではというところだが、この曲には別の情緒的な、ふわふわした、緩い雰囲気が欲しい気も否めない。美しく曲の美質を正しく忠実に取り出した演奏ではあるが、簡単に全肯定もできないかな。なんか、古い演奏録音とくらべ時代もあるのだろうが、オケが窮屈で、ニュートラルだ。,-----,,,,,,,,,,,
オネゲル:夏の牧歌,◎マルティノン指揮ORTF(EMI他)1971/6,7・CD,,実に雰囲気のある音。精妙な響きの美しさがマルティノンの持ち味でもあろう。ガチガチのロマン派の曲だと堅苦しさや冷たさも感じさせるが、スコアがそのロマン性を含めしっかり描いている場合は曲のままに香気が立ち上る。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
オネゲル:夏の牧歌,○マルティノン指揮ラムルー管弦楽団(FR:CD-R/PHILIPS)1953/2,,生き生きとした愉悦感溢れる演奏。オケの少し鄙びた音色もいいし、わりと派手にぶっ放すところも意外。マルティノンの芸風にしては若々しくロマンティックなところが特筆すべきだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:夏の牧歌,クーツィール指揮ACO(RCO)1943/7/22live放送・CD,,冒頭中音域がほぼ聴こえないなど録音は極端に悪い。ノイジーなうえ、演奏がまたねっとりして、コンセルトヘボウらしいといえばらしいのだがポルタメントをかけまくったりなど、オネゲルらしい涼しげな雰囲気はゼロ。ホルンソロもこのオケらしい無骨さがある。それでもオネゲルが施した旋律と響きは強固なもので、解釈によりどうこう左右されることはないので、面白い演奏として消化していくことはできるし、だいたい同曲はどう転んでも牧歌そのもの。ノイズが無かったら普通に聴けるレベルかもしれない。拍手あり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:夏の牧歌,クーベリック指揮ACO(RSR/cascavelle他)1959/11/4モントルー音楽祭live・CD,,クーベリックの芸風からしてオネゲルは交響曲向きであり、落ち着いた趣の同曲には正直向かない。オケが中欧的なためブラスなど管楽器の重い響きに違和感があり、満を持して弦楽器が出てくるまで余りにもリアルで、あと残響付モノラル音源の硬質さが馴染めなかった。ただ、この静かで穏やかな高地の夏、という趣の曲にはやっぱりオネゲルらしい立体的な書法が施され、削ぎ落とすRVWとはまったく異なる。ロマンティックなディーリアスとも異なる。構造性をはっきり浮き彫りに、力強く表現するところは独特のおもしろみと迫力がある。余技的演奏かもしれないが、同曲と、幻想交響曲が好きならどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:夏の牧歌,デュトワ指揮バイエルン放送交響楽団(erato,naxos)CD,,ゆったりと、美しい響きを楽しめる。曲だけでなく演奏もだ。デュトワはどんなオケでもこういう音にできるらしい。仄かな感傷性をくゆらせ、末尾も静かに余韻を残す。デュトワはわかりやすいので、ほんとに万人向けとしてすすめられる(この曲はそもそも近代の管弦楽のための田園牧歌としては最も親しみやすい作品だが)。夏と言わず、晴れた日にはよく似合う澄み切った、スイスの風。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
オネゲル:夏の牧歌(1920/8),
ミュンシュ指揮ORTF(DISQUES MONTAIGNE他)1962/6/8LIVEオネゲル音楽祭・CD
モノラル。テンポ等、ちょっとロマンティックに揺れすぎる感がある。また、ミュンシュらしいのだが、1音1音が強すぎて、元の曲の繊細な美しさを殺してしまっている。この美しい曲には柔らかい抒情が欲しい。無印。,,
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オネゲル:夏の牧歌(1920/8),○アルベール・ヴォルフ指揮デンマーク放送交響楽団(ARTESYMFONIA)1965/1/28ライヴLP 自作自演盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:夏の牧歌(1920/8),○ゲール指揮パリ国立歌劇場管弦楽団(EDITION LIMITEE)LP 曲がとても巧くできているためどんな演奏でもソリストがこけなければ成功するたぐいの曲である。フランス六人組が得意とした牧歌的な風景の描写。夏の真昼の香りがする名曲だ。だが、ゲールは少し重い。ホルンからオーボエへ息の長い旋律・・とても美しい名旋律だ・・を彩る他の管楽器や弦が、がしがしと合いの手を入れてくる。解釈がそうなのかもしれないが、夢幻的な雰囲気が途絶えてしまう。全般に武骨な解釈はホーレンシュタインを思い起こした(あれほど武骨ではないが)。特徴的な演奏ではあるので、手元の盤は盤面が悪いのであまり良くは評価できないが、○ひとつということで。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:夏の牧歌(1920/8),○シェルヒェン指揮ロイヤル・フィル(ロンドン・フィル?)(westminster、国内盤CD化)1954・CD 自作自演盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:夏の牧歌(1920/8),○作曲家指揮管弦楽団(EMI,M&A他)1931アンセルメ盤はここにあげた中では異色で、感傷的な雰囲気を一切盛り込まない独特の演奏だ。水晶のような響きを細工もののように組み合わせて曲作りをしているが、録音が古いために肝心の美質がよく聞き取れないという、決定的な難点がある。マルティノンはラムルーとも録音を残しているが、この新録は明晰な解釈と適度に喜遊的な雰囲気の持っていき方が絶妙。音質も含めて一番推薦できる。颯爽とした棒はマルティノンの長所だが、一音一音がはっきりしすぎていて、柔らかい抒情がいささか失われがちだ、と思う時もある。アルベール・ヴォルフのライヴは最も叙情的な演奏といえよう。細かいルバートや謡いまわしを込めて、優しく歌っている。仄かな感傷性を感じたが、いささかの音の悪さが難点といえば難点。シェルヒェンは一緒に入っている交響的運動三部作のほうが流石聞き物だが、この静かな曲は情深く感慨を受ける演奏に仕上がった。なかなか。最後にオネゲルの自作自演だが、悪い音は仕方が無いとして、解釈の素直さと演奏者の感傷的音色が適度に噛み合い、まま心地よく聴くことができる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:夏の牧歌(1920/8),アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(LYS,1942/10/1)  自作自演盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:夏の牧歌(1920/8),ゲール指揮オランダ・フィル(CONCERT HALL)LP この盤のラインナップの中ではぱっとしないか。別記の演奏と恐らく違うものだと思うが、手堅さ以上のものを感じなかった。まあ私の盤面が悪くてダメダメ聞こえるせいかもしれないが。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:夏の牧歌(1920/8),ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(NAXOS/CAPITOL)CD じつになんの感傷もなくさっさと進んでいく音楽に疑問。ほのかな感傷性がなんともいえない曲なのに、速過ぎだ。弦が薄いのは単純に編成上の都合か。音は透明感があって綺麗だがケレン味のなさがひときわ即物的な音楽作りを際立たせて、つまらない。無印。ま、私のLPが余りに悪い状態なせいも・・・。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:歌劇「ユーディット」,ロザンタール指揮ORTF&合唱団、モーレーン他(ina配信)1956/3/23放送,,前年11月27日に亡くなったオネゲルを讃えると称して催されたコンサートによる放送記録(恐らく一度のコンサートだと思われるが前の交響曲とは放送上の間隔があり、データにはユーディットとしか記載されておらずこの計二曲がプログラムの全てだったかどうかもわからない)。優秀なモノラル録音で、脚本のロラン・マニュエル自らほかロザンタール、アナウンサーによる長い解説やコメントも入っている。多作なオネゲルのめったに上演されない歌劇(オラトリオとしても編まれている)でキリスト教色濃く、他の多くの歌劇同様一時間にも満たないが、若い作品の割に激しく晦渋な部分や重苦しさが目立ち、映画音楽家としても活躍しただけあり名旋律や特有の扇情的なコードなど織り交ぜられはするし、最後はいつもの、というか代表作ダビデ王のようなきちんと盛大な終わらせ方をするものの客席反応は戸惑い気味。が追悼コンサートでもありロザンタールや歌唱陣などへのブラヴォはパラパラと飛んでいる。世俗的なロザンタールでなければもっと聴きづらかったか、むしろ作品の理知的な面を整理して聴きやすくなっていたか。歌についてはよくわからないが合唱の扱いは上手い。管弦楽とはバラで簡潔に、ではなく一緒にして組み立てていく音楽。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:喜びの歌,○ザッヒャー指揮バーゼル交響楽団(PAN classics/ACCORD)CD,,前進性よりも繊細な動きや響きをくまなく描き出すことに専念した様子が伺えるが、楽曲自体短いうえ構成的にもそういう表現を許容する緩徐部の長さが感じられるため違和感はない。力感は健在であるが、上記のような美観こそザッヒャーの真骨頂だろう。ドイツでブールらがやっていた音楽に近い美学を感じるが、ロスバウトのような前時代的な香り「も知っている」表現者のものである、とも思った。だから軽すぎないし部分的には曇っているのが深味になる。ザッヒャーは晩年ルー・ハリスンなど前衛音楽の録音に専念したため、特に晩年の三枚組みでは唯一一般的に聴けるレベルの作曲家作品の一枚となっている盤であり、重要。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:劇付随音楽「フェドーラ」組曲〜W、X、Y,マリウス・コンスタン指揮モンテカルロ・フィル(erato/warner)CD,,明らかに春の祭典を意識したような部分と、同時代によくある晦渋な交響作品が不思議と絡んだような作品。フランスふうというか、ストラヴィンスキーがハルサイにて木管ソロに奇怪なフレーズを吹かせたのがそもそもだが、管弦楽にはどことなく洗練されたふうの響きもある。演奏は普通。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:弦楽四重奏曲第3番,○タネーエフ弦楽四重奏団(melodiya)LP,,短いし余り個性的でもない、いかにもオネゲルの晦渋作品といえる。しかし決して難しい感じはしない。対位法的な絡み合いもミヨーほどの複雑さをていすることはなく、どちらかといえばベートーヴェン以前の弦楽四重奏曲を目指しているような単純性を感じる。また案外和声的である。構造より縦の響きの変化を聞かせようとしているかのようで、ちょっと「ピアニスト作曲家」ふうのところがあるかもしれない(オネゲルは指揮しかしなかったのだが)。響きの重さはルーセル的だ。この時代に極めてオーソドックスなフーガ構造を不協和音で構成するというのは、ちょっとどっちつかずかもしれない。いかにもシェーンベルク後の非和声的な響きが支配するものの、ある種の法則性があるため慣れるとそれほど違和感がなく、ミヨーより素直でわかりやすい。これは特質でもあり、欠点でもある。オネゲル好きは交響曲第3番以降あたりを少し彷彿として喜ぶかもしれない。まるでミヨーふうの旋律もちらと出る。,,タネーエフは掴みかねている感じもするが、元々曲自体が掴みにくい出来なのであり、しょうがない。他の盤でオネゲルを聞いても正直わけがわからないことが多いので、その点健闘していると評価して○にしておく。まあ、短い曲です。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
オネゲル:弦楽四重奏曲第3番,○ブルガリア弦楽四重奏団(harmonia mundhi),,オネゲルのカルテットは余り演奏されないし録音すら微々たるものだ。このアレグロ楽章でアダージオ楽章を挟んだ三楽章制の短曲など聴くとそのわけがわかってくる。オネゲルの純器楽曲という点で機械のような構築性や理知的な斬新な響きの連環を求めて聴くならば、意外なほど単純な構造しかなく(ただオルガン的な和声のために4本の楽器が存在するかのような場面が多々)、しかもかなり晦渋な主題がえんえん展開されていく様に辟易としてくるだろう。最後に肯定的な主題が暗雲を吹き消すところなど確かに魅力的ではあるのだが、交響曲第2番とほぼ同じような構成であるわけで(時期的には4年ほど遡る)、まるでかつて楽曲普及のため通俗的に行われてきた「交響曲のピアノ版」みたいな印象を受ける。逆に言えば交響曲群の試作としてカルテット群が作られたのかといった感じもある。技術的に安定し整備された引き気味の演奏を行うこの団体の手にかかるとまだ、透明感の中に聴ける要素は見出せる。演奏上決して技術的難点のない曲だと思うし、短いからもっと演奏されていいとは思うのだが、オキラク音楽愛好家には少し敷居が高いかもしれない。私にとってもだ。1937年にアメリカのクーリッジ婦人をパトロンとして作曲されプロ・アルテ四重奏団により初演された。演奏がいいので○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:古典組曲,○ザッヒャー指揮ORTF(PATHE)LP,,初期もしくはバーゼルの喜びのようなものに近い六人組的な牧歌的なフレーズを、高音管楽器を中心に弦のピチカートなどをまじえて、とても擬古典とは言えないが管弦楽のとりあわせと単線的なあつかいに古典的なものを使っている。のんべんだらりとしがちなレガートな曲だけに引き締めてかかるザッヒャーの手腕が光る。薄雲のかかったような暗い曲想から輝かしいヴァイオリンの歌より金管へ受け継がれるろうろうとしたもの、弦の律動が構造的なひろがりを演出する壮大な結部への流れはオネゲル得意のあざとい狙いがあるにせよだらけずにのめりこめるのはザッヒャーだからこそか。このあたりの書法はほとんどヒンデミットだけど。いい曲はいい演奏で聴かないと屑に聞こえかねない、これはいい演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第1番,○タバハニク指揮ORTF(INEDITS.BARCLAY)LP,,"タバフニクと呼んでたけどタバハニクか?公式サイト。で、こちらのニュースをご存知のかたも多いかと思う。コメントは控える。「引退状態」とされている。",,演奏は厳しく大変立派である。録音状態がベストではないのでメカニカルな構造の細部が聴こえづらいきらいもあるが、精緻すぎず集中度の高い演奏で、かといってミュンシュ的なぶよっとした感触もない。オネゲルには向いていたのではないかと思う。曲も牧歌的な趣を残した聴きやすいもので、だが旋律や響きに依存するのではなく引き締まったリズムとテンポであくまで硬質の叙情を保持している。私は好きだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
オネゲル:交響曲第1番,○ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト文化省交響楽団(MELODIYA)CD,,粗野と言うにはしっかり磨き上げられているが、とにかく音が鋭く圧がドギツイ。現代的音響に注力しているようで、ミヨーと近似したところもあるこの交響曲を、オネゲル独自のものというより同時代のそれとして表現してみせたようにも感じる。曲自体RVWが影響を受けたという風説が正しいかと思えるぐらい叙情的な一方、後年のそれよりも響きがとがっている感もあり、ロジェストはそれを敢えて引き出したのかもしれない。確かにスヴェトラにはできない純度の高い芸当だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第2番,
ミュンシュ指揮BSO(SLS)1956/11/30live,,意外と良い録音で迫力がある。3楽章制の弦楽合奏曲でオネゲルでも特に緻密に書き込まれたアンサンブル、それは晦渋さをかもし、この作品と格闘中にパリ陥落となった時代背景もあってその反映ととらえる向きは多いが、作品としてはあくまで「バッハに倣え」である。1,2楽章の陰鬱さについてもただ同じムードの音楽として聞き流すのではなく、弦楽器各パートの絡み合いを聴くべきところで、古い録音でもそのやりとりの精密なさまが明確にわかるところがオネゲルらしい職人性といえる。同郷(オネゲルはほぼフランス人だが)ザッヒャーの室内楽団に向けてのもので、これがかつての小品にみられた機械的律動を音楽的に抽象化したものという、何か別のものに捧げてレクイエムを書いたのではない、楽団に楽曲として演奏されるためのコンサートピースであるという点を見失ってはならない。そこを見失うと最終楽章しか聴けなくなる。ミュンシュはしかし占領下でこの曲の録音を開始しパリ開放直後に最終楽章を録音、以後数限りなく演奏し続けた指揮者で、つまりこの曲をあきらかなレジスタンス音楽として捉えている。だからこそえんえんと闇のやり取りをし続ける弦楽合奏、2楽章中盤になって不意に低弦より立ち上る夢のような響き、ヴァイオリンの儚く甘い旋律が心に響く。オネゲルはそれほど意識してこのパセージを挿入しているとは思わないが、ここで2楽章までの音楽が悲観的な「ファシズム国家による占領、刹那にあらわれる往時のパリの思い出」なのだと思わせてしまう。3楽章はそれまでの音楽とは違う。バルトークのようなピチカートが闘争の開始を告げる。これはベートーヴェンにおける「悲劇から勝利へ」の交響曲なのであると、ミュンシュははっきり意識してアンサンブルを引き締める。オネゲルの書法自体は同じ「バッハへ倣え」であり、バルトークのような前衛的な手法はとらない。演奏者のことをよくわかっている(ザッヒャーのバーゼル室内楽団を見くびっているようにもとらえられるが・・・)。トーンは変わり、形勢は有利に働き、そして弦楽合奏曲なのでオプションではあるが、ほとんどの場合導入されるペットの凱歌が高らかに響き、しかしきっぱり終わる。ベートーヴェンのように終止音を何度も何度も叩きつけることはない、既に勝利しているのである。ここは表層的な演奏効果を考え操作して大きな音楽的クレッシェンドをつけることもできると思うが、ミュンシュはそれはやらない。録音バランスの問題もあるし、この音源はモノラルなのでなおさらだが、ペットはあくまで上に載るのみで、「高らかに」という感じではない。むしろオネゲル自身の意図していたであろうところの、弦楽合奏を補完する「オルガン的な響き」として重ねているのみで表情は作らせていない。音量も録音では際立ってこない。これでいいと思う。パリがフランスのもとに戻り、ナチは倒れ、しばらくたってアメリカのオケでこれを演奏し続けるミュンシュに対し、ヨーロッパではカラヤンが積極的に取り上げた。録音こそほとんど残っておらず、DGのものはミュンシュにもましてベルリン・フィルの分厚い響きで古風な室内合奏を作り上げているが、音楽家は政治とかかわろうがかかわらなかろうが、ただ音楽をやりたい、音楽をやるために生きているという点で、考えさせられるところもある。,,,,,,,,,,,,,,
オネゲル:交響曲第2番,○ブール指揮南西ドイツ放送交響楽団他(Ducretet-Thomson)LP,,仏デュクレテは周知のとおりEMI傘下に入ったので、今後更にワーナーになったりして(英国EMIだけか)。ブールの客観性は見通しよさをもたらし、オネゲルが本来持っている筈の抒情性を爽やかに浮き彫りにする。冒頭からもう陰鬱な緩徐部が続き、旋律はいいのに重厚な音が曲をもんんのすごく重くしてしまう。最後のトランペットだけが突出して高らかに勝利をさけぶのが有名だが、これも省略可能なうえ、ここまでの盛り上がりも設計的にいまひとつ「ベートーヴェン的」にはいかない。スケルツォ相当の部分も機械的で弦楽器の典型的なアンサンブルに納まってしまい、理知的な面白さの域を出ないままけっこう短めに、かつあっさり終わってしまうので、終始悲歌である、WW2への挽歌であるといってもいい曲だろう。この演奏はテンポ的に比較的遅めのインテンポで音は軽い。だからオネゲルの意外と牧歌的な旋律のよさが浮き立ち(といってもこの曲には牧歌的な部分などないが、併録のコンセール・ダ・カメラ1楽章では明瞭に描き出されている)、ほとんどの人がミュンシュのアクの強い音楽を聴いて終わってしまうのがほんとうにいいのか、正直考えさせられた。これはそんなに強くやらなくても数学的に出来上がった音楽なので、このくらいの温度の演奏のほうが安定して、かつスケール感をもって聴けるのである。ブールも若い頃のものだと思うのでそれほど突出した点はないが、ロスバウトとも違うフランスものへのセンスを備えた人であっただけに(ラヴェルが有名ですね)オネゲルをもう一度評価しなおすには格好の素材だと思います。○。モノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第2番,○ミュンシュ指揮チェコ・フィル(multisonic/living stage)1957/5/17live・CD,,慟哭と哀悼の音楽、とミュンシュしか知らない人なら評する曲だろう。しかし最後にはフランス軍が勝利するのだ、と最後に挿入されるトランペットソロを評するだろう。弦楽合奏曲+トランペット(省略可)という形は完全に新古典的な発想に基づくものにすぎない。ほんらいは弦楽合奏曲であり、合奏協奏曲である。ただ、内容的にはいきなりアダージオから始まり結構大部分は「哀悼」のほうに集中しており、スケルツォ部もそれほど盛り上がらない。構成的に敢えてそうしているのだと思うがやや陰鬱すぎて最後のトランペットの勝利の旋律だけを聴ければいいやって人も多いと思う。ミュンシュはそういう人を捕まえて逃さない。陰鬱に静かに進む緩徐部をミュンシュはうねるような情念の音楽に変え、スケルツォは激烈に「オネゲルはこれだ」と乱射し、クライマックスに向けて構造的にも極めて緊密に緻密に求心力をもった音のもとに盛り上がりをつくり、トランペットの勝利宣言を鮮やかに浮き彫りにして拍手をよぶ。あざといと言われても仕方のない構成だがそう聞かせている側面もあるのだ、この曲の解釈者は。ミュンシュは「情念がうねりすぎる」。チェコ・フィルの弦楽器をフルスロットルにさせ、独特の細く金属質の音色を自分の肉付きのいい分厚い音にかえ、とことん速く迫力たっぷりに進めていく。ミュンシュのオネゲルはいくつかあるがみんな一緒である。チェコとて例外ではない。確かに説得力はあり、面白く聞けるのだが、どこか浅薄な感じがするのは私だけだろうか。もっとキレイな響きをかいている箇所もあるはずだ。もっとキレイに旋律をきかせるところもあるはずだ。もっと「諦念」が感じられる箇所もあるはずだ。静かな叙情性が希薄なのである。まあ、贅沢な物言いではある。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
オネゲル:交響曲第2番,○ミュンシュ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R)1964LIVE?(1962/3),,かなり落ち着いた演奏で、精度は上がった反面人工的な印象が残る。いや、このテンポでは寧ろ精度が落ちる可能性もあるか。客観的に整えた感じのするミュンシュにしてはめずらしいライヴ記録。ブラヴォが飛ぶ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第2番,カラヤン指揮BPO(DG)1969・CD,,残響が多くアンサンブルの緊密さ・精密さや楽団独自の力強さが却って伝わってこないが、下手な情感をこめずひたすら純音楽的に楽曲を構築していくことによりオネゲルのスコアの本質が伝わってくる。聴けば聴くほど印象深くなっていく。カラヤンのゴージャスで大音量というイメージは楽曲自体が否定しているため浮き立ってこない(前述の録音起因の音場の広さによる印象はある)。構成が見事で、3楽章こそ個人的に余り好まないトランペットソロ中心の大団円だが、2楽章は素晴らしい緩徐楽章。情熱だけで押し通したり、変化を極端につけてわかりやすくすることはしない。緩やかな楽曲構成を綿密に再現し、流れの中で自然とヴァイオリンが上り詰め詠嘆する場面ではうまいなあとしか言いようがなかった。これをふっと浮き上がるように、甘やかで儚い夢のように対比する表現がとられることもあるが、オネゲルはあくまで音楽の流れ上の一部として組み込んでいるのである。しかしそのままやっても面白くない。カラヤンはよくわかっているし、ここまでドイツの指揮者としては異例のレパートリーとしてきた成果を示した見識である。最初は中庸に整えられた演奏で全般のっぺりして聴こえるかもしれないが、いったん他の演奏から離れて、ふと聴いてみるとよく曲のわかる良演である。3番とのカップリング。個人的に高音のピッチは気にならなかったが(ブールのものやミュンシュ各楽団録音で3楽章冒頭を比べてみたが私の耳には同じだった)低い音に差はあるようにも感じた(カラヤンのほうが高い)。違和感はなかった。,-----,,,,,,,,,,,,,
オネゲル:交響曲第2番,クーベリック指揮ORTF(ina/forgottenrecords)1956/2/23live(3/1放送),,"ina配信とAmazonデジタルはおそらく同じ音源。実直な演奏で、メリハリがなく終始重苦しい。これはあまり解釈せずになじみのない異国の作曲家の曲のような感覚で、スコアのままに仕上げたものか。最後のトランペットも地味で、しかしそういう表現は私はあっているとは思うのだが、録音のモノラルでけしてよくはない、その状態では単に力を抜いて吹いたように聴こえてしまう。とにかく、教科書的と言っておこうか。同曲は1978/2/2のNYPライヴがありアルヘリチとの一期一会の記録とともに著名だったようだが現在聴けるかどうか不明(10年近く前はweb配信されていたがリンク切れ)。オネゲルについてはモノパルティータがtahraから(もともとは当のイリノイ大学が無料配信していた)、3番がFKM(裏青)からでていた(る)。1959/11/4の夏の牧歌のライヴ(ACO)があり、最初はcascavelleが発掘した音源のようで、私もさきほどまで知らなかった。RSR(RTS Radio Television Suisse(Evasion Music))よりCOLLECTION SEPTEMBRE MUSICAL Vpl.6として正規再発があり(一部日本代理店でも扱いあり、ただラインナップは少ない)、ベルリオーズの幻想とともにモントルー音楽祭ライヴとしてAmazonデジタルで配信販売されている(単曲可能、ただ海外だと全盤としては配信は半額近く、クラウド利用できるかどうか、安心感があるか価値を認めるかどうか。CDはリンク先で買えるが高い)。これがすべてのようである。",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第2番,クリップス指揮NYP(forgottenrecords)1961/12/9live,,珍しい選曲だが、そういう演目にありがち、すなわち「借り物みたいな演奏」激することなくノーマルにやっていて、この人の瑞々しさ、テンポ良さ、リズムの良さは出てこない。このオケにしては色彩感はあるかもしれないが、テンポは遅め、発音も大人しく、突き刺すようなささくれだった音でこそ表現できる戦中作品という点では迫真味は薄い。ただ、三楽章で闘争から凱歌に転調する前後より俄に弦の刻みが強くなり、オネゲルらしい音楽になる。悪くはなく、現代の演奏からすると迫真味が無いとも言えないが、まだ同時代と言える時期にあって、やはりあまりやらなかった曲を仕事でやってる感は否めない。録音がモノラルで環境雑音を始めノイジーなのも印象悪くしたかもしれない。期待しすぎた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第2番,ミュンシュ指揮BSO(SLS)1966/12/6live,,10年前のものにくらべ録音が籠って悪い。だがスピードは戦中録音のものに次いで速く(それでも1分に満たない誤差範囲なので意識しないとわからない)、3楽章のペットは遠く表情を作らない、サン・サンの「オルガン付」まではいかないがそういう意図で「補強」しているものにすぎず、弦楽合奏を聴け、というような録音になっていて、このバランスは個人的には好きである。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第2番,ミュンシュ指揮NYP(DA)1967/2live,,ステレオだが雑味が多くノイジーで、撚れや揺れもある。環境雑音がリアルなのでインホール録音の、しかも舞台に近いのか。時期的にはだいぶ落ち着いて同曲に取り組めている様子で、テンポ設定も遅く、アンサンブルもただ叩き合うのではなく横の流れや響きの広がりに配慮したように感じる。ステレオのせいで拡散的な印象すら与えるが、オケが(本当であったとすれば)ニューヨーク・フィルということもあってボストンより多彩な音が出ている(雑味も出ている)のは特筆すべき事で、一本調子な突進で終わらせるのではなく、こう立体的に、調えながらやるほうが同曲の楽曲として純粋な評価を問えるものにはなるとも言えるか。ミュンシュの晩年感が感じられるかと言えばそうでもなく、弦楽器の「雑に鋭い」アタックは「相手を傷つける気まんまん」。三楽章はやや雑味が強いが、聴きどころであり、やがて明るい響きの饗宴の中にトランペットも突出せず融和してゆき、(客観性が強いとも取れるような)やわらかな幸福感が支配するうちに終演。勝利ではなく幸福感なのだ。ブラヴォが飛ぶ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第2番,ミュンシュ指揮ORTF(DM他)1964/9/1live・CD,,わずかにスピードは落ちる(三楽章には整えられた感がある)ものの、感情面で楽曲の意味性を突きつけるのは既に60年代なのに変わらない。きちんと構成され細部まで明確に構築されそれでも往時の勢いを保った緊張感の漲る演奏で、アンサンブルの精緻さ厳しさはミュンシュらしくない、フランスオケらしくない現代的な室内合奏曲の在り方を示し、これでノイズの無い録音なら素晴らしい記録として推せた。客観性と音楽性の素晴らしい同居。モノラルなのは惜しい。客席はわりと普通の反応。トランペットは目立たない方。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第2番,ミュンシュ指揮シカゴ交響楽団(SLS)1967/2/16live,,驚きの記録でパリ管との最後の録音の10ヶ月前のシカゴ響との実況である。この次の「牧神」は半年後の実況録音が出ているしルーセルの3番は公式には2日分の編集盤が、非公式には同日のものが出ているので、シカゴとの演奏としては初出になろう(同月NYPとの実況録音なるもの(DA)があり、この時期にしてはノイジーでも録音状態はこちらのほうが格段に上で(DAは客席録音ぽい、共にステレオ)単純比較はできないが、同じものの可能性がある)。ミュンシュの終生振り続けた曲であり、ギチギチと軋む弦楽合奏がつづいたうえで高らかなトランペットで開放される曲構成もカタルシスを得やすいし、パリ開放を思い出せるから好きだったのだろう。だが演奏スタイルはかなり変化しており、この頃にはテンポが落ち集中力に欠ける演奏が聴かれるようになる。ギチギチが要の曲なだけにそれは致命的で、この演奏も残念ながら第一には推せない。ただ、オケは良いのである。一糸乱れぬ弦楽アンサンブルは振ってきた他のオケとは違うものがあっただろう、一楽章はライヴなりにではあるがこれがミュンシュかというようなトリッキーな装飾音型もビシッと揃えてきてビックリする。二楽章の表出力も素晴らしい、チェロソロがボリューミーだ。だが、三楽章が遅い。新古典主義の構造的な書法を楽しむには、あるいは演奏するには遅いのである。無理してテンポを抑えているようなシカゴ響弦楽セクションには「もういいから暴走して力を遺憾なく発揮してくれ!」と言いたくなる。弛緩して雑味を呼んで、、、と思いながらも流石にギチギチ感が出てきて偉大なクライマックスでのっぺりしたトランペットを聞いて、あざとさの最後にミュンシュの唸り声、ブラヴォの渦。終わり良ければ、か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第2番,ミュンシュ指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya)1965/5-6LIVE・CD,,このラスト以外わかりにくい曲をソヴィエトでやったことが凄いと思ったが、全盛期のソビ響弦楽器の冒頭鋭い発声を聴いてのち、これが純音楽的に扱われ、和声的に重厚複雑ながらも簡潔な書法でかかれた室内楽団向けのアンサンブル曲で、あくまで抽象音楽であることを明確にした演奏で、本質を突いた名演であると理解した。これなら一、二楽章がくぐもってわかりにくいとか、旋律しか聴こえないとか、そういうことがなく楽曲構造そのものを楽しめる。ラストのクライマックスを除き、わかりやすく整形し楽章間や主題の対比を明らかにするような操作はあまり感じられない。おしなべてすべてをしっかり聴かせていく。正直ミュンシュもこういう立体的で明快な演奏ができるんだということを(極めて優秀なステレオ録音であることも手伝い)オケの優秀さも含め認識させられた次第。オケがオケだけにボリュームのある古風な演奏、ということはなく室内楽団的なアンサンブル能力の高さが光る。このような表現を取ったのは曲慣れしないオケと聴衆に構造的な魅力をわからせるためとは思うが、裏腹に構成の起承転結はっきりさせたものではないようにも感じたのは録音のあまりに明らかなところに起因するか。ブラヴォ一声聴こえる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第2番,ミュンシュ指揮パリ音楽院管弦楽団(gramophone/DANTE,LYS/cascavelle(「音楽のレジスタンス」所収)/artone/SLS)1942/10/15-16、3楽章のみ1944/3/1・CD,,占領下のパリで録音を始め、開放後改めて3楽章を収録して完成させたという非常に有名な録音。オケがもともと生々しく情熱(と雑味)を持った演奏をなす傾向があり、セッション録音ですら表出意欲のために乱れを辞さないところがあるが、これも最初から旋律性に重きが置かれ、のちの時代の記録と比べて別の曲のような、構造より押し合いへし合い突き進む響きの流れを重視する演奏で、ある意味とてもミュンシュらしい。縦があまり重視されず、3楽章でリズムが錯綜する場面では雑然とするところもあるが、結局高らかに、咆哮するトランペットでムリヤリ勝利を勝ち取ったような力づくのところは、私は好きだが、ザッヒャーならやらないだろう的な感じ。歴史的意義うんぬんは別として闘士ミュンシュらしさを感じたい人に向いている。,-----,,,,,,,,,,,,
オネゲル:交響曲第2番,ミュンシュ指揮パリ管弦楽団(angel/EMI他)1967/12/28スタジオ・CD,,ミュンシュ最後の録音群のひとつで、調和と抒情性に主眼の置かれた佳演。録音も、透徹した眼差しに見合う良好なステレオである。楽曲本来の構造をあきらかにし、ミュンシュにしては職人的で山っ気の無い表現〜たとえば同曲で多用されるチェロソロがNYP公演ではやたらと前に出て主張しているがここでは相応の響きの中で役割を果たしているに過ぎない〜それはオケが現代フランスの、アメリカオケやいにしえのフランスオケとは違う、角の無い滑らかな表現を高精度でやり遂げることができるからこそ成し得たものでもあり、ショスタコーヴィチを思わせる晦渋さがあらわにされる2楽章あたりでは飽きを来させるものの、逆にそれこそこの曲の「限界」でもあると感づかせる。しょせん勢いで押し切る曲であることは、3楽章でテンポの遅さ(前へ向かわない整えた感)からだろうやや弛緩した感じを覚えさせる点でもよくわかる。しかしトランペットが現れる前にすでに暖かく明るい音楽となり、スケールの大きな録音空間に響き渡るのは悪くない。音の厳しさの求められる場面での技術の点ではボストン交響楽団に水をあけるだろうが、フランスでこの曲をやるとこういう抒情味が醸されるんだという、ビールを飲んでばかりいたらワインを渡されたような、そんな芳香の違いを改めて感じさせる点では貴重な記録である。大編成だが専門室内楽団並みの聴き心地。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第2番,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1953/3/27live,,RCA録音の直前のライヴというが、悪いモノラル音で轟き渡る凄まじい音楽である。これはパリ音楽院管弦楽団との戦中録音に等しい激しさを叩きつけた異様な演奏で、20分というスピードで駆け抜けることもさることながら、オケの性能の分だけメリットがある。中欧的な響きを持つ弦楽器のアンサンブルにはひたすらザクザク斬り合ってゆく怨念のようなものが感じられる。モノラルであるせいもあるが外へ向かっていく音楽ではなく中心に凝縮された音楽で、集中度が半端ない。とにかく一気にフォルテで3楽章まで駆け抜けてゆき自然フォルテッシモでトランペットが凱歌をあげ、緩むことなくインテンポで終演、盛大な拍手。これは悪い録音が却って良く働いているのかもしれないが、歴史的意味性を取り去ればパリ音楽院管弦楽団盤より迫真味のある「戦争交響曲」となっていると言える。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第2番,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA)1953/3/29・CD,,モノラル末期の音源だが音質を置いても(私の盤は一箇所音飛びする、、)、集中度からも演奏精度からもミュンシュでは一番に推すべき録音だろう。塊となって突進する当時の解釈に従ってはいるが、アンサンブルへの配慮がしっかりしており、3楽章のポリリズム的なパセージなど、明確に決まっているのはこの録音だけではないか。ボストンの厳しい弦楽の音はフランスオケのものよりオネゲルの真に迫っていると感じるし、ミュンシュの「解釈」がしっかり伝わる見通しの良さがあって、それは晩年の演奏にみられる客観的に再構築されたオネゲル2番ではなく、当時の直球でありながらやりたかったことはこれなのだというものを耳までしっかり届かせている。暗闇から光明という構想において、当時のライヴ録音であれば2楽章と3楽章の間でカラーの違いを明確にしているが、この録音では3楽章に入っても中低音域での暗い闘争が持続し、それが律動の中で何かの形をなしていき、突破口を模索した2度目で強引にトランペットが凱歌を上げて入ってくる。ここではトランペットは総てを変えてしまい、弦楽はただの伴奏になる。当時はこれをやりたかったのか、わかりやすさを狙ったミュンシュ以外のプロデューサーなり技師の意図なのか、良くあるソリスト強調配慮なのか、とにかくミュンシュとしては強靭なのに正確な演奏の、最後に結局トランペットのメロディにすべてを持っていかせるという態度が明確になっている。,-----,,,,,,,,,,,,,
オネゲル:交響曲第3番,○カラヤン指揮ベルリン・フィル(ORFEO)1957/8/13live・CD,,録音はモノラルで篭りがち。遠くこじんまりとした聴感。特に弦が遠くマスとしてしか捉えられないのは痛い。1楽章ではブラスも荒い印象があり、2楽章もそれら整わない状況を前提とした「精神的な怜悧さ」が曲の暖かさを奪ってしまい、いくら美音で煽ろうともやや入り込むことができない。とはいえ個人技は素晴らしい。フルートなど重心の低い美しさを提示する。終楽章はその点すっかり集中力を取り戻した様相で、後年の演奏に聴かれるスリリングなアンサンブルとオネゲルのあざとい手法を的確に抉り出した気を煽るような表現を楽しむことができる。,,"","Karajan -Salzburg Festival Concerts 1957 / Herbert von Karajan", VPO, BPO," etc","",,全般録音の問題が大きくカラヤンとしても板についていないようにも感じる。このためにボックスを買うならスタジオ盤をお勧めする。,,"","Honegger: Symphonies no 2 & 3 / Karajan"," Berlin Philharmonic",""
オネゲル:交響曲第3番,○クリュイタンス指揮トリノRAI交響楽団(ARTS)1962/5/4live・CD,,クリュイタンスらしい透明で繊細な抒情が漂う演奏で、同曲の暴力的な面は強調されないが、2楽章や終楽章終盤の優しく感傷的な旋律表現がとてもすばらしく、心惹かれる。ミュンシュの「禁欲的な凶暴さ」とは違い、感情的で人間的だ(だが精度は高い)。この時期にしては驚異的に良いステレオライブ録音(復刻)という評判どおり、微妙な色彩の揺れや緻密な構造がよく聞き取れ、楽曲理解の意味でもメリットがある。弦楽器に強靭さが足りないと感じる向きもあるかもしれないが、コントロールを全般に行き届かせるうえで、各セクションを抑制しつつトータルでオネゲルの意図をよく伝えようという指向に沿ったものといえる。過剰なアゴーギグでアンサンブルに乱れ(もしくは聴く側の「誤認識」)をもたらすことがない。かといって結構テンポは揺れているのだが。とてもカラフルでオネゲルの六人組時代の作風を連想する部分も多い演奏。○。同日の「放蕩息子」とのカップリング。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第3番,◎ミュンシュ指揮ボストン交響楽団?(DA:CD-R)1956LIVE,,安定したモノラル録音でノイズもなく聴き易いがやや音量がない。演奏は極めて集中力が高く、鬼気迫るものがある。ミュンシュとオネゲルは相性抜群で、オケが比較的ニュートラルだがパワーのあるアメリカの老舗楽団というところも、お国オケで出させてしまう一種のアバウトな癖がなく強みになる。立派な演奏ぶりは静かに哀しみを告げるピッコロの一節より立ちのぼる盛大な拍手〜ここにブラヴォはいらない〜からもうかがえる。世俗的な旋律要素を引き立たせながらもそれ以上に構築性を強く打ち出した毛埃の隙もない名演。どちらかといえば前半楽章が凄い。,-----,,,,,,,,,,,,,
オネゲル:交響曲第3番,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(BMG/MELODIYA/SCRIBENDAM)1965LIVE・CD,,ムラヴィンスキー唯一の録音だがこういう曲にはハマる。いつになく感情的に感じるのは同時代者としての共感のせいか、3楽章最後の平安の天上性は非常に感傷を煽るものがある。ロシアならではのソリストの上手さが光る。精緻ではないのだがミュンシュあたりの生臭さがなくて聞きやすく、前記のとおりライヴならではのアグレッシブさが(分析派にはどう聞こえるか知らないが)このオネゲルらしい抒情の盛り込まれた完成度の「高すぎる」精巧な作品に主情的に引き込まれる要素となっていて、素直に音楽だけを楽しめる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第3番,カラヤン指揮BPO(DG)CD,,ゴージャスでスケールが大きく、少しブヨブヨし録音もシャープさに欠けるところもあるが、特徴的な演奏だ。ミヨーのような超高音でも一糸乱れぬヴァイオリン等々オケの技術的な高まりは、元来の音色の持ち味をニュートラルに鞣してしまっている側面もあるが、このフランスの曲ではむしろメリットである。この演奏は構成的な部分やドラマチックなたかまりを聴くより二楽章や三楽章終盤の緩徐部をじっくり聴くほうが楽しめる。ヴォーン・ウィリアムズに影響を与えたのではないかとも言われる(単純な響きだけの話で影響も何も無いと思うが)幻想的な抒情の漂うオネゲルの極めて美麗な側面を、カラヤンという指揮者の持つ「世俗性」が良い意味で的確にとらえ、「タリス幻想曲」の名演も思い起こさせる感傷的なものに仕立てている。オネゲルのこういう部分こそ、聴かれればもっとメジャーになろうものだが、いかんせん単品では「夏の牧歌」くらいしかなく、オネゲル自身もそれだけを聴かせたいとは思わないだろうので、仕方がないか。まあしかしこの秀逸さはベルリン・フィルあってのものではある。音響的に精緻に整えた演奏ではないが、だからこそ旋律が生きている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第3番,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団1956/4/20(21)DA他,,モノラル録音ですのでデータに惑わされず。録音日も混乱しているが同一。確かに緊張感があり悲惨な戦争と勝利の光明といった文学的空想を掻き立てる。一楽章が印象的、ピアノがよく聴き取れる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第3番「典礼風」,◎アンセルメ指揮バイエルン放送交響楽団(orfeo)1964/1/24live・CD,,これは叙情的!2楽章などオネゲルの緩徐旋律を、これ以上無いほどロマンティックにしかし清潔に表現している。こんな曲だとは、という向きもいるだろう。アンセルメ向けの透明でかっちりしたアンサンブルを提示するBRSOも秀逸だ。かたやゴリゴリのバッハイズムの発揮された曲想の表現もアンセルメらしい鋭利で統制のきいたもので、クーベリックのオケとは思えない精度である。とにかく2楽章以降は暗い曲想もまったく叙情的に聴こえてしまうほどで、とにかく美しくて、ビックリ。◎。,-----,,,,,,,,,,,,,
オネゲル:交響曲第3番「典礼風」,◎カラヤン指揮ベルリン・フィル(SARDANA:CD-R)1984/12/12定期live,,オネゲルの代表作で、一見「構造主義」的な晦渋さが人好きさせないように見えて、実際には近代オケという大きな楽器の機能をフルに活用したスリリングなアンサンブルがスポーツ的快楽をもたらし、明快簡潔な構造も適度に歌謡的なメロディも(2楽章はヴォーン・ウィリアムズかと思わせる)聴き易く、あざといまでにキャッチーな音楽であることがわかる。いや、それがわからない演奏はこの曲に失礼である(オネゲル自身でさえも)。,,この曲をそのように魅力的にきちんと聴かせられる指揮者というのは数少ない。,,ましてや現代の大編成オケで鳴らしまくり、軋みや違和感を感じさせない指揮者というのは。,,(オネゲル自身小規模な弦楽合奏をオケの基軸と考えている節がある。そこに管楽ソロを加え曲を編成する教科書的な発想が確固としてある。難度が上がるゆえんでもある。),,カラヤンはその一人である。,,BPOはカラヤンによってこの曲の「娯楽的価値」を飛躍的に高める「道具」となった。この演奏もライヴだからという点は無くレコードと変わらぬ精度と強度を提示し、3楽章制の比較的短いこの曲を、20世紀初頭までに多かった立派な大交響曲として見違えるように聴かせることに貢献している。技術力にくわえ程よい「古きよき音」もある。今のBPOの音ではなく、かといってフルヴェンの音でもないけれども、確実に両方の音の属性をも備えた幅広い音表現のできる一流オケである、それだけは言い切れる。,,テヌート多用とか音の表層だけを磨いたとか、印象だけの評論で先入観を持っているかたがいるとすればこれを聴くといい。テヌートなんて多用しない、分厚い音をスラーでつなげてぐねぐねうねらせる横の音楽を作る指揮者なんて沢山いたが、カラヤンにとっては使い分けている属性の一つにすぎない。2楽章のカンタービレ表現は世俗的でも儀礼的でもない、だからこそ引き込まれる絶妙の手綱さばきだ。RVWの「タリス」を思い出させる、奥底の感傷を引き出されるような暖かい音楽。,,素晴らしい演奏であり、典礼風の純粋に音楽的な魅力を引き出した記録である。意味とかイデオロギーとか、そんなものはどうでもいい。歪んだ政治的立場などとも無縁であり、オケとの確執など微塵も表現に出ない、これこそプロの仕事である。
オネゲル:交響曲第3番「典礼風」,○ザッヒャー指揮バーゼル交響楽団(PAN CLASSICS/ACCORD)CD,,オネゲルの「人受けを狙った作品」はずるい。とにかくこの人、職人なので芸術と商売のバランスの重要性を熟認しており(六人組出身ということもある)、音楽は「聴かれなければならない」という・・・普通の音楽ファンにとっては当たり前のことなのだが・・・大前提をもって、このような「あざとい」作品を作り、同業者に揶揄されたりもした。結局現代においてその中途半端な立ち位置ゆえか、演奏「されない」のだが、それでも学生団体や室内合奏団のようなところは密度の高い書法に惹かれるのかやらないわけではない。極東の島国においてそういう状況であるのだから案外本国近くでもやられているのではないかと推測する。,,そのあざとさは晦渋に聴こえてそのじつ、「情緒的な作曲家である」バッハの模倣を基調にしっかりした旋律を徐々に出していって最後にはこれもよく指摘されるところだがRVWの「無難な音楽」に近似した美しい牧歌を、「希望」という看板を掲げて歌い上げ、形式的に再びバッハに戻りはするものの、最後には木管の響きに2楽章の情緒の再現をもって印象的に終わる。,,ザッヒャーは即物的な処理が向かないと思ったのか個人的な思いいれのせいか、似つかわしくないくらいロマンティックである。といってもテンポ・ルバートや表情記号の過剰な強調をなしているわけではない、音色への配慮が繊細で、機械的なアンサンブルをやかましく聞かせるのではなく、十分に入り込ませるような壮大な表現になっている。むやみな構造偏重ではない。そもそも構造なんて一寸聴きで感じるほどには複雑ではないこともある。無難にも感じるし、現代の他の演奏家のものと置き換え可能な範囲のような感じもしなくもないが、それでも何かしら残る演奏。やはり二楽章の表現の美しさが肝要なのだろう・・・○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
オネゲル:交響曲第3番「典礼風」,○ミュンシュ指揮NYP(SLS:CD-R)1947/1/26live,,新発見の音源らしい。録音は貧弱だが緩徐部の極めて美しい響きは捉えられており、第一楽章ディエス・イレは録音起因の迫力不足であるものの、三楽章ドナ・ノビス・パセム終結部は聞き物。初演・献呈者による演奏、しかしオケによって少しの差異が出てくるのは醍醐味だが、ここでは個人的にどうも時々マーラーのように聴こえてきて面白かった。まあ、先入観のせいだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第3番「典礼風」,ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団(COLUMBIA,PATHE)LP 1楽章「怒りの日」、いきなり厳しい音で始まるオネゲルの代表作、2番と共にゲンダイオンガク「ではない」手法で晦渋な世界を描ききった労作である。オネゲルをよく演奏したツィピーヌのものは、意外と素朴でほんわかした演奏だが、技術的なものや集中力こそイマイチなものの、暖かい音色と叙情的なフレーズの表現はちょっと魅力的である。この曲は六人組のひとりとして形式的なものを排し純粋な音楽の楽しさを求めていくというスタンスから大きく外れ、厳格な形式感をもってバッハに倣い、内容的には第二次大戦のもたらした惨禍への祈りとして一貫してシリアスな作風を保つという後期オネゲルの独自性を示している。もっとも中間楽章(3楽章制の2楽章「深き淵よりわれ汝を呼ぶ」)の繊細で抒情的な音楽は、「夏の牧歌」あたりの趣をいくぶん伝えている。この演奏で聞くとまるでヴォーン・ウィリアムズだ。実際この両者に共通点を見出す人もいるらしいが、この演奏で聞くとそれも真かと納得させられてしまうところがある。ヴォーン・ウィリアムズの4番を思い浮かべたのは私だけではあるまい(ヴォーン・ウィリアムズのほうが10年以上前だが)。荒んだ雰囲気の上に鳴り響くフルートの短いフレーズは、荒野の上に紫雲のたなびくさまを見ているようでとても効果的である。イマイチ悲劇度が足りない演奏ゆえ3(終)楽章「われらに平和を与えよ」では2楽章に近似したフレーズが耳につき、暖かい音楽に聞こえてしまい悲劇的な盛り上がりに欠ける演奏になってしまっているが、たとえばブリテンのシンフォニア・ダ・レクイエムのような祈りの音楽に近い感動を与えることには成功している。オネゲルはわかりにくい作曲家というイメージが有るが、たしかにそういう作品も数多いものの、とても熟達した作曲技法を駆使した緻密な作風は、演奏家にむしろ好かれる要素を持っているし、演奏家によっては十分に暖かい叙情味をかもすことのできる可能性も秘めていることがわかる。録音の古さからしてもあまり評価を上げられないが、特徴的な演奏ではある。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第3番「典礼風」,ミュンシュ指揮ORTF(SLS)1946/11/14シャンゼリゼ劇場live(フランス初演),,「怒りの日」が無茶苦茶怒っている。つんのめるテンポで怒涛の打音を繰り出し、ミュンシュがというよりオケ全体が怒り狂っているような、フランス国立放送管弦楽団の凄みを感じさせる。直前のロパルツも良いが録音から伝わる迫力が全然ちがう。弦楽器が噎せ返るような熱気を放つのに対し、ブラスが音色の爆ぜるのも構わず吠えまくるのが凄まじい。聴いたことのない典礼風で、度肝を抜かれた。アンサンブルじゃない、吠え合いだ。つづく「深き淵より」挽歌ふうの緩徐楽章もどこか乱暴で、かなり録音状態に左右された印象ではあろうが、それでも異様さはあると思う。ソロの音がいちいち強く、頭に余韻がなくいちように太筆描きである。眩いオネゲル牧歌が例えばとうていRVW的ではない、慟哭と希望と黙示録的暗示、何よりリアルをただ耳にぶつけ続けてくる。明滅する甘やかなメロディでも雑味をいとわず音、そのものを強くぶつける。これが胃にもたれるもとい、同時代性という強みなんだろう、今はこんなやり方はできないだろう。映画音楽的な表現なのにちっとも絵が浮かばない。しかし、これがたぶんチューリヒ初演をへてミュンシュの出した作曲家への答なのだろう。ミュンシュは他にも録音があるが、この演奏のリアリティは凄いものがある。答えのない質問に鳥の答えるフレーズより、「ドナ・ノビス・パセム」のシニカルな歩みが始まる。ファシズムの足音と言っても良さそうな骸骨のような、巨人の骸骨のような歩みが、ここではかなり早足で蹂躙を始める。しまいに蒸気を上げて重機関車が通り抜ける。このあたりは極めて描写的で、音の一つ一つに意味があるのだが、ミュンシュはそれを解体してリアルを失うよりも求心的な力強さを重視し、ハーモニーを合わせるよりノイズを固めるような、一見ラヴェル風の理知的な構造物であることより、これはメロディなのだ、という確信がある。メロディが悪しきものから善きものに変貌していく苦悩の一筋。この曲がショスタコにすら聴こえるから不思議である。録音がきびしいが、緩徐主題では不穏なショスタコではなく、あのカッコいいオネゲルになっているのがわかる。厚ぼったい表現はねっとりと人間性を取り戻す、ミュンシュらしさだ。嵐の去ったあとに高らかに舞う鳩ではない。妖しい色彩の降り注ぐ大地に、火の鳥でも舞っているような、何とも言えない、たぶんこの曲は「世界滅亡後の」平和を歌っているのだが、これはまさにそういう奇怪な平和にも聴こえる。拍手カット。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第3番「典礼風」,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(VIBRATO他)1956/4/21live,,VIBRATOはこの日のプログラムを全部一枚にいれておりアンコールにオネゲルの「喜びの歌」を録れている。印象的にはDAで2種あったうちの単に1956年としていたものと同じだろう(もう一つは4月20日となっていたが21日という説が強い(個人的にはわざわざ別で出す必要もなく放送日との混乱なら早い日付のほうが演奏日のはずで疑問符)、だがもはや全部を比べる気力がない)。録音は良いモノラルで安定しており、ミュンシュも戦後勢いのあった一番引き締まった時期で聴いていて引き込まれる。特に1楽章が集中力高く、2楽章の牧歌的なフレーズあたりも眩くきれい。3楽章は私は少しダレたようにも感じたが、こんなものだったかもしれない、曲的に。,-----,,,,,,,,,,,,,
オネゲル:交響曲第3番「典礼風」,作曲家指揮交響楽団(m&a他)1949・CD,,有名な自作自演録音だがSP起こしだとかなり耳触り悪く実態が聴こえてこない。新しい復刻をあたるに越したことはない。極めて厳しく律せられた演奏で、あまりの硬直ぶりにオケが盛大に軋み、乱れるところも多々聴かれる。SPなのでスケールを捉えきれていないせいかもしれないが、およそミュンシュとは違う剛直さをもっている。逆にオネゲルの性格も透けてくるし、こういうスタイルでしか伝わってこないものもある。構築的で響きに非常に注意を払っており、録音のせいでちゃんと聞こえない場面も多いが、二楽章の弦の入る前はまるで教会のオルガンのような轟が曲の趣旨に立ち返らせてくれる。二楽章の長々しい歌のあと、三楽章は鼓膜が痛くなるような痛烈な連打が印象深く、行進のクライマックスではメカニカルにテンポを落とし、非情緒的に盛り上げる。そのあとは音が潰れているせいもあってオルガン的な響きの上に、弦および高音域の管楽器、ピアノが、一つ一つの楽節に音を切り詰め正確に嵌めていく。異様な清澄さをもって天国的な曲に収めている。これは現代の演奏に通じる大人の表現であり、一楽章冒頭のガラガラ崩れるかんじで聴くのをやめたら勿体ない。フランス・デッカディスク大賞、作曲家による紹介付き,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
オネゲル:交響曲第3番「典礼風」,作曲家指揮交響楽団(MUSIC&ARTS)1949フランス・デッカディスク大賞*作曲家による紹介付き,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:交響曲第3番抜粋,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1966live,,表記は2番だが3番の誤り。圧倒的に2楽章、緩徐楽章の美しさが光る。とにかく弦楽器、厚みのある音響のうねりが憧れと慟哭と悲哀を映画音楽的なスレスレの感傷を煽って秀逸である。ハリウッド映画音楽といってまず私が思い浮かべるのはストコフスキの演奏様式だが、しかし元の楽曲が深刻なものを孕んでいるだけにこの演奏はそういった表面的な美観に留まらない激しい感情の起伏を呼び覚ます力がある。そう、弦楽器だけでは決して無い。総体の響きはモノラルの(けして悪くない)音響の中でも圧倒的に迫ってくる。この迫真味はオネゲルの超絶的な書法だけではなく、ストコフスキという怪物のなせるマジックとしか言いようが無い。この中間楽章はほんとうに、素晴らしい。緻密でロジカルな1楽章なども、弛緩なく攻撃的な音楽が形づくられているが、心惹かれるのはやはり、RVWやミヨーにも通じる田園の穏やかな風景とそこにたなびいてはまた消える暗雲の風景、美しいヴァイオリンの響きと不協和であっても絶妙のバランスをもってそうではなく聞こえるコルネット以下ブラス陣の朗誦、優しい表情に戻ったところでさびしげに一人歌うフルートからクラリネット、これら総体がたとえようもなく美しく、最後に深刻な音楽の雲間から一筋の光をさしかけられる場面の感傷性といったらたとえようもなく、オネゲルはそうだ、「夏の牧歌」を作った作曲家なのだ、というところに立ち戻らせてくれる。ストコは強烈なだけの解釈者ではない。3楽章は途中まで収録。やや表層的に重低音音楽がホルンにより提示され始めると音楽は元の世界へ戻ってゆくが、旋律性はけっして失われない。構造に埋没しがちな旋律を鮮やかに浮き彫りにしつつ進む途中で、録音は終わる。どうせなら全部聴きたいところだった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第4番「バーゼルの喜び」,○ツィピーヌ指揮フランス国立放送交響楽団(COLUMBIA,PATHE)LPカイジュウなオネゲルにしては素直で喜遊的な雰囲気を持つ作品である。かといってオネゲルだから軽妙ではなく重厚で、低音のしっかりした響きが横溢する。その分厚さと牧歌的な旋律の配合具合がちょうどミヨーのシンフォニーに似てきている。六人組仲間にもっとも接近した交響曲と言えるだろう(1番もそのケがあるが)。悲劇的な場面も無きにしもあらずだが、基本的には穏やかな春の陽を思わせる楽想が支配的である。新古典主義の影響を指摘されることがあるが、確かに相対的にスマートでシンプルではあるものの、構造的なのは昔からだし(バッハを信望していたのは有名)、いわゆるストラヴィンスキーのような新古典主義のイメージからは離れたもののように思う。「バーゼルの喜び」の題名からわかるとおりパウル・ザッヒャー(亡くなってしまいましたね)主宰のバーゼル室内楽団20周年記念作品で、ザッヒャーに献呈された。46年作品で前作「典礼風」とほとんど連続で作曲されたものだが、対照的な作品と言えるだろう。3楽章制の引き締まった楽曲だがこの人のシンフォニーは全て3楽章制なので特記するまでもないか。ツイピーヌはここでは非常に雄弁である。しっかりしたフォルムの中で豊穣な音楽が歌われている。この曲にしては演奏に遊びが少ない気もするが、このくらいの具合が丁度のバランスと言えなくも無い。少なくとも3番よりは余程魅力的な演奏になっている。ツイピーヌの本質にはこちらのほうがあっているのだろう。○。録音はこの時代にしては悪いと言うほどでもない。但しモノラル。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第4番「バーゼルの喜び」,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1965LIVE,,レンジのきわめて広い明瞭なステレオだが不安定で傷だらけのエアチェック盤ゆえ、左右チャネルのバラバラ感もあいまって曲自体の散漫さが目立つようになってしまっている。いわばベートーヴェンの5番と6番の関係性がオネゲルの3番と4番の間にも性格として成り立つわけで、オネゲル自身も必然的な存在だったと述回しているが、散漫さもひとつの主張なのであるが、案外冷え冷えとした音の硬質な叙情が際立ち、3番の中間楽章に特徴的にきかれる牧歌的な暖かさと比べて寧ろ晦渋な印象を残す。作曲家の盟友であったミュンシュは開放的で透明感のある表現をほどこし、BBC交響楽団かとききまごうようなボストンの機能的な面が非常によく引き出されている。しかし聴衆には少々馴染みのない曲であったせいもあろう、楽章間に拍手が入りかけ、ミュンシュらしくもない構成上の求心力の弱さが露呈している。確かに晦渋なようでじつは構造上わかりやすすぎる3番より「要素の上で進歩があ」る、だが解釈者は聴衆との仲立ちとして少し工夫すべきところがあると思う。美しい曲だがそれを磨くとともに肉付けする必要、ミュンシュの得意技と思うがここではやや足りない気もした。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第4番「バーゼルの喜び」,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(SLS)1959/3/7ボストンシンフォニーホールlive,,音が悪いかと思ったが最初だけ晦渋な曲のせいだった。このてのものにしては良好なステレオ。ディスコグラフィーになく初出と思われる。ミュンシュは同曲の録音自体ほとんど残していない(正式には67年のerato正規録音、ORTF)。50年代の録音では音楽の凝縮しリズミカルな最も油の乗り切ったミュンシュが聴けるが、まさしくこれもそうで、テンポの弛緩もなく即興的な揺らしもない(そういうことを許す隙あるスコアを書く作曲家ではないが)。切り詰められた音の詰まり交錯する新古典主義のパズルが、安心して聴けるものに仕上がっている。完璧主義者の作品はスコアだけ見ても楽しめるが、逆に演奏の優劣が如実にわかってしまう。これは安心である。ミュンシュは優れている。三楽章にあらわれるかなり露骨なポリリズムが完璧に揃っているのはミュンシュには珍しい。さらに面白いのがこの時代の良い音だけあって、ステレオセッション録音のラヴェルなどに聴かれる不協和音の、鋭敏でバランスの素晴らしい響きを、ここにも聴くことができることだ。不協和音は不協和音なりにバランスが必要で、オネゲルの場合ラヴェル同様にしっかり響くはずのバランスがいちいちある。ミュンシュが単純剛速球指揮者ではない証拠だ。ザッヒャーのためのこれは抒情的な曲であり、翳りある表現は殆ど手法的に部分に使われているだけで戦後的な愉しさや、50年代アメリカ風の垢抜けた前向きさ(トランペットなどはジャズ風のフレーズで必要以上に出してしまってるかも)、そこに末尾に象徴されるウィットが加わって、ハードなオネゲルを求めるなら肩透かしがあるかもしれない。逆に一般客には受けるだろう。ミヨーの1番を大人向けに構造的に書き直したようなものである(いやミヨーの散文的な牧歌とは別物だが)。客席反応は普通だがフェラスのブラコンが控えているからか。もっと嬉遊的なカラッとした演奏もできそうだが、ミュンシュの得意中の得意であったオネゲルの交響曲において、ズシッと重い触感はその5曲の流れにおいて全く妥当である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第4番「バーゼルの喜び」,ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1956/3/23放送,,前年11月27日に亡くなったオネゲルを讃えると称して催されたコンサートによる放送記録(恐らく一度のコンサートだと思われるが間隔があり、データにはメインの歌劇「ユーディット」しか記載されておらずこの計二曲がプログラムの全てだったかどうかもわからない)。優秀なモノラル録音で、ロザンタールらによる長い解説やコメントも入っている。追悼コンサートにしてはいきなり喜びなわけだが、逆にフランス、スイスの青空を思わせるこの曲が選ばれたのもわかる気がする。冒頭のコンマスソロから音程が狂っていてグニャグニャになるがそれがむしろ全体の暖かな調子に合っていて、バッハに倣えという言葉が解説にも入ってはいるがベートーヴェンを強く意識した構造的な曲であり、それを田園交響曲として仕上げたのである。峻厳さは殆ど表面に浮き上がらず高音の横の流れと響きの繊細さ、きらびやかさに重点を置いているのはロザンタールらしい。映画音楽的な、あるいはオネゲル得意のコード進行で気を煽るところはすこしヒンデミットのやり方にも似た微笑ましい常套手段である。とんだソロから始まってすぐ一楽章は僅かに他の交響曲群の晦渋な響きをくゆらせながらもかつての「夏の牧歌」の調子に、後期シベリウスのような手法まで交えながら進む。二楽章も重くならず民謡旋律を使い美しく、三楽章ときたらまるでルーセルの組曲のようなリズミカルで空っぽなところを晒しながらもマニアックに書き込まれたところを随所にしのばせ盛り上げたあとにウィットに富んだ映画音楽的な、まるでミッキーマウス映画の○が小さくなって消えるような締め方をする。このへんは千両役者のロザンタールの面目躍如である。逆にロザンタールはこの曲以外の交響曲は振れなかったかもしれない(心情的にも)。じつに気分のいい、人間的な演奏。拍手もそこそこにコンサートはそのまま進む。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第5番,○マルケヴィッチ指揮RIAS交響楽団(audite)1952放送・CD,,ミヨーのように終始「音響的」な分厚い弦楽器、緻密に蠢く抒情的な木管、咆哮するものの注意深く配置されたブラスが印象的な曲だが、これは逆にそういった理知的な面が際立ったために魅力の薄い演奏になっている、即ち磨き抜かれてはいるが余り共感というものを感じず、何が面白い曲なのかわからない。全般平板で起承転結がはっきりしないせいかもしれない。一瞬ミュンシュのオネゲルに似た雑な音の取りまとめ方、そのぶん力強さを感じるものの、場面場面の近視眼的な起伏も、大づかみの恣意的な音楽作りも足りず、何かセーブしているような出力の低い演奏に感じる。音質も比較的悪く、本来はそれほど濁らないオネゲルの音響が、わりと濁ったように聴こえてしまうのは録音の難しさでもあるが、マルケが取り組んだにしては厳しさが魅力に転化しない、相性の難しさを感じた。きちっとしている面評価で○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第5番「3つのレ」,マルケヴィッチ指揮ORTF(ina)1955/6/8(9放送)live,,モノラルだが環境雑音を拾うほどクリアな録音。Amazon配信はina配信と同じもの(ina配信は放送日を記載)。演目もハスキルのモーツァルトなど同じ。この曲はアナウンスが誤っているので注意。ミュンシュからリリシズムを取り去り骨皮にして力強く突き進ませるような演奏で意外と精緻志向ではない。僅かにオケミスも聴かれるのは曲のせいか。オネゲルの映画音楽的な効果をあげる構成を活かさず、純音楽的に、なおかつ「力づく」で叩きつけてくる、それは他の慣れた指揮者のものと比較して個性的には感じないし、魅力を殺す部分もあるが、音楽の活動的な面はリズムとスピードと捌きに特別の力を発揮するマルケヴィッチの腕が、慣れない曲でも、やれるんだという感慨をあたえる。四楽章の凄まじさは聞きもの。最後はあっさり終わる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第5番「三つのレ」,○ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立文化省管弦楽団(MELODIYA)CD,,こういう上でも下でもなく真ん中に向かって凝縮的な交響曲はドイツにもロシアにも無いものだなあと思う。内省的な曲想はハーモニーの移ろいによる進行を中心とした昔の単純なフランス音楽を思わせ、南欧ふうの暖かな空気感をサウンドスケープ的に描き出している。洒落た雰囲気の映画音楽的な展開は夢想的で気まぐれな、六人組の「実用音楽」を抽象化したような、回想的なものすら感じる。演奏は注意深く下手に派手になりすぎない配慮が感じられる。場所によって音量も音色もテンポもアゴーギグももっと起伏の起があってもいい。例えば強いリズムや低音が欲しい気もするが、構成感を重視したのだろうか。音色もまったく西欧的でこのオケ特有の透明感がプラスに働いている。オネゲルは弦が重要だが、やや弱体とされることもある文化省管はここでは室内楽団的な精度の光るアンサンブルを保っている。三楽章などソヴィエトなのだからパワーを見せ付けるべきだという人もいるだろうが、むしろ非常に計算されたスコアの美観を重視し、演奏で崩さない配慮を籠めたものではないかと思う。たしかに曲自体の煮え切らなさも含め物足りなさを感じる人もいるだろうが、これは見識かもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第5番「三つのレ」,ツィピーヌ指揮ORTF(ina配信)1968/7/28放送,,極めてクリアなステレオ録音。ライヴではない。ツィピーヌの統率力はまったくもって素晴らしい。勢いこそミュンシュに負けるが、音符を切り詰めてリズミカルに引き締めて、だが管弦楽の響きはかなりカラフルに盛大に、ロザンタールとの中間のような感じと言ったら伝わるだろうか。オネゲルの晦渋な面を映画音楽的に明るく開放的な音響と合奏の「強靭さ」によって覆い隠し、終楽章はすこし遅く客観的に整えた感もあるにはあるが、クライマックスへのわかりやすい持っていきかたは、ツィピーヌがマニア受けしたゆえんでもあろう。極端なものが好きな人はミュンシュへいくし、無難なものならもっと最近の録音へいくのだろうが、この演奏、とにかく録音がクリアで迫力があり完璧。素晴らしく突き抜けた音楽として楽しめるから、デジタル配信に抵抗がなければぜひ聴いてみてほしい。もちろん、オネゲル耐性がないなら無理は言わぬ。ツィピーヌにはモノラル録音もあったか。これはひょっとするとセッション録音として音盤化しているか、その目論見で録音されたものと思われる。別日の録音もina.frにはある。さて、謎めいたレ音でポツリ終わるところまでがオネゲルです。(ina.fr PHF07009291),-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第5番「三つのレ」,ツィピーヌ指揮ORTF(ina配信)1971/2/14放送,,不可解な音源。ナレーションもなく、いきなり始まり、尻切れ気味(というかほとんどぶつ切り)に終わる。ライヴではなさそうで、音質は放送ノイズのわずかに入るレベルの普通の音場の狭いステレオ。つまり数年前の放送録音とは雲泥の差といってよい音源価値で、下手をすると同じものを別日に放送しただけかもしれない。音の良すぎるステレオを好まず慎ましくまとまった音響が好きならこちらを取ってもよかろうが、地味な印象は演奏の印象にまで波及する。これは悪い演奏とはいわない。しかし、どうせ聴くなら数年前の放送録音をどうぞ。とにかく尻切れは気に入らない。(ina.fr PHF07009568),-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第5番「三つのレ」,フレイタス・ブランコ指揮ORTF(forgottenrecords)1960/2/11live,,意外と深刻な音楽でびっくりする。晴明とした楽想が現れるとツィピーヌ的な明るさは顔を出すが、ミュンシュ張りの緊張感をもって曲をザクザク切りすすめ、掘り下げている。この両指揮者の演奏との共通点を感じる、「正統な演奏」というふうで、ブランコ独自の娯楽性やラテン的なノリ、リリカルな余韻はあまりないが、ルーセル4番とこの曲という取り合わせを考えてもこの日のコンサートの性向がわかるというものだろう。リアルなレの発音による終わり方はミュンシュ的。意外とおすすめである。モノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第5番「三つのレ」,ミュンシュ指揮ORTF(DM他) 1964/6/11ヘルシンキlive・CD,,勢いと説得力は天下一品で、響きや構造再現の精緻さよりも本質的なところを的確に刳り出しグイグイ引っ張っていくところがミュンシュのオネゲルの凄みであり、迫力である。オケは叙情的な緩徐部にはさほど拘泥せず次第に明るさを帯びていく大音量の部分に全ての力を注ぎ、最期の退嬰的な窶れ方とのコントラストも非常に明確で「これが正解だ」としか思わせない。なぜこの一種強引なやり方でこんなにオネゲルらしさが出るのかわからないが、ブラヴォは飛ぶのである。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第5番「三つのレ」,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA)1952/10/27・CD,,緻密なヒステリーと言ったら言い過ぎだけれど、それまでの交響曲に比べて客観的にまとめたようで(あっさり終わるところなどミュンシュだとブツ切れに感じなくもない)結構激しい表情も織り交ぜた曲であり、他の同時代の凡作交響曲とは一線をかくした魅力のある作品である。他の指揮者であればマニア向けで終わってしまうところ、目の詰まった(モノラル)響きは凝縮力を感じさせ、オネゲルらしさがよく演出されている。十八番たるところを示している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響曲第5番「三つのレ」,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA)1952/10/27・CD,,ミュンシュらしいオネゲルで、中音域の異様に充実したズシリとくる演奏。惜しむらくはモノラル録音だが、オネゲル生前の時代の空気をそのままに伝えるドキュメントであり、またミュンシュの作る中心に寄った響きにも合っている。強い求心力は抒情味を押し退けてでも激情の迸りを表現し、ハーモニーの精妙なバランスや構造の明晰さより、オネゲルが交響曲で一貫して表現してきたベートーヴェン的な強靭な世界の芯を捉え、3楽章においては輝かしい勝利、そして謎めいた終演のレ音まで明確に打ち出している。この曲は明るく軽くやることもできなくもないと思うがミュンシュは2番3番と同じふうにやり、これがスタンダードであるべき、と有無を言わせず聴かせにかかるのである。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響詩「ニガモンの歌」,マリウス・コンスタン指揮モンテカルロ・フィル(erato/warner)CD,,マリウスの演奏は柔らかくドラマを包みこんでしまうきらいがある。印象主義の雲の中へ返してしまっているようだ。作曲家周辺およびミュンシュらの激しい骨董録音とくらべれば迫真味が薄らぐのは仕方ないが、もやもやした感じは録音のせいかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響詩「ニガモンの歌」,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1962/4/27live,,書法的には初期ストラヴィンスキーを透過したワルキューレの騎行みたいなところのある曲。しかしオネゲルらしく、より目の詰まった書き方で、分厚い和音に半音階的な動きで呪術的雰囲気を高め、若干聴き手に媚びてるようなところもなくはないが、それにしては謎めいたディミヌエンドで終わり聴衆も戸惑い気味の反応。ミュンシュ以外の人が振ったら果たして演奏効果を上げられたのだろうか。,,ちなみに今、曲名で検索したら私のブログが出てきて、既に同じ音源について書いていたことが判明した。随分前におことわりしておいたのだが、このブログは(あんまり無いが)同じ音源を時間をあけて何度も書くことがあります。それはその時々で、聴き手である私の趣味嗜好や「耳」の変化がありうるからで、真反対のことが書いてあっても、それはその時々で受けた印象を素直に書いているものです。いわば同じ名前の年齢の違う別人が書いたとご理解いただければと思います。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
オネゲル:交響的運動「パシフィック231」,○ツィピーヌ指揮ORTF(EMI他)1953/2/24・CD,,デュナーミク変化、大音量での打楽器的表現が「上品すぎて」少々スケールは小さく感じられるものの、下手な誇張が無くORTFのよさが出ている。アンサンブルが堅固過ぎずばらけすぎず、絶妙の精度の高い近代的な演奏をなすツィピーヌ。録音時期が多少遅ければきっとスタンダード盤として広く知られるようになったのだろうな、この人に限らないがモノラル末期に全盛期を迎えてしまった指揮者はその後あらわれたステレオ期の人材(を持ち上げるプロモ会社・レコード会社)に〜その才能の有無にかかわらず〜四の五の言わさず表舞台から去ることを強いられた感がある。しかし現在このともすると伴奏指揮者のような扱いすらされるフランス系指揮者は一定の評価を受けているようで、CD復刻は進まないけれどもマニアにとどまらず人気はあるようだ。,,私はこの指揮者は抽象音楽の表現が好きで、特にオネゲルあたりはミュンシュのような灰汁の強さ(というかオネゲルの灰汁の強さを浮き彫りにしてしまうこと)が無く、管弦楽をバランスを損なわないようにさばく鮮やかな手腕がはっきり聴きとれるが、仏CD化を契機に声楽を伴う曲を推す向きも多いようだ。この曲では機関車が音をたてはじめるのが少し早い気もするが後代のマルティノンなど録音のいいものに比べても時代なりの音で拮抗できる力感と精度はあり、同時代のシェルヒェンなどのようなゴリ押し感の無さは抽象性を主張したオネゲルの意思に忠実であるとも考えられ、なかなかいいと思う。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
オネゲル:交響的運動「パシフィック231」,○デルヴォー指揮ORTF(FRENCH BROADCASTING SYSTEM)LP,,パシフィック231はオネゲルのバッハ云々という発言のせいか縦を重視した抽象的な構造物であるかのような扱いが多いように思うが、ほんらいは描写的な要素を中心に据えた映画音楽なのである。デルヴォーの流れ重視の娯楽的な演奏を聴いていると原点に気づかされる。曲に改変の余地がないためか踏み外したような表現はないものの、とても楽しい演奏であり、それもまたオネゲルなのだ。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
オネゲル:交響的運動「ラグビー」,○ツィピーヌ指揮ORTF(EMI他)1953/2/24・CD,,描写的演奏にならないのがツィピーヌの特徴で、たまたま1992年くらいの盤評本を見ていたらまったく同じような批評があったのでたぶんあっている。ラグビーは231に比べて娯楽的要素が多く、フォンテンブローなんかでこわーいナディアおばさんに鍛えられたアメリカアカデミズムの作曲家たちがとった六人組的な方法、すなわち派手なブラス、ヒンデミット的に律動する弦楽器が構造的におりなす「映画音楽的スペクタクル」を彷彿とする。いや逆なのだが、ツィピーヌの色彩的で程よく粗野な演奏を聴くとまさにアメリカイズムに近いものを感じさせる。オネゲルにヒンデミットと同じものを見るというのは恐らく新古典主義というよりバッハ模倣という点においてだけなのだろうが、この演奏の聴感は日和ったヒンデミットによく似ており、ヒンデミットの律動が好きな向きは楽しめるだろう。弦は大変。アメリカイズムといえばアイヴズにエール大学のフットボール試合の描写音楽があるが、あれこそ「描写」であり、オネゲルの抽象化作業は余程進んだものである。○。そういえば前記盤評本にはパレーのラ・ヴァルスが出てくるが、モンテ・カルロ歌劇場管弦楽団(西本氏のとこですね)とのセッション記録三曲をLP一枚にまとめたものだ。SCRIBENDUMのCDに単品でラ・ヴァルスが収録されたことがある。そのとき偽盤説が出ていたが、私は比較検証していない。恐らくこのLPはもう手に入らないだろうが・・・誰かちゃんと比較検証しての「結論」だったのかなあ。甚だ疑問である。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,COMMENT:,,,
オネゲル:交響的運動「ラグビー」,○ブール指揮ハーグ・フィル(放送)LIVE,,web配信されている音源。ヒステリックな音の強弱が鼓膜にきつい、いやそういう曲なのだけど、厳しく、禁欲的なまでに引き締められた演奏ぶりは少々堅苦しさを感じさせつつも、こういうスタイルがあったのだ、シェルヘン、ロスバウト、マデルナ、ばらばらではあるものの確かにこのような潮流があったのだと、明晰な録音をききつつ。激しいアゴーギグのついた客観スタイル、ということで私はやや飽きる部分もあった。長いよ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響的運動第1番「パシフィック231」,○マルティノン指揮ORTF(EMI他)1971/6,7・CD,,落ち着いたテンポで設計図通りの演奏を仕上げたふうだ。響きの確かさ、音符の間に風の通るような精密さ、いささか盛り上がりには欠けるダイナミクスの付け方ではあるが、オネゲルの意図通りの演奏ではあるのだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
オネゲル:交響的運動第3番,○タバハニク指揮ORTF(INEDITS.BARCLAY)LP,,ついに表題を失ったオネゲル的新古典に拠る作品だがこの指揮者のもつ少し前の時代ふうのロマン性が心地よく、オネゲルのわかりやすいほうの作品のもつ若々しい魅力を引き出している。構造性を浮き彫りにするような演奏ではないが、聴いていて楽しい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響的運動第3番,デュトワ指揮バイエルン放送交響楽団(erato,naxos)CD,,鋭さが少し足りない気もするが、近代映画音楽の祖の一人としての腕の発揮された、抽象音楽でありながらあざといくらい、ヒンデミットの日和った曲くらいアピールするフレーズや派手な響き、立体的構造をアピールして進む行進曲的な曲で、かっちり出来上がっているから演奏によってそうそう崩れることはないし、オケがバヴァリアなので、本来中欧にて演奏されることを想定していたことも考慮すると似合わないわけがない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
オネゲル:交響的断章第1番「パシフィック231」,○シェルヒェン指揮ロイヤル・フィル(WESTMINSTER)1954/9 きびきびした動きと不変のテンポ、パシフィック231は効果的な管弦楽曲だ。非常に合理的で目のつまったオネゲルのスコアはシェルヒェンの手をへてさらに軍隊行進曲のような激しく突き刺す音を加えられ非常にささくれだった奇妙な焦燥感のある演奏に仕上がった。モノラルなのになかなか聞かせる演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:交響的断章第1番「パシフィック231」,バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(SONY)1962/10/31派手で色彩的だが、案外描写的でない。拍節感が明快でないせいか?雄弁だが、面白味が伝わらない。なぜだろう・・・?,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:交響的断章第1番「パシフィック231」,作曲家指揮大交響楽団(music&arts他)1929,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:交響的断章第2番「ラグビー」,バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(SONY)1962/10/31派手で色彩的だが、案外描写的でない。拍節感が明快でないせいか?雄弁だが、面白味が伝わらない。なぜだろう・・・?,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:交響的断章第2番「ラグビー」,作曲家指揮大交響楽団(music&arts他)1929,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:交響的断章第3番,○シェルヒェン指揮ロイヤル・フィル(WESTMINSTER)1954/9 明るく軽い音表現は録音や楽団のせいかもしれないが、フランス音楽の系譜につながるオネゲルの作風をよく理解した解釈といえる。オネゲル自身のシンフォニーを思わせる雰囲気も持たせた演奏だが、シェルヒェンのわかりやすい指揮のもとに巧く纏めあがっている。静かな場面での旋律の歌わせかたなど、シェルヒェンが聴衆のことをよく考えて、多少オーバーではあるものの、感情的盛り上がりを意識した情感に溢れる演奏である。たとえばフルトヴェングラーなどとはかなり異なるアプローチだが、こちらのほうが本当なのかもしれない、とふと思った。やや小さく纏まったのが気になるが、佳演。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:交響的断章第3番,○フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル(協会盤/FONIT CETRAほか)1952/2/10LIVE オネゲルの作風は多分に構築的で、よく書き込んであるから、指揮者は纏め易いのではないか。現代音楽ではあまりいい録音を遺していないフルトヴェングラーも、自らとベルリン・フィルに献呈されたこの曲に関してはとても集中力の高い秀演を繰り広げている。ベルリン・フィルも弛緩せずになかなか好演している。音も良い。オネゲルの交響的断章は1番、2番がそれぞれ表題性をもつ(パシフィック231、ラグビー)のに対して、この作品は表題性から離れ純粋な管弦楽を指向しているところが注目される。1、2番は要するに描写音楽で、汽車の轟進やラグビーボールの飛び交うさまを彷彿とさせるが、この曲はたとえば冒頭の付点音符付きフレーズはプロコのロメジュリの有名な舞曲を想起させるし(もっともプロコの同作品より前に書かれた作品なので影響うんぬんは無いはずだが)、その後もルーセルの第3交響曲のエコーが感じられる箇所があったり、いろいろな同時代音楽を背景に作られた、前2曲とは全く視座の違う作品として注目される。「典礼風」を予感させる弦楽器の凄まじいアンサンブルは、至極わかりやすいこの曲に重厚な趣をあたえ1ランクアップさせている。面白い曲なので機会があればぜひ。この盤おすすめ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:交響的断章第3番,ツィピーヌ指揮フランス国立放送管弦楽団(COLUMBIA/PATHE) かなり硬質な運動的オンガクだが、楽団に合っているらしく非常にスリリング。楽しめる。生々しい録音だ。併録の交響曲第4番に比べぎゅっと凝縮され分かり易い旋律が施された楽曲だけに、最後まで飽きずに聞けるのがよい。フルトヴェングラーですら録音している名曲なだけにこの演奏の位置づけはビミョウというか相対的に最高とは言えないものの、時代と国の空気をつたえる演奏記録としては十分に魅力的である。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オネゲル:交響的黙劇「勝利のオラース」,○ザッヒャー指揮バーゼル交響楽団(PANclassics/ACCORD)CD,,90年代中盤にこれが出たときは、まだ現役であったことに驚いたものだ。既に高齢であったはずなのに力強い表現で、緩み無く、透明に研ぎ澄まされてはいるものの客観的に過ぎない心得た演奏となっている。ザッヒャーは録音こそ少ないが前衛音楽の長年の擁護者であり、この演奏も作曲家の恐らく意図以上に前衛的な響きの交錯を明確にして、いかにもオネゲルらしい重厚な作品であるにもかかわらずオネゲルらしくもない、爽快でアルカイックな趣で一貫している。それでいて場面場面の切り替えを明確に劇性を顕にし、録音が鮮やかなこともあって緩徐部では感傷性すら浮かび上がる。様々なオネゲルを構成する要素がきちんと整理されて隙が無い。比較演奏が少ないのと、ちょっと異質なくらいジェネラルな雰囲気のオネゲルに仕上がっているので○にとどめておくが、全く不足の無い演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:交響的黙劇「勝利のオラース」(1920-21),○アンセルメ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1948/12/18live,,オネゲル自身が代表作に挙げた大規模な管弦楽作品で、楽器用法や構成、概ねの響きにオネゲルらしさが横溢している(だから何かアメリカ往年のスペクタクル映画音楽に聴こえる部分もある)とはいえ、他作品とは隔絶した独特の晦渋さがあり、高音打楽器等によるしんとした音響を織り交ぜつつ並ならぬ分厚い音響を弦楽器により不協和的にうねらせ、そこに(よくとったやり方だが)凶悪な響きを持つブラスを重ねていくさまは異様で、シェーンベルクの削ぎ落とされたルナティックなピエロと、肥大化したグレの歌が混ざり合ったような奇妙な現代感を抱かせる。音の多さはけして無秩序ゆえではないがアイヴズを想起せざるを得ないところもある。よく筋書きを知ってから聴くべき曲なのかもしれない。12音全部が鳴るなど諸所に機知を織り込んださまは確かにマンネリズムの否定できない完成期オネゲルにおいては魅力的に聴こえる。友人ミヨーの破天荒時代にあった音楽ともまた違い、「ちゃんとしよう」という意識があるから、分析好きは楽しめる曲かもしれない。,,初演者アンセルメは音こそ透明感を保っているものの力感を前面に押し出し、総じてドイツ的だ。NBC弦楽セクションの持つ力が(アイヴズの「答えのない質問」におけるコラールのように)和声的に移ろう音符の重みを際立たせ、中欧的表現を演出している。アンセルメがこういう圧倒的な音楽をもやれたとはスイス人にもわからなかったろうなあ(謎)。ザッヒャー盤等紹介した覚えがあるのだが検索すると出ない。録音最悪。差し引いて○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
オネゲル:室内協奏曲,○ランパル(fl)ピエルロ(o)ウーブラドゥ指揮パリ室内コンサート協会(EMI)1953/10・CD,,50年代にしては音が悪い気もするが不世出のフルーティスト、ランパル全盛の確からしさに沿うようにピエルロ、バックオケが明快なアンサンブルを組んでオネゲルでも余り知られていないこの曲の、知られていない由縁である構成の弱さを吹き飛ばすかのように、一貫した演奏を繰り広げている。オケはフランス風のアバウトさを持ちつつも、書法の要求するデジタルな古典派的表現をしっかりとれており、協調性もあってそれほど悪くはない。1楽章が六人組の牧歌的世界をそのままに美しい。2楽章でショスタコ風の暗さが現れてもはっきりした演奏スタイルがそちらの歌謡的な晦渋さに寄せることなく、オネゲル特有のメカニズムに耳を惹かせるから割と集中力をもって聴き通せる。3楽章ははっきりオネゲルのシンフォニズムがあらわれ合奏協奏曲の魅力を見せ付けるものだが、やや音楽の力が弱いせいか、いつものこととも言えるけれども、尻切れ蜻蛉にも感じる。いずれ殆ど忘れられているオネゲルのシンフォニーや管弦楽曲、オラトリオなど大規模作品「以外」の作品としては、一流とは言えないが確かに、この面子では聴き応えがある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:勝利のオラース,○タバハニク指揮ORTF(INEDITS.BARCLAY)LP,,オネゲルはわかりやすい作品はいくらでも作れるが真摯な作品は難しいとかいったことを書いていた気がする。素人聴き晦渋な作品のほうが満足度が高かったようだ。この曲を自身の最高傑作と考えていたようだが、晦渋。ミヨーが初期に書いていた「とにかく前例のない個性」、一時代前の前衛的作風に似た印象もある。誇大妄想的で激しい感情と繊細な気分のうつろいを劇音楽のフォーマットにのせて描き、これに合唱が加わったらそうとうの大作として印象も変わっていただろうなあと思う。タバハニクはジョリヴェ的な娯楽性をそんな曲にも見出していると言ったら過言だろうか。精緻さと力感のバランスがよく、だが「バランスがいい」という言葉の印象とは異なる意思的なものをかんじる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:前奏曲、フーガと後奏曲,"ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI)CD",,いかにもオネゲルのつけそうな題名で、バッハに倣った書法、対位法を駆使しがっちり固めた、まったく六人組ふうではない作品だがこれはもともと六人組の記念盤LP収録の音源(仏EMIの二枚組CDはLPの全音源を網羅している)。第二次大戦後作品なのに戦前とあまり変わらない作風、もっとも映画音楽的に効果的に展開する旋律が2,3番あたりの交響曲のように魅力を放っていたり、さすがプロフェッショナルを自認していた作曲家、というところ。それほど魅力のない楽想が通奏されるところ、中盤の盛り上がりからなぜか渋いフーガでつなぎ(連続して奏される)長々しい平和な音楽からなぜか奈落にいたる構成(連続して奏される)は飽きる向きもあるかもしれない。というか「渋い」がオネゲルの本質であって、こういうものは聴衆を意識した作品と思う。あとはアルトサックスが古典風に落ちそうな音楽をモダンに引き戻しているのは耳をひく。ツィピーヌは職人的にこなし穴が無い。オケの力量によるところも大きいだろうが、かならずしも難曲ではないのでそこはどうでもいいか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:前奏曲とフーガ、後奏曲,アンセルメ指揮ケルン放送交響楽団(SLS)1963/4/30live,,篭ったモノラルで聴きづらい。曲はオネゲルが適度に日和った、いかにもの作品で内容的に交響曲と似たようなものである。新古典主義でもかなり見通しよく、弦楽器などかなり簡単に書いてあるようで、長い音符によく歌い楽しめる美しい旋律がある。アンセルメなので過度の歌い込みは無いが、オネゲルの計算的な作風にマッチしている。音色は中欧ぽくもあるが、バッハには聴こえないのでこれでいいのだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:二台のヴァイオリンのためのソナティナ,○D./I.オイストラフ(monitor),,晦渋な3楽章はともかく1、2はときおり美しいミヨー風の響きや旋律があらわれ、とくに2楽章の第二主題が単純で美しい。オネゲルの響きはとにかく濁っているので、半音階的な動きをともなう伴奏がたまらなく気持ち悪かったりするのだが、この曲も伴奏側は至極つまらなそうである。しかも変な音でもしっかり音程をとらないと意図通りの響きを出せない。練習曲を意図したわりには動き自体はゆるゆるだし、短いわりにちゃんとやるのは大変であろう。技巧派のこの親子ならではの音色の統一感に息の合い方が効いている録音だ。ライナーをプーランクが書いている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オネゲル:牝山羊の踊り,○ランパル(fl)(HORIZONS、AJPR/CLASSIC)1949/12/5、26?・CD,,何故フルート独奏曲はみんな暗いのか。ジョリヴェを思わせる呪術的な曲だが、曲が中身をすべて語るというか、ランパルは曲の要求をそのまま表現しようとしているようだ。,-----,,,,,,,,,,,,,
オルウィン:交響曲第1番,○バルビローリ指揮BBC交響楽団(DUTTON,cedar)1952/6/11・CD,,何に似ていると言ったらいいのだろう?ジョン・ウィリアムズの映画音楽だ。心なしか楽団のボストンにも似た技術の高さと硬質な音、ダイナミズムを派手に表現する能力もあいまって、個性はよくわからない正直、しかし面白い。壮年期バルビも音楽を舳先で先導し娯楽性を高める。なかなか復刻状態もよくステレオにすら聞こえる。ただちょっと遠い音。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
オルウィン:交響曲第1番,○作曲家指揮ロンドン・フィル(lyrita)CD,,非常に美しい音楽を描く人。イギリス20世紀に咲いた密やかな花。シベリウスやウォルトンなどを彷彿とさせるこの曲において、オルウィンは映画音楽的な耳馴染みが良い音楽を展開している。ロマンティックな性向は保守的なイギリスらしい。管弦楽の扱いが手慣れたもので、個性は薄いが技術的には高度だ。勇壮でオケがよく鳴る曲だけれども、旋律は決して明瞭でなく、ただ響きの美しさに浸るのがよい。この演奏はロンドン・フィルの好演が光る。オルウィンの指揮も慣れたもの。同曲はバルビローリに献呈・初演された。1949年作品と遅まきのシンフォニー。 (1993記),,LP時代のLYRITAに全集録音を残しているが、CDでは長らく廃盤となっていた。しかし最近復刻されている。これは1,4の組み合わせ。,"
Alwyn conducts Alwyn

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","オルウィン(アルウィン)交響曲第3番他まとめ",,自作自演はまだまだ復刻されている。,"
Alwyn: Symphonies 2"," 3 & 5

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Alwyn Conducts Alwyn

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Concerto Grosso 2
Alwyn","Lpo
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オルウィン:交響曲第1番,作曲家指揮ロンドン・フィル(lyrita)CD非常に美しい音楽を描く人。イギリス20世紀に咲いた密やかな花。シベリウスやウォルトンなどを彷彿とさせるこの曲において、アルウィンは映画音楽的な耳馴染みが良い音楽を展開している。ロマンティックな性向は保守的なイギリスらしい。管弦楽の扱いが手慣れたもので、個性は薄いが技術的には高度だ。勇壮でオケがよく鳴る曲だけれども、旋律は決して明瞭でなく、ただ,響きの美しさに浸るのがよい。この演奏はロンドン・フィルの好演が光る。アルウィンの指揮も慣れたもの。同曲はバルビローリに献呈・初演された。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オルウィン:交響曲第2番,○作曲家指揮LPO(LYRITA)CD,,さすが作曲家と言う前に、器用さが出た佳演である。録音が良好なステレオということもあるが、立体的な書法を緻密に彩る各楽器の繊細な動きが明瞭に描き出され、自身の美学がよく聞き取れる。叙事詩的な側面を感じさせる曲で(つまりは映画音楽的)、音だけではわけのわからない盛り上がりと凪の繰り返しで気まぐれに出来ているようにも捉えられるが、ピアニッシモまでしっかり聞き取れるので手抜きの無く有機的に繋がる楽曲の広がりに浸るだけでも飽きない。リズム感においてやっぱり専門指揮者に比べると生硬さがあるが、整えられた正確なテンポに対して響きへの感覚は非常に確かで、「鳴らしどころと鳴らし方」を知っている。晩年のウォルトンより上手い。だからインパクトを意図したブラスの派手さにとっぴさとか空虚さは感じられないし、弦楽器が前面に出る場面では旋律だけが浮き立った演歌にもならない(第二部クライマックスで、ここだやっときたとばかりにシベリウス1番終楽章緩徐主題のような旋律を歌うLPOの弦楽陣には拍手・・・最初から歌うのではなくここで初めてヴィブラートを尽くすのが巧い)。なかなか。○。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,"
Alwyn: Symphonies 2"," 3 & 5

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",,"オルウィンについてはこちら",,-----,,,-----
オルウィン:交響曲第2番,バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(DUTTON,CEDAR他)1953/10/25・CD,,私の記憶ではEMI原盤。バルビローリ委属作品で初演直後のスタジオ録音になる。バルビの芸風が独特であることを改めて認識させられる。オルウィンは基本ウォルトンである。だから派手で硬質で近代フランス+新ウィーン楽派的な透明感のある響きを織り交ぜて、細かいトリッキーな装飾音形を駆使し、精緻なアンサンブルを後期シベリウスの影響下に繰り広げていく。これはRVW後のイギリス音楽の一つの大きな流れとなっているものだが、バルビはロマン派の指揮者であり、響きの透明感は重視せず、起伏も常にレガーティッシモで滑らか、非常に有機的な横の流れを作る。弦楽器の指揮者だからと言ったほうがいいか、こけおどし的なブラスをガンガンに鳴らしてのダイナミズムやデジタルな変化付け、オケの機能性を見せ付けるようなギチギチ締め付けられたアンサンブルを好まないのだ。更に管楽器に弱いという点も現代的な管弦楽法の曲で持ち味を発揮できない原因となっている。ウォルトンに向かないのはそのせいで、じじつ演奏は殆ど無い。,,更に指揮者が起伏を意図的にしっかりつけていかないとのんべんだらりとしてしまう類の書法の楽曲では、本当にわけのわからない音楽を作ってしまう弱点がある・・・特に晩年の芸風では。構築性が希薄で、全体設計を作ってしっかりまとめるより刹那的な感傷表現をより重視するきらいがある。シェーンベルク初期の楽曲においては名録音があるが、あれもどちらかといえばのんべんだらりの上にうねるような「バルビ節」を聞かせる好悪分かつものである。マーラー5,6番のスタジオ録音が一番象徴的だ。とにかく悠久の大河のようになめらか過ぎる。,,この曲は二部構成という特殊な形態をとっており構成上・書法上の後期シベリウスの影響はあきらかである。シベリウスは後期においてはダイナミズムを狙わない作曲家だったが非常に周到にスコアを練り上げたため、4番のような起伏の無い交響曲においても「のんべんだらり」にはなりにくい。だがオルウィンはその点甘い。というか一般聴衆受けする音楽というものを熟知していたがために、意匠・構成上は新しいのに常套的表現を長々と連ねてしまった、いわば「サービス」しすぎた作品とも言えよう。バルビの録音はモノラルで遠く、オルウィンの細かい仕掛けを織り交ぜた作品を表現するには(とくにこの曲には)悪すぎる、ということもあるのだが、それとは別に世紀末ロマン派音楽、例えば無調以前のシェーンベルクまでの中欧音楽の流れをしっかり土台に据えているこの曲において、常套的な部分こそ本質だとばかりに強く意識して、特に弦楽をうねらせ歌わせバルビ節に持っていってしまった、そこが違和感を感じさせるのだ。,,試しに新しい録音やオルウィン晩年の自作自演を聞いてみてほしい。余りの印象の違いに驚くのではないか。この演奏は(確かに他曲と比べても中欧ロマン派的な匂いが強いことは確かなのだが)旧ロマン派であり、新録は新ロマン派的と捉えられる。オルウィンはバルビに絶大な信頼を寄せていたが、自作自演を聴く限りあくまで敬意に近かったのではないかとも思った。うーん、やっぱりでも、録音が悪いな。無印。,,この曲、2部構成にしてしまったために各部やはり長たらしく、オルウィンではとっつきづらいかもしれない。ただでさえ気まぐれな連続性の上で結局退嬰的に滅んでいく、わけわからなさがオルウィンの構成法なのだから、形式を半端にとっぱらってしまうと聴きづらい。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",
オルウィン:交響曲第3番,

○ビーチャム指揮BBC交響楽団(DA:CD-R/SOMM)1956/10/10ロンドン・ロイヤル・フェスティヴァル・ホール初演live・CD

シャープでダイナミック、しかし中欧伝統の管弦楽のしっかりした土台を踏まえたうえでネオ・ロマンチシズム的な平易さを打ち出すオルウィンの代表作のひとつ。映画音楽家らしい一般へのアピール力のある曲で、管弦楽効果も素晴らしく、構成的にも無駄がない(ウォルトンの1番に似るが凝縮度では真逆)。焦燥感に満ちた雰囲気が終始維持されるが、ルーセルやホルストのようなわかりやすい音楽でカタルシスもきちんと与えてくれる。1、3楽章は中欧的なダイナミズム(音響的にはホルストに近い)、静謐な2楽章はフランス的な繊細さが特に目立ち、また終幕近くの静謐さなどRVWを思わせる思索性がある(書法的にRVWを思わせる部分は他にもあるが表現が違うので気が付かない)。最後はいきなりジャンジャンでややあっさりしすぎているが。オルウィンは終幕に向かい凪ぐ曲を書くのも特徴である。前衛手法をさりげなく取り入れるのが持ち味だが、ここではインド音楽が導入されている。

この演奏はビーチャムの手際よさがひときわで、求心力のある凝縮された表現が、派手な音響によって拡散的になりかねない音楽をしっかり取りまとめ、また中欧やイタリアの指揮者には無いまさにイギリス的な柔らかな叙情をフランス的な理知的な譜面に加えて充実した聴感を与えてくれる。ビーチャムでなければこんな曲感にはならなかったかもしれない。DAは雑音まみれ。荒いがゆえにダイナミズムのみはしっかり聞き取れる。○。SOMMは2008年4月発売。,,"SOMM-BEECHAM 23 The Beecham Collection

Beecham in Concert
Mozart",Grieg,BBC So,Rpo,"Beecham
Somm

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","オルウィンの交響曲>オルウィンは音楽にとどまらない多芸多才の人で、作曲家としても未だに非常に人気があるが(秘曲好きは皆知っている)、「邪魔者は殺せ」など映画音楽を多く手がけたのち戦後本格的に純クラシック音楽を作曲し始め、前衛的手法も意欲的に取り入れているが殆ど気にならない。腕であろう。同時代の前衛過ぎない作曲家から多くインスパイアされており、マーラーやプロコなどなど20世紀のそのての音楽が好きな向きは「元ネタ」探しも興の一つ。バルビローリと親交が篤く交響曲は殆ど初演を任せているが、3番のみ急病の代役でビーチャムに任された。現在バルビローリ協会が(レーベルとしてもう機能して無いようだが)DUTTONから数年前に出したCDに収録された1,2番やオルウィン自身の出自を物語るフルート曲(ルーセルのフルーティストたちを英国初演したのはLSO主席時代のオルウィンである)をまずは聴くべきだろうか。LYRITAには自作自演も残されている。一時期レーベルとして消えかかったが、CD-R時代をへて最近何とかCD再発を始めている。
Alwyn: Symphonies 2"," 3 & 5

Lyrita

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5番はバルビの死後発表されたものだが、これも人気があるようだ。副題もUrn Burial or Hydriotaphiaというマニアックな「葬送」に関する考察書から。いかにもイギリスのシニシズムだが、音楽はダイナミック。","
William Alwyn: Symphonies Nos. 1 & 2

Dutton

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",交響曲集成ではこれ。シンフォニエッタも有名。,"
Alwyn: Complete Symphonies; Sinfonietta for Strings

Chandos

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オルフ:カルミナ・ブラーナ,○ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団&合唱団、ヴェヌッティ(SP)他(Profil、Hanssler、NDR)1984ハンブルグlive・CD,,ちょっと冷静な演奏だがいつもの狂乱的なカルミナ・ブラーナではなくケーゲルらのやったような「構築物としての」ブラーナが聴ける。ここには歌詞の意味内容より純粋音楽的な興奮をそそられるものがあり、もちろんそういうものはこの曲にはほしくない、という向きにはまったく薦める気はないのだが、静謐さや純粋さ、鋭さといったヴァントならではの持ち味がこの曲に違和感なく入り込んでいるさまには感銘を受ける。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オルフ:カルミナ・ブラーナ,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団他(SCC:CD-R)1969/5/18live,,大げさな始まりから音符を切り詰め攻撃的な発音でスピーディに展開していくいつものストコのブラーナである。この楽団らしい派手派手しさにくわえ、牧歌的な曲でさえどこか冷たく恐ろしげな気配がするのはストコの同曲観といっていいだろう。柔らかさが無い。クライマックスの作り上げ方も見事で大ブラヴォが飛ぶのもいつものとおり、と言っていいか。独自の世界なのでこの曲の正統な聴き方を好む向きには薦められないし、この曲のもつ世俗性を映画音楽的な見方から楽しむ向きにも薦められないが(ジョン・ウィリアムズ好みの風景はどこにも無い)、まずまずの録音状態のステレオでもあり、ストコマニアなら聴いておいていい。ソプラノ独唱が素晴らしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オルフ:カルミナ・ブラーナ,◎ストコフスキ指揮ボストン大学管弦楽団(DA:CD-R他)1954/11/19live,,とにかく攻撃的な演奏である。スピードもさることながら音のキレが非常に激しく、とくに合唱の音符の切り詰め方にはしょっぱなからから焦燥感を煽られある意味小気味いいくらいだ。シェルヒェンの芸風をやはり想起してしまう。歌によってばらつきがないとも言えないしブラスはどうもブカブカとふかす感じだが、総体として終始楽しめるようにできており飽きさせることはまず、ない。盛大な拍手もわかる非常に興奮させられる演奏である。ストコの生命力は凄い。原典主義とは無縁の世界だってあっていいし、だいたいビートルズの弦楽四重奏編曲とか平気でやる分野の音楽家が、近現代の作品で多少譜面をいじることを何故躊躇し嫌うのか、金銭的権利的権力的問題以外の部分では私にはとうてい理解し難い部分があるなあ。,,後注:DA盤はBSOではなく大学オケ盤(現在プライヴェートCD化)と思われる。そちらのデータに基づき書き直した。なおメンバーはそちらによれば以下。,Ruth Ann Tobin, soprano / Gwendolyn Belle, mezzo-soprano / Elmer Dickey, tenor / Kenneth Shelton & John Colleary, baritones / Boston University Chorus / Boys Choir from the Newton Public Schools,-----,,,,,,
オルフ:カルミナ・ブラーナ(リハーサル),○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団他(DA:CD-R)1969/5放送live,,1時間余りにわたってリハ風景が聴ける。こういうラジオ放送も古きよき時代ならではのものだ。流石アグレッシブなアメリカ交響楽団に対して比較的「抑える方向で」表現の機微を付けコントラストを明確にしていくストコフスキの方法がよく聞き取れる。比較的穏健に、冷静に、余り多くの説明をせずに(ここが肝心)、演奏の強弱を中心にしたかなりわかりやすいリハ風景といえるだろう。曲がまたダイナミックで単純なだけにオケもガシガシと攻めてくるのがリハとは思えない側面もあり面白い。もっともリハならではの一種楽にやっているふうな感じは弦に聞き取れる。声楽陣が素晴らしい。なかなかに飽きない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
オルフ:劇的カンタータ「カルミナ・ブラーナ」,○コンヴィチュニー指揮プラハ放送交響楽団・合唱団他(MEMORIES)1957/4/31プラハの春live・CD,,冒頭はいきなりの迫力ではあるものの、鈍重で、合唱とオケがすぐにずれ始めるのががくりとさせるが、ホール残響のせいでそう聞こえてしまっただけなのかもしれない。そのあとは徐々にまとまってきて最後には合唱・オケが素晴らしく規律のとれた迫力ある盛り上がりが出来上がる。録音がやや弱くバランスもインホール録音的な悪さがある。モノラルでも迫力のないほうのモノラルでコンヴィチュニーの実直さが表に立ってしまう、歩み淀むような遅いテンポが気になる箇所も。しかし独唱が素晴らしい。抜けがよく透明感があり綺麗にひびく。これも録音特性かもしれない。チェコとは浅からぬ仲のコンヴィチュニーだが正直コンヴィチュニーのよさはドイツでしか表れないような気もしていて、オケの光沢のある艶やかな特性とややあっていないようにも思った。○にはしておく。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,,,,,,,
オルフ:劇的カンタータ「カルミナ・ブラーナ」,○フリッツ・マーラー指揮ハートフォード交響楽団、合唱団、スタールマン(SP)他(VANGUARD)CD,,グスタフ・マーラーの甥フリッツとオルフは親交があったと言われる。後半生ハートフォード交響楽団のシェフとしてドイツ的なしっかりした腕を振るい録音も結構なされたが、いかんせんオケの知名度に欠けるせいか現在現役盤は殆ど無い。オケは結構巧いので見くびらないように。この演奏もよくできていて、日常的に聴きたくなったらいつでも聴ける類の演奏、と言ったらいいのか、変な山っ気もなくソリストが突出して芝居じみた表現を繰り出すこともなく、かといってヨッフムのように少々真面目すぎてつまらなく感じることもない。長く連綿と続く簡素な歌を聴き続ける部分が大半の曲で、結構飽きるものだが、これは締まった音が心地よく、耳を離さない。全体のバランス、設計もいいのだろう。力感溢れる両端部は録音マジックの部分も多少あるかもしれないが、誇大妄想的表現にも陥らない立派な表現である。いい演奏。○。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,-----,,,,,,,,,
オルフ:世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」,○テンシュテット指揮トロント交響楽団他(rare moth:CD-R)1979/12/13liveオルフの世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」、”トリオンフィ”(三部作)の嚆矢にして、オルフの代表作である。少々ストラヴィンスキーの作風を思わせるところもあるが、より単純で、ひたすらのリズムのくりかえしが脳内に言い知れぬ液体を分泌させる。強烈なリズムと非和声的な音楽、とあるが(「クラシック音楽作品名辞典」)このカルミナ・ブラーナにはとてもその特質がよくあらわれている。南独の修道院で発見された坊さんたちの破戒詩「ボイレン歌集」から、24の詩とオルフの1詩により編み上げられたものである。さて、テンシュテット盤。同じレア・モスからのハンブルグ盤とくらべ、派手である。ひとつにはこれが曲がりなりにもステレオ録音で、ハンブルグ盤がモノラル録音だった、ということがあるが、私はそれよりむしろトロントといういわば「外様」の楽団がこれを演じるという「異様」が、奇矯なテンションをあたえたのではないかな、と思う。終演後の異様なブラヴォも会場の熱気を伝える。技量の問題もある。ハンブルグのほうが全般的に一ランク上の技量を持っている。がそれゆえにといおうか、ここでは足りないところをテンションで押し切っているさまが聞き取れ、却って面白い。テンシュテットはしかし面白い指揮者だ。緩急の差も著しくつけられており、圧倒的な声量の歌を聞かせたかと思えば、緩やかな歌などヴォーン・ウィリアムズあたりを思わせる鄙びた美感をもたせ秀逸である。おそらく受信機からの録音、テープヒス等は例によって聞かれるし、通常のCDに求められる音質にはかなり足りない音だが、まずもってテンシュテットの「異様」を聞こう。最後に初曲が戻ったところの凄絶な表現に仰天、佳演だ。音質がもっとよければね。。。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オルフ:世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」,○テンシュテット指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団他(rare moth:CD-R)1980liveこの曲はじつはヨッフムとケーゲルくらいしか知らない。オルフは好きだが、どちらかというと教育用に作曲されたオスティナート・リズムのつづく素朴な歌を寝る前などによく聴いていた。だが、そういった軽い曲はオルフの本領ではないのだろう、ほとんど話題にのぼらない。カルミナ・ブラーナは最初だけが異様に人気があり、テレビのBGでもしょっちゅう聞かれる。第二曲あたりは「スター・ウォーズ」の新作の音楽にそっくり。人気があるなあ。このテンシュテットの盤は、なんと80年代にもかかわらずモノラルである。モノラルはそれなりに聴き易い場合もあるが、できれば壮麗にステレオで聞きたかった。ラジオ放送をエアチェックした盤なのか、と思わせるほど細部が聞き取れない音質だったりする。しかし、ヨッフム盤からは聞き取れないようなダイナミックな音楽性が発揮され、聴き進めるにつれ疲れてやめてしまうことの多かったこの曲を、最後まで飽きさせず聞かせてくれた。付文にもあるが「生々しいまでの官能性」というのはたしかに感じるし、また、私個人的な感想かもしれないが、これは「マーラー」そのものの解釈であり、静かな局面では「大地の歌」を想起するほど諦念に満ちている。音楽の様々な側面を描いたこの曲の特質をよくとらえた演奏だ。魅力的な演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オルフ:世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」,○パレー指揮デトロイト交響楽団他、アレクサンダー、ボートライト、ババキアン(LANNE/DA:CD-R)1960/12/29live,,破滅的な音響と爆発的な推進力で最初から最後まで突き進むパレーだが、管弦楽の強烈なリズム表現に派手なデュナーミク変化はいかにも凄まじいとして、合唱・歌唱の扱いがやや雑に感じられるところもある。ソリストはわりと自由に歌唱し、合唱は強烈さをアピールするために敢えて自発的な迫力に任せているようにも聴こえる。比して中盤歌曲の単調さは管弦楽にしか興味がないパレーの意図?とはいえこのわりと散漫なオラトリオの最初と最後の「おお、運命の女神よ」だけでも聴く価値はあり。録音がとくに前半悪すぎるが、パレーのこの曲、というだけで食指が動く人もいるのではないか。そもそもオルフは管弦楽は伴奏と位置づけ、あくまで演劇的連作歌曲として描いているのにこの管弦楽曲みたいな音楽は何だ、という教条主義者はヨッフムでも聴いとけ。新旧どっちの録音を選ぶべきかちゃんと調べろよ。○。そりゃ終演後は大ブラヴォ。冒頭がBGMに使いまわされて久しい運命論的なこの曲だが、オルフの本領はむしろオスティナート・リズムに貫かれた簡素な本編歌曲にある。数々の教育用作品に通じる特有の平易な表現だ。オルフが発掘した「とされている」中世大衆歌の味ももちろん両端だけでは味わえない。体臭をふんぷんとさせながらあけすけに大声をあげる下品さが求められるところもあり、パレーの芸風は曲にはあっている。歌唱は何とも言えないが俗っぽいところはきちんとそれなりにやっている。何よりアメリカだから俗っぽさでは中世ドイツ顔負けである。音色は明るいけど。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,"(参考)カルミナ・ブラーナ","67年のヨッフム・ベルリンドイツオペラ管弦楽団他の録音(ディースカウが参加してるけどどうでもいいや)は作曲家監修の定番。個人的には録音や演奏精度はともかく解釈表現にそれほど野性味は感じないが、普通の人は地元バイエルンの荒々しさに感銘を受けるらしい。リマスター新盤のほうが迫力がある。トレッチェル参加の53年モノラル旧録(DG)もある。
オルフ:カルミナ・ブラーナ
ヨッフム(オイゲン)",ヤノヴィッツ(グンドゥラ),シュトルツェ(ゲルハルト),フィッシャー=ディースカウ(ディートリヒ),シェーネベルク少年合唱団,"ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
ユニバーサル ミュージック クラシック

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オルフ:世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」,◎ライトナー指揮ケルン放送交響楽団他(ARTS ARCHIVES)1973作曲家監修 これが予想に反して(失礼)いい演奏なのだ。まるで劇音楽のよう。冒頭(と最後)の「おお、運命よ」はややフツーの感もなきにしもあらずだが、聴き進めるにつれよく計算された音楽の流れに魅了される。第3部の後半で丁々発止の歌唱を聴いているうち、ああ、これはミュージカルだ、と思った。決して軽んじて言っているわけではない。ライヴ感にあふれ、生き生きと演じられる音楽はたとえようも無く美しい。これほどわくわくするカルミナ・ブラーナを初めて聴いた。そういえばこれは作曲家監修のもとにつくられた音源だった。オルフの手により音楽はその本来の姿を取り戻したのかもしれない。こういう面白い演奏でこそ生きてくる音楽。ピアノの効果的な導入やリズム性など、前期ストラヴィンスキーの影響は否定できない曲だが、娯楽的演奏を許すという点でストラヴィンスキーの世界とは隔絶している。オルフについては親ナチ派だったとかいろいろキナ臭いことも言われているが、イデオロギーと音楽は全く違うもの。オルフの個性は21世紀の今においてもその輝きを失ってはいない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
オルフ:世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」,シュミット・イッセルシュテット指揮ストックホルム・フィル(BIS)1954/11/26live ストックホルム・フィル75周年記念ボックスより。リズム感がイマイチか。カツゼツがあまりよくない。横の流れが重視されているかといえばそうでもなく、歌唱を含め今一つだ。だいたい真面目すぎる。滑稽な歌は崩してほしいし、深刻な歌はきわめて厳しく表現してほしい。無印。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,