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2005/5GW 青森・南部あやしげ旅

暫定報告書のコーナー


とりあえず旅行中に書いたものと携帯カメラでとった写真をアップしていきます。おいおい写真追加等で整理をつけていこう「とは」思っております。

では。

 

ちなみにラインナップ

初日:釈迦の墓がある梵珠山、御灯明の釈迦堂山、奇怪な土偶が沢山みつかる三内丸山遺跡

二日目:下北半島半周:龍神の棲む川内川渓谷大滝、人魂もぶつかる円通寺

三日目:泣く子も黙る恐山、謎の古代石碑日本中央の碑

四日目:旧戸来村の謎:大石神ピラミッド、キリストの墓


2005年05月01日
速報>青森あやしげ旅その一

:梵珠山遠景


まとめてはいつかフィルムカメラの写真も含めて本アップしますがいつもそう言いながらアップしないので、今回はこちらに随時メモライズしてこうと思います。

初日。一時間早く青森到着。ドトールで飯後、青森交通バスで大釈迦の北へ。のどかな田園をヒタスラ歩くと俄かに山奥めいてくる。激しい残雪、標高は低いが悪い足の下。泥だらけでやうやう到着したるは梵珠山山頂。むむ、この名前・・・そうここが釈迦の墓がどこかにあると明治の面白おじさんが断言した山なのでした。

:梵珠山頂の石仏群

はっきり言ってコースを選ばないとえらい険しい感じ。修験道な匂いがふんぷんとする。山頂直下に寺があったとか(記録上は明治建立)いうが廃れもやむなしといったところ。石仏群は現代のものだろう。ここが有名になったのは(といっても観光案内所の人もバスの運転手さんも知識ゼロだったが)程近いもうひとつのピーク、釈迦堂山の頂上に旧暦六月にあがるといわれる「御灯明」いわゆる怪火のせいである。といっても最近は余りあがらないらしい。山名からいって寺の一宇があったことは確かだろう、山中の寺に火がともる「お小僧火」系の伝説が、因果話が廃れて怪火だけ遺ったとすれば、身も蓋もないなあ。山頂自体は小さく閉められた避難小屋(避難小屋閉めてどうする)と道具置きが並んで半分以上占拠しているが、ぽかぽかしてなんとなく「いいかんじ」だった。もっと広い場所を想像していたが、ここから直降ルートが開けているくらい(勾配はあるが迷う道がなく雪がないのでお勧め)山の下から望みやすい小ピーク、目立つ位置。成る程。ちなみにこの山の尾根先には鐘突堂山なんてのもある。

:釈迦堂山頂

この広域な配置からあたり一帯がミニ高野山だった可能性を考えていたのだが、雪の季節は行ったりきたりは厳しいだろう。小さい山は小さいからこそ道が狭く雪があれば高山並に危険もある。やはり無茶が身上の修験道系を考えたいけど鐘なんて突くんか?などと考えながら三内丸山遺跡を逍遥していたのでした。


 

2005年05月02日
速報>青森あやしげ旅その二


川内川大滝。下北の南西の険しい山間にあります。

上流のダムのせいで水量が減ったらしいけど今日は大歩危小歩危みたいな荒々しくも美しい姿を見せていました。ここには昔怪物もしくは龍神がいて、滝壺に経文石を投げ込んで雨乞いをしたのが貯まりに溜まって晴れた日には山のような経文が見て取れるといいますが、こんだけ晴れても見えないんかい!て感じでした。

今日はあとは恐山へ昇るヒトダマが壁にぶちあたって血痕を遺したといわれる円通寺(むつ市街、下北駅からはかなり離れてますが一番の繁華街の中の大寺)に行ってみましたが遅かったので閉まってました。詳しくは別所に書いたのでいつかまとめて。まあ、昼間に問い合わせてみたところ迷惑そうだったのでそれ以上突っ込みませんでした。我々よそ者は恐山に心霊スポットを想像するかもしれませんが、地元の人にとっては聖地です。浄土が浜からあの世へ旅立つ場所、ここで(あきらかに最近名づけられた)「地獄」というのはあくまで中有の世であって、成仏までの仮の居場所。不浄であったり親不孝であったりして成仏できない女子供にも地蔵菩薩の功徳をもって昇ってもらおうと祈りを捧げたところ。田名部三十三観音札所第1番が円通寺、第三十三番が恐山菩提寺。両者の間には今でもかなり交流があり、二寺を結んで行列を作って登る祭りがあるそう。宗教の神聖さを汚すような風説はやめておくべきということです。幽霊がいてもそれは我々の考えるものではない、あの世へ向かうまっとうな幽霊です。「年寄りの冷や水」で有名な?浄水の流れる「冷や水」も一時期激しい心霊の噂・・・焼死した母子が水を求めて来る・・・でもちきりでしたが、とんでもない。これは末期の水に等しい成仏の一途の重要な場所であるとともに「お山」へ登る苦しい巡礼者の貴重な給水用の淡水だったわけで、恐山のウソリ山湖(アイヌ語)の水は強酸性ゆえここしかなかったのである。だからこの水を飲めば寿命が延びるとされたのです。

:人魂跡のあった本堂

あれ、長くなってしまった。円通寺の人魂の跡は綺麗に消えているそうです(伝聞)。このお寺には幕末会津藩士が逗留していたらしいが余りおおっぴらにしていないようです。


 

2005年05月03日
速報>青森あやしげ旅その三


つぼのいしぶみ往復 4000円
観覧料 priceless

タク高!というわけで今日は恐山と「日本中央の碑」に行ってきました。後者は昔から「つぼのいしぶみ」と呼ばれてきた古碑で、征夷大将軍の坂上田村麻呂が弓の底で彫ったとされている。ここを日本の中央とし更に北へ攻めのぼるぞーといったところか。但し史実では彼はここまで征伐していなかったということで、その次の将軍が彫ったと推定されるとのこと。どちらにせよ赤っぽい石に大きくおおらかな「日本中央」の四文字が薄白く浮き上がっているさまは奇観。上古の香高くムナカタシコウをして感嘆せしめたのもわかるような神秘がある。でもあやしげなのは江戸時代にいったん行方不明になり、戦後になって地元のじいさんがひょっこり見つけたという由来。むむむ。タクの運ちゃんに「誰も来ないでしょ?」と聞いたら「来ないねぇ」と笑ってた。展示館の入館はタダ。

:恐山菩提寺

 

:参道左手にある本堂、目下いちばん古いお堂

振り返って恐山。下北半島は大きなカルデラ火山になっている。その緑深い外輪山を越えると開けるのが白い瓦礫と緑の湖水の異様な景色。硫黄の匂いが鼻をつく。所々黄色い荒れ野をさ迷うと、「順路」と書いた立て札が目茶苦茶に立っていて更に迷う。地蔵や風車の間を縫ってふと入った堂には亡くなった人の遺影や衣服が沢山納められている。幼児の衣服一式が揃って下げてあるのが痛ましい。うっかり撮影してしまって必死で謝る。振り向いて扉を開こうとすると風の悪戯か自然に観音開きに外側に開いた。許してくれたかな。硫黄臭で頭が痛いところに真っ白な砂浜が現れる。緑白色の水とまだ雪を残した山並み、実際の距離以上にスケールが大きく感じられる。十万億土・・・。涅槃の風が吹きすさぶ。白砂と煙が舞い上がる。

:不動尊からの地獄全景

:血の池地獄、背後が水子地蔵群でいちばん頭痛が激しかったところ(泣)

:浄土が浜近辺、無茶美しいが、何故かこちらの方向(湖方面)を撮ると(別の場所からでも)画像が粗くなりうまく撮影できなかった。恐らく硫黄と風砂のせいと思われるが、なんとなく不気味ではある。。

:下北の盟主、釜伏山の後ろ姿。つまりこの山のレーダー基地からは海と地獄の両方が丸見えなのである。ちなみにこの山は下北最高峰で神聖視されてきたが戦後アメリカ軍のブルドーザーが頂上にまで入り丸いレーダーを取り付けた。今は自衛隊の施設である。

:如来山より

:清浄河原

体中砂と硫黄に塗れたので湯屋に入る。昔は混浴だったというが今は男女別。でも二軒目(男湯)に入ると、全裸のおばはんが!「大丈夫大丈夫」と言ってるけどこっちが大丈夫じゃないわ!今回はじめての怪奇現象!でも入った。いずれも濃くて熱かった。硫黄がきついけどあったまる。なんか地獄に仏ってかんじ。で、出ようとして驚いた!

おれ、両手にタオル持ってる。

なんだこの左手に持っている汚いタオルは!

黄色く汚れたタオルを放置して服着て逃げ出した。この全裸の鬼婆と汚れたいったんもめんが出る温泉こそ、真の地獄だ!

霊場アイスを食べながら、ビールの自販機を横目に思ったのでした。

湖が見物、斎河原は思ったより狭かった。シーズンにゃ人がひしめくんだろうな。石仏的にも江戸後期から現代のものばかりで見るべきものがなく、かつて長い間ここがどちらかといえばイタコに象徴されるような土着信仰の地で飾り気のないものだったのが、箱根のような地蔵信仰や立山のような地獄信仰の拡がりの中で、丁目石(しょうずか石)の記銘のころ、安永年間くらいの開山千年を期にキャンペーンで一気に高野比叡と並ぶ全国区の霊場に踊り出たのだろう。イタコが山にまで登ってくるようになったのは昭和になってからだそうである。実際はイタコという職業は青森県に広く分布し、大祭のときのみここに集まってくるものである。

ちなみに三途の川はだいぶ手前にある。今は赤い太鼓橋がかかっており勢いよく湖に流れ込んでいる。昔ここに地獄の脱衣婆、しょうずかの婆さんがいたが、ある日いなくなると外の川に流れ着いた。再度ここへ連れてくるとまた、外へ流れつく(逆流?)。わけをきくと「わたしはもう年をとりすぎた、引退します」。村人は大喜び、これで「お山」に昇った死者が寒い思いをしなくてすむ。流れ着いた場所には姥が堂が建てられ現存しているそうだ。

:ウソリ山湖に流れ込む三途の川と橋。

 

もちろん婆は生身でなく彫像で、話はイタコが代弁したのだろう。

ちなみに開山したばかりのここにも既にイタコがひとりいて、長屋には少し列ができていた。料金表には一柱3000円とある。安いが、死者にはやすらかに眠っていてほしいので止めた。下北駅近くで70年代イタコのレア・ライヴCD(インディーズ)を手に入れていたので充分。

:恐山参道脇にある一本杉。かつてこの山にはヒバ(あすなろ)しかなく、この一本の杉のみが目立っていたが、植林により今は杉も多いという。これも江戸時代以降のことのようである。

:冷や水近辺。前記参照。

 

明日はキリストの墓。ピラミッドは更に五キロ離れているので行けるか微妙。行けなかったらあれはピラミッドじゃないと思い込もう。


 


2005年05月04日
速報>青森あやしげ旅最終回


ヘブライ的名前でおなじみ、旧戸来村、現新郷村を歩く。なごむ景色は荒涼とした下北とは違うなあ。季節も一気に桜と梨満開の時期に。

それにしてもなあ、観光地図、道標はアテにしないで人に聞こう!と思った。とにかく表示目茶苦茶。距離が伸び縮みする。バスの運ちゃんのアドバイスが一番頼りになった(地元の婆ちゃんが入ると途端に言葉がわかんなくなるが)。

それでも12キロは歩いてる。確かにとても癒される春の農村風景だったけど、道がいいせいかとにかく車がうるさい。帰りのバスで「車ばかりで歩きは一人も見ませんでしたよ」って言ったら運ちゃんは歩く人もいるよ、こないだ芸能人も乗せた、て言ってました。誰?下北に別荘のある杉さま?歩くわけないわな。ヘリで来るそうだし。

大石神:

:遠景。山の尾根端といった感じ。:山頂付近に石が三角状に積みあがっているように見える。実際は石がうず高く折り重なっているにすぎない感じだ。ちなみに右下は指なので怖がらないように。

:頂上。方位石と太陽石が座っている。

:太陽石。とても光っていたとは思えない。鏡石とどっこいどっこい。

:方位石。「通常」はピラミッドの方位石というのは南北を指すはずだそうだが、ここは東西を指している。東西ということはストーンヘンジ同様あきらかに日の出日の入りを示す、太陽信仰を示すものだと言われる。

:星座石。星座の跡は確認できず。

:頂上のいわくら背後(南)に設けられた新しい祠

:鏡石側から頂上をのぞむ。よーく見ると確かに土ではなく石でできているようにも見える。しかしじっさいは土が多い。

:鏡石の裏側一部

大石神ピラミッド入口のバス停留所から少し戻って脇の車道を3キロ弱登ると牛がいる、じゃなくて分け入る山道にピラミッド入口の文字。つか里山以外の何物でもねーんですけど、ピラミッド断言かいっ。南斜面の冬枯れしている崖上にほどほどな巨石が円錐状に配置され、たもとに行くと明治の面白おじさんのキテレツ大百科が鳥居の横に書いてある。素直に巨石信仰の遺物て言えばいいのに。罪作り。江戸期に倒れた鏡石の裏を覗いたが、あるとされている文字は見当たらなかった。方位石は運ちゃんの言うとおり東西に石が合わさっているが木々が邪魔で方位がわかりにくい。太陽信仰にはスケールがなさすぎか。むしろ更に600メートル入った右脇の山の頂にある上大石神のほうが山寺を彷彿とさせる険しくも見晴らしのいいポイントとなっている。山慣れしてる人は拍子抜けするだろう巨石と言うにはむにゃむにゃな岩塊群だが今日みたいな穏やかな晴天ではサイコーに超キモチイイ。これはピラミッドじゃない、自然石を利用した文字通り石神様、イワクラの小規模版といったところでしょう。

上石神:

:遠景。道路脇の藪山といった感じ。

:ここは傾斜がきついが、それは尾根の脇から登るためで、位置は山頂というわけではなく尾根筋上のピークと言ったほうがいいだろう。だからピラミッド自体がでかいわけではない。全景。大石神よりは岩山的な風貌を呈している。

:特徴的な立石。

:大石神でもそうだったが、確かに岩を人工的に平らにならしたような感じはする。ただ、この岩を運び上げたというより、元々あった岩に加工を加えたとするほうが自然だろう。

あーこのあとが長かった。一時間半早足で、やっと沢口集落に。高貴な墓二つを自らの墓所の上に守り続けて来た、体格がよく鼻の高い一族、沢口さん〜目の青い先祖がいたらしい〜の謎が詰まった、現在では明治の面白おじさんの突飛な説にもとづきキリストの墓と呼ばれているもの。もうひとつの土饅頭は身代わりにはりつけになった弟イスキリの遺髪と母マリアの遺骨が埋められているという。

:沢口集落

:通称キリストの丘

:丘の上右手にあるキリスト塚

:右手の十来塚ことキリストの墓

:左手の十代塚ことイスキリの墓。背後はまるで教会のような伝承館(展示室)

漂着ロシア人神父が住んだ、ユダヤ系の人が事情あって流れ着いたなどの説が濃厚とのこと(二墳墓の間にはイスラエルとの友好の石板が埋められている)。異人館跡が発掘されているというが正式な学術調査じゃなさそうなので成果はマユツバ的。まあ、キリストであろうと流れ外人であろうと、沢口さんは末裔とされている。ちなみに教会チックな伝承館ではミズーリから来た外人さんが面白がって見ていました。沢口家紋の桔梗紋(こんなしっかりした家紋を持つ農家も珍しいのではないか)は「ユダヤの星」に似ているともいうが今は墓石に刻まれるのみである(墓石の古さから少なくとも江戸には遡る)。隠れキリシタンや宣教師は全く存在しえない地域だそうで、沢口さんがピンポイントで伝えてきた古来の奇妙な風習・・・新生児の額や痺れたところに十字を書く風習、服に独特のヘブライチックなところがあったり、日常用語にヘブライ語らしき方言が残っていたりするといった現象は、明治以前からあるらしく、面白おじさんの奇想の及ばぬ世界ではある。こんな山里に、面白いなあ。それにしてもこの集落に田中さんという一族もいるそうで、沢口さんとの関係が不思議ではある。ちなみにキリスト教はこの地にいっさい入ってきていないといわれているが、家家の壁に「神の世がくる」とかよく見るキリスト教系の看板が沢山貼り付けてあったんだけど。

:沢口家家紋の入った戸板(レプリカ・原物は廃棄)

:丘の上左手(キリストの墓の向かい側)に一段低く設けられている墳丘上の沢口家墓所。太古の昔よりキリストの墓を守りつづけてきたという。古碑は文字が確認できないが、新墓の家紋と同じ桔梗紋が入ったものもある。

:この梅家紋も使われている。澤口と沢口は同じ家系らしいが。

そんなこんなで旅は終わりました。JRころす。

蛇足:言うまでもないことだが、命日の6月某日にキリスト祭りで踊られ、ヘブライ語疑惑のある「ナニャドヤラ」という踊りは分布範囲が桁違いに広く(南部全域から日本海側に至る)この村発祥とは現時点ではとても言い難い。思い切り日本語説もあり、征夷の勇ましい行軍歌であるとするものさえある。明治の面白おじさん武内(竹内)巨麿のこれも妄想ですな。